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2006.04.30

ラブandベリー

Lb223 今日のニュースにこんなのがありました。ラブandベリーです。母親を巻き込んでのブームだとか。
 というわけで、実にタイムリー、本日ウチの母子がラブandベリー初体験してまいりました。その報告であります。涙なしでは語れません…orz(以下、カミさんからの報告を再構成しました)。
 今まで、あのエキサイティングな現場を遠巻きに見ながら、半ば憧れを、そして半ば恐怖を感じていたであろうウチの娘(6歳)。昨日までは「あんなのやってると不良少女になる」という父親の言いつけを守ってきたのですが、今日いよいよデビューの時が来てしまったのでした。
 というのは、ウチの娘、近所のL&Bの達人であり尊敬する小学校の先輩でもあるMちゃんに、3枚のカードをもらったのです。達人から伝授された、まさに「三枚のお札」。これがあれば大丈夫と勇気百倍、ウチにあった無印のカードホルダーにお札を入れて、いざ出陣とあいなったのでした。
 目的のショッピングセンターに向かう前に、下の娘(3歳)の満足のため、まずは近所の「環境省生物多様性センター」で行われている「昆虫WEEK」を訪れました。そこでクイズに参加したりしてウォーミングアップしたのち、いよいよショッピングセンターのゲームコーナーに乗り込みました。

 …そこは戦場であった。折しもみどりの日、そこは殺気立った母子で満ち溢れていた。まずはマシンの前の長蛇の列の最後尾につく。もう、この列に並んだからには、途中で戦線離脱することは許されない。娘は、肩越しに見るプロたちの尋常ならざる手さばきにきっと戦慄をおぼえていたことだろう。自分は初めてあの画面に対峙する。あそこに並ぶボタン群にどう対処すればいいのだろう。カードのスラッシュはいかようにすればよいのか。あの後半に流れる音楽は何なのだろう。栄光への序曲なのだろうか。それともレクイエムなのか。初めて味わう緊張感であった。
 よく観察してみると、それぞれの子どもたちは、分厚いL&B専用のカードホルダー数冊に、百枚単位のカードを持参しているらしい。明らかに不利な状況である。そして、そのホルダーは母親の手に握られている。そう、いざ娘の番になると、母親たちは皆その横に立て膝してさぶらい、マシンの要求に応じてそのホルダーから適切なカードを選択し、娘たちに手渡すのである。完全にしもべと化したのか、母親たちよ。しかしなぜか皆嬉々としている。そう、母親たちは二等兵を演じながら、実は部隊を掌握し戦略を操っているのだ。つまりはニュースの語る通りである。
 待つこと30分。とうとうその時は来た。まずは100円を投入する。するとまずは新しいカードが1枚支給されるらしい。できれば強力な武器がほしいところだ。ガチャ…出てきたカードを見ると、ななな、なんと、三枚のお札の中の1枚と同じドレスのカードではないか!ガーン、すごい確率である。よりによってなぜ重なる。武運はすでに尽きた…。
 さらに困難は続く。なにやら設定をしなければならないらしい。母親がマシンに書かれている説明書きを読もうとするや、後方射撃が始まった。「なにやってんの!」「おそ〜い!」「ほらそこそこ…」後方の母親たちの声ではない。どう見てもウチの娘よりも年下、そう幼稚園級のガキどもの罵声である。くやしいやら恥ずかしいやら、娘の頭の中は真っ白である。ちなみに母親はひそかに「ムカーッ」。
 いろいろとやってるうちに、なんとかドレスの情報は読み込まれたようだ。キラリッ!達人とっておきのカードだけあって、この時だけは後方の射撃も止む。よしこのまま残る2枚のお札を使えば、後方のガキどもの鼻を明かすことができる…そう思った母親の目論見は、次の瞬間もろくも崩れ去った。娘の頭は真っ白のままだったのだ。なにやらめちゃくちゃにボタンを押してしまったらしく、なんとその時点でオシャレ終了。
 高級ドレスを着ながらも、髪はボサボサ、靴はなぜか上履きのまま、なのに自信満々のラブ。それを見て頭を抱えるベリー。娘はガ〜ン。
 チャラリ〜、鼻から牛乳
である。なおもあきらめずボタンをたたくが、時すでに遅し。再び後方からの攻撃が始まる。「うわっ、ださ」「もうもどれないんだよーだ」
 仕方なくそのままの格好でベリーとの勝負に挑むことになったが、結果はすでに見えている。あのドレスをもってしても70点台に乗せるのが精一杯である。惨敗だ。後方からの嘲笑と罵声は続く。娘は固まったままだ。
 さらに後半戦、なんか曲に合わせてダンスをしなければならないらしいが、そんな曲はもちろん知らないし、踊らせ方も知らない。またもややたらめったらボタンを押すはめになってしまった。いよいよギャラリーは騒がしくなる。「ハイハイ、パンパン…」いっしょに拍子をとってくれたりして、いよいよ敵も憐れみを垂れてくれたか、と思いきや、後から手が伸びてきて、勝手にボタンをたたくのである。「しょうがねえなあ、やってやるよ〜」という感じで。
 後方からのありがたい?支援もむなしく、めちゃくちゃな踊りを踊らされているラブは、何度もダサダサのパジャマ姿に戻ってしまった。どうもそういうシステムらしい。またもや惨敗。娘はさらに固まるしかない…。
 しかし!しかしである。ここで我が家の反撃が始まった!実は、このような惨状の中で、母親は娘を気づかうと言うより、そうとう後のガキども(&さぶらい)にムカついていたらしい。そして、とうとうやってはいけない暴挙に出てしまったのだ!ああ、それはいかん。秘密兵器を出してはいけない。あまりに危険だ〜。
Ians そう、生物多様性センターでゲットした昆虫カードを出撃させてしまったのだ!それもゲットした4枚の中でも最強の「ルイスツノヒョウタンクワガタ」を!!
 「もう、こうなったらこのカード使っちゃえ!」 シャッ…最終兵器をスラッシュするも、当然ラブに角が生えるわけでもなく…。
 周囲は異様な空気に包まれた。先ほどまであれほど騒いでいた敵も思わず黙ってしまった。
 『はいおしまい。つぎのひとにかわってね』のテロップが流れ、戦いは終わった。はたしてこの戦いの勝者は誰だったのだろうか。ベリーなのか。ラブなのか。後方の敵軍なのか。それとも…。

 ふぅ〜、長くなりましたが、こんな感じのデビュー戦でした。カミさんは勝ち誇って高笑いしてましたけど、娘は涙目で苦笑してました(笑)。娘は娘なりにいろいろなことを学んだでしょう。シロウトがプロの世界に乗り込むには、それなりの準備とタイミングと気づかいが必要であると。
 母親は懲りた様子も見せず、「あのママたち、まずは自分のファッションをしっかりしてから出直してこい!」と息巻いておりました。トホホ。

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2006.04.29

トッカータとフーガ(バッハ?)を巡って

B00003z9uy01mzzzzzzz 「チャラリ〜、鼻から牛乳」…最近小学校に入学した娘が唄ってました。どうも、給食の時間に、実際鼻から牛乳が出たらしい。給食というのは大概お行儀が悪いもので、ほとんど大人の宴会が毎日繰り広げられているような状況です。ですから、鼻から牛乳が出たり、ごはんつぶが出たり、そう私はキャベツが出ましたが、そういうことも不思議でないわけです。不思議ではないが、ちょっと恥ずかしい。出てしまったものは引っ込みがつかない。そういう感情を上手に表した慣用句?であります。
 で、ちょっと思ったんですけど、これって「鼻から牛乳…」としか言ってませんよね。牛乳がどうした、という部分は省略されています。いや、「牛乳が…」だったら「出た」でいいと思うんですけど、「牛乳を…」だったらどうなんでしょう。「鼻から牛乳を飲んで(吸って)目から出す」という芸は、昔からあります。電撃ネットワークの誰かがこれに失敗して鼓膜を破った、なんて事件もありました。トルコかどこかでは、こうした噴射形式による牛乳飛ばし大会があるとか。
 まあ、イメージとしては「失態」ですから、やはり「出ちゃった」でいいんでしょうね。また考えすぎか…。
 ところで、「鼻から牛乳」と言えば、一般には嘉門達夫でありますが、もともとは「ぜんじろう」さんのネタであったとも聞いたことがあります。ま、いずれにせよ、嘉門さんの功績は大ですね。で、その嘉門さんの歌ですけれど、もちろんメロディーはあの「トッカータとフーガニ短調」の冒頭ですね。バッハです。
 バッハです…というのは、たぶん、「鼻から牛乳」が嘉門達夫である、というのと同じくらい一般論になってますね。しかし、実際にはいろいろと問題があるんです。あまりに有名になってしまい、小フーガとともに教科書に載ったりしてますから、普通の人は「バッハと言えばラソラ〜」というイメージができ上がっていますけれど、ちょっとバッハをかじった人なら、どうもこの曲には深みがない、と感じることでしょう。和声的にも対位法的にも、どうもバッハらしくない。少年バッハの習作にしても、やはり物足りない。これは事実です。
 で、昔からいろいろな説がありました。バッハのお弟子さんの作だとか。さらには、この曲は実は無伴奏ヴァイオリンのために作曲されたものだという説まであります。この曲を弦楽合奏に編曲して演奏したことがありますが、たしかに音型がヴァイオリン族的であり、比較的演奏が容易であったと記憶しています。しかし、いくらなんでも、あの壮大な(と一応言っておきます)曲をヴァイオリン一挺で弾くのは、演奏技法上も演奏効果上もどうなんだろう、という疑念があったのも事実でした。
 といわけで、今日その無伴奏ヴァイオリン版を初めて聴くことができました。アンドルー・マンゼによる演奏です。マンゼとリンデン、エガーによるヴァイオリン・ソナタ集に収録されているのですが、私はiTMSでこの曲だけをダウンロードしました。ちなみに150円です。便利な時代ですね。さあ、シュレーダーの編曲にさらにマンゼ自身が手を加えてでき上がったヴァージョンは、どのように響いたでしょうか。
 まずは結論。いいんじゃないですか。けっこうそれらしく、つまり元々ヴァイオリンのための曲であったかのように感じました。ヴァイオリン一挺のための曲としてはよく出来ていると思います。たしかに、たとえば無伴奏ソナタの名曲シャコンヌやフーガを、そのままオルガンで弾いてもさまになりません。かなりの編曲を施さないとうすっぺらになります。しかし、それらを無伴奏ヴァイオリンで弾くと、これはもういろいろな意味でものすごく重厚厳粛な音楽になる。不思議と言えば不思議ですね。このトッカータとフーガも、復元作業によってかなり音が薄くなっているのですが、しかし、演奏効果としては、なかなか立派なものです。
 ここでは、イ短調に移調されていますが、考えてみればニ短調のまま、ヴィオラで弾くという手もあるような気がしました。バッハのヴィオラの無伴奏曲は今までありませんでしたから、これはヴィオラ弾きにとっては魅力的なレパートリーとなるでしょう。さっそく自分で編曲してやってみるかな。
 ところで、また嘉門達夫に戻っちゃいますけど、あの冒頭の「ラソラ〜」ってとこ、皆さんは何て言ってます?ネットで調べてみても「チャラリ〜」「タラリー」「チャララ〜」「チャリラー」「タリラー」「ジャジャジャ〜ン」「チラリー」「チャラリーン」「チャララ〜ン」「タリラリラ〜ン」などなど十人十色百花繚乱であります。最後のなんか、なんかと混ざってますねえ(笑)。だいたい、モルデントが1回多いような気もする。いや、コープマンなんか「チャーラリラリラリラリ〜」とか弾いてますからねえ。別に間違いじゃないか(笑)。どうもオリジナルは「チャラリー」に聞こえるんですけどね。
 というわけで、日本人に最も広く愛され、そして慣用句にまで成長した「伝バッハ作トッカータとフーガニ短調」でありました。

Amazon Bach: Violin Sonatas

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2006.04.28

『マイケル・ジャクソン IN ネバーランディングストーリー』

Mjinnever11 再びマイケル信者さんから借り受けました。これはさすがに5000円払って買えないなあ。いわゆるB級映画なんですが、どういうわけか逮捕直前のマイケル・ジャクソン様が登場されているのでした。その組み合わせがすでにトンデモなテイストを醸しています。この前紹介した「ムーンウォーカー」も上質なB級映画でしたし、どうしてなんでしょうね、頂点を極めたお方がBというのは。
 この映画、もうストーリーは語るも脱力といった感じでして、よって語りません。でも、この手の映画の楽しみ方というのには、それなりに道というのがあるわけですね。この作品で言えば、やはりパロディー。そっくりさん的なパロディーや、セリフ、シーン、小物のレベルでのパロディーなど、いろいろと気づきます。とは言っても、私はそれほどの映画マニアではないので、おそらく4分の1くらいしか分かっていないと思いますけど。つまり、ストーリーや、あるいはCGなんてチープで全然構わない。そこには誰も注目していないわけですから。そういう意味では、作品全体としては脱力系ではなく、意外に根性系(努力積み重ね系)なのかもしれません。そういうコアな映画ファンのための作品であるということでして、なるほど、アメリカにはそういう安定した市場があるんだな、と思いましたね。
 それにしても、やはり私が感心したのは、MJ様であります。なんか唐突にホログラム(つまりビデオ)で登場するんですけど、それがどうもうさん臭い。何がって、その存在というか、造形というか、美術というか。それまで、存分にチープな作り物を見せられているということもありますけど、このマイケル、どう見ても本物ではない。いやいや、本当は本物なんですよ。でも…。
 この作品2004年製作のようですから、まあ、最新型、最新ヴァージョンのMJですよね。色も白いくて、鼻も不自然。故鈴木その子様に負けず劣らず、作り物的、はりぼて的、人形的であります。正直、チープなCG顔負けの悪趣味な造形となっていますね(失礼)。
 ちょっとそういったシャレでもあるのかな、と。監督さんとマイケルが知り合いだったとかで、ノーギャラでの出演だったそうですが、どうもその編集の仕方なんかを見ますと、この監督さん、かなりシャレがきつそうですね。GJ!
 ちなみにあのMJが作り物だとしますと、造形は日本人の中西りかさんですね。プロダクト・デザインでクレジットされてましたから。
 さて、このDVDを販売している「アルバトロス」ですけど、知る人ぞ知るマニア系映画の宝庫ですよね。特に「コア」シリーズはすごい。お金が余っていたらぜひとも観てみたい作品が目白押しです。「ネバーランディング…」もそうですが、邦題のネーミングや紹介コピーが絶妙に巧い。すばらしいセンスです。

『マシーンヘッド』つまらぬものを入れてしまった・・・・。
『尻怪獣 アスラ』 世界に明日(アス)はない。
『人間蟲』 はらわたは心地いい。
『郵便処刑執行人』 その殺し、当日消印有効。
『女子高生ロボット戦争』 恋、友情、ロボ!!
『ハリウッド人肉通り』 通りゃんせ。
『暗黒ベビィ ビクチム』 おぎゃあ。
『殺戮職人芝刈男』 根こそぎ皆殺し
『カンニバルシスターズ』 私たちは美食家。
『女子高生チェーンソー』校則無視!!
チアリーダー忍者』 世界最終兵器、只今参上!!

