『人間・動物・機械−テクノ・アニミズム』 奥野卓司 (角川oneテーマ21)
テクノ・アニミズム…筆者の奥野さん(関西学院大学社会学部教授)の発案した言葉ですね。なるほどと思いました。今日もまた私の「モノ・コト論」にからめて書きます。すみません、毎度毎度。頭の中がそうなっちゃってるんで。
テクノ・アニミズム、簡単に言えば、自然ではなく機械に魂を見る、ということですね。現代日本人の特徴です。例えば、最近はやりの癒し系ロボット。犬とか猫とか人間の子どもとか架空の動物とか、いろいろありますよね。ある程度双方向性のあるコミュニケーションが可能なロボットというかおもちゃ。ウチにも数体住んでいます。
ワタクシ的に申しますとですねえ、それは「モノ」に対する愛情ではないんですね。命こそがモノですから、基本的に変化がなく、インタラクティブとは言え最終的には思い通りになる(たとえば捨てて縁を切るとか)のは「コト」なんですよ。結局は自分の内部なのです。
だから、生きものに「マナ」を見る「アニミズム」とは全く違うわけでして、ワタクシ流でバッサリやっちゃいますと、「テクノ・アニミズム」はあり得ないわけです。あくまでもヴァーチャルな「マナ」を見てるわけで、そうですねえ、あえて言えば、「テクノ・フェイクアニミズム」なのかなあ…とにかくあくまでオルタナティブなのです。
奥野さんの分析で面白かったのは、そういった「癒される」テクノの属性についてです。そういうペットやなにかには、「かわいい」という属性がある。それは「攻撃性を抑制する」リリーサーになる、と。う〜む、なるほど〜。
で、思いついたんですけど、自らの「攻撃性」が「大(強)」の時にそうした「かわいい」属性に接すると「癒される」、一方自らの「攻撃性」が「小(弱)」の時にそうした「かわいい」属性に接すると「萌え〜」なんじゃないのかなあ。
生々しい「モノ」的生々流転世界に疲れたり、いらついたりしている時、随意的、恣意的存在である「コト(例えばキャラクターであったり、機械であったり、あるいは少女であったり…)」に接して心が安らぐ。それが「癒される」や「萌え」ではないのか。
では、自然に囲まれて癒されるのは?という質問が出そうですけれど、それは実は自然の生命の実相に接しているのではない。極寒の自然や暴風雨の自然には癒されません。癒されている時の自然は、あくまで穏やかであり、また死を予感させるものでもないはずです。つまり、時間的流れを微分して、自分の都合のよいところだけに癒されているわけでして、そういう意味では、その自然は「モノ」ではなくて「コト」なのです。
自然に接して、無常観を感じる時は「あはれなり」です。自然に接して癒される時はあくまで「をかし」なんですね。
というわけで、今日初めて「をかし」と「癒される」と「萌え」が一つの線上に並びました。この前「癒される」について書いた時には、何気なく「癒される」と「萌え」を並べて書いてますけど、今日は奥野さんの本を読み、こうして書いていることによって、両者および「をかし」の関係が分かってきました。ああ、面白いなあ。ほとんど自己満足ですけど。
ついでにもう一歩前進。三者を同一線上に並べるとすると、「癒される」の矛盾も見えてきますよ。「れる」は受身です。受身には「自分の意志ではない」という前提があります。古語においても現代語においても、この系統の助動詞の基本的性質はそれです。自分の意志ではない。本来自分の意志通りになる「コト」に対する感情であるはずなのに、表現は「恩恵の受身」。ものすごいことですねえ。これは、ものすごい人間の甘えの結果なのか、それとも究極の謙遜なのか…。またゆっくり考えてみます。
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コメント
今日の記事、今までの「モノ・コト論」の中で、
最もはげしく?頷きながら読みました。
人間の「想定内」の自然はモノではなくコト…
ずっと「地球にやさしい」っていう言い方とか、
エコとか、この付近だと「富士山の環境問題」とか
いろいろありますが、どうも違和感あったんですよね。
想定内の自然は好きだけど、想定外の自然は×、と
いうのは、コトだったわけですね。
養老先生的に言えば、人間の脳の中のアイテムとしての
「自然」であって、ホントの自然とは別物だと。
もひとつ、「癒される」という言い方も、ほんとに
昔から背中がむずむずしておったのです。
「癒し」は聖書の中にはよく出て来ますが、これは
あくまでも能動形でしか使われてません。
すなわち、「イエスは病人を癒された」とか。
だから、私の感覚では、「ものすごい甘えの結果」と
いう方がピンと来ますけど。
投稿: よこよこ | 2006.02.09 00:49
よこよこさん、おはようございます。
はげしく同意どうもです。救われました(恩恵の受身)。
自然保護にせよ、癒されるにせよ、私も全く同感です。
これはやはり萌えやオタクに対する違和感とも重なりますね。
でも、そういう微視的なところから始めないと何も始まらないのも事実です。
そこでとどまらないかどうか、が試されると思うんですよね。
そうすると宗教なんかも思いっきり「萌え」とどまりの危険性があります。
それが「甘え」ですよね。自己満足で終わってる。御利益主義。
これはいかんと思います。しまいには原理主義にまでなっちゃうし。
だから、藤原正彦さんとはちょっと違いますけど、
やっぱり「もののあはれ」を教えなくちゃいけないような。
今、私のテーマはここなんです。悩んじゃいますよ。
遠くばかり見て行動しないのもなんだし。
小泉さんみたいなオタク政治が結局世の中を動かしてるし…。
富士山の環境保全とかも。
ま、これからも毎日考えていくつもりですので、よろしくおつきあいください。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2006.02.09 07:44