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2006.07.31

『子供たちの心が見えない…教師、17年目の苦悩』 NNNドキュメント06

20060730 昨日の深夜というか、今日の未明に放映されたこのドキュメント。私は録画したものを朝4時から2回観てしまいました。あまりにも重かったので、6時に起きてきたカミさんにも見せてしまったのでした。朝っぱらからこれを2回観たら、そりゃ頭も痛くなるでしょう。ましてやブルー・マンデーです。
 簡単に言えば、学級崩壊状態の小学校のある教室の1年間を追った内容でした。拡大版55分枠。先生や生徒や親に、いっさいモザイクなどかからない、非常にリアルなもので、ふだん教育現場にいる私には、ちょっと直視に堪えられないほど衝撃的でした。
 6年生。先生の言うことも聞かない。整列もできない。「死ね」「うざい」「むかつく」「キモい」「ブス」…担任のT先生には、そういった言葉が無造作に投げつけられます。親も非協力的。T先生は、もがけばもがくほど、自分を追い込んでしまいます。実は、T先生の前には、教師歴20年の先生がこのクラスをまとめきれず、学校を休むはめになっていたのでした。
 特に女子の集団との確執。これは正直修復困難な状況だと見ました。こりゃあ大変だ、というよりも、自分の過去の記憶がよみがえってきて、本当に辛かった。
 私なんか、誰が見てもお気楽教師ですよねえ。たしかに今は毎日楽しいばかりです。しかし、私も若い頃、全く同じような状況を経験してきました。当時はやはり、そういうのは高校生だったんですよ。その後中学生が、そして今は小学生だと。そういうことでしょう。若年化ですね。
 私も当時、全くT先生と同じ状況でした。親も集団で乗り込んできたりして。それはもう毎日片頭痛との闘い。登校拒否寸前ですよ。
 現場を知らない人は、そんなに甘やかすな!とか、もっと話を聞いてやれ!とか、いろいろ言えますよね。事態はそんなに単純ではありません。語弊があることを承知で本当のことを言うとですねえ、教師業の中で最も注意すべきは、女子の集団です。ああ、言っちゃった(笑)。
 で、今はほとんどそういう問題は起きなくなった。それは、その時の経験が自分にいろいろなことを教えてくれたからです。そういう意味では、本当にあいつらには感謝しています。また、これは本当に面白いことですけれど、そういう奴らこそ、5年後、10年後なついてくるんですよ。優等生とは疎遠になってますが、彼女たちは今でもよく遊びにくるし。不思議なものですね。
 どのようなことを学んだのか、そしてどうすればよいのか、私はそれなりに言葉にすることもできますけれど、それは企業秘密(?)なのでここには書きません。ここに書くべきことではありませんしね。ただ、それはテクニックとか、演技とかではなく、単純にこちらの心の持ち方の問題です。それに気づくのにずいぶんと苦労をした。でも、若い時にそれを学ぶことができて、本当に良かったと思っています。
 T先生の状況は、ある意味、まだいい方かもしれません。もっと大変な状況もあるでしょう。また、私自身、いつそういう状況に置かれてもおかしくありません。もちろん、そういう覚悟で毎日を過ごしています。T先生のようなまじめな先生ほど、自分がなんとかしなくちゃと思う。自分の理想の生徒像がある。そして、理想の先生像もある。
 でも、一つ言えることは、生徒たちの人生において、私のような一人の教師が与える影響などそれほど大きくないということです。いい意味でも悪い意味でも。彼ら彼女ら、卒業後の何十年かの間に、いろいろなタイミングで、いろいろな人に、いろいろなことを教えてもらうんでしょう。ここで教えておかなくちゃってことは、実はそんなにないんです。学びたいやつは勝手に私から学ぶでしょう。その逆もあり。自分の役割はそれほど重大ではないのかもしれません。
 あと、これは学校に限らず、人間関係全てにあてはまることでしょうが、私がいつも頭に置いているのは、「人間関係は鏡」、「待つのが仕事」、「困ったら人任せ」です。まあ、そんな程度の教師だということですよ。カミングアウトしちゃいます。それと、教師も一般企業なみにクライアントのニーズを知り、それに対応すべきだと思いますよ。あまりに保守的では、そりゃあ子どもたちとの溝はひろがります。親御さんとの関係も、結局「=生徒との関係」ですからね、話はいっしょです。
 というわけで、今朝はホントにブルーでしたが、ウチの(ある意味)崩壊女子軍団に会ったら、なんか安心して元気が出ました。あんがとな。

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2006.07.30

『猫は』

Neco55 今日は軽いネタでいきましょう。
 ウチの家族もそうとうの猫狂いです。なんか統計によると、猫好きにはひきこもり傾向があるらしい。なに〜?!そんなこと…ありまつ。そのとおりでつ。
 で、究極のひきこもり、最古のひきこもりは、平安時代の宮中です。オタク発祥の地ですね。貴族文化。完全にひきこもってます。帝中心にね。ニートです(失礼)。たま〜に、御幸とかありましたけど。
 そんな帝の中でも、一条天皇の猫好きはちょっと有名です。あの枕草子にも「うへに候ふ御猫は」という段がありますね。話としては、翁丸という犬が主人公になっちゃうんですけど、「命婦のおとど」という猫ちゃんに対する帝の猫かわいがりっぷりは、なかなかのものがあります。翁丸に追っかけられた「ミョーブちゃん」を懐に入れてかくまい、「翁丸を犬島に流刑にせよ!」って言っちゃうくらいですから、これはもう狂ってます。
 当時の表記では「命婦」は「みゃう・ぶ」ですから、シャレでしょうね。だいたい命婦っていう官位を与えてるところがすでにオタク的シャレ。実際この猫が生まれた時盛大に誕生パーティーやったことが「小右記」に出てますし。職権濫用ですよ。「いみじうをかしければ、かしづかせ給ふ」…超萌え〜なので、溺愛なさっている、と。「をかし=萌え」です。
 で、その記事を書いた清少納言もけっこう猫好きだったのかもしれません。「猫は」という段がシンプルですがなかなか面白い。
 「猫は、うへの限り黒くて、腹いと白き」
 猫は、全体が黒くて、おなかが真っ白なの、ってことですね。「うへ」というのは、よく背中と解釈されてますけど、なんか違うような気がします。表面ということでしょう。ま、普通に歩いているような状態で見える範囲が全部黒いということだと思います。それで、ふだんは見えにくいおなかを見ると、そこがきれいな真っ白。いますよね、そういう猫。たしかに萌えるわ、そりゃ。
 というわけで、どういう猫かと言いますと、そう、このブログの左上に鎮座しておられる御猫Maukieちゃんですよ〜!ね?こんな感じでしょ?清少納言さん。もしかすると、ミョーブちゃんもこういう猫だったのかもしれませんね。清少納言のことですから、当然帝の御猫様をほめるでしょうし。たぶんそういうことなんでしょう。

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2006.07.29

歌謡曲バンド セカンド・ライヴ!

