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2007.06.15

中島敦『山月記』…「臆病な自尊心」って?

Nakajima 読売新聞「日本人の自尊心の高さ、米国人や中国人との差なし」という記事を読みました。「謙遜を美徳とし、自分の長所を積極的に表明しないことが多い日本人は、従来の心理テストでは自尊心が低いと判断されがちだった」けれども、新しい方式のテストでは米中に劣る結果ではなかったということらしい。
 これってつまり「臆病な自尊心」ってやつですか。
 今、ちょうど教育実習のシーズンでして、今年も卒業生が数名、母校の教壇に上っております。今日はそのうちの一人の研究授業がありまして、彼女、中島敦の「山月記」と格闘しておりました。難しい教材を選んだものです。
 高校国語の定番教材である「山月記」。私は正直こいつが苦手でして、今までほとんど採り上げてきませんでした。なんだか教えにくいんですよね。あくまで私の感覚でありますが、どうも作品としての完成度が低いというか、小説として瑕疵が多いというか、ん?という部分が多すぎて、自信持って教えられないんですよ。
 私が授業をするとすれば、元ネタである「人虎伝」と比較して、中島がどのように翻案に失敗したかを検討するでしょうね。すんません、アマノジャクで。ま、もともと、文学の道に進みたい!なんていうヤツが出てこないように、小説の授業は意識的にあんまりやらないんですけどね。読書は趣味にしておけと。文学部なんて出ても、痛い国語の先生くらいにしかなれないぞと(笑)。
 それはいいとして、今日の研究授業の中でも、李徴が虎になった理由という、ある意味クライマックス部分をとりあげていまして、当然「尊大な羞恥心」「臆病な自尊心」という、例のヤツが出てきていたわけです。実はこの肝心の部分が私にはよく解らない…というか、どう考えてもこの肝心な部分の文章がいかんと思うのですね。細かいことは書きませんけれど、「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」の関係が読み取れないし、その以前に「尊大」と「羞恥心」、「臆病」と「自尊心」の関係がはっきりしない。イメージとしてはかっこいい言葉なんですけどね。よく読めば読むほど文脈的な矛盾が現れてくる。
 中島なりに頑張っているのはよく伝わってくるし、そこに勝負をかけているのはよく分かるんだけれども、どうも詰めが甘いような気がするんですね。「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」の両方を思いついて、両方を書きたかったのは理解できるとしても、もう少し両者を有機的に結びつけておくべきだったと思うのは私だけでしょうか(私だけでしょうね)。今日の授業でも、虎になった理由として「尊大な羞恥心=臆病な自尊心」というようなまとめ方をしていましたが、実際本文には「この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ」とあるだけで、「臆病な自尊心」は宙に浮いてしまっている形になっています。
 私の素直な(稚拙なとも言えましょうが)読みからしますと、「尊大な羞恥心」とは文脈的には「一見尊大に見える…だけど実は羞恥心」ですよね。そう書いてあります。そこに唐突に「臆病な自尊心」が登場するんで困るんですよね。文脈としてはこちらは「一見臆病に見える…だけど実は自尊心」になってしまいます。これはなんかしっくり来ない。
 で、中島は「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」と書いていますから、両者は別個のものだととらえるのが自然だと思います。そして、「臆病な自尊心」を「飼いふとらせ」てしまったと来て、次に「尊大な羞恥心」が虎だったと続きます。実に筋の通っていない展開ですよねえ。正直訳が分かりません…って、私が何に疑問を持っているか分からないっすね。すみません。
 ま、私の疑問点の詳細を書くと中島ファンに怒られそうなので…って、やっぱりオレにも「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」が巣くってるな(笑)。とにかく、私のような俗物には、そんな高尚な自虐的テーゼよりも、人虎伝の不倫ネタの方がリアルに感じられるということですよ。
 と、こんなこと言ってないで、もうちょっと真剣に読んでみようかな。いずれはちゃんと教えられるようにならなきゃね。定番教材も教えられない国語教師じゃあ困りますから。

