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2006.11.30

追悼(ショック!)実相寺昭雄さん

Jissouji ああ、とうとうこの日が来てしまいました。敬愛する実相寺昭雄さんが昨夜お亡くなりになられました。69歳。若すぎます!
 思えばウルトラQを観ていたころからですから、もうかれこれ40年も憧れの存在であったわけですね、私にとって。いや、ウルトラQの実相寺脚本は全部ボツだったような。たしかそう。いずれにせよ、ウルトラマン、ウルトラセブン世代としてもですねえ、特に印象に残っている作品と言えば、まっさきに実相寺さんのあれとかあれとかあれとかが思い出されます。子供心にも、そして大人心にも、しっかりと刻まれる作品を残される作家さんでした。ああ、もう彼の新作が観られないのか…残念すぎます。
 昨年の今ごろでしたね、久々にウルトラマンシリーズを撮られたのは。私もこちらこちらに記事を書きました。まるで子どものように喜んでいる自分がそこにいるではないですか。私の実相寺さんへの想いはそこに全て書き込まれています。ですから、ここでは繰り返しません。
 御自分のスタイルというものを完全に持ち、どんなモチーフであろうと「実相寺カラー」に染めてしまう。その技法は対照的ですが、ある意味小津安二郎に似ているのかもしれない。小津が豆腐屋なら実相寺は…なんだろう、高級駄菓子屋ってところでしょうかね(?)。小津のパロディーはこちらこちらのようにいくらでもできそうです。では、実相寺のパロディーはどうなんでしょう。影響を受けた後輩クリエーターたちはたくさんいますが、ただマネをしてもパロディーにさえなりにくいのではないでしょうか。あそこまで徹底してデフォルメする、フォルムもストーリーもキャラクターも変形するのは、案外難しいのではないでしょうか。実際、私もビデオ・カメラを初めて入手したころ、小津と実相寺をパロって勉強しようとしましたが、偽小津はできても偽実相寺はできなかった記憶があります。
 ああ、それにしても、哀しい。もっともっと変なものを作ってほしかった。そう、彼の作るものは「モノ」であったのです。作品(コト)を制作する(カタル)という行為の結果が、なんと「モノ」であった。「モノ」を語って「コト」にするのが一般的な「物語」でありますが、彼は「モノ」という素材を語って、さらなる「モノ」を作り上げてしまった。そういう意味では、実相寺さんは特異な語り部であったのかもしれません。特に現代メディアという「コト」的性質の強い土俵の上で、それを成し遂げた。やはりとんでもない怪物、物の怪だったのです。
 私はあなたを一生尊敬し続けます。あの世というあなたにふさわしいフィールドでの、さらなるご活躍をお祈り申し上げます。合掌。
 今、「京都買います」を観ながら呑んでます。これが終わったら「無常」、そして「アリエッタ」…ぐすん。

 追伸 さらに訃報が。ウルトラQやウルトラマンの音楽を担当された宮内国郎さんが、27日にお亡くなりになっていました…なんということでしょう。本当に私の中の「昭和」が終わったような気がします。いかん、今日は呑みます。

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2006.11.29

『ひらめき脳』 茂木健一郎 (新潮新書)

410610162901_aa240_sclzzzzzzz_v53933856_ この本は以前一度読んでいるのですが、ちょっと「ひらめき」があったので再読。
 まず最初に申しておきますが、こうした「ひらめき」こそ、茂木さんの語る「アハ!体験」であり、ドーパミン出まくりの快感であり、人生を充実させる重要なファクターである、ということに異論は全くありません。私も少なからずそういう快感を味わってまいりましたので、実感としても茂木さんのおっしゃることにいちいち納得できます。
 しかし、今日の「ひらめき」は厄介なんですよ。快感とは言いきれないのです。で、ちょっと考えてみました。そしたら芋づる式にひらめいた。で、やっぱり芋づる式に苦しい。
 まず、芋づるの先っぽ、最初の「ひらめき」は、「アハ(Aha)!」って「あはれ」じゃん、ってこと。これはシャレではなくて、まあ世界中の感嘆詞なんて同じようなものだということです。決してトンデモな考えではありませんよ。
 で、このブログでは何度も書いていますが、古語の「あはれ(なり)」は、いい意味と悪い意味の両方を包含しているんですね。のちにそれらが「あっぱれ」と「あわれ」という対照的な現代語につながっていく。
 辞書を引くと「しみじみと心を動かされる」なんていういいかげんな訳が最初に出てきますし、受験生はそうやって覚えているものですが、そんなんじゃない。意外性に喜んだり、悲しんだりするというニュアンスなんですよ。私の説ではね。
 これもいつも言ってますが、「もの」というのは、自分の思い通りにならない無常な存在、自分の意識とは無関係に存在する外部を表します。反対に思い通りになり、意識の中に存在するのが「こと」ですね。私の説では。だから、「もののあはれ」とは、まさに不確実性、偶有性に対する感嘆であるわけです。
 そうしますとですねえ、茂木さんの「アハ!」は快感を誘発する方に限定して説明されていますから、つまり「あっぱれ」の方、「あはれ」のプラス面だけが取り上げられているということになりますよね。それで片手落ちだと糾弾するつもりは毛頭ありませんよ。ただ、私の中では、マイナスの方も考えたいという欲求があるんです。
 たとえば、負のセレンディピティーというのもあると思うんです。何かを探そうとしていて、別の何かをなくすということもありますでしょうし、何かを避けようとして何か別の悪いことに遭遇する場合もある。そういう時にもやはり「アハ!」「Aha!」「ああ…」「あはれ…」と言い、「哀れ」な気持ちになるわけですね。それとどうつきあっていくか。プラスの「アハ!」体験をしましょう!と言ってばかりで、はたして人生楽しくなるんだろうか…。
 こんな余計なこと考えちゃう私も、そうとう「あわれ」な人間ですな。でも仕方ない。
 で、あわれついでに、もうちょっと自虐的になってみましょう。「アハ!」に伴うドーパミンの放出は、これは人間に仕組まれた本来的な機能のようです。つまり、本能に近い。そして、ワタクシ流に申しますと、この「アハ!体験」すなわち、「エウレカ!」「腑に落ちた!」「わかった!」という体験たちは、そのまま「コト化」に伴う快感なんですね。なんだかわからない、もやもやした、もどかしい「モノ」が、何かのきっかけによって、意識の中のある場所に収納され、自己の虜となる、随意な存在となる、つまり「コト」になった時に、ドーパミンが出ると。
 そうしますとですねえ、最近「コト化」つまり「近代化」「科学化」「都市化」「脳化」「言語化」を嫌っているワタクシとしましては、自己矛盾に陥ってしまうわけですよ。今だって、こうしてひらめいて、「モノ」を「コト」にして悦に入っているわけでして、しかし、それがいったいどういう意味があるのか。もっと言えば、みんな「アハ!」体験をしたところで、世界がどうなるのか。それが本当に総「コト化」だったら、ちっとも世界のため、宇宙のためになってないじゃないか、ということになる。人間のためにすらなってないようにも思えてくる。自分のためだけなんじゃないか。だって、ノーベル賞とった研究って、本当にこの世のためになってますか?それが苦しいんですよ。ふぅ。
 さてさて、そんなこんなの苦しい芋づるを絶ちきってくれるのが、やっぱりお釈迦様なんですね。彼は王子として、また苦行者として、「コト化」を極めた上で、ある悟りを得ます。ドーパミンじゃだめだって。物質的満足や性的満足でもドーパミンは出ますが、苦痛を味わっている時もやはりドーパミンが対症的に出るんですね。そう、「悟り」とは「ひらめき」ではないんです。諦念なんです。ドーパミンよりはセロトニンなのかな?よくわかりませんが。
 ドーパミンに快感を感じるのは、たぶん人間の初期設定です。で、ほとんどの人間はデフォルトのまま一生やっていくわけですね。そうすると、他の生物やら物質やらは迷惑するわけです。そこに気づいて、デフォルト設定(本能)と闘うことを考えたのがゴータマ・シッダールタさんであったと。
 彼は、いたずらに「コト化」して満足するんでなく、「モノ」の本来の性質(無常、不随意、混沌)をそのまま受け容れようとした。平常心で引き受けてしまった。だから、すごい人なんです。本当の智慧ある人なんです。
 日本にも紆余曲折を経て、お釈迦様の考え方が入ってきた。それで「もののあはれ」なんていう言い方も生まれた。しかし、仏教大嫌いな本居宣長センセーは、そういう本質にあえて目をつぶって分かったような分からないような「コト」を述べて悦に入ってしまった。私は、本居さんのそういうところがあまり好きになれないし、信用できないんですよ。お〜、すげ〜、宣長さんを敵に回してるぞ。ついでに茂木さんも。
 まあ、私のような卑小なモノノケがいくら叫んでも、「蛙の面に小便」でしょうな。でも、そんな楠木正成みたいなゲリラ攻撃も、実はちょっとかっこよかったりして(笑)。今日はこのへんで。

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2006.11.28

『バタじゃが』 (南富良野町振興公舎)

Img14915637 北海道の医大に通う教え子からのお土産『バタじゃが』。北海道ならどこでも売ってるらしいんですが、これが手軽でうまいのなんのって。レンジでチンするだけで、バターのしっかりしみたホクホクが味わえる。これはなかなかいいつまみになるぞ。子どものおやつにもいいんじゃないかな。
 ところで、『バタじゃが』とはこれいかに。一般名は「じゃがバタ(ー)」であり、商品名としてはそれを採用できなかったんでしょうけど、ひっくり返っただけで、こうも発音しにくくなるとは。昔よくカレーライスとライスカレーの違いは?みたいなことが言われてましたけど、こっちはそういう違いがあるわけじゃないですよね。どっちが主体とかそういう…。
 ところで、じゃがバタってどこの名物なんでしょう。北海道なんでしょうか。全国どこでも、居酒屋やお祭りの定番になっていますし、レストランのメニューにもあったりしますけど、どうなんでしょうか。じゃがいもとバターの産地ということで言えば、たしかに北海道が発祥であってもおかしくありませんが、それ以前にドイツとかその辺でも昔から食べてそうですね。
 じゃがいも自体は、江戸開幕の頃に日本に伝来したようです。どうもオランダ人が九州に持ち込んだらしい。当時オランダはジャワ島に東インド会社を設立しました。そのあたりから運んできたらしい。で、当時日本ではジャカルタのことを「ジャガタラ」と呼んでいたので、この芋のことを「ジャガタライモ」と命名した。それが「ジャガイモ」になったとのこと。なるほど。
 ついでに「ジャガタラ」とは「ジャカルタ」の聞き間違いではありません。どちらかというと当時の現地式の発音に近い。その後、太平洋戦争の時に、日本軍があのあたりを占領して、勝手に「ジャカルタ」と改名してしまった。それが、今では現地でも正式名称になっているんだとか。まあ、意味的には「幸せの都」のような感じらしいので、結果オーライですけど。
 バターもオランダ伝来らしい。日本にも古来「醍醐味」の語源になった「醍醐」など発酵乳製品はありました。まあ、これらも元々中国から輸入されたものですけどね。涅槃経に『牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。醍醐は最上なり。もし服する者あらば衆病皆除く。あらゆる諸楽ことごとくその中に入るがごとく仏もまたかくのごとし』とあります。「酪」や「酥」や「醍醐」がどんなものであったか、諸説あるようですが、とにかく奈良・平安時代には発酵乳製品が存在したことは確かです。
 でも、醍醐天皇が馬鈴薯に醍醐をぬったくって食べたということはないでしょうな。たぶん馬鈴薯はなかったので。あっそうそう、馬鈴薯という言い方もしますね。中国での呼び名です。この馬鈴というのはおそらく「マレー」のことでしょう。マレーイモということですね。
 いずれにせよ、今風のバターの生産やジャガイモの栽培が本格化したのは、明治以降であります。北海道の開拓が本格化した明治10年代、西洋の先進技術が輸入され、新天地に独特の酪農文化が花開きます。この『バタじゃが』もまた、100年後そこに実った果実…いやいや、イモは実ではありませんな、根っこでもありません、地下茎です(笑)。
 と、今日もまた蘊蓄を並べておりますが、これもいつもの受け売り、耳学問でありました(わかってると思いますが)。でも、そんな栄養にもならないような蘊蓄もまた、ちょっとしたスパイスになるものです。じゃがバタに乗せるパセリのようにね。

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簡単にじゃがバター!バタじゃが

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2006.11.27

『ジャパン・ツアー'87』 マイケル・ジャクソン (DVD)