Eklkl89 聴いてくれた方々!本当にありがとうございました!
 歌謡曲バンド(よなぬきバンド)のセカンド・ライヴ、盛況のうちに無事?終了いたしました。デビュー・ライヴに続きまして、またまたお祭りでの演奏。今回は富士吉田市の市制祭(市民夏まつり)のステージでやらせていただきました。そして、夜は私の勤める高校が運営したショップの前でストリート・ライヴまで。私たちのわがままを聞いて下さった関係者の皆様、本当にありがとうございました。
 演奏の方は、いつものとおりアクシデントが多々ありましたが、まあお祭りということで、笑って(盛り上がって)許して下さい!全体的なノリノリの空気感に、かな〜り救われてますねえ。お祭り限定バンドってのもいいもんですな。神様仏様は寛容でいらっしゃる。ありがたや、ありがたや。
 しかし、いつまでも甘えていられませんから、反省の意味も含めて、今回も音(mp3)をアップいたします。冷静に聴くと、やはりそれぞれいろいろとやらかしていますね。歌詞は間違うわ、短調のところ長調で弾いちゃったり、またその逆だったり。楽譜が風で飛んでってメチャクチャになったり…ほとんど私とカミさんのしわざか。
 今回は、新曲3曲だけさらします。

お祭りマンボ
津軽海峡・冬景色
みずいろの雨

 おかげさまで、いろいろなところからオファーが来ておりまして、うれしいかぎりです。音楽を通じて、いろいろなご縁が、それも全く予想しなかったような縁が生まれ、網の目状に拡がっていっております。音楽を演奏する歓びを実感しています。
 というわけで、新メンバーも加えて、今後も頑張っていきたいと思っています。精進しなくちゃね。
 ご要望があれば、どこへでも出張いたしますので、メールでご一報ください(メンバーの都合が合えば、ですけど)。

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2006.07.28

GEMINI GX-1(超小型モニタースピーカー)

Gx1 明日お祭りでライヴやります。前回デビューライヴでは、ヴォーカル用のモニターがなくて、ウチのヴォーカリストが大声出しすぎました。たしかに自分の音が聞こえないと心配なんですよね。どんなジャンルでも。
 人の音が聞こえないのも困りますけど、やっぱりアンサンブルにおいて、自分の音が聞こえないというのは致命的です。バロックやってても、会場によってはあるんですよね。自分の音が聞こえないこと。で、がんばっちゃうと客席では異様に大きい音で聞こえてたりして。難しいですね。
 ちゃんとした専属のPAさんでもいればねえ、いいんですけど、そんなわけにはいきません。ま、とにかく今回はステージ・モニター用のスピーカーを買おうと思ったんです。この前買ったPAシステムにはもちろんそんなものついてませんから。
 ところがお金がない。今回いろいろとライヴ(どさ回り)用に買ったら、ホントに貧乏になってしまいまして。で、しかたなく、というか、とりあえずというか、一番安くて、そこそこ出力のあるやつを選んだんです。それがこれ。
 GEMINIと言えば、DJの世界ではそこそこ名の知れた会社です。比較的安い製品でシロウトの皆さんには好かれていますね。で、そこの一番安いのがこのGX-1です。実質5000円以下で、25W×2ですからね。1Wあたり100円ということですね(そんな計算しないか)。
 ところが、こいつがなかなかいい音するんですよ。普通にPC用とかiPod用のパワード・スピーカーとしても、そのへんで売ってる安物よりずっといい音がします。ノイズも少なめですし、高音、低音のレベル調整も自然にできます。オマケ的な3D効果も悪くありません。作りもそこそこちゃんとしてます。フル・ヴォリュームでもそれほどひずみませんしね。とってもお買い得、いろんな使い方ができるので一家に1セットあってもいいんじゃないでしょうか。

アンプ内蔵スピーカー◎gemini GX-1 <POWERED MONITOR>

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2006.07.27

『ダライ・ラマ 生命と経済を語る』 ダライ・ラマ ファビアン・ウァキ (角川書店)

中沢新一・鷲尾翠(訳)
404791440109_pe00_ou09_scmzzzzzzz_ これまた感動的な本でしたなあ。この前ちょっと仏教経済学という言葉を持ち出しました。実際にそういうのを研究したり、想定したりしている人もいらっしゃる。詳しいことはよくわかりませんが、理念として、利他や知足や慈悲や布施の精神が経済システムにどのように組み込まれるのか、いやそれ以前に、仕事や企業やお金の流通とブッダの教えは両立しうるのか、そこのところに興味があります。
 それで、なんとなくですが、この本を読んでみました。ダライ・ラマの著書には、今までも大変多くのことを学んできましたし、いつものように慈愛に満ちた口調で語りかけてくれるだろうという甘えのような気持ちもありました。また、対談という私の大好きな形式、そして、その相手がフランスの大手百貨店の辣腕経営者だというのも興味をそそります。
 これがですねえ、本当に感動してしまいました。当初の私の疑問に答える内容ではなかったのですが、それ以上に非常に励まされましたし、気持ちが前向きになりました。
 もちろん経済に関する対話もありますよ。西洋的なお金観や仕事観、富裕観、資本主義経済にも、社会主義経済にもけっこう厳しい口調でダメ出ししています。そして、お金はある意味大切ですけれども、それとのつきあいには、やはり利他や慈悲の精神を持たねばならないとしています。マネーゲームは全く最低だ…と、そういう言い方ではありませんが、そういう気持ちはビンビン伝わってきます。
 それにしても、ファビアン・ウァキという人、まだ若いようですが、こういう経営者もいるんですね。あらゆる宗教に造詣が深く、よく思索している。まあ、そうでなければ、猊下と対談するなんて無理でしょうし。結果ととしてこういう感動的な内容の本を作ってしまったわけですからね。特に仏教に対する純粋さ極まったアプローチの姿勢には感服いたしました。稲盛和夫さんレベルでしょうかね。
 それで、その人がですねえ、本当にブッダの弟子がブッダに一生懸命たずねるように、ダライ・ラマに食らいついていくんです。おいおい、ちょっとそれは失礼じゃないか?あっ、それ訊いちゃう?みたいな感じで、こっちがドキドキしちゃう。
 そう、それでその内容が経済だけじゃなくて、権力、政治、倫理、科学、性、教育、メディア、医療、福祉、そして生と死、心、奇跡と、まさに縦横無尽。しかし、それらが実によく結びついていて、一本のストーリーを紡いでいる。いやあ、なんか人生の全て(に対する智恵の一端かな)を学んだような気がしましたよ。おおげさでなく。
 他の宗教者との対話とかではなく、こうしたいかにも俗世間でバリバリという感じの青年との対話というのがまた、リアルなダライ・ラマを演出しています。訳者の一人、中沢新一さんも「こんどのダライ・ラマは違う!」って言ってますが、まさにそう。なんとなく人間ダライ・ラマに接したような、でも全体としては、まさにブッダに近い人がここにいたという感じなんですよね。
 ダライ・ラマの著書を読んで必ず感じる幸福感、それはたぶん母のような慈悲心に包まれた安心や希望であると思うのですが、それが今回は格別に大きかった。涙が出てしまいましたから。ブッダやイエスもそうだったと聞きますが、相手に合わせて上手に話すことができる人って魅力的ですね。
 さて、本当にいろいろなことを学ぶことができた本でしたので、とにかく皆さんにも読んでいただきたいわけですけれど、ちょっとだけ個人的に心に残った言葉を引用して終わりたいと思います。
 「健全な経済システムは、利他心と責任感の上に築かれていなければならない」
 「利己主義のまま生きなさい、でも同時に他者のことを考えなさい」
 「すべては自分で確かめなさい、何一つ盲信してはいけない」
 (これらをいつ誰が言ったかは、この本でお確かめ下さい)

