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2007.04.30

レミオロメン 『RUN』

Run 「蛍」とダブルA面、しかし曲順が違うということでして、う〜む売り方としてはずるいな(笑)。
 ま、ビートルズなんかでもダブルA面というのはありましたけど、あれは裏表どっちから聴くか自分で決められましたからね。CDも両面に記録すればいいのに。
 で、さっそくフライングして聴いてみました。ほ〜、これこそビートルズではないか。わかる人にはわかると思いますが、全編にわたってブリティッシュ・ポップ・ロックのテイストが効きまくっていますね。
 まずはAメロですが、これはホント常套手段の和音進行でありまして、恥ずかしながらワタクシもあの幻の名アレンジ!?サザエさんロックバージョンでやってます(笑…私はマイナーキーですし、ベース音の置き方は違いますが)。これはビートルズ、特にジョンも大好きな展開でして、のちにもビートルズフォロアーのELOほか、特にブリティッシュではよく使われています。日本でもワタクシをはじめ(?)、ついやりがちなパターンですね。
 特に今回のレミオロメンでは、その部分に乗っかってるメロディーの「上位で〜」の「〜」のところの節回しが、完全にビートルズしてまして、好きな人にはたまらないでしょうし、知らない人にも気持ちよく聞こえることでしょう。
 Bメロはちょっとはっきりしませんが、うまい具合にサビへの転調を誘っていると言えば誘っています。
 で、サビ行きましょうか。これを聴いて、今度は「吉井和哉」を思い起こした方、正解です。もちろん、この最初の展開、えっとⅠ→Ⅲ→Ⅳ(あるいはⅥm)というやつですね、これは吉井さんが好んで使うヤツです。吉井さんに限らず、ギターで曲を作る人にとっては自然な展開なんですが、独特の感じを与えるんですね。クラシックの世界では時々スパイス的に使うくらいで、どちらかというと露骨にやらない方がいいと言われるコード進行です。で、そこに「RUN、RUN、RUN…」という歌が乗っかってるんで、ますます吉井さん、あるいはイエモンぽく聞こえます。昨年末のライヴこの前の共演で、それなりに影響を受けているんでしょう。
 もちろん吉井さんの音楽的ベースはブリティッシュにありますから、ここでも今回はブリティッシュしてると言えるわけです。となると、当然ミスチル風であるとも言えるわけで、たしかに今回はレミオロメンらしいというよりは、誰かっぽいという感じかもしれません。
 今回は久々にストリングスの音は聞こえてきません。ストレートなバンドサウンドでスッキリしています。きっとライヴ映えするでしょうね、このたぐいの曲は。
 正直、歌詞やPVはよくわかりませんが、「蛍」との対比ということでは、こんなノリもありなんじゃないでしょうか。
 というわけで、特に名曲ということではないかもしれませんけど、ブリティッシュ好きなワタクシにとっては、自然に耳に入ってくる楽しい曲でありました。
 ここまでのところ、次のアルバムはなかなかの名盤になる予感が…てか、こういうシングル先行のアルバム作りには抵抗あるんですけどね。日本の音楽市場の性質上仕方ありませんが。

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2007.04.29

『不滅の国際プロレス』 DVD BOX (ポニーキャニオン)

Kokusai 5枚組収録時間900分…今、どうしてもほしいDVDです。まだ買ってません。でも、買っちゃいそうでこわいんで、ここに書いて誰かに止めてもらいます(笑)。
 一番止めてくれそうな家の者まで、買え!買え!とせかすんで困るんですよ。彼女はテレ東ネットなんてもちろんない田舎の出身ですし、だいいち1974年と言えばまさに彼女の生まれた年ですから、この国プロの全盛時代(にして末期)の映像なんか一度も観たことないんです。でも、国プロ崩壊後、このそうそうたるレスラーたちは、新日や全日に「殴り込み」をして糊口をしのいでいたわけでして、そういう姿は知ってるんですね。
 私はもちろん観てました。子どもながらに、猪木や馬場の会社の雰囲気とは何か違うな、これは何か妖しい、ということに気づいていました。正直、見てはいけないものを見ているような、ある意味見世物小屋的な世界と言いましょうかね、非日常的な空間と時間に引き込まれて行くような、そんな気持ちがしていました。
 私は今の洗練されたプロレスも大好きですが、昭和の古き良きプロレスも大好きです。全日の試合はけっこうビデオに録りためてありますし、新日についてはレンタルで観たいものは観ました。でも、国プロについては、自分の妖しい記憶をたぐりよせて不思議な気持ちになるだけで、もうたぶん観ることはないだろうと諦めていましたから、このDVDが発売されるという噂を聞いた時は、正直鼻血が出るほど興奮しました。
 TBS時代の映像はすでにDVD化されていたんですけどね、その頃は私ほとんど観てませんでしたから、食指が動きませんでした。しかし、まさかテレ東時代のものが発掘されて商品化されるとはねえ…もう映像は残っていないというのが定説でしたから。
 もちろん、国際プロレスの試合、往年の名レスラーたちの試合を観たいというのもあります。しかし、それ以上に、あの少年の尋常ならざる胸騒ぎとはなんだったのか、それを確認したい、さらに昭和という時代の終焉への道、特に高度経済成長である意味頂点を極めた後の、あの独特のアンニュイ感(しかし妙にエネルギッシュなんだよな)を、今客観的に観てみたいという気持ちが強くあります。
 私の「モノ・コト論」的に言えば、彼らは「モノノケ」なのです。その後の日本は高度に洗練され、「モノ」の排除を押し進めました。「コト化(デジタル化、情報化、均質化、都市化、脳化、オタク化、自由競争化、経済至上化、欧米化などなど)」の推進ですね。プロレス界も「スポーツ化」を余儀なくされ、しまいには「総合格闘技」なんていう「コト」の権化に呑み込まれるまでになってしまいました(大相撲も全く一緒)。
 私はそういう趨勢に一抹の寂しさを感じるんですよ。ですから、古き良き昭和(あるいはもっと昔もですね)を懐古したい、いや懐古するだけでなく、そこから何かヒントを得たいんですよね。大切なモノを思い出したい…。
 なんて、一生懸命語ってますね(笑)。つまり、いろいろ理屈をつけて買いたいんでしょ。ホントは理屈抜きにただ観たいんですよ。妖怪ショーを観たいんですよ。
 内容は下のリンクにある通りです。すごすぎます。う〜、ダメだ〜。我慢できないよ〜。さらに、4月限定で26%offだって!?ということは、あと24時間くらい…誰か止めてください!

DVD紹介サイト

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2007.04.28

『ルクセンブルクの歴史−小さな国の大きな歴史』 ジルベール・トラウシュ (原著), 岩崎允彦 (翻訳)

Luxembourg 宿泊学習会ということで、いつもなら寝ているべき時間に起きています。もう完全に電源が落ちてます。待機電力だけでなんとか生存している感じ(笑)。と、そこに生徒が難しい質問を持ってくる…。
 こんな時はユンケル黄帝液を飲みましょう。ああそうそう、ユンケルと言えば、ルクセンブルクの首相、ユーロの立役者、ジャン=クロード・ユンケルですね。で、今日はユンケル飲みながら「ルクセンブルクの歴史」を読みました(だいぶ思考が錯綜してますね)。
 ヨーロッパの皆さんにも半ば忘れられた存在であるルクセンブルクについて、なんで今ごろ勉強しようかと思ったのかといいますとですね…別に意味はありません。というか、勉強しようと思ったんじゃなくて、半ば強制的に勉強しろと言われたのです。
 私が担当しているコースの新入生にですね、ルクセンブルクからの帰国子女がいまして、彼女がもっとルクセンブルクについて知ってほしいということで、この本を貸してくれたのです。まあ、そう言えば名前と「小さい」ということだけは知っているけど、いったいなんでそんな小さい国家が成立したのかはたしかに知らない。また、小さい割に国力はけっこうあるというイメージでしたので、そのあたりの事情というのもたしかに気になる。こういう機会でもないかぎり、一生行くことはもちろん、一生よく分からないで終わってしまうのではないか。そんなふうにも思いましてね、それで、じゃあ読んでやりましょう、ということになったわけです。
 読んでみますと、なかなか面白い反面、なかなか面白くない。面白くない原因はその歴史自体や著者自身にあるのではなく、もちろん、私の世界史嫌いに由来します。どうもだめなんだよなあ。高校時代のトラウマが消えない。
 面白いのは、その激動の歴史です。これはたしかに大変だったなと。数百年の間に、もう説明のしようがないほど、周囲の国々に侵略され、翻弄されています。しかし、結果としてあのような小国(神奈川県や佐賀県と同じくらい)が立派な独立国家(大公国)として認められ、それどころかEUの立役者になったり、一人当たりの国民総所得が世界一になったりしている。これは、いったいどういうことなんでしょう。
 本当に簡単に説明できない複雑な状況なんですが、とにかく、隣国のドイツ、フランス、ベルギーはもとより、オランダやハンガリー、チェコ、スペイン、オーストリアなどが、この小国を併合しようとしたり、あるいはいろいろと牽制したりしたわけですね。で、複雑すぎて、私はその流れが分からなくなってしまってるんですけど、結局のところは、その周囲の力関係が微妙というか絶妙であり、ある時は引っぱりっこをされるし、またある時はそれぞれの眼中になくなったりするんですね。それで多少の誤差はありますが、その力関係のベクトルの総和がけっこうゼロに近くなったんじゃないのか。
 でも、ベクトルの総和はゼロでもエネルギーとしては相当の総和量になっていますから、それなりのテンションが生じます。それで、ルクセンブルク国内ではナショナリズムが強化されていった。
 こんな感じで、あの小さな国がある意味生き残り、現在に至っていると。そして、そうした外部からの力を吸収して、独特のコスモポリタニズムや「根性」を培っていったんじゃないでしょうかね。いわば偶然の産物です。運命的と言ってもいいかもしれない。一「伯爵領」が世界を動かす小さな巨人になるなんて、中世のルクセンブルク人たちも夢にだに思わなかったでしょう。
 そう考えてみますと、これはまあ周囲からの影響の極端に少なかった日本史と見事に対照的ですね。しかし一方では、(対照的ではあるが)地理的条件が両小国を救ったとも言えるわけでして、なんとも興味深いコントラストとアナロジーを感じずにはいられません。面白いですね。
 自然的、人的資源の乏しい小国が、現代においてどのようにその存在意義を保っていくか。国際政治、経済、軍事などの面におけるルクセンブルクの現在のあり方というのも、もしかすると日本にとって非常に参考になるのかもしれません。小国だからこそできることに目を向けるのも大切なことなのです(まあ、日本を小国と言えるかどうかは微妙ですけどね)。あと、ナショナリズムとコスモポリタニズムの関係(共存)を考えるのにも参考になります。
 さあ、がぜんルクセンブルクという国に興味がわきました。生徒もとてもいい国だったと言います。ちょっと行ってみたいような気もしますね。日本の歴史もある意味神懸かり的ですけど、ルクセンブルクのそれもかな〜り神懸かり的ですからね。なんとなくシンパシー感じるのですよ。
 ああ、そうだ。あのSkype、ルクセンブルクの会社の製品なんですよ。知ってましたか?

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2007.04.27

追悼ロストロポーヴィチ 『J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲』(DVD)

Ros91 失意の内にも学校行事は淡々と進んでいきます。新入生歓迎球技大会が終わり、そのまま宿泊学習会へ。文武両道を目指すとは言え、あれだけ運動したのち夜半まで勉強する生徒たちのパワーには、感心させられるとともに、こんな折には勇気づけられますね。
 そんな中、また哀しいニュースが入ってきました。カザルスに匹敵すると言っても過言ではない偉大なるチェリストが亡くなりました。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ…私は彼の演奏を一度だけ生で聴いたことがあります。もう25年以上前のことでしょうか。どこで何の曲を聴いたか、ほとんど覚えていません。ただ、プログラムの前半にカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのコンチェルトがあって、それがものすごくカッコよかったという記憶だけが残っております。そして、チェロの音ってこんなに大きいのかと。
 その後の記憶と言えば、やはりあのベルリンの壁崩壊の時の、その壁際でのバッハ演奏でしょうか。ニュース映像か何かで観たのだと思うのですが、それまでの彼の受けてきた政治的仕打ちのことを考えると、涙が止まらなくなりました。
 さて、今日おススメするのは、ベルリンの壁崩壊後に録音、撮影されたDVDです。ここにはバッハの無伴奏チェロ組曲全曲が収められています。私はテレビで放映されているのを観ました。それがいつのことだったか、それもまた定かではありません。しかし、不思議と心に強く残っているのです。演奏のスタイルは、私の好むオーセンティックなものとはかけ離れていますから、正直音楽としてはあまり楽しめなかったのですが、そこで語られるいろいろなエピソードや、演奏上のヒントはとても面白かった。
 冒頭にカザルスに匹敵すると書きました。実際、カザルスにバッハの無伴奏を教えてもらった時の様子も、この映像作品の中で語られていたと記憶します。そのような音楽的な面だけではなく、ロストロポーヴィチは、ある意味カザルスの後継だったとも言えましょう。平和活動の面においてですね。それを良しとしない勢力からは、二人ともに反動的だととらえられ、亡命を余儀なくされました。音楽を通じて平和や自由のために闘う…一面においては音楽を政治的手段としたとも言えますが…という姿勢は、まちがいなくカザルスからロストロポーヴィチに受け継がれたのでした。
 そういう激動の人生の中で、数えきれないほどの音を奏で、そして亡くなっていったロストロポーヴィチ。彼は今の世界についてどう思っていたのでしょう。
 最後に印象に残っている彼の言葉を一つだけ紹介します。

