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2007.05.31

Pat Metheny Group 『More Travels』(DVD)

パット・メセニー・グループ 『モア・トラヴェル』
910 ウチのバンドのギタリストが貸してくれました。完全にKOされました。
 人間ってすごいですねえ。こういうことができるんですから。神業とはこういうのを言うのでしょう。技も極めると、理屈抜きに美しくなります。これは誰が観ても聴いても感動するに違いありません。
 いろんなジャンルで天才プレーヤーというのはいますけど、この人の天才っぷりは現代においてずば抜けていると言えるでしょうね。
 ずば抜けた天才の特長として、唯一無二というのがあります。もう音からしてパットです。電子楽器を使おうと何だろうと、とにかく一聴してパットだと分かる。音色はもちろん、パッセージ、発音のタイミング…なんなんでしょうね、真似のしようがありません(たぶん)。
 彼が作る曲もまた、いかにもパット流でして、それについては今までもいくつかの記事で書いてきました。いったいどうやって作ってるんでしょうね。時代やジャンルを超えた普遍性を持っていると思います。
Pat7699 そして、こうしてライヴ映像を観ますとね、彼の弾き方がまた独特だというのが分かります。というか、はっきり言って常識からすると、右手も左手も変です!!あんなふうにピックつまんでたら、普通ああいうふうに弾けないっしょ!?
 いつかも書いたような気がしますが、大概天才的プレーヤーってこうなんですよ。基本的(と言われる)フォームからかなり外れている。そして、それを真似しようとしても、できる予感すらしない。ちょっと上手な人の前で、そんな楽器の持ち方やら弾き方したら、大概怒られます(笑)。
 そうですねえ、今思い出した変な弾き方の人は、ヴァイオリンではステファン・グラッペリ、ギターでは長谷川きよし、三味線や箏では中能島欣一、ピアノではグレン・グールドキース・ジャレットでしょうかね。
 スポーツの世界でもそうです。イチローや王貞治を挙げるまでもありません。おそらく彼らは、私たちと脳が違うんだと思います。体の構造はそれほど違わないのではないか。脳が違うから体の使い方が変わってくるんでしょうね(たぶん)。
 ちなみに私の弾き方もそうとう変ですが、しかし生まれる音楽は全然天才的ではなくて、やっぱり変です(汗)。それは単に訓練されてない、洗練されてないからでして…ま、それはそれとしまして、このDVDでのパットのプレイは、基本とか変とか、そういう次元を軽く超えてしまっていて、もうただただ偉大です。偉大な美しさ。非常にこちらに近く迫ってくるのに、しかし近づきがたい聖域であるような、こちらの小ささを痛感させられるような衝撃的な美しさです。人間ってすごいですよ。いったい宇宙にこれほど高度な音楽を奏でる生物が他にいるのでしょうか。
 なんと大げさなと思われた方、YouTubeでちょっとだけでも観て聴いてみてください。音悪いですけど、そんなの関係ないっす。まずは代表的曲の神的ソロ。
Have you heard
 次は、珍しくわかりやすいコテコテな曲です。私こういうの大好きなんです。泣けます。
Last Train Home
 いかがでしたか?この2曲以外にも名曲名演奏満載です。DVDも安いですから、ぜひお買い求めください。
 こういうの聴くと、電気楽器とか生楽器とか関係ないような気もしてきますね。シンセギターが生き物のようです。電気も自然現象ですからねえ。魂こめられるんですねえ。ふぅ。

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2007.05.30

『騒音文化論−なぜ日本の街はこんなにうるさいのか』 中島義道 (講談社+α文庫)

Souon 「うるさい日本の私」の続編、「うるさい日本の私〜それから」の文庫版です。なんだかだ言って、また読んでしまいました。そして、また哲学してしまった…いや、させられてしまった。決して好きではないのに気になる。これはもしかして…。
 なんちゃって、あくまで仕事上必要に迫られて読んだんです。氏の本も3冊目ともなれば、さすがに相手の出方もわかります。3戦目ともなれば、ここでこういう技が来るなと予想がつく。だから、それなりの受け身を取れるようになりました。そういう意味では、いいプロレスの試合が出来たと思いますよ。
 不思議なもんですね、手が絶対合わないと思ってたのに、いつのまにかこちらが向こうに合わせられるようになった。向こうは相変わらず自分勝手な技を仕掛けてきますけど。
 また、いろんな所に文句を言ってます。駅員の声が大きいと言って、その手からマイクを取り上げて線路に投げ、駅長室へ直行。ラーメン屋に突然怒鳴り込み。教会の礼拝に乱入…もう、私もそのくらいのことでは驚かなくなってしまいました。
 私、3戦目で少し分かったんです。中島さんの言っていることは正しいんだけど、絶対に違和感がある、その原因が。
 この本で、中島さんは何度も自分を病気だと言います。たしかに、音アレルギーというか、潔癖症というか、理論依存というか、まあ一般的なバカ日本人からすると、ちょっと病気っぽいですね。で、ご自身もさすがにそこんとこにはお気づきのようです。
 それでですねえ、私、今まで彼が病気っぽいと思いながら、彼自身があまりにその境遇の悲惨さを強調するものだから、なんだか内心可哀想に思っていたんですよ。そこがどうもいけなかったらしい。そこが違和感の原因でもあったようです。
 つまり、中島さん、自分が病気であると認めながら、その病気を治そうとは全くしていないように見えるのです。病人にも病気を治そうとしない権利があるのは重々承知していますが、しかし、それだったら多少の不自由は責任持って耐えてほしい。苦痛の軽減の方法のベクトルがいつも一方向にしか向いてないんですよね。内側からその苦痛を克服していくというアイデアは彼にはないようです。いや、もしかするとそういう努力をした上で、ああいう暴挙(にしか思えません、バカ日本人には)に出ているのかもしれない。だとしても、その努力の跡が文章には全く表れていないんですよ。だから、自分と違う何かを感じてイライラしてしまう。自分だったら、ちょっと違う方法を考えるなと。治療法を模索するなと。
 いやあ、3冊読んでよかった。2冊目まではそれに気づかなくて、実に不快だったんです。でも、今回それが分かったんで、それなりの受け身が出来て、こちらの心はそれほど痛まなかったということです。
 この本では「騒音」に限らず、標語や形式的な言葉、さらには中島さんの本に共感した人にまで矛先が向きますが、さすがにここまで来ると、彼の精神性というか病状というかが、もうよく分かってますからね、案外楽しく読むことができました。それにしても、日本人が愛する自然の美というものが実は人工の美だという論は、ちょっと一面的に過ぎて滑稽にすら感じられましたね。たとえば人工的な形式にこそ表れる個性や美というものへの感受性というものはないんでしょうか。
 こういう言葉は出てこなかったかと思いますが、結局彼は、「婉曲」「朧化」「忖度」などという、私の愛する日本的美意識を嫌悪しているのであって、これは、例えば私が大好きな卵やそばに対するアレルギーを持っている人がいるのと同じことなのかな、なんて思いました。生理的なものなんで、ホントはお互いさまくらいにしておけばいいんですけどね。感覚を論理によって言語化するから面倒な(滑稽な)ことになるんです。
 またまた出ちゃいますが、あんまり「コト」化しない方がいいってことです。わけわからん「モノ(もののけ)」には、あんまり立ち向かわないで適当にやりすごす、というのこそ日本の伝統的なやり方でしょう。私にはそちらの方がかっこいい態度に見えるのですが。
 ま、ここまで来るのにずいぶんと哲学させていただきましたね。そういう意味では完全に中島選手の勝ちです。3試合もさせられたし(笑)。せっかくだから、もういっちょ行ってみようかな。

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2007.05.29

『新「ことば」シリーズ20 文字と社会』 国立国語研究所 (ぎょうせい)

32408128 国立国語研究所発行の『新「ことば」シリーズ20 文字と社会』が学校に届けられていたので、一通り目を通してみました。
 阿刀田高さんの巻頭エッセイはどうということなし(笑)。養老孟司さんと桜井洋子アナ、そして杉戸清樹国語研究所長さんの座談会は、やっぱり養老さんの話が面白かった。クオリアを消去したのが「言語」か、なるほど。
 「ことば事情」コーナーでは最近ちょうど気になっていたことがいくつか取り上げられていました。


 ・最近、民放を中心にテロップが多い。
 これはちょっと多過ぎではないでしょうか。バラエティーとかしつこい感じがしますね。でも、若者はその方がいいと言います。マンガ文化でしょうかね。映像と文字の融合。でもアニメにはないんだよなあ。不思議。

 ・明朝体の字体が実際の手書き体と違う。
 たとえば以下の字。
Kanji56 
 これは学校で漢字を教える時、けっこう困るんですよね。小学校では国語の教科書は教科書体ですが、高校ですと明朝体なんですよね。教科書を真似て漢字を書くと、画数が変ってしまったりして、たとえば漢字検定で不正解になってしまう。これは困ったことです。

 ・戸籍上の漢字のヴァリエーションがやたら多い。
 私の住む地域は「渡辺」さんが異常に多いことで有名なのですが、その「辺」のヴァリエーションがこれまた異常です。ユニコードですと全部で24種類表示することができますが、実はそれでも足りません。
Kanji56
 ま、役所の戸籍係の人が間違えたのが正式なものになってしまっている、というケースがほとんどなんですよね。面白いと言えば面白い。

 「ことばの質問」コーナーにもいろいろと興味深い話が載っておりましたが、やっぱりこれですかねえ。
 Konnichiwa
 最近いただくメールなどで、たしかにこういう表記が目立ちます。私はいちおう「こんにちは」と書きますが、生徒など「こんにちわ」あるいは「こんにちゎ」と書くのが普通ですし、大人の方、それも大学の先生などでも「こんにちわ」と書いてよこすことがあります。おそらくそれらはシャレだと思いますし、たしかにちょっとライトでカワイイ感じがしますよね。ですから、私はそれほど抵抗はないんですけど、世の中にはこういう風潮に眉をしかめる人もたくさんいます。例えばこういう人たち。

『こんにちわ』撲滅委員会

 これもたぶんこれ自体がシャレだと思います…いや、シャレだと思いたい。まさか「こんにちは」原理主義団体ではないよなあ。ま、日本語の仮名遣い史的に言っても、これをやり玉に挙げるなら他にもいろいろと…ということになってしまう。ま、使い分けができればいいんじゃないっすか?と、いつものいい加減な発言を繰り返してますと、まじめな原理主義者の皆さんに「国語の先生のクセになんだ!」と言われてしまいますから、気をつけないと。
 最初の話に戻ります。言葉はクオリア(個人的感覚)を消去しようとしたものなんですが、完全な消去というのはムリなんですよね。そこんとこに生じる微妙なズレが、数学的な記号とは違う味わいや豊かさ、生命感を生むわけでして、そういう言葉の本質を無視して愚痴るというのは、いつの時代にも聞き苦しく見苦しいものですね。

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2007.05.28

『うるさい日本の私』 中島義道 (新潮文庫)

Urusai  『〈対話〉のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』 で私の心をさんざん乱した中島センセイの代表作を読むはめになりました。ちょっと事情があって生徒と日本の音環境(騒音文化…中島センセイは文化騒音と言いますが…やサウンドスケープ)について勉強することになりまして、その重要参考人、じゃなく重要参考書として登場願ったわけであります。
 そして再び心千々に乱れちゃったのでありまして、う〜全く中島センセイは罪な人です。
 「対話のない社会」でもかなり暴走してましたけど、こちらはもっとすごかった。あらゆる所に出向いて改善要求をします。
 自治体、鉄道会社、デパートから、幼稚園、宗教団体、さおだけ屋…。内容は、海水浴場での注意放送、美術館でのメガホンによる誘導、エスカレーターや動く歩道の注意放送、駅の構内放送、電車やバスの車内放送、デパートやスーパーなどの宣伝放送、銀行のATMや駐車場のテープ音、商店街や行楽地のBGMや有線放送などをなくせ!あるいは大幅に削減せよ!ということです。
 ふぅ…、で、中島センセイ孤軍奮闘するんですが、なかなか要求が受けいれられない。そりゃあそうでしょ。でも、一部では「改善」がなされ、鬼の首を獲ったかのように自慢気に報告する…。
 これじゃあ、単なるクレーマーではないか、『悲鳴をあげる学校』に出てくるイチャモン野郎たちや、あるいは『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』のあの狂った親子みたいなもんだ、と片づけられればある意味こちらは救われるんですけどね。そうならないから、腹を立てたり自分に災厄がふりかからないようにと祈ったりするだけではすまされないから、心乱れる。
 ものすごい違和感があって、ものすごい不快感があるのに関わらず、考えれば考えるほど相手が正しくなってしまい、こちらの実感に自信が持てなくなってしまう。理論武装して闘おうとしても、相手の武装の完璧さばかり見せつけられてしまい、じゃあとばかりにゲリラ戦に持ち込もうと思うと、それはすなわち相手の術中にはまることになり、自ら負けを認めざるをえなくなる。辛いっす。
 私はこの日本の「文化騒音」は「騒音文化」だと思っていますし、それを生む日本文化の土壌も基本的に自分に合っているので、なんの不快感も持たず、場合によっては「面白いな」と観察対象にしてしまうほどなので、とにかく中島センセイとは議論がかみ合うわけありませんね。で、センセイはそういう無頓着な加害者であるワタクシたちを言葉を極めて糾弾するので、それは腹が立ってくるんですよ。お前こそうるさい!と。
 しかし、どこか「カワイイ」ところもある中島センセイ。そこがまた憎いんですよね。自らをドン・キホーテと称していますし、実は辛いんだと弱音を吐くときもある。花粉症が辛いように音アレルギーも辛いだろうな、と同情したくなる部分も多々あります。
 でもなあ、でも、やっぱり何かが違う。その何かとはなんなのか。センセイは最終的には「察する」文化よりも「語る」文化を!といういつもの結論に至るんですが、そう、私にはとっての「語る」は「モノ」の「コト」化そのものですからね、なんでも「語る」というのにはやっぱり私は反対です。自己中心的なガチンコは嫌いですので。
 な〜んて、こんなふうに、悩み、考え、思いを馳せ、自分の実感、他者の実感と闘い、なんとなくを論理的に説明しようとしすること、それがすなわち「哲学」でありまして、それこそまんまと中島センセイの術中にはまって、みんな哲学者しちゃってるわけでしょ。哲学が根付かないこの日本に、こうして哲学の種を分かり易い形で蒔こうとしているドン・キホーテは、なかなかの巧者でありますな。
 私が中島センセイを心から嫌いになれない理由は、まあそんなところに存するのでありますが、別の意味でそのことを確認できたのも、この本の収穫でした。そう、文中に私の敬愛する方が「お仲間」として登場していたからです。
 それは、まず鈴木孝夫大明神様。なにしろ大明神様ですからね、実際じっくりお話しさせていただきましたが、彼も偉大なドン・キホーテでいらっしゃいましたよ。ただ、ものすごくユーモアに溢れていて、正直「カワイイ」。はっきり申して「超萌え〜」でした。そんな経験がありますから、もしかすると中島センセイも一緒に呑めば、自分にとってものすごく魅力的な人になりうるのかなあ、なんてことも妄想されます。たぶん、そうなんでしょうね。
 あと一人、チェンバロ製作家の横田誠三さんも中島さんのお仲間なんだ。横田さんとも昔はよくお会いしてお話する機会がありました。彼もまた大変ユニークで魅力的な方です。なんとなく横田さんが「文化騒音」嫌いだというのも分かりますよ。そういうお仕事をされているわけですし。
 と、こんな感じで、いろんな意味で心乱れさせられました。続いて「うるさい日本の私…それから」を読んでいます。これもまたすごいんですよ。また報告します。なんだかんだ言って中毒に、いやファンになってるかもしれない…いやいや、やっぱり嫌い…。

