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2006.03.31

『初孫 吟醸新酒 冬のカノン』 東北銘醸

Kanon 富士山への帰り道。山形の道の駅「鳥海」で思わず買ってしまったこのお酒。
 いやあ、「冬のカノン」ですよ。名前に思わず引き寄せられちゃった。なんというか、「冬の○○○(カタカナ)」と来ると、もうあれですよね。なんとなくですけど。
 で、冬のカノンってなんだろ?なんて冷静に考えてみても面白い。それも、本名は「初孫」ですからね。これは飲んでみたくなるでしょう。
Kanon2 裏書を見てみますと、こうなっております。クリックしてみてください。
 なるほど〜。今日たまたま出発前にテレビを観ておりましたら、モーツァルトを聞かせて醸す日本酒のことをやっておりました。池辺晋一郎さんがふざけて「ちょっと甘でうす」なんて相変わらずなこと言ってましたけど、なんだか味がまろやかになるとか。へえ〜、ですよね。ニワトリにも聞かせてましたね、モーツァルト。静かになってたくさん卵を産むとか。はあ〜、ですよね。じゃあ、学級崩壊の教室でモーツァルト流したらどうなるか。静かになるけど、たくさん子ども産んじゃったら困るよな、ははは。ま、とにかくモーツァルトはニワトリでも牛でも酵母でもわかる音楽ってことです。お子様以下ってこと?
 おっと、話がそれた。で、このカノン、カノンを聞かせてわけじゃないんですね。ちょっと残念。イメージで名づけたと。で、早速帰宅後に飲んでみました。
 うん、これはかなり強い吟醸香だ。非常にキレのある味わいですねえ。マリナーというよりMAKのカノンって感じですね。けっこう私好みです。スピード感があってのど越しもよろしい。スピードがあるだけに、少しずつちびちびと、といった感じのお酒です。
 ヨン様をイメージして買ってしまった奥様方には、ちょっときつめに感じられるでしょうなあ。どちらかというと「スキャンダル」のヨン様ってとこかな(わけ分からん)。
 「初孫」は山形を代表する銘柄ですけど、なんとも思いきったネーミングですよね。たしかに「初孫」は特別めでたいとは思いますが。酒田という土地柄もなんとも不思議な感じがありますし。歴史的にもいろいろなセンスが混合していますしね。
 今回は初「初孫」でしたが、もう少し、いろいろな「初孫」も攻めてみたいと思いました、ハイ。

東北銘醸株式会社

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2006.03.30

『天才花あそび』 赤塚不二夫 (人類文化社)

Tensai_hanaasobim カミさんの妹がお嫁に行ったのが増田町です。ここは漫画家矢口高雄さんのふるさとでもあります。「釣りキチ三平」の作者ですね。そんなゆかりでここには町営の「まんが美術館」があります。そこに行ってきました。
 建物はたいへん立派なんですけど、美術館はそのほんの一部でして、企画展がある時は別として、いつもはそれほど多くの作品が展示されているわけではありません。しかし、いずれ劣らぬ有名漫画家たちの原画を見られるというのは、マニアにとってはなかなか魅力的なのではないでしょうか。私はマンガのことはよくわかりませんが、とにかく皆さん基本的に絵が上手なんだなあ、という当たり前の感想を持ちました。中でも、私の心に残ったのは、高橋留美子さんの原画の中のサクラさんの妖艶な美しさでしょうか(笑)。あと、やっぱり変だなあ、上手いのかなあ、というのは諸星大二郎先生ですな。
 で、一通り見終わって、売店に行きましたら、いろいろと欲しくなるものがありまして、私は二つ買っちゃいました。両方とも今では入手困難な品です。
0381 まずは、ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの帽子(キャップ)です。これは可愛い。かなりオシャレです。私の坊主頭に見事にマッチして、妖しさ怪しさ倍増です。
042 そして、今回のヒット!赤塚不二夫大先生描き下ろしの花札「天才花あそび」です。これはすごすぎたぁ〜。たまりません。もう見ていただくしかないですね。画像をクリックすると細部までご覧頂けます(ちょっとピンボケですけど)。
 赤塚先生御自身もちゃっかり登場してますね。ホント遊ぶというより、1枚1枚観賞するという感じです。彩色も含めて非常に美しい。バカバカしいほど美しい。説明書にあるそれぞれの札の解説も面白いですし、オリジナルのカードゲームもバカすぎて楽しすぎです。うむ、これは家宝ですね。子どもたちも気に入って毎日眺めたり遊んだりしてます。素晴らしい教材です。遊びながら学べます。
 どれも素晴らしいんですが、1枚選ぶとすれば、やっぱりデカパンでしょう。雨のあの謎の絵柄をそのままデカパンにしちゃうなんて。あんまり自然なんで一瞬気づきませんでした。参った。
 と、こんなような、ちょっと都会じゃ手に入りにくくなったものが、「新発売」とか「新製品」とか銘打たれて売られている、そんなところも秋田の魅力ですね。

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2006.03.29

『うご町の地名 うご町の小字地名の解釈』 鈴木俊男 (書店ミケーネ)

Sany0036_21 今日もまた吹雪です。本当は雪解けの美しい山村風景を楽しめるはずなんですが、今年はちょっと特別ですね。とは言っても、昨年もこんな感じだったんですよね。今年は豪雪だと聞いていましたが、現在の積雪は昨年の半分くらいです。
 ここ、秋田県羽後町軽井沢地区は、本当に美しい農村です。日本の原風景と言ってよいと思います。里山と棚田、そして茅葺き屋根の民家が見事な調和を為しています。こちらに美しい写真がありましたので、ぜひ御覧下さい。いいでしょう。私のような東京の団地育ちにとっては、本当に心のふるさとであります。
Ugo1968 今日はちょっと古い写真などを見せてもらいました。ちょっとこれを見て下さい。これは私が4歳、まさに高度経済成長の東京、それも京浜工業地帯の横の近代的な団地で生活を始めたころの、当地の日常のスナップです。
 なんというか、あまりのギャップに驚くというか。いや、遅れてるとか、そんなじゃないですよ。東京でもあんな特別の環境の中で、現代日本以外の何も知らず、バカみたいに光化学スモッグにまかれながらコンクリートの上で遊んでいた自分の、なんというかなあ、根無し草具合にものすごく淋しさを感じたんですよ。
 それこそ今ごろなんだ、バカみたいと思われるかもしれませんが、私はこの軽井沢地区にものすごいノスタルジーを感じてしまったんですよ。外から来たもんがずうずうしく申し訳ないんですけど、正直がまんが出来ないほどに魅せられてしまいました。
 で、私はいろいろと知りたくなってきたわけです。ある意味どこに行ってもよそ者であった私は、たとえば現在の住まいのある山梨県の富士北麓地域についてもかなり詳しく調べました。地元の人よりもよく知っている部分もあると思います。それと同じように、この土地についても、どうしようもなく知りたくなってしまったんですよ。
 私はだいたいこういう時は、地名から入ります。字名を覚えたり、その語源を調べたりするんです。言葉、特に地名には歴史が堆積しています。それを調べるといろいろと分かってくるんですよ。
 そこで、今日はまず町立図書館で見つけたこの「うご町の地名」という本を書店で購入し、お義父さんと飲みながら、地図を作ってみました。私のカミさんの世代になると、もうこういった小字はほとんど分からなくなってしまっているそうです。だからこそ、こうやって書き留めておきたかったんですね。
 この本は、現在その町立図書館の館長さんでいらっしゃる鈴木さんが、先人の研究成果とご自身のフィールドワークや考察をコンピュータを駆使してまとめられた労作です。
 こうした郷土本というのは、往々にしてあまりの郷土愛のため、こじつけや思いこみによる短絡、恣意的な資料選定などに陥りがちなんですが、この「うご町の地名」は実に珍しく客観的な内容になっています。
 羽後町に残る1000以上の小字名全てを、その言語的構成要素、たとえば「山」「森」「谷」「才ノ神」などによって分類網羅しています。そうした編集方針には異論もあるでしょうが、たしかに面白い試みですし、地域ごとの分類ではないだけに、地名の本質的な性格が見えてきます。
 分類方法上、同じ字名が何回も出てきたりもしますが、コンピュータでの検索結果と同様に、それによる思わぬ効用もかなりあると感じました。また、東北の地名考にありがちな、「なんでもアイヌ語」傾向に陥らず、わからないものはわからないとし、また先人の説ももれなく掲載されていて、好感が持てます。
 地名の語源というのは、なかなか正解にたどりつけないものです。それぞれの思い入れによって曲がった方向に行きがちなんですよね。私も当地の近くに「仙道」とか「隠里」とか「天王」とかいう地名を見つけると、すぐに貴種流離に結びつけたくなりますし。
 しばらくこの本を読みこんで、ある程度頭にインプットしたのちに、実際に山の中まで歩いてみたいと思っています。今さらながらふるさとに出会えた喜びに興奮しています。

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2006.03.28

五輪坂温泉 『としとらんど』

Tosito41 いやはや、今日の秋田は暴風雪警報発令。ものすごい地吹雪です。これでも甘いらしいですけど、ワタクシのような根っからの太平洋側人間にとっては、4月目前のこの天候というか風景は、かな〜り新鮮であります。寒すぎ!
 雪が横から下から降るとはどういうことじゃあ!下から降るって言うのか?だいたい。フシギです。
 で、こんな時は行きつけの温泉へ。ウチのカミさんの実家は県南の羽後町の山ん中です。その山から里に下る新しい道が出来たおかげで、この温泉もとても近くなりました。
 「としとらんど」…言うまでもありません。以前も言及しました、秋田のネーミングセンスの妙です。妙…でも、これは妙すぎですよ〜!奇妙です。あまりにベタというか、こちらが恐縮します。
 で、ここはけっこう大きな施設なんですけど、お風呂自体はかなり小さめです。日によっては、お年寄りで一杯になって、やっぱり恐縮です。露天風呂など二人でちょうどいいくらいの狭さ。まさに恐縮です。
 そう、恐縮なんですよ〜ぉ!私にとっては。外国(!?)から来た若者(?)にとっては、ここはリラックスどころか、恐れ縮み上がる場所なのです。
 いや、悪口で言ってるんじゃないんですよ。あまりに強烈な旅情を味わえるのでありまして、私にとっては非常に興味深い、しかし恐縮するスポットなのです。
 つまりですねえ、具体的に申しますと、群れ為す地元のお年寄りの海に飛び込むのが、とっても勇気のいることなのです。だって、だって、話しかけられたら大変なんだもん!外国語ですから。もう何度も秋田に通ってますが、どうしても、地元のお年寄りの言葉は頭の中で文字に変換されません。文字化けします。
 ♨○?×▼※♪〒?卍□♧?☃♯……
 まず、音韻体系が違うんですよ。私も古い日本語の音韻なんかを勉強してますけど、それらとも違う。たぶん、国際的な発音記号では表せない音韻だと思います。
 というわけで、とにかくお風呂に人がいないことを願って行くしかないのです。今回は私のほかにあと二人ほどでしたので、ほっとしました。ふう。
 いつもはカミさんが通訳してくれるんですけど(彼女は3世代前くらいまでの秋田弁もOKの強者)、お風呂じゃ別れ別れになっちゃうでしょ。だから、恐縮なんですよ〜。
 で、入浴後がまたすごい。まあ、田舎の温泉ならどこでもそうでしょうけど、おっきな座敷があって(風呂の数倍でかい)、そこにその外国のおじいちゃんおばあちゃんたちが、満杯に詰まってるんですよ。今日もどこからか団体さんでバスでやってきたらしく、ほぼ満席状態。なんとか、空いてるところを見つけましたが、私などまさに陸の孤島、四面楚歌。いかにもエトランゼというオーラを出しているらしく、必ず声かけられちゃうんですよ。特に子どもと一緒だと。「あら〜めんこいこと」って感じで。私はなるべく気配を消してるんですけどね(笑)。
 でエトランゼだと分かると、一生懸命標準語に近い発音でしゃべってくれるんですが、どうも一度パニックを起こした脳では、なかなか文字化けが治りません。適当にニコニコしながらうなづいたりして。で、パニックがひどくなると、わけもわからず「んだんだ」なんて言っちゃったりして、もう逝っちゃってます。
 あと、戦慄が走るのはこれです。その座敷のお年寄り軍団、ビールなんか飲んでるんですけど、ある時間になると、みんな座敷にゴロンし始めるんですよ。一人寝始めると、まるで伝染病のように、みんなバタバタと倒れていく。最初そんな所にガラッと入った時なんか、まじで大量殺戮現場かと思いましたよ(失礼)。
 もうそうなると、私なんか、アザラシの群れに囲まれた、小さな渡り鳥みたいなもんです。
 本当はそんな様子を写真に撮ってこようかと思ったんですけど、さすがに恐縮しまして、やめました。
 ふう〜。という感じで、私にとってこの温泉は、天国のような地獄のような、とにかくこの世のものとは思えない風情なのであります。としとらん、どころではなく、生きた心地がしません(笑)。でも、また行きたくなのるはなぜ?

としとらんど紹介記事

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2006.03.27

「(私的)70年代80年代名曲集」

Ericg さて、本日から秋田旅行であります。いつものとおり、富士山を出まして、長野、新潟、山形を経由して秋田へ。12時間弱の車の旅です。
 家族はクルーズの後部座席でぐーすか寝てますから、起きるとだいたい秋田県入りしているという、まるでどこでもドアのような魔法のトリップなんですよね。で、私はひたすら運転する。運転は大好きですから、12時間でもまだ物足りないくらいです。長距離トラックの運ちゃんとかできるかもな。
 で、これもいつものように、ETCの通勤割引と深夜割引を使いますので、とにかくいつもは寝ている時間に運転するわけです。そうすると、さすがに眠くなる。で、音楽を聴くわけです。こんな場合は聴き入ってしまう音楽が最適ですね。
 音楽はこいつに詰め込んであります。その中のこれ。これが一番寝ない。あまりに名曲ぞろいで気を抜けない。
 実はこれ、私が高校〜大学のころに私的ベスト盤として、カセットに編集して聴いていたものを、新しい音源などを手に入れたりして再構成してものなんです。なかなか渋い趣味してますなあ、当時の私。曲目を紹介します。

VOL1
1 エルトン・ジョン 「ユア・ソング」
2 ボズ・スキャッグス 「ウィー・アー・オール・アローン」
3 ベット・ミドラー 「愛は翼にのって」
4 プレイヤー 「ベイビー・カム・バック」
5 ジョン・レノン 「ウーマン」
6 オリビア・ニュートン・ジョン 「そよ風の誘惑」
7 イーグルス 「ホテル・カリフォルニア」
8 カーペンターズ 「イエスタデイ・ワンス・モア」
9 エア・サプライ 「ロスト・イン・ラヴ」
10 エリック・カルメン 「オール・バイ・マイセルフ」
11 アン・マレー 「辛い別れ」
12 サイモン&ガーファンクル 「スカボロ・フェア」
13 ELO 「ビッグ・ウィールズ」
14 プロコルハルム 「青い影」
15 ジョン・レノン 「グロー・オールド・ウィズ・ミー」

VOL2
1 ビートルズ 「レット・イット・ビー」
2 ビリー・ジョエル 「素顔のままで」
3 デビー・ブーン 「恋するデビー」
4 10CC 「アイム・ノット・イン・ラヴ」
5 ギルバート・オサリバン 「アローン・アゲイン」
6 ビートルズ 「イン・マイ・ライフ」
7 クイーン 「ボヘミアン・ラプソディー」
8 ジョン・レノン 「ラヴ」
9 スティービー・ワンダー 「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」
10 ベット・ミドラー 「ローズ」
11 サイモン&ガーファンクル 「明日に架ける橋」
12 エリック・クラプトン 「レイラ」
13 ジョン・レノン 「イマジン」
14 エリック・カルメン 「アイム・スルー・ウィズ・ラヴ」
15 デビッド・ゲイツ 「グッバイ・ガール」

 う〜ん、微妙に60年代も入ってるな(笑)。しかし、たしかに名曲ぞろいですねえ。当時はFMステーションか何かに印をつけながら、一生懸命エア・チェックしてたんですよね。懐かしいなあ。いろいろと思い出しながら夜の日本海沿いを走るのもなかなかヲツなものです。こりゃあ眠れませんわ。
 今見ると、ジョン・レノンが多いですね。それから、ブラックはスティービー・ワンダーだけですか…なるほど。渋いのはエリック・カルメン(写真)の「アイム・スルー・ウィズ・ラヴ」かな。日本でシングルカットされたんだっけ…?