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コメント

高校の教師ともあろう人がこの程度の読解力で
教えられる生徒がかわいそう。
自分のセンスに引っかからなかっただけで
駄文呼ばわり、この文に感銘を受け自分の内なる虎を鎮め
精神のバランスを保てた拠り所になったモノを汚さることに怒りを感じます。
批評家の浅ましさしか持ち合わせない人間に
後世に名を残した文人の批評が可能なのでしょうか。
僕は文学から多様性を学び、それぞれがそれぞれ好きな作家にこだわりのもとに
本を読み、それぞれの感じ方を尊重することの大切さを学びました。
あなたの感じ方も尊重してさしあげたいですが
こんな狭量で価値観の違う者への理解や
敬意をはらえない人には教育はしてもらいたくありません。
多様な生徒の可能性を理解し育てることをしないで
理解できない自分の能力のなさを生徒に転嫁し、
「レベルが低い、瑕疵があるだとか、出来損ない」
となるのでしょうね。
この文の良さ滋味を味わえない人を可哀想だと思うだけならいいのですが
教わらないといけない子供がかわいそう。
あなたには詩の授業なんて成り立たないでしょうね。

投稿: 抱斎 | 2007.06.17 13:31

抱斎さん、こんにちは。
ナイスなコメントありがとうございます。
いやあ、なかなかこういう骨のある生徒がいなくてですねえ。
久々のいい反応に萌えです。
あなたはいい虎になれますよ。
さすがセクスィー部長の良さがわかる方は違う!
またコメントください。
ただし、私のアドレス使わないでね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.06.17 18:35

初めまして。
 この作品はそれこそ高校時代に触っただけ、原作も知らず、しかも私は理系人間。ですのでトンチンカンな解釈と思いますが、なんとなく書いてみたくなったので書いてみます。

>「尊大」と「羞恥心」、「臆病」と「自尊心」の関係
 これらは特に意味が無いと考えております。
 羞恥心・自尊心は万人も偉人も持ち合わすものであるから、それだけでは、李徴が偉人になれず虎になったダメさ(李徴の特別な性格)を表現できないはずです。それを表現するために語感を考えて「尊大」「臆病」と装飾したのではないでしょうか。それらが適切と感じるか、不適切と感じるかは、時代などにもよって変化する事だとは思います。
 今の高校生には、やりすぎな羞恥心・激しすぎる自尊心 とでもすれば理解が得られやすいのかもしれませんね(笑


>「尊大な羞恥心=臆病な自尊心」

 李徴が虎になった理由の一つ=「尊大な羞恥心+臆病な自尊心」
であって、その等式自体が意味がわかりにくいですね・・・どういう意図のまとめだったのでしょうか。


>実際本文には「この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ」とあるだけで、「臆病な自尊心」は宙に浮いてしまっている形になっています。

 そもそもなぜ虎なのか。尊大な羞恥心は虎とすると、臆病な自尊心はなんだろうと考えると、兎のような弱い動物のイメージがあると思います。
 自分が兎かもしれないけど、それが判るのが嫌だから(=臆病な自尊心)、虎に見せかけたい(尊大な羞恥心)。また、実際の李徴は一流ではないと袁參が評している通り、李徴は実際の実力は虎ではなく兎のようなモノで、ある種醜い虎の姿は李徴のなりたい姿の象徴であったという皮肉が作品内にあったのではないでしょうか。(誤解釈かもしれませんが、そう感じるところが、私個人がこの作品に心打たれる理由であったりします)
 本当は虎のような強い実力ではないが、虎のような実力になりたくて・・・という対比は存在していると思います。ただ、確かに文章にはその表現に欠けているかも知れません。


>「臆病な自尊心」を「飼いふとらせ」てしまったと来て、次に「尊大な羞恥心」が虎だったと続きます。実に筋の通っていない

 「自分の実力の不安(=虎ではない事に気付きたくない)をどんどん強めていってしまった、それを隠すためにどんどん自分が虎のふりをしして、とうとう本当の虎になってしまった。」と言う意味があると思います。

 文章を通じて、臆病な自尊心と尊大な羞恥心は密接にリンクしていると思うのですが、、、そのあたりがなぜ独立していると考えられたか、その理由も逆にお聞かせ願いたいような・・・。

投稿: みで | 2007.07.27 19:04

みでさん、おはようございます!
素晴らしいコメントありがとうございました。
読みながら、うんうんとうなずき感心いたしました。
誤解釈どころか、一つの正解だと思いますよ。
実は今、合宿中でして、じっくりお返事ができません。
のちほどしっかり書きますので、少々お待ちください。
一言だけ、先に言っておきますね。
私は、「教材」として硬直化している「山月記」の現状を憂えて、あえてこの爆弾記事(?)を書きました。
今後、みでさんのようなコメントがたくさん書かれることを期待しています!
もちろん私としては、抱斎さんみたいなのも歓迎ですけど(笑)。
とにかく波風立ってほしい…。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.07.28 08:23