『JAPAN TOUR'87』 Michael Jackson
LIVE AT YOKOHAMA STADIUM,Sep.26.1987
Miykhm 向かいに座っているマイケル・マニアよりお借りいたしました。今までもいろいろとお貸しいただいて、そしてMJの偉大さ、神性を再認識させられています(恩恵の受身表現です、迷惑ではありません)。ライヴ映像では、こちらライヴ・イン・ブカレストがものすごかった。宗教団体のイベントだ。
 で、こちらはそのイベントよりも5年ほど昔、ここ日本で行われた「BAD TOUR」の映像です。日本テレビで放映したんですね。たぶん、私は社会人1年生だと思うんですけど、全然記憶にないんですよ。まあ、バロックとかやってましたから、もうMJには興味がなかったんでしょう。ちなみにカミさんは中2。秋田の山奥からどうしても行きたくて、ペプシを飲みまくって応募したそうです。結局チケットじゃなくてTシャツが山奥に届けられましたとさ。
 というわけで、20年ほど遅れまして、観てみました。そしたら、すごいのなんのって。なんで当時興味なかったんだ?ちなみにMJはまだけっこう黒い。鼻はとがってますけど。
 まず、ブカレストと違いまして、日本人は失神したりしません。ノリが悪いとかそういうのじゃなくて、しっかり聴いて、観て、記憶に刻もうとしている、という感じでした。それはそれでいいなあ。そんなわけで、マイケルもしっかり唄って踊っています。当時彼は29歳。ある意味絶頂期でしょうね。歌は正直上手い!ダンスの切れもいい!ブカレストほど休んでない(と思う)!
 えっと、今回、歌の上手さについて気がついたこと。なんといいますかね、軸がブレないというか、パルスというかビートというか、そういうものがしっかりある上での揺らぎみたいなのが独特なんですね。ちょうど美空ひばりを聴いて感じたのと同じです。二人とも歌まねする人はあんまりいないでしょ。モノマネはいても。つまり、できないんです。それって、何かと思ったら、リズム感なんですね。今日は妙に納得してしまった。
Phst51 さて、この映像の見どころはバック・バンドにあります。いずれ劣らぬ名手たちが勢ぞろいしております。で、スタジアムということもあってか、ちょっと演奏しにくそうなところもあるんですけどね、まあソツなくやっております。ワタクシ的には、ブラスやストリングス、その他の音を作り出すYAMAHAの名器DX7の音を懐かしく聴きました。懐かしいって、今でも現役ですよねえ。のど自慢なんか観てるとね、バリバリ聞こえてきます。つくづくすごい革命的な製品だったと思いますね。デジタル・シンセの走りなわけですが、なんかアナログ的というか、いや、過剰にデジタル的というか、とにかく今のシンセよりもかなり個性的に聞こえます。プロの演奏だから、ということもあるでしょうけど。
Scrow そしてですねえ、あんまり指摘する人がいないようなんですが、ってか当たり前なんですかね、私はビックリしましたけど、このライヴでコーラスを務め、また当時の新曲「I JUST CAN'T STOP LOVING YOU」で、マイケルと見事なデュエットを聴かせるのは、なななんと、グラミー賞9回獲得の歌姫シェリル・クロウ(Sheryl Crow)じゃないですか!!ちょっとオバさんぽくて最初気づきませんでした(笑)。当時デビュー前の25歳。MJはその才能を見抜いていたんですね。このライヴの6年後、彼女はデビューし、数千万枚売り上げるスーパースターになっていくわけです。そして、MJを追い越していく。そんな彼女の歌声をたっぷり聴けるだけでも、このライヴ映像はお宝だと思うんですが。
 あと、時代ということでは、日テレの映像演出ですね。デジタル・エフェクト草創期ということで、ついついはまるワナに見事にはまってます。いろいろやりたくなっちゃうんですよね。ま、それもまた歴史の一部ということで、微笑ましいかぎりです。

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2006.11.26

『みんなうんち』 五味太郎 (福音館書店)

483400848709_aa240_sclzzzzzzz_ まずは、歌謡曲バンドの甲府ライヴ、ご来場くださった方々に感謝申し上げます。このバンドのライヴも5回目となり、それなりにこなれてまいりました。実は、全7名で演奏するのは今回が初めてだったんですよね。ダブル・キーボードはぜいたくです!(それもプロお二人ですからね)。しかし、楽しいなあ。
 で、こっちは「いったい何回目だろう」のお話…。
 この本、人類のバイブル、いや、宇宙の、生命のバイブルかもしれません。
 「みんなうんち」…この言葉にこめられたメッセージはあまりに広く深い。
 このバイブルを残したお方は、あの五味太郎様であります。神です(笑)。しかし、古今東西のいかなる神もおっしゃらなかった、いや、おっしゃれなかったマコト、「みんなうんち」。これでしょう、究極は。
 表面上は絵本です。ですから、まあ「みんなうんち(をするんだ)」ということで、子どもは納得し、あるいは喜び、あるいは安心する。うんちが決して自分だけが排出する廃棄物でなく、また、うんちをするという行為も、自分だけに与えられた試練ではない。
 ちょっと前にこの記事で、排泄物に関する独特の表現法について書きました(ってほど書いてませんが)。排泄という行為は、能動のような受動のような、非常に微妙な行為であります。コントロールできるようなできないような。つまり、いつもの言い方に従いますと、「コト」であるような「モノ」であるような、ということです。自分の内部のような外部のような。鼻血や鼻水のように止まるのが望ましいわけでもない。涙のように外部からの刺激(情報)によって他律的になるわけでもない(まあ、本屋に行くと便意を催す、というようなケースもありますが)。
 だいたい、我々は一生のうちに何度排泄するのだろう。単純に1日1回と計算しても、私などすでに1万5000回以上している。そんなヘビー・ローテーションはそうそうあるものではありません。睡眠や食事は本能ですから、基本的に不快感は伴いません。しかし、排泄はちょっと違う。まあ、快感と言えなくもない場合もありますが、排泄という行為自体は、なければない方がよくありませんか?どうも回数のわりにこなれない。そういう自分の思い通りにならない「モノ」と生きている限りつきあって行かなくてはならないわけです。
 だから、無視できない存在だし、どこか祈りに似た行為ともなります。私なぞも、朝必ず大を拝さないと、いや、排さないと気持ちが悪い。もうほとんど朝課となっております。こんなふうに、大人にとっても、実に不可思議かつ神聖なる「うんち」。いや、大人は「うんこ」か?その辺の音のクオリアについても論じたいところですが、今日はやめときます。また、民俗学的にもいろいろとありますが、それも他所に譲りますね。とにかく、「うんち」自体が神性を帯びているというわけです。
 その「うんち」を正面から、いや、横からも後からもとらえ、そうした神性をあますところなく描ききったのが、この「みんなうんち」であります。
Unchi 「おおきい ぞうは おおきい うんち ちいさい ねずみは ちいさい うんち」に始まり、そして、最後は「いきものは たべるから みんな うんちをするんだね」という境地に達します。これだけでも正直感動的です。子どもたちは、「たべる」ことと「うんち」の関係を直感するでしょうし、また、場合によっては「たべる」ことができるから、毎日「うんち」が出るのだ、ということに気づくかもしれません。そして、いろんな「うんち」があるということは、もしかして動物によって「たべる」ものが違うのかも、ということにも思い至るかもしれない。もちろん、自分と世界中の人間、獣や鳥や虫が「うんち」でつながっているということも知るでしょう。あるいは、親は「うんち」が肥料となって新しい「たべる」ものを産み出すということを伝えるかもしれません。あるいは、あの美しい女優さんや、かわいいアイドルたちも「うんち」するんだという、ある種のタブー領域に妄想を広げるやも…。
 そして、さらに一歩進んで、いや、一歩後戻りしてみると、また新しい意味が読み取れるのであります。つまり、「みんなうんちをするんだね」から「みんなうんち…」に立ち返ってみるんです。すると、例えば「俺たちなんか、みんなうんちみたいなもんだぜ!」という存在論的諦観(?)や、「みんなうんちしてるか〜い」という扇動的共同体意識(?)や、「みんなうんちしてるのか?」という懐疑論的孤独感(?)の表明にもなりうるわけです。
 私はこんなことを思いました。前から思っていたことなんですが…人それぞれ「うんち」の臭いって違いますよね。同じものを食べているはずの家族でもかなり違う。おそらく、腸内細菌の種類やその割合などによって、その違いが生じるのだと思うんですが、不思議とですねえ、それらが多量に集められると、ある一つの臭いに収斂されていくんですよ。私が知るかぎり、どこの土地でも衛生車(真空車)の香りは同じなんですよねえ。つまり、大量の種類の「うんち」がブレンドされると、一つの何かになる。たぶん、外国に行っても同じなんじゃないか。これをずっと不思議に思っていたんです。
 でも、私、五味太郎さんのおかげで、なんかすっきりしました。それこそスッキリ。そうか、「みんなうんち」でつながっているんだ、人なんて、肌の色も宗教も言葉も食べ物も違うけど、それらがたくさん集まれば、結局一つの「うんち」の臭いになる。ちょっとした違いなんて、うんちの普遍性の中では、なんの意味もない。合言葉は「みんなうんち」!
 こんなことを悟ったら、なんか万感「腹」に迫ってきたぞ(笑)。ちょっとトイレに行ってきます。ああ、人生何度目の「うんち」との出会いと別れなのだろうか…by 蘊恥庵(うんちあん)庵主

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2006.11.25

空白を〜で埋める

 今日は朝4時からたまっていた録画を観賞。一つのテーマが見えてきました。いろいろ観たのですが、二つに絞りましょうか。
 まず、東京jazzをたっぷり堪能。マーカス・ミラーやラリー・カールトン、インコグニートが心に残りましたが、いやはや何と言っても豪華ピアニストの競演でしょうねえ。
Hiromi334 上原ひろみとチック・コリアのインプロヴィゼーション合戦、非常に親密な会話がなされており、感動しました。上原ひろみもすごいわ。独特のインスピレーションによってチックを刺激していたのがよく分かりました。今後が楽しみですね。こんなことを言うのも何ですが、チック・コリアの音も大人になりましたなあ。ひろみ嬢と一緒だからということもありましょうが、軽みに加えて、ややわびさびが感じられるようになった。
Img_hank しかし!わびさびと言ったら、もうこの人でしょう。泣けました、ハンク・ジョーンズ翁。今年米寿でしょ。老人力発揮しまくり。15歳のオースティン・ペラルタもいたせいでしょうね、そのほとんど仙人の境地とも言えそうな音世界が、本当に際立って感じられましたね。
 同じピアノという楽器の上に描かれる、ペラルタ、ひろみ、チック、ハンクというグラデーション。これは全体として非常に美しい。もちろん、ハンクを頂点としているわけですが、どれもまた魅力的な音楽のあり方でありました。ジャズはいいですねえ。そうしたあり方が可能だから。ジャズ自体が美しき存在である。
 で、そのグラデーションとは何なのか。やはり、それは「空白」であり、「間」であり、「省略」であり、「無」であり、「余韻」であり、「余白」であり、「響き」である。そして、これこそ、禅の三昧境であるなあ、なんてつくづく思っていたら、はい、次の番組。
Gyokudou 先週録画ミスしてしまった「新日曜美術館〜浦上玉堂」の再放送。これがまた三昧境でありました。ゲストの琴士坂田進一さんとは、何度か酒席を共にさせていただいたことがあります。彼もなかなかの三昧人であります。その坂田さんの七絃琴もまた、美しき空白、余韻を伴います。その演奏にのせて紹介される玉堂の作品群。これがまたすごい。芸術とかエンターテインメントとか、そんなものでくくることのできない世界。誰のためでもなく、なんのためでもない、かと言って自分のためだけの戯れごとでもない。あの空白に見えてくるもの、聞こえてくるものとはいったいなんなんでしょう。ハンク翁もまた、こういう境地に近いのだろうなあ、などと考えておりましたところ…。
Kokusen 玉堂の番組が一通り終わったあとの「日曜美術館放送30年企画」に、その答えがありました。画家小堀四郎さんが、師匠の藤島武二さんについて語ったビデオです。そのまま引用させていただきます。
「藤島先生は芸術によらずすべて人間の作るものは人で、人ができなければいい仕事はできないと。ことに芸術は人間ができなければいい芸術は生まれるはずがないと。人間ができるということは俗世間に求めている間は人間はできるものではないと。それで私には『空になれ、捨てろ、無になれ』とおっしゃいました。物事の本質を先生から教わったという気がしますね。『黒扇』をご覧になってもわかるように余分な筆がございませんし、そしてまた写真のように写実といっても隅から隅まで本物のように描いてもございませんし、やはりそこに先生の装飾性というものも多分にそういう要素が現れていますね。黒い扇を隅から隅まで黒く塗ってしまったらあの絵は成り立ちませんし、響きも余韻も無くなるということになりますね。隅から隅まで描かれていないところに余韻というものも出てくると思いますね。省略したものを充実させるということは、描く人の人柄といいますか、人間のできあがりのあれにもよりますから…」
 もうつまらない私の言葉はいらないと思います。もっと老人力をつけないと…。

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2006.11.24

『金曜山梨 真打ち競演』 (NHK甲府放送局)

Open 最近、お笑い芸人がやたらと美女をゲットしてますよね。基本的にはいいことです。やっとそういう時代が来たってことでしょう。決してイケメンとは言えない私としてはうれしいことです。顔より芸。できれば、25年くらい早くそういう時代が来ればよかったのに。あと、安倍さんね、どうもいかん。何度も書いてますが、政治家には演劇性が要求されます。お笑いでなくともいいから、とにかくお客さんを満足させられなくてはならない。はっきり言って芸がない。残念。予想以上に予想以下でしたね。
 さて、そういう意味で興味深いのはNHKであります。いろいろと問題を指摘されたりして、まあそれは「公」の宿命ですからまあ仕方ないんですが、そういった逆境から脱却するための方策が面白い。全く両極にある二つの路線をとっているように思われるんですよね。硬と軟というか、そうですねえ、思いっきり誠意を見せるのと、なんか壊れちゃってるのと。前者はフツーな対応です。後者はちょっと意外でした。今まで目くじら立ててた人も、なんとなく心配になる。私は性格上そういうものにワクワクしちゃう人であり、そう、教師としても真面目な生徒を壊して楽しむみたいなところがあってですねえ(ひどいよな)、行け行け〜!って感じなんですけど。
 今お休みしてますがサラリーマンNEOやポポラッチなんかは、そういうNHKの象徴的実験作でありましょう。マニアックなところで言いますと、「おはよう日本」5時台の真下貴アナなんか地味に最高っすね。
 さあ、それで今日のおススメはこれ!「金曜山梨」です。そう、私が出演した番組ですね。ふだんから硬軟とりまぜたなかなか面白い番組なんですが、今日のは非常にシュールだった。私もお世話になった佐川ディレクター担当だそうです。今日のタイトルは「真打ち競演」。基本は、先月公開録画された演芸舞台を放映したもので、江戸家小猫、晴乃ピーチク、東京ボーイズ、昭和のいる・こいる、といったそうそうたるベテラン芸人さんが登場。もうそれだけでもすごいですよね。
Usimaru で、ですねえ、びっくりしたのは、まずは番組の導入部分、甲府放送局の加藤成史アナウンサーによる謎のコントが…NEO的とも言えますが、またミスター・ビーン的とも言えます。この導入は秀逸でありました。そして、真打ちさんたちの至芸(いや、ホントにすごかった)の幕間にもですねえ、加藤アナによる寸劇が挟まってたんですよ。それも、ちゃんとその前の至芸からの流れに沿った内容のギャグなんですけど、なんともこれがシュールでして…。ベタと言えばベタ、意外に(失礼)作り込んであると言えば作り込んである。そのう、なんというか、至芸と寸劇のバロック的コントラストというか、まあ能と狂言の関係みたいなもんですかね、とにかくテレビとしてNHKとして金曜8時として非常に新しかった。反面、よく考えると古典的手法だったりして。いすれにせよ、正直ギリギリのところを行ってるなと。私はバカ受けしちゃいましたけど。
 こうした実験はいいことです。地方には地方なりの実験があるべきです。それにしても、か、加藤アナ…あなたは次期「おはよう日本」5時台担当ですわ。てか、あなたが正規のニュース番組で真面目にニュース読んでるの観ると、NEOの報道男を観てるのと同じで、つい笑っちゃうんですよ。
 ま、考えてみれば、この「金曜山梨」、いわゆる金八(金曜8時)という超ゴールデンに、微妙な30分枠で放送されていることもさることながら、とてもF1F2層を狙ったとは思えない内容で異彩を放っていますよね。NHKだからできる荒技です。民放で言えば深夜枠で展開されそうな、若手による実験的作品が堂々と金8に放送されているわけです。シュールだ。
 というわけで、私は最近のNHKが好きなんです。教育テレビも相変わらずすごいですしね。いろいろと文句を言う人も多い昨今ですが、そういう人は細部まで観ていない。私は楽しみにしていますからね。ぜひとも適度に壊れてください。壊れるのが当たり前となってしまった民放とは違い、ツンデレ萌え狙えますんで(笑)。

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2006.11.23

『The Beatles in Australia』 Mark Hayward (New Holland pub.)

