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2006.07.17

長老の「シゴト」「モノガタリ」

Sany01161 さて、本日は祖父の葬場祭、火葬祭、取り越しの三十日祭が執り行われました。詳細については、やはりことがことなだけに記しません。
 左の写真は、「本家のとうさん」が用意してくれた埋葬祭の時に使うものです。ナナカマドの木に立てかけてあるので、ちょっとわかりにくいかと思いますが、竹や皮をはいだ木の先端に榊が付けてあるものです。竹は埋葬の際、お墓の周囲に立てて、注連縄を張る時使うらしい。木の方は、家から墓地への移動の時に掲げる「旗」用のようです。いろいろな色の旗を付けると言っていましたから、いわゆる「五色旗」でしょうか。いずれにしても、こういうものを、日の出とともに山に出かけて取ってきて、さっと作ってしまう長老は、正直かっこいいですね。それこそ学校で習うことではありません。まさに語り継いできたことです。すごいなあ、長老の仕事。
 さて長老と言えば、他の件でも心に残ったことを書いておきましょう。
 このような冠婚葬祭には酒席がつきものですよね。たとえば、昨夜も親戚や近所の人たちがねまって(ねまる=くつろいですわる)いろいろな話に花が咲きました。それが故人への供養となるわけです。
 私はこういう場合かなりきつい立場に置かれます。もうおわかりと思いますが、こうした地元民、それも長老級の方々の酒席に立ち合うということは、私にとって、これは冗談ではなく、どこかの孤島に流れ着いて、そこの人たちに思いがけず歓待され、なんらかの寄り合いに参加させられるも同然なのです。
 特にこういうシチュエーションですと、どうしても私のことがトピックになりにくい。ほとんどが長老たちの生活に根ざした話題が多くなります。ましてや、お酒も入っていますし、言葉もよそゆきと言うよりは「いつもの語り」になっています。ネイティヴではない私にとっては、かな〜りきつい事態であります。
 しかし、どういうわけか、今回は4割くらい理解できたんですよ。今までは緊張も手伝ってか3%がいいところだったのですが、ほら、外国語でもそういうことがあるというじゃないですか。急にわかるようになる。脳の中の回路が開通するように。
 そんなわけで、今回はけっこう質問なんかもしちゃったりして、とっても充実した時間を過ごすことができました。正直楽しかった。で、話題になることは、当地の生活の中での武勇伝的なものが多くなるんですよね。それが実に面白いわけです。たとえば、山菜やきのこの秘密の穴場についてとか、熊退治の話とか、山や川での危険な体験とか、知らない部落に迷い込んだ話とか。
 ああ、こういうのが「物語」だ、「昔話」だ、と思いましたね。私の屁理屈によると、相手の知らない、相手にとって外部である「モノ」を、「カタリ」を通じて内部に変換する(コト化する)のが「モノガタリ」です。より印象に残る、より興味深い「物語」のためには、いろいろな語り口を駆使するんですね。それが競い合うように成長していく。そこにはある意味「騙り」、つまりフィクションも含まれるでしょう。しかし、その「場」においては、それがフィクションであろうと何であろうと関係なんですね。この前も書きましたが、そこはプロレス的な「場」なんです。「騙り」にあえてだまされる、聴衆、観衆の積極的な受容の態度。まさに「祭」的な「場」の創造です。「そりゃないでしょう」なんていう空気を読めない野暮な発言は絶対になしです。
 特に、長老の語り、これは重いし、かっこいい。みんながひとしきり語ったところで、満を持して長老が登場します。そしてメインイベントが始まります。それまでの語りの内容をはるかに凌駕する内容の語りを、実にシンプルに、しかし重々しく提示します。そして、皆は「は〜」とか「ほ〜」とか言って感心する。これでそのトピックでの語りは終了するのです。
 こういう体験というのはなかなか出来るものではありません。いろいろな意味で大変勉強になりました。やはり外国(?)の文化に勇気をもって飛び込む、逃げも隠れも出来ない状態に置かれる、というのは大切なことですね。

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