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2007.05.27

『アルビノーニ オーボエ協奏曲集』 ロブソン&レイサム(オーボエ) スタンデイジ指揮コレギウム・ムジクム90

ALBINONI: Oboe Concertos
Anthony Robson, oboe / Catherine Latham, oboe
Collegium Musicum 90(Simon Standage, conductor)
Chan0579 昨日は歌謡曲三昧でしたが、今日は打って変わってバロック世界にドップリでした。
 私の所属するカメラータ・ムジカーレという古楽器団体の秋のコンサートへ向けての第1回練習が八王子で行なわれました。今年のプログラムもなかなか魅力的ですね。チマローザは私にとっても初体験。この曲を古楽器で演奏するというのは、もしかして世界初?
 さて、私はヴァイオリン&ヴィオラ担当でして、合奏部のメンバーとして休みなく全曲に参加することが多いのですが、今回は1曲だけ降り番があります。それがアルビノーニの2本のオーボエのための協奏曲でして、練習場所の御主人お手製のスパゲティーなどをいただきながら、ゆっくりその練習を聴かせていただきました。
 いや、ほんと初めての練習とは思えないほど完成度が高く驚いてしまったのですが、それにしてもこの曲をこうして間近に聴く機会を得るなんて、昔は想像すらできませんでしたよ。それも古楽器で。
 昔というのは四半世紀以上前のことです。当時高校生でバロック音楽に目覚めたワタクシは、お小遣いをためてはレコードを買いあさっておりました。そんな中で特に愛聴したのが、アルビノーニの協奏曲集作品9でした。もちろん、演奏はイ・ムジチ合奏団、ソロはホリガーとブールグのオーボエとアーヨのヴァイオリンでした。あれは今聴いてもたしかに名演奏、名盤ですよね。特にホリガーのスマートで艶やかな音色と、ほとんど作曲と言っていい旋律的装飾の素晴らしさは、本当にさすがですね。
Chan0602 今回カメムジで演奏するのはその作品9から第9番です。2本のオーボエが寄り添い、あるいは対話しながら、美しいタペストリーを紡いでいきます。それを支える弦の響きも魅力的ですね。アルビノーニの合奏部というのはけっこう特徴的でして、早い楽章では通奏低音は淡々と駆け足、それに歩調を合わせつつヴィオラが不思議な動きをします。アルビノーニのヴィオラは弾き甲斐があるんですよね。ヴァイオリンはファーストとセカンドがユニゾンになることが多く、分散和音的な動きも多いものですから、そうですねえ、全体としては和声が厚すぎず、清澄な印象を与えることが多い。それこそがアルビノーニです。
 あと、アルビノーニと言えば緩徐楽章の美しさですね。不協和音とその解決を多用して、聴く者の心をとらえるあたりコテコテと言えばコテコテですが、実際に生で聴きますとたしかに美しいですね。特にオーボエどうしで音がぶつかると胸キュンしちゃいます。アルビノーニ節。
Chan0610 さて、このアルビノーニのオーボエ協奏曲の新しい名録音として人気があるのが、今日紹介するCDたちです。サイモン・スタンデージ指揮のコレギウム・ムジクム90にロブソンとレイサムのオーボエ。もちろんオリジナル楽器による演奏です。イ・ムジチも比較的ヴィブラートを抑えた演奏をしますが、やはりこちらの弦の透明感にはかないませんね。先ほど書いた弦の特徴が際立って聞こえます。バロック当時としてもなかなか個性的な響きではないでしょうか。ロブソンとレイサムのバロック・オーボエも軟らかく丸みのある音で美しい。装飾は控え目ですけれど、逆にその純粋さがいいですねえ。なんというか子どもの純粋さのような感じです。ホリガーのものとは対照的ですね。
 アルビノーニをオリジナル楽器で演奏した録音というのはまだまだ数が少ない。もっともっと聴いてみたいですねえ。実は私としては幻(あるいは謎)の作品集と言われる作品10を古楽器で聴いてみたいんですが。あっそうか、自分たちで演奏してしまえばいいのか。楽譜はありますからね。

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オーボエ協奏曲集
2本のオーボエ協奏曲集1
2本のオーボエ協奏曲集2

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2007.05.26

歌謡曲バンドふじやま in ふじよしだジャズストリート2007

20070526 (更新遅れましたが…) いやあ〜、今日は楽しかったなあ。やっぱり若い子たちと一緒だとこっちも元気が出ますねえ。
 というわけで、今日は告知していました通り、道の駅「富士吉田」で行われた、ふじよしだジャズストリート2007に参加させていただきました。メインはウチの高校(富士学苑高校)のジャズバンド部、最近メディアに出まくりの「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」でありまして、ワタクシたちはまあ前座でした。
 私たちオジサン、オバサンも単純ですね、高校生に負けじといつも以上にノリノリで頑張りました(って、私はいつも彼ら彼女らと一緒なんですけどね、それでもこういうハレの日にはちょっとかっこいいとこ見せようかな、なんて下心もわいてくるわけです)。
 高校生の演奏や、その他の大人バンドの演奏もそれぞれ素晴らしく、私たちは歌謡曲ということもあって(全然ジャズじゃないじゃん!)、ちょっと浮き気味だったかもしれませんね。ま、こういうギャグ路線のバンドもいいでしょ?
 我々、いつものとおり、当日の朝に初めて全員集合ということで、構成だけ確認して本番という感じでした。いつもすみません、そんなんで。でも、いろいろなジャンルで百戦錬磨のツワモノ(?)ぞろいですからね、コードと構成さえ分かってれば、その場で空気を読んで即興ですませてしまうんです。ある意味最もジャズしてたりして(笑)。
 というわけで、いつものとおり、笑っていただくためにmp3をアップしときます。みんな一番大切なところではずすのは、これはネタですので、あしからず。ヒマな人はお聴きくださいませ。

1 コーヒールンバ(西田佐知子)
2 お祭りマンボ(美空ひばり)
3 プレイバックpart2(山口百恵)
4 あなた(小坂明子)
5 ミ・アモーレ(中森明菜)
6 vogue(浜崎あゆみ)
7 帰ってこいよ(松村和子)

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2007.05.25

『名代手焼煎餅 五月ヶ瀬』

Satsukigase 日芸に通っている卒業生が、これを持って学校に遊びに来ました。いや、別に福井に行ってきたわけじゃなくて、物産展みたいなところで買ってきたと。買って食べたら妙にうまかったのでお土産に、とのこと。
 なんか他にもドライ・マンゴーも買ってきたんだけど、来る途中我慢できなくて開けて食べちゃったということで、それを一緒につまみながら、いろいろと刺激的な話を聞きました。
 で、この五月ヶ瀬煎餅も我慢できなくなったらしく、自ら開けて食べ始めました。まあ、人のところに持っていくお土産というのは、大概自分の好物なのであって、内心「せっかくですから、ごいっしょに」とか言ってほしいものですよね。だから、彼女のストレートな行動は責められません。アーティストを目指す者、そのくらいのパフォーマンスがなければ。
 さて、私もいただいてみたんですが、うん、これはたしかにうまい。類似のお菓子というのは各地にありますが、生地の絶妙の甘さや食感にピーナッツの香ばしさがたまりません。予想より軟らかめですが、それが口の中で溶けていく感じがまた類似品とは違います。焼き方に何か秘密がありそうです。
 パッケージには、おっ、丸に三つ柏の家紋が描かれているぞ、なんでだろう、越前って何氏だったかなあ、などと思いながら、その正三角形に配置された紋をさらによく見ますと、ありゃりゃりゃ、正三角形の頂点に位置しているのは三つ柏ではないではないか!そこには、どっかで見たような建物の絵が…。藤田まこと御用達…いやいや、モンドセレクションのマークではないですか!やられた。思いっきり勘亭流文字の間に挟まれたこのフランス語(かな?)世界は…。
 で、ちょっと調べてみましたら、主水御用達の中でもかな〜りハイレベルなおせんべいらしい。モンドセレクションの最高賞である特別金賞(最高金賞・グランドゴールドメダル・95点以上)を6回も獲ってる。それも3年以上連続なので国際優秀品質賞も受賞してるんですね。どうりでうまいはずだ。
 最近はモンドセレクションも乱発の傾向がありますが、特別金賞や国際優秀品質賞はそう獲れるものではありませんから。やりますな。
 パッケージの裏を見てみますと、ナッツ・ハードクッキーと書いてあります。なるほど、煎餅にしてクッキーか。いかにも国際的ですね(笑)。
 五月ヶ瀬のホームページを見てみますと、いろいろと興味深いお菓子が並んでいます。ナッツ・ハードクッキー以外にも大量のモンドセレクション受賞商品があるようですね。モンドセレクションは出品してなんぼの世界ですから、社長さんがなかなか積極的でユニークな方と見ました。必殺仕事人ってことですね(笑)。

五月ヶ瀬ホームページ

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2007.05.24

ステファン・グラッペリ 『スウィング・フロム・パリ』

Stephane Grappelli 『Swing from Paris (1935-1943)』
120688 5月16日は伝説のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの命日でした。彼も43歳で亡くなってるんですね。天才は夭逝するのかなあ。
 ジャンゴが亡くなったのが、1953年です。もうその頃は一緒に活動していませんでしたが、盟友のヴァイオリニスト、ステファン・グラッペリは相当ショックだったんでしょうねえ、その後しばらく彼のレコーディングは聴かれなくなってしまいました。
 きっとグラッペリはジャンゴとの楽しい日々を思い出して、いかに自分が彼に支えされていたか痛感していたんでしょうね。まるで自分の半身がなくなってしまったかのように感じていたのでは。
 その二人の楽しく充実した日々が記録されているのが、このアルバムです。フランス・ホット・クラブ五重奏団(Quintette du Hot Club de France)の演奏もたくさん聴けますからね。
 QHCFは1934年にデビューしています。当時のフランスの国情は不安定でしたが、文化的には旧来の伝統的なものと、諸外国(東欧文化など)がせめぎあい融合して、生き生きとした新しい波が起きつつありました。音楽面でもいろいろな実験が行なわれようです。
 そんな中、グラッペリとジャンゴを中心に結成されたQHCFは、特に画期的な楽団でした。なにしろジャズの弦楽五重奏なのですから。グラッペリのヴァイオリンとジャンゴのギターを前面に、それを2本のリズムギターとベースが支えるという形態、いったい誰が考えつくでしょうか。今でもこういう編成のものは見かけませんね。
 その響きは今聴いても新鮮です。このアルバムではその他にもグラッペリ独自のカルテットやクインテット、珍しくヴォーカルをフィーチャーしたものなど、いろいろな編成を楽しめますが、やはり、QHCFがいいですねえ。スウィング感が違います。
 それはやはりジャンゴの力による部分が大きいのではないでしょうか。彼のリズム感はソロプレイの中で最も発揮されますからね。もちろん単なる早弾きではありません。ああいう独特の感じ、誰が聴いてもジャンゴだと分かる音というのは、どうやって生み出されるのでしょう。ハンディーのことはあまり言いたくありませんが、彼が18歳の時に火事で左手の薬指と小指をほとんど失ってしまったことと関係があるのかもしれませんね。
 ヴァイオリニストの立場から言いますと、グラッペリのコピー(ものまね)とはいうのは絶対に絶対に不可能なんですが、おそらくギタリストにとってのジャンゴというのもそういう存在なのでしょう。
 おっと、このアルバムの主役よりもジャンゴの話が多くなってしまった。えっと、グラッペリですが、私たちがよく知るグラッペリ、すなわちジャンゴを失ってから89歳で亡くなるまでの、あのグラッペリ節とは正直かなり違った音づくりをしています。なにしろまだ20代ですかね。月並みな言い方ですが、味わいは少ないけれど元気という感じでしょうか。のちのグラッペリはまさに「語る」ヴァイオリンですが、この頃はまだまだ「歌う」ヴァイオリンという感じですね。
 とにかく、こうして70年も前の名演を聴けるというのは、本当に幸せなことです。ナクソス・ミュージック・ライブラリーの「ジャズ・レジェンド」は本当に聴き応えありますよ。すごい時代でした。冷静に考えれば、当時の人々はいろいろな意味で不安を抱えていたでしょうね。世界史的に見ると難しい時期です。でも、やっぱり、彼らを生で聴けた当時の人々に少しジェラシーを感じてしまいます。

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2007.05.23

『奇想の系譜』 辻惟雄 (ちくま学芸文庫)

Kisounokeifu こちら『こんなに楽しい江戸の浮世絵』の記事で軽く登場願った辻先生ですが、実は本当にとんでもなく偉大な方なんですよね。今日は辻さんの歴史的名著を再読いたしました。
 す、すごい。すごすぎる。なんだかカッコいいぞ、辻先生。昨日の流れで行くと、辻さんはオタクじゃないなあ。でも、学者としてくくってしまうのもなんだか。
 全体を見渡した上で、埋もれたものを発掘するというのは、かなり難しい作業です。オタクや学者のような微視から入るやり方ではムリですね。ですから、どちらかというと表現者に近いかもしれない。芸術家たちが言うじゃないですか。もともとあるものをつかまえるだけだって。
 とにかくこの本はあらゆる意味でバイブルです。初版が出てからもう30年以上経っているんですよ。しかし、まった色褪せないどころか、近年ますます輝きを増しています。いったいどれほどの研究者やアーティスト、鑑賞者たちに影響を与えてきたのでしょう。
 ここで採り上げられている画家は、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳などです。この本が発表された時、いったいどれほどの人が彼らを知っていたでしょうか。彼らの絵を観たことがあったでしょうか。
 今となっては、岩佐又兵衛や伊藤若冲はもちろん、他の人たちもある意味日本美術史上の人気者になっています。辻さんのこの本がなければ、こういうことにはならなかったかもしれない。少なくとも数十年、彼らは埋もれたままだったでしょう。そうすると、今アートの世界やサブカルチャーの世界で活躍する、あの人もあの人も、あの作品も生まれなかったかもしれない。ちょっとゾッとしますね。それほど辻さんは画期的なことをしたわけです。
 そして、その名著が3年ほど前に文庫になって手に入れやすくなったわけです。以前は手に入れたくとも高くて手が出ませんでしたからね。私も大学の図書館でむさぼるように読んだものでした。
 パンクなもの、カルトなもの、エキセントリックなもの、エログロやナンセンスは、「異端」として片づけてしまうのが一番簡単です。そうしてこちらも納得させられれば、それなりに安心というものです。場合によっては貶め無視していればいい。しかし、それを巨視的な立場から正統(のすぐ隣)に引き戻し、一般にもそれを納得させるというのは、これは並大抵のことではない。もちろんそれなりの学術的な裏付けが提示されなければならない。私のような、単なるお変人が奇を衒って妙なことを言っているのとは、ちと、いやかなり違いますね。ああ、恥ずかしい…。
 このたび久々にこの名著を読み直してみたんですが、そうですねえ、インパクトはやっぱり若冲かなあ。でも、やっぱり若冲自身には「オタク」を感じちゃうんですよね。ああそう言えばこの記事にもそんなこと書いてたな。非常に微視的。局所的。しかし、昨日も書いたように、オタクは最終的に悟りますので。実際、若冲はオタクしながら仏門を志していたわけですし。こういうアプローチの仕方もある。
 で、現代のオタクたちの作品というか、オタクたちが鑑賞している作品も、又兵衛や若冲が数百年後に辻さんに発掘されたように、天才的な研究家によって再発掘されるんでしょうね。そして、ようやく正統の座を獲得するのかもしれません。きっとそうだ。そうして文化の系譜はつながっていくんでしょうね。
 そう考えると、この本で採り上げられている人たちや、現代のカルトなサブカルチャーは、やっぱり前を走りすぎてるのかなあ。数百年も先を。凡人が理解するのに数百年かかるということでしょうか。そう言えばバッハもそんな感じだったなあ。彼もオタクですから。
 そう、微視を極めていくタイプって、結局巨視タイプの誰かの助けを必要とするんですね。時代を超えた両翼によるコラボレーションによって、ようやくその価値が完成するのかもしれません。うん、文化ってそういうものなのかもしれませんね。決して個人だけでは成立しない。そう考えると、オタクも自立を企てちゃいけないってことですね。もっと孤立しなくちゃ(笑)。
 というわけで、またとんでもない方向に行っちゃいましたけど、とにかくこの歴史的な名著は一家に一冊あってもよいかと思います。図版多数。ただしモノクロなので、いやモノクロだからこそ、ホンモノを観たくなりますよ。私も何年かかけて、実物に会っていこうと思っています。

