« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007.01.31

今朝の富士山〜放射冷却に思う

click!
Fuji20070131 朝雲まとった今朝の富士山です。通勤途中の某公園で撮影しました。あんまりきれいだったんで。まとっているのは雪煙ではなく、やはり雲のようです。
 昨夜は少し雪が降ったらしく、家々の屋根や道路は、パウダーシュガーをふりかけたようにオシャレにデコレイトされていました。そこに朝日が当たりましてね、きらっきらっと輝くんです。冬の朝は気持ちが引き締まります。
 とは言っても、今年は異常な暖冬。いつもならこの時期、マイナス20度に迫ろうかという極寒を体験するのですが、今朝なんか朝4時の段階でプラスの2度近くありました。ありえませんね。
 しかし、少し雪がとけたところで快晴になり放射冷却が始まったんでしょうね。雪水が再び凍結をしたんです。こういう時の路面が最も滑りやすい。よく晴れているし、路面のなんとなく湿っているくらいにしか見えませんから、スリップ事故が起こりやすくなります。寒冷地の皆さん、今年は特に気をつけましょう。
 ところで、放射冷却っていう言葉よく聞きますね。冬の季語みたいなものです。小難しい理論や法則を抜きにして簡単に言うとこういうことです。宇宙空間は平均−270℃で、とっても寒い。地球はそれよりはあったかいので、熱が逃げてくんですね。まあ、地球を部屋とすれば外が宇宙です。イメージしやすいでしょ。
 それで、晴れてるってことは、部屋の窓にカーテンがないようなものです。つまり、雲(水滴)はカーテンの役割を果たすんですね。けっこう熱を吸収したり反射したりしてくれる。だから、曇っている朝はあまり冷えません。
 宇宙は常にメチャ寒いので、たとえ地球が温まる昼間でも、地球の熱を奪っていきます。つまり、放射冷却は常に起きているんですね。でも昼間は、出て行く量よりも、太陽から降りそそぐエネルギーの量の方が圧倒的に多いので、目立たなくなっちゃってるんです。
 というわけで、たとえば私が夜、星を観に庭に出たとします。だんだん体が冷えてきますよね。私なんて坊主だから特に寒い。大きな視点で見れば、私の体温は宇宙に吸い取られていってるわけです。今観ている星たちの方に向かって、私から発せられた電磁波はまっすぐ飛んでいきます。
 満天の星空の下で、そんなふうにイメージしますと、ああ星たちと同じ空間にいるんだなあ、という気持ちになってきます。宇宙とつながっている。宇宙に放り出されている。
 今朝、富士山を見てふと思ったんです。ああ別に星空でなくてもいいのかって。こうしてとけた雪が再び凍っていくという事実。太陽の光を浴びても富士山の雪がとけないという事実。雲が流れて消えていく、その足元から新たな雲が生まれてくるという事実。そして、今自分がここにいてこう考えているという事実。もう、それだけで、私は宇宙の存在を感じとることができるのでした。
 そして他の星々と比べて、夏の昼も暑すぎず、冬の夜も寒すぎない、この地球の奇跡に感謝です。いろいろ細かいことに文句言ってるのが馬鹿馬鹿しくなりますね。さあ、今日も適度に(!)頑張るぞ。

不二草紙に戻る

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007.01.30

『グーグル革命の衝撃 〜あなたの人生を“検索”が変える〜』(NHKスペシャル)

070121_a ちょっと古いネタです。先週の日曜日に放送されたものですが、あらためて観てみました。以前書きましたように、Googleは私のライバルですので(笑)、放映された内容はだいたい知ってる事実でした。
 今日は私の得意分野的にGoogleを切ってみたいと思います。得意分野と言えばいつものやつです(すみません、毎日読んでいただいてる方にはしつこく感じられるでしょうね)。でも、ちょっと面白い切り口だと思います。たぶん世界で一つのグーグル論(笑)。
 さて、Googleが目指すのは「世界中の情報をインデックス化する」ことです。これはまさに私の言う「コト」化にあたります。
 基本的に「コト」は、「モノ」が人間の内部で処理された状態のことを言います。ここで確認しておきますが、我々が日常使っている「物」「事」という単語が示す対象と、私が言っている「モノ」と「コト」ととは一致しません。たとえば、我々が「物」と言っているものは、たいがい我々が作り出したものか認識しているものです。これは、ワタクシ流に言いますと、処理済みの「コト」になるわけです。私の言う「モノ」は未処理、あるいは不可処理な存在です。簡単に言えば、自分たちの知らないもの、コントロールできないものです。Google流に言えば、インデックス化されていないものでしょうか。
 さて、私たちが脳内で処理するとは具体的にどういうことなのでしょう。今までも書いてきましたけど、「コト」というのはレッテルを貼られ、ネーミングされ、固定化された(元)「モノ」であります。それらは我々の脳ミソの中で、インデックス化されていきます。それは、全て「情報」になるということでもありまして、すなわち、それは変化することがないということになります。過去の情報自体は絶対に変化しないのです。つまり、死んでいるわけです。
 そういった脳内の情報は、様々なメディア(霊媒・媒体)によって形作られます。人間の五感で捉えられる形に再構成されるんですね。私はそれを「カタル(語る・騙る)」という言葉の原義としています。かたられた「(自分にとっての)コト」は、他者にとっては最初は「モノ」ですが、それもまた脳内で処理された瞬間に「(その人にとっても)コト」となっていきます。それが、「物語(モノガタリ)」であり、「語り継ぐ」という行為です。
 で、Googleはその「コト」たちを収集・整理しているわけですね。どんどん「モノ」が処理されることによって生まれてくる、そして語り継がれて増殖する「コト」たちをインデックス化していこうというのですから、そりゃあ大変です。そういう面倒なことは、そういうことが得意なコンピュータにやらせましょ、と。クロール・ロボットですね。何しろ、インターネットという網は、世界中の脳ミソと…いや、正確に言うと脳ミソ自身ではなくメディアとですね…つながってるんで、そういう馬鹿げた「コト」も可能になるわけです。
 ついでに脱線しますと(私にとっては完全につながってますが)、いつも出てくる「萌え=をかし」はそうした「コト」を対象とした人間本来の感情です。「招きたい」でしたね。現代ではオタク的な心理と捉えられています。だから、私にしてみれば、Googleは究極のオタクなんです。だいたい、検索する私たちも、まさにGoogleを使って「招く」わけですよね。「萌え=をかし論」のところにも書きましたけれど、自分の前に処理されない(よくわからない、手に入らない)「モノ」が出現すると、「コト」化の願望がわくんです。で、昔はインターネットもグーグルもなかったから、行ってみるしかなかった。「ゆ(行)きたい」、それが古語の「ゆかし」です。でもですねえ、昔でも冷静さを失ったりすると(つまりミーハーになるってことなんですけど)、もうガマンできなくて、「こっちに来い!」「今すぐ所有したい!」って思っちゃうんですよ。それが「を(招)きたい」つまり「をかし」なんです(って私だけが信じている珍説ですけど)。
 としますと、Googleはまさにその「萌え=をかし」の感情を実現してしまうツールなのですね。検索すると、ほら… キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!…となる。招いたら来ちゃうんですからね。平安人にとっては夢のようなことでしょう。
 てなわけで、Googleは人間古来の夢を実現しようとしているわけです。すごいですね。実際かなりのレベルでそれを成し遂げつつある。素晴らしいかどうかわかりませんが、すごいことです。こうして、人類のオタク化が進んでいくわけですか。そして、オタク人類の脳ミソ代表であるGoogleでインデックス化されていないものは、全て「モノノケ」とされるんでしょうね。で、「物の怪」の運命は…。それは歴史が語ってくれています。言うまでもないでしょう。
 でも面白いのは、彼らがいかにもオタクっぽく集めて陳列しているのが、しょせんフィギュアに過ぎないということです。語弊はありましょうが、ズバッ!と言ってしまうと、彼らは死体(死骸)収集業者なのでして、生きたモノに関わることはできないのです。「生きた情報」という言い方がありますが、それは実際にはありません。「コト」を生かすことは可能ですが、「コト」だけでは何も変化せず、何も動かず、何も生まれません。
 なんか、こう考えますとですねえ、オタクでありながら、しかし思い通りにならない「もののあはれ」にも未練のあるワタクシといたしましては、やっぱりGoogleを敵に回して、世界の「コト」化されてしまったものを再び解体したくなってしまうのであります。こうなったら、グーグルのライバル「ルグーグ」とか「Elgoog」とか開発しちゃおうかな…って、結局自分の願望を実現(コト化)しようとしている。ああ、人間とは因果な生き物ですなあ…orz

Google

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007.01.29

『ブリスコ兄弟vs鈴木鼓太郎・リッキー・マルビン』(プロレスリングノア)

NOAH GHC Jr.タッグ選手権試合 at 武道館
Noah7343 神の子山本KID負けちゃいましたね。そのせいかこの記事が人気記事に上がっています。昨日の試合に職場の後輩が行ってきたということで、なになにふむふむ、と話を聞いたわけですが、いろいろな意味で「痛い」大会になっしまったようです。1回戦も実は疑惑の判定勝ちだったとか…。実に難しいですね。年末のK-1もそうでしたが、いわゆる真剣勝負にコマーシャリズムを持ち込むと大概こういうことになってしまう。逆に演劇にガチを持ち込むと大相撲みたいになってしまう。いけませんね。
 いつか後輩にアマレスの大会に連れててってもらいましょう。もちろん私の興味は山本郁榮さんとアニマル浜口さんです(笑)。あっ、ちなみに後輩、浜口京子としゃべった上に腕さわらせてもらったんだって!いいなあ。
 というわけで、80年の栃木国体でアマレスフリースタイル87キロ級で優勝した三沢光晴率いるプロレスリングノアです(笑)。今日の未明に放送されたノアの中継の録画を観ました。ああ、やっぱり私の安住の地はプロレスだなあ。アンサンブルって本当に美しい。平和の象徴ですよ。私にとってはガチはレイプです。戦争の象徴です。
 今日放送された試合は「ジェイ・ブリスコ、マーク・ブリスコ 対 鈴木鼓太郎、リッキー・マルビン」。ジュニアタッグのタイトルマッチです。これがいい試合だった。まさにどちらが勝つとかいう次元を超えた美しいアンサンブルでした。どう考えても相手の協力がなければ成立しない高度な技の連続に、私とカミさんはただただ驚嘆するばかり。
 ブリスコ兄弟も素晴らしい選手ですね。ていうか、私の世代だとですねえ、ブリスコ兄弟っていうと、あのジャック&ジェリーを思い出すんですが、まさかどちらかの息子さんではないでしょうねえ。詳しい方教えてください。いや、それにしても、この新ブリスコ兄弟、旧兄弟以上の逸材ですね。日本のプロレスをよく研究していますし、それを超えようと努力していることが伝わってきます。相手を生かす術をよく心得ている上に、コンビネーションや技の思いきりが素晴らしいので、試合全体が映えます。
 上の写真は、激しいタッグのお決まりのシーン、ある意味歌舞伎の「見栄」ですかね、4人が技を出し合って、そして全員が舞台に倒れているところです。ここは当然拍手のしどころですね。武道館の舞台上に立っているのはレフェリーだけという、この演劇的空間こそ、プロレスの醍醐味であります。総合ではありえないっす。
 結果的には、鼓太郎とマルビンの友情合体技で涙のベルト奪取という結末でしたね。大団円です。この試合には全ての観客が満足したでしょうね。技の美しさや、意外性、アンサンブルの妙のみならず、純粋な気持ちも前面に出た好試合だったと思います。
 私は予言しますよ。そろそろまたプロレスの時代が来ると。そこには真に人間の欲するものがあるからです。それは、信頼であり、友情であり、思いやりであり、エンターテインメント…つまり人と人をつなぐということの本質であるからです。この前も書きましたが、やっぱり生まれ変わったらプロレスラーだな。来世が楽しみです。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.28

第1回 レミオロメン聖地巡礼の旅(その2)

Remio180 Remio786
 昨日の続きで〜す。まずは上の写真をご覧下さい。左は某音楽雑誌に掲載されたレミオロメンの写真です。彼らがインディーズ時代に練習していた御坂の埋草神社で撮影されたものです。そして、右が昨日その神社で撮影した写真です。映っているのは当然レミオ本人たちではなく、ウチのカミさんとお客様、女性お三人さんであります。
 昨日はちょっとリリカルで感動的な記事を書きましたが、今日はちょっと違いますぞ。そんなキレイゴトだけではすまされないのが、女性ファンの世界であります(笑)。それに、私自身が「腐女子研究家」「腐女子プロデューサー」を名乗るくらいですから、そう簡単に旅を終わらせませんぞ。
 ま、この写真のようなことは男でもよくやります。私も考えてみるとけっこうやってきました。例えば、太宰治が大好きでしたから、当然彼ゆかりの地は回り尽くしました。青森にも2回行って実家に泊まってきましたしね。けっこうミーハーです。あと、この記事にも書きましたが、コスプレして太宰になりきっておバカなことまでしました(笑)。
 だから彼女たちをバカになんかできません。どちらかというと共感します。男だって憧れの野球選手のフォームをまねたり、憧れの俳優のファッションをまねたり、実はよくやってきているんですよ。ある意味そういう体験がないと男として失格って感じですよね。たしかに女性はそういう時に独特の傍若無人ぶりを発揮してしまってかたはらいたきものになってしまうこともあります。だからプロデューサーが必要なんですよ(笑)。
 というわけで、昨日はひととおり彼女らのファン心理を満足させつつ富士山に帰ってまいりまして、あとはウチで反省会(宴会)という当然の流れであります。で、私もお酒を呑みながらいろいろと蘊蓄をたれたりいたしまして、そしていつもの就寝時間10時になりましたら、子どもたちとさっさと寝室へ退散いたしました。これこそプロデューサーの心憎い演出であります(笑)。つまり、女だけにしてあげる、ということです。これは基本でしょう。
 案の定、彼女ら、そこからがすごかった。いや、私は本気で寝るつもりだったんですけどね、とにかく階下から聞こえる悲鳴や拍手や笑い声やキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!によって、眠れなくなってしまいました。いえいえそれが迷惑なんてことは全くなくて、まさに私の思うツボであったわけでして、なんとなく私も満足したのです。
 結局彼女ら3時まで盛り上がっていました。ほとんど初対面の3人だったんですが、あそこまで意気投合するとは…さすがです。
 何がそうさせるかといいますと、それこそが「腐力」だと思うのです。昨日あれだけ純粋な涙を流していた彼女たちですが、どうも私がいなくなってからは、それぞれがある種の本性を発揮したようであります。なんかレミオのビデオを見ながら、腐った話をしていたらしい。
 今朝起きてからは、その内容については詳しく語ってくれませんでしたが、部屋に残る腐臭と研究家としての私の経験と勘でだいたいわかります。その雰囲気を察した私は、すかさず彼女らを「腐女子」扱いすることとしました。ほぼ初対面のお客様に対して、それは失礼では、とお思いの方。それは甘いっす。実はこれこそが最高のおもてなしなのですよ!というわけで、口をきわめて称賛いたしました。腐女子・貴腐人・麻婆豆腐・貴腐ワイン…しまいには腐敗の上に発酵まで(笑)。
 これはワタクシ一流のほめ言葉ですからね。誤解なきよう。いつも言っているように、男の「萌え」や女の「カワイイ」感情、そしてそこに乗る性的な要素というのは、日本古来の伝統なんです。平安の宮中の文学なんて全部それですから。私お得意の萌え=をかし論です。世界に誇るべき文化なんですよ。彼女たちの言動はそのまま清少納言や紫式部に重なります。いや、マジで。
 男はね、ちょっとむなしい存在なんですよ。女ほどピャー!となれなかったり、あるいはピャー!の後、妙に虚無感に襲われたり、あるいは社会的に例えば武士道なんかによって、それを抑制されたりね。最近になってようやく男の女性化が社会的に許されるようになり、「オタク」たちがそれを実現するようになった。それでも生理的な部分は避けられないので、不利な状況は変りませんけど。
 ということで、内容は知りませんが、お客様もカミさんも大変に満足されたようでした。なにかとってもすっきりした表情でした。で、最後に「粉雪」発祥の地、山中湖のサウンド・ビレッジにも連れていってあげまして、労をねぎらってさしあげました。考えてみると私もあのスタジオでレコーディングしたことあるんだよな。何録ったか忘れちゃいましたけど。あっあと、3月9日のヴァイオリン生演奏もプレゼントしました。
 こんな感じで第1回レミオロメン聖地巡礼の旅は大成功に終わった…かな。次回にも期待いたしましょう。

