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2007.03.31

レミオロメン&吉井和哉@僕らの音楽(フジテレビ)

Ry_1
 感無量です。夢のコラボレーション。昨日の夜放送されたフジテレビ「僕らの音楽」を観ました。
 これはですねえ、いずれあるだろうなあ、とは思ってましたが、こういう形で実現するとは。御坂峠をはさんでのコラボレーションですね。
 「楽園」ですよ!「楽園」。「楽園」をレミオロメンがテレビで演奏するなんて誰が想像したでしょう。もちろん、そこには吉井さんもいるわけです。レミオロメンの伴奏で吉井さんが歌うとも言えるわけでして、これはすごい事態だ!
 結果、ものすごく感動してしまいました。いろいろな思い入れが私の心に交錯しましてね、ちょっと涙ぐんでしまった。おいおい、泣くなオジサンよ。
 泣くと同時にドキドキしました。たとえは悪いかもしれませんが、プロレス夢の対決みたいな感じでしょうかね。憧れの馬場さんと初対決する新崎人生って感じかな(マニアック)。だって吉井さん、仏様みたいだったもん!慈愛のまなざしで藤巻くんを見守ってました。ああ、彼も大人になったなあ。
 ここからはちょっと分析的に行きましょうか。冷静になろうではありませんか。
 まず、吉井さんから。先ほど書きましたように、今回は仏様に徹している感じでしたね。つまり先輩レスラー…いやいやシンガーとして、相手に合わせ、相手を活かしつつ、適度に自己主張もしていた。御本人も「楽園」をテレビで歌うということに特別な感慨があったと思いますよ。それもバックがレミオロメンですからね。数年前、こんなことを想像できたでしょうか。う〜む、縁ですなあ。髪の毛が黒いのには事情がありますけど、それはナイショね。でも、そこも含めたファッション全体を見ても、今回に臨む彼の心の内が伝わってきました。
 さて、続いてレミオロメン。まずは藤巻くん。私、こんなロッカーな藤巻くん初めて見ましたよ。ノリもパフォーマンスもいつもの彼と違って、そうねえ、やっぱり仏様の掌の上の孫悟空って感じっすか?生かされてましたよ。トークの中で「JAM」の話が出てましたけど、たとえば「JAM」を歌った方が無難だったかもしれない。でも、あえて「楽園」を選んだのは正解でしたね。彼の吉井さんへの熱い気持ち(月並みですが)が伝わっていました。ここのところ、「作られた音楽」の話をすることが多かったんですけどね、やはりこういう魂の叫び、真情の発露である歌は心に響きますよ。緊張していたのも分かりますし、一生懸命練習してきたのも分かりました。それらも含めて、ベスト・パフォーマンスであったと思います。GJ!
 次は…えっと、前田くんにしよう。彼のベースのうまさも光りましたねえ。彼はもともととっても器用なベーシストですし、こういうロックなグルーヴ感こそお得意分野なんですよね。イエモン広瀬さんはものすごく個性的でパワフルな素晴らしい演奏家なんですが、そのヒーセ節をトレースしつつ、前田くんらしさもよく出ていたと思いました。彼、こういうのやりたいんだよな、きっと。ものすごくいいプレイでしたよ。もともと彼のことカッコいいと思ってましたが、この演奏ではさらに輝いて見えましたし聞こえました。
 さて、さて、そうするともう一人神宮司くんですね。彼のドラミング、最近私は高く評価するようになったんです。ある意味女の子ドラムという感じでね、音自体が軽いんですけど、レミオロメンの楽曲ではそれが功を奏していると。ドタバタ叩きたがるドラマーが多い中で、ある意味抑制の効いた冷静なスティックさばきですよ。誰かに「装飾」とか言われてましたけどね、そういうドラムって珍しいじゃないですか。リンゴ・スターっぽいかもな。バンドの中の立場的にも。リズムは優秀なベーシストにお任せしてね(笑)。で、彼がイエモンを叩くわけですから。これは見物聞き物です。結果発表!神宮司くんは何を叩いても神宮司くんでした!おめでとうございます!いやあ、素晴らしい。「楽園」ですよ「楽園」。あの曲でも自分のスタンスを崩さないなんて。正直ほれました!前田くんのアプローチとは全然違う。不器用なのかもしれないけど、そんなところが萌え〜。たしかにカワイイわ(いかんいかん)。
 と、こんな感じでしてね、非常に濃厚な4分間でした。ほかの部分、つまり誰かさんとの対談(藤巻くん、27日も来てたんだ武道館)やら3月9日やら茜空やらの記憶はほとんどありません(笑)。でもホント楽しかったし、夢のような気分になりました。ありがとね。
 そんなわけで、御坂峠の合戦?に刺激を受けて、さっそくかの地を訪れてきました。2週間後に「第2回レミオロメン聖地巡礼の旅」が控えてるんですけど、今年はあったかくて花が早い早い。ちょっと見てきましたけど、もう桜は満開。こぶしや菜の花も満開。桃も場所によってはすでに満開のところもありました…orz。なんということだ。気温よ下がれ!という感じです。

vlcなどでご覧下さい

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2007.03.30

『永平寺 修行の四季』(NHKハイビジョンスペシャル)

Eiheiji 久々に10時間以上寝てしまいました。普段は4時には起床するのに(昨日は3時でした)、今日は6時過ぎまでぐーたら寝てました。いかんいかん。
 懐石料理というのは、元々禅の文化であります。空腹をしのぐために石を抱いたとも言われております。日常から禅に興味を持ち、頭も丸めて一日一食を実践している私としては、なんとも煩悩にまみれた為体な時間を送ってしまいました…なんてね。
 ま、そんな反省に基づいたのかどうか知りませんが、小田原で家族と別れ、足柄山で鴬の初音を聴きつつ帰宅した私は、先日録画しておいた「永平寺 修行の四季」を観ました。
 以前、こちらで永平寺の104歳の宮崎禅師の番組について書きましたね。そこにもあるように、教え子が永平寺に修行に行ったんですが、さて彼はもう帰ってきたのでしょうか。それとも何かにめざめて、まだお山にいるんでしょうか。
 この前、お寺でコラールを弾いた時、そこの御住職(6年修行)と、もう一人教え子(8年修行)から修行中のエピソードやら何やらをお聞きしたんですが、私にはとてもとても耐えられない世界ですね。しかし、彼らは別に1、2年で帰ってきてもいいのに、そうやって何年もお山を下りなかった。なんで?と聞くと、「いろいろあるんですよ」ということなんですが、きっとやはり何かあるんでしょうなあ。それを体験してみたいような気もしますが…やっぱり無理だ。
 というわけで、この番組、再放送で私も観るのは2回目なんですけど、う〜ん、こちらの気持ちも引きしまりましたね。入山の春から、下山の春まで、永平寺の雲水の生活を1年間にわたって追ったドキュメント。毎日坐禅と作務と読経に明け暮れる日々。全ての作法を覚えるだけでも大変そうです。
 しかし、ある意味作法というのは、縛りであるとともに守りでもあるのではと思いましたね。作法の通りやっていればいいという意味でもそうですが、それ以上に「型」に自分をはめこむことによって、自分を捨てることができるのではないかと改めて感じたのです。番組の中でも何度も語られていました道元の心…本来の自分(仏性)に出会うためには、自分を捨てなければならない。身心脱落…自分を知るためには自分を忘れなければならない。型にはまり同じことをすればするほど、外から見るとその人その人の個性が表れるというのは、修行に限らずいろいろな分野で見られる真実です。
 本来の自由というのはなんなのか。教育現場にいる私も常に考えるテーマです。教え子の和尚が、茶碗に注いだお茶を指さして言ってました。「これです」って。なるほど、時間が経つと茶葉は底に沈んでゆき、うわずみの透明度は増してきます。心が静かになれば、その底の本質が見えてくるわけです。もしかすると、その状態が自由なのかもしれない。解放されているかもしれない。心がざわついている内は、結局何かにとらわれているということでしょう。
 出口光さんの言う「魂」というのもそのことでしょう。出口さんの語る「魂」もまた、コロコロと変る「心」の奥の不動のものです。そして、それは結局他人との関係性の中に見えてくるものです。なるほど、彼の哲学も禅の思想に近い。というか、なんでもつきつめれば一緒ということでしょうね。
 というわけで、いろいろと考えながら番組を観ていまして、やはり自分にはこの生活はきついなと。こうしてヴァーチャル修行するのが精一杯だなと。私とってもずるくてですねえ、「座るだけが修行ではない、生活の全てが悟りへの道である」という禅宗の教えに甘えて、日常から抜け出そうとしないんですよ(笑)。まさに野狐禅そのもの。いや、野狐に失礼かもしれないなあ。
 そんなことを思っていたら、いつのまにか夜になってしまって、テレビを再びつけましたらね、「にんげんドキュメント」の最終回が始まりました。最終回の「にんげん」はあの「ノッポさん」高見映さんでした。これがまた魂にしみた。いろいろな苦労や苦悩を経て、人間、動物、植物だけでなく、石ころや砂や土にまで愛着を感じるようになったノッポさんのその姿に、私は一つのヒントを得ました。ああそうか、やはり「天命」を全うすべく、自分のやるべきこと、やれることに「なりきる」。それをとにかく続けることなんだな。人との縁を大切にして自分を忘れることも重要ですが、最後の最後は、自分の魂の声に従うべきなんだ。そこは譲ってはいけないのかあ。なるほど。
 ふぅ、明日から頑張ろうかな。いや、4月1日からにしようか…そんなこと言ってるうちは、やっぱりダメですね…orz。

Amazon 永平寺 「104歳の禅師」・「修行の四季」

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2007.03.29

京ゆば懐石『山翠楼』(奥湯河原)

デジカメ忘れたので、写真はホームページより拝借
Sansuiro1 例年ですと、この春休み期間には、カミさんの実家のある秋田へと旅するのですが、今年はちょっと事情があって私は富士山に居残りです。
 その代わりと言ってはなんですが、本日は家族、そして私の両親、姉とともに、奥湯河原の温泉宿に来ております。いちおう名目は両親の金婚祝いということだそうですが、実際はまだ50年経っていないとか。もうこのくらいになっちゃうと正確なカウントなんてどうでもいいわけで、まあ元気なうちに済ませておいた方が何かと後悔がないだろうということですね。
 そんなわけで、今回は普段では絶対に泊まれないような高級旅館にですねえ、両親を招待したのです。京ゆば懐石『山翠楼』です。きっと私もこれが最初で最後…いや、あるいは自分の金婚の時にもう一度あるかもしれない…まあいずれにせよ、思いっきり贅沢をしておりますです、はい。
 う〜む、なんかうまく説明できないけれど、とにかく最初からすごかった。車を駐車場に入れるのも、荷物を運ぶのもみんな誰かがやってくれる。こんな経験当然初めてなので、なんか挙動不審になってしまったっす。
 車で正面玄関に乗りつけたと同時に、番頭さんみたいなイデタチのおじいさん方(!)が数人走ってこられて、車を取り囲むんですから、そりゃあ動揺しますよ。鍵も荷物もそのままで降りろ、ということですから、こりゃあ新手の強盗かと思いましたよ(笑…失礼)。
 門をくぐると、写真のような大広間で上品な女性の皆さまがお出迎えくださいます。なんか、いい香りがします。う〜なんとも言えない非日常空間。その後お茶をいただいてから部屋へ案内されました。第一、部屋がいくつあるんだ?これ全部使っていいの?という感じです。私たち庶民は、比較的安いお部屋、それも特別料金の時期を狙っての利用ですが、それでもこれだもんなあ。
 さっそく浴衣に着替えて、くつろぎモードへ。うむ、ホテルなんかにゃあ、もう泊まりたくないよ〜。日本人は旅館でしょう。
 しばらく景色などを眺めた後、さっそく温泉につかりに行きました。温泉のことはあんまり詳しくありませんけど、なんかそこらの健康ランド的温泉とは、何かが違うような気が。たぶんその何かとは「気分」だと思いますけどね。露天風呂にもちょっぴりつかって部屋に戻り、さあ夕食の時間です。
Sansuiro2 お食事部屋に移動してみますと、そこにも非日常的空間が広がっていました。えっとえっと…何を食べたっけ?あんまりおいしくて忘れちゃいました。てか、ここで紹介しても、きっと皆さまの舌と胃を満足させることができないどころか、おそらくマイナスの感情を引き起こしてしまうでしょうから、ナイショにしときます(すみません、今日はちょっとやなヤツにならせてください!)。
 とにかつですねえ、「京ゆば懐石」というくらいですから、そういうお料理なんですよ。懐石とは言っても、一般向けにしてありますし、こちらも懐石の作法なんか全然知らないわけでして、まあ、ゆばや当地の海や山の幸を中心にした高級な和食ということです。ああ極楽。途中、品格漂うおかみ直々のご挨拶などもあり、気分はさらにセレブ!?
 そして、お酒はこちら「山翠楼」オリジナルの「吟醸純米 海石榴(ざくろ)」をいただきました。一人で五合くらい飲んじゃったな。口当たりがとても滑らかで軟らか、吟醸香も控え目でして、比較的地味な味わいの料理とうまい具合にマッチしていました。ちゃんと考えられてるなという感じ。至福の時間だなあ…。
 と、そんなこんなで、とっても幸せな気分のまま、私はなんと8時に就寝してしまいました(この記事は翌日書いております)。これもまた、なかなか味わえない幸せですね。ああ、生きてて良かったっす。あっそうだ、いちおう両親におめでとう、そしてお疲れさまと言わなくては。この至福を再び味わうために、ワタクシたちも気合いで50年つれそいましょう。ちょうど昨日で丸9年たちました。あと41年(笑)。がんばるぞ〜!

山翠楼

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2007.03.28

Salyu(+小林武史&一青窈) 『TERMINAL』

Terminal 素晴らしいアルバム。感動的だったデビューアルバムよりいい出来です。ずばり名盤だと思います。でも、そう言い切ってしまう自分のセンスに、最近自信が持てないんですよ。これは本当に感動的な音楽なのだろうか。いい音楽なのだろうか。ただ、どうしようもなくこういうのが好きな私がいるんです。小林武史という音楽家は本当に罪なヤツです。
 実はですねえ、小林さんにとっては名誉なことかもしれないんですが、こういう個人的な不安というのは、ビートルズに対しても持っているんです。あの、ビートルズにですよ。神に対する不信感ですよ。いや、そんな下衆の直感はすぐに忘れればいいんで、そうすれば、やっぱりいいなあ、と思えるんです。でも、なんていうかなあ、どこか作られた感じがする…ちょっと違うなあ、なんだろう。
 確信犯っていうのかなあ。最初から名作を作ろうというのが見え見えなんですかねえ。体の奥底とか魂の中心とかから、衝動的に生まれるべきモノなのに、そうじゃなくて頭の中で作られた音楽のような気がするんですよ。失礼かもしれませんが、ちょっと最近そういうことを感じるようになってきたんです。
 私のいつもの言い方ですと、「モノ」じゃなくて「コト」の音楽なんですね。ものすごくよく造形されているし、それはある意味職人的であり、お見事!と言いたい音楽です。そのへんに溢れる商業的なゲテモノとは比較にならないほど、クオリティーは高いですよ。でも、何かが足りないような気もする。
 小林さんの仕事って、どこかデジタル的な感じがするんですよ。いや、音自体は昔も今もアナログチックですよ。そういうことではなくて、なんていうかなあ、完璧すぎるというか、ある種無表情な感じもするんです。
 ちょっと話がSalyuさんからそれちゃいますけど、あのレミオロメンの「HORIZON」なんか、まさにそのサンプルのような感じですよね。彼らの生々しい、粗削りだけれど心のこもった詞や曲や演奏が、小林さんによって見事にソフィストケイトされちゃいましてね、なんか魅力が半減してしまった。
 今思うと、ミスチルもそういう感じが強い。彼らのもともと持っていたフォーク色のような、そうやっぱり田舎臭さかな、それが全くなくなってしまった。まあ、だから売れたんでしょうけど。サザンの桑田さんみたいに、コバタケ以上の個性があればね、ちょうどいい具合になるのかもしれませんけど。
 さて、話はようやくSalyuさんに。相変わらず彼女の声は魅力的ですし、うまいと思います。でも、だからと言って、心に響いてくるかというと、ちょっと物足りないとも言えます。72分間、彼女は一生懸命歌い続けます。曲がいいですから、決して飽きたりしないですし、ある意味快感を与えてくれますが、涙が出るほどではないんですね。まあ、最近美空ひばりとか聴いてるからかなあ。もっといろいろな表現があってもいいような気がするんです。
 言葉と歌の最も幸せな共同作業という意味において、全然こっちに来ないんです。それって、まさにひばり節に実現してるんですけどね。だから、Salyuの声は楽器のようにしか響かない。一青窈の書く詞(詩)の世界はなかなか良いと思いますし、何度も言うようにコバタケの曲も完璧なんですけど、それぞれがバラバラな感じがするんです。
 難しいところですね。私は偉そうなことを言える立場ではありませんが、小林武史という人は本当にアーティストなんでしょうか。本当に大好きですし、尊敬してるんですけど、なんで最近の私はこんなことを思うんでしょうねえ。
 ん?やっぱり、歌い手の消化不良なのかな。急にそんな気がしてきました。楽曲に負けてるのか!そうかもしれないなあ。んんん…名盤なのに、なんでこんなに苦しいのだろう。
 しかし、確実にSalyuは前に向かっているとも思うのでした。「故に」に聞こえてくる、よな抜きな響きは、意外にも彼女にマッチしていました。ああいう曲をもう少しひばりさんみたいに唄えたらなあ。なんて、酷な要求ですかね。
 まあ、とにかくめちゃくちゃクオリティーの高いアルバムですから、じっくり聴いてみますよ。そして、感じたり考えたり、自分なりに頑張ってみます。自分も音楽表現者のはしくれとして、避けて通れない部分ですので。