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2007.05.22

『オタク論!』 唐沢俊一・岡田斗司夫 (創出版)

Otakuron 大変楽しく読みました。非常に勉強になった。この二人はやっぱりすごいわ。憧れますね。
 この本の内容について、いろいろ言う人も、そりゃあいるでしょうけど、こうして自分たちのセンスで「語る」ことこそ、オタクの真骨頂ですからね。そのへんを理解しなきゃあ、無粋ですよ。
 さてさて、内容については、実際買っていただいて読んでいただくとして、今日は彼らにインスパイアされた私の「オタク論」を展開いたしましょうか。
 私は今までもいろいろなところで「オタク」や「萌え」について語ってきました。それらはあくまでも私独自の「モノ・コト論(物語論)」の一部として語ってきたわけでして、正直万人に理解される性質のものではなかったようです。まあ、その道のプロではありませんから、相手にされずとも気にしませんけど(笑)。その基本的な内容はこういうことでした。思いつくままランダムに書きます。

 オタク文化は平安の貴族文化の系譜上にある。オタク文化の基礎は女性文化である。現代人は経済的に豊かになった結果、総貴族化している。現代では男にはめられていた例えば「武士道」などのタガが外されたため、男性の女性化が進んだ。その結果、男のオタク文化が噴出した。「萌え」は平安貴族の言う「をかし(招きたい・手もとに置いておきたい)」という感情に近い。現代人は、工業技術とデジタル技術を手に入れた結果、その「をかし」を(疑似)現実化しやすくなった(わかりやすい例で言えばフィギュアとかDVDとか)。オタクは「萌え=をかし」という感情をベースとして、時間を微分し、すなわち本来転変してゆく「モノ」を疑似的に固定(「コト」化)しようとする。その行為を日本人は古来「カタル」と呼んでいる。だから、「モノガタリ」とはまさに「をかし」の思想の現実化そのものである。

 まあ、ほかにもいろいろあるんですけどね。とにかくこんなことを中心に、それこそランダムにこのブログ上で語ってきました。私もほら、やっぱり語り部なんですよ。すなわちオタク。
 ん?その前にちょっと根本的な問題提起をしなきゃだな。
 私はホントにオタクなのだろうか。これは自分にとって非常に大きな課題です。実感としては、どうも自分はオタクになりきれないコンプレックスがあるんですね。オタクに憧れつつ、どうも自分にはそこまで到達する才能や根性がないような気がするんです。
 第一、この前みたいに、記号としてのオタクを演じてしまうあたり、もうすでに真性のオタクでないことを自らカミングアウトしているようなものです。憧れて、大いに愛しているのに、ああして揶揄の対象にするというのは、いったい何なんでしょう。屈折した愛情表現なのでしょうか。それとも、オタクオタクというジャンルがあって、実は私はオタヲタなのでしょうか。
 どうも、オタクについて語りたがるところを見ますと、やっぱり「オタヲタ」ということのようですね。誰しも何かに関して語りたがるものです。そういう意味ではほとんど全ての人がオタクなわけです。ただ、現代のオタク、というか、オタクと呼ばれるようになった語り部は、先ほど書いたように、どうしても現代のメディアやテクノロジーの上で生き生きとしますから、そういう実は限られた分野の語り部だけがオタク的属性を持っているかのようにとらえられてしまう。経済効果もありますから、どうしてもそういう分野の語り部たちがメディアに乗りやすいですし、しかたありませんけどね。
 で、今回、両巨頭、ほとんど伝説の語り部であるお二人の対談を読んでましてね、一つものすごくよくわかったことがあったんです。これは前々から感じていたことですし、実際ここにも何回か書いた覚えはあるのですが、今回再確認したと言いますか、ある意味確信したんです。それは、「をかし」→「あはれなり」、「微視的文化」→「巨視的文化」、「微分」→「積分」という流れ、あるいはもっと進めると、「転変」→「不変」→「転変」→「不変」という大きな流れです。
 どういうことかと申しますと、こういうことです。
 「萌え=をかし(招きたい)」的心理に基づく「固定」願望は、あるモノ(物・者)への執着という形になって現れます。執着して手元に置いておこうと画策します。我々はそれをいろいろな知恵を駆使して実現しようとしてきましたね。昔ならたいがい文字(コトノハ)を使って語ったり語り継いだりして、消えないように(遠くに行かないように)しました。今ならフィギュアを集めたり、録画したり、まあ知識も含めてコレクションすることが多い。そこには経年変化を乗り越えようとする信念がうかがえます。それがすなわち、私の言う時間を微分するということです。
 ちなみに私の「モノ・コト論」では「モノ」の基本的な性質は「変化・無常・不随意」などです。あらゆる意味で自己の外部ということです。オタク的な活動とは、その「モノ」を「不変・恒常・随意」な「コト」にすること、自己の内部化すること、すなわち「カタル」ということそのものなのです。
 で、私たちは「オタク」というと、そこまでしか観察しないんですね。しかし、実はそこで終わらない。そこで終わらないのが日本文化のすごいところです。だいたい、平安の貴族文化にしても、もともとは「オタク」的なものなのに、今となっては立派な高尚な伝統文化になってるじゃないですか。江戸の浮世絵なんかもですねえ。
 そう、微分した無数の「コト」を積分していくと、再び「モノ」になっていくわけです。昔の日本人は、そこに気づいた時に「あはれ」と言いました。ため息をついたんですね。もっとわかりやすく言うと「もののあはれ」です。ちゃんと「モノ(変化するもの)の」と言っています。
 私たちが語ったこと、一生懸命「コト」化した「コト」はあるまでも疑似的なものなのです。ですから実際には必ず経年変化していく。その「萌え=をかし」の対象は、どうしても遠くなっていくんです。というより、まず対象より前に自分が変化します。あれほど溺愛していたのに今はさめた、なんてこといくらでもあります。そうした感慨というのは、実は巨視的、俯瞰的な見方の結果生まれてきたものです。微視(微分・コト)に執着したがために、いや、したおかげで、その裏側にある真実「もののあはれ」に気づくわけです。こうして、昔の「萌え=をかし」は「あはれ」となって、ノスタルジーを伴った新しい意味を獲得します。リアルタイムの「萌え=をかし」事象に対して、ある種の重み、深み、高尚さ、歴史的意味などを付加されていくんですね。そして、立派な伝統文化となる。
 今回、オタク(おたく)第1世代の代表たるお二人の語り部さん、すっかりそういう「もののあはれ」モードになってるんですね。昔は良かった…とは直接言ってませんが、世代間のギャップを語ったり、老後を気にしたり、コレクションの処分に悩んだり、オタクは死んだと言って涙したり…。
 私はそういう語り部さんの言葉に接して、ああこうして昭和・平成オタク文化も一つの昭和・平成国風文化になっていくんだなって思いました。そして、こういうことは、それこそ平安時代よりももっと前から、ずっと繰り返されてきたんだなって直感したんです。
 で、長くなってしまいましたが、先ほどの「転変」→「不変」→「転変」→「不変」という流れについて説明しておきましょう。本来全てのモノは時間とともに変化します。それを不変なコトとして見ようとするのがオタク的指向です。しかし、オタクたちも、ある程度生きていると、不変と思っていたコトが実際には変化しているモノであったことを再発見します。ここまではさっき説明しました。そして、最後、ああ全てのモノが変化するとことが、世の中の唯一の真理、不変の真理、普遍の真理であると分かるわけです。ある意味、オタク的な思考に陥らないと、世の中の真理はわからない仕組みになっているわけなんですね。
 お釈迦さまは、まさに貴族としてオタク的生活(なんでも手に入る生活)をしていました。そして、そこに空しさを観じて出家し、無常が世の真理だと気づいたのでした。
 ということは、オタクの行く末は出家ですか!?まず第1世代の皆さん(私も入るかな)が出家するんでしょうかね。そして入滅。成仏ですか(笑)。
 と、とんでもない方向に話が進んでしまいましたが、私は至極まじめに語っていたつもりです。これだけ語れれば(騙れれば)私も立派なオタクですかね。オタヲタ。人生オタク。文化オタク。案外自分オタクかもしれないな。
 まあ、こうして尊敬すべき先輩オタクの方々の語りを受けて、こちらも語る、語り継いでいく、これこそ文化そのものなのかもしれませんね。

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2007.05.21

鈴木秀美・小島芳子 『ロマンス』

414me91s6xl_aa240_ 今年もまた、小島芳子さんの命日がやってまいりました。今年、私は彼女が亡くなった年齢になります。そんな意味でもいろいろと考えてしまった今日一日でありました。
 昨年は若松夏美さんとの共演によるモーツァルトを聴きましたね。今年はこちら鈴木秀美さんとの共演、少し毛色の変ったものをじっくり聴きました。これがまた素晴らしい。心が洗われました。
 昨日は興奮ぎみに妙なことを語ってしまいましたが、そこにあるのは共演者に対する信頼と愛情でありまして、基本的には間違っていないと思っています。
 このアルバムには、そうした二人の圧倒的な「思いやり」が溢れております。そして、単に共演者どうしのそれだけではなく、音楽に対して、そして楽器に対しての愛情を、これほど感じることができる録音はそうそうないと思います。本当に温かい。
 説明するまでもなく、鈴木秀美さんはバロック・チェリストとして世界的な活躍をされています。小島さんは特に古典派の演奏に優れたフォルテピアニストでした。そんな二人が、ここでは、なんと堂々と後期ロマン派を奏でているのです。
 使用している楽器は、チェロが18世紀イタリアのオリジナル、弓は19世紀フランスのオリジナル、ピアノが19世紀末フランスのエラールです。
 チェロの弦は当然ガット。なぜなら、後期ロマン派の時代にはまだスチール弦というものはなかったからです。エンドピンはちょうどその頃から使われ始めたそうで、鈴木さんも珍しく(?)エンドピンを使っています。スチール弦はもちろん、エンドピンの歴史もそんなに長くないんですね。
 やはりガット弦らしい倍音の豊富な柔らかい音が魅力的ですね。もちろん、鈴木さんは当時の演奏方法や習慣を研究された上で演奏していますから、ある意味いつものバロック的な表現とは一線を画しています。しかし、いわゆる普通の現代楽器によるロマン派のイメージからしますと、かなり意外な音楽になっているのではないでしょうか。私はロマン派はあんまり聴きませんので、この演奏こそが理想的なような気がしますけれど。たとえばヴィブラートも、ロマンチックな表現のための装飾音といった感じでして、あの貧乏揺すりのような恒常的な音程のズレとは明らかに違うものになっています。もちろんボウイングもです。健康的な浪漫ですね。
 そして、なんといっても小島さんの奏でるエラールの繊細にして豊潤な響き。ああ、フォーレやドビュッシーはこういう響きの中で、ああいう曲を作ったんだなあ。さもありなんです。ショパンの時にも書きましたけれど、こういう響きを聴いてしまいますとね、どうも現代ピアノのある意味均質な響きというものに、何とも言えない物足りなさを感じるようになってしまうんですね。もちろん、逆にピリオド楽器に不満を持つ人がいるのも理解できますけど。たしかに私たちは現代人なわけでして。でもなあ、やっぱり私はこっちが好きだなあ。これはもう趣味の問題でしょう。理屈ではない。
 ピアノについても、楽器だけではなく、小島さんの音楽性やテクニックというものが、この録音の個性を豊かにしていることを忘れてはなりません。チェロという雄弁な楽器をいかに支えるかというのは、いろいろな意味で難しいと想像されますし、鈴木さん同様、ある意味アウェーでの仕事ですから、単純に新鮮だったというような言葉では片付けられないご苦労があったものと思われます。
 そうした環境の中でこのお二人の残した素晴らしい音楽は、これからも多くの影響を与えるものと信じます。ロマン派を得意とされている現役の演奏家の皆さんにもぜひ聴いていただきたいですし、逆にバロックを主戦場にしている皆さんにも聴いていただきたい。ある種の精神性の高さ、すなわち前述した「思いやり」や「愛情」と知的な研鑽があれば、そこにはこうした豊かな泉のような音楽が溢れ出るということなのです。そして、それこそが音楽家の基本そのものなのでした。
 もっともっと、彼女の生の音楽に触れておけばよかった。正直そう思います。きっと、今ごろ天国で、温かくそして優しい音楽を、それこそ泉のように生みだしてくれているのでしょうね。
 最後に収録曲を紹介しておきます。

1. ロマンスop.69(フォーレ)
2. ロマンスop.62(エルガー)
3. 愛のあいさつop.12(エルガー)
4. 歌の情景(ヴェルクマイスター)
5. ロマンツェop.5(ポッパー)
6. シシリエンヌop.78(フォーレ)
7. 夢のあとにop.7-1(フォーレ)
8. アンダルーズop.54-4(ポッパー)
9. セレナードop.54-2(ポッパー)
10. 愛の情景op.12-3(ハーバート)
11. セレナードop.3(ハーバート)
12. ロマンス(ハーバート)
13. エレジーop.17(グラズノフ)
14. カプリースop.79e-1(レーガー)
15. 小さなロマンスop.79e-2(レーガー)
16. 無言のロマンスop.23(ダヴィドフ)
17. 孤独op.9-1(ダヴィドフ)
18. わが母の教え給いし歌op.55-4(ドヴォルザーク)
19. こもりうた(外山雄三)

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2007.05.20

バロックはプロレスだ!

