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2006.12.31

『THE YELLOW MONKEY "Rock On My Mind"』(NHK)

Romm あっ、忘れてた!っていうこと、みなさんもあると思います。今日私にもそういうことがあったんです。あっ、録画しといたんだ、観なきゃ…っていうやつです。よくありますよね。ところが、今日、つまり今年最後の日の、あっ、忘れてた!はちょっとスケールがでかかった。なにしろ、10年前録画して観てないことを突然思い出したんですよ(笑)。それも、何かきっかけがあったのかというとですねえ、なんとお節料理の準備でごぼうの皮をむいてる時に突然思い出した。
 で、あそこにある!と思ってある引き出しを開けてみたら、ホントにあった。で、観てみたら超ビックリです。ああ、たしかに今観るべきだったわ、これ。
 この番組は、おそらく97年に放送されたものだと思います。内容は当時その活動のピークを迎えていたザ イエローモンキーの96年12月28日に行われた日本武道館ライヴの映像を中心に、彼らの音楽のルーツに迫るというものです。ミッドナイト・チャンネルというNHKの深夜帯の枠で放送されたようです。
 そのテープの前半に録画されていた彼らの横浜アリーナライヴは観た記憶があるんですが、こちらは10年間すっかり忘れてしまっていた。
 なんか不思議ですね。先日書いたように27日に吉井和哉さんの武道館ライヴに行き、イエモンの曲に様々な感慨を抱いて帰ってきたところでしたし、その翌日28日にはテレビで生中継されました。たしかに12月28日の武道館はイエモンという伝統があったと記憶していますが、10年前のその日のライヴ映像をこうして今日観ることになるとは…。
 さて、この映像ですが、ファンの間ではまあよく知られたものなんでしょうかね。それとも意外にレアなものなのでしょうか。そのへんはコアなファンとは言えない私にはわかりかねますが、個人的には非常に興味深い内容となっていました。
 まず、この日の武道館のパフォーマンス(メカラ ウロコ・7ツアー)映像としては、次の曲が流れました。
1 楽園
2 悲しきASIAN BOY
3 SLLEPLESS IMAGINATION
4 JAM
5 天国旅行
 あと、96年7月21日NHKホールでのライヴから「Four Seasons」「Sweet&Sweet」の映像も流れました。
 これらの映像が今市販されている作品の中に収録されているかどうかは知りませんが、非常に充実した演奏を堪能できます。このうちの何曲かは10年後同じ場所で吉井さんが歌ったわけでして、なんか時の流れの中でのいろいろなものの変化や、あるいは逆に変らぬもののあることが感じられまして、自然と涙が出てきてしまうのでした。
 番組は90分に及びます。ということは、この演奏映像以外の部分が非常に多いということですね。そこがまた面白く感動的でした。まずは、それぞれのメンバーへのインタビューですね。自分とロックとの出会い、自分にとってのロックとは、これからのイエモン、そうとう長時間にわたって熱く語っております。その後の彼らを知る今となっては、これまた切ない内容になっております。うるうる。で、途中挿入される彼らが影響を受けた洋楽バンドの映像がまたたまらない。次の皆さんの往年の名ライヴ映像が流れます。
AEROSMITH
KISS
IRON MAIDEN
RAINBOW
DAVID BOWIE
MICK RONSON(THE SPIDER FROM MARS)
 キッスの映像は、このブログの記念すべき第1号記事にも書いた、ヤング・ミュージック・ショーの映像ではありませんか!それに関するヒーセの話が笑えました。私と同じ世代なんでね。同じことやってます。
 それから次の映像も私にとってはレアものでした。
95年4月30日クラブチッタ川崎でのMICK RONSON MEMORIAL LIVEから「Love MeTender」
96年5月5日ロンドンでのTHE YELLOW MONKEY With THE SPIDER FROM MARSから「ZIGGY STARDUST」
 特に、ロンドンでの映像は感動的ですね。夢の共演を果たした彼らの感動がそのまま伝わってきます。そうそう、この前の28日の武道館でも歌ったんですよね「ZIGGY STARDUST」。なんか因縁めいたものを感じますよ。
 いやはや、今日、こうして10年前の番組を初めて観ることになるとは夢にも思いませんでした。本当に不思議なタイミングでした。ある意味では、10年後の今日観たからこそ感じられる部分もあったわけで、こういう運命だったのかなとも思います。
 おそらくごぼうの皮むきしなかったら思い出さなかったでありましょう。ありがとうごぼうよ、そしてイエモンよ永遠に。

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2006.12.30

『養老先生に聞いてみよう!人生への疑問』(NHKハイビジョン特集)

Title45 また、NHKネタですね。3連チャンです。年末年始はどうしてもNHK漬けになりがちですな。珍しく家にいることが多く、ついついテレビを観てしまう。で、いろいろザッピングしても結局行き着くのはNHK。そういう性分なので仕方ないっすね。さて、番組の紹介の前に…。
 今日は近所のフォトグラファーさん宅にお呼ばれ。彼は今や日本を代表する広告写真家の一人ではないでしょうか。あの広告の写真もあの広告の写真も彼の手によるものです。彼自身と彼の作品群については、またいつかここで紹介いたしましょう。
 彼の自宅兼スタジオに呼ばれたのは、私と、やはりご近所お住まいの画家の方とフランス人シェフ、そしてその家族たち。今日は特に画家の方といろいろお話しました。たいへんな才能を持った彼についてもいつかここでおススメいたしましょうね。
 本当にいろいろと腑に落ちるお話や好奇心をくすぐるお話をいただいたんですけれど、私以外の3人の男たちに共通しているのは創造的な仕事をしているということです。ある意味私だけはそこに達することができなかった男。昔はそこんとこに妙な劣等感やひねくれた反発心なんかを持ってしまう小人だったのですが、最近少しは大人になったかな、素直に彼らから学ぶことができるようになりましたよ。
 で、私が今日思ったのは、彼らにはやはり才能があるということです。なんの才能かといいますと、「見えないものを見る」能力です。この前書きましたね、星の王子さまに出てくるキツネの「大切なものは目には見えない」という言葉。彼らには私たちには見えない、あるいは私たちが見過ごしてしまうものを見る能力があるんです。つまりとっても大切なものです。それは、たとえば、彼らが富士山や人や車や食材に向かった時に、そこに私たちが知り得ない未来の可能性を感じたりする、そういったものです。また、私が画家の方に「これで完成という瞬間ってどうやってわかるんですか」という質問をした時の彼の答え、「これ以上やったら作品がダメになるラインが見える」という感じのものです。ラインと言っても、もちろん物理的な線ではない。どちらかというと時間の流れの中のある瞬間、それも未来のある瞬間への予覚だと思います。
 私はそういう本来とらえどころがなく、固定されていない、そして流動性に満ちた現在や未来の何かを「モノ」と呼んでいるんですね。いつも言っているように「コト」(それは実は過去の情報そのものなんですね)の対照概念です。
 そう、そこで思い出されるのは、昨日の彼女の言葉「ひねり出した言葉はダメだと。衝動的に生まれる言葉にこそ力がある」です。意識的にではなく、無意識の領域で、対象と自己との間に縁起する何かをとらえるわけです。それを彼らの努力の結果であろう「職人技」によって現実化するわけです。
Yoro34 と、こんなことを痛感して心動かされながら帰宅いたしまして、先日観たある番組を見直してみました。そしたら、養老先生いいこと言ってるじゃないですか。陶芸家への夢を捨てきれない、しかし現実の厳しさに直面している男性からの相談に対する答え。「創造性は仕事の中から見つけ出せ」「創造性は自分で探して出来るものではない、ひとりでに出来てくる」「どん底だと思ったらもっと掘れ」「独創性は意図ではなく結果」。ああやっぱりそういうことなんだな。なるほど。
 これはやはり禅の思想につながりますね。「無我」「縁起」ってことですよ。最近、そのへんが実感としてわかってきたような気がするんですね。そのおかげでいろいろなことがうまく回るようになってきました。ずいぶん時間がかかりましたけどね。
Asagi さて、この番組、養老先生が主役で、ツッコミが太田光だったわけですが、どうも太田のツッコミがいまいちでした。司会の麻木久仁子の方がたくさん喋ってました。たぶんですけど、太田って自分が主役じゃなくちゃいやなんですよ。だから田中みたいになれてない。それに、これも想像ですけど、太田って養老さんのことあんまり好きじゃないんじゃないかな(笑)。実際言ってました。「ずるい」って。たしかに太田みたいにミクロにこだわって必要以上に悩むことを人生の価値としている男にとって、養老先生みたいに思いっきり開き直ってマクロにものを捉え、そして「大したことじゃない」って言い切っちゃう男って、自分のアイデンティティーを否定するやなヤツなんですよね(笑)。昔、私は太田みたいな青年でしたけど、最近養老先生みたいなやなヤツになりつつあるんですよ。ずるい大人ってことでしょうかね。
 と、長々と書いてきましたが、とにかく学ぶことの多い一日でありました。みなさんに感謝いたします。はい。

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2006.12.29

『詩のボクシング12 世界にはばたけ!声の力・言葉の力』(NHK)

Boxe あ〜、声がガラガラだあ。教え子たちとの忘年会で喋りすぎた。ほとんど即興漫談の世界。
 で、帰ってきてこの番組の録画を観ました。感動!!涙、涙…。すごいわ。私のお馬鹿な即興劇とは違いすぎる(笑)。
 昨日ちょうどモーツァルトの即興について書き、そのついでに「どちらかというと言葉の即興は得意なんですけどね」なんて不用意に書いてしまった自分を恥じます。
 香川大会から勝ち上がり優勝した木村恵美さん、ものすごいレベルの高さでありました。詩もよかったしパフォーマンスも完璧。最後の即興詩の奇跡的な完成度の高さ、涙が止まりませんでした。
 実は彼女、大学の後輩なんです。私もほんの少しかかわった演劇同好会のOGなんですね。だから当時、彼女の舞台を観てるはずです。なんか、自分の後輩にあたる人が、こうして今でも言葉と格闘し、生きた言葉を生み出しているということに感激ですし、おいおい自分は何やってんだ!っていう…う〜む、すごい刺激されちゃいました。
 最近再会した大学時代の友人がいるんですが、彼女は木村さんの劇同での先輩で、この決勝の日の翌日、優勝した木村さんといっしょにライヴやってるんですよね。いいなあ。すごいなあ。まあ、ある意味まだ大学生のノリとも言えましょう。世間に呑まれて妙に大人になってしまう人が多い中、彼女たちの生き方というのは実に魅力的です。ちゃんと家庭も持って大人としての生活をしつつ、創造的な活動も続けている。かっこいいと思います。
 私の出た大学って、ちょっと怪しい雰囲気がありまして、まあ文学部しかない単科大学ですから、そりゃあやばいですよね。それも山の中に隔離されてるし。で、私みたいな勘違い野郎もたくさん輩出(?)しているんですが、中にはこうして歴史に残るような偉業をやってのける人もいたということで、ちょっと感動です。
 しかし、本当にすごいわ。最初のうちは「オレも出てみるかな」なんて言いながら観てたんですけど、今はもう戦意喪失です。あれを見せられたら無理だ。
 彼女が言ってました。ひねり出した言葉はダメだと。衝動的に生まれる言葉にこそ力がある。なるほど、そのとおりですね。私のように無責任に言葉をひねり出してばかりいるだけじゃあダメということで。反省いたします。
 他の選手の皆さんもそれぞれ素晴らしかった。いろいろ書きたいけれど、しかし、生きた言葉の前に、私の死んだ言葉は出る幕なし。
 ちなみにゲストで会場を盛り上げた浪曲師国本武春さんは、私の姉の芝居仲間だった方です。この方もすごいんですよね。いつか紹介してもらいたいな。
 
木村さんのブログ

詩のボクシング公式

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2006.12.28

『モーツァルトの真実〜自筆譜が明かす素顔〜』(NHKハイビジョン特集)

Moz12 さてさて、いつものように振れ幅が大きいですよ。昨日の吉井和哉から今度はモーツァルトです。古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ!ですので。私にとってはこれが日常です(笑)。
 今日午前中放送されたハイビジョン特集です。池辺晋一郎さんの演奏付き解説を中心に、モーツァルトの自筆楽譜を材料として、天才と言われ続けていたモーツァルトの素顔に迫るという企画でした。モーツァルト・イヤーももうそろそろ終わりなんだなあ、という感慨。
 「天才」という言葉、私もよく使ってしまいますけど、ホントこれって無責任な言葉なんですよね。そういう意味では、吉井さんも「天才」とか「神」とか言われてしまう。そういうふうに片付けるのは、片付ける方としては手っ取り早いし分かりやすいですからね。でも、本当のファンなら、その一言で片付けたくないという感情もまた一方にあったりする。彼の生き様、特に苦悩というものを少しでも知れば、あまり安易にそういった「ほめ言葉」は使えなくなるものです。
 モーツァルトなんかそういう安易な言葉による「コト化」被害者の最たる存在でしょうね。天才とか神童とか、そういう冠をかぶらされて、どうなんでしょうね、本人は嬉しいんでしょうか。私はもちろんそんなものかぶったことがないんで、ウソでもかぶってみたいし、実際かぶったらけっこう気分よくなりそうですな(笑)。
 たいがい、「天才」とか「神」とか言われる人は不幸です。才を天与された幸福よりも、おそらく苦労を人界から与えられることの方が多いのでしょう。そう、天才は「モノノケ」なので、「ことわざしげき(事業繁き)」世の中では生きにくいんですね。天才にして幸福になるには、バカボンのパパ並みの根性が必要です(?)。いや、彼も決して幸福ではないのかも…。
 で、この番組では、モーツァルトの残した自筆譜などから、そういう苦労を読み取るわけですね。そうすると、今までの彼のイメージが当然変ってくるわけです。彼は「作曲家」である以前に「演奏家」であったとか、彼は「芸術家」というより「職人」であったとか、「天才」というより「創意工夫」の人であったとか。
 全くそのとおりであって、こういう番組がなければ、私たちは先人たちの「ことわざ(事業)=コト化=カタリ」の結果を無反省に無検証で信じ込み、追体験や実感のないまま、モーツァルトを、そして彼と自分たちの関係を硬直化してしまう。いかんなあ。
 で、誰が悪いって、私たち教育者なんですよ〜。もともとそういう実体験に基づいていない「コト」を平気で「語る(騙る)」傾向があるんで。語り手としても聞き手としても、自分にダメ出ししときます。
Moz23 というわけで、なかなか面白く拝見いたしました。特に嬉しかったのは、ちょっと前に紹介したロバート・レヴィンさんが登場され、モーツァルトの即興の秘密に迫ったコーナーですね。まあ、秘密というほどのことではなかったのですが、彼自身がモーツァルトの残した「即興風」の曲を演奏してくれたのはラッキーでした。たしかにモーツァルトの即興シーンを彷彿とさせましたね。
 音楽の即興性というのに関しては、ここでも何度も言及しておりますように、私は非常に重要視しております。しかし、私は脳内即興はできますけど、それを現実化する能力と努力に欠けるため、実際にはダメダメ音楽家であります。どちらかというと言葉の即興は得意なんですけどね。ただ、レヴィンさんもおっしゃってましたが、即興をできる人はたくさんいる、でもその中で聞く(読む・見るナド)に値するのはそうそういないのでありました。
 ああ良かった。凡人で。不幸な(あるいは短命な)天才より、幸福な(あるいは長命な)凡才の方がいいんで…といういかにも俗っぽい結論(笑)。

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2006.12.27

『TOUR 2006 THANK YOU YOSHII KAZUYA』(吉井和哉ライヴ)

