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2007.06.30

TEAC RW-800 (CDレコーダー)

Rw800 今日はウチのCDレコーダーを紹介しましょう。写真の真ん中のやつです。これも世間的にはすっかり古美術になってしまいましたね。ウチではけっこう活躍してますが。
 今日も歌謡曲バンドの練習(飲み会?)があったんですが、そういう時にもたまに使います。ミキシング機能もついているので、古典的な重ね録音をしたりして遊べます。
 今やCD作りはパソコンの独擅場になっておりますねえ。えっと48倍書き込みですか。すごいですね。80分の音楽CDを焼くのに2分かからないってことですよね。恐ろしい時代になりました。このCDレコーダーは当然ながら1倍速です。等倍。今では逆に貴重な存在ですよね。私はあんまり音の善し悪しをどうこう言わない人なんですが、同じCDコピーでも、48倍と等倍では全然音が違うような気がします。厚みといいますかね、密度というか。まあ、気のせいなのかもしれませんけど。
 こういう単体のCDレコーダーの良さは音だけではありません。CCCDなんかも無問題でコピーできますし、必要な曲だけコピーしたり、ベスト盤を編集したりするのも、意外に便利。パソコンでの作業とは違って、カセット的な、すなわちアナログ的、直感的な作業になりまして、あの一時停止ボタンを押す緊張感が味わえます。たまにこういう作業すると、心がなごむんですよね(笑)。
 あと、もちろん古い素材のデジタル化でしょうか。写真の真ん中がCDレコーダーなんですが、その上はアナログレコードプレーヤー、一番下はDATデッキでして、これを使って昔の音源をCD化するわけです。この前も中能島欣一の至芸をデジタル化いたしました。やはり気軽に聴けるようになるというのはいいものです。レコードであるために、ここ数十年聴いてないものが大量にありますから、そういうものをヒマな時に引っ張り出してきて、甘酸っぱい思い出とともに聴きかえすんですね。レコードやジャケットの質感や匂いも含めまして、実にノスタルジックな時間を体験できます。また、古い音楽自体も新鮮に響きますし、いろいろと発見があるのでした。
 ちなみに、このレコーダーは民生用ですので、いわゆる音楽用CD-Rでしか録音できません(業務用はデータ用も使えます)。で、最近音楽用のCD-Rはなかなか手に入りませんし、だいいち高い。ですので、ウチでは全て1枚のCD-RWで録音しまして、それをパソコンでデータ用CDにコピーしております…って、それじゃあ意味ないじゃん。結局48倍だ(笑)。
 ま、そんなわけで、このレコーダー、昔の自分や社会と、今の自分や社会を結ぶ媒体になっています。

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2007.06.29

『生物と無生物のあいだ』 福岡伸一 (講談社現代新書)

06149891 評判の書。そうですね、なかなかいい本でした。
 ただ、Amazonのレビューほどは感動しなかったかな。ものすごい名文…というわけでもないような…たしかに上手な文ですが。
 内容はけっこう刺激的でしたね。知的な刺激と言うんでしょうか。学問の世界、それも最先端の理系の世界を垣間見ることができる、それだけでも興味深かった。
 砂浜の小石と貝殻はいったい何が違うのでしょうか。生物と無生物のあいだにどういう違いがあるのでしょうか。半ば哲学的とも言えるこの問いにどのように答えようか、福岡さんはじっくりゆっくり、いろいろなエピソードを交えながら、私たちといっしょに考えてくれます。
 細菌とウィルスの違いも分からないワタクシが、この最先端の、おそらくは最も難しい領域に属するであろう問題を、それなりに噛み砕いて自分のものに出来たのは、まさに福岡さんのそうした姿勢、つまりは御本人の人柄と才能のおかげてあると思います。
 結論的には、「自己複製」と「動的平衡」という言葉が鍵になるわけですが、そこに至る様々な研究過程と人間模様が面白い。まさにそうした時間の流れの中でのダイナミズム(スキャンダルも含む)こそが、生命の本質であると実感できるんですね。無機質な論文とは違い、それこそ文が生きている。そして、それを読む私も生かされる。
 研究の質感、ピア・レビューの危険な香りなど、現場の生々しさにも思わず興奮させられましたね。アカデミアの世界も大変ですねえ。ドロドロしてますわ。ガチンコ勝負だけれども、けっこうルールぎりぎりのところでの攻防があるんですよね。反則すれすれ…いや、バレてない反則もたくさんありそう。
 ところで、私はこの本を読んで、いかにもワタクシ的なことを考えてしまいました。また、あれです。「モノ・コト論」。
 全ての「モノ」の本質は「変化」であり、それに抗するのが生命とも言える。つまり生命は「コト」化を企てるわけですね。「永遠」や「不変」への憧れです。エントロピー増大に抗い、自己複製によって疑似的な不変性、永遠性を得る。私に言わせてしまうと、無生物はジャスト「モノ」であります。すなわち「変化」「無常」「拡散」でしかありえません。それに比して生物とは、「モノ」でありながら、「コト(不変・永続・固定)化」の本能と機能を持ち備えた存在だというわけです。
 福岡さんは、「時間」にも注目しています。『時間という乗り物は、すべてのものを静かに等しく運んでいるがゆえに、その上に載っていること、そして、その動きが不可逆的であることを気づかせない』…その通りですね。それにふと気づいた時、私たちは「もののあはれ」を感じるのです。ある意味、自分たちが「モノ」であることに気づいてしまうんですね。生物はあくまで「なまもの」なわけですから。本当は時間の流れに逆らえず拡散していくべきものなのです。それを、私たちは疑似的に避けようとしている。自己複製をしたり、「コトのは」などのメディアを使って情報として、作品として、芸術として固定しようとしたりする。そういうことなんだなあと、この本を読んで嘆息したわけです。それこそ「もののあはれ」ですなあ。
 いずれにせよ、時間という「神」に、異常なほどの執念をもって臨む「生物」、特に「人間」のダイナミックな営為に、私は感銘を受けるとともに、ちょっと虚しさを感じたのでした。

Amazon 生物と無生物のあいだ

楽天ブックス 生物と無生物のあいだ

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2007.06.28

KAWAGUCHIKO HERB FESTIBAL(!?)

20070626_15_1 ハーブフェスタのスペル間違う 外国人指摘 河口湖町「恥ずかしい」
 地元の恥をさらすのもなんだし、記事にしようか、ちょっと迷ったんですけど、error corrector collector のワタクシとしては見逃すわけにはいかない。なんて、今 collector を collecter って打っちゃった。人のこと言える立場じゃないっすね(笑)。
 しっかし、この前「WELLCOME TO YAMANASHI」と「Would Cup」を紹介したばっかりなのに、またこれですか…。ホントに山梨県民は英語が苦手なんですねえ。ま、たしかにセンター試験英語の平均点、全国最下位レベルなんですけど。いやいや、これは英語力とかそういう問題ではない、お役所のチェック機能が働いてないってことですよね。ありえませんよ。
 それにしても、今回のはなんてベタな間違いなんでしょうね。wellcomeはまあよくやっちゃう間違いの一つですし、wouldは…これはなんとも言えないなあ、でもrをuと間違えたということでいえば、まあタイピングミスみたいなものですから、悪意は感じられない、どころか単純に笑い飛ばせる。いや笑い飛ばすしかない。しかし、今回のはですねえ、いかにも日本人的な間違いであって、そういう意味で「恥ずかしい」んですね。
 で、これが山梨日日新聞の記事で公になったのはおとといのことなんですが、実際には5月からこのポスターは配布されていました。で、新聞記事にあるように、すでに貼ってしまったものについてはそれぞれの場所で訂正してくれということなので、実際にはいまだにBのままのものもあるようです(ちなみにWELLCOMEはいまだに堂々とはためいています)。
 実は私はこのポスターを見たことがないので、新聞を読むまで知らなかったんですけど、当然気づいていた人はたくさんいるわけですね。特に外国人。国際観光の町ですので。なにしろフジヤマですからね。
 例えばこちらのフォーラムでは、5月19日に指摘されています。比較的軽く触れられてるだけですが(話がそれてるけど、The Banditのレスの方が面白いっすね)。
 ふぅ、とにかく個人的な間違いはいいとして、公になるものに関してはちゃんとチェックしましょうね。私も学校の広告やパンフやポスターの担当者なので、充分注意いたします。
 あっそうそう、富士河口湖町のハーブフェスティバル、とってもきれいですので、皆さんどうぞいらしてくださいませ。そして、問題のポスターや旗を見つけましょう(くれぐれも記念に持って帰らないように)!

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2007.06.27

『フジファブリック Live in Zepp Tokyo』(サーファーキドリツアー・ファイナル)

Fujifab12 今日は、生徒を連れてお台場Zepp Tokyoにフジファブリックのライヴを観に行ってきました。うん、とっても楽しく、聴き所満載のライヴでしたよ。勉強になりました。
 いやはや、それにしても今月はすごいなあ。松田聖子から長唄、そしてフジ、今週末は歌謡曲バンドとバッハの練習ですからねえ。我ながらメチャクチャだと思います。
 さてさて、フジファブリックのライヴもZeppも初体験なんですが、ボーカル&ギターの志村くんの実家の目と鼻の先にある、ワタクシの職場を出発したのは5時ちょい前。はたして7時の開演までにお台場に到着できるのか? 
 結果、ギリギリ滑り込みセーフ!開演直前の会場内は熱気ムンムン。てか、まじで暑かった。私は仕事姿のままでしたのでネクタイまでしてるし、坊主頭はさすがに目立つだろうと帽子かぶってるし、ホント暑かったっす。
 さて、いつものように冷静に分析しながら報告といたしましょうか。
 まず一言。もし、もしですよ、私が自分のバンドをやるとしたら、こういう音楽をやるだろうな。これは前から思っていたことなんですが、今回生で彼らを聴いてそれを再確認しました。
 彼らの音楽は非常に面白い。かっこいいのではなくて面白い。志村くんの書くメロディーはほとんど二六抜きか四七抜きです。つまり歌謡曲なんです。まあ、いかにも富士吉田、それも下吉田という感じ(…わからんか)のダサさ(いい意味で)なんですね。私好みの日本的、昭和な世界です。歌詞もノスタルジックですし、かっこつけない良さがあります。それでいて、都会的に洗練されていない危険な香りもあったりしますし。
 そうした歌が何に乗っかってるかといいますと、70年代の洋楽だったりする。今日も思いましたが、時にイエスになり、時にクイーンになり、時にカンサスになり、時にELOになり、時に10CCになりと、ワタクシのような40代のオジサンにはたまらない郷愁があるんですね。そういう古くさい組み合わせの妙が、実に新しく聞こえるわけです。
 和と洋のせめぎあいというか、不思議な融合というものは、ライヴとして聴くとさらにはっきりと理解されます。
 志村くんの唄はメロディーのみならず、発声法からして俗謡調ですし、山内くんのギターのフレーズはまるで三味線の手のようです。ベースの加藤くんは…ひたすら真面目にやるべきことを黙々とやる、まあある意味お囃子隊みたいだな(笑)。とにかくそんな感じなんですよ。
 で、そんな中、このバンドの要はキーボードなんですけど、考えてみるとキーボードというのは西洋音楽の象徴のような楽器ですよね、起源的にも、機能的にも。金澤くんの奏でるサウンドは、明らかに西洋音楽(ヨーロッパ)的です。それが面白いスパイスになってるんですよ。今日気づいたんですけど、彼ら、西洋音階を前面に押し出す時って、とっても照れてるんですね。シャレとして、オチャラケとしてそれを使う。これはとっても正しい姿勢だと思います。俺たち日本人じゃん、向こうの音楽をそのまんまやるのはなんか気恥ずかしいなあ…というのは、当然あるわけですよ。そのへんをうまく消化したのが奥田民生センセイだったんですが、さらにもっと照れながらそれを押し進めたのが彼らだと感じました。
 日本の音階(都節)を西洋的なコードとリズムに乗せる試みは、昭和41年の山本リンダ「こまっちゃうな」に遡ります。この曲はなんと遠藤実先生の作です(!)。知ってましたか?そして翌年、ジャズ界の大御所原信夫先生が、美空ひばりのために「真赤な太陽」を作曲しました。さらに次の年、いずみたく先生はピンキーとキラーズのために「恋の季節」を作りました。そうした実験的な音楽の系譜上に、フジファブリックの音楽はあり、そして進化し続けているんだなあと、そんなことを考えながらライヴを聴いていました(って、そんな人いないよなあ)。
 と、まあそんな理屈はどうでもいいや。ライヴですよ、ライヴ。彼らの演奏もうまくまとまってましたし、特別大きなキズもなかったと思います。ソロの段取りミスはネタでしょうね、たぶん。MCも適度に脱力していていいムード醸してました。新曲も聴けたし、お客さんのノリもよく、とにかく楽しい楽しい時間を過ごさせていただきました。トランペットとギターからレーザー光線が発射されたのには…ジーンときました(って、そんな人いないよなあ)。だって、日本のライヴで初めてレーザー光線使ったのって、たぶん1978年のELOでしょう?あれからもう30年ですよ〜。今や一人1レーザーの時代ですかあ。でも、あのレーザーの色だけは、30年間変りません…うるうる。
 というわけで、全然レビューになってませんが、とにかく暑い熱い楽しいライヴでした。帰りは1時間半で富士山に帰ってきました。近いもんです。
 また行きたいな。というか、志村くん、ぜひ富士吉田でぜひ凱旋ライヴをよろしくお願いします。
 最後に、今回のチケットを取ってくれた方、どうもありがとうございました。ご一緒できればよかったんですが、残念でした。ぜひ次は一緒に行きましょう!