 私たちが考えなければならないことはただ一つ、「自分は神に近づく階段を昇る行為をしているのか、降りる行為をしているのか」ということだ。

 ご冥福をお祈りいたします。

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2007.04.26

フジザクラとミツバツツジ(2007)

click!
Sany0005 2005年にも紹介いたしました富士山麓のフジザクラとミツバツツジ(それぞれのエピソードについては、そちらの記事をご覧下さい)、今年もきれいに咲き始めました。今年は気候が不順でして、気温変動も激しく、全ての株がそろって満開という状況にはなりそうにありません。この前も雪が降りましたよね。ちょうどフジザクラのつぼみが開き始めたところにドカッと春の雪が積もったんです。富士山自体も、2年前の写真と比べますと、雪が多いですねえ。でも、このあたり、すなわち人の住むあたりは、今年は本当に雪が少なかった。不思議なものです。
 自然は毎年黙って一つのサイクルをこなしているように思えますが、こうして少しずつズレを生みながら、ある方向に進んで行くのでしょう。サイクルにしてリニア、つまりらせんを描いて時は進んで行くのでした。
 人間の生き方で考えてみますと、ついつい私たちは大きな変化、前進を待望してしまうものです。自分に対しても他人に対しても、ですね。本当は人間も自然の一部ですから、フジザクラやミツバツツジや富士山の雪のように、周囲の環境に合わせて自然体で変って行けばいいんですが。私たちは異常に自己愛が強いんでしょうね。
 そう言えば、秋田の山村でも、そういうことを体感しました。やはり自然に学ぶことは一つ、こういうことなんでしょうか。
 今夜は個人的には非常に辛いことがありました。人の命のはかなさに慟哭しました。とてもこれを自然の摂理として受けいれられないのも事実です。しかし、自然そのものがそうであるように、命はいろいろな形で引き継がれるに違いありません。心からそう思える日が早く来ることを願う自分と、いややはり何か違うと思う自分…ものすごく心が揺れています。
 すみません、今日はここまでしか書けません…。

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2007.04.25

『ギュツラフ訳 ヨハネによる福音書』 (日本聖書協会)

現代版、語句の解説つき 抜粋朗読CDつき「善徳纂約翰福音之傳」
Gkjhsuppo 皆さん、ギュツラフさんという人が日本語訳した聖書をご存知ですか。今から170年ほど前のもので、最古の日本語聖書だとされています。この聖書、いろいろな意味で興味深いものです。
 この日本語訳を助けたのが、三吉と言われる3人の少年たちでした。彼らは船員だったのですが、乗っていた船が遭難し、1年以上も漂流を続け、結局アメリカに漂着します。そしてインディアンに捕えられ、各地を転々としつつ日本に送り返されます。途中立ち寄ったマカオで、オランダ人宣教師ギュツラフの世話になり、そして、彼に日本語を教えながら、聖書の翻訳の手伝いをしたのでした。
 彼らは尾張の生まれでしたので、この訳にも当時の当地の方言が反映されています。これは日本語史の資料として重要な意味を持っていますね。私はそちらの方面からこの聖書の存在を知りました。
 どんな感じか、有名な冒頭部分を引用してみましょう。

ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。ヒトワコトゴトク ミナツクル、ヒトツモ、シゴトハツクラヌ、ヒトハツクラヌナラバ。ヒトノナカニイノチアル、コノイノチワニンゲンノヒカリ、コノヒカリハ クラサニカヽヤク、タヽシワセカイノクライ ニンゲンワ カンベンシラナンダ。

いちおう、一般的な訳(新共同訳)も載せておきましょう。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 ね、面白いでしょう。九死に一生を得た3人の少年たちが、のちにキリスト教徒となったこと、そしてそのことによって日本への帰国を許されなかったことを思えば、軽々しく面白いとは言ってはいけないのかもしれませんが、私にとってはかなりエキサイティングです。そう、冒頭の冒頭、有名な「はじめにことばありき」の部分が、一般的な訳よりもずっと本質をついているからです。
 私は「ロゴス」を「言葉」と訳すことに、かねがね異を唱えてきました。なぜ「言葉」に限定するのか。そこから様々な誤解が生まれていると感じてきたのです。では、私はこの「ロゴス」をどうとらえているかと言いますと、これはまさに人間の文明の原点だと思うのです。「ロゴス」を今風な英語にすれば「ロジック」です。「論理」「理論」「理性」ですね。「はじめに理性があった」すなわち「ハジマリニ カシコイモノゴザル」ですよ。
 もう少し私的なロジックで話を強引に進めますと、この「ロゴス」とは「コト化」の働きと言えます。渾沌たる「モノ」を修理固成して「コト」にする行為(あるいは発想)こそ「ロゴス」です。いつも書いているように、私は「モノ」を変化し続けるもの、不随意な存在としてとらえています。そして、「コト」は不変で随意的な存在。
 そう考えると、ヨハネ伝の「はじめにロゴスがあった」は、ちょうど「古事記(フル コト ブミ)」の冒頭が「もの」の固成から始まり、それを為したイザナキとイザナミがその瞬間から「ミコト」と呼ばれるのと対応しているとも言えます。つまり「ロゴス」とは「言葉」に限定されるべきものではなく、人間の根源的本能である「固定への欲望」を表していると考えるのです。
 東西の書に共通して面白いのは、その人間的な欲望がしょせん叶わぬものであり、叶うとすれば「神」によるしかないと考えたところです。しかし、のちには東西はかなり違う道をたどることになります。東では「コト」と「モノ」の力関係は拮抗したまま時代が進みます。「もののあはれ」が重要な価値観であったことからもそれがわかりますね。一方、西では「ロゴス」は「科学」を生み、人間が「コト化」の主役になろうとしました。それがうまく行ったか、あるいは行っているかはよくわかりませんが。
 さて、そんなこんなで、もう一度ギュツラフ訳の冒頭を見てみますと、「ハジマリニ カシコイ『モノ』ゴザル」ではなくて、「カシコイ『コト』ゴザル」の方がいいですよね。実はですねえ、このアイデアについては、東大の藤井貞和さんが既にどこかで述べていました。氏の「物語論」は私に大いに刺激を与えてくれますが、「モノ」と「コト」の考え方は私とちょっと違っています。私の方がずっと本質をついていると思うのですが(!?)、私には論文を書く根性がないので、正式な形で意見することができません。どうも私には「ロゴス」が欠落しているようです(笑)。
 おお、神よ、我に「ロゴス」のおこぼれでも何でもいいから、とにかく「カシコイモノ」を与えたまえ!!

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2007.04.24

『美少女戦麗舞パンシャーヌ 奥様はスーパーヒロイン!』 (テレビ東京)

Pan45 今日はどうにも堪えられず早退してしまいました。熱が下がらない。私にしてはかなり珍しいことです。てか、自分の病気で早退するのはもしかして初めてかも。
 そんなわけで、午後1時過ぎに家に帰ったら、上の娘もまた早退してウチにいるではありませんか!一家で風邪っぴきです。参った。
 で、居間にふとん敷いて寝てたんですね。下の娘も保育所から帰ってきて、なんだかんだ騒がしくゆっくり寝られない。そして5時半になりました。テレビをつけると始まったのは『美少女戦麗舞パンシャーヌ』。さあ、もう本格的に眠れません!私も娘たちも家内も呆気にとられて脱力してしまいました。
 ああそうだ、ここに書いておきましょう。すみません、どなたですか?私にこの「パンシャーヌ」第1回放映の録画DVDを送ってくれた方。あの〜、送り主が書かれてなかったんで、お礼のしようもなくて困ってたんですが。ぜひご連絡ください。
 いや、私、この番組が始まること知らなかったんです。で、そのDVDを拝見しまして、そのトンデモな魅力にすっかり取り憑かれました。私自身は、こうした不思議コメディーシリーズはあんまり見てこなかった。ポワトリンとかやってる頃には、もう社会人でしたからね。でも、一方では、あの磯崎亜紀子の「地球防衛少女イコちゃん」シリーズ(河崎実監督)を偏愛したりしてましたから、こういうチープな脱力どうでもいい系(+美少女系)コメディーは、どうも本能的に嫌いではないようです、ワタクシ。
 で、東映の不思議特撮シリーズを主導していた脚本家浦沢義雄さんが、同志である読売広告社の木村京太郎さんとともに、古き良き時代の家族で楽しめる実写コメディーを!ということで企画したのが、このパンシャーヌだそうです。それにしても、このパンシャーヌ、もうタイトルからしておかしいっす。28歳セレブにして「美少女」ですからね。当然その点につきましては、番組内でも頻繁にツッコミが入っております。
 その他、どうでもいいギャグの連発から、わざと超低予算ぶりを主張する衣装や演出など、本当にどうでもいいですね(笑)。そんなところが、実にたまりません。今回はテレ東ということで、さらにそのチープぶりが堂に入っていまして、こんな番組を平日の夕方にドカンと放映していいのか、ちょっと心配になるほどです。非常に貴重な存在でしょう。くだらなさもここまで徹底するとすごいですね。これは伝説の番組になりますよ。
 今日の放映、ゾンビもタヌキもズラも時代設定も映像効果も和歌もハチャメチャで、これはこれでシュールでアバンギャルドなアートとも言えるような気がしてきました。そんなこんなで、はっきり言って熱が上がりましたが、気持ちは元気になりましたよ。皆さんもぜひご覧下さい。まずは下記公式サイトで脱力してください。
 ところで、なんで変身するとき、「アンシャンレジーム・トリコロール」って言うんだ?「旧体制・三色旗」ってか?意味わからん(笑)。

パンシャーヌ公式

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2007.04.23

『こんなに楽しい江戸の浮世絵』 辻惟雄ほか (東京美術)

江戸の人はどう使ったか
Konnani 最高!面白い!勉強になるし、全編にわたり、やっぱりねと納得すること多数。この本は買いでしょう。
 まあ以前から江戸の文化には特段に興味を持っていた私ですが、特に先日さくらんを観てからというもの、その現代性というか、いや違うな、現代的なのではなくて、普遍的なんだよな、つまり、今も昔も人間なんてそうそう変らないと、そういうことに気づいて、俄然勉強したくなっちゃったんです。で、いかにもワタクシ好み風なこの本をまずは買いました。
 この不二草紙をご覧の方はよくお分かりと思いますが、まさに古今東西・硬軟聖俗、共時的にも通時的にも、人間なんてみんな一緒、いろいろと分節して分かったような気になるのではなく、全体を俯瞰して本質に迫っちゃおうというのが、私の基本的に姿勢です。
 ま、あの「萌え=をかし論」なんて、その最たるものでしょうね。あれに関しては、おかげさまで各方面から賛否さまざま賜っております。とりあえず、いろんな方の脳ミソに一石を投じることができた(なんか怖いなw)と。
 昔のものを今風に料理して見せるというのは、たとえばアカデミックな世界では禁じ手になっていますね。非常に安易な感じがするからです。でも、人間って1000年やそこらで大きく変ってしまうものなんでしょうか。
 今日も枕草子を授業でとりあげましたが、あれなんて、ホントいかにも女性的な「カワイイ〜」的感性の産物ですし、対する源氏物語も仏教的教訓で武装はしておれど、やはり女の子のミーハー心やエッチ心をくすぐるように書かれていますよね。誰ですか、あれらを高尚な文化に仕立て上げてるのは。あっ、我々教師たちか(笑)。
 ま、もちろん、私は全てがポップだとは言いませんけど、ただ一つ言いたいのは、「昔の人間の方が高尚だったなんて許せない!」です。そう、今も昔も男も女も、みんなスケベで、金や権力に目がなく、あやしい宗教とかについついだまされちゃう、そんなもんでしょう?そこを起点にして、つまり自分を起点にして、自分と彼らを分断しないで感じて行きたいんです。
 浮世絵なんか一番の被害者ですよねえ。芸術とか美術とか言われちゃって…。あれなんてまさにマンガやアニメと同次元ですよ。誰ですか、祭り上げちゃったの。あっ、フランス印象派の方々か(笑)。
 さあ、こんなんですからね、この本はまさに私のためにあるようなものですよ。サブタイトル「江戸の人はどう使ったか」とありますように、あくまで「実用品」として浮世絵をとらえます。観賞する芸術ではない。で、その解説や案内が実に洒落ている。まさに江戸以来の「洒落」の系譜上にある。
 監修者の辻惟雄先生は言うまでもなく、日本美術研究の第一人者ですし、実質メイン執筆者の浅野秀剛さん(SHUGO先生)や、彼をとりまく女性、田辺昌子さんや湯浅淑子さんも美術館や博物館のバリバリ学芸員でいらっしゃる。そういうある意味アカデミックな方々が、こうした本を作ったというのは、実に画期的だし、刺激的なことだと思います。きっと、研究の中での御自身の実感を具現化しただけだと思いますけどね。やっぱりそういうものだったと。
 みなさん、現代的でポップなカタカナ語や英語まで駆使して、浮世絵の魅力を掘り起こして行きます。ファッションあり、エロスあり、ホラーあり、ファンタジーあり、スプラッタあり…。たしかに今と全く変らない。繰り返しになりますが、これは江戸文化が現代的だったのではなく、単に今も昔も人間はそうそう変らないということですからね。そこんとこ間違わないように。
 今こうして当時の最先端の「商品」たちを見ますとね、まるでインターネットのなんでもありの世界に近いかのように感じます。欲望を情報に変換し、そしてそれで遊ぶ。ちょっと邪悪な心や秘密っぽいところを皆で共有しつつ、本能的かつ経済的な衝動を昇華していく。うん、これはまさち2ちゃんねる的世界だ。
 簡単に言えば「オタク文化」花盛りってことでしょう。そう考えますと、「萌え」と平安の「をかし」を結びつけた私は、今度はその間を埋める作業をしなくちゃなりませんね。人は無常なる「モノ(自然)」の性質から目を背けるために「コト(情報)」に執着するのだ…これを多角的に証明するのが、私のライフワーク(おおげさ?)だと思いますんで。
 しっかし、ホント面白いですね。妄想力で平和を保つ…これって最強でしょう。江戸は最強の平和を獲得していた。ああ、私なんか江戸に生まれたら良かったのに。きっとああしてこうして、ああなってこうなってただろうな…と早速妄想しております(笑)。