第2回の記事へ

不二草紙に戻る

| | コメント (35) | トラックバック (0)

2007.01.27

第1回 レミオロメン聖地巡礼の旅(その1)

Cv34 このブログのレミオロメン記事を通じて知り合ったお二人の女性が、東京と埼玉からわざわざ来てくださいまして、かねてから計画していたレミオロメンの旅を敢行いたしました。
 もっぱら私は運転手でありまして、うちのカミさんとお客様方、3人の女性陣の満足が得られるよう、いろいろと頑張らせていただきました。
 元はと言えば、私のレミオ記事にコメントくださった方と、うちのカミさんが大いに盛り上がりまして、どうせなら一緒に霊場…ではなくて聖地を巡礼しましょう!という運びになったのであります。
 せっかくですので、御坂在住の職場の先輩に無理をお願いいたしまして、案内していただくことになりました。お休みのところ、本当に親切にそしてマニアックに御坂について指南してくださった先輩、どうもありがとうございました!やはり、地元の方の情報網と視点は違います。私にとってもたいへんに勉強になりました。
 富士山を出発いたしまして、吉田のうどんを食べつつ河口湖を通り、吉井和哉さん宅をチラ見しながら御坂峠を越えて笛吹市へ。本日回りましたのは、彼らゆかりの学校やお店、公園や神社、またご実家などでありました。当然ご迷惑のかからないように配慮いたしたつもりですが、一部暴走を抑えきれない点がありましたこと、主催者としてお詫び申し上げます。すみません。
 さて、今回の旅での一番の収穫は、やはり「人と風土」の存在を痛感できたことでしょうね。私もあらためて感動いたしました。御坂や八代など、いわゆる峡東地区は古くから独特の風土を持っています。桃やぶどうなどの果樹畑が広がり、歴史的に見ると戦後は比較的豊かな生活をしてきておりまして、いろいろな意味での余裕が、独自の文化を作り上げてきました。今日の先輩のお話にもありましたが、農作業の傍ら、美しい風景を見ながら、俳句や短歌を作ったり、絵を描いたり、歌を口ずさんだりする。回覧板で次々と短歌を詠みつないでいくなんていうこともあったとのこと。素晴らしいですね。この土地から飯田蛇笏や山崎方代が世に出たのも、さもあらんことです。
Yatsushiro 私は、レミオロメンの歌詞やメロディーを聴いた時、まずこういったことが頭に浮かびました。ああ、彼らこそ現代の蛇笏や方代だなと。大げさではありません。あの風景と文化的伝統を知れば、誰しも納得すると思いますよ。お客様方もそのことを心と体で実感されたようです。みんな、それぞれの場所で泣く泣く!その涙は、たとえばメンバーと同じ場所に立った感動とかいう次元のものとは違うと思いました。もっと深い理解と共感と感動だったはず。
 私もふと涙が出てしまった瞬間がありました。旧八代町を巡っている時です。町のいろいろな場所に右の写真のような標語が掲げてあるんです。素晴らしい言葉じゃないですか。人間が人間らしく生きるための、最もシンプルなスローガンです。私たちはそのどちらをも忘れてはいけないのです。心にしみますね。
 天候にも恵まれ、美しい稜線と美しい夕陽、そして美しい人たちに出会うことが出来ました。そうした出会いを与えてくれたレミオロメン自身にも感謝の気持ちでいっぱいになっています。
 今回は「冬」のツアーでした。次は当然「春」、あの桃の花の季節です。きっとお客様方、卒倒しちゃいますよ。あの風景を見たらねえ。ありえませんからねえ。私もとっても楽しみです。
 こうして考えますと、こういった旅というのは、昔で言えば「歌枕」を訪ねる旅にあたるわけですね。昔からあったことです。「歌枕」が存在する歌が、現代においてどれくらい存するのでしょう。ただここを歌った歌とか、そういうレベルではなくて、今書いてきましたように、その土地の人と自然の歴史が刻み込まれている歌です。レミオロメンはそういう歌を残せる貴重な存在だと思っています(ちょっと最近都会の空気を吸ってしまって浮き足立ってましたけどね)。
 
明日の記事に続きます(その2腐女子編?)。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.26

『not simple』 オノ・ナツメ (小学館)

Notsimple 異文化交流続きます…かな。日本人が描く外国が舞台のマンガ。リアル腐女子の生徒が貸してくれました。オノ・ナツメさんの作品は以前「リストランテ・パラディーゾ」と「さらい屋五葉」を、basso名義での作品は名作?「クマとインテリ」を同じ生徒から借りました。それぞれ私はけっこう楽しめましたので、今回も期待しておりました。
 結果、期待以上といいますか、ある意味期待を大きく外れた作風で、また違った作者の違った一面を垣間見たような気がしました。なかなか力のある作家さんですね。
 このお話はちょっと辛い。親に愛されない少年が運命に翻弄され死んでいく。悪い偶然がこれでもかという具合に重なり合っていく。かなり辛いかもしれません。救いがない。でもなんだろう、なんか心はあったまる…うん、これって、ヒミズ的なのかもしれない。画風も作風も全然違いますけど。
 二作の共通点は、主人公が希望を持っていることなのかもしれせまん。えっ?希望?と思われる方も多いでしょう。二作ともいつまでたっても、救われそうで救われない。そして、結末は「死」。そこに希望はあるのか。いや、私は彼らが常に考え、感じ、動いていた事実に感動します。本当に絶望したら、彼らのように人と関わらないでしょう。彼らはそこに望みを感じて人と出会い、その人の言葉を聞き、行動していきます。たしかに結果としては「死」だったかもしれません。それをもって「最悪」と他人事のように言うのはたやすい。しかし、自分の存在自体や運命といった「モノ」に抗おうとし、その手段の半分を他人に委ねた彼らには、やはり「変えたい」「変わりたい」意思が働いていたと思うんです。
 そんな中での様々の出会い、そして彼らを見守る温かい目の存在は、決して私たち読者にも絶望を与えるものではありません。やはりそれは希望です。
 私たちは実はそんなふうに生かされているんですよ。ただ、それを意識しない。それに気づかない。こうした極端なストーリーと結末を持つ物語によって照射されて初めて気づく。私たちも同じように生かされているし、そして彼らと違って実際「救い」に溢れてるじゃないかと。
 おそらく「物語」の本質はそこにあるんでしょう。「モノ」を「カタル」。そう、自分にとって外側だった「モノ」を、語られることによって内側に「コト」として取り込む。気づかなかったことに気づく。知りたがっている、すなわち予感だけは常に感じている私たちは、そうして物語を欲するわけです。それもまた、他者との出会いによる変貌への希求。
 やはり人は一人では生きられないんですね。寂しがりや。私も毎日、モノ・コト・ヒトと関わり合い、変化し、その結果をこうして文章にしているわけです。それをまた読んでくれる方々がいる。ありがたいことです。
 『not simple』…複雑であることに感謝。

Amazon not simple

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.01.25

MARTY FRIEDMAN produce 『ROCK FUJIYAMA』  ROCK FUJIYAMA BAND

B000kf0t8801_aa240_sclzzzzzzz_v47531245_ 異文化交流シリーズ続けましょう。昨日書きましたように、ある意味ネイティヴ以上の外国人というのがいるわけですね。その好例がちょうど発売になりましたので紹介します。
 マーティ・フリードマンさん、ご存知ですか。ヘヴィーメタルバンド「メガデス」の元ギタリストさんです。ソロ活動を始めてから日本に移り住みました。で、相変わらず外見はヘビメタなのに、演歌や日本のアイドルオタクさんでして、異常にこなれた日本語をしゃべります。そのギャップが面白いのか、最近ではテレビや雑誌にもよく出てますよね。一昨年の年末には、復活鈴木あみのギタリストとして、夢の紅白に出演して泣いちゃったとか。最近ではNHKの『英語でしゃべらナイト』に出演して、「日本人はなぜ英語の勉強をするんだ。日本語がこんなに美しいのに」と、番組の趣旨を無視した名言を残しましたっけ。とにかく私も大好きなヘビメタおやじ(オタク外人)です。
 彼の浜崎あゆみに対する理解の深さは、もしかすると「私」以上かもしれませんね。彼は歌詞もよく読み込んでいます。アメリカの音楽はダメだよ、日本の曲は歌詞が深い、とよく申しております。
Mn56 そのマーティ、昨年の4月からテレビ東京で「ROCK FUJIYAMA」という番組をやってるんです。これがまたかなりマニアックでして、私も時々観るんですけど、ちょっとついていけないくらい。でも、その微妙な(?)発言にハッと気づかされることもしょっちゅうです。昨日のラズロさんと同様ですね。外国人ならではの視点が、私たちに気づきを与えてくれる。
 そんな彼が、その番組で知り合ったこれまたマニアックな日本人ミュージシャンたちと作ってしまったのが、このアルバムです。昨日発売になりました。これはお世辞抜きにいいですよ。
 まず選曲が憎い。J-POPや演歌でもやってるのかなと思いきや、ほとんどが洋楽の名曲。それをマーティが料理し、ROLLY、鮎貝健、SHELLY、MASAKI(from CANTA)、真矢(ex LUNA SEA)、MCU、相川七瀬、野村義男、ルーク篁と言った、実力もあるが一癖も二癖もある日本人がサポートします。

1 R.F.B. feat.SHELLY BASKET CASE / GREEN DAY
2 R.F.B. feat.MARTY FRIEDMAN HOUND DOG (YOU AIN’T NOTHING BUT A HOUND DOG) / Elvis Presley
3 MCU LIGHTS!! CAMERA!! ELIXIR!! / MARTY FRIEDMAN
4 R.F.B. feat.野村義男 PURPLE HAZE / JIMI HENDRIX
5 R.F.B. feat.KENNY GUY SUMMER OF' 69 / Brian Adams
6 R.F.B. feat.ROLLY BEN / MichaelJackson
7 R.F.B. feat.相川七瀬 LIVE TO TELL / Madonna
8 R.F.B. DON'T STOP BELIEVIN' / Journey
9 R.F.B. feat.ルーク篁 ARE YOU GONNA GO MY WAY / Lenny Kravitz
10 MARTY FRIEDMAN featuring KIRITO 雑音(ノイズ)の雨 (STATIC RAIN)
11 R.F.B. FUJIYAMA で会いましょう

 まあ、この曲目にして基本ヘビメタアレンジなので、それだけでもけっこう楽しめるんですけど、途中日本語が挿入されていたり、わざと妙な「間」を入れてあったりと、いかにもマーティ風、フジヤマ風になっていて笑えます。マーティのギターソロは相変わらずかっこいいし。いやいや、考えてみればそうそうたるメンバーでしょ。うまいしセンスいいのは当たり前ですよ。大まじめなのか大ぼけなのか、その微妙なバランスがオシャレです。
 よく考えてみるとですねえ、これは非常に面白い文化交流ですよね。もともとロックというのは向こうの音楽じゃないですか。それを日本人は日本流にしてずっとやってきた。J-POPもその系譜上にある。それに感動した本場の外国人が日本にやってきて、その素晴らしさを語る。そして、それに感化された日本ロッカーが集まって、彼といっしょに本場の名曲をカバーしているわけです。複雑と言えば複雑ですが、理想と言えば理想のコラボレーションでしょう。日本の浮世絵の影響を受けた印象派が、日本で人気があるというのと逆、いや似た現象とも言えましょうか。
 まあ、こうしてお互い好きになって、尊敬し合って、そして教え合って、共同作業していくということは、世界平和のためにもいいことですよ。大げさでなくて。
 彼らライヴをやるみたいです。なんかとっても行ってみたいんですけど。FUJIYAMA在住者としても大いに気になるところです。行っちゃおうかなあ。

Amazon ROCK FUJIYAMA

テレ東ROCK FUJIYAMA公式

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007.01.24

『ダーリンの頭ン中 英語と語学』 小栗左多里、トニー・ラズロ (メディアファクトリー)

Darling さて、昨日に続いて異文化交流のお話。生徒が貸してくれたんですが、とっても面白かった。このダンナさん、言語マニアのトニー・ラズロさんとお友達になりたいですね。きっと、ヘヴィーでディープな話、弾みますよ…てか重くて深くちゃ弾まないか。
 目からウロコっていう話が満載でしたねえ。日本で教えられている英語(外国語)が、ネイティヴには変だったり、あるいはネイティヴ以上に厳格だったり、また、私たち日本語のネイティヴ・スピーカーが日本語についてよくわかっていないのと同様に、英語やその他の外国語のネイティヴ・スピーカーも自国語のことをよくわかっていなかったりと、なかなか楽しいエピソードが満載であります。
 外からある言語を見ると、当然その言語のネイティヴとは違う風景が広がるわけですね。そのせいで、外国語学習者は苦労するわけですけれど、逆に、そういう学習者の話がネイティヴにとって新鮮であるケースもあるわけですね。言われてみるとそうだとか、いや、言われてみてもやっぱりそんなことないとか。
 theは母音の前では本当に「ジ」と読むのか?
 vの音は本当に下唇をかんでいるか?
 本当のところはどうなんでしょうね。気になる方はこの本を読むか、ネイティヴさんに訊いてみて下さい。
 こういう異文化交流っていいですね。外国語を学ぶと自国語に対する意識も変るように、たとえば音楽なんかも異国の音楽を学ぶということが自国の音楽を改めて知るきっかけになりますし、また反対の作用として、向こうの音楽をこちらがやることによって、向こうに新たな発見を与える場合もあるわけです。つまり、お互いにとってメリットがあるわけでして、損することは(たぶん)ない。
 私も西洋の古楽なんぞをやってまして、ある時期はなんでこんなことやってるんだ?ネイティヴにかなうわきゃないし…なんて自虐的になった時もあったんですけど、まあ、まじめすぎたというか、勘違いしてたというか、向こうと同じことをしようとすること自体、おかしかったんですよね。そうじゃなくて、新たなる可能性として、新たなる縁起として、新たなる融合として、現代日本人が17世紀のヨーロッパ音楽をやったっていいわけです。やったっていいどころか、やるべきなんです。
 実際、一般的な現代ヨーロッパ人よりも、私、バロック音楽についてよく知っているかもしれません。逆に私なんかより歌舞伎や能や浮世絵に詳しい外国人もたくさんいる。この前書いたグールドなんか、間違いなく私より漱石をよく知っている。そして、彼のゴールドベルクを聴くことによって、私の漱石の理解が豊かになったりするわけです。ああ、そう言えば、若冲についてはジョー・プライスさんに教わりましたよ。格闘家(プロレスラー)ジョシュ・バーネットのオタク知識には全くついていけませんしね(笑)。
 最近ですね、時間的、空間的、文化的境界線を引かないでいろいろなことを発想できるようになったのは。私も多少は大人になったんでしょうか。でも、それによって、いかに私の人生が豊かになったことか。このブログなんてめちゃくちゃでしょ?でも、私の中ではけっこう全部つながっていて整合性があるんですよ。
 外国語としての英語学習については、ここなんかに書いている通りです。勉強したい人、勉強しなくちゃいけない人はすればよい。英語のみならず、いろいろな外国語を学習するとすれば、やはり今述べてきたようなスタンスでやりたい。音楽にせよ語学にせよ、ネイティヴと肩を並べようとするのは間違い。いや、別にそれでもいいんですけど、だったら相手にも同じことを要求しましょう。そうしないと、相撲取りがリングに上がって蛙みたいになるのがオチです。どうせなら、あんたたちが気付いてないことを、こっちが教えてやる!くらいの気持ちがいいですよ。実際そういうものだし。決して卑屈になる必要はない。でも、ちゃんとそれなりの視点を持たなきゃね。オリジナルな。そして、相手からも同様に学んでやる!という姿勢も大切です。
 なんか、話がそれちゃいましたけど、この本の夫婦はそういう意味でなかなか理想的な攻防を繰り広げております。語学のトリビアとしてよりも、そういう人と人の関係を学ぶ良い教材かもしれません。マンガですのでとっつきやすいし、笑いながら大いに感心できますよ。おススメします。

Amazon ダーリンの頭ン中

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2007.01.23

NHK歌謡コンサート『今夜は一杯・酒と歌心』に関ジャニ∞!?

