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2006.10.31

レミオロメン 『Flash and Gleam』

B000ij7iq201_scmzzzzzzz_v38885165_ いちおう明日発売ですが、ちょっとフライングで。
 ライヴ音源はまあライヴ音源でして、生でも観たし、録画も何回も観ているのでまあ良し。問題は新曲の「アイランド」です。
 これは正直驚きました。やばい、また泣いた。なんでこのタイミングでこんな歌出しちゃうんだ?藤巻くんなりの抵抗なのか。書いている今も涙が止まりません。切なすぎる…。
 私のみならず、多くの人が感じたであろう『HORIZON』の違和感。それは彼ら自身も感じていた。私は自分を納得させるためにあの記事を書きました。彼らは変りたいんだ、それにオレたちがついていっていないだけ…。しかし、なんか大きな力に流されている…。実は、彼ら自身も「流されている」と感じていた。そして、実は変りたくないとも思っていた。
 そんな気持ちがあまりにもストレートに書かれている詞(詩)でした。「光を求めて 闇も捨てきれてなくて」「あの夢があせていくのを見てた」「戻れないかな 戻れないよな」「時は止まらず 人は変れない」「僕はどこへ行けばいい」「答えを待ち 居場所なくし 汚れてしまった僕」「戻れない時の波泳いでるよ」…。
 まさに時の流れに翻弄され、不随意、不可遡の切なさを感じ、自分や他人が縁によって変化していくという「もののあはれ」を歌った歌です。これはもう平安時代の和歌の世界観ですよ。貴族たちは豊かに華やかになればなるほどに、こうした切なさを歌いました。権力争いや立身出世のために、純粋だった自分がどんどん崩壊していくからです。
 レミオにとっての大きな転機は小林武史との出会いでしょう。私は小林武史の音楽が大好きです。それはこちらこちらの記事を御覧になればわかるでしょう。彼のベースになっている音楽体験と私のそれとが、かなりの部分で重なっているんでしょう。最も尊敬するアーティストの一人です。しかし、私はインディーズや朝顔の時代のレミオロメンと小林さんが、どうしても結びつかなかった。彼らが組んだと聞いた時、本当に驚き、そして心配したものです。
 『ether』はギリギリセーフだったんです。彼らのださい(失礼)田舎的センスが、小林さんの都会的センスに勝っていた。いくらああいうアレンジを施されても、メロディーは四七抜きですし、歌詞は豊かな自然に恵まれていた(下記リンク先参照)。しかし…。
 さあ、それで、この『アイランド』です。islandということはisolatedということなんでしょう。とっても孤独になっちゃったんです。だって、この曲、私好みの小林武史節満載なんですから。彼がPVで泳ぐ大海と同様に、音楽的にも、小林武史という大海の中で、彼らのヴォーカルもベースもドラムも溺れそうです。コテコテです。さっそくコードを取ってみましたけれど、これは絶対にギターでは作れない。ピアノでなきゃ出来ない曲です。そして、自然発生的ではなく、職人芸的に生まれたものです。絶対。だからこそ、だからこそ、切ないんですね。そんなものすごい大海の中で、彼らが一生懸命叫んでるから切ないんです。泣けるんです。
 ある意味残酷な音楽でしょう。しかし、考えようによっては、大海に飛び込み(飛び込まされ)、潮流に流されつつも、そこから逃げないで、溺れそうになっても叫び続けようとしたから、この名曲が生まれたとも言えます。いや、きっとそうです。たとえば、昔のとおり単なるスリーピースバンドとして演奏しても、この感動はなかったでしょう。
 やはり、時の流れ、縁というものは、残酷なようでいて、しかし、何か新しい「モノ」を生み出していくのですね。だから「もののあはれ」の「あはれ」には負の意味と正の意味があるわけです。それが「哀れ」と「天晴れ」に展開していくのでした。ああ本当に「いとあはれなり」。
 朝顔好きのカミさんは、そのあたりがよく理解できていないようで、「またストリングスばっかりだし、なんかユーミンみたいなサビだし」と言って否定的なことばかり言っていました。まだまだ青いな!彼女、横浜アリーナのチケット取りました。私は行く気がなかったんですが、なんか「アイランド」、ライヴで聴いて泣いてみたくなりました。

公式(試聴可)

レミオロメンの原点!の記事へ

第1回レミオロメン聖地巡礼の旅の記事へ

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2006.10.30

『すくいの神とお富士さん』 宮田登 (吉川弘文館)〜結局クルミ・ヌイ再び

宮田登 日本を語る〈2〉
464207134201_scmzzzzzzz_v58334150_ 昨日は神の再臨がありました。クルミ・ヌイ様。クルミの原形はクロミであります。そして、クロミはミロクに通じる…わけはありませんが、今日はミロク信仰の本を読んでみました(笑)。
 いや、実はここのところ、いろいろ気になることがあったんですよ。それで、この本を買ったんです。富士山と弥勒信仰、富士講、養蚕、弥勒年号、出口王仁三郎のみろくの世、宮下文書(富士古文献)、クルミ・ヌイ…いかん、だんだんトンデモになっていく(笑)…頭の中のこういうモノたちが、この本で見事にリンクしました(クルミもか?)。
 宮田登さんは私の尊敬する民俗学者さんです。歴史学者網野義彦さんと並ぶ心の師匠のお一人です。お二人とも霊界に旅立たれまして、こちらの世は寂しい限り。民俗学はまだしも、歴史学大丈夫ですかねえ。
 宮田さんは網野さんとの交流からもわかるように、いわゆる歴史民俗学の立場を取った方ですが、氏の研究の中でもミロク信仰に関するものは、その中心的なものであると思います。フィールドワークとともに、文献資料を同等に重視し、独特の通時的な世界を描き出しています。研究対象がそうした一種の物語性を帯びることに嫌悪を抱く方々がいるのもわかります。網野さんもそういう非難を浴びていました。私は学問的には部外者ですし、第一学者じゃないし、まあどちらかと言えば文学よりの人間ですので、そっちの方がずっと楽しいんですけどね。
 そんなわけで、この本を読んで、私の脳内では、さらにいろいろな妄想が膨らんでしまいました。自分なりの物語が出来上がってしまったんですね。私はそれを(たとえば小説として)表現する能力は持ち備えていません。残念です。ただ、ミロク信仰に見られるような救世観や世直り願望、あるいは富士山に対する特殊な信仰の形態なんかに象徴される日本人独特の心性というのは、こんな現代でも綿々と存続していると思いましたね。そこんとこは、このブログなんかで検証していきたいと思っています。
369963_ ところで、というか、さっそくですが、ミロクならぬクロミの変身したクルミ様について考察いたしましょう。昨日放映時、2ちゃんねるの実況スレはとんでもない早さで消費されていきました。クルミ様クル━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!、そして、神キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!だけで何スレ使ったのでしょう。これはまさに「祭」です。56億7千万年ほどではありませんが、ほぼ1年に1回だけ降臨する女神を待望する人々の興奮と、実際神の降臨に立ちあった人々の陶酔。これはまさに民間信仰であると思います。ちなみに私もその祭りに参加してましたけど(笑)。ネット上のこうしたコミュニティーは、やはり都市の民俗と言えるんでしょうね。2ちゃんという「場」は、いずれ民俗学の研究対象になっていくでしょう。これは間違いありませんね。
 えっと、この本では、宮田さん御自身、「ミロク」と片仮名書きすることが多くて、ついついそれが「クロミ」に見えてしまう(笑)。というわけで、ちょっと脱線しましたけど、この本は久々にドキドキワクワク読めた逸品でした。この本の舞台とも言える富士山麓に住まう者として、それこそいろいろなところにフィールドワークに出かけたり、あるいは文献を漁ったりしなくちゃ、という気にさせてくれました。ヒマ見てやってみます。

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2006.10.29

クルミ・ヌイ再臨!!

Kurumi_1 あ〜、野球は負けてしまいました。まだまだこれから成長するチームですから、来年の夏に期待しましょう。
 というわけで、今日は軟弱(but高尚)ネタになります。ご容赦下さい。
 今月の初めに書いた、おねがいマイメロディ第23話「カレと踊れたらイイナ!」の記事にアクセスが集中しました。だいたいこういう時は2ちゃんに引用されてることが多い。で、確認してみましたら、たしかにマイメロスレにあったあった。ねらーとしては光栄なことです(笑)。ただ、専門家の方々に読まれるのはちと恥ずかしいっす。
 で、なんで今日そういうことになったかと言いますと、今日のマイメロ、久々にクルミ・ヌイが登場したのでありました。年に1回か2回しか登場しない彼女。レアキャラとして絶大なる人気を誇ってい(ると思い)ます。私もその記事で書きましたが、生まれて初めて2次元キャラに「萌え」を感じました。40過ぎてね。それを自分なりに分析したのが、この前の記事だったわけです。そう、分析したくなるほどに、不思議な感情だったんですね。
 今日も彼女が階段を下りてきた時、涙が出てしまったのです(あぶね〜笑)。隣にはカミさんと娘たちもいるのに。当然「なんで泣いてるの?」というツッコミが…。「い、いや、最近面白いと泣いちゃうんだよね…」というワケのわからん言い訳をする私。いかん、自分でも説明できない感情だぁ。これが「萌え」なのか…。
 カミさんも、「たしかにカワイイ…」って言ってくれましたので、少しは救われました。引かれなくて良かった。娘たちは不思議そうな顔をしていますが、なんとなく女の子としての共感があるのか、私の感情を否定するようなことは言いませんでした。こうしてみると、どうもこのクルミの魅力というのは、単にデザインとしての可愛さだけではないな、ということに気づくわけです。
 それこそマイメロを御覧の方、それも去年の23話を御覧の方でないと、全くわからないと思いますが、クルミにはクロミの切なさが籠められているわけでして、そこのところの物語性を含めた「キャラクター」に魅力があるわけですね。今日のクルミの切なく美しい独白はまさに「もののあはれ」でありました。すなわち柊しゃま(ウサミミ仮面)に対する、いろいろな意味で思い通りにならない切なさですね。そういう感情の象徴としてのデザインなんです。
 この恋物語は最初から成就し難い。ぬいぐるみが人間に恋をしているわけですから。魔法で人間化を果たしますが、時間制限がある。ろうそくの火が消えたら元に戻る…どころか最も嫌悪する姿になってしまうんです。さらに、そこにマイメロの空気読めない攻撃が加わりますから、これはもう辛い。これほど悪者が共感を得て、主役が嫌悪されるアニメもそうないよな…子どもたちはどういう気持ちで観てるんだろう。
 私は今まで単純に「萌え=をかし」であると片づけ、「切なさ=もののあはれ」とは対照的な感情であるということを力説してまいりましたが、ここへ来てどうも再考を迫られる様相を呈してきましたね。どうも「をかし」と「あはれ」は互いに連関し合っているらしい。それもかなり深い次元で互いを支えているようだ。
 今までは第三者として、傍観者として「萌え」を観察して悦に入っていたんですが、突如当事者になったわけであります。これは素晴らしいことです。自己の体験に基づいて研究できるわけですし、標本が最も身近なところにあるということですからね。今までは、どうも外国語を研究しているような違和感があったんですよ。しかし、これで少し母語の感覚に近づいた。まだまだだと思いますが、新たな段階に入ったような気がするんですよね。これはもうないことだと思っていたんで、かなり嬉しい事態です。
 そんなわけで、私にとってクルミ・ヌイ(およびクロミちゃん)は、まさに「神」的存在であります。ありがとうクルミ…あっ、皆さん引かないでくださいよ。40過ぎたオヤジが何言ってんだ、キモい!なんて言わないで。私は至極真面目に日本人の心性について考察してるんで(笑)。冷静ですからご安心を。

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2006.10.28

本日は日記風に…

 今日は忙しかったなあ。頭が働かないよ〜。いちおうこのおススメ、頭使って書いてるようでして、疲れてるとネタすら浮かばない。というわけで、今日はその忙しさと折々心に浮かんだことを列記するだけにします。たまにはいいでしょう、そういうのも。
 昨夜は学校にお泊まり。ギャルどもが日曜日の模試に向けて勉強したいからと言うので、急遽宿泊学習会を決行。昨日、ホントは下の娘の誕生日だったんですけど、こっちの娘どもの圧力には勝てない。
Hitachinaka21_1 というか、今日朝4時起き、5時学校集合だったんですよ。野球応援です。どうせそんなに早いんだったら、学校に泊まっちゃえっていうことですな。まあ、少しは勉強してたみたいだからいいか。なんか夜中うるさかったけど。
 さあ、そして野球の関東大会の応援へ。茨城県のひたちなか球場に向かいます。事故渋滞などで4時間以上かかってしまいました。関東の西端から東端までって感じ。遠いなあ。行きのバスの中では「魔女の宅急便」がかかっていました。パンチラばっかりで途中で気持ち悪くなって寝ました。宮崎さん、ぜったいヤバイっすよ。
 さあ、野球ですが、以前書きましたように本校は県大会で優勝し、山梨1位として今日1回戦に臨みました。結果は4対1で勝利!いよいよあと1勝で甲子園出場濃厚になります。今日はけっこうしょっぱい試合でしたが、こういう感じの勝ち方得意なんですよね。なんかスカッとしないけど、結局勝ってる。ピンチをしのいでしのいで、少ないチャンスを生かす。精神的な強さのあるチームです。明日も強豪との対戦です。頑張れ!野球部!
Image4646s さあ、帰りのバスの中、今度は「耳をすませば」でした。これは、もうウチで百回くらい見せられてるんで、今さらって感じ。さっさと寝ようと思うんですけど、あの音楽が聴こえてくるとどうしても目が覚めてしまう。そう、あの映画で古楽器を演奏しているのは、私とは因縁深い(?)方々だもんで。御本人の承諾なしに宴会ネタにさせてもらってます。すみません。
 この耳すま、宮崎作品の中では好きな方なんですけどね、なんか一番いいところで終わっちゃってますよね。つまり、彼もクレモナへ行って挫折し、彼女もファンタジーノベルの世界で鳴かず飛ばず、二人の結婚の契約なんか全くの反故になって、それぞれ別の人と…なんてね。いや〜なオヤジ的発想ですね。すんません。でも、中学時代の夢って若気の至り満載で、今思うとこっぱずかしいっすよね(笑)。そういう現実の厳しさを見事に描いた作品は、近いうちに紹介します。あ、あと二人乗りはいかんよ。宮崎アニメってけっこう車にひかれそうなシーンが多いよな。
 さて、そんなバカなことを考えている私を乗せたバスは、山梨に帰ってきました。私はそのまま帰宅するのではなく、ある集会に急行いたしました。某巨大宗教団体の会合に呼ばれていたんです。たぶん、彼らにとっては私は敵なんでしょうけどね、私は万教同根の立場ですから呼ばれればどこへでも行きます。それにしても、いろんな宗教団体にいろいろな形で呼ばれるなあ。正直楽しいですよ。今日もそうだったんですけど、私ってとっても怪しい宗教的オーラが出てるらしくて、不思議な目で見られるんですよね。なんだこいつ?って感じで。でも、今日も最後は泣かせて(たぶん感動)帰ってきました(笑)。
 こんな感じで、楽しいながらも疲労困憊で帰宅したわけですが、私を待っていたのは、お誕生日ケーキの残骸。それをつまんで寝ますわ。