Amazon こんなに楽しい江戸の浮世絵

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2007.04.22

レミオロメン 『蛍』

Hotaru 音楽ネタが続きます。
 今日は教え子の結婚式。レミオロメンの3月9日を弾くことになっていたんですが、リハのために会場に行って進行表を見てビックリ。乾杯前に演奏することになっていたんです。披露宴でヴァイオリン弾くのはもう何十回目かでしょうが、そういうのは初めて。本番、さすがにちょっと緊張しましたけどね、私がつまらん挨拶するよりはずっと良かったんじゃないですか。私も弾きながらぐっと来ちゃいました。今日はなんか泣けたなあ。
 ウチに帰ってきて、レミオロメンの5月発売予定の新曲「蛍」を聴きました。やはり5月に公開予定の映画、「眉山」のテーマ曲です。
 一時いろいろな意味でちょっと心配だった彼らも、すっかり気持ち的に基本に立ち返ったようで、親心で見守っている私はほっと胸をなでおろしております。この曲もなかなかの名作ですね。言葉を大切にしていますし、メロディーも伸びやかです。のちに記すように彼ららしい独特の感性で作られた曲。最初に聴いた時から、すっと心に入ってくると同時に、心の中でふわふわ、もやもやうごめき出しました。
 私は「粉雪」に近い印象を抱きましたね。
 音楽的に分析してみますと、やはり藤巻くん独特の不協和音の扱い方の妙です。イントロも軟らかい不協和音を使っていますし、Aメロの「7月の」の「の」の音はまさに「7」の音です。その後も係留的なメロディーが続きます。和音進行自体は単純ですが、そういうスパイスの入れ方が絶妙です。本人は意識していなのでしょうが、ものすごく個性的ですね。
 その個性はサビで爆発します。このサビはすごい。粉雪もそうでしたが、最初は正直びっくりしました。全く予想外の展開。サビはどうしてもありがちな和音進行やメロディーになっちゃうもんですが、こういうのもあったのかと。全く新しい発見や発明を彼はしています。サビのメロディーの入りは「レ〜ラ〜」なんですが、コードは「G」から遅れて「Am」になります。「粉雪」もそうでしたが、一番高いクライマックスの音が、和音の外にあるんですよね。独特の浮揚感はここから生じます。第一、サビが属和音から入るなんてね。さらにビックリは続きます。サビの繰り返し、「レ〜ラ〜」がもう一度あるんですけど、そこのコードは今度は「F」から「C/E」です。一回目と違うんだ。それも今度は不協和音は解決しません…やられた~。
 その不協和音の連続、そして予想外のコード進行が、蛍のあのフワフワ感と儚さ、切なさを見事に表現しています。「粉雪」の時も誰かが言ってましたね、「粉雪」という小さくて軽いものを歌い上げちゃうところがすごいと。「蛍」も思いっきり歌い上げてますが、しかし、双方ともその歌い上げた音が「不安定」なんですよ。だから、単に力強くなったりはしない。新しい表現ですね。
 藤巻くん、そういうものを持って生まれたんでしょう。そして、あの自然の中で育った。自然は多くの不協和音の絶妙なバランスの上に成り立っています。都会化した「コト」ではなく、自然の「モノ」とはそういう性質のものです。思い通りにならないことの豊かさを全身に浴びて育った彼らの音楽が、こうして豊かな響きになるというのは全く納得できることですし、あの風景を思い出しながらそのことに思いを馳せると、こちらの心もある意味非日常的な震えを生じます。それがレミオロメン独特の感動なのだと思います。
 ああ、いい曲だなあ。売れる、売れないとか、そういうことではなくて、心に本当の意味で残る音楽だと思います。皆さんもぜひその豊かさを、理屈でなく全身で浴びてみてください。

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2007.04.21

『ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集』 (ムローヴァ/イル・ジャルディーノ・アルモニコ)

VIVALDI: 5 Violin Concertos Victoria Mullova, Il Giardino Armonico
Onyx4001 これはすごい!ヨーヨー・マの時もそうでしたが、モダン畑で超一流の人が本気で古楽器を弾いてしまうと、もう正直かないません。
 ムローヴァさん、このアルバムでは古楽器界でも特別エキサイティングな存在、私も大好きなイル・ジャルディーノ・アルモニコとの共演しています。ムローヴァさんと言えば、20世紀にはチャイコフスキーコンクール優勝の美人ヴァイオリニストとして、普通にクラシックの世界で大活躍しておりましたが、いつごろからですかね、そして誰の影響を受けたのかわかりませんが、古楽奏法に興味を持ち始めまして、バロックタイプの弓を使うようになり、そしてとうとう完全なバロック・ヴァイオリンも弾きこなすようになってしまいました。
 最近では、たしかにモダンとピリオド双方を弾く奏者が増えてきました(いちおう私もそうかw)。イタリアなんか比較的昔からそういう雰囲気がありましたね。逆にイギリスやドイツやオランダ、ベルギーなんかには、モダンと古楽の間の壁が、長いこと存在していたようにも思います。日本でも最近では、楽器にこだわらない若者が増えてきまして、それはそれでいい傾向だと思います。いつも言うように原理主義はまずいんで。
 さあ、それでこの録音ですけれど、再び言いますが「スゴイ!」です。正確なテクニックにも正直嫉妬しますけどね、それ以上にこの表現や音色の幅、素晴らしいですね。やっぱりヴァイオリンって艶っぽい楽器ですよ。渋い音じゃあダメでしょ。それにこのくらい攻撃的じゃないとね。いや、冗談でなく、当時におけるヴァイオリン族の楽器って、エレキギターみたいなものだったと思うんですよ。だから、ガンバ族みたいに弾いちゃだめなんですよ。
 それを証明しているのが、私はヴィヴァルディだと思うんです。彼の曲について私が最近再評価していることは、先日こちらに書いたとおりです。つまり、ヴィヴァルディはロックしちゃったんですよ。初期バロックのイタリアの作曲家たちも奮闘しましたが、ヴィヴァルディのようなポピュラリティーは獲得できなかった。コレルリさんなんかは、ヴァイオリンの特性を生かしきれなかったのかもしれません。だから、何と言われようと、ヴィヴァルディこそが、現代ヴァイオリン音楽につながる太い系譜の根幹になっているんですね。
 そう考えると、ムローヴァさんたちモダンの出身者が、他のバロックの作曲家よりもヴィヴァルディに興味を持ち、実際演奏・録音するというのも納得できるというものです。そう、ある意味でヴィヴァルディはバロックという範疇を超えた存在だということです。やっぱり「バ・ロック」か!?
 で、実際このアルバムにおけるムローヴァさんの演奏は、専門の古楽器奏者のそれよりも、ずっと魅力的だし刺激的なんですね。第一「カッコいい」ですよ。「色っぽい」し。何度も繰り返し聴くというのもありだと思いますけど、やっぱりこういうのはライヴでガツンと聴きたいですね。それこそロックのライヴのような高揚感を味わえると思います。そんなことを妄想しながら聴くと、このアルバムはさらに魅力的になりますよ。バンドの方も相変わらずすごいですねえ。やるな、イル・ジャルディーノ・アルモニコ。本当にいつか生で聴きたいな。

NMLで聴く

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2007.04.20

iPod nano

Bts_banner_home070320 先日、MacBookを買ったという記事を書きました。そこにも少し話が出てきましたが、今アップルでは、←のような春の新入学キャンペーンをやってまして、これはつまり、Mac本体を買うとiPod nanoがもれなくついてくる、ということですね。こんなラッキーなことはありません。こういう時は先生は得ですな。
 で、今日そのiPodが届きました。もともとiPodには興味がなかったわけではありません。nanoが発売になった時にはこんなこと書いてますし。食べたいですって(笑)。ただ、そこにも書いてあるように当時は生録の問題と、それからバッテリーですね、私何度も繰り返してますけど、充電池、それも自分で交換不可能なやつって大っ嫌いなんです。だから、生徒のiPodはよく触ってましたが、自分では買わないと決めていたんです。第一私には最強(最凶?)のマシン粉爺がありますから(笑)。
 Nanoでも、ただでもらえるのなら、そりゃあもらいますよ。一番安い2Gので充分。色もシルバーが一番いいし。
 さて、早速使ってみましたよ。まあ、今までも生徒のヤツにいろんな音楽を入れる作業をやってきましたので、だいたいの操作感はわかっていましたけど、音はあんまり聴いたことなかったんですよね。あっ、ちなみに最近の生徒には必ずiPodなどのmp3プレイヤーを買わせます。なぜなら、センター試験でイヤフォンによるリスニングテストか導入されているからです。これは慣れが必要ですので。
 で、音質ですけど、まあ特に言うべきこともない。もともと私は128Kbpsでエンコしてますし、いかにも作られた感の強い、低音と高音を強調した今どきの「いい音」が嫌いですので、まあこういう可もなく不可もなくという音を聴きますと、けっこう安心したりします。
 ところで、イヤフォンにこだわって数万円のヤツを買って使っている人もいるようですが、それって圧縮オーディオにとってどの程度意味があることなのでしょうか。よくわかりません。
 iPodの売りの一つは「クリックホイール」でしょうね。これは実に気持ちいい。シンプルかつ直感的ですし、実際操作しやすい。なんか最初のうちは必要以上にクリクリというかスリスリしちゃいますね。iPodが売れた要因の何割かは、このホイールではないでしょうか。
 全体としても、大きすぎず小さすぎず、厚すぎず薄すぎず、重すぎず軽すぎず、絶妙な存在感ですね。ちょっと前までのは指紋がつきやすかったんですが、これは梨地のような仕上げになってまして、そのようなこともありません。
 バッテリーは24時間も持つんですか。こんなに小さいのにすごいですね。充電池嫌いの私でもこのくらい持つのであれば、多少へたっても不満に思わないかもしれませんね。
 というわけでして、たしかによくできてるわ。売れるわけだ。このiPod nanoは基本的にカミさんが使うのですが、時々私もクリクリスリスリさせてもらいますわ。
 iPhoneも近々発売になるとのこと。アップルもこうしてMac本体以外のところで稼いでいるわけでして、それはそれでちょいと複雑な心境にもなりますけど、家電やAVとパソコンの融合の時代はすぐそこまで来てますからね、外堀から埋めて行くっていう方法もありだと思いますよ。いや、まじでアップルの冷蔵庫とかテレビとか炊飯器とか、あるいはエレピとかほしいですね。
 
アップル

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2007.04.19

アヴリル・ラヴィーン 『ベスト・ダム・シング』

Avril Lavigne 『Best Damn Thing』
B000na1txy01_sclzzzzzzz_v46029369_aa240_ 発売されたばかりのアヴリルの3枚目。早速聴いてみました。
 なんだかんだ言って全部聴いてるんですよね、彼女のアルバム。もとは生徒のおススメです。聴いてみますと、けっこうストレートでポップなパンクロック、でもちょっとメランコリックなメロディーや歌声で、なかなかいいなと。時々聴くようになりました。映像作品を観ると、ちょっとやんちゃな現代的女の子だけれども、どこか芯が通ってるような感じ。音楽に対する姿勢はなかなか真摯と見ました。実際の身長は小さいのに、とても大きく見える。何か発するものがあるんでしょう。
 さて、そんな彼女、昨年結婚しまして、たぶん幸せの絶頂の中でこのアルバムを作ったのでしょう。一聴して、過去の2枚と比べて「翳」の要素が少ないことがわかります。先ほど書いたように、彼女の魅力の一つがその微妙な「翳」であったなら、やや不満に思うファンもいるかもしれませんね。
 しかし、これだけはじけて、これだけ突き抜けていると、これはこれでスカッと気持ちいい。年度初めで忙しく、ちょっと疲れ気味のオジサンも少しは元気になります。
 私は彼女の熱狂的なファンではありませんから、こうしてこのアルバムも普通に受けいれられますが、「がっかり」なファンも多いでしょうね。いつも書いているように、思い入れが強ければ強いほど、その思い入れた「過去」に執着してしまうのが人間の性です。これじゃあアヴリルじゃない!と言う人もいるかもしれません。でも、これがたぶん今の彼女の本当の姿でしょうから、以前のような音楽を作れと言ってもそれは無理で、もしそうしたとしたら、それはウソになってしまう。彼女はデリック・ウィブリーとの出会いの中でこう変化したんですから、しかたありません。
 聴く側がついていってないだけ。これってよくあるケースです。ずばり言ってしまうと、アーティストと凡人のギャップなんですよね。彼らは常に前進していく、変化しようとしている。あるいは普通に人間として成長していく。その歩幅が我々凡人と違うんですよ。
 あるいは、私たちも人から見れば、変っているのかもしれない。自分にとっての変化は常に「ここにある」ので気づきにくいものです。
 で、アーティストは「作品」という不変の情報を何年かに一つずつ残して行くわけですから、それを聴きこむ私たちはどうしても「過去」の彼らの姿に固執していくわけですね。聴いているうちに印象が変ってくるというのもありますが、それは情報としての作品が変化しているのではなくて、聴いている自分の脳ミソの方が変化しているわけです。
 それに面白いのは、彼らは一つの作品を生み出したら、もう次のことを考えてるんですね。たとえば産み落とした作品を私たちのように聴きこんだりしない。しかし、私たちはそれを聴きこんでいく。そこにすでに大きなギャップが生じてるんですよ。これは、美術でも文学でもほぼ同じ状況です。
 表現者の難しいところは、そういった他人の無責任で利己的な「評判」とどうつきあうかです。私もこのブログで、それこそ無責任で利己的な批評をたくさん書いていますよね。私の戯言なんかそれほど影響はないでしょうが、塵も積もればなんとやらですし、第一今の経済システムにおいては、表現者の生活はその「評判」一つにかかっているわけですからね。非常に微妙な関係です。自分のやりたいことと、他人の要求するものが一致することは、芸術の分野に限らず、たいへん稀なことです。
 で、私からアヴリルへ(あるいは全ての表現者へ)アドバイスですが(笑)、やっぱり「やりたいこと」より「やるべきこと」を優先すべきだと思いますよ。ある意味、そこには「自分に対するウソ」が生まれるのでしょうが、いつも言っているように、他者との「縁」によって生起する自分の方に、実は本質的な「自己」があるからです。
 …と、とんでもない説教が始まってしまいましたね。すみません。
 とにかく、ザクザク感、トゲトゲ感、カゲカゲ感(?)の減ったアヴリルもまたアヴリルということで、私たち聴く側も上述した様々な事情を考慮しつつ、「過去」のアヴリルに固執することなく柔軟に他者を受けいれて行きましょう。「過去の他者」に固執することは、すなわち「過去の自分」に固執することですので。
 …と、また説教になってしまった。