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2006.03.26

『「みろくの世」―出口王仁三郎の世界』 出口王仁三郎言行録刊行委員会 (編集) 上田正昭(監修) (天声社)

4887560680 もういっちょ、偉人関係。こちらもある意味西洋文明と格闘した?いや、格闘じゃないな。完全に呑み込んじゃった。これもうまい、あれもうまい、これとこれを混ぜてもいける、って感じで、全部胃の中に放り込んで、それで血肉にしちゃった。胃潰瘍や神経衰弱とはとんと無関係。おそるべし。
 そう、私の中での最大最高のカリスマ、出口王仁三郎です。まあ、この人ほどスケールの大きな人は、世界史上にもいない。なのに、いろいろな事情により、正当に評価されていない、いや、それ以前に不当に知られていない人物です。
 やっぱり教科書に載ってないというのと、マスコミでとりあげにくいというのが、その原因でしょうね。いちおう宗教が絡みますし、皇室や軍部との微妙な関係なんかもありますからねえ。崇高・高尚よりもエロ・グロ・ナンセンスの方が目立ちますし。難しいのはわかりますけれど。
 でも、知る人ぞ知るなんですよね。また、至るところ、宗教界はもちろん、経済界、政界、芸術界なんかに、大きな地下水脈ができてますからね。今の日本を支えている一人なんです。オニさんも、それでいいと思っているでしょう。
 で、この本は、人類愛善会創立80周年記念として出版されたものでして、オニさんの言行や、その周辺の人々のオニ評などを集めたものです。全体を通読しますと、初めての方でも、オニさんの人生と思想、そして業績なんかの全体像が、なんとなく見えるようになっております。入門には最適でしょう。私には座談会録が特に面白かった。
 ふだん私は、肩書きとか権威みたいなものを前面に押し出すのを好まないのですが、今日はすみません、ちょっとそれらを使わせていただきます。なにしろ、オニさんのことを説明するのは非常に難しいんで。コマーシャルな宣伝風に行かせていただきます。
 この本(帯も含めて)で、王仁三郎について語っている人を、その言葉のエッセンスとともに紹介しましょう。つまり、こういう人たちが口を揃えて「すごい」と言ってるということです(なんか手抜きですけど)。肩書きは現、元、当時いろいろごちゃまぜです。宣伝ですから。

 吉川英治(作家)…千年に一人出るか出ぬかという人物だ
 島薗進(東京大学教授・日本宗教学会会長)…器が大きすぎて、呑み込まれずに近づくのはむずかしい
 上田正昭(京都大学名誉教授・小幡神社宮司)…すぐれた芸術家であり、傑出した思想家であり、しかも世界屈指の宗教者であった
 真渓涙骨(中外日報社主・僧侶)…羽目のはずれた脱落超凡の超人的野人 えたいのわからぬ怪物
 牧野虎次(同志社総長)…輪郭があまりに大きく、尋常の規矩では、到底測り知ること能わない 
 今東光(作家・中尊寺貫首)…天馬空をいくというのに当たっている
 柴田実(京都大学教授)…茫漠としてとらえどころのない、それでいてどこか人を魅するところのある不思議な人間
 高山義三(弁護士・京都市長)…会えば会うほど大きい人物
 前川佐美雄(歌人)…王仁三郎は詩人である これほどの詩人はめったにない
 谷川徹三(法政大学総長・哲学者)…彼はどこまでも創造者である
 木村重信(大阪大学教授・兵庫県立美術館長)…(ようわんについて)その破格の美に衝撃をうけた
 梅棹忠夫(国立民族学博物館顧問)…あまりにも破天荒で、強大な牽引力をお持ちだった (ようわんについて)完全にお手上げ 甲を脱ぎました
 山折哲雄(国際日本文化研究センター名誉教授)…不世出の宗教家 自分を演出するという芸術家的な資質を持つ人間

 いやはや、そうそうたるメンバーですね。私も受け売りでなく、全く同じ感想を持ちます。みなさん、偉い方々なんですけど、言ってることが…。
 そう、出口王仁三郎、そろそろ学問的な研究対象になってもいいはずですが、なにしろスケールが大きすぎて、どこから手を付けてよいか、また、どの分野からアプローチしてよいやら、さぱ〜りわからないという状況なんですね。「コト」にならない「モノ」。言葉にならない「もののけ」。
 私など、いちおう専門である日本語や物語論から「霊界物語」を料理してみたい、なんていう衝動にかられるわけですけど、目前の素材が、すでに素材以前の「モノ」、つまり自然というか世界そのものの様相を呈しているので、もう呆然とするしかないのであります…トホホ。
 もうこうなると、その世界に身をゆだねて、そこに遊ぶしかないんですね。遊びつつ学んでいく、なんか自分が子どもにかえったようになるわけで、そこに実に日本的な母性を感じるのでした。うん、やっぱり日本って、王仁三郎って、母なんだよなあ。そういえば、女装?もけっこう好きなんですよね、オニさん。
 ぜひ、皆さまも一度、この布袋様のような母のおなか?に抱かれてみてはいかがでしょう。

Amazon みろくの世

吉岡発言

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2006.03.25

『孫が読む漱石』 夏目房之介 (実業之日本社)

440853479X 今日もまた昨日の続きですかね。西洋文明と格闘した知識人。
 なんで、こんなにいろいろと考える時間があるかといいますと、実は今合宿中なんです。1日中生徒たちは黙々と勉強していますので、私もたっぷり時間が取れます。したがって、黙々と観たり読んだり考えたりできるというわけです。
 で、今日はこちらの本を読んでみました(他にも3冊ほど読んだ)。たいへん面白かった。面白い上に勉強になりました。これはおいしいことです。私はいつも思うんですよね。本って、そうあるべきだって。読んで楽しく、勉強になる。そうじゃないと、私は読まない。楽しいだけでもダメだし、勉強になるだけでもダメ。わがままでぜいたくな読者です。
 この本は、そういう意味で屈指の名著でしたね。なんというんでしょうか、とにかく、心がこもっている。リキが入っている。だけれども、押しつけがましくなく、優しい。
 心がこもりリキが入る理由は容易に想像できます。だって、おじいちゃんのことを書かなきゃならないんだもん。で、そのおじいちゃんが、あの文豪なんですから。
 また、押しつけがましくなく、優しい理由もわかりました。やっぱり、おじいちゃんだから。
 これが結局希有な名著を生む原因になってるんですね。単に文豪に対する批評だったら、それはリキんだあげくに玉砕っていうパターンになるでしょう。あるいは、房之介さんも言及されているように、漱石の多様性に呑み込まれて、結局手のひらの上でクルクル廻ってコテっていうコマみたいに終わっちゃう。
 というわけで、血のつながっている人、それも世界レベルでの有名人について書く、その決意と実行だけでも、私にしてはもう尊敬に値するわけですが、それを、適度に縁者的に、また適度に第三者的にこなした、ということは、ほとんど驚嘆すべきことです。
 そこのところがこの本のリアリティーなんですよね。普段の房之介さんの漫画批評とは一味違う。いつもながらの鋭い考察の中に、ふと、おじいちゃんへの、そして自分への愛情が顔を出す。そこに私などは安心するんです。文豪が房之介さんを通して、ものすごく身近に感じられた。こういう経験は本当に初めてのことでした。文豪という記号が崩壊する、いや、そうじゃないな、記号の意匠が変わった感じですね。あのクソ真面目な、近代自我的な、千円札的な漱石像が、一瞬にして漫画調になる感じ。
 そんなふうに思ったとき、ふとこんな考えも浮かびました。漱石が晩年封印したユーモアと俳味なリズム感は、孫のために取っておいたんではないかって。そうだとしたら、実にうらやましい遺産ですね。
 内容の詳細についても、感心しきりであったわけですが、今日はそんなことよりも、もっと根源的な快感を味わうことができて、なぜか爽快であります。

Amazon 孫が読む漱石

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2006.03.24

『日本人はなぜ日本を愛せないのか』 鈴木孝夫 (新潮選書)

4106035596 昨日の寺山での「虚構」と「現実」についての考察、自分でもよくわからないことになってますね。そう、そんな雰囲気が寺山的で心地よいわけですけど。寺山的というのは、つまり「コト」的なんですね。妄想も形にする(語る)と「コト」になるわけですよ。
 昨日の私は兼好だったわけです。ものぐるほし。なんだかわからん外部のモノからの影響で、思わぬコトが脳内にひらめいちゃう。多くのクリエイティブな偉人たちが経験したことでしょう。それを、ちょっとだけ体験した。低レベルだけれども。
 で、そんな「ものぐるほしき」体験が、また別の偉人の「御言葉」に結びついた。かの大明神の「言霊」です。
 この鈴木孝夫大明神の最新刊については、もちろんいち早くおススメしたかったわけですが、あまりに正しいことをあまりに直截的におっしゃってしまっているので、ちょっとこちらが怖じ気づいてしまっていたのでした。畏れ多いというか…。
 昨年初秋、ワタクシは幸福なことに大明神と酒席を共にさせていただきました。そして、たっぷりの言霊を前身に浴びさせていただきました(その日の記事は諸般の事情で現在閲覧できなくなっておりますが、近いうちに編集して公開いたします、ハイ)。
 その記念すべき日に頂戴したお話の内容が、より具体的な形で示されているのが、この本でした。日本人に日本人である誇りを取り戻させ、日本のあるべき姿を提示した内容です。「国家の品格」よりも具体的でしょう。
 盲目的な欧米礼賛の悪癖をただし、日本古来の魚介型文明、植物的原理文明をもって、世界を正しい方向へ導こう、地救原理で生きよう、という、今までの大明神様の社会論、文化論、言語論、環境論などの集大成的な内容です。それを、編集部との問答調で、私たちにもわかりやすく開陳してくれています。いつもながらの、多岐にわたる具体的なエピソードと、歯に衣着せぬ痛快な語り口で、読む者の心をつかみます。
 けっこう世間では問題発言と取られそうな御言葉も多いのですが、直接お話をうかがった印象からすると、それでもかなり抑え目なような…(笑)。
 鈴木先生にとって、東西比較はお手のものです。いろいろなコントラストを様々なキーワードを駆使して明らかにしてくれていますが、中でも今回印象に残ったのは、「ファクト」と「フィクション」という対照ですね。
 昨日の寺山で言うと、「現実」と「虚構」ということです。で、西は「虚構」であり、東は「現実」であると。つまり、ワタクシ的に申しますと、西は「コト」で東は「モノ」ということです。何度もしつこくて申し訳ないのですが、自己の内部が「コト」です。外部が「モノ」です。
 「虚構」の最たるものは「理屈」だと大明神は語ります。つまり「論理」や「言語」…ワタクシ的にまとめてしまうと「(言の葉)コトノハ」ですね。いつか「コトノハ=メディア」と書きましたが、一度人間の脳を媒介したものは全て「コト」に属するんです。
 鈴木先生は、一方の「ファクト」を「理屈や抽象(捨象)といった処理を受ける前の、いわば素材としてのあるがままの事物や現象」と説明しています。これは、私の言う「モノ」の定義と全く同じですね。そして、日本人はフィクションよりもファクトを重視すると。
 お会いした時にも、こんなようなお話をさせていただきました。レベルは違いますが、ある意味同じことを考えているのだなあ、と感激いたしました。この本にも出てこないような、コアなお話も含めて、私の本当に大切な宝物ですね…忘れられないあの夜。
 やっぱり、これからは「モノ」の時代だよなあ…。誰かの脳を通過した「コト」は、その人による編集を経ているわけですから、誰かにとって必ず「騙り」になってしまう。万人に普遍な「コト」、つまり「マコト(真・誠)」は理想であれ、現実にはありえないわけですね。
 というわけで、この本は日本人なら読まなきゃ。最後は「防人」「鎖国」なんていう御言葉まで飛び出す、すごい展開になりますけれど、最初から読み進めれば、それらも自然と納得されるものとなるでしょう。
 「国家の品格」を読まれた方は、ぜひこちらも御一読を。二冊合わせれば最強ですよ。