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2006.10.27

『春へのあこがれ』 玉木宏樹(Vn)高木真理子(Hp)

ミーントーンハープとヴァイオリンによる純正律でモーツァルトを
1387_pictn11 私のような古楽人にとっては、平均律以外の調律というのは全く日常的な存在です。まあ平均律も便利なんでよく使いますけど、他の調律法でなければ表現できないことがたくさんあるっていうのも事実です。
 そういう意味では、平均律は標準語のようなもので、種々の非平均律は各地の豊かな方言のようなものとも言えるかもしれませんね。方言でなくては表現できないことは無数にあります。
 ま、音律のことを言い出すとキリがありませんが、とにかく我々が普段耳にしている、たとえば多くのピアノの響きや、ケータイから流れる着メロ、iPodから聞こえるほとんどのポピュラー音楽が、平均律によって作られているのは事実です。そして、その他の調律法があるなんて、なかなか知る機会がありませんし、普通の生活をしていると(つまり古楽マニアだったりしないと)、その響きを聴く機会は極端に少ないのが実情です。
 つまり、テレビをつけるとほとんど標準語が聞こえてくるというのと同じ状況なわけです。でも、たまに方言を聞くとホッとしたり、懐かしい気持ちになったりしませんか。たとえ東京生まれの東京育ちの人でも、方言を聞くとなんかいいなあって思ったりするじゃないですか。意味はわからなくとも。非平均律の響きもそんな感じなんです。
 標準語には標準語の良さがあり、個性もあり、問題点もあるのと同様に、平均律の良さ、個性、問題点もそれぞれしっかりあります。方言も同様です。そして、完全な言語がないように、調律法にも完全なものはありません。振動数が整数比になって、物理的には美しいとされる完全純正律は、ある部分では人間にとって不自然だったりするのです。面白いですね。
 で、このCDを企画し、実際にヴァイオリンの演奏も手がけている玉木宏樹さんは、著名な作曲家でもあり、また「純正律研究所」の主催をもされている方であります。その玉木さんの編曲したモーツァルトと自作曲、その他民謡などがおさめられたこのCD。伴奏はミーントーン(中全音律)という方言で調律されたアイリッシュ・ハープです。
 聴いてみますと、たしかにハープはミーントーンのようですね。長3度は純正の響きです。私はけっこうこの響きに慣れている方ですので、ああなるほどという感じなんですけれど、ある人は「これ、調律狂ってない?気持ち悪い」って言ってました。その感覚もある意味正しい。標準語に慣れきっている耳には、いきなり知らない土地の方言は不自然に響いてもおかしくないわけですし、最終的に方言が絶対に正しいとか美しいとか言えるはずがありませんから。
 さて、問題は玉木さんのヴァイオリンです。いや、これもほとんどの人にとっては、たしかにいつものと違うかな、たしかに穏やかな響きだな、という程度でしょうが、いちおうバロック・ヴァイオリンを弾く私としては、せっかく音程をミーントーンのハープに合わせようとしても、これだけヴィブラートかけちゃったらほとんど意味ないじゃん、というツッコミを入れたくなります。
 ま、そんなマニアックなツッコミはやめときましょう。たしかにゆったりとした演奏で癒されますよ。きれいです。
 実際、玉木さんの純正律演奏には癒しの実績があるのです。ウチの近所にある、ある介護老人保健施設で演奏したところ、お年寄りの方々の心が大変落ち着いたというのです。そして、そのコンサートののち、純正律のBGMを常時かけ続けたところ、この施設では徘徊、不穏等が減少したそうです。その結果は全国老人保健施設協会の学会で発表され、優秀賞まで取られたとのこと。めでたし、めでたし。
 たしかに私たち古楽人が古楽にこだわる一つの理由は、その清澄な響きにあると思います。標準語ではない、忘れ去られたいにしえの響き。それが正しい響きかどうかは別として、それを知ろうとし、それの現代における意味を考えようとする姿勢は、とっても大切だと思っています。
 そういう意味で、玉木さんのやり方も、正しいかどうかはもちろん決められませんが、一つの大切なアプローチであることは間違いないと思われます。

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2006.10.26

『茶道の哲学』 久松真一 (講談社学術文庫)

406158813309_bo01224223220_pisitbdparrow これは素晴らしい本でしたねえ。じっくり味わいました。けっこうなお点前でした。
 今、本当はやってみたいけれど諸般の事情によりできないこと、の第一は茶道でしょうか。生徒たちは授業で茶道を学んでおりまして、まがりなりにも全員お免状などいただくわけで、実はちょっとくやしい。なんというか、脳内ではもうかなり「茶」の精神のようなものは理解しているつもりなんだけどなあ…って茶道をやっておられる同僚に話したら、鼻で笑われちゃいました。そりゃそうだ。やってなんぼ。くめどもくめども尽きぬ深さこそ茶ワールドですからね。
 しかし、いくら笑われても私の脳内茶会は毎日開かれているのでした。で、それって例えば音楽の鑑賞者になるようなものだと思うんです。別に自分が楽器を弾けなくても、良き鑑賞者にはなれるじゃないですか。スポーツ観戦でもそうです。なんでも観客の哲学というのがあってよい。だから、本当は茶会を観戦したいんですね。亭主と客人という意味での客ではなくて。
 そういう性質のものではないと知っていて、しかし勝手に望むのは、超一流の茶会のテレビ中継をしていただきたいということです。DVDでもいい。とにかく観戦してみたいんです。そこから始めたい。表と裏の頂上対決とか観てみたいですよねえ。
 で、そういう機会というのがあんまりにもないので、本を読むわけです。そして、この本が素晴らしかった。もうこれ読んだら立派な脳内茶人になれます。野狐茶と言われようが構わない。
 お点前の作法とか、道具の名前とか、そういうものは一切ありません。この本に書かれているのは、本当に「茶道の哲学」のみでした。そして、そこに見えてくるのは、禅や日本文化の本質そのものだったのです。
 非常に多くのことを学ばせていただいたのですが、そうですねえ、どうやってまとめましょうか。やはり、「侘」と「数奇」でしょうか。一見矛盾する「侘」と「数奇」が同居して、場合によっては「侘数奇」という言い方さえする。これはまさに「空即是色」「色即是空」的世界観ですね。以下は本文に書かれていることではないかもしれませんが、全体を通じてなんとなく見えてきたことです。
 私の印象では、「侘」は「無一物無尽蔵」「知足」「見立て」などの哲学を経て、「心悟」「玄旨」に近づく、すなわち「空即是色」の大悟という感じ。これはいかにも茶道という感じで、比較的理解しやすいかもしれません。創造的無というのは、私たちが真っ白な紙に筆を走らせるようなものですから、イメージしやすい。
 一方の「数奇」はけっこう難しいかもしれない。高価な道具などに囲まれる中で悟っていくものとはなにか。あるいはその過程とは…。ここが「茶」や「禅」や「人生」の難しさであり、面白さであると思います。すなわち、自分を取り巻く全てを超越して自由になるということ。「色即是空」です。本文にもありましたが、法則と主体とが一体不二になって、主体は法則に制約されず、逆に法則が主体にかなっていく。そうして、常に新しい法則を創ってゆく。
 最近、私はこの「色即是空」がちょっと自分のものになってきたような気がするんですね。ただ世の中は空しいということではなくて、あらゆる存在から自由になるコツのようなものが少し分かってきた(ホントか?)。窮屈だったり、ゴージャスだったりするところから、新たな世界が見えてくる。
 あと当たり前かもしれませんが、一期一会ということで言えば、茶も真剣勝負だなと痛感しました。先日、武道を志す友人と呑んだ時、彼が「この間(ま)、この気で来られたら、死んでもいいという瞬間がある」と言っていました。なるほど、まさに一期一会の「死」の瞬間を相手に委ね、しかし同時にそれが主体的な唯一至上の選択になっているのか、と感動したんですが、茶道もそれと全く同じような場の創造なんですね。勝ち負けではないけれど、命懸けである。
 と、こんな感じで私の野狐は繁殖していくわけで、それが正しいこととは思いませんが、しかし一方であまりに「色即是色」になってしまっている現代茶道界もどうかしていますねえ。というわけで、この本の一番の面白さは、久松真一さんが、そうした茶道界に思いっきり苦言を呈していることです。かなり厳しい口調での家元批判とも取れる発言もしています。そういうところが野狐にとってはかなり快感だったりしたわけです。
 とにかく、「茶」についても「禅」についても、これほど分かりやすい説明の本は初めて読みました。おススメですね。久松さんの他の著書も読んでみようと思います。
 
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2006.10.25

『働きマン 1〜3』 安野モヨコ (講談社)

406372550201_scmzzzzzzz_v39293661_ ぎゃあ〜、マンガ3連投だあ。ありえね〜。しかし、昨日も書いた通り、人は想定外にして育つ。苦手なことにも頑張って挑戦しましょう(笑&泣)。
 昨日の記事の中にも登場しました安野モヨコさんの人気漫画、アニメ化もされているという「働きマン」を読んでみました。これも生徒からの借り物です。女子生徒から借りることが多いんで、どうも偏りがあるような…。ま、いいか。
 さて、これはまず結論から。松方弘子、全然女として魅力を感じません。たまに乳出ししてるとこくらいかな、男としては。彼氏に振られるのも仕方ないっすね。たとえば女子生徒なんかはカッコいい〜とか言うんです。憧れる〜とか。それは分かりますよ。男勝りに働いて(だからマンなんでしょ)、男を怒鳴りつけて、でもふと女になる瞬間があったり…。まったく女はぜいたくです。男みたいに仕事もしたい。でも女として恋愛もしたい。松方さんはあんまり言いませんけど、中には加えて結婚して子どもも産んでみたい、子育てもしてみたい、なんて人も多い。男なんてそう考えると、もう新しい可能性なんて最初っからない。
 こんなふうに書くと、(いろんな意味で)そんなことない!って怒りだす女性も男性もいるでしょうね。私は全然フェミニストじゃないし、男尊女卑派でもないんで、女性には女性として自然に生きていただきたいと願うのみです。他意はありません。
 それにしても、面白いと思ったのは、ここ3連チャンのマンガ全てが「もののあはれ」がテーマになっているということです。本当に日本人は好きですね。昔からなんの変りもありません。つまり、自分の思い通りにならない切なさ、やるせなさです。しかし、そこで虚無主義に陥らないのが日本人の偉いところですな。私も冒頭に書いてますが、そういう不随意な想定外な状況で、小さな喜びを見つけ、くじけそうになってもまた自分を奮い立たせて頑張っちゃう。そして、いつのまにか自分が大きくなっている。
 これは、「縁」によって「自己」が立ち上がる、すなわち「色即是空」そのものだと思います。そういう公理を知っていて、そこに自分を委ねることができる(「色即是空」ってことかな)日本人は、ある意味お釈迦様の教えをよく理解して実践しているということになるようにも思います。
 そして、それがこうしてエンターテインメントになってしまう。これはすごいことですよ。冗談抜きで世界に誇る文化だと思ってます。夏目房之介先生の御著書について書いた時にも書きましたね。日本のマンガ文化、おそるべし。
 さて、メディアとしての「働きマン」に関して、私の率直な感想を。えっと、ちょっと不満ありです。なぜなら、あまりに説明が多すぎる!そういう語り口なんでしょうけど、ちょっと説明過多じゃないでしょうか。セリフ以外の言葉が多すぎます。コンテクストや絵で表現すべきところまで、あるいは表現できているところまで、説明が入っている。こちらの想像力に対する大きなお世話なんですね。ま、だからこそ分かりやすくて人気があるのかもしれませんけど。
 その反対に、絵が単調すぎる。特に主人公の表情がいつも同じような感じで、まるで「南極2号」みたい(って分かる人は分かるかな)。それが一つの記号として機能してるのかもしれませんが、もしこれがドラマの女優だったら、超演技ヘタっすよ。目が死んでます。私が彼女に心から惚れられないのは、きっとそういうことなんだと思います。
 一方、男としましては、彼女をとりまく男の方に感情移入したいのは当然のことでして、そういう意味においてもちょっと物足りないような気もするのでした。やっぱり女性から見ての男性像しか描かれてないような。
 私は今日も現実の男として、仕事をこなしていきましょうか。想定外で面倒な問題が…。

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2006.10.24

『さらい屋五葉』 オノ ナツメ (小学館)

