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2007.03.31

レミオロメン&吉井和哉@僕らの音楽(フジテレビ)

Ry_1
 感無量です。夢のコラボレーション。昨日の夜放送されたフジテレビ「僕らの音楽」を観ました。
 これはですねえ、いずれあるだろうなあ、とは思ってましたが、こういう形で実現するとは。御坂峠をはさんでのコラボレーションですね。
 「楽園」ですよ!「楽園」。「楽園」をレミオロメンがテレビで演奏するなんて誰が想像したでしょう。もちろん、そこには吉井さんもいるわけです。レミオロメンの伴奏で吉井さんが歌うとも言えるわけでして、これはすごい事態だ!
 結果、ものすごく感動してしまいました。いろいろな思い入れが私の心に交錯しましてね、ちょっと涙ぐんでしまった。おいおい、泣くなオジサンよ。
 泣くと同時にドキドキしました。たとえは悪いかもしれませんが、プロレス夢の対決みたいな感じでしょうかね。憧れの馬場さんと初対決する新崎人生って感じかな(マニアック)。だって吉井さん、仏様みたいだったもん!慈愛のまなざしで藤巻くんを見守ってました。ああ、彼も大人になったなあ。
 ここからはちょっと分析的に行きましょうか。冷静になろうではありませんか。
 まず、吉井さんから。先ほど書きましたように、今回は仏様に徹している感じでしたね。つまり先輩レスラー…いやいやシンガーとして、相手に合わせ、相手を活かしつつ、適度に自己主張もしていた。御本人も「楽園」をテレビで歌うということに特別な感慨があったと思いますよ。それもバックがレミオロメンですからね。数年前、こんなことを想像できたでしょうか。う〜む、縁ですなあ。髪の毛が黒いのには事情がありますけど、それはナイショね。でも、そこも含めたファッション全体を見ても、今回に臨む彼の心の内が伝わってきました。
 さて、続いてレミオロメン。まずは藤巻くん。私、こんなロッカーな藤巻くん初めて見ましたよ。ノリもパフォーマンスもいつもの彼と違って、そうねえ、やっぱり仏様の掌の上の孫悟空って感じっすか?生かされてましたよ。トークの中で「JAM」の話が出てましたけど、たとえば「JAM」を歌った方が無難だったかもしれない。でも、あえて「楽園」を選んだのは正解でしたね。彼の吉井さんへの熱い気持ち(月並みですが)が伝わっていました。ここのところ、「作られた音楽」の話をすることが多かったんですけどね、やはりこういう魂の叫び、真情の発露である歌は心に響きますよ。緊張していたのも分かりますし、一生懸命練習してきたのも分かりました。それらも含めて、ベスト・パフォーマンスであったと思います。GJ!
 次は…えっと、前田くんにしよう。彼のベースのうまさも光りましたねえ。彼はもともととっても器用なベーシストですし、こういうロックなグルーヴ感こそお得意分野なんですよね。イエモン広瀬さんはものすごく個性的でパワフルな素晴らしい演奏家なんですが、そのヒーセ節をトレースしつつ、前田くんらしさもよく出ていたと思いました。彼、こういうのやりたいんだよな、きっと。ものすごくいいプレイでしたよ。もともと彼のことカッコいいと思ってましたが、この演奏ではさらに輝いて見えましたし聞こえました。
 さて、さて、そうするともう一人神宮司くんですね。彼のドラミング、最近私は高く評価するようになったんです。ある意味女の子ドラムという感じでね、音自体が軽いんですけど、レミオロメンの楽曲ではそれが功を奏していると。ドタバタ叩きたがるドラマーが多い中で、ある意味抑制の効いた冷静なスティックさばきですよ。誰かに「装飾」とか言われてましたけどね、そういうドラムって珍しいじゃないですか。リンゴ・スターっぽいかもな。バンドの中の立場的にも。リズムは優秀なベーシストにお任せしてね(笑)。で、彼がイエモンを叩くわけですから。これは見物聞き物です。結果発表!神宮司くんは何を叩いても神宮司くんでした!おめでとうございます!いやあ、素晴らしい。「楽園」ですよ「楽園」。あの曲でも自分のスタンスを崩さないなんて。正直ほれました!前田くんのアプローチとは全然違う。不器用なのかもしれないけど、そんなところが萌え〜。たしかにカワイイわ(いかんいかん)。
 と、こんな感じでしてね、非常に濃厚な4分間でした。ほかの部分、つまり誰かさんとの対談(藤巻くん、27日も来てたんだ武道館)やら3月9日やら茜空やらの記憶はほとんどありません(笑)。でもホント楽しかったし、夢のような気分になりました。ありがとね。
 そんなわけで、御坂峠の合戦?に刺激を受けて、さっそくかの地を訪れてきました。2週間後に「第2回レミオロメン聖地巡礼の旅」が控えてるんですけど、今年はあったかくて花が早い早い。ちょっと見てきましたけど、もう桜は満開。こぶしや菜の花も満開。桃も場所によってはすでに満開のところもありました…orz。なんということだ。気温よ下がれ!という感じです。

vlcなどでご覧下さい

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2007.03.30

『永平寺 修行の四季』(NHKハイビジョンスペシャル)

Eiheiji 久々に10時間以上寝てしまいました。普段は4時には起床するのに(昨日は3時でした)、今日は6時過ぎまでぐーたら寝てました。いかんいかん。
 懐石料理というのは、元々禅の文化であります。空腹をしのぐために石を抱いたとも言われております。日常から禅に興味を持ち、頭も丸めて一日一食を実践している私としては、なんとも煩悩にまみれた為体な時間を送ってしまいました…なんてね。
 ま、そんな反省に基づいたのかどうか知りませんが、小田原で家族と別れ、足柄山で鴬の初音を聴きつつ帰宅した私は、先日録画しておいた「永平寺 修行の四季」を観ました。
 以前、こちらで永平寺の104歳の宮崎禅師の番組について書きましたね。そこにもあるように、教え子が永平寺に修行に行ったんですが、さて彼はもう帰ってきたのでしょうか。それとも何かにめざめて、まだお山にいるんでしょうか。
 この前、お寺でコラールを弾いた時、そこの御住職(6年修行)と、もう一人教え子(8年修行)から修行中のエピソードやら何やらをお聞きしたんですが、私にはとてもとても耐えられない世界ですね。しかし、彼らは別に1、2年で帰ってきてもいいのに、そうやって何年もお山を下りなかった。なんで?と聞くと、「いろいろあるんですよ」ということなんですが、きっとやはり何かあるんでしょうなあ。それを体験してみたいような気もしますが…やっぱり無理だ。
 というわけで、この番組、再放送で私も観るのは2回目なんですけど、う〜ん、こちらの気持ちも引きしまりましたね。入山の春から、下山の春まで、永平寺の雲水の生活を1年間にわたって追ったドキュメント。毎日坐禅と作務と読経に明け暮れる日々。全ての作法を覚えるだけでも大変そうです。
 しかし、ある意味作法というのは、縛りであるとともに守りでもあるのではと思いましたね。作法の通りやっていればいいという意味でもそうですが、それ以上に「型」に自分をはめこむことによって、自分を捨てることができるのではないかと改めて感じたのです。番組の中でも何度も語られていました道元の心…本来の自分(仏性)に出会うためには、自分を捨てなければならない。身心脱落…自分を知るためには自分を忘れなければならない。型にはまり同じことをすればするほど、外から見るとその人その人の個性が表れるというのは、修行に限らずいろいろな分野で見られる真実です。
 本来の自由というのはなんなのか。教育現場にいる私も常に考えるテーマです。教え子の和尚が、茶碗に注いだお茶を指さして言ってました。「これです」って。なるほど、時間が経つと茶葉は底に沈んでゆき、うわずみの透明度は増してきます。心が静かになれば、その底の本質が見えてくるわけです。もしかすると、その状態が自由なのかもしれない。解放されているかもしれない。心がざわついている内は、結局何かにとらわれているということでしょう。
 出口光さんの言う「魂」というのもそのことでしょう。出口さんの語る「魂」もまた、コロコロと変る「心」の奥の不動のものです。そして、それは結局他人との関係性の中に見えてくるものです。なるほど、彼の哲学も禅の思想に近い。というか、なんでもつきつめれば一緒ということでしょうね。
 というわけで、いろいろと考えながら番組を観ていまして、やはり自分にはこの生活はきついなと。こうしてヴァーチャル修行するのが精一杯だなと。私とってもずるくてですねえ、「座るだけが修行ではない、生活の全てが悟りへの道である」という禅宗の教えに甘えて、日常から抜け出そうとしないんですよ(笑)。まさに野狐禅そのもの。いや、野狐に失礼かもしれないなあ。
 そんなことを思っていたら、いつのまにか夜になってしまって、テレビを再びつけましたらね、「にんげんドキュメント」の最終回が始まりました。最終回の「にんげん」はあの「ノッポさん」高見映さんでした。これがまた魂にしみた。いろいろな苦労や苦悩を経て、人間、動物、植物だけでなく、石ころや砂や土にまで愛着を感じるようになったノッポさんのその姿に、私は一つのヒントを得ました。ああそうか、やはり「天命」を全うすべく、自分のやるべきこと、やれることに「なりきる」。それをとにかく続けることなんだな。人との縁を大切にして自分を忘れることも重要ですが、最後の最後は、自分の魂の声に従うべきなんだ。そこは譲ってはいけないのかあ。なるほど。
 ふぅ、明日から頑張ろうかな。いや、4月1日からにしようか…そんなこと言ってるうちは、やっぱりダメですね…orz。