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2006.03.23

『田園に死す』 寺山修司監督作品

B00005OO63 ようやくDVDを買いました。そして、久々に観てみました。もう、おそらく50回は観ているであろう作品なのですが、これほど鮮明に「わかった」のは初めてでした。やはり歴史に残る名作でした。
 寺山修司について語るのはほとんど無意味でしょう。あまりに語り尽くされて語るまでもない、と同時に、ある意味語ることが非常に馬鹿げている存在だからです。今日はそれを確認しました。
 この映画は見事な「歌物語」です。テーマ自体が「モノガタリ」なのであって、それは「真(マコト)」に対する勇敢な挑戦でありました。
 今まで、この作品を相対化して観ることができなかった。劇中で、「対象化することによって対象は見世物になってしまう」という物語の本質を突きつけれた私は、それをする勇敢さに欠けていたために常に立ち止まり、一歩を踏み出せないでいたわけです。つまり、劇中の20年前の「私」であったのです。
 今回、初めて、現在の「私」の立場でこの映画を観ることができました。見世物を見世物として観ることができた、ということが、私の何を象徴するのか、49回目の鑑賞者と50回目の鑑賞者とは何が違ったのか、それは、はっきりとは言えません。そこのところまでは、対象化する勇敢さはまだありません。
 最近の私は、自分の「物語論」を通じて、「モノ」と「コト」を対比して、それこそ物事をとらえるクセがついています。そうした観点から寺山作品をとらえると、面白いことがわかります。つまり、寺山的に言われる、「夢」と「現」、「虚構」と「現実」、「演劇」と「実生活」などが、それぞれ「コト」と「モノ」に対応しているということです。
 実は、今までの、というか、若かりしころの私は反対だと思っていたんですよ。たとえば、「夢」が「モノ」で「現」が「コト」だと。「夢」がぼんやりしたモノで、「現」がはっきりしたコトだと決めつけていたんですね。しかし、違った。
 脳内で起きる全ては「コト」なんですよ。それに対して、自分の外部で、自分には全く依存しない形で生起し、存在し、変化し、消滅していくのが「モノ」なんですね。だから、記憶は「コト」であり、未来は現在の自分にとっては「モノ」なのです。
 見世物とは「モノ」を「見せる」、つまり鑑賞者にとっての外部(記憶にないもの)を見せる行為だということですね。それは、違う言い方をすると「モノ」を「カタル」こと、すなわち「モノガタリ」になるわけです。ですから、この映画は「物語」をテーマにした「物語」であり、「見世物」をテーマにした「見世物」ということになる。
 そう考えると、ペテン師のようだと評される寺山は、実は非常に善意に満ちた人物だったということがわかります。それは「物語」「見世物」を、いかにも「真(マコト)」のようには語らず、どう見ても「作りゴト」であるとわかるように語ったからです。つまり「騙り」ではなかった。その善意こそが、「マコト」への挑戦を可能にした「勇敢さ」だったのです。
 劇中でも、「頭の中で思ったことはすでに現実だ」みたいなことを言わせていますが、そう言いきってしまうところに、彼の善意が感じられます。現実は「コト」です。自分に依存した「コト」です。正しい表明ですよね。
 寺山の人生は、まさに見世物小屋でした。いや、仕事が見世物だったということでしょうか。彼はウソを商売としていた。実に善良な嘘つきであったのだと、今日よ〜くわかりました。「騙り部」ではなく「語り部」でした。陸奥の語り部…やはり尊敬すべき人です。
 なんか、こうして書いている私自身、つまり、私の脳の中と、それを語ったこの文章が、もう「寺山的」になっているわけで、こうした効果自体こそ「ものぐるほしけれ」…なんですね。外部からの影響。自分の意識(コト)とは別のところで何かが起きている。「物語」の効果であり、快感であります。今日はいくらでも語れそうな気がしますけれど、自分以外の人にとっては大迷惑でしょうから、このへんでやめときます(笑)。
 最初に書いたように、寺山について語りだすと、いろいろな意味で馬鹿げたことになりますね。語り部になっちゃう。私には違う仕事があるんで、やっぱりやめときますわ。
 でも、最後に、今回初めて知ったコトを一つ。今までなんで気づかなかったのかなあ。ミスター・ポーンに膨らされるあの空気女、あの高山良策さんの制作だったんだ!大魔神やウルトラシリーズの怪獣たちの造型作家さんですね。私にとっては、ある意味郷土の英雄ですから。ホントにビックリ。

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2006.03.22

『増量・誰も知らない名言集』 リリー・フランキー (幻冬舎文庫)

4344401859 イチロー君へ「野生のような鴨になれ」−長嶋茂雄。ある意味昨日の続き。天才たちの名言集です。
 昨日はさんざん天才の「品格」について語りましたが、今日はこれを読んだおかげで、ホンモノの品格とはなんなのか、さぱ〜り分からなくなりました(笑)。この振幅こそ人生の悦びあります。
 なにしろこの本では、あの王監督も、旅館の畳の上でブリーフ一丁で一本足、というあまりに上品な姿で登場します。まあ、ふんどし一丁で刀を振れば、それはそれで武士道か。
 冒頭に挙げたカリスマのお言葉は、腰巻きに書かれているんですけど、本体にはこんな上品な言葉は一切出てきません。上じゃなくて下の品の連発です。
 歴史的人物をかえりみるまでもなく、天才と呼ばれる人々が「上」にも「下」にも、そのカリスマ性を発揮していることは、誰もが認めることでしょう。例…赤塚不二夫。英雄色を好む。生物としての優性の法則。
 ここで、リリーさんによって紹介されている天才、カリスマ、英雄たちは、はっきり言って市井の人々です。ですから、歴史的には全く名を残さないであろう人々です。その人々のお言葉ですから、それは確かに「誰も知らない」。
 しっかし、世の中にはすごい人たちがたくさんいますなあ。昨日も自分の小ささみたいなものを感じさせられましたけど、今日はある意味もっと自分が矮小化しました。ヒュ〜ン…松坂慶子の鼻の穴の中に入っていくウルトラセブンのように…。
 リリーさん自身ももちろん天才であるわけですが、まあ、なんというか、類は友を呼ぶというか、同じ穴のムジナというか、集まるところには集まるんですなあ、ヘンな人々。その何気ない(普通人にとっては全然フツウじゃないんだけど)生活の中の何気ない(これも同前)お言葉を聞き逃さず、短いエピソードながら、長編小説にも負けぬ人生の機微を表現してしまうリリーさんのセンス。もう、ホントに自分なんて…って世界です。
 それにしても、在野の天才たちの名言とそれにまつわる風景をこれだけ見せつけられると、なんか切なくなっちゃいますね。最初は大笑いしてましたが、後半になるとなぜか切なくなる。「をかし」が「もののあはれ」になっていく。やっぱり「をかし」が積分されて「あはれなり」になっていくんだな、って思いました。これって、男の世界だよな。たぶん女にはわからないでしょうねえ。
 天才と変態のボーダーってどこにあるんでしょうね。リリーさんなんかも、その見えないボーダーのほんのちょっとこっち側にいるだけですよね。一歩間違えば…です。そこんとこのさじ加減というか、結局は理性であるような気もしますが、なんなんでしょうねえ、ある意味勇気のなさというか、この世への未練というか、引き際というか、そういうものが鍵なんだと思いました。それの加減ってぜったい家庭でも学校でも教えてもらえませんよね。
 最後に一言。各名言に英訳がついているんですが、それがなかなか上手です。しかし、名言本体の、つまり日本語の豊かさには到底かなわないように思いました。日本語は「切なさ」を表現する天才ですな。あっぱれ。

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2006.03.21

WBC決勝&「テレビは誰のものか」〜本日の名言!?

20060321-04334795-jijp-spo-thum-001 王ジャパン素晴らしかった。久々に野球少年の心が踊りました。皆が感じたことでしょうが、少年の頃見た野球(ちょうどON時代ですけど)はあんなふうだったんですよね。一所懸命。憧れであり尊敬の対象でした。
 さて、祝勝会でのイチローのインタビューがよかったですね。
 「王監督の野球人としての素晴らしい品格を…」
というやつです。「品格」出ましたね。非常にタイムリーな発言だったと思います。タイムリーですし的確です。
 このブログでも大変なブームになっている「国家の品格」。そこに書かれていたことが、いろいろな意味ではっきりと表れた大会であったと思います。市場原理とは強いもの勝ちの世界です。ただ勝てばいいの世界です。日本チームはそこに独特の精神性を持ち込んだ。ある意味「武士道」であったかもしれません。
 細かくは書きませんが、例えば、ダッグアウト内の映像を見ても、他国との差は歴然でした。ドーピング説までささやかれる某国のベンチの映像は、まさにその国の街の風景と同じ、ゴミだらけ。日本は実に整然としていましたね。
 なんて、こういうことを書き出すとキリがないので、このへんで。
 というのは、感動さめやらず祝杯を上げながら、Nスペを観たんですよ。そしたら、とっても面白かった。そちらでも「品格」がキーワードになっていた。いや、誰も「品格」なんて言葉は出していませんよ。私の中での話です。
 このNHKスペシャル、放送記念日特集ということで、「徹底討論 テレビは誰のものか」と題された討論番組でした。前半は「通信と放送」の関係について、後半は「NHKの公共性」について話し合われていました。なかなか白熱し、「真剣50〜60代 しゃべり場」みたいな感じで非常に楽しめました。メンバーは、

テレビ東京社長・民放連副会長…菅谷定彦
通信・放送の在り方に関する懇談会座長、東洋大学教授…松原 聡
ノンフィクション作家…吉岡 忍
慶応義塾大学教授…金子 勝
スタンフォード日本センター研究所長…中村伊知哉
漫画家…里中満智子
NHK解説主幹…今井義典
【司会】桂 文珍  渡邊あゆみ

という感じでした。あと、後半はNHKの偉い人も一人加わってましたね。
 ちなみに一番共感できたのは、里中さんでした(笑)。いや、まじで。さすがだと思いました。比喩がうまい。逆にワタクシ的に一番痛かったヤツは…いかにもしゃべり場的な松原さんでした(笑)。
 さてさて、「通信と放送」のことについては私はかなり強い意見を持っています。結論だけ申しますと、融合反対です。棲み分けしてほしい。
 ワタクシ流「物語論」的に申しますと、全てメディアと称されるものは「モノ」を「カタル」ための「コトノハ」であります。外部を内部にする、未知を既知にするための手段です。テレビもインターネットのサイトもそうです。
 「モノガタリ」には非常に強い力が働きます。例えば、今回の一連のイチローの発言。それらが日本チームや日本人に与えた影響を考えればわかると思います。しかし、「カタル」ことは「騙る」につながる可能性もある。そこが問題なわけですね。某IT関連会社社長さんや某議員さんに関わる言葉を思い出しましょう。
 私が今回思ったのは、「カタリ」における「騙り」の少なさこそが、「品格」につながるのではないか、ということです。番組では盛んに「公共性」という言葉が使われておりました。それぞれの論者によってそれぞれの定義があって、まったくまとまらなかったのですが。私は、そこで「品格」こそ「公共性」であると思いました。つまり、「騙り」のない世界へのアプローチこそが「公共性」の条件であるということです。
 私は、この討論自体がどうも「騙り合い」になっているような気がしてなりませんでした。一番大切な、受けとる側の「品格」が問われていなかったからです。どちらかというと、我々にはその能力がない、発信者こそがそれをフォローすべきだ、というような上からの態度が気になったのです。私は、受けとる側こそ、正しいものを選択する「賢さ」や「品格」を備えているべきであると思ってるんですね。で、学校では、それを目標に授業をしているわけです。ホンモノを見分ける力を付けさせたい。
 そういう意味でも、私は放送が通信のようになるのには反対です。見たい時に見たいものを見る。ある意味これは最も危険なことです。受けとる側の思い通りになるというのは「豊かさ」ではありません。こちらの記事に書いたように、望まない「モノ」を望まない時間に受けとらねばならないことこそが、「セレンディピティー」の可能性を生み、想定外の成長を約束するのです。もちろん、マイナスの可能性もあります。だからこそ、こちら側に「賢さ」や「品格」が必要なんですね。結局、そうすると「教育」の重要性がクローズアップされてくるわけで、ちょっと辛いんですが。
 市場原理はある意味「騙り合い」の世界です。そこには「品格」はありません。勝てばいい世界ですね。手段は選ばない。商売の世界も放送の世界も同じです。多くの民放は視聴率=スポンサー確保が至上命令となって久しい。
tvtk というわけで、イチローや王監督も含めて、今日の名言の中で最高だったのは、これです。テレビ東京社長の菅谷さんのこの一言。
「たしかにNHKとテレビ東京を除けばね、大衆迎合路線が多いのは事実です…」
 これはすごい!!しゃべり場メンバーたちも瞬時に大笑いしてましたし、文珍師匠もすばやくツッコミを入れてましたが、菅谷さんはなぜか大まじめ。全く笑いもせず、「その通りです…」と続けてました!
 もう、私は腹がよじれるほど笑いたかったのですが、よく考えてみると、これは「騙り」ではないかも。オウムの時も震災の時も、平然とアニメやB級映画を放映し続けたテレ東は、たしかに大衆に迎合していないと言えるかも…。いい味出してますねえ。
 今日は、長々と、また、あっちこっち話が行ってすみませんでした。酔っぱらってるんで。ああ、それにしても野球って面白いなあ…。

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2006.03.20

『やぎさんゆうびん』(童謡が示す人間の未来!?)

4895883612 まど・みちお作詞、團伊玖磨作曲のこの曲、みなさんよく御存知ですよね。「白やぎさんからお手紙ついた…」ってやつです。
 この歌に限らず、いわゆる童謡というものを、無垢ならぬ大人の邪心で読むと、いろいろと謎が出てきたり、ツッコミどころが出てきたりして、なかなか面白いことになりますよね。全く迷惑な老婆心切であります。
 で、このスタンダード・ナンバーにもいろいろと謎があるようでして、多くの大人が無駄な想像に遊んでいるようです。白やぎさんの最初の手紙にはなんて書いてあったか、とかね。
 よく言われるのは、この曲に3番以降があっても、結局双方ともついた手紙を食べちゃうので、永遠に終わりが来ない、ということです。そりゃそうだ。
 馬鹿な大人の代表格を自任するワタクシは、そんな考察にさえツッコミを入れて、腹がいっぱいの時には食べないだろうとか、いずれいずれかが死ぬので永遠はないだろうとか、だいたいなんで自分が書いた手紙は食べないんだろうとか、どうでもいいことを抜かすわけです。
 で、さらにこんなことまで考えたんですね。もし、やぎさんたちが過去の過失を反省して行動を改めたらどうか、って。
 つまり、「ああ、この前は読む前に食べちゃって困ったんだ。今度は読んでから食べよう」って思ったらということです。食べない、じゃなくて、読んでから食べようの方が、やぎ的リアリティーがある。
 しかし、ちょっと考えてみると、この反省には意味がないんですね。これは発見でした。こういうことです。わかりやすくするために各手紙に固有のアルファベットを付します。

白やぎさんから お手紙(A) ついた
黒やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙(B)かいた
さっきの 手紙(A)の ご用事 なぁに

黒やぎさんから お手紙(B) ついた
白やぎさんたら 読まずに 食べた
しかたがないので お手紙(C)かいた
さっきの 手紙(B)の ご用事 なぁに

 さあ、ここで3番があると仮定してみましょう。白やぎさんが書いた手紙(C)が黒やぎさんのところにつきます。黒やぎさんは1番での反省に基づき、食欲という本能を制御して、食べる前に読みます。
 読んでみると、内容は2番にあるとおり、「さっきの手紙(B)のご用事なぁに」ですね。ふむふむ、白やぎさんからの手紙は「さっきの手紙のご用事なぁに」かあ…と確認しつつ、ムシャムシャ食べちゃいます。
 食べながら、黒やぎさんは返事(D)を書くことを考えます。白やぎさんに「さっきの手紙(B)のご用事なぁに」と訊かれたわけですから、当然自分が出したBの手紙の内容を書こうと思いますね。その内容とは、1番にあるとおり、「さっきの手紙(A)のご用事なぁに」です。だから、黒やぎさんが出した手紙(D)の文面は「さっきの手紙のご用事なぁに」になります。
 さて、4番にまいりましょう。Dの手紙が白やぎさんのもとに届きます。白やぎさんも2番の反省に基づき、読んでから食べることにしました。読むと内容は「さっきの手紙のご用事なぁに」です。ここで、白やぎさんは「さっきの手紙」とはCの手紙であると思います。当然ですよね。しかし、黒やぎさんの意図は違いました。黒やぎさんは、3番で確認したとおり、Aの手紙(一番最初の手紙)のことを「さっきの手紙」と言っているわけです。
 ここで、黒やぎさんと白やぎさんの「さっきの手紙」の内容に矛盾が生じました。つまり、黒やぎさんは最初の手紙の内容を知りたいと思ったのに、白やぎさんはCの手紙の内容「さっきの手紙のご用事なぁに」を返事Eとして書いてしまうわけです。
 もうおわかりと思いますが、5番以降もこの齟齬は解消しません。Eの手紙の内容も「さっきの…」ですから、それを受け取った黒やぎさんは、彼にとっての「さっきの手紙」であるDの内容「さっきの…」を返事Fとして書く…という具合ですね。
 というわけで、この歌では、白黒両やぎが反省するしないにかかわらず、理論上永遠に「さっきの…」がリフレインされるという恐ろしい状況になるわけです。これは怖いことです。
 最初のちょっとしたミスが、修復不可能な運命を運命づけるという、う〜む、まさに人間世界の現実を見せつけられているような気さえしてきます…なんて書いてて、本気で鳥肌が立ちました。
 これは深いのかもしれない。こんな歌を無邪気に子どもたちが歌っているなんて…。おそるべし、まど・みちお。おそるべし、童謡。

