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2007.05.31

Pat Metheny Group 『More Travels』(DVD)

パット・メセニー・グループ 『モア・トラヴェル』
910 ウチのバンドのギタリストが貸してくれました。完全にKOされました。
 人間ってすごいですねえ。こういうことができるんですから。神業とはこういうのを言うのでしょう。技も極めると、理屈抜きに美しくなります。これは誰が観ても聴いても感動するに違いありません。
 いろんなジャンルで天才プレーヤーというのはいますけど、この人の天才っぷりは現代においてずば抜けていると言えるでしょうね。
 ずば抜けた天才の特長として、唯一無二というのがあります。もう音からしてパットです。電子楽器を使おうと何だろうと、とにかく一聴してパットだと分かる。音色はもちろん、パッセージ、発音のタイミング…なんなんでしょうね、真似のしようがありません(たぶん)。
 彼が作る曲もまた、いかにもパット流でして、それについては今までもいくつかの記事で書いてきました。いったいどうやって作ってるんでしょうね。時代やジャンルを超えた普遍性を持っていると思います。
Pat7699 そして、こうしてライヴ映像を観ますとね、彼の弾き方がまた独特だというのが分かります。というか、はっきり言って常識からすると、右手も左手も変です!!あんなふうにピックつまんでたら、普通ああいうふうに弾けないっしょ!?
 いつかも書いたような気がしますが、大概天才的プレーヤーってこうなんですよ。基本的(と言われる)フォームからかなり外れている。そして、それを真似しようとしても、できる予感すらしない。ちょっと上手な人の前で、そんな楽器の持ち方やら弾き方したら、大概怒られます(笑)。
 そうですねえ、今思い出した変な弾き方の人は、ヴァイオリンではステファン・グラッペリ、ギターでは長谷川きよし、三味線や箏では中能島欣一、ピアノではグレン・グールドキース・ジャレットでしょうかね。
 スポーツの世界でもそうです。イチローや王貞治を挙げるまでもありません。おそらく彼らは、私たちと脳が違うんだと思います。体の構造はそれほど違わないのではないか。脳が違うから体の使い方が変わってくるんでしょうね(たぶん)。
 ちなみに私の弾き方もそうとう変ですが、しかし生まれる音楽は全然天才的ではなくて、やっぱり変です(汗)。それは単に訓練されてない、洗練されてないからでして…ま、それはそれとしまして、このDVDでのパットのプレイは、基本とか変とか、そういう次元を軽く超えてしまっていて、もうただただ偉大です。偉大な美しさ。非常にこちらに近く迫ってくるのに、しかし近づきがたい聖域であるような、こちらの小ささを痛感させられるような衝撃的な美しさです。人間ってすごいですよ。いったい宇宙にこれほど高度な音楽を奏でる生物が他にいるのでしょうか。
 なんと大げさなと思われた方、YouTubeでちょっとだけでも観て聴いてみてください。音悪いですけど、そんなの関係ないっす。まずは代表的曲の神的ソロ。
Have you heard
 次は、珍しくわかりやすいコテコテな曲です。私こういうの大好きなんです。泣けます。
Last Train Home
 いかがでしたか?この2曲以外にも名曲名演奏満載です。DVDも安いですから、ぜひお買い求めください。
 こういうの聴くと、電気楽器とか生楽器とか関係ないような気もしてきますね。シンセギターが生き物のようです。電気も自然現象ですからねえ。魂こめられるんですねえ。ふぅ。

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2007.05.30

『騒音文化論−なぜ日本の街はこんなにうるさいのか』 中島義道 (講談社+α文庫)

Souon 「うるさい日本の私」の続編、「うるさい日本の私〜それから」の文庫版です。なんだかだ言って、また読んでしまいました。そして、また哲学してしまった…いや、させられてしまった。決して好きではないのに気になる。これはもしかして…。
 なんちゃって、あくまで仕事上必要に迫られて読んだんです。氏の本も3冊目ともなれば、さすがに相手の出方もわかります。3戦目ともなれば、ここでこういう技が来るなと予想がつく。だから、それなりの受け身を取れるようになりました。そういう意味では、いいプロレスの試合が出来たと思いますよ。
 不思議なもんですね、手が絶対合わないと思ってたのに、いつのまにかこちらが向こうに合わせられるようになった。向こうは相変わらず自分勝手な技を仕掛けてきますけど。
 また、いろんな所に文句を言ってます。駅員の声が大きいと言って、その手からマイクを取り上げて線路に投げ、駅長室へ直行。ラーメン屋に突然怒鳴り込み。教会の礼拝に乱入…もう、私もそのくらいのことでは驚かなくなってしまいました。
 私、3戦目で少し分かったんです。中島さんの言っていることは正しいんだけど、絶対に違和感がある、その原因が。
 この本で、中島さんは何度も自分を病気だと言います。たしかに、音アレルギーというか、潔癖症というか、理論依存というか、まあ一般的なバカ日本人からすると、ちょっと病気っぽいですね。で、ご自身もさすがにそこんとこにはお気づきのようです。
 それでですねえ、私、今まで彼が病気っぽいと思いながら、彼自身があまりにその境遇の悲惨さを強調するものだから、なんだか内心可哀想に思っていたんですよ。そこがどうもいけなかったらしい。そこが違和感の原因でもあったようです。
 つまり、中島さん、自分が病気であると認めながら、その病気を治そうとは全くしていないように見えるのです。病人にも病気を治そうとしない権利があるのは重々承知していますが、しかし、それだったら多少の不自由は責任持って耐えてほしい。苦痛の軽減の方法のベクトルがいつも一方向にしか向いてないんですよね。内側からその苦痛を克服していくというアイデアは彼にはないようです。いや、もしかするとそういう努力をした上で、ああいう暴挙(にしか思えません、バカ日本人には)に出ているのかもしれない。だとしても、その努力の跡が文章には全く表れていないんですよ。だから、自分と違う何かを感じてイライラしてしまう。自分だったら、ちょっと違う方法を考えるなと。治療法を模索するなと。
 いやあ、3冊読んでよかった。2冊目まではそれに気づかなくて、実に不快だったんです。でも、今回それが分かったんで、それなりの受け身が出来て、こちらの心はそれほど痛まなかったということです。
 この本では「騒音」に限らず、標語や形式的な言葉、さらには中島さんの本に共感した人にまで矛先が向きますが、さすがにここまで来ると、彼の精神性というか病状というかが、もうよく分かってますからね、案外楽しく読むことができました。それにしても、日本人が愛する自然の美というものが実は人工の美だという論は、ちょっと一面的に過ぎて滑稽にすら感じられましたね。たとえば人工的な形式にこそ表れる個性や美というものへの感受性というものはないんでしょうか。
 こういう言葉は出てこなかったかと思いますが、結局彼は、「婉曲」「朧化」「忖度」などという、私の愛する日本的美意識を嫌悪しているのであって、これは、例えば私が大好きな卵やそばに対するアレルギーを持っている人がいるのと同じことなのかな、なんて思いました。生理的なものなんで、ホントはお互いさまくらいにしておけばいいんですけどね。感覚を論理によって言語化するから面倒な(滑稽な)ことになるんです。
 またまた出ちゃいますが、あんまり「コト」化しない方がいいってことです。わけわからん「モノ(もののけ)」には、あんまり立ち向かわないで適当にやりすごす、というのこそ日本の伝統的なやり方でしょう。私にはそちらの方がかっこいい態度に見えるのですが。
 ま、ここまで来るのにずいぶんと哲学させていただきましたね。そういう意味では完全に中島選手の勝ちです。3試合もさせられたし(笑)。せっかくだから、もういっちょ行ってみようかな。

