« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007.06.30

TEAC RW-800 (CDレコーダー)

Rw800 今日はウチのCDレコーダーを紹介しましょう。写真の真ん中のやつです。これも世間的にはすっかり古美術になってしまいましたね。ウチではけっこう活躍してますが。
 今日も歌謡曲バンドの練習(飲み会?)があったんですが、そういう時にもたまに使います。ミキシング機能もついているので、古典的な重ね録音をしたりして遊べます。
 今やCD作りはパソコンの独擅場になっておりますねえ。えっと48倍書き込みですか。すごいですね。80分の音楽CDを焼くのに2分かからないってことですよね。恐ろしい時代になりました。このCDレコーダーは当然ながら1倍速です。等倍。今では逆に貴重な存在ですよね。私はあんまり音の善し悪しをどうこう言わない人なんですが、同じCDコピーでも、48倍と等倍では全然音が違うような気がします。厚みといいますかね、密度というか。まあ、気のせいなのかもしれませんけど。
 こういう単体のCDレコーダーの良さは音だけではありません。CCCDなんかも無問題でコピーできますし、必要な曲だけコピーしたり、ベスト盤を編集したりするのも、意外に便利。パソコンでの作業とは違って、カセット的な、すなわちアナログ的、直感的な作業になりまして、あの一時停止ボタンを押す緊張感が味わえます。たまにこういう作業すると、心がなごむんですよね(笑)。
 あと、もちろん古い素材のデジタル化でしょうか。写真の真ん中がCDレコーダーなんですが、その上はアナログレコードプレーヤー、一番下はDATデッキでして、これを使って昔の音源をCD化するわけです。この前も中能島欣一の至芸をデジタル化いたしました。やはり気軽に聴けるようになるというのはいいものです。レコードであるために、ここ数十年聴いてないものが大量にありますから、そういうものをヒマな時に引っ張り出してきて、甘酸っぱい思い出とともに聴きかえすんですね。レコードやジャケットの質感や匂いも含めまして、実にノスタルジックな時間を体験できます。また、古い音楽自体も新鮮に響きますし、いろいろと発見があるのでした。
 ちなみに、このレコーダーは民生用ですので、いわゆる音楽用CD-Rでしか録音できません(業務用はデータ用も使えます)。で、最近音楽用のCD-Rはなかなか手に入りませんし、だいいち高い。ですので、ウチでは全て1枚のCD-RWで録音しまして、それをパソコンでデータ用CDにコピーしております…って、それじゃあ意味ないじゃん。結局48倍だ(笑)。
 ま、そんなわけで、このレコーダー、昔の自分や社会と、今の自分や社会を結ぶ媒体になっています。

不二草紙に戻る

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007.06.29

『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一 (講談社現代新書)

06149891 評判の書。そうですね、なかなかいい本でした。
 ただ、Amazonのレビューほどは感動しなかったかな。ものすごい名文…というわけでもないような…たしかに上手な文ですが。
 内容はけっこう刺激的でしたね。知的な刺激と言うんでしょうか。学問の世界、それも最先端の理系の世界を垣間見ることができる、それだけでも興味深かった。
 砂浜の小石と貝殻はいったい何が違うのでしょうか。生物と無生物のあいだにどういう違いがあるのでしょうか。半ば哲学的とも言えるこの問いにどのように答えようか、福岡さんはじっくりゆっくり、いろいろなエピソードを交えながら、私たちといっしょに考えてくれます。
 細菌とウィルスの違いも分からないワタクシが、この最先端の、おそらくは最も難しい領域に属するであろう問題を、それなりに噛み砕いて自分のものに出来たのは、まさに福岡さんのそうした姿勢、つまりは御本人の人柄と才能のおかげてあると思います。
 結論的には、「自己複製」と「動的平衡」という言葉が鍵になるわけですが、そこに至る様々な研究過程と人間模様が面白い。まさにそうした時間の流れの中でのダイナミズム(スキャンダルも含む)こそが、生命の本質であると実感できるんですね。無機質な論文とは違い、それこそ文が生きている。そして、それを読む私も生かされる。
 研究の質感、ピア・レビューの危険な香りなど、現場の生々しさにも思わず興奮させられましたね。アカデミアの世界も大変ですねえ。ドロドロしてますわ。ガチンコ勝負だけれども、けっこうルールぎりぎりのところでの攻防があるんですよね。反則すれすれ…いや、バレてない反則もたくさんありそう。
 ところで、私はこの本を読んで、いかにもワタクシ的なことを考えてしまいました。また、あれです。「モノ・コト論」。
 全ての「モノ」の本質は「変化」であり、それに抗するのが生命とも言える。つまり生命は「コト」化を企てるわけですね。「永遠」や「不変」への憧れです。エントロピー増大に抗い、自己複製によって疑似的な不変性、永遠性を得る。私に言わせてしまうと、無生物はジャスト「モノ」であります。すなわち「変化」「無常」「拡散」でしかありえません。それに比して生物とは、「モノ」でありながら、「コト(不変・永続・固定)化」の本能と機能を持ち備えた存在だというわけです。
 福岡さんは、「時間」にも注目しています。『時間という乗り物は、すべてのものを静かに等しく運んでいるがゆえに、その上に載っていること、そして、その動きが不可逆的であることを気づかせない』…その通りですね。それにふと気づいた時、私たちは「もののあはれ」を感じるのです。ある意味、自分たちが「モノ」であることに気づいてしまうんですね。生物はあくまで「なまもの」なわけですから。本当は時間の流れに逆らえず拡散していくべきものなのです。それを、私たちは疑似的に避けようとしている。自己複製をしたり、「コトのは」などのメディアを使って情報として、作品として、芸術として固定しようとしたりする。そういうことなんだなあと、この本を読んで嘆息したわけです。それこそ「もののあはれ」ですなあ。
 いずれにせよ、時間という「神」に、異常なほどの執念をもって臨む「生物」、特に「人間」のダイナミックな営為に、私は感銘を受けるとともに、ちょっと虚しさを感じたのでした。

Amazon 生物と無生物のあいだ

楽天ブックス 生物と無生物のあいだ

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.06.28

KAWAGUCHIKO HERB FESTIBAL(!?)

