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2006.08.18

『武士道−日本人の魂』 新渡戸稲造 飯島正久(訳)

480675565609_scmzzzzzzz_ 音楽祭の合間をぬって私学の研修会に参加。いったいどっちが本職なのでしょうか。
 今年の研修はなかなか充実しておりました。久々に頭使ったら妙に疲れちゃった。なかなか興味深かったのは基調講演。クリスチャンの飯島さんによる「武士道」についてのお話。
 飯島さん、新渡戸稲造の「武士道」を和訳、解説されているそうです。私は読んでいませんが、今日はその本をタイトルとしておススメしておきます。
 私にとっての新渡戸稲造「武士道」は『日本文化論の系譜』での要約でありまして、まあそんな程度の知識であります。翻訳ものは翻訳者によってかなりテイストが変わってしまいますからね。死ぬまでに原文(英語)で読んでみましょうかね。
 今日の飯島先生のお話でなるほどと思ったのは、「武士は食わねど高楊枝」を「たかが経済」と言いかえられたことです。一般には負のイメージで捉えられる慣用句を読み直した。武士道を通じて、西洋的な価値観の中心を為す経済的弱肉強食に疑義を呈したわけですね。なるほどと思いました。新渡戸が述べている「ノーブレス・オブリージュ」にもつながる考えでしょう。ここのところ私自身「たかが経済」と言い放ちたい気持ちでいっぱい(気持ちはね)ですので、大いに共感いたしました。
 ただ、クリスチャンの立場として、飯島先生からもっとつっこんだお話をお聞きしたかった。新渡戸自身もキリスト者として「武士道」を書いているわけですし、実際最終的には「武士道」と「キリスト教」のタイアップを望んでいる。時代が時代であるし、「武士道」を書いたきっかけがきっかけなので仕方がないとは言え、私にはかなり無理な相談に思えるのです。
 内村鑑三などもそうですし、遠藤周作ら小説家もそうですけれど、彼ら日本人キリスト者の、異常なまでの葛藤や格闘には、正直不自然さを感じます。つまり、自己における日本と西洋の乖離、現実と理想の乖離に、ある意味異常なまでに執着している。融合とか歩み寄りを図れば図るほどに、分離していくのは分かり切ったことなんですけどね。そこに苦しみ悩むのが信仰であるかのように生きた。本末、主客が転倒してると思うんですけど。ま、遠藤などあえて現実を選ぶ作品を書いて自浄or自爆してますけどね。
 そんな話は今日の研修の趣旨には関係ないか。でも、ちょっとそんなことを思いました。「国家の品格」のおかげもあって、新渡戸の「武士道」も再び注目されているわけですが、あんまり盲目的に賛美しない方が得策かもしれません。あくまで西洋人向けに書いたものです。日本人だったら、冷静にツッコミを入れたいところです。あるいは私のようにとりあえず読まないようにするか。
 なんだか今日は疲れてるので、はちゃめちゃな文だな。失礼しました。

Amazon 武士道−日本人の魂

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コメント

なるほどなあ。経済こそ色にして空なるモノ(コト?)か。たかが金、されど金ですね。人はパンのみにて生きるにあらず、神の言葉によって生きるべきである。武士は品格のために生きたのでしょうか。
武士道とChristianityにはいくつもの共通項がありますね。おもしろいなあ。無門関 清税孤貧の公案も同じ事を言っています。
盆明けの研修で爆睡しまくっていた頃が懐かしいです。

投稿: 散人 | 2006.08.19 22:26

和尚様、どうもです。
そう、たかが金!と言いたいところですが、そうも行きませんよね。
でも、金(コト=フィクションだと思いますが)が現実になってるのが問題なんじゃないでしょうか。
無門関も勉強しなくちゃなあ。
いろいろ教えて下さい。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2006.08.20 05:53

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