Yk2006 久々に武道館に行って参りました。吉井和哉さんのライヴです。
 まず結論、かなりクオリティーの高い公演であったと言えましょう。いろいろな意味で冷静に聴いてきましたので、それなりのレポートをいたしたいと思います。いや、実はけっこう興奮したんですけど、まあ興奮したレポは腐女子(笑)の皆さんにおまかせいたしましょう。40歳代男の代表としてなるべく冷静に…。
 私の席は2階の東、前から2列目でした。ある意味ベストポジション。吉井さんとの距離はアリーナ中央付近と同じくらいですし、角度的にそれぞれの機材やパフォーマンス、さらにスタッフの動きなどもよく見えるところでしたので、体はノリノリに乗りつつ、目と耳はしっかり研ぎ澄まして観察してきました。
 まず肝心の吉井さんのパフォーマンスですけれど、本人もMCで耳鼻咽喉科に行ったと言っていましたが(小林亜星さんに会ったとか…)、絶好調ではなかったようで、やや高音で辛いところがありました。それでもさすがですね、後半には安心して聴けるところまで持っていってました。彼の歌には、ただ上手い下手では表現できない味というものがあります。それがそれぞれの曲によって上手に使い分けられていて、うん、プロの歌い手さんだな、と思いました。激しい動きの中でも音程けっこう正確ですし。
 彼のライヴならではの、替え歌詞、替えメロも楽しかった。崩しや観客とのやりとりも適度でしたね。明日はテレビの生中継がありますので、もう少し抑制されるかと。また、これも彼ならではですが、エロエロ度もいい感じ(?)でした。私たち東側に向かって、マイクを股にはさんでしごいてましたが、私の周辺の腐女子の皆さんが泣いて喜んでましたよ(笑)。まあ、彼の魅力ってそういう男の色気というか、下品な美学にもあるわけですから、全然OKでしょう。ただ、これも生テレビでは自粛モードになるかな。
 楽器隊の演奏に行きましょう。私が聴いたかぎりでは、4箇所ほど小さな破綻があったと思いますけど、まあそれはライヴではよくあることですので、まあ良し。テレビがある明日は頑張ってください。ドラムの鈴木くんでしたっけ、21歳ということですが、末恐ろしい才能の持ち主であります。味のあるドラミングではありませんし、ちょい走るところ、フィルミス?もありましたが、吉井さんが欲するであろう魂のこもったスピード感はよく出ていたのでは。ギター、ベースはまあみんな巧いなと。多少の間違いもご愛嬌ということで。エマが比較的近くだったわけですが、彼の華のあるギターソロにはなんか懐かしさを覚えましたね。
 さて、演奏された曲に関しての感想です。え〜、皮肉なことでありますが、会場も私も一番盛り上がったのは、イエモンの曲でありました。私もイエモンのライヴには2度寸前に行けなくなったという悲劇を体験しておりまして、生で聴くのは初めてだったんです。ソロの曲はマイナー(短調)の曲が多いので、特にイエモン時代の曲は映えるんですね。それこそ華がある。歌謡ロックで結構。すごいクオリティーだ。たしかにちょっと泣けましたね。オヤジ心を刺激しました。考えてみれば半分イエモンなバンドなわけでして、武道館で半生イエモンが聴けただけでもいいか。イエモン以外で心に響いたのは「CALL ME」かな。ほかもみんな良かったし、構成もイケイケで良かったと思います。でも、やっぱりオジサンにはイエモンがねえ。目をつぶってあの4人が演奏しているのを想像してましたよ。
 あとポジネガマンは生で聴いてみたかったかな。ちょっとした因縁があるんで(笑)。
 ファンの9割はイエモン時代からのベテランでしょうかね。吉井さんのライヴで「ロビン!」とか「エマ!」とかいう歓声が上がるのには、正直複雑な気持ちになりますよね。私のルートで聞くところでは、再結成のようなものは「なし」ということですし、私自身も当分は「なし」でいいと思います。60歳くらいになってスペシャルで一日だけ再結成、往年の名曲を演奏、でいいんじゃないですか(笑)。The Yellow Monkeyは「SICKS」で完成しちゃってましたから、それから先はオマケだと思ってるんで。
 まだいろいろ書きたいこともありますけど、長くなるのでこのへんにしときます。最後に、ご近所として嬉しかったのは、同じくご近所のキムタク(中居くんにも聞こえるが)のものまねですかね。昔はお二人ともよく河口湖で釣りする姿をお見かけしましたので。これもテレビではできないかな。
 いちおうセットリストを。
01.I WANT YOU I NEED YOU
02.LIVING TIME
03.HOLD ME TIGHT
04.人それぞれのマイウェイ
05.LONELY
06.黄金バッド
07.CALL ME
08.20 GO
09.Paint It Black(ストーンズ)
10.And Your Bird Can Sing(ビートルズ)
11.SPARK
12.ALL BY LOVE
13.WEEKENDER
14.太陽が燃えている
15.TALI
16.BEAUTIFUL
17.バラ色の日々
18.LOVE LOVE SHOW
19.BLACK COCK'S HORSE
20.FINAL COUNTDOWN
 アンコール
21.恋の花
22.パール
23.BELIEVE

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イエモン96年12月28日日本武道館の記事へ

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2006.12.26

『「論理エンジン」が学力を劇的に伸ばす』 出口汪 (PHP研究所)

Ronri 「論理」こそ唯一の国際共通語である。この筆者の言葉にはなるほどと思いました。
 以前紹介した天命の暗号の出口光さんと同じく、あの出口王仁三郎の曾孫である出口汪さん。お二人にオニ魂が活き活きと引き継がれているのを感じずにはいられません。教団としての大本は、今やかつてのエネルギーを失ってしまいましたが、具体的に名前を挙げるまでもないでしょう、非常に多くの新宗教教団にその思想や行動の影響が残っています。また、経済界や科学や芸術の世界においても、意外なところで彼の命が生き続けています。そして、本当の遺伝子もまたしっかりと息づいている。
 出口汪さんの名前を知ったのは、今からもう20年近く前のことでしょうか。代ゼミの講師として、現代文の学習に革命を起こした人としてでした。当時すでに王仁三郎に興味を持っていた私は、本当にびっくりしました。参考書の著者紹介の写真で、汪さんは十曜の描かれた紋付きをお召しだったので(笑)。作家であり、優れた宗教家でもあった和明氏のご子息であったと知ったのは、ずっとのちのことですが。
 騙られた「コト」を徹底的に破壊するために、霊界物語などで新たな「モノ」を語ったのが王仁三郎なら、「モノ」どうしの無理解、排斥、隠蔽を避けるために「コト」を利用しようとしたのが汪さんなのかもしれませんね。たいへんに面白い対照でありながら、実はグローバルな平和を目指すという点では一致している。不思議です。
 もちろん、汪さんのことです。「論理」が全てだとは言いません。そんな野暮なことは言うわけないし、原理主義になろうはずがない。ただ、国際化の現代においては、特に論理が必要とされると。論理とは「他者意識」のあるところに立ち現れるからです。
 ちょっと話がそれますが、今日読んだ評論の問題文に、「オリエンタリズム」の話題が出ておりました。ワタクシ的に解釈しますと、西洋は、「モノ」であった東洋を、つまり自分たちに理解できない外見や文化や言語を持っていた東洋人たちを、ただひたすら自分たちの理解できる「コト」にしようとした。それが植民地化であり、言語の強制であり、支配であり、虐殺であったと。そうして、鏡の裏側を意識することによって、自分たちのアイデンティティーをさらに強固な「コト」にしていったと。なるほど。
 で、そんなことにならないようにするために、まずはお互いが論理的に話し合おう、感情的になるのではなく、じっくりお互いに対峙できる訓練をしようと汪さんは言うわけですね。そのための具体的な方法が彼の開発した「論理エンジン」です。
 論理力の習得は、日本語を通じてすべきだというのが、出口さんの強調するところです。日本語は論理的でないという妄説を排し、独自の(今までずっと力説してきた)日本語のドリルを続けることで、自然と「論理力」が身につくとします。そして、その力は現代文だけでなく、古文や英語や、あるいは数学まで、いやビジネスや人生のあり方まで、劇的に変えてしまうというのです。
 実は、私の学校では来年度に全く新しいタイプのクラスを立ち上げます。その全般的な企画を任されているのですが、国語はこの出口さんの「論理エンジン」を導入しようかと考えているところです。実際、私も一部のドリルをやってみましたが、たしかによくできていますし、私のような国語を専門とする者にとっても、なんというか頭の使い方が変る快感といいましょうか、ある意味劇的な変化を感じることができました。
 こういう「論理」の教育というのは、今まで本当にないがしろにされてきたと思います。それを、感覚的、情緒的、あるいは持って生まれたセンスなどで片付けられていた「国語」という教科で実現したところが、出口汪さんの革命的なところであったと思いますし、ドラマチックなところであるとも思います。
 いずれにせよ、私は、光さんや汪さんにどうしても王仁三郎を見てしまいます。形はそれぞれ違いはしますが、オニ魂が世の大人や子どもたちに浸透していくのは決して悪いことではないと思いますね。これをもって「宗教的で危ない臭いがする」とおっしゃる方は、まだまだ世の中のお勉強が足りないのでは。
 私もその魂を少しでも継承できればと思っています。私の得意なことを通してね。

Amazon 「論理エンジン」が学力を劇的に伸ばす

『論理エンジン』公式

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2006.12.25

コラールの美しさを!『オルガン小曲集(バッハ)』

『Orgelbuchlein (J.S.Bach)』  Ablitzer(organ)
Harmonic Records
68216230_m さて、今日がイエス様のお誕生日当日であります。ま、いろいろ説はあるようですが、一般、特に日本人には今日ということで。それをお祝いいたしまして、本日はバッハのクリスマスにちなんだ作品を鑑賞いたしました。非常に素晴らしい作品集でありながら、どうでしょうねえ、あんまり接する機会がないんじゃないですか。
 これはいわゆるコラール前奏曲ということでしょうね。コラール前奏曲とは、その名の通り、礼拝において賛美歌を合唱する前にイントロとしてオルガンで演奏されたものです。単純かつよく知られたコラールの旋律をどのように料理して豊かな音楽にするかは、作曲家の腕の見せ所だったでしょう。バッハも数多くのコラール前奏曲を作曲していますが、このオルゲルビュヒラインが最も早い時期に作られたものです。
 全部で48曲からなるこの曲集、その中のBWV599からBWV617の19曲がクリスマス週間用のコラール前奏曲です。さらにその中が細分化されており、待降節用、降誕節用、年末年始用、マリアの潔めの祝日用に分かれているようです(正直この辺についてはあまり詳しくありません)。今日はそのあたりを聴いてみましょう。
 ああ、そうそう、このオルガン小曲集には一つの逸話というか、エピソードがあります。この曲を作曲したのはバッハが32歳くらいの時ですが、どうも、この曲集のいくつかは牢屋の中で作られたようなんです。その頃、ワイマールで仕事をしていたバッハは、自らの主人である領主にいろいろと不満がありまして、さっさと再就職活動をして、退職願を出す前にケーテンの宮廷楽長の座をゲットしちゃったんですね。で、ワイマール領主は怒ってか、いやがらせか、本気で惜しんだのか、よくわかりませんが、退職願を受理しなかったんですよ。でも、元来頑迷なバッハは辞める!の一点張り。しまいには不敬罪でしょうかね、牢屋にぶちこまれてしまうんです。どうもそこでいくつかのコラール前奏曲を作曲したらしい。11月の6日に入牢してますので、もしかしてケーテンでの初仕事(クリスマス週間)のために集中して作ったのかもしれませんね(笑)。ホントかどうかわかりませんが、牢屋は実に静かで作曲には最適だと言ったとか。たしかに小品ばかりではありますが、内容的には非常に高度な作曲技法を聴かせてくれます。集中できたのかな。
 今日紹介するアルバムには、テノールとポジティフオルガンによる原曲のコラールも入っています。ルターらが作曲したドイツ語の賛美歌ですね。こちらは非常に単純な和声付けで演奏されていますので、バッハの作品と比較することによって、彼がどのようなアイデアと職人芸をもって編曲したかがよくわかります。
 本当にほとんどが3分以下の短い曲ですが、だからこそ飽きずにいろいろなタイプの曲を聴くことができます。コラールというシンプルなモチーフを扱いつつ、対位法や和声法の実験を重ね、あるいは舞曲の要素も取り入れたりして、非常に多様な音楽を展開しています。もちろんその豊かさはバッハの信仰の豊かさの表れであると思いますよ。
 今、実はこうしたオルガン用のコラール前奏曲や、声楽用のコラール、カンタータの中のコラールなどを、いくつか器楽用に編曲しようと思っているところです。それを引っさげていろんな教会を回って、コラールの美しさ、豊かさの再確認を促せればなと思っているところです。どうもゴスペルとかがはやりすぎのような気がするんで。それはそれでいいんですけどね。大きなお世話でしょうか。

NMLではこちらがいい演奏です

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2006.12.24

今年のクリスマス・プレゼントは…NHK?

 今夜はクリスマス・イヴなんですね。いちおうウチでもささやかなパーティーなどしまして、世界平和を祈りました。BGMはケルトのクリスマス・ミュージック。今年はなぜか私の父親もいまして、いろいろと話をしました。主に戦争体験。やっぱり戦争はいかん。平和が一番。
 さて、そんな夜に私は素敵なプレゼントを三ついただきました。全てNHKさんの作ったものです。たまたま昨日、ふれあいミーティングに参加したわけですけど、やっぱり私の人生にNHKは不可欠です。昨日も「水」のような存在になってほしいということを言いましたが、たしかに自分の70%はNHKで出来ているのかもしれない。なんてちょっと大げさかな。でも、たしかに今年のクリスマス・イヴの70%はNHKのおかげで充実しました。
 以前見落とした番組二つとクリスマス特番一つですね。
Iwoto まず、父親が録画を持ってきてくれたのがこちら。8月に見逃してしまっていたものです。噂にたがわず衝撃的な内容でした。戦争の語り部たちもずいぶんと高齢になってまいりました。今まで口をつぐんで来られた方々も、苦悩の中で語り始めています。父親が今日初めて私に語ってくれたこともありました。こういう実体験からしますと、たとえばこちらで紹介したドラマや映画は、やはり甘い。美化してしまっている部分も多々ある。たしかに全ての事実を明らかにすることが、後世の人々にとって絶対に重要とは言えません。しかし、やはり美化や感傷だけではいかん。
 たとえば、生徒たちは「戦争もの」に「感動」を求めてしまうんですよね。悲しみも感動の一つになってしまう。これは避けたいところです。戦争はもっと酷く、醜く、辛いものです。なんて言う私ももちろん戦争体験者ではないわけで、無責任に語るべきではないんですがね。これはとりあえず生徒たちに見せます。私はノーコメントです。これを観てから、クリント・イーストウッドの映画を観てほしい。
Ishida さて、続きましてはこちらです。新日曜美術館『悲しみのキャンバス 石田徹也の世界』。これは9月に放送されたようですが、私は観ていませんでした。今日、母親が電話で「やるよ」と教えてくれました。これも非常に心にずっしりこたえましたね。昨年31歳で亡くなってしまった石田徹也さん。私と同じ焼津の生まれだったんですね。知りませんでした。
 天才です。でも、「夭逝の天才」なんて簡単にラベリングしてしまうのも憚られるほどの才能です。現代にこんな若者がいたこと自体信じられません。これほど自己と社会を冷徹に観察し、そして再構成して吐き出すことができるなんて。だから、彼の作品には「好き嫌い」を超えた「共感」がある。誰しもが、実は知りつつも目をつぶってしまっている自己と社会の実態が、微妙なペーソスやユーモアを伴いながら、切々とこちらに迫ってくる。彼の作品を観る人たちは、驚き、苦笑し、そして打ちのめされるのではないでしょうか。ゲストの大槻ケンヂさんもたじたじでしたね。よくわかります。
 彼の作品で面白かったのは、物と人間の合体という点です。いつも言うように「モノ」とは、自分の外部であり、実は自分の思い通りにはならない存在です。それに呑み込まれていく自己を描いた石田さんの作品は、私には大変興味深く感じられました。物が大量生産、大量消費、大量廃棄されていく現代とは、実は「物の怪」の時代なのではないか。我々は欲しい物を得ようとして、実はコントロールできないモノノケたちに支配されているのではないか。そんな気がしました。
Neo1224 そして最後はクリスマス・イヴ・スペシャル・プレゼントですね。これぞ本当に待ちに待った贈り物。サラリーマンNEOのクリスマス・ヴァージョンです。なんか懐かしかったですねえ。小松政夫さんや南野陽子さんも「さすが!」と思わせる演技で大いに盛り上げてくれてましたね。ネタ的には意外に地味な感じでしたが、まあクリスマス・イヴですからね。あっ、このカットはですねえ、原史奈さんがスカートをめくられてるところです。ただそれだけ(笑)。別に深い意味はありません。ああ、楽しかった。水越伸さんと茂木健一郎さん、さすがGJ!!これからの知能には笑いのセンスは欠かせません。
 と、こんな感じで、今年は両親とNHKさんのおかげでとっても充実したクリスマス・イヴになりました。来年のテーマは「平和」「知足」「笑い」、これですね!決定!