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 見よ!この二つの異次元空間を!
 というわけで、本日はものすごい空間移動をいたしまして、ワタクシご満悦であります。そして感じること多数。人生は楽しいのであります。
 今日はいい天気でしたねえ。朝から吸い込まれるような青空でした。昨日の嵐のため、富士山には再び雪が積もりまして、周囲の新緑と相まって、それはそれは美しい光景です。こんな日はゆっくり富士の麓を散歩でもしたいところですが、今日は仕事→趣味→趣味で東京に行かねばなりません。
 早朝、家を出まして中央道で一路東京へ。途中オークスで盛り上がる府中の東京競馬場を左手に見ます。そう言えば今日、馬以外のモノを目当てに、ここに潜入している友がいるはずだな。健闘を祈る!
 西新宿のパーキングに車を止め、まずはお仕事。2時間ほど某教育関係の方に会いまして、いろいろと作戦会議。それが終わると、さあお楽しみタイムの始まりです。
 バロック・ヴァイオリンとバロック・ヴィオラをかついで、向かうは初台の東京オペラシティであります。なんとあの近江楽堂でお遊びであります。まったくありがたいことですね。演奏会ではなく、お遊びであの響きを独占できるのです。
 ある友人たちが誘ってくれたんです。彼らは本来、今日近江楽堂で演奏会をするはずだったんですね。それがメンバーの都合で不可能になってしまった。で、会場はとってあってキャンセルもできないので、一緒に遊びませんか、と…。う〜なんというもったいないお話でしょう。あの残響3秒の中で、楽しくバロック・アンサンブル三昧ですよ。
 というわけで、私ももう一人の友人を誘って、世界一(?)ぜいたくなお遊びに参加してまいりました。ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロという編成で、ガブリエリやシュメルツァー、マリーニなどを端から弾いていきました。初期ものは久しぶりでして、最初はなんとなく心もとない状態でしたが、あの響きにも助けられながら、時は音楽とともに楽しく流れていったのでした。
 もうこれだけでも、充分シアワセなのですが、今日はその後のイベントもありまして、これがまた良かった〜。さあ、空間移動であります。
 向かうは歌舞伎町。そう歌舞伎町広場に面する遊興施設の7階にある新宿FACEです。今日はここで、プロレス団体IWAジャパンの興行が行われるのです!よっしゃ〜行くぞ〜!
 初台からけっこう歩きましたが、開場10分前くらいに到着。ロッテリアで腹ごしらえして(実はここでアイスコーヒーを全部ぶっちゃけてお漏らし状態になるという大ハプニング発生!しかし、心のレスラーはこのくらいではひるまない!)、いざ当日券で入場です。ワンドリンク制ということで、ワタクシはレモンサワーなど頼みまして、チビチビやりながらゆっくり観戦いたしました。
 まあ、かなりマニアックなので、試合の詳細は記しませんが、いい興行でしたよ。IWA、何度も崩壊の危機に遭いましたけど、若手も育ってきていて、いい団体になってるじゃないですか。ストロングスタイルあり、ギャグ路線あり、女子プロレスあり、男女混合ミックストマッチあり、流血あり、ルチャあり、本当にいろいろ楽しめましたよ。
 今日のゲストの目玉は、ダンプ松本とジャガー横田だったと思います。両ベテランはさすがという試合運びで、う〜む、これはやはり伝統芸能の領域だな、と思わせるパフォーマンスでありました。特にジャガーは素晴らしかった。男女混合試合に出たんですが、男の技をあれだけきれいに受けられるんですから、衰えるどころか、さらに見せる(魅せる)技に磨きがかかっていますね。卍固め、バックドロップ、ウラカンラナもきれいに決まっていました。あっ、技の素晴らしさということでは、ジャガーのパートナーだったエルブレイザーさんにも感動!いいぞ杉さま、静岡の星!
Enman で、本日のMVPジャガー横田さんに試合直後サインしてもらいました!あの激しい試合後すぐに売り場に出るプロ根性は素晴らしいですね。後ではダンナ様が控え目に控えております(笑)。皆さんは色紙にサインしてもらってましたが、私は「円満Tシャツ」を買ってそこにサインしてもらいました。もちろんお二人と握手しましたよ。ジャガーさんには「ありがとうございます!」と言いましたが、なぜかダンナ様には「がんばってください!」って言っちゃった。「あっ、はい…」って照れてました(笑)。
 さあ、こんな一日を終えまして感じたことは…やっぱりバロックアンサンブルってプロレスだな、ってこと。いや、これはまじです。絶対的な信頼に基づいたアンサンブル、相手を立てながら自己主張する、シナリオとアドリブ、お客さんとの対話、そしてコントラストと演劇性。本当に共通点が多いと思います。今までもトラヴェルソの中村忠さんやチェンバロの岡田龍之介さんと、よくそんな話してきましたけどね、今日は実際に連続して体験いたしまして、強く強く感じたわけであります、ハイ。
 世の中では「勝ち組・負け組」とか言いますけど、それってみんなが勝ち組になりたいってことでしょう?音楽やプロレスの世界には「負けっぷり」というものがあるんですよ。オルタナティブではなくてアンビバレントなんですよ。デジタルで単純な二分世界ではない。負けるが勝ちってこともたくさんあるわけです。私はなんでもガチンコの、殺伐とした世界はイヤです。自分が勝ち組になるってことは、誰かを負け組にしてるってことでしょ。格差はそこに生まれるのですよ。
 私はいつまでも音楽やプロレスのような、思いやりのある世界に生きて行こうと思いました。マジで。いい一日だったなあ。皆さんありがとうございました!

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2007.05.19

ラーメンズ 第16回公演 『TEXT』(NHK ミッドナイトステージ館)

Cul070110 今日の未明に放映されたものの録画を観ました。うむうむ、感心感心。あいかわらずすごい芸だ。
 ラーメンズ、以前第11回公演を紹介しましたね。今回も基本的にあの記事に書いたことと同じ感想を持ちました。完全に芝居ですな。数分間でたった一本のネタを披露するテレビのお笑い番組に、彼らが出ないのも理解できます。2時間近い公演の中に、見事に張り巡らされた伏線の数々。一言も聞き逃さず、大切に記憶しておいて、いつでもそれを引き出せるようにしておかないと、彼らを充分に楽しむことはできません。
 今回は「TEXT」とありますように、今まで以上に「言葉」「文脈」を駆使した脚本であったと思います。日本語の持つ多義性、曖昧さを笑いや驚きに利用していく小林賢太郎さんのセンスには、正直脱帽いたします。2年ぶりの舞台ということですが、たしかにこれだけ緻密なホンを書くには、そして、それを全く傷なく演じるには、それなりの時間がかかるでしょうね。
 昨日も敬語について書きましたけれど、今日のラーメンズのネタの中にも敬語がありましたね。敬語の使い過ぎという、まあありがちなネタですが、やはりその前後の文脈が、そのおかしさを一層強いものにしていました。
 いろいろな意味で「知的」と言えますね。それこそが「お笑い」の枠におさまりきらない理由でもあり、またある意味お客さんを選ぶ理由でもあるわけですが、私など、たまにこうして2時間じっくり知的に集中することに快感すらおぼえます。ま、これが毎日では疲れちゃいますけど。
 知的であるということは、先ほど書いた「記憶」という要素と、もう一つ「予測」という要素があるんですね。記憶に基づいて予測する。その予測通りになる場合もあるし、裏切られる場合もある。そうして聞き手が作品に参加することによって、彼らの芸は完成するのではないでしょうか。そういう意味では、ラーメンズと私たちの知的なバトルが2時間繰り広げられるわけですね。そういう緊張感こそ、彼らの魅力でしょう。
 アドリブが大好きな私が彼らを好むのは、ちょっとした矛盾でもありますが、ここまで見事に構築されると、もう兜を脱ぐしかない。そう、彼らはやはり、美術家なんだと思います。絵画というのは、基本アドリブ性を拒否するものです。ひらめきや瞬間の衝動はもちろん大切ですが、それを表現する技法としては「構築」「計算」「俯瞰」を重視します。キャンバス一面が2時間の公演の全体像としますと、その部分部分はそれぞれに有機的に結びついているわけでして、そのためにその部分部分は綿密に添削、校正されざるをえない。
 この前紹介した鳥肌実とは対極に位置するのかもしれません。鳥肌は「イメージはあれども意味なし」ですが、ラーメンズは「イメージはぼんやりしているけれども突如意味が浮上する」という感じです。部分で勝負する鳥肌に対して、全体で勝負するラーメンズ。しかし両者とも、アドリブが苦手でしっかりホンを作る、というのは面白い事実ですね。いやはや、芸も言葉も難しいし面白い。
 生ラーメンズもぜひ体験してみたいですね。場の空気に包まれながらの知的バトルに参戦したいものです。

ラーメンズ公式

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2007.05.18

アクセスいただけない…

Toto
 6億円当たったらこのブログで報告いたします。私も買いましたよ、totoBIG。一口だけですけど。で、サッカー大好きな先生に見てもらったら、まず当たりそうにない内容だということ。ま、そんなもんでしょ。
 さて、今日は5.18、後鳥羽上皇の日…じゃなくて「ことばの日」です(っておととしと同じボケかいな)。なんでも、ことばを正しく使おうという日だそうです。
 誰だか知りませんけど、そんな日を制定するものだから、こんなこと書くはめになっちゃう。書かれる方も迷惑でしょう。
 上のtotoBIGのホームページの画像を見てください。そう、ニュースにもなったように、アクセスが集中していろいろ問題が生じてるようです。たしかに私のようなにわかサッカーくじファンが大量発生してるわけですからね。想定外だったんでしょう。
 で、そこにこういう文章が載っているんです。引用します。

2007.05.17
【臨時システムメンテナンスのお知らせ】
2007.05.18(金) 18:00から20:00までの間に、当サイトのシステムメンテナンスを実施いたします。つきましては、上記期間のうち15分間ほど、当サイトにアクセスいただけない時間帯が生じます。
お客様にはご不便をお掛けいたしますが、何卒ご容赦いただきますようよろしくお願い申し上げます。

 なんか不自然なとこありませんか。そう、「アクセスいただけない」って違和感ありませんか。ん?別に変じゃないって?そうかなあ。
 ためしに「アクセスいただけない」でググってみますと、990件ひっかかりました。これは予想より少ない数字です。
 ちなみに「ご利用いただけない」ですと140万件、「ご理解いただけない」ですと66600件、「ご満足いただけない」だと41300件です。
 「いただく」というのは言うまでもなく「もらう」の謙譲表現です。本動詞としては「お金をもらう」の代わりに「お金をいただく」というふうに使います。補助動詞としては「〜してもらう」の代わりに「〜していただく」、「〜させてもらう」の代わりに「〜させていただく」というふうに用います。それが基本的な用法です。ちなみに「〜させて+もらう(いただく)」は使役+受益(+謙譲)」という非常に複雑な構造をしており、日本語学習者には大きな壁になっているとのこと。まあ、それはいいとして。
 それが、いつごろからでしょうかね、「ご(御)+名詞(サ変動詞語幹)」に直接付くようになったのは。先ほどの「ご理解いただけない」の元になっている「ご理解いただく」なんか、よく聞きますよね。でも、これも実はちょっと変です。あくまで「いただく」は「もらう」の謙譲語ですから、謙譲の気持ちを取っ払って「もらう」に復元できるはずなんですけどね、実際やってみると妙なことになってしまう。すなわち「ご理解もらう」とは言わないでしょう、ということ。
 では、可能の意味を足した「ご理解いただける」はどうでしょうね。復元してみましょう。「ご理解もらえる」…これもちょっと変な感じです。さらに打消しを加味した「ご理解いただけない」はどうかな…「ご理解もらえない」…これも変ですねえ。
 本来の用法としては、「理解していただく」「理解していただける」「理解していただけない」であるはずです。「ご理解」というのを単純に名詞であるととらえるなら、「ご理解をいただく」「ご理解をいただける」「ご理解をいただけない」でしょう。
 おそらく気持ちとしては「理解していただく」なんでしょうけど、冒頭の「理解」がなんとなくぞんざいな気がして「ご(御)」を付けたくなってしまう、しかし「ご(御)」を付けてしまうと「ご理解して」というふうに動詞として使えなくなってしまう、だから「ご理解」を形の上では一瞬名詞にしてしまう、けれども、気持ちは動詞のままなので「を」をはさまないで直接「いただく」につなげちゃう…こういうことだと思います。
 で、「アクセスいただけない」はどうでしょうか。これはちょっとひどいですね。上の理屈からすると「ごアクセスいただけない」になるわけですが、「アクセス」に「ご」は(今のところ)付きませんから、しかたなく「アクセス」のままで「いただく」に直結してしまったのでしょう。結果として「アクセスもらえない」の謙譲表現ということになってしまった。
 いずれにしても、これらは「いただけない」状況ですなあ。では、なんと表現したら良いのか…単純に「アクセスできない」でしょうね。あまりに顧客に気を遣いすぎるとこういうことになっちゃうわけでして、これはコンビニ敬語やファミレス敬語でもよく見られる現象であります。
 日本人は古来、相手の気持ちや場の空気を気にしすぎて、その結果婉曲表現を多用しまくってきました。敬語というのも婉曲表現の一つであると、私はとらえています。それも度が過ぎるとこういうことになってしまうわけでして、いやはやなんともでありますなあ。まあ、totoは度重なる販売停止もありましたんでね、必要以上に低姿勢になってしまったということでしょう。

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2007.05.17

私、チベットに住んでるようです

 出口王仁三郎の「雛型地図」、以前こちらの記事でちょこっと紹介しましたね。いやあ、あらためて見てみますと、このアナロジーは単なる偶然とは言えないような気がしますね。笑ってしまうほどです。
 まあ、この相似に意味があるのかどうか、それは私のような凡人にはわかりかねますが、興味をひかれることは確かです。こういう視点でものを見直すということは、人生を豊かにする大切な方法でしょうね。
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 さて、今日はもう一つ地図を紹介しましょう。これはオニさんのお孫さんである出口和明(やすあき)さんの著書「出口王仁三郎が語る霊界の最高機密 最終メッセージ編」というなんともすごいタイトルの本から引用させていただきました。より具体的で面白いでしょ。ま、ツッコミどころも多々ありますが、そういう野暮なことは言いっこなしということで。
 ところで出口和明さん、比較的最近お亡くなりになりましたが、彼は十和田龍というペンネームも持っている小説家でもありました。彼の書いた長編実録小説の「大地の母」は、あのナンバ走りをはじめとして各方面に多大な影響を与えている、武道家の甲野善記さんが「自分の人生を変えた本」として強く推薦しています。私も早く読まねばと思っているんですが。
 ついでにと言ってはなんですが、和明さんがらみでもう一つ。和明さんの息子さんは、カリスマ予備校講師、現代文の神様と呼ばれる出口汪(ひろし)さんです。ウチの学校でも今年から彼が開発した「論理エンジン」を導入しました。生徒にもかな〜り好評ですよ。お世話になります。
 おっと、また話がそれました。えっと、地図の話です。先の記事では、私は「エベレストに住んでる」みたいなこと書きましたけど、正確に言うとどうなのかな。あらためて考えてみました。
 ここ南都留郡鳴沢村字富士山は富士山の北側に位置しています。ま、住所の字名は富士山ですので、世界的な字名(?)で言えば、エベレストあるいはチョモランマでいいかもしれませんね。では、村名はどうでしょう。世界的村名。えっと相似比からいうと、やっぱり村名は国名になるのかな…ということでフツーの世界地図を広げてみますと、チョモランマの北側は…っと。ああ、やっぱりそうだ。チベットですよ、チベット(国名かどうかは微妙ですが)。そうか、ここはチベットなんだ。
 そういえば、つげ義春さんが南都留郡秋山村のことを「日本のチベット」って言ってたっけ。ある意味当たってるわ。ということは南都留郡がチベット自治区とも言えるな。まあいいや、とにかく私はチベットに住んでるということです!ってことは…剃髪している私はチベットの僧侶ですか(笑)。ま、にせダライ・ラマってとこでしょうか。ハハハ。
 ところで、最初に紹介した赤瀬川原平さんの地図でも、また出口和明さんの地図でも、伊豆半島はインドシナ半島に比定されているようです。でもやっぱり伊豆半島はインドじゃないかなあ。だって双方とももともとは大きな島(あるいは亜大陸)で、それがドカンとユーラシア大陸やら本州やらにぶつかったんでしょ。それでその衝撃のしわ寄せがヒマラヤ山脈(エベレストなど)だったり、箱根や丹那断層や愛鷹山や富士山だったりするわけでしょ。地学的に言うと、ちょっと怖いほど似ています。
 で、伊豆半島=インドとしますと、房総半島がインドシナ半島ですかね。そうすると、私は静岡=パキスタンに生まれて、東京=ミャンマーで育ち、大学からは山梨=チベット(中国)ということですか(笑)。で、カミさんは秋田=ロシアのシベリア北極圏から嫁に来たってことですな。ご苦労様です。