フジファブリック公式

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2007.06.26

『サラリーマンNEOボーナススペシャル』(ウッチャン登場)

Neo0626 今日の「サラリーマンNEO」はボーナス・スペシャル。ウッチャンこと内村光良さんと入江雅人さんの共演です。ご存知と思いますが、この二人と言えば劇団SHA・LA・LAですねえ。
 劇団SHA・LA・LAは日本映画学校(当時横浜放送映画専門学院)の9期生たちによって結成された劇団です。いちおう座長は出川哲朗さん(!)、ナンチャンこと南原清隆さんもいたわけですから、これは今思うと凄いですねえ。
 横浜放送映画専門学院は、私の大好きだった故今村昌平監督が開校した学校で、高校時代の私もちょっぴりですが、行ってみたいなあと思ってましたからね、もし私が進学していたら彼らと同期ですので、もしかして…なんちゃって。でも、そういう可能性もないではなかった。姉も当時演劇界にいましたし。
 さて、そんなウッチャンと入江さんの久々の共演、どうだったでしょう。
 全体として、やっぱりいつもと違う空気になっていましたね。ウッチャンはウッチャンらしい演技やテンションですので、ちょっとNEO的に醸成されてきた空気からは浮いていたかもしれません。でも、こういう化学反応というか、異文化交流(ただしルーツは同じみたいな)はたまにはいいでしょう。何度か繰り返していけば、互いになじんでくるでしょう。ウッチャンには、できれば準レギュラー的に参画していただきたい。沢村一樹さんとの共演なんかも観てみたいですしね。
Sarigiwa 今回の放映では、ワタクシ的には「新しいネクタイの結び方講座」が一番面白かった。ウッチャン的異空間の中で、実にNHK的、NEO的だったからでしょうかね。こちらの緊張も解けました。あと、微妙なネタとして、「去り際」における、原史奈の「婚約破棄」発言でしょうかね(笑)。そこにで笑った人がいったい何人いたことやら…。この「去り際」におけるウッチャンが一番ウッチャンらしかったかもしれません。
 ちなみに今回の脚本はウッチャンの従兄弟である内村宏幸さんが担当していました。これも面白い縁ですね。
 いずれにせよ今日の放映で、NEOの笑いというのは観る側にも熟練を要するんだ、ということを再確認しました。民放とは違う微妙な作りの部分、細部のこだわり、人の歴史などを知った上で観ないとわからないところがある。そこが、賛否の分かれる原因でしょう。ある意味、茶道とか剣道とかみたいな、分かる人じゃないと分からないという、なんとも日本の伝統的文化が息づいているわけでして、NHKとしては立派なお仕事をされているとも言えるのでしょう。私は好きです。

サラリーマンNEO公式

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2007.06.25

ビリーズブートキャンプ

Btc_2_200x ここのところ純日本的ネタが連発だったので、そろそろアメリカ的な爆ネタに行きましょう。
 今日、職場で「ビリーズ ブートキャンプ」を観ました。私が買ったんじゃないですよ。一日一食生活4年目に突入の私には基本的に必要ありませんので。
 しかし、たしかにこれは腹筋が鍛えられるわ。観てるだけでも腹が割れてくるでしょう。つまり、笑いすぎて腹が痛くなるわけです。
 今、ちょうどビリー隊長が来日中ですか。ここまでブームになるとはビックリですね。日本人、それもちょっと体重が気になる女性の皆さんが入隊してヒーヒー言ってるのを想像すると、さらに腹筋が痛くなります。
 これはギャグですよねえ。まさか皆さんまじめにやってるんじゃないですよねえ。こんなこと書くと、また信者に怒られそうですし、本人たちの趣味にどうこう言える立場じゃないんですけど、まあ一人くらい疑問を呈する人がいてもいいでしょう。
 まず、これはダイエットのプログラムではないでしょう。筋力増強のプログラムです。その証拠に出演の皆さん、不自然に筋肉質です。世の女性が皆あんなふうなお腹してたら、引きます。
 たしかにあれだけの運動をすれば、誰でも痩せます。ものすごい代謝量です。汗の量も半端じゃないでしょう。運動後ビールを二缶くらいグビッと飲んでも問題ないくらいでしょう。あのプログラムを7日間やって痩せない人はいません。当然です。エネルギー保存の法則から言って当たり前のことです。
 魔法でもなんでもありません。それどころか、今までで一番過激なダイエット法かもしれませんね。ハードな運動をすれば、とにかく痩せることは痩せるんです。それをノリノリでみんなでやりましょう!という気運になっているわけでして、つまり、一気に日本のエネルギー消費量が増えたということです。
 これは温暖化を引き起こしますね。ものすごい二酸化炭素の排出量です。地球に優しくしたければ、今すぐブートキャンプをやめるべきです。
 こうしたダイエット法というのは、実にアメリカ的です。大量のガソリンを給油して、それを燃焼させるために、ガレージでブンブン空ぶかししてるようなもんです。
 減量とは、すなわち、入ってくるカロリーより出て行くカロリーの方が多い、という状態のことを言います。ブートキャンプや、そのほか運動系のダイエットは、出て行くカロリーを増やそうということですね。もう一つの方法は、入ってくるカロリーを減らそうというもので、その一番過激な(?)のが、私のやっている一日一食プログラムです。
 さっき書いたように、これは趣味の問題であって、つまりオタクがスポーツマンにスポーツをやめろとは言えないのと同じで、別にどちらが正しいとか、そういう野暮なことを言おうとしているのではありません。ただ、私はビリー道場には入隊したくないというだけです。
 あの運動を私のような者がやったら、まず体を壊します。筋力が付く以前に筋肉や関節を傷めます。また、心肺への負担もかなりのものでしょう。そのうち急性心不全で死亡者が出ますよ。私はそう予言しておきます。まともな運動をウン十年もやっていない人が、あれを無理やり時間内に全部こなしたら、絶対に死にます。脂肪の量は減りますが、死亡の可能性は増えます。
 筋肉痛に打ち勝ち、仕事や家事に支障が出ようとも1週間頑張ったとしましょう。たしかに数キロ減量するでしょうし、筋力も付きますが、その後のことはわかりません。まあ、数週間で元の木阿弥という方がほとんどでしょうね。
 あのように一般人が急激に体に負担をかけるのは本当に危険です。ビデオが終わったところで心拍数を測ってみましょう。必ずレッドゾーンに入っているはずです。人生総心拍数はどんな動物でも一定という説があります。すなわちブートキャンプを実行すると早死にするということです(笑)。
 だから、私は入隊しません。私は入ってくるカロリーを減らす方をとります。省エネ式のダイエットを実践しているわけです。その方が、自分の身体にも財布にも、地球の身体にも財布にも優しいからです。
 というわけで、私もDVD作ろうかな。「グッチーズ ブッダキャンプ」とか(笑)。食べずに瞑想。これは最強でしょう。
 まあ、ビリーさんのアメリカ的ダイエットも一時のブームでしょう。韓流ブームといっしょですよ。もし、来年になってもこのプログラムを継続実施し、シェリー(DVD出演のビリーの娘)みたいになってたら、DVD代金私が返還いたします。そして、私も入隊します。
 なんて、今頑張ってる女性たちの頭には、すぐそこにある「夏」しかないのでしょうね。そう考えると、ビリー隊長、見事なタイミングで来日しているということが分かりますね。やるなビリー!やるなアメリカ!

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2007.06.24

長唄演奏会(&圏央道)

Nagauta 告知していましたように、群馬の太田市で長唄の演奏会に出演してまいりました。
 私、いろんなジャンルの音楽をやりますし、聴きますが、やっぱりモードの切り替えというのが必要なんです。たぶん脳ミソの違うところを使ってるんでしょうね。言葉の切り替えみたいなもんでしょうか。日本語モードと英語モードの切り替えが必要なように。でも、不思議なのは言葉とは逆で、どちらかというと西洋モードが標準なので、日本モードに切り替えるのには、ちょっと努力が必要です。
 昨日は美空ひばりをたっぷり聴いて寝ましたので、多少ペンタトニック(5音階)に頭が切り替わっておりました。でも、もちろんこれだけでは不足です。この前勉強したように、彼女の得意とする四七抜きは、西洋の和声音楽とペンタトニックのせめぎ合いによって生じた折衷的な音階です。今日の演奏会に登場するほとんどの曲は都節音階ですからね。そして、もちろん音階だけでなく、個々の音程や、リズム感、テンポ感、呼吸全て切り替えなくてはいけません。それなのに持ってるのは代表的西洋楽器ヴァイオリンですからね。これは難しいっす。
 ということで、実際難しかったなあ。楽譜もあってないようなものですから、結局即興で絡もうと思ったのですが、実際始まってみると、もう周りの音を聴くのに精一杯でして、三弦のパートをなぞっておしまいになってしまいました。
 それにしても共演した皆さん、すごいですねえ。皆さん歌舞伎座でご活躍の方々なんですが、あれだけの演目を全部覚えているだけでもすごい。楽譜なんて使いませんからね。邦楽の世界では当然でありますが。私のように西洋音楽においても暗譜が全くできない人間にとっては、この世界は憧れです。てか、暗譜するほど練習してないってことですね。音楽における即興というのも、言葉におけるそれと同じで、いろいろな単語やパッセージを暗記してないと出来ないんですよ。加えて私は、絶対音階なんていう便利なものも持ち備えていないんで、結局楽譜どおりにしか弾けないんですよねえ。
 昨日、今日のひばりさんの番組でも思いました。彼女、1000曲以上のレパートリーがあったといいます。歌詞を全部覚えてるだけでもすごいですよね。さらに、彼女は一度聴くと歌詞もメロディーもすぐに覚えてしまった。また、英語の発音もいわゆる「ものまね」だったそうですね。つまり、記憶再生能力がずば抜けていたということでしょう。いいなあ。
20070623stxkg0240230620071f ところで、今日は山梨から群馬に移動したんですが、行きはちょうど昨日開通したばかりの圏央道を使ってみました。河口湖ICから八王子JCTを通って新しい圏央道に入りました。たしかにかなりの時間短縮になりましたねえ。先日別件で群馬に行った時は、まだ圏央道は開通していませんでしたので、渋滞する国道を通りました。4時間近くかかったかな。あの日、帰りは例の雁坂トンネルを通りましたが、こちらも実質4時間。それが今日は、関越の東松山まで高速を使って太田市まで2時間ですからね。半分です。
 しかしですねえ、通行料金が高すぎますよ〜。あの50キロくらいで2000円くらい払わなくちゃならないんですから。今日は私、単純なミスをしてしまいまして、通勤割引の対象外になってしまいましたので、河口湖から東松山までで3650円も払わされました。一つ前の鶴ケ島で降りておけば河口湖から100キロ以内だったのに…1100円損した…orz。
 で、帰りは八王子まで一般道を走りまして、午後の通勤割引を利用して950円で河口湖に帰ってきました。所要時間は3時間ちょい。行きは1時間を2700円で買った計算かあ…。高いなあ。まあたしかに工事にお金がかかってるなって感じでしたけどね。新しく開通した部分は、ほとんどトンネルか地下か橋か二階建て構造かでしたから。土地買収も含めて大変だったろうなあ、とは思いました。でも、もう使わないでしょう。高すぎます。
 最後に、無理やり音楽と道路を結びつけた話を一つ。
 楽譜ってナビですよね。ナビどおりに走ればとりあえず目的地にはつきます。でも、主体性も即興性もありません。特に西洋の五線譜はデジタル的思考の産物ですよね。脇道にそれたり、路地をのぞいてみたり、道端に車を停めてみたりということを拒否します。ナビどおりに走行すると、見える風景の可能性は極端に限られます。両者は似てますね。
 音楽においても、タクシーの運ちゃんみたいに、臨機応変に迂回路を使い分けてみたいものです。最近はタクシーにもナビは必ず付いてますけどね。

圏央道料金表

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2007.06.23

縄文の美とエネルギー

縄文王国山梨展−南アルプス市鋳物師屋遺跡の縄文土器−
(山梨県立博物館)
Img_imojiya1up 今日は面白い日でした。遡ってみましょう。
 今は美空ひばりの番組で感動してます。あらゆるジャンルをこなしたひばりさんですが、こうして聴いていますと、やっぱり昭和の音階である四七抜きの女王ですね。娘たちが送ったFAX、しっかり貼られて映ってました(笑)。
 その前は、日本の音階から最も遠いところにいたもう一人の女王、松田聖子をたっぷり聴きました。彼女の唄う楽曲はほとんどが全音階的長音階でした。対照的な二人とも言えますね。
 夕方は抹茶をいただきました。いいものですねえ。(昨日の記事ではありませんが)私が借金して蒐集したお宝の楽茶碗でいただこうという計画だったんですけど、いざとなるとなんとなく恐くなっちゃいまして、結局普通のお茶碗でいただきました。
 さて、それでその前はと言いますと、御坂の山梨県立博物館に行ってまいりました。シンボル展の「縄文の美とエネルギー」を観るためです。
 ちょうど今日午後1時半から学芸課長の中山誠二さんのレクチャーがあるということでしたので、それに合わせて行きましたら、全然お客さんがいなくて、結局ほとんどの時間中山さんを独占できるという幸運?に恵まれました。いろいろとお話をしまして、勉強になること多々。ありがとうございました。ま、どちらかというと私の得意分野ですので、かなりマニアックな会話になっていたのではないでしょうか(笑)。
 展示されていた土器や土偶は、アルプス市の鋳物師屋(いもじや)遺跡から出土した重要文化財で、数としてはそれほどではありませんでしたけれど、内容は実に充実していましたね。縄文中期、このあたりは大変な温暖化でして、今より5度くらい気温が高かったらしい。その頃の縄文人の豊かな生活、豊かな感性を彷彿とさせる、創造力に富んだ土器たち。立体的な造形が醸す陰影は、一つの鮮やかな色彩表現になっていましたね。そこから伝わってくるものは、「美しさ」というよりも「楽しさ」という気がしました。豊かな生活からは「楽しさ」がにじみ出るんだなあ。余裕は遊びを、想像を生む。
 中山さんのお話によりますと、土器に描かれている人物像や幾何学文様には物語的意味があるらしい。縄文人たちは、想像力をもってして神すなわち自然と交流していたんだなあ、きっと。それが楽しくてしかたなかったのでしょう。まさに「エンターテインメント…結びつける力」の原点です。昨日の柳宗悦の言葉からも想像されますね。「物」が私たちと何かを結ぶ力を持っているということ。
 先ほど登場した我が家のお宝…巨人出口王仁三郎の作なんですが…にも、間違いなく縄文スピリットが息づいています。彼が縄文的伏流の噴出であることは多くの人が指摘していところですね。縁あってウチでお預かりしている彼の耀わんは、まさに縄文的色彩に満ちています。深く豊かな森と海という感じです。
 お茶自体はどちらかというと弥生系の文化ですが、茶道の世界には縄文的な遊びの精神が生きているような気がしますね。茶碗の中に宇宙があるとよく言いますけど、それはすなわち茶が人と人、あるいは人とものを結ぶという意味でしょうね。結び=産(ムスビ)。生命力がすなわち宇宙の存在そのものですから。
 昭和の二人の歌姫も、縄文的と言えるかもしれませんね。シャーマン的な存在です。彼女たちの持つエンターテインメント力、呪術性、言霊力、そして母性…。この前の松田聖子のコンサートでもそれを感じましたし、今テレビに映っている美空ひばり…東京ドームで奇跡的な「みだれ髪」を歌うひばりにもそれを感じるのでした。
 というところで、「今」に戻ってきました。私の想像力の旅もこのへんで終わりにしますね。

