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2007.05.30

『騒音文化論−なぜ日本の街はこんなにうるさいのか』 中島義道 (講談社+α文庫)

Souon 「うるさい日本の私」の続編、「うるさい日本の私〜それから」の文庫版です。なんだかだ言って、また読んでしまいました。そして、また哲学してしまった…いや、させられてしまった。決して好きではないのに気になる。これはもしかして…。
 なんちゃって、あくまで仕事上必要に迫られて読んだんです。氏の本も3冊目ともなれば、さすがに相手の出方もわかります。3戦目ともなれば、ここでこういう技が来るなと予想がつく。だから、それなりの受け身を取れるようになりました。そういう意味では、いいプロレスの試合が出来たと思いますよ。
 不思議なもんですね、手が絶対合わないと思ってたのに、いつのまにかこちらが向こうに合わせられるようになった。向こうは相変わらず自分勝手な技を仕掛けてきますけど。
 また、いろんな所に文句を言ってます。駅員の声が大きいと言って、その手からマイクを取り上げて線路に投げ、駅長室へ直行。ラーメン屋に突然怒鳴り込み。教会の礼拝に乱入…もう、私もそのくらいのことでは驚かなくなってしまいました。
 私、3戦目で少し分かったんです。中島さんの言っていることは正しいんだけど、絶対に違和感がある、その原因が。
 この本で、中島さんは何度も自分を病気だと言います。たしかに、音アレルギーというか、潔癖症というか、理論依存というか、まあ一般的なバカ日本人からすると、ちょっと病気っぽいですね。で、ご自身もさすがにそこんとこにはお気づきのようです。
 それでですねえ、私、今まで彼が病気っぽいと思いながら、彼自身があまりにその境遇の悲惨さを強調するものだから、なんだか内心可哀想に思っていたんですよ。そこがどうもいけなかったらしい。そこが違和感の原因でもあったようです。
 つまり、中島さん、自分が病気であると認めながら、その病気を治そうとは全くしていないように見えるのです。病人にも病気を治そうとしない権利があるのは重々承知していますが、しかし、それだったら多少の不自由は責任持って耐えてほしい。苦痛の軽減の方法のベクトルがいつも一方向にしか向いてないんですよね。内側からその苦痛を克服していくというアイデアは彼にはないようです。いや、もしかするとそういう努力をした上で、ああいう暴挙(にしか思えません、バカ日本人には)に出ているのかもしれない。だとしても、その努力の跡が文章には全く表れていないんですよ。だから、自分と違う何かを感じてイライラしてしまう。自分だったら、ちょっと違う方法を考えるなと。治療法を模索するなと。
 いやあ、3冊読んでよかった。2冊目まではそれに気づかなくて、実に不快だったんです。でも、今回それが分かったんで、それなりの受け身が出来て、こちらの心はそれほど痛まなかったということです。
 この本では「騒音」に限らず、標語や形式的な言葉、さらには中島さんの本に共感した人にまで矛先が向きますが、さすがにここまで来ると、彼の精神性というか病状というかが、もうよく分かってますからね、案外楽しく読むことができました。それにしても、日本人が愛する自然の美というものが実は人工の美だという論は、ちょっと一面的に過ぎて滑稽にすら感じられましたね。たとえば人工的な形式にこそ表れる個性や美というものへの感受性というものはないんでしょうか。
 こういう言葉は出てこなかったかと思いますが、結局彼は、「婉曲」「朧化」「忖度」などという、私の愛する日本的美意識を嫌悪しているのであって、これは、例えば私が大好きな卵やそばに対するアレルギーを持っている人がいるのと同じことなのかな、なんて思いました。生理的なものなんで、ホントはお互いさまくらいにしておけばいいんですけどね。感覚を論理によって言語化するから面倒な(滑稽な)ことになるんです。
 またまた出ちゃいますが、あんまり「コト」化しない方がいいってことです。わけわからん「モノ(もののけ)」には、あんまり立ち向かわないで適当にやりすごす、というのこそ日本の伝統的なやり方でしょう。私にはそちらの方がかっこいい態度に見えるのですが。
 ま、ここまで来るのにずいぶんと哲学させていただきましたね。そういう意味では完全に中島選手の勝ちです。3試合もさせられたし(笑)。せっかくだから、もういっちょ行ってみようかな。

Amazon 騒音文化論

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コメント

>生理的なものなんで、ホントはお互いさまくらいにしておけばいいんですけどね。

 御意でございます。しかし、その生理的不快感を完全に受け流すことが出来ない場合、徐々にストレスが溜まってしまうので危険ですね。とある作家が言っておりました。「日本人は任侠映画の高倉健よろしく、堪えに堪え忍んだ挙句、突如として長ドスを振り回す(怒りをぶちまける)ので、普段から小出しにガス抜きしておいた方が良い。」と。私も件の中島さんのようにならないよう、地味~に“こんにちわ撲滅運動”を展開して行きたいと思っております。どう考えても“わ”と表記した方が、合理的で分が悪いのですが。w(←これも定着してきましたね。これも嫌いな人はもの凄く嫌がるので面白いです。あ、そういえば、ネットでよく見かける“ご教授願います”。.......私は撲滅したいです。w)

投稿: LUKE | 2007.06.01 01:18

LUKEさん、どうもです。
「どうもです」ってのも変ですねw
たしかにガス抜きは必要です。
つまりシャレレベルでの愚痴ですかね。
まあ、私もブログでかなりストレス発散してますよ。
ご教授願います…これってやっぱり過剰な謙遜が生んだ表現じゃないですかね。
この前、アクセスいただけないについて書きましたけど、
空気読み過ぎると、おかしなことになっちゃうんですよね。
敬語って、使われてるうちに敬意が逓減していっちゃうんで、
ついつい過剰敬語になりがちです。
ま、お互いこういうところでテキトーにストレス発散しときましょ。
また、何かありましたら、ご教授のほどよろしくお願い申し上げ奉り候。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.06.01 07:58

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