20070626_15_1 ハーブフェスタのスペル間違う 外国人指摘 河口湖町「恥ずかしい」
 地元の恥をさらすのもなんだし、記事にしようか、ちょっと迷ったんですけど、error corrector collector のワタクシとしては見逃すわけにはいかない。なんて、今 collector を collecter って打っちゃった。人のこと言える立場じゃないっすね(笑)。
 しっかし、この前「WELLCOME TO YAMANASHI」と「Would Cup」を紹介したばっかりなのに、またこれですか…。ホントに山梨県民は英語が苦手なんですねえ。ま、たしかにセンター試験英語の平均点、全国最下位レベルなんですけど。いやいや、これは英語力とかそういう問題ではない、お役所のチェック機能が働いてないってことですよね。ありえませんよ。
 それにしても、今回のはなんてベタな間違いなんでしょうね。wellcomeはまあよくやっちゃう間違いの一つですし、wouldは…これはなんとも言えないなあ、でもrをuと間違えたということでいえば、まあタイピングミスみたいなものですから、悪意は感じられない、どころか単純に笑い飛ばせる。いや笑い飛ばすしかない。しかし、今回のはですねえ、いかにも日本人的な間違いであって、そういう意味で「恥ずかしい」んですね。
 で、これが山梨日日新聞の記事で公になったのはおとといのことなんですが、実際には5月からこのポスターは配布されていました。で、新聞記事にあるように、すでに貼ってしまったものについてはそれぞれの場所で訂正してくれということなので、実際にはいまだにBのままのものもあるようです(ちなみにWELLCOMEはいまだに堂々とはためいています)。
 実は私はこのポスターを見たことがないので、新聞を読むまで知らなかったんですけど、当然気づいていた人はたくさんいるわけですね。特に外国人。国際観光の町ですので。なにしろフジヤマですからね。
 例えばこちらのフォーラムでは、5月19日に指摘されています。比較的軽く触れられてるだけですが(話がそれてるけど、The Banditのレスの方が面白いっすね)。
 ふぅ、とにかく個人的な間違いはいいとして、公になるものに関してはちゃんとチェックしましょうね。私も学校の広告やパンフやポスターの担当者なので、充分注意いたします。
 あっそうそう、富士河口湖町のハーブフェスティバル、とってもきれいですので、皆さんどうぞいらしてくださいませ。そして、問題のポスターや旗を見つけましょう(くれぐれも記念に持って帰らないように)!

不二草紙に戻る
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.06.27

『フジファブリック Live in Zepp Tokyo』(サーファーキドリツアー・ファイナル)

Fujifab12 今日は、生徒を連れてお台場Zepp Tokyoにフジファブリックのライヴを観に行ってきました。うん、とっても楽しく、聴き所満載のライヴでしたよ。勉強になりました。
 いやはや、それにしても今月はすごいなあ。松田聖子から長唄、そしてフジ、今週末は歌謡曲バンドとバッハの練習ですからねえ。我ながらメチャクチャだと思います。
 さてさて、フジファブリックのライヴもZeppも初体験なんですが、ボーカル&ギターの志村くんの実家の目と鼻の先にある、ワタクシの職場を出発したのは5時ちょい前。はたして7時の開演までにお台場に到着できるのか? 
 結果、ギリギリ滑り込みセーフ!開演直前の会場内は熱気ムンムン。てか、まじで暑かった。私は仕事姿のままでしたのでネクタイまでしてるし、坊主頭はさすがに目立つだろうと帽子かぶってるし、ホント暑かったっす。
 さて、いつものように冷静に分析しながら報告といたしましょうか。
 まず一言。もし、もしですよ、私が自分のバンドをやるとしたら、こういう音楽をやるだろうな。これは前から思っていたことなんですが、今回生で彼らを聴いてそれを再確認しました。
 彼らの音楽は非常に面白い。かっこいいのではなくて面白い。志村くんの書くメロディーはほとんど二六抜きか四七抜きです。つまり歌謡曲なんです。まあ、いかにも富士吉田、それも下吉田という感じ(…わからんか)のダサさ(いい意味で)なんですね。私好みの日本的、昭和な世界です。歌詞もノスタルジックですし、かっこつけない良さがあります。それでいて、都会的に洗練されていない危険な香りもあったりしますし。
 そうした歌が何に乗っかってるかといいますと、70年代の洋楽だったりする。今日も思いましたが、時にイエスになり、時にクイーンになり、時にカンサスになり、時にELOになり、時に10CCになりと、ワタクシのような40代のオジサンにはたまらない郷愁があるんですね。そういう古くさい組み合わせの妙が、実に新しく聞こえるわけです。
 和と洋のせめぎあいというか、不思議な融合というものは、ライヴとして聴くとさらにはっきりと理解されます。
 志村くんの唄はメロディーのみならず、発声法からして俗謡調ですし、山内くんのギターのフレーズはまるで三味線の手のようです。ベースの加藤くんは…ひたすら真面目にやるべきことを黙々とやる、まあある意味お囃子隊みたいだな(笑)。とにかくそんな感じなんですよ。
 で、そんな中、このバンドの要はキーボードなんですけど、考えてみるとキーボードというのは西洋音楽の象徴のような楽器ですよね、起源的にも、機能的にも。金澤くんの奏でるサウンドは、明らかに西洋音楽(ヨーロッパ)的です。それが面白いスパイスになってるんですよ。今日気づいたんですけど、彼ら、西洋音階を前面に押し出す時って、とっても照れてるんですね。シャレとして、オチャラケとしてそれを使う。これはとっても正しい姿勢だと思います。俺たち日本人じゃん、向こうの音楽をそのまんまやるのはなんか気恥ずかしいなあ…というのは、当然あるわけですよ。そのへんをうまく消化したのが奥田民生センセイだったんですが、さらにもっと照れながらそれを押し進めたのが彼らだと感じました。
 日本の音階(都節)を西洋的なコードとリズムに乗せる試みは、昭和41年の山本リンダ「こまっちゃうな」に遡ります。この曲はなんと遠藤実先生の作です(!)。知ってましたか?そして翌年、ジャズ界の大御所原信夫先生が、美空ひばりのために「真赤な太陽」を作曲しました。さらに次の年、いずみたく先生はピンキーとキラーズのために「恋の季節」を作りました。そうした実験的な音楽の系譜上に、フジファブリックの音楽はあり、そして進化し続けているんだなあと、そんなことを考えながらライヴを聴いていました(って、そんな人いないよなあ)。
 と、まあそんな理屈はどうでもいいや。ライヴですよ、ライヴ。彼らの演奏もうまくまとまってましたし、特別大きなキズもなかったと思います。ソロの段取りミスはネタでしょうね、たぶん。MCも適度に脱力していていいムード醸してました。新曲も聴けたし、お客さんのノリもよく、とにかく楽しい楽しい時間を過ごさせていただきました。トランペットとギターからレーザー光線が発射されたのには…ジーンときました(って、そんな人いないよなあ)。だって、日本のライヴで初めてレーザー光線使ったのって、たぶん1978年のELOでしょう?あれからもう30年ですよ〜。今や一人1レーザーの時代ですかあ。でも、あのレーザーの色だけは、30年間変りません…うるうる。
 というわけで、全然レビューになってませんが、とにかく暑い熱い楽しいライヴでした。帰りは1時間半で富士山に帰ってきました。近いもんです。
 また行きたいな。というか、志村くん、ぜひ富士吉田でぜひ凱旋ライヴをよろしくお願いします。
 最後に、今回のチケットを取ってくれた方、どうもありがとうございました。ご一緒できればよかったんですが、残念でした。ぜひ次は一緒に行きましょう!

