『欲ばり過ぎるニッポンの教育』 苅谷剛彦+増田ユリヤ (講談社現代新書)
私の恩師大村はま先生との共著「教えるということの復権」を通じて知った苅谷剛彦さん。その後も数冊の著書や論文を読ませていただきましたが、そのたびに好感と共感を抱いてきました。なぜなら、この人は教育を論じる人々の中では珍しく、とっても冷静で中立的な立場を取っているからです。地味ではあるが非常に現状に合った、そして有益な議論をなさる方です。
そんな苅谷さん、今回は少し熱くなっています。そこがまた、ああこの人も普通の人間なんだ(失礼)と思わせ、いい味が出ていましたよ。今までは、なんとなく相撲の行司さんみたいな印象だったんですけどね、この本を読んだら和田京平レフェリーになりました。うん、いい比喩だ(笑)。
この本では、犬猿の仲、とまではいかないけれど、「総合的な学習の時間」問題で対立した、ジャーナリストの増田ユリヤさんと対談してるんです。前書きにも後書きにもあるように、この対談、途中でやめようと思ったらしい。たしかに二人の論議は平行線で、どうにもかみ合っていない。しかし、かみ合い過ぎの対談本が多い中、これはこれでなかなか楽しかった。
それはですねえ、こういうことです。さっき和田京平って書きましたけど、その印象は読後のことでして、読中は彼自身が女子レスラー増田ユリヤと闘うレスラー苅谷剛彦になってるんです。で、どうにも手が合わない。異種格闘技とまではいきませんが、お互いを生かしきれない感じなんですね。さあ、こういう場合、プロレスにおいて重要になるのは、それこそレフェリーの存在です。そう、レフェリーが試合を作り、組み立てていかなければならないのです。そして、この本の場合、レフェリーになるのは私たち読者です。私も最初は観客でいようと思ってたんですけどね、あんまりしょっぱいので、途中からより積極的にかかわるようになりました。つまり、私の思考も能動的になって、いつのまにかその試合に参加していたということです。で、最後には苅谷さんの手を挙げる…と。
進学率が異常に高くなっている現在、学校の問題、教育の問題というのは、本来社会の問題であるべきはずものをオブラートに包む役割を果たしている。本来警察や医者なんかのお世話になるところを、生徒指導や保健の先生が世話してすませている。このような考え方には全く同感です。日本独特の婉曲朧化社会ですよ。相対評価もそうです。それが、教育改革、教育再生の名の下、資本主義的に、ストレートに、自己責任的に変ろうととしているんです。私はいやだなあ、そういうの。自由競争ほど残酷で野暮なものはないですよ。自由は最も不自由です。助け合い、ごまかし合いがない。
一度苅谷さんとお話ししたいですね。現場の教師として、もの申したいということもありますけど、それ以上に二人で「そうですよねえ〜」と言いたいんです。つまり、教育には限界があるということ、それをしっかり認識した上でいろいろ考えなければいけないということ、ひたすら理想を足し算してくことが不可能だということ、過度の期待が不満と不安を生むということ、そういうことをベースにお話したいんです。まあ、叶わないと思いますが。
さて、試合を裁きながら、私の妄想はあらぬ方向へも行ってしまいました。教育の問題を教育の問題として語り出すと実に面倒な事態になるので、無意識の内に逃避しちゃうのかもしれませんね。そう、いつもの得意技「モノ・コト論」です。ああ、教育にも「モノ」と「コト」のせめぎあいが見られるなと。思い通りにならない「モノ」と、思い通りになる「コト」の究極の異種格闘技戦がここでも展開されている。
たとえば、こういうところで。「安心のプログラムを買うと不安が高まる」、つまり教育熱心でお金のある親たちは、子どもの将来が保証されると宣伝される安心のプログラム(商品)に群がるけれど、それが結局新たな不安を生み、結局不安スパイラル(?)に陥るということです。この本でも冒頭で例の英語教育についての論議が展開されていますが、まあ私もそのあたりについては、ずいぶんと記事に書いてきましたから、ここでは触れませんね。とにかく、こういうのって、子どもの「モノ」性を無視した、親の勝手な「近代化」なんですよ。子どもなんて、単なる「もののけ」なのにね。「無限の可能性がある」と言えばかっこいいけど、実は単にワケ分からん、未来も何も分からない存在なんです。それを無理やり「コト」化しようとするものだから、そりゃあ無理が生じますよ、親にも子にも。
つまり極論してしまうと、教育の問題というのは、そうした親の「コト」の公式がモノノケに通用しないところに端を発しているんですよ。モノノケの未来を解ける方程式なんかもともとありゃしないんです。だから完全なる理想の教育なんて最初からあり得ない。それだけのことです。世の中では今日もまた新しい公式を作ってそれを適用しようとしています。あっちかダメならこっち。あれがダメならこれ。結局、振り回されているのは子どもたち…かと思うと意外モノノケたちは柔軟性があるんで(いいかげんなんで)基本大丈夫みたいです(笑)。
では、大人、すなわち、政治家や親や教師や学者はどうすればいいか。それは…親はなくとも子は育つっていうのを思い出せばいいんじゃないですか。そこを基準に考えると、いろいろ面白いことが見えてきますよ。実際、私は自分を「先生」だとは思っていません。まあ、プロデューサーとかディレクターかな。
Amazon 欲ばり過ぎるニッポンの教育
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コメント
私はこれからの学校に必要なことは、何より先に真の合理化だと思っています。それこそが教育改革なのだと。
>本来警察や医者なんかのお世話になるところを、生徒指導や保健の先生が世話してすませている。
ホント色々やり過ぎですよね。先日、嫁の勤める小学校で、児童が一人、いつまで経っても家に戻ってこないとかで大騒ぎになり、皆で探し回ったとか。(^_^;) 結局、親の勘違いだったらしいのですが、大なり小なり毎日のように事件が発生するのが小学校。何百人も子供を預かれば、それは致し方のないことですが、その度にもの凄くリソースを消費しますよね。対人サービスって手間暇かかる効率の悪い物なんですよ。
ところが、それ以外にいくらでも合理化できる作業がた~くさんあるのに、現場の教師たちには全く改善する気がない。というか、競争社会で仕事をした経験がないから、合理化という発想そのものが欠落していたりする。その作業を一分、一秒短縮することや、あるいはバッサリ切り捨てることの重要性に気がつかないと、まじめにやる人ほど疲弊するだけです。
本来、子供たちに向けられる労力が、どれだけ無駄になっていることかと思うと、歯がゆくてね、もう。
>結局、振り回されているのは子どもたち…かと思うと意外モノノケたちは柔軟性があるんで
同感です。子供たちを何とかしようとして、振り回されているのは結局は全ての大人。自分の尻尾を追いかける犬のようです。
何やってんでしょうかね。 (^_^;)
投稿: LUKE | 2007.04.13 23:36
LUKEさん、お返事遅れてすみません。
全くその通りであります!
私もそうですが、よく言われるように本当に学校というところは、世間離れしすぎです。
ウチは私学ですので、まだいい方なのかもしれませんが、それでも異様なほどの世間知らず状態ですね。
合理化の発想もないまま、大変だ、大変だ…ではねえ。
情けない限りです。
私はできるかぎりそういう状況と闘っていこうと思ってますが。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.04.15 08:58