『命(ミコト)』
命にお供えされた「山の幸」「海の幸」
今日は義理の祖父の出棺の儀が行われました。家内の実家は神道です。そのことについては去年こちらにちょこっと書きました。
仏式の葬儀では、今日はお通夜ということになりますが、こちら神式では、枕直し、納棺の儀、遷霊祭を行い、次いで出棺となります。私は神葬祭は初めての体験でして、忍び手(音を立てない柏手)や玉串奉奠などにもいちいち緊張です。
葬儀屋さんともお話をさせていただき、いろいろと勉強になりましたけれど、ことがことなだけにここには書きません。
そんな中、特に心にしみたのは、亡くなって「命」になるということですね。別当さん(神主さん)の祝詞にもありましたが、生前祖父は様々な「コト」を為した。「仕事(シゴト)」でもあり、「事業(コトワザ)」でもあり、「子(コ)」を為すことでもあります。そうした様々な「コト」を為して(私の考えだとそれが「カタル」という行為)、そうして「コト切れて」、「コト絶えて」、この現し世から常世へ行かれて「命(ミコト)」となる。
現し世、すなわち「現(うつつ)」とは、「空」であり、無常な「モノ」であります。そこで、我々人間は「コト」を重ねる。そうして、その終着点が、常なる国、常世の国に参ることなのです。そして本当の、不変の「コト」になる。だから美称を冠して「美コト」あるいは「御コト」となるということではないでしょうか。
私の考えでは、「コト」というのは不変な存在を表します。それは現し世においては、自らの脳内で処理され固定されたものになります。ある意味、メディアを介して現出する「情報」と言えるかもしれません。それは皆さんもおわかりになると思いますが、実際は不変ではなく、変化し消滅していく「モノ」の一部なんですね。しかし、「死」は、人間のそのはかない(しかし貴い)活動に終止符を打ちます。「モノガタリ」が終わり、初めて人間は常なる存在になります。つまり「死」が「ミコト」になる唯一の方法なのです。
そうした絶対不変の存在を現し世に仮定した(それが「ウツス」という行為でもあります)のが、紀貫之の言う「事業(ことわざ)」であると思います。
さて、今日出先の車中でたまたま観た番組が「こころの時代-宗教・人生」でありました。再放送のようでしたが、花園大学の前学長西村惠信さんが、「自己を究める~一休の生涯から~」というテーマでお話しになっていました。最後の方でおっしゃっていた、「自分があって現象があるのではなく、現象があって今の自分がある」、「出会いが人生を形成する」、「死が最後の出会いであり、自己の完成である」という内容のことば。仏教の基本的な考え方であり、今まで何度も接してきたものです。しかし、今日ほどこれらのことばが心にしみたことはありませんでした。祖父は最後に本当の自分に出会ったんだなと、ふと思い至りました。
| 固定リンク
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 追悼 大宮エリーさん(2025.04.28)
- 『新幹線大爆破』 樋口真嗣 監督作品(2025.04.23)
- 『アルプススタンドのはしの方』 城定秀夫 監督作品(2025.04.01)
- 『映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件』伊藤彰彦 (講談社α文庫)(2025.03.26)
- 『北陸代理戦争』 深作欣二監督作品(2025.03.25)
「歴史・宗教」カテゴリの記事
- 国語便覧(第一学習社)(2025.04.25)
- 近鉄特急(2025.04.20)
- 伊勢の外宮に思う(2025.04.19)
- 家康公遺言(岡崎城)(2025.04.18)
- 服部半蔵と大久保長安(2025.04.13)
「モノ・コト論」カテゴリの記事
- 地震と大相撲(2025.03.30)
- ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(2024.06.03)
- 文字を持たない選択をした縄文人(2024.02.14)
- スコット・ロスのレッスン(2024.01.12)
- AIは「愛」か(2024.01.11)
コメント