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2007.05.29

『新「ことば」シリーズ20 文字と社会』 国立国語研究所 (ぎょうせい)

32408128 国立国語研究所発行の『新「ことば」シリーズ20 文字と社会』が学校に届けられていたので、一通り目を通してみました。
 阿刀田高さんの巻頭エッセイはどうということなし(笑)。養老孟司さんと桜井洋子アナ、そして杉戸清樹国語研究所長さんの座談会は、やっぱり養老さんの話が面白かった。クオリアを消去したのが「言語」か、なるほど。
 「ことば事情」コーナーでは最近ちょうど気になっていたことがいくつか取り上げられていました。


 ・最近、民放を中心にテロップが多い。
 これはちょっと多過ぎではないでしょうか。バラエティーとかしつこい感じがしますね。でも、若者はその方がいいと言います。マンガ文化でしょうかね。映像と文字の融合。でもアニメにはないんだよなあ。不思議。

 ・明朝体の字体が実際の手書き体と違う。
 たとえば以下の字。
Kanji56 
 これは学校で漢字を教える時、けっこう困るんですよね。小学校では国語の教科書は教科書体ですが、高校ですと明朝体なんですよね。教科書を真似て漢字を書くと、画数が変ってしまったりして、たとえば漢字検定で不正解になってしまう。これは困ったことです。

 ・戸籍上の漢字のヴァリエーションがやたら多い。
 私の住む地域は「渡辺」さんが異常に多いことで有名なのですが、その「辺」のヴァリエーションがこれまた異常です。ユニコードですと全部で24種類表示することができますが、実はそれでも足りません。
Kanji56
 ま、役所の戸籍係の人が間違えたのが正式なものになってしまっている、というケースがほとんどなんですよね。面白いと言えば面白い。

 「ことばの質問」コーナーにもいろいろと興味深い話が載っておりましたが、やっぱりこれですかねえ。
 Konnichiwa
 最近いただくメールなどで、たしかにこういう表記が目立ちます。私はいちおう「こんにちは」と書きますが、生徒など「こんにちわ」あるいは「こんにちゎ」と書くのが普通ですし、大人の方、それも大学の先生などでも「こんにちわ」と書いてよこすことがあります。おそらくそれらはシャレだと思いますし、たしかにちょっとライトでカワイイ感じがしますよね。ですから、私はそれほど抵抗はないんですけど、世の中にはこういう風潮に眉をしかめる人もたくさんいます。例えばこういう人たち。

『こんにちわ』撲滅委員会

 これもたぶんこれ自体がシャレだと思います…いや、シャレだと思いたい。まさか「こんにちは」原理主義団体ではないよなあ。ま、日本語の仮名遣い史的に言っても、これをやり玉に挙げるなら他にもいろいろと…ということになってしまう。ま、使い分けができればいいんじゃないっすか?と、いつものいい加減な発言を繰り返してますと、まじめな原理主義者の皆さんに「国語の先生のクセになんだ!」と言われてしまいますから、気をつけないと。
 最初の話に戻ります。言葉はクオリア(個人的感覚)を消去しようとしたものなんですが、完全な消去というのはムリなんですよね。そこんとこに生じる微妙なズレが、数学的な記号とは違う味わいや豊かさ、生命感を生むわけでして、そういう言葉の本質を無視して愚痴るというのは、いつの時代にも聞き苦しく見苦しいものですね。

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2007.05.28

『うるさい日本の私』 中島義道 (新潮文庫)

Urusai  『〈対話〉のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』 で私の心をさんざん乱した中島センセイの代表作を読むはめになりました。ちょっと事情があって生徒と日本の音環境(騒音文化…中島センセイは文化騒音と言いますが…やサウンドスケープ)について勉強することになりまして、その重要参考人、じゃなく重要参考書として登場願ったわけであります。
 そして再び心千々に乱れちゃったのでありまして、う〜全く中島センセイは罪な人です。
 「対話のない社会」でもかなり暴走してましたけど、こちらはもっとすごかった。あらゆる所に出向いて改善要求をします。
 自治体、鉄道会社、デパートから、幼稚園、宗教団体、さおだけ屋…。内容は、海水浴場での注意放送、美術館でのメガホンによる誘導、エスカレーターや動く歩道の注意放送、駅の構内放送、電車やバスの車内放送、デパートやスーパーなどの宣伝放送、銀行のATMや駐車場のテープ音、商店街や行楽地のBGMや有線放送などをなくせ!あるいは大幅に削減せよ!ということです。
 ふぅ…、で、中島センセイ孤軍奮闘するんですが、なかなか要求が受けいれられない。そりゃあそうでしょ。でも、一部では「改善」がなされ、鬼の首を獲ったかのように自慢気に報告する…。
 これじゃあ、単なるクレーマーではないか、『悲鳴をあげる学校』に出てくるイチャモン野郎たちや、あるいは『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』のあの狂った親子みたいなもんだ、と片づけられればある意味こちらは救われるんですけどね。そうならないから、腹を立てたり自分に災厄がふりかからないようにと祈ったりするだけではすまされないから、心乱れる。
 ものすごい違和感があって、ものすごい不快感があるのに関わらず、考えれば考えるほど相手が正しくなってしまい、こちらの実感に自信が持てなくなってしまう。理論武装して闘おうとしても、相手の武装の完璧さばかり見せつけられてしまい、じゃあとばかりにゲリラ戦に持ち込もうと思うと、それはすなわち相手の術中にはまることになり、自ら負けを認めざるをえなくなる。辛いっす。
 私はこの日本の「文化騒音」は「騒音文化」だと思っていますし、それを生む日本文化の土壌も基本的に自分に合っているので、なんの不快感も持たず、場合によっては「面白いな」と観察対象にしてしまうほどなので、とにかく中島センセイとは議論がかみ合うわけありませんね。で、センセイはそういう無頓着な加害者であるワタクシたちを言葉を極めて糾弾するので、それは腹が立ってくるんですよ。お前こそうるさい!と。
 しかし、どこか「カワイイ」ところもある中島センセイ。そこがまた憎いんですよね。自らをドン・キホーテと称していますし、実は辛いんだと弱音を吐くときもある。花粉症が辛いように音アレルギーも辛いだろうな、と同情したくなる部分も多々あります。
 でもなあ、でも、やっぱり何かが違う。その何かとはなんなのか。センセイは最終的には「察する」文化よりも「語る」文化を!といういつもの結論に至るんですが、そう、私にはとっての「語る」は「モノ」の「コト」化そのものですからね、なんでも「語る」というのにはやっぱり私は反対です。自己中心的なガチンコは嫌いですので。
 な〜んて、こんなふうに、悩み、考え、思いを馳せ、自分の実感、他者の実感と闘い、なんとなくを論理的に説明しようとしすること、それがすなわち「哲学」でありまして、それこそまんまと中島センセイの術中にはまって、みんな哲学者しちゃってるわけでしょ。哲学が根付かないこの日本に、こうして哲学の種を分かり易い形で蒔こうとしているドン・キホーテは、なかなかの巧者でありますな。
 私が中島センセイを心から嫌いになれない理由は、まあそんなところに存するのでありますが、別の意味でそのことを確認できたのも、この本の収穫でした。そう、文中に私の敬愛する方が「お仲間」として登場していたからです。
 それは、まず鈴木孝夫大明神様。なにしろ大明神様ですからね、実際じっくりお話しさせていただきましたが、彼も偉大なドン・キホーテでいらっしゃいましたよ。ただ、ものすごくユーモアに溢れていて、正直「カワイイ」。はっきり申して「超萌え〜」でした。そんな経験がありますから、もしかすると中島センセイも一緒に呑めば、自分にとってものすごく魅力的な人になりうるのかなあ、なんてことも妄想されます。たぶん、そうなんでしょうね。
 あと一人、チェンバロ製作家の横田誠三さんも中島さんのお仲間なんだ。横田さんとも昔はよくお会いしてお話する機会がありました。彼もまた大変ユニークで魅力的な方です。なんとなく横田さんが「文化騒音」嫌いだというのも分かりますよ。そういうお仕事をされているわけですし。
 と、こんな感じで、いろんな意味で心乱れさせられました。続いて「うるさい日本の私…それから」を読んでいます。これもまたすごいんですよ。また報告します。なんだかんだ言って中毒に、いやファンになってるかもしれない…いやいや、やっぱり嫌い…。