Kanjani8 viva!異文化交流!…今日は違うネタ用意してたんですけど、食事をしながらたまたまつけたテレビにやられました。久々にドツボにはまりました。カミさんとまさに腹を抱えて笑った。メシが食えない…。
 いやあ、この面白さ、文章では伝わらないだろうなあ。残念ですけど、とにかくこれは記録として残しておかねば。
 火曜日の歌謡コンサートご存知ですか?まあ、よほどの演歌好きでもない限り、これは観ないんじゃないですか。ザッピングしてて、ちょっと映っちゃった時、「げっ、演歌だ」と思う若者も多いんじゃないでしょうか。昔(結婚前まで)は私も完全にそのクチでした。それが、演歌マニアのカミさんと結婚してからというもの、なんとなく見せられているうちに抵抗がなくなってきた…どころか、良さ、面白さが分かってきてしまったんです。ま、自分も歌謡曲バンドなどをやるようになり、人前で演歌を演奏するようになったというのもありますし。いや、単にオヤジになったってことかもしれませんが。
 で、今日も子供たちの反対を押しきって、途中から夫婦で観始めたんです。なになに?今回のテーマは「今夜は一杯・酒と歌心」かあ。ちょうど呑み始めたし、なかなかいいぞ。あとでわかったんですが、キム・ヨンジャの「酒と泪と男と女」と小金沢昇司の「ワインレッドの心」は聞き逃してしまったらしい。残念。それでも、島津亜矢の「黒田節」を堪能し、石川さゆりの「酔って候」には感心し、といった感じで、すっかりその世界に入っていったわけです。私とカミさんの手には、麦焼酎のお湯割が…。
 そして、コーナーは「時代の歌こころの歌」へ。おっ、渥美二郎だ!来るぞ〜来るぞ〜あの歌。それにしても、渥美二郎、なんで30年以上顔が変らないんだ?とか馬鹿話をしていると、ほらやっぱり来ました「夢追い酒」!!う〜む、遠藤実は天才だ。渥美二郎の抑制された唄いっぷりもなかなかいいね。この曲は入りが難しそうだ…とか言いながら聞き惚れていたんですね。
 そして、さあ次は何が来るかな、と期待した瞬間、それまでお行儀良かった会場から、突然黄色い歓声が!そして、何やら怪しい集団が乱入してきたぞ。あっ、ステージを占拠しようとしている!ん?違うぞ、名だたる演歌歌手の皆さんの前に座り出した!な、なんなんだ、この場違いな連中は。私のほろ酔いはすっかり醒めてしまいました。
 そして、そこから抱腹絶倒のショーが始まったのです。上の写真をご覧になれば分かると思いますが、吉幾三、石川さゆり、小金沢昇司、キム・ヨンジャ、島津亜矢、原田悠里という大御所の前にいる8人は…いや、一人は小田切アナでした(笑)…関ジャニ∞じゃないですか!!もう、その時点で私は「やられた!」って思いましたよ。分かりますか?
 小田切新メンバー(違う違う)は外すとして、なんで「エイト」が7人になったか。そう、元メンバーの内くん、未成年飲酒問題で実質脱退を余儀なくされたんですよね。ははは、まさに「今夜は一杯」が命取りになっちゃった。それで、代わりに年配者の小田切くんが…違うって!!
 というわけで、渥美二郎の「夢追い酒」がいきなり「関風ファイティング」になっちゃった。それまでまさに歌に酔っていたおじいさん・おばあさんたち、目の前で繰り広げられるアクロバチックなステージに、たぶんめまいがしたと思いますよ。昼寝してたらいきなりジェットコースターに乗せられた、みたいな。会場の一部を占拠したジャニヲタの異様な盛り上がりが、さらにお年寄りを困惑させます。私たちも開いた口が開いたまま…。
 そして、彼らの歌が終わり、いかにも生放送らしく、スタッフの「早く引け、引け!」という合図が映りこんだりして、嵐、いや関ジャニ∞は去っていきました。ジャニヲタの悲鳴も一気にトーンダウン。と、間髪を入れず竹川美子の「雪の海峡・津軽」が!!そして、会場からはジャニヲタに刺激されたか、野太いオヤジの「みっこちゃ〜ん!」というコールが…(笑)。そして鏡五郎の「いのち坂」へ…。
 なんなんだ、この展開…。渥美二郎と竹川美子にはさまれた関ジャニ∞って。「夢追い酒」と「雪の海峡・津軽」に囲まれた「関風ファイティング」って…。さすがNHK、としか言いようがありません。で、冷静に考えると、ジャニヲタたち、あの瞬間以外は、どっぷり演歌の世界に漬かっていたわけでして、ある意味、ジェットコースターの老人より辛い状態が持続したのではないでしょうか。そんなことも考えると、ますますおかしくておかしくて…。ああ、メシが食えない、酒は進む。
 まあ、たしかに紅白なんかもこういうことがありますよね。昨年末もけっこうジャンルめちゃくちゃで組み合わせてましたね。それにしても、ド演歌番組で1曲だけジャニーズってのもね。ま、関ジャニ∞は歌謡路線ではありますが。いやあ、楽しかったっす!おいしい酒が呑めましたよ。ありがとう、みなさん。やっぱり異文化交流って刺激的ですし、素敵なことですね。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.01.22

『子育ての倫理学 少年犯罪の深層から考える』 加藤尚武 (丸善ライブラリー)

Ethics77 この本は2000年に出ています。20世紀の終わりには本当にいろいろな凶悪事件があったんですよね。特に少年犯罪。なんとなく最近そういったことが多いような錯覚を覚えますが、実はずっと前から同じような状況だったんです。考えてみれば、私が子どもだった頃には、もっと悲惨な少年犯罪がたくさんありましたし、日常でも、暴走族やツッパリがウヨウヨしていて、町や学校がよく破壊されていましたっけ。私もかみそり持ったスケバンにからまれてひどい目に遭いました。親殺し、子殺しなんかもおそらく今より多かったと思いますし、誘拐などで子どもが被害者になることも結構多かった。いじめや自殺や学級崩壊も今に始まったことじゃない。なんなんでしょうね。人間は忘れっぽいということでしょうか。
 そういう意味で冷静に考えますと何か変ですね。今どきの子どもは…とか、今どきの若者は…という言い方はどの時代にもあったわけで(おそらく縄文時代とかにもあったのでは)、もしその時々の実感が事実だとすれば、悪化の集積はものすごい量になっているはずで、おそらく人類はとっくの昔に滅亡していることになるでしょう。つまりこれもまたいつも言う「集団気分」であり、この前の本に従えば「予言の自己実現願望」というやつの一種なのではないでしょうか。
 たぶん、いい意味での今どきの…というのもあって、なんとかプラスマイナス0でやってきたんだと思います。ただ、以前も書いたように、集団気分はマイナス方向に強く働くので、こういうことになっているのでしょう。人類は生来心配性であり、それによって一種の「倫理観」を維持しているのかもしれませんね。
 というわけで、「倫理」の本です。それも子育ての倫理。私が読んだところでは、この本のキーワードというかキーナンバーは「3」ですね。3歳までの子育てが重要である。これはまあ「三つ子の魂百まで」ということで昔から言われていることです。
 子どもと母性と父性、三者の関係についても比較的普通の論が提示されます。特に母性剥奪が招く子どもの人格障害の可能性については繰り返し主張されていますね。ただ、母親は母性、父親は父性という単純な二元論は否定されています。
 二元論の否定としての「3」が続きますね。まず、「消極的自由放任主義」と「積極的強制主義」の二元論に陥りがちな教育界に苦言が呈せられます。これは本当にそのとおりで、二元論を最も避けねばならない教育者や教育行政にかかわる人々が、それに陥っているばかりか、両チームでケンカまでしてる状況は、私から見ると滑稽というか悲劇というか、まずはあんたたちが教育を受けた方がいいんじゃないの、と思ってしまいますよ。「ゆとり」と「つめこみ」、「個性」と「愛国心」、両方でいいじゃないですか。
 続いて、「先天的」と「後天的」の二元論もいかんと。筆者は「後天的先天性」というのもあると主張します。そう三つ子の…ですね。後天的に刷り込まれたものでも、のちのち変えられないものもあると。「遺伝」と「環境」と「刷り込み」。アリストテレスの言う「生まれつき」と「習慣」と「ロゴス」。ルソーの言う「自然」と「環境」と「経験」。なるほど。
 と、こういう感じで、子育てや少年犯罪やいじめなどについての考察や提言がなされていきます。私には、それがどうして「倫理学」なのか、ちょっとよくわからなかった…というか「倫理学」の実体がつかめていないだけですかね、とにかく「いい人になっていい人を育てろ」ということかな、という具合になんとか合点しました。
 ただ最後にちょっと不快感を表明いたします。これは私の倫理観(?)に基づくものですので、筆者の倫理観を問うものではありません。前半部分、いろいろな凶悪犯罪(特に性的なものが多い)のレポートというか、他書からの引用があるんですが、それぞれがいかにも週刊誌的な内容で気分を悪くしました。それをなんとなく興味本位で読んでいる自分というのがいるわけで、それが倫理的でないということですけれど、ああいう引用は果たして必要だったかどうか。
 さらに、これも私の言語倫理(?)の問題なんですけど、どうも加藤さんの文章が単調で辛かった。論文調と言えばそれまでなんですが、もう少し読みやすく流れのある文章を書いていただきたかった。加えて私が手にしたのが初刷ということもあるんでしょうが、誤植が多くて…。「家庭訪間」とか、「貪った」が「貧った」になってるとか(笑)。出版倫理的に許せません!(例の弱肉朝食ほどではありませんが)

Amazon 子育ての倫理学

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007.01.21

『日本の庭について』 山本健吉 (センター試験)

Sekitei お〜なんということでしょう。私の予知能力には実は定評があるんですが、また当たったっすよ。地味に。ほとんど誰も得しなかったと思いますけど、私はおかげで助かりましたし、なにしろワクワクしました。
 そう、昨日あれほどいやがっていたセンター試験を解くという作業、さすがに今日、マイメロを観たあとやったわけですが(ってどっちが大事なんだ?)、第一問の評論がですねえ、久々に山本健吉さんだったんです。ああ、こりゃ読みやすそうだなと。で、読み始めたら、あらら、おととい私が書いたことが出てるじゃないですか!いや、地味にですけどね。私にとっては実に大きい。
 一昨日の記事「良寛→(漱石)→グールド?」に書いたんです。西洋的な「造型」について。で、良寛の書や漱石の草枕やグールドの54年盤ゴールドベルクは「造型」してないって。「コト」になってない「モノ」だって。
 まあ、漠然とその時、西洋と東洋というありがちな対比を思い起こしたんですけど、あんまりに露骨なので引き出しに引っ込めました。
 そしたら、健吉さん、露骨に書いてるじゃないですか。え?なになに、冒頭『日本の庭は時間とともに変化し、推移することが生命なのだ。ある形を凍結させ、永久に動かないようにとの祈念を籠めた、記念碑的な造型が、そこにあるわけではない。不変の形を作り出すことが芸術の本質なら、変化を生命とする日本の庭は、およそ芸術と言えるかどうか』とありますな。これは私のいつも言っている、「モノ」と「コト」ですよね。日本は「もののあはれ」だってことです。まあ、当たり前といえば当たり前。
 で、ヨーロッパ式の庭園と日本の庭を対照したりして、これまたよくある論が展開していきます。つまり、問題文としては高校生にも分かりやすいでしょう、ということ。さらに造型の話が続きます。『ヨーロッパ流の芸術観では…造型し構成し変容せしめようという意志がきわめて強い。…造型意志が極端に弱いのが、日本の芸術である』なるほど、繰り返してますね。高校生にも分かりやすい…はず。
 そして、生花、茶道、発句、連句などを例に挙げて、一期一会の歓びを説明していきます。後半は、志賀直哉の竜安寺石庭論を俎上にちょっと複雑な展開になっていきますが、まあ全体としては非常に読みやすい文だったと思います。一発で分かるタイプなので、本文暗記法でも満点可能だったのでは(難解な文はつきあわせ法を使います)。
 と、こんな感じで、半分仕事で半分自分の趣味という読み方をしてしまいました。特に、文中引用されていた『造化にしたがひ、造化にかへる』という芭蕉の言葉には、はっとさせられましたね。おとといの記事を書きながらはっきりしなかったことが、少し見えてきた。「造化」とは健吉さんもおっしゃるように「自然」ということです。造化の妙。すなわち、芭蕉は「自然にしたがって、自然に帰る」と言っているわけで、それはまさにおとといの三者のあり方に通ずると思ったのでした。ああ、そうするとやはり、禅僧である以前に自然人であった良寛の書にも、西洋と格闘してふにゃふにゃになっちゃった漱石の草枕にも、外見は西洋人であるけれども実は宇宙人であった(?)グールドの内側にも、「俳句」が息づいていたんだと。むむ、なるほど〜。
 ところで、山本健吉さんによれば、と言うか志賀も語っているんですが、あの竜安寺の石庭というのは、どうにも特殊で例外的だと。たしかにそうだよなあ、なんか変だ。石という西洋的な素材だけで造型された庭。ある意味変化のない風景。
 ところが、お二人まだ甘いような気もしますね(笑)。あの石庭、私には「俳句」を超えたものにも思えるんです。何もないということは、何でもありだということです。空即是色。「もの」の性質である「変化」は、言い方を変えると「可能性」です。逆に造型が、すなわち人の意志(=こと)があればあるほど、その可能性は小さくなっていきます。色即是空。面白いですね。だから、あの石庭は十七字すら削り落としてしまった、不立文字、教外別伝なんですよ。中学校の修学旅行で初めてあの石庭を見た時から、私はそのことに気づいていました…なわけない!
 だいたい、庭自身に変化はなくとも、もちろん時間によって影はさすし、雪も積もる。見る者の心も常に揺れ動いているわけですからね。
 とまあ、妄想はこれくらいにしましょうか。生徒たちのケアしなきゃね。いずれにせよ、あれほど面倒くさがっていたことに、こういう出会いがあるんですよ。これも昨日の記事で書きましたね。「想定外」「え〜!?」ってことに福があるということです。

追伸 それにしても、あのセンターの小説の問題、なんとかしてもらいたいっすね。あれをちゃんと正解できる人いるんでしょうか。あまりに根拠が不明確です。文章は面白かったんですけどね。やはり文学的文章の一部を使って客観試験をするっていうこと自体に無理があるってことでしょう。

昨年、一昨年の笑えるセンターネタはこちらからどうぞ。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.20

『ぼく。−桜庭和志大全集』 桜庭和志 (東邦出版)

Boku 昨日の記事が大いに盛り上がり、さて「草枕」でも読み直すか、でもセンターも解かなきゃなあ、と思っていたら、なんだよ〜、えっ?これ読めって?…そう、この前の記事でも書きましたが、カミさんのにわか桜庭熱が異常です。いつのまにか、絶版になっているはずのこの本の新古本を手に入れているではありませんか!そして、無理やり読めと。
 プロレス好き、また桜庭好きの私としては、そりゃあ読みたいですよ。でも、今はちょっと忙しいんで、また今度…。それでも、カミさんは攻撃の手を緩めません。こちらが「タイム!タイム!」と言っても、「試合中タイムと言われてやめる選手はいない!」とばかりに(あっこれはヌル山の発言か…笑)ラッシュをかけてきます。
 で、仕方なく読み始めたら…面白い!そして感動!
 今、私の気持ちはすっかりプロレスラーです。いろんなところで生まれ変わったらプロレスラーって言ってきましたけど、その憧れは今決意に変りました!
 この本を通じての私の印象、心に残った言葉は、「うんこ」「いいですよ〜」「楽しい」ですね。これはある意味私の座右の銘とも一致します。
 天才たちの自伝には「うんこ」「おしっこ」譚が溢れています。いちいち例を挙げませんが、これは古今東西を問わずたいがい共通している。不思議です。それについては、いずれ分析、解釈してみたいと思います。
 「いいですよ〜」というのは、誰かに何かを頼まれた時の反応です。どんな、面倒なこと、想定外のことを要求されても、一瞬「えっ?」と思ったとしても、必ず「まっ、いいか」「いいですよ〜」となる。これは素晴らしいことです。今の彼を作っているのは、そういった彼の姿勢なんですね。私も何度か書いていますけれど、想定内のことでは自分は成長しないものです。「えっ?」ということ、たとえそれが「無理だよ〜」ということであっても、あるいは(たまにしかありませんが)「やった〜」ということであっても、とにかく想定外のことが自分を変えていくんですね。彼はそういうサジェッションをものすごくたくさん受け入れている。そして、自分を想定以上に大きくしてきた。
 実は私も「頼まれたことは断らない」という方針で生活してるんです。仕事上も、私はものを頼みやすい雰囲気があるのか、いろいろなことが飛び込んでくるんですが、そのたびに「あっ、いいですよ〜」って言うことにしてるんです。いや、まじでそのおかげでいろいろと出来るようになったことがありますよ。だから、「無理無理」と言っていろんなことを避けている人を見ると、ああかわいそうだなあって思います。
 私、よく桜庭に似てるって言われるんですよ。顔がね。でも、もしかすると、そういうオーラも似てるのかもしれない。もちろん格が違いますが、もしそうだとしたら、ものすごく嬉しいことです。
 「楽しい」…これも重要です。「楽しい」には、自分にとっての「楽しい」と、相手にとっての「楽しい」があります。彼はその両方を人並みはずれて重視している。自分の好きなことだから練習は「楽しい」。どんなきつい練習もいやだと思わないと言います。そして、究極はお客さんを楽しませるというプロ根性。それは本当に徹底しています。総合の試合でも、ああやってある意味メチャクチャな動きや表情をして、お客さんを楽しませる。ある意味勝ち負けだけの、殺伐とした世界になりがちな中で、ああやって自分も楽しみながら、お客さんをも楽しませる。これぞ「プロレスラー」ですよ。ま、対戦相手はむかつくでしょうけどね。
 私もこういう仕事がしたいですね。今の仕事でもある程度それを実行しているつもりですが、やっぱりリングの上がいいじゃないですか!ああ、来世が今から楽しみですよ。とりあえず、現世ではそのための修行をして…と。そんなこと言ってたら、カミさん、今からでも行けるんじゃないの?だって。なるほど!たしかにプロレスの世界は広く深い。スーツにネクタイにメガネ、ヒョロヒョロのレスラーでも何でもありですから。年齢も関係ないし。お客さんを楽しませるためだったら何でもしますよ。
 ま、それは半分(!?)冗談として、とにかく彼の人間性の大きさには驚きますね。こだわりがあるようで、実は我執がない。そして、「今の自分があるのは相手の選手のおかげ」と素直に言える、あの心のポジションと構え。ああ、この人は心が開いてるんだなと。
 最後の最後の言葉が感動的(?)です。引用します。
 『なんでもそうですけど、限界とか底とか、そういうものはないと思うんで。風船みたくどんどん膨らんでいくもんだと。水だとコップに入れれば、いずれは溢れちゃう。まあ、風船も割れちゃいますけど』
−じゃあダメじゃないですか。
『ああ、そっか、最後にいい話をしようとしたのに…』
 というわけで、想定外に押しつけられたこの本に、いろいろなことを教えられ、インスパイアされました。やっぱり「コト(内部)」より「モノ(外部)」だな(また出ちゃった)。