Amazon 永平寺 「104歳の禅師」・「修行の四季」

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2007.03.29

京ゆば懐石『山翠楼』(奥湯河原)

デジカメ忘れたので、写真はホームページより拝借
Sansuiro1 例年ですと、この春休み期間には、カミさんの実家のある秋田へと旅するのですが、今年はちょっと事情があって私は富士山に居残りです。
 その代わりと言ってはなんですが、本日は家族、そして私の両親、姉とともに、奥湯河原の温泉宿に来ております。いちおう名目は両親の金婚祝いということだそうですが、実際はまだ50年経っていないとか。もうこのくらいになっちゃうと正確なカウントなんてどうでもいいわけで、まあ元気なうちに済ませておいた方が何かと後悔がないだろうということですね。
 そんなわけで、今回は普段では絶対に泊まれないような高級旅館にですねえ、両親を招待したのです。京ゆば懐石『山翠楼』です。きっと私もこれが最初で最後…いや、あるいは自分の金婚の時にもう一度あるかもしれない…まあいずれにせよ、思いっきり贅沢をしておりますです、はい。
 う〜む、なんかうまく説明できないけれど、とにかく最初からすごかった。車を駐車場に入れるのも、荷物を運ぶのもみんな誰かがやってくれる。こんな経験当然初めてなので、なんか挙動不審になってしまったっす。
 車で正面玄関に乗りつけたと同時に、番頭さんみたいなイデタチのおじいさん方(!)が数人走ってこられて、車を取り囲むんですから、そりゃあ動揺しますよ。鍵も荷物もそのままで降りろ、ということですから、こりゃあ新手の強盗かと思いましたよ(笑…失礼)。
 門をくぐると、写真のような大広間で上品な女性の皆さまがお出迎えくださいます。なんか、いい香りがします。う〜なんとも言えない非日常空間。その後お茶をいただいてから部屋へ案内されました。第一、部屋がいくつあるんだ?これ全部使っていいの?という感じです。私たち庶民は、比較的安いお部屋、それも特別料金の時期を狙っての利用ですが、それでもこれだもんなあ。
 さっそく浴衣に着替えて、くつろぎモードへ。うむ、ホテルなんかにゃあ、もう泊まりたくないよ〜。日本人は旅館でしょう。
 しばらく景色などを眺めた後、さっそく温泉につかりに行きました。温泉のことはあんまり詳しくありませんけど、なんかそこらの健康ランド的温泉とは、何かが違うような気が。たぶんその何かとは「気分」だと思いますけどね。露天風呂にもちょっぴりつかって部屋に戻り、さあ夕食の時間です。
Sansuiro2 お食事部屋に移動してみますと、そこにも非日常的空間が広がっていました。えっとえっと…何を食べたっけ?あんまりおいしくて忘れちゃいました。てか、ここで紹介しても、きっと皆さまの舌と胃を満足させることができないどころか、おそらくマイナスの感情を引き起こしてしまうでしょうから、ナイショにしときます(すみません、今日はちょっとやなヤツにならせてください!)。
 とにかつですねえ、「京ゆば懐石」というくらいですから、そういうお料理なんですよ。懐石とは言っても、一般向けにしてありますし、こちらも懐石の作法なんか全然知らないわけでして、まあ、ゆばや当地の海や山の幸を中心にした高級な和食ということです。ああ極楽。途中、品格漂うおかみ直々のご挨拶などもあり、気分はさらにセレブ!?
 そして、お酒はこちら「山翠楼」オリジナルの「吟醸純米 海石榴(ざくろ)」をいただきました。一人で五合くらい飲んじゃったな。口当たりがとても滑らかで軟らか、吟醸香も控え目でして、比較的地味な味わいの料理とうまい具合にマッチしていました。ちゃんと考えられてるなという感じ。至福の時間だなあ…。
 と、そんなこんなで、とっても幸せな気分のまま、私はなんと8時に就寝してしまいました(この記事は翌日書いております)。これもまた、なかなか味わえない幸せですね。ああ、生きてて良かったっす。あっそうだ、いちおう両親におめでとう、そしてお疲れさまと言わなくては。この至福を再び味わうために、ワタクシたちも気合いで50年つれそいましょう。ちょうど昨日で丸9年たちました。あと41年(笑)。がんばるぞ〜!