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2007.05.27

『アルビノーニ オーボエ協奏曲集』 ロブソン&レイサム(オーボエ) スタンデイジ指揮コレギウム・ムジクム90

ALBINONI: Oboe Concertos
Anthony Robson, oboe / Catherine Latham, oboe
Collegium Musicum 90(Simon Standage, conductor)
Chan0579 昨日は歌謡曲三昧でしたが、今日は打って変わってバロック世界にドップリでした。
 私の所属するカメラータ・ムジカーレという古楽器団体の秋のコンサートへ向けての第1回練習が八王子で行なわれました。今年のプログラムもなかなか魅力的ですね。チマローザは私にとっても初体験。この曲を古楽器で演奏するというのは、もしかして世界初?
 さて、私はヴァイオリン&ヴィオラ担当でして、合奏部のメンバーとして休みなく全曲に参加することが多いのですが、今回は1曲だけ降り番があります。それがアルビノーニの2本のオーボエのための協奏曲でして、練習場所の御主人お手製のスパゲティーなどをいただきながら、ゆっくりその練習を聴かせていただきました。
 いや、ほんと初めての練習とは思えないほど完成度が高く驚いてしまったのですが、それにしてもこの曲をこうして間近に聴く機会を得るなんて、昔は想像すらできませんでしたよ。それも古楽器で。
 昔というのは四半世紀以上前のことです。当時高校生でバロック音楽に目覚めたワタクシは、お小遣いをためてはレコードを買いあさっておりました。そんな中で特に愛聴したのが、アルビノーニの協奏曲集作品9でした。もちろん、演奏はイ・ムジチ合奏団、ソロはホリガーとブールグのオーボエとアーヨのヴァイオリンでした。あれは今聴いてもたしかに名演奏、名盤ですよね。特にホリガーのスマートで艶やかな音色と、ほとんど作曲と言っていい旋律的装飾の素晴らしさは、本当にさすがですね。
Chan0602 今回カメムジで演奏するのはその作品9から第9番です。2本のオーボエが寄り添い、あるいは対話しながら、美しいタペストリーを紡いでいきます。それを支える弦の響きも魅力的ですね。アルビノーニの合奏部というのはけっこう特徴的でして、早い楽章では通奏低音は淡々と駆け足、それに歩調を合わせつつヴィオラが不思議な動きをします。アルビノーニのヴィオラは弾き甲斐があるんですよね。ヴァイオリンはファーストとセカンドがユニゾンになることが多く、分散和音的な動きも多いものですから、そうですねえ、全体としては和声が厚すぎず、清澄な印象を与えることが多い。それこそがアルビノーニです。
 あと、アルビノーニと言えば緩徐楽章の美しさですね。不協和音とその解決を多用して、聴く者の心をとらえるあたりコテコテと言えばコテコテですが、実際に生で聴きますとたしかに美しいですね。特にオーボエどうしで音がぶつかると胸キュンしちゃいます。アルビノーニ節。
Chan0610 さて、このアルビノーニのオーボエ協奏曲の新しい名録音として人気があるのが、今日紹介するCDたちです。サイモン・スタンデージ指揮のコレギウム・ムジクム90にロブソンとレイサムのオーボエ。もちろんオリジナル楽器による演奏です。イ・ムジチも比較的ヴィブラートを抑えた演奏をしますが、やはりこちらの弦の透明感にはかないませんね。先ほど書いた弦の特徴が際立って聞こえます。バロック当時としてもなかなか個性的な響きではないでしょうか。ロブソンとレイサムのバロック・オーボエも軟らかく丸みのある音で美しい。装飾は控え目ですけれど、逆にその純粋さがいいですねえ。なんというか子どもの純粋さのような感じです。ホリガーのものとは対照的ですね。
 アルビノーニをオリジナル楽器で演奏した録音というのはまだまだ数が少ない。もっともっと聴いてみたいですねえ。実は私としては幻(あるいは謎)の作品集と言われる作品10を古楽器で聴いてみたいんですが。あっそうか、自分たちで演奏してしまえばいいのか。楽譜はありますからね。

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オーボエ協奏曲集
2本のオーボエ協奏曲集1
2本のオーボエ協奏曲集2

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2007.05.26

歌謡曲バンドふじやま in ふじよしだジャズストリート2007

20070526 (更新遅れましたが…) いやあ〜、今日は楽しかったなあ。やっぱり若い子たちと一緒だとこっちも元気が出ますねえ。
 というわけで、今日は告知していました通り、道の駅「富士吉田」で行われた、ふじよしだジャズストリート2007に参加させていただきました。メインはウチの高校(富士学苑高校)のジャズバンド部、最近メディアに出まくりの「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」でありまして、ワタクシたちはまあ前座でした。
 私たちオジサン、オバサンも単純ですね、高校生に負けじといつも以上にノリノリで頑張りました(って、私はいつも彼ら彼女らと一緒なんですけどね、それでもこういうハレの日にはちょっとかっこいいとこ見せようかな、なんて下心もわいてくるわけです)。
 高校生の演奏や、その他の大人バンドの演奏もそれぞれ素晴らしく、私たちは歌謡曲ということもあって(全然ジャズじゃないじゃん!)、ちょっと浮き気味だったかもしれませんね。ま、こういうギャグ路線のバンドもいいでしょ?
 我々、いつものとおり、当日の朝に初めて全員集合ということで、構成だけ確認して本番という感じでした。いつもすみません、そんなんで。でも、いろいろなジャンルで百戦錬磨のツワモノ(?)ぞろいですからね、コードと構成さえ分かってれば、その場で空気を読んで即興ですませてしまうんです。ある意味最もジャズしてたりして(笑)。
 というわけで、いつものとおり、笑っていただくためにmp3をアップしときます。みんな一番大切なところではずすのは、これはネタですので、あしからず。ヒマな人はお聴きくださいませ。

1 コーヒールンバ(西田佐知子)
2 お祭りマンボ(美空ひばり)
3 プレイバックpart2(山口百恵)
4 あなた(小坂明子)
5 ミ・アモーレ(中森明菜)
6 vogue(浜崎あゆみ)
7 帰ってこいよ(松村和子)

