『みんなうんち』 五味太郎 (福音館書店)
まずは、歌謡曲バンドの甲府ライヴ、ご来場くださった方々に感謝申し上げます。このバンドのライヴも5回目となり、それなりにこなれてまいりました。実は、全7名で演奏するのは今回が初めてだったんですよね。ダブル・キーボードはぜいたくです!(それもプロお二人ですからね)。しかし、楽しいなあ。
で、こっちは「いったい何回目だろう」のお話…。
この本、人類のバイブル、いや、宇宙の、生命のバイブルかもしれません。
「みんなうんち」…この言葉にこめられたメッセージはあまりに広く深い。
このバイブルを残したお方は、あの五味太郎様であります。神です(笑)。しかし、古今東西のいかなる神もおっしゃらなかった、いや、おっしゃれなかったマコト、「みんなうんち」。これでしょう、究極は。
表面上は絵本です。ですから、まあ「みんなうんち(をするんだ)」ということで、子どもは納得し、あるいは喜び、あるいは安心する。うんちが決して自分だけが排出する廃棄物でなく、また、うんちをするという行為も、自分だけに与えられた試練ではない。
ちょっと前にこの記事で、排泄物に関する独特の表現法について書きました(ってほど書いてませんが)。排泄という行為は、能動のような受動のような、非常に微妙な行為であります。コントロールできるようなできないような。つまり、いつもの言い方に従いますと、「コト」であるような「モノ」であるような、ということです。自分の内部のような外部のような。鼻血や鼻水のように止まるのが望ましいわけでもない。涙のように外部からの刺激(情報)によって他律的になるわけでもない(まあ、本屋に行くと便意を催す、というようなケースもありますが)。
だいたい、我々は一生のうちに何度排泄するのだろう。単純に1日1回と計算しても、私などすでに1万5000回以上している。そんなヘビー・ローテーションはそうそうあるものではありません。睡眠や食事は本能ですから、基本的に不快感は伴いません。しかし、排泄はちょっと違う。まあ、快感と言えなくもない場合もありますが、排泄という行為自体は、なければない方がよくありませんか?どうも回数のわりにこなれない。そういう自分の思い通りにならない「モノ」と生きている限りつきあって行かなくてはならないわけです。
だから、無視できない存在だし、どこか祈りに似た行為ともなります。私なぞも、朝必ず大を拝さないと、いや、排さないと気持ちが悪い。もうほとんど朝課となっております。こんなふうに、大人にとっても、実に不可思議かつ神聖なる「うんち」。いや、大人は「うんこ」か?その辺の音のクオリアについても論じたいところですが、今日はやめときます。また、民俗学的にもいろいろとありますが、それも他所に譲りますね。とにかく、「うんち」自体が神性を帯びているというわけです。
その「うんち」を正面から、いや、横からも後からもとらえ、そうした神性をあますところなく描ききったのが、この「みんなうんち」であります。
「おおきい ぞうは おおきい うんち ちいさい ねずみは ちいさい うんち」に始まり、そして、最後は「いきものは たべるから みんな うんちをするんだね」という境地に達します。これだけでも正直感動的です。子どもたちは、「たべる」ことと「うんち」の関係を直感するでしょうし、また、場合によっては「たべる」ことができるから、毎日「うんち」が出るのだ、ということに気づくかもしれません。そして、いろんな「うんち」があるということは、もしかして動物によって「たべる」ものが違うのかも、ということにも思い至るかもしれない。もちろん、自分と世界中の人間、獣や鳥や虫が「うんち」でつながっているということも知るでしょう。あるいは、親は「うんち」が肥料となって新しい「たべる」ものを産み出すということを伝えるかもしれません。あるいは、あの美しい女優さんや、かわいいアイドルたちも「うんち」するんだという、ある種のタブー領域に妄想を広げるやも…。
そして、さらに一歩進んで、いや、一歩後戻りしてみると、また新しい意味が読み取れるのであります。つまり、「みんなうんちをするんだね」から「みんなうんち…」に立ち返ってみるんです。すると、例えば「俺たちなんか、みんなうんちみたいなもんだぜ!」という存在論的諦観(?)や、「みんなうんちしてるか〜い」という扇動的共同体意識(?)や、「みんなうんちしてるのか?」という懐疑論的孤独感(?)の表明にもなりうるわけです。
私はこんなことを思いました。前から思っていたことなんですが…人それぞれ「うんち」の臭いって違いますよね。同じものを食べているはずの家族でもかなり違う。おそらく、腸内細菌の種類やその割合などによって、その違いが生じるのだと思うんですが、不思議とですねえ、それらが多量に集められると、ある一つの臭いに収斂されていくんですよ。私が知るかぎり、どこの土地でも衛生車(真空車)の香りは同じなんですよねえ。つまり、大量の種類の「うんち」がブレンドされると、一つの何かになる。たぶん、外国に行っても同じなんじゃないか。これをずっと不思議に思っていたんです。
でも、私、五味太郎さんのおかげで、なんかすっきりしました。それこそスッキリ。そうか、「みんなうんち」でつながっているんだ、人なんて、肌の色も宗教も言葉も食べ物も違うけど、それらがたくさん集まれば、結局一つの「うんち」の臭いになる。ちょっとした違いなんて、うんちの普遍性の中では、なんの意味もない。合言葉は「みんなうんち」!
こんなことを悟ったら、なんか万感「腹」に迫ってきたぞ(笑)。ちょっとトイレに行ってきます。ああ、人生何度目の「うんち」との出会いと別れなのだろうか…by 蘊恥庵(うんちあん)庵主
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コメント
こんにちは。
なんか、ほぐれる内容に、ついコメントしたくなりました。「みんな うんち」→「みんな いっしょ」なのかなぁ。単純なモノ、コトほど深いのでしょうかね?
投稿: まっこ | 2006.11.27 16:20
まっこさん、どうもです。
案外身の周りに、あるいは自分にも「モノ」は棲んでいるのでした。
灯台下暗し。日常のルーティンワークを見直すだけでも、けっこう楽しいっすね。
では、また。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2006.11.27 18:44