 ちなみに今月のおススメは最後の「チアリーダー忍者」だそうです。う〜、観てみたい…。

Amazon ネバーランディングストーリー

アルバトロス・フィルム

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2006.04.27

タモリ 『第一回テーブル・ゲーム世界選手権大会(於青森)』

B00005gi5o01_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ 天才タモリ再臨!むか〜し聴いた衝撃が数十倍になって帰ってきました。四半世紀ぶりくらいかなあ。大学生の頃誰かの下宿でレコードを聴いた記憶があります。
 今度例の「歌謡曲バンド」が初ライヴやります。お稲荷さん春の大祭で奉納演奏です。あと1ヶ月しかない、早く練習せねば、ということで、メンバーが耳コピ用音源のカセットを送ってきてくれまして(耳コピにはやっぱカセットが一番)、その中にオマケとして入っていたのです!この天才芸が。
 もう、こんなことされたら、耳コピなんてやってる場合じゃなくなっちゃいますよ〜。ホント超久々にカセットの音に耳を澄ましました。そして涙涙。爆笑以前に感激です。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、これは70年代、デビュー以前及びデビュー当時のタモリが得意とした「物まね」ならぬ「言まね」ネタであります。中国人と北朝鮮人(韓国人じゃないな)、アメリカ人及び日本人がテーブル・ゲーム(麻雀)をしている様子を模写…いや正確には模写ではないな、贋造…でもない、とにかくそれらしく演じているんですね。もちろん、その中国語やハングルや英語はニセモノです。いかにも中国語らしく、ハングルらしく、英語らしく聞こえるわけですが、実際はメチャクチャ。で、最後はケンカになる。
 で、やっぱり私やカミさんが一番はまったのは、日本語ですね。日本語はある意味ホンモノです。そう、青森弁。いや、正確に言うと、青森の人が標準語で難しいことをしゃべろうとしている。いや、もっと正確に言うと…

寺山修司

なんです!
 ある意味、日本語が一番メチャクチャになってる。最もホンモノらしいはずなのに、最もニセモノっぽくなってる。寺山の言語スタイルというのは確かに独特です。青森の人が標準語彙で話そうとする時点で、もうすでに外国語世界に足を踏み入れている(とカミさんは申しております)。たとえば太宰はそこまでだった。しかし、寺山はそこをさらに突き抜けます。難解な哲学用語や文学用語を、さも難解なように高尚なように多用するのです。それが、彼の意識だったのか無意識だったのかは、正直私にはまだわかりません。しかし、事実としてそれが彼の作風、彼のイメージになったことは確かです。寺山は壮大な実験に成功した。
 タモリの寺山マネは寺山トリビュートCDやテレビ番組でも聴いたことがありますけれど、もう最高っすね。寺山の実験を最も客観的に観ていたのは、あるいはタモリだったのかもしれません。当時圧倒的な人気を誇っていた彼の実験の本質を、こうして見破ってしまった上に、さらにその先にまで進んでしまった。演劇性をさらなる演劇性で破壊し再構築してしまった。おそるべき天才です。森田の実験もまた成功した。
 最近の司会者タモリしか知らない世代には、ちょっと信じられない芸でしょうね。当時のタモリには、赤塚不二夫宅に居候していた頃のある種鬱屈した輝き、内に向かう爆縮力がありました。とても大衆向きの芸ではなかった。彼はテレビに殺されたんだと思います。あるいは経済システムに。今のタモリはすっかり大人になってしまいました。
 このテーブル・ゲームが収録されているのがデビュー・アルバムです。上の写真ですね。今やなかなか手に入らないレア盤になってしまいました。その後のアルバムもそうですが、かなりギリギリな芸が満載ですからね。このアルバムもCD化された時、多少編集が施されたと聞きました。ましてやテレビでは本当のタモリは出せませんね。彼自身が社会に編集されてしまったということでしょうか。
 あっ、そうそうこのテーブル・ゲーム芸、ネットで聞けるんですよ!!ぜひぜひ聞いてみて下さい。メチャクチャなはずなのにしっかりとストーリーが見えてくるから不思議です。あと、やっぱりこれってラジオ文化ですよね。北京放送、平壌放送、極東放送(FEN)、そしてラジオドラマ。耳を傾ける。耳を澄ます。想像をふくらます。いい時代でしたね。

第一回テーブル・ゲーム世界選手権大会(於青森) mp3

Amazon タモリ

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2006.04.26

「仏」と「食玩」

Prog_060424_asia100_1 またまたNHKネタです。『百仏巡礼 アジア・仏の美100選』です。今朝早起きしてまとめて4時間観ようかなと思いました。昨日おとといと録画した(はず)のものです。
 それがですねえ、おとといのはちゃんと録れてたんですけど、昨日はチャンネルを間違えるという基礎的かつ常套的ミスを犯しまして、半分しか観られませんでした!ショックです。つまり50選になっちゃった。
 それでもちょっと有難すぎた…というかなんというか。仏の顔も五十度…。さすがに4時間ぶっ通し仏のオールスター大集合はちょっときつい。2時間でちょうどよかったかも。そう、なんか宝塚が2時間が限度なのと同じ感覚だ(両方に失礼…)。いずれ再放送されるでしょう。後半はその時。
 前半だけでも、本当にため息ものでしたし、いろいろと勉強になりましたし、感動やら反省やら、本当に密度の濃い内容でしたね。全体を通して、大乗、上座部双方の仏教史の概説になっていましたし。最果ての地で熟成した日本仏教はやはり格別ですね。木の仏像は究極の「美」であり、またその美が「聖」を醸します。
 あっそうそう、仏像、仏画もさることながら、三國連太郎さんの語りがたまらなく良かった。昨日の記事ではありませんが、こういう職人的なプロの「語り口」は許せる。そのメディア自体が本物の作品になる好例でありました。
 そんなこんなで、後半戦に突入だ!と思ったら、あれれ、NHK総合録っちゃった。ニュースが始まっちゃった。仕方ない、その後の番組も観てやるか。まずは井筒和幸監督が主役の「クイズ日本の顔」。それなりに楽しめました。さすがに井筒監督は仏には見えませんでしたけど。で、その後が「プライスの謎」。これが面白かった。
 今回の「プライスの謎」のテーマは「食玩」。私もこの前ゴルゴダの丘を紹介しましたけれど、とにかく今ものすごい市場規模らしい。570億円ですって?!もちろん大の大人がターゲットです。なるほど、「フレーミング」と「ブラインド」か。つまり、「計○種類!」と「シークレット」が「コンプ(リート)」への欲望の炎を焚きつけるというわけだ。
 私はコンプ欲はあんまりないので、なんとか散財は免れているが、たしかになんとなく所有したくなる。番組中、何万円も投資しているオトナが何人も出てきました。一番ビックリしたのは、インコのフィギュアを4000体以上集めちゃってる女性。あそこまでいくと…。
 そう、そのインコが部屋に並べられた映像を見て、ありゃ?なんだ〜、唐招提寺じゃん!って思っちゃったんです。そっか〜、仏像ってフィギュアだもんな。とすると、やっぱりねえ。日本人の「オタク気質」ですか。
 みうらじゅんさんや、番組にも登場していた柴門ふみさんに限らず、サブカル畑の人に仏像マニアが多いのは偶然じゃなかったわけですね。
 全10体コンプして美しく並べれば、それは曼荼羅になる。シークレットは中心に置かれる大日如来か?!先ほど木製の仏像についてちょっと書きましたけれど、木製だと細部の細工に凝れるんですね。造形、彩色ともに。まさに現代食玩文化に通ずる…。
 そうかあ。日本人が小さいものに向かうのは、オタク特有の「微分」行為なのかもしれませんね。今までは時間的微分ばかり問題にしてきましたが、そう空間的にもやってきたんですね。
 で、そのオタク的指向(思考・嗜好)も、個人レベル及び集団レベルで積み重ねると、結局仏教的無常観に至るというわけか。いつも言ってる「萌え=をかし」が積分されて「もののあはれ」になるっていう事実ですね。
 そう、きっとインコ萌えの尼僧さんにも、「空しい…」と気づく時が来るのです。ふぅ…日本っていいですね。

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2006.04.25

『文化的支配に抵抗する』 中西新太郎 (『日常世界を支配するもの』収載)

40194 本、というか文章というものを、まあ仕事柄よく読むわけですが、どうも頭に残ってないんですね。大量消費、大量廃棄って感じで。たぶん、必要な情報かどうか、頭の中で選別してるんだと思うんですけど、なんかいかにも現代人という感じで、自分としてはいやですね。単に記憶力がないとも言えますけど。
 毎朝、センターの過去問をやったりしてるんですけど、これもまた忘れてるんですよね。もう何回もやってるはずなのに。あれだけ集中して読んで解釈していても忘れる。これはどういうことでしょう。やっぱり、底が抜けてるんですかね。
 ただ面白いもので、再読してハッとすることがある。その文章は寸分違わないのに、そう、自分や時代が変わって突如として腑に落ちることがあるんですね。今日解いた98年のセンター評論もそうでした。妙に納得してしまった。
 横浜市立大の中西さんの、10年以上前の文章です。今まではふ〜ん程度だったんですけど、急にリアルに感じられた。
 大衆文化の特徴について語ってるんですね。それもテレビを中心に。だから、ちょっと前までの自分は、その受け手として読んでいた。それが、今、ネット時代になって、自分が発信側になった結果、「オマエモナ〜」と言われてしまった。だからギョッとしたんです。
 例えばこんなところ。
 『「俺のこと無視してもいいからね」と枕詞を用意しておいて語り出すのが現代の大衆文化に行き渡った話法なのである』
 『大衆文化の下劣さやずうずうしさがまかり通るのは、「お互いに無視しあう自由」というニヒリズムを武器として懐に隠しもっているから…』
 まさに、ネット世界ですね。中西先生は、こういうやり方、つまり『卑小な自分の言うことなぞ大したことでないのだから目くじら立てるな、と下手に出ながら対手をこきおろす』『道化の振り』が、『弱者が強者に抵抗するとき使用する「戦術」』だと言います。なるほど〜。
 まさに、オレじゃん!って思っちゃったんですよ。まさに「不二草紙」のいやらしい語り口そのものじゃん!ってね。で、そこに食いついちゃった強者の方もいたりして(右の人気記事参照)、そうか、オレって弱き大衆の代表なんだ、って気づいちゃったわけです(笑)。この(笑)が大衆の証。
 で、文章の後半では、「無視してもいいよ」と言っておきながら、述べることに影響力を持たせるには(つまり無視されないってこと?)どうすればいいか、その新しい話法としての「自己語り」を発見します。矢沢永吉、長渕剛、ビートたけし、久米宏…挙げられた人物の名を見れば、おわかりと思いますが、その話法とは、『「自己」になんらかの説得力をもたせることで迂回的にその言説の影響力を強める』という方法です。『あいつの言うことだから信じられる』というやつです。そこにいわゆる「語り口」「語りの巧みさ」の重要性が立ち現れる。
 なるほどねえ。その通りだ。で、生徒に「はったり・ちゃっかり・がっぽり(?)」先生と呼ばれ、「あいつの言うことだから信じられない」と言われる私は考えちゃうんですよね。やっぱり、語られるモノ、語られたコトよりも、「カタリ」という行為自体が影響力を持つ時代になったんだなあ、って。
 つまりメディアの時代なんですね。本体よりも媒体の時代。それは、いつも言うように、我々が「マコト(真事)」なんてないんだ!って気づいちゃった結果なのか、「カタル(語る・騙る)」行為自体が経済システムに呑み込まれちゃったのか、デジタル化が進んだせいなのか、まあそれら全部だと思いますけど、とにかく空虚な物語に翻弄される時代になっちゃったわけですね。あ〜あ。

Amazon 日常世界を支配するもの ラディカルに哲学する

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2006.04.24

『地球最後の日(BBC)』〜ネクスト 世界の人気番組(NHKBS2)

