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2007.05.22

『オタク論!』 唐沢俊一・岡田斗司夫 (創出版)

Otakuron 大変楽しく読みました。非常に勉強になった。この二人はやっぱりすごいわ。憧れますね。
 この本の内容について、いろいろ言う人も、そりゃあいるでしょうけど、こうして自分たちのセンスで「語る」ことこそ、オタクの真骨頂ですからね。そのへんを理解しなきゃあ、無粋ですよ。
 さてさて、内容については、実際買っていただいて読んでいただくとして、今日は彼らにインスパイアされた私の「オタク論」を展開いたしましょうか。
 私は今までもいろいろなところで「オタク」や「萌え」について語ってきました。それらはあくまでも私独自の「モノ・コト論(物語論)」の一部として語ってきたわけでして、正直万人に理解される性質のものではなかったようです。まあ、その道のプロではありませんから、相手にされずとも気にしませんけど(笑)。その基本的な内容はこういうことでした。思いつくままランダムに書きます。

 オタク文化は平安の貴族文化の系譜上にある。オタク文化の基礎は女性文化である。現代人は経済的に豊かになった結果、総貴族化している。現代では男にはめられていた例えば「武士道」などのタガが外されたため、男性の女性化が進んだ。その結果、男のオタク文化が噴出した。「萌え」は平安貴族の言う「をかし(招きたい・手もとに置いておきたい)」という感情に近い。現代人は、工業技術とデジタル技術を手に入れた結果、その「をかし」を(疑似)現実化しやすくなった(わかりやすい例で言えばフィギュアとかDVDとか)。オタクは「萌え=をかし」という感情をベースとして、時間を微分し、すなわち本来転変してゆく「モノ」を疑似的に固定(「コト」化)しようとする。その行為を日本人は古来「カタル」と呼んでいる。だから、「モノガタリ」とはまさに「をかし」の思想の現実化そのものである。