Amazon Best Damn Thing

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2007.04.18

雪ぞ降りける…

0704snow 誰だよ〜、温暖化とか言ってるの(w)。なんですか、この雪は…。いやあ、びっくりしました…と言うよりヒヤヒヤしました。帰宅途中、上り坂で何度かスリップ&スタックしました。何台も車が止まってるし、ひどいのは路肩どころか谷に落ちてるし。今年は暖冬でしたし、先週末なんかポカポカでしたから、このへんの人たちもみんなノーマルタイヤに替えちゃってるんですよね。
 ちなみに私はスタッドレス履いたままです。こうなることを見越して…るわけなくて、単なる無精です。生真面目几帳面に休日をタイヤ交換に費やした皆さん、とんだ災難でしたね。こうしてたま〜にいい加減な者が勝つようにできているのです、世の中は。だから、やめられない(笑)。
 それにしても寒い。今現在気温は氷点下。湿った重い雪がしんしんと降り続いています。明日の朝、出勤できるか心配てす。冬足の私はなんとかなるでしょうが、いつも車で送ってもらってる生徒たちは大丈夫かなあ。昨夜あの雪と寒さの中で、再び冬足に交換した生真面目几帳面な方々もいらっしゃるでしょう。本当にお疲れさまです。
 4月に雪が降るというのは、この地方ではそんなに珍しいことではないんですけど、中旬すぎてこの量というのは、さすがに初体験です。たしかに気候としては異常とも言えます。地球寒冷化か?
 でも、晩春や夏に雪が降るというのは、歴史的に見ると結構普通のことだったりします。当地に残る古文書をひもとけば、旧暦の4月はもちろん、旧暦6月に雪が降り、飢饉の原因になったということがわかります。
 そうそう、夏の雪と言えば、これも忘れちゃいけない。万葉集の山部赤人の有名な和歌「田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける」…新古今や百人一首での改訂(改悪)版が有名ですね…は、夏に詠まれたものだと推定されます。つまり、「ぞ〜ける」は意外なことに気づき驚いたことを表す表現なんですね。見ている場所は温暖な静岡の海です。たぶん暑かったんじゃないでしょうか。で、ふと富士山を見ると真っ白に雪が積もっている。その意外な事実というか、やっぱり「ギャップ萌え」かな、それで思わず歌を詠んだという感じなんです。げっ!めっちゃ寒そうやん。いや、涼しそうだなあ、ああアイス食いたくなった。この歌のそういうセンスというのが、どうも世間には理解されてないようです。ましてや、「降りつつ」なんてウソ臭過ぎてダメダメです。萎え〜。
 と、こんなこと冷静に書いてますが、正直「ギャップ萌え」ではありません。明日パンダちゃんは山を下れるんでしょうか。四駆のクルーズくんはなんとかなるでしょうけど、そっちはカミさんに乗っ取られたからなあ。なんとなくいやな予感がする…。

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2007.04.17

MacBook+intel+Tiger+Tesla

Macbook01_1 愛機Pismoくんが突然死亡いたしました。なんと、ウチの黒猫がキーボードの上でゲロ吐いちゃったんですよ。あそこは温かいので、よく寝てたんですけどね。まさか吐くとは。で、その強力な酸性の液体のおかげで、完全にいかれました。セーフブートモードで起動はするんですけど、キーボードが使い物になりません。これは困った。
 まあ、Pismoくんも7年以上頑張ってくれたし、第一彼にOSXは荷が重かったんでね、これを機に現役引退、LC630、初代iMac、それとTownsなんかとともに、ウチのパソコン美術館入りしてもらいましょう。
 というわけで、急遽購入いたしましたのは、私にとっては初めてのIntel MacとなりますMacBook(竹)です。ちょうど新入学シーズンということで、実質上iPodがオマケでついてくるキャンペーンもやってることだし、ローンを組んで買うことにしました。こういう時は教育関係者で良かったと思いますよ。Education価格ですしね。助かります。
 今日早速本体が届きまして、セットアップをいたしました。幸いですねえ、Pismoくんは外付け起動で使ってましたんで、そちらから全部移植できましたから、セットアップ自体は30分くらいで終了。早速使い始めたんですが…。
 実はですねえ、予測されていたというか、もう分かってたんですが、私にとっては致命的な問題が生じたんです。そう、私は親指シフトでしか文字入力ができない社会的弱者(笑)なんですよ。で、今まではTESLAやOyayubiDriverという素晴らしい救世主さまのおかげで、全く問題なくOSXを楽しませていただいていたんですが、そのTESLAさまが残念ながらTigerに対応していないのです。これはもう本当に致命的です。仕方ない、ローマ字入力に切り替えようかとも思ったのですが、なにしろ作業効率が格段に下がり、1分150〜200文字打てたのが、なんと100字以下になってしまう。そして、なにより脳ミソの使いどころが違うのか、文章が全然違っちゃうんですよ。いや、文章じゃないな、発想が貧困になってしまう。これは本当に困った。このブログもとうとうやめる時が来たのか!?
 と思ったら、同じような悩みを抱えている方々が助け合って、なんとかしちゃってくれちゃってるではありませんか!!mixiやブログや2ちゃんや、いろんなところで救済策が紹介されているんですけど、私はこちらの記事を参考にさせていただきました。あせらず慎重に、書かれてあるとおりにやってみましたら、(当たり前ですが)見事親指シフトが使えるようになりました!わ〜い!皆さんありがとうございました。素晴らしい。
 MacBookのキーボード、なかなかタイピングしやすいですし、レイアウトも親指シフト向きです。ああ、これでなんとかブログを継続できそうです。
 さてさて、MacBookの方ですが、Intelになったせいで、いくつかのフリーソフトが動かなくなりましたけど、その他のアプリは問題なく作動いたしております。なかなか快適なようです。このMacBookは自宅用ですので、ほとんどカミさんが使うことになるでしょう。オマケのiPodもカミさんの名前を刻印してあげました。なんて、優しいんだろう(笑)。ま、しっかり仕事せい!ということでして。

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2007.04.16

『哀しみのビートルズ』 三枝成彰編曲 ベリルン・フィル 12人のチェリストたち

『Menories』 Die 12 Cellisten der Berliner Philharmoniker
M0006006301 隠れた名盤発掘。10年ぶりくらいに聴きましたが、これはいい!ビートルズ編曲ものマニアの私としても、これはかなり許せる。これは生で聴いてみたいなあ。
 編曲は当時(1992年制作)お茶の間のオバサマ方に絶大なる人気を誇っていた三枝成彰さん。ジャケットもものすごくオシャレですし、音楽も限りなく美しく、これは「シゲさま」ファンならずとも、メロメロでしょう。
 三枝さん、アニメやドラマの音楽も多く手がけてますし、先述のとおりメディアへの露出も多かったので、クラシック界ではどうもこの人への評価は辛めでしたね。最近はかなり正当な評価を得るようになったと思いますが。まあ、今でもガンダム関係の収入は膨大なものになるでしょう。嫉妬する同業者の顔が目に浮かびますな。
 しかし、この編曲ワザはすごいですぞ。個人的には武満徹のビートルズものも好きなんですけどね、まあ三枝さんもクラシックというか現代音楽の作曲家というキャリアをお持ちなわけですから、武満と同じような路線を行っているとも言えるでしょうね。
 演奏は、あのベルリン・フィルの12人のチェリストたちです。彼らの演奏会には一度行ったことがあります。あまりのすごさに腰が抜けた覚えがありますよ。巧いのは当たり前。オケでの演奏とは違い、皆ものすごい自発性で弾きまくっていまして、とにかく実に生き生きした音楽でしたね。そして、チェロという楽器の表現力の豊かさ。ヴァイオリン弾きは常に嫉妬してるんですよ、実は。ホントはみんなチェロを弾きたいんです。
 さて、そうした凄腕シェフたちが料理しているのが、あのビートルズですからね。そりゃあおいしいに決まってる。まあ、あんまり凄腕が集まると失敗になっちゃうってこともよくありますけど、これは成功例でしょう。ぜひともクラシックファンに聴いてもらいたいですね。もっと注目されていいCDだと思います。
 三枝さんが解説で書いていますが、あえてビートルズからリズムを取り去ったと。メロディーだけ残したらどうなるか。たしかに編曲も演奏もあえてリズム感を消そうとしているのがわかります。ロックやポップスの命であるリズムを消しちゃう…考えてみれば過激なことです。
 たぶん、ほかのバンドの曲でこれをやっちゃったらヤバいことになるでしょうね。しかしビートルズのすごいところは、こんなことされても、しっかりビートルズであり続けるところです。作曲家としてのビートルズは超一流です。つまり美しいメロディーを作るということに関しては、武満もたしか言ってましたけど、クラシックの大御所、たとえばモーツァルトやシューベルトに匹敵するどころか、彼らを凌駕しているかもしれない。これもまたよく言われることですけれども、彼らは20世紀の民謡をたくさん作ったとも言えます。1000年、いやそれ以上歌い継がれるメロディーを一時期に大量に作ってしまった。
 三枝さんも、作曲家として作曲家ビートルズと対峙してみて、そのことを実感したようです。御自身は編曲という作業はあまり好きでないとおっしゃっていますが、なかなかどうして、立派なお仕事ですし、演奏家たち同様、かなり楽しんでいる様子が音楽から聴いてとれます。きっと、編曲を通じてビートルズからいろいろなことを学んだんでしょう。やっぱりすごいぞ、ビートルズ先生。
 それにしても、なんで「哀しみの〜」なんでしょうね。おばさま方へのアピールでしょうか。ちょっとニヒルでアンニュイな顔した三枝さんのイメージなんでしょうか(笑)。とっても楽しい音楽だと思うのですが。英語タイトルは「Memories」だし。なんかバブル崩壊直後の独特のムードを感じさせますね。この時、私は何やってたんだろ。15年前か…やっぱり泡がはじけてたな(笑)。
 では、いちおう最後に収録曲を並べておきます。

1. オール・マイ・ラヴィング
2. ガール
3. ミッシェル
4. アンド・アイ・ラヴ・ハー
5. 抱きしめたい
6. ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア
7. レット・イット・ビー
8. イエスタデイ
9. エリナー・リグビー
10. ヘイ・ジュード

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2007.04.15

第2回 レミオロメン聖地巡礼の旅(その2)

041501 さてさて、あらゆる意味で大盛り上がりだった1日目に続きまして、今日もまたさらにマニアックな旅が始まります。まずは、せっかくですから、満開の桜と富士と湖を満喫しましょう。私も長年こちらに住んでおりますが、これほどタイムリーで美しい風景は初めてであります。私たちが立ち寄ったスポットは、有名な撮影ポイントでありまして、こちらにも多くのマニアの方が集まっておりました。そう、写真マニアの皆さんですね。こちらは年配の男性が圧倒的に多いわけですが、ある意味熱さはレミオファンと変らないのかな、などと考えながら「なわばり」にお邪魔して私もデジカメを構えました。第一あそこでコンパクトデジカメはないですよね。いくら名機MZ3とは言え。それこそ聖地では空気読めない行為なのかも(笑)。
 さあ、顰蹙を買う前に、そういう所からは退散しましょう。そう、こういうファン行動につきものの「痛い」状況がないようにするのも、コンダクターの役割でして(?)、そういう意味では御坂でも気を遣うわけですが、しかしですね、ある意味そういうのは杞憂であるとつくづく感じた今日二日目の旅でありました。
041502 今日もまた、昨日に負けず劣らず濃いところを回ったんですが、それぞれの場所で地元の皆さんに本当に親切にしていただいたんです!
 こちらから厚かましく質問などしても、皆さん気持ちよく答えてくださりますし、いや、私たちの期待以上にいろいろ教えてくださったりする。なにより、皆さんの温かい笑顔と言葉に感動です。ああ、やっぱりこういう自然や人に囲まれて、レミオロメンの音楽は生まれ育ったんだな。旅人の皆さんは、つくづくそれを感じたことでしょう。
 いろいろなお店のおねえさま、おばさま、親切に道を教えてくれた駐車場整理のおじさん、花鳥山でウドの天ぷらを揚げてくれたおじさん、皆さん本当に心があったかくて、まあるいんです。ああやって、心から通りすがりの人に親切にできるというのは、本当の意味で心が豊かで余裕があるんでしょうね。ああ、この人たちは春の花々のように優しく美しい。木喰仏を思い出しました。
 最後の最後に立ち寄った土産物店で、偶然にもレミオメンバーの関係者である店員の方にお会いすることができ、お茶やお菓子までいただいた上に、いろいろ心に迫るお話をしてくださいました。旅人はみんな泣く泣く…。ああ、もう夢のような御坂の旅も終わりか、と思っていた矢先の偶然の出来事に、皆涙をこらえきれませんでした。そして、その方、突然飯田蛇笏の俳句をさりげなく紙に書き、旅人の一人に渡しました。何か一つ覚えて帰ってね。こういう風土が彼らを育てたのよ。そのようなことをおっしゃっていました。胸がじんわり熱くなるのを、私も感じました。
041503 私は、「文化」というものは、「文明」と違って、「自然」の個性が「人間」の活動を通して表れるものだと考えています。人間自身の個性ではなく、その人が吸い取った自然がその人の「生き様」というフィルターを通って、ろ過され、抽象されて表れたものだと思うのです。今回、そのことを再確認しました。いや、抽象ではないのかもしれませんね。そこに育つ人々自身も、また考えようによっては「自然」であり、「自然」と「自然」が出会い醸すハーモニーこそが、たとえばレミオロメンの言葉であり音楽なのかもしれない。
 今、いろいろな意味で、「文化」が経済活動に呑み込まれ、商業的になってしまっています。経済は自然のことを顧みません。人間が基準だからです。レミオ自身もそれに悩む時期がありました。しかし、彼らは再び、本来の「自然体」に帰ろうとしています。今日も皆で語ったんですが、これほど本人たちの地元に行きたくなるアーティストも珍しいし、実際訪ねてみて、これほど納得させられるケースもそうそうないだろうと。そう考えますと、彼らの音楽は、非常に純粋な「文化」の形に近いのかもしれない。私たちはそういう彼らと彼らの音楽に感謝しつつ、これからもいつまでも応援していきたいし、彼らからいろいろなものを学んで行きたいと思うんですね。
 そんなわけで、旅人の皆さん、お疲れさまでした。素晴らしい旅でしたね。心が洗われました。また近いうちに第3回を催しましょう。それまで、じっくり彼らの音楽から、透き通った空や、色とりどりの花や木々、そして人々の笑顔を感じ取っていてください。