BBC 『End Day』
107891 昨日録画しておいたものを観てみました。今春のNHKの改編による新番組、なかなか興味深いものが揃っています。この「ネクスト」もなかなかいい感じ。世界の人気番組を紹介するというのは、民放にもありましたが、こうしてまるごと放送するとなると、やはりNHKは強い。特にこういった硬派な内容のものについては。
 出ましたBBC得意のサイエンス・ドラマ、というかクライシス・ドラマ。昨年はこちらを紹介しました。そう、日米両公共放送共同制作のアメリカ滅亡ドラマでしたね。いろいろな意味で面白かった。
 今日のも、まずニューヨークが巨大津波に呑まれ、そして最後もニューヨークがブラックホールに呑まれます(笑!)。相当アメリカが嫌いなんだなあ。ま、今回は途中ベルリンは隕石に、そしてご当地ロンドンも殺人ウイルスにやられてましたけど。
 そう、このドラマは、現代科学の最先端の仮説に基づいた、四つの地球最後の日のシナリオを映像化したものでした。火山島の噴火、崩壊による大津波、隕石(彗星)の落下、殺人ウイルス、そして素粒子加速実験によるブラックホールの発生がその仮説たちです。
 全体で45分ですので、それぞれの話は10分程度。それも、素粒子加速実験を行なう架空の博士が、ロンドンからニューヨークへ移動しようとするある日の朝に、それぞれのクライシスが起きるという設定で、つまり同じ朝の映像が4回繰り返されますので、実質のクライシス映像はほんの数分しかありません。
 その繰り返しがちょっとくどいのですが、まあそこにはそれなりのメッセージ、地球がどの運命をたどるかはほとんど偶然の選択であり、日常がいかなる非日常にも転がり得る、ということがこめられているのでしょう。
 クライシス映像は当然CGであります。イエローストーンの時もそうでしたけれど、こうしたBBCのドラマの根底にあるのは、ハリウッドへの皮肉であるような気がします。ここでも、CG自体の質は決して高くはないのですが、しかしある意味過度な演出がなくリアルでした。なんか監督さん自身がご自分のパソコンでお作りになったとか。さぞ大変な作業だったでしょう。私としては隕石の破片が落下するところが怖かった。
 途中、実在の科学者のインタビューが挿入されるのが、またBBCらしい作りだったと思います。単なるフィクションではない、ドキュメンタリーでもあるということを雄弁に語っています。たしかにここで紹介された四つのシナリオ…、まあ最後の一つはちょっと別として、あとの三つは必ず起きる。実在の博士の誰かが言ってましたが、ただそれがいつ起きるかということなんですよね。ウチの山(富士山)もおんなじ。その時はしょうがないって気もしますが。
 しっかしブラックホールとは恐れ入った。それをやっちゃうのはやっぱりアメリカかあ。究極の最後だなあ。宇宙の歴史の中でも稀有でしょう。核爆弾で自爆なんていう次元じゃない。完璧な自殺方法ですな。そうこれは自死。他の三つはほとんど天災と言っていいでしょうが、これは人間の野望(先端実験)による事故ですから。アメリカさん、よけいなことしないでね。
 まあ、そんな実験に巻き込まれたくないような気もするけど、富士の溶岩焼きになるよりはあっさり最期を迎えられるかもしれない…。自分自身もブラックホールになっちゃうわけだし。それはそれですごいかも。

こちらで観れます。

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2006.04.23

『COOL JAPAN 〜発掘!カッコイイ日本〜「音」』

Cool 本日は東京で古楽のアンサンブル指導。指導なんてもんじゃないけれど。いっしょに弾かせていただいてるという感じですね。実はバロック・ヴァイオリンのケースを開けたのは4ヶ月ぶりだったんです。冬は寒すぎて弾く気がしないんですよ〜毎年ね。というか、どうも毎年冬は違うジャンルの音楽をやる機会が多い。なんででしょうね。
 そんなわけで、久々にイタリアのトリオソナタやバッハのトリオソナタを弾いたのですが、ふと帰りの車の中で思ったんですよね。なんで現代日本人の私が、ヨーロッパの300年も前の音楽をやってるんだろうって。それもいろいろ知ったかぶって蘊蓄を開陳したりしてる。知り合いの何人かのヨーロッパ人よりも間違いなく詳しかったりして。変だよなあ。でも自分としては違和感はないんだよなあ。
 なんて、ちょっぴり自問自答してみたりして。でも結局自分には甘いので、まっいいか、ということになる。人のことだと意地悪に詰問したりするくせにね。そんなことを考えながら、しかし車内には、先日のジャコパスとビレリのライヴが大音量でかかっている。謎だ。
 で、ウチに帰ってきてテレビをつけたら、NHKBS2で「Cool Japan」というのをやってました。外国人の方々が日本のクール!というものを見つけて紹介し合い討論するというような面白い番組です。今日のテーマはタイムリーにも「音」でありました。
 最初に結論から行きますが、今日は五つのクール!な音が紹介されました。「駅で流れる電車の発車メロディー」「テレビから流れるCMソング」「やきいも屋さんの呼び声」「水琴窟の音」「マンガの擬音語・擬態語」…これらを中心にいろいろと他にも紹介されていました。
 みなさん、日本に来て1年以内という外国人の方々でありましたが、なるほどエトランゼだからこそ分かるものってありますよね。自国民だと気づかないことに気づく。日本では日常になってしまっているか、または過去の遺物として忘れ去っているもの。それを新しい目で掘り起こす。考えてみれば当たり前によくある事実ですよね。
 日本の文化なんて、それこそそうやって外国に評価されて、その評価が逆輸入されるというパターンが多いですよねえ。というか、ほとんどそんな感じ。人に言われてそのレベルの高さに気づく。
 で、番組を見ながら、ああ、日本の文化ってホント記号化なんだなあ、って思いました。ある意味リアリズムやプラグマティズムではなくて、シンボリズムなんですよね。右脳社会なのかな、日本は。
 各駅、各電車ごとに違うメロディーが与えられるなんて国はたしかにない。外国には、会社名や商品名に独自のメロディーが与えられるなんてことはないそうです。そりゃそうかもしれない。行商人が歌を唄って客を呼ぶなんてことも。へえ、江戸時代には100種類以上の呼び声があったんだ〜。水琴窟の音で心を清めるなんて理論的にはおかしいですしねえ。だいたい茶室の湯がたぎる音が松風だなんて真面目に考える国民って…。オノマトペが他国に比べて異常に多いのも確か。狂言師さんが「擬音語はリアルすぎてはだめ」と言っていたのが印象に残りました。
 というわけで、私が300年前のヨーロッパの音楽をしたり顔で演奏するのも、やっぱりまあいいかってことですね。番組内の外国人さんたちも、たしかに本当の日本の姿を聴いていましたよ。お互いにそういうことをしあうというのは実にいいことですね。
 ホント、この番組タイムリーでした。これで私も、変な問題意識を持たず堂々とできますわ。やっぱり外部の目って大切ですね。自分のことを一番わかってないのは自分であったりするわけでして。人からのおほめの言葉や非難は、ありがたく頂戴しましょう。また、自分や自国を外から見る訓練をするのも大切でしょうね。
 ps 今日のノア武道館大会、秋山vs井上のGHCタイトルマッチ、まさに記号化された世界でしたね。まるで狂言を見るような芸の世界でした。リアリズムを超えたリアリズム。私は好きですね、この日本的世界。

COOL JAPAN

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2006.04.22

『御坂の桃の花』

Sany0111_31 久々にパンダくんの登場です。前回、大けが?をしたとの報告ののち、音沙汰がなかったので、いったいどうしてるのかと心配された方もいらっしゃったようです。
 実はあのあと、工場で大がかりなオペを受けて、なんとか傷も癒えました。予定通り13万もかかってしまい、年末年始は我が家は自粛ムードでありました(特にカミさん)。板金よりも塗装にお金がかかるとは…。ま、外国車オーナーの覚悟しなければならない部分ですね。特にイタ車。
 で、すっかり元気になったパンダくん、雪道での意外な強ささえ見せつつ、富士山の厳冬を難なく乗り切りまして、晴れて春を迎えました。そして、彼がウチに来てからそろそろ1年です。早いものですね。
 今日はそんなパンダに乗って、山梨の春を満喫してきました。笛吹市の御坂で桃の花見です。
Sany0116_21 そう、旧御坂町と言えば、レミオロメンの皆さんのふるさとですよね。富士五湖地域から御坂峠を越えた、甲府盆地を一望できるそれこそ峠からの坂の途中に位置する町です。
 このあたりは、冬が厳しく、また標高も高いため、冬から一気に春になります。梅や桜、桃にすもも、菜の花からこぶしまで、まとめて咲きます。ちなみに我が家のある富士山1200メートル付近では、まだ桜もつぼみの状態。来週あたりにはフジザクラとともに満開になるでしょう。
 レミオロメンの「春夏秋冬」に「春は花が咲き乱れ」という一節があります。これが決して大げさな表現でないことは、一度御覧になればわかることと思います。彼らは生まれた時からこうした風景を目にしていたわけです。盆地はたしかに四季がはっきりしています。そんな中で彼らの繊細な感性、実に日本的な歌詞やメロディーの世界が生まれたのだということを、今日は納得しましたね。ため息の出る美しさでした。
 実は桃の花見としては、1週間遅かったんですよね。甲府盆地の底の方が、いわゆるピンクの絨毯になったのは先週のことでした。しかし、ここ御坂は標高が高いので今がピークなんです。あの一面のピンクもいいものですが、春の山々の柔らかな緑の中に点在する桃色というのも実にいいものです。そう、こちらはピンクというよりも、まさに桃色っていう感じなんです。パンダの黄色ともよく似合ってますよね?
Sany0118_21 毎年こうして春を満喫しているわけですが、実は今日は生まれて初めて切なさを感じてしまいました。こんな光景をいったいあと何回見ることができるのだろう…。そんなこと考える歳でもないんですけどね。でも、あと数十回であることは確かでしょう。今日また一回減っちゃった。それほど美しいということですね。パンダで来るのはあと何回だろう、娘たちといっしょに来るのはあと何回だろう…。
 昨年までは萌えるピンクにそれこそ「萌え〜」だったんですけどね、今年は「もののあはれ」を感じてしまった。こんな時は歌でも詠めばいいんでしょうね。藤巻くんが歌を作るように。

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2006.04.21

『外来語と現代社会』(新「ことば」シリーズ19) 国立国語研究所

Kotoba191 もらって読んだんですけど、とっても面白かった。笑えました。すみません、また不真面目で。
 ここでいう外来語とは、主にカタカナ語のことのようですね。狭義の外来語。
 そりゃ広義の外来語というのには、いわゆる漢語(主に中国からの外来語)も含まれるわけで、そうするとたとえば「外来語と現代社会」と言った場合、外来語ではない和語(やまとことば)は「と」だけになってしまいます。つまり全ての外来語を問題視していたら、我々現代人はほとんど何も話せなくなってしまう。
 で、ここで問題視するのは、氾濫するカタカナ語に限定しようということでしょう。「カタカナ語の言い換え」問題ですね。
 いろいろな意見があるのを承知で、私見を述べさせていただきますか。私はカタカナ語の現状には肯定的です。無理に言い換えをする必要はないという立場です。いつもの私らしくとっても楽観的なんです。漢語の受容の歴史と同様に、最初はわからないのは当たり前、そのうち淘汰選別されて、そのまま日本語になったり、漢語に言い換えられたり、あるいは消えていったり、それが言葉というものでしょう。
 あと、やはり言葉の本質である「世界を切り取る」という面から考えても、とりあえず現状観察でいいと思います。それぞれの語に独特の守備範囲、指示範疇があるわけでして、それが確定するまでは原語のまま使用するのが筋ですし、確定後も既存の語との微妙なニュアンスの違いが認められるならば、やはりカタカナ語のまま行った方がいいというものです。「リベンジ」と「仕返し」「復讐」「雪辱」とは、その描く風景が微妙に違いますよね。
 ま、文句を言う人がいるのもわかりますよ。情報化、国際化によって、あまりに高速に大量に外来語が流入してきますから。そして、それを一般人に説明しないで使ったりする性悪な現代人たちがいますからね。だから、安易に言い換えに走らず、説明機会を充実する方に意を注いだ方がいいと思います。つまり、逆の立場から言えば、しっかり勉強しよう、ということです。勉強しないでブーブー言うなと。
 もちろん、漢語の場合は表意文字によって構成されていますから、見ればある程度意味がわかるというメリットがあります。でも音だけだったらわかりにくいものも多い。実は今日も自分の頭の中で誤変換があったんですよ。「サイケツ」って言われて「裁決」と変換してしまった。文脈的には完全に「採血」なのに。そういう同音異義の問題もありますし、たとえば受容初期においては、「ガッコウ」とかいう今となっては当たり前な言葉さえ、なんのことかさっぱりということもあったでしょう。そういう中を通り抜けて、一人一人の人間にも社会にも定着していくものなんですね。
 この冊子にも、例の「言い換え例一覧」が載っています。176のカタカナ語の言い換えが載っている。頑張っているんですが、なんか頑張りすぎちゃって、無理しすぎちゃって、けっこうトンデモもある。で、笑っちゃったわけです。すみません不謹慎で。だいたい、ほとんどの外来語が漢語に言い換えられていまして、考えてみれば、それは英語を中国語に直しているということになっちゃいますよね。それぞれがまた、日本的ななんちゃって英語と、なんちゃって中国語だったりするわけですから、もうホントに事態は混迷を極めている。とっても楽しいことになってます。みなさんもこちらで勉強しつつ、笑ってやって下さい。
 実は、こういった事態こそが言葉のあいまいさ、無常性、豊饒さを示しているのでした。「コトノハ」は「コト化(はっきり化)」の手段でありながら、「モノ(もやもや)」的な要素を持っている。やっぱり「コトバ」では「マコト」に近づけないんですよ。ロゴスは神になりえない。漸近するが到達しない。やっぱり不立文字なんですな。なんて、とんでもない方向に行っちゃいましたが、この本を読んで、まじでそんなことを考えました。