Binoz 先週2年生がオーストラリアに修学旅行に行ってきましてね、おかげで職員室はコアラの形をしたチョコの山が出来ています。みんなそれぞれ楽しみつつ、異文化交流を果たしてきたようでして、なんともうらやましい時代ですよね。私なんか高校でも京都・奈良でした。それはそれで楽しかったけどね。
 さて、あるビートルズ・マニアな女の子が買ってきたのがこれです。彼女は熱狂的なポール・ファンでありまして、まあ今どきの子にしてはちょいと珍しい。こんな写真集を見つけて買ってきちゃったわけです。へえ〜、来豪時の写真集か、来日時の写真集もいろいろあるしな、お〜オレが生まれた年か、なんて思ってよく見たら…ありゃりゃ、なんだこりゃあ!?知らない人がいる!(笑)そして、リンゴがいない。
 いやはや、知りませんでした。真のマニアにはホントに基本事項なんでしょうけど、ジミー・ニコルという名前すら知らなかった(ザ・スプートニクスは知ってましたけど…笑)。
 なんでも、この時、リンゴは扁桃腺炎かなんかを患い、40度の熱と闘っていたようであります。で、ジョージ・マーティンが代役を彼に頼んだと。今なら普通にキャンセルだよな。いきなりやらされたジミーも大変でしたね。でも、ビートルズのコピーをやっていたようなんで、ほとんど練習なしで大丈夫だったようです。そして、まるで本物のビートルズのように、ファンに手を振っている。どういう心境だったんでしょう。
Binoz2 この写真集の面白いところは、当地でのインタビューが掲載されていることです。あんまりしゃべらないジミー・ニコルにけっこうきつい質問が飛びます。「喋っちゃだめって契約なのか?」みないな。インタビュー全体は、まあいつものビートルズ風なんですが、微妙にメンバーがリンゴをからかったり、ジミーに気を遣ったりしてるのが面白い。ま、英語苦手な私はその雰囲気くらいしかわかりませんがね。
 もともと、メンバーは代役を立てることに反対だったようです。「ピート・ベストは偉大なビートルズのドラマーだったが、リンゴ・スターは偉大なビートルだ」…う〜ん、いい言葉だ。ん?ピート・ベストの立場はどうなるんだ?まあいいか。そういわれるだけでもすごいっすよね。最近、何かで「リンゴのドラムは実はコピーしにくい」みたいな話を聞いたばかりだったので、なるほど、この言葉はお世辞ではないのかも。
 で、ジミー・ニコル版ライヴの映像も出回っているようですが、私はもちろん観ていません。マニア的には、リンゴじゃない版ビートルズの演奏というのにも興味を持つことでしょう。
 このジミー・ニコルさん、その後はお呼びはかからなかった(つまりリンゴは元気だった)ようですね。そして、翌々年の66年、スウェーデンのエレキ・バンド「ザ・スプートニクス」のドラマーとして来日しています。このスプートニクスについては、ベンチャーズと並ぶエレキ・バンドとして、私の記憶にしっかりと刻まれていました。日本向けの曲(日本人作曲による曲)もたくさん演って、けっこうヒットさせていたんですよね。
 さて、ちまたは、ジョージ・マーティンとその息子による快挙あるいは暴挙(The Beatles『LOVE』)によって、大騒ぎになっております。ちょっと聴きかじった感じでは、ビートルズだからこそこれもありだと思いましたが。なにしろ、こんなので大喜びしてるくらいですから、私のビートルズはどうコラージュされても、アレンジされても、やはりビートルズです。そこがバッハ同様すごいわけですから。私は原理主義者ではないので。それよりやっぱり、リンゴのいないビートルズがどっさり、にびっくりしましたよ。

Jimmy Nicol Portfolio

ザ・スプートニクス

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2006.11.22

『愛ゆえの孤独 〜太宰治の世界〜』 押切もえ

  押切もえ 辿る斜陽の時
B000ij7jso01_aa240_sclzzzzzzz_v39607224_ 今日は急遽…ホント今日の朝、依頼文が来たんですが…地元小中学校の図書&国語の研修に呼ばれ、ちょいとパフォーマンスを披露し、得意のハッタリをかましてきました。テーマは「朗読」です。いちおう講師ってやつですか。そう、私にとっての「講ずる」は調子よく音読するってことなんで。で、太宰についてもちょっと語ってきました。ちょうど、もえちゃんの太宰を味わったばかりだったし。さ〜て!!

 なぜに「押切もえ」の初DVDが「太宰治」なのか!?

 これは実に微妙な作品であります。正直どう反応していいのか、よく分からなかった。ただ、決してトンデモではなく、真摯な姿勢で…いや、たいがいのトンデモは真摯な姿勢だからトンデモになりうるのか。シャレじゃないからこそ…。
 うん、でもやっぱりトンデモじゃないな。たとえば、これがもえちゃんじゃなくて、緒川たまきだったら最初からOKでしょう(笑)。つまり、私の勝手なイメージがこの作品を分かりにくくしている。どこに収納したらいいか分からなくしている。そういう収まりの悪さがあるんですね。
 私の太宰のイメージというのは、もうずいぶん前から出来上がっていて、それなりに揺るぎない。一方、押切もえのイメージというのは、まあ「カリスマモデル」という程度に、かなり適当には固定化されていますが、それは自分で作り上げたものじゃありません。情報として、エビちゃんと一緒の箱に無造作に入れられてる程度。そこに二者のギャップがある。私の脳ミソの中でね。
 またまた登場で申し訳ないんですが、「モノ・コト論」です。収まりがよくなるというのは、自分の中で「コト」になるということなんですね。そういう意味では、二者ともに収まるところに収まっていたんです。それで勝手に安心してた。そしたら、別々の場所、それもかなり離れた場所にいたはずの二者が一緒にいるじゃないですか。おいおい、なんでこの二人がつきあってるの?みたいな感じでびっくりしてしまった(笑)。まあ、こういうことのようです。
 面白いですね、「コト」と「コト」が結びついたら、「モノ」になったわけです。収まりの悪い「モノ」になっちゃった。なるほど、これこそが生命の有りようなのかもしれない。うん、深い。
 それで、「モノ」に憑かれて気持ち悪い私は、もえちゃんのことをもっと知りたくなるわけですよ。そして、納得したい。二者のコラボレーション全体の収納場所を確認したいわけです。
 たとえばこれで、もえちゃんが青森の出身だったりすると、案外簡単に収まるのですが、残念ながら彼女は千葉出身でした(笑)。で、ある意味よけいに心配になって、もっと調べてみると、どうも彼女自身が太宰の熱狂的なファンのようですね。うむ、人は見かけによらない(すまん、もえちゃん)。さらに彼女自身、それなりの苦悩を経て現在の地位を築いたと。ああ、なるほど、ウィキ的解説によれば(つまり全然信憑性ないんですけど)家庭の崩壊、恋人の死を乗り越えていると。しっくりしてきたぞ。
 さあ、そうやって収まり所が見えてきたところで、再びこの作品を鑑賞いたしましょう。そうするとなんとなく予感がしてくるんですね。ああ、そうか。太宰ともえの共振みたいなものがあるんだ、それを観て取らなきゃいけないんだと。いや、逆にですねえ、そういう観方をすると、この作品の演出の弱さ、あるいはちょっとした字幕の間違いや、正直シロウトっぽいもえちゃんの読みなんかも気になってしまったりするんです。もっと時間とお金をかけてあげたくもなるわけですよ。そういう甘さはどうしてもあります。
 しかし一方で、そういう瑕疵には目をつぶって、あえて違う眼で観るならば、太宰もえ組と言った面白さ以外の面白さというものも立ち現れてきます。この作品では、太宰を取り巻く女性をクローズアップして取り上げています。田部あつみ、小山初代や太田静子、山崎富栄はもちろんですが、母「たね」、叔母「きゑ」、子守り「タケ」の三人をていねいに取り上げていることには好感を持ちます。特に新しい情報はありませんが、もえさんのそれぞれの女性に対する思い入れは充分に伝わってきました。
 私はやっぱりタケとの再会のシーンが好きだ。泣ける。それはタケが「コト」化しようとしないからです。言葉をそうやって使わないからです。だから、「コト」化=「語る」を商売にしている太宰も、この時ばかりは黙ってしまう。まさに津軽の人々に接して涙する押切もえだ。現代社会で記号化される押切もえと、自然の中で淡々と生きる青森の素朴な人々。「コト」と「モノ」の出会い。そして、「コト」も「モノ」に還る。
 そうして最後のインタビューを観ますとですねえ、なんか解ってくるんですよ。ここは必ず観なければなりません。彼女が太宰とどういう部分で共鳴しているのか。単純に生い立ちとかそういう次元ではなくて、そういったものの裏返しとしての「希望」。彼女が「死とは?」と訊かれて「出会い」と答えているのは、実に象徴的です。
 さあ、我がクラスのギャルたちに観ていただきましょう。私が語るよりも、カリスマもえちゃんに語ってもらいましょう。いきなり太宰ブームが起きたりしてね。そうなると、私ももえちゃんも太宰も嬉しいんですが。

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押切もえブログ『Moemode』

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2006.11.21

ナイトメア 『リヴィド』

B000657m9601_aa240_sclzzzzzzz_ 何事も勉強です。いよいよ本格ヴィジュアル系です。もちろん、女子生徒から半ば無理やり聴かされたわけです。しかし、やはりそれなりに面白い。好きかどうかは別としてとにかく文化論的に面白かった。
 考えてみると、このブログでも自称ヴィジュアル系のイエモンを何回か取り上げてきましたし、吉井和哉さん、この前テレビで元祖ヴィジュアル系(?)美輪明宏さんにもそんなこと言われてましたね、たしか。あと、Gacktさんももちろんそっち系です。
 さて、そんなふうに全体像を見た上で、このナイトメアなるヴィジュアル系バンドのアルバムを聴いてみますと、いろいろと思い浮かぶこともあったりするのでした。
 うん、これはやっぱり日本文化ですな。いちおうこういうヴィジュアル系ロックというのは、日本のオリジナル・ジャンルだと言われています。欧州のゴシック・ロックとは明らかにその音楽性が違いますし。で、こういう男の化粧やら、派手な衣装やら、中世的、中性的な雰囲気やら、ちょっと反社会的、暴力的、メメント・モリ的なイメージやら、こういうのは、それこそ日本の中世に端を発しているように思われます。
 やはり、南北朝期の「ばさら」なんか、そのルーツと言えそうです。婆娑羅という字が持つイメージや、その語源であるvajra=金剛石(ダイアモンド)のイメージも、いかにもっていう感じじゃないですか。佐々木道誉の「立花(リッカ)」なんか、私にはそのままロックに通じる美学があるように思われます。
 そうした流れの上に生まれてくる「かぶき者」の系譜も見逃せません。当初のかぶき者は、どちらかというと戦国武士のマッチョな血が流れていて、いわゆるヴィジュアル系とは雰囲気が違いますが、のち、平和な世が続くに従って、次第に中性的な男性美がもてはやされるようになります。「若衆」ブームですね。浮世絵でも若衆は重要なモチーフでありましたし、そういう絵を当時の腐女子たちが密かに懐に持ち歩いていたのでしょうから。まあ、このへんからBL(衆道)に話がそれると、また面倒なのでやめときます。
 というわけで、現代のヴィジュアル系の様相と、それを取り巻く女性ファンたちの様相を、つぶさに観察すればするほどに、こうした伝統文化の潮流というのが感じられるようになるわけですね。
 どうも、日本においては、ヴィジュアル系ロック文化が下位文化のように語れることが多い。はっきり申して差別的扱いをされます。それにはいろいろな事情があるようですが、しかし、本来、エンターテインメントとしての音楽には、当然ヴィジュアル的な要素が必要であったはずですし、それこそ文化論的には実はメインストリームである可能性すらあるわけです。何しろ、歌舞伎が今のような評価を得ているわけですから。
Nmpr さあ、それでやっとこのアルバムの話です。うん、なかなか音楽的にも面白かった。ヴィジュアル系の王道とも言える、非常にわかりやすい音楽です。ほとんど昭和歌謡のようであると言ってもよい。その、いかにも日本的な旋律および歌詞世界と、エッジの利いたギター・サウンド、そして、あの疑似ヨーロッパ中世的なヴィジュアルとのギャップ。やはりバサラだし、かなりカブいている。とにかく、正直面白いなあ、悪くないねえ、と思いました。
 で、こういうものを支えているのが、いつも言っている「萌え=をかし」の感情であるわけです。これは本来女性的なセンスなのでした。
 そして、この世界の日本語センス、特にネーミング、名乗りのセンスは特筆すべきです。以下、ナイトメアのメンバーの名前を列記しておきます。何をかいわんや。