Amazon TERMINAL

「トビラ」フル試聴

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2007.03.27

追悼 植木等

Ueki23 ああ、また昭和の天才が…。昨年、映画のロケでのお元気な姿を見ていただけに、まさかこんなことになるとは。クレージーキャッツの皆さんや青島幸男さんのところへ往かれたんでしょうか。
 本当に頭のいい方だったようです。そして人格的にもものすごい紳士だったとか。その方が無責任男を演じ続けたというのは、実に象徴的なことでした。
 皆さんご存知のように、植木等さんはお寺の息子さんです。浄土真宗のお寺さんだったと思います。「わかっちゃいるけどやめられない」は、まさに当時としては破格であった妻帯・肉食を憚らなかった親鸞につながりますね。ただただ禁欲的になるのではなく、そうした人間の本質をしっかり見つめた上での信仰、修行ということでは、植木さんもまた、現代の親鸞であったのかもしれません。大袈裟ではなく。
 私には残念ながらクレージーキャッツの思い出はあまりありません。私にとっては、石井聰互監督の「逆噴射家族」と、ドラマ「オヨビでない奴!」の植木さんが、最も強いイメージを残しています。「逆噴射家族」でもメチャクチャなおじいさん役でした。彼の登場によって、家族それぞれの欲望や煩悩が逆噴射しはじめるわけで、考えようによっては、これまた親鸞的なのかもしれません。「オヨビでない奴!」と言えば、伝説の美少女磯崎亜紀子と、バイク事故で夭逝したアイドル高橋良明が主演した人気作です。植木さんは、ここでもまた、ハチャメチャなおじいさん役でした(ちなみに父親は所ジョージ)。なんとなくの記憶しか残っていませんが、植木さん扮するおじいさんの無責任さが、結局はいろいろな問題を解決して行ったような気がします。このドラマ、タイトルからわかりますように、実は植木等さんが主役だったのかもしれません。第1回のタイトルも「コリャマタ失礼しました」でしたし、毎度一回は植木さんの持ちネタが出ていたと思います。
 「無責任」というのも、ある意味では我執を捨てている境地とも言えます。人任せというのは、結局のところ「縁」にまかせるということであり、これもまた、お釈迦さまの教えの通りなのかもしれません。今、「自己責任」ということが盛んに言われていますが、実は今こそ「無責任」ということの大切さについて考えるべき時なのかもしれませんね。
 とりあえず今から、ウチにある「逆噴射家族」を見直してみます。ご冥福をお祈りいたします。

Amazon 逆噴射家族 オヨビでない奴!

スーダラ伝説~植木等 夢を食べつづけた男~

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2007.03.26

アニメと民芸

Chorda 3月に入ってからハチャメチャなスケジュールで、すっかり疲れ切ってしまいました。それでも、いちおうハッタリの連続技で難局を乗り切りまして、今日は帰宅後は久しぶりにまったりいたしました。
 さて、じゃあこの期間に録りためたテレビ番組でも観ようかと思いまして、HDDレコーダーの電源を入れました。えっと〜、ライヴ番組もいろいろ録ったっけな。でも、ちょっと時間がかかりそうなので、これらは後回しにして…と。これもちょっと重そうだな、今日は無理だ。あっそうだ!マイメロの最終回観なきゃ。
 根っからのアニメ苦手な私ですが(ホントですよ)、唯一欠かさず観たのがこのマイメロでした。ちょっと後半、作り手の皆さんに余裕や意欲がなくなっているのが、画面から伝わってきてましたけど、基本的には大変楽しめました。マイメロのテーマは人間の「嫉妬心」でしたね。そして、「近づきすぎると不協和音になっちゃう」、これです。柊兄弟なんか、その典型でありました。そして、不協和音が解決する瞬間の美しさ。これはですねえ、例えば昨日のコンサートにおけるバッハの音楽なんか、ほとんどそれで出来ているわけでして。うむ、なかなか深い。
 さて、それに続きまして、日曜の夜中に毎週録っている、NNNドキュメント、プロレスリング「ノア」、ジャパネットタカタの連続技でも観るか…。と思って再生したら、あららららら、なんとチャンネル間違えてるし!!テレ東じゃないか〜!うわぁ、なんだこりゃ。これが噂の深夜アニメか?
 ん、なんかクラシック音楽ネタのアニメだぞ。どわぁ!バロック・チェロだって?!たしかに足がない。しかし、弓の持ち方がガンバだ!(笑)!ん、なかなかマニアックだなあ。このバッハの無伴奏のアテレコ、誰が弾いてるんだろう。たしかにガット弦の音がしているような…。あとで調べましたら「金色のコルダ」というアニメでした。全然知らん。これもまた最終回ということで、なんかいろんな楽器の演奏シーンが。なんかよくわからんがヒロインの清楚なヴァイオリンに感動してしまった(笑)。
Manabi で、続いてまた初めて観るアニメが。えっと、「がくえんゆーとぴあ まなびストレート!」…なんじゃこりゃ。最初幼稚園ものかと思ったら、ええ〜これ、高校生なの?う〜む。これが典型的な「萌え系」なのか。体は微妙に成熟しているが、顔やキャラや声や動作は妙にロリである。このオタク男のコンプレックス(リアル大人女苦手症)を解放する妄想物語的世界観よ。素晴らしいではないか!正直よく分からない世界なので、一つ一つツッコミを入れつつ、分析的に観るしかないっす。う〜ん、カミさんが指摘するように、足が太いし、足を無防備に開いている絵が多い。非常に幼女的だ。触角もあるし、髪が変にてかっている。これらの記号はなんなのだろう…。
 と、まだまだ深夜の濃厚アニメタイムは続くのですが、正直びっくりしながら拝見しつつ、思ったことは…これは「民芸」だな、ということ。そう、「芸術」ではありません。まさに柳宗悦が提唱した「民芸」ですよ。大量生産され、大量消費されていく造型。
 ご近所のアニメーターの方、今や売れっ子作画監督さんにまで出世なさってるんですけど、彼女おっしゃってました。「好き、上手い、早い」は当たり前!そこから先が勝負です!う〜、かっこいい。彼女の家には、毎日定時に専用宅配業者の車がやってきます。大量の原画やらなんやらを集荷に来るんです。毎日がしめきりなんですね。もう、あるレベルで描くのはホントに当然のこと。そこから先に、彼女の個性、才能が微妙に表れるんでしょうね。柳宗悦の言うとおりです。職人的な仕事の中にこそ、本人らしさ、あるいは日本人らしさというのが表現されるのです。そして、その小さな個性が積み重なって、日本的な伝統となっていくんですね。
 だから、私はいつも言っています。「をかし=萌え」は時間を微分していく行為の上の感情です。しかし、それが積分されて、結局「あはれ」の世界になっていく。日本の伝統文化を見てみますと、ほとんどそういった流れの中にいつの間にか確乎としたものが確立していってるんですね。そして、それが外国に認められたりする。日本人はあくまで「をかし=萌え」精神?でやってますから、あんまりたいそうなことしてる意識ないんですよね。
 と、チャンネル間違いから、とんでもない文化論に行ってしまいましたが、こういうセレンディピティーも「縁」ですよね。私の中にいろいろなものが「縁起」いたしました。ありがたや、ありがたや。

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2007.03.25

『バッハ コラール・コンサート』@教会&お寺

コラール(賛美歌)に聴く信仰の形
Chorale2 う〜む、今日は濃い一日でありました。充実したと同時に、自分の心がずいぶんと浄化され、また豊かなものになりました。本当に皆さん、ありがとうございました。
 朝、昨夜呑み過ぎたせいか、私にしてはゆっくり起床。これまた珍しく朝食をとって(ちょっとですけど)、午後のコンサートの準備に取りかかりました。外は春の嵐。しかし、私たちの心はすっかり凪いでいます。共演者の渡辺敏晴さんも私も、まずはおもむろに個人練習が始まります。なぜかお互い、エレクトリック楽器で控え目に練習してるのが、なんとも不思議な光景であります。
 そして、いつのまにやら合奏モードに入りまして、結局一回合わせて「なんとかなるな」ということで休憩に。そのあと昼食をとって会場入りしました。会場でやはり一回通して練習しまして、さあ、本番に突入です。おかげさまで、多くのお客様にご来場いただきまして、約2時間、充実した演奏会ができたと思います。演奏的には多少?の瑕疵はありましたけれど、そこそこのレベルだった…かな?今回は解説つきの演奏会ということでして、牧師さまはじめ、クリスチャンの方々もいらっしゃる前で、私のような門外漢が、コラールについて、そして受難や復活について語るという状況は、緊張こそしないのですが、ちょっとこそばゆいと言いますか、妙な感じもいたしました。時間的なこともあって、勉強させていただいたことの2割くらいしかお話できませんでしたが、アンケートでは概ね好評のようでしたので一安心。
 いやあ、本当になんでも言ってみる、やってみるものですなあ。とにかく、自分の思いつきの提案を快くご理解下さり、ご協力下さった、牧師さま、そしてわざわざ遠くからいらしてくれたポジティフ・オルガンの渡辺敏晴さん、本当にありがとうございました。
 さて、今日は教会での演奏会で終わらずですねえ、なんと終演後、オルガンとヴァイオリンと、そしてコラール(!)を引っ提げてお寺に向かったのであります。昨年の秋口にも、渡辺さんと小さな演奏会をさせていただいた吉祥寺さんです。その時の模様はこちらの記事に書きましたね。今回も、子どもたちを交えての座禅のあとに演奏しました。しかし、お寺さんでコラールを演奏する日が来るとはねえ…感無量です。そういうことを許してくださる、いや、逆に「Wake up!(目覚めよと呼ぶ声…)」のリクエストをする、そんなスケールの大きなご住職様に、心から尊敬と感謝の念を表したいと思います。まさにとらわれない禅の形そのものですね。演奏会後の座禅や茶話会も充実しました。ありがとうございました。
 今日は、本当にいろいろなことを考えさせられましたね。そして感じさせられました。音楽を通じて自分を見つめることの大切さ。内側に向かう音楽というのが、最近少なくないですか?
 瞑想の手段はいろいろあるのです。音楽もありますし、座禅もあります。マントラやヨガもあります。いずれにせよ、私たち現代人は、そうした非日常的空間を作り出さないと、自分の内側をのぞくことができないのです。私たちはどうしても外に向かう生活をしがちです。極端な話、ひきこもりと言っても、ネットで人と関わろうとしたり、結局心は外に向かっているのです。内側に向かうというのは、決して一人になることではありません。逆に多くの縁を得て、人や自然、あらゆる外界と交わる中で、自分の存在の本質に気づく。そして、生かされている、生かしている自分に気づく時、私たちのインナー・トリップは始まるのです。そして、あらゆる宗派を超えて、その旅のあり方こそ、正しい信仰の形であると思うのです。
 今年のキリスト教の復活祭(イースター)は4月8日です。そうです、お釈迦様の誕生日(はなまつり)の日です。イースターは毎年動きますので、このような年はそうそうあるものではありません。私個人といたしましては、それを単なる偶然とするのではなく、自らの内側を見つめる新しい旅の始まりにしようと思っています。仕事上も、ちょうど入学式の日ですし。

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2007.03.24

コキリコ社 『FIRST ALBUM』

Gd562 夜、明日のコラール・コンサートで御一緒する渡辺敏晴さんが到着。明日コンサートなのに、いまだ一回も合わせず、そして呑み始めてしまった私たちって…。ま、もう長いおつきあいですし、(せっぱ詰まるという)経験の豊富なワタクシたちですから、こうして、呑みながら呼吸を合わせていくのも大切な準備の一つです(?)。
 さて、呑みながらの話題は、と言いますと、これまた明日のことはさておきまして、長谷川きよしのこと、椎名林檎のこと、レミオロメンのこと、歌謡曲バンドのこと…むむむ、私たち古楽人ではないのか!?
 そう、私たちにとって、活動のフィールドとして、たしかに古楽というのは重要なんですが、どうもあの独特の狭っくるしい世界に違和感を抱いているのも事実。古楽器を演奏しているからこそ分かる、古楽界の現状というのもありましてね。まあ、そんな話もいたしました。
 その…、最近渡辺敏晴さんのグループ「コキリコ社」がお出しになったCDは、古楽器をフルに使いつつ、既成の古楽のイメージからは大きく逸脱した、とっても健康的な内容になっています。今日は、ひいき目なしにこの素晴らしいCDをおススメいたします。
 まず、メンバーと楽器、そして曲目をどうぞ。

渡辺敏晴 ヴィオラ・ダ・ガンバ、パルデュッスー
鈴木理恵 リコーダー
立野政幸 リュート、バロックギター
大滝眞 ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロックギター
渡辺かの子 ヴィオラ・ダ・ガンバ

1ブフォンズ 2新しいサルタレッロ 3昔のサルタレッロ 4タランテラ 5コントラダンス 6ジャヌゾンプリ 7新しいタランテラ 8サリーガーデン 9古いイギリスのダンス 10聖母とその子 11彩雲追月 12うみ 13竹田の子守唄 14初こひ 15さくらさくら 16ラメント 17アルマンド・ラ・ノネッタ 18プレリュードとチャコーナ 19リッリブルレロ 20ミヌエット 21リガドン 22イタリアングラウンド 23バッハのアリア

 ご覧になって分かる通り、本来の西洋古楽の作品も取り上げられていますが、中には日本のうたや、中国の曲、そして敏晴さんのオリジナル曲も数曲入っております。編曲はほとんど敏晴さんが担当されているとのこと。独特の世界観に基づいた無駄のない編曲はさすがです。
 さて、このCDの印象ですが、敏晴さんは一言「癒し系」とおっしゃていましたけど、私はその言葉には収まりきらない空気を感じましたね。呑みながらの対話の中にも何度も出てきましたが、西洋的なリズム感やテンポ感とは違う、東洋的な日本的な「呼吸」感。伸びたり縮んだりするし、濃くなったり薄くなったりもする。大きく深呼吸した時の胸の広がりと、自然見上げられる空の広がり。地球の風が胸にすうっと入ってきて、自分に溶け込んでいくような、そんな感じの音楽なんです。「いき」です。「いき」というのは、「息」であり、「粋」であり、「意気」であり、「生」である…。
 敏晴さん、いちおう専門はチェンバロなのかな?明日はオルガンを弾きます。でも、このCDでは鍵盤は弾いていません。ギターやヴィオラ・ダ・ガンバ、日本の胡弓、それに中国の琴、なんでも弾けるスーパー・プレイヤーなんです。このCDでは歌も歌ってる。なんでもできるんですね。しかし、ただ弾けるとか、そういう次元ではないんですね。それぞれの音楽をよく御存知だし、ある意味それらのボーダーがない。スケールが大きいんです。
 私が聴いた中で、象徴的だなあ、と思ったのは、「さくらさくら」で「やよいのそらは」の「い」の音が、ガンバとリコーダーで見事に半音違うんですね(敏晴さん曰く、半音よりちょっと狭いらしい)。私はそれを大変美しいと思った。ぐっと来ました。私もちょっぴり日本音楽に関わったことがありますし、どちらかというとよく聴いてきた方ですから、たとえば雅楽におけるそうした不協和音の美しさというのを、比較的理解できるのではないかと思います。それでも、西洋古楽器でこれをやられたら、それこそ「やられた!」と叫びたくなります。これは勇気のいることだったのかもしれません。頭の堅い人だったら、間違ってる!とかヘーキで言い出しそうですし。
 その他にも、世間の偏った常識からすると、「障り」と分類されそうな音や響きがしっかり録音されています。私にはその「さわり」こそが美しく感じられましたが。こういう姿勢、私は完全に賛同いたします…って言ったら、次回作には私のパートも作ってくれるって!イェ〜イ!!ああいう呼吸の中に入って風のような音楽を奏でられたら、うれしいなあ。
 純粋に聴いてみたい、あるいは最近心がささくれ立ってるなあ、という方は下記までどうぞ、とのこと。
 近い内にフランスでもオンエアされるそうです。これは、かなりのインパクトを与えるのではないでしょうか。東洋からの風はたしかに届くものと信じます。