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2007.04.14

第2回 レミオロメン聖地巡礼の旅(その1)

041401 さあ、今日は皆さん待ちに待った「第2回レミオロメン聖地巡礼の旅」の1日目です。今回は5人の方が山梨を訪ねてくださいました。うちお一人は前回も参加された方ですが、その他の4名の方とは初対面であります。
 しかし、ご縁というのは面白いもので、共通の話題さえあれば、もう最初からお互いうちとけてしまうわけでして、そういう意味でもやっぱりレミオロメンには感謝しなくちゃな、と思うのでした。
 さて、そんな感謝の気持ちもこめつつ始まった今回の旅。まずはこちら富士山から御坂峠を越えて甲府盆地に向かいます。今回は花の咲き乱れる春の御坂路を満喫していただこうという企画。例年なら最高の条件となるはずの日程を組んだのですが、ご存知のとおり今年は異様な暖かさでして、桃の花はすでに先週見頃を迎えてしまっていたのでした。しかし、御坂は標高の高いところもありますから、思ったよりも多くの、そして美しい桃の花を見ることができまして、主催者としてはホッと胸をなでおろしたのでした。
041402 初日は第1回でもお世話になりました職場の先輩宅にお邪魔し、そこから地元の方ならではの案内によるお花見スポットやレミオゆかりの場所を回りました。本当に素晴らしい春の息吹に皆圧倒されて、それこそ桃源郷で夢見心地という感じでしたね。いやあ、ホント偶然なんですが、地元の方(それも超地元なんです)とのご縁のおかげで、こんな幸せを味わえるなんて…ありがたや、ありがたや。先輩いつもお世話になりますです、ハイ。
 ああそうだ。先輩にもお世話になりましたが、もう一人BrotherYさんにも感謝しなくちゃ。BrotherYさんは以前、こちらのブログにもコメントをくださった方で、以前やまなし観光ネットで「レミオロメンゆかりの地を巡る旅」というものすごく素晴らしいコーナーを担当されていた方です。その情報量の多さ、正確さ、マニアックさ、そして写真の素晴らしさ、ほとんど「神」の領域だったんですが、なんらかの事情があってか観光ネットからは消えてしまっていたんです。しかし、この春から、御自身がサイトを立ち上げ、以前にもまして素晴らしい情報を発信してくださることになりました。こちらRemioBrothersがそのサイトです。今回も本当にいろいろと参考にさせていただきました!非常に助かりました。この場を借りて御礼申し上げます。
 さてさて、今日面白かったのは、いろいろな場所で同じようなツアー客というかファンの集団に出会ったことです。もちろん、全て女性のグループだったんですが、皆さん熱心でらして、う〜む香ばしいF臭のしますこと(笑)。同じグループの方々と、いろんな所で何度も会うんですね。で、それぞれ我こそはという自負を持って当地を訪れているわけでして、まあ、私としてはですねえ、女性特有のライバル意識が醸す、各グループどうしの危険な空気(笑)をなごますことに専念いたしましたよ。いや、ホントに黒一点だもので。あのちょっとピリッとした空気、怖いんですよ。てなわけで、なるべく積極的に話しかけたりしましてね、コミュニケーションを図ったりしたわけです。でも、いきなり「皆さんもレミヲタの方々ですか?」はまずかったかな(笑)。
 しかし、この状況は実に興味深いですね。たとえば男同士のオタクグループがどこか聖地を訪ねて、そこに同志がいればですねえ、絶対仲良くなりますよ。盛り上がっちゃいますよ。それが女性だと、なんでああなるんでしょうね。お互い全然話しないんだもん。仕事柄そういうのを見てきましたし、ファンの間の微妙な空気というのは、どの世界にもありますからね、特に驚きませんが、やっぱり面白い。ある意味すごいな、と。
041403 という感じで、いろいろなところを巡りまして、最後は聖地中の聖地…というか本来聖地なんだよな、違う意味で…埋草神社にて記念撮影。皆さん、キャーキャー言ってないで、ちゃんと本殿にお参りしなくちゃダメですよ(笑)。神社マニアの私は、あそこの神様の由来もよく知っていますからね。ま、彼女らにとっては、レミオこそが神なのか。
 で、そのあとメンバーもよく知るスーパーで買い出しなどしつつ、再び御坂峠を越えて富士山へ。河口湖畔は、今日の暖かさのおかげで桜が満開になりました。本当に美しい湖と富士と桜の夕景でありました。ホテルでおいしい料理とお酒とお風呂に酔いしれて、そして彼女らは夜の部へ突入したのでした。黒一点のワタクシはさっさと退散して、ふとんに直行しました。
二日目に続く)

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2007.04.13

自分らしさとは…

Rasisa 左の画像は深い意味はありません。なんとなく、「自分らしさを残したい…」って書いてあるんで。
 今日、ウチの学校に臨済宗妙心寺派の布教師さんがいらして、法話といいますか、まあ高校生向けにお話をしてくださいました。今年は高松の實相寺の副住職さんがいらっしゃっいました。テーマは「自分らしさ」。そのお話しを聞きながら考えたことを少し書きましょうか。
 まず今日のお話の中でタイムリーだったのは、「人間は思い通りにしようと思って余計に苦悩を生む」という部分です。昨日書いたばかりでしたので。やっぱりお釈迦さまはそこんとこを乗り越えようとしたんだな、と再確認いたしましたね。煩悩は全てそこに発するわけですから。
 で、「自分らしさ」ということですが、考えてみますと、「○○らしさ」とか「○○らしい○○」という言い方は妙ですね。今、これらのフレーズはある意味ブームになっていますけど、その定義となるとけっこういい加減じゃないですか?「〜らしい」というのは、本来推量や婉曲の表現であり、100%ではないけれども、それに近い状態であることを表す言葉です。「男らしい」なんていう場合にも、「男」という理想的な概念があって、それを前提にして、それにかなり近い状態を表しています。その点、「自分らしい」というのはおかしな感じがしますよね。「自分」という確固たる概念があるのか、いや、それ以前に、自分が自分そのものなのだから、その自分に対して「自分らしい」というのは、かなり変な事態ではないのか。
 みんな、ずいぶんと無責任に「自分らしい」とか「自分らしさ」という言葉を使いますけど、それって何?と聞かれたら、誰も答えられないんじゃないですか?でも、イメージとしてはなんとなくかっこよくて正しいような気がする。
 今日の布教師さんの話にもありましたが、今ここにいる自分は、当たり前ですが両親あってのものです。その両親はそのまた両親あってこそですし、ず〜っとず〜っといつまでも遡れます。そして、今こうしてこれを書いている自分というのも、はっきり誰とは言えませんが、誰かに読んでもらうことを前提に書いているんですね。つまり、誰かの存在によって今の自分が立ち上がってくる。我々の自分らしさというのは、ほとんどが他人が作っているとも言えるわけです。もともとあった自己ではなくて、縁起した自己です。自分らしさは他人らしさ…とまでは言いませんが。自分だけで作り上げることができないものなんですね。
 いつかレクチャーで実演つきでお話ししましたが、音楽における和音で考えるとよくわかります。たとえば「ド」という音が自分だとすると、そこに「ミ」や「ソ」が加わって、初めて「ド」の音のキャラクターが立ち上がってきます。その時、「ミ」がフラットになれば、当然そのキャラは変りますよね。そんなふうに「自分らしさ」というのは、全く不確定であり、不安定であり、しかし一方で無限の可能性を秘めているわけです。
 そんなふうに考えてきますと、やはり「自分らしさ」にこだわる、それを自分の中に探し求めるというのは、ちょっと違うような気がしてきます。本来それは探すべきものではないのかもしれません。勝手にやってくるんですかね。私はそんな感じで生きてますが、皆さんはどうお考えでしょう。

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2007.04.12

『欲ばり過ぎるニッポンの教育』 苅谷剛彦+増田ユリヤ (講談社現代新書)

Yokubari 私の恩師大村はま先生との共著「教えるということの復権」を通じて知った苅谷剛彦さん。その後も数冊の著書や論文を読ませていただきましたが、そのたびに好感と共感を抱いてきました。なぜなら、この人は教育を論じる人々の中では珍しく、とっても冷静で中立的な立場を取っているからです。地味ではあるが非常に現状に合った、そして有益な議論をなさる方です。
 そんな苅谷さん、今回は少し熱くなっています。そこがまた、ああこの人も普通の人間なんだ(失礼)と思わせ、いい味が出ていましたよ。今までは、なんとなく相撲の行司さんみたいな印象だったんですけどね、この本を読んだら和田京平レフェリーになりました。うん、いい比喩だ(笑)。
 この本では、犬猿の仲、とまではいかないけれど、「総合的な学習の時間」問題で対立した、ジャーナリストの増田ユリヤさんと対談してるんです。前書きにも後書きにもあるように、この対談、途中でやめようと思ったらしい。たしかに二人の論議は平行線で、どうにもかみ合っていない。しかし、かみ合い過ぎの対談本が多い中、これはこれでなかなか楽しかった。
 それはですねえ、こういうことです。さっき和田京平って書きましたけど、その印象は読後のことでして、読中は彼自身が女子レスラー増田ユリヤと闘うレスラー苅谷剛彦になってるんです。で、どうにも手が合わない。異種格闘技とまではいきませんが、お互いを生かしきれない感じなんですね。さあ、こういう場合、プロレスにおいて重要になるのは、それこそレフェリーの存在です。そう、レフェリーが試合を作り、組み立てていかなければならないのです。そして、この本の場合、レフェリーになるのは私たち読者です。私も最初は観客でいようと思ってたんですけどね、あんまりしょっぱいので、途中からより積極的にかかわるようになりました。つまり、私の思考も能動的になって、いつのまにかその試合に参加していたということです。で、最後には苅谷さんの手を挙げる…と。
 進学率が異常に高くなっている現在、学校の問題、教育の問題というのは、本来社会の問題であるべきはずものをオブラートに包む役割を果たしている。本来警察や医者なんかのお世話になるところを、生徒指導や保健の先生が世話してすませている。このような考え方には全く同感です。日本独特の婉曲朧化社会ですよ。相対評価もそうです。それが、教育改革、教育再生の名の下、資本主義的に、ストレートに、自己責任的に変ろうととしているんです。私はいやだなあ、そういうの。自由競争ほど残酷で野暮なものはないですよ。自由は最も不自由です。助け合い、ごまかし合いがない。
 一度苅谷さんとお話ししたいですね。現場の教師として、もの申したいということもありますけど、それ以上に二人で「そうですよねえ〜」と言いたいんです。つまり、教育には限界があるということ、それをしっかり認識した上でいろいろ考えなければいけないということ、ひたすら理想を足し算してくことが不可能だということ、過度の期待が不満と不安を生むということ、そういうことをベースにお話したいんです。まあ、叶わないと思いますが。
 さて、試合を裁きながら、私の妄想はあらぬ方向へも行ってしまいました。教育の問題を教育の問題として語り出すと実に面倒な事態になるので、無意識の内に逃避しちゃうのかもしれませんね。そう、いつもの得意技「モノ・コト論」です。ああ、教育にも「モノ」と「コト」のせめぎあいが見られるなと。思い通りにならない「モノ」と、思い通りになる「コト」の究極の異種格闘技戦がここでも展開されている。
 たとえば、こういうところで。「安心のプログラムを買うと不安が高まる」、つまり教育熱心でお金のある親たちは、子どもの将来が保証されると宣伝される安心のプログラム(商品)に群がるけれど、それが結局新たな不安を生み、結局不安スパイラル(?)に陥るということです。この本でも冒頭で例の英語教育についての論議が展開されていますが、まあ私もそのあたりについては、ずいぶんと記事に書いてきましたから、ここでは触れませんね。とにかく、こういうのって、子どもの「モノ」性を無視した、親の勝手な「近代化」なんですよ。子どもなんて、単なる「もののけ」なのにね。「無限の可能性がある」と言えばかっこいいけど、実は単にワケ分からん、未来も何も分からない存在なんです。それを無理やり「コト」化しようとするものだから、そりゃあ無理が生じますよ、親にも子にも。
 つまり極論してしまうと、教育の問題というのは、そうした親の「コト」の公式がモノノケに通用しないところに端を発しているんですよ。モノノケの未来を解ける方程式なんかもともとありゃしないんです。だから完全なる理想の教育なんて最初からあり得ない。それだけのことです。世の中では今日もまた新しい公式を作ってそれを適用しようとしています。あっちかダメならこっち。あれがダメならこれ。結局、振り回されているのは子どもたち…かと思うと意外モノノケたちは柔軟性があるんで(いいかげんなんで)基本大丈夫みたいです(笑)。
 では、大人、すなわち、政治家や親や教師や学者はどうすればいいか。それは…親はなくとも子は育つっていうのを思い出せばいいんじゃないですか。そこを基準に考えると、いろいろ面白いことが見えてきますよ。実際、私は自分を「先生」だとは思っていません。まあ、プロデューサーとかディレクターかな。

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2007.04.11

あかしや新毛筆 (筆ペン)