YOMI/黄泉(ヨミ)
柩(ヒツギ)
咲人(サキト)
Ni~ya(二~ヤ)
RUKA/瑠樺(ルカ)

 ちなみに彼らは仙台っ子です。
 そして、彼らにはもう一つの顔があります。仙台貨物。こういう洒落のセンスも江戸的ですね。

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ナイトメア公式

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2006.11.20

『ヤバいぜっ!デジタル日本』 高城剛 (集英社新書)

 ハイブリッド・スタイルのススメ
408720345x01_aa200_sclzzzzzzz_v65027027_ この本はたいへん面白いが、ちょっと注意も必要かも。いろいろなツッコミ(たとえば文章の巧拙とか、内容の矛盾とか)を入れずに読むのが、楽しむコツでしょう。高城さん、そういう人なんで。それを承知している私なんかは、全然OKでしたけど。
 たぶん、高城さん私と同い年です。当たり前ですけど、私よりずっとマルチで、ずっとクリエイティヴで、ずっとアクティヴで、ずっと有名で、そしてずっとヤバいぜっ!
 あっそうそう、「ヤバい」はダブル・ミーニングですね。very bad!とvery cool!の意味です。ですから、この本でもデジタル日本のbadな部分とcoolな部分、両方が取り上げられています。
 まずは、badを糾弾します。ゲームもアニメもインターネット自体ももう終わり。音楽業界もダメ、放送と通信の融合も今の発想じゃダメ。そして、何と言っても著作権問題ですね。これについては私は全く著者に同意いたします。CCCDやデジタル放送のコピーワンスなど、非常に馬鹿げた事態について、私もこのブログの中で、何度か嘆息してまいりましたが、実際の制作者側である高城さんが唱える基本開放路線は、実に理にかなっているし、だいいちヴァイタリティーあふれる心強い意見として、激しく首肯される内容になっています。ちょっと過激かもしれませんが、実際御自分でいろいろ実践なさって成功していたりするので、説得力があります。
 そして、そういうbadをふまえてのcoolでありますね。まず、日本のお家芸であるコピー力と、そこからさらに新しいものを産み出す能力を高く評価します。そして、異質なものを同時に使う、日本のハイブリッドなスタイルこそ、日本が世界に売り出すべきものだとおっしゃいます。なるほど。発想としては普通なのかもしれませんが、たしかに、それを国のブランディングとして推し進めようという気分とシステムは、今の日本ではほとんど醸成していませんね。
 それを実現するための具体的なアイデアも示されていて興味深いのですが、今の日本でやるのにはあまりにも障壁が多そうな気がしないでもありません。でも、こういうことを平気で言っちゃう人、理屈よりも体験に基づいて言っちゃう人の存在というのは、とっても大切だと思います。
 この本の中で、ワタクシ的に心に残ったのは、「コミュニケーション」を「思いやり」と訳したところですね。「相手に伝えることが重要ではなく、相手に伝わったかどうか考えること、これが重要だ」という部分には、思わずうなずかされました。どうも最近の若者は(なんて、こと言うようになっちゃったんですね、自分も)、自己主張はものすごく上手になったんですが、どうも筆者の言うようなキャッチボールができないヤツが多くて困る。平気で剛速球投げてくるし、こっちが投げたボールがちょっと外れると、もう最初から取る気なし。優しいキャッチボールが続かない。
 あとは、メディアの話。三種類のメディアがあると。ケータイやテレビのようないわゆるメディアと、私たちの身体。そして、第3のメディアが40歳代になって発達した。それは、第六感や虫の知らせのようなものだと言います。そして、メディアの情報総量は決まっていて、例えば第1のメディアから流入する情報量を抑えると、その他のメディアがポイントアップするのだそうです。ありえる話ですね。ちなみに高城さんはなんとテレビを観ないんだとか。
 さて、先ほどのコミュニケーションの力を育てるのに、英語とコンピューターのリテラシーが必須だというようなことをおっしゃっておりまして、それはものすごく時代遅れなのか、それともものすごく時代の先端のまた先を行ってるのか、ちょっと判断しかねました(笑)。まあ確かに彼のような生き方をするには、その両方ともが不可欠ですね。その他の日本人にはそのまま当てはまりませんけど。

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2006.11.19

『祈りのかたち−甲斐の信仰−』 (山梨県立博物館)

Img_chirashi 今日は午前中下の娘の発表会に行きまして、午後は山梨県立博物館へ。ついでと言ってはなんですが、博物館と同じ町内に散在する寺社を訪問、生活に根ざした民間信仰の空気をいっぱい吸ってきました。もちろん中にはレミオロメンの原点埋草神社も含まれます。この神社についても書きたいことがありますが、また後日。
 さてさて、今、博物館では開館一周年記念特別展「祈りのかたち」が開催されています。これがですねえ、本当に素晴らしかった。予想、期待より数倍感動いたしました。いやはや、やはり甲斐の仏教文化は特別ですねえ。出かける前に、東京国立博物館の「仏像−木にこめられた祈り」展を取り上げた新日曜美術館の録画を観たのですが、甲斐の仏像たちも全国代表に勝るとも劣らぬ霊気を発しておりました。実はそんな霊気に当てられてというか、はっきり言ってしまうと、何かを連れて帰ってきてしまったようでして、今、ちょっとそういう意味で調子がよくありません。あとで除霊しなくちゃ(汗)。
 変な話かもしれませんが、ああやって仏像や仏教絵画が一堂に会しますとですねえ、いろいろなことが起きてくるわけです。本来の場を離れているという意味だけでなく、なんというかライバル同士や商売敵(?)が同じ部屋に入れられている場合もあるわけでして、まあ呉越同舟とでも言うのでしょうかね、とにかく霊的にはとんでもなく渾沌とした状態になる。たぶん、博物館的、あるいは美術館的には、そういうことは考慮に入れられてないと思います(当然ですね)。そんなこと全然感じない拝観者がほとんどでしょうけれど、よく考えてみるといろいろと問題もありそうです。私みたいなお変人にはけっこうそういうことが気になるんですね。
Aizen56 そんな中、強烈な光を放っていたのは、その名も放光寺の天弓愛染明王像でしたね。あの霊的カオスの中で、同寺の金剛力士立像とともに、他を圧倒しておりました。密教パワーでしょうかね。ぞくぞくしました。
 実は今回の最大の目的は、私の学校の母体である月江寺に伝来している頂相「絶学祖能像」でありまして、実際それはそれは本当に素晴らしいものでした。30分以上その前で釘付けになってしまったんですが、この国宝級(だと思います)の頂相については、いつかあらためて書きたいと思います。いろいろ書きたいことがあるんですけど、なんかダメだ。今日は書けない。
 とにかくすごい体験でした。なんか文章を書くのもままならないほど、私のスピリチュアルな部分がかき乱されています。少し落ち着かせたいと思います。
 あっそうそう、この特別展、明日(20日)までですよ。皆さんもぜひ。ただしそれなりの覚悟を持って行って下さい(笑)。

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2006.11.18

『現代語訳 般若心経』 玄侑宗久 (ちくま新書)

448006319601_aa240_sclzzzzzzz_v41071993_ 玄侑宗久さんの講演を聴いたのは、もう2年半も前なんですね。というか、そのころのこのブログの記事、短くていいですね。どうもここんとこ、妄想が増すばかりでして。いかんな。不立文字。「コト化」を嫌っておいて、自分は思いっきり言葉の僕になってる。ということで、反省の意味もこめてこの本を読んでみました。
 う〜む、なかなかエキサイティングでしたね。なぜかって、だってだって、私がいずれ書こうと思ってることが、どんどん出てきちゃうんだもん。で、ギリギリ肝腎なとこは書いてなかったりして。ヒヤヒヤしながらページを繰っていました。ふぅ、すごいスリルだった。
 ま、考えてみれば、それは宗久和尚が書いているというよりも、観世音菩薩さんが、いや結局は釈尊が語っているわけでして、もっと言うならば、この本でも紹介されている、老子や荘子、ハイゼンベルクやヒュームらが気づいてきたことなんですね。だから、別に私のオリジナルじゃないわけで、全然ヒヤヒヤする必要ないんですけど。ただ、私は和語の「もの」と「こと」の語源にさかのぼって、純日本的な感覚の中でそれについて考えたいんですよ。たぶん、それをした人はいないので。
 そんな「唾つけ」はいいとして、さてこの本です。般若心経の素直な読みの本としては、現在最高のものではないでしょうか。
 私にとっての「般若心経本」の最初は、松原泰道さんの名著『般若心経入門』でありました。私の人生のターニングポイントを作ってくれた思い出の書です。まさに入門には最高の一冊でしょう。それから、こちらのブログでも紹介いたしました桐山靖雄さんの『般若心経瞑想法』も勉強になりましたし、ダライ・ラマの『般若心経入門』も感動的でした。ほかにも数冊読んでいると思います。
 そんな中で、この玄侑宗久さんの現代語訳は、実にユニークな形を取りつつ、実は非常にオーソドックスな内容になっているのです。まず、禅定に入っている釈尊に代わって、観自在菩薩(観音)さまが、シャーリプトラ(舎利子)に語るという形式をとっているのがユニークです。それもかなりかなりくだけた調子。くだけすぎギリギリ手前という感じです。しかし、その内容は、よくあるパターン、つまり、お経のパッセージと現実生活の卑近な例とを引き合わせてるというパターンに陥らず、案外に仏教学的に、あるいは哲学史的に淡々と進んでいきます。古今東西の哲学や思想、さらには量子論のような科学まで登場しますが、決してとってつけたような感じはしません。宗久さんの頭の中でよく咀嚼されているから、自然に語られるのでしょうね。
 さてさて、そんなわけで、般若心経というお経の神髄に迫るための手引きとして、この本は非常に有用であり、また、しっかり解説しておきながら、結局は呪文のように読むことこそ大切と言うあたり、まさに禅的な面白みになっていると言えましょう。
 それで、何がヒヤヒヤだったかと言いますとですねえ、例えば観音さんがこんなふうにおっしゃるわけです。
「ですから仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということでしょうか」
 まさに一般的な仏教のモノの見方の解説ですよね。そして、こうした実相に対して、人間はいろいろなモノを概念化、粒子化、二元化したがると。どうもそういう生来の性質があると。こうおっしゃるわけです。それが、すなわち「色」であり、実相の方が「空」ということですね。まあ、これも普通の見解です。さらに、「名づけ」により概念が実体化して、空から遠ざかっていくとも。いわゆる分別智ですね。
 もうお分かりと思いますが、世の実相、つまり釈尊の言う「空」が、ワタクシの考える「モノ」という言葉が包括する性質であり、概念化、言語化などの結果、つまり釈尊の言う「色」が、ワタクシの考える「コト」に対応するというわけです。で、とにかく宗久さんは、「モノ、モノ」とカタカナでお書きになるので、いつ「コト」が登場するかと、ヒヤヒヤした(笑)。
 まあ、所詮ワタクシの戯論(けろん…まさに色)ですから、そんなもんに宗久さんやら観音さんやらお釈迦さんやらが賛同してくれるわけないんですけどね。つまり、このヒヤヒヤは戯論をもてあそんでいる自らの罪に対する後ろめたさなのかもしれません。
 でも、この本のおかげさまで、ワタクシの戯論もずいぶんとそれらしくなってまいりました。妄想は膨らむばかりです。いったいどうなることやら。

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2006.11.17

レミオロメンの原点!

Misaka 昨日30万アクセスを達成いたしまして、いったいどれくらいの駄文を連ねてきたのかなと思い、テキスト化して字数を計算してみました。すると、そうですねえ、だいたい200万字ってとこですか。原稿用紙5000枚ってこと!?新書にして3000ページ分!?いやはや、よくやるわ。いつか全部読み返そうと思ってたんですけど、こりゃあ無理ですな。そんな長い本読んだことありませんから(笑)。ちなみに源氏物語の総文字数は、写本にもよりますが、だいたい100万くらいと言われています(やった勝った!…って問題じゃないっすね)。
 これこそまさに「塵も積もれば山となる」であります。で、思い出しました。一人暮らししてた時、7年くらい掃除しなかったんですね(って簡単に言うなよ!)。そしたら、ほこりや塵などが堆積して、カーペットのようなモノが出来上がった。で、引っ越す時、掃除が大変だなと思ったら案外にも楽だった。つまり、見事にそのカーペットようのモノが、ペラ〜とはがれたわけですね。で、いっぺんに片づいた。これは感動でした。なるほど、こういう行き方(生き方)というのもあるのか。
 で、こんな感じでこのブログの塵やほこりもどんどん堆積していくわけです。堆積してくると山になる。けっこう肥えた土になったりするんですね。そこにいつのまにか草なんか生えてきたりする。それが面白いわけです。つまり、長く書いてますと、どうも基本的な路線というのが固まってくるようでして、たとえば「コト」より「モノ」、「都会」より「田舎」とかね。「人工」より「自然」なんていうのも、まあありきたりですが、色合いとしては出てくる。
 最近では、頭の中では「ココロの豊かさよりモノの豊かさ」なんていうスローガンも生まれてきています。いいでしょ、これ。前も書きましたけど、「ココロ」って「凝る」と同源なんです。こだわりであり、固定化であり、つまり「コト」の権化みたいな存在なんですね。だから、その豊かさを求めると、どうしてもエネルギーの無駄遣いになったり、廃棄物がたくさん出たり、争いが起きたりする。だったら、不随意で無常な存在である「モノ」が豊かになった方が、(人間のためじゃなくて)世界のためにはいいと思うんです。そうでしょ?
 おっと、全然タイトルと中身が違うぞ!と思わせて実は…というのが、このブログの売りです。えっと、どうしようかな。どうやって結びつけようかな。
 あっそうだ。「田舎」より「都会」、「モノ」より「コト」という流れに流されて、自分を見失ってしまいそうな青年たち。そう、Flash and Gleamの記事で紹介した最近のレミオロメンです。で、彼らの本来の姿、そして彼らをとりまく豊かな「モノ」の姿をぜひ観ていただきたい!私はこれを観て、実に豊かな気持ちになりました。これが彼らが育った「田舎」であり、彼らを育てた風土であり、空気であります。ホント、このページの味わいはたまりません。ファンの方も、ファンでない方も、ぜひご堪能下さい。彼らの出身校、御坂中学校のホームページです。
 2003年度三年生を送る会 レミオロメン来校
 「感動しました」と「盛り上がっている教頭先生」の写真、いいですねえ。そして、動画の見事な編集ぶり。教頭先生とおぼしきflash and gleamが…(笑)。
 それにしても、3月9日の発売日に、こんな素敵なライヴが実現したなんて、本当に後輩の皆さん、よかったですね。ちなみに当時御坂中の1年生で、生で彼らを見たという生徒が、ウチの学校にもいます、はい。

ps トップページに戻って、Buuchanちゃんの動画も必ず見ましょう!!

