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2007.04.13

自分らしさとは…

Rasisa 左の画像は深い意味はありません。なんとなく、「自分らしさを残したい…」って書いてあるんで。
 今日、ウチの学校に臨済宗妙心寺派の布教師さんがいらして、法話といいますか、まあ高校生向けにお話をしてくださいました。今年は高松の實相寺の副住職さんがいらっしゃっいました。テーマは「自分らしさ」。そのお話しを聞きながら考えたことを少し書きましょうか。
 まず今日のお話の中でタイムリーだったのは、「人間は思い通りにしようと思って余計に苦悩を生む」という部分です。昨日書いたばかりでしたので。やっぱりお釈迦さまはそこんとこを乗り越えようとしたんだな、と再確認いたしましたね。煩悩は全てそこに発するわけですから。
 で、「自分らしさ」ということですが、考えてみますと、「○○らしさ」とか「○○らしい○○」という言い方は妙ですね。今、これらのフレーズはある意味ブームになっていますけど、その定義となるとけっこういい加減じゃないですか?「〜らしい」というのは、本来推量や婉曲の表現であり、100%ではないけれども、それに近い状態であることを表す言葉です。「男らしい」なんていう場合にも、「男」という理想的な概念があって、それを前提にして、それにかなり近い状態を表しています。その点、「自分らしい」というのはおかしな感じがしますよね。「自分」という確固たる概念があるのか、いや、それ以前に、自分が自分そのものなのだから、その自分に対して「自分らしい」というのは、かなり変な事態ではないのか。
 みんな、ずいぶんと無責任に「自分らしい」とか「自分らしさ」という言葉を使いますけど、それって何?と聞かれたら、誰も答えられないんじゃないですか?でも、イメージとしてはなんとなくかっこよくて正しいような気がする。
 今日の布教師さんの話にもありましたが、今ここにいる自分は、当たり前ですが両親あってのものです。その両親はそのまた両親あってこそですし、ず〜っとず〜っといつまでも遡れます。そして、今こうしてこれを書いている自分というのも、はっきり誰とは言えませんが、誰かに読んでもらうことを前提に書いているんですね。つまり、誰かの存在によって今の自分が立ち上がってくる。我々の自分らしさというのは、ほとんどが他人が作っているとも言えるわけです。もともとあった自己ではなくて、縁起した自己です。自分らしさは他人らしさ…とまでは言いませんが。自分だけで作り上げることができないものなんですね。
 いつかレクチャーで実演つきでお話ししましたが、音楽における和音で考えるとよくわかります。たとえば「ド」という音が自分だとすると、そこに「ミ」や「ソ」が加わって、初めて「ド」の音のキャラクターが立ち上がってきます。その時、「ミ」がフラットになれば、当然そのキャラは変りますよね。そんなふうに「自分らしさ」というのは、全く不確定であり、不安定であり、しかし一方で無限の可能性を秘めているわけです。
 そんなふうに考えてきますと、やはり「自分らしさ」にこだわる、それを自分の中に探し求めるというのは、ちょっと違うような気がしてきます。本来それは探すべきものではないのかもしれません。勝手にやってくるんですかね。私はそんな感じで生きてますが、皆さんはどうお考えでしょう。

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