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2007.05.16

『「心」はあるのか』 橋爪大三郎 (ちくま新書)

Kokorowa うわぁ、ヴィトゲンシュタインかあ。もう名前からして難しい。どうも私は頭が悪いので、頭がいい人が考える世界像というのについてゆけないんですね。構造主義のところにも書きましたけど、ことこういうこと(つまり個別の人の存在を無視した世界観)に関しては、自分の実感以外信じられないワタクシであります。
 私の実感としては、昨日の鳥肌実なんかが、もうすでにヴィトゲンシュタインの世界観が間違っていることを証明しているように思えるんですよね。ヴィトゲンシュタインの言う言語ゲームだかなんだか、そういうつまらんオタク的なゲーム(ゲンゲーとでも言うのだろうか)を、ホップステップ玉砕…ではなくて粉砕してくれているような気がします。「自分の言語の限界が、自分の世界の限界を意味する」っていうルールはずるいですよ〜。ものすごくゲームっぽいルールですよね…ってゲームのルールそのものか(笑)。そんなオタクなゲームに参加する気はしません。
 さてさて、本題はそれじゃないか。いや、これが本題なのかも。それほどに橋爪先生はヴィトゲンシュタインに終始してるんですよ。で、最初から「心」はない、なんていうルールを作って語り出しちゃう。私、この記事を書かねばならないという義務感から、いやいやそのゲームに最後まで参加してしまいましたが、もうスタートからやる気なしでした。いち抜けしたくてしたくて。
 そういう言い方をすれば、それは「心」はないって言えますよ。でも、違うルールを適用すればやっぱり「心」はあります。第一、実感として「心」はあるわけです、私には。これは譲れません。「心」という言葉があるのは日本語だけだって言われても、そりゃあそうですよ、「こころ」は日本語でしかないので、当然です。
 でもね、正直言いますと、橋爪先生の考え方もありだとは思ってるんです。そういう立場は認めますが、ただ一緒に遊ぶことはできない。いくら人が楽しい楽しいと言っていても、やっぱり生理的になじめないゲームってたくさんあるじゃないですか。
 では、私はどんなゲームをやっているかと言いますと、それが「モノ・コト論」なんですね。完全に一人遊びであり、マスターベーション状態ですが、それこそ、それぞれのそれぞれによるそれぞれのためのそういうことがあるように、もうこれは趣味、性格、嗜好としか言いようがありません、ハイ。
 私は、「こころ」は「凝る」と関係がある、という語源説に立っています。「コ」という音、あるいはカ行音が持つ、固化、固定、凝集というイメージを適用しているわけです。ですから「モノ・コト論」の「コト」にも当然関係してきます。私は、人間の本質が「モノ(外部・不随意)」の「コト(内部・随意)」化だと考えていますので、その本能的な活動に伴う感覚、感情、思考全てが「心」だと思っています。ですから、「心」がなければ私もあなたも存在しないことになってしまうんですね。なんて、私も勝手なルールを作っていますけど(笑)。
 つまりこうして自分勝手なルールを作ることも「コト」化の一形態でありまして、また、人の作ったルール(コト)を理解できないで、「モノ」のまま放置するという自由もあるわけですね。だから、言葉の限界が世界の限界…ではないな、やっぱり。
 西洋の哲学やら科学やらは、「コト」にこだわりすぎるんです。「モノ」の世界、すなわち「もののけワールド」の存在が怖いんですね。でもいいかげんそこんとこを認めないとね。やっぱりこれからは「コトよりもモノの時代」「心より物の時代」ですよ。

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2007.05.15

鳥肌実

Torihada_1 ああ、気がついたら、鳥肌実と同い年になってた。彼は42歳万年厄年ですからね。
 教え子が貸してくれたCDの冒頭に鳥肌実の演説がいくつか入っており、懐かしく聞きました。昔、彼のアナログ盤をカセットに録ったものをダビングさせてもらって、よく車の中で聞いていました。久しぶりに彼の声を聞きまして、なんともノスタルジックな気持ちになりましたね。でも、やっぱり彼の声はデジタルで聞くより、アナログで聞くのが一番。不思議な人です。
 鳥肌実、ご存知でない方もたくさんいらっしゃるでしょう。あまりに過激で放送禁止用語連発なので、テレビやラジオにはほとんど出ません。てか、出られません。一部のマニアにだけ認知される存在でしたが、ネット社会になりまして、以前よりは一般の方々にも知られるようになったんじゃないでしょうか。
 彼の演説を聞いて、どう反応するかというのは、ある種リトマス試験のような部分がありまして、そう、つまり、赤くなるのか青くなるのか、あるいは紫なのか、自分がどういう人間なのか分かってしまうという面白さや怖さがありますね。皆さんは何色になるでしょうか。
 たとえば、次のflashをご覧になってどう感じられますか?
廃人演説
スピーチ
 ああそうそう、珍しくテレビに出た時は、演説の途中でCMに入っちゃったんだよなあ。佳境だったのに。その時の様子がYouTubeにアップされてます。
21世紀の主張
 私は残念ながら実物にお会いしたことありませんし、演説も生で聞いたことがございません…鳥肌口調ってうつるんだよな…って書いてたら、カミさんが娘に演説始めたぞ!遠足の弁当について語ってるぞ…「(鳥肌口調で)イチゴは一人二つまで…」ダメだこりゃ。
 思いっきり右翼的外見にして日本共産党員だったり、学会と殴りあった思えば大作を尊敬したり。もうその時点で彼の存在がギャグであることが分かるはずなんですが、案外そういうところに気づかないで不快感を持ってしまう人がいるんですよね。芸だということは分かるが面白さが分からないという人も多い。
 万人に分かる笑いというのが、そのままお金になる世の中ですので、どうしても彼のような、ある意味シュールな、ある意味アーティスティックな芸というのは、地下に潜らざるを得ません。ま、巨大な地下世界とも言えるネットのおかげで、先ほども書いたように、多少日の目を見るようになりましたが。
 彼の芸のすごいところは、とことんナンセンスだということだと思います。そのナンセンスというのが、ただ単に意味がないということではなく、意味を構築していって、しかし意味を否定するという意味なんですね。つまり、記号論に対する挑戦のような部分がある。社会において極端に記号化している素材、すなわち右翼的ファッションや政治ネタ、北朝鮮ネタ、学会ネタ、差別ネタなど、それ自体がいろいろな意味で(双方向からの)怒りを生む記号(お題)を、羅列ではなくしっかり構築することによって、イメージはあれども意味はないという不思議な時間と空間を作り出してしまう。
 それを受け取る側が、その空気を笑いに昇華できるかというのは、結局その人の性格というか性質によるものであって、笑える人が偉くて、笑えない人がダメというわけでもありません。これは例えば2ちゃんねるなんかにも言えることでして、あれを楽しむのか、それともあれに目くじらを立てるのか、そのへんはいろんな人がいていいと思いますし、いろんな人がいないと、世の中バランス取れないんで。
 というわけで、なんとなくはっきりしない言い方になってしまいましたが、つまり私はこういうのがかなり好きなのです。でも、この面白さを押して付けようとは思わないということです。

鳥肌実公式

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2007.05.14

(真説)春はあけぼの

この記事には誤りがあるようです。
本当の「春はあけぼの」とは…もお読みください。
Akebono 春はあけぼの。やうやう白くなり行く山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

 あまりにも有名な、枕草子の冒頭であります。今日、これに関して清少納言さんからホントのことを教えていただいたので、皆さんに紹介いたします。清少納言さん、けっこう怒ってましたよ。
 今までも、清少納言さんからはいろいろと面白いことを教えていただきました。いや、私にとっては面白いことでも、だいたいそれらは彼女にとっては「むかつく」ことでして、つまり、あまりに真意が伝わっていないというか、曲解されているというか、なにしろ「古典」の「名作」なんて言われて変に神格化されてしまって、結果として生命力を失ってしまっているわけですね。それは、著者として「むかつく」わ。で、ミーディアムである(?)私を通じて、今までもモノ申して来たわけです(それらについては右の検索窓に「枕草子」と入れてググって読んでみてください)。
 そして、とうとう「春はあけぼの」が登場です!神格化を通り越して、ほとんど教材化(?)してしまったこの名文に生命を取り戻しましょう。人間宣言みたいなもんかな。
 さて、皆さん、この冒頭部分、学校でどのように習いましたか?「春はあけぼの」の後に何か足しませんでしたか?そう、訳す時「春はあけぼのがよい」とか「春はあけぼのがおもしろい」とか「春はあけぼのが趣がある」とか、そういうふうにしませんでしたか?そこなんですよ、清少納言さんが怒ってるのは。なんで、そこに「をかし」が省略されてるって教えるんだ!味わいもへったくれもないじゃないか!私が醸した空気を読めよ!って。
 では、どう訳せばいいか。ま、ホントは訳さないのが一番なんですけどね。そのまんま読むのが。でも、いちおう我々は平安人ではなく平成人なのでしかたありません。いちおう私と彼女のコラボレーション訳をしてみましょう。

 春はあけぼの。だんだん白くなって行く山際が、少し明るくなって、紫っぽくなっている雲が細くたなびいてるの。

 これです。え?まんまじゃないかって?そうです。まんまです。でも、これだと平安の空気はうまく平成に伝わりませんから、ちょっと行間を補足してみますね。( )内は平安読者の気持ちです。

 春はあけぼの。(ん?春の日の出前かあ…ああ、実にいやな時間帯よね。春眠暁を覚えず。春は日が出てもゆっくり寝てるのが一番なのに。それが日が出る前に起きちゃったり、仕事の関係で起きなきゃならない時なんか、もう最悪だわ)だんだん白くなって行く山際が、少し明るくなって、紫っぽくなっている雲が細くたなびいてるの。(うわぁ、リアル…そうそうホントそういう時間帯っていやね。なによ、あの白み方。ああ、朝になっちゃうって感じ。ああそうそう、雲もなんか変な色なのよねえ。ああ、清少納言さんは私たち貴族の嫌いなものを挙げてくれてるんだわ。この枕草子っての面白そうね。いかにも清少納言さんらしい発想。で、夏は…なんですって?)

Images446 なるほど〜。そうですね、清少納言さん。当時、春と言えば「宵」とか「朧月夜」ですよねえ。それをいきなり「あけぼの」なんて言われたら、当時の人、それも貴族たちだったら、たしかにこう思いますよ。ぜったい「をかし」じゃない。そうそう、「をかし」って今で言う「萌え」なんですよね。昔、私は「萌え=をかし」論をさかんに書いてましたけど、実はその最初に書いたヤツ、つまり岡田斗司夫センセイが引用してくれたヤツ、実はちょっと間違ってるわけですね。すんません…「いいえ、最終的には合ってるわよ」って、今、清少納言さんがおっしゃいました。それはのちほど。
 さてさて、それで「夏」に突入していくわけですが、ここからどういう展開をするのでしょう。ちょっと見てみましょうか。

 夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

 うわぁ、うまいわ、清少納言さん。こういう展開、こういう演出なんですね!!さすが!!たしかにこのあたりの流れ、つまり清少納言さんの面目が躍如しているところ、全然学校で教えない、どころか、学者の皆さんも全然読み取ってないじゃないですかあ!
 つまり、こういうことですね。訳してみましょう。

 夏は夜。(ん?夏は夜…えっ?いやなもの挙げてるんじゃないの?夏の夜っていいじゃん。短夜。夏の夜更かしは貴族の楽しみの一つよね。ちょっと先を読んでみよう)月のころはもちろん。(ほら、やっぱりステキなもの挙げてるんじゃない。夏の月夜なんて最高よ。アバンチュールよね)闇でもやっぱり、蛍がたくさん飛び交っているの。また、ただ一匹、二匹なんて、ほんのり光って行くのも萌え〜。(そうそう、真っ暗な夜の蛍はいいわよねえ。普通蛍って月夜に飛ぶんだけどね。闇夜でもたくさん飛ぶ時あるのよね。ま、月のない夜らしくちょっとだけ飛んでるのもたしかにいいわぁ)雨など降る夜も萌え〜。(ええ〜?それはないでしょ。雨の夜はいや。つまんないし、なんかしめっぽいじゃん。好きな人も来てくれないし…ん?ん?そうか!冒頭の春…もしかして、清少納言さん、春はあけぼのが萌え〜って言ってるのかも!!夏の雨の夜がいいなんて言う彼女のことだから、春の夜明け前もいいって言うかもしれないわ。そうか!やられた。さすがだ。あっ、今気がついたけど、一つ前のところで初めて「をかし(萌え)」が出てきてるんだ!ここまで一番大事なところを引っぱっといて、読者を混乱させつつ、興味を引くっていう手だったのね!こりゃあ面白いわ、この枕草子。いかにもアマノジャク清少納言らしい出だしじゃん。これはこの先も読んでみたいわ。えっと秋は…っと)

 ほらね。これでもう清少納言さんの術中にはまってますよ。こういう魅力的な演出が施された冒頭なんです。そのあたりの空気が、ここ数百年(もしかして千年かも)ほど全然読み取られてなかった。で、高尚な古典にされちゃって生命感を失ってしまっていた。そりゃあ、清少納言さん怒りますよね。
 たしかにこうして読み直しますと、ものすごく上手な書き出しですね。枕草子の性格を完全に表しています。そして、読者を見事に引きつけて、ページを繰らせる力を持っている。すごいっすね、清少納言さん!えらい!
 で、先ほどの話ですが、結果としては「春はあけぼのが萌え〜」でいいわけですね。でも、そこに至るには紆余曲折があるわけで、つまり言葉を足して訳すこと自体がナンセンスになってしまうようにできてるわけです。「春はあけぼの」は「春はあけぼの」でしかありえない。さすがです。かっこいいっす。萌え〜。
 長くなりますが、ついでに清少納言さんのグチをもう一つ。その「をかし=萌え」に関しまして、どうも学校では「をかし」と「あはれ」を対比して、「をかし」は理知的、主知的な感動とか教えられているようです。おそらく池田亀鑑センセイあたりが言い出したんでしょうけど、これは絶対に間違いです。あくまで女性的なミーハーな一時的な「カワイイ!」的な感情です。皆さん、だまされないように。
 まだ、清少納言さんいろいろ言いたいようですが、今日はこのへんにしておきます。え?秋以降も彼女の真意訳を知りたいって?ま、それはまたいつかということで。清少納言さんには霊界にお帰りいただきます。

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2007.05.13

『林住期』 五木寛之 (幻冬舎)