第1回レミオロメン聖地巡礼の旅の記事へ

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2006.11.16

都市のバックアップ〜小松左京の言葉から

Skomatsu わ〜い、いつのまにか30万アクセス達成!!塵も積もれば山となる。あっ、すみません、皆さんの有難いご訪問を塵だなんて…。ごめんなさい。本当にありがとうございます。さてさて、今日はそんな「集積」のお話など…って、全然反省してないやん。
 一昨日放送されていたBSフジの「メッセージ.jp」を録画で観ました。メッセージの主はSF作家小松左京さん。いろいろと含蓄のあるお言葉をいただきいい気分です。戦後すぐの頃から骨太のSFを書き続けている小松さん。私も子どもの頃にずいぶんとお世話になりました。ここのところ、全然読んでませんね。今読めば、きっと単なるフィクションとしてだけではなく、それこそいろいろなメッセージを読み取れるような気がしました。
 左京さんのお言葉の中で、なるほどそうだあ、ああこれもやっぱりあれだな、と思ったのが、名作「首都消失」にかかわる発言。首都がなくなったらどうなるか、コピーをとっとかなきゃ、みたいなことをおっしゃってました。この前、書きましたように、私は、都市化とは「コト化」だと考えています。情報を箱に詰める作業のような感じでしょうか。それで、固定していく。エントロピー増大則に従うまつろわぬ「モノ」どもを統制下に置いていくんです。人間の脳がそういうふうに出来ている。脳内でも、「コトの葉」を使って、分別して、区画して「コト化」を進めます。その欲求には限りはなくて、とにかくどんどん集積していく。それが例えば東京のような都市になっていくと。
 これって、ハードディスクなんかがどんどん大容量化していって…つまり、どんどんデータを入れたくなるわけですね、一ヶ所に…、それに不思議な快感を覚えるのといっしょですね。さらに、不思議なことに、私もよく経験しますが、快感とともに妙な不安も抱く。これが壊れたらそれこそ全滅だな、今まさに壊れるかもしれない、って。だからバックアップ取るんです。
 養老先生が都市化とは「脳化」であるとおっしゃっていますが、私はちょっと違った視点でそれを「コト化」と言っているのだと思います。そして、「コト化」を表す動詞が「カタル」であると。そうして、どんどん語られ、騙られていく「モノ」たち。閉じこめられた「モノ」たちが再び拡散するのが、カタルシス(語る死す…なんて、これはシャレっす)じゃなくて、クライシスですね。人間だったら、脳の損傷だったり、ボケだったり、まあ究極的には「死」ですか。ハードディスクも5年もしないうちに死亡しますね。落としても損傷しますし、ほっといてもボケたりします。
 では、都市はどうでしょう。これはやはり人間の脳に近いんでしょうね。デジタル化できませんから、コピーを取りにくい。完全なバックアップは不可能です。しかし、左京さんの言うように、似たものをいくつか作っていろいろな所に配置しておくというのは、実際ありかもしれませんね。首都移転ではなくて、首都複製でしょうか。
 ま、こんな妄想をいろいろとしてしまったんですが、たしかに小松左京さんの先見の明は素晴らしいし、洞察力の深さ鋭さは尋常ではありませんね。久々に読み返してみたくなりました。近い内に必ず。

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2006.11.15

『インドネシア・スマトラの音楽 アチェと西スマトラのムスリム音楽』 (「イスラムの音楽」第15集)

Music of Islam, Vol. 15: Muslim Music of Indonesia
B00000080501_aa240_sclzzzzzzz_ 今日、学校でちょうどインドネシアの津波の話をしてたんですよ。インドネシア語の勉強をしたいという子がいて(他校の生徒ですが…ウチの学校は他校の生徒も勉強に来るんです)、論文指導してる中で、火山やら地震やら津波やらの自然災害についての話になった。日本の津波警報システムの優秀さとか、自然災害に対する知恵なんかを教えてたんです。そしたら日本で津波警報ですからね。びっくりしました。
 それも、ちょうどウチに帰ってきて、インドネシアの伝統音楽を聴いていた時だったのでさらにビックリ。やっぱり私はスピリチュアル地震予報士になるべきか?…w
 どうも、ここ数年、環太平洋火山帯のこちら側が元気いっぱいなんですよね。ムラピ山の噴火やスマトラ、ジャワの地震と、今回の択捉島沖地震、かなり離れていますけれど、地球スケールで見れば、同じ道沿いの3軒となりって感じですからね。特に今回の地震はM8.1(IRISによれば8.3)ということですし、千島あたりはかなりストレスがたまっている箇所なので、お隣さんを刺激する可能性がけっこうあると思います。
 ちなみに海ナシ県山梨のテレビは、ぜ〜んぜん津波警報の画面出してませんでした(笑)。
 というわけで(?)、今日のおススメはインドネシアの音楽です。インドネシアは海のシルクロードと言われているくらいでして、東西の音楽の合流点であります。ポピュラー音楽も独自の発展をしているとのことで、ちょっと興味があるんですけど、今日はとりあえず伝統音楽を。
 もちろんNMLで聴きました。インドネシアだけでも10枚近く聴けます。NMLのいいところは、世界の民俗(民族)音楽を聴けるところですね。なかなか買ってまで聴こうとは思わない。
 それで、だいたいどこの民俗(民族)音楽を聴いても新鮮そのものであるわけですが、インドネシアのそれはなんというか、まあ新鮮ではあるのですが、どことなく聴いたことあるような懐かしいような…。ホント不思議な感じでした。もちろん島によっていろいろな音楽が存在するわけです。バリのケチャは有名ですよね。そんな中、今日は伝統的なイスラム音楽を中心に聴いてみたのでした。
 アチェのそれは音階がほとんどあってないようなもので、ヴォーカル曲はお経を読んでいるような感じです。インドネシア語の音韻も手伝って、一瞬日本のどこか地方の民謡を聴いているような錯覚に…。器楽曲もパーカッションのリズムの感じが日本の祭りばやしのそれと大差なく、不思議なほどに違和感がない。
 西スマトラの音楽は対照的にメロディアスです。非常に美しい。音階は何種類かあるようですが、節回しは日本の伝統的民謡風のものあり、大正歌謡風のものありって感じで、なかなか楽しめます。
 私は、全体として、パーカッションだけの曲に興味を持ちました。決して激しくなく、静かに淡々と延々と続けられるタイプのものが多く、その響きにひたっていると、なんとも不思議な気持ちになってくるんです。一番長いものは30分に及ぶんですが、これはある種のトランスミュージックですね。微妙なテンポの揺れが心地よい。ケチャも基本的にこのタイプの音楽です。
 考えてみれば、日本の文化、音楽や言語のみならずいろいろと、南の方からやってきたわけでして、懐かしく感じるのも当然と言えば当然ですね。NMLでいろいろな国の音楽を聴くたびに、つくづく日本人の自分には、いろんなDNAが混在してるんだなって思いますよ。
 ああ、こういう音楽を現地で生で聴いてみたいなあ。これは、世界各国に教え子を派遣するしかないな。みんな頑張ってくれ!

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2006.11.14

「募金」に関する野暮な思索

Head_logo 昨日、赤い羽根が机上に配布されておりました。なるほど、そういうシーズンですね。今年は60年記念なんですね、赤い羽根。
 昔から思ってたんですけど、この羽って何の羽なんだろう、この時期になると、1億人分くらいむしられるのかなあ、なんで赤いんだろう、赤く染めるのに金かかるんじゃないかなあ…等々。
 もちろん、そういう疑問を持つ人は他にもいるわけでして、赤い羽根共同募金のホームページに行くと、その答えがちゃんと書いてあるわけです。
 それによりますと、羽はニワトリのもの。食用などで処分されたニワトリの羽を使うそうで、廃物利用なんだとか。赤は「勇気」「よい行い」の象徴。なるほどね。 
 で、あの羽を作るのに1枚1.6円かかるそうです。単純に1億枚作るとすると、なんだかんだ言って1億6千万円かかるってことですね。年間何枚作っているかというデータはありませんが、だいたい1年で220億円の募金があって、一人当たり180円くらい財布やポケットから出しているようなので、まあのべ1億2千万人くらい募金してるわけですよね。で、法人なんかの大口もあるでしょうから、少し割り引いて1億枚くらいかな、という予想。
 この1億6千万円を高いと思うか、安いと思うかですね。羽を配らないで単純に募金だけしてもらうのが、収支としては理想的な形ですが、たしかにこういうシンボル的なものがないと、人間はケチですからね、なかなか募金なんかしない。ああやって、テレビのアナウンサーも政治家も、私は募金をした「勇気ある、よい行いをした」人ですと言わんばかりに、赤い羽根を胸に付けるというのも、なんというか風物誌とでもいうか、まあささやかな自己主張としてありかな、とは思います。どうせじゃあ、100円につき1枚とかして、政治家なんか全身に赤い羽根をまとうというのはどうでしょう(笑)。なかなかゴージャスですよ。
 さて、募金と言えば、路上のしつこい募金箱首ぶら下げ隊ですね。あれも一種のストリート・パフォーマーなのでしょう。だいいち、ああやって一日中突っ立ってるんだったら、そこのマックででもバイトして、その収入の半額でも寄付した方がずっと効率がいい。私だったらそうしますが、まあ、彼らにはそのパフォーマンスによって訴えたい内容というものがあるのでしょうから、こんな本当のことを言うのは、それこそ野暮というものでしょう。
 野暮ついでに、24時間テレビ、あれについてはいつもこう思っています。24時間放送休止テレビというのがあれば協力すると。ああやって、めちゃくちゃタレントさん使って、おおがかりな演出して、スポンサー募ってやるんだったら、それにかかるお金をそのまま寄付しなさいと。どうせだったら、24時間放送を完全に休止して、それで浮いたお金を寄付せよということです。あるいは、そういう趣旨に賛同する心ある企業や個人は募金すればいいと。まあ、あれも結局、パフォーマンスであって、愛はなんちゃらというメッセージがこめられているということなんですね。
 最近、世の中では、ホントのことを言っちゃった野暮なニュースが飛び交っていますけど、まあ私が観察するに、どうも意味のない、あるいは意味の転倒した風習というのと、それを突然「おかしい!」と指弾する野暮な行為とは、どちらも「祭」に属するもののような気がします。日常にひそんだ「ハレ願望」の発露であると。
 というわけで、今日の私の野暮な思索も、ささやかな日常への抵抗、ちょっとした祭であったというわけです。以上。

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2006.11.13

『樂ってなんだろう』 樂吉左衛門 (淡交社)

   楽焼創成
447301825309_aa240_sclzzzzzzz_ 先月、本物の樂焼ではないけれども、まあ「楽焼」に分類されるであろうモノを手に入れました。それは私の敬愛するある大人物の作でして、縁あって私がお預かりすることになったのでした。本当はここに紹介したいのですが、諸般の事情がそれを許しません。しかし、直接我が家を訪問された方には、普通にお見せできますし、もちろん手に取っていただくことも可能です。ただ、そうとだけ申しておきます。
 さて、今まで焼き物や茶の道にそれほど興味を抱かなかったワタクシでありまするが、そんなわけでここへ来て、俄然そちらに興味を持ち始めました。いつも単純な私です。
 それで、まずは「樂ってなんだろう」という基本的な疑問が湧いてきまして、それに答えてくれる本を探していましたら、茶道をたしなむ同僚がこの本を紹介してくれました。あらまあ、タイトルそのまんま「樂ってなんだろう」じゃないですか。おっ、よく見ると吉さんの自筆サイン入りだ。なんかいいなあ。
 で、樂家の現宗匠であられる樂吉左衛門さん御自身によるこの美しい本、ながめているだけでたしかに「楽しい」。いや、楽しいから「樂」ではありませんけれど、登場する歴代の銘器たちが、どれも自然な言葉で語りかけてくること。写真で見るだけでも、そんな感じですから、手の中におさめて、その体温まで共有したなら、どんなに「楽しい」ことでしょう。
 解説もわかりやすかった。でも、結局のところ、「樂ってこういうものだ」という結論には至りませんでした。たぶん、吉左衛門さんもあえて答を提示しなかったんだろうと思います。そう、千利休のアイデアとは、まさにそういう簡素な問いそのものであったのではないでしょうか。
 もちろん、利休の茶の道には、禅宗の影響が大です。「〜ってなんだろう」と問い続けていくことの「楽しみ」こそが、茶の、禅の、そして樂の醍醐味、三昧境なのだと思います。無駄がないからこそ、そして、「作り」の要素が小さいからこそ、本質に迫ることができる。モノ(自分にとっての外部、不可知、不随意)がモノのまま、語りかけてくる。それをコト(自分の内部、分別、随意)にしようとして、しかし、結局はそれを完全に拒否されて、モノのまま受け容れなければならなくなる。それこそが大いなる「楽しみ」なのでしょう。
 そんな「樂」の世界に、間接的であるとはいえ、こうして触れてみますと、ウチにやってきたこの盌もまた、実にリラックスした言葉で語りかけてくるようになるんですね。つまり、こちらの心が開かれたと。まるで、茶碗に注がれた茶自身のように、碗に包まれ、そして碗に従って、ここにある。そういう不二の境地に至るわけです。
 利休が考案し、そして長次郎がそれを具現化したこの樂茶碗という世界、やはりそこにこめられ、またそこから発散される何かがあります。その何かとは、結局のところ「〜ってなんだろう」という問いに収斂されていくべき「モノ」なのかもしれません。