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2006.12.23

国井雅比古@NHKふれあいミーティングin甲府

Meeting 憧れのNHK国井アナと共演(?)してきました!
 どういうわけかNHKのシンポジウムのパネリストに選ばれまして、永井多恵子副会長さんらNHKの役員の方々と討論をしてまいりました。
 で、司会進行役が地元山梨出身の国井アナだったわけです。国井さんと言えば、なんといっても名番組「プロジェクトX」の名司会ぶりが記憶に新しいと思います。東大出身で重厚で知性的な雰囲気を持った方でありながら、同番組では様々なコスプレ姿を見せるなど、ユーモアも持ち備えた魅力的なアナウンサーさんであります。今は一線を退いたとのことですが、今でもラジオなどで活躍中ですね。
 この「ふれあいミーティング」というのは、相次ぐNHKの不祥事や受信料不払いの問題などを受けて、NHKへの正しい理解を促すとともに、一般市民からの意見を吸い上げようという目的で行なわれているシンポジウムのようです。全国各地で相当の回数行なわれているとのことで、まあ信頼回復への一つのアクションというか、そういう性質のものでしょうね。
 先に言っておきますが、どこかのタウン・ミーティングのような「やらせ」は一切ありませんでした(笑)。お話をいただいた時に、わざと「何か言ってほしいことありますか?」って聞いたんですけど、とにかく言いたいことを言ってくれればいいということでありました。
 ただ、先ほど申したような趣旨であるために、先方としては「批判・非難」を期待しているように感じられました。まあ、それはそれでいいんですけど、私自身は困っちゃうんですよね。だっていつも書いてるように、私はNHK大好きなんで。好きな人の目の前で本人の悪口なんか言えませんよ〜(笑)。
 特に敬愛する国井アナに「山口さんどうですか」なんて振られたらねえ。しかし、そこは空気を読む男、断腸の思いで手厳しい意見を述べさせていただきました。ま、それじゃあ結局先方の思うつぼということで、ある意味「やらせ」になっちゃったりして…いやいや、そういうわけではなく、愛するからこその苦言であります。
 特に地上デジタルについては、このブログでも何度も書いてるように、かなり不信感を持っておりますので、いろいろと言わせていただきました。でも、考えてみると、これってNHKが悪いというよりは、総務省とかB-CAS社の問題なんですけどね。
 このシンポジウムの様子は来月ある番組の中で紹介されるようです。ついに全国デビューか(笑)。それも国井アナといっしょに…感無量です。人生何が起きるかわかりませんなあ。でも、ちょっと恥ずかしいので、いつの何という番組かはナイショです。私の動く姿を見たい方は(そんな人いないか)、光り輝く坊主頭を探してみてください。
Kunii さてさて、その国井アナですが、私は本番中ずっと彼をうっとり見つめてました(笑)。だって、さすが!って感じなんだもん。人の話を聞きながら、しっかりメモをとり、アドリブで見事に進行していく。一方でいい具合にユーモアを交えて、場の空気を和ませる。まあ、プロとしては当たり前なんでしょうけど、教師の私には大変に参考になる部分が多かった。勉強させていただきました。
 このシンポの様子が夕方のニュースで流れたんですけど、見事私の発言部分が採用されておりました。つまりしっかり空気を読んだということでしょう(笑)。実はその発言は準備していったものではなくて、まさに国井さんから送られてきた空気を読んで語ったものだったのです。
 とにかくレアな体験をさせていただきました。あらためてNHKについて考えるいい機会になりましたよ。考えてみれば副会長さんに直接物申すなんて、なかなかできませんからね。そして、私にとっての初体験は…メイクしてもらったことです!撮影用メイクです。少しはいい男になったかな。ん?これは「やらせ」ではないのか?テレビは真実を伝えるべきなのでは(笑)。
 あとですねえ、第2部で来年の大河ドラマ「風林火山」第1回の試写があったんです。ダイナミックな演出で面白かった。野外ロケがほとんどですし、戦国のスケール感が出ていたと思います。脚本もなかなか秀逸かと。ベテラン勢を中心とする役者陣も魅力的。個人的にはミツ役の貫地谷しほりさんに萌え…かな。
 というわけで、このシンポの冒頭で申しましたように、NHKさんには今後も「文化的インフラ」として頑張っていただきたいと思います。テレビ東京以外の民放キー局があんな調子なんで。

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2006.12.22

『The Miracle Sword 市丸利之助の奇跡の刀』

Rinosuke3jpg 一昨日の、サン・テグジュペリとコンスエロの奇跡も感動的でしたが、今日偶然知った市丸少将にまつわる奇跡もすごかった!!やはりあり得ないことが起きていました。
 この写真の中で、市丸さんが左手に持っている刀に関する奇跡のお話です。サン・テグジュペリのブレスレットと同様、何十年も経って奇跡的に祖国に帰ってきたのです。
 とにかくこちらの素晴らしい文章をお読み下さい。佐賀県唐津にある老舗の旅館「洋々閣」のホームページにある文章です。この旅館の女将大河内はるみさんがお書きになりました。できればリンクから他の文章もお読み下さい。美しく豊かな文が並んでいます。
 サン・テグジュペリの時に、「この世の唯一の摂理である無常性を乗り越えるために、『愛』や『芸術』があるのだと。人間の意思の力は、この世の避けられない運命に懸命に逆らっているのでした」と書きました。今日も「愛」の力、「愛」の奇跡を実感しました。普段「愛」という言葉をあまり好まず、また「永遠性」を否定して「もののあはれ」ばかり語っているワタクシでありますが、このたびは完全に「愛」にKOされてしまいました。
 このブログにいつもおいでの方々には繰り返しとなってしまいますが、私は「モノ」と「コト」を対照的にとらえています。変化し思い通りにならないのが「モノ」、固定され思い通りになるのが「コト」です。自己の外部と内部とも言えます。未知と既知とも、また実在と認識とも言えます。「もやもや」と「かちかち」とも、助動詞の「む」と「き」とも。とにかく今そういうことを考えていて、そして近代化は「コト化」であると言ってきました。そのシステムが「科学」であり「経済」であり「デジタル化」であると。で、そちらに傾き過ぎた現代を省みて、「モノ」の復権を!と言ってきたわけです。
 ところが、ここ数週間で大切なことに気づかされました。「コト」は「コト」でも近代的なシステムによらないものが存在したことを。すなわち「言の葉」と「魂」による「もののあはれ」への挑戦です。市丸さんやサン・テグジュペリが成した奇跡は、まさに不可避で不随意な運命を乗り越えた永遠性ではないでしょうか。その言葉は語り継がれ、また遺品は大切に保存されます。
 まさにそれこそが「ことたま」ですね。古くは「言霊」は「事霊」とも書かれます。これもいつも言っているように、「ことたま」は単に「言葉の持っている不思議な力」ではなくて、「コト化」つまり修理固成、永遠化、現実化、随意化、内部化のエネルギーです。そう考えるとまさに日本は「事霊幸はふ国」であったと。それを為す象徴が「御事・美言(みこと=命)」であり、その完成形が「真事・真言(まこと)」であるのでした。
 今日はこんなことを改めて考えさせられました。「もの」の復権も結構ですし、「もの」を「あわれ」むことも大切ですが、そこでため息をついて終わるのではなく、それを乗り越える努力も怠ってはいけない。その手段である「愛」と「芸術」がある限り、どんな時代であれ…。それが市丸少将のおっしゃっていた「命を無駄にするな」という意味ではないでしょうか。

ps そう考えると、お釈迦様も偉いけれど、もうすぐお誕生日のお二人は、実はもっと…(笑)。それはまた後日検証します。

「洋々閣」公式

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2006.12.21

『千年の響』 (今帰仁酒造所)

Img1022499782 今日は南のおいしいお酒を紹介します。これももらい物。お隣さんに頂きました。なんか、ウチはもらい物で生きてますなあ。ありがたや、ありがたや。ありがたく頂戴いたします。って、あんまりおいしくて一週間でなくなっちゃいました。
 私、沖縄の泡盛はそんなに「好き!」という感じではなく、積極的に呑もうとはしないんですが、いただく機会は多いんですね。で、呑んでみるとうまい。ふだん日本酒一辺倒の私ですが、こうして色々なお酒を体験させていただくチャンスに恵まれ、本当に幸せに思うのであります。感謝感謝。
 さて謝辞はこのこくらいにして、この『千年の響』の紹介をしましょう。「今帰仁」は「なきじん」と読むそうです。もうこの時点でエキゾチックですね。この泡盛は、ある意味泡盛らしくないのかもしれません。ですから、本当の泡盛通の方には、ちょっと物足りなく感じられるかも。それほど癖がないんですね。
 この泡盛はいわゆる古酒(クース)に分類されます。千年とまでは行きませんが、10年も樫樽で熟成させたものです。非常に素直でスムーズ。ほんのり届いてくる南の島の香り。美しい琥珀色。味わいの方にもどこかブランデーのような高雅ささえ漂います。今回は25度の方を頂きましたので、ストレートで飲みほしちゃいました。舌の上で転がした末に、グッと飲み込む、あの瞬間の味、香り、刺激、本当に絶品ですね。泡盛独特の癖がない分、どんな料理にも合いますし。
 パッケージも素晴らしい。オシャレで品格があります。今度は43度の方に挑戦してみたいですね。夏は45度をロックでいただくというのがいいんじゃないでしょうか。
 泡盛は米の蒸留酒です。そういう説明ですと米焼酎と同じになってしまいますね。でも、明らかに味は違います。まずは米自体がタイ米であること。発酵に使う菌が白麹ではなく黒麹であること。もちろん醸造工程にも違いがあるのですが、こうした基本的な原料の違いによって、あの独特の味わいと風情が醸されるというわけです。南国の風土が生んだ美味しさを、こうして寒〜い富士山で体験できるんですから、本当に幸福な時代であります。

【芳醇な香りと、豊かなコク!】千年の響 古酒 720ml 25度

今帰仁酒造

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2006.12.20

『星の王子さま こころの旅』 (NHKプライム10)

〜サン・テグジュペリ愛の軌跡〜
061204hi_oujisama 先日訳した市丸利之助少将の「ルーズベルトに與ふる書」、大変多くの方に読んでいただいているようで、非常にありがたいことでありますし、あの日のちょっとした労苦が報われたような気がしてほっといたしております。また、同時に責任のような重みもずっしりと感じられるのでした。
 さて、今日も「手紙」が主役です。それも戦地からの手紙。そして、時もほとんど同じ1944年頃…。昭和で言えば19年になります。私、何か暗示的なものを感じてしまい、ちょっと体調を崩してしまうほど衝撃を受けました。
 一昨日NHK総合で放送された『星の王子さまこころの旅』を観たんです。最初はボーッと見始めたんですけどね、最後はすっかり引き込まれてしまいました。最近発見された新資料に基づいて、「星の王子さま」を読み直すという内容でした。
 最近発見された資料というのは、サン・テグジュペリと妻コンスエロとの大量の往復書簡です。手紙です。ある意味、日本兵たちが残した手紙とは対照的かもしれません。恥ずかしいほどの「愛」の表現…いや、違うぞ。これを思い出さねば。日本にも山口多聞中将の手紙があるではないか。あれはびっくりしましたね。
 ところで、「星の王子さま」って子どもの時に必ず読まされますよね。家にあったりして。私も何度も読んだんですけど、正直全然面白くなかった。けっこう周囲では「いい、いい」という評判だったんですけど、ホントにみんな分かってたのかなあ。だって、私なんか、今日初めて(少し)分かりましたよ。最初の献辞のところで、「子ども」でなければ分からないようなことを臭わせてますけど、完全にしてやられましたね。大人じゃないと分からないんですから。
 さて、最近発見された往復書簡から分かったことは、サン・テグジュペリとコンスエロがあまりに深く愛し合い過ぎたということ。その激しさのために一時的な別れを余儀なくされたりして、苦しんだり淋しさを味わったりしたと。そして、皮肉にも、命をかけざるをえない「戦争」という悲劇を背景として、その愛の炎はさらに熱く明るく燃え上がり、美しく昇華するのでした。その中で生まれたのが「Le Petit Prince」であった。王子さまをとりこにし、ある意味苦しめ翻弄する赤いバラは、紛れもなくコンスエロであったわけです。
 戦争が激しくなる中、生粋の飛行機乗りであるサン・テグジュペリは、自ら志願して最前線に赴きます。その時の気持ちは、彼の残した日誌や手紙の文面から読み取れます。
「人間であるということはまさに責任を持つことだ。人は星空の下、かたわらに憩う妻の眠り、いともはかなくたよりなく、つかのまのその眠りに対する責任に目覚める。愛は考えられるものではない。それは存在するのだ」
「私には祖国フランスをナチス・ドイツから救う責任がある」
「僕は戦争に行く。僕は死ぬために出発するのではない。僕は平和や僕が愛するものを守るために銃弾を浴びに行く。誠実、純真、忠実、心のこもった仕事を守るために」
 日本人と何らかわりがないのかもしれません。
 そして、妻への思いも極まります。
「かわいいいとしのコンスエロ。羽飾りのついた小ネズミ。少し変な僕の妻。最愛の人。どう暮らしていますか。本当に新鮮な水をたたえた泉のようなあなたがいなくて僕は淋しい。かわいいいとしのコンスエロ。あなたは一生死ぬまで僕の妻です」
 「星の王子さま」が出版された翌年、1944年の7月31日、彼を乗せた飛行機は、地中海に消えました。
 作中、地理学者が語る「はかない」ということ、そして、キツネの語る「大切なものは目には見えない」ということ、「バラのために失った時間こそが、きみのバラをかけがえのないものにしている」ということ、これはまさに「もののあはれ」であります。時間の経過に伴う無常性、不随意性への詠嘆に他なりません。彼は最愛の妻との別れも予感していたに違いありません。実際、死という現実が、二人を永遠に引き裂いた…ように見えましたが、しかし…
 1998年、マルセーユ沖で、漁師があるものを引き上げます。それは、サン・テグジュペリとコンスエロの名が刻まれた銀のブレスレットだったのです。半世紀以上経っています。ほとんど奇跡といっていいことです。
 私は思いましたね。この世の唯一の摂理である無常性を乗り越えるために、「愛」や「芸術」があるのだと。人間の意思の力は、この世の避けられない運命に懸命に逆らっているのでした。
 そういう意味では、「星の王子さま」もブレスレットも、そして市丸少将の手紙も、偉大なる人間の思い、つまり「愛」が生み出した奇跡だったのかもしれません。その奇跡が生まれるのに、戦争という極限状況が必要だったというのは皮肉なことですが…。
 最後にNHKさんにお願いです。てれび絵本特別編として「星の王子さま」をお願いいたします。今回の作画スタッフも声優さんも、とても良い仕事ぶりでしたので。