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2007.05.25

『名代手焼煎餅 五月ヶ瀬』

Satsukigase 日芸に通っている卒業生が、これを持って学校に遊びに来ました。いや、別に福井に行ってきたわけじゃなくて、物産展みたいなところで買ってきたと。買って食べたら妙にうまかったのでお土産に、とのこと。
 なんか他にもドライ・マンゴーも買ってきたんだけど、来る途中我慢できなくて開けて食べちゃったということで、それを一緒につまみながら、いろいろと刺激的な話を聞きました。
 で、この五月ヶ瀬煎餅も我慢できなくなったらしく、自ら開けて食べ始めました。まあ、人のところに持っていくお土産というのは、大概自分の好物なのであって、内心「せっかくですから、ごいっしょに」とか言ってほしいものですよね。だから、彼女のストレートな行動は責められません。アーティストを目指す者、そのくらいのパフォーマンスがなければ。
 さて、私もいただいてみたんですが、うん、これはたしかにうまい。類似のお菓子というのは各地にありますが、生地の絶妙の甘さや食感にピーナッツの香ばしさがたまりません。予想より軟らかめですが、それが口の中で溶けていく感じがまた類似品とは違います。焼き方に何か秘密がありそうです。
 パッケージには、おっ、丸に三つ柏の家紋が描かれているぞ、なんでだろう、越前って何氏だったかなあ、などと思いながら、その正三角形に配置された紋をさらによく見ますと、ありゃりゃりゃ、正三角形の頂点に位置しているのは三つ柏ではないではないか!そこには、どっかで見たような建物の絵が…。藤田まこと御用達…いやいや、モンドセレクションのマークではないですか!やられた。思いっきり勘亭流文字の間に挟まれたこのフランス語(かな?)世界は…。
 で、ちょっと調べてみましたら、主水御用達の中でもかな〜りハイレベルなおせんべいらしい。モンドセレクションの最高賞である特別金賞(最高金賞・グランドゴールドメダル・95点以上)を6回も獲ってる。それも3年以上連続なので国際優秀品質賞も受賞してるんですね。どうりでうまいはずだ。
 最近はモンドセレクションも乱発の傾向がありますが、特別金賞や国際優秀品質賞はそう獲れるものではありませんから。やりますな。
 パッケージの裏を見てみますと、ナッツ・ハードクッキーと書いてあります。なるほど、煎餅にしてクッキーか。いかにも国際的ですね(笑)。
 五月ヶ瀬のホームページを見てみますと、いろいろと興味深いお菓子が並んでいます。ナッツ・ハードクッキー以外にも大量のモンドセレクション受賞商品があるようですね。モンドセレクションは出品してなんぼの世界ですから、社長さんがなかなか積極的でユニークな方と見ました。必殺仕事人ってことですね(笑)。

五月ヶ瀬ホームページ

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2007.05.24

ステファン・グラッペリ 『スウィング・フロム・パリ』

Stephane Grappelli 『Swing from Paris (1935-1943)』
120688 5月16日は伝説のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの命日でした。彼も43歳で亡くなってるんですね。天才は夭逝するのかなあ。
 ジャンゴが亡くなったのが、1953年です。もうその頃は一緒に活動していませんでしたが、盟友のヴァイオリニスト、ステファン・グラッペリは相当ショックだったんでしょうねえ、その後しばらく彼のレコーディングは聴かれなくなってしまいました。
 きっとグラッペリはジャンゴとの楽しい日々を思い出して、いかに自分が彼に支えされていたか痛感していたんでしょうね。まるで自分の半身がなくなってしまったかのように感じていたのでは。
 その二人の楽しく充実した日々が記録されているのが、このアルバムです。フランス・ホット・クラブ五重奏団(Quintette du Hot Club de France)の演奏もたくさん聴けますからね。
 QHCFは1934年にデビューしています。当時のフランスの国情は不安定でしたが、文化的には旧来の伝統的なものと、諸外国(東欧文化など)がせめぎあい融合して、生き生きとした新しい波が起きつつありました。音楽面でもいろいろな実験が行なわれようです。
 そんな中、グラッペリとジャンゴを中心に結成されたQHCFは、特に画期的な楽団でした。なにしろジャズの弦楽五重奏なのですから。グラッペリのヴァイオリンとジャンゴのギターを前面に、それを2本のリズムギターとベースが支えるという形態、いったい誰が考えつくでしょうか。今でもこういう編成のものは見かけませんね。
 その響きは今聴いても新鮮です。このアルバムではその他にもグラッペリ独自のカルテットやクインテット、珍しくヴォーカルをフィーチャーしたものなど、いろいろな編成を楽しめますが、やはり、QHCFがいいですねえ。スウィング感が違います。
 それはやはりジャンゴの力による部分が大きいのではないでしょうか。彼のリズム感はソロプレイの中で最も発揮されますからね。もちろん単なる早弾きではありません。ああいう独特の感じ、誰が聴いてもジャンゴだと分かる音というのは、どうやって生み出されるのでしょう。ハンディーのことはあまり言いたくありませんが、彼が18歳の時に火事で左手の薬指と小指をほとんど失ってしまったことと関係があるのかもしれませんね。
 ヴァイオリニストの立場から言いますと、グラッペリのコピー(ものまね)とはいうのは絶対に絶対に不可能なんですが、おそらくギタリストにとってのジャンゴというのもそういう存在なのでしょう。
 おっと、このアルバムの主役よりもジャンゴの話が多くなってしまった。えっと、グラッペリですが、私たちがよく知るグラッペリ、すなわちジャンゴを失ってから89歳で亡くなるまでの、あのグラッペリ節とは正直かなり違った音づくりをしています。なにしろまだ20代ですかね。月並みな言い方ですが、味わいは少ないけれど元気という感じでしょうか。のちのグラッペリはまさに「語る」ヴァイオリンですが、この頃はまだまだ「歌う」ヴァイオリンという感じですね。
 とにかく、こうして70年も前の名演を聴けるというのは、本当に幸せなことです。ナクソス・ミュージック・ライブラリーの「ジャズ・レジェンド」は本当に聴き応えありますよ。すごい時代でした。冷静に考えれば、当時の人々はいろいろな意味で不安を抱えていたでしょうね。世界史的に見ると難しい時期です。でも、やっぱり、彼らを生で聴けた当時の人々に少しジェラシーを感じてしまいます。

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2007.05.23

『奇想の系譜』 辻惟雄 (ちくま学芸文庫)