山翠楼

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2007.03.28

Salyu(+小林武史&一青窈) 『TERMINAL』

Terminal 素晴らしいアルバム。感動的だったデビューアルバムよりいい出来です。ずばり名盤だと思います。でも、そう言い切ってしまう自分のセンスに、最近自信が持てないんですよ。これは本当に感動的な音楽なのだろうか。いい音楽なのだろうか。ただ、どうしようもなくこういうのが好きな私がいるんです。小林武史という音楽家は本当に罪なヤツです。
 実はですねえ、小林さんにとっては名誉なことかもしれないんですが、こういう個人的な不安というのは、ビートルズに対しても持っているんです。あの、ビートルズにですよ。神に対する不信感ですよ。いや、そんな下衆の直感はすぐに忘れればいいんで、そうすれば、やっぱりいいなあ、と思えるんです。でも、なんていうかなあ、どこか作られた感じがする…ちょっと違うなあ、なんだろう。
 確信犯っていうのかなあ。最初から名作を作ろうというのが見え見えなんですかねえ。体の奥底とか魂の中心とかから、衝動的に生まれるべきモノなのに、そうじゃなくて頭の中で作られた音楽のような気がするんですよ。失礼かもしれませんが、ちょっと最近そういうことを感じるようになってきたんです。
 私のいつもの言い方ですと、「モノ」じゃなくて「コト」の音楽なんですね。ものすごくよく造形されているし、それはある意味職人的であり、お見事!と言いたい音楽です。そのへんに溢れる商業的なゲテモノとは比較にならないほど、クオリティーは高いですよ。でも、何かが足りないような気もする。
 小林さんの仕事って、どこかデジタル的な感じがするんですよ。いや、音自体は昔も今もアナログチックですよ。そういうことではなくて、なんていうかなあ、完璧すぎるというか、ある種無表情な感じもするんです。
 ちょっと話がSalyuさんからそれちゃいますけど、あのレミオロメンの「HORIZON」なんか、まさにそのサンプルのような感じですよね。彼らの生々しい、粗削りだけれど心のこもった詞や曲や演奏が、小林さんによって見事にソフィストケイトされちゃいましてね、なんか魅力が半減してしまった。
 今思うと、ミスチルもそういう感じが強い。彼らのもともと持っていたフォーク色のような、そうやっぱり田舎臭さかな、それが全くなくなってしまった。まあ、だから売れたんでしょうけど。サザンの桑田さんみたいに、コバタケ以上の個性があればね、ちょうどいい具合になるのかもしれませんけど。
 さて、話はようやくSalyuさんに。相変わらず彼女の声は魅力的ですし、うまいと思います。でも、だからと言って、心に響いてくるかというと、ちょっと物足りないとも言えます。72分間、彼女は一生懸命歌い続けます。曲がいいですから、決して飽きたりしないですし、ある意味快感を与えてくれますが、涙が出るほどではないんですね。まあ、最近美空ひばりとか聴いてるからかなあ。もっといろいろな表現があってもいいような気がするんです。
 言葉と歌の最も幸せな共同作業という意味において、全然こっちに来ないんです。それって、まさにひばり節に実現してるんですけどね。だから、Salyuの声は楽器のようにしか響かない。一青窈の書く詞(詩)の世界はなかなか良いと思いますし、何度も言うようにコバタケの曲も完璧なんですけど、それぞれがバラバラな感じがするんです。
 難しいところですね。私は偉そうなことを言える立場ではありませんが、小林武史という人は本当にアーティストなんでしょうか。本当に大好きですし、尊敬してるんですけど、なんで最近の私はこんなことを思うんでしょうねえ。
 ん?やっぱり、歌い手の消化不良なのかな。急にそんな気がしてきました。楽曲に負けてるのか!そうかもしれないなあ。んんん…名盤なのに、なんでこんなに苦しいのだろう。
 しかし、確実にSalyuは前に向かっているとも思うのでした。「故に」に聞こえてくる、よな抜きな響きは、意外にも彼女にマッチしていました。ああいう曲をもう少しひばりさんみたいに唄えたらなあ。なんて、酷な要求ですかね。
 まあ、とにかくめちゃくちゃクオリティーの高いアルバムですから、じっくり聴いてみますよ。そして、感じたり考えたり、自分なりに頑張ってみます。自分も音楽表現者のはしくれとして、避けて通れない部分ですので。

Amazon TERMINAL

「トビラ」フル試聴

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2007.03.27

追悼 植木等

Ueki23 ああ、また昭和の天才が…。昨年、映画のロケでのお元気な姿を見ていただけに、まさかこんなことになるとは。クレージーキャッツの皆さんや青島幸男さんのところへ往かれたんでしょうか。
 本当に頭のいい方だったようです。そして人格的にもものすごい紳士だったとか。その方が無責任男を演じ続けたというのは、実に象徴的なことでした。
 皆さんご存知のように、植木等さんはお寺の息子さんです。浄土真宗のお寺さんだったと思います。「わかっちゃいるけどやめられない」は、まさに当時としては破格であった妻帯・肉食を憚らなかった親鸞につながりますね。ただただ禁欲的になるのではなく、そうした人間の本質をしっかり見つめた上での信仰、修行ということでは、植木さんもまた、現代の親鸞であったのかもしれません。大袈裟ではなく。
 私には残念ながらクレージーキャッツの思い出はあまりありません。私にとっては、石井聰互監督の「逆噴射家族」と、ドラマ「オヨビでない奴!」の植木さんが、最も強いイメージを残しています。「逆噴射家族」でもメチャクチャなおじいさん役でした。彼の登場によって、家族それぞれの欲望や煩悩が逆噴射しはじめるわけで、考えようによっては、これまた親鸞的なのかもしれません。「オヨビでない奴!」と言えば、伝説の美少女磯崎亜紀子と、バイク事故で夭逝したアイドル高橋良明が主演した人気作です。植木さんは、ここでもまた、ハチャメチャなおじいさん役でした(ちなみに父親は所ジョージ)。なんとなくの記憶しか残っていませんが、植木さん扮するおじいさんの無責任さが、結局はいろいろな問題を解決して行ったような気がします。このドラマ、タイトルからわかりますように、実は植木等さんが主役だったのかもしれません。第1回のタイトルも「コリャマタ失礼しました」でしたし、毎度一回は植木さんの持ちネタが出ていたと思います。
 「無責任」というのも、ある意味では我執を捨てている境地とも言えます。人任せというのは、結局のところ「縁」にまかせるということであり、これもまた、お釈迦さまの教えの通りなのかもしれません。今、「自己責任」ということが盛んに言われていますが、実は今こそ「無責任」ということの大切さについて考えるべき時なのかもしれませんね。
 とりあえず今から、ウチにある「逆噴射家族」を見直してみます。ご冥福をお祈りいたします。

Amazon 逆噴射家族 オヨビでない奴!

スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~

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2007.03.26

アニメと民芸

Chorda 3月に入ってからハチャメチャなスケジュールで、すっかり疲れ切ってしまいました。それでも、いちおうハッタリの連続技で難局を乗り切りまして、今日は帰宅後は久しぶりにまったりいたしました。
 さて、じゃあこの期間に録りためたテレビ番組でも観ようかと思いまして、HDDレコーダーの電源を入れました。えっと〜、ライヴ番組もいろいろ録ったっけな。でも、ちょっと時間がかかりそうなので、これらは後回しにして…と。これもちょっと重そうだな、今日は無理だ。あっそうだ!マイメロの最終回観なきゃ。
 根っからのアニメ苦手な私ですが(ホントですよ)、唯一欠かさず観たのがこのマイメロでした。ちょっと後半、作り手の皆さんに余裕や意欲がなくなっているのが、画面から伝わってきてましたけど、基本的には大変楽しめました。マイメロのテーマは人間の「嫉妬心」でしたね。そして、「近づきすぎると不協和音になっちゃう」、これです。柊兄弟なんか、その典型でありました。そして、不協和音が解決する瞬間の美しさ。これはですねえ、例えば昨日のコンサートにおけるバッハの音楽なんか、ほとんどそれで出来ているわけでして。うむ、なかなか深い。
 さて、それに続きまして、日曜の夜中に毎週録っている、NNNドキュメント、プロレスリング「ノア」、ジャパネットタカタの連続技でも観るか…。と思って再生したら、あららららら、なんとチャンネル間違えてるし!!テレ東じゃないか〜!うわぁ、なんだこりゃ。これが噂の深夜アニメか?
 ん、なんかクラシック音楽ネタのアニメだぞ。どわぁ!バロック・チェロだって?!たしかに足がない。しかし、弓の持ち方がガンバだ!(笑)!ん、なかなかマニアックだなあ。このバッハの無伴奏のアテレコ、誰が弾いてるんだろう。たしかにガット弦の音がしているような…。あとで調べましたら「金色のコルダ」というアニメでした。全然知らん。これもまた最終回ということで、なんかいろんな楽器の演奏シーンが。なんかよくわからんがヒロインの清楚なヴァイオリンに感動してしまった(笑)。
Manabi で、続いてまた初めて観るアニメが。えっと、「がくえんゆーとぴあ まなびストレート!」…なんじゃこりゃ。最初幼稚園ものかと思ったら、ええ〜これ、高校生なの?う〜む。これが典型的な「萌え系」なのか。体は微妙に成熟しているが、顔やキャラや声や動作は妙にロリである。このオタク男のコンプレックス(リアル大人女苦手症)を解放する妄想物語的世界観よ。素晴らしいではないか!正直よく分からない世界なので、一つ一つツッコミを入れつつ、分析的に観るしかないっす。う〜ん、カミさんが指摘するように、足が太いし、足を無防備に開いている絵が多い。非常に幼女的だ。触角もあるし、髪が変にてかっている。これらの記号はなんなのだろう…。
 と、まだまだ深夜の濃厚アニメタイムは続くのですが、正直びっくりしながら拝見しつつ、思ったことは…これは「民芸」だな、ということ。そう、「芸術」ではありません。まさに柳宗悦が提唱した「民芸」ですよ。大量生産され、大量消費されていく造型。
 ご近所のアニメーターの方、今や売れっ子作画監督さんにまで出世なさってるんですけど、彼女おっしゃってました。「好き、上手い、早い」は当たり前!そこから先が勝負です!う〜、かっこいい。彼女の家には、毎日定時に専用宅配業者の車がやってきます。大量の原画やらなんやらを集荷に来るんです。毎日がしめきりなんですね。もう、あるレベルで描くのはホントに当然のこと。そこから先に、彼女の個性、才能が微妙に表れるんでしょうね。柳宗悦の言うとおりです。職人的な仕事の中にこそ、本人らしさ、あるいは日本人らしさというのが表現されるのです。そして、その小さな個性が積み重なって、日本的な伝統となっていくんですね。
 だから、私はいつも言っています。「をかし=萌え」は時間を微分していく行為の上の感情です。しかし、それが積分されて、結局「あはれ」の世界になっていく。日本の伝統文化を見てみますと、ほとんどそういった流れの中にいつの間にか確乎としたものが確立していってるんですね。そして、それが外国に認められたりする。日本人はあくまで「をかし=萌え」精神?でやってますから、あんまりたいそうなことしてる意識ないんですよね。
 と、チャンネル間違いから、とんでもない文化論に行ってしまいましたが、こういうセレンディピティーも「縁」ですよね。私の中にいろいろなものが「縁起」いたしました。ありがたや、ありがたや。