Amazon 星の王子さま−オリジナル版

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2006.12.19

『データの罠 世論はこうしてつくられる』 田村秀 (集英社新書)

408720360301_aa240_sclzzzzzzz_v40791928_ この前、「行動経済学」の本を読みまして、いろいろと書きました。そこでも何度も述べた「気分」がどのように作られるのか。その影の立役者、いやけっこう露出多いかな、「データ」に関する本です。
 ちょっと前にカレーンジャーの記事の中で、鳥取がカレールウ消費量日本一というようなことを書きました。その時もちょっと疑念があったんですよね。ホントかな?って。そしたら、今日読んだこの本にちょうどそのデータが出ていました。ネタにされてるんですね。結論としては、「全国一という地位を確固とするためにはもう少し詳細な調査や分析が必要であろう」ですって。
 まあ、この例に限らず、どうも世の中には怪しいデータが跳梁跋扈しております。そして、我々人間はデータに弱い。なんででしょうね。はっきり示されると「ははぁ〜」となってしまうのは、日本人のサガなんでしょうか。
 しかしいかんのは、こうしたデータ(数字)の魔力を悪用して、集団気分を意図的に醸成し、金もうけをしようとする怪しい、いや賎しい人間がいることです。私は、そういうヤツらにだまされない為の授業を心掛けておりまして、それなりに効果を上げているものと自負しています。何しろ、私の授業を受けた99.8%の生徒が、「人生が楽しくなった」と言っていますので(笑…冗談ですよ)。
 もちろん、だまされて得することもあります。不景気なんかも半分は我々の気分の作り出すフィクションですので、そういうのに飽きてそろそろ自粛ムードから脱したいと皆が思い始めたりした時には、上手に数字でだまして劇的に場面転換するというやり方もあります。
 この本では、主に悪い方、それも最近実際に発表され、人々が惑わされたデータが満載でありまして、なかなか面白い。そのカラクリやら、盲点やらを逐一説明してくれていまして、大変勉強になります。やや、そうした実例の分析が続きすぎて冗長な感じを与えますが。
 ああ、そうだ、私、この季節には小論文の指導をすることが多いんですけど、そういう時にもこういったアマノジャク的視点というのは役立ちます。グラフや表が提示されて文章を書くということが多いんですよね。その場合、私はまず、そのデータが信用するに足るか、データとして問題がないかを検証させます。すると大概使えないんですよね。ですから、読み取れることを書け!という問題の場合、「この資料には〜問題があることが読み取れる」みたいなことを書かせちゃうんです。これで大概の場合受かります(笑)。人は裏技と言いますが、私にとっては表技ですよ。
 この前も、どこかの民放で年末の歌番組をやっていて、出てくる歌手の支持層みたいなグラフがいちいち出てました。この人は30代の男性に支持されてます!とかね。ああいうのを真に受ける視聴者にはなりたくありません。楽しむ分には大いにけっこうですけど。
 あと、これは数字のマジックだけの問題ではなく、たとえば次のような日本語全体の問題でもあるわけです、当然。本書にこういう例が挙げられていました。
「八割が就職の『勝ち組』 新入社員の意識調査」(共同通信)
「〈新入社員意識〉五人に一人が就職活動の『負け組』と認識」(毎日新聞)
 同じデータによる記事の見出しです。面白いほど印象が違いますね。これもメディア・リテラシー、データ・リテラシーの教材として使えます。受け取る立場としてだけでなく、表現者としてもこの技術は身につけておきたい。
 というわけで、人の心を動かすのが「言葉」の力。すなわち「言霊」ですね。私は古語の「ことたま」という言葉自体には違う定義をしていますが、まあ確かにこういう力はありますね。そして、いわゆる言葉だけでなく、「数霊」、「データ霊」みたいなのがあるというわけです。
 そのへんについてはまたいつか書きたいと思っています。とにかく、この本は高校生にぜひ読んでいただきたいですね。賢い大人になりましょう。

Amazon データの罠 世論はこうしてつくられる

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2006.12.18

ジャコ・パストリアス 『ライヴ・イン・モントリオール』

Jaco Pastorius 『Live in Montreal』
Ucbu7001 今は亡き天才の動く姿を観るのは感動的ですし、勉強になるものです。
 現代になって、音楽というジャンルはすっかり一回性を失ってしまいました。この表現は悪い意味で使われることが多いのですが、まれにいい結果をもたらすこともあります。ライヴ録音やライヴ映像がそれでしょう。
 演奏会(発表会)ではなくライヴです。その違いはあえて詳しく書きません。やはり、お客さんの一体になり、また演奏者同士も一瞬一瞬影響しあい、アドリブも含めた「生きた」音楽を奏でる、これが音楽のあるべき姿だと思っています。
 ワタクシの得意な言い方、というか毎日それで申し訳ないんですが、「コト」の発表会はどうでもいいんです。「モノ」を産み出す場が好き。そういうことです。
 で、そういう「モノ」が生まれる瞬間のエネルギー、魂、スピリット、波動、そういったものは、たとえばデジタル技術を媒体としても、しっかり刻印され、再生されるのです。それは私は何度も経験しています。もちろん、本物のライヴにはかないません。その場、空気、時、心、そういう総合体には及ぶべくもありません。しかし、そのエッセンスは不思議と記録されるんですね。私はそんなことからも、そういう魂みたいなものの存在を信じるんです。
 たとえば、「書」というのを考えるとわかりやすいかもしれない。「書」は基本的に一回性の芸術です。優れた書家が、その場の空気や時の中から何かをつかみとり、しかしまた同時にその場と一体となって、「無」の空間に「気」を刻みつけていく。そういうシーンを目の当たりにする幸運を得る場合もありましょう。しかし考えてみると、その時にその場に同席しなくとも、たとえば千年以上前の中国の書家の「作品」から、それをしっかりと読み取ることができます。これは本当に不思議なことではありませんか。
 音楽でもそういうことがよくあるわけです。「作品」としての「録音」だけでなく、その創造過程を観察することができる「録画」においては、さらにそういう可能性が上がるような気がします。
 というわけで、私はいろいろなジャンルのライヴ映像が大好きでして、いつも楽しんでいます。本当に幸せな時代に生まれたなあと思います。
 さあ、前置きが長すぎましたね。この天才の記録はどうだったでしょう。
 このヴィデオ作品は、今までも何回か商品化されてきましたが、今月久々に再発されました。ちなみに私が観たのは一つ古い版のDVDです。中身はいっしょでしょう。この最新盤の宣伝文句ではどういうわけか84年の録画ということになってますねえ、1982年だと思うんですが。この2年は晩年のジャコにとっては大きな2年だと思います。82年だとすると、ウェザー・リポートを辞めて、自分のバンドで来日した年ですよね。ジャコ・パストリアス(b) 、ランディ・ブレッカー(tp) 、ボブ・ミンツァー(as) 、ピーター・アースキン(ds) 、ドン・アライアス(perc)というメンバーから見ると、やはりこの年でしょう。
 で、結論を言います。なんか危ない「気」が出てきます、このDVD。ラリってるわけではないと思うんですが、ちょっと周りとのアンサンブルがなってないような感じです。あいかわらず音が多い(意味があるならいいんですが)。なんかいつもよりも浮き立って聞こえます。それは決して心地よいものではない。どちらかというと不気味な感じさえします。音だけ聴いていれば、たしかにいつものジャコの音ですが、やっぱり映像の方に何かが宿ってるんでしょうかね。私は怖い。一人だけふらふら歩き回ってますし。ある意味心霊写真みたいなもんかな(笑)。
 ん?なんか違うぞ。周りが異常に冷静だから怖いのかも。それでジャコだけ浮いてるかなあ。妙な雰囲気だ。
 という感じで、怖いものは見なかったことにするとですねえ、心に残るのはボブ・ミンツァーのバス・クラリネットだったりします。バスクラってこんなに表現力があってかっこいい楽器だったんだ。
 なんだか、前振りは期待させといて、実は怪しい「モノ」 だったっていう感じになっちゃいましたね。実際はものすごくいいですよ。楽器の演奏者としての立場から観察しますと、彼の無駄のない運指は勉強になります。いや、それ以前にほれぼれしますよ。ジャコのヴォーカルも聴けますし。

Amazon ライヴ・イン・モントリオール

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2006.12.17

『結婚カンタータ BWV202他』 (バッハ)

Wedd 本日は慶応義塾大学でのパーティーに招かれまして、バッハなどを楽しく演奏してまいりました。
 そうです!あの『クマムシ?! 小さな怪物』の著者で、私の古くからの音楽の友である鈴木忠さんの結婚記念パーティーだったのです。忠さん、早苗さん、あらためまして、おめでとうございます!
 いやはや、本当に楽しいパーティーでした。忠さんのお人柄そのままの楽しくノホホンとした(失礼)ムードを、しっかり満喫させていただきました。素晴らしい門出であったと思います。
 あの、御本人による学会発表調の「なれそめ」プレゼンは最高に笑わせていただきましたよ。やはり人生にも学問にも音楽にもユーモアが必要ですね。
 さて、そんなわけで、錚々たる生物学会と音楽界の方々が集ったこのパーティー。私はもっぱらおかかえ楽士としてお祝いさせていただきました。
 私が何曲か演奏した中で、特に印象に残ったのは、やはりバッハですね。新婦の川田早苗さんのソプラノ独唱を新郎のファゴットが支えるという、世にも珍しい結婚カンタータ。普通自分たちで演奏しませんよね(笑)。パリで10年以上声楽の勉強をされている早苗さんが、和服を着て、ドイツ語で自らの結婚を祝す歌を歌う…もうこれだけで実におめでたい状況であります。バロック・オーボエは、お二人を結びつけたとも言える渡辺佳代子さん。私はこの曲の演奏は2度目だったのですが、今回は格別な楽しさがありましたねえ。
 続いて、カンタータ51番「全地よ、主に向かいて歓呼せよ」から第1楽章のアリアです。これも新郎新婦参加。この曲はトランペットの独奏を伴います。ナチュラル・トランペットの名手中村孝志さんが、二人の門出を祝して高らかにファンファーレを奏でて下さいました。私自身も、中村さんとの久々の再会&共演ということで楽しませていただきました。やっぱりいいなあ、ナチュラル・トランペット(超難しいんですよね)。
 さて、結婚カンタータと言えば、以前、日本で発見されたパート譜を元に復元されたものを紹介しました。こちらの記事です。復元、編曲、指揮はあのリフキンさんです。その時、フラウト・トラヴェルソを演奏されていた中村忠さんもいらっしゃってまして、楽しい演奏を披露されました。こちらの忠さんとも夏以来の再会でして、いつもの通りプロレス談義(ノア限定)で盛り上がりました。まったく私たちは会えばTPOも省みずこの話ばかり(笑)。ま、たまにはまじめに音楽の話もしますけどね。
 というわけで、本当におめでとうございました。また、こういう素晴らしいパーティーにお招きいただいて感謝にたえません。お幸せにね!お二人の素晴らしいアンサンブルから生まれる美しいハーモニーを期待いたします。お仕事の方でもぜひがんばってください!
 え〜、最後に妙になまとめになりますが、今日演奏したBWV202とBWV51の両方が収められた名盤をおススメしておきます。ムジカ・アンティカ・ケルンによる精気溢れる演奏です。iTMSでも購入可能ですよ。

結婚カンタータ集(iTMS)

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2006.12.16

『作曲家 市川昭介 笑顔が生んだ名曲集』 (NHKBS2)

 昭和歌謡黄金時代
02_1 奇遇です。全然狙ったわけではありません。昨日の丹波哲郎さんに続き、今日は市川昭介さん。そう、9月に相次いで霊界に旅立たれた神様と仏様であります。
 9月にもこんな記事を書いて追悼しておりますが、こうして再びお二人で私に大切なことを教えてくださるとは。本当に不思議であります。
 今晩放送されたこの番組、本当に市川さんの笑顔が全編に溢れまくってました。笑顔が自分の人生にとって、あるいは他者の人生にとっていかに大切であるか…お二人はまさにその笑顔をもって伝えてくれました。
 「どなったことがなかった」と言われる市川先生は、一方では常に「厳しい」と言われた続けました。これは俗世間では矛盾ともとれましょう。しかし、それを自然に昇華できたのは、その笑顔とそこに満ちた「愛」の存在のおかげであると思います。
 ここで言う「愛」とは「相手を大切にする」ということであり、「相手のいいところを見る」ということであり、「損得、利害関係抜きで奉仕する」ということであります。これらの言葉は、番組中でも多くの関係者の方から語られておりました。
 相手のことを思い、妥協をしないからこそ「厳しい」。しかし、その厳しさとは、相手に恐怖を与えたり、相手を萎縮させたりする性質のものではないわけです。逆に何かを気づかせ、自信を持たせ、やる気を出させる厳しさであるわけです。
 親として、あるいは教師として、本当に恥ずかしい気持ちになりました。自分にはとてもとても到達できない高い高い境地であると思います。しかし、そこを目指して努力する価値はありますし、いや、努力する義務や権利は全ての人に与えられているのでしょう。それを意識して毎日を生きることこそ、丹波之大神様や市川大菩薩様への報恩になるのだと思います。
 笑顔でいるということは「忍耐」が必要なことです。丹波哲郎さんも市川昭介さんも、とんでもなく忍耐強い方だったのでしょう。ドイツの文豪ゲーテが逆の表現でこんなことを語っています。
「不機嫌は怠惰の一種である」
 あらためて、尊敬すべき彼らの「みことのり」を胸に刻んで生きたいと思います。