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2006.03.19

WBC準決勝 『日本vs韓国』

060319_bbl_wbc_uehara_180 いやあ、久々に燃えましたね。これは萌えではなく、燃えです。
 こうした緊張感は「燃え」なんですよね。「萌え」じゃない。「運命」や「命運」がかかってるから。「萌え=をかし」の対象には、そういう「本気」はありません。貴族ですから。
 まあ、試合内容やら感想やらは、ほとんど全ての日本人と同じですから、ここには詳しく書かないことにしましょう。とにかくいい試合に燃えました。
 テレビで観戦していて、ちょっと面白いことに気づいたんで、それを書きます。
 7回、代打宮本がタイムリーを打った時のことです。TBSのアナウンサーが絶叫しましたね。「神様、仏様、宮本様」って。かなり笑いました(「韓国のピッチャーはペ・ヨンジュン」っていうのにも笑いましたけど)。
 もちろん、「神様、仏様、稲尾様」のパロディーというか、パクリというか、二番煎じでありましょう。まあ、それはいいとして、こうして人間が瞬時に神や仏と同列に並び立てられるというのが、日本文化の面白いところです。現人神か。
 現人神と言えば、メキシコが吹かせた「神風」も興味深かったですねえ。ちょうどあの日、皇太子様がメキシコの地に降臨なさった。「Edo & Water」を語るために。そしたら、あんなことになった。運命的なものを感じますなあ(以上、シャレですよ。真面目に書いてませんから、あしからず)。
 ところで、その「神様、仏様、宮本様」にこめられた気持ちってどんなんでしょう。感謝でしょうか。それとも尊敬でしょうか。いや、瞬間的崇拝かな。とにかく、かなりプラスな感情ですよね。
 一方、こちらはどうでしょう。よくMBLの中継を観ているとですねえ、むこうのアナウンサーが、「Jesus!」とか「Oh my God!」とか言うんですよ。案外多い。それって、よくないシーンなんですよね。「ちっ!」とか「なんてこった!」とか「冗談じゃねえよ!」とか「信じられない…」とか。
 日本人も困った時に「神様、仏様、ご先祖様」みたいに言うときがあります。しかし、それはだいたいコトが起きる前、あるいは結果が出る前のことですよね。それも、公衆の面前では言わない。心の中で唱えるのが普通です。大失敗してしまった直後に、そのことに関して「神様…」とは言わない。失敗に関しては神仏からの罰と考えることの方が多いですよね。あくまで自分が悪いんです。
 佳きこと、悪しきこと、いずれも神様がかかわりますけれど、基本的には、佳きことは神様のおかげ、悪しきことは自分のせいです。
 なんとなく、日本人の宗教観、神仏観って、御利益主義、御都合主義って感じで、絶対的な依存心が強いのかなと思っていましたが、案外そうでもないのかもしれませんね。失敗に関しては自分のせいにするのが普通ですから。むこうの「Jesus!」なんかには、「神様このあとなんとかしてちょうだい」というよりも、「おいおい、しっかり守ってくれよ!」とか「いつも祈ってるんだから頼むよ〜」みたいなニュアンスが感じられます。ある意味そちらの方が、依存してるのかもしれません。いわゆる契約関係、give&takeなんでしょうか。
 いざという時の神頼み的な部分と、神も仏も人間もなんでも祭り上げてしまう部分と、それらには絶対的屈服の姿勢を保つ部分、これらが日本的宗教観の特徴のようですね。いや、宗教でもないか、それは。
 あさって、勝利の女神ニケ(NIKE…ナイキとは読みたくないですな)は、そんな日本人に微笑みかけてくれるでしょうか。楽しみですね。案外、サンテリアのオリシャスまでも味方につけちゃったりして(笑)。
 
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2006.03.18

『世にも美しい日本語入門』 安野光雅 藤原正彦 (ちくまプリマー新書)

026326230000 早起きですと、普通の人が観ないような渋いテレビ番組を観ることができます。
 今朝は5時から6時まで、フジテレビでありながらCMのない番組を観ました。自社検証番組ですね。そのスペシャル『週刊フジテレビ批評特大号・伝えておきたいテレビの事!アニメを文化にしたナカマたち 』。
 みんな観てるから、という理由で避けてきたフジのアニメたち。私は今ごろになって、つまり文化として語られるようになって、ようやく興味が沸いてきました。番組では、当時(80〜90年代)アニメ製作に携わった局側スタッフさんや製作会社の方々、さらに声優さんらへのインタビューを中心として、一段低く見られていたアニメを世界に誇る文化にまで高めた(と自負する)フジアニメの歴史を復習しつつ、今後のアニメ番組のあり方を探っておりました。
 鉄腕アトムから、うる星やつら、アラレちゃん、北斗の拳、幽遊白書などなど、アニメ初心者にとっては格好の教科書的番組でありました。たいへん勉強になりました。
 今後のフジのアニメ戦略は「大人が観るアニメ」だそうで、今の連ドラ枠にいかにアニメを進出させるかが課題だそうです。それを聞いて、ん?って思ったんですよ。素人ながらに、ちょっと大丈夫かなって。
 で、その後、BS2で「うる星やつら」の「スクランブル!ラムを奪回せよ!!」を観て、その思いを強くしました。アニメは基本的に子どものためのものだと思うんですよ。うる星もそうだったでしょう。しかし、例えば今日放送分におけるメガネの独白、あれは子どもにはわかりませんよ。大人になって初めてわかる。いや、大人でもわからないかもしれない。文学や歴史の勉強をちゃっとしていないと、完全には理解できないでしょう。でも、当時のスタッフ(というか押井さんかな)は、大人のためにあの脚本を書いたのではないと思います。あくまで子どもが観ているという前提ですよね。その中にああやって非常に高度な大人性を混入させている。それは深い意味があるのではなく、そのミスマッチがギャグであり、シャレなわけですよね。
 そのシーンで、私やカミさんは大笑い、というか、思わず笑いをこらえてじっと聞き入ってしまったわけですが、子どもたち(6歳と3歳)はキョトンとしていました。しかし、その独特の「大人性」「大人感」みたいなものは感じ取っているようでした。そう、自分にはわからないが、何かあるみたいだ、という「もののけ」的な、まさに私の言う「モノ」を感じているわけです。そういうのって、子どもの時にはものすごくたくさんありますよね。それが生活のほとんどなわけです。そして、それこそが日々の楽しみやスリルであり、そして自己の成長を促すモノだったわけです。
 そういう意味で、やはり子どもには、いや子どもに限らず大人にも、そういうモノが大切なんですね。わからないからと言って排除するのではなく、わからないままつきあっていくことに大きな意味があると思うんです。
 で、ようやく本題です。その後、この本を読んでみました。ここで藤原さんと安野さんによって語られていることは、実はそのことだったんですよ。結局、幼いときから古典や漢籍などの名文に触れさせるべきだという、まあ最近はやりの…いやいや、実は1000年くらいのはやり、つまり伝統だったんですけど、ここ数十年ちょいと忘れられていた…内容なんですね。ここでも、意味は二の次なんです。モノに繰り返し触れさせるんです。
 特に日本語はあいまいである。だからいいんだと。あいまいさは独創性を生むと。その通りだと思いました。
 私は読みながらこんなふうに考えました。ここで言う「美しい」というのは「豊か」ということではないか。「豊か」ということは「多様」だということです。「多様」であれば、即時的には「あいまい」なんですね。つまり、「あいまい」であることは選択肢がたくさんあることにもなりますし、原理主義に陥る可能性が少なくなることも意味します。とてもいいことですね。
 なんでもかでも古典というのには、正直抵抗があります。世代的なものでしょう。しかし、例えば、最初に述べたように、「文化」として語られるようになった「マンガ」や「アニメ」にも、そういった古典性を持つ可能性があると信じています。それには「時」による醸成や濾過が必要なわけですが。
 また、押井さんの作品に見られるように、例えばパロディーという手法によって古典を利用、継承していくというやり方もあると思います。漢籍なんかもほとんど日本語している、と本書にありましたが、まさにそういったデフォルメによる受容の仕方こそ、日本の面目躍如といったところでしょう。
 今日はこんなことを考えました。

Amazon 世にも美しい日本語入門

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2006.03.17

楊興新 『黄砂』

CD1 西のヴァイオリンに比する東のメジャー的存在が、中国の二胡でありましょう。今日は二胡のCDをお借りして聴いてみました。
 現在は日本人の奥様といっしょに日本にお住まいになっている楊興新さんの演奏です。楊さんは日本で数枚のオリジナルCDを録音、発売しているようですね。その最初の作品がこの「黄砂」です。10年ほど前のレコーディングとのこと。かなり楽しめましたし、感心しました。
 ヴァイオリン弾きにしてみると、ヴァイオリン族以外の擦弦楽器というのは、案外に難しいものです。そのルーツは同じであるわけですが、当然のように、西に行ったもの、東に行ったもの、そのそれぞれがそれぞれに色々な進化を遂げましたから。
 私も二胡や胡弓を弾かせていただいたことがあるんですが、全然ダメでしたね。音を出すコツみたいなものは共通ですけれど、音楽を作るには、もうホントにゼロから新しい楽器をやるつもりでやらないと。その根性はありません。
 あっそうそう、ちょっとここで一言。二胡のことを「胡弓」と呼ぶのは間違いです!「胡弓」は日本オリジナルの楽器です。胡弓は、例の西洋音楽渡来の時、ヴィオール族を見た誰かさんが、三味線を弓で弾いてみた、というのがその出生の真実です…と私は信じてます。
 このCDにおける楊さんの言葉や、専門家による解説にも、普通に「胡弓」と記されていて、かなりビックリしてしまいました。ここのところははっきりさせた方がお互いのためだと思うんですけれど。ヴィオール奏者が私はヴァイオリン弾きです、って言うのと同じですよねえ。
 どうも世間でも混同していることが多い。見た目も奏法も全く違うわけでして、いつもなんだかなあって思います。まあ、よほどマニアックな人でない限り、どっちでもいいんでしょうけれど。私だって興味の対象外はそんなもんです。例えば○○を××って言ったり…(恥ずかしくて書けません)。
 さて、話を戻しまして…
 う〜ん、やっぱりペンタトニックは落ち着くなあ〜。収録されているのは、中国、日本、モンゴル、琉球(「島唄」はいちおうこうしておきます)の音楽たちです。それらに加えて、楊さんのオリジナル曲も数曲。
 それぞれ実際に採用される音は違うわけですが、音階が5音で構成されているのは共通です。音楽としてより根源的であり、より自然であるのは、実はペンタトニックです。前にも書きましたけれど、日本の音楽教育が西洋音階に偏っているのは、日本人(特に子どもたち)にとって、あまり幸福な状況とは言えないような気がします。最近そのことを強く思うんですよね。
 あと、今回楊さんの演奏を聴いて強く感じたのが、言葉と音楽の密接な関係についてです。西の言葉はストレス(強弱)アクセントがほとんどですが、東の言葉にはピッチ(高低)アクセントが多い。それが音楽にも色濃く反映しているなあ、と。
 特に中国語は豊かな高低アクセントを持つ言語です。ですから、音楽でも、一つ一つの音があるピッチに落ち着いていることはほとんどない。揺れ、ずり上がり、ずり下がり、様々な陰影が与えられています。その一つ一つが連なって大きな文脈を作り出しているような気がしました。大げさでなく、そんな部分と全体像が、宇宙のいろいろの構造を表しているようにも聞こえるんです。コスモスであり、フラクタルな感じなんですね。
 CDを貸してくれた先生もおっしゃってましたが、「気」を感じる演奏という感じ。たぶん、イチローにせよ、稲村雲洞さんにせよ、私たちに「気」の存在を感じさせるパフォーマンスというのは、きっと、そうした宇宙の「何か」を私たちに伝えてくるものなんでしょうね。彼らがメディアとなって。
 ぜひ、生で聴いてみたい、その気を感じてみたい演奏でありました。

Amazon 黄砂

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2006.03.16

『EVERGREEN〜山田かまち水彩デッサン美術館』 (BS-i「私の美術館」)

785654s 先週放送されたものです。録画してあったのを、生徒たちと鑑賞しました。
 たとえば私などは、山田かまちにものすごく共振していたんですよね。世代的なものもありますし、自分の趣味とか性格というものも含めて、かなり彼と重なる部分があったわけです。もちろん、絵においても詩においても音楽においても、彼の足下にも及ばないわけですが。
 青春が、自己との、社会との格闘であった時代は、もう終わってしまったのでしょうか。深く沈潜する精神の、どす黒い輝きなんていうものは、過去の負の遺産になってしまったのでしょうか。
 だいたい、青春なんていう言葉が、すでに時代の空気になじまなくなってしまった。生徒たちを見ていると、実に明るく楽しくポップに高校時代を謳歌(この言葉も陳腐か…)している。
 私はそこに彼らの健全さを見つつ、しかし、なにか物足りなさを感じてきたのです。もうかれこれ10年くらいになりますかね。そんなギャップを感じ始めて。
 では、彼らは山田かまちをどう見るのか。読むのか。聞くのか。これはある意味興味深いことです。
 それこそ10年以上前には、ドキュメンタリービデオを観せたりすると、必ず男の子でも女の子でも、私の望む反応をする生徒がいたものです。つまり、当時の私とも共振してくれる生徒。
 今16歳の彼らは何を感じたのでしょう…。
 と、思わせぶりをしといて、すみません。困ったことが起きました。
 私の中の半分が、困った反応を起こしたのです。これは実に意外でした。共振して共鳴して涙を流しそうになる自分の他に、もう一人の自分が、この歳になって突然登場したので、もうびっくり。
 それはずばり、「痛い!」と思う自分でした。ごめん!山田かまちよ。そして若かりし頃の自分よ。いったいどうしたと言うのだ、自分…。
 何か、とてつもなく「痛い」と思ったんです。「なんだこの自己陶酔野郎は…」って。
 私は、今日のこの瞬間に、自分の「青春」が終わったな、と思いました。正直、それは哀しいことでもあり、また嬉しいことでもあり…。
 私がきっと、感動的な、あるいは教訓的なコメントをするであろうと思って身構えていた生徒諸君!すまん。「めっちゃいてぇ奴だな…」なんて言っちゃって。
 いや、いまでも彼に憧れるし、ある意味彼を尊敬します。でも、何て言うのかな、そうその「EVERGREEN」さに気恥ずかしくなったというか、これからって時になんで「EVERGREEN」になっちゃったんだっていう落胆というか、う〜ん、何とも言えない不快な気持ちがこみ上げてきてしまったんですよ。
 でも、そういう自分の心の動きに、驚きつつ、たじろぎつつ、しかし少し感動してしまいました。ああ、こうしてまだ変わっているんだって。成長なんてものではないけれども、しかし、確かに数年前の自分と違う。いいか悪いかは別として、まるで高校生のように音をたてて変わっている。
 なんだ、まるで「青春」じゃないですか。そこに気づいたとき、今度は心の中で高笑いが起きました。
 なんか無性にBOOWY(暴威)が聴きたくなりました。氷室京介(狂介)さんや布袋寅泰さんらは、今、かまちのことをどう思っているのだろう。彼らのロックがクラシックとなった今、そのルーツを支える山田かまちの存在もまた、古典になってしまったのでしょうか。そう、私が感じた不快感は、「今」が「昔」になり、「最先端」が「古典」になるその瞬間の、私自身の軋みなのかもしれません。
 車庫から久々に出てきた「山田かまち号」が帰っていくのは、私の中の別の引き込み線になるのでしょう。激しい音とともに、今日ポイントが切り替わりました。