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2007.03.25

『バッハ コラール・コンサート』@教会&お寺

コラール(賛美歌)に聴く信仰の形
Chorale2 う〜む、今日は濃い一日でありました。充実したと同時に、自分の心がずいぶんと浄化され、また豊かなものになりました。本当に皆さん、ありがとうございました。
 朝、昨夜呑み過ぎたせいか、私にしてはゆっくり起床。これまた珍しく朝食をとって(ちょっとですけど)、午後のコンサートの準備に取りかかりました。外は春の嵐。しかし、私たちの心はすっかり凪いでいます。共演者の渡辺敏晴さんも私も、まずはおもむろに個人練習が始まります。なぜかお互い、エレクトリック楽器で控え目に練習してるのが、なんとも不思議な光景であります。
 そして、いつのまにやら合奏モードに入りまして、結局一回合わせて「なんとかなるな」ということで休憩に。そのあと昼食をとって会場入りしました。会場でやはり一回通して練習しまして、さあ、本番に突入です。おかげさまで、多くのお客様にご来場いただきまして、約2時間、充実した演奏会ができたと思います。演奏的には多少?の瑕疵はありましたけれど、そこそこのレベルだった…かな?今回は解説つきの演奏会ということでして、牧師さまはじめ、クリスチャンの方々もいらっしゃる前で、私のような門外漢が、コラールについて、そして受難や復活について語るという状況は、緊張こそしないのですが、ちょっとこそばゆいと言いますか、妙な感じもいたしました。時間的なこともあって、勉強させていただいたことの2割くらいしかお話できませんでしたが、アンケートでは概ね好評のようでしたので一安心。
 いやあ、本当になんでも言ってみる、やってみるものですなあ。とにかく、自分の思いつきの提案を快くご理解下さり、ご協力下さった、牧師さま、そしてわざわざ遠くからいらしてくれたポジティフ・オルガンの渡辺敏晴さん、本当にありがとうございました。
 さて、今日は教会での演奏会で終わらずですねえ、なんと終演後、オルガンとヴァイオリンと、そしてコラール(!)を引っ提げてお寺に向かったのであります。昨年の秋口にも、渡辺さんと小さな演奏会をさせていただいた吉祥寺さんです。その時の模様はこちらの記事に書きましたね。今回も、子どもたちを交えての座禅のあとに演奏しました。しかし、お寺さんでコラールを演奏する日が来るとはねえ…感無量です。そういうことを許してくださる、いや、逆に「Wake up!(目覚めよと呼ぶ声…)」のリクエストをする、そんなスケールの大きなご住職様に、心から尊敬と感謝の念を表したいと思います。まさにとらわれない禅の形そのものですね。演奏会後の座禅や茶話会も充実しました。ありがとうございました。
 今日は、本当にいろいろなことを考えさせられましたね。そして感じさせられました。音楽を通じて自分を見つめることの大切さ。内側に向かう音楽というのが、最近少なくないですか?
 瞑想の手段はいろいろあるのです。音楽もありますし、座禅もあります。マントラやヨガもあります。いずれにせよ、私たち現代人は、そうした非日常的空間を作り出さないと、自分の内側をのぞくことができないのです。私たちはどうしても外に向かう生活をしがちです。極端な話、ひきこもりと言っても、ネットで人と関わろうとしたり、結局心は外に向かっているのです。内側に向かうというのは、決して一人になることではありません。逆に多くの縁を得て、人や自然、あらゆる外界と交わる中で、自分の存在の本質に気づく。そして、生かされている、生かしている自分に気づく時、私たちのインナー・トリップは始まるのです。そして、あらゆる宗派を超えて、その旅のあり方こそ、正しい信仰の形であると思うのです。
 今年のキリスト教の復活祭(イースター)は4月8日です。そうです、お釈迦様の誕生日(はなまつり)の日です。イースターは毎年動きますので、このような年はそうそうあるものではありません。私個人といたしましては、それを単なる偶然とするのではなく、自らの内側を見つめる新しい旅の始まりにしようと思っています。仕事上も、ちょうど入学式の日ですし。

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2007.03.24

コキリコ社 『FIRST ALBUM』

Gd562 夜、明日のコラール・コンサートで御一緒する渡辺敏晴さんが到着。明日コンサートなのに、いまだ一回も合わせず、そして呑み始めてしまった私たちって…。ま、もう長いおつきあいですし、(せっぱ詰まるという)経験の豊富なワタクシたちですから、こうして、呑みながら呼吸を合わせていくのも大切な準備の一つです(?)。
 さて、呑みながらの話題は、と言いますと、これまた明日のことはさておきまして、長谷川きよしのこと、椎名林檎のこと、レミオロメンのこと、歌謡曲バンドのこと…むむむ、私たち古楽人ではないのか!?
 そう、私たちにとって、活動のフィールドとして、たしかに古楽というのは重要なんですが、どうもあの独特の狭っくるしい世界に違和感を抱いているのも事実。古楽器を演奏しているからこそ分かる、古楽界の現状というのもありましてね。まあ、そんな話もいたしました。
 その…、最近渡辺敏晴さんのグループ「コキリコ社」がお出しになったCDは、古楽器をフルに使いつつ、既成の古楽のイメージからは大きく逸脱した、とっても健康的な内容になっています。今日は、ひいき目なしにこの素晴らしいCDをおススメいたします。
 まず、メンバーと楽器、そして曲目をどうぞ。

渡辺敏晴 ヴィオラ・ダ・ガンバ、パルデュッスー
鈴木理恵 リコーダー
立野政幸 リュート、バロックギター
大滝眞 ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロックギター
渡辺かの子 ヴィオラ・ダ・ガンバ

1ブフォンズ 2新しいサルタレッロ 3昔のサルタレッロ 4タランテラ 5コントラダンス 6ジャヌゾンプリ 7新しいタランテラ 8サリーガーデン 9古いイギリスのダンス 10聖母とその子 11彩雲追月 12うみ 13竹田の子守唄 14初こひ 15さくらさくら 16ラメント 17アルマンド・ラ・ノネッタ 18プレリュードとチャコーナ 19リッリブルレロ 20ミヌエット 21リガドン 22イタリアングラウンド 23バッハのアリア