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2007.06.22

『蒐集物語』 柳宗悦

Yanagi 人間の収集癖といいますか、蒐集本能というのは、実に面白い。面白いけれども困ったものでもあります。Yahoo!オークションなんかに大量の老若男女が集まっている様子は、そういう面白さと困ったちゃん具合をネットというテクノロジーが後押ししている現場の状況とも言えるでしょう。
 私はネットオークションはやらないんです、ほとんど。見て楽しみますがね。今夜もある出物があって、その動向を注視していました。結果、そこそこの落札価格に落ち着いたんですが、おそらく本当にほしい人は逃しましたね。で、そうではなくて、そういう人たちの蒐集本能を利用して商売しようとする、別にそれが悪いわけではありませんが、いわゆる商売人が落札したようです。そういう雰囲気が感じられる現場の空気でした。
 そう考えると面白いですね。散財してまで「もの」をほしがる人と、金もうけのために「もの」を転がす人。両者にとって、それは「もの(物)」ではあるのですが、そこに働いている心理は、「コト」化であります。自分の守備範囲外にある「モノ」をゲットして所有してコントロールするのが、私の言う「コト」化です。
 占いやスポーツやギャンブルに人々が熱狂するのも、不随意の「モノ」と随意の「コト」がバランスよく配合されているからなんですが、コレクションやそれに伴うオークションというのも、そういう面白さを持っているわけです。ま、考えてみれば、市場経済なんて全部オークションですからねえ、つまり、私たちはそういう世界に生きているわけですね。だから生活に喜怒哀楽があって、人生に飽きないのでしょう。「商いは飽きない」とは単なるシャレではないのでした。
 さてさて、そんなコレクションという「愚行」に関する実に面白いエッセイを読みました。演習の授業で青山学院大学の過去問を解いたんですが、それが私の大好きな、民芸の父、柳宗悦の文章でした。「蒐集物語」の一部のようでした。
Syuusyuu_2 右の画像をクリックして読んでいただきたい。問題文のコピーなので、空欄や傍線や漢字の問題なんかがそのままなんですが。文章のリズムが実に素晴らしい。そして、内容も面白いですね。誰しも救われた気がすることでしょう。ああ「愚行」にこそ価値があるんだ、と勇気づけられることでしょう。なるほど、コレクションという愚行が文化の命脈を守ってきたということですか。たしかに。そう考えると、愚行ととれるこうした蒐集本能は、情報保存伝承のためのプログラムであるとも言えますよね。だからバカにしちゃいけない…って完全に自己弁護してます、ワタクシ。メチャクチャ借金して変なモノ集めてますから(汗)。
Sakucolle 最後に最近のウチのカミさんの蒐集癖の成果をご覧にいれましょう。いつのまにか、子どものおもちゃ類の戸棚が、○○グッズに占領されてました…orz。ヒマな方はクリックして見てみてください。何のコレクションか分かった方は、なかなかのマニアですね(笑)…てか、分かるか。ま、これも文化の伝承のためでありまして。でも、どうも女性のこの本能は長続きしないんだよなあ…(汗)。

Yahoo!オークション

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2007.06.21

『歌謡曲の構造』 小泉文夫 (平凡社ライブラリー)

Kouzou 歴史的、画期的名著です。本当に面白くて面白くて、二度繰り返して読みました。
 西洋音楽一辺倒の日本の音楽研究、音楽教育界に疑問を持ち、世界各国の民族音楽をベースに、日本古来の旋律や音楽的技法、さらにはそれらの影響下にある現代の(当時の)歌謡曲をも研究対象にしてしまった小泉文夫さん。今でこそ、東京芸大に「小泉文夫記念資料室」なんかができていますが、当初周囲の嘲笑や反発はものすごかったようです。それはそうでしょう。たとえばこんなこと言い出したんですから。本書の冒頭にあるインタビューから抜粋します。

(小泉)…音の数で五音、七音というと何となく五の方が数が足りないから未発達で、七の方が数が多いから発達した音楽だと、非常に大勢の日本人が漠然と考えていますけど、これは大間違いなんです。
−すると日本は音楽の先進国ということになりますね。自信が湧いてきました。
(小泉)歴史的にはそうなんです。
−では西洋は対位法やハーモニーがまだ残っている、音楽の野蛮国という理屈になるわけですか。
(小泉)それは西洋が急激に数百年で高度成長した民族だからですね。ヨーロッパのゲルマン民族は、ついせんだってまで確かに未開人だった。

 日本の音楽教育、音楽研究は、周知の通りゲルマン流に行われてきたわけですから、まあ、いきなりバッハやブラームスが野蛮で、演歌が高等だと言われたら、そりゃあ普通の人はびっくりするか呆れるか怒るかするでしょう。しかし、たとえばこの本を読むと、小泉さんのこうした発言にも一理ある…どころか、ほとんど正しいと思えるにちがいありません。
 昨日も書きましたが、私もようやく成熟してまいりまして(笑)、そうしたハーモニーに頼らない音楽的な表現、すなわち心の機微を音で表現するということに、理解と共感が及ぶようになりました。思えばずいぶん時間がかかったなあ…。
 テトラコルド(4度音程)の中を、西洋音楽ではほとんど固定した二つの音で埋めるのに対し、ほとんど無限の選択肢を持った一つの音で埋めるのが、日本をはじめとする多くの民族音楽の特徴です。その一つの音をどうコントロールするかというのが、そうした音楽の面白さなんですね。
 小泉さんは、テトラコルドを「民謡のテトラコルド」「都節のテトラコルド」「律のテトラコルド」「琉球のテトラコルド」という四種に分類し、さらにそれらを組み合わせることによって、日本古来の旋律や響き、さらには軍歌や演歌、歌謡曲を分析していきます。さらにそこにディナーミックや発声法、アクセント、ヘミオラ、ヴィブラートやメリスマ(こぶし)と言った観点も加えられて、いかに日本の大衆音楽が高度な表現力を持っているかが明らかになっていくのですが、私はその過程に、はっきり言って興奮してしまいました。それにしても、俎上に乗っている名曲たち(コテコテの演歌からピンクレディーまで)の濃いこと濃いこと。あらためて、すごい時代でしたなあ。
 小泉さんの著書の中でこの本は比較的読みやすいものでしょう。インタビューや講演録が中心だからです。私にも実に分かりやすかった。繁下和雄さんの解説もたいへん勉強になりますし、巻末の岡田真紀さん編の「年表・戦後ヒットソング小史 音階分類にみる時代の流れ」も圧巻です。歌謡曲やJ-POPに興味ある方は必携でしょう。そして、クラシックファンにもぜひ読んでいただきたい。勉強になります。
 小泉さんは1983年に56歳という若さでお亡くなりになってしまいました。西洋音楽をたっぷり研究した末に、53歳で突如演歌に目覚めたという小泉さん。ある意味、歌謡曲の全盛期での引退あったわけですが、ちょうどその後に現れたJ-POPという世界を、小泉さんはあちらでどのような感慨を持って聴いていらっしゃるのでしょうか。小泉さんの有名な予言があります。「四七抜き(日本の音楽と西洋の音楽のせめぎ合いから生まれた折衷的な音階)から二六抜き(日本の伝統的音階)へ」…これは、恐ろしいほどに的中しています。今のJ-POPの実に多くが西洋的ハーモニーの上に二六抜き音階を展開しています。小泉さんが待望した長調の二六抜きも、「島唄」や「涙そうそう」を挙げるまでもなく、今やヒットチャートの主流になっていますね。
 ただ、小泉さんが想定しなかったのはラップでしょうか。基本的に音階のないリズムだけの歌、いや、歌ではなくそれは語りなのでしょうか。それははたして音階を超越したものなのか、それとも、音階的アイデアの枯渇の結果なのか、それとも「読経」や「声明」、「地口」といった伝統文化の発展形なのか、それは私にはまだわかりません。

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2007.06.20

『中能島欣一の至芸』(箏・三弦多元独演の重ね録音による)

Shigei 告知にありますように、今度久々に邦楽の舞台に乗ります。邦楽の演奏会に邦楽器ではなく洋楽器で乗るのは、それこそ20年ぶりくらいかもしれません。洋楽の舞台に邦楽器で乗るのは、毎年やってますけど…たとえばこちら(笑)。
 さて、それで、この前この演奏会のリハがあったのですが、久々に邦楽のプロの方々の演奏に触れ、本当に心震えるものがあったんです。私が山田流の箏曲をやっていたのは大学時代なんですが、どうもあの頃はちっとも分かってなかったようなんですね。分からずやっていた。実は洋楽が好きなのに、無理やり邦楽をやっていたらしい。たぶん、その理由は…女性に囲まれていたかったからでしょう(笑)。
 で、ここのところ面白いことに邦楽の良さが分かってきたんです。良さがわかるというか、聴き方、聴きどころが分かってきたんでしょうかね。話せば長いのですが、つまりは歌謡曲や演歌を演奏するようになって、そしてちょっとそうしたものの音楽的勉強もやってみて、ああ、これは完全に邦楽の伝統に遡るな、ということがたくさん出てきたわけですね。それで、洋楽的なものからだんだん遡って、ちゃんと道を順に戻っていったら、そこに自然に邦楽の世界が開けていたと。
 近いうちに…明日かもしれませんが…紹介しようと思っている小泉文夫さんの著書なんかを読んでいると納得するんですが、こうして歳をとらなくては分からない音楽こそ、まさに成熟した音楽なのだということなんですね。いつかも書きましたが、たとえばモーツァルトは子どもにも分かるどころか、ニワトリにも牛にも酵母にも分かる(笑)。ま、自分もちゃんと歳をとっているんだなあってことですよ。
 それで、話を戻しますが、この前のリハで、三味線の、箏の、笛の、鼓の音が、そして人の声が、ぐっと心に迫ってきた。ヴァイオリン弾いてる自分が妙にカッコ悪く感じたんですね(実際何も出来ずカッコ悪かったんですけど)。普段、いかに簡単なこと、薄っぺらなことをやっているのか、痛感させられちゃったわけです。いやいや、もちろんある意味で、ですよ。違う難しさや、共通した難しさはほかにあります。
 その日、ウチに帰ってきて、何か「すごい邦楽」を聴きたくなった。そこでそれこそ20年ぶりに引っ張り出してきたのが、このレコードでした。あの頃の衝撃もすごかったけれど、きっと今聴いたら、どんなにぶっ飛ぶだろう。そんな期待がありました。そして…
 ぐわぁぁぁぁ…これはなんなんだ?邦楽なのか?いや、音楽なのか?これは一つの塊である。なんだかわからんが、とんでもない塊がドーンとこっちに飛んでくる。感動する以上に、ちょっと恐くなった。あり得ないとしか思えないんで。これはなんなんだ?
 ちょっと冷静になって解説しましょう。これは人間国宝・故中能島欣一さんによる、「新ざらし」「六段調」「乱輪舌」の録音です。昭和57年のデジタル録音(!)です。しかし、ただのデジタル録音ではありません。なんと、一人二役あるいは一人三役の多重録音なんです。具体的には「新ざらし」では歌・箏・三弦を、「六段調」では箏(本手・替手)・三弦を、「乱輪舌」では箏(本手・替手)を一人で担当しています。
 この企画だけでも、もうかなりぶっ飛びなわけですが、ちょっとそれを知った上で、ジャケットを見てくださいよ。ほら、恐いでしょ(笑)。シュールすぎる。
 ある意味、この企画は反則ですよね。特に邦楽の世界においては。独特の間や空気を大切にする邦楽において、重ね録りというのはアンチテーゼです。録音という行為自体に違和感を抱く演奏家も多くいます。しかし、そんな理屈やらなんやらを完全に超えて、これは確かに「至芸」に違いありません。完璧すぎて気持ち悪いくらいです。
 このレコードには、中能島さんと平野健次さん、柴田南雄さんによる充実した鼎談が付いているんですけど、その内容がまた興味深い。中能島さんがこの企画にいかに臨んだか、いかに苦労したかを知るだけでも、「至芸」「人間国宝」の領域を垣間見ることができます。ジャンルとか、テクノロジーとか、評論とか、流派とか、オリジナル楽器がどうとか(実際、中能島さんは迷いなくナイロン弦を使っています)、そういうことを完全に超越したところの「もの」があるんですね。そう、本当の芸術家って、「コト」化ではなく、新しい「モノ」の創造をするんですね。なんだこりゃあ、っていう「もののけ」を。自然とか世界とか自分とかいう得体のしれないモノの上にあるモノ。それを示されたらこちらはどうしようもありませんね。
 「六段」も「乱」も、それはそれはすごいんですけど、やっぱり「新ざらし」でしょうか。「さらし」ものはいろいろなヴァージョンがあるんですが、ここでは中能島さん自身が編曲(作曲)をしています。特に箏と三絃のカデンツァのすさまじさは、これはもう狂っています。どこまで続くのか…このアイデアと、テクニックの泉は絶えることがないのか…。
 前の記事にも書きましたが、中能島欣一さん、箏は当然ですが、三弦と歌も超一流ですね。鼎談の中で、ピッチが正確だということが繰り返されていますが、それはもちろん西洋音楽的なピッチとは違います。それしかあり得ない瞬間瞬間のピッチであり、ピッチの揺れやずれであるわけです。まさに至芸。
 この、世界の音楽史、録音史の宝は、長いことCD化されませんでしたが、今は「中能島欣一全集」で聴くことができます。でも、高いんだよなあ。単品でCD化されないかなあ。アナログレコードで聴くのも一興ではありますが、やっぱり余計な揺れのない「デジタル」な「もののけ」も聴いてみたいですね。しっかし、すごいわ。買っておいてよかった。若かりし自分よ!GJ!

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2007.06.19

太宰治 『服装に就いて』より

Ike さあ今年も桜桃忌がやってきました。1年生の授業では、カチカチ山の音楽的文章を味わったり、私が太宰自身から聞いた(?)走れメロスの秘密の数々を披露したりして、みんなで大いに笑いました。あくまで命日は13日ですから、今日はお誕生日です。「忌」というとなんとなく暗い感じになってしまいますが、考えてみればお釈迦さまのお誕生日である降誕会(ごうたんえ)も「三仏忌」の一つとされてますからね、明るく行きましょう。
 さて、昨年富嶽百景のところでちょっと書きましたけれど、ウチの学校の周辺というのは実に太宰とのゆかりが深いんです。生徒にとっても私にとっても、本当に幸せなことですね。太宰と同じ場所に立って、同じ空気を感じることができる、それも授業中に、ちょっと行ってみるか、ということができるわけですからね。
 そこで、今日は太宰作品の中でも、特にご近所ネタ満載であるこの作品を紹介します。ここに生活する人にしか意味がないと言えばないのですが、まあ、あんまり読まれることのない作品ですので、他地方の方々もちょっと読んでみてください。「服装に就いて」はもっと長いんですが、富士吉田に関するところだけ抜粋しますね。吉田の火祭りについて書いています。


