『ひらめき脳』 茂木健一郎 (新潮新書)
この本は以前一度読んでいるのですが、ちょっと「ひらめき」があったので再読。
まず最初に申しておきますが、こうした「ひらめき」こそ、茂木さんの語る「アハ!体験」であり、ドーパミン出まくりの快感であり、人生を充実させる重要なファクターである、ということに異論は全くありません。私も少なからずそういう快感を味わってまいりましたので、実感としても茂木さんのおっしゃることにいちいち納得できます。
しかし、今日の「ひらめき」は厄介なんですよ。快感とは言いきれないのです。で、ちょっと考えてみました。そしたら芋づる式にひらめいた。で、やっぱり芋づる式に苦しい。
まず、芋づるの先っぽ、最初の「ひらめき」は、「アハ(Aha)!」って「あはれ」じゃん、ってこと。これはシャレではなくて、まあ世界中の感嘆詞なんて同じようなものだということです。決してトンデモな考えではありませんよ。
で、このブログでは何度も書いていますが、古語の「あはれ(なり)」は、いい意味と悪い意味の両方を包含しているんですね。のちにそれらが「あっぱれ」と「あわれ」という対照的な現代語につながっていく。
辞書を引くと「しみじみと心を動かされる」なんていういいかげんな訳が最初に出てきますし、受験生はそうやって覚えているものですが、そんなんじゃない。意外性に喜んだり、悲しんだりするというニュアンスなんですよ。私の説ではね。
これもいつも言ってますが、「もの」というのは、自分の思い通りにならない無常な存在、自分の意識とは無関係に存在する外部を表します。反対に思い通りになり、意識の中に存在するのが「こと」ですね。私の説では。だから、「もののあはれ」とは、まさに不確実性、偶有性に対する感嘆であるわけです。
そうしますとですねえ、茂木さんの「アハ!」は快感を誘発する方に限定して説明されていますから、つまり「あっぱれ」の方、「あはれ」のプラス面だけが取り上げられているということになりますよね。それで片手落ちだと糾弾するつもりは毛頭ありませんよ。ただ、私の中では、マイナスの方も考えたいという欲求があるんです。
たとえば、負のセレンディピティーというのもあると思うんです。何かを探そうとしていて、別の何かをなくすということもありますでしょうし、何かを避けようとして何か別の悪いことに遭遇する場合もある。そういう時にもやはり「アハ!」「Aha!」「ああ…」「あはれ…」と言い、「哀れ」な気持ちになるわけですね。それとどうつきあっていくか。プラスの「アハ!」体験をしましょう!と言ってばかりで、はたして人生楽しくなるんだろうか…。
こんな余計なこと考えちゃう私も、そうとう「あわれ」な人間ですな。でも仕方ない。
で、あわれついでに、もうちょっと自虐的になってみましょう。「アハ!」に伴うドーパミンの放出は、これは人間に仕組まれた本来的な機能のようです。つまり、本能に近い。そして、ワタクシ流に申しますと、この「アハ!体験」すなわち、「エウレカ!」「腑に落ちた!」「わかった!」という体験たちは、そのまま「コト化」に伴う快感なんですね。なんだかわからない、もやもやした、もどかしい「モノ」が、何かのきっかけによって、意識の中のある場所に収納され、自己の虜となる、随意な存在となる、つまり「コト」になった時に、ドーパミンが出ると。
そうしますとですねえ、最近「コト化」つまり「近代化」「科学化」「都市化」「脳化」「言語化」を嫌っているワタクシとしましては、自己矛盾に陥ってしまうわけですよ。今だって、こうしてひらめいて、「モノ」を「コト」にして悦に入っているわけでして、しかし、それがいったいどういう意味があるのか。もっと言えば、みんな「アハ!」体験をしたところで、世界がどうなるのか。それが本当に総「コト化」だったら、ちっとも世界のため、宇宙のためになってないじゃないか、ということになる。人間のためにすらなってないようにも思えてくる。自分のためだけなんじゃないか。だって、ノーベル賞とった研究って、本当にこの世のためになってますか?それが苦しいんですよ。ふぅ。
さてさて、そんなこんなの苦しい芋づるを絶ちきってくれるのが、やっぱりお釈迦様なんですね。彼は王子として、また苦行者として、「コト化」を極めた上で、ある悟りを得ます。ドーパミンじゃだめだって。物質的満足や性的満足でもドーパミンは出ますが、苦痛を味わっている時もやはりドーパミンが対症的に出るんですね。そう、「悟り」とは「ひらめき」ではないんです。諦念なんです。ドーパミンよりはセロトニンなのかな?よくわかりませんが。