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2006.07.26

『マンガに人生を学んで何が悪い?』 夏目房之介 (ランダムハウス講談社)

427000130501_pe00_ou09_scmzzzzzzz_v62363 いろいろ考えさせられたんで長くなります。あらかじめ言っときます。
 帯の背に「マンガを人生の一部とし、愛してきたすべての人へ。」ってあります。では、マンガを読まない私にこの本の評を書く資格はないのか…いや、あります!だって、本当に面白くて吸い込まれるように読んじゃったから。書かせて下さい!
 私はマンガに人生を全くと言っていいほど学んできませんでした。いえいえ、マンガに学ぶべきものがなかったのではなくて、マンガから人生を学ぶ機会を持たなかったのです。だから、「何が悪い?」と訊かれても「わかりません」としか答えようがありません。あるいは、「いや、よくわからないけど、学んでいいんじゃないですか?」と言うかも。
 そう、それほどに、私のまわりには(特に私の世代には)「マンガに人生を学んだ」そして「今でもマンガに人生を学んでいる」人が多いんです。だから、私はマンガとはそういうものだと認識していました。それで私は、このブログでもいつも「マンガは今や文学の役割を果たしている」と書いたり、教室でも「ひたすらマンガを読め!」みたいなことを言ってるんですね。自分にそういった実感や経験がないのに(ないからこそ)。
 で、こういう本が出て、そして読んでみて、本当に安心したんです。やっぱりそうだったんだって。私の予感や無責任な発言も、それほど的をはずれていないと。
 で、急に元気になって、ワタクシ的な結論をドカンと書いちゃいますと、「人生」を学ぶってことは「もののあはれ」を学ぶってことなんですね。いつも言ってることですが、私の解釈だと、「モノ」とは変化し思い通りにならない自分の外部です。不随意性、無常性ですね。それに対する「あはれ」…昨日も書きましたけれど、「哀れ」と「天晴れ」、つまり「あ〜」っていう嘆息です。
 日本のマンガにはそれがあって、外国のマンガにはそれがほとんどなかったんだと思うんです(全然たしかめてないっす)。子ども相手だと「もののあはれ」じゃなくて、せいぜい微分的、刹那的な「をかし=萌え」で終わってしまう。
 だから日本の今のオタク傾向って、カウンターカルチャーなんですよ。どの時代にもありますけれど、金とヒマの力で重い現実から目をそらしちゃう貴族文化なんですね。まあネオテニーとかピーターパン・シンドロームとも言えるでしょう。ポップでサブだと思ってたものが、だんだん重みを帯びてメインストリームになってくると、それを本来的な意味とは違う方向からとらえて茶化すような傾向が現れます。はっきりデータ的にとらえられる、いわば「コト(内部で処理可能な情報)」の方に意識を向けちゃうんです。私は、マンガやアニメとオタクの関係ってそういうものだと認識してます。
 ただ、オタクとは全く違ったアプローチをする人々も一方に存在します。それが、たとえば房之介さんのような方です。オタクたちとは違って「もののあはれ」を直視し、それらを微分することなく積分していく。そして、もっと壮大な、総合的な、普遍的な「人生」を提示してみせるんです。私はそういう方向性に憧れますね。つまり全然ヲタじゃない(と思う)。
 そして、そういうのが、つまり房之介さんのような態度や知識のあり方が、ずばり「教養」だと思うんですよ。そしてまた、現代の、新しい教養のあり方って、房之介さんや、この前の爆笑問題みたいなスタンスだとも思うんですよね。あっちでも書きましたけれど、オタク的なのは本当の教養じゃない。分析、分析、微分、微分ではダメなんです。まあ学問の現場があんなふうに細分化されてちゃあね。とても期待できません。
 あと、スタンスということで言うと、「ユーモア」って忘れちゃいけないですね。「笑い」とか「軽いノリ(風なもの)」とか。だいたい本当に堅い人は、マンガから人生を学ぼうとするわけないし、そういうのをバカにする傾向があります。で、大概がものすごい過去か未来の学問を始めちゃう。現在を直視できないんですよ。勇気がないから。まじめ顔で武装しちゃう。房之介さんや爆笑問題にはそういうところがないでしょう。実は一番余裕あるんですよ。かっこいいですよね。余裕を見せるのもホンモノの教養人には大切なことです。
 そう考えてみると、マンガで人生を語っちゃった漫画家の皆さんこそ、ワタクシ的には本当の教養人だったということになりますかね。そこには常にユーモアがあった。笑いを武器にまでした。
 漱石おじいちゃんも、今思えばけっこうユーモアありましたね。一流の教養人でした。で、その後の文学は、まじめ顔に逃げちゃったんじゃないでしょうか。だから結局衰退した。マンガに駆逐されちゃった。そして、その「マンガ」の「批評」をするお孫さん。もうその姿勢自体に、一流のユーモアと余裕と勇気を感じます。お孫さんがおじいちゃんの「いい仕事」を見事に継いでいらっしゃる。感動的ですね。
 マンガには強い記号性があります。記号はフィクションです。しかし、そのフィクションがリアルを効果的に表象することが往々にしてあります。というか、それこそが「作品」や「芸術」のありようだと思います(私の大好きな音楽やプロレスもね)。マンガが象徴したこと、マンガが語ったこと、それはまさに「人生」であったと。
 「自分」とは何か…結局は「無我」に到達します。「人の本来的な相互和声的なありよう」…すなわち「縁起」ですね。「運命」…「無常」「因果」につながっていきます。そう、この本の言葉一つ一つが仏陀の言ったことに重なります。それほどに、マンガは(つまり日本人は)人生を語り、人生を学んだのでした。
 房之介さんのこちらの著書も良かったけど、やっぱりホームでのはつらつとした仕事っぷりには、こちらも燃えましたね。さ〜て、後半生はオレもマンガ読むぞ〜!

