『富士に就いて』 太宰治
「太宰治」と打とうとして「多罪治」と打ってしまった。親指シフト入力だとこういうことが起きるんだよな。「多才治」とでも間違えればよかったかな。きっと太宰もあの世で苦笑しているでしょう。
今から59年前の今日、太宰は山崎富栄と玉川上水に入水しました。桜桃忌は遺体の上がった19日(もちろん太宰の誕生日でもあります)に行われますが、本当は今日が命日ということでしょう。
この心中については、本当にいろいろなことが言われています。富栄さんが悪者にされたり、芝居の失敗だと言われたり、究極の愛の形だとされたり…。こういうドラマもありましたね。第三者に殺されたのだと。これはこれでとっても面白かった。そう言えば、太宰と富栄を描いたロマンポルノの名作「武蔵野心中」観てないなあ。
私もいろいろ考えましたが、結局単なる心中、それもあまり恰好よくない心中だったのではないかと思うようになりました。あまり劇的に仕立て上げない方がいいのではないかと。ちょっと癪になってきたんですよね。恰好よすぎますよ。
この季節は毎年授業で太宰をとりあげます。今年は少し新しい視点で「富嶽百景」を読んでみようかな。ということで、これから入ろうと決めました。「富士に就いて」です。あまり知られていないものだと思います。昭和13年10月の国民新聞に掲載された小文です。お読みになればお分かりになりますが、これは「富嶽百景」の原形です。彼の創作の作法が知れて興味深い。全文引用して今日はおしまいにします。たまには手抜きもいいでしょう。太宰にまかせませす。
甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という、ささやかな茶店がある。私は、九月の十三日から、この茶店の二階を借りて少しずつ、まずしい仕事をすすめている。この茶店の人たちは、親切である。私は、当分、ここにいて、仕事にはげむつもりである。
天下茶屋、正しくは、天下一茶屋というのだそうである。すぐちかくのトンネルの入口にも「天下第一」という大文字が彫り込まれていて、安達謙蔵、と署名されてある。この辺のながめは、天下第一である、という意味なのであろう。ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降りて、まず崖の上から立小便して、それから、ああいいながめだ、と讃嘆の声を放つのである。
遊覧客たちの、そんな嘆声に接して、私は二階で仕事がくるしく、ごろり寝ころんだまま、その天下第一のながめを、横目で見るのだ。富士が、手に取るように近く見えて、河口湖が、その足下に冷く白くひろがっている。なんということもない。私は、かぶりを振って溜息を吐く。これも私の、無風流のせいであろうか。
私は、この風景を、拒否している。近景の秋の山々が両袖からせまって、その奥に湖水、そうして、蒼空に富士の秀峰、この風景の切りかたには、何か仕様のない恥かしさがありはしないか。これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。芝居の書きわりである。あまりにも註文とおりである。富士があって、その下に白く湖、なにが天下第一だ、と言いたくなる。巧すぎた落ちがある。完成され切ったいやらしさ。そう感ずるのも、これも、私の若さのせいであろうか。
所謂「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。私は、その意味で、華厳の滝を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、強さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。
富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。なお、この一文、茶屋の人たちには、読ませたくないものだ。私が、ずいぶん親切に、世話を受けているのだから。
う〜ん、なんなんだ、この名文。悔しいけれど涙が出た。調子もいいが、内容もいい。完敗ですね(当たり前か)。ただ、ちょっと意地悪に一言言わせてください。命日なんで(笑)。
この小文に比して、よりフィクションを含んだ「富嶽百景」の、なんと「巧すぎ」て「完成され切っ」ていることか。
やっぱりあの心中も「巧すぎた落ち」、「完成され切ったいやらしさ」だったのかなあ。そんな気もまたしてくるのでした。
こうして凡才が天才を理解しようとすること、それが即ち小説を読む、芸術に触れる喜びなのでしょうね。
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