Rinjuki 母の日ということで、静岡の実家に帰りました。その母が読んでいた本をちょっと拝借。
 「林住期(りんじゅうき)」…耳慣れない言葉ですね。古代インドでは人生を四つの時期に分けていたんだそうです。「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、「林住期(りんじゅうき)」、「遊行期(ゆぎょうき)」…学生期は師に学んでいる期間でしょうか。そして、家住期は家族を養う時期、林住期は出家して森林に住む時期、遊行期は何ものにもとらわれない理想的な時期でしょうか。これらを現代日本に無理やりあてはめるのは難しいとは思いますが、まあ学生期は二十歳くらいまでかな。家住期は長いですよね。というか、普通の日本人はずっと家にいるわけだし、家住期で終わってしまう人も多いのでは。そこで、五木さんは50歳から75歳までの時期を「林住期」と規定して、そこを輝ける「第三の人生」だと説きます。すなわち、これは五木さん流の解釈であり、比喩であるわけですね。そこのところを注意。
 ほとんどの人は、実際に森林に住むわけではないので(私は30代から森林に住んでますけど)、あくまでも精神的な意味での「林住期」だということです。その期間には定年を迎え、子育てからも解放されるわけですから、たしかにそういう解釈も成り立ちますね。
 で、もうおわかりと思いますが、日本ではこれからこの精神的林住期の人が急増するわけです。団塊の世代の退職です。そういう人たちに対して、林住期がいかに素晴らしいかを語り、最終的に健康的な「出家(本書では家出とも書かれていますが)」を促すのがこの本の目的です。まあ、時流に乗った本、団塊の世代の購買力に期待した本とも言えますか。
 ざっと読んでみまして、まあ可もなく不可もない内容だなと思いました。五木さん自体はもうそろそろ遊行期に入られるわけで、御自分の林住期を顧みてなかなか良かったなという感じなんですが、ま、五木さんはある意味生粋の遊行人ですし、実際遊行する才能の持ち主ですからね、ちょっと一般人の日常とはかけ離れているような気もするのでした。ですから、この本を読んで「よし!」とか「楽しそうだな!」とか思った人が、ではどうしようと悩む姿、あるいは経済力にものを言わせて(?)、結局社会の欲望に躍らされてしまう姿が目に浮かぶのも事実なのでした。
 さてさて、ではワタクシの「老」観はどんなものかと申しますと、それは実にシンプルでして、歳をとればいいことが増えるに決まっている、です。
 肉体の衰えはそれこそ二十歳くらいから実感していますし、頭脳の衰えは最近とみに激しい。やばいな、と思うことのしばしば、いやほぼ毎日です。しかし、その「やばい」はあくまでも現代的な弱肉朝食(?)資本主義に基づいたもので、ちょっと視点を変えれば、「やった!いいぞ!」になるんです。
 お釈迦様がおっしゃるように、自己に対する執着を捨てて、自然体で他者に生かされるのを理想とするならば、私たちの「自己力」は衰えた方がいいんですよ。それは体力であり脳力です。まあ、簡単に言えば、人の世話になるというのが理想的なあり方なんですね。人に迷惑をかけるようになって、ようやく一人前ということです(笑)。
 助け合いとか福祉とか難しいこと言わなくても、たいがい誰かが助けくれますからね。それを有難く受けながらニコニコ生きられるようになるためには、体力や脳力なんてさっさと衰えた方がいいんですよ。で、そのかわりに増してくるのは、そうですねえ、五木さん流に言えば「他力」の心、「他力力」っていうのは変かな、とにかく「我執を捨てる力」ですよ。だから「老い」には悪いことなんて何もない。得をするばかりです。
 私は真剣にそう思ってるんですね。私流に言いますとね、「学生期」や「家住期」は理想とは反対のことを学ぶ時期なんです。自我にいかに執着すべきか、悪魔がたくさん教えてくれるんです。お金の魅力とか、自分の夢の魅力とかね。で、それに虚しさを感じて、なんか違うんじゃないのかって気づくのが「林住期」。そして、いろんな意味で自己力(自力力)が衰え、自然と他力力がついてシアワセになるのが「遊行期」と。ま、そんなイメージを持ってるんです。実にうまいプログラム、演出ですよね。
 で、私はもう完全に「林住期」に入ってましてね、あとはもう少し自己力が衰えるのを待って、さっさと遊行したいんですけど、悪魔はなかなかそれを許してくれません。まあ、もう少し修行しろ!ってことでしょうね。でも、もう遡行して若返ることはないんですから、安心して老いていけますね。もう楽しいことしかないことは保証されてるんですから。
 なんて、こんなふうに真剣に思っている私は変なんでしょうか。う〜ん、やっぱり変か…。

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2007.05.12

ドラマ『めぞん一刻』 (テレビ朝日)

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 右の人気記事見てくださいよ。「セクスィー部長」が暴走してます(笑)。「国家の品格」以来の異常な数値です。「セクスィー部長」=色香恋次郎=沢村一樹。すごい人気らしいですね。ウチの学校でも生徒に見せたら、みんなメロメロ(?)になってしまいました。
 今日の「めぞん一刻」にも、その沢村さんが最後の最後に出てきましたね。なるほど三鷹役としてはハマリ役ですね。私の頭の中でも、もう彼は完全にマンガ的存在です。天才的キャラです。エロ男爵。
 さてさて、今日テレビ朝日で放映されたドラマ「めぞん一刻」。マンガ(コミック)原作もの、リバイバルもの全盛の今のテレビドラマ界を象徴するような企画ですね。でも、こうして素晴らしい歴史的名作に新しい命が吹き込まれることは、基本的に悪いことではないと思いますし、文化の継承の本質はこういう方法論の中にあるものですから、いいんじゃないですか。そして、その結果について、いろいろな立場で賛否両論闘わせるのも悪いことじゃない。
 私はけっこう楽しめましたよ。その理由はいくつか考えられます。
 まず、私がそれほど原作「めぞん一刻」に入れ込んでいなかったこと。いなかった、と言うのは、今読んだらハマるに決まっているからです。実際、もうすぐハマる予定だったんです。リアルタイムでは時流にあえて逆らって、高橋留美子を否定してましたからねえ。まったく若気の至りとはこのことであります。ちなみに「うる星やつら」に関しては、四半世紀遅れでようやく追いつきました。で、とにかく現状では「めぞん」にはそれほどの思い入れがない。一通り読んだことはあるんですが、なにしろ当時は否定的に読んでましたから。ですから、それぞれのキャラに対するイメージもそれほど強くできていない。よって、実写化にありがちな違和感を抱かずにすんだ。
 それから、今の話ともある意味かぶりますけど、私、世代的に五代くんと同じ世代なわけです。昭和58年と言えば、私が大学に入学した年ですからね。まさに下宿生活を始めた頃です。ですから、ああいうアパートの雰囲気とか、人々のファッション、部屋の小物たち、流れている音楽なんかに当然ノスタルジーを感じるわけですね。そういう見方もできますから、それは楽しい。
 あと、これはまさに本質的なものになってしまいますが、ああいう恋心といいますか、そうですねえ、受験と恋愛の葛藤という永遠のテーマも含めましてね、ああいうアナログな恋というのもまた、とっても懐かしいわけです。なんとなく胸キュン(死語?)だったりして。ま、簡単に言えば、それこそ若気の至りをいろいろ思い出すわけですね(笑)。
 と、こんな感じで私は楽しめたわけですが、これは私と逆の立場からするとつまらなくなる可能性もあったということですね。「めぞん一刻」に思い入れがあってセリフも全部覚えてるような人や、今の若者で80年代にノスタルジーなんかない人や、アナログなもどかしい恋愛にいらいらするような人には、ちょっと不快ですらあったかもしれない。
 ところで、伊東美咲って、いつも同じキャラで同じ演技なんだ?おそらく全国の多くの人が、これは音無響子じゃなくてエルメスだと思ったことでしょう(笑)。あまりにマンガの響子さんと違うんで、逆に違うストーリーとして見れたのかな。どちらからというと、原作マンガよりも「電車男」に思いを巡らしちゃいましたよね。ああ「電車男」って正統的ラブコメだったんだなって。
 さて、どうも終わり方が中途半端な感じを与えたのは、続編があるからでしょうか。原作からするとホントにまだ導入部分ですよね。これはシリーズ化されるのでしょうか。私としてはですねえ、脚本が岡田惠和さんということもありますし、ギャグ連発のマンガ原作ということもありますから、これはNHKの朝の連ドラでやるべきですね。高視聴率間違いなしですよ。
 いずれにせよ、これで終わりではもったいないですね。もっともっといろいろなキャラやストーリーを見てみたい。シリーズ化を期待しましょう。

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2007.05.11

『「書ける人」になるブログ文章教室』 山川健一 (ソフトバンク新書)

Kakeruhito 私にとってブログとは、表現とは何なのか。今日はこの本と「僕らの音楽」からいろいろと考えさせられました。
 まずはこの本、ある意味私以上にヘビーブロガーである職場の後輩が貸してくれました。
 いわゆるハウトゥーな内容を期待している方々には、かなり不満足な内容でしょう。そういう意味で学ぶべき点はほとんどありませんでしたが、あらためて「文を書く」とは何なのかということを考えさせてくれたという意味では、実にいい本だった。
 山川さんは作家さんですからね、やっぱりそういう視点をお持ちなんですよ。ブログのつぶやきも日本文学の系譜上にあるんだと。いや、そういうつぶやきこそが日本の古典的な文学の形であると。それについては、基本的に私も賛成します。ただ発想は逆です。日本文学と言われてきたものの中には、実は文学ではないものがあるのではないか。いや、もしかして日本には「文学」はないのではないかと。そういうことを、それこそここに何度か書いてきましたよね。ま、ブログが文学とは思えませんが、一方で枕草子や徒然草がブログに近いセンスを持っているということは確かです。
 さて、ここからはまさに私のつぶやきになってしまうんですが、なんでこのブログを書いてるんでしょうね。今までちゃんと考えてこなかった。
 はたして私には山川さんの言う「想い」や「エモーション」があるのだろうか。たぶん、ないと思います。どうしてもこれを語りたいという欲求は、実はそれほど強くないのです。こうして毎日書くことは、正直面倒です。いつも言うようにほとんど修行に近い。表現しないではいられない、なんていう境地からほど遠いんですよ。
 では、「ああ今日は何を書こうかな」と考えてばかりかというと、実はそうでもないんですね。いろいろ考えて、よしこれをこう料理して、こんなことを書こう!と決めてからキーボードに向かう、ってことはほとんどないんです。では、どうしているかというと、何も考えずキーボードに指を乗せるんですよ。お題もそれから考える。あとは、勝手に指が動くわけです。
 ああ、これって、自分が「メディア」になってるんですね。「ミーディアム」になってるんですよ。私は仲介役に過ぎないということです。別に降霊してるとか、そんなんじゃないですけど、やはりなんていうか、案ずるより産むが易しって言うんですか、勝手に生まれてくるモノにまかせちゃうっていうかね。与えられたものに単に対峙すれば、そこに勝手に何かが立ち現れるわけです。
 これは努力とか、そういうのではない。自分がこうして生きていて、とりあえず存在しているようなので、その自己をそのまんま他者と向かい合わせてしまうんですね。そうすると何かが縁起する。それは当たり前でして、ちっともエラいことでもなんでもない(エラいっいうのはダブルミーニングです)。
 今日のフジテレビ「僕らの音楽」はレミオロメンと松嶋菜々子の対談でした。レミオロメンはミュージシャンですから、自己表現の欲求を元に活動しているわけですし、また、それを期待される立場です。それだからこそ悩み苦しむことも多いんだなと推察いたしました。一方、役者である松嶋さんは、自己表現というよりも、与えられたもの(役)に純粋に対峙していく、というようなお話をされてました。レミオロメンはそのお話を食い入るように聴いていましたね。
 今回藤巻君が、映画「眉山」の脚本を読んで「蛍」を作った、なんていうのは、そういう意味ではとてもいい経験だったと思います。表現者としての「自分が、自分が」というエネルギーは、当然諸刃の剣になりえます。そのバランスの難しさというのは、あらゆるプロのアーティストが味わうものなのでしょうね。
 で、私はプロでもなんでもないわけですし、まあせいぜい田舎芝居の大根役者みたいなもんです。今後も、与えられたモノと自然体で対話して、自分というよりも相手の何かを引き出して行こうと思ってます。
 というわけで、今日もまたわけわからんモノが縁起いたしましたが、どんなもんだったでしょうか。

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2007.05.10

『「いじめ」は必ず解決できる-現場で闘う教師たちの実践』 向山洋一(編) (扶桑社)

Et5y こんな本を読むのは私にしては珍しいでしょう。いや、実は自分用に買ったんじゃないんですよ。教員志望の教え子に論文対策として与えたのです。ネタとしては使えますから。いちおう私も読みましたよ。たしかに現場の教師で、自分のメソドやストラテジーを持たない方々には、たいへん有用な体験談集だと思います。
 で、なぜ私がここで紹介するかと言いますとですね、編者の向山洋一氏の思い出を書きたかったからです。ある意味彼のおかげで今の私があるようなものですから。感謝してます。反面教師としてね(笑)。
 小中学校時代、本当に私は先生に恵まれていました。おそらく住んでいた地域が特殊だったんでしょう。東京の大田区の雪谷大塚というところでした。小学校は調布大塚小学校です。ここにはなかなか個性的な先生が集まっていたんですが、特に心に残っているのはお二人ですね。
 まず、理科教育の巨人と言われた坂本茂信先生。当時NHK教育テレビの理科番組の先生としても有名な方でした。私はずっと科学クラブに在籍していましたし、ほとんど6年間、先生の弟子のような存在だったと思います。私が理科の(!)先生になろうとした最初のきっかけを与えてくれた方です。坂本先生、すみません。国語の先生になっちゃって(笑)。約束守れませんでした。
 続いて、登場するのが、ある意味「巨人」向山洋一氏でありまする。今やホントに教育界のカリスマですなあ。いったい何冊本書いてんだ?「教育技術法則化運動」かあ。なんか彼らしいな。私の記憶では、彼がその小学校に赴任したのは、私が5年生になる時だったと思います。当時すでに有名だったんですよね。鳴り物入りでやってきた。彼は5年2組の担任になりました。私は3組。隣のクラスです。
 さあ、そこから2年間にわたる、向山洋一と私のバトルが始まりました。いやあ、先生は私のことなんか忘れてるでしょうね。私は忘れませんよ〜、意外に執念深いですから。まあ、あんまり詳しく書いてもしかたないんですけどね、とにかく彼の独裁的、あるいは洗脳的な学級運営や委員会運営に、少年庵主は非常に不快感をおぼえましてね、いろいろと盾ついたんです。
 面白かったのは、担任の先生はもちろん、その他の先生方のほとんどが私の味方についてくれたことです。今、こうして教師になってみて分かったんですが、ああいう個性的でカリスマ性を発揮する自信過剰風な先生というのは、職員室では嫌われるものです(笑…ま、そこには、嫉妬やら出る杭は〜的なものやら、いろんなドロドロが渦巻いてるわけですが)。で、私、「向山洋一を糾弾する」みたいなシリーズを、担任に提出する日記か何かに連載したんですよ。そしたら、担任のみならず、いろんな先生が「そうだ、そうだ、やれ!やれ!」みたいな激励文を赤ペンで書いてくれた。今思えば、彼ら、直接向山氏に言えなかったので、私に言わせてたみたいですけど(笑)。
 というわけで、2年間にわたり、いろいろなことを勉強させていただきました。しかし、私のような子犬が吠えたところで巨象はびくともするわけなく、6年2組の洗脳は着々と進んで行きました。いや、ホント独特の雰囲気になってたなあ。たしかに妙なまとまりと妙な大人っぽさを持った「いいクラス」になってましたけど。ああ、気持ち悪かった。
 私は、こうした経験を通じて、先生になる意志を固めていきました。絶対にああいう先生にはならないぞ!という意味も含めてね。まさに反面教師でした、向山氏は。
 そして、中学校に進みます。石川台中学校でした。そこで出会ったのが教育界の神「大村はま先生」だったわけです。