 ご覧になって分かる通り、本来の西洋古楽の作品も取り上げられていますが、中には日本のうたや、中国の曲、そして敏晴さんのオリジナル曲も数曲入っております。編曲はほとんど敏晴さんが担当されているとのこと。独特の世界観に基づいた無駄のない編曲はさすがです。
 さて、このCDの印象ですが、敏晴さんは一言「癒し系」とおっしゃていましたけど、私はその言葉には収まりきらない空気を感じましたね。呑みながらの対話の中にも何度も出てきましたが、西洋的なリズム感やテンポ感とは違う、東洋的な日本的な「呼吸」感。伸びたり縮んだりするし、濃くなったり薄くなったりもする。大きく深呼吸した時の胸の広がりと、自然見上げられる空の広がり。地球の風が胸にすうっと入ってきて、自分に溶け込んでいくような、そんな感じの音楽なんです。「いき」です。「いき」というのは、「息」であり、「粋」であり、「意気」であり、「生」である…。
 敏晴さん、いちおう専門はチェンバロなのかな?明日はオルガンを弾きます。でも、このCDでは鍵盤は弾いていません。ギターやヴィオラ・ダ・ガンバ、日本の胡弓、それに中国の琴、なんでも弾けるスーパー・プレイヤーなんです。このCDでは歌も歌ってる。なんでもできるんですね。しかし、ただ弾けるとか、そういう次元ではないんですね。それぞれの音楽をよく御存知だし、ある意味それらのボーダーがない。スケールが大きいんです。
 私が聴いた中で、象徴的だなあ、と思ったのは、「さくらさくら」で「やよいのそらは」の「い」の音が、ガンバとリコーダーで見事に半音違うんですね(敏晴さん曰く、半音よりちょっと狭いらしい)。私はそれを大変美しいと思った。ぐっと来ました。私もちょっぴり日本音楽に関わったことがありますし、どちらかというとよく聴いてきた方ですから、たとえば雅楽におけるそうした不協和音の美しさというのを、比較的理解できるのではないかと思います。それでも、西洋古楽器でこれをやられたら、それこそ「やられた!」と叫びたくなります。これは勇気のいることだったのかもしれません。頭の堅い人だったら、間違ってる!とかヘーキで言い出しそうですし。
 その他にも、世間の偏った常識からすると、「障り」と分類されそうな音や響きがしっかり録音されています。私にはその「さわり」こそが美しく感じられましたが。こういう姿勢、私は完全に賛同いたします…って言ったら、次回作には私のパートも作ってくれるって!イェ〜イ!!ああいう呼吸の中に入って風のような音楽を奏でられたら、うれしいなあ。
 純粋に聴いてみたい、あるいは最近心がささくれ立ってるなあ、という方は下記までどうぞ、とのこと。
 近い内にフランスでもオンエアされるそうです。これは、かなりのインパクトを与えるのではないでしょうか。東洋からの風はたしかに届くものと信じます。

お問い合わせ、ご注文
office@kokirikosha.com
370ー0864
高崎市石原町1327ー1
「コキリコ社」
電話 027(326)1052

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2007.03.23

『つっこみ力』 パオロ・マッツァリーノ (ちくま新書)

Tsukkomi ノーストレスで読めますよ、との触れ込みでしたが、私にはちょっと屈折したストレスが…。
 そう、こやつなかなかやりおるなあ、正直負けてる…というストレス。あと、まるで自分の文章(の理想像)を読んでるようできつかった。マッツァリーノの文章、私の同様、ですます調講演体だし、内容もちょっとふざけつつ毒舌を利かせるタイプの文章なんです。で、それが一冊まるまる続くわけで、そりゃあ辛いですよ。お笑いのネタも数分で終わるからいいようなものを、あれが何時間も続いたら、ちょっときついっすよね。
 最近、このブログにも文章が長いとの苦情が多く寄せられます。昔みたいに短くしてくれないと読む気がしないとのこと。すみません。文章が長くなるというのは、たいがい悪い前兆でして、調子に乗りすぎるほど日常が健康的か、自己添削(というか「削」だけですね)能力が欠落するほどに日常が病んでるか、どちらかなんです。どちらも結果はよくない。
 マッツァリーノ氏もおそらく同様の状況と思われます。どちらかは自分同様分かりませんが、もしかすると自分同様両方なのかもしれません。とにかくもの書きとしては、あまり望ましい状態ではありません。
 しかしそれでも、ホントに面白くて、悔しいけれど、自分が言おうとしていたこと、やろうとしていたことを、完全にやられてしまった。さらにそのレベルが、どう考えても自分の想定したものよりハイアーなので、もう完敗を認めるしかないですね。
 パオロ・マッツァリーノ…似非イタリア人という設定自体、似非坊主と同様に「痛い」寸前です。その彼が、おふざけしつつ、ひそかに熱く語っているのは、もちろん「つっこみ力」についてです。「ボケ」と「ツッコミ」の「つっこみ」です。つまり、「メディア・リテラシー」「リサーチ・リテラシー」「論理」なんていうものを使って、いかにもお堅く、相手の間違いや欺瞞を減点発想で批判するより、それらを加点思考で笑っちゃった方がいいと…うん、そうその通りだと思います。
 マッツ氏はこうも語ります。わかりやすく面白くなければ誰も振り向いてくれない、正しいことを難しく述べているだけでは、喜ばれるどころか嫌われると…うん、その通り。教師なんかやってると、ホントこれですよ。本文に「民主主義とはおもしろさのことである」とありますが、これもいつも私が言っていることそのものです。政治家に必要なのは演劇性です。何人を振り向かせるか。
 「つっこみ力」を構成するのは、「愛」と「勇気」と「お笑い」だそうです。相手を不快にさせない「愛」と、権威にはむかう「勇気」と、正しさを面白さに変える「お笑い」。そして、それが目指すのは、究極のところ、お互い「てきとうな」平和な社会だと読み取りました。うん、かなり私の理想に近いですね。
 テレビのテロップや、出版物の誤植などを見つけると、すぐに抗議の電話をする人がいます。私なんかは、「やった!」とばかり喜んで、その天然ボケをネタにしてツッコミを入れるんですけど、この両者の違いはいったい何なんでしょうね。私のごく身近にも、青筋立てて人の過ちを糾す方がおられますが、私は不思議でなりません。彼らからすると、私やマッツ氏の、こうしたフニャフニャな姿勢こそが人としての誤謬であり、かの怒りを増幅させる原因そのものらしいんですが(笑)。どうも何か根本が違うようですね。おそらく自分の「怒り」が自分にとってあくまで不快なものなのか、それともある種のカタルシスを生むものなのかの違いのような気もします。
 それにしても、マッツ氏の経済学嫌いは相当のものですね。ちょっとやりすぎなくらいの徹底的批判です。つっこみのつもりで書き始めたけど、ついつい興奮して御自身のお嫌いな「批判」になってしまった。けっこうなヴォリュームのあるその部分は、正直読んでいて不快になりました。「愛」が足りない(笑)。
 後半のデータ信仰、データ原理主義につっこみを入れるコーナーは面白かったのに。何か違うんだろう。結局、そのへんのさじ加減の難しさでしょうね。つっこみが行きすぎて、あるいは具体的になりすぎて、その矛先に「個人」を感じさせるようになると、途端にこちらは不快になるようです。
 そのあたりは、このブログでも同様ですね。気をつけねば。からかいや揶揄と、いじめや中傷の境目というのは、実に微妙で難しいものです。
 と、こんな具合で、なんとなく自分をいつもと違う角度から見たような読後感が残りました。そういう意味でも、非常に楽しくためになる読書であったと思います。この本は、読者を選ぶだろうなあ。拒否反応示す人もたくさんいそうだなあ。
 あっ、そうそう、この本でも齋藤孝さん、ネタにされてました。人気あるなあ。

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2007.03.22

『ぷちナショナリズム症候群』 香山リカ (中公新書ラクレ)