Amazon 樂ってなんだろう

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2006.11.12

『CALLE54』 フェルナンド・トルエバ監督作品

4517331080046_1 この素晴らしい映画をおススメするのを忘れてた。ラテン・ジャズを知らない人、いやジャズを聴かない人、いや音楽に関心のない人でも、とにかくだまされたと思って観て聴いてみてください。絶対に「いい!」と思うはずです。
 アカデミー賞受賞監督フェルナンド・トルエバによる音楽ドキュメンタリー映画です。CALLEは「カジェ」と発音するんですね。スペイン語でしょうか。streetということ。マンハッタンの54番街というところは、ラテン・ジャズのメッカなんだそうです。そこを舞台にした素晴らしい音楽が収録されています。現代を代表する多くのラテン・ジャズ・ミュージシャンが目白押し。
 なんて、私、ラテン・ジャズには詳しくありませんので、正直知っていたのはミシェル・カミロくらいなもんでした。でも、名前を知ってるか、顔を知ってるかなんていう、いわゆる知識なんてものは、音楽の享受にはそれほど重要な要素ではないということが、この映画を通してはっきりわかりますよ。それほどすごい。
 この映画の素晴らしいところは、そうしたすごい演奏が実にシンプルに、しかしていねいに記録されている点です。簡単なミュージシャンの紹介のあと、すぐにスタジオ・ライヴ映像。落ち着いていて、自然な流れのカメラワーク、奏者も楽器も双方とも美しい。そして、演奏終了後の、あのなんとも言えない空気を、しばらくの間収めています。充実感と幸福感にあふれる奏者たちの表情もまた、私たちに至福の時を与えてくれます。
 この監督さんは、本当に音楽を愛している。音楽を、楽器を、人間を愛している。それが伝わってくるんですね。だからこそ感動する。
 こういうものを見せられ、聴かせられると、本当に人間ってすごいなと思います。楽器を演奏するテクニックだけとっても、もう宇宙で最高レベルの曲芸だと思いますけど、もちろんそんなことよりも、あの「息が合う」感じ、アンサンブルの妙は、ある意味宇宙という存在すら超えてしまっているのかもしれない。物理法則とか、そんなスケールではなくて、魂の部分での共鳴が起きている。こういう体験をしている時には、人間というのは素晴らしい存在だと思います。捨てたもんじゃないなって。
 あと、これも書いておきましょう。やっぱりピアノって打楽器ですね。ラテンのスピリットが、ピアノの本来の機能を目覚めさせているのでしょう。どのピアノも非常にパーカッシヴでかっこいい。
 とにかくこれを観ずして死ねない!というほどの名盤DVDであります。絶対におススメ。以下に一応内容を記しておきます。
1 Panamericana - Paquito D'Rivera /sax、clarinet
2 Samba Triste - Eliane Elias /piano
3 Oye Come Viene - Chano Dominiguez /piano
4 Earth Dance - Jerry Gonzalez /flugelhorn、conga
5 From Within - Michel Camilo /piano
6 Bolivia - Gato Barbieri /sax
7 New Arrival - Tito Puente /timbales、vibraphone
8 Caridad Amaro - Chucho Valdes /piano
9 Afro-Cuban Jazz Suite - Chico O'Farrill /big band
10 Lagrimas Negras - Bebo Valdes Cachao / piano、base
11 Compa Gayetano - Orlando 'Puntilla' Rios Carlos 'Paato' Valdes / vocal、conga
12 La Comparsa - Bebo Valdes Chucho Valdes / piano

Amazon CALLE54

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2006.11.11

おめでとう!若き日本画家たちに期待します…in山形

061111ymgt 山形に行ってきました。教え子の結婚式でした。
 彼女はなかなかすごい子です。高校時代は書道をやっておりまして、最初の大学に入ってすぐに毎日書道展に入選しました。ところがその後書道界に見切りをつけて、日本画の世界へ。最初の大学を卒業後、芸術系の大学に入学しまして才能を発揮し、昨年4年生の春に院展初入選、その後秋、春、秋と4回連続で院展入選を果たしています。現在は大学院生ということですね。で、旦那さんになった人もまた、同大学の院生でして、こちらも院展13回入選というツワモノ。同業者どうしの学生結婚ということです。
 会場はちょっとした二人展になっておりまして、素晴らしい作品たちをじっくり観る機会を得ました。明暗を独特な感性で捉え、それを理知的な構成美で表現する御主人の作品と、書的で躍動感あふれる線を特徴とする直感的な彼女の作品とは、それじたいが日本画的なコントラストを成していたように感じました。
 祝辞で学長さんもおっしゃっていましたが、芸術家同業者どうしの結婚というのは、作品制作の上で想像以上の困難をもたらすものです。でも、たぶんこの二人ならば、作品の上でも幸福なコラボレーションを実現することでしょう。大いに期待いたしましょう。
 私は、山梨の風景を織り込んだオリジナルカラオケDVDを作って、3月9日をヴァイオリンで演奏いたしましたが、考えてみると芸術家が大勢いる中で恥をさらしてしまいましたね。ま、小林武史は山形出身でレミオロメンは山梨出身ということで、お許しを(そんなこと誰も興味ないでしょうけど)。
 私のテーブルは、私以外は様々な大学の先生方が8人ということで、いろいろとお話をうかがうことができました。そういう出会い、私は大好きなのでとっても楽しませていただきました。特に、おとなりの地理学の先生とは静かに盛り上がってしまいました。ご専門は「洪水」ということで、森林、里山、水田、都市化、水利、治水、温暖化幻想、江戸の知恵などなど、たいへん勉強になりましたねえ。ありがとうございました。
 絵の方に話を戻しますが、実は私も昔は画家にでもなろうかなんて思ってたんですよ(冗談じゃなくて)。実際かなり長い期間習いに行ってましたしね。でも、いつのまにか夢は夢のまま色褪せてしまった。それをこうして教え子が代わりに実現してくれるんですからね、教師という仕事はホントいいですよ。私は無謀な夢をたくさん抱いていましたし、今でも抱いていますので、彼女以外にもたくさんの教え子たちが、私の夢を実現してくれているというわけです。特に芸術系ね。だから、心から感謝しますし、応援します。
 今回はなかなかの強行軍でして、昨夜の8時に富士山を出発して、先ほど帰ってきました。車で行ったんですけど、まあだいたい片道8時間ってとこですかね。秋田行きで慣れているので、ほとんど日帰りでも苦になりません。各種ETC割引と一般道を駆使しまして、往復で通行料は9000円ほどに抑えました。割引のための時間調整のため、いろんなところで細切れに睡眠をとったり食事をしたり、また東北南部の自然を満喫したりと、なかなか楽しい一人旅でした。

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2006.11.10

『グーグル・アマゾン化する社会』 森健 (光文社新書)

433403369501_aa240_sclzzzzzzz_v40027801_ 写真でかいぞ、Amazonよ。今後こうなるってことかな。そのうち慣れるか。
 さて、Amazonはちょっと置いといて、私にとってGoogleはライバルです。こんなことを書くと、失笑を買いそうですが、けっこう本気です。
 どういう意味でグーグル君と好敵手なのかと申しますとですねえ、まあ、まずは彼と接する時に私が何を意識しているかを紹介しますか。ここでは検索機能に限ります。
1 相手の手の内を知り、相手を利用して自分の能力を伸ばす
2 相手にこちらの手の内を悟られないようにする
3 相手に認められようとする
 こんな感じです。これってライバルに対する感情と似てますよね。
 1はそのまんま検索技術の向上を目指すということ。つまり、いかに彼にこちらの希望通りの検索結果を出させるかの勝負です。簡単に言えば、どういう検索ワード、フレーズを使うかということです。これについては「我こそ」と思う方も多いでしょう。私もそこそこ自信があります。よって、いろんな人に頼まれて検索に励みます。
 2はですねえ、ちょっと面倒な話になりますけど、グーグルってサイトや検索内容の情報を蓄積して、その人のパーソナリティーやキャラクターを勝手に決めていくんですね。このサイトの主の趣味はどうもこういうことらしい、とか。で、広告を打ったりする。AdSenseですね。そういう作業をスムーズにさせないようにしたい。別に意味はないんですけど、なんとなく悔しいんで。例えば、このブログなんか、けっこうネタも意見もメチャクチャですので、グーグル泣かせかもしれません。古今東西硬軟聖俗なんでもござれ!なので、抽象しにくいでしょうな。で、実際AdSense見たりすると、けっこう混乱していて面白い。Amazonのレコメンドや自動広告も同様です。
 3はずばりページランクですね。そのページの重要度が、Googleによって10段階で評価される。今、このブログのトップページのランクは「4」です。まあ、地味な個人ブログとしては健闘してる方じゃないですか。どういうところが認められているのか分かりませんけどね。重要なページからそれほどリンクされているとは思えませんけれど。
 で、今日もたまたま感じたんですけどね、ページランクとは関係なく、なんか異様に上位に検索されるページがあるんですよ。右の人気記事をご覧になるとお分かりのように、今日はこの記事の閲覧が久しぶりに激増しました。何があったか知りませんけど、「藤原正彦」という検索ワードで皆さんが(だまされて)訪問しているんですね。この記事、ほぼ一年にわたって、一度もこのランキングから消えませんでした。すごいですねえ。で、なんでそういうことになるかと言いますと、Googleで「藤原正彦」と検索すると、Wiki、はてな、Amazonに次いで、私の駄記事が出てくるんです。84万件中ですよ。ありえません。これはどう考えてもGoogleが間違えています。混乱していますね。そんなつもりで書いてないから恥ずかしくてしかたない。
 優秀だと言われるGoogleのシステムも、こんな単純な勘違いをするものなんです。ページランクの発想は確かに優秀ですが、もちろん完璧ではありません。
 あれ?なんだか話が妙な方向に行っちゃった。ま、これもいつものことで、私の授業とおんなじです(笑)。こんな感じだから、まじめなグーグル君はついてこれないんだよな。ちゃんと本の紹介しないと。
 え〜、そんなよきライバルである?グーグル君や、よきパートナーであるアマゾン君ですけれど、彼らの今までや今後を中心としたWeb2.0の世界の概説書として、この本は実に有益でありました。依然読んだウェブ進化論とかぶる内容も多かったものですから、得意のつまみ読みで1時間ほどで読みきりました。まあ、それだけ分かりやすいということです。
 今、ネットの世界や最先端の商売の世界で何が起きているのか知りたい方には、かなりおススメです。でもきっと来年の今ごろになったら、もう古くさい内容になっちゃうんだろうな。読むなら今です。
 ところで、読んでて思ったんですけど、情報の世界って、エントロピー増大則に対する必死の抵抗なんじゃないかな。網(ネット)張って、やたらリンクさせて、一生懸命つながっていようとする。ばらけてどっかに飛んでってしまいそうな自己や社会なんていう幻想を、なんとかここに留まらせようとしている。
 また、得意の「モノ・コト論」で申し訳ありませんが、エントロピーが増大し続けるということは、全てが不随意に拡散し、また乱雑になっていくということでして、つまり私の言う「モノ」の性質を表しているわけです。それを何とかしようとするのが、「コト化」でありまして、それはすなわち「脳化」「都市化」でもあり、言い方によっては「グーグル・アマゾン化」ということなのです。ここでも、私の「モノ・コト脳」はなるほど!と思ってしまったと。
 ま、「コト」よりも「モノ」を重視するワタクシとしましては、「コト」の権化のような彼らの言いなりにはなりたくないわけでして、上記2のようなささやかな抵抗をしているのでした。ネット上の「モノノケ」であるために…ね。

Amazon グーグル・アマゾン化する社会

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2006.11.09

ELLEGARDEN 『ELEVEN FIRE CRACKERS』

B000hd1bcg01_aa240_sclzzzzzzz_v39656534_ なんかAmazonの写真がでかいぞ。でかすぎるな。でも小さくするのは面倒だから、今日はこのまま行きます。
 まあ、でもこのくらいでかくてもいいんじゃないですか。それほどいい音楽ですよ。けっこう気に入りました。エルレガーデンと言えば、私にとってはサラリーマンNEOの大河内でした。一見、いや一聴洋楽かな?と思わせます。流暢な英語にだまされそうになるわけですが、よく聴くと日本的なメロディーづくりであります。よくわかりませんが、たぶんジャンル分けしますと(不毛かもしれませんが)、メロコアでしょうか。いやエモパンク?そんなのあるのか?よくわからんが、とにかくとってもメロディアスでありつつ、ある意味アンバランスにハードなんですね。荒々しくて、かつ繊細。ちょっと攻撃的かと思うと、実はおセンチ。まあ、いつも言っている演歌ロックでして、つまり日本的な発展形としてのロックであります。
 とにかくキャッチーなメロディーの連続。ま、どこかで聴いたことあるようなないような、という感じであり、決して新しい感じはしませんが、大変シンプルでいいんじゃないでしょうか。ワタクシ的には聴き込むタイプの音楽ではありませんけど、たぶんライヴでは大盛り上がりでしょうねえ。こういう一発でわかるメロディーというものの大切さを、最近実感しています。
 ヴォーカルの声色やストレートな楽器の音のイメージから、私は一瞬MEWを思い出しました。彼らはもっともっと複雑なことをやっていましたが、基本がメロディーというのは同じです。MEWはメロプレかな(なんじゃそれ)。ちなみに彼らはセカンド・アルバムで死にました(合掌)。
 エルレは現在インディーズとして活動しています。私としてはぜひそのままのスタンスで行ってほしい。このアルバムもどかんと売れていますので、当然悪い?大人たちが目をつけて、彼らを誘惑するでしょう。そして、商業主義の波に流されてアイランド…なんてことにならないよう祈ります。タイアップは、せいぜいサラリーマンNEOくらいにしておきましょう(笑)。
 日本の中で音楽で喰ってくってホント大変だよなあ。環境悪過ぎ。音楽自体に対する敬愛の念がないというか。最終的には、そういう商業的土壌を許す聴く耳の質の問題だと思うんですけどね。せっかくの才能がどうも活かされない今日この頃です。
 さて、話を戻しますが、エルレは英語詞がほとんどです。英語でなければできないロックというのがあるのは確かでして、彼らはそのへんをうまく活かして上手に洋楽チックにふるまいます。さきほどは演歌ロックと書きましたが、その演歌ロックの系譜の中においては、やや洋楽色が強いわけでして、そのポジション自体がちょっと不思議で新しく感じられるんでしょうな。若者にはね。我々の世代、バリバリに洋楽ロックで育ったオジサンにとっては、懐かしいけど、やや気恥ずかしさみたいなものもあったりします。
 英語なわけで、英語話者でない私には、ストレートには歌詞が伝わってきません。で、よく読んでみると、けっこう暗いというか重いことを言っている。そのまま日本語で歌えば、まさに演歌ロックそのものという感じです。でも英語だから音に乗っかってズカズカ入りこんでこない。そこんとこのクッションの存在というのもまた、ベタに引いてしまう若者層を取り込む要因になっているのかもしれませんね。
 これからの活動に注目いたしましょう。