Akashiya 何を思い立ったか、写経用紙と筆ペンを買ってきました。たまにはやってみようかなと。般若心経を空で書けるようになりたいし。しかし、実際やってみるとこれがまた時間がかかる。集中力も必要だし、現代人にはなかなか難しいのかもしれません。まあ、何日かかけてとりあえず全部書いてみますわ。
 さて、私には、憧れていはいるが全くできない分野というのがいくつかありまして、その一つが「書」です。もう私の字の下手さ加減は並みではなく、国語のセンセイとしても本当に恥ずかしい限りであります。特に毛筆はどうにもなりません。どこをどうすれば良いのかわからないということにおいては、ヴァイオリンを初めて弾いた時に匹敵するかもしれません。以前にも書いたように、運弓と運筆、音楽と書が非常に似ているということは想像つくんですけどね。そこから先にどうしても進みません。書は来世で頑張るか。
 でも、この前、筆の良さをたっぷり味わいましたよ。あれです。漢検の時です。筆は疲れなくてよろしい。下手くそながら緩急はつくし、なんとなくいつもと違う脳ミソの部分を使っているようで、字を覚えるという作業においては非常に有用でありました。
 しかし、筆とは言っても、それはなんちゃって筆、つまり筆ペンであります。書家の方は口をそろえて、「墨をする時のあの香りが醍醐味」とおっしゃいますが、私にはそれをする根性すらありません。では、とばかりに、私は筆ペンにこだわっちゃいましょう。で、なんちゃってマニアの私が選んだのは「あかしや新毛筆」であります。
 正直筆のことは全くわからないのですが、それでもこの筆ペンの良さはなんとなく感じます。腰の強さというか、腰の加減が非常によろしいのです。それはある意味において、リアル筆とは違うということでもありますが、もともとが和紙に書くことを前提としてものではないので、これはこれでありでしょう。90%はハガキの宛名書きに使うのでしょうから。あとの10%は祝儀袋や不祝儀袋、芳名帳、そして写経なんかでしょう。
 この筆ペン、奈良の筆屋の老舗あかしやさんの製品です。あかしやさんは筆の世界ではかなりポピュラーな存在だそうで、創業360年、伝統的な筆はもちろん、なかなか斬新なアイデアで新商品を開発しているとのこと。その品質もさることながら、良心的な価格設定にも好感を持ちます。楽器と一緒で値段があってないような世界なんで。この筆ペン以外にも、いろいろと興味深いものもありますので、以下のリンクからカタログをご覧下さい。
 ということで、この「あかしや新毛筆」シリーズ、デザインもシンプルですし、値段もお手頃。長く使っても穂先が崩れませんから、最後までしっかり使い切れます。その他のメーカーさんのやつはどうもねえ、せっかく詰め替え用のインクカートリッジがあっても、それ以前に穂先がダメになっちゃうんですよね。普通の文房具屋さんにも置いてありますから、ぜひ一度お試しになってみて下さい。
 さて、写経の方ですが、今のところお手本を下敷きにして上からなぞるという、実に初歩的な段階でありますが、最終的には良寛さんの般若心経るような、オリジナルな字を目指します!…なんちゃって。

筆ペン 美しい筆文字なら「あかしや新毛筆」

奈良筆〜あかしや〜公式

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2007.04.10

『松田聖子〜女性の時代の物語〜』 (NHKスペシャル)

070409_a_1 昨夜放送されたものの録画を観ました。う〜ん、やっぱり神だ。
 松田聖子さまの神っぷりについては、ワタクシの「モノ・コト論」にからめてこちらに書いた通りです。生き神様です。本来「ミコト(命・美事)」すなわち永遠不変な絶対的存在というのは、それこそ神話の中にしか存在しないはずです。フツーの人は死んでようやく「○○命」と名づけられます。まあ、昔は天皇は生き神様でしたからね、彼らも「みこと」と称されたり、「千代に八千代に」とか讃えられていましたが、それはご存知の通り実はウソでした。でも、聖子さまはホンモノですよ!45歳なんていう地球上の数の数え方は無効です!
 番組はNスペらしく、80年代以降の働く女性像、女性の地位向上などの象徴として、彼女をとらえていましたが、私はそういうくくりでは神を表現できないと思っています。結果としてはそうなのかもしれませんし、女性のみならず私なども彼女に励まされてきたわけですが、彼女自身にはそういう意識、つまり世の中をこう導こうとか、世の中に影響を与える人物になりたいとか、そういうことはほとんどなかったと思います。
 それは番組の中のインタビューからも聞いて取れました。彼女はただやりたいことをやっただけ。やりたいと思ったことをすぐに、そして必ず実行しただけ。「直感」という言葉もでてきましたね。
 では、なぜそのようなことが可能だったのでしょうか。それはずばり「才能(タレント)」です。今回の番組では、彼女が何かを作り出す瞬間が何度かとらえられていました。まさにそこには産みの苦しみも感じられましたが、しかし、ああやってなかば衝動的に内側からこみあげてくる「モノ(何かわからないエネルギー)」を処理して「コト(作品)」にしていくことができるのは、これは完全に才能です。
 さらに彼女が神なのは、その才能を生かす才能も持ち合わせていたという点です。つまり「前向きさ」「ポジティヴさ」が、彼女の芸術家としての才能をフルに発揮させたのです。あれだけのバッシングを受けたり、いや、それ以前にあれだけチヤホヤされたりすると、たいがい人間は自らの本当の才能を見失ってしまうものです。しかし、彼女はそういう状況でも、常に視線は未来にあった。番組でも語っていましたが、「これからもっと面白そう」という感性。過去や現在よりも未来、昨日や今日よりも明日の方がもっと楽しいという予感。これは幸福のための唯一の条件なのかもしれません。
 もちろん、こういうことだけでは片づけられないことだらけではありましょう。しかし、彼女にとっては、私たち凡夫における不幸なんてものよりも、内側からこみあげてくる佳き予感の方が、ずっとずっと大きくて強い。だから、はたから見ると、なんであんなに強いんだろう、と思える。でも、彼女は実は不幸や逆境に強いのではない。幸福に強いのです。
 ご縁がありまして、今年はミコトのイニシエーション(松田聖子のライヴってことです)を体験できそうです。思いっきりその神気を浴び、私も少しでも幸福に強くなれるよう頑張ってきたいと思います。よっしゃ〜!今日も頑張るぞ〜!

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2007.04.09

『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』 武田邦彦 (洋泉社)

Kankyoumondai ペットボトルのリサイクルをすると、資源が7倍使われ、ゴミが7倍出る。リサイクルのほとんどは「焼却」である。リサイクルが環境を破壊し、税金の無駄遣いに貢献する。ゴミを分別すればするほどゴミは増え、弱者にしわよせがいく。ダイオキシンは猛毒でもなんでもない。温暖化すると海面は下がる。京都議定書では温暖化は止められない。節電すると石油の消費量は上がる。森林は二酸化炭素を吸収しない。水素自動車の方が二酸化炭素の排出量が大きい。環境問題は金もうけの手段になってしまった…。
 本書ではこうした話が続きます。著者は名古屋大学大学院の教授、資源材料学の専門家として有名な方ですから、当然科学的な調査と分析の結果をもとにしています。しかし、これは学術論文ではありません。怒っています。あまりに世の中がひどい状況なので。つまり、一部のウソつきがついたウソを、多くの国民が信じきって、そして事態をさらに悪化させているからです。早くなんとかしないと、大変なことになってしまう!
 私は以前から、たぶんそうだろうなと思っていましたから、全くショックではありませんが、一般のまじめな方々には相当衝撃的でしょうね。逆ギレする人たちもたくさんいそうだなあ。
 ここで表明しておきますが、私は環境破壊推進派ではありませんからね。極端なことを言えば、世界人類が仏門に入って修行生活すればいいと思っていますので。お釈迦さまの教えは究極の環境問題対策ですから。
 まあ、それは半分冗談としても(半分本気)、私は現在叫ばれている「環境問題」と、現在行われている「対策」の胡散臭さを常に感じております。どこかにウソがあって、なんとなくだまされているような気がしている。怪しい宗教のような感じがするんですね。さらに困るのは、その宗教の原理主義者がけっこういるということです。そのあたりに対して、私もこちらこちらこちらの記事を通して、少し意見を述べさせていただきました。さりげなくね。だって原理主義者ってこわいんだもん(笑)。
 何事も原理主義というのが一番いけない。思考停止しているからです。思考しているつもりにはなっていますが、実際には彼らの発言のほとんど受け売りに過ぎず、自らの殻に閉じこもって他者を受けつけない状況に陥っているのです。私はそういう原理主義こそ地球環境や私たちの生活環境を破壊していると思っています。
 昨日、ウチの学校でも入学式がありまして、今年もまた多くの新入生を迎えました。私は彼らに対して、毎年必ずする話があります。それは中学校で「いいこと」とされてきたことを否定する話です。具体的にやりだまに挙げるのは、「ゴミの分別」「リサイクル」「募金」「ボランティア」「臓器提供意思カード」などです。彼らは小学校、中学校と、それらを人として当然すべき良きこととして教えられてきています。私はあえてそれに異を唱えるのです。ちょっとおおげさに話をします。だいたいみんなびっくりするわけですね。で、びっくりさせて終わりにするわけではなく、また、当然私の考えを押しつけるわけでもなく、最終的には「原理主義はいかん」「自分で考え、確かめよ」「二者択一ではない世界観を持て」ということに導いて行きます(なんて言うとカッコいいですけど、実際はヨタ話にすぎません)。高校生活の基本をそこに置いてもらいたいからです。
 そんなわけですから、今年は、この本と「不都合な真実」の両方を教材として使わせていただきます。どちらを信じて生きるのか、あるいは別の考え方もあるのか、それぞれの裏にはどのような「思惑」や「力関係」があるのか。そういうことを「読める」生徒を育てて行きたいんですよ。
 この本はとても面白かった。興奮しました。本当のことを言うと、私は武田さんの考え方に大賛成派なんです。だからと言って、それを他人に押しつけるつもりはありませんが、世の中のいろいろな胡散臭さを嗅ぎつける、そしてそれを糾弾するだけでなく、どこか楽しむ姿勢(つっこみ力かな?)というのは、もっともっと広がっていいかもしれませんね。

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2007.04.08

『スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~』(NHKハイビジョン特集)

自らの軌跡を語るロングインタビュー
Uekiya 今日は花まつりにしてイースター。つまり、お釈迦さまのお誕生日にして、イエス・キリストの復活の日(第二のお誕生日)であります。私もご近所のお寺や教会にてそれらを祝いました。
 そして、本当に今日という日にふさわしい番組を観ることができました。涙、涙です。私にとっても今日は何回目かの誕生日かもしれません。先日「追悼 植木等」という記事を書きましたけれど、今日の番組によって、新たな植木等が私の中に生まれました。イエスの復活もこういうことなんでしょうね。
 今日の夕方、2005年に製作されたハイビジョン特集「スーダラ伝説〜 植木等 夢を食べつづけた男~」が、教育テレビにて再放送されました。もちろん追悼番組としてです。私は本放送を見逃していましたので、これが初見です。
 本人の6時間に及んだというインタビューを中心に、関係者の皆さん(そうそうたる方々ばかりですし、ここ2年でお亡くなりになった方も…)やご長男で作曲家の比呂公一さんのお話も交えた2時間番組。彼の生い立ちや音楽的な才能についても初めて知ることが多かったのですが、やはり本人のインタビューが素晴らしかった。いや、その内容はもちろん、パフォーマンスとしてものすごく良かった。それは完璧な芸でもありましたし、そして老師の説教のようでもありました。ひきつけられ、心動かされましたね。彼を支える、仏教と音楽…まさにこれらがそのインタビューを作り上げていました。
 インタビューですから、当然アドリブです。彼の一言一言は全て上質な即興芝居になっていました。インタビュアーの言葉は全てカットされていましたからね。一人芝居です。完全なるアドリブ力と、そしてリズム感。インタビューが一つの芸にまでなるんだ!驚きでした。
 内容については、本当にいろいろと引用したいところですが、私が最も感銘を受けたこの部分だけにしておきますね。

『生まれてからこんにちまで、僕が出会った人は、全員僕の…もう…言葉に表せないぐらい世話になった人…そういう人ばっかりに会ってきたっていうね…ありがたいことだなあって思いますよ』

Uekiya2 この言葉を聞いた時、この人は仏様だと思いましたね。植木さんは、特別周囲に恵まれた人だった、ラッキーな人だったというわけではありません。彼が全ての人に対して、つまり私たち凡夫であったら敵だと思ったり、嫌ったりするであろう人にまでも、感謝の気持ちを持ったということです。実際に世間的には悪いヤツもいたでしょう。そういう世界ですからね。しかし、植木さんは素直に「全員、世話になった人」と言える。これは、彼自身の心が限りなく開いているからです。我執や利己から無縁のところにあるからです。
 彼の人生をふり返ってみますと、彼からいろいろとアイデアを出したり、先導したりということはほとんどないように感じられます。たいがい周囲からの依頼や提案で動いているようです。インタビューの中でも語られていましたが、だいたい人から何か言われると「ん〜」と考えたのち、「はい、わかりました」「いいですよ」と言う。あるいは逡巡していると押しの強い人が彼を連れてドンドン行ってしまう。ある意味他力にまかせいるわけです。
 で、彼のすごいことろは、一度引き受けたら、その依頼主の期待以上のことをしようと考えたところです。おそらくそれは、高尚な考えやプライドから生じたことではないでしょう。単にそのことに「なりきった」だけで、つまり、自分自身やるからには楽しもう、自分を全部発揮しようということだっただけだと思われます。
 そうして、「縁」によって生じた自分、変化した自分を肯定し、自らを生かし、人をも生かしていったのです。だから、彼を憎んだり、怨んだり、嫌ったりする人はいなくて当然です。そうして感謝、報恩の気持ちだけが残る。常に心が開いていれば、自然とそうなるわけで、私は、仏教の目指すところはそこであると常々思っています。
 いやあ、本当に感動しました。私もそうやって生きていければいいなあ。いや、生きていこう。今日は、私にとっても新たな誕生日です。
 最後に再びインタビューから。究極の言葉です。

『人生ってやっぱり、僕は、縁だと思うんだよね』

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2007.04.07

『亀の尾で造った純米吟醸酒』 (福乃友酒造)