お問い合わせ、ご注文
office@kokirikosha.com
370ー0864
高崎市石原町1327ー1
「コキリコ社」
電話 027(326)1052

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2007.03.23

『つっこみ力』 パオロ・マッツァリーノ (ちくま新書)

Tsukkomi ノーストレスで読めますよ、との触れ込みでしたが、私にはちょっと屈折したストレスが…。
 そう、こやつなかなかやりおるなあ、正直負けてる…というストレス。あと、まるで自分の文章(の理想像)を読んでるようできつかった。マッツァリーノの文章、私の同様、ですます調講演体だし、内容もちょっとふざけつつ毒舌を利かせるタイプの文章なんです。で、それが一冊まるまる続くわけで、そりゃあ辛いですよ。お笑いのネタも数分で終わるからいいようなものを、あれが何時間も続いたら、ちょっときついっすよね。
 最近、このブログにも文章が長いとの苦情が多く寄せられます。昔みたいに短くしてくれないと読む気がしないとのこと。すみません。文章が長くなるというのは、たいがい悪い前兆でして、調子に乗りすぎるほど日常が健康的か、自己添削(というか「削」だけですね)能力が欠落するほどに日常が病んでるか、どちらかなんです。どちらも結果はよくない。
 マッツァリーノ氏もおそらく同様の状況と思われます。どちらかは自分同様分かりませんが、もしかすると自分同様両方なのかもしれません。とにかくもの書きとしては、あまり望ましい状態ではありません。
 しかしそれでも、ホントに面白くて、悔しいけれど、自分が言おうとしていたこと、やろうとしていたことを、完全にやられてしまった。さらにそのレベルが、どう考えても自分の想定したものよりハイアーなので、もう完敗を認めるしかないですね。
 パオロ・マッツァリーノ…似非イタリア人という設定自体、似非坊主と同様に「痛い」寸前です。その彼が、おふざけしつつ、ひそかに熱く語っているのは、もちろん「つっこみ力」についてです。「ボケ」と「ツッコミ」の「つっこみ」です。つまり、「メディア・リテラシー」「リサーチ・リテラシー」「論理」なんていうものを使って、いかにもお堅く、相手の間違いや欺瞞を減点発想で批判するより、それらを加点思考で笑っちゃった方がいいと…うん、そうその通りだと思います。
 マッツ氏はこうも語ります。わかりやすく面白くなければ誰も振り向いてくれない、正しいことを難しく述べているだけでは、喜ばれるどころか嫌われると…うん、その通り。教師なんかやってると、ホントこれですよ。本文に「民主主義とはおもしろさのことである」とありますが、これもいつも私が言っていることそのものです。政治家に必要なのは演劇性です。何人を振り向かせるか。
 「つっこみ力」を構成するのは、「愛」と「勇気」と「お笑い」だそうです。相手を不快にさせない「愛」と、権威にはむかう「勇気」と、正しさを面白さに変える「お笑い」。そして、それが目指すのは、究極のところ、お互い「てきとうな」平和な社会だと読み取りました。うん、かなり私の理想に近いですね。
 テレビのテロップや、出版物の誤植などを見つけると、すぐに抗議の電話をする人がいます。私なんかは、「やった!」とばかり喜んで、その天然ボケをネタにしてツッコミを入れるんですけど、この両者の違いはいったい何なんでしょうね。私のごく身近にも、青筋立てて人の過ちを糾す方がおられますが、私は不思議でなりません。彼らからすると、私やマッツ氏の、こうしたフニャフニャな姿勢こそが人としての誤謬であり、かの怒りを増幅させる原因そのものらしいんですが(笑)。どうも何か根本が違うようですね。おそらく自分の「怒り」が自分にとってあくまで不快なものなのか、それともある種のカタルシスを生むものなのかの違いのような気もします。
 それにしても、マッツ氏の経済学嫌いは相当のものですね。ちょっとやりすぎなくらいの徹底的批判です。つっこみのつもりで書き始めたけど、ついつい興奮して御自身のお嫌いな「批判」になってしまった。けっこうなヴォリュームのあるその部分は、正直読んでいて不快になりました。「愛」が足りない(笑)。
 後半のデータ信仰、データ原理主義につっこみを入れるコーナーは面白かったのに。何か違うんだろう。結局、そのへんのさじ加減の難しさでしょうね。つっこみが行きすぎて、あるいは具体的になりすぎて、その矛先に「個人」を感じさせるようになると、途端にこちらは不快になるようです。
 そのあたりは、このブログでも同様ですね。気をつけねば。からかいや揶揄と、いじめや中傷の境目というのは、実に微妙で難しいものです。
 と、こんな具合で、なんとなく自分をいつもと違う角度から見たような読後感が残りました。そういう意味でも、非常に楽しくためになる読書であったと思います。この本は、読者を選ぶだろうなあ。拒否反応示す人もたくさんいそうだなあ。
 あっ、そうそう、この本でも齋藤孝さん、ネタにされてました。人気あるなあ。

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2007.03.22

『ぷちナショナリズム症候群』 香山リカ (中公新書ラクレ)

若者たちのニッポン主義
Nationalism これまた今さらという本ではありますが、ささっと読んでみましたので感想など。
 最近また若者やネット社会の右傾化ということが言われますね。本当でしょうか。私はある世代から見ればまだまだ若造ですし、ネットもよくやりますからね、右傾化していてもおかしくないわけです。で、実際どうかと言いますと、やはり右傾化していると、たとえば父親なんかに言われるわけですね。右傾化という言い方はされないが、しかしやや左シンパの父親からすると、大変に違和感があるらしい。
 じゃあ、もっと若者、高校生たちはどうかと言いますと、これはもう全く何も考えていない。右か左かと問われれば、「右利きですよ」と答えるのが普通でして、お前ら右傾化してるぞ、と言われても何のことかサパーリ分からずキョトンとしています。
 香山リカちゃん(ってことですよね)は、まさにそういう何も考えていない愛国ムードを「ぷちナショナリズム」と読んで憂慮しているわけですね。いずれフランスみたいになるんじゃないかと。
 どうなんでしょう。私なんか、いちおう右も左もよく分かっている上で、ソフトな右派を標榜してはばからない輩なんですが、そんな張本人の実際の心の中はやはり「何も考えていない」なんですね。そういう対立軸に関する知識や思索は、ある意味人よりも多い方かもしれません。仕事や趣味の関係上ね。でも、頭と心は違うんですよ。語弊を承知で言えば、ファッションとしてライトな(軽い)ライト(右)を着こなしているという程度なんです。
 なぜそういう服を着ているのか、それを分析してみますと、単にその方がカッコいいし気持ちいいからですよ。それと、やっぱり流行というのもありだと思います。自分の延長としての国家を肯定したいんです。自己否定がはやった時代もありましたが、今はその反動もあってか、そういう暗いのってダサいんですね。でも、単純馬鹿な発想からすれば、肯定の方が健康的じゃないですか。世の中が、そういうムードなんですよ。
 2ちゃんなんか、あの街は渋谷や原宿以上にファッションにうるさいですからね。同じ格好して同じ言葉使わないと排斥されちゃいますからね。そりゃあ、ああなりますよ。かと言って、あそこで過激な発言している連中が、日常で思想的行動をしているかと言うと、それはほとんど皆無でしょう。渋谷でラッパー風の格好してるからって、みんながみんなラッパーじゃないってのと同じです。
 では、そういうライトな似非思想というのが、ヘビーな思想になる可能性があるのかと言うと、ずばり「ある」と思います。それは実際にそういう歴史があったから、可能性は当然ゼロではない。しかし、流行がそのまま成長して本物になるかというと、それはまあ「ない」でしょう。つまり、当たり前ですが、国家なりなんなり、別の主体の意思が働いて、それに乗っかって本物風になっていくことはあると思うんです。でも、それはあくまで「本物風味」であって、「本物」ではない。
 そこのところなんです。リカちゃんの憂慮するぷちナショナリズムの発展形は、その「本物風味」なんですね。その憂いが実現するためには、外部要因が必要なのです。私たち大衆には、心配するほどの主体性はありません。本物の思想をするほど、大衆は賢くないんです。いや、本物の思想家になったら、もうその時点で大衆じゃないっすよね、考えてみれば。
 ですから、私たちが心配すべきは、大衆のそうしたファッション傾向ではなくて、主体たる可能性のある、もう一方のファッショ傾向なのです。もちろん世の中では、そっちの心配もたくさんしていますね。小泉さん以上に安倍さんは心配されちゃってますし。それでも、こういう軟弱な大衆社会になっちゃったら、いくら主体が笛吹いても、私たちは踊りませんよ。せいぜい2ちゃんで吠えるくらいが関の山です。
 てな感じで、どうもこの本を読んでもピンときませんでした。だいいち、リカちゃんの話、ほとんどが他人の意見の引用と、ちょいと無理のある物語に終始してて、全然説得力ないんだもん。まあ、そもそもリカちゃん自身、それほど心配してないのかもしれませんね。ただ、流行にうまく乗れない自分の気分を慰めるために書いたのかもしれません。大衆に「集団気分」を催すほどの力はなく、まあ流行通信程度の本だということでしょうか。あっそうそう、齋藤孝批判は的を射てました(笑)。

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2007.03.21

『日本語力と英語力』 齋藤孝+斎藤兆史 (中公新書ラクレ)

Wsaitoh 今日から進学合宿というヤツに突入いたしまして、私もじっくり勉強させていただいています。そこに明治大学に通っている卒業生が遊びに来まして、私がこの本を読んでいたら、「あっ、齋藤孝だ」と。で、私も「そう、齋藤孝だよ」と。二人顔を見合わせてニヤッと笑いました。その笑いの意味はご想像下さい。まあ、彼にとっては先生でしょうし、私にとっては高校の先輩ですからね。お互いよく知っているわけでして…(笑)。
 さて、この対談集、現今のコミュニケーション重視のおバカな英語教育に苦言を呈するもので、そういう意味では、けっこう楽しく読ませていただきました。うすっぺらな会話表現なんてやらないで、型たる文法学習や名文の素読をやりましょう!それから、まずは国語教育でしょう!というヤツです。
 特にもう一方の「サイトウ」さん、新字体の斎藤さんの、英語教育研究者としてのお言葉には説得力がありましたね。私はこちらのサイトウさんについては、今まで存じ上げませんでした。そして、新字体さん、旧字体さんとは違って大変謙虚な印象を与えます。いや、けっこう強い調子で現状を批判しているんですけどね、なにしろ、旧字体さんがすごいもんで(笑)。
 対談なのに旧字体さんのしゃべくり、多すぎますよ。それも、若者の「オレさま症候群」を憂慮しておきながら、「齋藤メソッド」や新作?の「先生増殖方式」を力説する際には、いかに素晴らしい成果を挙げているかを興奮して語った上に、「今すぐ文科大臣になってこれで日本中を変えたいくらいですよ」なんて言っちゃうんだもん。ちょっと引きます。
 さてさて、英語教育に関して、最新の私の実感を少し書いておきましょう。
 最近、何人かの教え子が恐ろしいほどに英語ペラペラになって帰ってきました。そいつらは何年か向こうに行ってたんですね。で、面白いのは、そいつらみんな高校時代英語ダメダメ生徒だったってことです。お前英語赤点だったじゃん!って何回笑ったことか。で、反対にセンター試験て満点近くとって、外語大に行ったヤツが今どうかというと、全然ペラペラじゃなかったりする。つまり、英語がペラペラになるためには、向こうに何年か住めばいいということです。ただそれだけ。そこには偏差値もセンスもあまり関係ありません。あえて言うなら、向こうで一人でやっていける、そういう精神力…いや、彼ら彼女らを見てると、いい意味での子どもっぽさ(ほめことばですからね)が必要なんです。つまり、大丈夫かなあとか、恥ずかしいなあとか、そういうことをあまり感じない性質ですかね。妙な積極性とか楽天性。それ最強です。違う言い方をすると、子どもが母国語を学んで行く過程と精神状態を大人になってもできる、そういう性格ですよ。
 こうした実例を見ると分かるんですが、文科省が唱える方法が有効な場合もあるし、両サイトウさんが唱える方法が有効な場合もあるんですね。残念ながら、やはりいろいろありなんです。逆に言えば、旧字体サイトウさんのように、「私のやり方でやれば、全ての子どもが喜び、そして伸びる」という、ある種の原理主義的な発想はいかんと思うのです。
 ちなみに私は旧字体的国語教育にはなじみません。なにしろ、生来暗唱が大の苦手でして、国語の先生なのに、有名作品の冒頭部分すら全く覚えられません。また、サイトウさんたちの言ういわゆる名作もほとんど読んでいません。まあ、それでも、いやそれだからか、国語のセンセイなんてのもそこそここなしてるし、こんな駄文も毎日書けるわけでして、事態はそう単純なものではないということです。
 学校というところは、そういういろいろなタイプの生徒が(先生も)混在しているのが当たり前でして、それでとっても難しいことになるわけです。これこそ万人向けの特効薬だ!というのはないのです。その多様性をどうまとめあげていくか。個人と集団、それぞれのプロデュースをしなくてはならないのが、教師の仕事の難所でありやり甲斐なのでした。
 さらに難しいのは、エライ人たちの議論は、あくまでエライ人たちの議論にすぎない点です。現場の教師としても、世間の大人としてもよく分かりますが、東大に入る人は私たちとは決定的に違います。いかんともしがたい。だから、政治家やら学者さんやらの言葉や、その攻防はどうしてもあっちの世界のものにしかならない。誰も言わないので、あえてはっきり言ってしまいますが、頭のいい人が頭の悪い人の「気持ち」を考えるのは、非常に困難です。
 最後のはちょいと蛇足、いや問題発言かもしれませんが、しかし、教育の本質は、実はこの部分に存するわけでして。お分かりになりますよね。親子の関係もそうです。「持てる人」から「持たざる人」への情報伝達なわけですから。ですから、その自らと違う世界をどう観察していけるのか、あるいはその心を忖度していけるのか、私たちはそれを日々試されているわけです。それはもう学問とかメソッドとかの領域ではありませんね。
 ああ、また話がそれた上に長くなってしまった。こめんなさい。

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2007.03.20

『ことばの歴史学』 小林千草 (丸善ライブラリー)〜なにげに

源氏物語から現代若者ことばまで
05280 とりあえず図書室でさくっと読んでみました。なにげに面白かったっす。
 …という書き出し、それほど違和感ありませんね。さすが平成軽薄体の不二草紙です。「なにげに」「とりあえず」「さくっと」、これらの言葉は、この本の後半で現代若者ことばとして採り上げられ、サンプルを集められ、分析されています。たしかにこれらの言葉、今ではすっかり市民権を得て、辞書にまで載るようになっていますけれど、この本が書かれたおよそ10年前には、かなり新しい感じを与えるものでした(「とりあえず」は少し古いけど)。
 私は仕事柄でしょうかね、若者ことばの洗礼を受けながら毎日を送っていますので、年齢の割にはこれらを早いうちから使えるようになった方だと思います。それでもいろいろな新語については、自分で辞書を編纂するとした場合、どういう解説を加えようか、案外迷うものもあります。たとえば先ほどの「なにげに」。これはなかなか難しい。そして興味深い。皆さん、はっきりと他の言葉で言い換えられますか?
 この本でも大変多くの使用例が大学生を通じて挙げられているんですが、微妙にニュアンスを変えながら広範に使われているようで、結局定義的な結論は出ずじまいです。語源的には、「さりげなく」→「さりげに」という変化からも想像されるように、「なにげなく」→「なにげに」だと思っていたんですけど、どうもそれほど単純ではないようですね。ちょっと意外だったのは、ある大学生が「山梨の祖母が使っている、甲州の方言なのではないか」と報告していたことです。この情報は初耳です。地元民として、私も調べてみようかと思いました。とにかく「さりげなくの誤用」という最近の定説を疑うところから始めたいですね。
 私の感覚から言えるのはですねえ、「なにげに」の背後には、誰かにとっての「想定外」というニュアンスが存在するということです。「なにげに美味い」とか「なにげによく出来た」などは、自分にとっての「想定外」「予想外」ですし、「なにげに宿題やっちゃったもんね〜」なんていうのは、相手にとっての「想定外」だと思います。「あいつなにげに寝てるし」は全体の空気にとっての「想定外」という感じがします。「なにげにカッコよくない?」「なにけに驚いた」「なにげに気合い入った」「なにげにへこんだ」…いつもの私の論的には「モノ」性を帯びた言葉と言えるかもしれません。自分の意志とは別の力が働いている。そういう意味でもとっても興味あるんで、もうちょっと深く研究してみたいと思います。
 さて、この本ですが、前半はおそらく一般の読者の皆さんには、とっても退屈だと思われます。私のように「ことばの歴史学」を専門にやってきた者でも、なにげに眠くなりましたんで(笑)。まるで大学の講義のようで(ってほとんど大学の講義そのものらしいのですが)、分かりやすく説明してくれているんですが、なにしろマニアックすぎます。後半の若者ことば編を頭に持ってきて、歴史をさかのぼっていくという形式の方が読者にとってはよかったかもしれません。
 最後にこの本を読んで再確認したことを。私はやはり、なんでもかんでも「言葉の乱れ」で片づけてしまう「思考の乱れ」には陥りたくないですなあ。今までも記事の中でたくさん書いてきましたが、「言葉の変化」には必ず理由があり、そこには「必要性」も必ずあるんです。一時の流行で終わるものは別として、定着していくものに対しては、頑なに拒否するのではなく、素直に受け入れていくべきだと思います。まあ、これは言葉に限らず、全ての事象にあてはまりますけどね。特に音楽や美術の歴史をふり返ってみると、変化を乱れで片づけることの愚かさが分かるでしょう。もちろん、それぞれの変化の現場においては、抵抗勢力の存在にも大きな「意味」があるわけですが…。
 そのへんに関しては、こちらの清少納言さんと私のコラボレーションがいろいろと参考になると思います。