フジファブリック公式

不二草紙に戻る
 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007.06.26

『サラリーマンNEOボーナススペシャル』(ウッチャン登場)

Neo0626 今日の「サラリーマンNEO」はボーナス・スペシャル。ウッチャンこと内村光良さんと入江雅人さんの共演です。ご存知と思いますが、この二人と言えば劇団SHA・LA・LAですねえ。
 劇団SHA・LA・LAは日本映画学校(当時横浜放送映画専門学院)の9期生たちによって結成された劇団です。いちおう座長は出川哲朗さん(!)、ナンチャンこと南原清隆さんもいたわけですから、これは今思うと凄いですねえ。
 横浜放送映画専門学院は、私の大好きだった故今村昌平監督が開校した学校で、高校時代の私もちょっぴりですが、行ってみたいなあと思ってましたからね、もし私が進学していたら彼らと同期ですので、もしかして…なんちゃって。でも、そういう可能性もないではなかった。姉も当時演劇界にいましたし。
 さて、そんなウッチャンと入江さんの久々の共演、どうだったでしょう。
 全体として、やっぱりいつもと違う空気になっていましたね。ウッチャンはウッチャンらしい演技やテンションですので、ちょっとNEO的に醸成されてきた空気からは浮いていたかもしれません。でも、こういう化学反応というか、異文化交流(ただしルーツは同じみたいな)はたまにはいいでしょう。何度か繰り返していけば、互いになじんでくるでしょう。ウッチャンには、できれば準レギュラー的に参画していただきたい。沢村一樹さんとの共演なんかも観てみたいですしね。
Sarigiwa 今回の放映では、ワタクシ的には「新しいネクタイの結び方講座」が一番面白かった。ウッチャン的異空間の中で、実にNHK的、NEO的だったからでしょうかね。こちらの緊張も解けました。あと、微妙なネタとして、「去り際」における、原史奈の「婚約破棄」発言でしょうかね(笑)。そこにで笑った人がいったい何人いたことやら…。この「去り際」におけるウッチャンが一番ウッチャンらしかったかもしれません。
 ちなみに今回の脚本はウッチャンの従兄弟である内村宏幸さんが担当していました。これも面白い縁ですね。
 いずれにせよ今日の放映で、NEOの笑いというのは観る側にも熟練を要するんだ、ということを再確認しました。民放とは違う微妙な作りの部分、細部のこだわり、人の歴史などを知った上で観ないとわからないところがある。そこが、賛否の分かれる原因でしょう。ある意味、茶道とか剣道とかみたいな、分かる人じゃないと分からないという、なんとも日本の伝統的文化が息づいているわけでして、NHKとしては立派なお仕事をされているとも言えるのでしょう。私は好きです。

サラリーマンNEO公式

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007.06.25

ビリーズブートキャンプ

Btc_2_200x ここのところ純日本的ネタが連発だったので、そろそろアメリカ的な爆ネタに行きましょう。
 今日、職場で「ビリーズ ブートキャンプ」を観ました。私が買ったんじゃないですよ。一日一食生活4年目に突入の私には基本的に必要ありませんので。
 しかし、たしかにこれは腹筋が鍛えられるわ。観てるだけでも腹が割れてくるでしょう。つまり、笑いすぎて腹が痛くなるわけです。
 今、ちょうどビリー隊長が来日中ですか。ここまでブームになるとはビックリですね。日本人、それもちょっと体重が気になる女性の皆さんが入隊してヒーヒー言ってるのを想像すると、さらに腹筋が痛くなります。
 これはギャグですよねえ。まさか皆さんまじめにやってるんじゃないですよねえ。こんなこと書くと、また信者に怒られそうですし、本人たちの趣味にどうこう言える立場じゃないんですけど、まあ一人くらい疑問を呈する人がいてもいいでしょう。
 まず、これはダイエットのプログラムではないでしょう。筋力増強のプログラムです。その証拠に出演の皆さん、不自然に筋肉質です。世の女性が皆あんなふうなお腹してたら、引きます。
 たしかにあれだけの運動をすれば、誰でも痩せます。ものすごい代謝量です。汗の量も半端じゃないでしょう。運動後ビールを二缶くらいグビッと飲んでも問題ないくらいでしょう。あのプログラムを7日間やって痩せない人はいません。当然です。エネルギー保存の法則から言って当たり前のことです。
 魔法でもなんでもありません。それどころか、今までで一番過激なダイエット法かもしれませんね。ハードな運動をすれば、とにかく痩せることは痩せるんです。それをノリノリでみんなでやりましょう!という気運になっているわけでして、つまり、一気に日本のエネルギー消費量が増えたということです。
 これは温暖化を引き起こしますね。ものすごい二酸化炭素の排出量です。地球に優しくしたければ、今すぐブートキャンプをやめるべきです。
 こうしたダイエット法というのは、実にアメリカ的です。大量のガソリンを給油して、それを燃焼させるために、ガレージでブンブン空ぶかししてるようなもんです。
 減量とは、すなわち、入ってくるカロリーより出て行くカロリーの方が多い、という状態のことを言います。ブートキャンプや、そのほか運動系のダイエットは、出て行くカロリーを増やそうということですね。もう一つの方法は、入ってくるカロリーを減らそうというもので、その一番過激な(?)のが、私のやっている一日一食プログラムです。
 さっき書いたように、これは趣味の問題であって、つまりオタクがスポーツマンにスポーツをやめろとは言えないのと同じで、別にどちらが正しいとか、そういう野暮なことを言おうとしているのではありません。ただ、私はビリー道場には入隊したくないというだけです。
 あの運動を私のような者がやったら、まず体を壊します。筋力が付く以前に筋肉や関節を傷めます。また、心肺への負担もかなりのものでしょう。そのうち急性心不全で死亡者が出ますよ。私はそう予言しておきます。まともな運動をウン十年もやっていない人が、あれを無理やり時間内に全部こなしたら、絶対に死にます。脂肪の量は減りますが、死亡の可能性は増えます。
 筋肉痛に打ち勝ち、仕事や家事に支障が出ようとも1週間頑張ったとしましょう。たしかに数キロ減量するでしょうし、筋力も付きますが、その後のことはわかりません。まあ、数週間で元の木阿弥という方がほとんどでしょうね。
 あのように一般人が急激に体に負担をかけるのは本当に危険です。ビデオが終わったところで心拍数を測ってみましょう。必ずレッドゾーンに入っているはずです。人生総心拍数はどんな動物でも一定という説があります。すなわちブートキャンプを実行すると早死にするということです(笑)。
 だから、私は入隊しません。私は入ってくるカロリーを減らす方をとります。省エネ式のダイエットを実践しているわけです。その方が、自分の身体にも財布にも、地球の身体にも財布にも優しいからです。
 というわけで、私もDVD作ろうかな。「グッチーズ ブッダキャンプ」とか(笑)。食べずに瞑想。これは最強でしょう。
 まあ、ビリーさんのアメリカ的ダイエットも一時のブームでしょう。韓流ブームといっしょですよ。もし、来年になってもこのプログラムを継続実施し、シェリー(DVD出演のビリーの娘)みたいになってたら、DVD代金私が返還いたします。そして、私も入隊します。
 なんて、今頑張ってる女性たちの頭には、すぐそこにある「夏」しかないのでしょうね。そう考えると、ビリー隊長、見事なタイミングで来日しているということが分かりますね。やるなビリー!やるなアメリカ!