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2006.07.25

『日本語文法の謎を解く−「ある」日本語と「する」英語』 金谷武洋 (ちくま新書)

448005983009_pe00_ou09_scmzzzzzzz_ こちらで私を大いに刺激してくれた金谷さん。この新書でもいろいろとやってくれています。
 この本を読んでどのような感想を持つか、私たち日本語に携わる者は試されていると言ってよいかもしれません。私は実に楽しく読んだ。その楽しさにはいろいろと理由があります。
 まず、私がいわゆる学校文法が大嫌いであるという理由。あんまり嫌いだから最近は授業でちゃんと教えなくなってしまい、生徒から文句が出ます。でも、不自然なものを平気で教えられるほど私はずうずうしくなれません。本書でも指摘されているように、現在教えられている学校文法はほぼ1世紀前、西洋語文法に真似て作られたものであり、しかし一方でまた江戸時代以来の伝統に縛られている、まったく不自由で不自然なものであります。思わず笑っちゃうほどなんです。まあ、そのへんについては、専門的な話になるので割愛。で、そんな学校文法をバッサリやってくれてるんで、そりゃあ楽しい。
 次に、その学校文法の代わりに、外国人に対する日本語教育の立場から、新しい視点を提供してくれているということ。そこには、「日本語には主語はいらない」が象徴しているように、一見斬新ですが、実感としては実にスムーズにのみこめるものが多い。私も三上章さんの文法が好きですので、そのへんの共感もあるのかな。今回もなかなかユニークな視点で、私を刺激してくれました。楽しかった。
 続きまして、そんな刺激的な論に、ちょっと「トンデモ」臭がある点。これは勇み足かなあ、と感じるところ多々有り。やや我田引水、牽強付会。そのあたりのツッコミどころは、やはりここでは書きません。直接もの申したいと思います。一方的な批判とかじゃなくて、意見交換したいんで。
 そして最後に、この本のテーマ、「ある」日本語と「する」英語、にこめられた強いメッセージが、私の「モノ」「コト」論と共鳴しているから。これがやっぱり一番の理由でしょう。
 金谷さんは、日本語のいろいろな表現は「ある」というスーパー動詞によって成り立っている存在文である、と言います。一方の英語は「do」というスーパー動詞が活躍する行為文。そして、それらの特徴は、それぞれの話者の「心」や「文化」を象徴していると。つまり、「自然」と「人為」どちらを重視するかということです。それを語る金谷さんは熱い。なかなか説得力あります。特に、地名や人名などについての言及は、実にな〜るほどでありました。力士のしこ名がなぜ「〜花」とか「〜海」とかなのか…。
 で、私がいつもしつこく言っていることをご存知の方は、もうお気づきだと思いますけれど、まさにこれって「モノ」と「コト」の対比なんですね。自分の外部に「ある」、自分(人間)の意志とは関係ない「モノ」と、内部で「する(処理する・処理した)」、自分(人間)の意志による「コト」です。鈴木孝夫大明神的に言えば、それぞれが「ファクト」と「フィクション」ということでしょうか。ものすごくおおざっぱに絡げちゃうと、それが「日本文化」と「欧米文化」の違いということになるわけです。
 同様な対比に注目したものとしては、現代文のテキストとしても頻出の(頻出だった?)、丸山真男の『「である」ことと「する」こと』や池上嘉彦の『「する」と「なる」の言語学』なんかがありましたが、より私の発想に近いのが、この金谷さんの著書でした。やや立つ位置は違いますけれど、文化論的にはかなり似た発想をしているようです。
 いずれにせよ、私たちがいかに主体的に考えていないかを気づかせてくれる、いい本だと思いますよ。私たちは、自分のまわりに「ある」「モノ」を基底として発想・行動しているのでした。基本的に謙虚で、自分たちの思い通りにならないことを楽しみさえする。「もののあはれ」を知るというわけです。「あはれ」は「哀れ」であり「天晴れ」であります。また、(例えば学校文法のような)旧習を無批判に踏襲しているということも、そんなところに根ざしているのかも。ま、良きにつけ悪しきにつけ、日本人ってそういう民族なんですね。

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2006.07.24

マイメロと竹取物語(かぐや姫の罪とは?)

Baku11 昨日につづき、またトンデモないことを書きます。世間的にはトンデモないでしょうが、私は大まじめでして、こういうところが、私の変なところであります。
 昨日マイメロの録画を観ながら、まずは仏陀のことを思い出しました(笑)。続いて思い出しましたのが、日本最古の物語である「竹取物語」です(笑…でしょうね)。
 最新の「物語」と最古の「物語」は見事にリンクしているということです。まず、設定も少し似ています。かぐや姫は月の世界で何らかの罪を犯し、地球という低級世界で謹慎処分になります。マイメロも天上界マリーランドでの罪(結局は冤罪なのですが)によって人間界に遣わされたのでした。
 竹取におけるかぐや姫の罪がいったいなんだったのか、これは実はよくわかっていません。本文にもはっきりとは書かれていないんですね。ただ、月の世界で罪を犯したことによって、その運命によって罰を受けていると。それだけしか書かれていません。
 マイメロの方は、クロミとバクの悪事の現場にたまたまいただけで、疑われてしまったんです。それで、その疑いを晴らすために、人間界でクロミとバクをやっつける約束をしたと。そういうことらしい。ですから、正確にはクロミとかぐや姫を比較する方が正しいかもしれません。
Strm228_l しかし、かぐや姫の言動を見ると、「嫉妬」がないという意味では、どちらかというとマイメロに近いんですね。そして、姫の我欲や嫉妬のなさに、人間界の人々、特に男どもは振り回され、「嫉妬心」 を鼓舞されている、と竹取物語は読めるわけです。それはちょうど、マイメロの邪気の無さに他の登場人物の嫉妬が照射されて顕在化しているのと同じです。
 かぐや姫をとりまく男たちの感情には、はっきりとした「嫉妬」が読み取れます。結局男同士のライバル意識や、かぐや姫(月の人)の優位性に対する屈折した羨望が、嫉妬を生んでいるわけです。
 そうすると、古今謎だとされてきたかぐや姫の罪とは、まさに「嫉妬」の罪ではなかったのか、という気がしてきます。よく「姦通」とか「不倫」とか「性的タブーを破った」とか、各学会でまじめに論議されていますけれど、私にはどこからそういう説が生まれてくるのか、よくわかりませんでした。ちょっと行きすぎのような気がするんですよね。「嫉妬」だったら、もう少しすんなり理解することができるように思うんですよ。
 月の世界では許されない「嫉妬」の罪を犯したかぐや姫。「嫉妬」渦巻く地球に島流しになった。自分をとりまく醜い「嫉妬」の数々と、それが引き起こすそれぞれの顛末のアホらしさを直視して来い!と。で、もうぼちぼちいいだろう、もうわかっただろう、というところで月の王がUFOに乗って迎えに来た。最後の最後にまた、竹取の翁はメチャクチャな言動に走る。宇宙人にまでやきもち焼いて。もういい歳なのにねえ、じいさん。
 で、最後はマイメロのハリネズミくんが「忘れちゃいましょうコロリ」って言ってみんなの記憶を消しちゃうのと同様、天の羽衣をハラリとまとったかぐや姫は、地球での記憶を失うのでした。ハハハ。ほら、そっくりでしょ。
 こんな感じで、日本最古の物語と日本最新の物語はつながっているんです。こうして語り継がれるのが「物語」の本質ですし。いやあ、面白いなあ。自分で書いててワクワクしてきます(オレだけか…)。

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2006.07.23

マイメロと仏陀(嫉妬からの解脱?)