エルレ公式

Amazon ELEVEN FIRE CRACKERS

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2006.11.08

『富嶽百景』 太宰治

Fuji1108 今朝の富士山です。たいていこうして一夜にして雪化粧する。それで驚くことが、年に一回ずつあるわけです。それで思い出して、今日の授業で「富嶽百景」を講読いたしました。講読ってのは、単に私が読むということです。太宰のこの時期の文学にとって「講ずる=調子よく音読する」というのは非常に重要な要素であります。
 以前、太宰の作品としては「走れメロス」「カチカチ山」を紹介しました。走れメロスでは、太宰から聞いた(?)真実を書いてしまって、あとで太宰に怒られちゃいました(笑)。それから、カチカチ山のところで書きましたが、今年は悲しいことがあったんですよね。「富嶽百景」に登場する外川ヤエ子さんが事故でお亡くなりになってしまいました。今日あらためて読んでみまして、本当にヤエ子さんが太宰のことを思い、そして太宰もヤエ子さんを心から慕っていたんだなあ、と再確認いたしました。
 さて、この愛すべき名作、教科書にも採られていますが、だいたい一部省略されています。なんでその部分が省略されているのか、というのが、また勉強になるわけですけど、まあとにかくあれじゃあ骨抜きになってしまう。特に私たちのようにあの小説の舞台そのものの上に住んでいるものにとっては。
 そう、あの作品はほとんど生徒たちの居住区上で展開されていくんです。ですから、もう解説抜きでいろいろ実感できる。私がリズムよく音読するだけで充分なんです。幸せなことですね。
 太宰の作品の中でも、最も美しいと言って良いであろうあの部分、そう「富士に化かされた」シーン。

 路を歩きながら、ばかな話をして、まちはずれの田辺の知合いらしい、ひっそり古い宿屋に着いた。
 そこで飲んで、その夜の富士がよかった。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰っていった。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐が燃えているような感じだった。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでいる。私は溜息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思った。ちょっと気取って、ふところ手して歩いた。ずいぶん自分が、いい男のように思われた。ずいぶん歩いた。財布を落した。五十銭銀貨が二十枚くらいはいっていたので、重すぎて、それで懐からするっと脱け落ちたのだろう。私は、不思議に平気だった。金がなかったら、御坂まで歩いてかえればいい。そのまま歩いた。ふと、いま来た路を、そのとおりに、もういちど歩けば、財布は在る、ということに気がついた。懐手のまま、ぶらぶら引きかえした。富士。月夜。維新の志士。財布を落した。興あるロマンスだと思った。財布は路のまんなかに光っていた。在るにきまっている。私は、それを拾って、宿へ帰って、寝た。
 富士に、化かされたのである。私は、あの夜、阿呆であった。完全に、無意志であった。あの夜のことを、いま思い出しても、へんに、だるい。

Monzen 私の研究によれば、この宿屋のあった場所は、現在私の学校の職員駐車場になっています。また財布を落とした道は、本校の母体になっているお寺の門前道です。まあ、ほとんど学校の敷地内みたいなもんです。
 私は若かりし頃、太宰に心酔していたころですね、この名シーンを再現すべく、着流しなど着込んで、近くの飲み屋で一杯ひっかけて、月夜にフラフラこの道を歩いたんですよ。それで、わざと財布を落としてみた。それで、しばらく歩いて、ふと気づいたふりして、来た道を戻ってみたら…財布は路のまんなかに光っていなかった。ないにきまっている。私は、泣きながら、宿へ帰って、寝た。太宰に、化かされたのである…なんてこともありましたな。懐かしい。
 さて、この小説の舞台になった天下茶屋にはちょっとした太宰のいたずらにより、私は出入り禁止になっております(笑)。あっ、それはここに書きましたね。ははは。
 それから、それから、この富嶽百景を現代ドラマ化した映画「富嶽百景〜遥かなる場所〜」が今年公開になりましたね。私はまだ観ていません。痛い作品になる要素満載ですが、舞台を現代にしたことによって意外にいいのかもしれません。いずれ観てみます。

Amazon 富嶽百景・走れメロス

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2006.11.07

『小学校に英語がやってくる?』(NHK教育)

~教室で何が起きているか~小学校現場の苦悩と模索〜
Enen またカミさんとケンカになりました(笑)。この話題になるとウチではケンカが起きます。私とカミさんの基本的な姿勢は鈴木孝夫大明神と同じでして、そういう意味では一致しているはずなんですけどね。なぜかケンカになる。
 というわけで、昨日に続き録画ネタです。日曜日の夜に90分番組として放送されました。それをカミさんと観ながら、最初は「痛いな、だめだこりゃ」みたいな感じで意気投合していたんですけどね、なぜか最後はケンカに。
 これはですねえ、やはり二人の立場が違うからでしょう。同じ考えであっても立場が違う。私は国語のセンセイですし、英語なんか必要な時に必要なだけ勉強して必要なだけしゃべればいいというスタンスの人間です。カミさんは、今や大所帯になった私設の子ども英語教室のセンセイですからね。
 つまり、むこうは大変な自己矛盾を抱えて仕事してるわけです。そこをツンツンと刺激するとムキーッとなるわけで、まあそれを誘導する私も確かに性格悪いっすね。
 いや、私もただただ早期英語教育に反対し、英語より日本語を!なんて野暮なことはいいません。実際、カミさんが言うように、子どもたちは純粋に外国語学習に興味を持っている。ある意味スポーツや音楽以上に、みんなが同じくらいの能力とやる気を発揮する。ですから、全然いいんです(…国語のセンセイが全然いいなんて日本語使うな!っていう野暮もなしね)。
 ただですねえ、この番組でもその実態が露呈していましたし、いろんな偉い方々も述べておられましたが、それでどうすんの?ってとこが欠落していることに腹が立つんですよね。特にお役人さんと親御さん。もちろんセンセイたちもか。
 国際化してどうするのか。国際人になるとどうなるのか。国際交流って何なのか。英語は金もうけの道具なのか(どっかの国は本気でそう思ってますね)。いや、英語はおしゃれな道具なのか。そういう議論がほとんどなされず、いつも私が言う「集団気分」だけで、大の大人が右往左往し、子どもたち(とセンセイ)が振り回される。そういう状況がいやなんです。バカな大人がたくさんいて、バカじゃない子どもたちが犠牲になるのがいやなんです。最近の未履修問題もそうだけど。
 というわけで、カミさんとの抗争はいまだ続いておりますが、私の究極の結論はですねえ、そういう無駄な争いをしないための国際化だと思うんです。平和のために決まってるじゃないですか。別に高邁な理想を掲げてるんじゃないですよ。お互い謙虚に受容して発信して、お互いを「おお、いいヤツじゃん」と思えればいいんです。何かあった時に、まああいつはいいヤツだからちょっと攻撃やめよう、でいいと思うんですね。そのための国際交流であり、国際観光であり、英語教育だと、私は勝手に思っています。たとえばそういうふうな理念だったら子どもたちにも分かりますよねえ。なんか違いますか?
 だから、専門でもない教員に英語を教えさせたりせず、地域に住むいろんな国籍の人たちを呼んできて、いろいろ交流すればいいんですよ。まあ、そういうこともやってるようですが、そっちをもっと体系的にする方が先じゃないでしょうか。
 なんて、そんなこと言う前に、身内の国交回復のために異文化交流しなくちゃね。いやあ、ウチの中でも難しいんだからねえ。外国ととなると、たしかにそう簡単にはいかんわな。

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2006.11.06

『自衛隊制服組の叛乱 ソビエト軍を撃滅せよ!』 (NNN ドキュメント’06)

20061105 昨夜というか今日の未明に放送されたものの録画を観ました。かなりの衝撃を受けましたねえ。え〜!?と同時にやっぱり…という感じ。
 ミグ25が函館空港に強行着陸したというニュースは、記憶に鮮明に残っていました。30年前ですから、私は小学校6年生でしょうか。ただ、当時の私はもちろん、大人たちも、あるいは当時の政治家たちも、また函館以外の自衛隊員も、これほどの事態であったとは、きっと知らなかったでしょう。私は今日初めて知りました。番組中では海部元首相も「知らなかった」と言っていました。
 軍事機密満載のミグをソ連軍が必ず奪還しに来る、あるいは破壊に来ると判断した函館の駐屯地では、連隊長の判断の下、独自の作戦が進行します。実際に武装し実質的な出動命令も出ていました。
 その時の様子を語る当時の関係者の口からは、「突進」「阻止」「運命」「撃滅」「命をかけて戦う」「命令にこだわらない」「俺が先頭に立つ。俺たちが戦わずして誰が戦うのか」「ソビエト軍破砕」「日本のため」「生きて帰ってくるなんて思っていない」「国を守る使命」「命なんてどうでもいい」「任務達成」、こういった言葉が…。
 もう現場では完全に戦争だったわけです。当時のニュースなどでは、このようなことは全く報道されていませんでしたね。なんか、自分の記憶にも鮮明である比較的近い過去に、こういう緊張感を持った瞬間があったんだということに、いまさらながらそれこそ緊張しました。
 シビリアンコントロールって何なのでしょう。現場では文民の命令を待つ余裕はありません。安倍政権の考える防衛構想なんてものも、実際の有事にはほとんど意味をなさないでしょう。北朝鮮のミサイル攻撃のみならず、各種テロの危険も想定しなければならない現状で、いったい私たちはどのような覚悟をすべきなんでしょうね。いろいろ複雑な気持ちになってしまいました。
 「叛乱」というのはちょっと語弊があるかもしれませんね。彼らは国を守るために戦おうとしたわけですから。アメリカに亡命を果たしたベレンコ中尉がやったことは「叛乱」ですけど。アメリカで幸せそうに暮らしているベレンコ中尉もインタビューに応じてました。彼こそ命がけで自由を勝ち取ったわけですが、その後のソ連崩壊、冷戦の終焉を、彼はどんな気持ちで見ていたのでしょう。

NNN ドキュメント’06 公式

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2006.11.05

お客様&ETC割引に感謝

横浜市開港記念会館
Yokokai 本日のカメラータ・ムジカーレ横浜市開港記念会館公演にご来場くださった皆様、ありがとうございました。おかげさまで、盛況のうちに無事終了することができました。今日は私も久々に全く緊張せず、楽しく演奏することができました。昨年は悲惨だった…(笑)。打ち上げは横浜ベイクォーターなる超都会的なところ。ふだん山の中に生息しているワタクシたち家族は、なんだか異次元空間にいるようでして、特に子どもたち、妙なテンションになっちゃいました。
 打ち上げ終了後、横浜を出てから2時間半くらい車を走らせ、夜11時ごろに無事富士山に帰ってまいりました。家族は久々の都会巡りを満喫したようでして、連休が自分の趣味でつぶれてしまうのを内心心苦しく思っていた私も、少し救われたような気がしました。
 さて、ウチから横浜に行くには、御殿場まで一般道を走って(東富士五湖道路は高いばかりであまり時間短縮にならないので使いません)、そこから東名に乗り、横浜町田インターで降りるというのが、フツーのパターンでしょうか。それだと、通行料は片道1900円。往復だと3800円になります。でも、今日は往復1650円ですみました。というのは、もちろんETCの割引のおかげです。
 実は、行きは横浜インター付近が混雑することを予想し、いつも厚木で降ります。あとは一般道で横浜市街へ。渋滞はほとんどありません。御殿場インターから東名に乗ったのが午前8時56分でしたから、通勤割引の時間帯です。つまり御殿場〜厚木間1400円のところが、50%割引で700円。厚木は通勤割引の適用区間ギリギリ、横浜まで行ってしまうとダメです。
 帰りは横浜町田インターから乗ったのですが、御殿場を降りたのが夜の10時を少し回ったところでしたから、早朝夜間割引が適用されました。こちらも半額になります。つまり950円。で、往復で1650円です。
 これは本当に助かりますね。普通に往復するよりも2000円以上お得だということですからねえ。私の場合、コンサート本番だけでなく、頻繁に練習などに通いますので、塵も積もれば山となる、けっこう大きな差額になります。また、こうした割引を利用するために、いろいろと策を練って計画を立てるというのもなかなか面白いものです。それによって時間が縛られたりもしますけど、そのおかげでいろいろと出会いがあったりするので、私はその不自由さを楽しんでいます。
 今週末は車で山形に行くんですが、最低料金ですむようにいろいろと研究してみようと思います(単なるケチという話もありますが…)。