409188326501_scmzzzzzzz_v60923301_ マンガネタ連投。生徒が貸してくれるのを一生懸命消費します。なにしろマンガ慣れしてないから、読むのに時間がかかるんで。フツーの本は速読できるのにね。謎です。たぶん、絵とかじっくり観ちゃうからだろうな。絵はじっくり観るものだという、ま、クセみたいなもんでしょう。
 で、先日はリストランテ・パラディーゾでイタリア紳士眼鏡萌え、クマとインテリではガチンコのBLを見せてくれたオノナツメさん(bassoさん)の江戸物です。
 それこそ各コマに見入ってしまいましたなあ。一見静的な絵柄ですしストーリーも平坦、情報量もそれほど豊富ではないんですけどね、たとえば同じ江戸物の安野モヨコのさくらんと比べると、視線というか視点がものすごく振れるんですね。それが奇妙なダイナミクスを生んでいます。つまり、超俯瞰かと思うと次のコマでは超小津になったり。これをして映画的とは言えないでしょう。これを映画でやったらやばいです。静止画だからこそできる手法でしょうかね。その点、松本大洋はまだつじつまがあります。
 だからちょっと、一瞬自分がどこから彼らを見てるか分からなくなる時があるんですよね。それでそのまますっ飛ばすのは気持ち悪いんで納得するまで凝視しちゃう。そんなわけで、読破に妙に時間がかかってしまいました。はたしてそれが作者の意図なのか、単なる私のトロさによるものなのか判然としません。なんとなくストーリーや登場人物に入り込めないんですが、でも、別にそれが不快ではありませんでしたね。そういう表現というのもありなのでしょうか。
 あと、クマテリを読んだ後だからでしょうかねえ、困ったことに私、いつになったらこの男二人はそういう関係になるんだろう、なんて期待しながらページを進めちゃったんですね。だから違うって。こっちはオノナツメさんだって。何回も自分に言い聞かせるんだけど、どうも政之助と弥一のキャラからして、えっとどっちが攻めでどっちが受けかなあ、なんてつい考えてしまっている。おいおい、もう完全に腐女子の発想じゃねえか!!しっかりしろ、オレ…。
 というわけで、ちょっと脳内脱線しましたが、誘拐のプロ集団に誘い込まれる気弱な浪人ということで言えば、昨日の根岸くんみたいな感じもありますね。自分のキャラとは違うことをやらざるをえなくなって、しかしそれでなくは喰っていけない。こうして、今も昔も日常の憂鬱の中で本当の自分が固成していくんだなあ。「自分探し(宝探し)の旅」に出なくて正解ってことでしょう。. 
 まだ1巻しか読んでいませんから、政之助くん、全然成長してません。頑張れ政之助くん!今後どう変っていくのか楽しみです。
 ああ、そうそう、江戸語を専門に勉強した私としては、あまりにお粗末な言葉遣いにあきれてしまいましたが、まあ、それもまたマンガという世界のマンガ性の一部として許しちゃうことにしましょう。なにしろマンガの為には架空の穴まで作っちゃうんですからね。そういうところにツッコミを入れる(笑)のはそれこそ野暮ってもんだぜ。

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2006.10.23

『デトロイト・メタル・シティ』 若杉公徳 (白泉社)

459214351501_scmzzzzzzz_v66803998_ もえたんの教え子、すなわちウチのバンドのギタリストくんが貸してくれました。
 これは大いに笑えるけれど、けっこう辛いマンガですねえ。なんかリアルに哀しくなってしまいました。しかし…。
 本当は親思いでスウェディッシュ・ポップをやりたい根岸崇一くんが、ひょんなことからデス・メタルの「デトロイト・メタル・シティ」のヴォーカルを担当することになり、「昨日は母さん犯したぜ 明日は父さんほってやる!」と歌わなければならない状況になります。本来の自分との乖離は進むばかり。路上でやりたい音楽をやっても、誰も振り向いてくれず、本来やりたくないデスメでは大人気に…。
 マンガですんで、癒し系の方もファック系の方も、かなり極端な歌詞やアクションになっており、そのコントラストがかなり笑えてしまいます。また、基本的にヘタウマというか脱力系の画風なので、そちらの面でのミスマッチも面白い。
 最初のうちは腹を抱えて笑ってたんですけど、これってある意味リアルだと思った途端、なんか哀しくなっちゃったんですよね。どれほどのミュージシャンが少なからずこうした矛盾を抱えていることか。もちろん、これほどのギャップを抱えている人はそうそういないと思いますけど、かなり象徴的なのではないかと…。
 「やりたい」と「売れる」の関係というのは、古今東西あらゆる職種において、案外に残酷なものです。そこに悩み、自分探しの旅に出ちゃう人も多い(笑)。
 でもですねえ、やはり、人間って「想定外」なことに直面している時こそ成長するんですよ!だから、クラウザーⅡ世、いや、大分県は鮎の町犬飼町出身の根岸崇一くんよ!現状に甘んじて(?)そのまま頑張ってくれ!!だいいち、結構スイッチが入るとノリノリじゃん?!つまり、君の中に、実はクラウザーが存在してるんだよ。人間は天使ではありません。悪魔の自分もいるんです。私はあなたにプロ根性すら感じますよ。立派です。きっと、あなたは本当のミュージシャンになれる素質があるんです。今はまさに修行の時。癒しだけでは世界は救えません!世界を、自分を壊すくらいの愛情を持って、人々を感化していってください!本当のいい人は悪魔にさえも魂を売ります。
 そういう私は、音楽に関しても仕事に関しても、ホント好きなことばっかりやらせてもらって、いやなことはテキトーにこなして、こんなんじゃ世界は救えませんね。なんて、オレに救ってもらいたいヤツはいないか(笑)。
 てなわけで、今後の展開、根岸くんの成長ぶりにも期待しましょう。2巻がもうすぐ発売です。あっ、私はドラムのカミュ、いや西田照道の人生が気になる…。

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2006.10.22

フィアット パンダ (8)…ようやく退院

Dyj4234 久々の熊猫ネタ。それもそのはず、9月7日からずっと入院していたんです。で、昨日やっと退院。1ヶ月半ですよ〜。それほどの重症だったということでしょう。
 まあ、ウチとしては代車に乗ってればいいわけで、別に不便はしてませんでした(あまりの長期入院で、代車の車検が途中で切れたりしましたけど…笑)。
 で、いったい何の病気だったかといいますと…よくわかりません。入院の時もカミさんにまかせちゃったし、昨日もカミさんがドックにお迎えに行ったので、詳しく説明してもらえなかったようです。ただ大変だったと。私がその場にいたら、ちゃんとインフォームド・コンセントするんですけどね。
 症状としてはですねえ、ま、動かなくなったと。
 まず8月に一回こういうことがあったようです。カミさんが職場に向かう途中、ウチは富士山にあるので、ほとんど坂なんですね。で、下り坂でシフトアップ、シフトダウンができなくなった。2のまんま。なんか変だなと路肩に止めたところ、やっぱり2のまま。1にもならない。で、とりあえずエンジンを切って、再始動しようとしたらウンともスンとも言わない。困ったと思って2,3分呆然としたのち、再びキーを回したら直ったと。そういうことがまずあったんですね。
 で、その後は問題なく走っていたようです。そして、運命の9月7日。やはり出勤しようとカミさんが庭からバックで道に出たところ、今度は前進できない。Bのまま。何をやってもBのまま。道の真ん中で立ち往生です。山の中とは言え、さすがにそれはまずいでしょ。で、たまたまウチの前の道も微妙な坂だったのが幸いでした。ブレーキを踏まなければコロコロと転がすことができるわけです。パンダのデュアロジックはオートでもクリープはありませんから、アクセルを踏まずにブレーキを離せば、クラッチが完全に切れている状態です。それで路肩に止めた。そして、前回に倣ってエンジンを再始動しようとしたら、またまたウンともスンとも言わない。表示は止める前のBのままです。そして、とうとう永遠にエンジンはかからなくなってしまったのでした。
 まあ、ウチの前で良かったっすよ。出先とかだったら、カミさんパニックだったでしょうね。国道のど真ん中で止まっちゃったりしたらね…。自分が乗ってたとしてもものすごくイヤです(汗)。
 それで、アルファロメオに電話して、レッカー車に来てもらいました。まずウチに来るのに道に迷って2時間。到着してからも、ウンともスンとも言わないパンダと格闘すること1時間。結局、後輪にローラースケートを履かせて(とカミさんが言っておりました)レッカーでドックまで行ったということです。
 メカニックの方は、ミッションを全部バラしたって言ってました。非常に面倒だったと。これって単に初期不良だったのでしょうか。ウチのパンダに固有の不良だったのか、それとも…。日本車だったら大問題。リコール騒ぎになるのかな?ウチなんかもイタ車の性質をよくわかってますから、全然動揺したり腹が立ったりしませんけどね。機械的な問題だったのか、コンピュータの問題だったのか。それもよくわかりません。今度私が行った時に聞いてきたいと思ってます。
Wegew まあ別にウチで壊したわけじゃないし、保障期間内でしたので、当然修理費はタダでした。お詫びということで、いろいろフィアット&アルファロメオグッズをいただきましたので、ちょっと嬉しかったりして。
 近所のフランス人にこのことを言ったら、「I'm sorry,Italian」って言ってました。「イタ車でごめん」ってことでしょうかね(笑)。そのあと「Frenchは壊れないよ」みたいなこと言ったら、彼の奥さん(日本人)が「それはJapaneseでしょ!」ってツッコミ入れてました。たしかに日本車は優秀ですなあ。でも、やっぱり出来の悪い子どもは特別可愛いもんです。

フィアット パンダ (1)

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2006.10.21

吉井和哉 『39108』

B000heyzr801_pe15_ou09_scmzzzzzzz_v41274 まずは吉井さん、遅ればせながらお誕生日おめでとうございます!とうとう不惑ですか。2年ほど早くこちらの世界に来た者として申し上げます。40代はけっこう楽しいですよ!
 さあ、そんな吉井さんのニューアルバム、やっと手もとに帰ってきました。どこに行っていたかというと…ちょっとナイショです。で、帰ってきたCDには吉井さんのサインが!ひゃっほ〜!すみません、わがままお願いして。Dear Friendなんてね(笑)。いい人です。
 以前こんなふうに、半分冗談で勝手に身近な存在にしちゃってましたが、ホントにちょっぴり近づいたような気がいたします。本当にありがとうございました。
 さて、この「39108」というタイトル、39は「39歳」という意味と「サンキュー」の掛け詞だとか。そして「108」はお誕生日の「10月8日」と煩悩の「108」を表しているそうです。つまり、やっぱり不惑なんですね。煩悩にまみれて惑いの多かった若気に、愛情をこめつつおサラバして、新たなる地平へ!ってことでしょう。
 で、このアルバムの内容はまさにそんな感じです。ソロになってから、なんとなく悶々と苦悩している感じが強かった吉井さんですが、何かが吹っ切れたんでしょうね。これからの生き方、ミュージシャンとしてのあり方が見えてきたんでしょう。そういう覚悟が感じられます。もちろんイエモンという若気にも、じゃあな、ありがとな、ということ…。
1015 決してイエモン時代のような華やかさはありません。しかし、そこには何かと対決するというロック魂が満ち溢れています。この前も書いたように、その何かとは、まず「自分」なんですね。だから、YOSHII LOVINSONではなく吉井和哉として裸の自分と対峙した。今回アメリカのミュージシャンとアルバムづくりをしたというのも象徴的です。結果として日本男児吉井和哉が浮き彫りにされたんじゃないでしょうか。
 そう、もう惑わずロッカーとして生きていくと。いや、惑い自身は消えるものではないでしょうが、その惑いを惑いとして放置するんではなく、ロックとして昇華していく、そのことには惑いがなくなったんでしょう。
 昨日もMステに出てましたけれど、これからはいろんな意味で露出度も高くなっていくでしょうね。それはプロモーションという意味でもありますが、それ以上にロックという音楽が持つ本質、つまり耳を塞いでいても聞こえてくるほどの押しつけがましさのためではないでしょうか。ロックにひきこもりは似合わない。
 年末の武道館ライヴのチケットを取りました。彼の不惑を肌で感じてこようと思っています。オレも負けないぜ!

Amazon 39108

武道館行ってきました!

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2006.10.20

追悼藤岡琢也さん

Yu5 またいい役者さんがお亡くなりになってしまいました。現し世で修行中のワタクシとしては実に残念なことであります。
 私にとっての藤岡琢也さんは、サッポロ一番のCMと『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の夢邪鬼です。
 今日は改めて夢邪鬼のセリフを聴いてみました。いろいろ深いこと言ってますね。もちろん押井さんの脚本のすごさでもあるわけですが、この説得力はやはり藤岡さんのあてレコによる部分も大きいですね。
 最初は、あの夢邪鬼のキャラクターとともに、藤岡さんの声、関西弁もちょっと抵抗があったんですね。なんか浮いてる感じがした。でも、考えてみれば宇宙人やら超人(!)たちを上回る非現実性を出すには、たしかにあの手しかなかったのかもしれません。その大役、実に難しい役柄を藤岡さんは見事にこなしました。おそらく彼の芸歴の中でも特別の名演技でしょう。
 アニメというメディアの中で、あの重みと軽み、明るさと暗さ、強さとはかなさなど、そういった相矛盾するキャラクターが共存する夢邪鬼の声をああいう次元で実現するのは、藤岡さんしかいなかったのかもしれません。
Yu6 私は特に右のシーン、ラムと水族館で出会った時の藤岡さんの声に惹かれます。ここでの夢邪鬼はとても素直です。優しい。愛情すら感じるトーンです。素晴らしい仕事ぶりですね。
 ある意味一部の人にしか知られていない業績かと思われますが、未見、未聴の方は、ぜひともこの機会に彼の天才ぶりを堪能していただきたいと思います。
 ご冥福をお祈り申し上げます。いや、いよいよ夢邪鬼自身の作る夢の世界に旅立たれたのかもしれませんね。また、あちらの世界の人材が豊かになりました。