 銘仙の絣の単衣は、家内の亡父の遺品である。着て歩くと裾がさらさらして、いい気持だ。この着物を着て、遊びに出掛けると、不思議に必ず雨が降るのである。亡父の戒めかも知れない。洪水にさえ見舞われた。一度は、南伊豆。もう一度は、富士吉田で、私は大水に遭い多少の難儀をした。南伊豆は七月上旬の事で、私の泊っていた小さい温泉宿は、濁流に呑まれ、もう少しのところで、押し流されるところであった。富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。その土地の友人から遊びに来いと言われ、私はいまは暑いからいやだ、もっと涼しくなってから参りますと返事したら、その友人から重ねて、吉田の火祭りは一年に一度しか無いのです、吉田は、もはや既に涼しい、来月になったら寒くなります、という手紙で、ひどく怒っているらしい様子だったので私は、あわてて吉田に出かけた。家を出る時、家内は、この着物を着ておいでになると、また洪水にお遭いになりますよ、といやな、けちを附けた。何だか不吉な予感を覚えた。八王子あたりまでは、よく晴れていたのだが、大月で、富士吉田行の電車に乗り換えてからは、もはや大豪雨であった。ぎっしり互いに身動きの出来ぬほどに乗り込んだ登山者あるいは遊覧の男女の客は、口々に、わあ、ひどい、これあ困ったと豪雨に対して不平を並べた。亡父の遺品の雨着物を着ている私は、この豪雨の張本人のような気がして、まことに、そら恐しい罪悪感を覚え、顔を挙げることが出来なかった。吉田に着いてからも篠つく雨は、いよいよさかんで、私は駅まで迎えに来てくれていた友人と共に、ころげこむようにして駅の近くの料亭に飛び込んだ。友人は私に対して気の毒がっていたが、私は、この豪雨の原因が、私の銘仙の着物に在るということを知っていたので、かえって友人にすまない気持で、けれどもそれは、あまりに恐ろしい罪なので、私は告白できなかった。火祭りも何も、滅茶滅茶になった様子であった。毎年、富士の山仕舞いの日に木花咲耶姫へお礼のために、家々の門口に、丈余の高さに薪を積み上げ、それに火を点じて、おのおの負けず劣らず火焔の猛烈を競うのだそうであるが、私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが、この豪雨のためにお流れになってしまったらしいのである。私たちはその料亭で、いたずらに酒を飲んだりして、雨のはれるのを待った。夜になって、風さえ出て来た。給仕の女中さんが、雨戸を細めにあけて、
「ああ、ぼんやり赤い」と呟いた。私たちは立っていって、外をのぞいて見たら、南の空が幽かに赤かった。この大暴風雨の中でも、せめて一つ、木花咲耶姫へのお礼の為に、誰かが苦心して、のろしを挙げているのであろう。私は、わびしくてならなかった。この憎い大暴風雨も、もとはと言えば、私の雨着物の為なのである。要らざる時に東京から、のこのこやって来て、この吉田の老若男女ひとしく指折り数えて待っていた楽しい夜を、滅茶滅茶にした雨男は、ここにいます、ということを、この女中さんにちょっとでも告白したならば、私は、たちまち吉田の町民に袋たたきにされるであろう。私は、やはり腹黒く、自分の罪をその友人にも女中さんにも、打ち明けることはしなかった。その夜おそく雨が小降りになったころ私たちはその料亭を出て、池のほとりの大きい旅館に一緒に泊り、翌る朝は、からりと晴れていたので、私は友人とわかれてバスに乗り御坂峠を越えて甲府へ行こうとしたが、バスは河口湖を過ぎて二十分くらい峠をのぼりはじめたと思うと、既に恐ろしい山崩れの個所に逢着し、乗客十五人が、おのおの尻端折りして、歩いて峠を越そうと覚悟をきめて三々五々、峠をのぼりはじめたが、行けども行けども甲府方面からの迎えのバスが来ていない。断念して、また引返し、むなしくもとのバスに再び乗って吉田町まで帰って来たわけであるが、すべては、私の魔の銘仙のせいである。こんど、どこか旱魃の土地の噂でも聞いた時には、私はこの着物を着てその土地に出掛け、ぶらぶら矢鱈に歩き廻って見ようと思っている。沛然と大雨になり、無力な私も、思わぬところで御奉公できるかも知れない。


 相変わらず軽妙な文章ですね。長い文と短い文の絶妙な組み合わせ、独特の読点の打ち方がこういうリズムを生むんでしょうね。ちなみに文中に出てくる「池」はウチの学校(とその母体になっているお寺)の敷地内にあります。太宰が泊まった「大きな旅館」の跡地はウチの学校の職員駐車場になっています。

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2007.06.18

『日本人の英語』 マーク・ピーターセン (岩波新書)

Nie うん、これは確かに名著だ。50近いアマゾンのレビューがほとんど全て五つ星というのもうなずけます。
 私はほとんど英語の必要ない人間ですから、ここから実践的なものを得たわけではありませんが、比較文化的、あるい比較意識的にとても興味深かった。やはり、それぞれの言語にそれぞれの世界観、世界の切り取り方が現れるのだなあ。そのセンスの微妙な差異こそが、ネイティヴと非ネイティヴの間にある微妙でない巨大な壁になっているということですね。
 この本は、全ての英語教育者、あるいは英語学習者が読まねばならないでしょう。これを読むと、ほんの一部ではありますが、英語話者がどういうふうに世界を見ているか、どんな見方を重視しているかがわかるとともに、その後の外国語学習のヒントを得ることができるでしょう。
 多くの方が賞賛しているように、冒頭の「冠詞」の解説は非常に分かりやすいし、興味深い。私もたま〜に英語を話す時、たとえば学校のALTに話しかけられてしまった時など、あれ?ここは「a」かな「the」かな、それともなんにも付けないのかな、ん?待てよ、単数かな、複数かな、ということがしょっちゅうあります。というか、名詞が出てくるたびに、ですね。それで、だいたい迷ってるうちにモゴモゴとなんか言ってしまっているんですが、そのへんの使い分けについて、この本ではまさに「目から鱗」の解説がなされます。なるほど〜、名詞に「a」や「the」をつけるという感覚ではないのか!「a」や「the」のあとに名詞が…興味を持たれた方はぜひ御一読を。
 先ほど、超なんちゃって英語教師であるカミさんと話したんですが、どうも日本の英語のセンセイはこういう勉強をあえて怠っているようだと。たぶん、これこそ「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の賜物でしょうな(笑)。
 ウチのクラスにも外国人やハーフがいるので、国語の授業の中でこういう話題で盛り上がることが多いんです。そして、こちらも学ぶことが非常に多い。何気なく使っている日本語が、非ネイティヴにとっては難しかったり、おかしかったり。今日は中国人が「黄金」を「こうきん」って読んだ。「エバラこうきんのたれ」とかね。みんな笑ったけど、これを「おうごん」と読んだり、「こがね」と読んだりするんだということを理論的に説明するのは難しいわけです。面白いですね。
 よく言われることですが、こうやって異文化交流することこそが、自分たちを知るよい機会になるんです。この本は、そういう意味で単なる英語指南書ではなく、本質的な文化論、あるいは鏡像的日本論になっているところがグーですね。こちらのマンガと似た部分があるかもしれません。
 で、日本語に関しては非ネイティヴの著者の文章ですが、やはりそういう雰囲気が出ています。それがとてもいい感じです。やたらこなれたネイティヴ風な日本語で書かれるより、こうしたちょっと堅い論文風な文章の方が、「外国人らしい」。私は最近、この「外国人らしさ」がもらたす効果というのを重視していまして、やたら巷に氾濫するなんちゃって英会話教室に疑問を持っておるのでした。
 もともと、この本は、英語論文を書かねばならない日本人のために書かれたものですから、そういう文体になるのは当然と言えば当然です。そして、そのちょっとお堅い文体で紹介される、日本人によるトンデモ英語の文例が面白過ぎです。人のことは笑えないのは充分承知の上で、こうして自虐的に笑い飛ばすことから、異文化交流が始まるのかもしれません。まずは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を笑い飛ばさないとね。虎になって孤立しちゃいますよ。
 「続日本人の英語」も読んでみよっと。
 
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2007.06.17

村山浅間神社(富士宮市)

Murayama1 今日は上の娘と富士山一周。もちろん車でですよ。学生時代は自転車で回ったりしてましたが、今はそんな根性も体力もありません。ちょうど100キロくらい走ることになりますか。途中いろいろと寄るところもあるし、一日自然と文化を満喫しつつ遊ぶにはなかなかいいコースです。
 今回は右回り、すなわち、富士北麓を東進、籠坂から御殿場方面に抜けて、愛鷹山の北側を西進、白糸の滝付近から北上して鳴沢に帰るというコースです。メインは南麓の富士こどもの国で遊ぶことだったんですけど、入場料を払ったらお金がなくなってしまった(いや、二人でたった千円なんですけど…つまり、お金忘れたってこと)。私と娘の財布の小銭をかき集めて、そばを一杯、パンを一つ注文し、それを二人で分けあう…乗り物類はもちろん、一回百円の押し花体験すらできない…orz。
 で、早々にそこを引き上げ、次に向かったのが村山浅間神社です。渋すぎる。しかし、神社マニアの私と娘にとっては、とっても有意義な時間を過ごすことができました。ちなみにお賽銭は車内で見つけた120円と財布に残っていた1円玉。本当にすっからかんになってしまいました(笑)。
Housui 私たちが神社に到着した時、なぜか拝殿や本殿に消防団の方々が放水していました。境内では古老二人が護摩木を切っていたりしたので、もしかして今日護摩を焚くのかと思い、彼らに尋ねてみますと、いや違う、山開きの7月1日だ、ということでした。
 そう、ここ村山浅間は、明治の廃仏毀釈以前は、村山修験道のメッカとしてたいへん栄えていたんです。もともと山の神を祀る浅間神社は、修験道や密教と結びつきやすく、いわゆる神仏混淆傾向の強い神社です。富士吉田の北口本宮浅間神社にも、月江寺持だった護摩壇の跡が残っています。月江寺は臨済宗の寺ですから事態はさらに複雑ですよね。今の私たちが考える以上に、昔は宗教宗派の壁がうすかったようです。というか、商売が絡むとそういうことになるんでしょうが。
Gomadan これが村山浅間の護摩壇です。7月1日には京都聖護院から山伏の皆さんがいらして、盛大に柴燈護摩供が行われます。一度観に行きたいですね。今年はダメそうですが。
 さて、役行者、末代上人、富士講、大日如来、富士浅間大菩薩、真言密教に道祖神…この神社の縁起やら何やらを書き出すとキリがないので、それは別のサイトを参照していだくとします。今日は、私の大好きな「字」を紹介して終わります。
↓click
Fujikonpon これは拝殿に掲げられている扁額です。いつの時代のものか分かりませんが、非常に珍しい字体で彫られています。神代文字マニアの娘(ってどういう趣味しとんのや!)はかなり萌えてました。ま、これは右から「富士根本宮」と読めますから、神代文字ではないんですけれど、このフォントデザインはなかなか妖しく、また実にシャレてます。
 富士講が盛んだった頃、西日本から来る登山者、修験者を多く迎えたという村山浅間。まさに富士の根本の館だったのでしょうね。
Murayamaoosugi もう一つ、「浅間」の話。これは「せんげん」とも読みますが、「あさま」とも読みます。和語としては当然後者ですね。そこで思い出されるのが、「あさまし」という形容詞、あるいは「あさむ」という動詞です。古語辞典をひくと、「驚きあきれる」と書いてあるんですが、もう少し分かり易く説明しますと、「人知を超えた事態に人間の無力さを感じる」というニュアンスです(あくまで私の説ですけどね)。まさに火山の噴火は「あさましきもの」でした。だから火山は皆「あさま山」だったんです。形容詞や動詞が先か、あるいは火山に対する呼称が先か、どちらか分かりませんが、両者は密接に結びついていると思います。
 自らの思い通りになる「コト」化を押し進めた私たち人類ですが、そうした「あさましき」「モノ」を祭る気持ちも忘れてはなりませんね。そんなことも思い出させてくれる、霊気溢れる村山浅間でありました。

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2007.06.16

オムロン デジタル血圧計(HEM-6021)

431297 今年春の健康診断で、珍しく血圧がちょっと高かったんです。その日はカゼ気味で微熱があったせいだと思うんですけど、なんとなく気になったので血圧計をゲットしました。買ったのではなく、あるクレジットカードのポイントがたまっていたので交換したのでした。
 さっそく測ってみますと、75〜80−115〜120といったところで安定していまして、やっぱり検診の時はちょっと異常だったんだと、安心いたしました。
 ちなみに低血圧でならすウチのカミさんは…今測ってみましたら、55-86!!おいおい、やばいだろって。こりゃあ一日中眠いはずだ。
 ちなみに脈拍も測定できるんですが、私は50前後、カミさんはなんと85前後、徐脈vs頻脈ですな。というか、これが二人の性格を象徴してます(笑)。
 私、瞑想しますと、もっと脈拍数を下げることができます。さっきは45まで下がりました。カミさんの半分だ。ほとんど死んでますな(笑)。拍動は交感神経系ですからコントロールできないと考えられがちですが、坐禅や瞑想によって副交感神経を活性化させますと、実はコントロールできるんですよね。
 現代人は生活習慣やストレスのために、交感神経系すなわちエネルギーを消費し疲労する方に向かいがちです。ですから、意識的に副交感神経系すなわち省エネ・回復方向に向けてやる必要があるんですね。ストレスや病気のほとんどは交感神経の働きと関係しているとも言われており、副交感神経的生活、たとえば坐禅や瞑想というのは、そういう意味でも非常に重要だと思います。
 本川達雄さんが言うことを信じると、動物はどんな種であっても20億回心臓が拍動すると死ぬらしいので、長生きしたければ脈拍数を減らすのが一番効果的ということになります。スポーツ選手や、健康のためにと言って毎日運動している人が案外短命だったりするのは、つまりはそういうことなのかもしれません。ま、エキサイティングに生きる、つまり太く短くの方が、ダラーっと長生きするよりいいという価値観もありますけどね。
 ただ、どうでしょうね。太く短くと細く長く、どっちも総消費エネルギー量は変らないってことでしょうけど、環境への負荷のことを考えると、やっぱり省エネで長生きする方がいいってことになりませんかね。超世代的、そして利他的に考えますとね。燃費の悪い車を何度も乗り換えるより、燃費のいい車に長く乗った方がいい。
 というわけで、というか、だいぶ話がそれたようですが、自律神経をコントロールできているかどうかを知るためにも、こういう手軽な血圧計はおススメです。
 ついでに言っておこうかな。カミさんとも話したんですが、血圧計のこの「しめつけ感」というのは、なぜかクセになりますな。もっともっとしめて〜、ああゆるんじゃった…みたいな(笑)。

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2007.06.15

中島敦『山月記』…「臆病な自尊心」って?