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2006.11.04

『ニッポンのRock Guitar History(HIT SONG MAKERSスペシャル)』 BS FUJI

Hitsong_1
 今日は朝から河口湖の清掃奉仕。午後は来年度に向けての説明会。プレゼンしたりて、けっこう疲れました。夜はゆっくり知り合いのコンサートに出かけようと思ったら、突然急用が…たのむよ〜土曜の夜くらいゆっくりさせてくれって。で、帰ってきたらもう寝る時間でしたorz。。。まじ疲れた。
 で、寝る前に録画しておいた番組のさわりだけ観ようとしたら、ああ結局2時間全部観てしまった!それほど面白かったんです。この番組。8月に見逃したんですよね。その時、ギタリストの知り合いが、いやあ勉強になった、って言ってたんで再放送するのを待ってたんですよ。で、ようやく今夜観ることができました。
 私、実はコンプレックスを持っているんです。ギターが弾けないというコンプレックスです。ロック少年でありながらギターが弾けないというのは、致命的なことです。野球少年がバットを振れないのと同じくらいやばい。今でも一番弾きたい楽器はギターなんですよね。好きな演奏家にもギタリストが多いですし。仕事上も、ギターとかバリバリに弾ければ、悪ガキ生徒たちを黙らせられるような気がするんですけどね(笑)。ヴァイオリンじゃあねえ。
 そんなわけで、ヴァイオリンではロックできないんですよ。ロック・ヴァイオリンというのもあるわけですが、やはりアタックが弱い楽器なので、なんとなく腑抜けというか骨抜きになっちゃうんですね。こればっかりはしょうがないので、今ではロックならぬバロック・ヴァイオリンなんかを弾いています(ダメだこりゃ)。
 さあそれでこの番組、往年のギター小僧にとっては実にたまらない番組だったのでは。私でもかなり燃え(萌え)ましたからね。もともと、BS FUJIの「HIT SONG MAKERS」はいい番組です。なんかの最優秀賞獲ったんだよな、たしか。私のような昭和歌謡曲ファンには、本当に勉強になる番組です。そのスペシャルとして放送されたこの『ニッポンのRock Guitar History』ですからね。すごいのは当然です。
 なにしろ、ギター片手に登場するギタリストの面々がすごい。
Char、鈴木茂、鮎川誠(シーナ&ロケッツ)、エディ藩(ザ・ゴールデン・カップス)、
三原綱木(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)、寺内タケシ(寺内タケシとブルージーンズ)、ムッシュかまやつ、
井上堯之…
 彼らが、ギターをつま弾きながら語る語る。なんか、ああやってつま弾きながら語れるっていうのが、江戸の端唄、小唄みたいな感じでいいですね。ヴァイオリンじゃあ、あれはできない。構えるだけでもう粋じゃなくなる。ピアノでもだめですね。楽器が主体になってしまう。だいたい持って歩けないじゃないですか。他人の楽器を当たり前のように弾く。他の楽器奏者には考えられない。女なら誰でもいいのかよ、って感じ(失礼)。
 そう、やっぱりギターって三味線みたいな存在なんですよ。抱いて歩いて弾きたい時に弾く。ポロリと弾いてもよし、ガンガン弾いてもよし。口は自由だから語れる、唄える。いいなあ。
 また、今日の放送での皆さんのつま弾きを聴きながら、こんなふうにも思いました。ああ、みんな耳コピから入っている。というより、ほとんど全てがそれだ。楽譜や理屈ではなく、耳コピ。レコードに師匠がいて、それを繰り返し繰り返し聴きながら音を盗む。この修練法はまさに日本の音楽の稽古そのものです。ギターというと、まあ西洋音楽のような気がしますし、彼らもとにかく洋楽から盗んだわけですけど、こうして改めて考えてみると、ロック自体、実はいわゆる西洋音楽ではないんだな、いろいろな意味で、なんてことを再認識させられます。
 そういう意味でも、今日の主役は何といってもCharさんでしょう。うまいのは分かっていましたが、なんかもう神の領域に入ってるなあ、と思いました。まず、いろんな先人というか先神の「言葉」を全部暗記している。耳コピして全部自分のものになっている。そしてコピーがコピーではなくなって、ある意味先神を超えてしまって、Charの言葉になってしまっている。なんか、大げさでなく文化の伝承のあり方、模倣と創造ということを考えさせられましたよ。何しろ、彼のスタジオ・ライヴがすごすぎたんで。以下ライヴの曲目です。
・ベンチャーズ「十番街の殺人」
・ヤードバーズ三大ギタリストメドレー
(エリック・クラプトン「GOT TO HURRY」、ジミー・ペイジ「SMILE ON ME」、ジェフ・ベック「JEFF'S BOOGIE」)
・ジミ・ヘンドリックス「MANIC DEPRESSION」
・サンタナ「Black Magic Woman」
(B.沢田浩史、Ds.嶋田吉隆、Perc.マック清水)
 最後に公式ページから、皆さんの名言をコピペしておきます。音楽の基本を思い出させてくれます。
※Char「歴史上でありえないような非日常的なエレキギターの音が、世界中の若者心を掴んだんじゃないかな?」
※寺内タケシ「好きで好きで、この曲このメロディーを弾きたいなと思って弾いていたら弾けるようになってた。ギターが上手くなっているかなんてどうでもいいんだ」
※鮎川誠「ラジオでレイ・チャールズ、リトル・リチャードを聞いてぶっ飛んで福岡中を自転車でレコードを探し回ったよ」
※三原綱木「寺内さんにギターを捨てるなよってよく言われるけど、捨てられないよね。僕は一生ギターを弾いていると思う」
※鈴木茂「やっぱり十代の情熱だと思うんだけど、朝から晩までギターを弾いていたんですよ。ああこうやって弾くんだな。こっちでも同じのが弾けるんだなぁっていろいろやってましたよ」
※エディ藩「プロになりたかったわけじゃないんですよ。ただどうしてもああいうエレキサウンドでバンドやってみたいっていうのが、はじまりで・・・」

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2006.11.03

北海道ホワイトカレー (ハウス食品)

Wc43 満員御礼。カメラータ・ムジカーレの東京公演においでくださった皆様、ありがとうごさいました。聖パウロ女子修道会聖堂の素晴らしい響きに感動しつつ翻弄されましたが、なかなか熱気のある演奏ができたのではないでしょうか。あさって(5日)は横浜公演です。こちらの方もよろしくお願いします(チラシ)。
 さて、明日が仕事の方でとっても忙しいので、打ち上げには参加せず直帰いたしました。帰りに道を間違って、赤坂やら青山やら表参道やら原宿やらに迷い込み、田舎者としては思わず感動してしまったのですが、そんな都会ともお別れいたしまして、山に帰ってきたワタクシ、家族が出かけているので、コンビニで夕食を買いました。山はもう冬っていう感じです。寒い寒い。で、目に付いたのがコレ。前々から気になっていたんですが、なかなか食べる機会がありませんでした。
 そうそう、おととい、カレーンジャーを紹介した際、ライバルとして北海道の女の子戦隊もちょっと取り上げました。彼女たちもホワイトカレーとか作るんでしょうかね。
 北海道と言えば「白」…というのはあまりに俗な発想でしょうか。でも、なんとなくそういうイメージがあります。ま、ホワイトチョコくらいしか思いつきませんけど。雪とか牛乳だったら、どこでも白いわけでして。でも、イメージというのはとっても大切ですね。特に外国?に対しては。
 さて、それでようやくホワイトカレーを食べる機会を得ました。結論。うまい!思った通り、シチューとカレーの中間形のような感じなんですが、見た目の優しさと味のスパイシーさが絶妙のツンデレ…いやデレツンで(笑)、この前書いたギャップ萌えですな。
Wcggh 見た目ということで言えば、素材の色が生きますね。レトルトでも野菜や肉の色が美しく映えます。あのカレー色のカレーでは、極端な話、じゃがいもだと思って食べたら肉だった、なんてこともあるわけでして。あっ、それはそれでギャップ萌えか?いや萌えないな(笑)。ギャップ萌えとギャップ萎えの境界線ってどのへんにあるんだろ。
 味は、やはりミルク風味が強く、そういう意味ではまさにチョコに対するホワイトチョコって感じですね。基本的に牛乳で育ってきた私にはかなり魅力的な味わいでした。
 以前から、ホワイトカレーと称して、たとえば普通のカレーにヨーグルトをけっこう大量に混ぜて、やや色を薄くし、またまろやかさを出した商品はありました。でも、ここまで徹底して白くしたのは初めてではないでしょうか。ハウスさん、なかなかうまいところを持っていきましたね。
 今度はルウタイプを試してみたいと思います。

ホワイトカレー公式

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2006.11.02

『三島由紀夫と「葉隠」』 北影雄幸 (彩雲出版)

J317526191 剣道部の顧問の先生よりお借りして読んでみました。
 私も世間の御多分にもれず、山本常朝の「葉隠」と言えば「武士道というは死ぬ事と見付たり」だと思っていた一人でありまして、やはり前の戦争に対する違和感から、勝手にけしからん本の一つに認定していたんですね。どうもそうじゃないらしいということは、最近気づき始めていたんですが、なかなか原文にあたる機会はなく、そのまま来てしまっていました。今回、原文ではありませんが、この本によって多少その神髄がわかったような気がします。
 まず、三島の「葉隠入門」が、どちらかというと私と同じような勘違いから脱していないということに驚きました。この本では、いかに「葉隠」が三島文学の基礎になっているかが語られているんですけど、だからこそ三島分かってなかったんじゃないのか、ってことに気づくわけです。
 「卑怯」を憎む武士道精神が、それを忘れてしまった現代でも実は有用なのではないか、と考えて書かれた「葉隠入門」。たしかにそういう時代だったんでしょうが、やっぱりそこに執着しすぎたような気がします。で、結局、三島の自決はあんまりかっこよくなかった。それが全てを物語っています。
 「葉隠」に最も多く登場するメッセージは、実は「武士道というは死ぬ事と見付たり」ではないんですね。「忍ぶ恋」なんです。これは意外でした。永遠の片思いこそ最高の美学であるといわんばかりです。そして、悶々として悶え死ぬのが一番いいとまで言い出す始末です。
 へえ〜、なんか武士道とはかけ離れた哲学だなあ。いや、男女の愛とその成就は「生」を産み出すので、それは「死」と対極にあるわけか。だから忍べと。なるほど、そういうことかなあ。でも、なんか変だよな。
 と、いろいろ考えつつ読み進んでいくと、今度は「衆道」のことが出てくる。男同士ですね。この前、クマテリのところに書きましたが、現実の中で自己の欲望の実現が阻まれる武士や坊主は、そっちに走る。かの戦争の時、若者たちはこの「葉隠」を愛読書としたそうです。こりゃあたしかに軍隊でも同性愛が増殖するわ。うん、そういう意味でも従軍慰安婦とかは卑怯だな。
 と、さらにいろいろ考えていたんですが、ある瞬間にあるアイデアが浮かびました。それが妙に納得できた。つまりこういうことです。
 武士道における主従関係って、普通は男と男の関係ですよね。で、山本常朝はその関係の理想像を追究しようとした。すると、そこにはどうしても死を賭する愛が必要になった。それは「生」を産み出す男女の愛ではなく、ある意味なんの生産性もないものです。ですから結局は「死」しかない。しかし、そこに意味を見出すためには、積極的に「死」をとらえなおさなければならない。その時の方便が「忍ぶ恋」だったのではないか。つまり、主に対する「忍ぶ恋」です。好きで好きで仕方ない。でも、そんなことを伝える立場にない。素振りや表情で相手に負担を与えるわけにもいかない。だから、もう悶え死ぬしかないんです。その形が、まことの奉公と、そのゴールにある「死」だったのでは。
 こう考えると、「葉隠」の多様性は決して不自然なものではないことになります。私はこんなふうに思ったんです。でも、これは単なる思いつきであって、なにしろ本文すら読んでいないわけですからね、単なるオタクの寝言みたいなもんでしょうけど、まあワタクシ流の「武士道」解釈への動機ぐらいにはなるでしょう。
 えっと、そうすると、三島はどうだったんだ?ちょっと考え直してみましょう。たしかに衆道に走ってたような…。でも、あんまり忍んでないかも…。あっ、やっぱり分かってないや(笑)。
 とにかく近いうちにちゃんと「葉隠」読んでみます。続きはまたその時。

Amazon 三島由紀夫と『葉隠』

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2006.11.01

カレーンジャー

002gif1 大学時代の友人が紹介してくれました。鳥取県のご当地ヒーローです。
 いわゆるご当地ヒーロー(ローカルヒーロー)、日々新種が登場しているようでして、現在日本には100以上の戦隊が活動しているとのことです。
 以前、我がご当地のヤマナシマンを紹介いたしました。彼ら、全国のヒーローの中でも、かなり「強い」方だと思います。実は私の知っている限り、山梨県のヒーローって彼らだけなんですよね。他の県では、だいたい複数あって、多いところは10以上結成されている。ヤマナシマン、やっぱり強過ぎ?で、県民の戦意を喪失させちゃったのかな。
 さて、この鳥取の「カレーンジャー」です。これもなかなかのツワモノと見ました。だいいち発音しにくい。コスチュームもかなりシンプルですね。予算削減ということもあるのでしょうが、「中の人」の自己顕示欲が強いとも言える。ある意味下半身の普段着の方が目立ってるし(笑)。高く掲げたカレー・スプーン、これはあのウルトラマンもやったことのあるポーズですね(知ってる人知っている)。
 で、この戦隊の素性、活動内容はこちらでご確認ください。鳥取ってカレーのルウの消費量が日本一なんですねえ。知らなかった。
 ご当地グルメを宣伝するご当地ヒーローというのは意外に少ない…ん?だいたいカレーは鳥取のご当地グルメなのか?カレーのルウの消費量が日本一ってことでしょ。それだと、たとえば「こくまろ」や「熟カレー」が鳥取の名産ってことになっちゃう(笑)。まあ、いいや。鳥取に特徴的なカレーがあるのかと思ったら、特にそういうわけではないようですね。最近になってコンテストとかやってるようですが。伝統的なものは別にないと見た。つまり、鳥取で食べる(普通の)カレーは全て「鳥取カレー」だということでしょう。ま、それもありかな。ところで、なんで鳥取の方はカレーがお好きなんでしょうね…いろいろ考えてみましたけど、結局わかりませんでした。
20050820_389521 さて、先ほど「カレーンジャー」というのは発音しにくいと書きました。「カレンジャー」だと発音しやすいんだけどなあ、と思ったら、そういう方々もいました。こちらです。こちらはまた、ずいぶんとキャラが違うようですねえ。「カレーンジャー」対「カレンジャー」ってのも見てみたいような。私は当然「カレンジャー」の方を応援しますよ。
 ついでにもう一つ。「カレーはかれー」っていうコテコテのシャレ、日本人なら誰しも一度は言ったことがあるでしょう。実はこれってシャレでも何でもないという説もあるんですよ。あの大野晋先生によれば、古代タミル語の「カリ」は「辛い」という意味だとか。そこから「カリー」という語も、「からし」という語も生まれたというのですから、ちょっと笑っちゃいます。

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