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2007.03.19

『宇多田ヒカルの作り方』 竹村光繁 (宝島社新書)

Utadahikaru 懐かしい顔ですねえ。800万枚も売れたんですか!?今じゃありえませんね。で、ずいぶんと古い本ですが、図書室で目についたので得意の即読をしてみました。なかなか面白かったし、勉強にもなりましたよ。
 この本は今では絶版となっています。まあ、これは「旬」のある出版物の典型ですね。しかしですねえ、私としては、彼女の日本デビュー・アルバムを客観的に聴くことのできるようになった今だからこそ、この本の面白みも増すと思うわけです。ちょっと前に離婚(やっぱりね)で世間を騒がせましたし、最近の彼女の楽曲はまたずいぶんと変わってきましたしね。今まで読むのを我慢してきて良かった(って忘れてただけ?)。
 この本を書いた竹村さん、紹介には音楽関係のお仕事で活躍されているようなことが書いてあるんですが、正直どのようなことをされていた(いる)方か存じません。第一、この本で業界の裏話(まあ常識とも言えますが)をこれだけ暴露しちゃったら、その後来る仕事も来なくなっちゃったかもしれませんね。日本の音楽業界の、アーティストに対する金銭的冷遇をずいぶんと強調していますけど、この本の売り上げと、ご自身の音楽的なお仕事と、どちらがお金になったのでしょう。ある意味、仕事を失う覚悟で書いたとも言えますけれど、今彼はどう思ってるのでしょうね。
 この本は大きく三つの部分に分かれていまして、まずは当時彗星のごとく現れ、天才と評された宇多田ヒカルの、どこがすごいのかを分析する部分。と同時にここでは、安易な称賛に関してはちゃんと一蹴しておりまして、なんとなくですが同意できる部分が多かった。決して深くてオリジナリティーに溢れた論は展開されているわけではありませんが、面白くないことはない。特に、(当時の)ほかの音楽や音楽家に対する辛口批評は、当時の私の感覚にも近いものがありますし、7年くらい経った現状からしますと、結構正しいことを言っていたりします。なにしろ懐かしい名前が並んでるんで、それだけでも楽しかったっす。
 特にビジュアル系に対する揶揄、嫌悪は異常なほどで、竹村さんが非ビジュアル系であることがうかがわれます(笑)。ちなみに私も非〜ですので、当時は竹村さんと同じ立場だったんですが、その後は食わず嫌いはやめまして、たとえばこんな記事書いたりするまでになりました。きっと剃髪してある意味ビジュアル系になったからでしょう(笑)。
 さて次に、竹村さん、ビジュアル系の存在のみならず、本当にいろいろな面において日本の音楽業界に苦言を呈していまして、たしかにその一つ一つが、たとえばアメリカのそれに比べてひどい状況だということはよくわかりましたよ。特に、実際の著作権使用料計算書の写しまで載せて、JASRACと音楽出版社がいかにボロもうけしているかを糾弾しているところは、ここまでとは知らなかったので、けっこうビックリしました。いやあ、音楽で喰ってくのは大変だなや。
 あと、面白いし当たらずとも遠からずだなと思ったのは、売れっ子プロデューサーに対する評価ですね。小室哲哉と佐久間正英についてはA級戦犯扱いです。そして小林武史に対しては王道派としてけっこう高く評価しています。私は佐久間さん、そんなに嫌いじゃないんですけどね。でも、たしかに現在進行形で言いますと、小林武史が一番地道に仕事してるかも。私のブログへの登場回数も圧倒的に彼が多いですね。
 最後は、日本の音楽教育への疑問が書かれています。絶対音感信仰や早期教育信仰の間違いを指摘していて、うんうんとうなずかれます。非常にまっとうな意見でした。結論も「バカ親ではなく親バカになれ!」で、まあ正しいわな。
 昨日、東京へ行く車中でNHK-FM「日曜喫茶室」を聞いていましたら、「アレンジの妙 カバーの粋」というタイトルの下、70年代の日本音楽はすごかったという話で盛り上がっておりました。お客様は、シャンソン歌手のクミコさん、作編曲家の渡辺俊幸さん、常連さんの轡田隆史さんです。マスターは、言わずもがな、はかま満緒さまです。その中で、特に印象に残ったのは、フォークソングバンドのドラマーから、さだまさしさんのプロデューサー、そして世界的な作編曲家になった渡辺さんのお話と作品でしたね。ミュージシャンの才能や楽曲の魅力を何倍にも増幅する仕事をしていらっしゃる彼の、その人柄が感じ取れるトークと音楽でした。
 ああ、音楽ってやっぱり出会いだなと。昨日の記事とも関連しますが、アンサンブルにせよ、曲作りにせよ、ある程度人にまかせることができるというのも、ミュージシャンの才能の一つであるような気がします。誰かとつながる方が世界が広がることだけは確かですから。ただ、誰と出会って誰とつながるか…これは運命なのかもしれません。宇多田ヒカルが今度は誰と出会うのか。別れは出会いの始めでしょうし、今後の彼女の活躍にも期待しましょう。あと、竹村さんの御活躍もひそかにお祈り申し上げます…。

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2007.03.18

古楽三昧!!

↓写真は思いっきり10年前です(笑)
Gregorio 昨日は歌謡曲で楽しませていただきましたが、本日は古楽三昧でありました。いやあ、ホントに音楽って素晴らしい!アンサンブルって素晴らしい!縁ですなあ…。
 今日は午前中ちょっと仕事をして、午後から久しぶりに東京に出ました。まず向かったのは東久留米市にある聖グレゴリオの家。カトリックの教会です。私は若かりし頃?のべ14年間にわたって、ここが運営している宗教音楽研究所に附属するグレゴリオ音楽院の古楽科で古楽アンサンブルを勉強させていただきました。結婚後は卒業させていただき、それ以来なかなか機会がなく一度も足を運ぶことがなかったんですけれど、今日ふと思い立って、本当に久しぶりに…9年ぶりかな…春の演奏会を聴きに行ってきたんです。
 まずは懐かしい皆さんとの再会。先生とも数年ぶりですし、それこそ20世紀以来お会いしていなかった大勢の旧友(とさせていただきます)たちの懐かしい顔が…ジ〜ン。私もですが、皆さん大人になられて…(笑)。それでも、面白いもので、音楽でた〜くさん会話していた人たちとは、久々に会ってもあんまり昔と距離感が変らないんですね。意外に自然に溶け込めました。
 演奏もとても良かった。ヴィオラ・ダ・ガンバ科、チェンバロ科、アンサンブル科の皆さんによる、3時間以上にわたる盛りだくさんのプログラム。ぜいたくな時を過ごさせていただきました。あの教会の聖堂は、専門家のレコーディングにも使われるほど素晴らしい響きを持っています。ああ、久々にここで弾きたいな、と思いました。古楽にとっての響きについて、いろいろと思いを馳せながら聴いていたんですが、ああいう非常に長い残響というのは、物理的には単に不協和音を生むわけでして、なぜそれがあそこまで気持ちよく感じられるのでしょうね。ま、お風呂で歌を歌うのと似た状況です。実際に楽器から出ている音だけでも充分なテクスチュアになるはずですが、それを取り囲む部分の必要性とは何なんでしょう。
 私の考えは、あの豊かな響きに取り囲まれて、あらぬ方向に行ってしまいました。それは最近少し考えている「敬語論」です。いずれまとめて書きますが、日本語の敬語について新しい考えがありまして、まあ簡単に言ってしまえば、相手を尊敬するために使っているのではなく、自己防衛的な意味での婉曲法だと捉えるんてすね。相手を気持ちよくさせて自分の身を守る。私らしいアマノジャク的発想ですねえ。ま、それはいいとして、音楽における響きというものには(あるいはヴィブラートもなんですが)、実はそのような機能があるのではないのか。自己防衛とかではないですよ。ぼかすという意味でです。楽器から出ている直接音という核だけでは、実は音楽は攻撃的になってしまうのかもしれないのです。ケータイの着信音や目覚まし時計から流れる音楽?って、ほとんど核だけのストレートな「音」ですよね。心地よくしてしまったら気づきませんから。で、響きという「ぼかし」が入ることによって、相手を心地よくさせ、安心させ、眠くさせる(笑)。これって敬語に似た部分があるなと。
 こんなふうにいろいろと妄想していたんですけれど、とにかく適度に眠くなったりもしまして、大変に気持ちいい時間と空間を堪能させていただきました。皆さん、ありがとうございました。時間の関係で最後まで聴けなかったことが悔やまれます。また近いうちに音楽院の方にも復帰する方向で検討中ですので、その時はよろしく。
 さて、今日はこれで終わりではありませんでした。皆さんのアンサンブルを聴いて、俄然こちらのアンサンブル欲も高まってきまして、さあ、やるぞとばかりに移動開始です。移動先は副都心。ここでもまた20世紀末以来の再会となる皆さんが待っていてくれました。こちらも以前いろいろな形で古楽アンサンブルを楽しんだお三人さんです。ひょんなことから何かやろう!ということになりまして、本日実現にこぎつけました。
 集まったのは私も含めまして、バロック・ヴァイオリン二人、そしてバロック・チェロとチェンバロです。堂々たる、そして王道たるトリオ編成ではないですか!素晴らしい。
 で、短い時間でしたが、豊かな初見大会を楽しみました。弾いた曲はですねえ、コレルリのトリオ2曲、ラインケンのソナタ(渋い!)、ヘンデルのトリオ、ヴィターリという人の小曲集です。最初は皆さん久しぶりということもあって、なかなか音程もリズムも合わなかったんですが、最後には素晴らしい(自画自賛)音楽になっていましたよ。こういう小さい編成のアンサンブルは久々でしたので、本当に気持ちよかった。バロック音楽の醍醐味ですよねえ。それをこうして気の合う皆さんと、楽しく気軽に演奏できるというのは、本当に幸せなことです。皆さん本当に10年ぶりとか、そんな感じだったんですが、話をするのも忘れて、とにかく合わせる合わせる。でも、それでいいんです。私たちは楽器で会話しているんですから。アンサンブルの妙は、まさに気の置けない人たちとの会話の妙そのものなんです。お互いに信頼し合って、譲り合って、慰め合って(?)、美しい音楽を作っていくんです。決して自己中心的、排他的ではダメ。縁と恩に感謝しながら弾かないとね。
 というわけで、今日はまさに古楽三昧の一日でした。つくづく、音楽をやっていて良かったなあと思いました。家に帰ると、全くの偶然ですが、これまた懐かしい音楽仲間からのメールが。ありがたやありがたや。幸せ者ですなあ、私…。まずは音楽の神に感謝しましょう!

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2007.03.17

歌謡曲バンドふじやま Live at 武道館…の隣(笑)

Tokyokid 今日は武道館でMusic Video Awards 07が行われています。速報によりますと、我らがレミオロメンも二つ賞をとったようでして、3曲も演奏したとのこと。
 そして、その隣では我々のライヴが…なんちゃって。たしかに武道館の隣ですけど、村の武道館の隣です(笑)。日本武道館ではなくて、鳴沢村武道館の隣のフジエポックホールで行われた鳴沢村芸能発表会にてライヴでした(すごい落差ですなあ)。
 私たち歌謡曲バンドとしては初めてのホール・ライヴでありました。そして、初めてのアンプラグド・ライヴ。本日は、東京からかけつけたメンバー、パーカッショニストとベーシストのお二人はなぜか観客席に。ステージ上には富士北麓組のみという今までにない編成です。
 なにしろとっても渋い行事でありまして、お客様は村長さんも含めまして、ほとんどがお年寄りの方々です(日本武道館とはエライ違いです)。そんなわけで、今回は皆さんに楽しんでいただけるよう、戦後の歌謡曲の名曲をメドレーで演奏いたしました。曲目は次の通り。

オープニング(昼の歌謡曲)
リンゴの唄
東京キッド
お祭りマンボ
上を向いて歩こう
真赤な太陽
帰ってこいよ

 ね、お年寄りに喜んでいただける選曲でしょ。実際、武道館に負けない盛り上がりであったと思います。皆さん一緒に歌ってくれました。こうした一体感というのはライヴの醍醐味であります。結果として大変いいライヴができたと思います。
 しかし、そこに至るまでには想像を絶する苦労が…(笑)。いやいや、ものすごい練習を重ねたとか、そんなんじゃありません。だって、楽譜が完成したのは本番1時間前、一回通しで練習したのが30分前、ちなみに現場入りしたのが出番の5分前という、なんともウチのバンドらしいすさまじいドタバタぶりでありました。それでも、まあそれなりにやっちゃうところがスゴイ!…のか何なのか。ある意味プロを超えている…わけはなく、まず人として反省しなくてはいけません、ハイ。
 で、今回はお年寄り対象ということですので、ウチの子どもたちも前面にフィーチャーいたしました。そういう意味でも皆さんの心の琴線をかき鳴らす(?)ことができたのではないでしょうか。子どもでごまかしたとも言えますが(笑)。
 というわけで、今回は小学1年生のウチの娘がヴォーカルを担当した「東京キッド」のmp3をアップしておきます。2番はカミさんが歌っています。ま、ヒマな方はお聴きください。武道館の隣の熱い熱い雰囲気が伝わりますかどうか(笑)。

東京キッドmp3

 自己満足ですけど、事前のドタバタや事後の打ち上げも含めまして、妙に楽しいライヴでありました。次は5月、浅草ジャズコンテストで金賞と浅草ジャズ賞を受賞したバンドとの共演ですので、真剣に練習いたします。お楽しみに。

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2007.03.16

『悲鳴をあげる学校』 小野田正利 (旬報社)