Amazon 山田かまちのノート(上) 山田かまちのノート(下)

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2006.03.15

「〜」or「〜。」

 学校というのは本当に変なところです。そこで働く先生もけっこう間違ったことを教えています。先生が言うのですから間違いありません。
 これはシャレではありません。本当に時代に取り残された所です、学校は。そういう古風な所も世の中には必要でしょうが、そこで働く先生の意識までもが時代に取り残されていては、生徒たちにはいい迷惑です。
 かく言うワタクシも先ほど書きましたように学校の先生であります。生まれて3年ほどは社会に出てましたけれど(笑)、4歳くらいから今までずっと、社会から隔離された学校という所に通っております。
 3年ほど社会に出たと言っても、そこはほとんど家庭という場でしたし、だいたい社会なんかを意識する年齢ではない。したがって、極論すれば、私は生まれてこの方、社会らしい社会に出ていない、娑婆の空気を吸ったことがない人間だということになります。
 世の先生方に、そういう意識があるのでしょうか。私はことあるごとに、その恐怖を感じてきました。だから、とても生徒に偉そうなことは言えません。いえ、それ以前に、「先生の言うことは信用するな」と強調してきたのです。
 …と、ここまでは、実は導入であります。さりげなく本当のことを書いちゃってますが。ははは。
 で、今日は何を書きたいかと言いますと、文章の書き方、というか原稿用紙の使い方についてなんですね。
 学校の先生方にも、一般社会人の方にも、一度は考えてもらいたいことなんです。
 先ほどの、諸刃の剣的というか自傷行為的というか自戒的というか、とにかくかなりアイロニカルな導入の、その最後のところですね。…いえ、それ以前に、「先生の言うことは信用するな」と強調してきたのです。…というところ。
 これをですねえ、「……」部分を改行するとしたら、皆さんは原稿用紙にどう書きますか?
 A       B
social school
 もうお分かりと思いますが、4行目の最初のかぎかっこの前を一マス空けるか、というのが最初の問題点です。そして、最後のかぎかっこの前に『。』つまり句点を打つか、というのが次の問題点。そして、その次の行の頭を一マス空けるかどうか、というのが三つ目の問題点になります。
 ですから、当然組み合わせによってはA、B以外のパターンもありますよね。ではなぜこれら二つのパターンだけ記したかと言いますと、実はA、Bがダブル・スタンダードだからです。
 Aは一般社会での標準。Bは学校での標準です。もう少し正確に申しますと、Aが出版業界、Bが教科書の標準というわけです。
 最初に書きましたように、生まれてこの方ずっと学校に通っている生徒や先生は、Bこそが正しいと思いこみがちです。しかし、世の中に流通しているほとんどの文章はAの形なわけですね。そこのところの矛盾というものを、先生は意識しているか、ちゃんと説明できるか、ということなんです。生徒には罪はないでしょう。だって、先生や教科書は正しいと信じているから(?)…。
 実は、事態はもっと複雑なんです。組み合わせによってA、B以外もありますし、コンピュータ上での制約からも想像できるとおり、(。」)を一マスに入れるちゃうか、ちゃんと二マス使うか、というのも問題になります。作家さんによっては、学校式にこだわる方もいらっしゃいますし、それをどこまで尊重するかという編集者の考えもいろいろです。
 こんなことが気になって、いろいろと教科書やら問題集やら普通の書籍やらを眺めていましたら、本当に頭が痛くなってきました。
 ある教科書では、同じ作品内でも統一されていない。それがオリジナルを尊重した結果なのかどうか、ちょっと疑問です。単なるミスではないでしょうか(出版社に訊いてみます)。
 学校での授業を基にしているであろうセンター試験の問題もメチャクチャでした。あらゆるパターンが確認できます。見本市みたい。
 こうなってくると、もう正解はない、ということになってしまいますね。まあ、本当のところそれが正解なんですけど。ただ、AとBの違いはあまりに大きい。学校も現代社会のスタンダードに合わせていいと思いますよ。旧態依然と言っても、ちょいと程度がひどすぎませんか。私も含めて、先生や学校は、もっと世間を知らないと。

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2006.03.14

『丹下健三 いにしえから天へ地平へ』 ハイビジョン特集 シリーズNIPPONの巨人

tg 昨日放送のものを早朝観ました。丹下さんに関しては、私は「追悼 丹下健三 幻の迷作『駿府会館』」という記事を書いています。そう、亡くなってそろそろ1年になるわけですね。
 今日はちょっと問題発言があるかもしれませんけど、一人の男の寝言のたぐいと思って読んで下さい。
 男の仕事とは何なのか。これについて考えながら観ました。もちろん、丹下さんの建築のお仕事に関する、彼ならではの独創性やこだわり、あるいは美意識というものについて、いやというほど(笑)よく分かりましたよ。いい番組でした。ただ、私の好きな天才丹下さん及び丹下作品とは、いささかズレがあった。それもまた面白かったわけですが。
 それで、先ほどの件です。人は「モノ」の宿命である変化(無常性)に対抗して仕事(「コト化」)をします。それが生命の営みの本質です。いつもモノ・コト論で書いている通りですね。で、究極の仕事(シゴト)あるいは事業(コトワザ)は「子(コ)」を産み育てるコトです。それは女性に与えられた仕事ですね(こう書くと怒られるご時世ですが…いや、でもそんなの仕事とは言えないって言っても怒られる…)。
 では、男はどうすればいいか。女が子を産むために種を蒔くだけではいけません。自分も女も子どもも生かさねばなりませんから、獲物をとらねばなりませんね。つまり食べ物を手に入れなければならないわけです。それが、経済活動の根本です。人間社会、特に近代社会においては、それこそを「仕事」と呼ぶようになりました。
 えっと、やっぱりここで言い訳がましくなりますけど、一言。
 今述べた近代的仕事観、これはあくまでも決めごとでありまして、つまりは、近代社会=男性中心社会(実体は男の強がり社会ですけど…)における恣意的な記号論であります。女性はそこのところ…すなわち、出産、子育て、家事などがシゴトでありながら「(職業としての)仕事」と呼ばれなくなった矛盾…に賢く目をつぶっていてほしかったわけですが、男の空威張りが無効になった現代においては、そんな男の根拠薄弱な望みも虚しくついえてしまいまして、先ほど申したように女性が怒り出すご時世になった…。
 と、ずいぶん回りくどい言い方をしてしまいましたね。とにかく女性本来のシゴトを「仕事」だと認めない(直接的に対価を与えない、あるいは評価しない)社会(=男の集団)と、なのに家ではそれを「それは女の仕事だっ!」と言って憚らない旦那(男個人)と、その矛盾に目をつぶれないほど愚かに強くなってしまった女との、三つ巴の抗争が今日もまた、ここでもでもあそこでも勃発しているわけです。で、だいたい女は強いに決まってるので、男と同じように仕事をさせろと要求する…。
1 ありゃりゃ、丹下さんの話が、ウチの話になっちゃったぞ。え〜と、そう、三つ巴じゃなくて、「巴」構造は昨日の番組でも紹介されてましたね。代々木の体育館です。あれは感心な巴でした。
 それでですねえ、完全に話を戻しますが、男の仕事にもいろいろあるわけです。ああやって永遠とは言わないがかなり長年にわたって残る「モノ」を残すというのも一つの手です。建造物も「モノ」ですから不易不朽ではない。駿府会館のように跡形もなく突如消えてしまうこともあります。でもそれは特別なケースで、ほとんどの作品は丹下さんの死後も存在し続ける。
 そして、丹下さんの業績、名声、伝説はもっと長く残る。少なくとも作品よりは長く残るでしょう。また、彼の建築家としての遺伝子は、弟子たちに受け継がれていきます。情報は意外に経年変化に強い。
 男が「モノづくり」に専念するのは、そういう本能からだと思います。ホンモノのDNAの継承だけではちょっと不安なんですね。女の人はほとんどそれで満足でしょう。もちろん、余裕があれば男まさりなコトを為してもいいですよ。男は常に余裕なんかないんです。だから、今のような「モノづくり」社会を作り上げた。しょせん「モノ」ですから、永遠ではないのに。虚しい事業です。
 「プロジェクトX」や「プロフェッショナル仕事の流儀」や今回のような番組には、女性よりも圧倒的に男性の方が引き込まれるでしょう。私もご多分にもれず、ああ、自分も何か残さなきゃ、という焦燥感に駆られました。それが虚しいコトだとわかっていても、です。
 本来は自分と家族が喰っていけるだけの獲物をとってくればいいんです。それ以上のコトを為そうとするから、エコロジーが崩れる、環境が悪くなる、種の滅亡へ突っ走る。分かってるんですけどね。でもやめられない。男の本能のプログラムに不備があったのでしょうか。それとも、先の先のリスク回避のために蓄えようとする智恵なのでしょうか。そうは思えない、今日この頃の自分と社会であります。

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2006.03.13

『おねがいマイメロディ』第50話「先輩を救えたらイイナ!」より『ダークパワー曲』 

hiragi_9_t1 いや、まじめな高尚な?話ですよ。1日遅れの話題ですけど、どうも頭を離れないもんで…。
 ヴァイオリン弾きにとって、無伴奏楽曲というのは、一つの目標であり、憧れであり、そしてまた、なかなか到達できない極地でもあります。私も高校時代などは、まさに若気の至り、バッハの無伴奏を、近所迷惑をかえりみずギュイ〜ンと弾きまくっておりました。今はそんなパワーありません。聴くのもいやです。
 自分でもいくつか作ったりしました。知り合いの結婚式のために、とかね。ヴァイオリン一挺で何かやってくれって言われると一番困るんですよね。バッハやパガニーニなんて弾けるわけないし、だいたい弾いてほしくないでしょ。テレマンやタルティーニじゃあ品格がないし。てなわけで、自分で作っちゃうんです。自分で作れば、自分の技術で弾ける範囲内におさめられますしね。ずるいと言えばずるい。でも、昔の音楽家なんてそんな感じでしょ?
 それはいいとして…、先週NHK-FMでアリーナ・イブラギモヴァ(カワイイしうまいですよ、この人。特にノンヴィブラートの音色)のライヴを放送してました。車の中で聴いたんですけど、イザイの「無伴奏バイオリン・ソナタ ホ短調 作品27 第4」がなかなかカッコよくて、弾けないけどちょっと聴いてみようかなと思わせる曲でした。イザイの曲集、そう言えばちゃんと聴いてないなあ。
 で、ですねえ。昨日、またカッコいい無伴奏曲に出会ったんですよ〜。
 昨日朝風呂から出てきて、適当にテレビをつけたら、テレ東で「おねがいマイメロディ」っていうアニメをやってたんです。アニメに疎いワタクシは、当然初めて観ました。というか、マイメロというキャラクターの存在こそ知りたれど、アニメの存在はつゆぞ知らざる、であったわけです。すみません、アニメ関係者?の方々。
 それで、なんとなく観ていたら、これがものすごく面白かった。どうも最終回が近いようで、それで盛り上がっているというのもあるようなんですけど、とにかく「うる星やつら」並みではないかと思わせるほどの暴走テイストなんです。あのアニメいつもあんなテンションなんでしょうか?だとしたら…。
 で、ストーリーも登場人物も全く分からない状況でありながら、かなり引き込まれてしまったんですね。なんじゃこりゃ〜、って感じで。そして、なんか柊先輩とかいうカッコいい男が突然、上半身裸になってヴァイオリンを弾き始めたんです!
 なんだか黒い音符かなんかが100個集まってダークパワーが…、う〜ん、よくわかりません。でも、とにかくそこで演奏されたのが、「ダークパワー曲?」なんですね。無伴奏です。なかなか工夫されており、ダークな感じと、しかしアニメらしいキャッチーな感じがよく出ている楽曲でした。もちろん打ち込みとかではなく生ヴァイオリンによる演奏でして、その演奏もなかなか上手。いったい誰が作った曲を誰が演奏しているんでしょうか?けっこう長い曲でしたからね。かなりちゃんと作り込んでありました。まさか既存の曲じゃないですよね。私が知らないだけとか。
 と、思っていたら、本日調べたところによりますと、なんとCDが発売されると言うのです!その名も…
 『おねがいマイメロディ 柊恵一 ヴァイオリンソロアルバム』
 なぬ〜っ!?ですよねえ。まさかホンモノ(生人間)の柊恵一さんがいるとは思えませんし、声優の置鮎龍太郎さんが弾いてるとも思えません(笑)。これは買うしかないかも。アニメで使われた他のヴァイオリン曲やクラシックの名曲も収録されるとか。ツィゴイネルワイゼンの超早弾きだと〜?!い、いったい影武者は誰?
 ああいう、現代風味な、ちょっとロックっぽい無伴奏作品を作ってみたいな、なんていう無謀な希望は、実をいうとずいぶん昔から持っていたんです。ただ、才能も技術も根性もなくて…。
 来週は「ダークパワー曲第2楽章」だそうです。ちと楽しみ。まじでCD予約しようかな。