若者たちのニッポン主義
Nationalism これまた今さらという本ではありますが、ささっと読んでみましたので感想など。
 最近また若者やネット社会の右傾化ということが言われますね。本当でしょうか。私はある世代から見ればまだまだ若造ですし、ネットもよくやりますからね、右傾化していてもおかしくないわけです。で、実際どうかと言いますと、やはり右傾化していると、たとえば父親なんかに言われるわけですね。右傾化という言い方はされないが、しかしやや左シンパの父親からすると、大変に違和感があるらしい。
 じゃあ、もっと若者、高校生たちはどうかと言いますと、これはもう全く何も考えていない。右か左かと問われれば、「右利きですよ」と答えるのが普通でして、お前ら右傾化してるぞ、と言われても何のことかサパーリ分からずキョトンとしています。
 香山リカちゃん(ってことですよね)は、まさにそういう何も考えていない愛国ムードを「ぷちナショナリズム」と読んで憂慮しているわけですね。いずれフランスみたいになるんじゃないかと。
 どうなんでしょう。私なんか、いちおう右も左もよく分かっている上で、ソフトな右派を標榜してはばからない輩なんですが、そんな張本人の実際の心の中はやはり「何も考えていない」なんですね。そういう対立軸に関する知識や思索は、ある意味人よりも多い方かもしれません。仕事や趣味の関係上ね。でも、頭と心は違うんですよ。語弊を承知で言えば、ファッションとしてライトな(軽い)ライト(右)を着こなしているという程度なんです。
 なぜそういう服を着ているのか、それを分析してみますと、単にその方がカッコいいし気持ちいいからですよ。それと、やっぱり流行というのもありだと思います。自分の延長としての国家を肯定したいんです。自己否定がはやった時代もありましたが、今はその反動もあってか、そういう暗いのってダサいんですね。でも、単純馬鹿な発想からすれば、肯定の方が健康的じゃないですか。世の中が、そういうムードなんですよ。
 2ちゃんなんか、あの街は渋谷や原宿以上にファッションにうるさいですからね。同じ格好して同じ言葉使わないと排斥されちゃいますからね。そりゃあ、ああなりますよ。かと言って、あそこで過激な発言している連中が、日常で思想的行動をしているかと言うと、それはほとんど皆無でしょう。渋谷でラッパー風の格好してるからって、みんながみんなラッパーじゃないってのと同じです。
 では、そういうライトな似非思想というのが、ヘビーな思想になる可能性があるのかと言うと、ずばり「ある」と思います。それは実際にそういう歴史があったから、可能性は当然ゼロではない。しかし、流行がそのまま成長して本物になるかというと、それはまあ「ない」でしょう。つまり、当たり前ですが、国家なりなんなり、別の主体の意思が働いて、それに乗っかって本物風になっていくことはあると思うんです。でも、それはあくまで「本物風味」であって、「本物」ではない。
 そこのところなんです。リカちゃんの憂慮するぷちナショナリズムの発展形は、その「本物風味」なんですね。その憂いが実現するためには、外部要因が必要なのです。私たち大衆には、心配するほどの主体性はありません。本物の思想をするほど、大衆は賢くないんです。いや、本物の思想家になったら、もうその時点で大衆じゃないっすよね、考えてみれば。
 ですから、私たちが心配すべきは、大衆のそうしたファッション傾向ではなくて、主体たる可能性のある、もう一方のファッショ傾向なのです。もちろん世の中では、そっちの心配もたくさんしていますね。小泉さん以上に安倍さんは心配されちゃってますし。それでも、こういう軟弱な大衆社会になっちゃったら、いくら主体が笛吹いても、私たちは踊りませんよ。せいぜい2ちゃんで吠えるくらいが関の山です。
 てな感じで、どうもこの本を読んでもピンときませんでした。だいいち、リカちゃんの話、ほとんどが他人の意見の引用と、ちょいと無理のある物語に終始してて、全然説得力ないんだもん。まあ、そもそもリカちゃん自身、それほど心配してないのかもしれませんね。ただ、流行にうまく乗れない自分の気分を慰めるために書いたのかもしれません。大衆に「集団気分」を催すほどの力はなく、まあ流行通信程度の本だということでしょうか。あっそうそう、齋藤孝批判は的を射てました(笑)。

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2007.03.21

『日本語力と英語力』 齋藤孝+斎藤兆史 (中公新書ラクレ)

Wsaitoh 今日から進学合宿というヤツに突入いたしまして、私もじっくり勉強させていただいています。そこに明治大学に通っている卒業生が遊びに来まして、私がこの本を読んでいたら、「あっ、齋藤孝だ」と。で、私も「そう、齋藤孝だよ」と。二人顔を見合わせてニヤッと笑いました。その笑いの意味はご想像下さい。まあ、彼にとっては先生でしょうし、私にとっては高校の先輩ですからね。お互いよく知っているわけでして…(笑)。
 さて、この対談集、現今のコミュニケーション重視のおバカな英語教育に苦言を呈するもので、そういう意味では、けっこう楽しく読ませていただきました。うすっぺらな会話表現なんてやらないで、型たる文法学習や名文の素読をやりましょう!それから、まずは国語教育でしょう!というヤツです。
 特にもう一方の「サイトウ」さん、新字体の斎藤さんの、英語教育研究者としてのお言葉には説得力がありましたね。私はこちらのサイトウさんについては、今まで存じ上げませんでした。そして、新字体さん、旧字体さんとは違って大変謙虚な印象を与えます。いや、けっこう強い調子で現状を批判しているんですけどね、なにしろ、旧字体さんがすごいもんで(笑)。
 対談なのに旧字体さんのしゃべくり、多すぎますよ。それも、若者の「オレさま症候群」を憂慮しておきながら、「齋藤メソッド」や新作?の「先生増殖方式」を力説する際には、いかに素晴らしい成果を挙げているかを興奮して語った上に、「今すぐ文科大臣になってこれで日本中を変えたいくらいですよ」なんて言っちゃうんだもん。ちょっと引きます。
 さてさて、英語教育に関して、最新の私の実感を少し書いておきましょう。
 最近、何人かの教え子が恐ろしいほどに英語ペラペラになって帰ってきました。そいつらは何年か向こうに行ってたんですね。で、面白いのは、そいつらみんな高校時代英語ダメダメ生徒だったってことです。お前英語赤点だったじゃん!って何回笑ったことか。で、反対にセンター試験て満点近くとって、外語大に行ったヤツが今どうかというと、全然ペラペラじゃなかったりする。つまり、英語がペラペラになるためには、向こうに何年か住めばいいということです。ただそれだけ。そこには偏差値もセンスもあまり関係ありません。あえて言うなら、向こうで一人でやっていける、そういう精神力…いや、彼ら彼女らを見てると、いい意味での子どもっぽさ(ほめことばですからね)が必要なんです。つまり、大丈夫かなあとか、恥ずかしいなあとか、そういうことをあまり感じない性質ですかね。妙な積極性とか楽天性。それ最強です。違う言い方をすると、子どもが母国語を学んで行く過程と精神状態を大人になってもできる、そういう性格ですよ。
 こうした実例を見ると分かるんですが、文科省が唱える方法が有効な場合もあるし、両サイトウさんが唱える方法が有効な場合もあるんですね。残念ながら、やはりいろいろありなんです。逆に言えば、旧字体サイトウさんのように、「私のやり方でやれば、全ての子どもが喜び、そして伸びる」という、ある種の原理主義的な発想はいかんと思うのです。
 ちなみに私は旧字体的国語教育にはなじみません。なにしろ、生来暗唱が大の苦手でして、国語の先生なのに、有名作品の冒頭部分すら全く覚えられません。また、サイトウさんたちの言ういわゆる名作もほとんど読んでいません。まあ、それでも、いやそれだからか、国語のセンセイなんてのもそこそここなしてるし、こんな駄文も毎日書けるわけでして、事態はそう単純なものではないということです。
 学校というところは、そういういろいろなタイプの生徒が(先生も)混在しているのが当たり前でして、それでとっても難しいことになるわけです。これこそ万人向けの特効薬だ!というのはないのです。その多様性をどうまとめあげていくか。個人と集団、それぞれのプロデュースをしなくてはならないのが、教師の仕事の難所でありやり甲斐なのでした。
 さらに難しいのは、エライ人たちの議論は、あくまでエライ人たちの議論にすぎない点です。現場の教師としても、世間の大人としてもよく分かりますが、東大に入る人は私たちとは決定的に違います。いかんともしがたい。だから、政治家やら学者さんやらの言葉や、その攻防はどうしてもあっちの世界のものにしかならない。誰も言わないので、あえてはっきり言ってしまいますが、頭のいい人が頭の悪い人の「気持ち」を考えるのは、非常に困難です。
 最後のはちょいと蛇足、いや問題発言かもしれませんが、しかし、教育の本質は、実はこの部分に存するわけでして。お分かりになりますよね。親子の関係もそうです。「持てる人」から「持たざる人」への情報伝達なわけですから。ですから、その自らと違う世界をどう観察していけるのか、あるいはその心を忖度していけるのか、私たちはそれを日々試されているわけです。それはもう学問とかメソッドとかの領域ではありませんね。
 ああ、また話がそれた上に長くなってしまった。こめんなさい。