外来語と現代社会

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2006.04.20

ジャコ・パストリアス&ビレリ・ラグレーン 『ライヴ・イン・イタリー』

Jaco Pastorius Bireli Lagrene Thomas Borocz 『Live in Italy』
Lii なんじゃこりゃ〜。久々にKOされました。「感動禁止!」なんて、やっぱり無理ですよ。これを聴いてなんとも思わない人なんているんでしょうか。
 これ、聴くのを忘れてたんです。不覚にも。そしたら陋劣慙愧さんという方がこちらのビレリの記事にていねいなコメントをつけてくださったんです。それで急に聴きたくなって手に入れたのです。で、聴いてみて完全KO。ここ数日一日中何度も聴いてます。陋劣慙愧さん、本当にありがとう!いつも書いてますけど、ブログって本当に新しい縁の創造の場ですね。感謝感謝。
 それにしてもすごいライヴ。もうオープニングのビレリのインプロヴィゼーションからして鳥肌立ちまくりです。完全にバッハじゃないですかあ。無伴奏エレクトリック・ギターのためのファンタジーですよ。そこから、さりげなくあのスモーク・オン・ザ・ウォーターのイントロへ。かっこいいシャレってあるんですねえ。そこからあのTeen Townへなだれこむ。もちろんジャコのベースも加わります。
 もう、そのあとは…陋劣慙愧さんの説明の通りです。何でもすごすぎると、こちらは打ちひしがれた気分になりがちなものですが、この音楽はちょっと違った。イタリアということもあるのでしょう、めちゃくちゃ楽しいんですよ。
 86年と言えばジャコも晩年。あまり評判の良くない録音が多い時期ですよね。身も心もグシャグシャでしたから。でも、たしかにこの日のジャコは往年の天才ぶりを遺憾なく発揮しています。あらためてとんでもないベーシストであったと痛感。何がすごいって…やっぱり全てです。音色、リズム、フレージング、アイデア、テクニック。
 今度歌謡曲バンドでフレットレスを久々に弾くんですが、かな〜りインスパイアされちゃいました。まあ、私の場合ジャコにインスパイアしてもらっても、どうしようもないレベルなんですが(笑)。
 さて、なぜこのアルバムが楽しいのか。その一つの要因は演奏されている曲目にあると思います。
1.Improvisation, No. 1/Teen Town
2.I Shot the Sheriff
3.Continuum
4.Fannie Mae
5.Black Market
6.Satin Doll 
 ごらんのように、レゲエからポップ・ロック、スタンダード・ジャズ、そしてウェザー・リポートまで、本当に多彩でゴキゲンなナンバーが続いています。この選曲が聴衆と演奏者を奇跡的空間と時間に導いたと思いますよ。
 陋劣慙愧さんが「十二単」とおっしゃった。まさに至言であります。その通りです。ギター、ベース、ドラムスというトリオによる演奏ですから、あるいはモノトーン的になっているのでは、と思われるかもしれませんが、とんでもない。ものすごい色彩感です。同じ形のトリオとしては、こちらでGHSを紹介しました。彼らもものすごかったんですが、比較してみるとややモノトーン、単調なんですね。いかにジャコとビレリが天才であるか、そしてこの日絶好調であったかがよくわかります(すみません、ドラムスの人知りません。非常に普通な演奏です)。
 で、で、やっぱり陋劣慙愧さんも述べてらっしゃいます通り、このアルバムはジャコ名義ですではありますが、内容的には完全にビレリ・ラグレーンが主役であります。これほどうまい(いろいろな意味で)ギターは久々に聴きましたよ。なんと当時まだ二十になったかならないかでしょ?ありえませんよ〜!ジャコとタイマンやって正直勝ってるんですから!
 時にハープのように、時にチェンバロのように、時にオルガンのように、時にヴァイオリンのように。ギターって奥深いですね。もちろんビレリの超絶テク、ジャコ並みにすさまじいんですが、それ以上に一つ一つのフレーズのアイデアの豊かさですね。どの程度即興なのかは知り得ませんが、作曲だとしても神が降臨してますね。美しい。
 ホント、いろいろな意味で奇跡の50分間ですので、とにかく聴いていただきたい!しかし、国内盤は廃盤になって久しく、また輸入盤も手に入りにくい状態なんです。私も中古で手に入れました。なんで、こんなにすごいアルバムが日の目を見ないんでしょうねえ。ジャコの作品として考えても、非常にクオリティーが高いと思いますが。どうしようもないヘロヘロのジャコの演奏が店頭に並んでるのに…。
 ふ〜、完全にKOされました。それも第1ラウンド開始20秒くらいで。でも、また聴きたくなる。2回目にはなんとか第2ラウンドまで耐えよう…そんな感じで、今まさに11回目の挑戦をしています。KOはされなくなりましたが、いろいろな発見があり、感動は深まるばかりです。これは当分はまりますな。お宝決定!
 
Amazon Live in Italy

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2006.04.19

『「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと』 八柏龍紀 (ベスト新書)

458412102809_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ 刺激的なタイトル…ではありますが…。
 いや、たしかに感動しませんでしたから、看板通りでありました(笑)。
 大量消費社会の虚無感が安易な感動への衝動を生む、ってことですか?感動も商品化して消費されていると。あまりに当たり前な仮説で感心すらしません。
 この本のほとんどのページは、大量消費社会史の概説にあてられています。その時々の出来事や象徴的人物の紹介をまじえて、とうとうと延々と述べられています。まるで日本史か現代社会の資料集を読んでいるような感じ。筆者の私見もたしかに書かれていますが、そのほとんどは最初に結論ありきの恣意的批判ばかりで、途中でこちらの気分が悪くなってきます。
 いやいや、これはたぶん私に責任があるんですよ。あまりに当たり前だと思ったのは、きっと私の知識が豊富だからでしょう(笑)。また、気分が悪くなったのは、自分の生きてきた時代への愛着や誇りが、バカみたいに強いからでしょう(笑)。ですからここに述べることは、あくまで異常な私の感じ方であって、誰かがこの本に感動することを禁止する性質のものではありませんのであしからず。
 ま、筆者の言いたいことはよくわかります。安易な感動はよせや、ってことでしょう。つまり私が言う「萌え=をかし」はダメだということですね。時間を微分して、無常的性質を無視して、固定的に感動する。ファーストフードやコンビニ的に購入、消費、廃棄するか、お気に入りだけは技術力(デジタル)や経済力(マネー)によって自己の元に取っておく(たとえばDVDやフィギュア)。そういう感動の享受の仕方はやめよう、ってことですよね。正しいと思います。やっぱり「もののあはれ」じゃないとね。
 でもなあ、なんというか、それこそインスタントな結論と筋道なんですよ。深みがない。ものごとを批判的にとらえて不快感を表明するのはいいのですが、あまりに一方的で、その理由や対案なんかはほとんど述べられていません。結論にしてもそうです。安易な感動ではない本当の?感動とは何なのかへの言及が物足りない。そこが一番肝心だと思うんですけどね。あまりに当たり前なんです。そこに感動したかったのになあ。
 あと、安易な感動の例として挙げられているもの、オリンピック、サッカー、韓流、2ちゃんねるなどに対する批判もあまりに表層的でして、それらにそこそこ感動してしまった私には、それこそ自己否定されてしまったような不快感しか感じられませんでした。「電車男」なんか私に深い感動を与えてくれましたがね。いつかも書きましたが、「萌え=をかし」も積分されると「もののあはれ=深い感動」になるんですよ。日本文化史に名を残すあれもこれも皆、その当時は「萌え=をかし」の対象として消費されていたんです。
 とにかく、このタイトルはいけませんね。禁止!は過激です。売るためとはいえダメですよ。結局「非感動」をすら商品として消費させようとしてるじゃありませんか。そういう意味でも自己矛盾に陥ってます。だいたい勝手に禁止しないでくださいよ〜!禁止されちゃったらこのブログ死にます。毎日のいろんなレベルでの「感動」をおススメしてますので(笑)。
 浅くても深くても感動するのは悪いことじゃないっすよ。何事にも無感動で懐疑的で批判的な人生よりは楽しいと思います。たしかにあまりに躍らされるのはよくない。でも躍らされた虚しさに気づくこともまた、人生を豊かにするきっかけになったりします。それが年輪を重ねてのちの「本当の感動」につながったりするから、生きるということは面白いのでした。

Amazon 「感動」禁止!

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2006.04.18

『さくらん』 安野モヨコ (イブニングKCDX)

406334829609_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ マニアックな生徒が貸してくれました。非常に面白かった。思わず引き込まれ、なぜか共感までしてしまった。うるうる。
 江戸時代、吉原の花魁「きよ葉」の一代記第一部であります。想像通り、不自由あり、いじめあり、脱走あり、折檻あり、手練手管あり、ウソあり、マコトありの世界です。
 一見暗くじめじめした世界のようですが、単純にそうとも言えないのが、楼内の魅力であります。もちろん、単純に美化、文化化、学問化してはいけないことは知っています。しかし、そこに不思議な輝きのあることも事実。
 その輝きとはなんなのでしょう。このコミックはその答えを教えてくれます。コミックならではの手法で。
 そう、映画(たとえば「吉原炎上」)や案内書(たとえば「こちら」)とは違って、その本質にある虚構性、虚構であるからこそのあでやかさと切なさを、マンガという強い記号性を持った媒体が見事に表現しているのです。
 そして、その虚構に命を懸ける…いや、生活をかける遊女たちの強靱な矜持。それがまた記号を通じて輝きを増してまぶしい。
 コミック(マンガ)というメディア、やはり浮世絵の系譜上にあるんだな、と思いましたね。浮世絵も、花魁、力士、歌舞伎役者など、虚構性、演劇性の強い世界を描いているわけです。フィクションが究極のリアリズムになるという皮肉。芸術や宗教の本来の意味とはそこにあるのでした。
 つまり、虚構だからこそ、記号だからこそ、自分との関係の中でそれをとらえることができるわけです。自然科学のように、自己を滅したところにあるマコトもあるのでしょうが、実は人間にとっては、それは自然ではなく不自然なのです。それはみんなが知っていることでしょう。主体があればこそ、モノクロのマンガの世界も百花繚乱に輝きます。
 さて、「さくらん」の内容については、もう読んでいただくしかない、そしてその世界に自分をリンクさせ、遊ばせて何かを感じていただくしかない。私はこれを読んでいる間、自分が女になったり、男になったり、子どもになったり、しまいにはかんざしになったり、きせるになったり、妙な感覚に襲われました。それが実に気持ちいい。
 そんな中で意外だったのは、男の私が完全に女の気持ちになった瞬間が、何度もあったことです。本気にさせるつもりが本気になっている、そうした女の性の切なさ。しかし、それが男のように浅く長く持続するのではなく、深くほとんど一瞬に爆発する、だから結局それが花と散れば、自ら再びビジネスの世界に舞い戻り、「てめえで帰って来ましたのさ」とタンカを切ってしまう、そんな女ならではの強さ。
 つくづく男は勇気がない、常に安全策をとる小心者だと思いましたよ(笑)。ま、だからこそ現代のビジネスには向いているのでしょうけど。女は単純だなんて言えないな。ある意味、「安全」というレールの上でしか生きられない男の方が、ずっと単純かもね。
 ぜひ第二部も読んでみたいですね。究極的にはまだわかりません。彼女たちは女として幸せなのか不幸せなのか。いい女なのか悪い女なのか。美しいのか醜いのか。もう少し勉強してみたいところです。できれば江戸時代に行って登楼したい(笑)。そういうツアーでもないかな。

Amazon さくらん

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2006.04.17

『ウルトラ怪獣戯画(ギガ)ウルトラ兄弟激闘史よりゴルゴダの丘』(バンダイ名鑑シリーズ)