今だけポイント10倍!ビリーズブートキャンプ DVD版(ビリーバンド×1セット)

TVショッピングで話題騒然!ビリーズブート キャンプのアメリカ最新版

Amazon Bootcamp Elite Mission One: Get Started (2006)(リージョンコード注意)

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (9)

2007.06.24

長唄演奏会(&圏央道)

Nagauta 告知していましたように、群馬の太田市で長唄の演奏会に出演してまいりました。
 私、いろんなジャンルの音楽をやりますし、聴きますが、やっぱりモードの切り替えというのが必要なんです。たぶん脳ミソの違うところを使ってるんでしょうね。言葉の切り替えみたいなもんでしょうか。日本語モードと英語モードの切り替えが必要なように。でも、不思議なのは言葉とは逆で、どちらかというと西洋モードが標準なので、日本モードに切り替えるのには、ちょっと努力が必要です。
 昨日は美空ひばりをたっぷり聴いて寝ましたので、多少ペンタトニック(5音階)に頭が切り替わっておりました。でも、もちろんこれだけでは不足です。この前勉強したように、彼女の得意とする四七抜きは、西洋の和声音楽とペンタトニックのせめぎ合いによって生じた折衷的な音階です。今日の演奏会に登場するほとんどの曲は都節音階ですからね。そして、もちろん音階だけでなく、個々の音程や、リズム感、テンポ感、呼吸全て切り替えなくてはいけません。それなのに持ってるのは代表的西洋楽器ヴァイオリンですからね。これは難しいっす。
 ということで、実際難しかったなあ。楽譜もあってないようなものですから、結局即興で絡もうと思ったのですが、実際始まってみると、もう周りの音を聴くのに精一杯でして、三弦のパートをなぞっておしまいになってしまいました。
 それにしても共演した皆さん、すごいですねえ。皆さん歌舞伎座でご活躍の方々なんですが、あれだけの演目を全部覚えているだけでもすごい。楽譜なんて使いませんからね。邦楽の世界では当然でありますが。私のように西洋音楽においても暗譜が全くできない人間にとっては、この世界は憧れです。てか、暗譜するほど練習してないってことですね。音楽における即興というのも、言葉におけるそれと同じで、いろいろな単語やパッセージを暗記してないと出来ないんですよ。加えて私は、絶対音階なんていう便利なものも持ち備えていないんで、結局楽譜どおりにしか弾けないんですよねえ。
 昨日、今日のひばりさんの番組でも思いました。彼女、1000曲以上のレパートリーがあったといいます。歌詞を全部覚えてるだけでもすごいですよね。さらに、彼女は一度聴くと歌詞もメロディーもすぐに覚えてしまった。また、英語の発音もいわゆる「ものまね」だったそうですね。つまり、記憶再生能力がずば抜けていたということでしょう。いいなあ。
20070623stxkg0240230620071f ところで、今日は山梨から群馬に移動したんですが、行きはちょうど昨日開通したばかりの圏央道を使ってみました。河口湖ICから八王子JCTを通って新しい圏央道に入りました。たしかにかなりの時間短縮になりましたねえ。先日別件で群馬に行った時は、まだ圏央道は開通していませんでしたので、渋滞する国道を通りました。4時間近くかかったかな。あの日、帰りは例の雁坂トンネルを通りましたが、こちらも実質4時間。それが今日は、関越の東松山まで高速を使って太田市まで2時間ですからね。半分です。
 しかしですねえ、通行料金が高すぎますよ〜。あの50キロくらいで2000円くらい払わなくちゃならないんですから。今日は私、単純なミスをしてしまいまして、通勤割引の対象外になってしまいましたので、河口湖から東松山までで3650円も払わされました。一つ前の鶴ケ島で降りておけば河口湖から100キロ以内だったのに…1100円損した…orz。
 で、帰りは八王子まで一般道を走りまして、午後の通勤割引を利用して950円で河口湖に帰ってきました。所要時間は3時間ちょい。行きは1時間を2700円で買った計算かあ…。高いなあ。まあたしかに工事にお金がかかってるなって感じでしたけどね。新しく開通した部分は、ほとんどトンネルか地下か橋か二階建て構造かでしたから。土地買収も含めて大変だったろうなあ、とは思いました。でも、もう使わないでしょう。高すぎます。
 最後に、無理やり音楽と道路を結びつけた話を一つ。
 楽譜ってナビですよね。ナビどおりに走ればとりあえず目的地にはつきます。でも、主体性も即興性もありません。特に西洋の五線譜はデジタル的思考の産物ですよね。脇道にそれたり、路地をのぞいてみたり、道端に車を停めてみたりということを拒否します。ナビどおりに走行すると、見える風景の可能性は極端に限られます。両者は似てますね。
 音楽においても、タクシーの運ちゃんみたいに、臨機応変に迂回路を使い分けてみたいものです。最近はタクシーにもナビは必ず付いてますけどね。

圏央道料金表

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.06.23

縄文の美とエネルギー

縄文王国山梨展−南アルプス市鋳物師屋遺跡の縄文土器−
(山梨県立博物館)
Img_imojiya1up 今日は面白い日でした。遡ってみましょう。
 今は美空ひばりの番組で感動してます。あらゆるジャンルをこなしたひばりさんですが、こうして聴いていますと、やっぱり昭和の音階である四七抜きの女王ですね。娘たちが送ったFAX、しっかり貼られて映ってました(笑)。
 その前は、日本の音階から最も遠いところにいたもう一人の女王、松田聖子をたっぷり聴きました。彼女の唄う楽曲はほとんどが全音階的長音階でした。対照的な二人とも言えますね。
 夕方は抹茶をいただきました。いいものですねえ。(昨日の記事ではありませんが)私が借金して蒐集したお宝の楽茶碗でいただこうという計画だったんですけど、いざとなるとなんとなく恐くなっちゃいまして、結局普通のお茶碗でいただきました。
 さて、それでその前はと言いますと、御坂の山梨県立博物館に行ってまいりました。シンボル展の「縄文の美とエネルギー」を観るためです。
 ちょうど今日午後1時半から学芸課長の中山誠二さんのレクチャーがあるということでしたので、それに合わせて行きましたら、全然お客さんがいなくて、結局ほとんどの時間中山さんを独占できるという幸運?に恵まれました。いろいろとお話をしまして、勉強になること多々。ありがとうございました。ま、どちらかというと私の得意分野ですので、かなりマニアックな会話になっていたのではないでしょうか(笑)。
 展示されていた土器や土偶は、アルプス市の鋳物師屋(いもじや)遺跡から出土した重要文化財で、数としてはそれほどではありませんでしたけれど、内容は実に充実していましたね。縄文中期、このあたりは大変な温暖化でして、今より5度くらい気温が高かったらしい。その頃の縄文人の豊かな生活、豊かな感性を彷彿とさせる、創造力に富んだ土器たち。立体的な造形が醸す陰影は、一つの鮮やかな色彩表現になっていましたね。そこから伝わってくるものは、「美しさ」というよりも「楽しさ」という気がしました。豊かな生活からは「楽しさ」がにじみ出るんだなあ。余裕は遊びを、想像を生む。
 中山さんのお話によりますと、土器に描かれている人物像や幾何学文様には物語的意味があるらしい。縄文人たちは、想像力をもってして神すなわち自然と交流していたんだなあ、きっと。それが楽しくてしかたなかったのでしょう。まさに「エンターテインメント…結びつける力」の原点です。昨日の柳宗悦の言葉からも想像されますね。「物」が私たちと何かを結ぶ力を持っているということ。
 先ほど登場した我が家のお宝…巨人出口王仁三郎の作なんですが…にも、間違いなく縄文スピリットが息づいています。彼が縄文的伏流の噴出であることは多くの人が指摘していところですね。縁あってウチでお預かりしている彼の耀わんは、まさに縄文的色彩に満ちています。深く豊かな森と海という感じです。
 お茶自体はどちらかというと弥生系の文化ですが、茶道の世界には縄文的な遊びの精神が生きているような気がしますね。茶碗の中に宇宙があるとよく言いますけど、それはすなわち茶が人と人、あるいは人とものを結ぶという意味でしょうね。結び=産(ムスビ)。生命力がすなわち宇宙の存在そのものですから。
 昭和の二人の歌姫も、縄文的と言えるかもしれませんね。シャーマン的な存在です。彼女たちの持つエンターテインメント力、呪術性、言霊力、そして母性…。この前の松田聖子のコンサートでもそれを感じましたし、今テレビに映っている美空ひばり…東京ドームで奇跡的な「みだれ髪」を歌うひばりにもそれを感じるのでした。
 というところで、「今」に戻ってきました。私の想像力の旅もこのへんで終わりにしますね。