Kisounokeifu こちら『こんなに楽しい江戸の浮世絵』の記事で軽く登場願った辻先生ですが、実は本当にとんでもなく偉大な方なんですよね。今日は辻さんの歴史的名著を再読いたしました。
 す、すごい。すごすぎる。なんだかカッコいいぞ、辻先生。昨日の流れで行くと、辻さんはオタクじゃないなあ。でも、学者としてくくってしまうのもなんだか。
 全体を見渡した上で、埋もれたものを発掘するというのは、かなり難しい作業です。オタクや学者のような微視から入るやり方ではムリですね。ですから、どちらかというと表現者に近いかもしれない。芸術家たちが言うじゃないですか。もともとあるものをつかまえるだけだって。
 とにかくこの本はあらゆる意味でバイブルです。初版が出てからもう30年以上経っているんですよ。しかし、まった色褪せないどころか、近年ますます輝きを増しています。いったいどれほどの研究者やアーティスト、鑑賞者たちに影響を与えてきたのでしょう。
 ここで採り上げられている画家は、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳などです。この本が発表された時、いったいどれほどの人が彼らを知っていたでしょうか。彼らの絵を観たことがあったでしょうか。
 今となっては、岩佐又兵衛や伊藤若冲はもちろん、他の人たちもある意味日本美術史上の人気者になっています。辻さんのこの本がなければ、こういうことにはならなかったかもしれない。少なくとも数十年、彼らは埋もれたままだったでしょう。そうすると、今アートの世界やサブカルチャーの世界で活躍する、あの人もあの人も、あの作品も生まれなかったかもしれない。ちょっとゾッとしますね。それほど辻さんは画期的なことをしたわけです。
 そして、その名著が3年ほど前に文庫になって手に入れやすくなったわけです。以前は手に入れたくとも高くて手が出ませんでしたからね。私も大学の図書館でむさぼるように読んだものでした。
 パンクなもの、カルトなもの、エキセントリックなもの、エログロやナンセンスは、「異端」として片づけてしまうのが一番簡単です。そうしてこちらも納得させられれば、それなりに安心というものです。場合によっては貶め無視していればいい。しかし、それを巨視的な立場から正統(のすぐ隣)に引き戻し、一般にもそれを納得させるというのは、これは並大抵のことではない。もちろんそれなりの学術的な裏付けが提示されなければならない。私のような、単なるお変人が奇を衒って妙なことを言っているのとは、ちと、いやかなり違いますね。ああ、恥ずかしい…。
 このたび久々にこの名著を読み直してみたんですが、そうですねえ、インパクトはやっぱり若冲かなあ。でも、やっぱり若冲自身には「オタク」を感じちゃうんですよね。ああそう言えばこの記事にもそんなこと書いてたな。非常に微視的。局所的。しかし、昨日も書いたように、オタクは最終的に悟りますので。実際、若冲はオタクしながら仏門を志していたわけですし。こういうアプローチの仕方もある。
 で、現代のオタクたちの作品というか、オタクたちが鑑賞している作品も、又兵衛や若冲が数百年後に辻さんに発掘されたように、天才的な研究家によって再発掘されるんでしょうね。そして、ようやく正統の座を獲得するのかもしれません。きっとそうだ。そうして文化の系譜はつながっていくんでしょうね。
 そう考えると、この本で採り上げられている人たちや、現代のカルトなサブカルチャーは、やっぱり前を走りすぎてるのかなあ。数百年も先を。凡人が理解するのに数百年かかるということでしょうか。そう言えばバッハもそんな感じだったなあ。彼もオタクですから。
 そう、微視を極めていくタイプって、結局巨視タイプの誰かの助けを必要とするんですね。時代を超えた両翼によるコラボレーションによって、ようやくその価値が完成するのかもしれません。うん、文化ってそういうものなのかもしれませんね。決して個人だけでは成立しない。そう考えると、オタクも自立を企てちゃいけないってことですね。もっと孤立しなくちゃ(笑)。
 というわけで、またとんでもない方向に行っちゃいましたけど、とにかくこの歴史的な名著は一家に一冊あってもよいかと思います。図版多数。ただしモノクロなので、いやモノクロだからこそ、ホンモノを観たくなりますよ。私も何年かかけて、実物に会っていこうと思っています。

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2007.05.22

『オタク論!』 唐沢俊一・岡田斗司夫 (創出版)

Otakuron 大変楽しく読みました。非常に勉強になった。この二人はやっぱりすごいわ。憧れますね。
 この本の内容について、いろいろ言う人も、そりゃあいるでしょうけど、こうして自分たちのセンスで「語る」ことこそ、オタクの真骨頂ですからね。そのへんを理解しなきゃあ、無粋ですよ。
 さてさて、内容については、実際買っていただいて読んでいただくとして、今日は彼らにインスパイアされた私の「オタク論」を展開いたしましょうか。
 私は今までもいろいろなところで「オタク」や「萌え」について語ってきました。それらはあくまでも私独自の「モノ・コト論(物語論)」の一部として語ってきたわけでして、正直万人に理解される性質のものではなかったようです。まあ、その道のプロではありませんから、相手にされずとも気にしませんけど(笑)。その基本的な内容はこういうことでした。思いつくままランダムに書きます。

 オタク文化は平安の貴族文化の系譜上にある。オタク文化の基礎は女性文化である。現代人は経済的に豊かになった結果、総貴族化している。現代では男にはめられていた例えば「武士道」などのタガが外されたため、男性の女性化が進んだ。その結果、男のオタク文化が噴出した。「萌え」は平安貴族の言う「をかし(招きたい・手もとに置いておきたい)」という感情に近い。現代人は、工業技術とデジタル技術を手に入れた結果、その「をかし」を(疑似)現実化しやすくなった(わかりやすい例で言えばフィギュアとかDVDとか)。オタクは「萌え=をかし」という感情をベースとして、時間を微分し、すなわち本来転変してゆく「モノ」を疑似的に固定(「コト」化)しようとする。その行為を日本人は古来「カタル」と呼んでいる。だから、「モノガタリ」とはまさに「をかし」の思想の現実化そのものである。

 まあ、ほかにもいろいろあるんですけどね。とにかくこんなことを中心に、それこそランダムにこのブログ上で語ってきました。私もほら、やっぱり語り部なんですよ。すなわちオタク。
 ん?その前にちょっと根本的な問題提起をしなきゃだな。
 私はホントにオタクなのだろうか。これは自分にとって非常に大きな課題です。実感としては、どうも自分はオタクになりきれないコンプレックスがあるんですね。オタクに憧れつつ、どうも自分にはそこまで到達する才能や根性がないような気がするんです。
 第一、この前みたいに、記号としてのオタクを演じてしまうあたり、もうすでに真性のオタクでないことを自らカミングアウトしているようなものです。憧れて、大いに愛しているのに、ああして揶揄の対象にするというのは、いったい何なんでしょう。屈折した愛情表現なのでしょうか。それとも、オタクオタクというジャンルがあって、実は私はオタヲタなのでしょうか。
 どうも、オタクについて語りたがるところを見ますと、やっぱり「オタヲタ」ということのようですね。誰しも何かに関して語りたがるものです。そういう意味ではほとんど全ての人がオタクなわけです。ただ、現代のオタク、というか、オタクと呼ばれるようになった語り部は、先ほど書いたように、どうしても現代のメディアやテクノロジーの上で生き生きとしますから、そういう実は限られた分野の語り部だけがオタク的属性を持っているかのようにとらえられてしまう。経済効果もありますから、どうしてもそういう分野の語り部たちがメディアに乗りやすいですし、しかたありませんけどね。
 で、今回、両巨頭、ほとんど伝説の語り部であるお二人の対談を読んでましてね、一つものすごくよくわかったことがあったんです。これは前々から感じていたことですし、実際ここにも何回か書いた覚えはあるのですが、今回再確認したと言いますか、ある意味確信したんです。それは、「をかし」→「あはれなり」、「微視的文化」→「巨視的文化」、「微分」→「積分」という流れ、あるいはもっと進めると、「転変」→「不変」→「転変」→「不変」という大きな流れです。
 どういうことかと申しますと、こういうことです。
 「萌え=をかし(招きたい)」的心理に基づく「固定」願望は、あるモノ(物・者)への執着という形になって現れます。執着して手元に置いておこうと画策します。我々はそれをいろいろな知恵を駆使して実現しようとしてきましたね。昔ならたいがい文字(コトノハ)を使って語ったり語り継いだりして、消えないように(遠くに行かないように)しました。今ならフィギュアを集めたり、録画したり、まあ知識も含めてコレクションすることが多い。そこには経年変化を乗り越えようとする信念がうかがえます。それがすなわち、私の言う時間を微分するということです。
 ちなみに私の「モノ・コト論」では「モノ」の基本的な性質は「変化・無常・不随意」などです。あらゆる意味で自己の外部ということです。オタク的な活動とは、その「モノ」を「不変・恒常・随意」な「コト」にすること、自己の内部化すること、すなわち「カタル」ということそのものなのです。
 で、私たちは「オタク」というと、そこまでしか観察しないんですね。しかし、実はそこで終わらない。そこで終わらないのが日本文化のすごいところです。だいたい、平安の貴族文化にしても、もともとは「オタク」的なものなのに、今となっては立派な高尚な伝統文化になってるじゃないですか。江戸の浮世絵なんかもですねえ。
 そう、微分した無数の「コト」を積分していくと、再び「モノ」になっていくわけです。昔の日本人は、そこに気づいた時に「あはれ」と言いました。ため息をついたんですね。もっとわかりやすく言うと「もののあはれ」です。ちゃんと「モノ(変化するもの)の」と言っています。
 私たちが語ったこと、一生懸命「コト」化した「コト」はあるまでも疑似的なものなのです。ですから実際には必ず経年変化していく。その「萌え=をかし」の対象は、どうしても遠くなっていくんです。というより、まず対象より前に自分が変化します。あれほど溺愛していたのに今はさめた、なんてこといくらでもあります。そうした感慨というのは、実は巨視的、俯瞰的な見方の結果生まれてきたものです。微視(微分・コト)に執着したがために、いや、したおかげで、その裏側にある真実「もののあはれ」に気づくわけです。こうして、昔の「萌え=をかし」は「あはれ」となって、ノスタルジーを伴った新しい意味を獲得します。リアルタイムの「萌え=をかし」事象に対して、ある種の重み、深み、高尚さ、歴史的意味などを付加されていくんですね。そして、立派な伝統文化となる。
 今回、オタク(おたく)第1世代の代表たるお二人の語り部さん、すっかりそういう「もののあはれ」モードになってるんですね。昔は良かった…とは直接言ってませんが、世代間のギャップを語ったり、老後を気にしたり、コレクションの処分に悩んだり、オタクは死んだと言って涙したり…。
 私はそういう語り部さんの言葉に接して、ああこうして昭和・平成オタク文化も一つの昭和・平成国風文化になっていくんだなって思いました。そして、こういうことは、それこそ平安時代よりももっと前から、ずっと繰り返されてきたんだなって直感したんです。
 で、長くなってしまいましたが、先ほどの「転変」→「不変」→「転変」→「不変」という流れについて説明しておきましょう。本来全てのモノは時間とともに変化します。それを不変なコトとして見ようとするのがオタク的指向です。しかし、オタクたちも、ある程度生きていると、不変と思っていたコトが実際には変化しているモノであったことを再発見します。ここまではさっき説明しました。そして、最後、ああ全てのモノが変化するとことが、世の中の唯一の真理、不変の真理、普遍の真理であると分かるわけです。ある意味、オタク的な思考に陥らないと、世の中の真理はわからない仕組みになっているわけなんですね。
 お釈迦さまは、まさに貴族としてオタク的生活(なんでも手に入る生活)をしていました。そして、そこに空しさを観じて出家し、無常が世の真理だと気づいたのでした。
 ということは、オタクの行く末は出家ですか!?まず第1世代の皆さん(私も入るかな)が出家するんでしょうかね。そして入滅。成仏ですか(笑)。
 と、とんでもない方向に話が進んでしまいましたが、私は至極まじめに語っていたつもりです。これだけ語れれば(騙れれば)私も立派なオタクですかね。オタヲタ。人生オタク。文化オタク。案外自分オタクかもしれないな。
 まあ、こうして尊敬すべき先輩オタクの方々の語りを受けて、こちらも語る、語り継いでいく、これこそ文化そのものなのかもしれませんね。