Amazon うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

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2006.10.19

エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO) 『フェイス・ザ・ミュージック』

Electric Light Orchestra 『FACE THE MUSIC』
B000glkn5k01_scmzzzzzzz_v39440701_ 私の音楽的基礎の40%くらいを占めるELO。なのにこのアルバムなんてもう10年くらいまともに聴いていませんでした。理由は単純でLPしか持っていないからです。そして、先日も書きましたようにレコードプレイヤーを直したり、買い替えたりする根性がなかったからですね(ってホントにファンなのか?)。そういう感じで聴いてない名盤がごっそりありまして、そろそろうずうずしてきたので何とかしようと思ってます(あと何年かかるか…)。
 ELOで、このアルバムだけCDを持っていなかったのには理由があります。以前CD化された時に、イントロやインタールードがどういうわけかカットされてしまっていたからです。ELOにとってそれらはとても重要な表現なのに…。どういうわけでそういうことが起きてしまったのか、詳しくはわかりませんが、とにかく先に買った友人が泣いていた(怒っていた)のを見て、買うのを控えていたのでした(その後クレームがあったのか修正されていたようですが)。
 で、最近、紙ジャケット仕様のCDシリーズがリリースされましたので、今度はどうだろうと様子をうかがっていたところ(最近はネットがありますからね)、しっかり入っているというので(当然と言えば当然)遅ればせながら購入いたしました。さあ、10年ぶりに聴くFTMは…。
 まず、音質の良さにびっくり。リマスターなわけですが、ここまで鮮明だと、10年前まで聞こえていなかった(聴いていなかった)音がわんさか聞こえてきます。特に職業柄(?)ついつい聴いてしまうストリングスの中音域ですね。ヴィオラ・パートとか(マニアックすぎ)。ありゃりゃ、こんなアレンジだったのかあ。うまい!って感じの箇所がいくつもありました。特にボーナス・トラックの一つWaterfallはヴォーカルがないおかげで、本当にいろいろな発見がありました。
 これは単純に音が良くなったというだけでなく、たぶん私の音楽演奏経験にも関係することなんでしょう。ま、年の功ってことでしょうか。10年間聴いてなかったおかげで、そこんとこが明確になったのかな。自分にとって作品が成長するということは、こういうことなんでしょうか。ある部分が聞こえると全体が全く違ったものに感じられる。面白いですね。
 バロックなんてやってると、ホントそういう感じなんですね。とにかく演奏することによって作品への理解が数倍にもなる。歌謡曲バンドでもそうでしたね。ELOは演奏したことはありませんが、作り手の立場に立てるようになると、魅力は倍増です。特に彼らはよく作り込まれてますからね。いろいろ発見があります。その点、ある意味一番有名なEvil Womanは、6分で作ったというだけのことはあって、何度聴いてもそれなりの楽曲であります。
 それにしてもこのアルバム、あらためて聴いてみますと、本当にヴァラエティーに富んでますね。そういう意味では全体としてはやはりプログレなのかなって思いました。いろいろな系譜の上にある音楽ではありますが、結果としてものすごく個性的。実際、似た音楽というのは当時(も今も)ないと思います。このアルバムの後しばらくは、唯一の存在でありながら商業的という、とっても難しいことを彼らは成し遂げたんですね。
 そういう彼ららしさというのは、もちろんジェフ・リンのソング・ライティングの能力による部分が大きいのでしょうが、こうして少し距離をおいて冷静に聴いてみますと、ルイス・クラークとリチャード・タンディーのアレンジ力というのがいかに重要だったか分かる気がします。三者のコラボレーションこそがELOの音楽そのものだったのかもしれませんね。
 長くなりますがついでに。改めて感じたこと。ベヴ・ベヴァンのドラムス。なんでこんなにどら息子なんでしょう。いや、ほめてるんですよ。これもまた唯一無二の音ですよ。和太鼓みたいじゃないですか。たしかに彼特製のスティックは太かった。しかし、だからと言ってここまでドタバタしなくてもいいんじゃないですか(笑)。とにかくリズムが後のめりです。普通ロックのドラムは前のめりになりがちなんですけどね。ここまで後ろ髪引かれると逆に快感ですね。個性的です。音もリズムも絶対に打ち込みでは再現できません!それから、なんかアナログ・シンセの美しい音に涙が出そうになりました。いいなあ、アナログ。
 ところでこの限定盤紙ジャケット仕様いいですねえ。中袋までリアルに付いてますし、とにかく日本人大好きなリアル・ミニチュアでして、かなり萌えです。ほかも全部買いたくなっちゃいました。いい音でいろいろ再発見したいですしね。しかし、こうして何十年も聴き続けれる音楽があるってことは幸せですね。ありがとうELO!

Amazon フェイス・ザ・ミュージック(紙ジャケット仕様)

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2006.10.18

『やすらぎセラピー 愛はすべてを癒す』 ジェラルド・G. ジャンポルスキー (著), ダイアン・V. シリンシォーネ (著)石井朝子 (翻訳) (春秋社)

LOVE is the ANSWER
439336622009_scmzzzzzzz_ 職場の同僚にお借りして読んでみました。
 たいへん面白かった。全体としてはキリスト教的な「愛」が語られているなという印象でしたが、そこからさらに一歩踏み込んでいる、そこがこの本の売りでしょう。つまり、より現実的、現代的に「愛」の方法を語っているということです。私はどうも聖書からだといまいちなんですよね。2000年前の砂漠の民のお話なんで(笑)。
 この本ではまず最初に「愛」の対照概念として「エゴ」が提示されます。ただ、この「エゴ」の定義は一般のものと違うのでやや注意が必要です。「自我」という意味ではなく「霊的な自己をもつことを否定する生き方」ということなんです。この時点で抵抗感を持つ方もいらっしゃるでしょう。そういう方にはこの本は非常に「非現実的」に感じられるに違いありません。あるいは「偽善的」だと。場合によっては「トンデモ」だと。ちなみに私は全然抵抗ありません。
 最近、「スピリチュアル」という言葉が流行ってくれたおかげで、私のような「霊的」な人間が(えっ?そうだったの?)白い目で見られることが少なくなりました。どうも「霊」というと「幽霊」「亡霊」ってイメージなんですよねえ、日本では。「大霊界」とか「霊界物語」とかも誤解されてるし。
 さてさて話を戻します。「エゴ」は怒りや恐れを生みます。その怒りや恐れは、人に対する非難や攻撃、自己に対する過剰な防衛を生むことになるというわけです。そして、それは反面で「愛」を求めている姿でもあると。相手の自己に対する否定的な言動も「許し」という視点で見直すと、違ったふうに見えてくる。自分の中の他者に対する攻撃や批判も、実はその他者に原因があるのではなく、自己の心の中に原因がある…。
 この本では、このような考えにそって、実際的な事例やアドバイス、レッスン方法が披露されていきます。なるほど、実生活でも、特に教育活動や育児の中で役に立つ知恵満載ですね。
 私が一番なるほどなと思ったのは、「他人に対する脚本を捨てよう」という主張です。たしかに、人に対して不快に思うのは、自分の思うように相手が思考したり行動したりしない時ですね。思い通りにならないことにイライラしている。自分の勝手に作った脚本に相手を従わせようとしていることによって生じる無理なんです。たしかにずいぶんとワガママですよね。勝手にシナリオ作って勝手に怒ってる。相手にとっては迷惑な話です。特に先生に多いんです。勝手な生徒像、先生像作っちゃう人。ドラマじゃないんだから、そんなにうまく行きませんよ。
 さて、こうした「愛」のあり方、仏教や神道の立場から言いますと、いろいろと矛盾もあったりしますが、たしかに実生活の知恵としてはたいへんに有効でしょう。特に対人関係に悩む人にとってはすばらしい導師となりうる本と言えます。自己の探求という意味でも、「他者を愛する自分像」を作れるという意味において力を持つかもしれません。
 ところで、原題のLOVE is the ANSWERですが、この言葉は私にとってはジョン・レノンですね。ジョンも結局は、「愛」が自分をも他人をも世界をも癒すということを言ったのでしょう。ジョンの宗教的バックボーンはなかなか複雑なようですが、やはり基本にあるのはキリスト教です。彼はキリスト教は滅ぶとか、自分たちはキリストより人気があるとか、キリストの弟子がバカだったとか、いろいろ問題発言をしましたし、宗教のない世界を歌ったりしたものですから、教会からはよく思われていない存在ですけど、やはり彼の作品や言動にキリスト教の「愛」が底流しているのはたしかでしょう。
 そうした「愛」のあり方が本当にありうるのか、それが究極の方法なのか、それは正直私にはわかりません。ジョンは自分を殺した男を許したのでしょうか。この前のアーミッシュの事件もそうでしたが、「許し」に違和感を持つ私がいることも確かです。そして、お隣の国のみならず、今の世界全体を観察した時、本当に「許し」や「愛」が世界にとって有効な手段なのか、私はちょっと不安になってしまうのでした。では、どうしたらいいのか…。

Amazon 愛はすべてを癒す

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2006.10.17

リカルデント「グレープ&グレープミント」(ボトルガム)

Recaldent ボトルガムが売れている。コンビニに並ぶお菓子の中では圧倒的に高いんですけどね。ガムごときに700円とか800円とか払うのはどうかと思うんですが、たしかに計算すると100円のを8個買うよりかなり割安です。
 しかし、本当に割安かどうかは検証の余地ありでした。つまり、どうも予想以上に早く空っぽになっているような感じがしていたんですね。それにはいろいろと理由があるでしょう。
 ボトルガムの消費場所、車の中というのが圧倒的に多い。飲料ホルダーのところにボトルガムが入っているやつですね。ウチもそうです。で、運転中というのは、眠気覚ましというのもありますが、どうも口が淋しいもので、ついついガムに手が伸びる。それもボトルにたっぷり詰まっていたりすると、たとえば家の中で普通のガムの残り数を意識しながら噛むのとはだいぶ違う感覚で、クチャクチャやってしまう。
 さらに、どうも私は気に入らなかったんですが、ボトルガムのガムって味がすぐになくなるように感じる。5分も噛んでると、もうそれはただの無味なゴムと化しているんです。それで、ついつい二ついっぺんに口に放り込んだり、続け様に三つ噛んだりしてしまう。そんな感じだと、職場との行き帰りの30分くらいの間に5個とか6個とか消費しちゃうんですね。特に私なんか、一日一食生活なんで、通勤時帰宅時は必ず空腹なわけで、そこに味のするものがあると、どうにも自制できないわけです。
 あと、いろいろな味が楽しめるタイプを買ってしまうと、これまた早くなくなる。つまり、車の運転中だと色を確認できないために、噛んでみないとなんの味を口に放り込んだかわからない。さらに二ついっぺんに噛んだりすると大変。味の組み合わせはいろいろあるわけで、しまいには利きガムみたいな状況になってしまう。何味と何味を噛んでるのか当てるんですね(笑)。あるいは占い感覚で、○○味が来ますように!みたいな。そんなことやってると、ついつい必要以上に消費してしまう(オレだけか?そんなことしてるの)。
 と、そんな悩ましいボトルガムですが、ついにそんな心苦しさを解消する商品を見つけました(って、もう発売開始から1年以上たってますが)。リカルデントの「グレープ&グレープミント」です。
 これのいいところは、なんといっても味が長持ちするということです。15分以上噛んでいてもまだ味が残っています。もちろん1回につき1個で充分です。おかげで一日消費が2個ですみます。
 さらに味が「グレープ」と「グレープミント」であるというのがミソです。ほとんど同じ味。いっしょに噛んだとしてもあんまり違わない(実際は微妙に違うので、その気になれば利きガムも占いも可能ですけど、この場合その「その気になれば」というのが重要です)。
 あと、比較的安いということですね。600円台で買えます。今までは、なんとなく地味な感じがして、また、それこそ味のヴァリエーションが少ないような気がして食指が伸びなかったんですね。正直パッケージの色合いが(ガム自体の色合いもですけど)地味じゃないですか。絵も両方ともブドウだし。謙虚な感じですよねえ。
 キシリトールはもちろん、CPP-ACP配合というのも、たぶん歯にいいんでしょう(よくわかりませんが)。ま、とにかくこれだと数ヶ月は持つ計算になりますから、ようやく割安な感じになりました。めでたしめでたし。
 あっ、あと知らなかったんですが、リカルデントってトライデントだったんですね。
 ところで、あのボトルガムの捨て紙、みなさん使ってますか?この前ネットでも取り上げられてましたが、私も捨て紙として使うのはほんのちょっとでして、ほとんどは付箋やしおり代わりに使ってます。

リカルデント・ガム グレープ&グレープミント ボトルLS 150g6個セット*6

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2006.10.16

『略語天国』 藤井青銅 (小学館)

409387669x01_scmzzzzzzz_v60965497_ クレしん、コスプレ、ジミヘン、デパ地下、全学連、SMAP、DHC…1000点満点でおよそ920点ってとこですかね。私はこの分野はかなり自信があります。自分でも教材として毎年「四拍略語」のプリント作ってたくらいですからね。
 日本語は略語が大好き。この本では、400の略語を原形に戻す(一部その逆)というドリルがメインになっており、それらを面白おかしく、時にまじめに分析して、最終的に法則性(のようなもの)を導き出しています。ドリル以外にも本文で解説されている略語もありますから、全部で500近い略語が紹介されているんではないでしょうか。
 私たちの生活にすっかり定着している略語を、これだけしっかりまとめた本は初めてかもしれません。それなりに楽しめましたし、勉強にもなりました。本としてはいちおう「略語検定」という設定でありまして、私なども結果として最上級ランク「超略」という称号をいただきました。うれしいような、別にどってことないような。ただ、略語研究家?の私としてはですねえ、ちょっとツッコミを入れたいところがあるんですよ。
 まず「○文字略語」という言い方をしていることです。その結果、「ヨシギュウ」を五文字ととらえて、「ヨシノヤ」より長くなってしまっている、というような記述があります。そのあと、「音節ならば四音節→三音節に減ってはいる」なんてあるからさらに困ったものです。「ヨシギュウ」も「ヨシノヤ」も四音節ですよね。だから、私は四拍略語のように言うんですよ。拍(モーラ)でとらえるのが正しい。ほかの箇所にも「文字」でとらえたための間違いがいくつかありました。
 あと、この本には「旬」があるよなあ、っていうツッコミというか心配。略語は流行と関係が深く、さらに新略語が日々生産されますから、こうして最新のものを集めたつもりが、1年後にはすっかり古くさくなってしまうのです。だから、私は毎年プリントを更新していました。私は200の略語を厳選していたんですが、毎年そのうち一割くらいは更新していました。それほど回転が早い。筆者は毎年改訂版を出すんでしょうか。
 それから、これはツッコミではありませんが、私の略語観をちょっと披瀝します。キムタクのような四拍略語が作られやすいのは、漢語(風)の二字熟語の影響が大きいのではないでしょうか。二字熟語のほとんどは二拍+二拍で四拍です。そして、日本人は漢字が表意文字であるがために、その字面からその意味を推測して理解・使用しています。そのような感覚で、漢語や和語やカタカナ語の音と意味を抽出して組み合わせているのではないでしょうか。ですから、英語のように頭文字をただ抜き出して組み合わせるというような略語には抵抗がある。そのことはこちらにギャグ化して書きましたね。これ、自分で読んでも笑っちゃいます。いまだに覚えてないし。
 さて、筆者の指摘する、最近の若者の略語が三文字(私風に言うと三拍)に偏りつつあることや、あえて頭を略して後を残す「オフビート略語」というのには、大きくうなずきました。特にオフビートがちょいワルな感じを醸すというのには、私も全く同じ考えを持っていましたので。音楽といっしょです。裏打ち系。
 この本を読んだら、今度は自分の身の回りの略語を探してみましょう。意外に自分の家族しか使わないものとか、方言のようにその地域にしかないものとか、いろいろあって楽しいですよ。おっと、今テレビに「エヴァケン」が!軍事評論家の江畑謙介さんです(笑)。
 あっ、そうだ。KAT-TUNってどうなるんだ?Aの人どっか行っちゃうんでしょ?