Nakajima 読売新聞「日本人の自尊心の高さ、米国人や中国人との差なし」という記事を読みました。「謙遜を美徳とし、自分の長所を積極的に表明しないことが多い日本人は、従来の心理テストでは自尊心が低いと判断されがちだった」けれども、新しい方式のテストでは米中に劣る結果ではなかったということらしい。
 これってつまり「臆病な自尊心」ってやつですか。
 今、ちょうど教育実習のシーズンでして、今年も卒業生が数名、母校の教壇に上っております。今日はそのうちの一人の研究授業がありまして、彼女、中島敦の「山月記」と格闘しておりました。難しい教材を選んだものです。
 高校国語の定番教材である「山月記」。私は正直こいつが苦手でして、今までほとんど採り上げてきませんでした。なんだか教えにくいんですよね。あくまで私の感覚でありますが、どうも作品としての完成度が低いというか、小説として瑕疵が多いというか、ん?という部分が多すぎて、自信持って教えられないんですよ。
 私が授業をするとすれば、元ネタである「人虎伝」と比較して、中島がどのように翻案に失敗したかを検討するでしょうね。すんません、アマノジャクで。ま、もともと、文学の道に進みたい!なんていうヤツが出てこないように、小説の授業は意識的にあんまりやらないんですけどね。読書は趣味にしておけと。文学部なんて出ても、痛い国語の先生くらいにしかなれないぞと(笑)。
 それはいいとして、今日の研究授業の中でも、李徴が虎になった理由という、ある意味クライマックス部分をとりあげていまして、当然「尊大な羞恥心」「臆病な自尊心」という、例のヤツが出てきていたわけです。実はこの肝心の部分が私にはよく解らない…というか、どう考えてもこの肝心な部分の文章がいかんと思うのですね。細かいことは書きませんけれど、「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」の関係が読み取れないし、その以前に「尊大」と「羞恥心」、「臆病」と「自尊心」の関係がはっきりしない。イメージとしてはかっこいい言葉なんですけどね。よく読めば読むほど文脈的な矛盾が現れてくる。
 中島なりに頑張っているのはよく伝わってくるし、そこに勝負をかけているのはよく分かるんだけれども、どうも詰めが甘いような気がするんですね。「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」の両方を思いついて、両方を書きたかったのは理解できるとしても、もう少し両者を有機的に結びつけておくべきだったと思うのは私だけでしょうか(私だけでしょうね)。今日の授業でも、虎になった理由として「尊大な羞恥心=臆病な自尊心」というようなまとめ方をしていましたが、実際本文には「この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ」とあるだけで、「臆病な自尊心」は宙に浮いてしまっている形になっています。
 私の素直な(稚拙なとも言えましょうが)読みからしますと、「尊大な羞恥心」とは文脈的には「一見尊大に見える…だけど実は羞恥心」ですよね。そう書いてあります。そこに唐突に「臆病な自尊心」が登場するんで困るんですよね。文脈としてはこちらは「一見臆病に見える…だけど実は自尊心」になってしまいます。これはなんかしっくり来ない。
 で、中島は「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」と書いていますから、両者は別個のものだととらえるのが自然だと思います。そして、「臆病な自尊心」を「飼いふとらせ」てしまったと来て、次に「尊大な羞恥心」が虎だったと続きます。実に筋の通っていない展開ですよねえ。正直訳が分かりません…って、私が何に疑問を持っているか分からないっすね。すみません。
 ま、私の疑問点の詳細を書くと中島ファンに怒られそうなので…って、やっぱりオレにも「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」が巣くってるな(笑)。とにかく、私のような俗物には、そんな高尚な自虐的テーゼよりも、人虎伝の不倫ネタの方がリアルに感じられるということですよ。
 と、こんなこと言ってないで、もうちょっと真剣に読んでみようかな。いずれはちゃんと教えられるようにならなきゃね。定番教材も教えられない国語教師じゃあ困りますから。

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2007.06.14

雁坂峠(雁坂トンネル有料道路)

250pxkarisaka_t 日本で一番長いトンネル…高速道とか鉄道とかを抜きにして、一般道で一番長いのは何というトンネルかご存知ですか?
 今日は、ちょっと急用ができまして、仕事を休んで群馬県のある市に行ってきたのですが、帰りに埼玉の秩父から山梨の三富に抜ける雁坂トンネルを通ってきました。この国道140号線の雁坂トンネルが日本で一番長い一般道のトンネルです。延長6,625メートル。2位の寒風山トンネル5,432m、3位の安房トンネル4,370mを大きく引き離して堂々の1位です。
 なのに、どうしてこうも知られていないのでしょうね。そして通る人も少ない。今日も午後の7時頃通過したのですが、前にも後にも車はなく、すれ違ったのもたった2台。正直大変心細くなりました。
 トンネルに入る前から、そうだったんですよ。秩父の山中に入ってからというもの、激しい雨と深い霧の中、一人であの道を運転していますと、このままあの世にでも行ってしまうのではないかという恐怖に襲われます。まあ、甲斐の国の枕詞は「生黄泉(なまよみ)の」でありますが。
Loop 途中、大規模なダム工事をしていました。滝沢ダムです。ナビの地図では集落であるはずのところが、すっかり湖になっていまして、なんか切なくなりました。いったいいくつの邑が水没したのだろう。そして、暗闇に浮かぶ近代的なループ橋。その背後にそびえるダム本体の巨大な壁。つくづく、人間というのはすごいと思いました。こんな深山にこんな道を作り、こんなダムを造り、いやそれ以前に、こんな深山も完璧に植林されている!そして、雁坂トンネルです。こんな巨大な穴をどうやって造るのでしょう。
Dam このトンネルが開通したのは1998年。私はその年結婚したばかりだったのですが、カミさんとドライブがてら秩父に行ったのが、最初の雁坂越えでした。今日はそれ以来2度目ということになります。
 この甲斐から武蔵に抜ける(はずの)国道140号線というのは、開かずの国道として有名でした。雁坂峠越えというのは、神話の世界にも出てくるほどの古道なのですが、この雁坂トンネルが完成するまで、国道とは名ばかりで、自動車はおろか、自転車さえも通行困難な登山道でありました。途中はしごがあったり、日本最短、それも○○○という、驚愕、爆笑のトンネル(?)があったりと、それはそれは大変な時代が長く続きました。そのへんの珍事情については、こちらのサイトに詳しく出ていますので、御一読を。面白すぎます。
 いやいや、ふざけている場合ではありません。けっこう大昔から難所だったんですよね。先ほど神話時代と書きましたが、具体的には日本書紀の景行紀にそれらしき記述があるんです。
 於是、日本武尊曰、「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化」。則自甲斐北、轉歴武藏・上野、西逮于碓日坂。
 という部分ですね。東北を平定した日本武尊(ヤマトタケル)が「まだ長野や新潟の連中が言うことを聞かない!」と言って、山梨県北部から埼玉、群馬を通って碓氷峠へ…というシーンですね。たしかにこれは今日の私と逆のルートですから、雁坂峠を通った可能性が高い。それにしても、あの山中にどんな道があったんでしょうね。
 大概こうした難所というのは、落人の逃げ道になったり、戦略的秘道になったりします。なんでも、国語学者の金田一京助さんやその息子金田一春彦さん、そしてそのまた息子の金田一秀穂さんで有名な(今や金田一耕助や金田一一の方が有名ですかね)金田一家は、甲斐の国からこの峠を通って陸奥は岩手に落ち延びたのだとか。道の駅みとみに春彦さんの詩碑が建っていました。
 とまあ、秩父側の様々な縄文スポット、及び三峰神社などの日本武系、すなわち弥生系スポットの散策も楽しいですし、山梨側の西沢渓谷なども観光スポットとしては魅力的です。なのにあんまり人が訪れているようには見えないというのは、ちょっと哀しいよう気もします。いや、歴史的なことを考えると、あんなに近代的な建造物(人工的な「コト」)がありながら、何か人を寄せつけない何か(自然の「モノ」)があるというのも、またむべなるかな、というところなのかもしれません。
 そんなことを考えながら私は生黄泉の国に帰ってきたのでした。

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2007.06.13

『富士に就いて』 太宰治

Dazai0613 「太宰治」と打とうとして「多罪治」と打ってしまった。親指シフト入力だとこういうことが起きるんだよな。「多才治」とでも間違えればよかったかな。きっと太宰もあの世で苦笑しているでしょう。
 今から59年前の今日、太宰は山崎富栄と玉川上水に入水しました。桜桃忌は遺体の上がった19日(もちろん太宰の誕生日でもあります)に行われますが、本当は今日が命日ということでしょう。
 この心中については、本当にいろいろなことが言われています。富栄さんが悪者にされたり、芝居の失敗だと言われたり、究極の愛の形だとされたり…。こういうドラマもありましたね。第三者に殺されたのだと。これはこれでとっても面白かった。そう言えば、太宰と富栄を描いたロマンポルノの名作「武蔵野心中」観てないなあ。
Tomie 私もいろいろ考えましたが、結局単なる心中、それもあまり恰好よくない心中だったのではないかと思うようになりました。あまり劇的に仕立て上げない方がいいのではないかと。ちょっと癪になってきたんですよね。恰好よすぎますよ。
 この季節は毎年授業で太宰をとりあげます。今年は少し新しい視点で「富嶽百景」を読んでみようかな。ということで、これから入ろうと決めました。「富士に就いて」です。あまり知られていないものだと思います。昭和13年10月の国民新聞に掲載された小文です。お読みになればお分かりになりますが、これは「富嶽百景」の原形です。彼の創作の作法が知れて興味深い。全文引用して今日はおしまいにします。たまには手抜きもいいでしょう。太宰にまかせませす。


 甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という、ささやかな茶店がある。私は、九月の十三日から、この茶店の二階を借りて少しずつ、まずしい仕事をすすめている。この茶店の人たちは、親切である。私は、当分、ここにいて、仕事にはげむつもりである。
 天下茶屋、正しくは、天下一茶屋というのだそうである。すぐちかくのトンネルの入口にも「天下第一」という大文字が彫り込まれていて、安達謙蔵、と署名されてある。この辺のながめは、天下第一である、という意味なのであろう。ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降りて、まず崖の上から立小便して、それから、ああいいながめだ、と讃嘆の声を放つのである。
 遊覧客たちの、そんな嘆声に接して、私は二階で仕事がくるしく、ごろり寝ころんだまま、その天下第一のながめを、横目で見るのだ。富士が、手に取るように近く見えて、河口湖が、その足下に冷く白くひろがっている。なんということもない。私は、かぶりを振って溜息を吐く。これも私の、無風流のせいであろうか。
 私は、この風景を、拒否している。近景の秋の山々が両袖からせまって、その奥に湖水、そうして、蒼空に富士の秀峰、この風景の切りかたには、何か仕様のない恥かしさがありはしないか。これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。芝居の書きわりである。あまりにも註文とおりである。富士があって、その下に白く湖、なにが天下第一だ、と言いたくなる。巧すぎた落ちがある。完成され切ったいやらしさ。そう感ずるのも、これも、私の若さのせいであろうか。
 所謂「天下第一」の風景にはつねに驚きが伴わなければならぬ。私は、その意味で、華厳の滝を推す。「華厳」とは、よくつけた、と思った。いたずらに、烈しさ、強さを求めているのでは、無い。私は、東北の生れであるが、咫尺を弁ぜぬ吹雪の荒野を、まさか絶景とは言わぬ。人間に無関心な自然の精神、自然の宗教、そのようなものが、美しい風景にもやはり絶対に必要である、と思っているだけである。
 富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。なお、この一文、茶屋の人たちには、読ませたくないものだ。私が、ずいぶん親切に、世話を受けているのだから。


 う〜ん、なんなんだ、この名文。悔しいけれど涙が出た。調子もいいが、内容もいい。完敗ですね(当たり前か)。ただ、ちょっと意地悪に一言言わせてください。命日なんで(笑)。
 この小文に比して、よりフィクションを含んだ「富嶽百景」の、なんと「巧すぎ」て「完成され切っ」ていることか。
 やっぱりあの心中も「巧すぎた落ち」、「完成され切ったいやらしさ」だったのかなあ。そんな気もまたしてくるのでした。
 こうして凡才が天才を理解しようとすること、それが即ち小説を読む、芸術に触れる喜びなのでしょうね。

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2007.06.12

『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2007 Baby's breath』in さいたまスーパーアリーナ(その3)

Seiko20070610a_1 この不二草紙も丸三年やってきましたが、同じ話題で3日にわたって書くというのは初めてです。それほどの体験だったということです。わかってもらえますでしょうか。
 さて、昨日最後に書いた「重大なこと」についてはのちほどといたしまして、まずはバックバンドについて述べておきましょう。
 今回は小倉良さんを中心としたバンドでしたね。小倉さんは90年代の聖子さんを支えた最重要人物です。聖子さん、2000年代に入って原田真二さんとの蜜月(?)期間がありましたが、またここのところ頼れるオヤジ(すみません)小倉さんとの仕事を楽しんでいるようです。小倉さん以外のメンバーも皆お上手で、初日、DVD収録の緊張を感じさせない、ほぼ完璧な演奏だったのではないでしょうか。やっぱり歌謡曲にはツインギターっすね!
 聖子さんのインタビューで(!)、バンドの皆さん喋らされてましたが(笑)、なんかみんな素朴でいい味出してましたね。聖子先生についてく純朴な生徒たちって感じでした。
 ところで、これは小倉さんのポリシーだと思うんですが、古い曲はなるべくオリジナル通りに再現しようとしていましたね。お客さんが聖子さんに何を求めているか、よくお解りなのだと感じました。さすがです。そして、その思惑通り、私たちは「あの曲」が今ここで甦る感動を味わったわけです。私たちのバンド活動の参考にもなりました。
 で、「重大なこと」の話に行きましょうか。そう、お客さんが何を求めているかという話ともつながることです。
 昨日書いたように、聖子さんの自作曲は相対的には単純でコテコテであります。しかし、生のそれに接して、そして御本人と、また会場の1万5千人の人たちと一緒に歌った時、そんな音楽こそが今求められている音楽なのだと気づいたのです。
 私は当日までニューアルバムを3回だけ聴きました。ある意味単純でコテコテなため、3回で充分とも思いました。しかし、たった3回聴いただけで、歌詞は無理としてもメロディーは完璧に歌えるようになっていたんです。そんなことは意識しないで臨んだのですが、実際唱和が始まると、たとえラララであっても、皆と、そして聖子さんと一体になれたんです。ああ、こういう心に残るメロディーだからこそ、今こうして参加できているんだ。
 そのことに関して、コンサートの帰りにカミさんと話しました。そこでカミさんの言った言葉はなるほどと思わせるものでした。
「松田聖子の歌はゴスペルだ」
 カミさんはゴスペルのクワイアに参加しています。そのコテコテぶりに私なんかちょっと引いちゃうんですけどね、たしかにあの一体感と高揚感というのは、聖子さんのコンサートに通じる部分がある。分かりやすい、覚えやすい、聴く人の心にしみやすいメロディーやコード進行。
 そして、歌詞ですね。私が松田聖子を神と呼ぶ理由の一つに、彼女の飾らない言葉が持つ大きな力というのもあるんです。この前のNHKスペシャルでも示されていたように、彼女の言葉が、音楽が、生き方が、多くの人を癒し、勇気づけている。たとえバッシングやスキャンダルという十字架を背負っても、変らぬ他者への愛、未来への希望。もちろんイエスと重ねて考えているわけではありませんが、そういう「聖」なる何かを発しているように感じたのです。
 さらにすごいなあと思ったのは、本来私たちが彼女に示さねばならないはずの「感謝」「おかげ」という言葉を、何度も何度も彼女の方がこちらに投げかけてくれたことです。そういう意味では実に「仏」的だと思いました。いつかも書きましたね、さすが「聖」と「法」の両方をその名に持つ人です。
 高校時代、マジで松田聖子と結婚すると公言していた私も42歳になっていました。この25年で、私の音楽的興味、芸能的興味、女性的興味もいろいろと変遷してまいりました。もちろん私の妻は彼女ではありませんし(笑)。しかし、そんな変ってしまった私を、変らぬ松田聖子はこういう形で迎え入れてくれた。これはたしかに宗教体験に近いものだったのかもしれません。
 しかし、また彼女魅力はそんな「聖」「法」「神」「仏」な部分だけではありません。その証拠に、この一連の記事の中でも、私は「聖子」「聖子ちゃん」「聖子さん」「聖子さま」「聖子先生」と、いろいろな呼び方をしているじゃないですか。実際、MCや司会(!)っぷりには、とっても身近な聖子ちゃんを感じることができましたし、飾りのない、衒いのない、あけすけない、俗っぽい聖子もそこに確かにいました。そういう意味では、「神」や「仏」を超えたまさに「アイドル(偶像)」としか言いようない存在なのかもしれませんね。本当に素晴らしい時間と空間をありがとうございました。
 何度も繰り返されたアンコール。永遠に続くかと思われた祭、宴。1万5千人と聖子さんとのカラオケ。私は一生忘れないでしょう。
 さてさて、またまた長くなってしまいましたが、最後に一つ。私たちの後の列のオジサン、どうやって持ち込んだのか、馬鹿デカイ望遠レンズで聖子ちゃんを狙っていました。終演30分前くらいに彼はいなくなっていましたが、会場から駅に向かう道筋、彼は「本日の公演の生写真」を売っていました。上の写真はたぶん彼の撮ったものだと思います(笑)。