不二草紙に戻る

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007.06.22

『蒐集物語』 柳宗悦

Yanagi 人間の収集癖といいますか、蒐集本能というのは、実に面白い。面白いけれども困ったものでもあります。Yahoo!オークションなんかに大量の老若男女が集まっている様子は、そういう面白さと困ったちゃん具合をネットというテクノロジーが後押ししている現場の状況とも言えるでしょう。
 私はネットオークションはやらないんです、ほとんど。見て楽しみますがね。今夜もある出物があって、その動向を注視していました。結果、そこそこの落札価格に落ち着いたんですが、おそらく本当にほしい人は逃しましたね。で、そうではなくて、そういう人たちの蒐集本能を利用して商売しようとする、別にそれが悪いわけではありませんが、いわゆる商売人が落札したようです。そういう雰囲気が感じられる現場の空気でした。
 そう考えると面白いですね。散財してまで「もの」をほしがる人と、金もうけのために「もの」を転がす人。両者にとって、それは「もの(物)」ではあるのですが、そこに働いている心理は、「コト」化であります。自分の守備範囲外にある「モノ」をゲットして所有してコントロールするのが、私の言う「コト」化です。
 占いやスポーツやギャンブルに人々が熱狂するのも、不随意の「モノ」と随意の「コト」がバランスよく配合されているからなんですが、コレクションやそれに伴うオークションというのも、そういう面白さを持っているわけです。ま、考えてみれば、市場経済なんて全部オークションですからねえ、つまり、私たちはそういう世界に生きているわけですね。だから生活に喜怒哀楽があって、人生に飽きないのでしょう。「商いは飽きない」とは単なるシャレではないのでした。
 さてさて、そんなコレクションという「愚行」に関する実に面白いエッセイを読みました。演習の授業で青山学院大学の過去問を解いたんですが、それが私の大好きな、民芸の父、柳宗悦の文章でした。「蒐集物語」の一部のようでした。
Syuusyuu_2 右の画像をクリックして読んでいただきたい。問題文のコピーなので、空欄や傍線や漢字の問題なんかがそのままなんですが。文章のリズムが実に素晴らしい。そして、内容も面白いですね。誰しも救われた気がすることでしょう。ああ「愚行」にこそ価値があるんだ、と勇気づけられることでしょう。なるほど、コレクションという愚行が文化の命脈を守ってきたということですか。たしかに。そう考えると、愚行ととれるこうした蒐集本能は、情報保存伝承のためのプログラムであるとも言えますよね。だからバカにしちゃいけない…って完全に自己弁護してます、ワタクシ。メチャクチャ借金して変なモノ集めてますから(汗)。
Sakucolle 最後に最近のウチのカミさんの蒐集癖の成果をご覧にいれましょう。いつのまにか、子どものおもちゃ類の戸棚が、○○グッズに占領されてました…orz。ヒマな方はクリックして見てみてください。何のコレクションか分かった方は、なかなかのマニアですね(笑)…てか、分かるか。ま、これも文化の伝承のためでありまして。でも、どうも女性のこの本能は長続きしないんだよなあ…(汗)。

Yahoo!オークション

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007.06.21

『歌謡曲の構造』 小泉文夫 (平凡社ライブラリー)

Kouzou 歴史的、画期的名著です。本当に面白くて面白くて、二度繰り返して読みました。
 西洋音楽一辺倒の日本の音楽研究、音楽教育界に疑問を持ち、世界各国の民族音楽をベースに、日本古来の旋律や音楽的技法、さらにはそれらの影響下にある現代の(当時の)歌謡曲をも研究対象にしてしまった小泉文夫さん。今でこそ、東京芸大に「小泉文夫記念資料室」なんかができていますが、当初周囲の嘲笑や反発はものすごかったようです。それはそうでしょう。たとえばこんなこと言い出したんですから。本書の冒頭にあるインタビューから抜粋します。

(小泉)…音の数で五音、七音というと何となく五の方が数が足りないから未発達で、七の方が数が多いから発達した音楽だと、非常に大勢の日本人が漠然と考えていますけど、これは大間違いなんです。
−すると日本は音楽の先進国ということになりますね。自信が湧いてきました。
(小泉)歴史的にはそうなんです。
−では西洋は対位法やハーモニーがまだ残っている、音楽の野蛮国という理屈になるわけですか。
(小泉)それは西洋が急激に数百年で高度成長した民族だからですね。ヨーロッパのゲルマン民族は、ついせんだってまで確かに未開人だった。