レスありがとうございます。

 変化したのが、「虎」だったというのがこの作品の醍醐味だと個人的に思っています。狐や兎に変心したら、李徴はきっと自分の姿に納得して、詩人に対する憧れを捨てきれなかったじぶんを蔑視し、また、後悔するのでしょう。
 この作品では、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を虎になった後も引き摺ってしまう(結局虎になろうとも李徴はなにも変わらない)、そこに対する、現実世界の我々読み手が李徴の袁參に対する愚痴のような自嘲の言葉に恐怖感を感じて、はじめて教材としての意義が持たれるのではないかと思います。

やはり、我々が李徴に姿をダブらせてみて、姿は虎にならなくても、社会生活の中でこの作品中の虎のような存在になってしまうのは怖い、と単純に耳が痛い話だなと思えるかどうかが、この作品が面白いと思えるかそうでないかの分岐点ではないかと思います。

 個人的には高校の国語教師にはそれと、その一歩先を感じさせてくれる教育をしてほしかったなあーなんて。これが漫画だったら、中身のおもろいおもろくないで決着が付くと思いますが、「中島がやろうとした表現はどのようなものだったのか」ってのを学び、理解することが、社会に出てからも役立つ、生きた教育なのではないかなと考えたりします。
 特に私の頃は、私自身が「何でもいいからテストで点になる方法を教えろよ」とか考えちゃってましたから・・・。不幸な学生だったなあなんて(笑

投稿: みで | 2007.07.30 17:38

みでさん、おはようございます。
ありがたいコメントをどうもです。
究極的にはみでさんのおっしゃる通りだと思いますよ。
教育は「自分で考える」機会を与える場であるべきですし、そういう力を育てるべきところなんですよね。
で、「自分で考える」というのは単に結論を自分で出すということではなくて、「自分で考えて結論が出ないことに悩む」とか「自分や他人の言うことに疑問を持つ」とか「自分や世の中にどこかで見切りをつける」ということだと思ってるんです。
ところが、今の教育現場、特に国語教育の現場は、一部を除いて、単なる鑑賞の時間か、教師の(あるいは指導書の)意見の押しつけか、単なる受験のテクニック指導に陥っているんです。
もちろん私もその一人としていつも反省してるんですけど…。
特に小説の授業というのは難しいと言えば難しい。
私は「小説」というジャンル自体が、非常に特殊な時代背景に生まれた特殊な表現であり、現代においてはすでに死んでいるとさえ思ってるんですね(また極端なこと言ってますが…笑)。
なのに、まあ国語の先生になるような人は、基本的にそういう特殊なジャンルが好きな(好きだった)人が多いでしょうから、なんか妙に作品や作家自体が神格化されてしまっていて、私は気持ち悪くてしかたないんですよね。
たとえばこのブログではあらゆるメディアを取り上げて辛口批評してますが、小説について書くと、ああいうふうな反応をする人がいるんですよ。
特に中島ファンはそういう傾向がある…なんて言うとまた怒られそうですが(笑)。
まあ、それはいいとして、そういう神格化(教材化)されて硬直化してしまった作品を、違った視点でとらえなおしたいわけです。
また、生徒には純粋にゼロから批判的な目も持って読んでもらいたいんですね。
中島…というか、作家って結構ダサいですからねえ。
生きる力のない人が多すぎる(笑)。
ところで実は私、この記事とコメントの全てを教材に使わせていただいてます。
もちろん、みでさんの文も生徒に読んでもらいます。
すみません、勝手に。
でも、私の言葉だけじゃなくて、抱斎さんも含めて、いろいろな意見(人間)に接してもらいたいんですよ。
どれが正しいかなんて野暮なことは論議しません。
こうして、一つの作品から、いろいろな思索や感情が沸き起こって、波風立っていくことこそ「作品」の価値だと思いますので。
また、どんどん書き込んでください。
私も生徒もとっても勉強になっています。
よろしく!