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2007.05.09

萌えるゴミ

 今日から県高校総体が始まりました。そう、3年前に記事にしましたね、あの謎の開会式が行われたわけです。3年前までは、私は笛吹き係としてその県高校総ヲタ(?)たちの堂々たる行進を指揮していたんですが、最近はヲタ卒業ということでしょうか、居残り組に定着いたしました。
 で、居残り組は何をするかといいますと…なにしろですねえ、生徒も先生もスポーツマンとオタクは出払っているわけでして、まあ残っているのは勉強が得意なやつらかワルくらいですからね、あんまり授業をする雰囲気ではないんですね。で、しかたなくというか、いや、ここぞとばかりに、その日は全校奉仕というのをやるんです。街に出てゴミ拾いをするんですよ。いいことです。ただ、ちっとも「全校」ではないのは気になりますが(笑)。
 私も生徒たちと7キロくらい歩きましたよ。ふだん接することのない生徒と話しながら、ふだん歩かない路地を行くのもまたオツなものですね。で、生徒たちは燃えるゴミ係と燃えないゴミ係に分かれて、それぞれ袋いっぱいにゴミを集めるんですね。けっこう楽しそうです。毎日奉仕でもいいよ、という生徒も多数います。なるほど。
 というわけで、生徒たちはとってもよく働いてくれました。私も…と言いたいところですが、どうも途中から私の目的は微妙に変ってるんですね。「燃えるゴミ」担当であった私の視線は「萌えるゴミ」に向かっているんです。すんません。
 こうなるとほとんどその渉猟のスタイルは「発掘」に近くなってきます。考古学ですね。もともと私の学校がある街は「レトロ」を売りにしているくらいでして、もう街自体が巨大な遺跡と化しているんですけれど、ちょっと渋い路地なんかまさに遺物の宝庫でありまして、これはいったいいつの時代のゴミだ?というものが大量に発見されるんですね。
 戦前の紡績機械の部品と思われるものやら、昭和33年の市役所新庁舎完成記念の灰皿など、燃えないけれど萌えるゴミをたくさん発掘しましたが、なんと言っても今日の一萌えはこれですね!
Yumi 由美かおるのアース渦巻看板。まあ、これは全国的にあまりにも有名な遺物であります。しかし、その発見された状態がよかった。まさに発掘だったんです。どこかの壁にかかっていたんではない。畑に半分埋まってたんですよ。由美さんの足だけ出てた。
 で、土を払って発掘したんですけど、いざ持ち帰ろうかと思ったら、生徒が「これゴミじゃないんじゃないですか?」って言うんですよ。たしかに、なんで、こういう状態で畑に半分埋まってたんだろう。そこに放置されていたにしては不自然です。そう思ったら、これはなんかの目的のために「設置」されていたのではないか、という気持ちになってきたんですよ。それでですね、結局埋め戻ししました(笑)。発掘調査の基本ですよ。
 それにしてもゴミとお宝の関係というのは面白いですね。ある一定の時間が経つと、無価値なゴミが有価値な宝物になる可能性があるわけですからね。江戸時代の割れた茶碗のかけらなんて、もう完全に考古学の対象です。由美かおるもあと数十年、いや数百年ああやって畑に埋もれていれば、大変な発見の対象になるかもしれませんね。平成時代の日本人は、この昭和時代の看板をいかなる目的で使用していたのかって(笑)。
 ゴミをやたら拾って、ゴミのレッテルを貼ることは、もしかすると反文化的活動なのかもしれません。とすると、ウチのゴミももうしばらしく放置した方がいいかも。なんちゃって。

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2007.05.08

『セクスィー部長〜サラリーマンNEO』 (NHK)

Sexybucho 昨年のseason1ですっかり私をとりこにしてしまったNEO。NHKにして最もNHKらしからぬコント番組。いや、最もNHKらしいとも言えますな。とにかく素晴らしい演技力と演出力に支えられた大人の笑いなんですよね。その後お休み中も過去のDVDを借りて観たりしてました。
 そして、4月からついにseason2として再開!大きな事件があって4月17日の放送が休止になりましたので、今日が4回目ということですか。いやあ、今日も面白かったなあ。
 まず個人的には、原史奈さんが、変わらず出演、活躍されているのがちと嬉しかったりして。婚約を発表され、どうなるのかなって思ってましたんで。
 で、今日の放送。season1から引き継がれている各コーナー、「RE」や「サラリーマン体操」「大いなる新人」は相変わらず爆笑ですし、「教えて!Mr.ゴーン」はとってもためになりました。しかしなんといっても、私にとっての今シーズンのヒットはこれ、「セクスィー部長」ですねえ。あちゃちゃちゃちゃ…これはすごすぎです。
 第1回でいきなり登場し、南野陽子さんらをメロメロにしてしまったセクスィー部長こと色香恋次郎。沢村一樹さん「川上くん」でもかなり壊れ気味ですけどね、こっちではもっと逝っちゃってます。この人は一部ではエロ男爵なんて言われ、ある意味これが「ス」なんだと思いますが、それにしてもヤバいっす。
 なんでも、第1回の撮影の時、沢村さんはこんな役をやるなんて知らなかったそうです。つまり、ほとんど役作りはその場でやったってことでしょう。そして、踊りというかあのセクスィーな動きはアドリブっていうことでしょう。ううぅぅ、天才じゃあ。ってか、スだとしたら、もっと怖い(笑)。撮影の際には音楽はないそうです。静かな中であれをやるのか…ム、ムリだ。
 ああいうセクスィーな部長が実在したらすごいですねえ。女性がトップをはる企業が増えてきてますから、なかなか効果的ではないでしょうか。ま、逆のパターン、女の色仕掛けでやられて潰れた企業は多々ありますが。
 私も時々思うんですよね。オレもセクスィー教師だったらなって(笑)。いやいや、セクスィーじゃなくてもイケメンだったらなって。だって、ギャルども露骨に言うんですよ。あ〜あ、担任がイケメンだったらなあ、もっと言うこと聞くし、勉強するんだけどなって。悪かったな。セクスィーでもイケメンでもなくて(笑)。
 ま、セクスィーでもイケメンでもない場合はですねえ、どうすればいいか。誠実さ…なんてダメです。キモいって言われます(笑)。では、どうすればいいのか。それはまさに芸能界を見ればわかります。最近特に女性に人気があるのはお笑い芸人ですよね。実際超美人をめとったりしてます。私にはそちらの道しか残されていないわけでして、日々頑張っております。そういう意味でもこのサラリーマンNEOは大変に勉強になります。だって、沢村さん以外の男優陣は、決してセクスィーともイケメンとも言えませんから。

YouTubeで観る(消えてたらごめんなさい)
ニコニコ動画で観る
サラリーマンNEO公式
セクスィーなオトコはビジネスを躍らす
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セクスィー部長と光源氏
『サラリーマンNEOボーナススペシャル』(ウッチャン登場)
サラリーマンNEOサマースペシャル

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2007.05.07

さようなら、ソガ隊員!

Achihashinsuke また悲しい訃報です。ウルトラセブンのソガ隊員役で人気だった阿知波信介さんがお亡くなりになりました。自殺ではないかとのこと。芸能プロダクションの社長を務めておられた阿知波さん、最近体力と気力の衰えに悩んでいたらしい。元奥さんの多岐川裕美さんとの間に生まれた、娘の華子さんの芸能活動も順調だったのに、いったいどうして…。
 ウルトラセブンマニアだった私は、リアルタイムで観ていたころからソガ隊員が大好きでした。社宅の庭で友人とウルトラ警備隊ごっこをする時は、いつもソガ隊員役に立候補しました。決して派手な存在ではなかったけれど、ダンに微笑みかけるあの表情に、幼い私は男の強さの裏側にある優しさを読み取っていました。射撃の腕前も素晴らしいし、常に沈着冷静という印象もあります。そんなところにすっかり惚れ込んでいたのでしょうね。
 その後の阿知波さんはテレビにはほとんど出演されませんでした。私がのちにテレビでお顔を拝見したのは、大学時代に観た「青春とはなんだ」の再放送だけでしょうか。もちろん、これはソガ隊員以前の作品ですね。チョイ悪高校生役だったと記憶しています。あれがデビュー作だったのでしょうか。そうすると山梨が実質的なデビューの場であったということになりますね。「青春とはなんだ」は勝沼、塩山付近で撮影されていますから。
 今年は植木さんのあとも、横山ノックさんや尾上佳緑さん、服部良子さんや北村和夫など、昭和の芸を代表するような方々が相次いでお亡くなりになりました。そして阿知波さん…彼は俳優としてそれほど多くの仕事をしていません。しかし、多岐川さんや竜雷太さん、あおい輝彦さんや黒部進さんらを支え育てた業績は多大なものがあると思います。いや、それ以上に、私にとっては地球を守ってくれた勇敢なヒーローだったのかもしれませんね。ありがとう、ソガ隊員!お疲れさまでした。ご冥福をお祈りいたします。

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2007.05.06

『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』 福田ますみ (新潮社)

Decchiage 皆さん、記憶に残っていますか?当時、週刊文春が「『死に方教えたろうか』と教え子を恫喝した史上最悪の『殺人教師』」と報道した教師によるいじめ事件。朝日新聞はもちろんのこと、各社マスコミがこぞって「とんでもない事件」としてとり上げていましたっけ。そういう報道に最も慎重であるべき同業者である私も、すっかりその内容を信じてしまい、こりゃさすがにひどいな、と思った記憶があります。
 その事件がその後「とんでもない」方向に動いていたなんて、私はこの本を読むまで全く知りませんでした。その驚愕の内容もさることながら、マスコミのいいかげんな報道と、それを鵜呑みにしてしまう自分に恐ろしさを感じました。ですから、このルポルタージュ本を読む自分も、常に冷静に、そして半分は懐疑的でありたいと思うのです。しかし…。
 全く不謹慎だと思いますが、正直に申しますと、とんでもなく面白くて、信じられないほどのスピードで読みきってしまいました。そして、読後の気分は「この親狂ってる!」でした。また、私は振り回されているのでしょうか。
 結論から言えば、マスコミが報道した「教師のいじめ」の内容は、そのほとんどが該当生徒とその両親による狂言であり、結果として彼らと学校関係者、自治体の教育関係者、司法関係者、そしてマスコミ及びそれに躍らされる私たち一般市民による、「教師へのいじめ」であったということなんですね。それが裁判を通じて明らかになってくる。
 細かい内容は実際に読んでいただくとしましょう。あまりにぶっ飛んだ展開なので、皆さん唖然としてしまうことでしょう。ふぅ…あれだけ攻撃的に報道していたマスコミは、なんでこの裁判の過程をもっと私たちに知らせてくれなかったのでしょうか。この本がなければ、私も「この教師狂ってる!」で終わっていたでしょうね。
 あくまで仮定ですが、この本の内容が正しければ、この国の多くの人が病気です(私も含めて)。虚言癖はある一部の人だとしても、それを取り巻く「人権病」「偽善病」は相当広範囲にわたって感染していますね。こんな結果になる裁判にあたって、生徒側についた弁護士はなんと550人(!!)、教師側は最初0人でした。
 それにしても、よくこの先生死ななかったなあ。なんとなくこの本を読む限り、この先生のキャラというのもやや特殊な気がしてきます。悪い人ではないのでしょうが、どうも妙に冷静というか、奥手というか、正直もどかしさを感じる人も多いはず。まあ、あらゆる面で不運が重なりましたね。
 ちょっと前に、学校に対する親のイチャモン(無理難題・いいがかり)をとり上げた「悲鳴をあげる学校」を紹介しました。あの本では、「イチャモン」こそが連携の種になるという結論でしたが、やはり「イチャモン」を受ける方の対処が間違ってしまうと、取り返しのつかない事態に発展してしまうんですよね。特に最初の対応。
 自分もこの先生と同じ立場にならないとは限りません。この親と同じ立場には死んでもなりたくないですけど(笑)。ああそうだ、よくクラスの生徒と笑いながら話すんですけどね、今おまえらに対して言ってる内容を活字にしたら、これ完全に「教師によるいじめ」だよなって。確固たる信頼関係が出来上がっていると、お互い言いたいことを言い合えるものです。一見(一聴)、そこまで言っていいの?という発言こそが、お互いの距離を縮めたり、お互いの心を解放したりするもんなんですよ。ああ、こいつあぶねえ教師だな、と思った皆さん、現実はそれほど単純ではありませんよ(いや、ある意味単純なのかな)。それよりですねえ、単なる言葉狩りや、腫れ物に触るようなつきあいの方が、ずっと危険だと思っています。
 ただなあ、相手が狂ってる場合はどうでしょうねえ。狂ってるなんて表現自体問題かもしれませんけど、実際そういうのもあるわけでして…。まあ我々教師は、時代に対応していろいろなテクニックを身につけて行かなければならないわけですね。ふぅ…とにかく勉強になる本でした。気は重くなりましたけどね。

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2007.05.05

aiko 『彼女』

41ew892m8hl_aa240_ 自分でも意外でしたが、aikoについてあんまり書いてませんね。検索してみたらこの記事で椎名林檎と同じ引き出しに入ってるって書いてるだけ。いつか書こう書こうと思っている内に時機を逸した感じですな。
 林檎姫についてはいろいろな形で紹介してるんですけどね、昔は実はaikoの方が好きだったんですよ。でも、私がすっかり大人になってしまって(?)、どうもあのaiko嬢の女の子路線についていけなくなってきた。これは正直なところです。
 このアルバムも去年の夏からけっこう車の中とかで聴いてたんですけど、記事にするほどの感動はなかった。いや、単純に聴けば、これまたかなりレベルの高い音楽が展開されていますよ。曲作りに関しては、あいかわらず天才的なセンスを発揮してますし、詞もあいかわらず(笑)、アレンジは島田昌典流でいつも通りですし。ここまで変らないと、それはそれですごいなあと思っちゃいます。
 コアなファンから言えば、いろいろと変化があって、それが良かったり不快だったりいろいろするんでしょうけど、私のゲージからすると、ややマンネリかな?という感じなんです。歌もうまいと思ってたんですけど、あまりに全部同じ声でして、ちょっと飽きてきたかもしれません。彼女もデビュー10年に迫り、お歳もそれなりにおなりですので、そろそろ変りたいのではないでしょうか。
 しかし、こうしたaiko色というのが、コマーシャルな価値を持っているわけでして、それに応えて行こうという姿勢はプロらしいとも言えます。でもなあ、せっかくだからもう一つ上のステージのaikoに会いたいなあ。そういう意味では国分氏とのことを経てどうなるのか、次回作シアワセがちょっと楽しみかもしれません。
 ところで、私がaikoに一耳惚れしたのはカブトムシでした。花火は知っていたんですけど、まあかわいい声だな程度の認識だったんですね。それがこのカブトムシを聴いた時にはかなりぶっ飛びました。聴いたことのない、しかし美しいメロディーとコード進行に仰天しました。これは天才かも、と思いました。その後もしばらくは期待を裏切らない名曲を発表してくれましてね、私も満足しておりました。しかし、人間というのはワガママですよね。期待どおりすぎると、今度は不満になってくるんですから。
 人間にとって初体験というか、初めての感動やときめきというのは特別なものなんですね。今日も一通り「彼女」を聴きましたが、その後で「カブトムシ」を聴いたら、やっぱり胸がキュンとしてしまいました。つまり、私自身が変ってないってことですな、こりゃ(笑)。
 ま、理屈抜きで「カブトムシ」は名曲です!!下にピアノ弾き語り映像(YouTube)がありますので、よろしかったらどうぞ。