Amazon 略語天国

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2006.10.15

『伴大納言絵巻(絵詞)』

542 出光美術館で今やってますね。行きたいけど行けないよ〜。しかたない、今日新日曜美術館で観たんで、それで実際行ったことにします(涙)。
 絵巻物って好きなんですよねえ。若い時は見方を知らず、恥ずかしながら西洋絵画に及ばないものと勝手に断じていました。でも、いろんな人たちに見方というか、すごさを具体的に教えられて、今ではすっかりハマっています。やはり、何の分野でも先達は大切ですね。わかりやすいところではたとえばこちらが良き師匠でした。
 さて、今日の新日曜美術館は「科学の目で見た国宝“伴大納言絵巻”」というタイトルでした。最新の映像技術で、今まで知られなかったこの絵巻の謎が解かれていきます。そしてまた、一方では新たな謎が…。
 もともとこの絵巻、検非違使ものでして、今風に言えば刑事ものかな。完全犯罪を狙った放火犯と辣腕検非違使?の行き詰まるかけひきを描いて、それはまるで極上のサスペンス映画を観るような緊張感に溢れています。しかし一方で、単に「伴大納言(伴善男)を犯人としてしょっぴきました」がテーマなのかどうか、また、不自然な貼り合わせ箇所があったり、謎の人物が描かれていたりと、なかなか一筋縄では行かないシロモノでもありました。
 今回、最新の光学的分析を行った結果、いろいろと新事実が浮かび上がってきまして、実は伴大納言は犯人ではなかった…なんてことはありませんが、おかげでいろいろと謎が解けた…かと思うと、これまたそういうわけではなく、ますます謎が深まってしまったようです。研究成果は数年後にまとめられるとのことですから、しばらく待ちましょうね。
 そういうダ・ヴィンチ・コードみたいなのは、それはそれで面白いのでしょうが、私にはそれより何より、この絵巻を描いた絵師の恐るべき才能に震撼させられました。今日の番組では、東京芸大の手塚雄二先生がベタ褒めしてました。世界的にもこんな画家はそうそういないと。日本絵画の歴史だけで見ても、突然このような天才が現れて、そしてその後もこれほどの者は現れなかったとまで。そこまで言うか!って感じだったんですが、現代の若き天才(だと思います)手塚先生がそうおっしゃるんですからね。本当にそうなんでしょう。
 たしかに、最新の分析によってわかった事実の一つ、「下書きなしでいきなり描いた」というのには、びっくりしました。絵巻物特有の「アニメーション感」は、もしかして計算ずくではないある種の即興性によって生まれたのかもしれませんね。書のように。
 いや、もともと日本の絵画は書と同様のものだったのかもしれない。紙と筆と色と意味と書き手とその場の「気」のコラボレーション。そういう一回性の「気合い」の中で、紙に時間も空間も物語も心も封じ込めてしまう。そういう作業なのかもしれません。絵画や書に限らず、芸術とはそういうものなのでしょう。
 ホントはテレビじゃダメなんですよね。実物を観てなんぼなんでしょうね。ああ、行きたいなあ。死ぬまでには必ず観るぞ!

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2006.10.14

『犀の角たち』 佐々木閑 (大蔵出版)

480433064x01_scmzzzzzzz_v62553667_ この本はとても面白い。しかし、ベストセラーにはならないでしょう。たくさん売る気はないのかもしれないけれども、それではちょっともったいない。いろんな方に読んでいただきたい本なのですが。だいたいタイトルに商魂が感じられません。私も、和尚様から借り受けなければ、一生知らずに終わってしまったでしょう。
 腰巻きには少し商魂が感じられます。曰く「科学とはなにか?仏教とはなにか?まったく無関係にみえるこの問いの根底にある驚くべき共通点を、徹底した論理性だけを用いて解き明かす、知的冒険の書」。
 しかし、内容はまたちょっと違った。巷でまことしやかにささやかれる、いやけっこう大声で唱えられる、「科学と仏教は実は同じ地点を目指している!ブッダは最新科学をも予言していた!」的な論法と思いきや、全然違うんです。私も実はそこに期待してワクワクして読み始めたんですが、結果、全然違った。でも、最後は筆者のその姿勢に好感を持つに至りました。
 京都大学で工業化学と仏教学を修めた佐々木先生の基本姿勢は、冒頭部分に次のように表明されています。
「両者を並べて見る場合の、そのスケールをしっかり見きわめることである。(中略)このことをわきまえず、自分の勝手な思い込みで独断的に結論すると、科学を汚染し仏教を冒涜する怪しい神秘論になってしまう。自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、『ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです』といった愚論を開陳するはめになるのである。(中略)私は本書で、科学と仏教の関係を論じるが、両者の個々の要素の対応に関しては一切無視した」
 神秘論大好きな私の期待は裏切られましたが、もう一人の私、神秘論に懐疑的な私の期待には大いに応えてくれたわけです。おそらく人はそういう二面性を持っているんでしょうから、その両方を鍛えていくバランス感覚というのが大切だと常々思っている私です。
 そんなわけで、この本の244ページ中155ページまでは、仏教の話は全く出てこず、「物理学」「進化論」「数学」の現在とそこに続く過去の歴史の流れが滔々と述べられています。ここを読んでいる限りは、筆者が仏教学者であることを完全に忘れてしまいます。科学の大まかな流れをつかむ親切丁寧な概説書といった感じです。量子論や不完全性定理がわかりやすく解説されていて、たいへん勉強になりました。
 結局、佐々木先生はその中で何を強調したかったかと言うと、「科学の人間化」です。世界はこうあるべきだという人間の直覚に基づく「神の視点」が、例えば実験や証明などの作業によって提示される新情報によって、どんどん否定されていく。直覚が情報の軍門にくだり、神よりも人間の方が信任を得るようになっていく。そういう流れは、今後もとどまることはないでしょうね、たしかに。
 ここで私のおバカな頭の中を開陳するのは、それこそ恥ずかしいのですが、まあ、ここは俗なブログという媒体ですのでお許しを。佐々木先生のおっしゃるパラダイム・シフトは、ワタクシ的に申しますと、「モノ」から「コト」へのシフトということになります。いつも言っているように、近代化とは「コト」化そのものです。不随意を表す「モノ」から随意をあらわす「コト」への流れ。まあ、こういう実感といのは、なんとなく万人が持っていることでしょう。ですから、佐々木先生もワタクシも別に目新しいことを言っているではない。
 さて、そうしたパラダイム・シフトと仏教がどのように関連しているのかが、後半部分に語られます。すなわち、仏教もまた、「神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、納得できる精神的世界観を確立するために生まれてきた宗教である」というわけです。ただし仏教と言っても、大乗などはほんの少し触れられるだけで、ほとんどが原始仏教に関する解説です。それはそうですね。例えば日本に伝来し成長した仏教は、あまりに釈迦の教えからかけ離れています。間違っているという意味でなく、発展させすぎたという意味で。そこには絶対者も偶像も存在していますし、法則性よりも実人生における実効性の方が重視されているとも言えますから。
 さて、大変面白く楽しみながら読了したんですが、なんか不思議な感覚が残りました。どうも私、最近そういう傾向があるんですけど、科学にせよ、宗教にせよ、なんかこの浮世の処世術に過ぎないような気がするんですよね。あの世なのか、霊界なのか、パラレル・ワールドなのか知りませんが、とにかくこちら側は本体ではないような気がするんですよ。時間や空間に縛られるという、ある意味不自然な状況に置かれている私たちの、とりあえずの生活の知恵が科学や宗教なんじゃないのかなあって。私たち凡夫のために、頭がいい人たちが考えてくれたんですよね、きっと。私は、そういう知恵のお世話になって、この世でうまくやりながら、将来本体の方でどうやって生きていくか、じっくり考えていきたいと思っています。
 というわけでして、そんなレベルで考えると、腰巻きにある「驚くべき共通点」というのは、ちょっと大げさだったような気がしますね。

Amazon 犀の角たち

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2006.10.13

アルプス一万尺〜「こやり」って?

Koyari 今まで40数年歌ってきたのに、その意味を考えずにきてしまいました。そして、考え出したらドツボにはまりました。意外であり、なおかつ難解であった。
 今日、娘が「アルプス一万尺」を歌ってたんです。で、「アルプス一万尺」って?「こやりの上で」って?「アルペン踊り」って?
 いったい誰のどこでのどういう状況を歌ったものなんでしょう。急に気になったわけです。で、こんなこと、みんなとっくに知ってるんだろう、なにしろ子どもの時から何度も歌ってるんだから…と思ったら、そうでもなかったようです。
 さあ、ネットで調べましょう。便利な時代ですね。
 え〜!?そうだったの〜!?
 全ては「こやり」がカギを握っていた!!「こやり」って「小槍」なんですね。槍ケ岳の山頂を含むいわゆる大槍という岩石峰の近くにある小さな(と言ってもけっこうでかい)突起のことでした。なんか山男が言うには、大槍は誰でも登れるけど、小槍はかなりの熟練ロッククライマーじゃないと難しいらしい。へえ〜、そうなんだあ。
 ってことは、「アルプス」って「日本アルプス」だったんですね。なんとなくハイジを連想していた私の脳ミソは愕然。なんでも槍ケ岳の標高は3,180メートルで、小槍はちょっと低くて3,030メートルだとか。これはまさに1万尺。1尺は3.03メートルですから。へえ〜ですよね。
 さて、無知が招くよくあるパターン、ハイジから「こやぎ」に行ってしまうパターン。なんともステロタイプな連想ですが、私も昔はそう妄想してました。「子山羊の上で」ってのも考えてみれば変な状況ですが、なんとなくヨーロッパのアルプスの高地の草原の子ヤギの上で無理やり踊る、そういう風習がありそうな気がするじゃないですか。
 ついでに確認しますと、この曲のルーツはイギリスです。Yankee Doodleという曲です。「アメリカ小僧のまぬけ野郎」って感じの曲名ですが、それをアメリカ人たちが自虐的に愛唱歌にしたようです。なにしろ、この曲が日本で最初に演奏されたのは1853年(江戸時代!)久里浜にてとも言われてますから、日本人になじみが深いのも当然と言えましょう。で、そうこうしているうちに、なぜか山男たちの愛唱歌になったと。一説によれば京都大学の山岳部の誰かさんが作詞したとか。
 さてさて、ではでは「アルペン踊り」とはいかなる踊りなのか。これは正直分からなかった。調べても分かりません。てか、それ以前に「小槍」の上では踊れないっすよ。かなり危ないものと思われます。ただ、登頂後小躍りしたくなるほど、小槍は登攀が難しいということなんでしょうね。それほど困難でない登山にしても、登頂後のあの達成感、爽快感は、たしかに特別なものがあります。あの満面の笑みをたたえた小躍りこそが「アルペン踊り」の正体なのかもしれません。
 ちなみに2番以降もいろいろなパターンがあるようです。こちらこちらをご覧ください。私は蚤の富士登山のやつだけはなんとなく聞いたことがありました。でも、それもまたいろいろとヴァージョンがあるようですね。とにかく不思議で不可解です。
 しかし、基本的には山男たちの山の唄ということで落ち着きそうです。なんとなく、すっきりしたようなしないような。

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2006.10.12

『クマとインテリ』 basso (茜新社)