Melo 今日のマイメロもめっちゃ面白かった。フームたんほどではないにしても、業界(マンガ)ネタ&遊び心満載でした。
 家族で録画を観ながら私は思ったんですよね。どうもこいつは深いぞと。
 私も今年度から、つまりは2ndステージ(くるくるシャッフル)から観ているわけでして、背景などをそれほど詳しく知っているわけではありませんが、なんとなく人間の奥深くに眠る欲望というか、煩悩というか、そういうものを表現してるように思われてきます。まあ、たいがいの作品というものは、ジャンルを問わずそんなもんでしょうけどね。ただ、マイメロの良さは、子どもだましの偽善に陥っていないというところでしょう。子ども番組という縛りや、キャラものという縛りから、どういうわけか解放されているんですね。やっぱりTXNだからでしょうか。
 さて、そんな大人なマイメロでありますが、先ほど述べた煩悩の中でも、特にこの作品のキーワードになっているのは、「嫉妬」であると思います。とにかくいろいろな形の嫉妬・ジェラシー・やきもちが渦巻いているんですね。作品全体に。それは、人間界もマリーランドも同様。マリーランドというのは、人間界とは別にあるぬいぐるみ?の世界。しかし、まさに互いはうつし世の関係になってます。いちおう人間の善の夢によってできているらしいのですが、人間界で悪い夢がはびこりだすと、ぬいぐるみ界でもいろいろと異変が起きるようです。夢と現かあ。どっちが主体なんでしょうね。霊界物語みたいだな。
Erajs で、その「嫉妬」。ほんとにみんながみんな嫉妬心を抱えて生きている。そんな中で、唯一嫉妬心を持たないのがマイメロなのです。そういう意味で、そしてまた、どんな状況でも不満を抱かず冷静でいるという意味でも、マイメロははっきり言って仏陀です。無我ですし、純粋ですし、解脱してますよ(ちょいと他力本願ぎみですが)。
 ところが、そんなマイメロに、実はみんな振り回されてるんですね。特にクロミちゃん。クロミってミロクの反対ってことでしょうか(違うか)、たしかに全然達観してない、とっても人間的なわけです。で、私たち生身の人間の視聴者も、実はマイメロにイライラしたりする。クロミちゃんの方が人気があるというのもうなずけるわけですね。
 そう考えると、やはりあまりに善なるもの、純粋なるものは、全ての人々には受け容れられにくいということが、よくわかってきます。ある時期までは憧れの対象であったりするわけですけど、突然バッシングを受けたりする。釈迦やイエスの生涯を見ても理解できるところですよね。
 それって、やはり宗教の難しさであると思います。その点、先ほど出た霊界物語を残した出口王仁三郎は面白い存在であると思います。清濁併せ呑むホンモノの巨人であったのかもしれません。
 ところで、そうしたバッシングって、結局これまた「嫉妬」が産んだものですよね。ユダもヨハネもパウロも阿難も龍樹も、そして日蓮なんか、もう頭が良すぎたからこそジェラシーに身悶えした。それほど「嫉妬心」というのは人間の核心から消し去れないものなのです。
 嫉妬心かあ。漱石か誰かが言ってましたけど、「嫉妬」は「愛情」の裏返しだと。それは男女に関わるやきもちの話ではないんですね。自己愛っていうやつの強さをも示しているというわけですか。
 マイメロ見ながらこんなこと考えてる人もいないと思いますが、どうも私はこういうタチだもので。深いな、マイメロ。

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2006.07.22

惜敗!高校野球

Tky200607170357 う〜ん、残念!我が校は準決勝で敗れ去りました(結果として優勝校に惜敗でした)。
 しかし、本当にいい試合でしたし、選手、つまり生徒たちの懸命な姿には涙させられました。
 大きな目標を掲げ、それに向かって日々努力する。しかし、結果は最後までやってみないとわかりません。私が今担当している進学にも全く同じことが言えますね。なにしろ、相手は、敵は、みな才能がある上に、同様に努力しているわけですし、当然時の運というものも影響してくる。思い通りにはならないのが世の常です。
 そう、「もののあはれ」だなあ、と思いました。「事を為す」ことの難しさよ。しかし、人生とは皆そういうふうにできているわけですし、また、結果が全てではない。極論してしまえば、この現し世でどんな事を為しても、所詮死んでしまえば…という話になってしまいます。しかし、そんなはっきりとした「コト」を目前にしながら、誰しもが一生懸命生きるのが、ヒトの尊さなのでしょう。大げさでなく、そんなことを試合終了後思いました。
 まったく月並みな言い方になってしまいますが、選手諸君は何ものにも代えがたい「モノ」をつかんだことでしょう。金と科学の力で疑似「コト」化が進み、子どもでさえも思い通りになることが増え続けている現代において、こうした「モノ」の性質、思い通りにならない人生の本質「もののあはれ」を全身全霊で受け止めた彼らは、「生きること」の何たるかの一端を知ったことと思われます。
 スポーツにせよ、受験勉強にせよ、何かに一生懸命になるということの意味は、ひたすらにここのところに存する。私はこの歳になって、ようやくそれがわかりました。もちろん、教室で生徒たちにこんなことを言っても、理解してもらえないでしょうし、こんなことを聞いたからと言って、それぞれがやる気を出すとはとても思えません。もちろん彼が悪いのではありませんよ。やはり時というのは積み重ねてこそ我々に大切なことを教えてくれるということです。時間や空間を微分ばかりしている(思い通りになるコトに萌えている)オタクにとどまっていてはいけません!
 選手たちだけでなく、それこそ懸命に応援していた生徒たちも、ただ残念とか、ましてや来年に期待しようとかではなく、そうした大切な何かを感じ取ってほしいと願います。
 中田のことについて書いた時と同じです。感動をありがとう!で片づけるのではなく、「もののあはれ」を共有しましょう。