 日本の音楽教育、音楽研究は、周知の通りゲルマン流に行われてきたわけですから、まあ、いきなりバッハやブラームスが野蛮で、演歌が高等だと言われたら、そりゃあ普通の人はびっくりするか呆れるか怒るかするでしょう。しかし、たとえばこの本を読むと、小泉さんのこうした発言にも一理ある…どころか、ほとんど正しいと思えるにちがいありません。
 昨日も書きましたが、私もようやく成熟してまいりまして(笑)、そうしたハーモニーに頼らない音楽的な表現、すなわち心の機微を音で表現するということに、理解と共感が及ぶようになりました。思えばずいぶん時間がかかったなあ…。
 テトラコルド(4度音程)の中を、西洋音楽ではほとんど固定した二つの音で埋めるのに対し、ほとんど無限の選択肢を持った一つの音で埋めるのが、日本をはじめとする多くの民族音楽の特徴です。その一つの音をどうコントロールするかというのが、そうした音楽の面白さなんですね。
 小泉さんは、テトラコルドを「民謡のテトラコルド」「都節のテトラコルド」「律のテトラコルド」「琉球のテトラコルド」という四種に分類し、さらにそれらを組み合わせることによって、日本古来の旋律や響き、さらには軍歌や演歌、歌謡曲を分析していきます。さらにそこにディナーミックや発声法、アクセント、ヘミオラ、ヴィブラートやメリスマ(こぶし)と言った観点も加えられて、いかに日本の大衆音楽が高度な表現力を持っているかが明らかになっていくのですが、私はその過程に、はっきり言って興奮してしまいました。それにしても、俎上に乗っている名曲たち(コテコテの演歌からピンクレディーまで)の濃いこと濃いこと。あらためて、すごい時代でしたなあ。
 小泉さんの著書の中でこの本は比較的読みやすいものでしょう。インタビューや講演録が中心だからです。私にも実に分かりやすかった。繁下和雄さんの解説もたいへん勉強になりますし、巻末の岡田真紀さん編の「年表・戦後ヒットソング小史 音階分類にみる時代の流れ」も圧巻です。歌謡曲やJ-POPに興味ある方は必携でしょう。そして、クラシックファンにもぜひ読んでいただきたい。勉強になります。
 小泉さんは1983年に56歳という若さでお亡くなりになってしまいました。西洋音楽をたっぷり研究した末に、53歳で突如演歌に目覚めたという小泉さん。ある意味、歌謡曲の全盛期での引退あったわけですが、ちょうどその後に現れたJ-POPという世界を、小泉さんはあちらでどのような感慨を持って聴いていらっしゃるのでしょうか。小泉さんの有名な予言があります。「四七抜き(日本の音楽と西洋の音楽のせめぎ合いから生まれた折衷的な音階)から二六抜き(日本の伝統的音階)へ」…これは、恐ろしいほどに的中しています。今のJ-POPの実に多くが西洋的ハーモニーの上に二六抜き音階を展開しています。小泉さんが待望した長調の二六抜きも、「島唄」や「涙そうそう」を挙げるまでもなく、今やヒットチャートの主流になっていますね。
 ただ、小泉さんが想定しなかったのはラップでしょうか。基本的に音階のないリズムだけの歌、いや、歌ではなくそれは語りなのでしょうか。それははたして音階を超越したものなのか、それとも、音階的アイデアの枯渇の結果なのか、それとも「読経」や「声明」、「地口」といった伝統文化の発展形なのか、それは私にはまだわかりません。

Amazon 歌謡曲の構造

歌謡曲の構造


不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.06.20

『中能島欣一の至芸』(箏・三弦多元独演の重ね録音による)

Shigei 告知にありますように、今度久々に邦楽の舞台に乗ります。邦楽の演奏会に邦楽器ではなく洋楽器で乗るのは、それこそ20年ぶりくらいかもしれません。洋楽の舞台に邦楽器で乗るのは、毎年やってますけど…たとえばこちら(笑)。
 さて、それで、この前この演奏会のリハがあったのですが、久々に邦楽のプロの方々の演奏に触れ、本当に心震えるものがあったんです。私が山田流の箏曲をやっていたのは大学時代なんですが、どうもあの頃はちっとも分かってなかったようなんですね。分からずやっていた。実は洋楽が好きなのに、無理やり邦楽をやっていたらしい。たぶん、その理由は…女性に囲まれていたかったからでしょう(笑)。
 で、ここのところ面白いことに邦楽の良さが分かってきたんです。良さがわかるというか、聴き方、聴きどころが分かってきたんでしょうかね。話せば長いのですが、つまりは歌謡曲や演歌を演奏するようになって、そしてちょっとそうしたものの音楽的勉強もやってみて、ああ、これは完全に邦楽の伝統に遡るな、ということがたくさん出てきたわけですね。それで、洋楽的なものからだんだん遡って、ちゃんと道を順に戻っていったら、そこに自然に邦楽の世界が開けていたと。
 近いうちに…明日かもしれませんが…紹介しようと思っている小泉文夫さんの著書なんかを読んでいると納得するんですが、こうして歳をとらなくては分からない音楽こそ、まさに成熟した音楽なのだということなんですね。いつかも書きましたが、たとえばモーツァルトは子どもにも分かるどころか、ニワトリにも牛にも酵母にも分かる(笑)。ま、自分もちゃんと歳をとっているんだなあってことですよ。
 それで、話を戻しますが、この前のリハで、三味線の、箏の、笛の、鼓の音が、そして人の声が、ぐっと心に迫ってきた。ヴァイオリン弾いてる自分が妙にカッコ悪く感じたんですね(実際何も出来ずカッコ悪かったんですけど)。普段、いかに簡単なこと、薄っぺらなことをやっているのか、痛感させられちゃったわけです。いやいや、もちろんある意味で、ですよ。違う難しさや、共通した難しさはほかにあります。
 その日、ウチに帰ってきて、何か「すごい邦楽」を聴きたくなった。そこでそれこそ20年ぶりに引っ張り出してきたのが、このレコードでした。あの頃の衝撃もすごかったけれど、きっと今聴いたら、どんなにぶっ飛ぶだろう。そんな期待がありました。そして…
 ぐわぁぁぁぁ…これはなんなんだ?邦楽なのか?いや、音楽なのか?これは一つの塊である。なんだかわからんが、とんでもない塊がドーンとこっちに飛んでくる。感動する以上に、ちょっと恐くなった。あり得ないとしか思えないんで。これはなんなんだ?
 ちょっと冷静になって解説しましょう。これは人間国宝・故中能島欣一さんによる、「新ざらし」「六段調」「乱輪舌」の録音です。昭和57年のデジタル録音(!)です。しかし、ただのデジタル録音ではありません。なんと、一人二役あるいは一人三役の多重録音なんです。具体的には「新ざらし」では歌・箏・三弦を、「六段調」では箏(本手・替手)・三弦を、「乱輪舌」では箏(本手・替手)を一人で担当しています。
 この企画だけでも、もうかなりぶっ飛びなわけですが、ちょっとそれを知った上で、ジャケットを見てくださいよ。ほら、恐いでしょ(笑)。シュールすぎる。
 ある意味、この企画は反則ですよね。特に邦楽の世界においては。独特の間や空気を大切にする邦楽において、重ね録りというのはアンチテーゼです。録音という行為自体に違和感を抱く演奏家も多くいます。しかし、そんな理屈やらなんやらを完全に超えて、これは確かに「至芸」に違いありません。完璧すぎて気持ち悪いくらいです。
 このレコードには、中能島さんと平野健次さん、柴田南雄さんによる充実した鼎談が付いているんですけど、その内容がまた興味深い。中能島さんがこの企画にいかに臨んだか、いかに苦労したかを知るだけでも、「至芸」「人間国宝」の領域を垣間見ることができます。ジャンルとか、テクノロジーとか、評論とか、流派とか、オリジナル楽器がどうとか(実際、中能島さんは迷いなくナイロン弦を使っています)、そういうことを完全に超越したところの「もの」があるんですね。そう、本当の芸術家って、「コト」化ではなく、新しい「モノ」の創造をするんですね。なんだこりゃあ、っていう「もののけ」を。自然とか世界とか自分とかいう得体のしれないモノの上にあるモノ。それを示されたらこちらはどうしようもありませんね。
 「六段」も「乱」も、それはそれはすごいんですけど、やっぱり「新ざらし」でしょうか。「さらし」ものはいろいろなヴァージョンがあるんですが、ここでは中能島さん自身が編曲(作曲)をしています。特に箏と三絃のカデンツァのすさまじさは、これはもう狂っています。どこまで続くのか…このアイデアと、テクニックの泉は絶えることがないのか…。
 前の記事にも書きましたが、中能島欣一さん、箏は当然ですが、三弦と歌も超一流ですね。鼎談の中で、ピッチが正確だということが繰り返されていますが、それはもちろん西洋音楽的なピッチとは違います。それしかあり得ない瞬間瞬間のピッチであり、ピッチの揺れやずれであるわけです。まさに至芸。
 この、世界の音楽史、録音史の宝は、長いことCD化されませんでしたが、今は「中能島欣一全集」で聴くことができます。でも、高いんだよなあ。単品でCD化されないかなあ。アナログレコードで聴くのも一興ではありますが、やっぱり余計な揺れのない「デジタル」な「もののけ」も聴いてみたいですね。しっかし、すごいわ。買っておいてよかった。若かりし自分よ!GJ!