487182760701_scmzzzzzzz_ というわけで、昨日の記事の続きです。さっそく腐女子くんが、オノ・ナツメさんの仮の姿、いや本来の姿basso名義の代表作を貸してくれました。これはモロにBL(ボーイズラブ…今、ボーイズラブって打とうとして、ボーズラブと打ってしまった…笑)系であります。いや、これは大人の男の物語だから、メンズ・ラブかな。
 私も、いちおう歴代腐女子生徒たちに同人誌などを見せられたりしてましたから、けっこう冷静に受容できる方だと思います。ってか、全然ソフトでしたね。はっきり言って抵抗全くなし…な私って…いやいや私は完全なるヘテロですからね。
 でも、正直美しいなあと思いましたよ。つまり男女の愛では成し得ない境地というか、いやいや、実は男どうしでもやっぱりあり得ない。だいたいが、からみのシーンにツッコミを入れると(野暮ですみません)、人間工学的にはああいう美しい体位はあり得ないっす。ということは、リアル男からすると、彼らは男でもない。でも、そんなことは腐女子からするとどうでもいいことなんですね。
 男女の性的関係という、リアルであんまり美しくもない世界に、経験的もしくは予感的に潜在的嫌悪を催す女性たちが抱く幻想。それがヤオイ的宇宙なんでしょうな。男女のからみがいかに美しく描かれようと、女である彼女たちの感情移入は、当然描かれた女の側に向けて行われます。そこにはどうしても自分というリアル女が混入してしまうわけです。基本リアル世界では女は「受」ですから、その立場から脱却することも無理。女どうしが描かれていたとしても、自分が女であることは避けられませんから、余計にリアルになってしまう可能性大。
 とすると、彼女たちの理想的な性的もしくは精神的恋愛嗜好を満足させるためには、自分にとってリアルではない男どうしというシチュエーションを作るしかないわけです。あくまで幻想ですから、人間工学なんてどうでもいいわけですし、リアル男の精神構造なんてのも無関係。しまいには、体にも心にも架空の穴を作ってしまう。そして、そのファンタジー・ホールに自らはまって、そこで遊ぶわけです(…なんてまじめに分析してる私もそうとう変ですな)。
 で、男からすると、そりゃあないだろうってことになる。ヘテロは基本が理解できませんし、ホモは違った意味での違和感を抱く(と思います)。ただ、自分もそうなんですが、思いきってフィクションで遊ぼうとするならば、それなりに楽しめたりします。ファンタジー・ホールにはまることは無理ですが、フィクションにだまされてみることくらいならできますね。
 ところで、こうした男色趣味には、古い古い伝統があります。男の男色は、ボーズラブ…じゃなくて坊主の外道や武士の衆道に見られるように、貴族文化とは別のところで発達しました。女の男色趣味は江戸には花盛りでした。現代の腐女子文化もその系列で、これはある意味男のオタク文化とともに貴族文化だと言えるでしょう。
 いつも書いているように、貴族文化は「萌え=をかし」で、武士の文化は「切ない=もののあはれ」です。つまり、貴族は幻想の中で自己の欲望の実現を図るんですね。一方の武士や坊主は現実の中で自己の欲望の実現が阻まれるんです。オタクは命がけじゃないんだよな、今も昔も。
 私はよくわかりませんが、腐女子やゲイの方々の話をうかがう限りは、ファンタジー・ホールは「萌え」ですが、リアル・ホールは「切ない」らしい。これは完全に別世界として考えた方がいいですね。いずれにせよ、私には穴ザーワールドですなあ、こればっかりは…。

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2006.10.11

『リストランテ・パラディーゾ』 オノ・ナツメ (太田出版)

477832014x01_scmzzzzzzz_v51794956_ 腐女子生徒が貸してくれました。とは言え、これは全然BLではありません。あっBLってボーイズ・ラブってことです。私は知らなかったんですが、オノ・ナツメさんは同人系出身。Bassoという別名でBL系もしっかり書いていらっしゃるとのこと。はい、勉強になりました。
 これは「レストラン・パラダイス」ということですね。この前紹介した諸星大二郎さんの生命の木に出てくる「みんなぱらいそさいくだ!」の「ぱらいそ」はポルトガル語でしょうか。「天国」ということです。「天国食堂」というか、「食堂『天国』」なのかな。イタリア語よくわかりません。
 というわけで、これはイタリアのあるレストランを舞台としたマンガでした。パラパラっとめくってみて、まず独特の絵に惹かれましたね。好き嫌いははっきりするかもしれませんが、非常に個性的な絵であります。力強い線描とコントラストの強い明暗、私には版画チックに見えました。そういうこともあるでしょうし、舞台がイタリアという異世界であるのも要因でしょうが、本当に「天国」って感じですね。
 まあ、男の私にはまたーく理解できませんが、老眼鏡初老紳士萌え(?)の女子の皆さんには、それこそ「天国」なんでしょうねえ。イタリア紳士っていうだけで萌えなんでしょうか。異様に細身でね。指が長いし。
 やっぱり女性がこれを見て萌えるのは、ほとんど清少納言の「をかし」と同じ感覚ですね。いや、「をかし」よりより具体的な「なまめかし」かな。ちょっと枕草子のこの部分を読んでみましょう。こういうジェントルマンというのは、日本の文化で言えば貴族です。
 「なまめかしきもの ほそやかにきよげなる君達の直衣姿」
 「なまめかし」と言うのは、辞書的には色っぽいという意味ではなく、物静かで上品な感じだと言われていますが、「艶めかし」と書くように、イタリア紳士に感じられる「セクシーさ」に通じる部分があると思います。つまり、女性の目から見ての男の色気。やっぱり色っぽいってことか。「ほそやかに」はそのまま細みな感じ。スマート。「きよげなる」は端正ですっきりしている感じですかね。「君達」は「公達」と同じで若い貴族をさす言葉です。「直衣」は貴族の平服です。あんまりかしこまってない服。それでも貴族ですからね、いいものでしょうし、こだわりもあったでしょう。こんな感じですから、清少納言の嗜好は、イタリア紳士のコック姿に萌えるのとかなり似たものがあるんじゃないでしょうか。
 さて、私は女ではありません。だからこのイタリア紳士に残念ながら萌えませんでした。こういう男にはなれないな、とは思いましたけど。で、私は男ですので、どちらかというと主人公の女の子であるニコレッタが可愛いなと思いました。まあ典型的なマンガ的女の子キャラ…一生懸命で、恋に恋してて、ちょっと素直になれなくて、嫉妬心もちゃんとあって、積極的なところもある、親との微妙な関係…。男ってこういう女の子キャラにちょっと惚れるんですね。つまり女性の作家さんが考えて提供する女の子像、たぶんそれは女性にとっても理想的な(現実的でない)女の子なんでしょうね。
 というわけで、やはりフィクションの男とフィクションの女が繰り広げる物語を、リアルな男女が楽しんでいるわけですね。当たり前ですけど。やっぱり物語って現実逃避の手段なんですね(笑)。

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2006.10.10

北朝鮮・松代大本営・ジョン・オニ

 本来なら昨日の記事で書かなければならなかったことですが、昨日は特別に嬉しいことがあったので。一日遅れですみません。
Eva 昨日、まさに野球場に向かっているその最中に、北朝鮮が地下核実験を行ないました。そのことの政治的、軍事的な意味については、エヴァたん(江畑謙介さん)が詳しく解説されていましたから、私はノーコメントです。ただ、この状況っていつかの日本にそっくりですね。
Minakamiyama_1 さて、あまり知られていないことですが、今回の核実験の地震波を検知した施設の一つが、長野県長野市松代にある気象庁の精密地震観測室です。この観測室は、あの松代大本営の手掘りトンネルの中にあります。松代大本営…太平洋戦争末期、東京もいずれやられると予感した軍部は、松代の皆神山周辺の地下に皇居や軍部の中核施設を秘密裏に移動させる計画をします。そして、多くの朝鮮人に強制労働をさせ、ほぼ完成というところまで工事を進めますが、結局終戦を迎えます。その地下トンネルの一つに地震計などを設置しているんです。それが不思議と全世界の微小地震波まで感知できる。今や核実験の監視施設としても世界的に重要なものになっているのでした。強制労働させられた皆さんも、まさか北朝鮮の地下核実験の地震波をここで感知するなんて、夢にも思わなかったでしょう。皮肉なものです。
Oni36 皆神山と言えば、またまた登場なさいますが出口王仁三郎ですね。彼は皆神山を世界のヘソと称して最重要視しています。で、松代大本営についても、実は戦局危うい中、軍部や皇室関係者が、オニさんに頭を下げてアドバイスを乞うた結果であるとも言われています。「あそこは聖地だから爆撃を受けない」と言ったとか。それで本当に大本営を作ってしまった。さんざん治安維持法やら不敬罪やらでオニさんをひどい目に遭わせたくせに、国や軍部もずいぶんと調子がいいもんです。
Johnyoko あと、昨日ってジョン・レノンの66回目の誕生日だった。まさか将軍様、平和の象徴とも言えるこの日を選んでドカーンとやったわけではないですよね。ジョンは「イマジン」に象徴されるように、王仁三郎と非常に似た思想を持っています。二人とも国境も宗教もない理想世界を目指したということですね。ジョンとオニとの不思議な縁ということで言えば、生前のジョン、ヨーコさんとともに京都の亀岡の温泉に何度か宿泊したらしい。なぜ亀岡だったのか。亀岡と言えば、もちろん王仁三郎の生地であり、彼が率いた大本(…大本営じゃありません)の聖地の一つです。
 こんな感じで、私の頭にはかなり妙なリンクが張り巡らされています。北朝鮮の核実験でこんなこと考えるのはおそらく世界で私だけでしょうね。ま、意味がないと言えばないのですが、なんとなく戦争と平和のコントラストが、そのリンクの中に見えてくるような気もします。私としてはとっても不思議な感じがするのでした。

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2006.10.09

祝!秋の関東高校野球県大会優勝!

Seqt02151 ウチの学校の野球部が秋季県大会で優勝しました!春の選抜甲子園につながる関東大会に、山梨県1位として出場します。秋の大会優勝は初めて。関東大会は10年ぶりです。
 ここまでも大変にいい内容の試合が続いていたんですけれど、今日の決勝戦も緊迫感のある好試合でした。新チームは派手さはありません。体も小粒なやつらが多いんですが、ひたむきな心を持ったいいチームですね。ここぞという時の勝負強さや、あきらめない粘りの姿勢には、観ている者の心を打つ何かがありますね。本来の高校野球の魅力を思い出させてくれるような選手たちです。
 強豪校、特に私学は、全国から人をかき集める傾向があります。ここ山梨県も御多分にもれません。小さい県ですので甲子園に出やすいということもあるんでしょうか、いわゆる野球留学が多く、いったいこれが県の代表なのだろうかというようなチームも見かけられます。その点ウチの学校は完全山梨人、それもほとんどが東部富士五湖地域(郡内と言います)の選手で構成されています。これはウチのこだわりです。地元の人々に支えられてきた地元密着の本校として、地元のために、特に地元の子どもたちのために夢を与えるような存在でありたい。これは学校長の信念です。
 それは理想で、そんなことではいつまでたっても甲子園に行けないよ、とも言われ続けてきましたが、ようやく県大会で優勝できるところまで来ました。そうした歴史を見てきたワタクシといたしましても、なんとも感慨深いものがあります。
 今年の秋の大会は、史上初めて郡内のチームどうしによる決勝戦になりました。甲府を中心とする国中地方と、こちら郡内地方とは、いろいろな意味で大きな壁がありまして、正直いろいろな意味において、郡内は国中の後塵を拝してきました。まあ歴史上、地理上いたしかたないところではありましたが。しかし、こうして少しずつでも、何かが変っていく時代になったように感じます。雌伏の時は終わりつつある…かな。
 もちろん関東大会のレベルの高さはよく分かっています。そう簡単に2勝させてもらえないでしょう。しかし、なんとなくいい予感がするんですよね。守りが堅い上に、個性の違う実戦級の投手が3枚いるというのも強みです。そしてなんと言っても気持ちが充実しているんで、見ていて実に頼もしいんです。
 (誰も信じてくれませんが)どっぷり野球少年だった私の夢が、教え子たちによって叶えられる日もそう遠くないのかもしれません。頑張れよ!日々の努力は必ず報われる!

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2006.10.08

『にゃんこ THE MOVIE』(DVD) フジテレビ

B000fe78my01_pe22_ou09_scmzzzzzzz_v65933 ここのところいろいろと立て込んでいまして、またいろいろと考えることもあったりしてまして、正直ちょっと疲れ気味でした。
 そんな時はこういうものでも観てリラックスしましょう。
 これ、ずいぶん前に入手してたんですが、全然観るチャンスがありませんでした。てか、観る必要性がなかったのであります。ま、ウチにはホンモノのにゃんこが2匹いますし、のら猫ちゃんも毎日通って来てくれますからね。それで充分と言えば充分。でも、なんでもそうですが、たまに他人のものを見て、芝が青いなとか、花が赤いなとか、猫が可愛いなとか思うのも、実は健康的だったりするんですよね。
 そんなわけで、今日初めて観賞いたしました。以前紹介したシンフォレストの「猫大好き!」とは違いまして、しっかりしたストーリー性を持たせてあります。短編ドキュメンタリードラマ20本近くが収録されています。ウチはほとんどフジテレビを見ないものですからよく分からないのですが、どうもこれは「めざましテレビ」の企画の発展版らしい。ま、そんなわけで、フジテレビらしく?どちらかというと大衆に迎合した路線とも言えます。
 猫という動物は、記号化されて物語性を付与されやすい生きものなんですが、ホンモノの猫は人間の御都合主義的物語性からはほど遠いところに生きているんですね。それにこうやって無理やりストーリーを与えてしまうと、いわゆる「やらせ」っぽくなってしまいがちです。そこんとこのさじ加減がどうかなと、ちょっと意地悪な観点から見てしまいましたが、まあギリギリセーフってとこですかね。篠原涼子さんのナレーションも淡々としていましたし、音楽もそれほど主張が強くなく許せました。
 リアル猫のストーリー性の無さが、それをとりまく人間たちの物語を浮き立たせる。そんな気もしましたね。人間という生きものは、ずいぶんと余計なことにあくせくしたり、頭を悩ませたりしてるもんですな。なんかバカらしくなってきますね。何をそんなに一生懸命やってるんだと。その頑張りが、自分のため、人のため、世の中のためになってるんでしょうか。
 そんなことを考えたりして、ほんのひととき人間界のどろどろドラマから逃避するのもいいかもしれません。やっぱり猫は神ですよ。仏ですよ。達観しています。とらわれていません。