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2006.07.21

ミクシィかあ…

Title1 今日こんなことが話題になってました。私は「ぜったいにmixiはやらない!」って豪語してたんですけどね、最近教え子たちにどうしてもあるコミュを作ってくれ、って頼まれて、いやいやながら始めちゃいました。
 で、やってみれば思っていた通りでして、楽しいこともあれば、ある意味?なところもある。思った通りですね。
 私がミクシィをやらないと言っていたのには、当然理由があります。私はブログを丸2年以上やっていますが、時々ミクシィから大量のアクセスがあるんですね。一晩で1300とかね。たぶん、どこかのコミュで私の記事が話題になっているんでしょう。で、ミクシィは閉じたコミュニティーですから、アクセス元に飛んでいこうとしてもいけないわけです。だから、何をどう言われてるかわからない。
 いや、何を言われているかというのは別にいいんです。ほめられてるかもしれないし。ただ、なんというか、その、本人の知り得ないところで、みんなで話してるっていう、その状況がいやだったんですよ。オープン・ネットワークであれば、検索すれば私の記事が引用されているところに行くことができる。また、引用しましたってトラックバックくれる方も多い。ところが、クローズドだとどこか「陰口」的になっちゃうんですよね。
 たとえばその一晩で千以上のアクセスがあった記事なんかも、おそらく千人以上の人が直接読んでるはずなのに、誰もそこにはコメントをつけてくれたりはしない。こちらはオープンになっているのに、なんとなく不公平な気がしていたんですよね。
 それで、自分はミクシィはやらない!と言っていたわけです。てか、誰も誘ってくれなかったとも言えますが(笑)。
 SNSと言うだけのことはあって、やっぱりソーシャルなんですよ。私から見ると、普通の社会とほとんど同じです。昔からある同窓会やクラブみたいなもんです。それをネット上でやるというのは別に悪いことではないと思いますけど、パソコン通信時代のフォーラムとは違って、基本的に本名をさらさないといけない雰囲気がある。やっぱり普通の社会に近いわけで、結局それぞれに現実的な社会性が要求されるわけですよね。喜びも哀しみも楽しみも不快感も疲れも依存症も、みんな現実社会と変わりないような気がします。
 まあ、だからと言って、私が好むオープンで匿名性の高いシステムがいいものであるかどうかは分かりません。ただ、私はそっちの方が好きなんです。2ちゃんに書き込む方が気が楽です(笑)。たぶん私に社会性がないからでしょう。
 で、ミクシィ始めて一ヶ月くらい経ちましたけど、面白いことも多いですよ。ずいぶん昔の(失礼)卒業生と思いがけず再会したりね。そういうのは実にいいことだと思います。どうせクローズドなら、そういうふうに同窓会的なものに特化しちゃえばいいと思うんですよ。ま、それだと単なる会員制BBSになっちゃうわけですが。
 なんて、苦言を呈しておきながら…私はオープンの方でも本名さらしてますから、それを参考に、みなさん私を見つけて、マイミクよろしくお願いします!(笑)
 とにかく人は淋しがりやだということで。

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2006.07.20

レオ『チェロ協奏曲』 鈴木秀美/赤津眞言

Leonardo Leo『Cello Concertos』 Hidemi Suzuki Makoto Akatsu "Van Wassenaer"
Bi1057 先日おススメしたターフェルムジーク管弦楽団のCDにも収録されていたレオのチェロ協奏曲。さっそくNMLで全曲聴いてみました。いい曲ぞろいですね。メロディーセンス、かなり高い。
 まずは、同楽団とビルスマの演奏を聴きました。比較的淡々としたオケといつもながらのビルスマ節で、いかにもコンチェルトという感じでした。カラオケをバックに歌い上げるおじいさんって感じかな(失礼)。なんとなくビルスマの音程が微妙な感じもありましたけど、そんなこと気にしないのが彼のすごいところ、演歌歌手たる所以です(?)。
 続いて聴きましたのが、鈴木秀美さんのチェロと赤津眞言さん指揮のオーケストラ・ファン・ヴァセナールによる演奏です。結論から申しますと、こちらの方が圧倒的に良かった。生命感あふれる私好みの演奏です。
 赤津さんには本当にお世話になりました。私がバロック・ヴァイオリンを初めて人前で弾いた時、隣で支えてくれたのが赤津さんでした。その後もいろいろなコンサートでご一緒したり、私のオケに飛び入りで参加していただいたり。お世話になったと同時に、私に非常に大きな影響を与えてくれた演奏家です。先日もラ・プティット・バンドのメンバーとして来日中、私のこのブログを見て下さった上に、メールまでくれました。ありがとうございました。
 そんなわけで、今となっては本当に雲の上の存在になってしまいました赤津さんでありますが、もともと彼の演奏は非常にエネルギッシュでした。エネルギッシュというのは、ただ元気とか、そういうことではなく、いろいろなエネルギーのあり方が存するということです。たとえば外に向かうだけでなく、内に向かうエネルギーというのももちろんあるわけですね。そうしたある種バロック的コントラストの表現が巧みなんです。それは解釈という次元での話ではなく、やはり彼自身の持って生まれた才能だと思いますね。そういう意味でも、いつでも私の憧れのヴァイオリニストでした。
 このアルバムの演奏にも、そんな赤津さんの良いところがはっきり表れていますね。ビルスマたちの演奏とは違って、ソロと合奏部が実にうまい具合に溶け合ったり、ケンカしたりしている。全然カラオケ的じゃありません。これこそレオの意図したところでしょうし、アンサンブルの醍醐味だと思いますよ。録音ですが、見事なライヴ感です。秀美さんもその辺よくわかっていらっしゃる。そういう弾きっぷりです。
 ところで、レオナルド・レオっていう名前、本名でしょうか(笑)。山本山って感じですね。動物違いですが、寅山トラさんって感じですか。LEOじゃなくてELOというバンドにBev Bevanっていうドラマーがいましたけど、あれも本名なのかな?

Amazon Leonardo Leo『Cello Concertos』

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2006.07.19

『足るを知る』〜「ガイアの夜明け」を観て

20060718 ガイアの夜明け「検証!“ハゲタカ”の正体 〜外資ファンドは日本を救ったか〜」を観ました。テレ東の日経スペシャル「ガイアの夜明け」闘い続ける人たちの物語。プロジェクトXが終了した今では、我々世間知らずな先生たちが、一般企業の大変さを知るためのほとんど唯一の番組です。
 私も気付いた時は観るようにしています。直接私の仕事に役立つこともありますけれども、それ以上にすっかり学校モードになっている脳ミソに刺激を与えるという意味で実に有用です。学校と言っても、ウチは私学ですので、多少は企業的な戦略も必要ですからね。特に来年度に向けてはいろいろやらねばならない事情がありまして。実は今日もそうだったんですけど、それがなかなかねえ、うまくいかないんですよ。めずらしくストレスためました。
 まあ、そんな愚痴はいいや。今日のガイアは「ハゲタカ」についてでした。外資ですね。企業再生のプロ「リップルウッド」は単に利益追求のハゲタカなのか、それとも救世主なのか。
 最初は私もどっちなのかなあ、どっちとも取れるよなあ、なんて考えながら観てたんですね。ところが、途中からなんとなくアホらしくなってきちゃった。
 それこそ野暮なこと言っちゃいます。企業って結局新しい需要を創造することが目的ですよね。需要があるから収入があるわけでして、それはまあ当然なことです。でも考えてみれば、全ての需要が「必要」であるかどうかは別問題ですよね。顧客、ユーザーのためと言っても、それが本来不必要なものだったら、どうなんでしょう。
 「足るを知る」…これも仏教の基本的な教えですが、最近この言葉の重みを痛感するんですね。でも、自分も現状に満足できない。そういう自分自身の矛盾や、また現代の経済や社会のシステムの矛盾、また自分が担当している仕事との矛盾、そういったものに悩むんです。正直辛い。
 稲盛和夫さんは「足るを知る」ことと経済とは矛盾しない、とおっしゃっています。私たちの欲や楽しみのベクトルの向きを変えれば、その両立は可能だと。たしかにそうかもしれない。で、自分には何ができるのか。自分自身に対しても、そして教師としても、親としても。
 やっぱり、「足るを知る」精神と、「布施」の精神を柱とした、「仏教経済学」かなあ。第三の経済システムというのを考えなきゃ。本来の「経世済民」に立ち返るってことでしょうか。
 今日はちょっと愚痴っぽくなってしまいまして、すみませんでした。まあ、楽天的な私にもこんなふうに悩む日もあるってことで。たぶん、秋田での体験が影響してると思います。では。