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2007.06.11

『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2007 Baby's breath』in さいたまスーパーアリーナ(その2)

Pk2007061102123225_size0 さてさて、紺ブレにチェックのスカートという、今や世界で流行している女子高生ファッションで降臨された聖子さまであります。このコスチュームについて、各種ニュースが大々的に採り上げたようでありますが、今書いたように、単に女子高生で行こう!ということではないでしょうね。グローバルな潮流を読んでのことでしょう。とはいえ、やはり45歳にしてあれを堂々と着用できるのは「神」たる証拠です。
 曲が進むにつれ、ブレザーを脱ぎ、そして「迷い込んだdestiny」ではネクタイをはずし胸をはだけてセクスィーなダンスを披露。仕事柄、こら!制服きちんと着なさい!と言ってしまいそうなのをこらえつつ聴きますと、この曲は彼女にしては珍しい短調の曲でして、まあコード進行的には私たちがこの前演奏した中森明菜さんの「ミ・アモーレ」って感じなんですけど、ある意味彼女の新境地なのかもしれませんね。新境地で大人なムード…って45歳ですよねえ。ちょっと遅くないっすか(笑)。まあ神には私たちの常識は通用しませんから。

 (このあとは、今後コンサートに行く方々のために、メディアで公表されているもの以外は、曲目、衣装、演出などについてあまり詳しく書きませんので、あしからず)

 中間のしっとりバラードコーナーも感動的でした。ちょっとしたアクシデントで、暗黒と沈黙が。そこに再び起こる聖子コール。これも演出なのでは?と思わせる緊張感です。そして、再び岩戸が開き、光が差しますと、そこには31人のストリングス隊を従えた聖子さまが。
 このストリングス隊はなかなか良かった。こういう形のコンサートというのが初めてだというのが意外でしたが、生の弦の音はやはりいいですね。歌謡曲バンドでヴァイオリンを担当しているものとして、大変勉強になりましたし、その存在の大切さを痛感いたしました。泣けたなあ。
 ストリングス隊、一見若い女性だけで構成されているかと思いましたが、よく見ますとチェロにお二人男性が、ヴィオラにも一人か二人男性がいたようです。もちろん後の方で目立たないように弾いてましたが。やっぱり女性優先ですよね。ところで、あのストリングス、どうやって音を拾ってたんだろう。ピックアップもマイクも見当たらなかったんですが。いちおう専門家として不思議でした。誰か教えてください。
 ところで、先ほど書いた微妙な暗黒と沈黙ですが、どうも、このストリングス隊の準備に手間取り、予定外の間があいてしまったようなんですけど、そんなアクシデントもMC(みことのり)で上手にギャグに料理してしまう余裕はさすがでしたよ。本当にDVDではカットされるのかな。あれはあれで良かったような気もするけどな。ギャグ化のMCも入れてほしいし。
 さあ後半はもう当然あれですね。往年のヒットメドレーです。どの曲をやるか、ということを想像するだけでもワクワクですから、イントロが響いた時、いやドラムのカウントが鳴った時の、あの高揚感というのは格別なものです。あのそうそうたる名曲群のどの曲を選んでもスーパーベストになるわけですよね。今回の選曲は、ワタクシ的にはけっこうマニアックだったと思ったんですけど、どうなんでしょう。今回はいろいろな作家さんのいろいろなタイプの個性を聴けたような気がします。
 小田裕一郎、財津和夫、大瀧詠一、土橋安騎夫、呉田軽穂(松任谷由実)、細野晴臣、大江千里、尾崎亜美、タケカワユキヒデ、奥居香…ここのところちょっと勉強した「日本歌謡曲史」的に申しますと、ニューミュージック系の人たち、すなわち四畳半フォークから距離を置いた、あるいはフォークブームを飛び越えた人たちの、アイドル系歌謡曲進出だったわけですよね。生活感を拒否した彼らのセンスが、アイドルという非現実的な存在にマッチしたということでしょう。面白いですね。それにしても、そうした才能が競い合って作った楽曲のクオリティーの高いこと高いこと。歌謡曲史の集大成とも言えましょう。
 さて、ここでちょっと別の観点から彼女の神っぷりについて書いておきましょう。今述べたように、彼女のアイドル時代(今もアイドルですけどね)の楽曲は、世界的にも高く評価される非常に質の高いものです。詞も含めましてね。過去にああいう神曲を与えられていたら、なかなか自分で作曲しようなんて思わないものです。しかし、彼女は90年代に入って自ら作詞作曲を始めます。もうこれだけでもあり得ません。普通の神経をしていたら絶対ムリです。しかし、彼女は自らの創作欲求を抑えられなかった。
 彼女の楽曲は音楽的には単調で深みのないものです。今回のアルバムも昔のものと比べると、ある意味稚拙であり、人によっては嫌悪感すら示すかもしれません。私も正直あまり好きになれなかったのですが、今回コンサートで生で聴き、そして歌ってみて、ある重大なことに気づきました。
(また、長くなってしまったので、その重大なことについては「その3」で。アンコールのことや、文化論的考察をまじえて書きましょう)

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2007.06.10

『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2007 Baby's breath』in さいたまスーパーアリーナ(その1)

51hq2po6yel_aa240_ 神降臨…。今日はこの言葉しか見つかりません。
 25年来の夢、松田聖子さんのコンサート初体験。それも、アリーナ席中央、前から15番目というベストポジション。私自身神降臨の現場初体験ということに加え、今日はツアー初日、そしてDVD収録も行われるという独特の緊張感。しかし、その緊張感すら恍惚に昇華されるという奇跡。繰り広げられる究極の芸。彼女自身も「27年間の芸能生活で初めて」という3回7曲のアンコール。これほど説明を拒否する感激というのも、そうそうあるものではありません。
 それでも、あえて言葉にしましょう。どうもそれが私の仕事のようなので。どうせ言葉にするなら、たっぷりしちゃいます。
 まずこの貴重なチケットを取ってくださった方に感謝いたします。ファンクラブに入っていらっしゃるその方と、その方の妹さんとは、このブログを通じて知り合わせていただきました。本当にありがとうございました。また、わざわざ私たちに会うために来てくださったあるご家族の方々にも感謝です。そのご家族ともこのブログを通じてのご縁でありまして、言葉にして発信することが、いろいろな形で実を結ぶこと、それ自体にも感謝感激です。
 さて、会場のさいたまスーパーアリーナに到着いたしますと、そこはもう独特の雰囲気になっていました。私、いろいろなコンサートやライヴにでかけますが、それぞれに空気感というものがあって、そこに集う人々もやはりそれなりの色というのがあるんですね。聖子ちゃんのコンサートはどんなだろうと興味があったんですが、ある意味非常に普通なような気がしました。というのは、女性が多いのはもちろんですが、男性も何割かいますし、それぞれの世代も小さな子どもからお年寄りまで、まさに老若男女ですので、なんといいますか、結果として案外普通な集団として目に映りました。考えてみると、一人のコンサートのお客さんとしては異常な構成なんですけどね。
 さて、スーパーアリーナの中に入りますと、もうすでにすごい人の数。いったい何万人いるんだろう。そして自分の席を探すと、うわぁすんごい前の方ではないですか!あ、あそこに聖子さまがお立ちになるのか、と思うと鳥肌が立ちます。その後、冷静に機材などをチェックに会場を回って自分の席に帰ってきたんですが、そこで私は初めての体験をすることになります。
 私、開演前から涙が出ちゃったんです。何かがぐっとこみ上げてきまして。そう、何万人という人の群れのどこからともなく、「聖子コール」が上がり始めたんですよ。これはまあ聖子さんのコンサートでは普通のことのようなんですが、私はそこに「祭」を感じたんです。神の降臨を待望する民衆の姿がそこにありました。そうした「聖子コール」を煽動するのは、はっぴを着てはちまきを巻いた男衆なんですね。天之岩戸をこじあけんとする田力男と、それを補佐する天鈿女。ああ、日本の祭はこういうところに残ってるんだ!と隣の神様…ではなくてカミさんも感動しています。
 そして、突然天之岩戸は開きました!天照大神の降臨です!
↓なんと降臨された神さまのお姿はこれ!
070611gt20070611051_mde00245g070610t
(すみません、長くなりそうなので、続きは明日以降ということで…その2では肝心の音楽的なお話を)

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2007.06.09

『増補 にほんのうた 戦後歌謡曲史』 北中正和 (平凡社ライブラリー)

58276486 明日、私にとってとんでもなく重要なイベントがあるんです。それについては明日の記事で報告できると思うんですが、それに備えてという意味も含めまして、この本を読んでみました。先日紹介した「読むJ-POP」とともに、日本の歌謡曲の歴史を知るための基本文献ですね。
 私には「読む〜」の方が面白かったなあ。いや、資料としてはこちら「にほんのうた」の方が優れているでしょう。ある意味、淡々と歴史が語られていく。人名や作品名が上手に整理されていく。たしかに大きな流れと、それぞれのジャンルの音楽的特徴や社会的影響もよく分かります。文章も簡潔平明ですし。
 「読む〜」の方は、筆者の個人的な経験や感慨なんかも挿入されてましたから、そういう意味で面白かったのでしょう。誰しもそれぞれの楽曲にそれぞれの思い出が乗っかるものですからね。それを書いていたのでドラマチックだったわけです。誰かレビューで書いてましたが、おおげさでなく「大河ドラマ」を観たような読後感があった。
 その点、この「にほんのうた」は非常に客観的、学術的な姿勢で書かれています。文体が「ですます体」でなかったら、単なる論文だったとも言えるでしょう。だから勉強にはなりました。とっても。
 この本でも、出だしはこうです。
「戦後歌謡曲の歴史をジャズからはじめるのは奇妙に思われるでしょうか。しかしこれはそれほど唐突な意見というわけではありません」
 やはりジャズですね。それは「読む〜」と一緒です。しかし、たとえば「読む〜」の方で私が印象的だった「ビートルズ」については、こちらではほとんど語られていません。音楽的な衝撃や影響については一言も触れられていません。なんか拍子抜けでした。でも、もしかするとこういう冷静なとらえ方もありかもしれないな、とも思いました。なかば伝説化、神話化しているビートルズですが、当時の日本人の中には、彼らを疎んだ人も、あるいは彼らに全く無関心だった人もいたわけで、いや事実そういう人たちの方が大多数であったわけで、昨日の記事ではありませんが、実はビートルズの衝撃的影響というのは、マニアックな専門家とミーハーな女の子に限られたものだったのかもしれません。
 この本で、ビートルズのそれよりも強調されているのは、諸外国の音楽の影響です。ラテン諸国、ロシア、フランス、朝鮮半島、アフリカ、アメリカ…たしかに、その通りですね。「読む〜」の記事でも書きましたが、日本の歌謡曲というのは本当に国際的であり、なんでもありのメルティング・ポットならぬごった煮状態です。それが独特の音楽性に醸成していき、そして世界の中の「J-POP」になっていったということなんでしょうか。今や、animeやmangaと同様に「J-POP」という単語も世界で通用するようになりました。それこそ外国のマネで始まったこうした文化的流れが、60年かけて大河となったと考えますと、なんとも感動的ですね。
 さて、この本で印象に残ったのは、こうした外国の影響の中にも、都々逸、民謡、浪曲など、旧来の「ヨナぬき」音楽が重要な要素になっていたうという記述です。そういう点でも北中さんは冷静に歴史を観察していると言えましょう。当たり前のことですが、けっこう見落としがちな部分です。
 あと、もう少し深く知りたかったなあというのは、田端義男のギターがジャンゴ・ラインハルトに似ているという、私にとっては衝撃的な記述や、日本の楽曲に特徴的な性転倒(男性が女性の、女性が男性の人格になって歌う)に関する記述の部分でしょうかね。非常に興味を持ちました。私も以前から性転倒については文化史的にいろいろと考えていたんで。ぴんからトリオの「女のみち」って300万枚も売れたんですね。冷静に考えるとものすごく変な事態ですよ。ぴんからトリオが「女のみち」ですよ。それがそんなに売れちゃうんですよ(笑)。
 さてさて、私の明日のイベントに関する記述はどうだったでしょう。それがですねえ、ほとんどないんですよ。もちろん名前は出てきてますし、ジャケット写真も載ってますけど、あの「神」については、もっと書いてほしかったあ!
 なんて、そんなこと言い出したらキリがないほど、いろんな「神」が出てくるんですよ。まさに八百万の神だなあ。すさまじく豊饒な世界です。たった60年の音楽ジャンルの歴史を語るのに、これだけの「濃い」人物、いや神が出てくるって、すごいですよ。他の国もこんなんなのかなあ。どうもそう思えないんですが。
 さあ、というわけで、勉強もしたことですし、明日に備えて寝ます。おやすみなさい。

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2007.06.08

『Beatles Baroque , Vol.3』 Les Boreades(de Montreal)

ビートルズ・バロック3
Acd22351 またキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
 うるうる、不覚にも泣いてしまった。感動しちゃいました。
 昨年、いろいろな意味で私を魅了してしまった Les Boreades の「Beatles Baroque1&2」。古楽器による完コピビートルズです。昨年vol3がレコーディングされたとの情報を入手しておりましたが、最近晴れてNMLにエントリーしましてウチでも聴けるようになりました。
 一部サンプル音源で聴いてたんですけどね、もう全部聴きたくて聴きたくて仕方なかったんです。だって曲目がこれなんですもん。

Here Comes the Sun
Across the Universe
This Boy
Here, There and Everywhere
Oh Darling
In My Life
Sun King
And I Love Her
All You Need Is Love
Mother
The Long and Winding Road
Why Don’t We Do It in the Road
If I Fell
Happiness Is a Warm Gun
Hey Jude
I Want You (She’s So Heavy)
Good Night
Her Majesty