Amazon ぼく。−桜庭和志大全集

追伸 クラッシャー・バンバン・ビガロ選手がお亡くなりになったとのことです。久々にこの本で名前を見て、いいレスラーだったな、元気かな、と思った矢先の訃報でした。45歳。レスラーって本当に太く短くです…。冥福を祈ります。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.01.19

良寛→(漱石)→グールド?

B0044404_10415310 録画していたNHK「美の壺〜良寛の書」を観たんですね。そしたら、妙にグールドが聴きたくなった。
 あとで考えたんですよ。良寛→漱石→グールド。ね?これなら自然な流れでしょ。でも実際は漱石を飛ばしてくっついちゃった。そんな自分の頭の中の処理システムにびっくりなんですよ。ショートというか短絡というかね、バシッと火花が散った。で、煙の中から漱石がようやっと現れた。
 天才ピアニスト(って言っちゃいます)グレン・グールドが死んだ時、枕元に聖書と草枕があった、というエピソードは半ば伝説化しておりますが、本当なんでしょうかね。ま、その真偽は別として、彼が夏目漱石の大ファンであったことは確かです。最晩年にはラジオで自ら編集した草枕を朗読してますから、それは本物です。今で言えば、ちょっとした漱石オタクでしょう。
 そして、これもまたオタクなんて言ったらホント失礼ですけど、私のことですから許して下さい(笑)、いつもの調子で言っちゃいますと、漱石さん、かなりな良寛オタクだった。相当の傾倒ぶりです。
Kusamakura_1 グールドにも良寛にも漱石にもあんまり詳しくない(つまりオタクではない…笑)ワタクシめは、この三者をつなぐ「コト」がいったいなんなのか、とんと分かりませんけど、つなぐ「モノ」は無責任にも分かってしまいました。それはまさにへんちくりんな「モノ」です。「コト化」される以前の存在そのもの。あるいは、認識(コト)をあえて破壊したところに再び存在する「それ」自身。ん?違うな、「コト」の偽善を暴くがごとき、無意識の抵抗かな。わけわからん…そうそう、「分け」「分からん」、つまり分節不可能な、ほらやっぱり「モノ」なんですよ。言語(分節)化できない次元の現象ね。
 そんな「モノ」をまた、ちょっと遠くから観察すると、不思議な暗号が見えてきたりする。たとえば、今回私が聴いたグールドは、あの衝撃のデビュー作品、1955年版(盤)と言われる「ゴールドベルク変奏曲」ではなく、その1年前に円盤に刻み込まれていた幻の(とよく伝説化されますね)1954年版(盤)です。
Cb2007_1 お聴きになったことがありますか?実に普通な演奏なんですよ。あまりに普通で気味が悪いくらいです。例によってNMLでも聴けますからね。お聴きになるとよい。私はこれが好きなんです。一番若いのに一番達観してるからです。自然体です。
 デビュー盤も遺作盤も、あまりに造型されていて、たしかに面白いし、けっこう好きだけれど、どうも疲れるんですね。その点、54年のものは充分に眠気を催します。
 さて、それで、漱石の草枕に行きますと、あれもちょっと作風が違いますよね。猫や坊っちゃんも書けたのに、どうもいち早く諦念しているように私には思われます。ま、最近数十年読んでないんで、いい加減な印象ですけど。
 そして良寛の書。これは面白い。崩れているようで実は均整が取れてる、なんて簡単に言いがちですけど、やっぱりいろんな方向になびいてしまっていて、抵抗した形跡が見られない。力が抜けすぎている…ような気がします。
 ああ、そうか、私の中の火花の原因は、これかあ、造型しない「モノ」なんだ。なるほどねえ。私の頭だか胸だか足の先だか知らないが、とにかくそういう引き出しがあって、たぶんそこに無造作につめこんであったんだろう。それが自然発火したと。じゃあ、やっぱり分節してたんだな。無意識下で。引き出しに入れるって「分ける」作業ですからね。
 でも、面白いんですよ、実は。だって、私のバカな意識は、良寛→漱石→グールドって流れを勝手に作りそうじゃないですか。実際作ったし。そしたら、草枕を書いた時の漱石はまだ良寛オタクじゃなかった。1954年のグールドはまだ漱石オタクじゃなかった。見事に不正解でした。
 というわけで、そんな勝手な「物語」が出来なくてめでたしめでたしですよね。だって、たまたま時間軸での位置関係がうまく行ってたら、私、胸を張って「漱石を介して、良寛のスピリットがグールドに乗り移った」とか書いちゃいますよ。ああ痛い。
 というわけで、世の中、そんなにうまく「コト化」できるわけないということで安心。一方、ちょっとした偶然がいい加減な「歴史」や「文化」や「学問」を生み出してるんじゃないのかという疑念が…。 
 ま、そういうことで、妄想の旅は終わりました。まじ眠くなってきた。やるな、グールド…zzz…ん? 夢の中から誰かの言葉が…「出会ったから変ったんじゃない。出会うべくして出会ったんだよ。もともと俺たち三人はそういう心を持ってたのさ」…zzzZZZ

NMLグレン・グールド:オリジナルCBCブロードキャスト - J.S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 (1954)

不二草紙に戻る

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2007.01.18

メイド教室出現!?

Maid メイド喫茶に行ってきました!…なわけはありません。私の仕事場です!!
 これがウチのクラスのギャルどもです。私の担任しているクラスは、いちおう進学に特化した選抜クラスでして、これで全員です。女9人。女子高ではないんですが、たまたまこのクラスは女子だけになってしまいました。
 で、ですねえ。なんでこんなことになったかと言うとですねえ、いちおう表向きはこういうことです。
 あさってからいよいよセンター試験が始まります。で、敬愛する3年生の先輩方、頑張ってください!私たちも応援してます!私たちのメイド姿を見て、どうか先輩方、萌えて…いや、燃えてください!ということらしい…?
 実際、3年生の男子も女子も多いに盛り上がり、よっしゃ〜!という感じになっておりました。まあ、こういう雰囲気の学校なんですよ。受験勉強は楽しく、受験はもっと楽しく!がモットーでして、たしかに毎年この時期は妙に明るい雰囲気なのです。面白いでしょ。
 いや、毎年このようなメイドが登場するわけではありませんよ。たぶん後にも先にも今年の1年生だけだと思います。なんだか、そういうノリのやつらなんですよ。私の指導の賜物ではありません。誤解なきよう。
 こんなのをおススメしてもどうしようもないんですが、どうせなら世界に発信して!ということなので、仕方なく紹介いたします。ただ、いろいろと問題がありそうなので、やや画像を小さめ、さらに不鮮明化してあります(笑)。
 本当のことを言いますとですねえ、まあ、先輩方へのサービスというのもたしかにあったんですけど、それ以上に単純に、あいつらが着てみたいと騒ぎ出したんです。というのは、ちょっと前に紹介したNHKの一期一会で、「アイドル」やら「ロリータファッション」やら「男装喫茶」やら「メイド喫茶」なんかが出てきたんですよね。それで、それを観た彼女らが、何を勘違いしたか、大いに盛り上がってしまったんです。おいおい、オレがビデオを見せた意図と全然違う反応じゃねえか!
 しまいには、先生メイド服そろえてください!と半ば強制的に注文させられてしまった。いろいろ問い合せまでして注文し、しまいに自宅にメイド服が9着も届く…そんな先生の身にもなってくれよ〜。カミさんに疑われるじゃねえか…と思いきや、ウチの腐女子も「着てみた〜い!」と騒いでおりました…orz。
 というわけで、生徒たち、来月の3年生を送る会でこれを着て何かやるみたいです。まあ、こんなことやれるのも若いうちでしょうし、勉強ばっかりの青春時代ってのもつまらんものだし、悪くはないかもしれません。でもさあ、一人くらい「やだ!」って言うのがいてもいいと思うんだけど…。こいつらホントに大学行けるんでしょうか?先が思いやられるような、楽しみなような。
 あっそうそう、それでこのメイドさんたちを見て、日本文化としての「萌え(=をかし)」研究家を自負する私が、どう感じたかといいますと、正直「萌え」の感情までは至りませんでした。それでも「馬子にも衣装だな」程度には思いましたけどね。

メイドとオタクの共演(競演・饗宴)!?
ゆかた教室出現!?

不二草紙に戻る

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007.01.17

『〈対話〉のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』 中島義道 (PHP新書)

Taiwa この本はですねえ、実に刺激的で面白いんだけれども、どうも私はこういう類の本を読んでいると、後半疲れてくるんですね。池田清彦先生のこちらの本を読んだ時もそうでした。つまり、あまりに本当のこと(真実)が書いてあってですねえ、私のような「真コト」よりもはっきりしない「モノ」好きには辛すぎるんですよ。直接光源を見るような不快感がある。
 結論から言ってしまうと、中島先生は日本人の、その場の「空気」を大切にするあまり「対話」しない姿勢に真っ向から異議を唱えているわけです。先生の御専門である哲学の舞台となったヨーロッパを見習え!と。
 先生の攻撃対象となっている日本的事象は、たしかに全て理論的にはおかしいことばかりです。でも、真実・真理ばかりではやっていけない。全部本当のことをぶつけ合っては、やはり究極的には戦争になってしまうような気がするんです。
 で、中島先生、本の上だけでなく実際の生活の中でも、周囲の目や言葉や身の危険をかえりみないで発言・行動するものだから、いつも誰かとぶつかっている。そういう「痛い経験」を包み隠さず書いておられます。それが、最初は面白かった。「やれ〜やれ〜!」って感じでね。そうそう、ホントのこと言っちゃえ!でも、ずっとそれだと、なんか自分が非難されているような気持ちになってきちゃう。ま、私がそういうやましさを持った人間だからなんですけどね。
 そうした体験談の中でも、次のシーンは中島さんの考えと行動と性格をよく表していると思います。引用してみます。

『あるときわが大学の人文科学系列会議の席上で、私は「Yさんは委員になったのに、遅刻ばかりでしかもまったく働かず無責任ですよ」と本人に向かって言ったところ、万座が一瞬シーンとした。Y氏はなんの弁解もしない。会議の終わりにS氏が次のような発言をした。
 「本日は大変不愉快な思いをしました。個人攻撃がなされたのです。本人にソッと言うのならまだしも、みんなの面前で攻撃したのです。各人の落ち度を容認し合って、和気あいあいとしていた雰囲気がぶち壊され、たいへん不愉快でした」
 私ははっきり言って驚いた。大学の会議は慰安会ではないのだ。真剣な討議の場なのである。私は自分の目撃したこと、信じたことを言ったまでのことである。それが不当なら堂々と反論すればよいではないか。内容にはいっさい触れず、私の「個人攻撃」が許せないとは何ごとか。
 「不愉快とは私のことでしょう。私の言ったことに反対なら、なぜただちに本人がそう反論しないのですか」
 「反論できない人もいるのです!」
 S氏は吐き捨てるように言った。と、近くのM氏も「そうだよなあ。ぼくもよく遅刻してみんなに迷惑かけたもんなあ」と事を穏便に納めようとする。アホらしくて話にもならない。私はS氏に向かって「あなたが不愉快だということだけわかりました」と発言して、その日の会議は終わった』

 どうでしょう。皆さんはどのようにお感じになりますか。この体験談に至るまでにもこのようなことがたくさん披露されます。警察が出動したり、学生に殺されそうになったり(笑)。ほとんど武勇伝のようなので、最初は面白く読んでいたんですが、どうもこの段くらいになると、ちょっと頭に来たりしている自分がいることに気づきます。
 最近のはやり…しかし実は日本古来の美意識である…「空気を読む」ということにおいては、彼は全く失格、正直「痛い」と言わざるをえません。正しいんですが、野暮です。
 象徴的なのは、「自分の目撃した『こと』」「信じた『こと』」「何『ごと』か」「私の『こと』」「私の言った『こと』」「あなたが不愉快だという『こと 』」という具合に、「こと」を連発していることです。ね、いつも言ってるじゃないですか、自分の認識こそ「こと」であると。そういう意味では「こと」は自分の化身なんですね。で、なぜ中島さんは「こと」=「自分」に拘泥するかというと、それは一つの使命感を持っているからなんです。その使命について、本当に最後の最後、あとがきも含めて8ページの中で、ようやく述べてくれているんです。それでこっちも救われた。中島さんを嫌いにならないですんだ。途中で立腹して退席しなくてよかったという感じ。
 その使命については、ここでは明かしません。ある意味最高のエンディングなんで。ぜひお読み下さい。
 ところで、この私の感じる「痛さ」というのは何なんでしょうね。いつか書きました枕草子の「かたはらいたきもの=痛杉・空気嫁ないヤシ」を読んでいただくとよくわかると思うんですが、空気を読めないヤツの基準は常に自分にあるわけです。ですから、自己の内部である「コト」には固執しますが、外部である「モノ」には無頓着なんですね。というか「モノ」に鈍感なために結果として痛いヤツになるわけです。
 いつも言っているように西洋はたしかに「コト化」の方向に歴史を動かしてきました。一方日本はいくら近代に西洋化したとは言っても、その基本は何千年も続いてきた「モノ」中心主義でした。すなわち個人よりも共同体を重視するんですね。よく言われるとおりです。
 ですから、中島さんのように「真コト」をとうとうと述べられても、我々フツーの日本人には「不愉快」でしかないのであります。でも、池田先生や中島先生のような痛い…いや、私たちにとって耳の痛い存在も必要だと思います。四面楚歌の状況で孤軍奮闘する彼らはすごい。たぶん、それはものすごい賢さをお持ちだからできることなのでしょう。一騎当千ですか。

Amazon 〈対話〉のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.01.16

『桜庭和志スペシャル〜プロレスラー最強伝説〜』(DVD)