Fukunotomo 秋田から家族が帰ってきて、何本かお酒を買ってきてくれました。今日は、そのうちの一本「亀の尾で造った純米吟醸酒」をいただきました。
 酒の肴は「ふきのとうの天ぷら」です。今年は暖かかったので3月のはじめには顔を出していましたからね。その後ちょっと冷えたので、食べ頃で生長停止したふきのとうが庭に大量にあるんです。
 さて、このお酒、まずはその名前ですね。そのまんまです。秋田の県民性は「謙虚」だと常々感じておりますが、このネーミングも自己主張せず、完全に説明的でありまして、ちょっとほほえましい。たしかに世の中では「○○からつくった○○」とか「○○だけでできた○○」というようなネーミングがはやっておりますが、秋田でそれをやると「そのまんま」感があるのはなぜでしょうね。たぶん、以前書いた秋田独特の微妙なセンスのせいでしょう(笑)。謙虚なんでカッコつけるの苦手なんですよ。
 というわけで、このお酒は幻の酒「亀の尾」で造られています。「亀の尾」と言えば、お米の世界ではたしかに伝説的な存在です。今から100年ほど前、山形は庄内の阿部亀治という人が開発した、いや開発ではないな、発見したんですよね。マニアックなことは抜きで説明しますと、とにかくとっても優れた品種の水稲をたまたま見つけて、それを地道に研究して、全国に普及させたということです。おそらく最初に見つけた3本の稲は突然変異種だったんだと思われますが、それと彼が出会ったというのは、やはり運命だったのでしょう。他の人だったらまず気づかなかったかもしれない。そして、気づいたとしても、その性質を見抜けなかったかもしれない。また、たった3本を全国に無数に広げることなどできなかったかもしれない。いや、できないでしょう。
 驚くべきは、彼の見出した「亀の尾」は、のちの「コシヒカリ」「ササニシキ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「どまんなか」「はえぬき」など現代の優良米の親となったことです。「亀の尾」なしにそれらは生まれなかったと言っても過言ではありません。やはり、阿部亀治はカリスマです。
 と、得意の蘊蓄が長くなりましたが、とにかくですねえ、その「亀の尾」はその子孫たちにその座を譲って、しばらくあまり作られなかったんですが、最近は純米酒の原料として注目されてるんです。で、実際いただいてみますと、たとえばこのお酒、「辛口」ということですが、とってもふくよかな味わいです。秋田のお酒はだいたい米の甘味を大切にした造り方をするんですが、このお酒の甘味は実にさわやかにして豊か。最近、辛口=淡泊というお酒ばかり飲んできたんで、この「辛さ」はなにか新鮮な気がしました。これが本来の日本酒のおいしさではないでしょうか。米の味がするということです。肴の味の邪魔をするのではなく、下から支えるという、いかにも「ごはん」的な存在感です。
 先ほど「謙虚」という言葉が出ましたけれど、面白かったのは、箱に一枚の手書き(を印刷した)の「お手紙」が入っていたことです。杜氏さんが書いたそのお手紙、その字も含めまして、それこそ謙虚で純粋で素直で正直で朴訥で口下手で、それを読みながらこのお酒をいただいたんですけどね、とってもあったかい気持ちになりました。「ほかのお酒に押されて日本酒は苦戦しているが、いいものをちょっとずつ造る」というようなお言葉に、思わず「頑張れ!」と思ってしまいました。
 おっと、肝心の会社名を書くのを忘れてた!福乃友酒造株式会社さんです。立派な蔵があるようなので、今度秋田に行った時には立ち寄ってみようと思います。

福乃友酒造

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2007.04.06

『原典 ユダの福音書』 (日経ナショナル ジオグラフィック社)

The Gospel of Judas
Judas 今日は「聖金曜日」。キリストの受難の日であります。例年ならバッハのマタイやヨハネを聴くところですが、今年はこの日のために取っておいた本を一気に読んでみました。
 先日教会にお邪魔し、受難節にちなんだコラールのコンサートをしました。それを機に、久しぶりにマタイの福音書による受難の物語をしっかり読んだのですが、やはり私は、その中のユダに関する記述に違和感と言うか、別の可能性を読み取ってしまったんですね。心を空っぽにして読めば読むほどに、単なる醜悪な裏切りの話ではなく、不思議と甘美なウソの匂いがしてくるんです。特にユダの自殺のシーンはおかしい。あれはどこかとってつけたような感じ、あるいは何かを変形したような感じを与えます。
 以前からのそうした疑問に対する一つの答えがこの「ユダの福音書」にありました。ユダの裏切りはイエスの指示だった…この衝撃的な福音書の発見譚と、その内容については、昨年こちらに書きました。今回原典、つまり本文(の日本語訳)を読んでみたわけですが、感想はその時とほとんど変わりません。鳥肌が立つような興奮ですかね。ま、ことがこと、ものがものなだけに「萌え〜」とは書きにくいところですが、やはり萌えますなあ、こういうの。
 特に、「〜追え」では知りえなかった本文のムードといいますか、独特の空気感はたまりませんね。特にイエスがユダに宇宙の生成について語るところはたまりません。

 『イエスは言った「来なさい。いまだかつて何びとも目にしたことのない秘密をお前に教えよう。それは果てしなく広がる御国だ。そこは天使たちでさえ見たことがないほど広大で、一つの目には見えない霊がある。そこは天使も見たことがなく、いかなる心の思念によっても理解されず、いかなる名前でも呼ばれたことがない…』

 ほらね、はじめに「ロゴス」があったんじゃない。このあとの部分では「混沌」らしき言葉も出てきます。まあ、神話の書き出しというのは大概こんな感じですし、科学的にわかっている宇宙の生成も似たようなものですが。このあと、ユダの福音書では、輝く雲の中に星が生まれるというような記述が続きます。とってもきれいです。そして最後の部分、これは思わずぞっとせずにはいられませんねえ。まず、イエスがユダに自らを裏切るように指示します。そこにはこのような言葉が記されています。

 『お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在となるだろう』

 イエスは自らの教えの完成のためには、受難が必要であると考えていた。それを成就させるためには一芝居打たなければならなかったわけです。そこで、最も信頼できる弟子、そして友人でもあったユダに大役を任せたわけです。そして、ユダは愛する師、そして人類のために決意したのでしょう。この部分の記述も物語として実に美しい。

 『…(イエス)「さあ、これでお前にはすべてを語ったことになる。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」ユダは目を上げると明るく輝く雲を見つめ、その中へと入っていった。地上に立っていた人々に、雲の中から声が聞こえた。声は言った。大いなる世代…像(欠落)』

 う〜む、まるでアニメの最終回だ(不謹慎かな)。かっこいいぞユダ!そしてイエス。このあと、普通に裏切りのシーンがあり、そこでこの福音書は終わっています。受難のシーンや復活はありません。あっ、ちなみに有名な接吻はありません…王仁三郎の言うことはやっぱり正しかったのかな(笑)。
 どうでしょう、非常によくできた物語ではないですか?ユダの不名誉は一気に最高の名誉になるわけです。そして、イエスの受難はユダの受難によって成就していることになる。ユダの受難を前提としてイエスの受難があるわけです。私はこちらの方が好きだなあ。パッションは決してパッシヴではなく、実はアクティヴであった!
 さて、この本の大部分は詳細な解説です。それを読むと、結局この福音書はグノーシス派の一文書に過ぎず、これによって、キリスト教世界が変るとか、歴史が変るとか、政治や経済が変るとかいうことはないと分かります。非キリスト者の私も、どちらかというと「物語」としての面白さに対して無責任な感想を書いているわけで、信仰や学術とは別次元。もちろん真偽を問うなどという野暮なことはしません。
 ただ、前の記事でも書きましたように、私はこの新しい物語によって救われた気がするんです。ユダ自身や、イエスを磔刑に処した人々や、ユダヤ人全体や、イエス自身や、イエスの受難や、あるいはキリスト教のある種醜い部分が、全部この物語によって救われる。それを見届ける自分も結果として救われるような気がするんでね。ですから、私にとっては、マタイよりもヨハネよりもルカよりもマルコよりも、ユダの福音書の方が真の救いの物語のような気がするんです。
 私個人といたしましては、皆さんにもぜひ読んでいただきたいのですが、まあ、このトンデモ書を受けいれられるかどうかは、その人の頭の柔らかさ次第ということで。

Amazon 原典 ユダの福音書

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2007.04.05

『いちばん大事なこと−養老先生の環境論』 養老孟司 (集英社新書)

Ichiban67 昨日も「コト」と「モノ」の話を書きました。思い通りになる「コト」と思い通りにならない「モノ」っていう、いつものやつです。今日もそれです。しつこいと思わないでおつきあいください。
 私はここのところ「これからは心よりモノの時代だ」と言っています。「心」とは「意識」であり、自己の内部のことです。そして「コロコロ」変わります。言うなれば「want」の世界です。あれが欲しい、これが欲しい、あるいは「〜したい」ということです。この前、植木等さんの追悼番組を観ていたら、「やりたいことと、やらねばならないことは違う」というような話が出てきました。やりたいことというのは「コト」ですね。で、やらねばないないことは、たいてい自分の外からやってくる「モノ」であったりします。自分の「やりたいこと」、すなわち自分の内部ばかりに目を向けていると、それが実現されなくて不快になります。また、想定外の「モノ」を排除しようとすると、それもまた不快を招きます。ですから私は、内側にこだわらず、外には開いていこう、と言っているわけです。「コトよりモノの時代」「心よりものの時代」…世間とは逆のことを言ってますね。でも、実は単純な理屈ですし、数千年前にお釈迦さまも言ってますね。自己を滅して縁の中に生きよう、と。
 養老先生もいつも同じようなことを言っています。ただし、切り口が違うので説明に使う言葉は私とは違っています。今回の養老節で言えば、「コト」=脳・意識・人工・都市・大人・スルメ、「モノ」=体・自然・田舎・子ども・イカ、って感じですかね。近代社会、科学文明というのは、言うまでもなく「コト」に向かったわけです。思い通りになるように。養老先生はそれを「脳化」「都市化」と呼んで憂えている。
 こんなんですから、私は、この本で展開される、養老先生流の「環境論」に大賛成です。自然保護原理主義って絶対おかしいと私も思いますし、養老先生のおっしゃる通り、環境問題は最大の政治問題に違いありません。自分の体さえも、意のままにならない「自然」そのものだというのも納得。産業革命が環境破壊を招いたのではなくて、環境破壊が産業革命を招来したというのも、たぶんその通りでしょう。「モノ」が持つ、「可変性」「無常性」「多様性」に対して、私たちはそれらを「コト」にするようにコントロールするのではなく、相手を理解しようと努め、空気を読み、「手入れ」という発想で臨む。そして、どうしてもダメならなんとかやりすごす。私もそんな感じで「モノ」とつきあうのが好きです。
 繰り返しになりますが、私は自分の思い通りにならないことを楽しむようにしていますし、そこからいろいろな智恵を学んでいるつもりです。それが結局「他力」を呼んだり、要領の良さとして表れたりしてですねえ、なんか得する生き方のような気がするんです。仕事上もそうです。先生ってどうしても生徒を思い通りに動かそうとするじゃないですか。それでたいていうまくいかなくてストレスためちゃう。私も昔はそうでしたが、今ではそういうのとは無縁になりつつあります。まあ、こまごましたことはいろいろありますけど、それは忘れればよい(笑)。
 とにかくこの本は面白かったですね。養老さんの本はだいたい面白いし、目からウロコってことが多い。でも今回はそれだけではなくて、ずいぶんと勇気づけられました。最近環境問題でいろんな人と意見が食い違うことが多かったんですけど、少し自信を取り戻しましたよ。皆さんもぜひお読みになってください。


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2007.04.04

フィアット パンダ (9)

Panda809 本日も忙しいので、頭を使わなくていい話題で行きます。
 この前、あんなに暖かかった(暑かった)のに、今朝起きたらこの雪景色。いったいなんなんでしょうねえ。あの日はやっぱり温暖化だなって思いましたが、今日は、こりゃあ寒冷化だな、です。人間の気分なんてそんなもんでしょうし、自然は人間が思うほど単純なシステムではありません。
 さて、思うようにいかない「モノ」、自然じゃなくて人工物なのに言うこと聞かないヤツを久々にとりあげましょう。フィアット・パンダくんです。写真で思いっきり雪をかぶってますね。
 え〜、昨年の10月に フィアット パンダ (8)… ようやく退院という記事を書いていますが、実はあのあと、また長期入院したんですよ。12月ですかね。で、いちおう昨年中に退院してきたんですが、それ以来私とカミさんは車を交換しまして、私がパンダに、カミさんがクルーズに乗っております。と言うのは、あまりのパンダの調子の悪さに「もう絶対一生乗らない!」と、カミさんが大激怒しまして、なかばクルーズを強奪されたのでありました。
 まあ、その怒りも理解できますよ。12月は保育所の駐車場で動かなくなったんです。急ぎの用事があった日だったんですが、それももちろんキャンセル。保育所の先生やらほかの父兄たちに大迷惑をかけまして、結局レッカーで甲府の方まで連れていかれました。まあ、今回も道の真ん中で止まったんじゃなかったんで、命に関わるようなことではなかった。そういう意味では不幸中の幸いだったんですけどね、カミさんの怒りは収まりません。たしかに、自分が運転中にこういうことがあったらイヤだな。それも半年に2回じゃな。
 結局、前回と同様、デュアロジックが操作を受け付けなくなったようで、分解して調べてもらいましたが、はっきり言ってよくわからんと。一部部品も交換してもらいましたが、もう絶対に大丈夫とは言えないとのこと。
 こんなものをおススメするのもなんですけどね、ここ数ヶ月毎日こいつに乗ってますとね、変な愛着が湧いてくるのも事実です。幸運にも私の運転中には何も起きていませんし。たしかにちょっと遠出するには勇気がいりますが、なかなか面白い車ですよ。
 ちょっと気づいたことを、いくつか書きましょうか。基本的にマニュアル・モードで運転していますが、一速から二速へのシフトアップのタイミングが難しい。一速でスタートしてシフトアップしようとすると、私のタイミングでは早すぎるらしく、操作を受け付けませんのアラートが鳴ってしまいます。もともと低速トルクのあるエンジンなので、そんなに回したくないんですけどね。それに停車中には二速に入れられる、すなわち二速発進できるのに、ちょっと不自然な気がします。三速から上にシフトアップするのは早めに行けるんですが…。
 まあ、それにしても、マニュアルで運転しますとね、ちょっとした街乗りでも燃費は20キロ近く行きます。オートマのエコモードでも18キロを割ることはありませんね。ここは山の中ですから、通勤ではちょっと燃費下がりますけど、それでも17キロは下りません。すごいですねえ。やはり、ふつうのトルコン搭載のオートマって、無駄なエネルギーを使ってるんですねえ。
 今、ヨーロッパではこうした「オートモード付きマニュアル」が主流になっているようです。エンジンはディーゼル。最新のディーゼルも私たちのイメージとはだいぶ違っていて、静かでクリーンになってるんですよね。そう考えると、日本の車はまだまだ環境への配慮が足りないような気もしますね。
 トルコンがないということは、通常のクラッチ操作を機械がやるということですが、どうもこのデュアロジックは半クラッチが苦手なようです。渋滞でじわじわ進んだりするのは、このパンダには至難の業です。個体差はあるでしょうが、ウチのはギクシャクギクシャク。はたから見るとヘタクソなドライバーに見えるでしょうね。ここは、ぜひ改善してもらいたいっす。
 あと、パンダのドアロックですけど、日本のドアロックとは発想が違いますね。一見、ドアロックがないように見えます。というか、実際日本的な発想からするとないに等しい。つまり、ドアの開閉レバーがそのままロックになってるんです。普通に引っ張ると開く。閉めた状態で押し込むとロックになる。これだと内側からただ引っ張るだけで、ロックが解除されてドアが開いてしまいます。たとえば子どもがドアノブをいたずらしても開かないようにという日本的な発想とは違うんですね。あくまで、外側から勝手に開けられないようにという発想です。もちろん、日本にもそういう発想はありますが、それだけに特化しているのが、いかにもという感じですね。強盗とかに襲われないようにってことでしょ。違うかな。
 ま、こんな感じで、異文化に触れていますと、逆に日本が見えてくる。よくあることですが、そういう体験を毎日しております。今のところ、私の言うことを聞かないという状況はほとんどありませんので快適に乗っていますけど、いつどこで何が起きるかわからないという適度な緊張感は常にあります。ちょうど20年前、いや30年前の日本車のような感じかなあ。車なんて動かなくなってなんぼっていう時代ありましたよね。
 たしかに、これじゃイタ車に乗る人は減るでしょうねえ。そうとうの変わり者じゃないと。私みたいな「モノ」好き、つまり思い通りにならないことを楽しむような人じゃないとね。でも、「コト」ばっかりの現代日本の工業世界においては、けっこう新鮮な刺激があるのも事実です。ははは。