親の“イチャモン”から“結びあい”へ
Himei いい本でした。仕事上参考になること満載。そして、親として、大人として、人間として、考えさせられる内容の本でした。
 イチャモン(無理難題・いいがかり)増えてるようですね。幸いにしてウチの学校は伝統的に平和なので、あんまりそういう事例は発生していません。でも、こんな田舎でも、保育所や幼稚園、小学校、中学校なんかでは、けっこう激しくなってきたとか。知りあいの先生たちの弁、「子どもより親の方が大変だ」。
 さて、イチャモンという言葉ですが、もうほとんど共通語化しておりますね。しかし、元は関西弁です。関東よりも日常的に使われているようです。関東だと、なんとなくその筋の方々を想像してしまいます。語源はよくわかっていないとのことですが、私の勘では、「いちゃ」は古語の「いさ」だと思いますね。大昔は「さ」は「チャ」と発音しておりました。「いさかい」って言うじゃないですか。漢字で書くと「諍い」、まさに読んで字の如し、「言い争う」という意味です。その「いさ」じゃないですかね。古語「いさかひ(動詞はいさかふ)」の「かふ(かひ)」は「交ふ(交ひ)」でしょう。「互いに〜する」という意味です。で「いちゃもん」の「もん」は「もの」の音便か、「文句」の「もん」でしょうかね。
 さて、そうしたイチャモンを引っさげて学校に乗り込んでくる親が増えていると。「校庭の砂ぼこりで洗濯物が汚れた」「運動会がうるさい」「あの子の親と私は仲が悪いので子どもたちを別のクラスにしてくれ」「なんで遠足を延期にした」…こんなのは序の口です。もっと過激でおかしい例がたくさん挙げられてますよ。イチャモンスターペアレントですね(笑)。
 著者は教育現場の「いちゃもん」研究家として有名です。大阪大学大学院の教授をされています。私は先月の初めにNHKのクローズアップ現代で小野田さんを初めて知りました。その番組も「要求する親、問われる教師」というタイトルで、この「イチャモン」増加に関する内容でありました。そこでは、けっこう悲惨な状況、たとえばイチャモンによって自殺に追い込まれた校長先生の話なんかも取り上げられていて、現場の一教師としては、なんとも暗鬱な気分になったのを思い出します。しかし、その時も小野田さんは、具体的な対処方法について語ったり、さらに一歩進んで、そうした「イチャモン」を親からのメッセージととらえよう、というような前向きな発言をしたりで、私は、ああこの人はそのへんの理屈だけの学者さんや、ただ不安を煽る偽善者さんたちとは違うな、と思った記憶があります。そして、この本を見つけて購入してみたというわけです。
 この本の内容は、番組を観て私が感じたイメージそのものでした。小野田さんは、現在の「教育を取り囲む状況」(「教育現場」ではありませんよ)を憂えており、単純な学校批判、教師批判、保護者批判には陥っておりません。あくまで、現場の状況を実地に収集して、その背後に何が起きているのかを分析する姿勢を貫いています。そして、そこに見えてくるのは、「学校改革病」、すなわち教師や保護者や子どもたちの「心の病」だったのです。
 私も仕事柄よくわかるんですが、イチャモンに限らず、必要以上に攻撃的な人、批判的な人、あるいはいじめの加害者というのは、かなりの「さびしがり屋さん」です。ネット上の掲示板なんかそのシンボルですね。ホントみんな極度にさびしがり屋なんです。何かの形で仲間(っぽい人たち)と固まりたいと思いますし、そして小野田さんも指摘していますが、結局は矛先ともコミュニケーションしたがっている。そういう意味では、こういうことは学校だけでなく社会全体に起きていることです。
 学校というところは、まるで善意の塊のようなイメージがあります。公的なサービス機関のような気がします。さらに先生はエライ人ではなくなっていまして、明らかに社会的弱者です。立場上ペコペコしがちですし、なんとなくいじめても反抗してきそうにない。つまり大人のいじめの世界のターゲットになりやすいんですね。
 学校、中でも保育園や幼稚園、小学校でイチャモンが多いと言います。それもよく分かりますね。子どもが可愛い盛りですよ。異常な溺愛、小野田さんは「自子中心主義」と書いていましたが、親たちが、そういう一種の病気の状態にあるんです。それって単に子どもに依存してるんだと思いますけどね。
 で、中学生、高校生にもなると、親も手に負えなくなりますからね、今度は学校の先生にお願いしたくなるんです。場合によっては、「こんな子どもたちを何十人も面倒見て、センセイはエライ!」なんて、手のひらを返したようにさえなります。
 この本を読んで強く感じました。これは親の心の病が主たる原因だなと。大人、それも20代から40代前半くらいまでの大人(自分も含めて)がおかしいんですよ。で、それを自覚してしまったそういう世代の大人たちは、すぐに他人のせいにする。やれ、先生が悪い、学校が悪い、社会が悪い、あの子が悪い、あの子の親が悪いって。自分も含めて大人は反省しましょうよ。そして、自分を鍛えて病気を克服しなくちゃ。さびしんぼうはカッコ悪いっす。寂しくてもたくましく生きていくことはできますし、その前に殻を破れば心から他者と関わり合えるはずです。
 この本では、こうしたイチャモンこそが連携の端緒になりうるという結論に至っています。さっき書いたように、みんなつながりたがってるんですね。ですから、イチャモンを受ける方も、その裏に潜む本当のメッセージを受け取る努力をしなくてはなりません。そのための具体的な方法もしっかり紹介されているのが、またこの本の立派なところです。私も参考にしたいと思います。
 この本を読んで、自分の立場というのを再確認できたような気がします。私はイチャモン(ある意味いじめ)の加害者にも被害者にもなる立場の人間なんだなと。親であり、先生であるわけですから。いや、私に限らずあらゆる大人がそういう立場なんでしょう。やる可能性もあるし、やられる可能性もある。単にそれに気づけば、こんな馬鹿げたコミュニケーションではなくて、もっと平和なつながり合い、結び合いができるんじゃないでしょうか。
 なんか、子どものいじめについての論議と同じになっちゃったな。大人よ!まずは自らを正したまえ!
 今日はなんか興奮してハチャメチャな文になっちゃいました。

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2007.03.15

『漢字筆順ハンドブック』 江守賢治 (三省堂)

Hitsujun 最近、黒板に字を書いていて、突然書き順に不安を覚えることが増えました。ちょっと恥ずかしい状況です。なにしろ小学1年生の娘でも書ける字だったりするもので(汗)。
 書き順のみならず、字形とか画数とか言い出しますと、本当にキリがないほど不安になってしまいます。そういえば以前「」について書いたことがありましたっけ。で、その時、コメントの中で教えていただいたのが漢字の正しい書き順というサイトです。このサイトはすぐれものですね。アニメーションの独特の手作り風味が印象に残ります。
 このサイトとともに最近お世話になっているのが、この本、江守賢治さんの「漢字筆順ハンドブック」です。江守さん、字体や筆順の世界ではかなり有名な方で、いろんな本を出してます。そんな中で最も手軽でお安く、しかし必要十分な情報量なのがこの本というわけです。まさにハンドブックでありまして、机上に置いておいてしょっちゅう開いております。私が持っているのは1980年発行の初版本でありまして、かれこれ四半世紀以上お世話になっているわけです。よって、ボロボロかつバラパラになっておりまして、本の体をなしておりません。
 今日もちょっと気になるのがあって繙いたんですけどね、それはまあ合っていたんで安心したんですが、ついでにいくつかの間違いが発見されてしまいました。国語の先生としてとっても恥ずかしいのですが、ちょっと披露しちゃいます。
 「博」です。これは完全に間違っていました。つくりの上半分の縦棒のタイミングも違ったんですが、なんと右肩の点を最後に打ってたんですよ。途中で打つんですね!知らなかった(恥)。ま、最後に打つのもありのようですが、いちおう学校で教えるべき筆順は「一」→「曰」→「|」→「ヽ」→「寸」だということです。小学校4年生で教わってるはずなんだけどなあ…。「専」に「ヽ」がつくと思うからああなっちゃうんだろうな。旧字体のことを知れば、たしかにおかしいんですけどね。
 あと、時々わからなくなってしまうのが、「成」とか「皮」とか「服」のつくりとかを横から書くか「ノ」や縦画から書くかです。基本、横画に突き抜けがある場合は「ノ」から書くらしいんですが、私は瞬間わからなくなることがあります。特に、黒板に書く時ね。
 それから「座」の最後、これは「土」ではなくて、縦横横ですね。これも知っていながら勢いで「土」を書いてしまうことがありました。
 よく間違うもの、たとえば「右」「布」「希」とか「飛」とか「非」とか、あとカタカナの「ヲ」とかね、そういうクイズになりそうなのは意識してるんで間違わないのですが、意外に単純なものこそ分からなくなったり、あるいはずっと勘違いのままだったりするものです。筆順なんてこの時代にはあんまり重要ではないのかもしれませんが、とにかく私は仕事柄ちゃんとやらないと恥ずかしいので。私が間違って覚えていたものは学校の先生の板書のおかげ(?)かもしれませんしね。センセイの責任は重大です。
 ちなみに最初に書いた「小学校1年生」とは「上」のことです。これは案外事情が複雑なんですが、みなさんはどの画から書き始めますか?
 とりあえず上記サイトでいろいろ試してみますと、数十年来の間違いを発見できて楽しいですよ。

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2007.03.14

「もののあはれ」=「空気」?(土佐日記より)

Tsurayuki 久々に古典を独自の視点で読むシリーズ行ってみましょう!!昨日の続きです。昨日は「世間」=「空気」だとして、「世間体を考える」というのが「空気を読む」ことだとしました。
 で、今日は古いところで(ってかなり古いですけど)、平安時代にはどうだったか考えてみましょう。以前、枕草子における「空気嫁・痛杉」というのを書きましたっけ。あれはなかなか評判がよく、ある出版社の方からは、あの調子で全訳してくれ、なんて言われました。ま、私はそんな根性ありませんので、適当に、いや丁重にお断りしました。
 今日はですねえ、紀貫之さんに登場願いましょう。こちらも以前登場願ったことがあります。古今集仮名序ですね。「世界最古のネカマ」なんて言ってすみません。
 さて、彼(彼女)の土佐日記の最初の方にこういうシーンがあります。船出のシーンです。ただでさえ別れが辛いのに、死んだ娘の話なども出てきて、現場は非常に沈欝なムードになります。で、いろいろ風情のある和歌などを詠み合ったりするんですが、そこに「空気を読めない」男が登場します。今から乗り込む船の船頭さんです。それを貫之は次のように描写します。

 …楫(かぢ)取りもののあはれも知らで、おのれし酒を食らひつれば、早く往(い)なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。

 ほら、「もののあはれ」が出てきた。「もののあはれも知らで」…フツーは「情趣を解さないで」とか堅っくるしい訳を施されるところですが、まさにその場の空気を読んだワタクシめが訳してみましょうか。こんな感じでどうでしょう。

 …船頭のヤツ、その場の空気も読めなくてさぁ、自分の酒ばっかり呑んじゃってるもんだから、早く出かけたくて仕方なくてさぁ、「ほれ、潮も満ちたぜ。風も吹くなこりゃ」とか聞こえよがしに騒ぐんで、私たちも仕方なく船に乗っちゃおうってことになったわけ。

 ちょっとやりすぎかな。これじゃあ書いてる貫之さん本人が空気読んでないな…ってか、訳してるオレがか。まあいいや。とにかくですねえ、この「もののあはれも知らで」というのは、まさにその場の「涙、涙」の空気を読まないでってことでしょ?思い通りにならないことを基礎としたその場の悲哀のようなものに、全く頓着ないのが楫取りのオヤジってことです。
 こんなふうに読み直してみますと、平安時代でも空気読めないヤツは痛かったということがよ〜くわかります。それを「もののあはれ」を知らないと表現したということですね。ちなみにこのあとすぐのところに「甲斐歌」という興味深い言葉が出てきます。甲斐の国の歌ということです。それが具体的にどういうものであったか、というのはまた今度検証します。ま、今で言うならレミオロメンみたいなもんかな(笑)。
 おっと、また話がそれた。さてさて、ところがですねえ、そこで終わらないのが貫之さんのいいところです。ここまで貫之にさんざん馬鹿にされた船頭さん、あとの部分でちょっと名誉回復するんです。
 「夜ふけて、西東も見えずして、天気のこと楫とりの心にまかせつ」
 という文が象徴していますが、この船頭さん、船頭さんとしてはなかなかのやり手なんですね。航路や湊のことに詳しいのはもちろん、天候を「読む」ことに関してもかなりのプロフェッショナルのようです。まあ実際プロ中のプロを雇ったわけですから。で、結局そんなこと全くわからんボンボンばっかりの乗客たらは、彼にまかせるしかないんですね。実際、彼は余裕のよっちゃんで舟唄なんか歌ってみんなをなごませたりします。カッコいい!!
 そうしますと、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」という言葉もまた、ちょっと違った意味を帯びてくるような気もします。単純にプロの判断だったのではないか。プロが最優先するのは、乗客の安全なる旅でしょう。いくら惜別の情でも、命には代えられませんよね。きっとそんなことも貫之は感じたのではないでしょうか。で、直接は申しておりませんが、ちょっぴり船頭を尊敬した。ちょっと謝りたい気持ちになった。ああ、自分たち貴族よりもある意味立派だと思った。それで、こういう記述をしたのではないでしょうか。
 「空気を読む」ことが「もののあはれを知る」ことであり、そして「世間を知る」ことであると考えてきましたが、では、船頭の読んだものは何だったのでしょうか。「天気を読む」というのも「空気を読む」に近いのかもしれません。しかし、それはワタクシのモノ・コト論的に申しますと、あくまで「コト」を読んだのであって、「モノ」を読んだのではありません。彼は過去の経験(コト)に基づいて現在の状況を観察して未来を予測しました。ただ、それはある種のパターン(天気予報の公式)に則ったものであり、自信満々の様子からしても分かる通り、あくまでも職人的再生産技術であったのです。これはワタクシ的には「コト」に属すると考えられます。まあ、語弊はありますが、「オタク」的事象なんですね。情報処理。コト処理。航路や湊のことも含めまして、貫之らからすれば、「モノ知り」ということになるんでしょうが、船頭自身からすれば単に「コト知り」なわけです。
 と、長くなってしまいましたが、私の知ったかぶりもこのへんでやめときます。とにかく、世の中には貫之も楫取りも両方必要だということですよ。ん?でも、貫之ってネカマですよね。貴族ってオタクですよねえ。ということは、両方ともオタクってことか。それぞれの分野にしか通じていていない…(笑)。

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2007.03.13

『「世間」とは何か』 阿部謹也 (講談社現代新書)〜世間=空気?

Sekenn 私はフツーに2ちゃんねらーなのですが、2ちゃんの住人として常々思うのは、ああここは日本だな、ということです。何を言いたいのかと申しますと、そう、匿名掲示板にさえ「世間」が色濃く存在するということです。いや、あそこでの「世間」感は、リアル村のそれよりも強いかもしれない。つまりは、「空気を読む」ことが異様なほどに重視されているということです。
 そのために、2ちゃんには高い高い城壁やら堀やらが巡らされる結果になっています。住人になるにはある種の経験と努力と勇気が必要ですし、その住人にもかなり明確な身分制度があるように思われます。すなわち、発言の頻度や影響力によって、たとえそこが匿名空間であれ、その人に対する格付けが行われているわけです。その格付けは決してパブリックなものではありませんが、住人個人にはプライベートなレベルにおいて、ある程度はっきりとした自覚のようなものがあります。
 ある意味そうした「世間」的なもの…つまり「世間体」から解放されるべき空間であるはずのインターネットの掲示板までが、なぜこのような濃厚な状態になっているのか。2ちゃん村を渉猟して歩きながら、そんなことを考えたんですね。なんで、こんなにも不自由な村に好き好んで出入りしているのだろう。
 なかなか答えが出ないので、むか〜し読んだこの本を図書室から借りてきまして、ちょっと復習してみました。ああ、そういえば著者の阿部謹也さん、昨年亡くなったんですね。まだまだお若かったのに。ケンカもしたけれど、結局影響を与え合った網野善彦さんの後を追うように逝ってしまわれました。あの世には世間とか、東洋とか西洋とかあるんでしょうかね。
 おっと、話があっちに逝ってしまった。え〜と、そう、この世の世間ですよ。西洋を学んだ阿部さんの視点は、あくまでこの「世間」というヤツを対象化します。西洋における「社会」と「個人」を研究するがごとく、「世間」とは何か、と問いかけるわけです。で、専門家もびっくりの旺盛さで、古代から近代までの日本文学を分析していくわけですね。
 ところが、面白いですね。まあ私の読解力がないのかもしれませんが、結局「世間」とは何かということが判明しないで本書は終了するんです。ただ、日本(だけ)にはそういうものがあるんだ、間違いなくあるんだ、で終わってる感じなんです。
 それで、がっかりしたかと言うと、そういうわけでもありません。つまり、2ちゃんにも存在する「世間」とは、まさに「空気」であって、目に見えたり、システムになったり、言葉になったりしないんですね。理屈じゃない。みんなで醸す「空気」であって、常に変化する可能性がある。そう、つまり、私の言うところの「モノ」なのです。「コト」ではなくて「モノ」。縁起し、無常である存在。いろいろな意味で時間に依存する、すなわち、現在から未来へは不測の変化が100%起きるけれども、それは100%過去の「コト」の上に成り立っている。「モノ」とはそういうものなのです。だから、世間というのもそういう性質を持つと私は考えます。
 西洋の「個人」は自我に基づいた存在ですから、ワタクシ的には随意な「コト」に属します。そして「社会」はあくまでも「個人」の「コト」を守るための組織です。論理や科学や法律という「ことわり」を使って個人の「コト」を守るんです。それに対して「世間」は「個人」にとって完全に不随意な「モノ」です。日本ではそちらが自然に発達した。一見不安定そうな「モノ」の集合体。実はその曖昧性が互いの緩衝になって安定した歴史を築いてきたんだと、私は思いますね。
 そうして、日本ではここでもあそこでも、常に「空気を読む」ことを要求されるのでした。「空気を読む」とは「現在の観察」であり「未来の予測」であり「過去の読解」であるわけです。日本人はそういうことをずっとやってきた。「もののあはれを知る」というのは、結局「空気を読める」ということなんですね。
 と書いたところで、土佐日記の一節の新解釈を思いつきましたが、それは明日にしましょう。なんだか阿部さんの本の内容からかけ離れちゃったな。