Saku 最近カミさんの腐女子化が進んでいます。いや、広義の腐女子ですよ。BL系ではありません。ちょっと痛いミーハーな女ってことです。これは、腐女子研究家としては嬉しいことでありまして、身近に研究対象があるというのは実にありがたい。
 で、いろいろな方面に腐っているんですけど、最近面白いのが、「桜庭和志」に対する「萌え(=をかし)」であります。
 大晦日の「秋山対桜庭」については、あえてあの日は書きませんでした。桜庭ファンとしては、いろいろ言いたいことだらけだったのですが、どうもこれはきな臭い、年明けに何か起きるな、と予感したために、あえて安易な発言は避けたのでした。
 結果、皆さんも御存知の通り、ああいうことになりました。というか、あれで終わらせていいのか!という感じですよね。しかし、いまだに騒いでいるのは2ちゃんの心ある(?)方々だけです…かと思いきや、日に日に熱くなるヤツがいるじゃないですか!
 それが、ウチのカミさんなのでした。特に、朝ズバッ!におけるみのもんたの発言、あれが彼女のハートの原子炉に火をつけてしまったのです。たしかにあの発言はいけません(一方で冷静にそれも世の中の事実だよなと思う男の私もいましたが)。あれですっかり「サク陛下万歳」になってしまった家内は、まあ同郷ということもあるんでしょうが、私以上に彼に燃え、いや萌えはじめてしまったのです。2ちゃんの関係スレに書きこみまくるわ、TBSに電話するわ…トホホ。
 こういう時の私の気持ちというのは実に複雑です。いや、嫉妬とかそういうのじゃないんですよ。桜庭に似てるってよく言われますし(笑)。なんていうか、例えばレミオロメンの時もそうだったんですけど、最初は私の方がファン度が高かったのに、いつのまにか逆転されてるってやつですね。なんか妙な気分になって、ある意味こっちは冷めてきたりして。ま、別にいいんですけど。
 で、カミさん、いきなりTSUTAYAでこれを借りてきちゃった。あ〜あ〜、総合の、それもノーカット版はたるいよ〜。プロレスしか観たことない人にとってはホント苦痛だよ〜。
 もともと、私も彼女も「プロレス派」で、総合には対してはどちらかというと否定的だったんです。ただ、たしかに桜庭だけは「プロレスラー最強」を標榜し、ただ勝利を目指すのではなく、お客さんを喜ばせる試合をするということで、好きでしたよ(そういう意味では世界最強のオタク、ジョシュも好きです)。でも、DVDまで観ようとはねえ。YouTubeで充分。
 で、いちおう観始めたんです。それもなんと、最初から実況なしで観てしまった。これにはさすがにカミさんも驚いていました。プロ野球の試合よりもアウトオブプレーの時間が多い(笑)。
 特に名勝負として名高いホイス戦なんて、有名なシーンだけ集めれば、たしかに面白いけど、その他のシーンは私には正直わかりません(ゴメンナサイ)。
 で、ほらね、でしょ?って感じで、その夜のノアの中継を観て、やっぱりプロレスは素晴らしい!ということになってしまったんです。
 ところが、ところがです!カミさんがこのDVDの真の楽しみ方を見つけてしまったのです!さすが腐女子!
 そう、副音声です。副音声というか、このディスクは、私たちが観てしまったネイキッドだけでなく、ふつうのテレビの実況や、桜庭自身による解説?が聴けるんですね。その桜庭が面白い!というか、ひどい!というか、すごい!というか…。
 なんなんですか?これは。この緊張感のなさは。ホイス戦なんか、すごいですよ。まあ、ある意味緊張の連続の90分なんでしょうね。テレビ実況はそういう感じですし。それが、まあ桜庭は全然関係ない話ばっかり。途中でラーメンの出前は届いて食べ始めるし、トイレで中座したと思ったら、ずっと帰ってこなくて、その間無音だし(笑)。
 いやあ、まさに桜庭和志ここにあり!って感じですね。いいキャラですよ。秋田の朴訥なおっちゃんです。まさにそこが彼の魅力であり、殺伐としかねない総合に湧いた泉なんでしょうね。
 かと言って、ものすごく面白いというわけではありません。途中で疲れてきます。あんまりにアホらしくて。映像がなければ単に男同士の雑談を盗聴しただけって感じですよ。進行役の山口さん!正直GJです。
 ただですねえ、私はこのくっだらない会話を聞きながら、いろいろとひらめくことがあったんですよ。モノ・コト論(物語論)的にね。
 桜庭さんや山口さんが何回か言ってました。表の実況では今ごろ「日本から海を渡った柔術が…」とか語ってるんじゃないかとか、「ここはこういう物語を作りやすいシーンですね」とか、「ネットでこう書かれるんじゃないの」とか。なるほど、つまり、当の本人がなんにも考えていないこと、つまり真実ではないことを、他人が勝手に語って(騙って)しまうんですね。
 これは、私が考える「モノガタリ」そのものです。私の定義では「モノ」は「(自己にとっての)外部」です。それを「カタル」。「カタル」というのは「コト」化する行為の名称です。つまり、(自己にとって)内部化するんですね。その時に例えば「コトノハ」というメディアを使う。
 ああ、こうして真実(マコト)ではなく、事実(コト)が語られていくんだなと。また、歴史や伝説や文学が騙られていくんだなと。なんか、腑に落ちたんですよ。
 桜庭さんの偉大なところは、ルールやスタイルにこだわらないところです。別にどっちでもいいとよく言います。それなりに面白いことをやればいいじゃんと。彼の魅力はそういうところです。他者との関わり、あるいは自己にとって想定外の「モノ」を楽しんで、新しい「物語」の素材である「モノ」を新たに産み出していく。彼はまさに芸術家、クリエーターなのでした。
 というわけで、私もすっかり彼を見直しました。腐女子の突発的な行動のおかげで、こういうこともあるわけでして、なるほど人生は面白い。心を開いていれば、なんでもプラスになるということですかな。では。

Amazon 桜庭和志スペシャル

不二草紙に戻る

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2007.01.15

『ヨイトマケの唄』 美輪明宏(丸山明宏)〜いろいろと

Yoitomake 日テレ『極上の月夜』ご覧になりましたか?そして、美輪明宏さんの『ヨイトマケの唄』フルヴァージョンお聴きになりましたか?ウチでは、カミさんと私、号泣でした。感想を言葉にするのもおこがましい。2年前、ディナーショーで感じたことと同じです。そちらをご参照ください。
 ああやって、テレビで本当の歌を、本当の芸をどんどん見せてやって下さい。歌番組とかでもっとやっちゃってほしい。おそらくあれを観て聴いて心動かされない人はいないでしょう。世代や時代を超える歌と言葉、そして存在そのもの。美輪さんもよくおっしゃっていますが、とにかく本物に触れなければ。教養とはそういうものでしょう。そして、それは人を輝かせる。オーラってそれだと思います。
 丸山明宏の「ヨイトマケの唄」が作られたのが、私が生まれた年です。ちょうどその頃から「ヨイトマケ」は消えていった。高度経済成長によって、機械化によって、あのかけ声は消えていった。
 「ヨイトマケ」という言葉に私が初めて出会ったのは、たぶん中学生の時だと思います。太宰治の「斜陽」に出てくるんですね。意味がわからなかった。女性の仕事のことだろう、ということくらいしかわからなかった。もうその頃は死語となっていたんですね。古き悪しき時代の象徴のような言葉だったのでしょう。丸山の唄も長いこと民放では放送禁止だったとか。土方、いじめ…ただそういう言葉に対する隠蔽だけがなされた。あの歌の、その背後にある、普遍的な無条件の母子の愛、労働の尊さは無視されて。
 そう、「ヨイトマケ」とは、地ならしのために、大きな杭のような丸太のようなものを、みんなで綱を引いて持ち上げて落とす作業です。主に女性がそれに従事した。その時のかけ声が「ヨ〜イトマ〜ケ」。のち、その仕事自体を「ヨイトマケ」と呼ぶようになったとか。
 もともと、「よい」というのは何か力仕事をする際のかけ声によく使われます。あるいは、みんなで息を合わせる時に。「よいしょ」「よいこらしょ」「よいやさあ」「よいとな」…。「よーいどん」というのも「用意」ではなく「よい」の要素もあるのです。かけことば。手打ちの「よ〜」や「えいっ」とか「えいやさ」とか「じょいやさ」なんていうのも派生系だと思われます。パンチのための「引き」「吸い」「ため」です。
 音楽で言いますと、アウフタクトというやつですね。バッハの好んだ「♬|♪」というリズムは「よいしょ」です。ブランデンブルク協奏曲の3番なんてずっと「ヨイショ、コラショ」って言ってます(笑)。いや冗談じゃなくてそういう呼吸の曲ですよね。それを意識しないとダメ。
 だいぶ話がそれてしまいましたが、考えてみると、こういったかけ声をかけて、みんなで力仕事をすること自体、極端に機会が減っているような気がします。もちろん、子どもたちがそういう大人たちの仕事ぶりを見る機会もほとんどありません。音楽に限らず、「息を合わせる」というアンサンブルの醍醐味が、この世の中からどんどん消えていくのかもしれません。共鳴、共振、増幅…そこに感動や愛情が生まれるような気もするのですが。

YouTubeで聴く・観る

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.01.14

(格安)エレクトリック・ヴァイオリン『Sojing JAU-ES』

Jaues 昨日はバロック・ヴァイオリンのお話でした。シャコンヌのこと書いたんですけどね、今日の朝のマイメロでもシャコンヌ弾いてましたね、柊さまが(笑)。
 で、今日はおととい注文したヴァイオリンが届きました。また格安楽器買っちゃったんですよ〜。エレクトリック・ヴァイオリンです。ま、必要なものですので、いちおう無駄遣いではないはず。
 しっかし、これは安いですなあ。弓やらソフトカバーやらヘッドホンやらが付いて9500円(税込み)ですからねえ。一ケタ間違ってるんじゃないでしょうかね。オークションではもっと安く手に入りそうですけど、ほかにちょっと買うものがあったので、そのついでに買いました。送料や代引き料金、それからポイントを考えたら、普通に買った方が安いかなと思ったので。
Kranz エレキ・ヴァイオリンのお世話になり始めたのは、えっと、もう20年くらい前でしょうかね。なにしろヴァイオリンを始めたきっかけは、ELOやKansasやUKでしたからね。流れとしては当然です。で、最初に買って今まで使い続けていたのが木曽ヴァイオリン製のKranz(4弦白)です。おそらく国産のエレキ・ヴァイオリンとしては草分け的存在だったのでは。当時はそれこそ一ケタ違いました。サイレントとして家での練習に、そしてライヴでも大変重宝いたしましたね。昨年の数々の歌謡曲バンドのライヴは全てこれを使ってました。
 でも、さすがに20年も経っちゃったんで、電気系統の調子が悪く、いろんなノイズが出るようになってきたんです。ライヴ中、急に音が出なくなったりね。で、そろそろ買い替えかなあって考えていたんです。でもなあ、お金ないしなあ。
 そんな時、目に付いたのが最近市場に出回っているこの謎の製品でした。もともとゲテモノ好きの私のことですから、即飛びついてしまいました。なんじゃ?このシェイプは!?って感じで。
 早速使ってみましたが、予想通りそのままでは使い物になりませんでした。で、いろいろ手を加えまして、充分実用に耐えるまでにいたしました。当分使えますな、こりゃ。とりあえずKranzよりは良くなったっす。
 え〜、具体的にどこに手を加えたか。まず、ピックアップ関係です。とにかく音が歪む。ちょっと大きな音を出すと、ビリビリグワーン。ある意味ナチュラルなディストーションがかかります。重音は全てロックになります(笑)。さて、どうしたものか。ピックアップだけKranzのコイル式のに替えようかとも思いましたが、機構上ちょっと無理そう。ピックアップの感度が高すぎるようですので、駒からの振動を弱めるしか方法はないようです。そこで、いろいろな材質のモノを用意して、駒の足の下に敷いてみました。音もずいぶん変るんですよね(当たり前です)。試行錯誤の結果、車のダッシュボード用のすべり止めシートを3枚重ねるのがベストだとわかりました(ホントか?)。もうビビりませんし、音質も丸くなってgood!!イェ〜イ!音はエフェクターでどうにでもなりますし、てかそれ以前に全然こだわりないんで。
Set87 あと、弦高が高すぎるので駒と指板を削って調整。これは難しくないわな。テールピースはアジャスター付きだったKranzのものに取り換えました。弦も安物が付属してましたが、普通のものに交換。その他いろいろと。
 しっかし、これはすごいわ。本体やペグは樹脂製です。Kranzは基本木製でした。雨の中のライヴなんかもあるんで、こっちの方がいいか。ペグも意外に使い良いし。で、軽いかと思いきや、けっこう重い。本物よりもかなり重いっすね。
 今回ラッキーだったのは、付属の弓がなかなかいいものだったこと。以前買った某有名メーカーの弓よりずっといいぞ。いったいいくらの計算なんだ?この弓…。
 本体の形がへんちくりんなので、普通のケースには入りません。したがって、付属のソフトカバーに入れて運搬ということですな。積み重ねられないのでちょっと不便かな。それ以前にヴァイオリンってソフトケースでいいのか?
 付属のヘッドホンがまたすごいっす。コードのこの質感は懐かしいぞ。布製の紐ではないか。たまりませんねえ。松やにはまあ普通の品質のようでした。それにマジックテープで止める肩当て(クッション)。これが意外にしっくり来る。筐体の共鳴のないエレキならではの肩当てだ。
Sojingv さて、こんな製品を作っているのはいったいどこの会社なんでしょう。箱には中国製としか書いてありません。と思ったら、楽器本体の裏に「Sojing」と書いてあります。で、検索してみたら、あらら、けっこう世界中に出回ってるんですね。それにこんなにカラフルなラインナップで(笑)。なぜか日本では、白と黒しか売っていません。日本の伝統的な色彩文化に鑑みて、ということでしょう。私は白にしましたよ。Kranzも白(だいぶ黄色く変色しちゃってますが)だったし、もしかするとペイントするかもしれないんで(まあ、しないでしょうけど)。
 3万円チェロの時もそうでしたが、こういう格安楽器って、意外にマニアックな知識や技術を要するんですよね。たいがい調整が必要ですから。初心者にはわけわからんでしょうなあ。こんなもんかなあ、と思ってしまうんでしょうね。
 ということで、今後のライヴ活動はこいつに活躍していただくことになりました。Kranzくん、長いことお疲れさんでした。

弓・ヘッドホン付属エレクトリックバイオリン

このヴァイオリンを使った2008年最初のライヴ(mp3あり)

不二草紙に戻る

| | コメント (24) | トラックバック (0)

2007.01.13

『無伴奏ヴァイオリンの為のソナタとパルティータ(バッハ)』 エレーヌ・シュミット

J.S.BACH「Sonatas and Partitas for Solo Violin」 Helene Schmitt, violin
Sei Solo a Violino senza Basso accompagnato
Alpha082 バッハの無伴奏かあ。いろいな意味で厄介な曲ですね。これぞというおススメ盤がなかったせいもあって、この、私にとっても、世界にとっても、いや宇宙にとっても最も重要な音楽作品について書くことがあまりありませんでした。
 ちょっとひねくれて、Vito Paternosterによるチェロ版を紹介したりして。いや、あれはあれですごいんですけどね。あと、無伴奏チェロの方の「おかしさ」については、こちらに書きました。チェンバロ版はアスペレンの演奏が素晴らしかった。別の作曲家の無伴奏に至ってはこんな調子(笑)。
 てな感じで、ストレートに書いたことがなかったんですね。聖書について語るのは勇気がいります。でも、今日はほんの少しだけ書けそうな気がするんですよ。
 今まで比較的よく聴いたレコーディングは、アーヨ盤、クイケンの新旧両盤、クレーメル盤でしょうかね。ほかもいろいろ聴いてるんですけど、どうもしっくり来ないものが多かった。だいたい、しょっちゅう聴くようなものじゃない。あんまり楽しくないですよね。一方、怖い物知らず、恥知らずの高校時代なんかは、私もよく弾いていて、近所や学校内に公害をまき散らしてましたが、物心ついてからはほとんど弾いていません。てか、弾けません、たぶん。まあ、こんな具合でした。これはもう頭の中で理想的な演奏を響かせるしかないのかな、と思っていたんです。
 ところが、最近、ちょっと瞠目というか傾聴に値するレコーディングを聴くことができたんです。それがこのシュミット盤です。2005年に発売されていたんですね。ちょっとマイナーなレーベルALPHAから出ています。私は例によってNMLで聴いたんですけど、非常に自分の感性にぴったり来た。おお、やっと出会えたという感じだったんです。
 どうも、バロック・ヴァイオリニストの傾向といたしまして、ひたすらモダン楽器のカウンターとして「滋味」や「古雅」を目指す派と、ウルトラ・モダンとでも言いましょうか、ひたすら自由さを強調する派とにクッキリ二分されているような気がしていたんですね。もちろん、そんな簡単に言ってしまってはいけないんですけどね。あえて分かりやすく。で、自分の演奏も含めて、現代日本における西洋古楽器の意味と価値って…なんてことは考えませんが、なんか迷いがずっとあったんですね。とにかくしっくり来ない。
Alpha090 特に無伴奏に関しては、楽器の特性や奏者の技術的問題もあるのか、なかなかこれだ!と呼べるものが出てこなかった。表現の幅と言いましょうか、鬼気迫る迫力でモダンに完全に負けてしまっていた。これはもうどうしようもないのかな、などと思っていました(昔はゲーベル盤を期待してたんですけどね)。
 ところが、このシュミット盤はどうでしょう!もう楽器うんぬんとか、様式感うんぬんとか、そんなことを超えた感動をもらたしてくれたのです!冷静に聴けば、オリジナル楽器らしい柔らかく繊細な音色と響きとも言えましょう。でも、やっぱりそんな言葉では表現しきれない、なんというか、作品と楽器と奏者と、そして私が一体となって、教会の聖堂に響き渡るような感覚。
 フランスの女流バロック・ヴァイオリニスト、エレーヌ・シュミットについては、私はあまりよく知りません。ただ、このALPHAに録音しているいろいろな作品を聴きますと、非常に「語り」の上手な奏者であることが分かります。ここでも、一言一言かみしめるような、比較的ゆっくりとしたボウイングでバッハを語っていきます。勢いにまかせるようなところは微塵も聞かれません。先ほど述べた総体としての響きがしっかり立ち上がるのを確認しながら運弓、運指しているようです。ですから、よく陥りがちな、重音の数が増えるとそのまま音量も増すというような、子どもじみたことにはなっていません。音楽の流れのままに強くなり弱くなり、早くなり遅くなり、駆け抜け立ち止まり、そして舞踏し瞑想する。
 どの楽章、舞曲もいいんですけどね、やっぱりシャコンヌでしょうかね、特長が出ているのは。引き込まれますね。ちょっと試しにエアギターならぬエアヴァイオリンをやってみたんですよ。そうすると、彼女がいかに豊かなボウイングをしているかがわかりますよ。はたから見れば怪しいでしょうけど、なんとなく目をつぶってエアしてると、自分が弾いてるような錯覚に陥ります。これもまた共鳴の一つのあり方なんでしょうか。
 ただ、シャコンヌでは、彼女そうとう入れ込んでまして、キース・ジャレットみたいに声をもらすんです。呼吸だけでなくて喘ぎ声(失礼!)がもれちゃうんです。こいつを聴いた途端、私はすっかり目が覚めてしまいましたよ。さすがにそこまではエアできなかったっす(笑)。
 とにかくお聴きになられることをおススメいたします。好き嫌いは人それぞれでありましょうが、歴史的な名演奏であることは絶対にたしかです。MNLにご加入の方は、ALPHAにある彼女の他の録音もぜひお聴き下さい。カルボネッリかっこいいですよ。
 