Amazon  柊恵一 ヴァイオリンソロアルバム

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2006.03.12

モンディーン 腕時計 『MDL/12Z-BL』

MONDAINE 『MDL/12Z-BL』
img105516943581 ちょっと前に『MONDAINE Official Railways Clock & MClock』という記事を書きまして紹介しましたスイスのモンディーン社の製品。懐中時計か腕時計をいつか…と思っておりましたところ、かなり前にお店(たしか質屋さん)で見たレア物をネット上で見つけまして、ついつい買ってしまいました。
 ここのところずっと、実用的なこちらの腕時計をしていまして、それなりに重宝していたんですが、やはり腕時計とかメガネとか、毎日身につけるものって、時々着替えたくなるじゃないですか。頭も丸めちゃったし、だいぶ痩せたし、なんとなくそろそろと思ってたんですね。そういうタイミングにレア物に出会うと、ついねぇ…。なんとなく仕事も一段落したんで。
 で、この時計、モンディーンのカタログを見ても載ってないし、どういう素性のものなのか、よくわかりません。私がお店で見たのが、2〜3年前だったような…。とにかく限定販売ではあったようです。
 この時計のどこに惚れたか。まずはモンディーンならではのシンプルなデザインです。つまり視認性に優れる。ファッションである以前に、やはりユーティリティーであるわけでして、その意匠と実用性のバランス感覚というか、実用がデザインになるというか、まあだいたい生物のデザインにしても、そういうところがあるわけでして、いや、人間はそういう部分を美しく感じるわけですね。全てのデザイニングはそれが基本であります。ちなみにその実用部分を捨てて、あるいは破壊して、本来の美に挑戦状を叩きつけるのが「芸術」でしょう。
 え〜、時計に戻りますが、あとは色ですね。モンディーンと言えば、だいたい白か黒なんですね。ですから、ある意味これは掟破り、異端であります。しかし、そこで採用された、この深いブルーの美しさは…。写真ではうまく再現できていませんねえ。何と言うのでしょう、使い古された表現でちょっと恥ずかしいんですけど、まあ深海とか宇宙の色ですかね。いや、そんな色は見たことありませんけど、そういうイメージの色なんです。
 それから、ベルトですね。蛇腹なんですよ、ジャバラ。あのビヨ〜ンて伸びるやつです。2000円くらいの安い腕時計にはよく採用されているやつです。あれ好きなんですよ。ブレスレット感覚で取り外しできるじゃないですか。無精者にはいいんですよ。デザイン的にもシンプルですし。
 ただ、困ったのは、最近かな〜り痩せたせいで、このジャバラベルトがゆるゆるなんです。ジャバラの意味ないじゃん!って感じです。クルクル回っちゃうんですよ。しかし、構造上調整も不可能ですし、これは仕方ないですね。あんまり締めつけられるのも好きじゃないし、夏場に汗かくのも好きじゃないんで、まあクルクル回し続けます。だいたい重力に従って、文字盤が手首の内側に行っちゃうんですよね。ある意味全然実用的じゃないな(笑)。
 というわけでして、LAKSとMONDAINEと適宜(気分で)着替えながら行こうと思ってます。できれば一生使い続けたいですね。そんな気持ちを起こさせてくれる時計が手に入りました。満悦。

【激レア】超激レア!残りわずかの廃盤モデル★モンディーン ジャバラベルト ブルーMDL/12Z-BL★

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2006.03.11

『芸術のわな(How Art Made the World)』 BBC2005

title1 録画してあったものを観ました。私の考えている「物語論」にとってもなかなか興味深い内容でありました。
 最初、原題を「芸術のわな」と訳したのはどうかとも思いましたが、シリーズ全体としては、メディアが政治や宗教に果たした役割に注目していたようですから、まあ当たらずとも遠からずなのでしょうか。でも、「わな」ではあまりにマイナスイメージですよね。観賞後も違和感が残りました。
 メソポタミアのギルガメッシュやオーストラリアのアボリジニの物語を例にひきながら、人間がいかに物語世界を構築していったか、人を物語の世界に引き込む工夫をしたか、それを時の為政者がどのように利用したか、また現代の映画がそういった過去の知恵と技術の上に成り立っているものであるか、そのようなことをわかりやすく紹介した番組でありました。いわゆるメディア・リテラシー教育のための番組かな、と思いましたね。日本にはこういうのがあまりない。
 あまのじゃくの私としては、登場する彼らの知恵や技術よりも、この番組を作ったBBCのスタッフたちの知恵や技術と、その結果としての「わな」の方が気になってしまいました(笑)。いかにもBBCらしいんだもん。かなりの演出でしたよ。やっぱり放送や教育って洗脳だよなあ、なんて思っちゃいました。すみません、素直じゃなくて。
 ところで、番組中「物語」という言葉が本当にたくさん出てきました。おそらく英語では「story」と言っているのだと思われます。ここではっきり申しておきますが、私の頭の中では、両者は同義語ではありません。もちろん、一般にはイコールで結ばれていますので仕方ないことはわかりますけれど。
 「物語」とは「モノ」を「カタル」ことです。つまり、外部を内部化すること、つまり、かみくだいて言うと、相手の知らない情報をわかるように伝えるということです。受け手の「未知」を「既知」に変える行為だと考えているわけです。古語における使われ方はほとんどそのような感じです。
 「story」はそういう意味ではないような気がします。因果関係のはっきりした時間的な流れの中での人間(あるいは擬人化されたもの)の活動の記録であると思います。ですから「history」につながる。
 だから、両者はちょっと違う。土俵が違う感じがするんですよ。同義になる場合もあるでしょうが、全面的にイコールにするのには、私は抵抗を感じます。
 この番組では、「ストーリー」を伝えるためにどう工夫したか、文字や絵や彫刻や音楽をどう使ったか、が紹介されていました。ワタクシ的に言えば、「ストーリー」が「モノ」であって、「伝える」が「カタル」だったわけです。「工夫=文字や絵や彫刻や音楽をどう使ったか」は「語り方」「語り口」なのです。
 さっきのあまのじゃく的感想についても考えてみましょう。この番組で紹介されたことは、私にとってはほとんど「モノ」でした。知らないことが多かった。で、BBCがテレビというメディアを使い、ああいう演出をして製作・放送したことが「カタリ」であったわけです。BBCらしい「語り方」「語り口」だったと。
 なんか、みなさんにとっては、どうでもいいことなのかもしれませんね。しかし、もし、もしですよ、ここに私が書いたことが皆さんにとって外部、すなわち知らなかったこと、気づかなかったことだとだとしたら、このブログも立派な?「物語」になっているということです!
 こうして私が展開している全く新しい「物語論」自体が「物語」だってことなのかなあ。でも、受け手に理解されないと意味がないんですよね。枕草子に「喃語(赤ちゃんのバブバブ)」という意味での「物語す」の用法が見られます。その場合、赤ちゃん自身は頑張って語ってるんですが、聞いてる方はチンプンカンプンってことです。私の「物語」もバブバブにならないようにしなきゃね。


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2006.03.10

『加賀鳶 純米大吟醸 極上原酒』 福光屋

kagagokujo200 金沢で薬学のお勉強をしている卒業生に買ってきてもらったお酒です。マジうますぎでした。少しずつ飲もうと思っていたのに、最近嬉しいことが多いので(いや、ストレスが多いのかな?)、ついつい手酌が進んでしまいます。
 福光屋さんは、純米酒のみ醸すこだわりの蔵元です。
 なんでも2002年からそういうことにしたそうでして、大きな酒蔵さんとしてはほとんど全国で唯一の存在だとか。
 うん、たしかにうまかった。原酒のイメージからはほど遠い軽さなんですよ。アルコール度数も原酒としては少し低めです。原酒にありがちな濃厚なねっとり感はほとんどなく、さらっとしています。水が加えられていないとは思えない。こういう醸し方もあるんですね。しかし、芳香は豊かでかなり自己主張してきます。鼻と舌で感じるアンバランスさ、もちろん今までの経験から作られた私のバランス感覚、というかアンバランス感覚ですが、それが不思議と心地よいのです。
 おいしい原酒でも、今日は氷を浮かべてみようかなとか、富士山の水で少し割ってみようかなとか、ちょっと邪な道に走ることがあります。それが原酒の楽しみでもあったりするんですが、今回は全くそんな気がしませんでしたね。そのままいただくことしか頭にありませんでした。かなり気に入りました。
 福光屋さん、いろいろな銘柄のお酒を売りだしています。その中で「加賀鳶」は「粋=キレる辛口」がコンセプトだそうです。たしかによくキレてますね。今度は違うブランドを買ってきてもらおうかな。他のお酒も飲んでみたくなったのです。福光屋さんのサイトがなかなか充実しており、見ればみるほど読めば読むほどムラムラと…。
 特にサイト内の「酒蔵塾」、とってもわかりやすく勉強になります。ぜひご一読を。

福光屋
酒蔵塾

加賀鳶 純米大吟釀極上原酒 1800mlサイズ

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2006.03.09

3月9日再び〜「縁」と「恩」

B0009IH0R4 今日は3月9日。レミオロメンを聴きながら涙しております。
 いちおう我がクラスの諸君の受験も一段落しました。全員、希望通り、あるいは希望以上のところに決まってくれまして、安心しました。
 今日は中でも嬉しい報告がありました。国立医学部に現役合格が出たのです。センター出遅れでしたので、本当に2次で満点取ったとしか思えない大逆転劇でした。私立も全滅でしたし、ちょっと厳しいなあ、と思っておりましたが、奇跡は起きました。
 彼女は中学もろくに行っていないような奴だったんですが、一緒にやってみるか、という感じで本校に誘ったのでした。その後もいろいろと波乱万丈ではありましたが、こうして奇跡を起こしてくれました。本当に嬉しく、またありがたいと思います。
 彼女を見ていて思うことがあります。この前の講演でも話したんですけど、「縁」と「恩」のことです。彼女はある意味わがままですし,いろいろと人に迷惑をかけてきた人物です。しかし、最近思うんですよね。「報恩」って言いますけど、別にその人に返さなくていいんじゃないかって。そう思うとお互い楽ですし、自然でいられるんですよ。
 たとえば親に対する恩なんて、そのまま返せませんよね。親も子どもにそんなことを期待している訳じゃない。その子が自分の子どもに返せばいいのかもしれない。そうして、連続していく。それが普通なのではないか。それが「縁」ではないか。
 人は、「こうしてやった」とか「なんでわかってくれないんだ」みたいに思うこと多いじゃないですか。それって、まるで市場経済みたいなんですね。単なる1対1のgive&take。対価を期待して「恩」を提供する。それこそ「恩」を売るですよ。
 もし、「恩」の世界もそんなんだとすると、連関していかないじゃないですか。つまり佳き「縁」の連鎖はなくなってしまう。
 彼女、お医者になって、いろいろなところからいただいた「恩」を、いろいろなところにばらまいてくれればいいと思うんです。たぶん、意識しなくても、彼女はそうしてくれるでしょう。それでいいと思うんですね。
 私も、教師として若い頃はつい対価を求めてしまいました。それで、自分も相手も苦しめた。割に合わない仕事だとも思っていました。そんな間違いを諭してくれたのは、卒業していった生徒たちだったんですね。もちろん直接そんなことを教えてくれたわけではありません。生き様で見せてくれた訳です。
 お釈迦様の説いた「縁起」「智慧」「方便」というのは、こういうことなんじゃないでしょうか。経済システムもそんな「報恩」のしかただと平和なんだけどなあ。そういえば「仏教経済学」ってのもあるんだよなあ。
 レミオロメンの「3月9日」も「縁」と「恩」の歌です。歌詞をごらんください。ここで歌われているように、相手に対する「報恩」の気持ちはもちろん大切です。でも、「あなた」を世界中の全ての人だと考える方が、もっと普遍的な意味を持って心に響きますね。そして気づいたことは、一人じゃないってこと…うむ、まさにお釈迦様の悟りだ…。

Amazon レミオロメン 3月9日武道館ライブ

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2006.03.08

『ヴァーティカル・ヴィジョン』 クリスチャン・マクブライド・バンド

『Vertical Vision』 Christian McBride Band
B00007M8SK 今年も花粉の季節がやってきました。しかし、昨年書きましたように、ワタクシ、重症の花粉症が治ってしまいましたので、今年も快適な春を迎えております。もちろん、今も一日一食ですよ。健康そのもの。風邪すらひかなくなっちゃった。薬も金もいらない究極の治療法です。ぜひ皆さん試してみて下さい。
 というわけで、今日は甲府の方に出張でした。気温もグングン上昇、風も適度に吹いて、皆さんクションクションしておりましたが、私は目も鼻も全く反応なし。ちょっと淋しいくらいです。ホントおととしの自分からすると信じられません!
 で、気分よく車の中で聴いていたのが、このCD。現代を代表するベーシスト、クリスチャン・マクブライドがリーダーを務めるバンドの2枚目のアルバム。3年前の作品です。
 昨日の記事に書いた400年前の西洋音楽と、この超現代的な西洋音楽、あまりに違います。ある意味たった400年でこれほど変わってしまうなんて。例えば、現代の日本語は400年前のそれとはこれほどまでには違っていません。いったい何がこれほど音楽を進化(としておきます)させたのでしょう。
 はっきり言ってしまいましょう。実はこの前紹介した橘川さんの小説にも似たようなことが書かれていたんですけど、アフリカがアメリカを通じてヨーロッパを呑み込んじゃったんですね。
 ちょうど16世紀にスペインが「奴隷貿易」を始めました。アメリカにはヨーロッパ人が移住するとともに、黒人もたくさん渡っていきました。そして、西洋音楽はアフリカのリズムを得るのです。
 社会的には、新大陸で、ヨーロッパ人がアフリカ人を支配したと言えます。しかし、皮肉なことに音楽の面では、力関係が完全に逆になっていきました。
 このアルバムを聴いていると、そういったことが鮮明にわかります。その筋的には「ウェザーリポート」風とかなんとか言えるのでしょうが、それ以前に、これは西洋音楽の解体ですよ。極論してしまうと、西洋音楽として残っているのは、楽器だけです!楽器の制約から、12音階や平均律は残っていますけれど、あとはメチャクチャですよ。
 いや、ここで鳴っている音楽はカッコいいし、美しいですよ。しかし、リズムの面でも、ハーモニーの面でも、メロディの面でも、ヨーロッパが一生懸命作り上げたものが完全に崩されています。ヨーロッパが必死に作り上げたコスモスをアフリカン・スピリットでかき混ぜちゃった。そしたら、カッコよく美しい模様になった…。
 クレオールなんですよね。ジャズもブルースもロックも。クレオール(言語)をサブカルチャーだなんて言う輩もいるようですけど、とんでもない。ハイブリッドこそ進化の要件です。
 そう考えると、明治以降の日本音楽史というのは、ある意味最強ですな。アフリカも入ってきましたけど、かな〜り迂回してますし。西から東から南から北から…、まあ民族も言語もそんな感じですけどね。日本って極東だと思ってましたけど、極西、極南、極北でもあるわけか。やっぱり最強に進化しているのかな。いや、限りない進化の過程とすれば、やっぱりネオテニーなのかも。正直自分でもよくわかりません(謎)。
 おっと、またまた話がそれた。このアルバムでのマクブライドは、かなりヨーロッパ的な演奏をしていると思います。かなりスマートにやってます。本人もそういうつもりでしょうけれど、実際聴こえてくる音楽は、先ほど述べたように破壊的です。
 いや、単に昨日からの流れで、そう聴こえるのかなあ。でも、こういう流れで音楽を聴くことも大切だと思います。
 ところで、花粉症はどうなんでしょう。たぶん、西洋文明流入のマイナス成果でしょうな。いいことばっかりじゃないってことか…って、この文もかなりカオスしてますね。そろそろやめます。では。

