« 『ことばの歴史学』 小林千草 (丸善ライブラリー)〜なにげに | トップページ | 『ぷちナショナリズム症候群』 香山リカ (中公新書ラクレ) »

2007.03.21

『日本語力と英語力』 齋藤孝+斎藤兆史 (中公新書ラクレ)

Wsaitoh 今日から進学合宿というヤツに突入いたしまして、私もじっくり勉強させていただいています。そこに明治大学に通っている卒業生が遊びに来まして、私がこの本を読んでいたら、「あっ、齋藤孝だ」と。で、私も「そう、齋藤孝だよ」と。二人顔を見合わせてニヤッと笑いました。その笑いの意味はご想像下さい。まあ、彼にとっては先生でしょうし、私にとっては高校の先輩ですからね。お互いよく知っているわけでして…(笑)。
 さて、この対談集、現今のコミュニケーション重視のおバカな英語教育に苦言を呈するもので、そういう意味では、けっこう楽しく読ませていただきました。うすっぺらな会話表現なんてやらないで、型たる文法学習や名文の素読をやりましょう!それから、まずは国語教育でしょう!というヤツです。
 特にもう一方の「サイトウ」さん、新字体の斎藤さんの、英語教育研究者としてのお言葉には説得力がありましたね。私はこちらのサイトウさんについては、今まで存じ上げませんでした。そして、新字体さん、旧字体さんとは違って大変謙虚な印象を与えます。いや、けっこう強い調子で現状を批判しているんですけどね、なにしろ、旧字体さんがすごいもんで(笑)。
 対談なのに旧字体さんのしゃべくり、多すぎますよ。それも、若者の「オレさま症候群」を憂慮しておきながら、「齋藤メソッド」や新作?の「先生増殖方式」を力説する際には、いかに素晴らしい成果を挙げているかを興奮して語った上に、「今すぐ文科大臣になってこれで日本中を変えたいくらいですよ」なんて言っちゃうんだもん。ちょっと引きます。
 さてさて、英語教育に関して、最新の私の実感を少し書いておきましょう。
 最近、何人かの教え子が恐ろしいほどに英語ペラペラになって帰ってきました。そいつらは何年か向こうに行ってたんですね。で、面白いのは、そいつらみんな高校時代英語ダメダメ生徒だったってことです。お前英語赤点だったじゃん!って何回笑ったことか。で、反対にセンター試験て満点近くとって、外語大に行ったヤツが今どうかというと、全然ペラペラじゃなかったりする。つまり、英語がペラペラになるためには、向こうに何年か住めばいいということです。ただそれだけ。そこには偏差値もセンスもあまり関係ありません。あえて言うなら、向こうで一人でやっていける、そういう精神力…いや、彼ら彼女らを見てると、いい意味での子どもっぽさ(ほめことばですからね)が必要なんです。つまり、大丈夫かなあとか、恥ずかしいなあとか、そういうことをあまり感じない性質ですかね。妙な積極性とか楽天性。それ最強です。違う言い方をすると、子どもが母国語を学んで行く過程と精神状態を大人になってもできる、そういう性格ですよ。
 こうした実例を見ると分かるんですが、文科省が唱える方法が有効な場合もあるし、両サイトウさんが唱える方法が有効な場合もあるんですね。残念ながら、やはりいろいろありなんです。逆に言えば、旧字体サイトウさんのように、「私のやり方でやれば、全ての子どもが喜び、そして伸びる」という、ある種の原理主義的な発想はいかんと思うのです。
 ちなみに私は旧字体的国語教育にはなじみません。なにしろ、生来暗唱が大の苦手でして、国語の先生なのに、有名作品の冒頭部分すら全く覚えられません。また、サイトウさんたちの言ういわゆる名作もほとんど読んでいません。まあ、それでも、いやそれだからか、国語のセンセイなんてのもそこそここなしてるし、こんな駄文も毎日書けるわけでして、事態はそう単純なものではないということです。
 学校というところは、そういういろいろなタイプの生徒が(先生も)混在しているのが当たり前でして、それでとっても難しいことになるわけです。これこそ万人向けの特効薬だ!というのはないのです。その多様性をどうまとめあげていくか。個人と集団、それぞれのプロデュースをしなくてはならないのが、教師の仕事の難所でありやり甲斐なのでした。
 さらに難しいのは、エライ人たちの議論は、あくまでエライ人たちの議論にすぎない点です。現場の教師としても、世間の大人としてもよく分かりますが、東大に入る人は私たちとは決定的に違います。いかんともしがたい。だから、政治家やら学者さんやらの言葉や、その攻防はどうしてもあっちの世界のものにしかならない。誰も言わないので、あえてはっきり言ってしまいますが、頭のいい人が頭の悪い人の「気持ち」を考えるのは、非常に困難です。
 最後のはちょいと蛇足、いや問題発言かもしれませんが、しかし、教育の本質は、実はこの部分に存するわけでして。お分かりになりますよね。親子の関係もそうです。「持てる人」から「持たざる人」への情報伝達なわけですから。ですから、その自らと違う世界をどう観察していけるのか、あるいはその心を忖度していけるのか、私たちはそれを日々試されているわけです。それはもう学問とかメソッドとかの領域ではありませんね。
 ああ、また話がそれた上に長くなってしまった。こめんなさい。

Amazon 日本語力と英語力

不二草紙に戻る

|

« 『ことばの歴史学』 小林千草 (丸善ライブラリー)〜なにげに | トップページ | 『ぷちナショナリズム症候群』 香山リカ (中公新書ラクレ) »

教育」カテゴリの記事

文学・言語」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

 旧字体の方は、言っていることと違って、古くからのそこはかとない勉強、学問へのあこがれや幻想を打ち砕いてばかりいるように感じます。幻想を打ち砕くのはいいのかもしれませんが、あこがれまでなにやらトレーニングの次元にまでひきおろされてしまうのには同意できません。
 また、うまく言い表せませんが、彼の方法、ある種の効果があるのかもしれませんが、それで得られるものは、なにやら根本的に違っているものでしかないような気がします。自分で見つけるチャンスを生徒から奪っているという感じもします。
 同世代なのですが、最低なやつという感じがするんですね。

投稿: 貧乏伯爵 | 2007.03.22 13:31

伯爵様、私も全く同意見です!
私の感覚からすると伝統へのボウトクに近い。
それに疑問を抱かない大衆も困ったものですね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.03.22 21:01

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55913/14347571

この記事へのトラックバック一覧です: 『日本語力と英語力』 齋藤孝+斎藤兆史 (中公新書ラクレ):

« 『ことばの歴史学』 小林千草 (丸善ライブラリー)〜なにげに | トップページ | 『ぷちナショナリズム症候群』 香山リカ (中公新書ラクレ) »