『ギュツラフ訳 ヨハネによる福音書』 (日本聖書協会)
現代版、語句の解説つき 抜粋朗読CDつき「善徳纂約翰福音之傳」
皆さん、ギュツラフさんという人が日本語訳した聖書をご存知ですか。今から170年ほど前のもので、最古の日本語聖書だとされています。この聖書、いろいろな意味で興味深いものです。
この日本語訳を助けたのが、三吉と言われる3人の少年たちでした。彼らは船員だったのですが、乗っていた船が遭難し、1年以上も漂流を続け、結局アメリカに漂着します。そしてインディアンに捕えられ、各地を転々としつつ日本に送り返されます。途中立ち寄ったマカオで、オランダ人宣教師ギュツラフの世話になり、そして、彼に日本語を教えながら、聖書の翻訳の手伝いをしたのでした。
彼らは尾張の生まれでしたので、この訳にも当時の当地の方言が反映されています。これは日本語史の資料として重要な意味を持っていますね。私はそちらの方面からこの聖書の存在を知りました。
どんな感じか、有名な冒頭部分を引用してみましょう。
ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。ヒトワコトゴトク ミナツクル、ヒトツモ、シゴトハツクラヌ、ヒトハツクラヌナラバ。ヒトノナカニイノチアル、コノイノチワニンゲンノヒカリ、コノヒカリハ クラサニカヽヤク、タヽシワセカイノクライ ニンゲンワ カンベンシラナンダ。
いちおう、一般的な訳(新共同訳)も載せておきましょう。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ね、面白いでしょう。九死に一生を得た3人の少年たちが、のちにキリスト教徒となったこと、そしてそのことによって日本への帰国を許されなかったことを思えば、軽々しく面白いとは言ってはいけないのかもしれませんが、私にとってはかなりエキサイティングです。そう、冒頭の冒頭、有名な「はじめにことばありき」の部分が、一般的な訳よりもずっと本質をついているからです。
私は「ロゴス」を「言葉」と訳すことに、かねがね異を唱えてきました。なぜ「言葉」に限定するのか。そこから様々な誤解が生まれていると感じてきたのです。では、私はこの「ロゴス」をどうとらえているかと言いますと、これはまさに人間の文明の原点だと思うのです。「ロゴス」を今風な英語にすれば「ロジック」です。「論理」「理論」「理性」ですね。「はじめに理性があった」すなわち「ハジマリニ カシコイモノゴザル」ですよ。
もう少し私的なロジックで話を強引に進めますと、この「ロゴス」とは「コト化」の働きと言えます。渾沌たる「モノ」を修理固成して「コト」にする行為(あるいは発想)こそ「ロゴス」です。いつも書いているように、私は「モノ」を変化し続けるもの、不随意な存在としてとらえています。そして、「コト」は不変で随意的な存在。
そう考えると、ヨハネ伝の「はじめにロゴスがあった」は、ちょうど「古事記(フル コト ブミ)」の冒頭が「もの」の固成から始まり、それを為したイザナキとイザナミがその瞬間から「ミコト」と呼ばれるのと対応しているとも言えます。つまり「ロゴス」とは「言葉」に限定されるべきものではなく、人間の根源的本能である「固定への欲望」を表していると考えるのです。
東西の書に共通して面白いのは、その人間的な欲望がしょせん叶わぬものであり、叶うとすれば「神」によるしかないと考えたところです。しかし、のちには東西はかなり違う道をたどることになります。東では「コト」と「モノ」の力関係は拮抗したまま時代が進みます。「もののあはれ」が重要な価値観であったことからもそれがわかりますね。一方、西では「ロゴス」は「科学」を生み、人間が「コト化」の主役になろうとしました。それがうまく行ったか、あるいは行っているかはよくわかりませんが。
さて、そんなこんなで、もう一度ギュツラフ訳の冒頭を見てみますと、「ハジマリニ カシコイ『モノ』ゴザル」ではなくて、「カシコイ『コト』ゴザル」の方がいいですよね。実はですねえ、このアイデアについては、東大の藤井貞和さんが既にどこかで述べていました。氏の「物語論」は私に大いに刺激を与えてくれますが、「モノ」と「コト」の考え方は私とちょっと違っています。私の方がずっと本質をついていると思うのですが(!?)、私には論文を書く根性がないので、正式な形で意見することができません。どうも私には「ロゴス」が欠落しているようです(笑)。
おお、神よ、我に「ロゴス」のおこぼれでも何でもいいから、とにかく「カシコイモノ」を与えたまえ!!
Amazon ギュツラフ訳 ヨハネによる福音書
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コメント
山口さん、
おひさしぶりです。お元気ですか?
たまたまギュツラフ訳をググっていたら何やら見覚えのある不二なんとかが目に入りました。
口語訳聖書では始めに言ありとし、「言」をしてコトバと読ませています。これも「言葉」とは違うということを表現したかった苦労の後を感じさせます。とある牧師は解説していました。
小渕
投稿: 小渕晶男 | 2017.01.26 09:06