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2006.07.18

フィアット パンダ (7)

Panda0717 義祖父の神葬祭もつつがなく終わり、常世の国から現し世を通って富士山に帰って参りました。富士山周辺はたしかに「生黄泉(なまよみ)」かもしれませんね。常世と現し世の境界線上のような気がします。
 さて、今回の移動にはフィアット・パンダを使いました。これだけ長距離を走るのは去年の6月以来でしょう。いつもの秋田行はCRUZEを使うのですが、実はクルーズくん、いまだにスタッドレスを履いてまして(いろいろ事情があるんです)、気温が高くなった最近では、なんだかフニャフニャ走りにくい。それにいつもは夜中に走行したり、通勤割引を利用したり、ETCの恩恵にあずかるんですけれど、今回はのっぴきならない用事でしたので、そんなことを考えてもいられませんでした。よって、パンダに出動願ったというわけです。
 久々に私、パンダを長時間運転しましたが、やっぱりいいですね。タイヤのおかげもあると思いますが、高速での安定性の高さは特筆ものですよ。パワーも申し分ありません。少なくともクルーズよりはよく走る。低回転トルクの太さはちょっと驚きです。
Nempi 静粛性や燃費もクルーズよりも優れています。この写真は帰り道、国道7号線の例の土砂崩れの所で渋滞した折りに撮影したものですが、上の方のAcという表示、これはアベレージ・コンサンプション、つまり平均燃費です。リッター20キロを超えてますよね。4人乗車で(とは言え、ウチはみんな痩せですので、実質大人二人分です)大雨の中の高速走行、それもエアコンかけっぱなしとしては、かなり優秀ではないでしょうか。
 今回はマニュアルモードで運転する機会を増やしました。瞬間燃費を見ていると、高速で100キロ走行するよりも、東北の信号のない国道を70キロくらいで定速走行する方が燃費がいいようです。特にマニュアルで早め早めにシフトチェンジをしてやると、燃費も向上、乗り心地もスムーズになりますね。デュアロジックのオートモードって、ちょっとこちらの予想に反する挙動をするんで。
 熊猫ちゃん、突然の出動要請にもかかわらず、よく走ってくれました。おかげで往復1500キロ近くに及ぶ長旅を、つつがなく終えることができました。多謝多謝。

フィアット パンダ (1)

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2006.07.17

長老の「シゴト」「モノガタリ」

Sany01161 さて、本日は祖父の葬場祭、火葬祭、取り越しの三十日祭が執り行われました。詳細については、やはりことがことなだけに記しません。
 左の写真は、「本家のとうさん」が用意してくれた埋葬祭の時に使うものです。ナナカマドの木に立てかけてあるので、ちょっとわかりにくいかと思いますが、竹や皮をはいだ木の先端に榊が付けてあるものです。竹は埋葬の際、お墓の周囲に立てて、注連縄を張る時使うらしい。木の方は、家から墓地への移動の時に掲げる「旗」用のようです。いろいろな色の旗を付けると言っていましたから、いわゆる「五色旗」でしょうか。いずれにしても、こういうものを、日の出とともに山に出かけて取ってきて、さっと作ってしまう長老は、正直かっこいいですね。それこそ学校で習うことではありません。まさに語り継いできたことです。すごいなあ、長老の仕事。
 さて長老と言えば、他の件でも心に残ったことを書いておきましょう。
 このような冠婚葬祭には酒席がつきものですよね。たとえば、昨夜も親戚や近所の人たちがねまって(ねまる=くつろいですわる)いろいろな話に花が咲きました。それが故人への供養となるわけです。
 私はこういう場合かなりきつい立場に置かれます。もうおわかりと思いますが、こうした地元民、それも長老級の方々の酒席に立ち合うということは、私にとって、これは冗談ではなく、どこかの孤島に流れ着いて、そこの人たちに思いがけず歓待され、なんらかの寄り合いに参加させられるも同然なのです。
 特にこういうシチュエーションですと、どうしても私のことがトピックになりにくい。ほとんどが長老たちの生活に根ざした話題が多くなります。ましてや、お酒も入っていますし、言葉もよそゆきと言うよりは「いつもの語り」になっています。ネイティヴではない私にとっては、かな〜りきつい事態であります。
 しかし、どういうわけか、今回は4割くらい理解できたんですよ。今までは緊張も手伝ってか3%がいいところだったのですが、ほら、外国語でもそういうことがあるというじゃないですか。急にわかるようになる。脳の中の回路が開通するように。
 そんなわけで、今回はけっこう質問なんかもしちゃったりして、とっても充実した時間を過ごすことができました。正直楽しかった。で、話題になることは、当地の生活の中での武勇伝的なものが多くなるんですよね。それが実に面白いわけです。たとえば、山菜やきのこの秘密の穴場についてとか、熊退治の話とか、山や川での危険な体験とか、知らない部落に迷い込んだ話とか。
 ああ、こういうのが「物語」だ、「昔話」だ、と思いましたね。私の屁理屈によると、相手の知らない、相手にとって外部である「モノ」を、「カタリ」を通じて内部に変換する(コト化する)のが「モノガタリ」です。より印象に残る、より興味深い「物語」のためには、いろいろな語り口を駆使するんですね。それが競い合うように成長していく。そこにはある意味「騙り」、つまりフィクションも含まれるでしょう。しかし、その「場」においては、それがフィクションであろうと何であろうと関係なんですね。この前も書きましたが、そこはプロレス的な「場」なんです。「騙り」にあえてだまされる、聴衆、観衆の積極的な受容の態度。まさに「祭」的な「場」の創造です。「そりゃないでしょう」なんていう空気を読めない野暮な発言は絶対になしです。
 特に、長老の語り、これは重いし、かっこいい。みんながひとしきり語ったところで、満を持して長老が登場します。そしてメインイベントが始まります。それまでの語りの内容をはるかに凌駕する内容の語りを、実にシンプルに、しかし重々しく提示します。そして、皆は「は〜」とか「ほ〜」とか言って感心する。これでそのトピックでの語りは終了するのです。
 こういう体験というのはなかなか出来るものではありません。いろいろな意味で大変勉強になりました。やはり外国(?)の文化に勇気をもって飛び込む、逃げも隠れも出来ない状態に置かれる、というのは大切なことですね。