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2007.03.20

『ことばの歴史学』 小林千草 (丸善ライブラリー)〜なにげに

源氏物語から現代若者ことばまで
05280 とりあえず図書室でさくっと読んでみました。なにげに面白かったっす。
 …という書き出し、それほど違和感ありませんね。さすが平成軽薄体の不二草紙です。「なにげに」「とりあえず」「さくっと」、これらの言葉は、この本の後半で現代若者ことばとして採り上げられ、サンプルを集められ、分析されています。たしかにこれらの言葉、今ではすっかり市民権を得て、辞書にまで載るようになっていますけれど、この本が書かれたおよそ10年前には、かなり新しい感じを与えるものでした(「とりあえず」は少し古いけど)。
 私は仕事柄でしょうかね、若者ことばの洗礼を受けながら毎日を送っていますので、年齢の割にはこれらを早いうちから使えるようになった方だと思います。それでもいろいろな新語については、自分で辞書を編纂するとした場合、どういう解説を加えようか、案外迷うものもあります。たとえば先ほどの「なにげに」。これはなかなか難しい。そして興味深い。皆さん、はっきりと他の言葉で言い換えられますか?
 この本でも大変多くの使用例が大学生を通じて挙げられているんですが、微妙にニュアンスを変えながら広範に使われているようで、結局定義的な結論は出ずじまいです。語源的には、「さりげなく」→「さりげに」という変化からも想像されるように、「なにげなく」→「なにげに」だと思っていたんですけど、どうもそれほど単純ではないようですね。ちょっと意外だったのは、ある大学生が「山梨の祖母が使っている、甲州の方言なのではないか」と報告していたことです。この情報は初耳です。地元民として、私も調べてみようかと思いました。とにかく「さりげなくの誤用」という最近の定説を疑うところから始めたいですね。
 私の感覚から言えるのはですねえ、「なにげに」の背後には、誰かにとっての「想定外」というニュアンスが存在するということです。「なにげに美味い」とか「なにげによく出来た」などは、自分にとっての「想定外」「予想外」ですし、「なにげに宿題やっちゃったもんね〜」なんていうのは、相手にとっての「想定外」だと思います。「あいつなにげに寝てるし」は全体の空気にとっての「想定外」という感じがします。「なにげにカッコよくない?」「なにけに驚いた」「なにげに気合い入った」「なにげにへこんだ」…いつもの私の論的には「モノ」性を帯びた言葉と言えるかもしれません。自分の意志とは別の力が働いている。そういう意味でもとっても興味あるんで、もうちょっと深く研究してみたいと思います。
 さて、この本ですが、前半はおそらく一般の読者の皆さんには、とっても退屈だと思われます。私のように「ことばの歴史学」を専門にやってきた者でも、なにげに眠くなりましたんで(笑)。まるで大学の講義のようで(ってほとんど大学の講義そのものらしいのですが)、分かりやすく説明してくれているんですが、なにしろマニアックすぎます。後半の若者ことば編を頭に持ってきて、歴史をさかのぼっていくという形式の方が読者にとってはよかったかもしれません。
 最後にこの本を読んで再確認したことを。私はやはり、なんでもかんでも「言葉の乱れ」で片づけてしまう「思考の乱れ」には陥りたくないですなあ。今までも記事の中でたくさん書いてきましたが、「言葉の変化」には必ず理由があり、そこには「必要性」も必ずあるんです。一時の流行で終わるものは別として、定着していくものに対しては、頑なに拒否するのではなく、素直に受け入れていくべきだと思います。まあ、これは言葉に限らず、全ての事象にあてはまりますけどね。特に音楽や美術の歴史をふり返ってみると、変化を乱れで片づけることの愚かさが分かるでしょう。もちろん、それぞれの変化の現場においては、抵抗勢力の存在にも大きな「意味」があるわけですが…。
 そのへんに関しては、こちらの清少納言さんと私のコラボレーションがいろいろと参考になると思います。

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2007.03.19

『宇多田ヒカルの作り方』 竹村光繁 (宝島社新書)

Utadahikaru 懐かしい顔ですねえ。800万枚も売れたんですか!?今じゃありえませんね。で、ずいぶんと古い本ですが、図書室で目についたので得意の即読をしてみました。なかなか面白かったし、勉強にもなりましたよ。
 この本は今では絶版となっています。まあ、これは「旬」のある出版物の典型ですね。しかしですねえ、私としては、彼女の日本デビュー・アルバムを客観的に聴くことのできるようになった今だからこそ、この本の面白みも増すと思うわけです。ちょっと前に離婚(やっぱりね)で世間を騒がせましたし、最近の彼女の楽曲はまたずいぶんと変わってきましたしね。今まで読むのを我慢してきて良かった(って忘れてただけ?)。
 この本を書いた竹村さん、紹介には音楽関係のお仕事で活躍されているようなことが書いてあるんですが、正直どのようなことをされていた(いる)方か存じません。第一、この本で業界の裏話(まあ常識とも言えますが)をこれだけ暴露しちゃったら、その後来る仕事も来なくなっちゃったかもしれませんね。日本の音楽業界の、アーティストに対する金銭的冷遇をずいぶんと強調していますけど、この本の売り上げと、ご自身の音楽的なお仕事と、どちらがお金になったのでしょう。ある意味、仕事を失う覚悟で書いたとも言えますけれど、今彼はどう思ってるのでしょうね。
 この本は大きく三つの部分に分かれていまして、まずは当時彗星のごとく現れ、天才と評された宇多田ヒカルの、どこがすごいのかを分析する部分。と同時にここでは、安易な称賛に関してはちゃんと一蹴しておりまして、なんとなくですが同意できる部分が多かった。決して深くてオリジナリティーに溢れた論は展開されているわけではありませんが、面白くないことはない。特に、(当時の)ほかの音楽や音楽家に対する辛口批評は、当時の私の感覚にも近いものがありますし、7年くらい経った現状からしますと、結構正しいことを言っていたりします。なにしろ懐かしい名前が並んでるんで、それだけでも楽しかったっす。
 特にビジュアル系に対する揶揄、嫌悪は異常なほどで、竹村さんが非ビジュアル系であることがうかがわれます(笑)。ちなみに私も非〜ですので、当時は竹村さんと同じ立場だったんですが、その後は食わず嫌いはやめまして、たとえばこんな記事書いたりするまでになりました。きっと剃髪してある意味ビジュアル系になったからでしょう(笑)。
 さて次に、竹村さん、ビジュアル系の存在のみならず、本当にいろいろな面において日本の音楽業界に苦言を呈していまして、たしかにその一つ一つが、たとえばアメリカのそれに比べてひどい状況だということはよくわかりましたよ。特に、実際の著作権使用料計算書の写しまで載せて、JASRACと音楽出版社がいかにボロもうけしているかを糾弾しているところは、ここまでとは知らなかったので、けっこうビックリしました。いやあ、音楽で喰ってくのは大変だなや。
 あと、面白いし当たらずとも遠からずだなと思ったのは、売れっ子プロデューサーに対する評価ですね。小室哲哉と佐久間正英についてはA級戦犯扱いです。そして小林武史に対しては王道派としてけっこう高く評価しています。私は佐久間さん、そんなに嫌いじゃないんですけどね。でも、たしかに現在進行形で言いますと、小林武史が一番地道に仕事してるかも。私のブログへの登場回数も圧倒的に彼が多いですね。
 最後は、日本の音楽教育への疑問が書かれています。絶対音感信仰や早期教育信仰の間違いを指摘していて、うんうんとうなずかれます。非常にまっとうな意見でした。結論も「バカ親ではなく親バカになれ!」で、まあ正しいわな。
 昨日、東京へ行く車中でNHK-FM「日曜喫茶室」を聞いていましたら、「アレンジの妙 カバーの粋」というタイトルの下、70年代の日本音楽はすごかったという話で盛り上がっておりました。お客様は、シャンソン歌手のクミコさん、作編曲家の渡辺俊幸さん、常連さんの轡田隆史さんです。マスターは、言わずもがな、はかま満緒さまです。その中で、特に印象に残ったのは、フォークソングバンドのドラマーから、さだまさしさんのプロデューサー、そして世界的な作編曲家になった渡辺さんのお話と作品でしたね。ミュージシャンの才能や楽曲の魅力を何倍にも増幅する仕事をしていらっしゃる彼の、その人柄が感じ取れるトークと音楽でした。
 ああ、音楽ってやっぱり出会いだなと。昨日の記事とも関連しますが、アンサンブルにせよ、曲作りにせよ、ある程度人にまかせることができるというのも、ミュージシャンの才能の一つであるような気がします。誰かとつながる方が世界が広がることだけは確かですから。ただ、誰と出会って誰とつながるか…これは運命なのかもしれません。宇多田ヒカルが今度は誰と出会うのか。別れは出会いの始めでしょうし、今後の彼女の活躍にも期待しましょう。あと、竹村さんの御活躍もひそかにお祈り申し上げます…。