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.07.31 05:58

>今の教育現場、特に国語教育の現場は、一部を除いて、・・・
 そういった「テクニック」の長けた人間が優秀とされ、そこでそれを後世に伝えようと教師になる人間が多いこと多いこと・・・。そんな社会が20年続いたら、気がつけば学生側も、優秀な学生と言われるような子が、むしろそういう教師を求めるようになってきたりして?そして、教師も教え子が何点獲得したかで評価されてしまう、と・・・。

 ゆとり教育で弊害が云々、という話を最近良く耳にしますが、悪いのはゆとり教育が推進されても、教師側も生徒側もゆとり教育の恩恵とも言える上記のような生きた教育を受けられない所にあると思います。ペーパーテストの点がいくら下がろうとも、例えばこういう国語教育が発達していればコミニュケーション力が向上していて、何か今の学生はすごいなと感じるところがあったはずだと思うのです。
 が、しかし、むしろゆとり教育で落ちたのはそういう社会的な力じゃないかなと、それは誰しも考え、強く感じていることじゃないでしょうか。私一個人では、それは政府や教育委員会の責任ではなく、教師の実力不足もあるだろうと考えたりもします。

 昨今、MIXIやブログ等が発達し、何か映画やドラマが放映されれば、そのタイトルで検索して赤の他人の忌憚の無い感想を手軽に見る事ができます。プロフィールを見れば、それを書いた人がどのような人か見る事が出来ます。
 で、その感想文を見ると、やはり今の若い人(と言っても私もまだ30代ですが)は作り手の意志を読み取る力が非常に弱い。
 ~のシーンが面白かった、~のシーンで感動して泣けた、という感想は多くても、製作者がその作品でやりたかった事に言及している文章は、やはり書くのはS40代生まれ以前の人が多い。年齢がすすむと理解してくるというのはあるかもしれませんが、今の高校生が15年後に同様の感想を書くかと想像したら、疑問符をつけざるを得ません。これは結構恐ろしいことだと思います。
 社会もそれに反応していると思っておりまして、例えばブームの「お笑い」なんかも、作り手の意志確認の面白さが要らない娯楽の最たるものかと思っていたりします。また、私は音楽なんかをちょっとかじっているのですが、最近流行の音楽はみんなサビしかわかりません。実際、サビだけ聞いて「おっ?」て思わせて、それでドラマとタイアップなりして、売れればいい、みたいな風潮が強いと感じているのです。

・このときの主人公の気持ちは?
・文章中の「これ」はどこを指していますか?
・この少年の気持ちをもっともあらわしている文章を抜き出しなさい。

 確かにこういう問題に正確に答えられるなら、文章を読む力と書く力は付くでしょう。そして、確かに社会もそういったものも要求しているかもしれない。
 でもたまには、作者が何を考えてこんな文章を書いたのか、と言う視点をもってもらいたいとは思います。そうしたら、小説だけじゃない、映画も、マンガも、テレビドラマも、もっともっと楽しめるようになる・・・ちょっと大げさかもしれないですが、豊かに生きるための一つの力が身に付くのではないかと思います。

 余談ですが、私はなぜか中学生頃から書き手の意志ばかり考えていたのと、生粋の理系人間なので草野心平は苦手だったりします(笑)。


 取りとめの無い下手糞な文章で申し訳ない限りです。もうちょっと思ったところがあったのでもう一点書かせてください。


 神格化、という点に関してはまさにそういう側面が強いと思います。小説である必要性というのも、確かにもう無いかもしれません。ただ単純に、教材として山月記をこえるものが無い、という話がおかしくなっていってしまったかとも思います。

 ところで私には(私にも?)、教科書に載る作家と同じ位凄いと思っている漫画家がいます。
 代表的なのは福本伸行という漫画家。「生存 Life」という、氏がシナリオを書いてかわぐちかいじ氏(沈黙の艦隊というマンガで有名)が絵を付けた漫画なんかは、漫画といえどそのまま教科書にして良いような内容だと思っていたりします(笑)。
 その漫画も、作者の伝えたかった事と内容の一つ一つをリンクして捉えるか、ただ作中の殺人事件のタネ明かしや犯人との精神戦を面白いと捉えるかで面白みが全く違う漫画になります。(アマゾンのレビューを見るとその両者のコメントの対比が面白いです)
 その殺人事件のサスペンスの他に、麻雀の漫画、ギャンブルの漫画などで人気のある漫画家さんですが、彼のその様々な漫画の根底に共通のテーマがあったりするわけです。
 そんなの、わかんなくてもただ見て面白ければいいや、というのはやはり少々さびしいと思います・・・。

 ただ批判するのでは無く、批判するなら作者の意志とその作品の表現のギャップを批判しなさい!
 それが出来る人は東大を出なくても出世できるのですから!