Nmhh 昨日はイースター(復活祭)でした。イエスの復活についてはいろいろな意見があるでしょう。私はクリスチャンではありませんが、物語としての復活には大きな意味があると思います。例の「ユダの福音書」の内容も含めて、聖書の物語は実によく出来ていると感じますよ。さすが世界で最も読まれた物語ですね。
 そう言えば、おとといの記事もある意味復活劇でした。私の仮説(!)によれば、とらねこは「もののあはれ」を知らなかったために何度も復活した。ということは、イエスの復活は…って、とらねことイエスを一緒にするな…いや、意外にそこに真理があったりして。永遠の命を得るというのは、復活しないということを意味するのだと、とらねこが雄弁に語っているじゃありませんか。
 さて、またトンデモなことを書いてますが、ここからはもっとトンデモかも。今日のおススメは、十字架に架けられた4兄弟です。舞台は「ゴルゴダ」…まんまですな。そう、いわゆる食玩を買ったんです。まさにこのシーンがほしかったので、一番重い箱を選びました。そしたら見事正解!ゲットいたしました。
 ウルトラマンA(エース)の第13話「死刑!ウルトラ5兄弟」の中のワンシーンですね。かなり衝撃的です。13話というのも象徴的です。このお話は次の14話まで続くのですが、その14話で5兄弟は見事復活を遂げます。ちなみに14話の脚本は市川森一さん。彼は今ではコメンテーターとして有名ですが、多くの名脚本を残しているシナリオライターさんです。クリスチャンであるためか、ちょっとキリスト教色の濃い作品を書きました。
 でも、だからって、これはちょっと露骨でしょう。13話は彼のお弟子さんの脚本なんですが、当然メインライターだった彼の意向がかなり反映していると思われます。4人の兄たちがゴルゴダの丘で受難している時に、末子のAは地球で超獣と闘うんですけど、その名前が「殺し屋超獣バラバ」!まんまやんけ!まあ、こちらのバラバさんは解放されずやられちゃうんですが…。
 磔にされた4兄弟及び、ヤプールの奸計に苦戦するAの5名のキリスト教戦士たち、最後は兄弟愛?を結集して、悪に打ち勝ちます。まあ、それはそれでめでたしめでたしでありますが、どうなんでしょ、ウルトラマンとキリストを重ねるというのは。もしかしてあまりにリアル?
 たしかに両者とも救世主であります。それも私に言わせれば理由なき救世主。だからこそ、つまり理由がないからこそ、そこにある種の契約が必要となります。その契約内容が問題なんですよ。最初に一方的な「愛」ありきですから、結局クリスチャンも地球人も救世主と対等になりえない。ある意味望んでいない恩恵の対価を支払うことを要求されてしまう、そういうなんとなく後ろめたい立場に置かれてしまうわけです。
 で、だいたいウルトラシリーズの最終回では(ちなみに今日はセブンの最終回を観ました)、「地球は我々人類の手で守り抜かなければならないのだ!」みたいにようやく覚醒するんですね。「自分を犠牲にして我々のために戦ってくれた」という感慨とセットで。
 ところが、そこでだいたいお話は終わってしまう。最終回ですから。そして、次の週からはまた新しい救世主に依存するわけです(笑)。地球人は困ったもんです。
 ということで、私はキリストの愛というのは、そういう最終回の覚醒を促すためのものだと思うんです。それがなかなか覚醒しないもんだから、キリストさんも何度も復活しなくちゃならない。結局他の宗教もそうですが、人が神やウルトラマンを必要としなくなって、「もうけっこうです、お帰りください」って言えた時、本当の新しいドラマが始まるんでしょうね。
 ところで、最後にちょっと思ったんですけど、クリスチャンもウルトラマンも「汝の敵を愛せよ」って言葉忘れちゃったんですかね。やりたい放題に見えるんですけど(笑)。
 
Amazon ウルトラマンA

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2006.04.16

『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』 竹内薫 (光文社新書)

433403341509_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ ベストセラーだというので読んでみました。当たり前のことが書いてある本ですけれど、私にとってはまさに救いの書でありました。
 ここに書かれていること、つまり「世の中仮説だらけ」ということは、ある意味当たり前ではないのかもしれません。だから売れるのでしょう。そういう状況は実に憂慮すべきだと思います。だって、このことを知らないということは、世の中原理主義だらけになってしまうわけでしょ。実際そうですし。
 で、そういう状況がどうも生理的に苦手な私は、教室でいつも言ってるんです。常識を信じるなって。だから、私の授業を受けている生徒たちがこの本を読めば、ああいつもあの変な先生が言ってることだ、って思ってくれるでしょう。そうだといいなあ。
 けれども、私がこの本を「救いの書」と言ったのは、私がいつも言っていることを偉い人がスマートに書いてくれたからではありません。ある意味もっと単純でして、「仮説」という便利な言葉を教えてくれたからです。
 そう、私が教室で語ると、どうも「常識を疑え」だとか、「先生や教科書を信じるな」とか、「マスコミに躍らされるな」とか、なんとなく被害妄想的というか、アマノジャク的というか、素直じゃない的というか、ローンウルフ的というか、とにかくちょっと性格が悪い感じになっちゃって、自分でもいやだったんですよ。
 で、「仮説」って言葉を使うと、そんなちょい悪テイストがほとんどなくなって、なんかカッコいいじゃないですか。それこそスマートな感じさえする。これは使わせてもらいますよ。いい言葉覚えたぞ。
 ところで、昨日の記事のことですが、あそこでの私の「読み」は、やっぱり仮説です。かなりの大仮説ですね。私は原理主義者ではありませんから、あれが絶対正しいなんて思っていません。もちろんです。ただ、仮説は鵜呑みにするべきでない一方で、可能性も秘めているわけですね。そういう可能性で遊ぶ心みたいなものって、人生を豊かにすると思います。99.9%が仮説でもいいじゃないですか。いや、それだからこそ楽しいし、この世に生きる意味があるのでしょう。
 さてここで、私のスーパー大仮説である「モノ・コト論」とこの本を結びつけてみましょう。これもまた仮説です(笑)。
 この本でも語られていますが、人は「なんだかわからない気持ち悪いもの」をなんとか説明して安心を得ようとします。そこで仮説が生まれるわけですね。これは、まさに私が言う、「モノ」を「コト」にする行為そのものです。つまり「カタル」ですね。「モノガタリ」です。で、私は何度も「コト化社会」はいかん、と言ってきたわけです。仮説を立てて安心してしまう、それを安易に信じてよしとしてしまう社会ですね。
 筆者は「99.9%」という言葉を象徴的に使っていますね。なんで、そう書いたかは読者への課題となっていますが、文脈的には「0.1%」が「真理」だということになります。あくまでもレトリックとしてそう書いたわけでして、本当は人間が考えることは「100%」仮説です。しかし、筆者はカトリックの信者さんでもあるわけで、やはり人間の思索を超えたところでの「真理」の存在を信じたいのでしょうね。私も同感です。それこそが私の言葉で言うならば、「マコト」です。「真コト」ということですね。それが存在しないとしてしまうと、仮説を立てることへのモチベーションもなくなってしまいます。それでは人が生きる意味がありません。
 とにかく、この本、科学や宗教や歴史や、その他もろもろの私たちの生活が、仮説だらけであることを示し、さらにそれらとのつきあい方、進んで人生を豊かに生きる知恵を授けてくれる、なかなかの良書でありました。結果として、科学書というよりは、宗教書になっているような気がしたのは、私だけでしょうか。救いの書と言ったのはそういう意味でもあるのでした。

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2006.04.15

『100万回生きたねこ』 佐野洋子 (講談社)

406127274809_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ くやしいけど、やっぱり泣いてしまう作品です。今までいろいろな形で読み、聞かせてきた作品ですが、実は今日初めてウチのものとして買いました。
 本屋で3歳の下の娘が手に取って離さなくなったので、これはチャンスとばかり買ってしまいました。あまりに有名であまりに売れている絵本ですから、実は何度も感動していたのにもかかわらず、なんとなく屈折した悔しさもあって、自分では買わずにいたのですが、とうとうレジに持っていきました。
 家族を持って、この絵本の内容のある一面をも、よく理解できるようになった私ではありますが、ある意味それだからこそ、これを自分の子どもに、あるいはカミさんに、どのように読み聞かせるのか、何を感じてもらえばよいのか、正直自信がありませんでした。それほど深い。読むたびいろいろなことを考えさせられる。
 ストーリーは皆さんご存知でしょう。だから、今日はあらためて、自分の、そして家族の本として読んだ感想と言いましょうか、考えたことを記したいと思います。
 このねこ、100万回死んだねこではない。100万回生きて1回死んだねこなんですね。
 では、その100万回生きたことの意味と、1回死んだことの意味はなんなのでしょう。
 いや、正確に言えば、99万9999回の生と最後の1回の生とは意味が違うかもしれません。それは誰しも想像できることと思います。しかし、最後の1回の生は、あくまでその前の生を前提としているものであって、そういう意味では、最後の1回の生にはたしかに100万回の生の価値がある。そうとも言えましょう。
 輪廻の物語?たしかに前世の積み重ねが現世につながり、記されていませんが、しろねことずっと一緒にいられる来世の予感もあります。しかし、ことはそうは単純ではないような気もします。
 一度単純に考えてみましょう。あるいはこれが一般論からもしれません。
 「愛される」よりも「愛する」ことに生の意味がある。あるいは「経験」「名誉」「プライド」よりも「愛」の方が意味がある。そんなふうにも読めます。ソウルメイト(魂の伴侶)を見つけて、子どもにも恵まれ、幸福を得て、そして死を迎えたなら、転生への執着はなくなる。そういうメッセージ性もありでしょう。誰より自分が好きであることを知った上で、しかしそれを上回る愛情を感じる対象を発見する。そういう物語でもありえます。もっとクールに、遺伝子を残せば安心して死ねるということなのかもしれませんし。
 さあ、ここからが今日の私の「読み」であり「語り」であります。
 このお話は、実は「愛する立場」の物語なのではないか。
 つまり、とらねこは最後生き返らなかったけれども、しろねこは生き返ったかもしれない、ということです。ということは、しろねこは以前のとらねこと同様に、パートナーに満足していなかった、もっとはっきり言ってしまうととらねこのことを愛していなかった…。
 残酷ですし、いかにもワタクシ的なアマノジャク読みでありますが、しろねこのあのクールなたたずまいはタダ者ではありませんよね。怖いくらいです。
 そうだとしたら、立場逆転です。とらねこは初めて、王さまや船のりやサーカスの手品つかいやどろぼうやおばあさんや女の子の気持ち、涙にこめられた「もののあはれ」が解ったのかもしれません。思い通りにならない切なさ。すれ違いのやるせなさ…。
 王やどろぼうなどは実は孤独であった。その孤独をまぎらわすパートナーとしてとらねこを愛した。その孤独とパートナーを欲する気持ちを、とらねこはのらねこになって初めて知った。一人っきりになって、自分か一番好きだと言い放った瞬間に知った。
 こんな感じです。う〜ん、深い。さらに深い。
 じゃあ、なんでしろねこはとらねこのパートナーになって、子どもまで生んだのか。それは簡単です。とらねこがりっぱなねこだったからです。単純に雄として優秀だったとらねこのパートナーとなることが、野生のねことして選ぶべき当然の道だったのです。それは、とらねこがそれぞれの人間のパートナーになることを結局は拒否しなかったのと同じ次元での選択です。
 どうでしょう。こんなふうに解釈するとは何事だ、という声が聞こえてきそうですが、私としては今日のこの考えが、今までで最もしっくり来ました。
 つまり、人生とは「もののあはれ」を知るためにあると。それを知れば「生」は完結するのでありました。結局お釈迦様が悟ったことが唯一の真理ってことですか。
 ま、考えすぎなのかもしれませんね。もう少し素直に読み直してみます。
 
Amazon 100万回生きたねこ

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2006.04.14

『Overture2』(楽譜制作ソフト)

Ot2 また、今さらというものを紹介します。
 なんで今さらかというと、もう売ってないからです。紹介する意味ないじゃん!
 それに、ものすごくいいというわけでもないんです。ただ、自分がお世話になっていますので、というか今日もお世話になりましたので、ここに敬意を表しておススメさせていただきます。
 だいたい今、Overtureってどうなってるんだ?アメリカでは地味に開発が続いていて、Windows版は4まで出てるらしい。日本ではローランドが取り扱いをやめたので、ほとんど絶滅したも同然。一時はFinaleと勢力争いしてたんですけどね。序曲か終曲か。結局終曲の勝ち?
 今日私がお世話になったというのはこういうことです。最近はもっぱらこういう使い方です。
 ちなみにOS9用ですから、classic環境で使ってます。来月、昨年始動した歌謡曲バンドの初ライヴがあるんです。で、自分のパートの楽譜を作らなきゃならない。私は暗譜という芸当ができない、困った演奏家でして、とにかく楽譜がないと不安で仕方ないのです。そこで、活躍するのがこのOvertureというわけです。
 まず演奏する曲のMIDIデータをMIDIPALから購入します。で、それをOvertureにインポートして楽譜化するわけです。まずは全ての音をスコアとして書き出し、それを見ながら自分のパートを編集します。いろんなパートから切り貼りしたり、修正したり、移調したり。Overtureの画面上で全てやってしまうんですね。音を聞きながら。そして、最後にパート譜として印刷する。
 楽譜の浄書という意味では、圧倒的に終曲の方が優れていると思いますけれど、私がやっているような作業においては、序曲の方が使い勝手がよいような気がします。単なる慣れの問題かもしれませんけれど。
 最近では、こうした楽譜制作ソフト上で、作曲を行なう方が増えているようです。クラシックや現代音楽の作曲家の方々や、オーケストレーションの専門家の方々なんかの間でも、急速にデジタル化が進んでいるとのこと。いわゆるDTMの世界とは違うところでも、こうした動きは止められないみたいですね。可能性を拡げるという意味では悪いことではないと思いますよ。結局、仕事の能率化ということではなく、人間の脳や体の機能をコンピューターが補完しているわけですね。補完というよりも代わりをしているということかな。
 私なんか、こうしてコンピューターのお世話になることで、耳コピして楽譜化する能力や、それこそ暗譜したり即興で弾いたりする能力が、昔よりかなり衰えたと思いますね。キーボードばかり叩いていて、漢字が書けなくなっているのと同じ現象でしょう。人間としてそれが幸せなことなのか、正直よくわかりません。

Overture2
GenieSoft

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2006.04.13

教育基本法改正!?