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2006.12.15

『大霊界3』 丹波哲郎企画・脚本・主演作品

   死んだら生まれ変わる
B00006gjj701_aa240_sclzzzzzzz_ 昨日、夢で「モノ」とたわむれると言っていた私ですが、なんか夢の中でいろいろと啓示がありましてですねえ、まあ「みことのり」でしょうか(笑)、朝3時過ぎには起きてしまいました。いえいえ、単にアイデアが浮かんだだけですけど。で、いろいろと書きつけたりしまして、それでもまだまだ夜明けまで時間がありましたので、カミさんがTSUTAYAから借りてきたこのビデオを拝観いたしました。
 いやあ、まじで感動しましたよ。20年近く前の大ブームの時には1と2を観まして、存分笑わせていただきましたが、今回は3を初めて観まして本当にいたく心揺さぶられました。
 今年9月になくなられた丹波哲郎さん。その時書いた記事にもいろいろ書いておりますね。霊界に旅立たれた丹波さんのことを思うと、この「大霊界3」はさらに特別なものに感じられます。作中、いろいろといいお話をされているんですけど、この一言こそ丹波さんの死が悲しいことではないことを雄弁に物語っております。
『健康が一番、死ぬのが楽しみ!』
 本当に丹波さんの一言一言が胸に響きますよ。いいことおっしゃってます。御本人は大まじめでしょうが、そんなお姿さえほほえましく感じられる、いかにも丹波さんらしい語りです。
 で、このビデオ作品(Vシネマ)の内容は、いたって大まじめであります。1や2とは違って、次のような趣向なんです。
 私も尊敬する江戸の国学者平田篤胤の残した著書の中に、「勝五郎再生記聞」というのがあります。武蔵の国の勝五郎という男の子が、死んだ隣村の男の子の生まれ変わりだったというお話です。これは江戸でも京でも有名だった実話でありまして、霊学にも興味のあった篤胤はそれに取材して、この文章を残しました。学者らしく、勝五郎本人はもちろん、関係者にも十二分に取材し、資料も片っ端から集めたようです。ですから、単なる奇譚としてではなく、不思議なリアリティーのあるお話になっているんですね。
 さて明治時代になって、この話を知った小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、広く世界に伝えたいと考えて英訳しました。「勝五郎再生記(勝五郎転生)」ですね。「仏の畑の落ち穂(Gleanings in Buddha-Fields)」という随筆集に収録されて、ボストンとロンドンでも出版されました。いかにも東洋的な神秘譚として評判が良かったようです。
 で、その内容を忠実に実写ドラマ化したのが、丹波さんの「大霊界3」なわけです。ですからある意味ドキュメンタリー・ドラマとも言えるわけでして、まあフィクションかノンフィクションか微妙ですね。ある意味元ネタ自体がトンデモ臭がしますからね、仕方ないです。そのまま映像化してもまさに虚実皮膜の間ということでしょうか。「モノ」と「コト」の間ですね。そういう意味では正統な「物語」とも言えましょう。だから純粋に面白いんです。
 途中、いきなりアニメになったりして、ふと笑ってしまいそうになる部分もあるんですが、考えようによっては、あれを今どきのCGでやってしまったら、もっと安っぽくなってしまったかもしれない。あれでいいのかもしれませんね。あの世の話ですし。象徴ということで。
 正直、原作のストーリーだけでも泣けました。そこに、実際霊界の人となった丹波さんの語りが重なると、もう本当に涙、涙です。温かい感動の涙ですよ。うわ〜、オレもまじめにこの世で修行しなくちゃって思います。そして、本当に「生きるのは楽しい。健康が一番。死ぬのが楽しみ!」という気分になります。
 作中、丹波さんがおっしゃっている通り、自分が敬愛している人たちに、霊界では必ず会えるのでしょう。そうすると、丹波さんも今ごろ、あの人やあの人やあの人たちと、破顔一笑しておられるんでしょうな。それこそ私も死ぬのが楽しみになってきます。
 お葬式のシーンで亡くなった人が半透明人間として重ね撮りされているんですが、以前「オーラの泉」で、江原さんと美輪さんお二人が、丹波さんのお葬式で丹波さんがご自身の棺桶に座られて笑っておられたと言っていましたけれど、ああこういう感じなんだろうなあ、と思いましたよ。
 あっそうだ、自殺に関しても述べておられました。「権利と義務の放棄で、きっちりと罰せられる」と。やはり、こういう教育も必要なんじゃないかなと思いました。ただただ、いじめはだめだとか、自殺しちゃいけないとかじゃなくて…。
 本当にいいタイミングでいい作品と「みことのり」に出会うことができました。カミさんgood job!ちなみに、そのカミさんは今横浜アリーナでレミオロメンです。

Amazon 大霊界3

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2006.12.14

『命』からいろいろと…

Inochi
 一昨日のニュース、今年の漢字は「命」に決定!というのがありましたな。毎年、日本漢字能力検定協会が発表するやつです。で、なぜか清水寺の貫主が揮毫する。こうやっていろいろあった1年を一気に揮毫化する、じゃなくて記号化する。まあいいんじゃないですか。人はこうやって記号化して、ハイ次!ってしたい生き物ですので。印を押して、これはこれでおしまいと。
 生まれた命、消えた命。考えてみれば、毎年それは繰り返されることであって、特に今年に限ってどうのという漢字ではないはずです。でも、たしかに命って、たまに省みないと当たり前になってしまう存在ですからね、いいんじゃないですか。人はこうやって時々反省して、また忘れる生き物ですので。
 で、平成18年という年に「命」という印を刻したのか、なんて考えていたら、そうそう「○○命」って(ニセの)刺青するのがあったなと。花魁の手練手管の一つですな。あれもやっぱり、ちょいと消して違う名前にしちゃったりする。ハイ次!ってね。そういうもんかなと。けっこうずるいかも。
 で、で、「○○命」と言えば、なんか昔記事に書いたことがあったなと思ったら、ここに書いてた。秋田のお盆ネタです。これは「いのち」じゃなく「みこと」でした。
 そうそう、「命」という字は「口」+「令」なんですよね。「いいつけ」つまり「命令」「使命」「任命」という意味です。まあ「命名」も一方的ですから、基本は「いいつけ」でしょう。それが、どうして「生命」の意味になったか。これはたぶん、その間に「天命」「運命」というのがはさまってるんでしょうね。「寿命」は基本自分で決められません。一方的に神様が与えるものだと。まあ、そういうことでしょう。
 おっと、また話が飛んだ。「みこと」だ。えっと、だから「命」を「みこと」と読むのは当然でして、自分より偉い存在からの一方的な「いいつけ」ですので、「御(美)言」だと。ただこういうふうに、偉い存在自体を「みこと」と呼んで、「命」という漢字を使うのは日本だけです。中国ではしない(と思う)。
 と、ここまでは一般論です。私は、さらに得意の「モノ・コト論」で「ミコト」について語っちゃいそうなんですけど、ここではやめときます…と書いた途端あることが「コト化」されたのでコトノハで刻印しきとますわ。備忘ってことで。
 私の説では、「コト」は「モノ」の対照概念。前者は固定・秩序・実現・随意・成就・認知・既知・分節・思考・(自己の)内部なんかを象徴します。後者は「コト化」されていない「もやもや」・渾沌・無常・不随意・未知・(自己の)外部なんかを表します。
 で、なんでそうなったかというと、上で書いた「ミコト」が関係してるんですね。古事記に出てくる「こと」と「もの」についてはずいぶん前にこちらのエッセイに書きました。奈良時代以前は、まさに神様の意志で全てが現実化していく、それを表す記号として「こと」を使った…という解釈です。だから「言霊(事霊)」は「(神による)現実化のエネルギー」の意味でした。一般に言われる「言葉が持っている不思議な力」ではありません!
 しかしその後、だんだん人間はいろんな悪知恵やら道具やらを手に入れ、神の意思を軽視するようになっていくんですね。そして、自らの意思でモノをコトに変換している(ちなみにそれが「カタル」という行為)と思い込むようになってくるわけです。平安時代頃です。その時、便利な道具として使ったのが「言の葉」であります。
 紀貫之の書いた古今集仮名序を読むとそのへんがよくわかります(あれもずいぶん曲解されて1000年以上ですねえ)。人間が「コト」を駆使しはじめた。だから彼は「ことわざしげき」と書きます。「ことわざ」は「事業」です。「わざ」は人間のなす行為であり、「災い(わざはひ)」という言葉が示す通り、あんまりいいことではない(ちなみに「幸い」は「さきはひ」っすね)。人間はなんでも現実化、作品化、記号化したがる。刻印したがる。烙印を押したがる。今年の漢字がそのいい例。
 ま、そんなこんなで、「みことのり」で動いていた人間界が、人間自身の「ことわざ」で動くようになった。それでこんな馬鹿げた世の中になったということです。面白いでしょ。でもなあ、数十年前に復権したこちらの「みことのり」や「神意」、あれはあれで正しくないよなあ。あっそうか、あれは神のいいつけじゃなかった。人間宣言したんだもんね。ニセ神様だったと。
 …と、こんなふうに私の脳の内部でも、モノがコトになっていく。物語ができていく。これはあくまでつくりごとです。私は正しいと思っていても、宇宙全体からすればどーでもいいことです。人間ってバカで可愛いですね。
 ああ、だんだん眠くなってきた。さて、しばし「コト」から解放されて、夢の中で「モノ」とたわむれますか。では、おやすみなさい。

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2006.12.13

スイブルスイーパー

Img10353359410 テレビ・ショッピングなどで有名なスイブル・スイーパーを買ってみました。まず、結論。なかなか良い。予想したよりもかなり使えます。
 以前、このタイプの簡易掃除機を買ったことがあるのですが、これがひどいシロモノでして、全然吸わないわ、充電池の持ちは悪いわ、柄の接合部分はしょっちゅう取れるわ、うんざりしました。それで1万円以上したんですよ。ちなみに某大手M電器製でした。
 そんなわけで、どうもこの手のモノは信用できないと思っていたんですけど、ウチの掃除機はこれでして、これは確かに吸引力やら何やらは最強なんですけど、なにしろ重いしデカイ。これを持って2階に上がるのなんか、私でも絶対イヤです。よってカミさんも相当苦労しているようです。
 ウチは猫がいますし、小さな子どもがいますので、ちょっとしたゴミが常に床に転がってるんですね。そのために、いちいちかの掃除機様にご登場願うのはねえ、たしかに面倒くさい。そこで、だまされたつもりで買ってみたのがスイブル・スイーパーというわけです。
 なにしろ、1000円台で買えましたからね。だまされたつもりで、というのもありでしょ。安すぎる。もちろん、オマケのミニ・スイーパーなんて要りません!
 さて、使い心地です。まず動作音がでかいことにビックリ。以前使っていた問題児が妙に静かだったんで。でも、そいつは静かなだけにパワーもかなり控え目だったわけです。で、こっちはガラガラゴーゴーうるさい分、なかなかパワフルです(なんとなくそういう気がするのかも)。
 ここで確認しておかなければならないことがあります。swivelとは旋回式ということ。sweeperとは「掃き手?」のことですね。そう、これは掃除機と言っても、いわゆる吸引式ではないのです。ゴミを掃き取るタイプなんです。旋回式のヘッドの四辺にブラシがついていて、それが内向きに回転することによって、ごみを掃き取って本体内に掻き込むという感じなんです。本来の「ほうき」と「ちりとり」による作業をやってるわけです。発想としても仕組みとしてもかなりシンプルなわけですね。
 で、そのシンプルさが結果として成功したのだと言えましょう。けっこうブラシがゴミをとらえますし、まあシンプルなだけに壊れにくそうですし、消費電力も低めでしょう。掻き込んだゴミは、ホントに単純に本体内にひっかかってるという感じで、ちょっと振ったりすると降りそそいじゃいます。ですから、こまめにゴミは捨てなくてはいけませんね。あと、ブラシにいろいろなものがひっかかりますので、それも頻繁に取った方が吉。
 さて、私としてはですねえ、やはり充電池(ニッケル水素電池)が心配の種ですね。主婦の皆さんはメモリー効果とか気にせずに、ガンガン充電しちゃうでしょう。私はしっかりカミさんに教えときましたけど、たぶん実行されないでしょう。かといって、この値段でリチウムイオンは無理だろうしなあ。ホント、電池の問題ってなかなか解決しませんね、どの分野でも。
 こんな感じで、まあ値段の割には使える製品であると言えましょう。しばらくは重宝しそうです。壊れたらまた買いますか。

「スイブルスイーパー」限定最終価格!

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2006.12.12

『ソナチネ』 北野武監督主演作品

B00005eds001_aa240_sclzzzzzzz_ 今日は小津安二郎の誕生日にして命日。毎年氏にちなんだ記事を書いております。昨年はThe Complete OZU、一昨年は秋日和でありました。
 今年も何か一つ観ようかと思いましたが、ちょっと都合により違う監督さんの作品になってしまいました。
 で、無理やり小津さんに結びつけましょう。え〜、「東京物語」とこの「ソナチネ」だけなんです!って何かと言いますとですねえ、Wikiから抜粋いたします。

『この映画は公開当初、それ以前の北野映画と同様に非常に難解な映画と受け取られ、1週間で上映が打ち切られる映画館が出るほど興行収入は不振を極めた。
しかし1994年にロンドン映画祭やカンヌ国際映画祭で上映され、欧州を中心に高く評価されるようになった。これを契機に、現在でも「キタニスト」として知られる北野映画ファンが世界的に誕生したのである。前世紀末にはイギリスのBBCによって「21世紀に残したい映画100本」にも選ばれた。ちなみに同選考にラインナップされた日本映画は、本作と小津安二郎監督「東京物語」のみである。
また現在では日本においても、本作を高く評価する向きは多い』

 なんとか結びついた。というわけで、久々に観ましたが、いいですねえ。本当によくできた映画です。なんか好きだなあ。
 先週は同監督の「みんな〜やってるか!」を観まして、こちらも久々に感動いたしました(ただし、感動した脳ミソの場所は全然違いますけど。あれはあれですごいよなあ)。
 で、その「みんな〜」の前作にあたるこの「ソナチネ」、世界のキタノを決定づけた、北野武監督の第4作であります。
 えっと、あっちこっち行って申し訳ありませんが、流れを確認しておきますと、「ソナチネ」の後、例のバイク事故があって幽明の境をさまよい、復帰後ビートたけし名義で「みんな〜」、そして次が私の大好きな「キッズ・リターン」になります。私にとっては、このあたり、具体的に言いますと、1993年から1996年くらいまでの彼の作品が好きですね。
 中でもこの「ソナチネ」は何度観てもなんかジ〜ンと来るものがある。私、ヤクザも血も暴力も大っきらいなんですけど、なんで、それらがこんなにも美しく切なくいとおしく感じられるんでしょうか。
 そう、私にはどう観ても小津安二郎が作ったヤクザ映画のような気がするんですよ。ものすごく静かに記号化されている。それが結局この世ではないものを作り上げているんです。現実的でない。だから苦手な暴力も普通に受け容れられる。
 そう、いつも言っていますが、記号化(コト化)の結果「モノ」が生まれる…これは天才の仕事の特質、いや条件です。普通メディアを通じて形作られた「コト」というのは、はっきりわかる、腑に落ちる、安心するものになるわけで、余計にわからなくなったりすると、ダメ出しされちゃうわけです。しかし、天才たち、たとえばこのブログで紹介した人たちで言いますと、赤塚不二夫とか丹下健三とか実相寺昭雄とか寺山修司とか出口王仁三郎とか、そういう人たちの作品は、さらに豊かな生命力を持つ「モノ」になってしまう。ふつう「情報」というのは固定されて不変な存在、つまり死んでいるんですね。養老孟司さんの言い方では「スルメ」ってこと。というか、普通はどんどん殺そうするんです、表現者は。スルメにしとかないと逃げちゃいますから。自分のものにするためにはつかまえて殺して干す必要がある。
 西洋の科学なんかはそっちに一生懸命になっちゃった。まあそれも極めればすごいスルメになるんですけどね。芸術でもバッハとかね。でも、中にはいるんですよ。特に日本人には多いんじゃないですか?自分なりのスタイル(それが全然西洋的じゃないことが多い)でものすごい「モノ」を作り上げちゃう人が。北野武(ビートたけし)もその一人です。
 「モノ」だから変化するんで(生きているんで)、時代が変ったり、場所が変ったりするだけで、さらに進化していく。そんな感じなんですよね。勝手な解釈施されたりして。たとえば、このソナチネでも有名な相撲のシーン、あそこにヨーロッパの研究者(!)は、土着的、呪術的な何かの象徴を見出してしまう。作者本人の意図しない進化をしていくんです。歴史的には浮世絵なんかもそうでしたね。
 んなわけでして、この映画は素晴らしい。ヤクザという私たちからすると「もののけ」的な輩が、実は「モノ」性の強い「子ども」であったということを、見事に語っている。まるで子どもの見る夢のように構成され展開していくシーンの連続。
 「ソナチネ」というタイトルも意味深ですね。私は大バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの「鍵盤楽器と管弦楽のためのソナチネ」を思いだしました。その作品群に多い「急−緩−急」という楽章構成が、この映画の構成と似ているのです。前古典派の特徴である早い楽章での「Strum und Drang(疾風怒涛)」の感じも、この映画の一方の基調になっている象徴的なシーンとイメージが重なるんですよね。
 やっぱり北野映画の中では、これが一番好きなのかもしれないなあ(今日はね)。