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2007.05.21

鈴木秀美・小島芳子 『ロマンス』

414me91s6xl_aa240_ 今年もまた、小島芳子さんの命日がやってまいりました。今年、私は彼女が亡くなった年齢になります。そんな意味でもいろいろと考えてしまった今日一日でありました。
 昨年は若松夏美さんとの共演によるモーツァルトを聴きましたね。今年はこちら鈴木秀美さんとの共演、少し毛色の変ったものをじっくり聴きました。これがまた素晴らしい。心が洗われました。
 昨日は興奮ぎみに妙なことを語ってしまいましたが、そこにあるのは共演者に対する信頼と愛情でありまして、基本的には間違っていないと思っています。
 このアルバムには、そうした二人の圧倒的な「思いやり」が溢れております。そして、単に共演者どうしのそれだけではなく、音楽に対して、そして楽器に対しての愛情を、これほど感じることができる録音はそうそうないと思います。本当に温かい。
 説明するまでもなく、鈴木秀美さんはバロック・チェリストとして世界的な活躍をされています。小島さんは特に古典派の演奏に優れたフォルテピアニストでした。そんな二人が、ここでは、なんと堂々と後期ロマン派を奏でているのです。
 使用している楽器は、チェロが18世紀イタリアのオリジナル、弓は19世紀フランスのオリジナル、ピアノが19世紀末フランスのエラールです。
 チェロの弦は当然ガット。なぜなら、後期ロマン派の時代にはまだスチール弦というものはなかったからです。エンドピンはちょうどその頃から使われ始めたそうで、鈴木さんも珍しく(?)エンドピンを使っています。スチール弦はもちろん、エンドピンの歴史もそんなに長くないんですね。
 やはりガット弦らしい倍音の豊富な柔らかい音が魅力的ですね。もちろん、鈴木さんは当時の演奏方法や習慣を研究された上で演奏していますから、ある意味いつものバロック的な表現とは一線を画しています。しかし、いわゆる普通の現代楽器によるロマン派のイメージからしますと、かなり意外な音楽になっているのではないでしょうか。私はロマン派はあんまり聴きませんので、この演奏こそが理想的なような気がしますけれど。たとえばヴィブラートも、ロマンチックな表現のための装飾音といった感じでして、あの貧乏揺すりのような恒常的な音程のズレとは明らかに違うものになっています。もちろんボウイングもです。健康的な浪漫ですね。
 そして、なんといっても小島さんの奏でるエラールの繊細にして豊潤な響き。ああ、フォーレやドビュッシーはこういう響きの中で、ああいう曲を作ったんだなあ。さもありなんです。ショパンの時にも書きましたけれど、こういう響きを聴いてしまいますとね、どうも現代ピアノのある意味均質な響きというものに、何とも言えない物足りなさを感じるようになってしまうんですね。もちろん、逆にピリオド楽器に不満を持つ人がいるのも理解できますけど。たしかに私たちは現代人なわけでして。でもなあ、やっぱり私はこっちが好きだなあ。これはもう趣味の問題でしょう。理屈ではない。
 ピアノについても、楽器だけではなく、小島さんの音楽性やテクニックというものが、この録音の個性を豊かにしていることを忘れてはなりません。チェロという雄弁な楽器をいかに支えるかというのは、いろいろな意味で難しいと想像されますし、鈴木さん同様、ある意味アウェーでの仕事ですから、単純に新鮮だったというような言葉では片付けられないご苦労があったものと思われます。
 そうした環境の中でこのお二人の残した素晴らしい音楽は、これからも多くの影響を与えるものと信じます。ロマン派を得意とされている現役の演奏家の皆さんにもぜひ聴いていただきたいですし、逆にバロックを主戦場にしている皆さんにも聴いていただきたい。ある種の精神性の高さ、すなわち前述した「思いやり」や「愛情」と知的な研鑽があれば、そこにはこうした豊かな泉のような音楽が溢れ出るということなのです。そして、それこそが音楽家の基本そのものなのでした。
 もっともっと、彼女の生の音楽に触れておけばよかった。正直そう思います。きっと、今ごろ天国で、温かくそして優しい音楽を、それこそ泉のように生みだしてくれているのでしょうね。
 最後に収録曲を紹介しておきます。

1. ロマンスop.69(フォーレ)
2. ロマンスop.62(エルガー)
3. 愛のあいさつop.12(エルガー)
4. 歌の情景(ヴェルクマイスター)
5. ロマンツェop.5(ポッパー)
6. シシリエンヌop.78(フォーレ)
7. 夢のあとにop.7-1(フォーレ)
8. アンダルーズop.54-4(ポッパー)
9. セレナードop.54-2(ポッパー)
10. 愛の情景op.12-3(ハーバート)
11. セレナードop.3(ハーバート)
12. ロマンス(ハーバート)
13. エレジーop.17(グラズノフ)
14. カプリースop.79e-1(レーガー)
15. 小さなロマンスop.79e-2(レーガー)
16. 無言のロマンスop.23(ダヴィドフ)
17. 孤独op.9-1(ダヴィドフ)
18. わが母の教え給いし歌op.55-4(ドヴォルザーク)
19. こもりうた(外山雄三)

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2007.05.20

バロックはプロレスだ!