Amazon 中能島欣一全集

不二草紙に戻る
 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007.06.19

太宰治 『服装に就いて』より

Ike さあ今年も桜桃忌がやってきました。1年生の授業では、カチカチ山の音楽的文章を味わったり、私が太宰自身から聞いた(?)走れメロスの秘密の数々を披露したりして、みんなで大いに笑いました。あくまで命日は13日ですから、今日はお誕生日です。「忌」というとなんとなく暗い感じになってしまいますが、考えてみればお釈迦さまのお誕生日である降誕会(ごうたんえ)も「三仏忌」の一つとされてますからね、明るく行きましょう。
 さて、昨年富嶽百景のところでちょっと書きましたけれど、ウチの学校の周辺というのは実に太宰とのゆかりが深いんです。生徒にとっても私にとっても、本当に幸せなことですね。太宰と同じ場所に立って、同じ空気を感じることができる、それも授業中に、ちょっと行ってみるか、ということができるわけですからね。
 そこで、今日は太宰作品の中でも、特にご近所ネタ満載であるこの作品を紹介します。ここに生活する人にしか意味がないと言えばないのですが、まあ、あんまり読まれることのない作品ですので、他地方の方々もちょっと読んでみてください。「服装に就いて」はもっと長いんですが、富士吉田に関するところだけ抜粋しますね。吉田の火祭りについて書いています。


 銘仙の絣の単衣は、家内の亡父の遺品である。着て歩くと裾がさらさらして、いい気持だ。この着物を着て、遊びに出掛けると、不思議に必ず雨が降るのである。亡父の戒めかも知れない。洪水にさえ見舞われた。一度は、南伊豆。もう一度は、富士吉田で、私は大水に遭い多少の難儀をした。南伊豆は七月上旬の事で、私の泊っていた小さい温泉宿は、濁流に呑まれ、もう少しのところで、押し流されるところであった。富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。その土地の友人から遊びに来いと言われ、私はいまは暑いからいやだ、もっと涼しくなってから参りますと返事したら、その友人から重ねて、吉田の火祭りは一年に一度しか無いのです、吉田は、もはや既に涼しい、来月になったら寒くなります、という手紙で、ひどく怒っているらしい様子だったので私は、あわてて吉田に出かけた。家を出る時、家内は、この着物を着ておいでになると、また洪水にお遭いになりますよ、といやな、けちを附けた。何だか不吉な予感を覚えた。八王子あたりまでは、よく晴れていたのだが、大月で、富士吉田行の電車に乗り換えてからは、もはや大豪雨であった。ぎっしり互いに身動きの出来ぬほどに乗り込んだ登山者あるいは遊覧の男女の客は、口々に、わあ、ひどい、これあ困ったと豪雨に対して不平を並べた。亡父の遺品の雨着物を着ている私は、この豪雨の張本人のような気がして、まことに、そら恐しい罪悪感を覚え、顔を挙げることが出来なかった。吉田に着いてからも篠つく雨は、いよいよさかんで、私は駅まで迎えに来てくれていた友人と共に、ころげこむようにして駅の近くの料亭に飛び込んだ。友人は私に対して気の毒がっていたが、私は、この豪雨の原因が、私の銘仙の着物に在るということを知っていたので、かえって友人にすまない気持で、けれどもそれは、あまりに恐ろしい罪なので、私は告白できなかった。火祭りも何も、滅茶滅茶になった様子であった。毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが、この豪雨のためにお流れになってしまったらしいのである。私たちはその料亭で、いたずらに酒を飲んだりして、雨のはれるのを待った。夜になって、風さえ出て来た。給仕の女中さんが、雨戸を細めにあけて、
「ああ、ぼんやり赤い」と呟いた。私たちは立っていって、外をのぞいて見たら、南の空が幽かに赤かった。この大暴風雨の中でも、せめて一つ、木花咲耶姫へのお礼の為に、誰かが苦心して、のろしを挙げているのであろう。私は、わびしくてならなかった。この憎い大暴風雨も、もとはと言えば、私の雨着物の為なのである。要らざる時に東京から、のこのこやって来て、この吉田の老若男女ひとしく指折り数えて待っていた楽しい夜を、滅茶滅茶にした雨男は、ここにいます、ということを、この女中さんにちょっとでも告白したならば、私は、たちまち吉田の町民に袋たたきにされるであろう。私は、やはり腹黒く、自分の罪をその友人にも女中さんにも、打ち明けることはしなかった。その夜おそく雨が小降りになったころ私たちはその料亭を出て、池のほとりの大きい旅館に一緒に泊り、翌る朝は、からりと晴れていたので、私は友人とわかれてバスに乗り御坂峠を越えて甲府へ行こうとしたが、バスは河口湖を過ぎて二十分くらい峠をのぼりはじめたと思うと、既に恐ろしい山崩れの個所に逢着し、乗客十五人が、おのおの尻端折りして、歩いて峠を越そうと覚悟をきめて三々五々、峠をのぼりはじめたが、行けども行けども甲府方面からの迎えのバスが来ていない。断念して、また引返し、むなしくもとのバスに再び乗って吉田町まで帰って来たわけであるが、すべては、私の魔の銘仙のせいである。こんど、どこか旱魃の土地の噂でも聞いた時には、私はこの着物を着てその土地に出掛け、ぶらぶら矢鱈に歩き廻って見ようと思っている。沛然と大雨になり、無力な私も、思わぬところで御奉公できるかも知れない。


 相変わらず軽妙な文章ですね。長い文と短い文の絶妙な組み合わせ、独特の読点の打ち方がこういうリズムを生むんでしょうね。ちなみに文中に出てくる「池」はウチの学校(とその母体になっているお寺)の敷地内にあります。太宰が泊まった「大きな旅館」の跡地はウチの学校の職員駐車場になっています。