 あはれ、いとゆかし…って感じでしょ。ま、ビートルズですから、どんな選曲でも名盤になりますが。
 このシリーズに涙する人というのもそんなにいないのかもしれないなあ。まずはビートルズをよく知っている人。そして、古楽器の演奏をする人。あとは作曲の勉強をした人かなあ。
 私は特に古楽器奏者の方々に聴いていただきたいですね。古楽器の新しい可能性…というより、つい忘れがちな本来の可能性を思い出すことができます。特にガンバかなあ。実にブルージーでソウルフルです。チェンバロのリズム楽器ぶりも面白いですよ。今回はコルネットも登場してます。
 で、ワタクシ的な楽しみ方というか、感動のツボは、こうして自分がなじんでいる楽器によって演奏されますとね、ビートルズをクラシック(特にバロック)の視点というか聴点で捉え直すことができるというところです。自然にそういう聴き方ができるようになるんですよね。そうすると新しいビートルズ体験、新しい音楽的発見が多々あるわけです。そこに萌えます。
 先日「読むJ-POP」の記事の中で、宮川泰さんのビートルズショックコメントを紹介しました。実はその前に、お二人の大作曲家のコメントも載っていたんです。紹介しましょう。
 まずは中村八大さん。
「最初は不思議な音楽だなって思ってたんですね。それまでのポピュラーのいろんなパターンにはないものでしたから。メロディーの種類やリズムのパターンとか、きれいな声でかっこよく歌うとか、そういうことじゃなくて絶叫してましたからね。異次元と思ったんですけど、長いこと聞いて、音楽的に分析するようになってなるほどと思い始めたんです」
 続いてすぎやまこういちさん。
「最初に『プリーズ・プリーズ・ミー』を聞いたんですけど、ベースラインとか内声の音の動きがクラシックの対位法を使ってるんです。これは音楽的によくできてると思いましたね」
 そう、ビートルズって基本はヨーロッパのいわゆるクラシックの系譜上にあるんですよね。それをベースにして、ブルースやフォークのスパイスが加えられている。もちろん彼らのオリジナルなスパイスもですね。だから、クラシック専門家の分析にも充分耐えられるどころか、彼らをうならせることさえできるわけです。けっこう学究肌の方々、たとえば武満徹さんリフキンさんなんかも相当ハマってましたよね。そして、そういう人と対極にある膨大な数の女性たちにもキャーキャー言わしめたところが、彼らのすごいところなんですよ。そういう文化ってそんなにないですからね。バッハなんて絶対キャーキャー言われなかった。
 というわけで、私は武満やリフキンや宮川や中村やすぎやまにはなかなか近づけませんが、ちょっぴり今までの経験を活かしまして、聴き直してみるわけです、こういう面白いが、しかし理にかなった演奏を通して。
 たしかにすごいアイデアの数たと思います。アイデアの宝庫ですね。それも古いものと新しいもの、両方ある。その組み合わせが絶妙で、「痛い」ことになってない。そして、今回痛感したのは、似た曲が二つとないということです。これはすごいことですね。バッハにせよ、モーツァルトにせよ、ベートーベンにせよ、「らしさ」で出来てるじゃないですか。ビートルズって総体としての「らしさ」はあるんですけど、1曲1曲は全部孤高なんですよ。これってあり得ません。
 このシリーズ、ぜひぜひ続けてほしいっす。たぶん続けるつもりだと思いますけど。だって最もバロック的とも言える「Let It Be」まだやってませんし。できれば全曲やってほしい。今48曲です。頑張れ!

Amazon Beatles Baroque, Vol. 3

NMLで聴く(試聴可)

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2007.06.07

格安メンズコンフォートシューズ

Sphinx 昨日はディズニーランドをすみずみまで歩き回りました。なにしろ全制覇ですから(笑)。けっこうな距離を歩いたと思います。これだけ歩きますと、普通ですと足に来ます。特に靴が合わないと悲惨なことになります。いつだったか、買ったばかりの靴で修学旅行に行ってひどい目に遭いました。昨日はそんなことも全然なく、非常に快適に歩き回ることができました。履いていた靴が写真の左側のヤツです。
 やっぱりいい靴は違いますね。安物だと、かかと、つま先、足の裏、しまいにはふくらはぎや膝まで痛くなってしまう。うん、やっぱり靴にはお金をかけたい…。
 な〜んて、実はこの2足の靴、しめて3000円(!)だったんです。ネットで買いました。ずっと履いていた仕事兼遊び用の靴がかなりボロくなってしまって、靴底から水がしみ込むような状況だったし、結婚式に履いていくようなピカピカの革靴もなぜか行方不明になっていたんで、この際新しいのを購入しようということになったんです。でも、なんだかお金ないし、特に通勤用のものはすぐにダメになるんで、じゃあなるべく安いのをということになりました。ですが、実際靴屋に行ってみると、安いものはそれなりの品質というか質感でして、やっぱり最低でも5000円くらいは出さないとダメかな、という感じだったんです(当たり前と言えば当たり前)。でも、2足で1万円はなあ…。
 で、思い切って賭けのつもりでですね、ネットで買ってみたんです。それがこれ。なんと1足1500円。3000円以上購入すると送料無料なんで、結局2足で3000円しかかかりませんでした。消費税込みっすよ。ありえね〜。
 さあ、商品が到着いたしました。もうほとんどギャグだろうな、と半ばワクワクしながら箱のフタを開けてみると…。あれまあ、なかなか悪くない感じではな〜いですか。当然材質は合成皮革というか合成樹脂なんですけどね、表面の加工が絶妙なのか、案外いい質感であります。
 履いてみると、非常に軽いし、意外にもしなやかでして、足にフィットする感じです。でもまあ、さすがに歩いてるとどこか痛くなるだろうな、そう思ってしばらく履いてみたんですが、これがまた全然問題ない。驚きました。で、今回初めてかなり長距離を歩いたわけです。そしたらこれまた快適だったと。思ったよりむれないし。
 面白いことにですねえ、最初さすがによく見るとプラスチックチックだなと思ってたんですけど、1ヶ月ほど履いている内に、微妙にキズがついたり、汚れたりしてきましてね、それでなんか質感が上がったんですよ。なんていうか、あのテカテカ感が低減し、細かなシワによって高級感が漂い始めたって感じですかね。一見本革ですよ。ちなみに靴底もしっかりしていて、安定した歩行が可能です。
 これはお買い得ですね。私がその店のサイトに行った時、ひも付きのものにちょうどいいサイズがなかったんで、今回は両方ともひもなしにしたんですが、今はあるようです。そっちも買おうかな。
 しっかし、これもチープ革命ってやつですね。もちろん中国かどっかで作ってるんでしょうけど、それにしてもよくデザインされている。材質の選び方なんかもかなりよく考えられているのではないでしょうか。「Sphinx」というブランド名が入っていましたので調べてみましたが、全く謎のままです。
 まあ私のような下手物買いにはいい時代になりましたね。昔はホントいろんな安物を買って銭を失っていましたから。ほとんどそれが趣味みたいだったからなあ。しかし、これでメーカーやお店はもうかるのかなあ。もうかるんだろうなあ。原価、卸値、いったいいくらなのかなあ。
 そういえば、商品とともに手書きのカードが入っていたんですが、それがものすごい味のあるシロモノでした。店長さん直筆かなあ。

はきもの広場

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2007.06.06

ディズニーランド○○○完全制覇!!

↓ディズニーランドを上から見た図(Google Earth)
Disneyland 今日は仕事でディズニーランドに行きました。もう何回目なんだろう。正直辟易。あっ、ちなみに昨年のディズニーランド記事はこちら。耳についての考察でした。今年はその耳は激減していたように見えたんですが。やっぱり一時的なブームだったんでしょうか。
 昔は生徒たちと走り回ったり、また何時間も並んだり、全然平気だったんですけどね、歳でしょう。そこで、今日は基本単独行動、自分のペースでマニアックな楽しみ方に徹しました。
 最初のテーマは「ディズニーランドのわびさび」だったんですけど、これはどうも無理そうだとすぐにあきらめちゃった。普通どんな遊園地も、アトラクションの裏側とか、あるいは別に裏側に行かなくても、そのアトラクション自体まさにサビてたりしてですねえ、かなり「侘び寂び」なことになるんですが、ディズニーは全然そういう風情がない。いや、あえてそれを封印している。封印することにお金をかけてるんですね。ほぼ完璧でしょう。悔しいけれど敵もなかなかスキを見せてくれません。
 ああ、こりゃあ無理だし、だいいちネクタイ締めて、変な帽子かぶってまるでディズニーに出てくる探偵みたいな格好の私が、核(各)施設の裏側を覗こうとしていたんでは、冗談でなく捕まってしまう。そう判断して、すぐに諦めた次第です。そして、尿意を催したんでトイレに行ったんですね。そしたら…
 ありましたよ、ちょっぴりわびさびが。いや、今まで気づかなかったんですが、ディズニーランドのトイレって、全然普通なんですね。高速道路のSAのトイレとなんら変らない。ミッキー柄のタイルが配されていたり、それらしい音楽がかかっているわけでもない。いかにもなアイボリー色を基調とした普通の壁と便器と洗面台なんですよ。ついでに臭いもごく普通の公衆便所であります。おお、これはわびさびを感じるぞ。
 というわけで、私ひらめいたんです。そうだ!今日はディズニーランドのトイレを全部制覇しよう!って(なんなんだ?)。さっそく入り口でもらうあのマップの、今入ったトイレのマークに○をつけました。さあ、次はトゥーンタウンのところだ…。
 と、こんな感じでいちおうマップに出てるトイレには全部行きましたよ。もちろんそんなにたくさん排泄できませんから、入場とともに個室に入り写真を撮ったり(おいおい…)、手を洗うだけで出てきたりしました。で、私の観察によりますと、それぞれのトイレのデザインはそれぞれ違うんですが、基本は最初に書いたようにごく普通の公衆便所風情なんですね。ちょっと意外でした。ああ、ここは異次元だ。
 そう、そうなんですよ。異次元なのはトイレではなくて、トイレの外なんですよ。あの、ゴミはおろか、カラスすら電磁波によって排除されている(ホンマか?)非日常的人工的空間こそが異次元なのであって、トイレはそこにポッカリ空いた日常への小さな穴のようなものなんです。
 その証拠に、そこに集うお父さんたちの憔悴した、しかしどこか安堵にも満ちたあの表情を見よ。そう、彼らはその非日常的空間において、はしゃぎ回る幼い子どもたちや、その子どもたちに負けず劣らずハイテンションな妻を満足させるべく、優しくアクティブで太っ腹な「ディズニーランドに連れていってくれるいいパパ」を演じているんですよ。そして、そんな自分にちょっぴり酔っていることも事実。しかし、実は肉体も精神も疲れ切っているんです。そんな彼らの唯一の癒しの場は「トイレ」しかありません。「ちょっとトイレ行ってくる」と言って解放された彼らは、便器の前にたたずみ、大きくため息をつきます。ふぅ〜。
 もし、そんな癒しの空間であるべきトイレすら非日常だったら…ため息をつこうとしたその目の前にミッキーがそれこそハイテンションでこっちを見て笑っていたら…便座のフタを開けるとスティッチが憎々しげにあの歯をむいていたら…あの小さな憩いの世界に「It's a small world」が大音声で流れていたら…。
 残念ながら女性用のトイレについては知るべくもありませんけれど、とりあえず男性用トイレは非常に日常的であるということは確かだと感じました。もしディズニーランドが意図的にああいう空間を作っているのだとしたら、それは大したものです。ま、私の考え過ぎかもしれませんけどね。
 というわけで、ディズニーランドのトイレ完全制覇した人はとりあえず今日は私だけでしょう。中にはそういう変わり者もいるかもしれませんが(いないか)。あっそうそう、アトラクションや乗り物には一切関わらないつもりだったんですけど、トムソーヤ島に二つトイレがあるんで、仕方なくいかだには乗りました。いや、最初間違えて船に乗っちゃったんですが。
Splash はい、では最後に記念写真を。クラスのギャルどもがスプラッシュ・マウンテンで記念撮影しているその横(同施設の出口の横)のトイレで一人スプラッシュです。あえて和式です。ね?普通すぎるでしょ?…って、ああ、何やってんだか。バカみたいですね…こんなことしてる自分の方がずっと非日常的…というか非常識というか…はっきり言って変態ですね(笑)。
 こんなことしてるヒマがあったら、家族をディズニーランドに連れて行きなさい!なにしろ、上の子はクラスで唯一ディズニーランドに行ったことがない希少種らしい…ゴメン。

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2007.06.05

『読むJ-POP 1945-2004』 田家秀樹 (朝日文庫)

Yomujpop 私にとって唯一のTVデーである火曜日。今日も楽しめましたねえ。そう、パンシャーヌ歌謡コンサートサラリーマンNEOという流れであります…なんなんだ?でも、自分を実によく象徴している3番組ですなあ。
 今日はそれぞれの番組でちょっと懐かしいシーンが。パンシャーヌはモロに「バブル」ネタでした(てか、花鳥優子つまりポワトリンが…)。面白すぎ。歌謡コンサートの「時代の歌こころの歌」コーナーは、園まりさんが「逢いたくて逢いたくて」を熱唱、この曲にまつわる衝撃的な(?)秘話を告白。そして、NEOではセクスィー部長が「今の君はピカピカに光って」と言って、宮崎美子をメロメロにしました(笑)。
 ちょうど今日「読むJ~POP」という名著を読んだところだったんで、特にこれらが印象的だったんですよ。本当にナイスタイミングでした。いちおう歌謡曲バンドなんかをやってる手前、「歌謡曲」について勉強しとかなくちゃということで、この本と「増補にほんのうた(北中正和)」と「歌謡曲の構造(小泉文夫)」の3冊を注文したんです。で、まず通史的な「読むJ-POP」を読んだと。
 うむ、なかなかに感動的でした。この本はたしかに通史的であり、音楽的に、あるいは社会的に深く切り込んだものとは言えないのですが、もうその通史だけでも十分ジ〜ンとしちゃいますよ。
 70年代以降については、私もリアルタイムで体験してますからね、もちろん懐かしいし、ああそうだったんだということも多い。しかし、どちらかというと、その前だなあ。私の知る「歌謡曲」を用意した、本当の「歌謡曲」「流行歌」とそれに対する対抗音楽。すごいエネルギーですねえ。
 まあ、こまかいことはさておきますが、やはり、「ジャズ」と「ビートルズ」の影響かなあ。歌手も作曲家もみんなジャズ出身。そして、そのジャズの専門家をして「ショックでしたよね。ジャズの世界ではやってはいけないと言われていたことが全部ありましたからね。コード進行とか、ベースの動きとか。もう、俺は音楽を出来ないんじゃないかと思ったくらいでした(宮川泰)」と言わしめたビートルズ。すさまじい衝撃だっただろうなあ。
 そういうものや、その他もろもろのものを吸収し、生命体のように時代を走り続ける「歌謡曲」。私は「J-POP」という呼び方より、やっぱり「歌謡曲」がいいなあ。「J」ではないんですよ。世界中の音楽がそこにある。すごいことだと思います。世界にもまれに見る独特の文化でしょう。もちろんそれこそが「日本的」なのでありますが、でもやっぱり「J」ではないような気がします。
 ということで、他の2冊を読むのが楽しみです。そちらも報告しますね。
 最後に印象に残った言葉。あのTHE YELLOW MONKEYの吉井和哉さんの言葉です。
「どんなにブリティッシュ・ロックでも、どこかに美空ひばりや江利チエミが入ってる」
「日本を無視したところに日本のロックはないと思う」
「寺山修司が表現しようとした情念をロックで」
 そう、日本のロックは「歌謡曲」なんです。「演歌」なんです。