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 見よ!この二つの異次元空間を!
 というわけで、本日はものすごい空間移動をいたしまして、ワタクシご満悦であります。そして感じること多数。人生は楽しいのであります。
 今日はいい天気でしたねえ。朝から吸い込まれるような青空でした。昨日の嵐のため、富士山には再び雪が積もりまして、周囲の新緑と相まって、それはそれは美しい光景です。こんな日はゆっくり富士の麓を散歩でもしたいところですが、今日は仕事→趣味→趣味で東京に行かねばなりません。
 早朝、家を出まして中央道で一路東京へ。途中オークスで盛り上がる府中の東京競馬場を左手に見ます。そう言えば今日、馬以外のモノを目当てに、ここに潜入している友がいるはずだな。健闘を祈る!
 西新宿のパーキングに車を止め、まずはお仕事。2時間ほど某教育関係の方に会いまして、いろいろと作戦会議。それが終わると、さあお楽しみタイムの始まりです。
 バロック・ヴァイオリンとバロック・ヴィオラをかついで、向かうは初台の東京オペラシティであります。なんとあの近江楽堂でお遊びであります。まったくありがたいことですね。演奏会ではなく、お遊びであの響きを独占できるのです。
 ある友人たちが誘ってくれたんです。彼らは本来、今日近江楽堂で演奏会をするはずだったんですね。それがメンバーの都合で不可能になってしまった。で、会場はとってあってキャンセルもできないので、一緒に遊びませんか、と…。う〜なんというもったいないお話でしょう。あの残響3秒の中で、楽しくバロック・アンサンブル三昧ですよ。
 というわけで、私ももう一人の友人を誘って、世界一(?)ぜいたくなお遊びに参加してまいりました。ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロという編成で、ガブリエリやシュメルツァー、マリーニなどを端から弾いていきました。初期ものは久しぶりでして、最初はなんとなく心もとない状態でしたが、あの響きにも助けられながら、時は音楽とともに楽しく流れていったのでした。
 もうこれだけでも、充分シアワセなのですが、今日はその後のイベントもありまして、これがまた良かった〜。さあ、空間移動であります。
 向かうは歌舞伎町。そう歌舞伎町広場に面する遊興施設の7階にある新宿FACEです。今日はここで、プロレス団体IWAジャパンの興行が行われるのです!よっしゃ〜行くぞ〜!
 初台からけっこう歩きましたが、開場10分前くらいに到着。ロッテリアで腹ごしらえして(実はここでアイスコーヒーを全部ぶっちゃけてお漏らし状態になるという大ハプニング発生!しかし、心のレスラーはこのくらいではひるまない!)、いざ当日券で入場です。ワンドリンク制ということで、ワタクシはレモンサワーなど頼みまして、チビチビやりながらゆっくり観戦いたしました。
 まあ、かなりマニアックなので、試合の詳細は記しませんが、いい興行でしたよ。IWA、何度も崩壊の危機に遭いましたけど、若手も育ってきていて、いい団体になってるじゃないですか。ストロングスタイルあり、ギャグ路線あり、女子プロレスあり、男女混合ミックストマッチあり、流血あり、ルチャあり、本当にいろいろ楽しめましたよ。
 今日のゲストの目玉は、ダンプ松本とジャガー横田だったと思います。両ベテランはさすがという試合運びで、う〜む、これはやはり伝統芸能の領域だな、と思わせるパフォーマンスでありました。特にジャガーは素晴らしかった。男女混合試合に出たんですが、男の技をあれだけきれいに受けられるんですから、衰えるどころか、さらに見せる(魅せる)技に磨きがかかっていますね。卍固め、バックドロップ、ウラカンラナもきれいに決まっていました。あっ、技の素晴らしさということでは、ジャガーのパートナーだったエルブレイザーさんにも感動!いいぞ杉さま、静岡の星!
Enman で、本日のMVPジャガー横田さんに試合直後サインしてもらいました!あの激しい試合後すぐに売り場に出るプロ根性は素晴らしいですね。後ではダンナ様が控え目に控えております(笑)。皆さんは色紙にサインしてもらってましたが、私は「円満Tシャツ」を買ってそこにサインしてもらいました。もちろんお二人と握手しましたよ。ジャガーさんには「ありがとうございます!」と言いましたが、なぜかダンナ様には「がんばってください!」って言っちゃった。「あっ、はい…」って照れてました(笑)。
 さあ、こんな一日を終えまして感じたことは…やっぱりバロックアンサンブルってプロレスだな、ってこと。いや、これはまじです。絶対的な信頼に基づいたアンサンブル、相手を立てながら自己主張する、シナリオとアドリブ、お客さんとの対話、そしてコントラストと演劇性。本当に共通点が多いと思います。今までもトラヴェルソの中村忠さんやチェンバロの岡田龍之介さんと、よくそんな話してきましたけどね、今日は実際に連続して体験いたしまして、強く強く感じたわけであります、ハイ。
 世の中では「勝ち組・負け組」とか言いますけど、それってみんなが勝ち組になりたいってことでしょう?音楽やプロレスの世界には「負けっぷり」というものがあるんですよ。オルタナティブではなくてアンビバレントなんですよ。デジタルで単純な二分世界ではない。負けるが勝ちってこともたくさんあるわけです。私はなんでもガチンコの、殺伐とした世界はイヤです。自分が勝ち組になるってことは、誰かを負け組にしてるってことでしょ。格差はそこに生まれるのですよ。
 私はいつまでも音楽やプロレスのような、思いやりのある世界に生きて行こうと思いました。マジで。いい一日だったなあ。皆さんありがとうございました!

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2007.05.19

ラーメンズ 第16回公演 『TEXT』(NHK ミッドナイトステージ館)