2006041300000000maippolview0001 この人たちが決めたんですかね。なるほど。
 教育基本法を手直しするというのはいいことですね。現行教育基本法が完全なものだなどと誰も言えませんからね。言葉の問題に絶対的な結論はありえない。
 言葉は変わっても、教育の根幹というのは、たぶん変わらないものでしょう。で、その根幹とはなんだ?と聞かれても、(いちおう)教育者であるワタクシは答えられないのであります。それは他の仕事人にしても同じでしょうけど。
 どこかの組合みたいにムキになってみてもしょうがない。そういう原理主義が教育の本質から最も遠いということだけは、なんとなくわかります。
 だいたい「改正」って言うから「正しくない!」って言う人が現れるんですよね。「改訂」ぐらいでいいのでは。憲法も同様。
 で、「家庭の責任」「生涯学習」「公共の精神」…いいじゃないですか。そのとおりですよ。それから例の「愛国心」問題ですね。苦労して作文しましたねえ。
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」
 まあ名文とは言えませぬ。法文なんてそんなものですが。「わが国と郷土」ってのもちょっと…って感じですけど、どうなんでしょうねえ、どうしても「愛する」という言葉を使いたかったんでしょうか。私だったら「大切にする」っていう言葉使いますけどね。切ないものでしょう、本当は。「大切」については私のエッセーをぜひお読み下さい。
 「態度」はやっぱり気になりますね。「心」と「態度」はいつも裏腹です。先生も生徒もね(笑)。あっそうか。「心」だけでも「態度」だけでもダメなんですね。「心」と「態度」がベストか。
 「尊重し」が2回出てくるのもなんだかなあ。それも目的語のレベルが違うから気持ち悪い。いっそのこと、「自国や他国の伝統・文化を尊重し、それらをはぐくんできた郷土や国を大切にする…」ってのはどうでしょう。ちょっとこれも変な日本語か(笑)。
 でも、自国や他国を大切にすれば、まあ結果として国際平和になるでしょうし、発想としては悪くないでしょう。「発展」はいりません。大概「発展」は「大切にしない」ことですので。
 さあ、国会において与野党ともどんな論陣を張るつもりでしょうか。また世論はどういう方向に盛り上がるのでしょうか。楽しみなところです。いずれにせよ、私たち現場の人間にとっては、お題目よりも現実の人間と社会との格闘、いやケンカじゃないから対話ですな、そうそっちの方が「大切」です。

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2006.04.12

『日本文化論の系譜』 大久保喬樹 (中公新書)

412101696309_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ いい本ですねえ。サブタイトルは、『武士道』から『「甘え」の構造』まで、です。私のような面倒くさがりやにはたまらない逸本です。
 例の「国家の品格」、まだよく売れているようで、こちらのブログでもしぶとく人気記事トップを守ってます。そろそろ半年なんですけど。
 その「国家の品格」の中でも援用されていた新渡戸稲造の「武士道」、これも読まなきゃ始まらない、と思いつつ、はっきり言って面倒くさい。だいたいもともとは英語ですしね。そしたらこんな本を見つけた。たとえばその「武士道」が、実にコンパクトに要約されている。うん、GJ!大久保さん。ありがたや。
 で、実は「武士道」のみならず、こんな名著たちも見事に要約、解説されてるんです。感涙。

志賀重昂『日本風景論』
新渡戸稲造『武士道』
岡倉天心『茶の本』
柳田国男『遠野物語』『山の人生』
折口信夫『古代研究』
柳宗悦『雑器の美』『美の法門』
西田幾多郎『善の研究』
和辻哲郎『風土』
九鬼周造『「いき」の構造』
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
川端康成『美しい日本の私』
坂口安吾『日本文化私観』『堕落論』
岡本太郎『縄文土器−民族の生命力』
丸山真男『日本の思想』
土居健郎『「甘え」の構造』

 はっきり言って基本文献ばかりです。しかし、私がまともに全部読んだのは…3冊だけorz。
 最近「萌え」だ「をかし」だ「もののあはれ」だなどとほざいてるくせに、困ったものです。たぶん放っといたら一生そのままでしょう。困ったものです。もちろん、国語の先生としても読んで当然の基本文献ですよねえ。なのに…。
 で、そんな窮状を(とりあえず)救う、神のような本がこの「日本文化論の系譜」なんですよ。ホント助かった。みなさんすみません。これを読んで、上記全てを読破したことにさせてください。老後にヒマがあったら、いくつか読んでみますが。
 なにしろ要約がうまい(たぶん)。それぞれを完全に理解された上にそのエッセンスをまとめ、さらに非常に客観的に解説されている(おそらく)。私のような者には大変安心して読めました。文章も端正で、構成も明確。全体を読むと、確かに日本文化論の系譜が手に取るようにわかる。いいですねえ。「○○史」とかいうと大概つまらんのですが、こういう講義だったら聴いてみたいなあ、と思いました。
 で、私が感じ取った「日本文化論」ですが、これもまあ当たり前の感想かもしれませんね、とにかく「西洋近代」との格闘であったと。いずれの日本文化論も、結局「西洋」というフィルターを通してのものだった。西洋に寄り添ったものもあれば、正面から対抗したものもあった。まあ、これも手垢にまみれた表現ですけど、「他者を意識した上の自我」なんですね。
 ただ、ちょっと新しい感慨としては、こんなのもありました。自分の「モノ・コト論」にこじつけて。「西洋近代」を象徴する「コト化(固定化・記号化・計量化・思念化)」に憧れようと対抗しようと、とにかく「日本文化論」を構築してしまったということに関しては、完全に「コト化」行為であった。新しい日本を見つけることは、結局今までの日本を見つめ直すことではなく、新大陸発見に近い行為であったような気がします。ディスカバー・ジャパン。その結果、皮肉なことに、本来の日本文化の「モノ」的な流動性、あるいはダイナミズムというものが、失われてしまったような…なぜか寂しさを感じましたね。
 そんな中で、やはりちょっと「モノノケ」風だったのは、やはり、折口信夫と岡本太郎でしょうか。なんとなく自分はそっちが好きだなあ。そんなことも確認。

Amazon 日本文化論の系譜

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2006.04.11

『しずかくん』 携帯電話妨害機

61104994_11 ケータイにあんまり依存していない人間にとって、ケータイを持った猿たちの行動は、時として信じがたい、あるいは許せない場合があります。
 電車の中で大声で会話する。会議中、商談中へーきで鳴らす。学校でも、授業中メールをチェックしたり、この前の入学式でも偉い人の祝辞の最中、へーきで着うた鳴らしたお母様もいらっしゃいました(笑)…(笑)じゃないな(怒)だ。
 で、そんなやつらをなんとか懲らしめたい。でも、電車の中でそんな若者に注意する勇気もない。という私のような人のためのグッズがこちらです。
 な〜んて、別に真剣にそんなこと考えてるわけじゃありませんよ。ただ試してみたいだけです。ネタです。
 今日、野菜ジュースを買いに行ったディスカウントショップにあったんで、ついつい買ってしまったんです。777円だったんで。
 携帯電話圏外装置といえば、圏外くんや、黙れ!ケイタロー、お黙りケイタなんかが比較的有名でしたよね。でも結構高かった。数千円から数万円くらい。公的機関なんかで使う業務用に至っては、十万円以上したり。ただ試すだけにしては高すぎなので、今まではなんとなく憧れだったんです(何に憧れてんだか)。
 それが777円で山と積まれてたんで、ついつい買っちゃったんですよ。アホくさいと思わないで許して下さい(笑)。
 名前は「しずかくん」。えっと、これは「しずかちゃん」じゃないからして男か?ってことは…「亀井静香」?「かめいしずかくん」って国会で呼ばれてたわけだし。うん、このピンク具合といい、たぶんキャラクター使用料払ってないと思われるキティちゃんのイラストといい、間違いなく亀井氏を意識してますね(?)。第一、パッケージに「強い しずかくん」とありますし(笑)。
 写真で見るとまさにケータイといった風情でありますが、実際の大きさはギリギリ手で握って隠せるくらいです。まあ実際にはポケットの中に入れておいてスイッチオン!って感じですかね。さすがにこれを取り出してカチッってやってたら…怪しい。
 どうも以前よく売っていた「圏外くん」と同じようにも見えますし、なぜか箱裏の説明書きには「圏外君」の文字が。800MHzと1.5GHz用というところもやはり圏外くんと同様です。つまりcdmaOneやFOMAには効果なしということですね。もちろんPHSにも。で、どのくらいの範囲を圏外にしちゃうかと言いますと、半径4メートルってとこです。全然強くないっすね、しずかくん。
 スイッチをオンにすると、40秒間だけ妨害電波が出ます。なぜ40秒なのかはよく分かりませんが、40秒も圏外になれば、実用上十分実用にならなくできるってことでしょうか。スイッチを切るのを忘れて、ずっと妨害電波出したまま町中を歩いたり、会社で仕事されたりしたら、たしかに迷惑…ってか、マナー違反のケータイ族よりずっと迷惑じゃん!
 そうそう、説明書きで面白いのは、「他人の携帯電話の妨害はしないで下さい」っていうのですね。そう、これはしずかくんのアイデンティティーにかかわる文言です。しずかくんは人に迷惑をかけません。本来の存在意義は、人のケータイを邪魔することにあるのではなく、自分が出たくない時、あるいは途中で切りたい時に自分のケータイの邪魔をすることにあるのです。決して、私のようなさもしい動機でしずかくんを発動させてはいけません。
 というわけで、しずかくんの説明にすっかり反省させられた私は、早速自分のケータイを邪魔すべく、帰宅後ひそかにやってみました。しずかくん発動です。
 そしたら…ガーン!!
 見事に圏外じゃないですかあ!なんとスイッチオフにしても、40秒どころかず〜っと圏外じゃないですかあ!…って、ここ富士山の中腹はもともとvodafone圏外なのよね…orz
 意味ね〜!圏内くんとか売ってないかなあ。「たく(拓)くん」とか強そうですよねえ。

 (というわけで、明日生徒の邪魔してみようっと)

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2006.04.10

フジファブリック 『FAB FOX』

B000bd3dx201_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ 昨日のおバカ記事に象徴されるように、最近レミオロメンネタが多すぎです!もちろん私も彼らの曲は大好きですからいいんですけど、ちょっと自分の好き好き度以上の厚遇を受けているような気がします。本来、私はかなり冷静な音楽鑑賞者を自任しており、そんなポリシーからしてもやや憂慮すべき現状であります。
 そこで、本日はこちらを紹介します。山梨を代表するのはレミオロメンとヴァンフォーレだけじゃない!そう、2年前「山梨発3バンド」でレミオロメンとともに紹介した「フジファブリック」です。
 考えてみると、レミは御坂町、フジは富士吉田市ですから、地元度ということでは、フジに軍配が上がります。ま、フジはボーカルの志村くんだけが山梨(富士吉田)で、あとの4人は(おっと最近一人やめて3人か)別の県ですから、微妙っちゃ微妙ですけど。
 で、彼らフジファブリック、昨年の秋にアルバム出したんですよね。それが非常に面白く、また興味深い出来になっています。たとえば2年前からすると、ものすごく進化していると思いますよ。
 私はiTMSで買ったんですけど、たとえばそちらで試聴してみると、たった30秒ずつでも、かなりぶっ飛んだバンドであることがわかると思います。
 ちょっと前の「日経エンタ」の次に来るバンド特集みたいなのでも、acidmanとともにレミオロメンのすぐ下あたりにつけてましたからねえ。こういう音楽がこういうご時世にまあまあ売れるというのは、非常に不思議な気がします。
 で、冷静に考えてみますと、やっぱり奥田民生消費層が現代にもかなり残っているんですよね。奥田民生自身ではないかもしれないけれど、ああいった奥田民生につながり、奥田民生からつながる音楽嗜好というか。
 まあ端的に言ってしまえば70年代洋楽なんですね。具体的にどれというのは難しいけれど、ハードロックからプログレ、プリティッシュなサイケとか、もう私たちの世代には、ニヤッというパッセージ満載なんです。彼らほとんど80年代生まれだと思いますが、よく勉強してますよ。そして、それらをいい意味で現代風に、そして日本風に料理している。これもまた才能です。
 レミはどちらかと言うと正統派でしょう。ピッチングフォームは素直に美しい。ただちょっと手元で球筋が変化する。そのちょっぴり芯を外れるところがいいんですね。フジはもうフォームからしてへんちくりん。で、思った通り変な球が来る。球種も多いし、ボークすれすれって感じもしますが、暴投はないんですね。通好みの投手です。
 とっても乱暴に言ってしまうと、ビートルズとELOを抜いたユニコーンって感じかな。私にとっては。
 というわけでして、メチャクチャ売れる可能性はあまりありませんが、それこそユニコーンみたいにコアなファンをたくさん抱えながらしぶとく生き延びていくタイプのバンドでしょう。ライブにも定評がありますので、一度は生で聴いてみたいですね。
 レミオロメンのピュアさにちょっと気恥ずかしさを感じ始めた方は、こちらでちょっと不純な確信犯にやられてみるのもいいでしょう。ま、実は私のような70年代洋楽世代には、その確信犯ぶりもやや気恥ずかしいんですけど。

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2006.04.09

レミオロメンの藤巻くん(の顔マネ)