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2007.06.04

とんぶり納豆〜秋田キャラ文化

Tombri1 三日連続縄文ネタです。
 今日の夕飯に「とんぶり」が出ました。カミさんのふるさと秋田の名物の一つです。畑のキャビアと言われています(誰に?)。今日はひきわり納豆にまぜてご飯にぶっかけて食べました。これはたしかにうまい。とんぶりの独特の芳香が、納豆のあの匂いに溶け込みます。それが炊きたての白いご飯の湯気に乗ってやってくる。そして、あのプチプチとした食感。正直本家キャビアよりうまいっす。
Tombri2 とんぶりはホウキギの実だそうです。ホウキギ、つまり「帚木」ですね。あの源氏物語の第2帖、有名な雨夜の品定めのシーンのある巻の名前になっている木(草)です。昔は、その枯れ木(枝?)を束ねてホウキにしたらしい。その実をとって煮たのがとんぶりだということです。
Tombri3_1 さて、今日は(も)ちょっと脱線します。今日カミさんが買ってきた「とんぶり」のパッケージを見ますと、謎の生物が描かれていますことに気づきます。これはいったいなんなんだと、よく見てみますと、「とんぶりキャラクター とんぶり博士」と書いてあります。むむ、これは…。
Sugicchi 秋田と言えば「ゆるキャラ」です。なにしろ、わか杉国体のキャラ「スギッチ」はテレビチャンピオンの「ゆるキャラ選手権」で見事日本一に輝きましたからねえ。半端なゆるさではない。私、以前秋田のネーミングセンスの素晴らしさ(?)について書きましたけど、実はそのセンスはネーミング以外にも存分に発揮されてるんですよね。たとえば、わか杉国体のキャッチフレーズは「~君のハートよ位置につけ~」です。もう最高っす。
 で、そうしたある種独特のセンスの象徴的なものが、いわゆるキャラクターです。日本人はたしかになんにでもキャラクターを作ってしまう民族ですが、秋田は中でもその数やセンスがずば抜けています。そうした秀逸な秋田キャラを集めたあきたキャラ図鑑というサイトもあるんですよ。これは抱腹絶倒ものです。感動です。
Noshirocchi 中でも、私たち家族のお気に入りは「のしろっち」です。なんでも能代の主婦がデザインしたらしいんですが、今や全国規模での人気だそうで、人形やハンカチなんかも発売されています。それらもなかなかカワイイんですけどね、やっぱり基本はこのイラストでしょうね。ゆるキャラと言うよりも、なんだろう…、ちょっと不気味ですらあります。これはどういう表情なのだろう。「へのへのもへじ」の亜流と言えば亜流なんだろうけど、このチープさを超えたシンプルさ、安易を超えたシュールな音符の配置など、なかなかの名作であります。どう考えても「ののしろ」だし(笑)。すごいですね。これは流行りますよ。
 こういう秋田のキャラづくり文化というのは、やはり縄文文化の名残なのではないでしょうか。縄文人と言えば、アーティスティックな土器や土偶などが思い起こされますよね。青森の遮光器土偶なんか、ありゃあアニメキャラもびっくりの先進的デザインですよ。すごいですね。いい意味での幼児性というのが、今でも息づいているのでしょう。弥生にはそういう遊び心がない。
 今度秋田に行ったら、私もいろいろなモノを収集してみようと思います。ネーミング、方言、キャッチフレーズ、キャラクター、山人文化、キリスト教文化、桜庭和志(?)…今から楽しみっす。

とんぶり 80g

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2007.06.03

『富士霊異記 五湖・山頂・樹海の神秘』 泉昌彦 (白金書房)

Fujiryouiki 幻の名著をようやく手に入れました。これはホントほしかったんです。そして、読みました。う〜ん、これはたしかに素晴らしい。非常に貴重な民俗的資料であり、本当の「物語」です。
 昨日はみちのくの縄文人について書きました(予想通りしょっぱい負け方しちゃいましたね、桜庭)。この本に記されているのは、ここ富士北麓の縄文人(山人・山の民・富士アイヌ)たちの生活と風俗です。この本が書かれたのが昭和49年、今から33年ほど前ですね。その頃にはまだまだ縄文人が縄文的な生活をしていたということです。いや、これは冗談ではなく、その頃まで実際に縄文時代が続いていたということなんです。逆に言えば、この30年の間にここ富士北麓にも、近代化の波が押し寄せ、今ではすっかり縄文の面影がなくなってしまった、ということ。
 泉さんは「まえがき」で次のように述べています。全文引用します。

 私は、〝富士山に慈悲を〟ということをつねづね口にしている。過去において信仰と崇拝の対象であった富士山が、いまや荒れるにまかせ、たんなる砂礫の山となんら変わることがなくなってしまった。
 この富士山と、私はかれこれ三十年近くつき合って来たか。岳麓の住民たちから聞いた話も千や二千ではきかないほどだ。しかし、そのすべてが、いまや過去のこととなり富士は日一日とむしばまれ、滅びようとしている。そして、もはや個人の力では、その崩壊をとどむべくもなく絶望的無力感に襲われるばかりだ。とすれば、せめて私の富士山体験と採集した貴重な話の数々を記録して残せないだろうか。富士が、もはや過去の物語でしかないとすれば、そうすることによってしか富士山は慰められないだろうし、ひいてはそれが富士への慈悲ということになるのではないか。そんな観点から、私は52話を精選して本書に収めた。
 これは、ある意味では富士山への挽歌である。しかし、山にも命脈があるとすれば、それが尽きるのも、また致し方のないことなのかもしれない。

 この「まえがき」から分かるように、この本では、山梨出身で僧侶でもあった山岳地誌研究家の泉昌彦さん(彼自身が完全なる山人=縄文人キャラです)が、富士北麓、特に樹海に隣接した鳴沢や精進、本栖などの古老らから聞き取った、実に興味深いエピソードが多数紹介されています。
 その内容は、今こうして鳴沢村の別荘地内に居を構え、安穏とした生活を送っている私からすると、いろいろな意味でかなり衝撃的です。富士山を神と考え、自然から大いなる恵みを得て生活する山人。そして恵みとともにやってくる災害や病気。樹海の神秘的な動物や植物。さまざまな超常現象。豊かな言い伝えや風習。
 私は富士北麓の歴史、特に裏の歴史にはかなり詳しい方だと自負していますが、それはあくまで一般に出版されている書籍から得た知識や、自分で古文書や何やらを解釈して得た予感であり、泉さんのように実際に地元の方々にインタビューして得た「事実」ではありません。数年前に一度だけ村のお年寄りから、「お山」での生活や仕事についてお聴きしたことはありますけれども、それ以来なかなかそういう機会を得られません。この本を読んだら、なんだか自分が知ったかぶっていろいろ語っているのが、とっても恥ずかしくなってしまいましたね。
 古老たち(実名も紹介されています)の口から語られる物語は、まさに「モノガタリ」です。実際オロチやムジナ、狐火、しまいにはUFOまで、「物の怪」はいくらでも登場しますし、現代の常識や科学的な見地からすると、一笑に付されかねない話ばかりです。
 「モノ」がかくも生き生きと、そしておどろおどろしく息づいていた時代が、ほんのそこまであった。いや、実際、今でも樹海にはそうした「モノ」が封印されているのかもしれませんね。そういう意味では、私は「モノ」の世界と隣接する、近代的な「コト」の世界に生きているとも言えます。そう考えたら、得体のしれない何かがそこにいるような気がして、一気に全身に鳥肌が立ちました。私たちの住むこの現代日本は、何かの上の薄皮に過ぎないのではないか…。
 近代とは、こうした説明不可(コト化不可)な「モノ」を排除すること、そのものでした。結果として「物語」は、実生活から遊離した単なるフィクションになってしまったのです。今、さまざまなメディア上に濫造されている多数の「物語」よりも、この「富士霊異記」という絶版になって久しい「物語」の方が、断然私の心を動かす力を持っていると感じました。私も泉さんみたいな「語り部」になりたいような…でも、難しいかなあ…私、泉さんが「山賊」と称してはばからない、富士山を我が物顔で破壊する都会人そのものですから。
 いずれにせよ、この本は私にとってのバイブルとなるでしょう。そこに住む者としては、たとえば柳田国男の遠野物語よりも、ずっとずっと物恐ろしかった。すごい本です。地元の皆さん、なんとしても手に入れましょう。

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2007.06.02

「へそ踊り」inロサンゼルス(by桜庭和志)

 『変わらなきゃ秋田人 県勢回復へ本音で議論』…昨日、こんな記事がYahoo!ニュースに出てました。内容は以下のとおり。

 おとなしい県民性を変えてみせます—。秋田県は本年度、若手県職員と県民でつくる「秋田の将来研究会」で、功罪相半ばする秋田人気質を徹底検証し、県民に意識変革を迫る「秋田人変身プロジェクト」に取り組む。右肩下がりの県勢に歯止めを掛けるには、県民性の自己批判は欠かせないとして、メンバーが秋田人気質を本音で語り、変身の道筋を模索する。
 「粘り強い」「控えめ」などと言われる一方、「横並び意識が強い」「売り込み下手」と指摘される秋田県の県民性。研究会では、まず県民性を徹底的に“ダメ出し”し、秋田人の弱みや欠点を浮かび上がらせる。

 県民性を変えるために県が動き出すという、ん〜、他の県ではとうてい考えられないことをマジ〜メに考えてしまうあたりが、まさに秋田っぽいなあ、などと秋田出身のカミさんと話していたんですがね、どうなんでしょう、「粘り強い」「控えめ」というのは美徳だと思うんですけど。それこそ縄文人の素晴らしい特性であり、どこらへんとは申しませんが、いかにも弥生人らしい攻撃的で出しゃばりな人たちより、ずっといいと思うんですが(笑)。できれば変らないでほしいっす。
 さて、そんなことを考えていた矢先、「これってどうなのかなあ。秋田らしいのか?」というニュースが入ってきました。
 明日ロスで行なわれるK-1Dynamite!!で、秋田県代表の桜庭和志とホイス・グレイシーの7年ぶりの対決があります。ホントは試合が終わってから書こうかと思ってたんですけどね、考えてみれば、今の桜庭とホイス、別にどちらが勝とうとどうでもいいわけで、ただ桜庭がプロレスラーらしく華のある面白い試合をしてくれればそれでいい。なので、試合前でありますが、いかにも桜庭らしいニュースが入ってきたので、これについて書いちゃいます。
 ↓click!
Im00062378 『この日一番の注目を浴びた桜庭。公開計量では報道陣の前で腹芸を披露した』…これって、どうなんでしょう(笑)。「粘り強い」かどうかは試合でしか分かりませんが、これって「控えめ」「横並び意識が強い」「売り込み下手」なんでしょうか?
 考えてみますと、腹芸というか腹踊り、いや「へそ踊り」、これは桜庭の故郷のすぐ近く、秋田市の河辺で行われる「へそまつり」のメインイベントであります。お〜、そうだ!このお祭り、毎年6月の第一日曜日にやるんだ。ということは、明日じゃないか!!桜庭が試合をしているちょうどその時、この「へそ踊り」が披露されるのです!
1179810121 そう言えば、この「へそ踊り」、年々参加者が減っていて、今年は2組しかエントリーしてないって、先週あたり報道されていたぞ。ということは、桜庭は地元秋田の愛すべき伝統芸能(?)の行く末を憂えて、遠くロサンゼルスから、一足先に「へそ踊り」大会に参加したということですか!なんという愛郷精神。もしかして試合にも図腹で臨むとか!ww
 ところで、話を元に戻しますが、こうした桜庭一流のパフォーマンスというのは、いかにも秋田県民らしい、すなわち縄文人らしいのでしょうか。私は、これは「控えめ」「横並び意識が強い」「売り込み下手」とは言えないな、と一瞬思ったのですが、桜庭の(痛いほどの)ファンであるカミさんが密かに入手した動画(25.6MB)を見て、そしてカミさんの解説を聞いてですねえ、なるほどこれは秋田県民だ、縄文スピリットだと分かりましたよ。桜庭の数々のパフォーマンスの裏にある「照れ」や「恥ずかしさ」は、まさに秋田の伝統的な美徳そのものだったのです。
 秋田県の皆さん、ぜったいにムリして弥生人の真似をしないでください。桜庭の命がけのパフォーマンスも「痛い」直前です。無理はいけません。本来の皆さんの美徳こそ、これからの日本に、あるいは世界に必要な大切なものですよ。本気でそう思います。
 さあ、桜庭よ!美しく縄文桜の花を咲かせてくれ!…いや、桜庭らしさ、秋田県民らしさというのは、徒然草に出てくる「桜の庭」のごとき「あはれに情け深し」というものなのかもなあ。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。

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2007.06.01

A-DATA 120倍速 コンパクトフラッシュ 8GB

497320 チープ革命の早さには本当に驚きます。あまりに衝撃的だったので、思わず買ってしまいました。もう1ヶ月以上前のことですが。その時は9000円弱でした。
 おそらく来年の今頃この記事を読むと、何興奮してんだ?今じゃあ、32GBで6000円だよ、とか言ってそうですね。そして再来年には、パソコンの記憶装置はハードディスクではなく、全てフラッシュメモリーになってるでしょうね。
 HDに過度の不信感を抱いている(ひどい目に遭った経験の多々ある)私にとっては、うれしい未来であります。
 実際これを買ったのは、Pismoの古くてガリガリうるさくなった10GHDDの代わりに使おうと思ったからです。CFはパラレルATAと互換性があるんで、IDE変換でHDDのように使えるんですね。で、それ用の部品もいくつか取りそろえて、いざ内蔵しようと思った途端、黒猫テロに遭い、Pismoくんがお亡くなりになってしまったんです…orz。
 ウチにはCFを使う機器がいろいろとありますが、どれも8GBなんていう大容量には対応していません。高級な一眼レフデジカメなんてありませんし。で、結果として用なしになってしまったんですが、ま、せっかく買ったんでデータ持ち運び用に使ってます。これが意外と便利なんですよね。8GBというとDVDのデータがそのまま丸ごと入りますからね。まったくすごい時代になっちゃいましたねえ。ちょっと前までフロッピーで1.44MBのデータを持ち歩いていたのに。なんだか恐ろしいし、バカみたいな気もしてきます。何データを持ち運んでウキウキ、ハラハラしてるんだろうって。
 10年前、8MBのコンパクトフラッシュが1万円以上していました(つまり1Bあたりの価格が1000分の1以下になったってことですよね)。そして20MBを開発中というニュースにスゲー!とか思った記憶があります。それがねえ…。時は流れる、人の欲望は限りがない…。パソコンって人間の欲望を加速しますね。そして後戻りできない。CPUが速くなり、ストレージが肥大化する…ホント人間の欲望そのまんまじゃないっすか。待てない、保存しておきたい。時間の流れとそれに伴う変化という「モノ」の本質的性質に抗おうとする人間の性、すなわち「コト」化願望の象徴であります。つまりオタク的思考ですね。でも、こうしてたまに虚しくなるのもまた事実であり、やっぱり「もののあはれ」の前提条件には、オタク魂が必要だということです(苦笑)。
 なんて、すこし反省モードになってしまいましたが、まあいいや、とにかく今は欲望のまま突っ走りましょう。日本人は今、総オタク化してますが、これは来るべき「もののあはれ」国家樹立への礎なのであります。50年後は総仏陀化していることを願いましょう…ハハハ。

A-DATA 120倍速 CF 8GB

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