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2007.05.04

『昭和天皇伝説 たった一人のたたかい』 松本健一 (朝日文庫)

Syowat 昨日の本にも書かれていましたが、最近になって、つまり戦後60年を過ぎて、かの戦争や昭和天皇に関する新資料が、国内外を問わずたくさん発見・公表されはじめました。多少世の中のムードも変りまして、今までタブー視されていたことにも言及しやすくなったとも言えます。
 それでもまだまだ謎は多く、かつ禁中にチラッチラッと何かが見え隠れするものだから、一層いろいろな興味を刺激され、そこから様々な妄想も生まれたりするんですね。私は、富士山というもう一つの「日本国の象徴」に住み、当地に伝わるもう一つの「神話」を研究したり、その両方に関わっているもう一人の「現人神」出口王仁三郎のファンだったりしますからね、もう一つの「物語」の暴走をなかなか抑えきれません。
 この本も、なかなかの「物語」ぶりです。かなり面白い物語と言えましょう。昭和天皇が生涯その名を口にしなかった(と思われる)3人、すなわち、北一輝、出口王仁三郎、三島由紀夫に、あえてスポットライトを当てることによって、そこに影として現れる昭和天皇を読み解こうという試みは、なかなか刺激的です。なにしろ口にしなかったのですから、いわゆる資料というものはほとんど皆無です。ですから、自然「物語」となってしまうわけですね。
 この3人、つまり、昭和天皇を怒らせた(?)三つの事件、2.26事件、大本弾圧事件、三島事件の主役達ですね、彼らが目指したものと昭和天皇が目指したものとは、どのように関わり合い、そして、どのようにぶつかり合ったのか。たしかに大変興味のあるところです。
 私は北とオニさんについては、まあそこそこ知っている方だと思うのですが、実は三島についてはまだほとんど勉強していないんです。もちろん少年時代から興味は持っていたんですが、なんでしょうね、それこそもう一つの禁中なんでしょうかね、いまだ踏み込めない領域なのです。近くに三島由紀夫文学館もあるのに、実は怖くてまだ行っていないんです。これは自分でも非常に不思議な感じがします。
 その怖さは、ずばり霊的なものです。何言ってるんだって呆れないでくださいよ。これは理屈ではないけれども、たしかに存在する何かなので。仕方ありません。自分の感覚を信じるしかありません。ただ、最近ぼんやりと見えてきたのは、その霊的な一つの流れ、霊脈みたいなものがあって、それがたしかに万世一系の天皇制に寄り添ってもいるのですが、しかし一方ではそれと全く同じエネルギーの強さを持っているということなんですね。つまり、反宇宙のような感じで、まったく同価でありながら鏡像のような形で存在している。お互いが不即不離で相互依存的な感じ。あるいは互いに牽制し合って一つの均衡を保っているというか。
 そのもう一つの「霊脈」に、どうも私は昔から反応しやすいんですなあ。そういう血が流れてるんでしょうかね。おそろしいことに、著者の松本さんも違う本で指摘していましたが、出口王仁三郎と三島由紀夫が有栖川親王を通じて、血がつながっている可能性すらあるんですよ。まあそれを差し置いても、三島が王仁三郎から思想的な影響を受けていることは間違いありません。また、三島から派生する、寺山修司や美輪明宏、さらにそこからつながる丹波哲郎、江原啓之といった流れ、王仁三郎から遡って行くと現れてくるもう一つの皇統、そして富士山と宮下文書…ああ、もう妄想の暴走を抑止できません。
 ま、こんなことばっかり考えてるから、私はお変人扱いされるわけですけど、これは性分だし、どうも自分の使命のようなものだと思ってしまっているので、しょうがないっすね。
 と、話がぶっとんでしまいましたが、この松本健一さんの本は、一つの物語であると同時に立派なノンフィクションでもあります。結局、禁中のことは私たちが勝手にいろいろ想像するしかないわけですし、それこそがまさに日本の伝統的な民衆文化そのものであったわけですし、そこにこそ不可解な「天皇制」の意味があると思いますので。皆さんも、天皇についていろいろと妄想しつつ、そこに立ち現れる「自分」を楽しんでみてください。

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2007.05.03

『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』 中西輝政 (PHP新書)

4762jhjh この本はかなり危険な香りがします。かなり香ばしい。私はその香りがどうも好きらしく、全然いやな気持ちにならなかったのですが、世の中の半分くらいの人は、吐き気を催すのではないでしょうか。
 帯に「なぜ日本人は戦前を否定するのか?」とあります。まあ書かれている内容はその通りでして、戦前、すなわち昭和初期、大正、明治、江戸…古代までの日本の素晴らしさを説いて肯定する本です。戦後アメリカおよびソ連の巧みな洗脳によってしみついた自虐史観に物申すということですね。
 当然そうなりますと、先の戦争への道筋も肯定せざるを得ません。実際、あの戦争に突入していく事情については、詳細に書かれている。私も初めて知ることが多く、なるほどと思わせる部分も多々ありました。しかし、どうも香ってくるんだなあ。いい香りが(笑)。
 京都大学大学院の先生ですから、それなりの研究成果に基づき、それなりの客観性をもって書いているのでしょう。しかし、論文体ではなく(慣れない)口語体で書いたからでしょうかね、どうも「私情」が前面に出てきてしまっているんですね。そここそが「香り」の出所であり、かつ吐き気を催す原因になっていると感じました。
 そういう意味では、後半の皇室論の部分も、ややロマンチックになりすぎているような気がしました。ここでも私はたくさんの新しい知見を得ましたし、感動すら誘われましたが、どうも筆者のエモーショナルな部分が「痛い」んですね。
 まあ、それは分かってるし、分かったよ、と。筆者が自虐史観や外国人の日本文化論や左派を徹底的に糾弾すればするほど、どうも筆者自身の愛国史観(本人はそう思ってないでしょうけど)や日本文化最高論(?)が、鼻につくようになってくるんですよね。で、何度も言いますが、私はそれを嫌いでないので、充分楽しませていただいたわけですけど、一方でちょっと心配になってくるんです。せっかくいいこと言ってるのに、この一方的な言い方だと誤解されるし、反対勢力を興奮させるだけだろうなって。
 そういう意味では、あの藤原正彦センセーの「国家の品格」や、鈴木孝夫大明神の「日本人はなぜ日本を愛せないのか」に比べますと、より原理主義的なイメージを与えてしまっています。では、いったい、このお二人の巨人と、中西先生のどこが違うのでしょうか。それはずばり「ユーモア」だと思います。そしてそこから発するであろう「かわいらしさ」だと思います(失礼)。
 でも、これってとっても大切だと思いますよ。ツッコミどころ満載で、そのツッコミすら呑み込んで、一つの世界観を形成する。そういう度量の大きさというか、器の大きさこそ、日本文化の根本的性質ですから。日本文化に原理主義は似合わない。
 というわけで、この本ですが、読んでどのような感想を抱くか、いや感情を抱くか。「全くその通り!」と思っても、「けしからん!」と思っても、あなたは原理主義に陥っている可能性があります。では、どういう気持ちになればいいのか。それを皆さんで考えましょう。勉強になりますね。

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2007.05.02

不二草紙3歳の誕生日

20070502 今日はこの不二草紙の誕生日でした。すっかり忘れていて、今日は何を書こうかなと考えていたんですが、ふとした会話から思い出しました。
 3年ですか。私にしては本当に珍しく続いたものです。これもひとえに読んでくださる皆さまのおかげでございます。ありがたいことです。
 このブログ、3年の間に、のべ40万の方に見ていただき、本で紹介されたり、テレビに出たり、まあいろいろありましたね。オーサーといたしましても、いろいろと楽しませていただきました。不二草紙さんに感謝です。
 何をしても三日坊主の私が、毎日続けられたのはほとんど奇跡に近い。今考えてみますと、劇的に生活を変えたことが奏功したような気がします。つまり、一日一食にして、朝4時起きを実践し始めたのがその頃なんですね。基本的に今でもそういう生活を続けております。
 今や頭も丸めてしまいましたし、なんとなく修行僧のような感じですけど、やはりそういうちょいとストイックな生活をするというのが、何かを継続する秘訣なのかもしれません。健康第一ですしね。この前ホント久しぶりに寝込んじゃいましたが、この3年間は概して非常に体調がよかった。花粉症も治っちゃったし。
 精神的にも肉体的にも健康でないと、何事も頓挫しがちですよね。そういう意味では自らの、そして家族の健康に感謝ですし、また、逆に毎日浮世離れした(?)タスクがあるというのが、健康に寄与したとも言えるかもしれません。人間は日々の「生活」だけでは生きて行けないものなのです。
 「石の上にも三年」とか「継続は力なり」と申しますが、この歳になってこの言葉の意味をしっかりと味わわせてもらっていますね。当たり前のことなのでしょうが、何事も続けていますと、いろいろなご縁が生じ、出会いがあり、そして何かがはっきりと見えるようになってきます。自分が大きく成長したとは思いませんが、自分を取り巻く世界はずいぶんと大きくなりましたね。
 自他共に認める無精者の私のことです。こうしたある種の強制力が働かないと、自分を変革できないんです。不二草紙を始める前までは、そういう自分のダメさをいやというほど実感し、ちょっと諦めモードに入っていたんですね。ところが、自分からハッタリでもなんでもいいから外に働きかけてみたら、ちゃんと何かが返ってくるじゃないですか。それも自分の想定以上のものが。それで自分がいつのまにか拡張されていた。勉強とか努力とかが大の苦手ですからね、内側から変るんじゃなくて、外側から変えてもらったわけです。そういう他力的な発想といいますかね、変な自己への執着を捨てるといいますか、行雲流水といいますか、とにかく自然体でまわりに任せてしまうというのが、自分を変える有効な方法であったと。
 そういうことに気づくきっかけが、インターネットというメディアであったというのは、非常に興味深くもあります。ネットは、不特定多数の皆さんの脳と私の脳がつながるテクノロジーであります。さまざまなボーダーを超えた脳のぶつかり合いの場です。人の脳が考える「コト」は、自己に執着するかぎり「コト」にしか過ぎませんが、こうしてその「コト」どうしが遭遇すると、そこに新しい「モノ」が生まれます。他者の「コト」は最初は理解不能な「モノ」なんですね。そして、それを理解し理解させるために、相互に「モノガタリ」という行為が始まります。「モノ」を「カタル」、ぼんやりした「モノ」に形を与え、固め、共通の「コト」を形成しようとするのが「物語」の本質であると、私は考えています。そういう意味では、この不二草紙はもちろん、ネット上にはそれぞれの物語が無数に展開されているというわけですね。面白い世の中になりました。
 もちろん、脳どうしのおつきあいだけではダメですよね。でも実際、不二草紙を通じて何人もの人と実際お会いする機会を得ていますし、私は最終的にはそうしたご縁を大切にしたいと思っておりますので、そういうご縁をお望みになる奇特な方は、ぜひとも積極的にアプローチしてきてください(笑)。
 とにかく、皆さまのおかげで、毎日充実した生活を送らせていただいております。今後もテキトーに(失礼!)発信してまいりますので、時々ツッコミなどよろしくお願いいたします。

追伸 「不二草紙」本体の方の更新が全く滞っておりますこと、お詫び申し上げます。今年こそは少し動かしていきたいと思っております。

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2007.05.01

WELLCOME TO YAMANASHI (!?)

346hg 職場の後輩が見つけてきたんですけど、これ、どうでしょう。どうしますか。まずくないっすか。
 私は「 correct collect errors」のコーナーを持っているくらいですから(って全然始まりませんが)、こういうのを楽しめるタチなんですけど、怒っちゃう人とかもっといないんでしょうか。
 たしかに私も言われるまで気づきませんでした。というか、こののぼり自体はそこら中にた〜くさん立ってますから、「週末は山梨にいます。」というのは、よく見ていました。まあ、このコピーはそんなに悪くないなと。私なんか逆で「週末は山梨にいません。」ってことが多いんですが、たしかに私のウチの周辺はみんな週末山梨人です。別荘地ですからね。東京との位置関係なんかから言って、こういうキャッチフレーズは分かりやすくていいじゃないですか。ただ観光で通り過ぎるんじゃなくてね。毎週来るっていう。半住人というか。
 で、今年は大河ドラマが「風林火山」ってこともありますから、山梨県あげて観光に力を入れてるんですよ。甲州商人たるもの、ここで稼がにゃ!ってことです。まあ、それはいいですよ。でも、そういう時こそちゃんとしましょうよ。
 「WELCOME」を「WELLCOME」と書いてしまうというerrorは、非ネイティヴにはよくあることです。実際、ネット上にもそうした誤りが多数ありますし、私のウチの近くのある公的施設にもそう書いてあり、一度指摘したことがあります。ネイティヴの方に聞くと、なんでもわざと間違えることはあるらしいのですが、それはあくまでおふざけであり、品のないイメージを与えるものだと言います。
 そんなものを全県にわたって、いったい何本立てているのでしょう。私もいちおう山梨を愛する山梨県民ではありますが、しかし、これはなかなか笑って許せるものじゃないですよ。だって、これは「公的」なものですよ。県の命運をかけてるものでしょ。何人もがチェックしてしかるべきじゃないですか。
 このあたりは富士山もありますからね、外国人もたくさん来ています。彼らこそ笑って許してくれるとは思いますが、笑われることには違いはありません。でも、これを全部作り直すのに我々の税金が投入されるのもなあ。かといって、これが今年いっぱいずっと掲げられてるっていうのもなあ…。
 なんだか「WILLCOM」っぽいっすね(笑)。ウィルコムの潜在的宣伝だったりして。まあ、全部作り直すのはなんですから、よくあるようにシールでも貼りますか。それっていつも思うんですけど、ここ間違ってましたって宣言するようなものですよね。必ずはがしたくなりますし(笑)。
 さてさて、ついでに面白い話を一つ。地元の人は覚えてますかね。去年富士吉田市でですねえ、2002年のワールドカップの時にカメルーンの選手団がキャンプをしたことを記念して(それ自体よくわからないコンセプトですけど)、記念碑を建てたんですよ。で、盛大に除幕式をした。バッと幕を取ったらですねえ、「World Cup」が「Would Cup」になってた(笑)。で、結局あの大仰な記念碑を作り直したんです。まったくねえ、なんで製作過程で誰も気づかないんでしょう。もう、これは完全にギャグですよね。
 今回もそうですが、お役所仕事なわけでして、お役所ってけっこう頭がいい人が勤めてると思うんですけどね、どうしちゃったんでしょう。忙しすぎるのかな。さあこの件、今後どうなるのでしょう。このことに気づいて指摘してる人、どのくらいいるんでしょうか。ネット上ではかの後輩のブログだけみたいですけど。私もこの記事を担当部署に見てもらいますよ。

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