Amazon ソナチネ

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2006.12.11

人生カウンター

15456 この数字はなんでしょう?なんて言われても誰もわかりませんよね。だいたいわかったところでなんの足しにもならない。
 実はこのブログの右の下の方に、「人生カウンター」というのを設置したんです。これは単に、自分が生まれてから何日が経ったのか、が表示されるだけのしろものです。単純なJavaスクリプトです。「カウントアップ」と検索すれば、ネット上にいくらでも転がっています。で、今日で15456日経ったらしい。ほら、なんの足しにもならないでしょ。
 私なんか、今の自分の年齢を間違えていたくらいですからね、もちろん自分が生まれてから何日経ったのかなんて、ちっとも考えていませんでした。で、この前「みんなうんち」の記事を書いた時、一日一回うんちをするとして、いったい何回したんだろうということで、だいたいで計算してみたんですね。そうしたら15000回以上だということになった。
 で、この世に生まれ出て、正確には何日目なんだろう、ということが気になりましてですねえ、ちゃんと計算するのも面倒なので、ネットで探したというわけですよ。探したのが、今月の5日でした。その日で15450日だったかな。うわあ15450日かよ〜って思った。これは誕生日当日は0日と数えていますから、今日で何日目ということではなく、生まれてから何日が経過した、ということですね。まあ、年齢と同じ考え方です。つまり日齢というわけです。
 年齢というのは、自分が生まれてから地球が太陽の回りを何回回って(相対的に)同じ位置に戻ってきたかということですね。日齢は地球が何回回ったかってこと。もう15000回以上も回ってるんですね。
 本当はカウントダウンできればいいんですけど。あと何日って。でも、今の私たちには自分がいつ死ぬかわからないので、残念ながらそれはできません。もちろん、自らの意思で死ぬ日を決めることができるとも言えますが、たとえばあさって自死しようとして、明日事故死するかもしれませんしね。やっぱり無理です。ですから、カウントアップにしてみました。
 御自分の日齢を知りたいという方、あるいは生まれて10000日目、20000日目の日付を知りたいとかいう方は、こちらのサイトで簡単に知ることができます。ただしMacだとダメなようです。
 さて、一口に15000日と言いますが、これは大変なことですね。何事も三日坊主で、まあ、このブログだけはなんとか続いている珍しいことなんですけど、とにかく怠け者な私が、なんと15000日以上続けて生きている。寝たり起きたり、食べたり出したり、泣いたり笑ったり、仕事したり遊んだりして、一日も休まず生きてきた。偉い!いやいや、実は別に偉いわけじゃない。生かされてきたんです。死ぬような事故にも遭わず、死ぬような病気にもならず。素晴らしいことです。感動しますね。そういう「有難い(めったにない)」ことだと毎日意識してますか?そういう感謝と自戒のために設置してみたわけです、この人生カウンター。自分のためです。
 そして、今日という日がまた積み重なった、はたして意味のある一日だったろうか、人のためになることをしただろうか、そんなことも考えたいと思うのです。
 今日読んだ現代文の問題に、別役実さんの文章がありました。現代は「流れる」時間の呪縛が強くなっている、「積み重ねる」時間は意識しないと味わえない、というようなことが書いてありました。なるほど、そうかもしれない。このカウンターもまた、「積み重ねる」時間を体験するための、ちょっとした小道具ということになるかもしれませんね。

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2006.12.10

『ルーズベルトニ與フル書』 市丸利之助海軍少将

Iwo 昨日、「父親たちの星条旗」 に続き、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」が公開されました。いずれは私も観てみたいと思います。
 さて、それに便乗したのか、昨夜フジテレビで「戦場の郵便配達」というドラマが放映されました。ドキュメント部分はよかったんですけどね、どうもドラマは安っぽさがぬぐえませんでした。特にあのCGはやめてもらいたい。ひどすぎます。ゲームじゃないんだから。あと当時は「いおうじま」じゃなくて「いおうとう」でしょう。
 さて、昨日のドラマに登場した実在の手紙の数々。これは本当に重いものでした。軽々しいコメントは控えさせていただきます。そして、その手紙の中の一つ、市丸少将がしたためたルーズベルトへの手紙。最後にほんの少し登場しただけで、その内容にはほとんど触れていませんでしたね。いろいろと難しい問題があるのは分かりますが、もう少ししっかり紹介してほしかった。
 死を決意した市丸少将は、ルーズベルト大統領に一通の手紙を書きます。それがアメリカ軍の手に渡ったのは、日本軍玉砕後でした。累々たる死体の中で、その英訳とともに、アメリカ兵によって発見されました。それが、ルーズベルトのもとへ届いたのか、それは謎です。その内容はたしかにアメリカに打電されているのですが、その数日後にルーズベルトは亡くなっているのでした。
 そんなわけで、私自身もその内容に興味がありましたので、ネットで原文を探して、自分流に現代語訳(口語訳)してみました。原文は当時としては当然のことですが漢文訓読調です。現代の私たちには難しい漢語や言い回しが多いので、意味が変らないよう留意しながら訳してみました。基本的に直訳ですので、やや文脈のねじれているところもありますが、真意は伝わるものと思われます。
 さて、市丸少将は、高邁な理想を掲げて純粋に何かを託したのでしょうか、それとも最期まである意味で洗脳されたままだったのでしょうか。私の訳を読んで、それぞれの方が思いを巡らせていただければ、と思います。

「ルーズベルトに与うる書(ルーズベルトに与える手紙)」

 日本海軍市丸海軍少将が、手紙を「フランクリン ルーズベルト」君にしたためる。私は今、私の戦いを終わるに当たり、一言あなたに告げたいと思う。
 日本が「ペルリー」提督の下田入港を契機として、広く世界と国交を結ぶに至ってから約百年、この間日本は国の歩みが困難を極め、自ら望んだわけでもないにかかわらず、日清、日露、第一次欧州大戦、満州事変、支那事変を経て、不幸にも貴国と戦争をするに至ってしまった。このことをもって日本を見て、ある者は好戦的な国民だとし、ある者は黄色人種のもたらす災いとして非難し、ある者は軍部の勝手な判断だとする。これらは全くの考え違いだと言わなければならない。
 あなたは、真珠湾の不意打ちをもって対日戦争の唯一の宣伝資料としているようだが、日本がその自滅から逃れるため、この戦いをするほかになくなるような窮境にまで追いつめた様々な情勢に関しては、あなたが最もよく熟知しているものと考える。
 おそれ多くも日本天皇は、皇祖皇宗建国の大いなるみことのりに明らかなように、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三つの大綱とする八紘一宇の文字によって表現される皇道の大計に基づき、地球上のあらゆる人類はその分に従って、その郷土においてその命を享受させ、それをもって永久的な世界平和の確立することを唯一念願されているにほかならない。
 これはかつて、
「四方の海皆はらからと思ふ世に
    など波風の立ちさわぐらむ
(世界全て皆兄弟だと思う世に
    なぜ波風が立ち騒いでいるのだろう)」
 という明治天皇の御製(日露戦争中御製)は、あなたの叔父である「テオドル・ルーズベルト」閣下が感嘆したものであって、あなたもまた熟知している事実であるにちがいない。
 私たち日本人は、各階級があり、各種の職業に従事するとは言え、最終的にはその職業を通じて、この皇道の大計、すなわち天皇の御事業を補佐しようとすることにほかならない。私たち軍人もまた武器をもって天皇の御事業を広めさせていただいているにほかならない。
 私たちは今、物量を誇るあなた方空軍の爆撃および艦砲射撃のもと、外見上は勢いを失わざるをえない状況に至っているが、精神的にはいよいよ豊かで、気持ちはますます明朗に感じられ、歓喜しないではいられないものがある。これは天皇の御事業補佐の信念に燃える日本国民の共通の信念であるが、あなたや「チャーチル」君たちは理解に苦しむところであろう。今ここにあなた方の精神的な貧弱さを憐れみ、以下の一言をもって、少し教えたいことがある。
 あなた方のしていることを見ると、白人、特に「アングロ・サクソン」が世界の利益を独占しようとし、有色人種をその野望の前に奴隷化しようとするにほかならない。このために卑怯な方法によって有色人種をだまし、いわゆる悪意の善政をもって彼らを失意無力化させようとしている。近世に至り、日本があなた方の野望に抵抗し、有色人種、特に東洋民族をあなた方の束縛から解放しようと試みたのだが、あなた方は少しも日本の真意を理解しようと努めることなく、ひたすらあなた方にとって有害な存在として、かつての友好国を公然と仇敵野蛮人だとして、日本人種の絶滅を叫ぶに至った。これがどうして神の意志に叶うものだと言えようか。
 大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立し、それぞれの民族は私たちの善政を謳歌し、あなた方が今これを破壊することがなければ、全世界にわたる永久的な平和が訪れることは、決して遠い未来のことではない。
 あなた方はすでに充分に繁栄しているにもかかわらず、それに満足することなく、数百年のあなた方の搾取から逃れようとするこれら憐れむべき人類の希望の芽を、なんのために若葉のうちに摘み取ろうとするのだろうか。ただ東洋の物を東洋に帰すに過ぎないのではないか。あなた方はどうしてこのように貪欲でかつ狭量なのか。
 大東亜共栄圏の存在は少しもあなた方の存在を脅かさず、かえって世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものであって、日本天皇の真意が全くこれ以外のことではないということを理解する心の大きさがあることを希望してやまないものである。
 ひるがえって欧州の事情を観察しても、また相互の無理解に基づく人類闘争がいかに悲惨であるかを強く嘆かざるをえない。今「ヒットラー」総統の行動の是非について述べることは慎むが、彼の第二次欧州大戦開戦の原因が、第一次大戦終結に際し、その開戦の責任の一切を敗戦国ドイツにおしつけ、その正当な存在を極度に圧迫しようとしたあなた方の先輩の処置に対する反発にほかならなかったことを見過ごさない必要がある。
 あなた方が善戦し「ヒットラー」総統を倒すことができたとしても、どのようにして「スターリン」を首領とする「ソビエットロシヤ」と協調しようとするのか。だいたいにおいて、世界の強者の立場を独占しようとするならば、永久に闘争を繰り返すことになり、いつまでも世界人類に安寧幸福の日はないであろう。
 あなた方は今、世界制覇の野望を一応成し遂げようとしている。あなた方は得意に思うにちがいない。しかし、君の先輩「ウイルソン」大統領はその得意の絶頂において失脚した。願わくば、私の言外の意をくんで、その轍を踏むことのないように。

 市丸海軍少将


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2006.12.09

『平均率クラヴィーア曲集』(バッハ) ロバート・レヴィン

J.S.BACH : Well-Tempered Clavier/Robert Levin
A92116 アメリカの鬼才ロバート・レヴィン。鍵盤奏者として、そしてモーツァルト研究者として、とにかく今年はお忙しかったでしょう。先月には来日して様々なスケジュールをこなしたようです。浜松でのレクチャー・コンサートの様子を紹介した文章を引用しておきます。これで、彼がどういう演奏家かおわかりになるでしょう。

『中村紘子先生の「NAKAMURA」と「HAMAMATSU」の文字を、フランスのルールにしたがって音列にし、そこに会場から募集した2小節のパッセージを織り込んで、その場で素晴らしい音楽に作り上げていく即興演奏は、まさに、現代にモーツァルトがよみがえったようでした』

 そう、レヴィンさんと言えば、モーツァルトやベートーヴェンのピアノ演奏が一番有名でしょうね。現代ピアノでもフォルテピアノでも見事な音楽を作り出します。特にその場で作るカデンツァは毎度スリリングで楽しいらしい。まあ、カデンツァが楽譜になっていて、その通りに弾くという事態の方が異常なんですけどね、本当は。
 で、彼はピアノだけではなく、とにかく鍵盤楽器ならなんでも器用にこなしちゃいます。クラシック界のキース・ジャレットっていう感じかな。そのキース・ジャレットは平均率第一巻をピアノで録音しています。第二巻はチェンバロです。そのアプローチ方法はある意味逆説的でしたが、結果は楽器の種類を超えた実に見事なバッハとなっていました。さあ、レヴィンはどんな平均率を録音したのでしょうか。
A92117 レヴィンは、「クラヴィーア」の意味を単純に「鍵盤楽器」としてとらえ、当時バッハが親しんでいた4種類の楽器を使い分けています。すなわち、チェンバロ、オルガン、クラヴィコード、フォルテピアノです。このようなアプローチは以前にもありましたが、それぞれの楽器をここまでのレベルで弾きこなし、また非常に安定感のある解釈を聞かせてくれたのは、レヴィンが初めてかもしれません。
 各曲における楽器の選択は聴いてのお楽しみ。まあ予想通りが半分、予想外が半分でしたね。非常に変化に富んでいるわけでして、おかげで全曲飽きずにワクワクしながら聴かせていただきました。飽きないという意味ではこちらの平均率とともに双璧でしょうか。本当に感心するのは、テクニックはもちろん、それぞれ楽器の特性をよく考えたテンポやアーティキュレーションです。素晴らしい。また、クラヴィコードやフォルテピアノでのダイナミクスもいい。特にクラヴィコードの音量、音質コントロールは実に繊細。それこそキース・ジャレット以来でしょう。
 本当に素晴らしい演奏であり録音なのですが、どうも日本では手に入りにくいようですね。私はナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴きました。あらためてNMLはいいなあ、と思いましたよ。今日は久々に朝から晩までバッハ三昧でした。のべ12時間は聴いてたな。これだけ聴けて月1890円は安いですよね。

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2006.12.08

『ザ 力道山』 村松友視製作・高橋伴明監督作品

ぼくたちの伝説〈空手チョップ〉がやって来る!
0045a 今日は歴史的特異日。昨年はジョン・レノンにちなんだネタを書きましたが、今年はどうしようかなあ、お釈迦さんか、オニさんか…でも皆あまりにも崇高でして、こんなブログのネタにするには少し気が引けるのであります。
 で、ほんの少しだけ俗っぽく行きますかね、神は神ですけど。
 え〜と、1963年の12月8日の話です。私が母の胎内にそろそろ宿ったかな、という頃ですね。ま、とにかく私が生まれる前です。この日はプロレス界にとって大きな出来事が二つありました。一つは今でもバリバリに活躍されております元全日本プロレスの川田利明選手のご誕生。ハッピー・バースデー!敬愛するレスラーの一人であり、四天王時代からずっと感動を与え続けてくれている名選手です。ま、それはおいといて。
 さて、日本プロレス界を産み、そして育てた力道山が、ヤクザに腹を刺されたのが43年前の今日であります。その後の処置が悪く、1週間後に腹膜炎で39歳の人生を終えたのは、皆さん御存知のことでしょう。
 で、今日は力道山にちなみまして、この映画をおススメいたします。ぜひとも、DVD化していただきたい。私は23年前に映画館で観て以来、全く観ていません。CSでは何回か放送されたようですが、私のウチでは観られません。
 この映画を観た時の衝撃と感動は今でも鮮明に記憶しております。比較的地味なドキュメンタリーといった内容だったと思いますが、その後いろいろと知るにつけ、再び観たい願望が高まるばかりです。
 1983年公開の作品。製作は私の高校の先輩でもあり、最も好きな作家さんの一人でもある村松友視さん。前年に「時代屋の女房」で直木賞を獲られました。その時、ちょうど私は高校3年生でして、自分の高校の先輩であるという以前に、「私、プロレスの味方です」やら「受験の国語 学燈」に連載されていた「コブラツイスト入門」やらを通じて、勝手にプロレス仲間だと思いこんでいました。また、それ以上に、その文筆における視点や文体などに、大きく影響を受けましたね。学校の先生よりも師と呼ぶに相応しい存在だった。村松さんのことは、こちらの力道山ネタにも書いてますね。
 で、監督は高橋伴明さん。やはり前年にATGの「TATOO<刺青>あり」を撮り、評判になっておりました。高橋恵子の旦那様ですね。いろいろとお騒がせだった関根恵子さんをしっかり監督し(?)、立派な女優さんとして育てました。今では恵子さん、立派な霊能者ですし。あの団体ですから、ウチの近くにもよく来てるのかな。
 そして、音楽は山下洋輔トリオです。おそらくこれがトリオ最後の大仕事だったのではないでしょうか。同年解散しています。その音楽のイメージがですねえ、力道山の動く映像と妙にマッチしていたのを記憶しているんですよ。かっこよかった。ああもう一度聴きたいなあ。
 …と、これだけでも、もう充分観る価値ありですよね。でも、そんなことより、とにかく中身です。この映画、その当時の最高の取り組みである「ジャイアント馬場vsスタン・ハンセン」と「アントニオ猪木vsハルク・ホーガン」の映像で始まります。もうそれだけでもプロレス黄金期を象徴していますね。そして、当時私のみならず、多くのプロレス・ファンが衝撃を受け、感動したのは、やはり「力道山vs木村政彦」の動く映像でしょう。今となっては、いろいろな形で観ることができるこの歴史的対決ですが、当時はとにかく映画館に足を運ばなければ観ることができなかったわけですから。
 エリオ・グレイシーの腕を「キムラロック」でへし折った伝説を持つ柔道家木村は、力道山の突然のブチ切れ猛攻に失神KO負けを喫します。今でも語り継がれる謎多き「昭和の巌流島」。映画館で初めて観た私は、大スクリーンから伝わってくる、あの殺気立った、尋常でない緊張感に、正直びびってしまいました。ほんの数秒間の出来事だったはずなんですが、たしかに「怖さ」を感じました。今では、ビデオなどで何度も観てしまったせいか、あれほどの戦慄はありません。本当にどうしてしまったんだろう、あの時の力道山…。
 というわけで、なんとかDVD化していただきたいんですよ。なんとかなりませんかねえ。何が問題なのでしょうか。