Cul070110 今日の未明に放映されたものの録画を観ました。うむうむ、感心感心。あいかわらずすごい芸だ。
 ラーメンズ、以前第11回公演を紹介しましたね。今回も基本的にあの記事に書いたことと同じ感想を持ちました。完全に芝居ですな。数分間でたった一本のネタを披露するテレビのお笑い番組に、彼らが出ないのも理解できます。2時間近い公演の中に、見事に張り巡らされた伏線の数々。一言も聞き逃さず、大切に記憶しておいて、いつでもそれを引き出せるようにしておかないと、彼らを充分に楽しむことはできません。
 今回は「TEXT」とありますように、今まで以上に「言葉」「文脈」を駆使した脚本であったと思います。日本語の持つ多義性、曖昧さを笑いや驚きに利用していく小林賢太郎さんのセンスには、正直脱帽いたします。2年ぶりの舞台ということですが、たしかにこれだけ緻密なホンを書くには、そして、それを全く傷なく演じるには、それなりの時間がかかるでしょうね。
 昨日も敬語について書きましたけれど、今日のラーメンズのネタの中にも敬語がありましたね。敬語の使い過ぎという、まあありがちなネタですが、やはりその前後の文脈が、そのおかしさを一層強いものにしていました。
 いろいろな意味で「知的」と言えますね。それこそが「お笑い」の枠におさまりきらない理由でもあり、またある意味お客さんを選ぶ理由でもあるわけですが、私など、たまにこうして2時間じっくり知的に集中することに快感すらおぼえます。ま、これが毎日では疲れちゃいますけど。
 知的であるということは、先ほど書いた「記憶」という要素と、もう一つ「予測」という要素があるんですね。記憶に基づいて予測する。その予測通りになる場合もあるし、裏切られる場合もある。そうして聞き手が作品に参加することによって、彼らの芸は完成するのではないでしょうか。そういう意味では、ラーメンズと私たちの知的なバトルが2時間繰り広げられるわけですね。そういう緊張感こそ、彼らの魅力でしょう。
 アドリブが大好きな私が彼らを好むのは、ちょっとした矛盾でもありますが、ここまで見事に構築されると、もう兜を脱ぐしかない。そう、彼らはやはり、美術家なんだと思います。絵画というのは、基本アドリブ性を拒否するものです。ひらめきや瞬間の衝動はもちろん大切ですが、それを表現する技法としては「構築」「計算」「俯瞰」を重視します。キャンバス一面が2時間の公演の全体像としますと、その部分部分はそれぞれに有機的に結びついているわけでして、そのためにその部分部分は綿密に添削、校正されざるをえない。
 この前紹介した鳥肌実とは対極に位置するのかもしれません。鳥肌は「イメージはあれども意味なし」ですが、ラーメンズは「イメージはぼんやりしているけれども突如意味が浮上する」という感じです。部分で勝負する鳥肌に対して、全体で勝負するラーメンズ。しかし両者とも、アドリブが苦手でしっかりホンを作る、というのは面白い事実ですね。いやはや、芸も言葉も難しいし面白い。
 生ラーメンズもぜひ体験してみたいですね。場の空気に包まれながらの知的バトルに参戦したいものです。

ラーメンズ公式

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2007.05.18

アクセスいただけない…

Toto
 6億円当たったらこのブログで報告いたします。私も買いましたよ、totoBIG。一口だけですけど。で、サッカー大好きな先生に見てもらったら、まず当たりそうにない内容だということ。ま、そんなもんでしょ。
 さて、今日は5.18、後鳥羽上皇の日…じゃなくて「ことばの日」です(っておととしと同じボケかいな)。なんでも、ことばを正しく使おうという日だそうです。
 誰だか知りませんけど、そんな日を制定するものだから、こんなこと書くはめになっちゃう。書かれる方も迷惑でしょう。
 上のtotoBIGのホームページの画像を見てください。そう、ニュースにもなったように、アクセスが集中していろいろ問題が生じてるようです。たしかに私のようなにわかサッカーくじファンが大量発生してるわけですからね。想定外だったんでしょう。
 で、そこにこういう文章が載っているんです。引用します。

2007.05.17
【臨時システムメンテナンスのお知らせ】
2007.05.18(金) 18:00から20:00までの間に、当サイトのシステムメンテナンスを実施いたします。つきましては、上記期間のうち15分間ほど、当サイトにアクセスいただけない時間帯が生じます。
お客様にはご不便をお掛けいたしますが、何卒ご容赦いただきますようよろしくお願い申し上げます。

 なんか不自然なとこありませんか。そう、「アクセスいただけない」って違和感ありませんか。ん?別に変じゃないって?そうかなあ。
 ためしに「アクセスいただけない」でググってみますと、990件ひっかかりました。これは予想より少ない数字です。
 ちなみに「ご利用いただけない」ですと140万件、「ご理解いただけない」ですと66600件、「ご満足いただけない」だと41300件です。
 「いただく」というのは言うまでもなく「もらう」の謙譲表現です。本動詞としては「お金をもらう」の代わりに「お金をいただく」というふうに使います。補助動詞としては「〜してもらう」の代わりに「〜していただく」、「〜させてもらう」の代わりに「〜させていただく」というふうに用います。それが基本的な用法です。ちなみに「〜させて+もらう(いただく)」は使役+受益(+謙譲)」という非常に複雑な構造をしており、日本語学習者には大きな壁になっているとのこと。まあ、それはいいとして。
 それが、いつごろからでしょうかね、「ご(御)+名詞(サ変動詞語幹)」に直接付くようになったのは。先ほどの「ご理解いただけない」の元になっている「ご理解いただく」なんか、よく聞きますよね。でも、これも実はちょっと変です。あくまで「いただく」は「もらう」の謙譲語ですから、謙譲の気持ちを取っ払って「もらう」に復元できるはずなんですけどね、実際やってみると妙なことになってしまう。すなわち「ご理解もらう」とは言わないでしょう、ということ。
 では、可能の意味を足した「ご理解いただける」はどうでしょうね。復元してみましょう。「ご理解もらえる」…これもちょっと変な感じです。さらに打消しを加味した「ご理解いただけない」はどうかな…「ご理解もらえない」…これも変ですねえ。
 本来の用法としては、「理解していただく」「理解していただける」「理解していただけない」であるはずです。「ご理解」というのを単純に名詞であるととらえるなら、「ご理解をいただく」「ご理解をいただける」「ご理解をいただけない」でしょう。
 おそらく気持ちとしては「理解していただく」なんでしょうけど、冒頭の「理解」がなんとなくぞんざいな気がして「ご(御)」を付けたくなってしまう、しかし「ご(御)」を付けてしまうと「ご理解して」というふうに動詞として使えなくなってしまう、だから「ご理解」を形の上では一瞬名詞にしてしまう、けれども、気持ちは動詞のままなので「を」をはさまないで直接「いただく」につなげちゃう…こういうことだと思います。
 で、「アクセスいただけない」はどうでしょうか。これはちょっとひどいですね。上の理屈からすると「ごアクセスいただけない」になるわけですが、「アクセス」に「ご」は(今のところ)付きませんから、しかたなく「アクセス」のままで「いただく」に直結してしまったのでしょう。結果として「アクセスもらえない」の謙譲表現ということになってしまった。
 いずれにしても、これらは「いただけない」状況ですなあ。では、なんと表現したら良いのか…単純に「アクセスできない」でしょうね。あまりに顧客に気を遣いすぎるとこういうことになっちゃうわけでして、これはコンビニ敬語やファミレス敬語でもよく見られる現象であります。
 日本人は古来、相手の気持ちや場の空気を気にしすぎて、その結果婉曲表現を多用しまくってきました。敬語というのも婉曲表現の一つであると、私はとらえています。それも度が過ぎるとこういうことになってしまうわけでして、いやはやなんともでありますなあ。まあ、totoは度重なる販売停止もありましたんでね、必要以上に低姿勢になってしまったということでしょう。

toto公式

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2007.05.17

私、チベットに住んでるようです

 出口王仁三郎の「雛型地図」、以前こちらの記事でちょこっと紹介しましたね。いやあ、あらためて見てみますと、このアナロジーは単なる偶然とは言えないような気がしますね。笑ってしまうほどです。
 まあ、この相似に意味があるのかどうか、それは私のような凡人にはわかりかねますが、興味をひかれることは確かです。こういう視点でものを見直すということは、人生を豊かにする大切な方法でしょうね。
Sekai0236←クリック!
 さて、今日はもう一つ地図を紹介しましょう。これはオニさんのお孫さんである出口和明(やすあき)さんの著書「出口王仁三郎が語る霊界の最高機密 最終メッセージ編」というな