Amazon 第1集 第2集

NMLではこちらこちら

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007.01.12

『一期一会 キミにききたい!』まとめてドン!(NHK)

Lolita 今日の「一期一会」も良かったなあ。また泣いちゃった。今日のは「自分の居場所の話@まじめ大学生×ロックボーカリスト」でした。う〜ん、なるほど〜、という集大成的な内容でしたよ。それについてはのちほど。
 で、昼間は、冬休みに再放送されたものの録画をクラスのギャルどもと観ました。ギャル軍団も、同世代の女の子たちが主役ということで、いつも以上の集中力で観ていましたね。
 私がいろいろ説教するより、こういうものを観ていろいろ感じたり考えたりしてくれたほうがずっといいんですよ。今、彼女たちもちょうど大人になるかならないかという時期ですので。
 なんて、そんなこと言ってる私の方が、かなり勉強しちゃいました。なんかいろいろ学んだし、感動しちゃったなあ。また泣いちゃった。どうも最近涙腺が…。特に自分や世の中と格闘し苦悩する若者を見るとねえ…。
 「一期一会」と言えば、今までも2回ここでおススメしました。こちら都会と田舎の話@秋田オタクと偏見の話@池袋.乙女ロードです。ホント面白いだけでなく、大人が妥協してしまった、あるいはうやむやにしてしまった何かを思い出させてくれるんですよね。
 今日生徒に見せたのは、私も見逃してしまった3作。「頑張らない生き方の話@宮崎.18歳無職の日常」「平凡な人生はあり?の話@新人萌え系アイドル × 純朴女子高生」「着たい服を着る話@栃木.ロリータファッション物語」です。違う言い方をしますと、次のような対戦になっていました。

 18歳無職×努力の男
 夢を追うアイドル×一流大学めざす受験生
 憧れの服を着る勇気がない中学生×ロリータファッション命の高校生

Idle 考えの違う二人の若者の出会いをプロデュースするこの番組。対極とも言える二人の若者が意見をぶつけあい、次第に互いを理解するようになり、何かを得て変化していく。若者ならではの頑なさと柔軟性が共存する、実に魅力的な出会いに毎回立ち合うことができるんですね。それが心にしみる。
 まさに「一期一会」、仏教の思想そのものです。昨夜で「五木寛之 21世紀・仏教への旅」が終わりましたね。そこでも繰り返されていました。「無我」「縁起」…自分というものは実は存在しない、他者との関係性の中に自己が立ち上がってくるわけです。この若者の番組でも、それを強く感じることができるんですよ。
 パターンとしては、問題意識をもって相手の考えを変えようとする「イチゴ」さんが、相対する「イチエ」さんに返り討ちにあうというケースが多いようにも思えます。「イチゴ」の方がだいたい世間での多数派や主流派であることが多いんですね。で、「イチエ」の方はけっこうアウトローだったり、時流に乗っていなかったり、少数派であることが多い。それに、「イチゴ」は自ら世直ししてやろうみたいな気負いがある。それが、どうも番組後半では旗色が悪くなるんです。
Neet 今日特にワタクシ的に面白かったのは、ニート対努力家ですね。世間的にはどう考えても努力家であるイチゴくんの勝ちですよね。しかし、結果は違う。引き分けと言えば引き分けだけれど、私がレフェリーなら115対113でニートの勝ちですね(笑)。なんか、とっても説得力のあるイチエさんだった。最後、ふとんの上でケータイいじってる彼女の姿が座禅する達磨大師に見えたのは私だけでしょうか(笑)。
 彼女の生活や思想は、ある意味まんま仏陀ですよ。前も書いたように、「老病死の苦から解放されるために、全ての生産活動をやめ、余り物だけをもらって生活し、ある特殊な集団の一員となって、肉体的な難行苦行ではなくひたすら脳内で瞑想をすべし」というのが仏陀の教えです。そして、自分にとらわれないこと。ある意味イチエさんは悟りを開いていました(マジで)。
 象徴的だったのは、努力家イチゴくんは最後の最後まで「夢を持ってほしい、努力しよう」という論調だったのに対し、イチエ大師(!)は「○○くんはこれからもそのままで…」っておっしゃってました。はたして、どちらの方が自由なのでしょう。どちらの方が我執から解き放たれているのでしょう。
 世のため人のためという大義名分のもと、自分の考えを押しつけ、世直ししよう、教育しようとしている「淋しがりや」が多い中で、世間の目や常識を気にせず、結果として自我よりも縁を、未来よりもこの刹那を大切にするイチエさんたちの生き方は、なぜか輝いて見えるのでした。
 さて、もう一つのパターンっていうのがありまして、それは、悩めるイチゴが自分を変えてくれるイチエを求めるというもの。ロリータの回や今日放送のものはそちらでした。これはもう最初からイチエの勝ちですよね。でも、それだけで終わらないところがまたいいっす。今日の放送での、イチゴさんイチエさんの結論、つまりまじめ大学生とロックボーカリストの彼女らが出した結論。これが世の全てのあり方の真理を物語っています。もしかして、五木さんより分かってる?(笑)
151a
 自分の居場所とは…
イチゴ「人との繋がりから生まれる大切な場所」
イチエ「濃ゆい人間関係」
 


一期一会公式

不二草紙に戻る

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007.01.11

フジファブリック 『蒼い鳥』

映画「悪夢探偵」公開記念限定盤
Aoitori 間もなく公開される、塚本晋也監督の「悪夢探偵」、とっても楽しみですね。今最も劇場で観たい映画の一つです(東京まで出かけて観ることができるか微妙ですけれど)。
 塚本監督については言うも愚かでありまするが、私もご多分にもれず「鉄男」の洗礼を受けた一人であり、その後も「東京フィスト」や「六月の蛇」などにいろいろな影響を受けているのでありました。単に映画として、というよりも、発想の自由さや自己の世界観の全うという意味において、やはり尊敬すべきクリエーターと言わざるを得ません。
 今回の作品も彼の世界…すなわち現実と虚構の被膜、いや両者の間とかそういうありきたりのものではなく、ある意味全てが虚構でありつつ現実であるのかもしれない…を、彼らしい技法で作品化しているのでしょうね。
 出演者も非常に興味深い。主演は松田龍平。彼も近年、お父さんに近いオーラを発するようになってきましたね。その存在感に塚本監督も惚れ込んでの起用と言います。ほとんど理想的な結婚ですね。お二人とも「物の怪」的ですから、いったいどうなることやら。
 そして、脇を固める役者陣も魅力的。まずは安藤政信。彼は出演作を選ぶこだわりの役者さんです。そして選んだら「なりきる」。彼の家に遊びに行ったこともある(!)私の姉も申しておりました。とにかく撮影中は役になりきりすぎて、ご家族の皆さんでもちょっとこわいことがあると。そんな彼独特のオーラと松田龍平のオーラの対決も楽しみです。あと、大杉漣、原田芳雄、塚本監督自身、一癖も二癖もある彼らがまたどう絡むのか。想像するだけでもゾクゾクしますね。映画初挑戦のhitomoさんも、実は私けっこう好きなので期待してますよ。
 おっと、今日はまだ観ぬ映画の宣伝ではなかった。そう、この映画のエンディングの音楽を担当しているのが、我が地元の雄フジファブリックであります。うん、この塚本監督の選択も納得できます。なるほど、「物の怪」っぷりがピッタリじゃないですか。非常に個性的(似たものがほとんどない)で、予想を拒否する音楽を展開する彼ら。今回のエンディングはどんな仕事をしているでしょうか。
 彼らの音楽性については、こちらでちょっと書いてますね。とにかく面白い。若いのにどういうセンスしてんだ?って感じで実に好もしい。
 さて、昨日発売になったそのエンディング・テーマを早速iTMSでダウンロードして聴いてみました。カップリングと合わせて300円です。便利でお得な時代ですね。
 う〜む、なるほど〜こう来たか。バロック的(ビートルズのビコーズ的)なイントロやサビ(なのかな?)と、いかにもフジらしい不思議な浮遊感のある転調を含む部分との交錯が、こちら側とあちら側を行ったり来たりする感じを見事に表現していると言えましょう。後奏など、ちょっと和声と旋律の関係に破綻を来しておりますが、まあ、ロックにそんな理屈はいりません。てか、それが彼らの味であるわけですからね。野暮です。
 この曲は、ある意味映画との関係がなければ、彼らの作品の中では地味な曲と言えるかもしれません。あくまで、塚本晋也とのコラボレーションと考えるべきでしょう。やはり劇場で観て聴かねば。
 その点、カップリングの「東京炎上」は実に彼ららしい名曲と言えましょう。一瞬「真赤な太陽」かと思わせる出だしですが(笑)、その後はフジらしいカオスの疾走が聴けます。この豊饒なアイデアはどこから湧いてくるんでしょうか。志村正彦くんを知る地元の人に聞きますと、かなりユニークな(危ない)キャラのようですね(笑)。そうとう世間擦れ…じゃなくて世間ズレしてますよ、この感覚は。
 前も書きましたが、こういう音楽がそれなりに売れるというのは、実にいい傾向だと思いますよ。今の20代の諸君がやってるロックは、おじさんが聴いてもそれなりに楽しめます。音楽的なものがぐるっと一周したとも言えますし、歌詞の世界観もしっかり日本古来の伝統「もののあはれ」に基づいてますし。
 今最もライヴで聴いてみたいバンドの一つが、このフジファブリックです。いつかレミオロメンみたいに凱旋ライヴやってくれないかなあ。楽しみにしてます。

Amazon 蒼い鳥

不二草紙に戻る

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007.01.10

オーバーグラス (アックス)

AXE 偏光オーバーグラス SG-602P-GM
Sg602p 五木寛之の仏教への旅、今夜は「禅」でした。フランスと中国で息づく禅の紹介。弟子丸老師と六祖慧能を中心に「禅」と現代の関係に迫っておりました。いろいろと学んだことがありましたが、「不立文字」、今日は書きません。実生活で実践あるのみです。自分のしっぽくらいは見つけられるように頑張らなきゃね。
 というわけで、今日は最近買ったものを紹介いたします。
 私、高校時代から目が悪くなって、今や両目とも0.1以下じゃないでしょうかね。で、メガネをかけております。メガネをかけますと、両眼ともに2.0なんですよね。眼科に言わせると、本来の目力はかなりあるらしい。ただ、レンズの合焦システムだけ狂っていると。そろそろ老眼が始まってもおかしくない年齢になりましたが、今のところまだ大丈夫です。そんなわけで、今かけている眼鏡はそろそろ10年になりますかね。しばらくこれで行こうと思っています(周囲はそろそろ今風なのに替えろといいますが)。
 で、メガネをかけていて不便なのが、サングラスであります。長時間のドライヴやスキーや夏の外出時など、さすがに目が疲れるんですね。サングラスがほしくなる。でも、度付きサングラスを作るのもなんとなく面倒くさいし、だいいちあんまり使わないのにお金がもったいない。
 一時期、メガネにくっつけるタイプの樹脂製偏光フィルターみたいなのを使っていましたけど、どうもカッコ悪いし、スキーなんかじゃ全然使えない。かと言って、よくあるスポーツ用、あるいは釣り用のオーバーグラスは、まるでゴーグルのようにでかくて、これはこれで日常で使えないんですね。どうしようかなあ、と思い続けて数十年。ようやく、そこそこ満足できるものを手に入れました。
Overglass それが、アックスの偏光オーバーグラスというわけです。これは小さくていい。基本的に普段かけてもそんなにみっともないくらいの大きさです。これだったら夏場にかけてもいいでしょうし、横にもグラスが入っているんで、スキーの時にも使えますね。お値段も手頃でした。坊主頭でかけると、なんかサンプラザ中野みたいですけど(笑)。
 今どきのメガネは小さいものが多いので、みなさんのメガネもすっぽり入ると思います。作りや、偏光、UVカットの性能もそこそこですので、けっこうお買い得ではないでしょうか。

メガネをつけたまま着用できるオーバーグラス!AXE(アックス) SG-602P {Gunmetallic/Smoke}...