 まあ、ほかにもいろいろあるんですけどね。とにかくこんなことを中心に、それこそランダムにこのブログ上で語ってきました。私もほら、やっぱり語り部なんですよ。すなわちオタク。
 ん?その前にちょっと根本的な問題提起をしなきゃだな。
 私はホントにオタクなのだろうか。これは自分にとって非常に大きな課題です。実感としては、どうも自分はオタクになりきれないコンプレックスがあるんですね。オタクに憧れつつ、どうも自分にはそこまで到達する才能や根性がないような気がするんです。
 第一、この前みたいに、記号としてのオタクを演じてしまうあたり、もうすでに真性のオタクでないことを自らカミングアウトしているようなものです。憧れて、大いに愛しているのに、ああして揶揄の対象にするというのは、いったい何なんでしょう。屈折した愛情表現なのでしょうか。それとも、オタクオタクというジャンルがあって、実は私はオタヲタなのでしょうか。
 どうも、オタクについて語りたがるところを見ますと、やっぱり「オタヲタ」ということのようですね。誰しも何かに関して語りたがるものです。そういう意味ではほとんど全ての人がオタクなわけです。ただ、現代のオタク、というか、オタクと呼ばれるようになった語り部は、先ほど書いたように、どうしても現代のメディアやテクノロジーの上で生き生きとしますから、そういう実は限られた分野の語り部だけがオタク的属性を持っているかのようにとらえられてしまう。経済効果もありますから、どうしてもそういう分野の語り部たちがメディアに乗りやすいですし、しかたありませんけどね。
 で、今回、両巨頭、ほとんど伝説の語り部であるお二人の対談を読んでましてね、一つものすごくよくわかったことがあったんです。これは前々から感じていたことですし、実際ここにも何回か書いた覚えはあるのですが、今回再確認したと言いますか、ある意味確信したんです。それは、「をかし」→「あはれなり」、「微視的文化」→「巨視的文化」、「微分」→「積分」という流れ、あるいはもっと進めると、「転変」→「不変」→「転変」→「不変」という大きな流れです。
 どういうことかと申しますと、こういうことです。
 「萌え=をかし(招きたい)」的心理に基づく「固定」願望は、あるモノ(物・者)への執着という形になって現れます。執着して手元に置いておこうと画策します。我々はそれをいろいろな知恵を駆使して実現しようとしてきましたね。昔ならたいがい文字(コトノハ)を使って語ったり語り継いだりして、消えないように(遠くに行かないように)しました。今ならフィギュアを集めたり、録画したり、まあ知識も含めてコレクションすることが多い。そこには経年変化を乗り越えようとする信念がうかがえます。それがすなわち、私の言う時間を微分するということです。
 ちなみに私の「モノ・コト論」では「モノ」の基本的な性質は「変化・無常・不随意」などです。あらゆる意味で自己の外部ということです。オタク的な活動とは、その「モノ」を「不変・恒常・随意」な「コト」にすること、自己の内部化すること、すなわち「カタル」ということそのものなのです。
 で、私たちは「オタク」というと、そこまでしか観察しないんですね。しかし、実はそこで終わらない。そこで終わらないのが日本文化のすごいところです。だいたい、平安の貴族文化にしても、もともとは「オタク」的なものなのに、今となっては立派な高尚な伝統文化になってるじゃないですか。江戸の浮世絵なんかもですねえ。
 そう、微分した無数の「コト」を積分していくと、再び「モノ」になっていくわけです。昔の日本人は、そこに気づいた時に「あはれ」と言いました。ため息をついたんですね。もっとわかりやすく言うと「もののあはれ」です。ちゃんと「モノ(変化するもの)の」と言っています。
 私たちが語ったこと、一生懸命「コト」化した「コト」はあるまでも疑似的なものなのです。ですから実際には必ず経年変化していく。その「萌え=をかし」の対象は、どうしても遠くなっていくんです。というより、まず対象より前に自分が変化します。あれほど溺愛していたのに今はさめた、なんてこといくらでもあります。そうした感慨というのは、実は巨視的、俯瞰的な見方の結果生まれてきたものです。微視(微分・コト)に執着したがために、いや、したおかげで、その裏側にある真実「もののあはれ」に気づくわけです。こうして、昔の「萌え=をかし」は「あはれ」となって、ノスタルジーを伴った新しい意味を獲得します。リアルタイムの「萌え=をかし」事象に対して、ある種の重み、深み、高尚さ、歴史的意味などを付加されていくんですね。そして、立派な伝統文化となる。
 今回、オタク(おたく)第1世代の代表たるお二人の語り部さん、すっかりそういう「もののあはれ」モードになってるんですね。昔は良かった…とは直接言ってませんが、世代間のギャップを語ったり、老後を気にしたり、コレクションの処分に悩んだり、オタクは死んだと言って涙したり…。
 私はそういう語り部さんの言葉に接して、ああこうして昭和・平成オタク文化も一つの昭和・平成国風文化になっていくんだなって思いました。そして、こういうことは、それこそ平安時代よりももっと前から、ずっと繰り返されてきたんだなって直感したんです。
 で、長くなってしまいましたが、先ほどの「転変」→「不変」→「転変」→「不変」という流れについて説明しておきましょう。本来全てのモノは時間とともに変化します。それを不変なコトとして見ようとするのがオタク的指向です。しかし、オタクたちも、ある程度生きていると、不変と思っていたコトが実際には変化しているモノであったことを再発見します。ここまではさっき説明しました。そして、最後、ああ全てのモノが変化するとことが、世の中の唯一の真理、不変の真理、普遍の真理であると分かるわけです。ある意味、オタク的な思考に陥らないと、世の中の真理はわからない仕組みになっているわけなんですね。
 お釈迦さまは、まさに貴族としてオタク的生活(なんでも手に入る生活)をしていました。そして、そこに空しさを観じて出家し、無常が世の真理だと気づいたのでした。
 ということは、オタクの行く末は出家ですか!?まず第1世代の皆さん(私も入るかな)が出家するんでしょうかね。そして入滅。成仏ですか(笑)。
 と、とんでもない方向に話が進んでしまいましたが、私は至極まじめに語っていたつもりです。これだけ語れれば(騙れれば)私も立派なオタクですかね。オタヲタ。人生オタク。文化オタク。案外自分オタクかもしれないな。
 まあ、こうして尊敬すべき先輩オタクの方々の語りを受けて、こちらも語る、語り継いでいく、これこそ文化そのものなのかもしれませんね。

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