『三島由紀夫と「葉隠」』 北影雄幸 (彩雲出版)
剣道部の顧問の先生よりお借りして読んでみました。
私も世間の御多分にもれず、山本常朝の「葉隠」と言えば「武士道というは死ぬ事と見付たり」だと思っていた一人でありまして、やはり前の戦争に対する違和感から、勝手にけしからん本の一つに認定していたんですね。どうもそうじゃないらしいということは、最近気づき始めていたんですが、なかなか原文にあたる機会はなく、そのまま来てしまっていました。今回、原文ではありませんが、この本によって多少その神髄がわかったような気がします。
まず、三島の「葉隠入門」が、どちらかというと私と同じような勘違いから脱していないということに驚きました。この本では、いかに「葉隠」が三島文学の基礎になっているかが語られているんですけど、だからこそ三島分かってなかったんじゃないのか、ってことに気づくわけです。
「卑怯」を憎む武士道精神が、それを忘れてしまった現代でも実は有用なのではないか、と考えて書かれた「葉隠入門」。たしかにそういう時代だったんでしょうが、やっぱりそこに執着しすぎたような気がします。で、結局、三島の自決はあんまりかっこよくなかった。それが全てを物語っています。
「葉隠」に最も多く登場するメッセージは、実は「武士道というは死ぬ事と見付たり」ではないんですね。「忍ぶ恋」なんです。これは意外でした。永遠の片思いこそ最高の美学であるといわんばかりです。そして、悶々として悶え死ぬのが一番いいとまで言い出す始末です。
へえ〜、なんか武士道とはかけ離れた哲学だなあ。いや、男女の愛とその成就は「生」を産み出すので、それは「死」と対極にあるわけか。だから忍べと。なるほど、そういうことかなあ。でも、なんか変だよな。
と、いろいろ考えつつ読み進んでいくと、今度は「衆道」のことが出てくる。男同士ですね。この前、クマテリのところに書きましたが、現実の中で自己の欲望の実現が阻まれる武士や坊主は、そっちに走る。かの戦争の時、若者たちはこの「葉隠」を愛読書としたそうです。こりゃあたしかに軍隊でも同性愛が増殖するわ。うん、そういう意味でも従軍慰安婦とかは卑怯だな。
と、さらにいろいろ考えていたんですが、ある瞬間にあるアイデアが浮かびました。それが妙に納得できた。つまりこういうことです。
武士道における主従関係って、普通は男と男の関係ですよね。で、山本常朝はその関係の理想像を追究しようとした。すると、そこにはどうしても死を賭する愛が必要になった。それは「生」を産み出す男女の愛ではなく、ある意味なんの生産性もないものです。ですから結局は「死」しかない。しかし、そこに意味を見出すためには、積極的に「死」をとらえなおさなければならない。その時の方便が「忍ぶ恋」だったのではないか。つまり、主に対する「忍ぶ恋」です。好きで好きで仕方ない。でも、そんなことを伝える立場にない。素振りや表情で相手に負担を与えるわけにもいかない。だから、もう悶え死ぬしかないんです。その形が、まことの奉公と、そのゴールにある「死」だったのでは。
こう考えると、「葉隠」の多様性は決して不自然なものではないことになります。私はこんなふうに思ったんです。でも、これは単なる思いつきであって、なにしろ本文すら読んでいないわけですからね、単なるオタクの寝言みたいなもんでしょうけど、まあワタクシ流の「武士道」解釈への動機ぐらいにはなるでしょう。
えっと、そうすると、三島はどうだったんだ?ちょっと考え直してみましょう。たしかに衆道に走ってたような…。でも、あんまり忍んでないかも…。あっ、やっぱり分かってないや(笑)。
とにかく近いうちにちゃんと「葉隠」読んでみます。続きはまたその時。
Amazon 三島由紀夫と『葉隠』
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