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2007.03.18

古楽三昧!!

↓写真は思いっきり10年前です(笑)
Gregorio 昨日は歌謡曲で楽しませていただきましたが、本日は古楽三昧でありました。いやあ、ホントに音楽って素晴らしい!アンサンブルって素晴らしい!縁ですなあ…。
 今日は午前中ちょっと仕事をして、午後から久しぶりに東京に出ました。まず向かったのは東久留米市にある聖グレゴリオの家。カトリックの教会です。私は若かりし頃?のべ14年間にわたって、ここが運営している宗教音楽研究所に附属するグレゴリオ音楽院の古楽科で古楽アンサンブルを勉強させていただきました。結婚後は卒業させていただき、それ以来なかなか機会がなく一度も足を運ぶことがなかったんですけれど、今日ふと思い立って、本当に久しぶりに…9年ぶりかな…春の演奏会を聴きに行ってきたんです。
 まずは懐かしい皆さんとの再会。先生とも数年ぶりですし、それこそ20世紀以来お会いしていなかった大勢の旧友(とさせていただきます)たちの懐かしい顔が…ジ〜ン。私もですが、皆さん大人になられて…(笑)。それでも、面白いもので、音楽でた〜くさん会話していた人たちとは、久々に会ってもあんまり昔と距離感が変らないんですね。意外に自然に溶け込めました。
 演奏もとても良かった。ヴィオラ・ダ・ガンバ科、チェンバロ科、アンサンブル科の皆さんによる、3時間以上にわたる盛りだくさんのプログラム。ぜいたくな時を過ごさせていただきました。あの教会の聖堂は、専門家のレコーディングにも使われるほど素晴らしい響きを持っています。ああ、久々にここで弾きたいな、と思いました。古楽にとっての響きについて、いろいろと思いを馳せながら聴いていたんですが、ああいう非常に長い残響というのは、物理的には単に不協和音を生むわけでして、なぜそれがあそこまで気持ちよく感じられるのでしょうね。ま、お風呂で歌を歌うのと似た状況です。実際に楽器から出ている音だけでも充分なテクスチュアになるはずですが、それを取り囲む部分の必要性とは何なんでしょう。
 私の考えは、あの豊かな響きに取り囲まれて、あらぬ方向に行ってしまいました。それは最近少し考えている「敬語論」です。いずれまとめて書きますが、日本語の敬語について新しい考えがありまして、まあ簡単に言ってしまえば、相手を尊敬するために使っているのではなく、自己防衛的な意味での婉曲法だと捉えるんてすね。相手を気持ちよくさせて自分の身を守る。私らしいアマノジャク的発想ですねえ。ま、それはいいとして、音楽における響きというものには(あるいはヴィブラートもなんですが)、実はそのような機能があるのではないのか。自己防衛とかではないですよ。ぼかすという意味でです。楽器から出ている直接音という核だけでは、実は音楽は攻撃的になってしまうのかもしれないのです。ケータイの着信音や目覚まし時計から流れる音楽?って、ほとんど核だけのストレートな「音」ですよね。心地よくしてしまったら気づきませんから。で、響きという「ぼかし」が入ることによって、相手を心地よくさせ、安心させ、眠くさせる(笑)。これって敬語に似た部分があるなと。
 こんなふうにいろいろと妄想していたんですけれど、とにかく適度に眠くなったりもしまして、大変に気持ちいい時間と空間を堪能させていただきました。皆さん、ありがとうございました。時間の関係で最後まで聴けなかったことが悔やまれます。また近いうちに音楽院の方にも復帰する方向で検討中ですので、その時はよろしく。
 さて、今日はこれで終わりではありませんでした。皆さんのアンサンブルを聴いて、俄然こちらのアンサンブル欲も高まってきまして、さあ、やるぞとばかりに移動開始です。移動先は副都心。ここでもまた20世紀末以来の再会となる皆さんが待っていてくれました。こちらも以前いろいろな形で古楽アンサンブルを楽しんだお三人さんです。ひょんなことから何かやろう!ということになりまして、本日実現にこぎつけました。
 集まったのは私も含めまして、バロック・ヴァイオリン二人、そしてバロック・チェロとチェンバロです。堂々たる、そして王道たるトリオ編成ではないですか!素晴らしい。
 で、短い時間でしたが、豊かな初見大会を楽しみました。弾いた曲はですねえ、コレルリのトリオ2曲、ラインケンのソナタ(渋い!)、ヘンデルのトリオ、ヴィターリという人の小曲集です。最初は皆さん久しぶりということもあって、なかなか音程もリズムも合わなかったんですが、最後には素晴らしい(自画自賛)音楽になっていましたよ。こういう小さい編成のアンサンブルは久々でしたので、本当に気持ちよかった。バロック音楽の醍醐味ですよねえ。それをこうして気の合う皆さんと、楽しく気軽に演奏できるというのは、本当に幸せなことです。皆さん本当に10年ぶりとか、そんな感じだったんですが、話をするのも忘れて、とにかく合わせる合わせる。でも、それでいいんです。私たちは楽器で会話しているんですから。アンサンブルの妙は、まさに気の置けない人たちとの会話の妙そのものなんです。お互いに信頼し合って、譲り合って、慰め合って(?)、美しい音楽を作っていくんです。決して自己中心的、排他的ではダメ。縁と恩に感謝しながら弾かないとね。
 というわけで、今日はまさに古楽三昧の一日でした。つくづく、音楽をやっていて良かったなあと思いました。家に帰ると、全くの偶然ですが、これまた懐かしい音楽仲間からのメールが。ありがたやありがたや。幸せ者ですなあ、私…。まずは音楽の神に感謝しましょう!

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2007.03.17

歌謡曲バンドふじやま Live at 武道館…の隣(笑)

Tokyokid 今日は武道館でMusic Video Awards 07が行われています。速報によりますと、我らがレミオロメンも二つ賞をとったようでして、3曲も演奏したとのこと。