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2006.10.07

バッハ・リヴォリューション 『デジタル・バッハ』

BACH REVOLUTION 『DIGITAL BACH』
Digitalbach この歴史的名盤がCD化されず、ほとんど手に入らないというのは実に残念なことです。ウチでも地下室からLPを引っ張り出してきたのはいいのですが、レコードプレイヤーが不調で聴けません。
 この前、丹波哲郎さん崩御(?)の記事を書いた時に、私の好きな作品として「砂の小舟」を挙げました。実はその音楽を担当していたのが、バッハ・リヴォリューションなのです。それで思い出したんですね。ただ、バッハ・リヴォリューションはメンバーの異動がいろいろあるんで(中心人物はずっと田崎和隆さんです)、時期によって活動内容がかなり違っています。あんまり情報がないので間違ってるかもしれませんけど、「砂の小舟」の頃は、田崎さんと神尾明朗さんで、環境音楽の走りのような実験的な電子音楽をされていたんではないでしょうか。それが78年くらい。それ以前にはそのお二人と鈴川元昭さんの3人で、76年に我が心いまだ安らかならずを制作しています。そして79年にはNO WARNINGを発表。この時のメンバーは田崎さんと神尾さんでしょうか。分かりません。
 で、80年1月に発売されたのがこの「デジタル・バッハ」です。ここでのバッハ・リヴォリューションは田崎さんと小久保隆さんです。このアルバムがですねえ、ものすごい出来なんですよ。超名盤。
 80年と言えば、ある意味シンセサイザー全盛期。電子音楽が最も充実していた時期です。量ではなく質での充実ですよ。冨田勲さんも全盛期。武道館で壮大なエレクトロ・オペラなんかをやっていました。YMOも全盛期ですね。姫神せんせいしょんが結成されたのも80年。喜多郎さんがNHKのシルクロードのテーマ音楽を担当したのも同年です(たぶん)。
 そんな中、当時としてはかなり先進的(今ではシロウトでも当たり前ですけど)なデジタル技術を積極的に導入して、今で言うシーケンサーによる自動演奏を中心にレコーディングしたのがこのデジタル・バッハです。収録曲は以下の通り。
1 トッカータとフーガ ニ短調
2 「音楽の捧げ物」より無窮カノン
3 「音楽の捧げ物」より四声のカノン
4 G線上のアリア
5 幻想曲 ト長調
6 「平均率クラヴィア曲集」よりNo.1前奏曲
7 「平均率クラヴィア曲集」よりNo.4五声のフーガ
8 フーガの技法
 今聴いてみても(ってちょっと実際には5年ほど前ですが)、実に完成度が高い。編曲、音色づくり、解釈それぞれ大変によくできています。ワルター(ウェンディ)・カーロスや冨田勲さんのバッハをシンセ・バッハを聴いてきた私にとって、当時この衝撃は大変に大きなものでした。バッハ(の抽象性)に傾倒しはじめた時期でもありましたし、これは一つの完成形ではないか、とまで思った記憶があります。
 特に「幻想曲ト長調」は完璧です。私のこの曲のイメージは完全にこれが基本になってしまいました。特に中間部のヒューマン・ヴォイス系の音色による「幻想的」な演奏は、これは本当に天国的です。中間部後半でバスが音階的に上昇しつつ、上声部が見事なポリフォニーを紡いでいく部分は、ホントに「みんなぱらいそさ行くだ!」って感じ(笑)です。こんな曲を作ってしまう青年バッハもすごいっすけど、この録音を残した青年(小久保さんはたぶんこの時大学生か大学院生)たちもすごいっすねえ。
 録音の権利の問題やら何やらでCD化が出来ないのでしょうが、この記念碑的(電子音楽にとっても、バッハ演奏にとっても)な作品を広く皆さんに聴いていただきたいものですね。…って私も今は聴けません。眺めてるだけです。近いうちに久々にレコードに針を落としてみたいと思います。

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2006.10.06

『ホテル・ルワンダ』 テリー・ジョージ監督作品

B000fotk6q01_scmzzzzzzz_v62938046_ こんなにうちひしがれている自分は本当に久しぶりです。全く元気がありません。虚しくて悲しくて吐き気が止まりません。人間はなんでこんなにも愚かなんだ。そして自分はどこまで無力なんだ。
 たぶん去年の私だったら、けっこう冷静に分析しているかもしれません。しかし、どうも最近の私は違う。それがいいことなのか、悪いことなのか、自分でもわかりません。昨日からの流れもあると思います。昨日、「バカと言われても理想を追い求める」ことを標榜してしまった、その矢先にこれですからね。
 今日は、生徒たちと「ホテル・ルワンダ」を観ました。私も初見だったのですが、「アフリカのシンドラー」という触れ込みにちょっといやな予感がしまして、つまり、単なる感動物として観てしまう可能性があるなと思い、それに私自身も生徒と同様ルワンダの内戦について、本当に教科書的な知識しかなかったので、即席で資料を作り、生徒に配布説明してから観賞いたしました。
 フツ族によるツチ族の大虐殺。自然豊かな小国で起きた信じられない悲劇。ナタで頭をかち割られ、レイプされ、火をつけられ、死んでいった者、100日間で100万人。言語も宗教も見た目も、それほど大きな違いがあるわけではない。第一長い歴史の中で混血も進み、はっきり言ってIDカードに押された印以外には違いはないと言ってもいいと思います。おそらく日本人の感覚では、関西人と関東人程度の違いでしょう。その彼らが憎しみ合い殺し合う。
 もちろん、植民地政策に象徴される、先進諸国の本当に馬鹿げた介入の問題もわかります。しかし、なんで人間がああも簡単に人を殺せるのでしょう。一人殺すといくらというように褒賞金が出たとも聞きます。映画の中でも、賄賂で人の命が救われたりしている。結局金ですか?敵対する民族を根絶やしにするために、子どもから殺していく。その感覚はなんなんでしょう。
 本当に脱力感に襲われました。1994年、私は何をやって生きていたんでしょう。ルワンダの名前は知っていても、日々のくだらない生活に追われ、バブルが崩壊してやれ困ったもんだとか、松本サリン事件でマスコミの暴走を興味本位で観察していたり。たしかにルワンダで起きたことを知り、そして何かをしようとしても何もできなかったでしょう。だからこそ、今また虚しいのです。日本は国として何かしたんでしょうか。映画では国連さえもほとんど無力でした。
 予習の中で衝撃的だったのは、そうしたジェノサイドが、他でもない教会で行なわれたということです。教会に逃げ込んだツチ族は、神に祈りながら惨殺されていきました。その数も万単位です。イエスに対してもそうであったように、神はまた沈黙しました。虚しさで胸が苦しくなります。
 映画の主人公は、家族も救い、また、1200人のツチ族を救います。そして、ラストで探していた姪たちと再会できます。それは一見救いであるかのようですし、映画としてはよくある感動物、アメリカの大好きなヒューマニズム物ということになるのかもしれませんが、私にはとてもそのように見えませんでした。彼は財力もあり、政治的コネクションも使うことができた、本当に特殊な人物だったからです。ですから、彼の行動と彼の幸運の裏にある、100万人の無力さと悲運が、彼を通して鮮明に見えてくるのです。彼の行動はたしかに勇敢でヒューマニティー溢れるものでした。しかし、それを選んで行使したくてもできないのが普通だということを忘れてはいけません。
 国際的に見れば、日本は彼のような立場にあるとも言えます。平和で豊かです。ノーブレス・オブリージュという言葉がありますね。高貴なるものの義務。高貴と言うのは語弊があるかもしれませんが、富めるものの責任として、知らないとか、自分には関係ないとか、国際政治的にいろいろ難しいんだよとか、そんなことを言っていられないのではないでしょうか。
 そう言いつつ、個人ではほとんど直接的には何もできません。また日々の生活にまみれていく中で、この衝撃も薄らいでいくんでしょう。だから虚しくなるわけですが、昨日も書いたように、気持ちだけでも変に冷めてしまわないでいたい。私があきらめたら世界全体の気分が変ってしまう、その境目に自分がいて世界の命運を背負っている、そんなふうにみんなが思ったら、もしかすると何かが変るかもしれない。バカと言われるかもしれませんが、そういうふうに夢想することだけは怠らないで行きたい。
 家に帰ってくると、ちょうど「太田光の私が総理大臣になったら」で憲法九条の改正問題について議論がなされていました。昨日「憲法九条を世界遺産に」を読んだばかりてしたからね。実にタイムリーでした。しかし、今日の私はどうもあの雰囲気に入っていけなかった。皆さんの議論の次元の住人になれなかった。本来考えるべきことが憲法問題にすり替わっているようにさえ感じて、妙に白けてしまいました。これは彼らが悪いのではなくて、たぶん私の精神状態のせいだと思いますけれど。
 ただ、太田総理も語る、人を殺す可能性を持った自分と、理想を追う自分が、両方存することは事実ですし、それを直視することの大切さもよく分かります。だからこそ自分が分裂して苦しい。きっと太田さんもそうなんでしょう。でも、そこに苦しむことを放棄してしまったら、私たちは生きている意味を失ってしまうでしょう。なぜなら、人を殺す現実の自分も、人を救う理想の自分も、両方ともある意味「狂気」であり、「バカ」であり、それこそが人間の本質だと思うからです。

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2006.10.05

『憲法九条を世界遺産に』 太田光・中沢新一 (集英社新書)

408720353001_scmzzzzzzz_v60519776_ 「美しい国」を反対から読むと「憎いし苦痛」になる…だって?そんなことを堂々と社説に書く新聞社もバカですが、それに思わず感動している私もバカです。そして、こんなことくらいしか言われない安倍さんも情けない。こんなバカたちにつける薬はないのか?と思ったら、ちょうどいいのがありました。
 この本、大変興味深く読みました。まず断っておきますが、私は特別にこのお二人が好きです。太田さんについてはこちら、中沢さんについてはこちらを読んでいただければ、私が彼らをどう評価しているか、少し分かるでしょう。少しですけどね。
 お二人の共通点は、ずばり頭がいいということです。単純ですみません。しかし、何かにつけ自分より優れている人の言動を観察するのは勉強になりますし、快感にもなるものです。
 そんなお二人が非常にナイーヴな問題について語り合っています。ただしお二人とも憲法学者さんではありませんので、基本的に専門外のことについてのやりとりになります。考えてみれば、そういう意味では我々国民の99.99999%が門外漢なわけでして、もしかすると専門家どうしのそれよりもこういう形の方が有意義なのかもしれません。
 さて、まずは私の立ち位置を明確にしておきましょう。基本的にほとんど彼らの論に賛成したいと思います。私は政治屋でもないし、ましてや軍事屋や経済屋でもない単なる夢想家なので、それは賛成ですよ。
 ここ数十年ですっかり大人になってしまって、理想を追い求めるのをやめていたんですが、最近急にまた無謀な夢を持つようになってきました。そんなわけで、お二人の、特に太田さんの、周りに無理だと言われても夢や理想を追い求める姿勢こそ大切という考えに、激しく同意いたします。去年の今ごろだったら、けっこう冷めた目で「理想と現実は違うよ」って言ったかもしれません。
 人類にとっての無理難題の象徴としての「日本国憲法」。現実から乖離した夢や理想としての9条。そこに手をつけちゃいけない。成立過程からして奇跡的な珍品を軽々しく扱うなと。修道院や寺院のような存在である現憲法があるからこそ、人は私利私欲にまみれた生活を反省する。なるほど。今の私ならすんなり受け容れられる考え方です。ぶっちゃけ、ミサイル打ち込まれても、抵抗せず滅んでいくのもありかな、なんてこと考えてるくらいですから。
 で、そういうことをはっきり言ってしまう、ある意味命がけのパフォーマンスができる太田という人間は、本当に危ないやつです。中沢さんも危険な橋を渡ってきて、実際危険な目に遭わされたりしてきましたね(そう言えばお二人を知ったのは宝島30ででした。オウムの時です)。だから中沢さん、ここのところちょっと元気がなかった。いくら「ニュー」でもやはり「アカデミック」な世界の方ですから。その点、太田さんが主張する「笑い」を介したアピールというのは、その危なさをも包み込んでソフトに浸透していく力を持っている。
 「笑い」というメディアはとても大きな力を持っています。なぜなら…ガツンと言ってしまうとですねえ、「バカ」でもわかるからです。「バカ」でも興味を持つからです。もちろん私もバカですよ。彼らのような頭がいい人以外は全部バカという意味です。だから、太田さんの求める道は間違っていないと思いますし、現在の彼が「笑い」に関してまだまだだというのも間違っていないと思います。こうして彼なりのマニフェストを公にしてしまったわけですから、それなりの覚悟で精進しなければならないでしょうね。大変でしょうが、私は応援したいと思います。
 ところで、平和主義者として、非戦論者として、夢想家として、芸術家として、そしてユーモアの大御所として、それこそ今よりもずっと厳しい状況の中、その人生を貫いた人がいます。出口王仁三郎です。なにしろ彼は、戦前、戦中、戦後を通じて、神格化された天皇を中心とする軍国主義に、真っ向から、しかし非暴力で、不抵抗で戦ったんですから。中沢さんはもちろん、太田さんも彼の存在を知っているはずです。もしかすると、本当は宮沢賢治じゃなくて、王仁三郎から入るべきだったのかもしれません。お二人が語っていることは、ほとんど王仁三郎の生き方にダブるからです。もちろんそれが不可能だった理由もわかりますがね。
 私はこの本を読んで、正直かなり勇気づけられました。昨日の記事で「扇動されたい」と書きましたが、もしかすると私はお二人に、特に太田光さんに扇動されたのかもしれません。今の私は彼以上に、もしかすると、ジョン・レノンやオニさん以上にドリーマーかもしれません。そんな自分がかっこいいとは思いませんが、恥ずかしいとも思いません。それは事実です。せめてバカたちにバカと言われるようなバカになりたいですね。
 あっ、ただ一つ、異論あり。お二人さん、藤原正彦さんの「国家の品格」に「笑い」の視点がないというようなことを述べておられましたが、それは間違いです。私がこちらに書きましたように(笑)。ついでにこちらもどうぞ。

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2006.10.04

『私のこだわり人物伝 寺山修司&松田優作』 美輪明宏&リリー・フランキー(NHK出版)