ドーパミンに快感を感じるのは、たぶん人間の初期設定です。で、ほとんどの人間はデフォルトのまま一生やっていくわけですね。そうすると、他の生物やら物質やらは迷惑するわけです。そこに気づいて、デフォルト設定(本能)と闘うことを考えたのがゴータマ・シッダールタさんであったと。
彼は、いたずらに「コト化」して満足するんでなく、「モノ」の本来の性質(無常、不随意、混沌)をそのまま受け容れようとした。平常心で引き受けてしまった。だから、すごい人なんです。本当の智慧ある人なんです。
日本にも紆余曲折を経て、お釈迦様の考え方が入ってきた。それで「もののあはれ」なんていう言い方も生まれた。しかし、仏教大嫌いな本居宣長センセーは、そういう本質にあえて目をつぶって分かったような分からないような「コト」を述べて悦に入ってしまった。私は、本居さんのそういうところがあまり好きになれないし、信用できないんですよ。お〜、すげ〜、宣長さんを敵に回してるぞ。ついでに茂木さんも。
まあ、私のような卑小なモノノケがいくら叫んでも、「蛙の面に小便」でしょうな。でも、そんな楠木正成みたいなゲリラ攻撃も、実はちょっとかっこよかったりして(笑)。今日はこのへんで。
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コメント
こんにちは
ムズカシイです。「あはれ」にあてはまるかお聞きしたいのですが、レッチリの「STADIUM ARCADIUM」で歌われていることは、彼女に対しての彼の心情でそれをどう解釈したらよいものか?哀れ、同情、切ない、、、
「切ない」も似てますか?
投稿: まっこ | 2006.12.04 13:18
まっこさん、非常にいい質問です。
そして非常に難しい質問です(笑)。
残念ながらレッチリの最新アルバムは聴いておりませんが、
歌詞を拝見する限り、最近の彼らはかなり大人になりましたね。
私より年上ですからね、たしか。
で、基本は「切ない」でいいと思うんですけど、肝腎な違いはですねえ、
向こうの人にとっては、「切ない」「不随意」というのはマイナス感情でしかないんですね。
ですから、この曲も結局は嘆きでしかないような気がします。
それが悪いとかではなくて、だからこそロックになるんだと思います。
「切ない」という日本語については、エッセイ「大切」に書きました(吉井和哉「39108」の記事参照)。
大切なものに対する感情なんですけど、それが失われることに対して、西洋の方々は基本的にマイナスとしかとらえないようです。
無力感であり、哀しみであり、嘆きである。
せいぜい、Oh my God!と言って天を仰ぐ。
それに対して、日本人は「美学」を見出すんですね。
ちょっとプラスなんです。「美しい」と思うんですね。
なんかマゾっぽいですけど、切なさがちょっとおしゃれであり、そんな自分に酔ったりするわけです。
それが「もののあはれを知る」ということだと、私は考えています。
和歌で歌われた世界ですね。
それを、日本のロッカーたちはひきついでいます。
吉井さんしかり、レミオロメンしかり、バンプしかり…。
だから私は演歌ロックって言うんです。
「やるせない」は演歌ですよ。
ただ、レッチリなんか、そういう「切なさ」を叫んで昇華しちゃってますからね、
もしかすると、「もののあはれ」の境地に近づいてるかもしれませんね。
ちょっとそんな気もしてきました。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2006.12.04 14:31
いやはや、感激です。わかる人がいて。なんか大げさですね。
実は、そうなんです、ここにたどりついたのも、そうなんですが、繋がってるんですね。庵主さんのコメントの中には、私の中の気になるキーワードがいろいろとありまして。あと、「大切」のエッセイはまだ読んでいません(読みたいのに、かってがわかず、、、)
そこから、ここへ。
「昇華」したら次はどこへ向かうんでしょう。日本人でよかったと思えます。先日の「夕日が丘3丁目」も心にくる映画でした。
投稿: まっこ | 2006.12.04 15:35
エッセイはここを押して下さい。大切
三丁目の夕日は私もぼろ泣きでしたよ。
まあ、自分の原風景っていう郷愁もありましたが。
日本人っていいですよね。つくづくそう思います。
思い通りにならないことを、なんであれプラスにとらえるというのが、
結局平和や幸福につながると思うんです。
不満に思うから、人のせいにしたり、嫉妬したりして不幸になるんですよね、きっと。
ホント、不思議な御縁だと思います。
これからもどしどし質問してください。
私も考えるのを楽しみにしてますから。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2006.12.04 15:43