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2007.03.12

『椎名林檎 お宝ショウ@NHK』 (NHK総合)

B000lprn7201_aa240_sclzzzzzzz_ 10日の夜に録画したものを今日観ました。林檎嬢にウットリっす。たしかに「お宝」かも。
 本当は画像を載せたいんですが、実家でDVDに録画したもので、いつもの調子ではキャプチャーできないんです。VRモードで録っちゃったんで。面倒ですねえ。うちのパソコンでも観れないし。ですので、この番組に関連するニュー・アルバムのジャケットを。
 いやあ、ホントはこの番組の華やかで艶やかで妖しさ満載の雰囲気を味わっていただきたいんですがね。ちょっと前に衝撃を受けた長谷川きよしさんとの共演とは実に対照的なショウでありました。
 この番組は、ニュー・アルバム「平成風俗」をそのまま映像化したようなものです。「平成風俗」でもコラボした、ヴァイオリニストにして作編曲家斎藤ネコさんの濃厚なオーケストレーションに乗って、平成の歌姫が唄いまくります。ちょっと昔の名曲や、映画「さくらん」のための曲など、彼女の彼女らしさが満載であります。また、合うんだな、あのゴージャスな感じがね。いちおう曲目を。
「歌舞伎町の女王」「罪と罰」「茎−STEM」「パパイヤマンゴー」「錯乱」「意識」「この世の限り」「迷彩」
 ちなみに「この世の限り」ではお兄さまの椎名純平さんも登場、見事なデュエットを聴かせてくれます。「迷彩」ではネコさんのヴァイオリンも堪能できました。このカルテットの雰囲気、うちのバンドでパクらせてもらおうっと。
 で、曲の間にはなぜか(NHKらしく?)「プロフェッショナル仕事の流儀」のスタジオで茂木健一郎、住吉美紀アナウンサーと対談します。いつもの調子で言語化していく茂木さんを傍らで「クスッ、クスッ」と笑う林檎。めっちゃ面白かった。これは完全に林檎の勝ちですな。ツボにはまったのは、椎名さんが「2枚目のアルバムまでは高校時代に作った曲」みたいなことを言った時の茂木さんのリアクション。両手を小さく挙げて「どひゃ!」だって(笑)。おい「アハ!体験」じゃなくて「ドヒャ!体験」かいな。茂木さんがいつにもまして可愛く見えました(笑)。
 あとですねえ、私とカミさんの共通のツボにはまったのは司会進行の小田切千アナですねえ。NHK歌謡コンサートそのままのノリ…というか落ち着きが、彼自身の蝶ネクタイ姿や林檎ワールドと実にミスマッチで、ついつい笑っちゃいました。
 NHKさんは、この番組を世界に発信するようです。「japanese manners」ですって。とってもいいことだと思います。世界に出しても恥ずかしくないですし、たぶんものすごくエキゾチックでジャパネスクだと思いますよ。受けるでしょう。それにしても椎名林檎ってすごいですねえ。椎名純平も。そして福岡という街もね。

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2007.03.11

『不都合な真実』 アル・ゴア (ランダムハウス講談社)

427000181x01_aa240_sclzzzzzzz_ 父から借りてきました。単純な温暖化説にはとことん懐疑的な私です。したがって、この本にも懐疑的です。
 私は科学者ではありませんので、ここでは科学的な反論はしません。ほかの方におまかせします。私はちょっと違った視点から考えてみましょう。
 まず非常に単純な、そして利己的で不謹慎な実感から。今年は暖冬でして、ウチのようなメチャクチャな寒冷地では、非常に住みやすい冬を過ごさせていただきました。ああ、温暖化すると暖房費が浮いていいな、ウチのCO2の排出量も減ったな。間違ってませんよね。
 このあたりや、東北地方なんか、縄文時代はずいぶんと暖かい期間もあったようです。いわゆる縄文海進の際には、海面も今より5メートル近く高かった。しかし、そこから1万年ほど遡ると、今度は大変な海退期です。なんと今より130メートルくらい海面が低かったとか。
 もっと遡ると、このあたり、現在では海抜1000メートルを越えるんですが、海の底であった時代もある。サメの化石とか平気で出てきますからね。土地が隆起したこともあるんですが、今よりかなり温暖で海面もかなり高かったようです。
 と、こんな程度の知識でも、今の論議のスケールがいかに小さいものかわかります。この「不都合な真実」には多くの資料が提示されているわけですが、どれもこれもここ数十年というスケールに限ったもので、私のようなアマノジャクには、それこそ不安を煽り集団気分を醸成するための、悪意ある演出にしか見えません。
 もちろん、ここ数十年の地球の平均気温の上昇率はたしかに高い。それにCO2の増加が関わっている可能性も高い。だから、ここで提示されている資料たちを疑うことは基本的にしません。しかし、それらが全てだとも思わないということです。
 たとえば、ここ数十年並みの急激な気温上昇は数十万年前にもあったようです。その時もCO2が急増しているんですが、当然その時は現代人はいません。では、その時はいったい何が原因でCO2が増加したのか。それすらよく分かっていないのです。その時のCO2の増加率と比べると、現代のそれは確かに高い。そこに私たち人類が加担しているのも確かでしょう。しかし、その増加率の割に、気温の上昇率は数十万年前の温暖化の時より低いようです。そのあたりもなかなか説明できません。
 ようは、事態は単純ではないということです。マクロ的に見れば、我々の責任で温暖化するかもしれない、しかし、隕石でもドカンと落ちればたちまち氷河期です。あるいは太陽の活動が活発になれば、人間による温暖化とは比べ物にならないほどの高温化が進む可能性もあるわけです。
 いずれにせよ、私たち、いや全ての生物たちは、気候の変化に対応しながら、住む場所を変え、ライフスタイルを変え、体を変えてきたわけです。海面が後退したから、今まで住めなかったところに移動した、しかし、またそこが海になろうとしているとなると、突然困った、なんとかしろ、と言う、そういうのはなんか自分勝手のわがままなような気がします。ちなみに私は将来を見据えて標高1200メートルに居を構えました(笑)。もし予想がはずれて寒冷化したら、単に暖い地方に移動するだけです。
 誰か変わり者の学者さんが言ってました。もうこのまま石油なんかも全部使い尽くせば、人間も減るし、いずれ温暖化も止まると。まあ、結局そういうことでしょう。一部のずる賢い人が偽善的にふるまい、それに一部の純真で愚かな人が盲従する、という状況こそ、人類にとって危機的なことなのかもしれません。全ての「コト」は政治と経済のために産み出される。この世は「モノ」だらけなのに。いけませんね。
 そういうことを学ぶ教科書としては、この本は学校でも大いに使えると思いました。ハイ。

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2007.03.10

『石田徹也遺作展』 (焼津市文化センター)

476300629001_aa240_sclzzzzzzz_ こちらで一度紹介した石田徹也の絵を、実際に観る機会を得ました。あまりの衝撃に目も体も釘付けになり、あふれ出す涙をこらえるのに精一杯でした。これほど心の奥まで何かがしみ込んでくる経験は久しぶりかもしれません。
 今日は法事のため、私の生まれ故郷である静岡県の焼津市に来ています。墓参りをすませ、向かったのは焼津市文化センター。たまたまこちらで石田徹也遺作展が開かれているとの情報を得て、両親も含めた家族みんな心を踊らせて同センターの展示室に入りました。
 会場は多くの老若男女でいっぱいでした。しかし、その雰囲気は、なんというのでしょうか、簡単に言ってしまえば皆固まってしまっているというか、非常に不思議な空気に包まれていたのです。そして、私たちがその空気の中に入るのに数秒もかかりませんでした。
 この心の動き、いや心の凝結は何なのでしょうか。いったい私たちは何に気づいて立ち止まってしまうのでしょうか。テレビで観た時にはこんなふうに書きました。
 『天才です。でも、「夭逝の天才」なんて簡単にラベリングしてしまうのも憚られるほどの才能です。現代にこんな若者がいたこと自体信じられません。これほど自己と社会を冷徹に観察し、そして再構成して吐き出すことができるなんて。だから、彼の作品には「好き嫌い」を超えた「共感」がある。誰しもが、実は知りつつも目をつぶってしまっている自己と社会の実態が、微妙なペーソスやユーモアを伴いながら、切々とこちらに迫ってくる。彼の作品を観る人たちは、驚き、苦笑し、そして打ちのめされるのではないでしょうか』
 今日彼の絵の実物と対峙して、やはり同じことを感じましたが、おそらく実物のみが伝え得る彼の精神そのもの、彼の苦悩そのものが、私たちを打ちのめしたのでしょう。非常に苦しかった。哀しかった。まさに自分の存在の本質を象徴している。そう、私たちはまるで鏡に映る自分を見るように、彼の絵を見ているのでした。
 ウチの7歳の娘もまるで取り憑かれたかのように作品を凝視し、表情を固まらせていました。子どもでも何かを感じたのでしょう。出口に置かれた感想ノートに何か一生懸命書いていました。そう、子どもから老人まで、それこそ老若男女を同じ気持ちにさせる作品というのが、世の中にどれほどあるでしょうか。今を生きる私たち自身を、ある意味これほど写実的に描ききった作品が他にあるのでしょうか。
 これは物の擬人化の逆、人の擬物化であるとも言えましょう。私の「モノ・コト論」的に考えてみますと、随意化すなわち「コト化」のために我々人類が逢着したこの科学技術文明や資本主義経済、それらによって私たちは自由や幸福を得たと幻想していますが、実は私たち自身は自己の不随意性の克服を果たしつつあるのではなく、より一層「モノ化」を推し進めてしまっているとも言えるかもしれません。そうした主客逆転の実相を、石田はあのような形、人間が機械や商品やシステムに取り込まれていくという形で表現したのかもしれません。
 私たちがそこに感じる哀しみは、まさにその不随意さ不自由さに起因します。描かれた石田自身と思われる青年の虚ろな視線がそれを物語っています。便利さ快適さを求めて生み出した「コト」であるべきはずの物が、実は「モノ」そのものであって、私たちはそれにいつのまにか蝕まれ、より不安な不安定な存在になっているわけです。私たち人類の共通した、いや共同した幻想を見事に暴くのが、石田徹也の作品なのでしょう。
 こう考えてみると、遺作とおぼしき最後の作品が、ほとんど唯一の「モノ化」していない自画像であることは象徴的です。
 とにかく、皆さん、一度生で御覧になってください。私は会場で画集を買いましたが、やはり彼の作品は生で見るべきです。単なる鑑賞ではなく、私たち自らが投影された、いや私たち自らがモデルになった作品の群れに戦慄すべきです。
 そして、最後に一つ、私ならではのアドバイスを。彼の作品に対峙したなら、ぜひ片目をつぶってほしい。そう、私の提唱する独眼流裸眼立体視法です。すると、そこには…。彼の作品がますますこちらに迫ってきます。これは本当にぜひぜひお試しあれ。
 なお、この遺作展は16日(金)まで開かれています。入場無料です。

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2007.03.09

レミオロメン 『パラダイム』

494 今日は3月9日。私の大好きなレミオロメンの「3月9日」の日ですね。この曲、昨年から今年にかけて、私は3年生を送る会やら講演会やら結婚式やら成人式やらレミオロメンファンの集い(?)やらで、何回もヴァイオリンで演奏してきました。来月もある結婚式で演奏することになっています。何度聴いても弾いてもいい曲ですなあ。
 いちおう世間でも春の定番曲になっているようでして、今年もこの曲が再発売されました。今までも175Rや木村カエラで評判になった「キットカット」とのコラボ企画ですね。キットカットと言えば「きっと勝つ(と)」ということで、これまた春というか春直前受験シーズンの定番アイテムになってます。まったく企業もいろいろ考えますな。そして、日本人もそういうのに乗るのが好きですね。kitkat本家では、命名した時、将来日本でこんなことになるとは夢にも思わなかったでしょうね。しかし、こういう「かけことば」文化や「げん(縁起の倒語ぎえん)かつぎ」文化は古来の伝統であり、まあいいんじゃないでしょうかね。江戸時代なんか今以上に盛んでしたよ。
 でも、どうなんでしょう。このCD付きキットカット、3月5日発売でした。大学入試では、もう国立前期試験も終わってるし、まあ、公立の高校入試とかは多少残ってるかもしれませんけど、ちょっと遅くないですか?2月の初めくらいに出せば、入試シーズンにもバレンタインにもうまく乗れると思うんですけどね。
 で、なぜか今日カミさんが、3月5日に発売でとっくに売り切れたはずのレミオロメン「キットカットCDパック」を三つ買ってきました。なんだかスーパーのレジ前特設コーナーに大量に積み上がっていたとか。おいおい、地元山梨でこんなに売れ残ってていいのか(笑)。
 ということで、私は生徒が買ってきたのを、6日に聴かせてもらっていたのですが、あらためてキットカットを食しながら聴いてみました。
 収録されているのは「3月9日」と新曲の「パラダイム」です。3月9日については何度も書いてきましたので、今日は新曲の「パラダイム」について書きましょうか。
 CMでちょっと聴いていたのはサビの部分だけでして、その時はなんとなくつかみどころがないなあ、という感じでした。改めて聴いてもやっぱりサビが弱いかな。でも、それはポップすぎないという意味でもあるわけでして、私としてはこういう方がちょっと安心したりするんですね。最近彼らのインディーズ時代の曲を聴きこんでいるせいもありますが、あんまりコビコビした作りをしてほしくないというか、ま、はっきり言っちゃうとコバタケ色が強くなってほしくないというかね。
 もちろん今回もKTがアレンジを担当しているわけで、ああまた出たよ、この音はいらんだろ、という部分もあるんですけどね、たとえばイントロで掻き鳴らされる藤巻くんのギターや、Aメロにおける不思議な和音進行、どこへ行くかわからないメロディーライン、治くんのワケのわからんドラム(ほめ言葉です)、前田くんのここでこう動くかよというベースラインなどの、ある種俗っぽさ素人っぽさみたいなのは、本来の彼ららしさが出ていて好もしいと思いました。いろいろ悩みもあったけれど、ようやく本来の自分たちを取り戻したのかな。春らしく前向きな歌詞もまあまあよろしいですな。
 今思えば粉爺…いやいや、粉雪が、本人たちの意図とは別のところで独り歩きしちゃったんですね。そう、レミオロメンじゃなくて「粉雪」が爆発的に売れたんですよ。そういうことってよくあることですし、それを上手に乗り越えた人たちもいるし、逆にそれで死んだ人たちもたくさんいます。そういう時はですねえ、本人たちとともに、周囲の関係者、そしてファンも一緒にいろいろ考え、我慢し、歩んでいかなければならないんです。それをせず、いろいろ言いたいことだけ言ったり、もうダメだとか言って離れていったりするのは正直どうかと思いますね。
 こういうことは、たとえば私の仕事なんかでも常に意識すべきことです。また、自分に対しても同じことが言えるんですよ。私は常にいろんな意味でのプロデューサーでありたいと思ってるんですが(自分に対してもね)、「いいことがあった時、いかに冷静になれるか(調子に乗るな)」「悪いことがあった時、いかに前向きになれるか(落ち込んでばかりいるな)」、これはほとんど座右の銘になってますね。
 あれれ、なんか真面目な話になっちゃったな。今日の話、ネッスル…じゃなくてネスレ社やレミオロメンには大きなお世話たったでしょうねえ。

ps カミさんにとっては「サク(桜庭和志)」の日でもあるようでして、「3月9日!サンキュー!サク!」とか言って、さらに盛り上がっています(痛)。

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あるいはカテゴリー音楽からどうぞ。

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2007.03.08

『ヴィオラとアコーディオンによる古楽』 (今井信子/御喜美江)