20051202_99667 くっだらないネタですんません。どうしても、って言うんで。
 4月1日の山梨凱旋ライヴに行ってからというもの、ウチのカミさんのレミオロメン熱はとどまることを知らず上がり続けておりまして、なんちゅうか、女のミーハーなパワーの恐ろしさを味わいつつ、うんやっぱりこれは「萌え」の感情だ、「をかし」はやはり女性の得意とする感情だ、などとひそかに研究対象にしております。
 で、しまいにはこんなことまで始めちゃった。ま、よくあることかもしれませんね。自分の子どもを、自分の萌えの対象に擬する。し、しかし、まさか、娘を藤巻くんに仕立てるとは…。
 藤巻くんとは、レミオロメンのボーカル担当の、あの人です。もともとレミオロメンの3人、それほどイケメンというわけではありません(失礼)。しいて言えば、一番左の神宮司くんがカワイイ系かな?ワタクシ的には右の前田くんが好みなんですが(ベースの弾き様も含めて)。で、そう、真ん中の藤巻くんですね。髪型が微妙です。けっこう歌声と外見のギャップがある。
 そんな藤巻くんですが、ウチのカミさんはやっぱり彼が一番いい!と言っております。で、しまいにはウチの下の娘(3歳)をつかまえて、なんだか顔マネをさせはじめたんですよ。もちろん娘は藤巻くんなんてよく知りません。歌はよく聞かされていますので、一緒に歌ったりしてますけど。
 で、実際髪型などをまねてみたり、ホクロをつけたり、表情を指導したりしたところ、うん、たしかに似てる!かも…。ちょっと哀愁を帯びた視線など、なかなかうまく擬装してます。まあ、皆さんにとってはどうでもいいんでしょうけど、写真を撮ったんで見てやって下さい。すんませんねえ。くっだらなくて…。でも娘自身もわけもわからずお気に入りのようです。

Fujimaki1 Fujimaki2 Fujimaki3

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2006.04.08

『ビリー・ジョエル ライブ』 BSサタデーライブ(NHK)

Sany0086_31 今日はお釈迦様の誕生日、花祭りであります。この日は毎年私の勤務する学校の入学式が行われます。禅宗の高校ですから。
 本年度はワタクシ1年生の担任であります。順番通りですので、覚悟しておりました。そう、今年の私のクラス、なんと女子クラスなんです。いや、ただ単に男子が入ってこなかっただけですけど。で、初日から彼女ら元気元気。つんくさんのご苦労がしのばれます(笑)。プロデュース業大好きな私としては、ま、楽しみということで。
 さて、そんなわけで入学式がつつがなく終わったのですが、はて、自分の高校入学式はどんなだったかななどと、式の最中思い出そうとしたんですけど、全く思い出せないんですね。卒業式がなかったのはよ〜く覚えてるんですけど。それだけ昔のことになっちゃったんですね。
 で、今日は、かなり昔のことなんですけど、全然忘れ去られていないものたちと再会しました。そう、ちょうど私が高校に入学したころだ。
 今日からNHKで「BSサタデーライブ」という番組が始まりました。内外の有名ミュージシャンの新旧ライブを放映するという、なかなか楽しみな新番組であります。で、今日はその第1回として「ビリー・ジョエル」と「ABBA」が放送されました。
 非常によろしかった。なつかしい、というのはありません。なぜなら両者とも今でもよ〜く聴いていますし、世間においても完全にスタンダードになっており、全く古びていませんから。これはまさに「語り継ぐ」という行為の結果生まれた結果です。いつもの言い方をしますと、「コト化(語る)」の連鎖が「語り継ぐ」であり、これこそが唯一の「モノ」の性質(変化を余儀なくされる)を乗り越える手段です。
 彼らの残した「コト」がそれだけの価値を持っているということですね。当たり前ですが、名作というのは、このようにしてある意味延命し続けるわけです。全てそう。DNAも価値がないと語り継がれなくなってしまう。てことは、私の入学式は私の中ですらそれほど無価値だったということですか。いやはや。
 さてさて、今回の放映、なかなか甲乙つけがたい対決でありましたが、どちらかというとビリー・ジョエルの勝ちでしょうかね。いや、私にとってですよ。新しい発見があった。そう、そういう新しい発見をどれだけ埋蔵しているかも、語り継がれる条件ですよね。
 今回の新発見は、もうとっくに知ってたという方も多かろうと思われる発見です。それは、彼は「ピアノマン」だった!ということです。彼の映像を観るのは、おそらく初めてだったんですよ。だから、目からのインパクトも初めてだったんです。いや〜、彼、めちゃくちゃピアノがうまいっすね!歌はあんまりうまくない。
 ビリー・ジョエルというと、私の中では、優れたメロディー・メーカーというイメージだったんですけど、ちょっと違ったかも。あらためてライブで観て聴いてみると、彼の楽曲が非常にピアノ的であることがわかりました。彼の音楽って、ブルースやジャズ、カントリー、さらにクラシックなど、いろいろな要素が入っているんですけど、それが全てピアノを通じて消化されているという感じなんですね。
 そのピアノは、なんというか彼の子どもの頃からのおもちゃ的な存在だったようです。まあ現代のモーツァルトって感じでしょうか。最近ではクラシックの演奏家としても活躍?している彼ですが、そのピアノスタイルはかなり自由ですね。まあ、とにかく上手い上手い。
 映像のせいかもしれませんけど、全ての曲、ほんとよく聴きこんだ曲ばっかりですけど、それらが、「ボーカルの伴奏付きピアノソナタ」みたいに聞こえました。そう、モーツァルトの「ヴァイオリンの伴奏付きピアノソナタ」みたいにね。いずれにせよ、人類が存続するかぎり語り継がれるであろう作品群でありました。うん、懐かしいより新鮮だったなあ。
 さて、私も毎日をこうして語り継がれるべき内容にしていきましょ。少なくとも自分の中では生き残っていくように。価値のある日々。というか、モー娘。…いや生徒たちの記憶に残るようにね。

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2006.04.07

『セブン』 デヴィッド・フィンチャー監督作品

B00005r6l801_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ 今日のニュースにもあった『ユダの福音書』。トンデモ本愛好者としては、たまりませんね。ついに出たという感じです。MacでWindowsって感じですか?(わけわからん)私なんか変わり者ですからね、どうもユダに同情してしまうんですよ。聖書があまりにひどい物言いなんで。
 私のみならず多くの人が、ユダなくしてキリスト教なし、と思っていますし、「裏切りはイエスの指示」というのは、キリスト教がけっこう過激な新興宗教であったという事情を冷静に認めれば、凡人にも想像できるレベルの戦略でしょう。だいたいその方が、純粋なるクリスチャンの方々は救われる。人を憎まなくてよくなるわけですから。
 でも、それを認めちゃうと、今度は他の福音書を残したあの方たちの罪をどうとらえれば良いか、という問題にぶちあたるわけで…。
 で、これについて語り(騙り?)出すとキリがないので、今日はやめときます。ただ、関連でこちらを久々に鑑賞。キリスト教における「悪」とはなんぞや。「罪」とはなんぞや。
 う〜む、やっぱり名作でした。完璧。オープニングからしてすごすぎ。脚本、演出、演技…動かしようがない。そのメッセージは、観た者を磔刑に処します。こちらも動けない。
 おそらく人類の創作した物語の中で、最も後味の悪いものの一つでしょう。後味が悪いということは、それだけ問題を残して終わるということです。
 実際に劇中で使われていますが、どうもこの最悪なストーリーの映画を観るたびに、バッハの音楽が思い起こされるんですよね。なんというか、冷徹な美しさというか、こちらの意思を超えたところでの、避けようのない物語性というか。残念だが動かしようがない真実というか。バッハってけっこう残酷なんです。
 そう、この映画のあの想像も出来ないほど最悪な結末のあと、私の耳はエンディングのロック・ミュージックを聞きながら、しかし私の脳内では、あのバッハの(G線上の)アリアがゆったりと、しかし冷たく響き渡っているのでした。
 もうご存知の方も多いと思いますが、この映画はキリスト教における「七つの大罪」をモチーフにした殺人事件を軸に展開するサスペンスです。ただ、よく間違った解釈をされている映画でもあります。七つの罪=七つの殺人、ではないと思いますよ。よく、エンディングが途中で分かってしまった、という発言を耳にしますが、それはおそらく正しい認識による予知ではないと思います。
 妻のトレイシーと胎内の子どもの死は、罪(嫉妬)の対象としての死であって、数に入れてはいけません。犯人が隠していると語った二つの死体とは、犯人自身とミルズのことでしょう。つまり、まだ死体になっていないわけです。しかし、この犯人の語ろうとしている物語の中においては、すでに確かな伏線が出来ており、つまり未来の二人の死はすでに隠されているというわけです。
 さらに、脚本の上手なところは、ミルズの死は肉体的な死ではないということです。ですから、ミルズの死体とは、まさに生ける屍、実は最も残酷な殺人の結果だとも言えるのです。七つの大罪の中で「憤怒」が最も罪深いということでしょうか。冷酷な犯人(ジョン=ヨハネか!)がラスト近くに激高するのが、実に象徴的です。
 この作品を評して、たとえば「羊たちの沈黙」に比べて、犯人の心理描写に弱い、などと言う人が多いですね。確かに表面的にはそうですが、私はそれこそがこの映画の狙いであると思います。理由なき完璧な物語の恐怖です。日常的な理屈を超えた、因のない果の集積こそ、「神」であり「悪魔」であったはずです。神の御名のもとに…これは、人間的な判断力を奪う呪文です。そういう意味では、悪魔の所業と何ら変わるところがありません。実際、日々のニュースを見ればよくわかります。こちらの神があちらの悪魔ですからね。
Hjj21 というわけで、最後、「憤怒」の償いはあまりに残酷です。救いようがありません。あるとすれば「死」だけです。しかし、それも叶わないでしょう。その不思議な余韻。どこかおさまりの悪い感じ。永遠に響き渡る属音…そう、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番の、あの不気味かつ冷酷な、人知を超えて壮大なるフーガの、実質的な最後の音が属音であるように…救いようがありません。残酷ですが、それが人の真実です。

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2006.04.06

『ぼくのつくえは木のつくえ』 丸新製作所

Top21 今日は上の娘の小学校入学式でした。私は仕事で行きませんでしたが、なんとなく職場で緊張してました。今年は私も1年の担任でありまして、なんかようやく入学式を迎える親御さんの気持ちがわかったような。期待と不安ってやつですかね。
 で、本日のおススメは小学校入学記念第2弾。第1弾はこちらでした。まあ、娘の小学校入学にかこつけて、自らの「こだわりの買い物」願望を満足させる、というなんともあざとい父親であります。
 第2弾は机ですね。学習机。実は先日の秋田行での収穫の一つなんです。むこうで何気なくローカルニュースを見ていたら、この製品の紹介をあるコーナーでやってまして、私はすっかり一目ぼれ。さっそく注文したというわけです。
 「ぴかちゃんらんどせる」もそうなんですけど、たとえば流行のデザインとか、今はやりのキャラものとか、見た目だけは豪華なのとか、そういうのには、私は興味がないんですよ。長く使えて飽きがこない、古くなればなるほど味が出て愛着がわく。そういうものが欲しいんです。子どもにもそういう目を養わせたい…なんちゃって。
 つまり、「をかし」じゃなくて「もののあはれ」なんですね。久々に出ましたな。
 子どもは「をかし」に走りがちです。仕方ないですね、時間の概念が希薄ですから。でも、大人になっても「もののあはれ」に目をつぶって「をかし」を追い続けるのはどうでしょう。それがいわゆるオタクです。「萌え」は現代的「をかし」ですからね。なんて、こういう私も、みなさんご存知の通り、けっこうオタクです。ほっとくと危険なので、あえて「もののあはれ」を重視してるふりをしてるわけです(笑)。
 さてさて、それはいいとしましょう。とにかく、この机、いいでしょう?いや実はまだ実物見てないんですよ。なにしろ大人気でして、一つ一つ手づくりですから焼く2ヶ月待ちです。6月の頭ころになりそうです。そういう「待つ」という行為自体いいじゃないですかぁ。現代において「待つ」ことこそ、お金を払って手に入れるべきなのでした。
 あっそうそう、待たされた第1弾「ぴかちゃんらんどせる」はもう2週間ほど前に手元に届きました。予想以上の素晴らしい質感です。さすがでした。私も満足。これから使い始めて、さらに良さを実感できるでしょう。机も届きましたら報告します。
 ところで、今日の入学式でも、ずっとビデオを回している方がいらしたとか。親御さんでですよ。私はいつも思うんですが、運動会なんかでも、いわゆるビデオパパにはなりたくないんですよ。これはポリシーです。
 記念にとっておくならば写真で充分です。それこそとっておきのシーンだけ切り取ればいいじゃないですか。最初から最後までビデオ回しててどうするんでしょう。それを最初から最後までその後何回観るんでしょう。だいたい、ビデオ撮影に一生懸命になっていて、式に参加してないじゃないですか。その大切な場を心を込めて共有する方が大切なことじゃないでしょうか。運動会にしても、ファインダーを通して自分の子どもばかり追い続けている。
 いや、それなりに「作品」を作る気になって本気で臨んでくれれば、それはそれでいいんです。ただ垂れ流しならぬ撮り流しによって消費されるテープの量が多すぎませんか?「コト化(固定)」したい欲求にまかせて、そこに満足するのは、やっぱり「オタク」です。
 だから動画を残したくても、最近の私はデジタル・ビデオ・カムは持っていかないんですよ。昔の8ミリのように限られた中での真剣勝負をしたいから。で、持ってくのはこの名機です。
 なあんて、つくづく私は変わり者ですねぇ。「こだわり」とか言って、自分の価値観に固執するのもまた、私にとっては「コト化」でありまして、つまりやっぱり私もオタクなのかと…。