知るを楽しむ 4月5月テキスト
6189144 最近ちょっとほめすぎかな、NHK教育を。でもけっこうチェックしきれず見逃してしまう番組も多い。これも完全に見逃してしまいまして、遅ればせながらテキストで勉強しました。ああ、観たかったなあ。
 最近では、同じ番組の、香山リカさんの「ジャイアント馬場」&唐沢俊一さんの「円谷英二」も、時々しか観ることができず、結局テキストを買いました。まあ、こうして活字で読むのも悪くないんですけどね。でも映像じゃないと伝わってこない「気持ち」ってあるわけで、やはりこの番組の「こだわり」の部分、つまり「愛情」だと思うんですが、それは文字には乗りにくいかも。「愛」ってたいがい「沈黙」で表現されますので。言葉にならないものですから。
 それにしても、この二人の組み合わせはすごいですねえ。「寺山」と「優作」ですよ。この前、日曜美術館30年のところでも再確認しましたけど、70年代、80年代ってすごかったっすねえ。
 さてさて、この二人、一般的には対照的とされるかもしれませんね。というか、どちら派かって、けっこうはっきり分かれるんじゃないでしょうか。私がどちら派か問われたら、これは間違いなく「寺山派」と答えるでしょうね。なぜか…よくわかりませんが。間違いなくそう答えます。リリー・フランキー美輪明宏のどちらを選ぶか、というのと同じくらい感覚的なものですけどね。あっ、もちろん美輪さんです。
 でも、この二人、いや四人でもいいや、彼らって男にも惚れられるタイプですよね。そういう意味では、私の中ではなんとなく同じ引き出しに収納されてるんですよ。結局、あらゆる意味で自分を超えた存在ということで、そこには「天才」「カリスマ」と書いた紙が貼ってあるんですよ。
 寺山修司にしても松田優作にしても、常に新しいことに挑戦した。既成のものをぶち壊してまで新しいものを生み出した。そのエネルギーのすさまじさですね。命を賭してまで世界と戦ったんでしょう。二人とも演劇を仕事にしたとか、エンターテイナーだったとか、そういうことではなかったようです。彼らの人生そのものが演劇になったということじゃないでしょうか。今、そういう男、いますか? 
 平凡な男として、なんとなく扇動されたいんですよね。そういう願望ってあると思います。松田優作のファッションから歩き方まで、とにかくマネしたいとか、寺山風の言葉づかいをしてみたいとか。ものまねの素材になるような人がいないじゃないですか、最近。強烈な個性やオーラを持った男が減った。つまらん世の中だなあ。安倍さんなんか、全然男が惚れられない。
 さて、このテキスト、両者ともに、元奥さんと語り手との対談が圧巻でした。いろいろと引用したい言葉もあるんですが、ちょっと長くなったんで割愛します。バックナンバーも手に入りますから、興味のある方はお求め下さい。
 あんまり懐古に走るのは好きではありませんが、自分も含めて時代がパワーダウンしているような気がします。やはり扇動し先導する「男」の存在が必要なんじゃないでしょうか。待望します。

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2006.10.03

「クルミ・ヌイ」〜ツンデレ=あはれにをかし

Kurumi 昨日の諸星大二郎からすごい落差ですけど、それがこのブログの売りですので、ごめんなさい。別にギャップ萌えを狙ってるわけじゃありません。
 今日、子どもが(と言うより母親がかな)TSUTAYAでマイメロのDVDを借りてきました。私たち家族は、くるくるシャッフルになってからの信者ですので、昨年度の第1期マイメロはほとんど未見です。で、少しずつ観ようという魂胆ですかね。賛成です。借りてきたのはいきなり第6巻。うんなかなか通な選択だ。さすがカミさん。クロミちゃんが擬人化した「クルミ・ヌイ」の登場する23話カレと踊れたらイイナ!が入っています。
 私が彼女を見たのは初めてではありませんが、今回ははっきり言って萌えました。「ああこれがツンデレ萌えか〜」と40過ぎたオヤジが激しく首肯したのであります。カ、カワイイ…。
 アニメが生んだキャラであるクロミ。いまや、主人公マイメロよりも絶大なる人気を誇っています。それも女性に「カワイイ」と言われる。怒りっぽくて、嫉妬深く、しかしちょっとセンチメンタルで、強がってるけど実はナイーヴでさみしがり屋。好きな人には一筋で純粋な一面ものぞかせる。そんなキャラが等身大の女の子を思わせるんでしょう。男性としても、あの仏陀のような、あるいはかぐや姫のようなマイメロよりも、実は惹かれたりするのでした。
 そんなクロミちゃんが人間化する!これは衝撃です。つまりまさに等身大の「女の子」になってしまうわけで、これはもう古今東西語り継がれてきた人形の人間化、それも制限時間付きという常套句を伴ったものなんですが、そういう古典的な語り口に、正直やられてしまうわけですね。ものすごい切なさがあるわけです。恋する人とダンスするために、制限時間付き人間化を遂げるぬいぐるみ。夢は叶いますが、もう時間がありません…。
 さて、ここからが本題ですが、これを観ていて、ふと思ったことがありました。また、マイメロからとんでもない発想が!私にとってマイメロは素晴らしい(変な)アイデアの源泉であります。
 クルミちゃんはたま〜にしか登場しませんが、それゆえにコアなマニアを生んでいます。それは多分に「ツンデレ」という属性による部分が大きい。ふだんは「ツンツン」している女の子が、ある状況になると突然「デレデレ」する、そのギャップが琴線に触れるというやつです。ツンツン時々デレデレ。クロミ時々クルミ。
 ツンデレに限らずある種のギャップが人を惹きつけるというのはけっこう普通のことですよね。そうしたギャップ萌えみたいなのって何なのかなあと考えたんです。で、事例として、今回私がクルミちゃんに感じた萌えの感情というのを、瞬時に分析してみたんです。そうしたら面白いことに気づいた。
Kurumi2 ツンツンしていて「思い通りにならない」ものが、突然デレデレして「思い通り」になる。これって私のいつもの言い方ですと、「もののあはれ」と「をかし=萌え」の組み合わせですよね。あはれ時々をかし。不随意で、ある意味嫌悪や忌避の対象であるべきものの中に、ふと随意で「カワイイ」属性が垣間見えた時の感情。発見の感動。真っ暗な闇に突如現れた一点の光。荒野に咲く一輪の花。
 これを古語で表現したなら「あはれにをかし」でしょうか。例えば、枕草子の有名な段に出てきますねえ。「野分」の段です。
 「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」
 つまり、「台風の次の日って超ギャップ萌えじゃん」って言ってるわけです。実際よく読んでみると、台風という当時は全く不随意の自然の猛威のあとに訪れる特殊な状況、稀有な風情について語っているんです。「ものあはれなるけしき」を背景として、そこに「きよげなる」女や「うるはしき」女が配置されていることに対する「をかし」の感情です。台風と美しい女の対比、ギャップこそが主題となっています。
 また、あまり知られていませんが、同じ枕草子の「九月ばかり」という段にも、「あはれにをかし」が出てきます。雨が一晩中降り続くも朝には晴れて日が差している情景について書かれています。
 「…蜘蛛の巣の、こぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじうあはれにをかしけれ」
 憂鬱な雨の後の光り輝く雨露を描写した秀逸な表現です。ここでもその憂鬱な雨自身がもたらす繊細で美しい光景に感動しているわけであって、やはりコントラストやギャップに萌えていると言えなくもないような気がしますね。
 「あはれにをかし」をワタクシ流に直訳すれば、「予想外で素敵」ということにもなるわけで、これはまさに「ツンデレ萌え」と同じ性質の感情ではないかと思うのです。まあ、私がクルミちゃんに抱いた感情と、清少納言が雨の後に抱いた感情を同列に並べるな!っていうツッコミは当然のこととして甘受いたしますが、実は当たらずといえども遠からずではないかと、内心思っているのでありました。
 やれやれ、またとんでもないことになってしまいましたね。すみません。ところで、ここに勝手に引用した画像ですが、実はもうすぐ発売されるクルミちゃん柄の抱き枕なんです!ここで「いとをかし=超萌え〜=非常に手に入れたい」と申したら、カミさんから激しいツッコミが入りそうですね。やめときます(笑)。

クルミ・ヌイ再臨!

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クルミ・ヌイ抱き枕

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2006.10.02

『妖怪ハンター』 諸星大二郎 (集英社文庫)

408618391901_scmzzzzzzz_ 昨日の座禅会の際、お借りいたしました。そして一気に読破。ちなみに私よりも先にモロボシマニアのカミさんに読まれちゃいましたが。そう言えば、カミさんのモノノケ性に気づいたのは、結婚前、彼女が諸星大二郎の「孔子暗黒伝」を「かわいい〜」と言いながら読んでいるのを見た時でした(笑)。思い出した。
 諸星大二郎と言うと、私は「神話」「伝説」「怪異」「伝奇」「古史古伝」「説話」「民俗」などという言葉を連想します。ま、それが普通かな。ワタクシ流に申しますと、彼は「モノガタリ」の再構成の能力がずば抜けているんですね。日本各地に古来伝わる「モノ」を集成して新たなる「モノ」を語るわけです。そういう意味では、彼は伝統的な「語り部」であると思いますね。たまたま語るメディアがマンガであったということでしょうか。
 考えてみるとマンガというメディアは、こうした「モノ」を語るのにふさわしい。文字以上に感覚的ですし、実写映画よりも自由です。物の怪を語ったマンガは…あえて例を挙げるまでもありませんね、とにかくたくさんあります。
 だいたいそういう物の怪系漫画家の画風は、もうそれ自体がモノノケ的なわけですけど、この諸星さんは特にすごいですね。有名な話ですけど、どんな絵も描けると豪語した手塚治虫が、「諸星大二郎だけはマネできない」と言ったとか。いったいどういう意味だったんでしょう。たしかに、あれだけ毎度顔が違ってちゃ、マネのしようがないか。ある意味ヘタウマの元祖の一人かもしれません。しかし、そんな諸星さんが、手塚賞と手塚治虫文化賞の両賞を受賞したというのは面白いことですね。
 今回は「地」「天」「水」全3冊をお借りしました。ここでおススメするのは、真ん中の「天」です。東北のキリスト伝説に興味のある私としては、「地」収載の名作「生命の木」も大変興味深かったのですが、やはり、「天」の前半、富士山を舞台とした「花咲爺論序説」「幻の木」「川上より来たりて」「天孫降臨」の連作ですね。
 私、この長大な物語の断片的なファクターについての知識はかなり豊富な方だと思うんですが、それらをこうして結合、いや統合されると、もうカブトを脱ぐしかないですねえ。それが確かに自然な流れになっているわけですから。天才でしょうか。創造力と想像力の勝利。
 物語の中心にも屹立している「柱」の存在は圧倒的です。それは「生命の木」であり、「高木」であり、「ユグドラシル」であり、「扶桑」であり、そして「立石」である…。本当に一本筋が通っている。物語の大黒柱がどーんと立っていて、ものすごい迫力になっています。名作ですね。
 そんな話の幹からすれば、少し枝葉末節になりますが、今回読んでいて「あっ」と思ったのは、当地に多い浅間神社の祭神「コノハナサクヤヒメ」と「イワナガヒメ」の対比です。よく知られているように、妹の木花開耶姫は美貌だが短命、姉の磐長姫は醜悪だが長命。まさに花と岩のコントラストです。これって「モノ」と「コト」ですよね。天孫ニニギはミコトとして「コト」を選ぶべきだったのに、ついつい「モノ」を選んでしまった。そこで、我々日本人の運命は決まってしまったわけです。なにしろ天皇家のルーツがそっちを選んでしまったので。ミコトがモノになっちゃった。変化して消滅する性質になってしまった。だから、ひ孫の代にはすっかり「人」になってしまった。初代人皇神武です。面白いですね。
 というわけで、久々の諸星体験、非常に刺激的でした。私知らなかったんですけど、「生命の木」って映画化されたんですね。ちょっと観てみたいと思いました。いや、あの絵だからこそいいのかなあ。やっぱりあの絵が重要ですよ。たとえば同じ物の怪を扱っている「蟲師」なんか、あれはあれで良かったんですけど、こちらを読んで(見て)しまうと、なんというか洗練された都会的なモノノケというか…。マンガにとっての文体ってやつなんでしょうかね。

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2006.10.01

演奏会&座禅in吉祥寺(富士吉田市)

Tydccv54 本当に突然決まった演奏会でありましたが、大成功だったのではないでしょうか。私はひさびさに魂の高揚を感じることができました。
 無理をお願いしたにもかかわらず、快く実現へお運びいただいた吉祥寺さま、そして来場下さった50名の皆様、演奏をしてくださったチェンバリストの渡辺敏晴さん、本当にありがとうございました。
 今日という日、2006年の10月1日は、私にとって大切な記念日になりました。昨夜からの一連の出来事は、どう考えても「不思議な御縁」そして「運命」というものだったと思われます。そうなるべくしてそうなった。
 渡辺さんを中心とした演奏会自体も大変素晴らしいものでした。昨夜も飲みながら話したんですが、彼の音楽に対する姿勢というのは本当に素晴らしい。硬直化してほとんど瀕死の状態であるクラシック音楽界において、あれだけ本当のこと、正しいことを言うのは実は難しい。そしてそれを実行する勇気。感服いたします。
 それにしても今日の午後はすごかった。まずは我が家に大変なものが多数やってまいりました。ここには詳しくは書けませんが、国宝級のお宝が京都からここ富士山にやってきたのです。それも予想外に大量に…。おそらくほとんど普通は観ることも能わざるものを手に取って、そして全身に気を浴びながら鑑賞することができました。総数100を超えていました。そして、そのうちの一つを我が家でお預かりすることになったのです。
 実はそのお宝を吉祥寺さんにお持ちし、演奏会のあと、それをお祀りして皆で座禅を組んだんです。自己や世界に対する真摯な姿勢をお持ちの方々との座禅は、お宝の発する気をディレクターとした、まさにスピリチュアル・アンサンブルでありました。ものすごく深い瞑想を体験することができました。目の前に現れたあの緑色の珠や炎のようなものは何だったんでしょう。初めての体験でした。
 その後の皆さんとのお話も大変勉強になりましたね。静寂とは、無とは、空とは、音楽とは、自己とは、世界とは、気とは、縁とは…。とても語り尽くせない様々な想い…それは皆さんの人生の豊かさそのものです。座禅というのは本当に素晴らしいですね。
 いずれにせよ、人と世界と関わることの豊かさを感じることのできたここ数日でありました。皆さん、本当にありがとうございました。恩に報いるよう頑張って生きていかなきゃなあ。身の引き締まる思いがします。

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