Amazon ヴァーティカル・ヴィジョン

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2006.03.07

『400年前の西洋音楽と古楽器』

400jj 最近、オーディオの話題を少し書きました。今日紹介するのは、その方面でもちょっと(かなり)マニアックなCDです。いや、その方面だけでなく大変興味深い内容のCDですね。
 このCD、今ではなかなか手に入らないものになってしまいました。発売元の技術新聞社(昔CDマガジンを出していた会社です)がすでにありませんので。
 タイトルの上下に、次のような文章が付されています。
「1591年(天正19年3月3日)秀吉が聚楽第で感動したあの調べ
  天正遣欧少年使節団が持ち帰った後期ルネッサンス音楽を再現」
 日本に西洋音楽が初めて入ってきたのは、16世紀の中頃でしょうか。たぶんポルトガル人宣教師がキリスト教音楽を持ってきたのでしょう。まず、歌でしょうね。楽器がいりませんから。器楽はその後でしょうね。
 で、例の少年使節団は8年くらい向こうに行ってきたわけですけど、どうもいろいろと音楽を聴いたり、練習したり、演奏したりしてきたらしい。当時のスペインやイタリアは、まさに後期ルネッサンスからバロックに移行する時期。つまり、ジョスカン・デ・プレやモンテヴェルディといった天才たちが活躍していたところに、彼らは行ったわけです。天才たちの演奏を生で聴いてたりして。かな〜りうらやましいですねえ。いくら金払ってもこればっかりは無理です。
 もう、そんなことを想像するだけでも、実にワクワクしますね。私も大学時代、そんなことを夢想してニヤニヤしていたものです。私の大学時代と言えば、バロック・ヴァイオリンを習い始めた時期。また、サークルでは、美しい女性たちに囲まれながら(?)山田流の箏曲なんぞをやっていましたから、当然そういう方向に興味が行くわけです。
 箏曲の祖、八橋検校さんは、筑紫箏を極めるために九州まで行っています。彼が亡くなったのはバッハやヘンデルが生まれた年ですから、九州に伝来していた後期ルネッサンスや初期バロックの鍵盤音楽なんかを耳にした可能性もあるんですね。よく言われることですが、八橋検校さんの「六段の調べ」などの段物が、カベソンらのディファレンシアス(変奏曲)の影響を受けて作られた可能性もある。私もそんなふうに思って、カベソンを箏で弾いたりしました(ってちょっと違う気もするけど)。
 また話がそれましたね。で、そのもっと前、少年使節団が向こうの楽器と楽譜と演奏技術をもって帰ってきたんですね。それで、聚楽第で秀吉に西洋音楽を聴かせたと。今から415年前の春のことです。秀吉は感動して3回演奏させたそうです。「アンコールっ!アンコールっ!」って言ったとか(言わねぇ〜)。
 というわけで、この録音はその伝説の演奏会を再現してみたというわけです。イタリア在住のマエストロ石井高さんが復元したヴィオラ・ダ・ブラッチョやクラヴィチェンバロ、リュートなどを使って、その時披露されたかもしれない(記録が残ってないんです)曲を演奏しております。
 具体的には、デ・プレ、モンテヴェルディ、ガブリエリ、カローゾらの楽曲が収められております。千々石や伊東や中浦や原が、こんなに上手に演奏したとは思えませんけれど(いや数年間必死に練習したら可能かも…)、当時の雰囲気を充分に味わうことができます。
 秀吉をはじめとして、当時の日本人に、かの国のポリフォニーや和声的な音楽はどう響いたのでしょう。今の私たちには想像すらできませんね。現代で言えば、異星人の音楽のようなものだったでしょうから。
 ところで、この録音は、AV(オーディオ&ヴィジュアル)界の鬼才、飯田明さんによるものです。おっと、今年から飯田朗さんになったんだ(昨年末に改名されたらしい…)。録音についての説明もかなり詳しくされていますが、正直マニアックすぎてよくわかりません。でも、たしかにとても素直なピュアな録音になっているのはわかります。久々に聴いてみましたが、こういうのを聴くと、ふだん聴いているCDの音が、なんか嘘臭く感じられますね。けっこう作ってあるんだよなあ、普通に。
 演奏者は、ヴィオラ若松夏美さん、リュートとガンバ中野哲也さん、チェンバロ曽根麻矢子さん、フルート勝俣敬二さんです。考えてみると私は、若松さんと曽根さんとは、都留音楽祭において「箏」で共演してるわけでして、なんか因縁めいたものを感じますね(笑)。私の音楽歴というのは、まったくよくわかりません(謎)。
 あっそうそう、ちなみにこのCD、純金CDです。だからたしか4800円くらいしたような。高くてちょっと躊躇したんですけど、「ああ、黄金の国ジパングだからしょうがないか…」って思って買った記憶があります。私の頭の中も、まったくよくわかりません(謎)。

石井高さんの著書「秀吉が聴いたヴァイオリン

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2006.03.06

『ギャシュリークラムのちびっ子たち―または遠出のあとで』 エドワード ゴーリー Edward Gorey(原著) 柴田元幸(翻訳) (河出書房新社)

4309264336 先ほど生徒が貸してくれたんですけれど、ものすごい衝撃を受けましたので紹介しますね。
 これは絵本なんでしょうか。誰が読むべきなんでしょう。子どもですか。大人ですか。
 内容は、なんていうでしょうねえ、AからZを頭文字とする名前を持つ26人の子どもが、ただただ死んでいくんです。それぞれがライムの美しい短い詩に乗って。たとえば、こんな具合。私の名前と同じ頭文字Tを選びます。
 T is for TITUS who flew into bits (Tはタイタス どかん! こなみじん)
 左ページに英詩が、右ページにかわいらしい銅版画のような線描の絵が(その下に訳詩です)。それだけ。見開きで一人死んでいきます。淡々と。理由もなく。
 ちなみにタイタスは、部屋の中で小包のような箱を開けようとしています。そういう絵が描かれています。
 翻訳の柴田さんの日本語も見事ですが、やはり原詩のライムとリズムが実に不気味に美しい。あまりにリズムよく子どもが死んでいくんです。
 これを読んで、ただ怖いとか残酷だとか、そんなふうに言うのは簡単です。いや心ある人間なら、途中で、いや最初に投げ出してほしい。しかし、人はおそらくZまで読んでしまうでしょう。もちろん私も最後までワクワクしながら読んでしまいました。
 そして、読んでしまって、ようやく気づくわけです。「オレってなんでワクワクしながら最後まで読んでしまったんだ?」って…いや、それはウソです。そうじゃなくて、そんなふうに思ってしまう偽善的な自分に、です。
 いろいろな解釈もできましょう。極端な虚構世界だと言いきってしまうことも可能です。しかし、私にはものすごくリアルに感じられた。今、今この瞬間も、たしかに、こうしてあらゆる名前を持った子どもたちが、あまりに連続的に、リズムよく死んでゆく。そこには正当な理由などないでしょう。
 大人の死にはなんらかの因果が予感されます。それはワタクシ的に申しますと、ほとんどの場合、自己の内部で処理できる「コト」なのです。しかし、子どもの死は、ほとんど全て処理不可能な「モノ」です。いつも言うように、「モノ」は自分にとっての外部であり、いかんともしがたい、説明のできない、納得のいかないものなのです。
 そういう意味で、私はこれほど鮮烈で明解な「物語(モノガタリ)」を読んだことがありませんでした。そして、それを自然に、流れるように読んでしまった自分に、鳥肌が立つのを覚えました。いや、だから残酷な自分とか、ではなくて…ああ、自分もやはりそういう「モノ」の一部なんだと。純粋で脆弱な「モノ」が自分の核にあって、日頃はそれをいろいろな「コト」で補強して、危なっかしく生きているだけだと。もっと具体的に言えば、自分はいまだに「子ども」であって、「社会性」や「知識」や「常識」やら何やらという鎧を身に着けているだけではないか…。
 ふと、そんな気がして、不安になり、そしてなぜか安心もしたのであります。
 自分の虚ろな心に、一枚膜を張れば、たとえばこれは子どもに見せるべき「地獄絵図」のようなものだ、とも言えるでしょう。26人の子どもたちには、考えようによっては、それぞれに過失があるとも取れます。そこに描かれているのが大人なら、「馬鹿な奴め」とか「自業自得」だとか言って鼻で笑ってしまうこともできるでしょう。しかし、ゴーリーは子どもを死に至らしめた。生身の人間は、こうして死と隣り合わせにある…そうした本当の現実、唯一の真実を、ゴーリーは一冊の絵本で描ききってしまった。
 無常の、変化の終着点としての「死」。「生」の瞬間から、私たちはそこへ向かって歩き出します。本当は、生まれたばかりの子どもが、最もその終着点に近い存在であるのは確かです。
 私たちは、その与えられた道のりを、いかに迂遠なものにするか、そのためだけに生きているとも言えるのです。「コトを為す(仕事)」「ことわざ(事業)」とは、その営みのことです。そして、最後は「コト切れる」わけです。抵抗虚しく「モノ」の道理に従わねばならない時が来るのですね。
 そんなことを考えさせられた、ものすごい絵本でした。心を根底から揺るがされました。

Amazon ギャシュリークラムのちびっ子たち

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2006.03.05

『秋山準vs鈴木みのる』 (プロレスリングノア)

thumb_im00032842 「navigate for Evolution'06〜永源遥さよならツアー」最終戦…そう、永源さん引退なんですよね。さびしいなあ。会場で会う永源さん、けっこう小さくてかわいいフツーのおじさんなんですよね。気さくに話しかけてくるし。とにかくお疲れさま。しかし、還暦まで続けられるプロレスって素晴らしい職業ですね。いちおう、この記事も「スポーツ」というカテに入れてますけど、やっぱりプロレスは基本がスポーツではありませんよね。「芸」です。
 さて、そんな永源さんの世界とは全く違った「秋山対鈴木」です。このような多様性がまたプロレスの魅力です。
 あの伝説となった「小橋対健介」の試合では、チョップ合戦でしたけれど、今回は「ビンタ合戦」でした。あ〜痛そう。二人で200発以上の「ビンタ」です。ある意味チョップよりも辛いっすね。チョップは胸板に打ち込みますからね。ビンタは頬や首筋、場合によっては耳に入りますから。脳にも直接衝撃が来るし。
 ナイショの話ですが、私もけっこうビンタ(張り手)の使い手だったんです。200発はいかないでしょうけれど、数十発はかましてます。もちろん最近の風潮から、ここ数年は自ら禁じ手として封印してますけど。プライベートでは、この前フルスイング3発行きました。やってみると分かるんですけど、こちらにもダメージがあるんですよ。特に腰ですね。私は下半身を鍛えてないので、情けないことに打ったあと転びました(笑)。
 ところで、秋山選手、あばらを骨折していたんですよね。プロレスラーは骨折くらいでは試合を休みません。もちろん鈴木選手もそこは本気で責めていませんでしたね。相手に致命的なケガをさせないという、プロレスの最大のルールに従ったまででしょうが。
 試合はチャンピオンの秋山選手が勝ちました。まあ、それはどうでもいいんですが(勝敗は二の次なのがプロレスです)、その勝負のつき方が、実に潔くて良かった。あれだけケンカ風味のビンタ合戦のあと、リストクラッチ式エクスプロイダー一発でマットに沈んだ鈴木選手。とってもセンスの良い負け方でした。彼は自分を演出する方法をよく知っています。ホントいつのまにかいいプロレスラーになりましたね。最初は、それこそ空気読めねえな〜って感じだったんですけどね。よく勉強しました。
 ところで、世界最強の「ビンタ(張り手)」って誰のヤツでしょうか。ちなみにアントニオ猪木さんではありません。答えはこちら。今回の中継やインタビューの中でも、何回か名前が出てきたお方です。ホント今見てもすごすぎ…。特に記憶に鮮明なのは、若き川田利明選手との試合ですね。試合開始早々くりだした張り手で川田選手失神…。強すぎた…ジャンボ鶴田さん。「オーッ」よ永遠なれ!!

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2006.03.04

『やきそばパンの逆襲』 橘川幸夫 (河出書房新社)