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.09

『五木寛之 21世紀・仏教への旅〜ブータン』(NHKハイビジョン特集)

Pickup_070107_ituki 五夜連続で放映されている「五木寛之 21世紀・仏教への旅』がいいですねえ。今日は第三夜目。ブータンへの旅でした。
 昨日のマイメロからブッダへ。これは不二草紙では普通の展開ですね(笑)。以前、こちらこちらに書きましたように、マイメロに底流するのは竹取物語以来の仏教説話(物語)の伝統であります。別にふざけているのではなく、ホリスティックな視点から見れば至極まっとうな説だと思うんですけれど。どうして人は境界線を引きたがるんでしょうね。
 さて、そういう意味でいろいろな境界線から遠いところにいるんだなあ、と思わせるような人々がたくさん登場したブータン。素晴らしい国だと思いましたね。国民総幸福量GNHという考え方、いいですねえ。経済や産業の発展なんて次元の低いことだと喝破されてしまいました。いろいろと心に残ったブータンの高僧や市井の人々の言葉を書きとめておきましょう。

 幸福を追究することには責任が伴う。人間関係を改善するのが幸福への道。他人の幸せなしに自分の幸せなし。平和・非暴力・同情・寛容(憲法草案にある言葉)。
 日本人は自分の価値や他人の価値をつきつめすぎるのではないか。だから思い通りにならない自分や他人を否定してしまう。それが自殺や殺人につながる。死を悲観的にとらえてはいけない。死は新しい生の出発点。輪廻からの解脱が究極の目標。だから現世で徳を積む。
 「どうして人を殺してはいけないか」と聞かれたらどう答えるか…人を殺してしまったら500回人間に生まれ変われない。そして500回殺され続ける。そういうことをちゃんと教えるべき。
 我々の生活は愛・慈悲・幸福・平等からなる。世の全てを愛する。慈悲の心は苦しみをいっしょに味わおうとする、自分のこととして考える、思いやり、人に苦しみを与えないようにすること。
 寺は村落、共同体の一部。教育・討議・お祭りの場、もちろんお参りお布施を持っていく場でもある。日本の寺は週末だけ賑わっている。
 縁起=あらゆるものが互いに関係し合っているということ。無我=自我など大したことがない、自分は自分だけで存在するのではないということ。ブータンでは自分だけの幸福というのはありえない。

Fgsaa 今日ウチの子供たちは東京にあるキッザニアに行ってきました。非常に楽しかったということですが、僧院で学ぶブータンの少年たちを観たばかりの私は、ちょっと複雑な心境になりました。キッザニアで体験できる楽しさというのは、まさに現代社会の経済システム。労働とは言っても、それはブータンの農業のように共同性を要求されるものでもなく、輪廻につながる繰り返しがあるとは思えません。作る人も売る人も買う人も、みんな自己実現のため。やはり、都市とは「コト化」を目指す人々の集まるところなんですね。なんなとくブータンの「モノ」に満ちた緑に、懐かしさ温かさ豊かさを感じた私(と五木さん)でありました。
 やはり「社会的ジレンマ」を解決するのは「知足」「利他」の心しかないのでしょうね。

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007.01.08

『おねがいマイメロディ〜くるくるシャッフル!〜キャラクターソングアルバム Girls & Boys』

00000262 引かないでくださいね。感動のあまり愕然として固まってしまったんです。すごすぎる。タレント=才能とはこういうことか!
 いやあ、年末の某紅白歌合戦は正直すまんかったではすまない出来でありましたが、こちらの紅白(赤青?)は本当に素晴らしかった。なんかすっきりしましたよ。
 あっ、ちなみに5000円払って2枚買ったわけじゃありませんよ。カミさんが借りてきたんです。それも隣町の公共機関から。見つけた時、心の中で叫んだそうです。これじゃあ〜!!
 で、聴いてみたらマジですごい。予想と期待をいい意味で裏切るクオリティーであります。現行マイメロをご覧でない方にはよくわからないと思いますので、あんまり内容には踏み込まないようにいたしますが、いや、ご覧でない方でも、おそらくこのすごさは分かると思いますよ。
 まず驚くのは、声優の皆さん、歌が異常にうまいということです。私はあんまり声優さんの世界に詳しくないんですが、たしかに彼ら彼女ら、ものすごい才能の持ち主ですね。カミさんとも話したんですが、ドラマに出るような最近のタレントは、演技なんてあったもんじゃない。もちろん上手な方もいますが、単に顔がいいとか、キャラが立ってるとか、まあ日常を再現できるとか、その程度の人が多すぎる。それに比べて、やっぱり声優さんたちは声と演技で勝負ですからね。いくら顔がよくてもね。そして、彼らが演じるのは日常ではありません。また、ある意味アドリブ力がないといけない世界。それは、千葉繁さんに学びましたよ(笑)。
00000263 このアルバムでも、声優さんたちはものすごいことをやってのけています。声がいい、表現力が優れているのは当然ですけれど、やはり歌としてうまいのは才能と努力の賜物でしょう。それも、自分自身のキャラでなく、あくまで劇中のキャラとして歌うわけで、それは普通の歌手には考えられない状況だと思います。専門の歌手が歌詞世界の主人公になりきるとか、ものまねをするとかいうのとは基本的に違います。
 皆さんすごいんですけど、やはり一人二役、全く違うキャラを歌い分けている杉本ゆうさんと竹内順子さんが特にすごいかなあ。
 続きまして、尊敬しちゃうのが、ほとんどの曲の作曲と編曲を担当している渡部チェルさんの才能であります。以前、こちらにも書きましたね。彼の職人芸には正直参ります。決して「芸術」ではない分野かもしれませんが、「民芸」とでも言おうか、いやあるいは「現代アート」とでも言おうか、なにかアニメソングを通じて全く新しいジャンルを切り開いておられるように思えるんですよ。
 今回も山田ひろしさんらによるツボを押さえた歌詞に合わせて、実に見事な作・編曲を聴かせてくれています。なにしろ、ロックからポップス、ラテンからクラシック、そしてムード歌謡、演歌まで、ものすごいクオリティーでジャンジャンドンドン作っちゃってます。ホント、細かいアレンジなんか聞き出すと、もう笑いと感動の渦に呑み込まれちゃいますよ。すごい人だなあ。そうとういろんな音楽聞き込んでるんだろうなあ。神だわ、こりゃ。あっそうだ、最近では、NHKのみんなのうたで人気になった、ことばおじさんとアナウンサーズの「これってホメことば? 」もチェル作品だった。
 とにかく圧巻の70分であります。女盤と男盤2枚なので、それぞれ最初から聴いてもいいのですが、たとえば1枚に焼き直して、本物の紅白みたいに男女を交互に対戦させても面白いし、シャッフルして何が来るか楽しむのもありでしょう。ちなみに、もし紅白形式でやるんだったら、赤組のトリはマイメロママ&王妃様の「女ともだち」、白(青)組のトリはドリアン大臣の「キャンディーをください」でしょうか(笑)。いやあ、今日は楽しかったっす。


Amazon ガールズ ボーイズ

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007.01.07

『昼は雲の柱』 石黒耀 (講談社)

Hiruwa まず、全然関係ありませんが、今日全国テレビデビューしちゃいました。例のNHKふれあいミーティングです。お昼にやっていた「永井多恵子のあなたとNHK」という超地味な番組にその模様が流れまして、私が「NHKさんには(文化的)インフラのような存在になってほしい」と言った部分が採用されてました。妖しい坊主頭が全国のお茶の間を照らしたわけです!!ま、たぶん視聴率0.01%くらいでしょうけど(笑)。県内では27日に1時間枠で放送するとのことですのでお楽しみに。
 というわけで、最近なぜか露出の多いワタクシであります。昨日は村の成人式に乱入?という記事でした。そう、鳴沢村最高!というお話でしたね。特に私の住む所は字名がもろ「富士山」ですから。ちょっといいでしょ。しかし…一度コトが起きればそこは地獄よりも怖いところに豹変します。今日はそういうお話を読みました。
 正直、この小説にはやられましたなあ。富士山在住にして富士山の地学と伝説にはけっこう強い方だ自認していたんですけどね、もちろん世の中には上がいるわけでして、こうして、お医者さんにして小説家、そして学者もうなる博識及び発想の持ち主。すごい人です、石黒さん。
 小説が滅法苦手な国語教師の私が、この500ページの大作をあっという間に読みきってしまった。おそるべしこの富士山噴火シミュレーションノベル!!
 地学的な内容の正確さは、本書の解説をお書きになり、また新聞に本書の推薦文をしたためた静岡大学の小山真人教授のお墨付き。たしかに超マニアックというか超アカデミックだわ。私、この本で最新の研究成果をかなり勉強させていただきました。ありがたや。
 そして、いちおう私の専門でもある「宮下文書(富士古文献)」がストーリーの鍵を握っていまして、それだけでももう興奮状態。う〜ん、こういうトンデモ系に関する自説を発表するには「小説」という手しかないよな、と思っていた私にとっては、まさにやられた!という感じなんですが、それ以上に、私が全く発想しなかったような石黒さんのアイデアの豊かさに完敗です。もちろん、その全てに賛意を示すことはできませんが、目からウロコの「読み」と「つなぎ」の連続には、密かに同じ道を目指す者として理屈抜きに兜を脱ぎます。素晴らしい。
 純粋なパニック小説としての評価は、正直門外漢の私には不可能です。文体や構成に難癖つけるのは専門家には簡単かもしれません。しかし、そういう外見上のことはどうでもよくなるほど、内容が充実していたと思います。
 多少、いろいろ詰め込み過ぎの感もありましたが、読み進むほどにそれらが一つのタペストリーに織りなされてゆきまして、その感覚もまた快感でありました。地学的なこと、宮下文書の内容、徐福伝説、記紀や旧約聖書の内容、また富士山麓の地理など、私はそこそこ詳しい方ですからすんなり読めましたけれど、どうなんでしょうか、そういうもののイメージングが困難な一般の方々には、やや微に入り細を穿ち過ぎに感じられるやも。
 こういう小説の性格上、特にネタバレには注意しなくてはなりませんので、これ以上内容には踏み込みません。しかし、地学、歴史以外にも、男と女ネタあり、政治ネタあり、ジャーナリズムネタありと、本当にさまざま楽しめます。特に我々富士山麓に住む者どもにとって、これは最悪を想定したケースとは言え、実際にありうるシナリオであり、防災意識を高めるという意味においても、非常に価値のある小説だと言えましょう。必読です。これは映画化決定でしょう!!

Amazon 昼は雲の柱

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007.01.06

村の成人式

20070106 今日は合宿の合間に村の成人式に出席してまいりました。もちろん、私が成人したんじゃないですよ。もう2回成人している計算になりますから(笑)。なんかいちおうゲストということで、壇上でちょいとパフォーマンスなど披露いたしました。いやあ、私に声がかかるなんてね、本当に田舎の小さな村ですよ。のどかでいいですねえ。
 ここのところ少し下火になってますけど、成人式というと暴れ出す連中がいますね。それに眉をひそめるのは簡単ですけれど、そういうふうに育てたのは私たち先輩の成人たちでしょ。あいつらだけを責めても始まりませんよね。
 で、ウチの村の成人式は毎年平和そのものだそうです。今日もいたってお行儀がよかった。都会じゃあ、私が登場した時点で擾乱勃発でしょう(笑)。舞台上が主役たる成人の皆さんっていうのがいいじゃないですか。普通は逆でしょ。つまらん来賓やらが並んでますよね。成人はお客さんで。うちは壇上が成人で客席が来賓だから、そりゃあ暴れるのには勇気がいりますよ(笑)。
 というか、そういう雰囲気じゃないわけです。今日壇上には約30名の新成人がいらっしゃいました。その一人一人がどこのウチのせがれや娘か、会場にいる人はみんなわかってるわけですよ。それこそ赤ん坊の時からみんな知ってる。壇上の諸君もみんな保育所からずっと一緒なわけで、やはりそうした「世間」がしっかりしていると、妙な状況にはなりえないわけですね。昔は日本中がこういう「村」だったわけです。
 さてワタクシは、具体的には知りあいのピアノ伴奏でヴァイオリンを弾いたのであります。去年までは村の駐在さん(!)がフルートを吹いていたのですが、ちょっとしたアクシデントで今年は駐在さんが出られなくなった。それで私に声がかかったというわけです。
 だいたい、その共演者の方はウチの上の娘の副担任の先生ですし、彼女の妹は私の教え子で、私の下の娘の保育所の先生。てな具合でして、非常に複雑というか単純というか、そういう相互依存の形で「世間」が成り立っているのです。新成人にも当然私の学校の卒業生もいますし、その父兄には私が私的にお世話になっている方もたくさんいらっしゃる。これはやっぱりいいですよ。都会育ちの私には特に魅力的に感じられます。
 で、演奏した曲は…なかなか渋いですねえ。まずは、のだめでもかかっていたベートーベンのソナタ「春」第1楽章。ちょっと短くしました。飽きちゃうんで。続きまして、村内にただ一つある小学校の校歌(!)。全員が知ってる曲と言えばこれでしょう。そして最後が私の定番、レミオロメンの「3月9日」。1月6日に3月9日っていうのもなんですが、まあ春を迎える旅立ちの曲ということで。これはホントにいい曲なんで。もう今まで何回弾きましたかね。予餞会、講演会、結婚式、成人式…。
 今日成人した諸君には、この村で育ったことをぜひとも誇りに思っていただきたい。ホントいい村なんで。私がこの村に住もうと思ったのは、自分が教えたこの村の生徒たちが本当に例外なくいい子たちばかりだったんで。いったいどういう環境で育つとこんなに純粋で素直で素朴な人間になるんだろう、っていつも思っていました。自分の子どもはこの村で育てたいなと真剣に考えたのです。その判断は間違っていませんでした。日本一の富士山の、そのまた頂上もうちの村なんですが、そういう意味でなくとも、本当に日本一の村だと思います。なんか合併のウワサもありますけれど、できればずっと「村」のままでいてほしいなあ。

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007.01.05

『社会的ジレンマ「環境破壊」から「いじめ」まで』 山岸俊男 (PHP新書)

Fdgt88 こうすれば良いとわかっているのに、それをしちゃうとしない時より損をする、というのが社会的ジレンマです(いや、筆者はもっとちゃんと定義してますよ)。本書では、イソップのねずみの話(猫に鈴をつければいいのに誰もつけない)から始まって、「マイカー通勤」「ダイエット」「共有地の悲劇」「温暖化」「ゴミのポイ捨て」「受験戦争」「学力低下」「社会主義経済の失敗」「すき焼きの悲劇」「買いだめパニック」「いじめ」などが実例として取り上げられています。そして、もちろん説明のために、ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」も出てきます。
 こういう「わかっちゃいるけどやめられない」あるいは「わかっちゃいるけどやらない」、「自分一人くらいは」というのは、確かに困った現象です。もちろん私もそれにまみれて流されて毎日を生きています。つまりグータラなんですね、人間は。
 でも最近、多少そのへんをコントロールできるようにもなりました。たとえば、早起きですね。今、合宿中ですが、私たち「朝型チーム」は午前4時起床です。私はそれが日常なので全然辛くありません。起きなきゃいけないんだけど、眠いし寒いし、ふとんから出たくないっていうのもジレンマですよね。それは克服した。それから、ここの食事はめちゃくちゃおいしいんですけど、私は一日一食生活者ですから、みんながおいしそうに食べてる横で、優雅にコーヒーだけいただいてます。朝と昼はね(夜は人の分まで食べますけど)。これもジレンマを乗り越えてます。
 実は私、真剣に考えてるんですよ。みんなが私と同じような生活をすれば、すなわち早寝早起き一日一食生活をすれば、環境問題・資源問題は解決し、その結果平和になるに違いないって。世界中のみんながやればですよ。それから、あんまり外で遊んだりしないでひきこもる…ん?それってみんなが修行僧になればいいってことか(笑)。みんな修行僧になればいいとわかってるのに、誰もなりたがらない…う〜む社会的ジレンマだ…違うか。
 ま、真剣な冗談はこのくらいにしまして、こういった?社会的ジレンマはどうやって解決していけばいいんでしょうね。この本の中で印象に残ったことを参考に考えてみましょうか。
 まず面白いなと思ったのは、「予言の自己実現」という現象です。「〜が不足しそうだ」という噂が流れると、みんなが買い占めに走り、結果として本当に「〜不足」になるというようなケースです。私はこういうのをいつも「集団気分」という言葉で表現してますね。つまり,単なる「予言の自己実現」ではなく、人間には「予言の自己実現願望」があると解釈しているんです。そしてその予言はいつも「災い」です。「〜不足」もそうですし、不景気や温暖化や教育の荒廃や早期英語教育難民や富士山噴火や北朝鮮のミサイルや、とにかくいろんな災いを待望してしまうんです。いや、本人たちはそれらを不安に思い、憂えているわけでして、待ち望むなんてとんでもないって言いますよ。でも、その深層心理には、いや心理にすらなっていない深層気分には、絶対にそういう願望がありますって(表面上の願望は「幸い」なんですけどね)。台風ちょっとこっちに来ないかな、みたいな。日常に飽きて非日常を望むのかな。
 だから、私は社会的ジレンマの解決には、まずこういう深層の気分を意識化してですねえ、みんながやっつけなきゃならないと思うんですよ。そういう気分を持つのをやめようって。筆者が社会的ジレンマとして挙げた例の全てが、まずはそういう気分によって醸成されていくと思うんです。学者さんたちは小難しく考えてますけど、私はシンプルになんとなくそんな感じで解釈してます(これもまた気分程度のものかも)。
 あと、「徹底した利己主義が愛他的になりうる」という話も面白かった。そういうシステムも存在すると。ラブメイキングの話では思わず首肯しつつ吹き出してしまいました。つまり、自分が気持ちよくなるためには、相手にもサービスしなくちゃいけないってこと。なるほど。たしかに、そういうインセンティブ適合性の高い社会システムを作るというのも、ジレンマを乗り越える方法でしょうね。
 それから「そうそう」と思ったのは、『社会的ジレンマの問題を心がけの問題だとする考え方だけでは、この問題に十分に対処できない』という部分です。「けしからん」「教育がなっとらん」が正しい反応ではないということです。そう、ちょっと前に読んだ、「行動経済学」にもありましたように、人間は理屈や倫理観だけで行動するのではないようです。教育にありがちな「アメとムチ」も動機付けとして長続きしないとのこと。また、『「本当のかしこさ」が表面的な「おろかさ」の中に隠されている』『合理的な「かしこさ」だけでは社会的ジレンマの解決に不十分』というのにも、なるほどと思わせられました。実例や実験例が示されてますんで。
 「みんながやるなら自分もやる」「自分だけ損をしたくない」という「みんなが主義者」に関する部分も興味深かった。「みんなが主義者」がたくさん集まると、合理的利己主義者よりも多くの利益を得る可能性があるとのこと。
 そんないろいろな考察をもとに、本書の最後には社会的ジレンマの解決策が示されます。とは言っても、筆者自身も書いてますけど、かなり歯切れの悪いものになってしまっています。まあ、歯切れがよければとっくに解決してるんでしょうし、それじゃあジレンマではなくなってしまうわけで、解決可能なジレンマというジレンマに陥っちゃう(笑)。しかたありません。
 私は非常に単純にその解決策を考えていまして、つまり早寝…いやいやそうじゃなくて、いや、ある意味そうなのかもしれないぞ、そう、正しい宗教的生活をすればいいんですよ。仏教に限らずキリスト教もイスラム教もその他も、究極的には「利他」が「利己」を生むということを示しているんで(たぶん)。「利己」が「愛他」ではなくて、「利他」が「愛己」につながるようにすればいいんです。そういうパラダイム・シフトをするわけです…って誰がするんだ?誰が…そう、みんながすればいいんですよ。
 「情けは人のためならず」いい格言ですねえ。ここのところ、私は体験的にこれが絶対正しいって悟ったんで、これからもずっとこれで行きますよ。で、最後は教祖にでもなってボロ儲け!…なんて全然修行が足りませんな(笑)。