不二草紙に戻る

Shop Link
Amazon 楽天市場 楽天ブックス オンライン書店bk1 eBEST 秋葉館オンラインショップ DVDレンタル DISCAS アンテナ専門店「棟梁の弟子」 石丸電気Refino 通販限定CD『FUN』 eBOOKOFF コロムビアファミリークラブ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.06.18

『日本人の英語』 マーク・ピーターセン (岩波新書)

Nie うん、これは確かに名著だ。50近いアマゾンのレビューがほとんど全て五つ星というのもうなずけます。
 私はほとんど英語の必要ない人間ですから、ここから実践的なものを得たわけではありませんが、比較文化的、あるい比較意識的にとても興味深かった。やはり、それぞれの言語にそれぞれの世界観、世界の切り取り方が現れるのだなあ。そのセンスの微妙な差異こそが、ネイティヴと非ネイティヴの間にある微妙でない巨大な壁になっているということですね。
 この本は、全ての英語教育者、あるいは英語学習者が読まねばならないでしょう。これを読むと、ほんの一部ではありますが、英語話者がどういうふうに世界を見ているか、どんな見方を重視しているかがわかるとともに、その後の外国語学習のヒントを得ることができるでしょう。
 多くの方が賞賛しているように、冒頭の「冠詞」の解説は非常に分かりやすいし、興味深い。私もたま〜に英語を話す時、たとえば学校のALTに話しかけられてしまった時など、あれ?ここは「a」かな「the」かな、それともなんにも付けないのかな、ん?待てよ、単数かな、複数かな、ということがしょっちゅうあります。というか、名詞が出てくるたびに、ですね。それで、だいたい迷ってるうちにモゴモゴとなんか言ってしまっているんですが、そのへんの使い分けについて、この本ではまさに「目から鱗」の解説がなされます。なるほど〜、名詞に「a」や「the」をつけるという感覚ではないのか!「a」や「the」のあとに名詞が…興味を持たれた方はぜひ御一読を。
 先ほど、超なんちゃって英語教師であるカミさんと話したんですが、どうも日本の英語のセンセイはこういう勉強をあえて怠っているようだと。たぶん、これこそ「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の賜物でしょうな(笑)。
 ウチのクラスにも外国人やハーフがいるので、国語の授業の中でこういう話題で盛り上がることが多いんです。そして、こちらも学ぶことが非常に多い。何気なく使っている日本語が、非ネイティヴにとっては難しかったり、おかしかったり。今日は中国人が「黄金」を「こうきん」って読んだ。「エバラこうきんのたれ」とかね。みんな笑ったけど、これを「おうごん」と読んだり、「こがね」と読んだりするんだということを理論的に説明するのは難しいわけです。面白いですね。
 よく言われることですが、こうやって異文化交流することこそが、自分たちを知るよい機会になるんです。この本は、そういう意味で単なる英語指南書ではなく、本質的な文化論、あるいは鏡像的日本論になっているところがグーですね。こちらのマンガと似た部分があるかもしれません。
 で、日本語に関しては非ネイティヴの著者の文章ですが、やはりそういう雰囲気が出ています。それがとてもいい感じです。やたらこなれたネイティヴ風な日本語で書かれるより、こうしたちょっと堅い論文風な文章の方が、「外国人らしい」。私は最近、この「外国人らしさ」がもらたす効果というのを重視していまして、やたら巷に氾濫するなんちゃって英会話教室に疑問を持っておるのでした。
 もともと、この本は、英語論文を書かねばならない日本人のために書かれたものですから、そういう文体になるのは当然と言えば当然です。そして、そのちょっとお堅い文体で紹介される、日本人によるトンデモ英語の文例が面白過ぎです。人のことは笑えないのは充分承知の上で、こうして自虐的に笑い飛ばすことから、異文化交流が始まるのかもしれません。まずは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を笑い飛ばさないとね。虎になって孤立しちゃいますよ。
 「続日本人の英語」も読んでみよっと。
 
Amazon 日本人の英語

楽天ブックス 日本人の英語

不二草紙に戻る

Shop Link
Amazon 楽天市場 楽天ブックス オンライン書店bk1 eBEST 秋葉館オンラインショップ DVDレンタル DISCAS アンテナ専門店「棟梁の弟子」 石丸電気Refino 通販限定CD『FUN』 eBOOKOFF コロムビアファミリークラブ

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2007.06.17

村山浅間神社(富士宮市)

Murayama1 今日は上の娘と富士山一周。もちろん車でですよ。学生時代は自転車で回ったりしてましたが、今はそんな根性も体力もありません。ちょうど100キロくらい走ることになりますか。途中いろいろと寄るところもあるし、一日自然と文化を満喫しつつ遊ぶにはなかなかいいコースです。
 今回は右回り、すなわち、富士北麓を東進、籠坂から御殿場方面に抜けて、愛鷹山の北側を西進、白糸の滝付近から北上して鳴沢に帰るというコースです。メインは南麓の富士こどもの国で遊ぶことだったんですけど、入場料を払ったらお金がなくなってしまった(いや、二人でたった千円なんですけど…つまり、お金忘れたってこと)。私と娘の財布の小銭をかき集めて、そばを一杯、パンを一つ注文し、それを二人で分けあう…乗り物類はもちろん、一回百円の押し花体験すらできない…orz。
 で、早々にそこを引き上げ、次に向かったのが村山浅間神社です。渋すぎる。しかし、神社マニアの私と娘にとっては、とっても有意義な時間を過ごすことができました。ちなみにお賽銭は車内で見つけた120円と財布に残っていた1円玉。本当にすっからかんになってしまいました(笑)。
Housui 私たちが神社に到着した時、なぜか拝殿や本殿に消防団の方々が放水していました。境内では古老二人が護摩木を切っていたりしたので、もしかして今日護摩を焚くのかと思い、彼らに尋ねてみますと、いや違う、山開きの7月1日だ、ということでした。
 そう、ここ村山浅間は、明治の廃仏毀釈以前は、村山修験道のメッカとしてたいへん栄えていたんです。もともと山の神を祀る浅間神社は、修験道や密教と結びつきやすく、いわゆる神仏混淆傾向の強い神社です。富士吉田の北口本宮浅間神社にも、月江寺持だった護摩壇の跡が残っています。月江寺は臨済宗の寺ですから事態はさらに複雑ですよね。今の私たちが考える以上に、昔は宗教宗派の壁がうすかったようです。というか、商売が絡むとそういうことになるんでしょうが。
Gomadan これが村山浅間の護摩壇です。7月1日には京都聖護院から山伏の皆さんがいらして、盛大に柴燈護摩供が行われます。一度観に行きたいですね。今年はダメそうですが。
 さて、役行者、末代上人、富士講、大日如来、富士浅間大菩薩、真言密教に道祖神…この神社の縁起やら何やらを書き出すとキリがないので、それは別のサイトを参照していだくとします。今日は、私の大好きな「字」を紹介して終わります。
↓click
Fujikonpon これは拝殿に掲げられている扁額です。いつの時代のものか分かりませんが、非常に珍しい字体で彫られています。神代文字マニアの娘(ってどういう趣味しとんのや!)はかなり萌えてました。ま、これは右から「富士根本宮」と読め