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2006.07.16

『命(ミコト)』

命にお供えされた「山の幸」「海の幸」
Sany01121 今日は義理の祖父の出棺の儀が行われました。家内の実家は神道です。そのことについては去年こちらにちょこっと書きました。
 仏式の葬儀では、今日はお通夜ということになりますが、こちら神式では、枕直し、納棺の儀、遷霊祭を行い、次いで出棺となります。私は神葬祭は初めての体験でして、忍び手(音を立てない柏手)や玉串奉奠などにもいちいち緊張です。
 葬儀屋さんともお話をさせていただき、いろいろと勉強になりましたけれど、ことがことなだけにここには書きません。
 そんな中、特に心にしみたのは、亡くなって「命」になるということですね。別当さん(神主さん)の祝詞にもありましたが、生前祖父は様々な「コト」を為した。「仕事(シゴト)」でもあり、「事業(コトワザ)」でもあり、「子(コ)」を為すことでもあります。そうした様々な「コト」を為して(私の考えだとそれが「カタル」という行為)、そうして「コト切れて」、「コト絶えて」、この現し世から常世へ行かれて「命(ミコト)」となる。
 現し世、すなわち「現(うつつ)」とは、「空」であり、無常な「モノ」であります。そこで、我々人間は「コト」を重ねる。そうして、その終着点が、常なる国、常世の国に参ることなのです。そして本当の、不変の「コト」になる。だから美称を冠して「美コト」あるいは「御コト」となるということではないでしょうか。
 私の考えでは、「コト」というのは不変な存在を表します。それは現し世においては、自らの脳内で処理され固定されたものになります。ある意味、メディアを介して現出する「情報」と言えるかもしれません。それは皆さんもおわかりになると思いますが、実際は不変ではなく、変化し消滅していく「モノ」の一部なんですね。しかし、「死」は、人間のそのはかない(しかし貴い)活動に終止符を打ちます。「モノガタリ」が終わり、初めて人間は常なる存在になります。つまり「死」が「ミコト」になる唯一の方法なのです。
 そうした絶対不変の存在を現し世に仮定した(それが「ウツス」という行為でもあります)のが、紀貫之の言う「事業(ことわざ)」であると思います。
22hanazono_nishimura さて、今日出先の車中でたまたま観た番組が「こころの時代-宗教・人生」でありました。再放送のようでしたが、花園大学の前学長西村惠信さんが、「自己を究める~一休の生涯から~」というテーマでお話しになっていました。最後の方でおっしゃっていた、「自分があって現象があるのではなく、現象があって今の自分がある」、「出会いが人生を形成する」、「死が最後の出会いであり、自己の完成である」という内容のことば。仏教の基本的な考え方であり、今まで何度も接してきたものです。しかし、今日ほどこれらのことばが心にしみたことはありませんでした。祖父は最後に本当の自分に出会ったんだなと、ふと思い至りました。

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