4309016278 「ロッキング・オン」と「ポンプ」、私の青春そのものとも言える雑誌たちです。その伝説の二つの雑誌を創刊されたのが、橘川幸夫さんです。
 もちろんロッキング・オンはいまだ現役。1972年、若き渋谷陽一さんと橘川さんによって日本で初めてのロック専門誌として創刊されて以来30余年。一つの文化・歴史を作ったという意味では、「伝説の」という枕詞を冠されてしかるべきですね。
 「ポンプ」については、昨年末にちょこっと書きました。こちらの記事です。あの時代にあの形態(完全投稿形式)で雑誌を作ろうだなんて、いったい誰が思いつくでしょう。今となっては、インターネットの掲示板やソーシャル・ネットワークが、当たり前のことのようにそれを実現しています。そして、確固たる文化として成熟しようとしています。つまり、そういう場を30年も前に提供してしまった人がいたわけです。それが橘川さんだった。
 というわけで、その後のメディア世界での活動も含めまして、橘川さんは私の中のカリスマの一人であったわけです。なんていうのかな、最先端メディアの使い手でありながら、どこか温かい旧来の人間関係に根ざしている、というか。なんとなくそんな勝手な想像をしていたんですよ。
 そしたらですねえ。たいへんビックリすることが起きました!1月にですねえ、その橘川さんからメールをいただいたんですよ〜突然。「なぬ〜っ!!??」って感じでした。ニセモノじゃないか?って思いましたけど、私の脳内カリスマを騙って私にメールをよこして得する人なんていませんからね。やっぱりホンモノでした(失礼)。それも、いきなり「本出しませんか」「宴会やるので参加しませんか」ですからねえ。もうデメ研のロゴよろしく目ん玉飛び出しちゃいましたよ。
 ネットってそういう世界なんですね。新しい縁の創造、それもそれまでのシステムからすれば、絶対に出会うことのない人たちとのご縁、そういう場をいとも簡単に提供してしまう。それは考えようによっては画期的なことですが、そのエポックが成熟すれば、スタンダードになるわけでして、実際すでに私の中ではそうなりつつあります。そうして歴史は紡がれていくんですね。
 さて、さて、そんなふうにいきなり身近になってしまったカリスマ橘川幸夫さんの小説『やきそばパンの逆襲』です。これは本当に「やられた〜」って思いました。お世辞抜きで面白かった。「また、やられた〜」です。
 私はこの前「小説が読めない」と書きました。でも、この「小説のようなもの」は読めた。なぜなら、いわゆる小説ではない新しい「物語」だったからです。
 「電車男」に「今週妻が…」に「やきそばパン」。そして「源氏物語」に「枕草子」に「古今和歌集」。現代的なものを読むのと、古典を読むのは好きなのに、どうもその中間に位置する、あの独特の空気を持った特殊なジャンルが苦手らしい。いえ、あくまで私がおかしいので、笑ってやって下さい。いわゆる小説のせいではありません。
 で、「やきそばパン」の何が新しいって、そりゃあもうその存在自体が新しいですよぉ。腰巻きのおなか側には「実名マーケティング小説」「メタビジネスノベル」とあります。また、せなか側には「文芸書とビジネス書の『間』」とあります。たしかにそうかもしれません。しかし、私には、これは「○○」と言うべき存在であると感じられました。
 つまり、「実名…」とか「メタ…」とか「○○と○○の間」とか、既存の概念の組み合わせ的存在ではなくて、これ自体、いずれ「○○」と呼ばれるべきものであると思うのです。「ポンプ」が「おしゃべりマガジン」とか「完全投稿雑誌」とか既知のスキーマの組み合わせで表現されつつ、しかし実際にはそれらでは表現され尽くされず、そして数十年後に2ちゃんやmixiとして復活し成熟しているように。
 そうした先見性というか、理に根ざした発想の自由さというか、そういうものが橘川さんの「ことわざ(事業)」を支えている。だから、この新しいノベルも、全く違った媒体に乗って語られる時が来るような気がします。
 何度も言っているように、私は、「本」という形式に乗った「小説」は、特異な時代の特異なメディアであったと思っています。文豪の時代には、まさに時代の要請に見合った優れた媒体であった。それは認めますが、そこにいらぬ権威を与えて、そこにいつまでも依存して(甘えて)いることに、正直違和感を感じます。古典を古典として扱うのは大切なことですし、意味のあることです。しかし、いつまでも「本」や「小説」という「文化的な気分」に乗っかっているのはどんなものでしょう。
 その点、「やきそばパンの逆襲」は、一見旧来の型を踏襲しながら、実に先を行っている。ある意味逆説的な皮肉に満ちているとも言えるでしょう。だって、古典的でありながら、「今」を恐ろしいほどに活写しているんですから。「やられた〜」です。
 内容的には、正直メチャクチャ勉強になりました。田舎教師なんてものをやってると、こういう最先端(と言っても2年以上前の発行なんだよな)のことにホント疎くなっちゃうもんで。そう、2年前にこの本で予言されたものが、今かなりの確率で現実のことになっているわけでして、そういう意味でも今私が読んだのは幸運だったかもしれません。予言ではなくて預言だな。先見性ですよ、まさに。
 「やきそばパンの逆襲」…私も大賛成です。世界中が日本になればいいと真剣に思ってる私ですから(笑)。
 私はかねがね「これからはコトよりモノの時代だ」って叫んでたんです。いや、私流の「モノ・コト」ですよ。つまり、人間の認知した「コト」ばかりがいいんじゃない、自己の外部である「モノ」を大切にしよう、ってことです。もう科学とか宗教とか、説明し尽くすのはやめた方がいいんじゃないか、って。「もののけ」の存在も尊重しようよ、って。
 橘川さんは、この本の最後で登場人物に「モノの単純生産は、中国にお任せしよう。これからの日本は、コトの生産を、すなわち文化を胚胎し普及することが大きなテーマになると思います」と言わせています。一見、私と反対のような気がしますけれど、実は同じなんですよ。私の言う「モノ」は「物体」でも「商品」でもありません。自分の外部です。ですから、ワタクシ的には、「商品」「製品」は人間の意思による「コト」の象徴的存在になります。それは私も他の国にまかせていいと思います。それより日本が得意なのは「コトの生産および消費」の仕方なんです。つまり「語り方」、すなわち「カタリのテクニック」「カタリのプロセス」が得意、いや世界的に特異なのです。
 人間は「コト化」しないではいられない存在です。紀貫之の言う「ことわざしげきもの」ですね。「コト」を為すのが「しごと(仕事)」です。仕事しなければいられないんです。しかし、その仕事の仕方は、民族によって、個人によっていろいろと個性がある。私は日本の、日本人の「ことわざ」「しごと」「かたり」が好きなんです。「モノ」を尊重しつつ、「モノ」に敬意を払いつつ、「モノ」の性質も残しながら「コト化」する、そういう姿勢が好きなんです。自分の思い通りにならない部分にも、「あはれ」や「いき」や「わび」や「さび」を感じる。そんな言わば、デジタルでない、原理主義的でない生き方(仕事ぶり)に誇りすら感じています。
 ですから、橘川さんの語る「コトの生産、すなわち文化を胚胎し普及すること」こそ日本の役割である、というのには大賛成なわけです。「やきそばパンの逆襲」を私は全面的に支援します。

 長文になってしまいましたねえ。それほど私をインスパイアしてくれる本だったということです。ポンプを読んで頭を活性化させていた(ちょっと暴走していた)頃を思い出してしまいました。

Amazon やきそばパンの逆襲

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2006.03.03

源氏物語「須磨」より…「ひなまつり」にちなんで

05_hinamaturi_image01 雛祭りと言えば、なんとも平和なイメージがありますよね。ウチにも二人ほど娘がおりますので、それなりにお祝いします。まあ、それはそれとして…。
 雛祭りは元々は「上巳」、人形(ひとがた)に厄を乗せて流しちゃえ、という行事です。源氏物語の「須磨」にちょっとこわいシーンがあります。物語的にも非常に重要なシーンなんですが、私の「モノ・コト論」にとっても興味深い部分であります。なんともおどろおどろしいんですけど、新解釈を紹介します。

 弥生の朔日に出で来たる巳の日、
 「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、
 「知らざりし大海の原に流れ来て
  ひとかたにやはものは悲しき」
 とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、
 「八百よろづ神もあはれと思ふらむ
  犯せる罪のそれとなければ」
 とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。

 いきなり古文を載せられても、一般の方にはなんのことやらって感じですよね。すみません。こういうのを多少仕事にしている私でも、かなりよく読まないとわかりません。簡単に言うとこういうシーンです。
 いろいろと密通やら裏切りやらを重ねた光源氏さんは、自らの禊のため都を離れて須磨という所に行きます。そこで、「上巳」の日に海に行って、自らの罪を「ひとかた」に乗せて流すんですね。で、歌を詠むんです。「ああ、悲しいなあ。だけど、悪いことなんてしてないから、神様は憐れんでくれるだろう」と(反省してないやんか)。そしたら、神様が怒って、突然嵐になっちゃうんです。
 この和歌や嵐については、いろいろと深い解釈も可能なんですが、まあとりあえずこんな感じに軽く読んでおきましょう。
 さて、今日もまた、いつものやつを見ていきましょうよ。おつきあいください。
 まず、最初に「海づらもゆかしうて出でたまふ」ってありますね。この前書いた「ゆかし」です。そう「萌え=をかし」と対にしたやつです。自分にとって未知(外部)の「モノ」を既知(内部)の「コト」にするために自ら足を運ぼうとする。だから「海の様子も知りたくて(見たくて)おでかけになる」と訳せるでしょう。まだ実際には行ってないから、「をかし」ではない。「をかし」の予感だけです。今風に言えば、「萌え」の予感ですね。現代ではデジタル技術やらなんやらのおかげで、実際に行かなくても「コト化」できる。インスタントな「萌え=をかし」が可能なんですね。まあこれもコンビニですな。
 次、「人形(ひとかた)」のことを「ことことしき」と言っています。ふつう「仰々しい」とか訳される部分です。私の解釈は違います。「コト」は人為的、随意的なものを示す言葉ですので、あくまで「モノ」との対比としての「ことことしき」です。つまり、光源氏自らの「無常観」「不随意感」を乗せて流すには、あまりに儀礼的、作り物的で頼りない「ひとかた」なのです。だから「ひとかたにやはものは悲しき」と歌います。
 ほら「もの」が出てきたでしょ?今までこういった解釈というか視点で読んだ人はいないのでしょうか。で、「ひとかた」に「人形」と「一方」をかけて洒落たりして余裕があるんですけど、気持ちは切迫してる。「やは」という反語的な風味の言葉をはさんで、「もの=自分の思い通りにならないこと」は悲しいと言ってるんですよ。「ことことしき人形」だからこそ「もの悲しい」というコントラストが効いてる歌でしょう?紫式部さん。
 そして次の歌に「あはれ」が出てきます。「もののあはれ」です。「もののあはれ」を神様も解ってくれるよね、だってボクちゃん悪いことしてないもん!って、光源氏はちょっと甘えちゃったんですよ。最初の歌を詠んでみたら、海はものすごく静かだったんで。そしたら、八百万の神々は怒っちゃった。ゴルァ〜!!調子に乗るなっ!!ってね。
 どうです?前後関係を知らなくても、なかなかドラマチックな展開でしょ。これはやはり「モノ」と「コト」をしっかり対比させたから見えてきたストーリーなんですよ。はっきり言って、こういう読みをしている人は他に誰もいないと思います。正しいか正しくないかは分かりませんけど、こういう風に読んでいった方が生き生きとしてくるんです、物語が。
 ひなまつりになんとも物騒(モノが騒ぐ)なお話になってしまいましたが、本来のひな人形の意味を思い出すためにもいいエピソードではありませんか。では、ウチに帰ってフツーのひなまつりを祝います。
SANY02571
娘たちが作った「ひとかた」いや、ひなずしです。

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2006.03.02

想定外は素晴らしい(レミオロメンのチケットゲット!)

A0111 縁は異なもの味なもの。今日は、どういうわけか、近所の公立高校に招かれて出張講義。1年生全員が対象です。私立の教員が公立の教壇に立つというのは、なんとなく、インディーレスラーがメジャー団体のリングに上がるみたいで、ちょっと不思議な感じ。結果は、私としてはかな〜り楽しめました。ありがたや、ありがたや。
 だいたい、国語の先生なのに、今日は音楽と人生について語っちゃいましたから。演題もなし。いつものように、ほとんどアドリブでやりましたけど、まあなかなか面白かったんじゃないでしょうか。
 楽器を持っていったんですよ。ヴァイオリンですね。それで、その高校の音楽の先生がいつもお世話になってるチェンバリストの方だったものですから、一緒にいろいろとやりながら話をしたんです。
 ある一つの音が、それを取り囲む他の音によって、キャラクターが変わって聴こえるとか、協和音だけではお子様の音楽になってしまう、不協和音によって音楽が深まるとか、そんなことを実演を交えながら話しました。そう、つまり、それを人間関係や人生に重ねたわけです。結果として、遠回しながら、お釈迦様の教え「縁起」「智慧」「方便」なんかを伝えられたのでは、と思います。
 話の合間に演奏したのは、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」「メヌエット」「半音階的幻想曲」、レミオロメンの「粉雪」「3月9日」です。生徒さんたちは皆、チェンバロやヴァイオリンの音を生で聴くのは初めてのようで、そういう意味でも、なかなかよく集中してくれていました。こちらとしても、非常に話しやすかった。こういう、生演奏を交えた講演という形式もなかなかいいですねえ。我ながらちょっと気に入ってしまいました。
 それでですねえ、実に面白いことがあったんですよ。まさに「縁」だなあ、ということ。
 ネタの一つとしてレミオロメンのことをいろいろと話したんですね。それで生徒さんたちに聞いたんですよ。「4月1日山梨公演のチケット取れた人いる?」って。そうしたら、生徒さんの中にはおらず、若い先生が遠慮がちに手を挙げられたんですよ。で、半分冗談で「ぜひ5万円で売って下さい!」って言ってちょっと笑わせたんです。そしたらなんと、講義終了後、その先生が「あの〜、一枚余ってるんで本当に買ってもらえませんでしょうか…」と!!
 ジャンジャカジャ〜ン!その場で商談成立!もちろん5万円なんて金額ではなく、相場からすると申し訳ないくらいのお値段で買い取らせていただくことになりました。いやあ、言ってみるもんだな。やはり、行動こそ「縁」を生む。
 この講演依頼自体、私としては想定外だったわけです。しかし、それを現実にした結果、生徒さんたちとの出会い、先生方との出会い、新しい人生観、音楽観との出会い、そして、レミオロメンとの出会いが生まれたんです。まさに想定外の産物。セレンディピティーですねえ。
 う〜ん、なんか感動してしまいました。まさに佳き「ご縁」です。ありがたや、ありがたや。
 ちなみに、そのチケットは1枚です。なんと1階4列目。カミさんにプレゼント…しよう………(かな)。

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2006.03.01

BOSE 『MM2』&『M3』

MM2B 昨日の記事で、昔の私がけっこう根性のあるオーディオ・マニアであったことを書きました。でもまあ、当時の男なら、スピーカーやアンプくらい自作するのが当たり前ですよね。特にスピーカーは。私も周囲の友人に負けじと、NHKブックスかなんかを参考に一生懸命計算して、3way5unitのバスレフスピーカーを自作しました。今考えれば、メチャクチャな設計なんですけど、結婚するまでずっと愛用してました。
 で、結婚&蘊恥庵(自宅)建築とともに、そういった過去の暗い?遺産は全面的に封印しました。今となっては、なにかもったいない感じもするのですが、新婚当時の、あの特別な雰囲気…鎖国を解いて文明開化(黒船来襲ではありません…?)というか、に流されて、とにかく維新が起きて、ライフスタイルが変わっちゃったわけですよ。
 その一環として買ったのがこちらBOSEのMM2。新築のオシャレなリビングに自作のダサいスピーカーはちょっと…ということです。その後の黒猫来襲によって、ちょっと破損しましたが、いちおう現役です。
20060301-00000008-zdn_lp-sci-thum-000 あ、そうそう今日appleからまたまた魅力的な新商品が出ましたね。iPod Hi-Fiです。まったくうまいなあ、商売が。お値段も手ごろですし、また売れますね。ちなみにウチでは、iPodはあえて買わず、粉爺(?!)を使っていろいろな意味で楽しんでおります。で、リビングで粉爺を使うときにつないでいる外部アンプとスピーカーがMM2というわけです。
newcubep2 MM2のサテライトは本当に超小型です。左の写真を御覧いただければ分かりますよね。これをカーテンレールの上にポコっと乗せてあります。ほとんどカーテンレールと一体化していますので、お客さんは「え?どこから音が出てるの?どこにスピーカーがあるの?」って感じです。いや、それほどいい音がするんですよ。こんな小さなユニットですが、18畳半吹き抜けの部屋を充分に響かせられるんです。もちろん、ベースモジュールはそれなりの大きさですけれど、それでもかなり小さい。それがまた実に豊かな低音を再現します。
 坊主いやBOSEさんの説明によりますと、サテライトのユニットの口径は50ミリとのこと。スピーカーは小さければ小さいほど、理想的な点音源に迫るということらしい。たしかに定位もかなりはっきりとしています。ベースモジュールは一つしかないのに、低音楽器もきれいに定位しますよ。はやりの5.1chと同様の理屈ですね。人間の不得意部分を逆手にとった発想です。ある意味だまされてるんだよな…。
p1 あさって発売のM3もすごそうですねえ。今度は50ミリのユニットだけで完結です。つまり、超低音も50ミリで鳴らしちゃう。ウワサでは本当に信じられないほどの再現力らしい。いや、再現力が高すぎて、いわゆる圧縮系の音源では、そのあらがバレバレになってしまうそうです。さすが、あくまで「モニター・スピーカー」だと言い張るだけのことはある。すごい技術ですなあ。やるな、小坊主。
 もはやこうなると、自作とかなんとかというレベルではなくなるわけでして、もう職人の技の前にひれ伏すしかない、というか、こちらに選択の余地などなくなってしまうのです。オーディオの世界こそ、デジタル化が最も進んでいるわけですね。なんとなく、こちらの介在が許されなくなっている感じで、ちと淋しくもある。純粋な音楽を受け容れるだけでない、「不純」な音楽体験こそ、美しい想い出になってゆくような気がするんですが。もしかすると、最近心に残る名曲がないなあ、と感じる一つの理由がそこにあったりして。

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