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2006.12.07

H4(ZOOM)

モバイル・ステレオ・レコーダー (Handy Recorder)
Img10383887775 買う予定はないけれども(お金がマジでない)、今とっても欲しいもの。久々に物欲が刺激されたものがこちらです。男心をくすぐるぜ!
 もちろん私は、自分のオケやバンドのコンサートやライヴ、またその練習の録音に使いたいわけであります。あと、自然音の生録、講演などの録音なんかにも、それから単にmp3プレーヤーとしても使えますね。
 私、ZOOMさんとはもう長いつきあいです。伝説の名器、ZOOMさんの記念すべき第1号機ZOOM 9002を買ったのは1990年のことです。これは今でも現役、たまにエレクトリック・ヴァイオリンにつないで使っています。今ではこのようなデジタル・エフェクターは普通の存在となりましたが、当時はとんでもなく画期的な製品でした。その異常なほどに充実した機能の割に、たしか5万円以下のお値段でして、それこそとんでもなくコストパフォーマンスが高かったのでした(当時はね)。これでいきなりZOOMは世界の音楽市場で有名になったわけです。すごいっす。
 で、その後も比較的安く、しかしプロもうなるような性能の製品を多数開発販売し、今や不動の地位を築いております。「ZOOMの音」というのも確立してます。好き嫌いは分かれるんでしょうけどね。基本的に私はギター弾きではないので、よくわかりませんが。
 さて、そんなZOOMさんの最近のヒットがH4です。以前紹介したM-AUDIO 『Micro Track 24/96』以来、各メーカーが似たようなポータブル・デジタル・レコーダーを発売しまして、それなりに売れているようです。最近ではローランドのR-09がなかなかの良品でした。そんな中、いかにもZOOMらしいこだわり?で開発されたのが、このH4であります。
H4_02 まず、男心をくすぐるのは、このデザインでしょう。これはタダモノではない。オーディオ・マニアの方はすぐにピンと来るでしょうが、付属しているマイクがまず主張している。X/Y方式ですよ。こんなコンパクト機にこのこだわり。やるなあ。もうこのスタンガンのようなデザインにしびれちゃいます(シャレです)。
 その他様々な仕様や性能もなかなかです。4トラックモードも使えそうですし、得意のエフェクトも必要充分に搭載。楽器を直接ラインインできるというのもグー。そして、地味な、しかし重要なこだわりを見せているのが、ファンタム電源対応というところでしょう。使いたいマイクが使えます。逆にプラグインパワーマイクが使えないのも、まあこだわりですね。そんなん使うんだったら、内蔵で充分と。あと、ソフトとしてCubase LEが付いてくるのもMac使いとしてはうれしいですね。
 実物を触ってきましたが、写真で見る印象より二回りほど小さく感じられました。まあこれ以上小さくすると操作できないでしょう。そして軽い。190gです。電源も充電池でなく乾電池ですし、今のところ、私としては文句のつけようのない製品です。使った人の話では、音質もよく、特にホワイト・ノイズはR-09より目立たないということです。
 そして、こんなすごい性能・機能でありながら、3万円でおつりが来る!!ありえません!!さすがZOOM!iPod買うんだったら、断然こっちだな。
 しかし、ホントにお金がないので買えません…orz。年末ジャンボ宝くじが当たったら買いますわ。ま、300円当たっても買えませんけど(笑)。

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2006.12.06

『行動経済学 経済は「感情」で動いている』 友野典男 (光文社新書)

433403354701_aa240_sclzzzzzzz_v51945145_ 先日おススメした茂木健一郎さんの「ひらめき脳」にも紹介されていた「行動経済学」の本です。けっこうなボリュームだったので、ちょっと読みきるのに時間がかかりました。いつものとおり、他の本との並行読書ですし。
 とても面白かった。興味深いテストが多数掲載されていて、それに答えていくことによって、いかに私(たち)が感情で動いているか、いかに私(たち)が論理的でないかを確かめられます。それだけでも、とっても楽しい。決して不快ではありません。私などはそこに安心すらしました。
 お金にまつわる「経済」によらず、全ての営みである「経世済民」においても、私たちはかな〜りいい加減な決断をしながら生きております。そこだけは、私も自信があったんですね。だから、従来というか古来の経済学の基礎となっている「完全な経済人」というのに、どうも違和感があった。友野さんうまいこと言ってます。
 「経済人は感情に左右されず、もっぱら勘定で動く人々である。経済人は市場は重視するが、私情や詩情には無縁である。金銭に触れるのは好きだが、人の琴線に触れることには興味がないような人々なのだ」
 たしかに経済の教科書にはこう書いてあるけど、とりあえずオレは違うな。オレはどっちかって言うと、「感情」「私情」「詩情」「琴線」だな。みんなもそうなのか聞くのはちょっと恥ずかしいけど、いや、きっとみんなもいい加減なはずだ…なんとなく、そういう自信はあったんです。
 で、ようやくそういう人間の基本、たぶん有史以来変らない基本「いい加減」に、学問の世界が追いついたと。ダニエル・カーネマン(金人!?)がノーベル経済学賞獲ってくれて、やっと「いい加減」が学問になった!おっと、「いい加減」と呼ぶのはやめましょう。学問に失礼です。「感情」です。
 いえいえ、実はですねえ、私は「感情」という言い方にも違和感があるんですよ。「神経経済学」でシュルツの言う通り、「不確実性」そのものが脳にとっては「報酬」になりうる。それはわかります。で、ドーパミン放出に「不確実性」が演出効果として有用だというのも分かります(というか私はそう思います)。ただ、そこで働くのは、どうも日本語の「感情」ではないような気がするんですよね。
 では、何かと言いますと、やっぱり「気分」だと思うんです。「心理」でもなく「感情」でもなく、もっと「いい加減(良い加減ではないですよ)」な「気分」だと思うんです。だから、私がノーベル賞いただくとしたら、「気分経済学」でしょう(笑)。「行動」とか「神経」なんて難しいこと言わないで「気分」、これです。
 以前、こちらに「集団気分」について書きました。人は「気分」で動く。「感動」もするし「行動」もする。とりあえず私はそうです。
 で、いつも思うんですけどね、お金の流通としての「経済」って、まさにお金を流通させてなんぼの世界ですよね。簡単に言えば、購買意欲の絶対量の問題です。いかに金をかけさせるか。もし完全なる経済人が本気を出したら、今のシステムの経済はすぐに停滞しますよ。無駄な買い物しませんからね。だから、不景気は人間が賢くなっている証拠なんです。景気がよくなるとお祭り気分になってくる。で、バブルはとんまつりですね(笑)。とにかく、深く考えずにだまされて、作られた流行という神輿に乗らされたり、神輿の担ぎ役になったり、そしてみんなでワッショイワッショイ。それが、今の経済システムの風景です。
 さらにもう一歩。これもちょっと前に書いたような記憶がありますけど、政治の本質は「まつりごと」です。景気をよくするのが政治家の役目でしょ。だからお祭りの「集団気分」を醸成したら勝ちです。政治に限らず、商売人がやるべきことも、宗教家がやるべきことも、結局こうした「集団気分」の醸成なんですね。
 この本は、ここ数年の経済学の流行である「行動経済学」がいかにカッコイイか紹介したものと言えましょう。人間の愚かさが学問になるんだと。人間の愚かさは学問になるほど普遍的で再現性があるんだと。なるほど、それはカッコイイことかもしれない。私が「気分」として片付けたものを、ちゃんと論理にしてるわけですからね。うん、カッコイイかもしれない!
 しかし、そんな浮かれポンチな読者であったワタクシは、最後の最後、はっと正気に戻ったんです。これは、おそらく友野さんが私なんかよりずっとちゃんとした人だからです。さすがですね。「あとがき」にいきなりシューマッハが登場するんですよ。シューマッハは「仏教経済学」の提唱者です。知足と利他と布施の精神に則った第三の経済学。
 あとがきの寸前に、こういう一節があります。
 「自分自身の満足がまったく伴わない完全に自己犠牲的な利他行動は未だ観察されていない」
 たしかにそうなのかもしれません。しかし、それを実現しなければ、真にsustainableな世界は実現できません。もうごまかしはきかないところまで来ているのです。この悲観的な現状と未来をひっくり返すには、やはり仏陀のような、人間以外の他者に迷惑をかけない生き方を目指すような「集団気分」を醸成してくれるカリスマが現れねばなりませんね。
 繰り返し本当のことを言ってしまうとですね、現在のようなベクトルのあり方、つまり、祭方向に長ければ長い方が善ベクトルであるという、これも気分なのかな、そういう人間の性みたいなものの通りにしてしまうと、これはもう絶対バブルがはじけます。ドーパミンばっかりじゃあ、だめなんですよ。自殺行為です。
 ウォルフラム・シュルツの言うこともわかります。しかし、その反対のベクトルのあり方というのも考えねばならないでしょう。それが、「ひらめき脳」のところでも書きました「お釈迦様の教え」なんです。日本流に言えば「もののあはれ」です。足りないことに満足する。完全でないことに「オシャレ」を見つける。そんな自分がカッコイイしカワイイ。たしかに日本人は江戸時代までそういう生活もできたんです。
 なんか、長々と本書の内容に関係ない話をしてしまいましたが、こういうことを考えさせてくれる良書であったことは、最後にしっかり書いておきたいと思います。勉強になりました。

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2006.12.05

松浦亜弥 『Naked Songs』

B000j20v3a01_aa240_sclzzzzzzz_v35415064_ 昨日とは全く違う音楽のあり方。でも、私にはどちらも重要です。
 どこか昭和の香りを残した正統派アイドル松浦亜弥。私は彼女のファンというわけではありませんが、彼女の存在感には一目置いております。昨年末には個人的にMVPを送っております。あっ、そう言えばワタクシ、「LOVE涙色」をステージで踊ったこともありましたな(笑)。そんな(ってどんなや)あややのニューアルバム、iTMSで買ってみました。
 なんであえてこれを買ったかと言いますとですねえ、勉強のためなんですよ。このアルバムは今までのヒット曲のセルフカバーや洋楽のカバーなんですが、そのアレンジが基本的にバンド・サウンドになっているんですね。アイドル系(つんく系?)の派手な装飾を排して、生バンド風味にしてある。実は、私たちのような歌謡曲を生演奏するバンドにとっては、そこんところが非常に難しいところでして、悩みどころでもある。生演奏用のアレンジはひたすらレコードをコピーすればいいと言うものではない。で、そういう意味で大変勉強になるわけです。まあ教材ですね。
 ここでは、ハロプロのアレンジャーとして名高い鈴木俊介さんが編曲されています。彼はもともとバリバリのバンド・ギタリストでしたから、実はこういうバンド・サウンド得意でしょうし、やりたかったんじゃないでしょうか。結果として、かなりいい感じの演奏になってます。いや、そうとういいですよ。大人っぽいフュージョン寄り、あるいはAOR寄りの音作りになっております。なるほどこういう手があるか、というところ満載。なかなかの職人芸。
 一般のファンの方からすると、特に目新しい感じもせず、洋楽のカバーでのあややの唄(あややって歌じゃなくて、唄だよな)もなんとなくこなれていないので、だまされたような、肩透かしをくらったような感じがするかもしれません。でも、我々のような業界人(?)には、ホント面白いアルバムですよ。
 私の耳には、やはりギターが格別恰好よく聞こえますね。こりゃいい味出してるわ。ベースもかっこいい。節度あるストリングスやブラスの使い方にも好感。
 で、一般の方にはこっちが肝腎でしょう、あややの「唄」はどうだったか。これはですねえ、ちょっと微妙だったかも。いや、あいかわらず抜群の安定感ですし、正直最近の女性歌手の中では(ライヴも含めますと)一番上手いんじゃないっすか。でも、やっぱりこういうバッキングになりますとね、アイドル歌手というより完全にシンガーとして聴いてしまうわけです。当然評価基準が厳しくなります。また、ああいうふうにアイドル風に歌われちゃうとですねえ、ちょっとバンド・サウンドになじまなかったりして。彼女にはこういう機会を通じていろいろと学んでいただきたい。平成の美空ひばりを目指していただきたいのです。
 あと、つんく♂さんの作曲力を再確認しましたね。私、どうもシャ乱Q時代から彼の楽曲があんまり好きじゃなかったんですけど、今考えると、ちょっと嫉妬していたのかもしれませんね。彼はいろいろ聴いていろいろストックしているようですし、それを上手にコラージュして出してくる。桑田佳祐さんや山下達郎さんもですが、それってどっかにあるっしょ、っていう曲を作るのがうまい。でも、出所がわからなかったりする。結局オリジナルになってるんですね。そういうのって、小人からするとちょっとずるい感じがするし、正直うらやましいんですね。
 てなわけで、これは聴き込みたいアルバムですぞ。勉強になるし、だいいち楽しいっす。