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2006.07.16

『命(ミコト)』

命にお供えされた「山の幸」「海の幸」
Sany01121 今日は義理の祖父の出棺の儀が行われました。家内の実家は神道です。そのことについては去年こちらにちょこっと書きました。
 仏式の葬儀では、今日はお通夜ということになりますが、こちら神式では、枕直し、納棺の儀、遷霊祭を行い、次いで出棺となります。私は神葬祭は初めての体験でして、忍び手(音を立てない柏手)や玉串奉奠などにもいちいち緊張です。
 葬儀屋さんともお話をさせていただき、いろいろと勉強になりましたけれど、ことがことなだけにここには書きません。
 そんな中、特に心にしみたのは、亡くなって「命」になるということですね。別当さん(神主さん)の祝詞にもありましたが、生前祖父は様々な「コト」を為した。「仕事(シゴト)」でもあり、「事業(コトワザ)」でもあり、「子(コ)」を為すことでもあります。そうした様々な「コト」を為して(私の考えだとそれが「カタル」という行為)、そうして「コト切れて」、「コト絶えて」、この現し世から常世へ行かれて「命(ミコト)」となる。
 現し世、すなわち「現(うつつ)」とは、「空」であり、無常な「モノ」であります。そこで、我々人間は「コト」を重ねる。そうして、その終着点が、常なる国、常世の国に参ることなのです。そして本当の、不変の「コト」になる。だから美称を冠して「美コト」あるいは「御コト」となるということではないでしょうか。
 私の考えでは、「コト」というのは不変な存在を表します。それは現し世においては、自らの脳内で処理され固定されたものになります。ある意味、メディアを介して現出する「情報」と言えるかもしれません。それは皆さんもおわかりになると思いますが、実際は不変ではなく、変化し消滅していく「モノ」の一部なんですね。しかし、「死」は、人間のそのはかない(しかし貴い)活動に終止符を打ちます。「モノガタリ」が終わり、初めて人間は常なる存在になります。つまり「死」が「ミコト」になる唯一の方法なのです。
 そうした絶対不変の存在を現し世に仮定した(それが「ウツス」という行為でもあります)のが、紀貫之の言う「事業(ことわざ)」であると思います。
22hanazono_nishimura さて、今日出先の車中でたまたま観た番組が「こころの時代-宗教・人生」でありました。再放送のようでしたが、花園大学の前学長西村惠信さんが、「自己を究める~一休の生涯から~」というテーマでお話しになっていました。最後の方でおっしゃっていた、「自分があって現象があるのではなく、現象があって今の自分がある」、「出会いが人生を形成する」、「死が最後の出会いであり、自己の完成である」という内容のことば。仏教の基本的な考え方であり、今まで何度も接してきたものです。しかし、今日ほどこれらのことばが心にしみたことはありませんでした。祖父は最後に本当の自分に出会ったんだなと、ふと思い至りました。

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2006.07.15

『Best of Best 27(初回生産限定盤)』 松田聖子 

 Jacket_m急遽カミさんの実家のある秋田に行くことになりまして、いつものとおり12時間のドライブです。途中大雨による土砂崩れ(羽越本線が埋まってました)があったりして、予定より時間がかかってしまった。
 家族4人、あの狭いパンダの車内で半日何をして過ごすかというと、ほとんど歌を歌っています。私以外の女3人は。
 で、それぞれ音楽の趣味も違うわけでして、あれを聴くとかこれを聴くとか、まあもめるわけですね。チビなんかそんなことで泣き出したりする。そんな中、誰もが納得しながら聴いたり歌ったりできるのがこちら。松田聖子の命であります。さすが神は違う。
 今回はTSUTAYAで借りた『Best of Best 27(初回生産限定盤)』を携えてまいりました。大物のベスト盤というのは、それこそ趣味というか、思い入れが違うものですから、なかなか完璧なものを作るのは難しい。聖子の場合もそうです。
 その点、このベスト盤はなかなかいい線行ってますね。全楽曲の中からファンによる投票で決まった上位27曲を収録しているのです。だからまあ平均的な趣味で無難にまとまってるって感じですかね。ウチの家族的には「小麦色のマーメイド」がないのがガーンですけど。娘のカラオケ十八番なんで。
 家族それぞれの楽しみ方をしながら、3時間近く時間をつぶせまして、まったくもってありがたやありがたや。私は真剣に楽曲分析にいそしんでおりました。あらためてスゲー!って思いましたね。クオリティー高いわ。ポール・モーリアが驚いてアルバム作っちゃうはずだ。個性ではやっぱり松任谷由実作品ですかね。カミさんがいちいちそれらをユーミンのものまねで唄ってたのには参りましたけど(笑…あとなぜか時々中島みゆきになってました)。
 ワタクシ的に本日の発見!はですねえ、「ガラスの林檎」。細野晴臣作品ですね。この曲ってほとんどバロックしてますが、面白かったのは通奏低音パートです。あのイントロでは主音に固執してますけど、歌に入ると、ほとんど全く主音が出てこないんですね!あえて主音(ファ)を避けるように旋回している。それが、あの独特のホーリー感を出しているわけです。ある意味不安定で、それが「ガラスの林檎」という感じでもある。う〜ん、さすが通奏低音奏者の作品だ。ちょっと感動。いずれ歌謡曲バンドでやりたいものです。
 この限定盤ベストには裏バージョンもあるんですよね。シングル以外の隠れた名曲ベスト27を集めたものです。とはいえ、今では表も裏も14曲バージョンしか売っていませんが。TSUTAYAには裏も置いてあったので、近い内に借りてこよう思っています。

Amazon Best of Best 27(初回生産限定盤)

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2006.07.14

『米だけの酒(新規格純米酒)シリーズ』 福徳長酒類

Img1061419644 紙パック酒というと、ちょっと昔まではいわゆる合成酒、工業用アルコールに砂糖を足したようなもの(ちょっと言い過ぎだな)でした。
 2005年から純米酒の精米歩合規定が撤廃されてからというもの、その様相はかなり変わってきました。ある意味酒造のハイテク化が進んで、精米歩合70%以上でもそれなりにおいしいお酒が造られるようになり、そちらの需要もかなり増えてきたのです。ですから、日本酒離れに苦慮するメーカーもそちらに力を注ぐようになりました。
 私も、このブログでは日本酒について蘊蓄を並べてきましたけれども、そうした「いいお酒」はそれなりに高いわけでして、毎夜の晩酌にはちょっともったいない。家計のことも考えればそんな贅沢もできないわけです。で、いろいろと格安のお酒も試してみたりしました。
 たいがい格安の酒は大容量ですので、買って後悔、料理酒に回すというようなことも多くありましたが、そんな中、これは充分いける!と感じて、最近すっかり定番になっているのが、福徳長酒類株式会社の一連のシリーズです。地元山梨の工場で造られているこれらの「米だけの酒」シリーズ、はっきり言って、「がまんできる」レベルではなく、「うまい」レベルに仕上がっています。
 まず最初に呑んだのが、地元のセブンイレブンで売っている「純米酒 蔵人の技 米だけの酒 山廃仕込」というヤツです。2リットルで900円台ですからね。びっくり価格です。で、安かろう悪かろうかと思うと、なかなかさっぱりした味わいでかなりいける。アルコール度数は14〜15%ということで、ややうすい感じもありますが、それが晩酌にはちょうどいいんですよね。適度なうまみと後味でして、実は私けっこう好きなんです。何しろ安いしコンビニで買えちゃうんで。おススメです。いちおう純米だからでしょうか、翌日の朝も安心ですよ。
 その他の銘柄(?)「米だけのす〜っと飲めて」「すっきりと美味さが冴える」「乾杯名人」「米だけの酒 山田錦」も試しましたけれど、なかなかどうして、値段以上の味でした。なにしろ3リットルで1000円ちょいなんて値段ですからね。家計に優しいっ