Bach / Dowland / Isaac / Machaut: Antiquities 
Nobuko Imai, viola / Mie Miki, accordion
Bi1229 アコーディオン奏者の御喜美江さんのCDは、以前チェンバリストの森洋子さんにお借りして聴いたことがありました。それはバッハのフランス組曲とコテコテのフランスものだったんですが、それはまあすごかったのなんのって。うわぁ、アコーディオンってこんなに表現力があるんだ、という以上に、森さんがおっしゃるとおり鍵盤楽器によるバッハ演奏として中身が濃い!たしかに勉強になりました。軽やかな装飾やアーティキュレーション、舞曲のリズム感など、バロック・ヴァイオリン弾きにも大きな刺激になります。この人は音楽家として本物だ、と思いました。
 一方の今井信子さん。もう言わずと知れた世界一のヴィオラ奏者ですね。今井さんもまたバロックに造詣が深い。バッハの無伴奏チェロ組曲全曲をヴィオラで弾いたCDは、そこらのチェリストによるものとは比較にならないほどに豊かな音世界を展開していました。こちらもジャンルを超えた本物中の本物。
 今日はその二人のデュオを聴きました。最初はこのCDの存在も知らなかったんです。たまたま出会ったというか、運命的に出会ったというか。
 授業でどこかの入試問題をやっていたら武満徹の文章が出てきた。それがいつものとおり非常にいい文でして、私はですねえ、いつも武満の文章を読むと彼の音楽を聴きたくなるんですね。それで、ナクソス・ミュージック・ライブラリーで何曲かピックアップして聴いていたんです。その中に今井さんが弾いた「鳥が道に降りてきた」があったんです。武満が今井さんのために書いた晩年の傑作ですね。それがものすごく良かった。ジ〜ンときちゃった。当たり前と言えば当たり前ですが、今井さんのヴィオラがいいんですよ。それで、急に今井さんのほかの録音も聴きたくなっていろいろ探していたら、このデュオがあったわけです。
 これもまた驚嘆すべき非常に興味深い演奏でありました。今井さんはヴィブラートを抑え、古楽器的な響きで演奏します。もともとヴィオラってモダンとバロックの違いを感じさせない楽器なんです(なんて、私自身のバロック・ヴィオラ?がSUZUKIブランドだったりするんで…)。今井さんのそれもまた、まるでディスカント・ガンバのような響きです。そして、御喜さんのアコーディオンはストリート・オルガンやミュゼットのようにも聞こえます。古楽としてごく自然だということですね。演奏されている曲は以下の通りです。

G.d. マショー
 Motet 23: Felix Virgo/Inviolata/Ad te suspiramus
 Rondeau 14: Ma fin est mon commencement
J.S. バッハ
 Concerto in the Italian Style, BWV 971, "Italian Concerto"
H. イザーク
 Amis des que
 A fortune contrent
J.S. バッハ
 Violin Partita No. 3 in E major, BWV 1006
J. ダウランド
 Lachrimae Antiquae
 Can she excuse my wrongs
 If my complaints
J.S. バッハ
 Gamba Sonata No. 1 in G major, BWV 1027
 Befiehl Du Diene Wege, BWV 244 - Herzlich tut mich verlangen, BWV 727

 お二人の共演ももちろんいいのですが、興味深いのはそれぞれのソロによる演奏です。御喜さんのイタリア協奏曲は圧巻!もしかして今まで聴いたイタリア協奏曲の中で最高かも。1、3楽章の、このドライヴ感はなんなんでしょう。そして2楽章の陰影の豊かさは…まさに筆舌に尽くし難い!完全にノックアウトされました。そして、今井さんのソロ。なんとヴァイオリンでバッハの無伴奏パルティータ弾いてらっしゃるじゃないですか!えっ?ヴァイオリンで弾くの当たり前じゃないかって?いや、そうなんですけど、そういう意味じゃなくて、ヴィオラ奏者である今井さんのヴァイオリンは初めて聴いたんですよ。ヴァイオリン弾きがヴィオラを弾くというのはよくありますし、またよくある状況に陥りがちなんですが、その逆だとこういうふうになるんですね。ちょっと新鮮な感じがしました。モダン・ヴァイオリンでもこういう音楽作れるんじゃん(笑)。
 あと、ちょっと個人的に運命的なものを感じたのは、最後に収録されているコラールの編曲です。今月の25日にまさにこういうコンサートをやる私としては非常に刺激になりました。同じことを考えて同じような編曲をしている人がいるんだ。そして、私たちもBWV244から「Befiehl Du Diene Wege」をやるんですが、BWV727の存在は忘れてました。これもやりたいな。楽譜を探してみます。いやあ、あまりのナイス・タイミングにちょっと鳥肌が立ちました。

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2007.03.07

『レーザー複合機 MFC-7420』 (ブラザー工業)

Mba2007 これが現在のウチのパソコンラックです。なかなかマニアックですよ。パソコンはMacのPismo。バリバリ現役です。外付け起動にしたらずいぶん快適になりました。見えにくいと思いますが、スピーカーはBoseのMM2です。で、一段飛んで、一番下はALPSの伝説のプリンターMD-5500です。あれ?MD-5000じゃなかったっけ?そう、ワケあって知り合いの5500をお預かり(?)しております。いやあ、あいかわらず素晴らしいですよ。このプリンターは。もう1台買ってもいいですね。
 で、最近買ったのが、真ん中の段、ブラザーのモノクロレーザー複合機MFC-7420です。10年以上使っていたファックスが壊れちゃいまして、どうせ買い替えるならちょっと奮発しようかなと。最初に言っときますけど、奮発と言いましても、またもや3万円弱ですからね。私はAmazonで買ったんですが、私が買った時は販売価格39000円くらい。アフィリエイトのポイントが5000円ほどたまってましたのでそれを使って、それから今プラザーが3000円キャッシュバックやってまして、Amazonの購入ポイント約2000円も含めますと、結果として実質30000円弱で買えたということです。いやはや、この値段でレーザー複合機が買える時代になったんですね。そう考えるとアルプスは高いな。
 カラープリンターはその最強アルプスが2台もあるわけですし、だいいちカラーで印刷する機会なんてほとんどない。写真のプリントはこちらでやりますし、あといつも言っているように、私はインクジェット大っ嫌いでして、それもあって、あえて人気のインクジェット複合機は選択肢に入れませんでした。とにかくモノクロで快適に早く安くプリント、コピー、ファックスできればいい。そうするとやっぱりモノクロレーザー複合機ですよね。
 それで、いつもの通りいろいろ検討したんですが、Macとの相性なども含めてブラザーがベストだったと。基本性能重視でデザインとかは二の次にしました。もちろんお値段もありますね。
7420gf さて、実際使ってみますと、なかなか快適。これを味わったらインクジェットやらアルプスやらのギーコギーコには戻れませんね。最大2400dpi×600dpiの解像度ですから、文字など見た目上アルプスと同等のシャープさです。コピーももちろん普通のコピー同様の品質とスピードです。ファックスも今までと比べてあまりに楽チンでキレイ。いいですねえ。
 あと地味に注目すべきはカラースキャナーとしての性能です。光学解像度600×2400dpi、ソフトウエア補間で最大9600dpi…けっこうスキャンの機会の多い私には、充分すぎる性能です。もちろんそんな高解像度では使いませんが。せいぜい400dpiですな。
 レーザーに限らずプリンターは、インクやらトナーやらの消耗品で稼ぐというのが、業界の常識というか非常識になってますが、プラザーは比較的良心的な価格でそれらを提供しています。再生品をネットで購入すれば、5000枚分のトナーが5000円ちょいで買えますからね。単純計算すれば1枚1円ということです。
 問題があるとすれば付属ソフトでしょうか。どういうわけか、Control CenterというソフトがウチのMacだと起動できないんですよ。なんだろうなあ。なんかとコンフリクトしてるのかな。まあ、それは使わないので問題ないんですが。あと、スキャン用のソフトPresto!PageManager4.0やRemoteSetupがダサダサでいい味出してます。シロウトでももう少しそれらしく作るでしょ(笑)。
 それにしても、ブラザーという会社、見事に転身しましたね。今や世界中でブラザーのプリンターや複合機はよく売れています。ミシン屋さんからIT機器企業へ、イメージが大きく変りました。そのあたりのことについて、この前テレビでやってましたね。ちょっとだけ見たんですが、なるほど企業努力というのはこういうことを言うのか、という感じでした。たしかに昔からタイプライターとか作ってましたけどね、苦労しているミシン屋さんが多い中、よく頑張りました。サポートにも定評があるようでして、今後の企業のあり方として一つのモデルにはなりうるでしょう。
 あとは何年使えるかですね。デザインもいまいち、操作性もものすごくいいというわけではない。見た目、触った感じなど正直安っぽいのですが、基本を押さえつつ価格を抑えるという意味では、上手にギリギリのところを行ってるかな。けっこう気に入りました。

Amazon MFC-7420

MFC-7420公式

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2007.03.06

『危ない大学 消える大学 '08』 島野清志 (エール出版社)

56weju 昨年、私と不二草紙を気持ちよいほどに罵倒しつくした2007年版、そしてその火種になった2006年版に比べますと、ずいぶんとおとなしくなってしまいましたね。今年も自分が登場してるかと思って予約までして買ったのに、ちょっとガッカリです。
 昨年10月でしたか、島野さんご本人(ですよねえ)が「名誉棄損だ」みたいなコメントくれましたしね、2008年版でもなんらかの続きがあると期待しちゃったんですが。だって、07年版でも06年版の記事そのまま使ってたし。
 私は、記事の削除依頼が正式にあったならいつでも削除、場合によってはそれなりの謝罪もするつもりで、先方にはちゃんとその旨伝えたつもりだったんですが、なんの返答もないので放置しておいたんです。ま、私の記事はこのシリーズの売り上げに結構貢献してますし、右の人気記事の欄を見てもお分かりのように、私も島野さんのご著書の恩恵を受けてますからね。お互い実は…なんてね。格闘技もそうですが、敵あって自ら初めて輝くということでしょうか。
 そういう意味では、昨日の記事におけるお馬鹿ワザじゃないけれど、私のフニャフニャな態度が相手の戦意を喪失させたとも言えますね。このブログ全般における私の文章、私を知る人はこれが決して演技でも演出でもないということ、つまり「ス」であるということを理解するでしょうが、全然知らない人は正直気持ち悪いでしょうね。立腹のち戦意喪失、というのも分かるような気がします。
 さて、そんなわけで戦意喪失してしまったのか、このシリーズの目玉であり個性でもあった冒頭の罵倒コーナーが、08年版はずいぶんとおとなしい。それこそ大人になってしまったのか、昨年までの「売られたケンカは買う」という過激な論調はすっかり影をひそめてしまいました。
 第1章は「13年目の独白・本書のトーンが変った理由」とあります。ああ、おとなしくなった理由かあと思いきやさにあらず、実際の内容は「昔は穏やかだったのに、最近過激になった理由」でした。で、その論調が実に穏やかなので、なんとも不思議な状況になっているわけですね。う〜ん、なんか哀愁すら感じるぞ。「後に渋いサックスの音色が流れるようだった」とかあるし。そして、ちょっと(勝手に)罪の意識を感じる私…。どうしちゃったの、島野さん。編集さんになんか言われたんすか?大学批判(学長批判)ならともかく、個人批判(庵主批判)はまずかったよ、とか。
 で、その内容は冷静に読みますと、まあある視点からは実にまっとうなことが書いてある。それは今までもそうでした。ある一方的な視点からなら、なにごとも正しくなりますからね(もちろん私の記事もそれにあてはまります)。実際ここのところ消える大学も出てきているし、危ないなあと思わせる大学もたしかにあります。そういうことに早くから警鐘を鳴らしてきたというのは、事実島野さんの誇るべき部分だと思いますね。
 ただ、繰り返しになりますが、私の立場、つまり進学を担当する私立高校の教員という立場からしますとね、偏差値の高低でほとんど全てを判断してしまうという、そういうまさに一面的な見方には反発せざるを得ないんですよ。そこに関しては譲れません。まあ、私も島野さん同様、ちょっと大人になって、2年前の若気の至りを恥じてますが(笑)。
 まあ、この本、なんだかんだいってウチの学校の先生にも生徒にも人気ありますし、勉強にもなるんですよ。私自身も担当しているクラスの性質上、島野さんと同じようなことを言う時もあるわけだし。だから、今回、ちょっとトーンダウンしちゃったこの本を見て、みんななんとなくガッカリしちゃった部分もあるんです。ライバルが元気ないというかなんというかね。
 なんとなく肩透かしをくらったような感じで、私もトーンダウンですねえ。なので最後につまらぬツッコミを入れときましょうか。冒頭で学生の国語力の低下を憂えているんですが、その直後に「耳障りは良い」なんて書いちゃだめですよ。私も国語の先生のクセしてこんな文書いてるから偉そうなこと言えませんし、スーパー権威の大野晋センセイもこの本でやらかしてますし、ひろさちやセンセイの本にいたっては弱肉朝食ですからねえ。いずれも出版側の問題なんでしょうけど…気になるなあ。

Amazon 危ない大学 消える大学 '08

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2007.03.05

ストレス解消パンチバッグ

Kick55 さて、昨日はブラジルの道場を紹介した番組について書きましたが、今日はここ日本を代表するチーム・フジヤマの道場に関する情報を紹介しましょう。
 ここで行われているのは、いわゆる総合格闘技やプロレスを超えた究極の格闘技です(?)。左の写真をご覧になっておわかりのように、まったくもって謎な動きであります。このワザは相手のあごを狙った正面蹴りなのですが、やはり特徴的なのは、手の動きでありましょう。一見無駄な、しかし実際無駄な動きを取り入れることによって、相手を威嚇し、翻弄するのであります…なんちゃって、たぶんあまりに奇っ怪な動きに、相手は緊張感を削がれ、脱力してしまうでしょう。最強だな。実際闘う前から相手の戦意を喪失させるわけですからね。
Punch55 というわけで、私が蹴ったり、殴ったりしているのが、先月買ったパンチング・バッグであります。1500円くらいで買いましたが、非常に面白いし、運動になるし、なかなか家族にも好評な買い物でありました。
 ウチの家族は、めちゃくちゃ弱そう(実際、筋力的・運動神経的にはかなり弱い)なのですが、みんな格闘技好きでして、やはり観戦して応援しているとですねえ、自分もやりたくなってくるわけですよ。で、最近運動不足だし、面白そうだから買ってみようということになったんですね。
 空気を入れ、そして底には水を注入するだけのシンプルな仕組みですが、なかなか打ちごたえがありますし、ちゃんと起きあがりこぼし的に立ち上がってきます。スペース的には屋外でやるのがいいのでしょうが、なんとなく秘技を見せるのは恥ずかしいので、部屋を片づけてやってます。
 あと、面白いのは、このバッグをはさんで、両側から殴り合い蹴り合いをする、試合形式のトレーニングですね。これは盛り上がります。起きあがりこぼしではかなり反撃してくるまでに時間がかかるのですが、これだと瞬間的に防御の姿勢に入らないと、カウンターを喰らってしまいます。瞬発力や反射神経を養うには非常に効果的であると思われます。また、夫婦げんかもこれをはさんでやりますと、大いに盛り上がりつつ、物が壊れたりしなくてよろしい。
Cat55 左の写真は、ウチのセコンドが黒猫を肩に乗せてキックを繰り出しているところです。これは、かなり高度なワザであります。肩の上の猫を落とすことなく、あるいは動揺させることなく、相手にダメージを与えねばなりません。アニメではありそうなシーンですが、実際やってみますとかなり難しい。ちなみにもう一匹の猫はこのパンチバッグが大嫌いで、ちょっとでもこの赤い棒が揺れると、すごい勢いで二階に逃げていきます。なんだと思ってるんだろう。
 さて、今日も世界最強のオタク「ジョシュ・バーネット」を目標にトレーニングするぞ!!ところで、この棒ですが、使わない時も部屋の中央に屹立しておりまして、なんとなく道祖神的というか、魔除けにも効果がありそうですね(笑)。

トーエイライト (TOEI LIGHT) ストレス解消パンチバック H-7239 [分類:サンドバッグ]

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2007.03.04

『世界最強の男はこうして生まれる〜バーリトゥードの世界〜』 (NHKハイビジョン特集)