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2006.12.04

キース・ジャレット 『カーネギー・ホール・コンサート』

Keith Jarrett 『The Carnegie Hall Concert』
B000h4vxge01_aa240_sclzzzzzzz_v40661871_ 難病から生還したキースのライヴ。このライヴを聴けば、キースの体調、そして精神状況はかなりよいものと確信できます。非常に充実したインプロヴィゼーション。メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユーの時とは別人のようであります。あれはあれで感動的だったのですが。
 いつものようにやや難解な音のカオスもありますが、そんな中にふと現れるキース節とでも言えそうなあの歌たち、今回の録音では特に美しく感じられます。どこか達観したというか、力が抜けたというか、病気をしたということもあるでしょう、いや単に還暦を過ぎてそれなりの境地に至っているということなのかもしれません。
 キースと言えば、禁欲的とさえ言えるような研ぎ澄まされた音世界。それは昔も今も変りません。どこかジャズというジャンルを超えてしまっていて…そこがある意味ファンを選ぶ部分でもあるんですが…、こちらにもある意味緊張と弛緩を要求してきます。それこそがキース・ジャレットという音楽ジャンルそのものなのでしょう。ちょうどバッハがバッハという孤高のジャンルであるように。
 今回のアルバム、いや、コンサートには、通して聴くことによって初めてわかるものがあるような気がします。それぞれの曲がそれぞれ単独で存在するのではなく、まるでこの世を象徴するかのようにつながっている。縁起している。それはどこか長大な物語であるようであり、また教会の天井に展開される宗教画のようでもあります。
 そして、一つ一つのピースをつなぐのは、観客の拍手であり、歓声であり、嘆息であるのです。この録音では、曲間の拍手が3分近く続くものもあります。それはとてもカットできるようなものではありません。その拍手の渦自体が一つの作品のようであり、次のピースを生み出す原動力になっているのです。ここは単なる音楽の披露の場ではない。一見クラシックのコンサートのように感じられるかもしれませんが、それとは何かが本質的に違う。やはり、これはジャズなのか?
 うまく表現できませんが、月並みな言い方をしてしまうと、次に何が来るのかという期待と不安、でしょうか。即興ならではの緊張であり、興奮であると思います。そうしたオーディエンスたちの心のエネルギーの束のようなものが、キースに集中しているのが、録音からもよくわかります。それを糧にしてキースは生み出す。
 音楽の本来のあり方を示されたような気さえします。おおげさでなく、こういう瞬間があるということを幸福に感じます。
 この日、キースが投げ返してきた音楽は、次第次第に落ち着き、そして観客にしみわたっていきます。何かの粒子のようなものが空中にあって、普段はてんでに動き回っている。それがキースの音楽によって鎮められていくのが見えるようです。やはりこれはスピリチュアルなレベルでの出来事だ。
 1枚目から順に聴いていくべきです。最初は多少退屈に感じるかもしれない。しかし、最後の名前を持った(懐かしい)5曲…これはアンコールなのでしょうか…に至った時には、私たちの心の粒子もすっかり鎮められて、そしてそれらが涙として結晶していくことに気づくことでしょう。
 1枚目が30分そこそこで終わり、2枚目は延々と80分近く続きます。このアンバランスな編集の意味も自ずと解ります。
 ケルン・コンサートとは、全く違った意味ではありますが、ケルン・コンサートと同じくらい大変なことをキースは成し遂げました。
 追伸 Part VIIはLet It Beですね。あらためてLet It Beってゴスペル・ライクな曲なんだなあと思いました。

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The Carnegie Hall Concert(輸入盤)

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2006.12.03

「寄り目」萌え(?)

 今日は日曜日ということで、くっだらない脱力ネタ行ってみましょう!!いや意外に深いかも…。
Sae まず、きっかけから。え〜、昨日のニュースの中に『NHK史上最強の“おじさんキラー”半井小絵が紅白で天気予報』というのがありました。私は全然サエたんに反応しないおじさんなのですが、どういうわけかウチのカミさんは昔から反応しておりました。なんでも、この人の胸はかなり大きいらしい。カミさんはよく「こういう服を着ていてこのボリューム感だということはそうとうの巨乳だ」と言っておりました。私はへえ〜そうなの?という感じで、「どっちかっていうと寄り目萌えじゃないの?」と冷静に分析してたんです。
Mao はい、次。これも昨日のニュース。浅田真央ちゃん、NHK杯での優勝見事でしたね。素晴らしい演技でした。で、彼女の可愛らしさの一つの要素に、やはり「より目ちゃん」というのがあると思います。たとえばお姉さんと比較しますと(私はお姉さんの方がなんとなく好きですが)よくわかります。姉妹ですからパーツ的にはよく似ているのですが、ここがどうもポイントらしい…と分析しました。
 で、こういう「寄り目萌え」みたいなのがあるのかな、と考えてみました。カミさんとそういう属性を持った芸能人を挙げてみたんですね。そしたら、とりあえずこういう人々が思い出された。
 え〜、元モー娘。の矢口真里さん。それから最近ではこりん星人小倉優子ちゃん。米倉涼子さんもかな。で、米倉涼子さんと言えば、レミオロメンの神宮司治くん(笑)。彼も寄り目萌え系だな。
MariYuuko
Ryouko_1Osamu
 たぶん、まだまだ出てくるんでしょう。私はどうも芸能界に疎いのでこのくらいが限度です。
 さて、ではこの「寄り目」という萌え属性は、いったい何なんでしょう。どういうワケでより目ちゃんに萌えるんでしょう。これって、やっぱり(変な意味じゃなくて)「ロリ」の属性なんじゃないでしょうかね。「幼さ」「純粋さ」「弱さ」「はかなさ」の記号のような気がします。
 では、なんでそういうことになるのか、私なりに分析してみますとですねえ、どうもこれは「赤ちゃんの視線」らしい。母親の胸に抱かれた赤ちゃんは、一生懸命母親の目を見つめます。当然、母親と赤ちゃんの距離はとっても近い。すると、自然と赤ちゃんは寄り目がちになるんですね。それなんじゃないでしょうかね。
 あと、単純にどんな動物でも子どもはサイズが小さいですから、自然と両目の距離は近くなる。人間以外の動物は黒目の部分の面積が大きいので、結局黒い2点の距離が、その年齢を表す記号になっているのではないでしょうか。それを人間にもあてはめると、寄り目系の人は実年齢よりも記号的に幼く見えると。まあある意味ギャップ萌えとも言えましょう。
Lum1 で、私は特にそういうものに反応しないのかな、と自問してみましたら、それなりに萌えるようです。それはこれです。ラムちゃんですね。うる星やつらのラムちゃんです。やっぱり「幼さ」「純粋さ」ですね。ある意味「弱さ」「はかなさ」も感じさせる。そういうところもラムちゃんの魅力であります。ネット上にころがっているラムちゃんの画像は、比較的より目なのが少ないのですが、実際の作品の中では非常により目がちでしたね。原作でもそうです。
Lum2 ああ、そうだ、このビューティフル・ドリーマーでの少女ラムなんか典型的なより目ちゃんですね。これなんか、見事に記号化されてます。それまでのカオスでドリーミーなストーリーが、ここでこの目にストンと落ちる。観る人をひきつけて、吸い込みつづけるまなざし。歴史に残る名「寄り目」ですね(ってなんなんだ?)。
 あと、ワタクシ的萌えとしてはですねえ、これなんかどうですか。歌舞伎の「にらみ」ですね。写楽と海老蔵さんを並べときます。今思うと米倉涼子さんと市川海老蔵さんのにらみ合いなんてのも面白かったかもしれませんね(笑)。
SyarakuEbizo

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2006.12.02

『日本語の歴史』 山口仲美 (岩波新書)

400431018001_aa240_sclzzzzzzz_v50745625_ 昨日書いた「漢字」と「ひらがな」のせめぎあい、面白かったですね。あの番組でも参考文献とされていたこの本を読んでみました。
 この本は一般の人向けに書かれた「国語史概説」であります。私、いちおうこんなようなことを大学で勉強したんですけどね、ずいぶんと忘れていたんでびっくり。今の私にはこのくらいがちょうどよかった。かなりネタを厳選、また表現も平易ですが、どうなんでしょう、一般の方にはまだまだマニアックに感じられるんじゃないでしょうか。難しいですね、本来学術的なことを易しく優しく書くというのは。このブログのような平成軽薄体(?)では、なんとなく信憑性に欠けますしね。
 さてさて、この本の大きな流れは、「話し言葉」と「書き言葉」のせめぎあいによるダイナミズムで出来ています。結果として、その語り方は大成功だったと言えましょう。あまりにも混沌としている日本語の歴史を、シロウトにも分かりやすいように見せるには、こういうやり方しかありませんね。私が語り手だったら、きっと氾濫した流れの中で人も巻き込みつつ溺れてたところですよ。うん、「話し言葉」と「書き言葉」のせめぎあいという視点が、実によかった。秀逸です。気づきそうで気づかない。
 さて、この本で改めて日本語の歴史を振り返ってみたわけですけれど、やはり私がひっかかるのは、その流れの上流の方ですね。だいたいが、日本固有の文字がなかったというところからして、どうもしっくり来ないんですよ。あっそうそう、私はそういう立場の人ですからね、引いちゃわないでくださいよ。トンデモをトンデモで片付けられないタチだもので。
 筆者も(なんとなく山口さんって呼びにくいな)、「日本固有の文字はなかった」としています。学者さんとしても、大学で教鞭をとられている先生としても、当然の発言です。私は学者じゃありませんし、いちおう先生ですけど、高校の先生なので、たぶんトンデモなことを言っても許されるでしょう。
 私は平田篤胤さんの説に賛成しま〜す!つまり、神代文字の存在を肯定しま〜す!ああ、言っちゃった。
 まず現代人の実感として、文字がない生活というのが想像できないんですね。まったく学術的ではありません(笑)。人間の「コト化」の願望というのは、おそらく古今東西変らないものだと思います。つまり、情報を固定したいという欲望です。もちろん、縄文人が、世界で最もそういうことに疎いというか興味を抱かないキャラの持ち主であったことは認めます。しかし、日本にはいろいろな方角からいろいろな渡来人がやってきています。そのうちの一人くらい「コト化」しちゃった人がいるでしょう、いくらなんでも。ま、そんな予感です。全然学術的じゃない。
 で、トンデモ、イロモノ、ハッタリ含めた「神代文字総覧」なるものを持っておりまして、可能な限り実物を見て回ったりしたわけです。たとえばここ富士北麓にも複数の神代文字らしきものが伝えられています。
 こんなこと言ったり書いたりすると、必ず顰蹙を買いますし、顰蹙を買うだけならともかくも、原理主義者に攻撃されることさえある。たとえば「上代特殊仮名遣い」という兵器でね。上代には日本語の母音は8種類あったのに、神代文字は大概5母音しかないじゃねえか〜(怒)ってやつですね。そう、この「上代〜」についても、当然「日本語の歴史」で解説されています。筆者は原理主義者ではないので、この「上代〜」が、以前は定説であったのに最近その立場が揺らいでいる、ということをほのめかしています。
 このことを書き出すとキリがない上、さらに危険なため(笑)、このくらいにしておきます。近い内に面白い資料を提示できるかもしれません。いずれにせよ、古事記、日本書紀、万葉集という、ごく限定的な地域において限定的な事情で書かれた資料の中の、これまたごく限定的な数の「証拠」によって、広い(特に当時は情報網的に考えてもかなり広かったでしょう)日本の全ての地域に「文字はなかった」とするのは、ちょっと乱暴だと思いませんか。どうなんでしょう、たとえばこの本を読んだ方は、みなさん「ああ、日本には字がなかったのね」って納得しちゃうんでしょうか。私が変なんでしょうかねえ。
 おっと、話が上流も上流、水源の方で淀んじゃってますね。すみません。どうもそういう趣味なようでして。資料がなければないほど萌える、いや燃えるタチなんですね。
 この本では、今の話は最初の40ページくらいで終わってますからね。もちろん、その後の二つの流れのせめぎあいや、途中流れ込む外からの流れなどもたくさん紹介されています。全体として、非常にダイナミックなものを感じることができるでしょう。言葉はやはり生きているんだなと。
 そして、私がなんとなく嬉しかったのは、筆者が、漢語やカタカナ語、その他現代日本語のありようについて、非常に冷静な姿勢を保ってくれていることです。誰かさんたちのように、こっけいなまでに「日本語の乱れ」を嘆いたりしません。そして、「現代人は、『源氏物語』のような傑作を生み出せる可能性を手に入れているということです」とまで言ってくれているのです。なぜそのように言えるのかを知るだけでも、この本を読む価値はあると思います。
 最後に。このブログの文体って、まさに「話し言葉」と「書き言葉」の融合、一致でしょ?そう、いつかも書きましたが、これは私が勝手に「講演起こし体」と呼んでいる文体です。私は読み手としてこの文体が好きなので、自分もやってみているというわけです、ハイ。
 
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2006.12.01

『その時歴史が動いた〜ひらがな革命』 (NHK)

〜国風文化を生んだ古今和歌集〜
Tokihira 「その時歴史が動いた」と言えば昨年の「その時歴史が動いた」が動いた!ですね。面白かった。あの時放送されるはずだった山本五十六さんの決断が再来週再放送されます。評判良かったらしい。それをああいうふうに動かしちゃうんだからなあ(笑)。
 さて、おとといの「その時」です。録画しておいたのを今日観ました。
 あ〜あ〜、こんなふうに描かれちゃって、藤原時平さんもとんだ迷惑ですね。上は豊国による画です。歌舞伎『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』では、典型的な公家悪として扱われ、なぜか「ふじわらのしへい」と呼ばれております。公家荒れの隈取りにしっかり王子の鬘をかぶらされ、アニメの悪役よろしく見事にキャラクター化されてますね。
 純真無垢な努力家菅原道真を陥れた極悪者としてのイメージがこうして定着してしまった時平さんの、ちょっとした名誉回復の助けになったと思われるのが、おととい放送された「その時歴史が動いた〜ひらがな革命
〜国風文化を生んだ古今和歌集〜」でありました。いろんな意味で興味深い内容でしたね。
 この前のバタじゃがの記事に無理やり?登場させられた醍醐天皇の勅命による「古今和歌集」。その有名な紀貫之による仮名序についてはこちらで新解釈をほどこしましたが、真名序というのもあるんですね。漢文で書かれている。仮名序と真名序。その現在における注目度の差、つまり仮名序ばかりが有名で、真名序なんて教科書に載るはずもない、という事実。
 番組でも紹介されていた通り、「その時」までは公式文書は漢文で書くべきものだったんですね。それが、「その時」から単なる女手だった「仮名」が勢力を強めていくわけです。それは、中国の律令制を模していた政治システムの転換をも象徴します。なにしろ勅命で平仮名の歌集を作れというわけですからね、今で言えば、そうだなあ、今年の歌会始からは、作品はワープロで打つか、あるいはギャル文字で書きなさい、と今上天皇から勅命が下るようなものです(…んなわけないか)。
 そんな中、頑固オヤジの、いや古い伝統の代表格とされたのが菅原道真であり、ギャルの、いや新しい潮流の代表格とされたのが藤原時平であったというわけです。で、「その時」は、道真が左遷されたこと、また中国の呪縛から解き放たれた国風文化が発達するのを見てもわかるとおり、時平さんの勝ちだったわけですね。しかし、勧善懲悪を好み、判官贔屓の激しい江戸の町人文化では、時平さんはすっかり悪者に仕立て上げられてしまう。実直で地味なオジサン道真を、ボンボンで派手な若者時平が陥れたと。
 番組では、そんな時平のいわれなき汚名を払拭すべく、美談が語られていました。政治的基本路線は道真を継いだとか、官位を望まなかったとか、今では「漢字仮名交じり文」が一般的になった、つまり、道真と時平は永遠に手に手を携えることになったとか…。
 こうした美談はまた、江戸の語り口のカウンターみたいなものでして、あんまり鵜呑みにしちゃあいけませんが、まあ、けっこう事実に近いのかな、と思いました。たしかに時平の存在がなければ、律令制からの脱皮や国風文化の成立は遅れ、結果として、国政は不安定さを増したかもしれませんし、その後の仮名文化、すなわち、和歌の文化、たとえば源氏物語なども生まれなかったのかもしれません。
 そう考えますと、歌舞伎での「しへい」のあり方というのもまた、必要悪の記号化ということで許されるのかもしれません。本人も実は納得しているとか。時代を動かす人は、いつの世でも毀誉褒貶にまみれるものです。

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