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2007.04.03

ドライ・デン(天然素材100%猫砂)

Img10122602531 年度初めでして、なんだかとっても忙しく、どうにもならないので今日は軽いネタで行きましょう。とは言っても、実は重いんです。だって15キロもあるんで。
 以前、究極の?猫トイレという記事を書きました。あのシステムは今でも稼働中でして、やっぱり自分としてはあれが究極だと思います。手入れも楽だし、臭わないし、散らからない。
 で、あの時は猫砂として「ナチュラル100」というのを使っていると書きました。今でも使っています。濡れると固まるんじゃなくて、濡れると粉(おがくず)になるタイプです。その粉がスノコ板の下に落ちるというわけですね。
 で、その「ナチュラル100」はとっても優れものなんですが、だいたいネットで注文しますと、8リットルで1000円弱します。それほど高い買い物ではないんですが、まあ消耗品ですからね、安いに越したことはない。でも、類似品もほとんどなく、ここ数年はそれを使い続けていたわけです。
 ところが、最近ほとんど同じものでメチャ安な製品を見つけちゃいました。それがこの「ドライ・デン」です。24リットルで送料込み2100円ですから、かなりお得です。24リットル、15キログラムが一袋にドカッっと入っていますので、ちょっと置き場に困るんですけどね。それでも、無造作にその辺に置いておくとですね(ちなみに今は運ぶのが面倒で玄関に置きっぱになってます)、天然のパイン材の香りがなかなかによろしい。自然の芳香剤にもなりますよ。
 粒々の大きさや外観も「ナチュラル100」とほとんど違いませんし、機能的にも全く遜色ありません。芳香はこちらの方が強いくらいです。なになに?素材は松の木ともみの木、そしてゼオライトか。ゼオライトと言えば地力増進とか環境浄化に活躍している鉱物ですな。
 それにしても、このいかにもアメリカンな猫砂、日本では猫砂として売ってますが、どう見ても袋の絵は馬ですよ。ってことは、馬のトイレか?と思ってよく見ますと、「ANIMAL BEDDING」って書いてある。ありゃ?これってつまり、動物の寝床用ってことでしょ?なんだ、本来はトイレじゃなくて、ベッドなんだ。こいつも大量に敷き詰めて、その上に馬が寝るってことですか。へえ〜。
 というわけで、これ一袋でおそらく半年は持つでしょう。おがくず状になったものは、燃えるゴミとして出せますし、庭に埋めてもいいようです。とにかく、尿の臭いは全然しませんからね。優れものですよ。猫を飼っていらっしゃる方で、トイレにお悩みの方は、ぜひウチの究極の猫トイレをまねてみて下さい。

天然素材100%猫砂 ドライ・デン 4ヶ月分 24リットル入り (15kg)

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2007.04.02

『怪奇大作戦 セカンドファイル』(NHKハイビジョン)

第1話「ゼウスの銃爪」
Kaiki2nd_02 楽しみにしていた『怪奇大作戦 セカンドファイル』が放映されました。期待通りの出来の良さに満足いたしました。
 伝説の名シリーズ「怪奇大作戦」、昭和43年から44年にかけて放映された社会派特撮ドラマです。監修は円谷英二。監督陣は飯島敏宏、円谷一、実相寺昭雄、鈴木俊継ら、ウルトラシリーズでも大活躍したそうそうたる方々。脚本も上原正三、金城哲夫、佐々木守、若槻文三、市川森一、福田純、藤川桂介、石堂淑朗…こりゃすごいな。音楽監督は山本直純。音楽は玉木宏樹。キャストは勝呂誉、原保美、岸田森、松山省二、小橋玲子、小林昭二ら。社会問題を特撮という手法でデフォルメ・強調した内容で、今でも根強い人気があります。
 このシリーズの中心的存在であった実相寺昭雄さんは、いつもリメイクしたいと考えていたようですが、なかなか実現しませんでした。それが今回38年ぶりに実現したというわけです。実相寺さんは昨年亡くなってしまい、なんともタイミング的には皮肉な結果となってしまいましたが、生前から円谷プロとNHKとリメイクについて話を進めていたとのこと。したがって、このセカンドファイルのシリーズ構成は実相寺昭雄のクレジットとなっています。また、味のある題字も彼の手によるものです。
 今回は全3作が製作され、今月月曜日の夜10時からハイビジョンで放映されることになっています。今日はその第1回だったわけです。舞台は現代。SRIなどの人物設定は当時のまま。キャストは次のようになっています。
Kaiki2nd_01牧史郎:西島秀俊
三沢京介:田中直樹(ココリコ)
野村洋:青山草太
小川さおり:美波
的矢忠:岸部一徳
町田大蔵:寺田農
 旧作の熱狂的なファンにはもしかすると違和感があったかもしれませんが、私のような者にとっては、これはこれでなかなか良かった。やはり、岸部一徳と寺田農の存在は大きいですね。彼らがいるだけで、なぜか円谷ワールド、実相寺ワールドになるから面白い。その他若手もなかなかいい味出してました。私としては私と娘が共演した?ウルトラマンマックスの青山草太くんが出てるのがちょっと嬉しいっす。
 脚本もとても良かったと思います。政治的な問題や、死者の人権の問題、マイクロウェーブ兵器の問題、親子の問題などを上手に盛り込んで、いかにも怪奇大作戦らしい深くて重い雰囲気を出していましたね。映像的にも非常に安定していて良かった。監督さんは「呪怨」の清水崇さんです。さすがだな、という感じでした。ところどころ、ちょっぴりですが実相寺風味も出していました。畏敬の念をこめてのことでしょう。CGも適度な使用状況でよろしい。やりすぎを心配したんですが、その辺はさすがNHK。必要なだけ手間をかけて、という感じですね。
 あと2回放送されるんですが、このあとの監督さんもなかなかすごい。来週は実相寺昭雄さんのまな弟子北浦嗣巳さん。再来週は私も大好きな中田秀夫さんです。期待できますね。
 ちなみに見逃した方、今月30日の深夜から4夜連続で、旧作の名作選とともに再放送されますので、ぜひご覧下さい。いやあ、旧作の名作選楽しみだなあ。ウチには「京都買います」しかないので。

NHK公式

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2007.04.01

『さくらん』 蜷川実花監督作品

Sakuran2 今日はエイプリルフールにちなんで、ウソとマコトの映画を観てきました。いろいな意味で興味のあった映画でしたが、なんか映画を観たぞ〜という実感はありません。でも、非常に面白かった。もう一回観てもいいかな、あるいはDVD買ってもいいかな、と思います。
 ちまたでは結構酷評されているようですが、たしかに映画的な視点、それも映画ファン的、映画マニア的視点からすれば、ルール違反や「空気読めない」ふるまいがいろいろあるでしょうね。普段は私もそういうことを思って上映中集中力を欠いてしまうタイプなんですが、今回はそれを上回る「違う」興味がありましたからね、2時間があっという間でした。
 え〜、まずストーリー的な感想はこちらに書いた通りです。つまり、安野モヨコの原作マンガを上手にシナリオ化していたと思いますよ。印象に不自然な点はなかった。あえて言えばラストがベタすぎましたね。でも、あれはハッピーエンドではないでしょ。観客の何人がそれに気づいたか。もう少し示唆があってもよかったのでは。最後に散った桜の木を映すとか(もっとベタか…笑)。
1001120_02 さて、次はっと、え〜キャストに行きますか。これもまたお見事でしたね。原作モノで、これほど自然なキャスティングは初めて。土屋アンナ、木村佳乃、菅野美穂、椎名桔平、成宮寛貴、永瀬正敏、安藤政信、夏木マリ、石橋蓮司、市川左團次…どなたも完璧。正直やられたと思いましたよ。個人的には、土屋アンナもはまり役だったと思いますし、木村佳乃も良かったなあ、思わずドキッとする「女」でした。男性陣もそれぞれ妙に「男」っぽかったし。特に私ごひいきの安藤政信は、抑制された深い演技で、見事清次の内面を表現していました。さすが!清次、実は一番ワルの男だったりして。そんなことさえ感じました。
 続いて映像面。美術も含めて。私は良かったと思いますよ。映像の構成がうまい。特に静止した空間や時間の表現はいい。さすが写真家さんですよ。私は本当に一場面ずつなめるように見回しましたけど、細部までよくこだわってました。それがまたとっても超時代的でして、今考えるとモダンだったりポップだったりしてるわけですけど、でも全然不自然じゃなかった。もともと夢物語的映画ですから、それでいいと思いました。時代考証とか言うのは、それこそ野暮でしょう。粋じゃないっす。
 そう、全体として、映画的流れは全然なってないと思いますよ。でも、一場面一場面の迫力や壮麗さや芳香みたいなものは抜群だった。ああ、こうして2時間見せてしまうというのは、これはエンターテインメントとしてありだな、と思いました。だから、もう一度観たいシーンがたくさんあるんですよ。あの木村佳乃の目を観たいとかね(笑)。
 それにしても、冷静に考えると、あの色彩豊かな世界を、モノクロのマンガで表現しちゃうってすごいですねえ。安野モヨコ、というか、マンガのすごさですよ。いや、そこに色彩を感じる人間のすごさかな。
 さてさて、大事なことを忘れてはいけませぬ!そう、音楽です!こちらこちらで散々期待させられてましたからね。私の興味の3割くらいはそっち行ってました。結論、一部場違い感なきにしもあらずでしたが、全体的には映像の虚構性とマッチしていたのでは。スクリーンに椎名林檎姫まで登場していた錯覚に陥ってます。それほど彼女の音楽の存在感が大きいということでしょうし、その虚構的雰囲気が映画を超えちゃってたってことかもしれませんね。あと、ヴァイオリンってやっぱり色気の楽器なんだなと。私ももっとエロっぽく弾かなきゃって思いました。ネコさん、なかなかスケベで良かったっす。長谷川きよしさんと思われるギターも熱かった。みんな大人の色気だなあ。
1001120_03 さあ、長くなりますが、観賞中ずっと考えてたことを最後に。さっきも「虚構」という言葉が出ましたが、今までも「モノ・コト論」の中で書いてきたとおり、フィクションは「コト」で、ファクトは「モノ」であります。虚構は人間の頭で処理されたこと。事実は私の存在とは無関係のところにある「モノ」です。遊女たちや客たちは、本来「コト」を楽しむわけですね。虚構です。しかし、そこに時々「本気」が侵入してしまう。いけないと分かっていてもはまってしまう「モノ」です。そんな時、彼女らは「マコト」という言葉を使うんです。あれ?それって本当の「コト」っていう意味じゃないの?真実じゃないの?なのに「モノ」なの?そう思われるでしょう。矛盾してると。
 いや矛盾してないんですよ。これもいつか書きましたが、世の中に変らない「マコト」というのは一つしかないんです。それは世の中が「モノ」で出来ているということ。つまり、世の中思い通りにいかない、常に変化して当たり前ということだけ、それだけが「マコト」=真実なのです。それをお釈迦様も発見したし、いにしえの日本人も「もののあはれ」として大切に考えました。だから、遊廓のように「コト」を徹底して、経済にまでしようとすればするほどに、そこに闖入してくる「モノ」が際立つんですね。あるいは無意識にみんな「モノ」を欲するようになる。
 それこそが、廓の楽しみなんだな。恋ってやっぱり「モノノケ」なんだな。「もののあはれ」ってそういうことか。人は因果なもので、「コト」化を押し進めようとシゴトにいそしむけど、結局「モノ」を求めている、そんな逆説の中に生きてるんだな。と一人合点しながら観てました。そうするとラストもよくわかる。その先に「死」が見えてくるわけです。うがちすぎかなあ。
 それにしてもですねえ、観客が女性ばかりで驚きました。男は私一人だったのでは。私は一人で観に行ったんですが、最初のうち妙に恥ずかしい気持ちになってしまい、極度に肩が凝りました。ま、最後はまるで遊女に囲まれてる気分になってましたが…(笑)。

映画公式

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