Nvj おいおい!いきなり「あはれ」対「をかし」、つまり「武士道」対「オタク道」、すなわちノゲイラ対ジョシュかよ〜!!NHKでこの試合を観ることになるとは…。その後もショウグン対中村、シウバ対桜庭など、PRIDEのリング満載です。いやはや、こういうオープニングになるとは、ちょっと想像してませんでした。タックル狙ってくるかな、今日は様子見から入ろうと思ってたら、いきなりゴングと同時にいいパンチ数発いただきました。NHKにKO負けですね。どうもきな臭い事情から地上波から姿を消したPRIDEが、こういうふうに国営放送で復活するとはね。ハイビジョン特集は地上波でも再放送されることが多いですから、それこそ地上波復活と相なるかもしれません。
 今日はですねえ、格闘技ファンにとっては非常に忙しい日だったんです。K-1GPもありましたし、ノアの武道館大会もあった。その他にも新日本プロレス、DRAGON GATE、大日本プロレス、DDT、みちのくプロレス、大阪プロレス、K-DOJO、JWP、修斗などが重要な興行をしました。特に困ったのは、テレビで何を観るかです。今日はスカパーの無料開放日だったので、ノア好きの私は当然G+を観るべきなんでしょうが、裏の大イベント、すなわちこのハイビジョン特集「世界最強の男はこうして生まれる〜バーリトゥードの世界〜」が夜7時からありましたんで、後で地上波で観ることができるであろうノアはあえて観ずにですねえ、というか、途中まで観ちゃうとつい全部観たくなっちゃうんで、7時まではGaoraの全日本プロレスを堪能していました。ああ、もうこの時点でかなり複雑な事態、私としてはかなり無理のある事態です。デジタルチューナーは一つしかありませんからね。一方は録画して…というわけにもいかないのです。
Svs ということで、無事?この番組に突入いたしまして、そして冒頭に書いた通りのKO負けでした。全体としてやはりNHKらしい作りとなっており、非常に勉強になりましたし、いろいろと考えさせられる内容でしたね。ある意味総合格闘技に対する偏見も多少は消えたかもしれない。
 番組のナビゲーションは戦うカメラマン井賀孝さん。前半は、なぜブラジルから総合の強者が生まれるのか、その理由を400年前までさかのぼって解説してくれました。なるほど、アフリカからの奴隷たちの反抗の形としてカポイエラが生まれたんですね。そこに日系移民の持ち込んだ柔道や、その他外国から入ってきたレスリングやボクシング、ムエタイなどが融合してゆき、現在のような「なんでもあり」のバーリトゥードに成長したと。
Nvm 途中、寝技関節技中心のブラジリアン・トップ・チームや、立ち技打撃技中心のシュート・ボクセの道場、グレイシー・バハなどの様子が紹介されます。ふだんどうしても選手だけに注目しがちな私、例えば前出の道場でいえば、単純にノゲイラとシウバというそれこそ寝技と打撃というコントラストとしてしか彼らを見ていなかったんですか、それぞれの練習風景や人生観、格闘技観などが語られると、なるほどこれは今まで表面しか見てこなかったんだな、ということを痛感させられるのでした。そんな間にも相変わらずノゲイラ対ミルコなどPRIDEの映像(音声もそのまま)が挿入されます。そこに宝田明さん(!)の解説が乗るんですから、これはたまりませんなあ。
Hc 後半は、世界一を夢見る若手、BTTの新星ホジマールに焦点を当てます。彼の生い立ちや普段の生活、練習風景、試合風景を通じて、彼らがなんのために闘っているかを学ぶことができました。
 神に祈り、神に感謝し、母に報いようとし、兄弟や恋人のために闘う。私は、そこに美しい精神性も見出しましたが、ある意味それ以上に、日本を夢の島のように思う彼らの心の構造に、なんというんでしょうかね、本当の弱肉強食でしょうか、資本主義の原理や世界の不条理というようなものが見え隠れしているような気がしました。ちょっと複雑な心境ではありましたね。成功したほんの一握りの人々には華々しい未来が待っているかもしれない。しかし、それ以外のほとんどの夢は夢のままですし、成功者の現実の栄華もほんの一時のもので、再びうたかたのように消えていくということも、実際私たちは知っています。10年前の、いや5年前のヒーローが今何人この世界で生きているでしょうか。ホジマールの実力は相当のものと見ました。彼も近い内に日本のリングに上がるでしょう。彼を応援したいな、という気持ちにはなりましたが、一方で変に心配になってしまったのも事実です。ハイリスク、ハイリターンの世界はこわい。
 この番組を観たあと、深夜ノアの中継を観ましたが、う〜む、やっぱり私はプロレス的世界の方がいいかな。60歳まで現役でいられるプロレスに、私は単なる弱肉強食ではない「優しさ」を感じるのでした。それにしてもさすがNHK、いろいろな意味で考えさせる番組を作りますね。ある意味NHKは市場の外にあるからですな。

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2007.03.03

ペコちゃんのいない雛祭りにちなんで(?)

Peko 今日のYahoo!ニュースにもありましたけど、ペコちゃんのいないひな祭りというのは、いったい何年ぶりのことなんでしょう。ペコちゃんのコスプレも、あるいはあの不二家のひなあられ(雛霰…漢検1級に出たっけ…ああそうそう、結果出まして、なんとか100点は行ったようですw)もない春なんて。
 さて、昨年の今日は源氏物語「須磨」より…「ひなまつり」にちなんでと題して、なかなか面白い考察をしておりますな。今、自分で読んでもけっこう面白い。
 で、今年は、我々の穢れを全部しょいこんで流刑になってしまった「人形(ひとかた)」ペコちゃんを偲んで、ちょっと彼女にまつわる話でも書いてみようかな。まあ私のことですから、またメチャクチャな展開になると思いますけど。
 Yahoo!ニュースの記事にもありましたが、ペコちゃんというのは「牛」の「ベコ」からとった名前でして、つまり「牛ちゃん」ということです。不二家の製品を支えてきた「牛乳」。ミルキーはママの味ではなく、牛すなわちペコちゃんの味だったわけですが、今回は皮肉にも期限切れのそれが、自らの首をしめる結果になってしまいました。
 とにかく、ペコちゃんは牛の神様なわけです(っていきなり…)。牛の神様と言えば「牛頭天王」でしょうか。言わずと知れた祇園祭の中心人物、というか神様です。
Oshirasama ところで、「ベコ」あるいはなまって「ベゴ」というのは、言うまでもなく東北地方の方言であります。で、東北地方の代表的な家神さまと言えば「おしら様」ですね。こちらは馬の姿で現れることもあります。馬頭観音との関係も指摘されていますね。実はこの「おしら様」、「おひなさま」が転訛したものだという説もあります。たしかに言語学的に申しますと、江戸言葉を例に出すまでもなく、「ひ」と「し」は交代しがちですし、「な」と「ら」(と「だ」)は、発音してみると分かるとおり、似た発音の仕方をします。鼻が詰まると全部いっしょになっちゃいますよね。まあ、私はこの説にはあんまり積極的に賛成しない立場なんですが、面白いですね。言われてみると、おしら様は、今では馬ではなくて男女一対の人形であることが多かったりする。
 というわけで、どうまとめましょうかね。馬との関係も噂されるひな祭りから、牛の神様が追いやられたってことですかね。いやいや、それはさすがに無理のある結論です。もうちょっと深読み(浅読み)してみましょうか。
 ひな祭り=上巳の節句と言えば、今ではすっかり女の子のための節句になっています。もともとは男も女もなかったんですけど、江戸時代に今のような行事に変わっていきました。時を同じくして、女性に関すること全てに御利益のあると言われていた「淡島様(淡島神)信仰」と親和していきます。この淡島神、一説ではイザナキ・イザナミの産んだ子で、ヒルコとともに不具の子として海に流された「アハシマ」だとも言われています。流す、それも穢れを流すという意味でも、ひな祭りと淡島信仰は結びついているわけですね。
 一方、牛頭天王と言えばスサノヲです。やはりイザナキ・イザナミの子です。こちらはアマテラスやツクヨミとともに、神話の表舞台で活躍しますね。
 そう考えると、牛頭天王=スサノヲたるペコちゃんが、アハシマを祭るひな祭りから追いやられるのも、分からないでもありません。神話や歴史の舞台裏に幽閉された淡島神の怒りなのかもしれません。ヒルコ(蛭子)が恵比寿神として表舞台に漂着したのと同様、アハシマもひな祭りという非常にメジャーな行事に復活したとも言えるわけですから、そんな事情も知らないであろう「牛ちゃん」=スサノヲが、最近そこに侵入してきたことに、淡島さんや蛭子さんが怒りを覚えるのも当然と言えば当然ですね。スサノヲよ、相変わらず空気読めないヤツだな!!とか言ってね。
 ありゃりゃ、ペコちゃんを憐れむ記事を書こうと思ったんだけど、結果としてペコちゃんを断罪する内容になってしまいました。すんません。でも、神話ってこんなふうに作られるもんなんですよ(笑)。

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2007.03.02

『十七歳の硫黄島』 秋草鶴次 (文春新書)

Ioutou 「右の腕はある。その先の指がない」…62年前の今日、秋草さんは敵の砲撃を受け負傷しました。玉名山の送信所が火炎放射を浴び壊滅状態になったことを、全身やけどを負いながら、南方空本部に報告にいく途中のことです。
 それまでも目を覆うような戦争の実態が克明に記されていますが、本当に悲惨だったのは、まさにこの後です。数日後、竹槍を渡されての最後の総攻撃の日を迎えます。そして玉砕。しかし、秋草さん自身も出演し語ったあのNHKスペシャル「硫黄島玉砕戦〜生還者61年目の証言」にもあったように、実際には彼らの闘いはそこで終わりではありませんでした。
 「人間の耐久試験」…まさに人間として、生物として極限の状況が、その後数ヶ月続くのでした。その部分については、とてもここに引用できるような内容ではありません。私は観ていませんが、「硫黄島からの手紙」には描かれていないであろう、硫黄島の真実がそこにあります。
 水も食べ物もない。もう自らの体に巣くう蚤や虱、傷口にわく蛆、そして負傷兵からしたたる血しか、口にするものがありません。そこに容赦ない米軍の火責め。戦争が両軍兵士たちの人間性を奪っていきます。
 辛い、辛すぎます。こんな私の感情すら、どこか軽々しく不謹慎な気がしてしまいます。こんな豊かな時代に、やりたいことをやってノホホンと生きている自分が、いくら戦慄し、共感し、心動かされても、きっと秋草さんの本当の体験をどれほども共有できていないと思います。
 しかし、この本には大きな大きな意味があるのです。そう、我々人間には、そうした記憶をあらゆるメディアを通じて継承していく力があるのです。それが個人レベルでいかに無意味に近くとも、メディアを通じて多くの人々がほんの少しずつでも共有していけば、それが結果として「語り継ぐ」という人間的な活動につながっていくのです。
 そういう意味で、この本は一級の資料であるとともに、大げさでなく人類の遺産になっていくでしょう。それほどに、秋草さんは自らの記憶を詳細に記録しました。彼自身が通信兵であったということもあるでしょう。そして、十七歳という非常に多感な時であったから、また、達観、諦念するにはあまりに若すぎたからでしょうか、自らの体験している状況を克明に記憶し、記録しています。それを読む私たちが、まるでその戦場にいるような錯覚を覚えるほどの鮮明さです。おそらく、どんな映画よりもリアルでしょう。どこまで編集者の手が入っているかわかりませんが、全体としてそういった臨場感にあふれる文体と内容です。
 非常に衝撃的であり、途中気分が悪くなるほどの記述の連続なのですが、どこか救いがあったのも事実です。私はそういう極限状態になった時の人間とは、もっと利己的で汚いものだと思っていました。もちろん、そういう事実も無数にあったのでしょうが、一方で、ようやく得た食料を分け合い、互いの体を気遣い合う、そんなシーンもたくさんあるのです。考えようによっては、死を覚悟すれば、逆にそういう境地になるのかもしれません。あるいは、それこそが日本男児の武士道精神として教育されているのかもしれません。しかし、いずれにせよ、そういう状況でも人間にはそういう心が残るのだという事実に、私は感銘を受け、また勇気づけられる思いもしたのでした。
 編集者の書いた「おわりに」の最後に紹介されている秋草さんの言葉、「どんな意味があったか、それは難しい。でもあの戦争からこちら六十年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無意味じゃねえ、と言ってやりたい」…なぜか、この言葉は、前出のNHKスペシャルではカットされたと言います。そこにはいろいろな事情があるのだと思いますし、NHKを責めるつもりはありません。しかし、やはりこの言葉こそが、秋草さんの最も強い気持ち、あるいは悩み考え続けた末の結論であり、亡くなった数万の兵士たちに対する、もうそれしかない弔いの言葉だと思うのですが。
 「おわりに」の後に続く、秋草さんの「謝辞」。死んでいく兵士たちの叫びがいつまでも消えません。「天皇陛下万歳!」「おっかさん」「バカヤロー!」「こんな戦争、だれが始めた」…。

Amazon 十七歳の硫黄島 NHKスペシャル 硫黄島 玉砕戦~生還者 61年目の証言~

関係記事
『ルーズベルトニ與フル書』 市丸利之助海軍少将
『The Miracle Sword 市丸利之助の奇跡の刀』
『市丸利之助歌集』

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2007.03.01

『プロレス紅白』

格闘音楽大全プロレスQ第5回
B00005f7vb01_aa240_sclzzzzzzz_ う〜、こ、これは…間違いなく世界最強のCDだ。紅白ということで言えば、こちらも良かったが、うん、やはりこっちの方が圧倒的に素晴らしい…ふぅ。
 さ〜て、今日は、昨日の素晴らしい音楽から一転して(?)、さらに素晴らしい音楽を紹介しましょう。いやあ、このギャップ…う〜む、音楽と一言でくくってしまいますが、その広さ深さはいったい…。
 このCDはプロレスファンならずとも、音楽関係者はなんとしても手に入れなければならないでしょう。こういうシロモノがちゃんとCDとして市場に出回っていたということだけでも、もうほとんど奇跡というか、音楽界の懐の広さ深さを痛感するのであります。
 まじで今まで聴いたCDの中で一番すごいかもしれない。すごすぎる。私もカミさんも泣きました。笑い過ぎて泣いた、というのもありますが、純粋な感動や哀愁の涙もそこには含まれています。昨日に続いて、曲目と歌手の紹介をしましょう。

1. 紅白オープニング・テーマ「乾杯の歌」
2. 闘え! ファイヤージェッツ(ファイヤージェッツ)
3. ローリング・ドリーマー(ジャンボ鶴田)
4. 颱風前夜(海狼組)
5. ウルトラ・バズーカ(高野俊二)
6. (CHANCE)[↑]3(J.B.エンジェルス)
7. マッチョドラゴン(藤波辰巳)
8. 極悪(ダンプ松本)
9. 星空のグラス(大仁田厚)
10. 男は馬之助(コント赤信号)
11. ゆき子(阿修羅原)
12. 炎の叫び(Jungle Jack)
13. 俺は闘犬(ストロング金剛)
14. 炎の聖書(クラッシュギャルズ)
15. 明日の誓い(長州力)
16. かけめぐる青春(ビューティ・ペア)
17. エンディング「蛍の光」

 もう、何をか言わん、ですよね。絶句…。いいですか、みなさん、これはレスラーの入場曲集ではありませんよ。本人たちが歌っているんですよ!レスラーの皆さんの紅白歌合戦なのですよ!
 はっきり言って、これは歌の下手さを競い合っているとしか思えません。曲はいかにもレスラー風なかっこいいものから、哀愁の演歌まで本当にいろいろなんですけどね、なにしろ皆さんの歌が最強すぎるんです。その点、なんでもそつなくこなす大仁田厚なんか、ちょっと歌もうまくて点数低めです。
 このCD、発売されたのが1999年の年末です。ジャンボのようにすでにお亡くなりになってしまった方もいらっしゃるし、プロレス界から消えてしまった方も多数いらっしゃいます。海狼組の北斗晶のように鬼嫁になった方もいらっしゃるし、ファイヤージェッツの西脇充子さんなんか、今では大相撲魁皇関の奥様ですからね。こんな感じで、ホントはいろいろとつっこみを入れながら説明したいんですけど、あまりの感動に言葉が出ません。
 というわけで、いきなり赤組、白組、どっちが勝ったか発表しちゃいましょう!!ずばり白組の圧勝です!!大差がついてますね。味わいが違います。大仁田以外はいろんな意味で涙なしでは聴けませんよ。
 特にすごいのは、もうこれはなかば伝説になってますよね、ドラゴン藤波辰巳さんの「マッチョドラゴン」です!関根勤さんや小堺一機さんらがさんざん茶化してましたが、たしかにすごすぎる。よくリアルジャイアンとか言われますが、はっきり言ってジャイアンの比ではありません。世界最強の歌唱力です。
 いわゆる音痴ではないんですよね。私、あまりにすごいので何度も聴いて分析したんですけど、音程は正確なんです。でも、下手に聞こえる…ではいったい何がいけないのか。それはぜひ皆さんの耳で確かめてください。これは誰もマネできません。なんと、YouTubeで映像つきで聴けますので、この記事を読んだ方は絶対に絶対に聴いてみてください。感動すること間違いなしです(笑)。ここを押せば笑撃のドラゴンワールドに出会えます。

Amazon プロレス紅白

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