丸新製作所

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2006.04.05

Mabu John Live at GET BACK

Mabu この前おススメした若かりしころのベスト盤にもたくさん登場したジョン・レノン。昨年の命日にもマニアックなネタ書きましたね。今日は、そのジョンが先月渋谷で行ったライヴのDVDを観ました。
 ってどういうこと?霊界ライヴ?そう言えば、昔テレビ番組で、恐山のイタコにジョン・レノンが降りてきて、「オラ、じょん・れのんダァ」って言ってましたな。感動しました。
 おっと、それはどうでもよくてですねえ、今日のジョンは、ジョンはジョンでもMabu Johnこと、馬渕英将さんであります。知る人ぞ知る「Perfect JOHN」ですね。
 ビートルズのコピーバンドというのはいくつもあるわけですが、中でも実力派として知られる「THE SILVER BEATS」。そこでジョン役として活躍しているのが馬渕さんです。彼が、ビートルズ専門店「GET BACK」の渋谷移転(知らんかった…竹下通りには何回か行ったけど)を記念して、同店でソロ・ライヴをやったんです。そこにいらしたファンの方がホームビデオでその模様を撮影してDVDにされた、そのDVDをビートルズファンの生徒が入手し、私に見せてくれたのでした。GJ!ファンの方&生徒!
 馬渕さん、さすがブライアン・メイとロジャー・テイラーに「Perfect JOHN」と称賛されるだけのことはある!私は今回初めて彼の動く姿、歌う姿を拝見したんですけど、やばいっすね。クリソツじゃないですかぁ。日本人にして、容姿までそっくりというのは、ヤバイですよ〜。しかも、歌声や歌いっぷり、さらにはギターのとちり具合まで(笑)ほとんど本人です。特に若い頃のジョンに…って、馬渕さん自体が若いんで。
 ほんと、びっくりを超えて感動してしまいました。乱入したポール(笑)の演奏も含めて、披露された曲は全部で16曲。ビートルズ時代の曲からソロ時代の曲まで、けっこうマニア向けな選曲で良かった。それもギター一本で聴くと、実に新鮮なんですね。いろいろと新発見もありました。
 こうして、彼の曲を続けて聴いてみると、ジョンの中に宿るブルージーな精神というものを、あらためて感じることができますね。ノーブルなブルースというものを確立したのは、実はジョン・レノンであったのでは…なんてことを思っちゃいました。それが白・黒・黄を超えて支持される理由なのかもしれない…。ちなみにポールは単にノーブルなメロディー・メーカーなんですね。
 それにしても馬渕さん、英語もお上手だし、ジョンの魂を受け継ぐリアルイタコとして世界に売り出したいですねえ。でも、ちょっと前にこれを見たせいでしょうか、時々ショーンのようにも見えました。やっぱり日本人だからでしょうか。

THE SILVER BEATS オフィシャルサイト

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2006.04.04

『スキージャンプ・ペア~Road to TORINO 2006~』

B000dz96es09_ou09_pe0_scmzzzzzzz_ これもまたお借りして観てみました。こちらですっかり食傷してしまった私としては、けっこう勇気を要しました。観賞後の感想は「ま、けっこう面白かった」でしたので、一安心。
 かといって、これを劇場で観たり、あるいは5000円払って買ったりするか、と聞かれれば、やはりノーと答えざるをえません。その程度の内容です。
 アイデアは悪くないと思いますよ。ドキュメンタリー風、もっと具体的に言うとプロジェクトX風。そんな感じで、偽ドキュメントを作るというのは、素人考えでもそう難しくありません。お金と時間があればいくらでもできますね。ある意味安易な方法と言えるでしょう。
 で、そこでいかにプロフェッショナルな仕事の流儀を見せるかどうかでしょう。その意味ではちょっと詰めが甘かったような気がします。
 ドキュメンタリーのリアル感というのは、自然な不自然さそのものです。つまり、日常がそうであるように、動きも言葉も予測不可能なアドリブの集積であるべきなのです。その点、残念ながら、あまりに芝居じみてしまったのは、主役である「原田教授」でありました。
 これが、CGにおけるジャンプシーンと同じように、あえて選択した流儀であったとしたら、ちょっとそのセンスを疑いますね。
 たまたま猪木も出てましたが、総合格闘技のイベントで、プロレスの試合を挿入するようなものでしょうか、CG部分は。それはそれで効果的であると思います。全体が作り物なわけですから。そう、猪木の存在自体もプロレス的で悪くなかったと思います(人によってはあそこで萎えちゃったでしょうけど)。
 しかし、原田教授(志賀圭二郎さん)の演技は、いかにも上手な演劇になってしまっていて、つまり、不自然な自然さになってしまっていて、せっかくのドキュメンタリー風部分のドキュメントテイストを殺す結果を招いています。こなれたプロレス流なわけです。原田兄弟を演じた益子兄弟が、その点あまりに上手な自然な不自然さを実現しているために、ちょっと残念な気がしました。
 もちろん、本当の素人である船木選手や八木さんが自然に不自然なのは当然です。荻原次晴さんは…ちょっと天才的なタレントを持っていますから、別だと思った方がいいみたいですけど。
 全体によく笑える内容になっているんですが、それがプロフェッショナルの領域にまで至っているかというと、ちょっと疑問でした。(僭越ですが)なんか私が考えそうなネタばっかりなんだもん(笑)!
 私とカミさん的には、皇帝の抱いていた黒豹(?)が一番萌えました。ウチの弥右衛門にそっくりだったんで。

Amazon スキージャンプ・ペア~Road to TORINO 2006~

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2006.04.03

『ナップヴァイーブ(居眠り防止アラーム)』 Takanoha &co.,Ltd.

Napvieeb NHKの「まちかど情報室」&「トレンド情報」は、今年度も継続しております。ただし、トレンド情報は8時頃に格上げ?され、より多くの方の目に触れるようになったと思われます。いいことです。GJ!NHK。
 今日の「まちかど情報室」で紹介されたこの居眠り防止装置、なかなか面白そうですね。私自身は一日一食にしてからというもの、めっきり眠気が来なくなり、よって仕事中の居眠りの心配はあまりありません。ただ、夕食を食べると反射的に眠くなるので、そうですねえ、あえて言えば飲み会の時とかに必要かも。
 あと、本来の目的、運転中の居眠り防止ですね。これは必要ですね。長距離ドライバーさんたちにも売れてるとか。私も秋田に行く時なんかに使おうかな。
 それと、なんと言っても、授業中に生徒に使わせたいですね。特に昼食後の5時間目とか。昔は目の下にメンタム塗ったり、ももに画鋲を刺したりして、眠気をこらえた、なんていうこともありましたが、今やハイテクの時代です。
 でも、ノートをとったりするためにちょっと下を向くとブーンってなっちゃうのかな。それは困るな。というのは、仕組みとしては簡単なんですよ。頭が前に傾くと、金属の玉がコロコロと転がってスイッチ代わりになるというものです。ということは、急ブレーキ踏んだ時にも、慣性でスイッチオンになるってことかな?まあ、そんな時は、ブーンとなっても構わないか。
 だけど、たまにいるんだよな。後に向かってガクッってなるやつ。口開けて。その場合は逆に装着しなくちゃね。両方感知するような新製品を作るとか。
 しかし、人間というのは、慣れという特技を持っているものでして、たぶん常習犯はブーンにも慣れてしまって、堂々と寝るようになっていくんだろうなあ。だから、回数を重ねると電流が流れて、それもだんだん電圧が上がるとかしとけば、しばらくは大丈夫でしょう。まあ、それは冗談としても、ヴァイブとトーン、さらに電撃みたいなのを選べたり組み合わせたりできればいいなあ。
 また、タイマー機能をつけておけば、目覚まし代わりにも使えますね。次のヴァージョンには、ぜひそのような付加価値をつけてほしいですね。いろいろと工夫次第では新しい商品展開ができると思いながら見てました。
 あっそうそう、私、会議とか講演とかの最中に眠くなったら、気づかれないようにあることをして眠気を退散させます。それは…「空気いす」です。そう椅子にすわったまま何喰わぬ顔をして、座面から1ミリだけお尻を浮かせるんですよ。これは気合いがいります。ついでに上半身にも思いっきり力を入れるんですよ。何喰わぬ顔でね。
 その何喰わぬというのが、実は一番難しいので、そんなことに一生懸命になっていると、あっという間に眠気は退散します。これはなかなかいいですよ。お試しあれ。ただし、運転中はやめましょう。永遠の眠りについてしまいます。

ナップヴァイーブ

耳にかけるだけで、角度感知装置が作動! 居眠り防止アラーム!ナップアラーム

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2006.04.02

『ムーンウォーカー』 マイケル・ジャクソン原案・主演・制作総指揮作品

 『MOONWALKER』 Michael Jackson
B000f3n5j001_ou09_pe10_scmzzzzzzz_ 「ばかの帝王」4連覇おめでとうございます。
 というわけで、信者さんよりこれを借りまして鑑賞してみました。
 なんじゃこりゃ〜。今まで何度も天才として紹介してきました(例えばこちら)が、これは…。いやはやホントに笑いました。やっぱり天才だよな。常人のなせるわざではない。
 とりあえずこれは映画ではないっすね。ヒーローになりたいMJが自分の夢を実現しちゃった、ってだけです。彼の脳内イメージってこんな感じだったということですか。ある意味非常に幼い感じですねえ。だから、笑えるんですよ。
 しかし、例えば子どもの時の夢を映像化するというのは、簡単なようでけっこう難しい。良夢であれ悪夢であれ。そう考えると、ある意味そのキッチュぶりも含めて、寺山の「田園に死す」と似てるのかもしれないなあ。一見全く似てないようですけど、実は同じカテゴリーでは。まあ、凡人が無理と思うことを実現しちゃうのが天才ってことですからね。
 で、そのマイケルのヒーロー願望ですけど、さっきも言ったように、とにかく子どもっぽい。世界征服を狙う悪の一味がいて、そいつらから超人的な方法で子どもたちを救う、と。
 超人的も超人的、当時最先端のCGを駆使して、車には変身するわ、ロボットには変身するわ、飛行機にはなるわ、もうメチャクチャです。笑うしかない。しかし、世界平和を標榜するわりには、やりたい放題殺しまくってましたね。愛と正義のためなら、いかなる方法でも悪を抹殺するという、まさにアメリカ的な発想です。実際、この作品ののち、アメリカはマイケル並の暴走を繰り広げます。
 また、この作品、子どもへの執着というか、子どもへの虐待に対する嫌悪のようなものを強く感じさせるんですけど、その後マイケルは子どもに対する虐待で訴えられるという、皮肉なことになるんですよね。
 あと、その子ども役の一人、ショーン・レノンも見ものです。とってもかわいいんですけど、なんかとってもノリが悪いんですね。いや、演技じゃなくて音楽的にです。やっぱり、ブリティッシュとジャパニーズのハイブリッドなんですよ。ブラックで横に揺れてる時に、一人縦ノリしてるんで、笑えるほど可愛いっす。
 最後の方の「カム・トゥゲザー」はかっこいいし、ショーンにお父さんの曲を披露するというのは、なかなかオツな計らいだと思いました。でも、ちょっとLSDっぽい曲ですし、ドラッグから子どもを救うという作品の最後には、ちょっと似合わないかな、とも感じましたね。いや、それがMJ的シャレなんでしょうか。
 このDVD,もうすぐプライスダウンするということで、まあパッケージング的にもだいたい適正価格になると思いますよ。一度観て笑う価値はあると思います。ダンスシーンはやっぱりすごいですし。

Amazon ムーンウォーカー

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2006.04.01

レミオロメン 山梨県民文化ホール SPECIAL LIVE

11 今日は4月1日。教師としては元旦みたいなものです。昨年はこんなふざけた記事を書いてますけど、今読むとなかなか面白い。自分で笑っちゃいました。
 で、ウソでも冗談でもなく、今日はレミオロメンの山梨凱旋コンサートが行われまして、ワタクシは運転手として、会場前までは行きました(笑)。そう、以前書きましたように、前から4列目真ん中付近という絶好の位置のチケットをゲットしておきながら、そのチケットをカミさんに譲ってしまったのです。なんといういい旦那さんなんでしょう。
 まあ、レミオロメン熱の高さでは私の負けですし、たまにはいい思いをさせてやろうか、日頃の労をねぎらって…ではなく、今後の日頃の労に期待するという意味での、いわば先行投資であります(?)。
 で、私は娘たちを連れて、甲府市内で時間潰しをしました。最初はレミオロメン関係で、「子ぎつねヘレン」でも観ようかと思ったんですけど、なんとなく子どもたちが乗り気でないので中止。結局、おもちゃ屋さんやら、郊外型大型店などでブラブラしてました。
 その間、カミさんは汗だくになりながら、歌って跳ねて叫んでいたようです。なかなか、すばらしいライヴであったようで、興奮冷めやらぬ彼女は、帰りの車の中でも歌いまくってました。めでたし、めでたし。
 で、演奏内容やら、MCの内容やらについて、いろいろとカミさんにインタビューしてみたんですが、中でもワタクシ的に面白かったのは、次の3点です。
 まず、MC全体に、山梨については、それほどいいことを言わなかったということ。別に彼らは故郷を嫌いなわけではないと思いますけど、やはり地元民に対して、それも自分たちの過去を知っている人もたくさん来てるであろう会場の人たちに対して、お世辞やゴマすりはできないということでしょう。これはこれで純粋な感じでいいと思いますよ。故郷をほめるのには、家族をほめるような気恥ずかしさが伴うものです。
 次。私が以前述べたように、やはり「粉爺」いや「粉雪」は音程が取りにくい。藤巻くんでさえも、アカペラになったところでやっちゃったそうです。それもまたよし。ほほえましいっす。
 あと、この夏に山梨で野外ライヴやるとのこと。夏の野外ですから、これは我が家の近くでしょうね。「粉雪ライヴ」をやったステラシアターは狭いですからね、コニファーでしょうか。今度は行ってもいいかな。5月発売のニューアルバムにも、そうとうの自信を持っているようですから、ちょっと楽しみですね。
 ps野外ライヴは我が家の近くではなく、某学園の飛行場でしたな…めちゃ意外でした。

地元山梨日日新聞の記事

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