 ・・・な~んて少々過ぎた考えも持っていたり。


 調子に乗って長々と書いてしまいました。「自分で考えて結論が出ないことに悩む」とか「自分や他人の言うことに疑問を持つ」とか「自分や世の中にどこかで見切りをつける」。そんな力を持った生徒さん達が一人でも多く先生のもとから卒業していけるよう、祈念させていただきまして、文章の締めとします。

 長々と、乱文、駄文、失礼いたしました。ご容赦下さい。

投稿: みで | 2007.07.31 12:02

みでさん、こんにちは。
なんだか仕事が忙しくて(夏休みは忙しいんです)、レスが遅くなってしまいすみません。
またまた、ありがたいお言葉をいただき感謝にたえません。
進学特化クラスで毎日テクニックを教えている私としては耳の痛いお話もありますね。
でも、面白いもので、受験を通じての全人教育を目指す本校では、案外生徒たちが生きる力を身につけているようなんです。
そんな生徒たちの姿をお見せできないのが残念ですが、彼らは明るくたくましく、前向きに頑張ってますよ。
私の担当する国語では、まずは私情やロマンティシズム(?)を挟まず、客観的に情報を処理することを教えます。
それから、私的(詩的)な読みと、批判的な読みを展開していきます。
実は最近の大学入試は、前半の情報処理能力のみを見る良問が増えてきているので、けっこう社会生活というか人生に役に立つんですよね。
なのに、あいかわらず私的(詩的)、あるいは伝統的(指導書的)な教え方しかできない人も多いようです。
もちろん、私もまだまだですが。
ほかにもいろいろとお話したいところですが、ちょっと時間がありません。
今後ゆっくりということで、失礼いたします。
これからも、いつでも、なんでもコメントくださいね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.08.01 17:02

おはようございます。
山月記の玉石混交の記事の一つとして読ませていただきました。
>私の素直な(稚拙なとも言えましょうが)読みからしますと、「尊大な羞恥心」とは文脈的には「一見尊大に見える…だけど実は羞恥心」ですよね。そう書いてあります。そこに唐突に「臆病な自尊心」が登場するんで困るんですよね。文脈としてはこちらは「一見臆病に見える…だけど実は自尊心」になってしまいます。これはなんかしっくり来ない。
>私が授業をするとすれば、元ネタである「人虎伝」と比較して、中島がどのように翻案に失敗したかを検討するでしょうね。
>もちろん、みでさんの文も生徒に読んでもらいます。
>高校の教師ともあろう人がこの程度の読解力で
教えられる生徒がかわいそう。

以上の引用から少し書かせていただきます。
まず、高校の教師ともあろう人がこの程度の読解力なのは仕方ないと思います。自分は高校生の頃、もっと読解力の浅い先生から習いました。
その先生は「尊大な自尊心と臆病な羞恥心」と言い換えると分かるなどと頓珍漢なことを言っていました。

きちんと行間を読めば、
「尊大であると○○○○○○○羞恥心」と
「臆病であると○○○○○○自尊心」という構図が見えてくるはずです。

いろいろな人が指摘しているように、李徴山月記は読解力が足りないと難解で意味不明、つまりは浅く見える作品です。

E=MC^2の式が何を表すか、ただの光とエネルギー式とみなすか、光がなんたるかの式とみなすかは読解力の差と通じるところがあるのと一緒です。
李徴山月記は一種の篩だと思っています。
精進されてください。

李徴山月記と人虎伝の対比はとても興味深いですが、どのように翻案に失敗したかを議題にするのは中島敦氏に失礼だと思います。
彼が書きたかったのは人虎伝ではなく、彼の思想に合致した李徴山月記なのですから何が違うのかを議題にすべきではないでしょうか。

最初の返信者の抱斎という名前を見て何も思うところはなかったのでしょうか。こういうのも読解力に必要な力ではないでしょうか。

読解力と思慮が欠けているということを指摘させていただきます。

投稿: 隴西 | 2012.01.24 10:18

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