Amazon 社会的ジレンマ

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007.01.04

「笑いの賞味期限は…」

Relay1135 今日からお仕事。いきなり進学合宿であります。とは言え、私の家の裏にある某企業の研修所兼保養所をお借りしての合宿でありますので、半分休み気分ですね。しかし!たまりたまったしめきり間近のタスクが山積しております!なんとかしなくちゃ。
 で、今日は膨大な新聞の切り抜きをチェックしていました。いろいろ刺激的な記事があったわけですが、ちょっと気になったのが先月中旬(古いネタでスマン)の朝日新聞の文化欄「笑いの賞味期限は」です。
 年末年始にわたって何度か書いたような記憶がありますが、今年の私のキーワードの一つが「笑い」であります。一昨日小1の娘に、人間とほかの動物の違いはな〜んだ?と聞いてみました。彼女なりにいろいろな答えを考えてくれましたが、私の答えは「笑い」でした。娘の中では、テレビや絵本の中の動物キャラのイメージもあったんでしょうね、なんとなく腑に落ちない顔をしておりましたが、実際「破顔一笑」するのは人間だけでしょうね。
 で、その貴重な「笑い」の賞味期限が短くなっていると。記事の筆者はマッツァリーノの説を引用して、笑いには「ギャグ」と「ユーモア」の二種類があり、前者の寿命は短く、後者は長いとします。最近は笑いがギャグに偏りつつあるわけですね。そして、テレビやインターネットによって露出回数が増えるため、さらにサイクルが短くなる。作り込むライブ型よりも瞬間芸のテレビ型が多い。受け手のレベルが上がってネタを厳しくチェックするようになったため、繰り返しが許されなくなっていると。なるほど。
 最近、私の教え子3人が組んでやっていたお笑いグループが解散しました。記事で実はライブ型として取り上げられている「テツandトモ」の後輩でした。教え子たちも一発芸的な、あるいは流行語的な笑いというよりも、キャラ自体で魅せる(?)タイプの芸人でしたから、ちょっと残念でした。それこそベテランの芸人さんたちには大いに気に入られていた(面白がられていた)ようですが、テレビのような媒体には向いていなかったようです。
 正月にNHKで昭和の芸人さんたちを取り上げた特集番組が放送されていましたが、たしかに昔の方々はキャラが濃かった。出てくるだけでつい笑っちゃうという感じでしたね。オーラが変なんだもん。いや、それ以前に顔だけで笑える。ちょっと差別的な言葉で表現したくなるような感じ。それが、どういうわけか、最近はそういう存在感のある芸人さんが少ない。普通にスマートなんですよね。いや、実はそれってお笑いに限ったことではないんです。音楽でもしかり。演劇でもしかり。たとえばプロ野球やJリーグ、そうそうプロレスもですね。とにかく存在感のある人間が減った。理屈とかエセ評論なんかを寄せ付けない人間が減ったんでしょうかね。そういう意味では、政治の世界の小泉さんは特異な存在でした。てか、ほかがショボいんで彼が浮き立ったとも言えましょう。
 これって、たぶんですけど、受け手の方のレベルが上がったんじゃなくて下がったんだと思いますよ。消費者のレベルが下がると供給側も当然レベル下げてきますからね。下げるというか下がるというか。とにかく低きに流れる。
 最近の生徒を見ていると、とにかく対象をじっくり愛するということをしません。最初は飛びつくが、すぐに「つまんない」「飽きた」「これだけ?」「次は?」みたいな感じなんですね。まさに使い捨てというかコンビニというかオン・ディマンドというか、そういう社会のあり方を反映しているようです。瞬間的にワー!っと盛り上がるのは得意だけど、じっくり待ったり温めたりこちらから何かを加味したりできない。とってもかわいそうに思います(彼ら彼女らにとっては大きなお世話ですけどね)。
 そう、いつもの言い方しますとですね、時間を微分して「コト(不変・随意)」を指向するんです。時間を積分するという行為、あるいはその結果得られる「モノ(変化・不随意)」に対する感慨すなわち「もののあはれ」なんてのは不快に過ぎません。
 皮肉なもので、微分の結果は「刹那」であって、全然「不変」ではありません。あれ?この人誰だっけ?どんな人だっけ?世の実相は時間の流れの上にあるからです。現代は「コト化」の方向に動いてきました。デジタルという技術はその最たるものでしょう。そうして対象(他者)を情報化して飼いならそうとする。しかし、対象(他者)にはなり得ない自分はやっぱり「物の怪」なんで、結局様々な細切れの残骸を眺める空虚な自分が残るような気がするんですけどね。どうなんでしょうね。
 そういう意味では、いろいろ蘊蓄並べてお笑いを批評したりする人々や、匿名掲示板でさもわかったかのような書き込みする人々、あるいはそれを受け売りしてシッタカするような人々(ってかオレじゃん、それ…)は、単に情報(コト)をもてあそんでいるだけ、いや情報にもてあそばれてるだけなんですよ。
 ちょっとこのあたりと「萌え」「オタク」「腐女子」に関して新しい考えなども出てきているんですが、今日はここらでおしまいにします。仕事、シゴト。目先の「コト」を為さねば。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007.01.03

『第39回 年忘れ にっぽんの歌』(テレビ東京)ほか音楽番組いろいろと

Twnu
 富士山に帰ってきました。まずは年末年始に録画予約しておいたものを観なきゃ。げげっ!家族で楽しみにしていたマイメロが、な、な、ない!録画ミスかあ。ショック。
 気を取り直して、音楽番組をいくつかザッピング。まずはレミオロメンの滑走路ライヴを復習しましょう。だんだん慣れてくるとですねえ、藤巻くんと神宮司くんはもう少しプロ意識を持って練習した方がいいのでは、なんてことも思われるのですよ、ハイ。ま、その素朴さがいいのかな。そう言えば、年末朝日新聞に掲載された小倉エージさんのレミオロメンライヴ評お読みになりましたか?あれは最高ですよ。「ものは言いよう」というのはこういうことか…。小倉さん苦労して作文してますが、たしかに彼の視点は鋭いっす。全部ホントのこと書いてますけど、見事にオブラートに包んでいる(笑)。ファンなら必読です。
 続いてサンボマスターのライヴ。レミオとはいろいろな意味で対照的ですね。こういうのもいいなあ。自分がやるとしたらたぶんこっちでしょう。ヴォーカル&ギターの山口隆くん(なんだか紛らわしい名前だなw)、うちのカミさんに「負け組の星」とか言われてましたが、いえいえどうしてなかなかの勝ち組ですよ。男に人気があるっていうのはいいことです。
 あと、モントルー・ジャズ・フェスティバルの総集編。これはまたゆっくり観ましょう。すこいメンバーですなあ。モントルーらしくジャンルもいろいろですね。チック・コリアのモーツァルト、これって実はとってもモーツァルトなのでは?このアーティキュレーションには多くのヒントが隠されておりますぞ!クラシック(古楽含む)の皆さん、お勉強しましょう。
 お次は東京事変のライヴ。これは意外にソフトだった。あんまり色気というか、邪気みたいなものが感じられませんでした。もう少しドカドカとこちらに乗り込んできてほしかったような。
 そしてそして、これです。大晦日と言えば、もう最近は紅白でもなくK-1でもなく、これでしょう!テレビ東京の「年忘れ にっぽんの歌」です。
 正直紅白が死んでますよね。今年もOZMAのおかけで世界中で注目されたようなもんですからね。いかんなあ。世界に発信するんだったらこっちでしょう、これからは。皆さん、ちゃんと観ましたか?聴きましたか?
 レベル高過ぎですよ。これだけの質の歌手が、これだけの数登場して、その上、楽曲のレベルがこれほど高いというのは、世界中見回してもそうそうないと思いますよ。うまいのは当たり前。いい曲なのは当たり前。参加歌手と楽曲の情報はこちらでご確認ください。
 司会の徳光さん親子(!)、中山くん、森口さん、皆さん安定感、安心感がありますし、歌をよく理解しておられるから、余計なコメントはなく、逆に思い入れのこもった言葉が並びます。妙な演出もありませんので、じっくり音楽に歌に没頭することができます。ここんとこは、ぜひ!NHKさんにも見習ってもらいたいと思います。
 これだったらモントルーに匹敵しますね、まじで。実にハイレベルでソウルフル。ま、私も若い頃は全く興味を持っていませんでしたが、自分で歌謡曲バンドをやりはじめたら、そのすごさが分かるようになっちゃいました。なんでもそうですけど、自分でやってみるというのは、正しい理解のための近道と言えるかもしれませんね。ただ、それに伴う自己嫌悪やら劣等感やらを味わうはめにもなりますけど。若いうちはそれが怖いのかもね。今はそれが快感ですらあるので(危ない)、まずは密かに(人に気づかれないように…たいがいカッコ悪いんで)やってみるようになりました。
 さて、4時間半にわたるこの番組、あまりにみんなうまいので、ある意味単調になっているとも言えます。ですから、大晦日当日は夕方5時からのこの番組をじっくり堪能しつつ、7時20分以降は時々チャンネルを変えて危うい歌を聞くというのが、ちょうどいいかもしれませんね。レコ大が消えた今、これが大晦日の音楽鑑賞のあり方の定番になっていくのではないでしょうか。
 で、結論、1年の中で見逃してはならない歌番組は、冬の「年忘れにっぽんの歌」と夏の「思い出のメロディー」でしょう。両番組とも出演者の高齢化が進んでおりますので、そういう意味でも毎年見逃せませんよ。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.01.02

超高級「福袋」ゲット!?

Fukubukuro 実家でぐうたら二日目。というか最終日です。ぐうたらなので、特におススメすべきものもなく困ってしまうわけですが、まあ新年早々休むわけにもいきません、とりあえず今日手に入れたものを紹介します。
 子どもたちがなんとなく外に行きたがっていたので、車に乗ってショッピングセンターへ。子どもはお年玉をにぎって何をしに行ったかといいますと、あれですな、初ラブ&ベリー。思えば本当の意味での初ラブ&ベリーから早8ヶ月、たった3枚から始まったカードも今や数十枚にもなり、彼女ももう外野からヤジを浴びることはなくなりました。よくぞあの屈辱から立ち上がった!なんてね。実は今日も隣の女の子に助けられてました。「お手伝いしていいですか?」なんて言われて、スペシャルなカードを貸してもらって、そして見たこともないような高得点を体験してましたよ。まだまだ奥は深いぞ。あ、そうそう、あれだけ付き添いの母親を軽蔑していたウチの母親、今では子どもを押しのけて自分でプレイするまでに進化しております(笑)。
 母子がそんな感じなので、私は好きなクレーン・ゲームに挑戦。UFOキャッチャーですね。新年特別バージョンがいくつかありしまして、私は一番でっかい金色のゴージャスな福袋に目をつけました。けっこうな人だかりですが、みんな全然ゲットできません。袋自体をクレーンの腕ではさんだり、ぶら下げたりできないようです。
 これはかなりの重量だな。時計とかジュエリーとかゲーム機とかが入っているのだ。新年だしきっとスペシャルな内容になっているに違いない。まあこんな具合で狩猟本能がフツフツと沸いてきてしまったのです。
 さあ、自分の番です。ギャラリーも注目する中、先ほどからイメージングしておいた秘策で戦いを挑みました。
 結果、4回目(400円)にてゲット!!周囲の歓声を浴びながらあの金色(こんじき)の袋を手にする快感。ああ、今年は縁起がいいぞ。やったあ。店員さんも「よく獲れましたねえ」と驚く。
 さて、家族のもとに戻り、「ほれ、ゲットしたぞ」と、決して興奮したそぶりは見せず、さりげなく袋をさし出す。「うわぁ、すごい!」とまたもや賞賛の嵐。「当然だぜ」という表情の私。
 「あけてみよ、あけてみよ」…当然そうなりますよね。よ〜し、とばかりに頑丈にとめられているセロテープをはがす。見知らぬギャラリーからの期待と羨望の空気までもが伝わってくる。
 ジャ〜ン!!………???
Gewr…まあ、冷静に考えればねえ、正月とは言え、泥棒も飲酒運転もつかまるわけでして、しっかり法律は機能しているのでありました。景品法によれば、クレーン・ゲームの景品は時価800円以下であるはずです。たしかにこりゃあ800円以下だわ。
 えっと、ハガキホルダーと人形二つに宝石のネックレス(ガチャガチャ風)にケータイ手動充電器か…。まあ、ハガキホルダーは年賀状の整理に使えます。人形は娘二人にあげて、高級箱入りアクアマリンのネックレスは、お節料理を頑張った家内へのプレゼントということで。
Jyuuden_1 私はこれでいいや。実はほしいと思ってたんで。『コンパクトモバイルチャージャー(携帯電話手動充電器)』。旅行の時とか、災害時とか絶対必要ですよ!!うん、これは素晴らしい!必需品です!現代人にとっての必須アイテムです!その価値ははかりしれません!こんな素晴らしいモノを正月早々ゲットできたんですから、やっぱり今年は素晴らしい年になるのだ!!
 ああ、今年もまたこんな調子で小さな幸せを実質以上に楽しむんだな…orz。ま、今年の目標は「平和」「知足」「笑い」ですからね。正月からそれを実行できてるようでとっても嬉しいっす!!!

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007.01.01

あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願い申し上げます

| | コメント (4) | トラックバック (0)

『越乃景虎 純米酒』 (諸橋酒造)

Img10241440523 今年もまた静岡の実家にて年越しをいたしました。昨夜はいちおうK-1を中心に時々紅白を観たりしましたけど、どうもいまいちでしたね。K-1も紅白も話題性に走った結果、実力差のある対戦や、実はジャンルが異なっており対戦にすらなっていない対戦(?)に終始しておりました。いかんねえ。ま、笑えたのは倖田來未から五木ひろしへの流れくらいかな。山梨に帰ったら録画したテレ東の「年忘れにっぽんの歌」を堪能させていただきますよ(笑)。
 さて、元旦たる本日はいつものとおり食って呑んで寝てましたね。ふだん比較的飲み食い睡眠をしっかりコントロールする生活をしているんですが、ま、元旦くらい欲望を解放いたしましょう。
 お酒は毎年父親が磯自慢しぼりたて純米吟醸生酒原酒を用意してくれています。あいかわらずうまかったっす。で、午後は磯自慢のふるさと、そして私の生まれ故郷でもある焼津へ。祖母とともにお節を楽しみました。磯自慢って亡くなった祖父の教え子さんの酒蔵なんだ。知らなかった。
 もう一本お酒が届きました。義理の兄が新潟から取り寄せたお酒。それが長岡は諸橋酒造の「越の景虎 純米酒」です。五百万石を原料米とした純米酒ということで、たいへんにまろやかです。水のような、というよりも白湯のようなのどごしですね。淡泊とも言えましょうが、お正月のようにいろいろな料理があって、なおかつお酒もたくさん飲むというシチュエーションにはぴったりかもしれませんね。いろいろな意味で邪魔にならないお酒だと言えましょう。あまりに心地よく、私にしては珍しく二度も昼寝しちゃいました。ああ、平和だなあ。
 そうそう、今年のテーマはですねえ、昨年末にも書きましたけど、「平和」「知足」「笑い」です。あんまり難しい目標を立てると自分の首をしめることになりますので、まあ、比較的得意なことをさらに極めるということで。では、本年も楽しくやりましょう。みなさんもぜひ、私の人生の演出に御協力ください。参加自由です。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »