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2006.02.28

ルイス・クラーク 『透視画法』

Louis Clark (per-spek-tiv)n.
B00004HYM5 ものすごい名盤?それとも迷盤?ジャンルを超えた壮大な音絵巻…私は好きです、これ。
 今日は卒業式でした。国立の結果も出ていないし、本校の伝統として、生徒とは一生のつき合いになるので、別に感傷的になるわけでもありません。ちょっと面倒な行事がつつがなく終了した程度の感慨です。
 では、自分の高校卒業式はどうだったろう…と思い出そうとしても思い出せません。別に認知症になったわけではありせまんし、当時登校拒否していたわけでもありません。卒業式がなかったからです。いや、あったのかなあ?とにかく出席しませんでした。なんとわが母校では、国立の2次試験の日に卒業式が行われたのです。よって、ほとんど国立志望者で占められているわが母校では、だ〜れも出席できないようになっているのでした。つまりやる気、元からなし。なんと卒業アルバムもありません。なんともあっさりとした学校です。それが伝統であり、校風であったのでした。
 その頃の私が聴いていた音楽はどんなものだったのでしょう。高校3年の頃は、すでにロックやポップスは卒業し(のちに再入学しますけど)、いっちょ前にバッハなんぞに傾倒していたような記憶があります。ある意味暗い受験生ですなあ。フュージョンからジャズへの流れも始まっていたかもしれません。
 さて、そんな頃、本当によく聴いていたアルバムがこれです。私のロックからクラシックへという流れの中で、実に絶妙な位置につけているこのアルバムなんですが、いったい何人の日本人が持っている、いや知っているのでしょう。私は、国内盤(もちろんレコード)が発売されてすぐに買い求め、それをオープンリールのテープレコーダーに録音して、自作のオーディオで聴いておりました(う〜む、時代を感じる)。もちろんカセットもあった時代ですが、私は特にお気に入りのレコードに関しては、父親から譲り受けたソニーのオープンリールに録音していたんですよ。それも超高級なオープンリールDuad(Fe-Cr)にね。今のデジタルオーディオからすれば、なんじゃ?という世界ですが、こだわりのアナログオーディオには、「気持ち」が入りますからね。数値では表せない「いい音」がするんです(自分には)。
 昔はそんなふうにかなりのこだわりを持っていた私も、今ではアナログレコードをCDと交換してしまうくらいダメ人間になってしまいました。ですから、当然このアルバムも全然聴いていなかったんですよ。しかし、ふとしたことから急に(四半世紀ぶりに)聴きたくなりまして、地下室からひっぱり出してきました。しかし、レコードプレーヤーは10年以上前に故障して以来、一度も回転しておりません。というか、どこに埋没しているかもわからないんです。かと言って、このアルバムのデジタル盤を持っている人なんか、身近にいるわけない。だからこの前のように、交換を申し出るわけにもいきません。で、仕方なく輸入盤CDを最近購入したのです。そして今日、若かりし頃を思い出そうかと、聴いてみました。
 このアルバムの内容及びルイス・クラークにいつては、ELO関係のカリスマ的存在TKJさんのこちらの記事に詳しいので、ぜひ御覧下さい。そこにもありますように、ルイス・クラークさんは、ELOを特徴づけるあの壮大なストリングスのアレンジを担当していた人です。いや、そう言うよりも、クラシック名曲メドレーである「フックト・オン・クラシック」シリーズの人、と言った方が分かりよいかもしれません。
 というわけで、ここには、ほぼ四半世紀ぶりに聴いた私の、率直な感想を記しておきましょう。あの頃よりはかなり私も音楽に詳しくなりましたので、やはりそれなりに聞こえてくる音も違ってきます。
 いや、だから最初に書いたように、これはとんでもない名盤ですよ。トンデモの一歩手前と言えば言えないこともありませんが、なかなかハイレベルな音楽的挑戦、実験であったと思います。
 有名なクラシックの作曲家のメロディーも時々出てきますけど、基本的には彼のオリジナルメロディーが延々と展開されています。A面、B面ともに全てインストゥルメンタルです。ロックバンドとオーケストラが共演して、ロック・シンフォニーをやっちゃった、それもボーカル抜きで、って感じですかね。
 ここでのルイス・クラークの作曲能力の高さは並みではありません。オーケストレーションはもちろん、美しいメロディーを創ることにも成功しています。録音当時、彼はまだ30歳そこそこだと思います。なかなかやるな。
 あと、今回家族も初めて聴いた(聴かされた)んですけど、子どもはけっこうノリノリでしたし、カミさんはなかなか鋭い指摘をしていました。つまりこういうことです。曲想が変わるたび、彼女はいちいちこう言いました。「ELOじゃん」「アニソンじゃん」「戦隊もののオープニングじゃん」「演歌じゃん」「80年代歌謡曲じゃん」「NHKの子どもの歌じゃん」「ボンドじゃん」「女子十二楽坊じゃん」「奥田民生じゃん」「小林武史じゃん」「フィギアスケートの曲じゃん」…。な〜るほど〜、言われてみればそうかもしれない。
 たしかに、ルイス・クラークのオーケストラ・アレンジメントは、直接間接問わず、現代の日本、いや世界のポピュラー・ミュージックにものすごい影響を与えているかもしれない。たとえば、ビートルズにおけるジョージ・マーティンやフィル・スペクターのアレンジとは一線を画す、どこか大衆的な弦の響き。そのアイデアとテクニックの全てが、彼のこの最初で最後のソロアルバムに詰め込まれているような気がしてきます。いや、冗談抜きで、ELOという壮大なスケールのバンドに乗って、ルイス・クラークの遺伝子は世界中にばらまかれたのかもしれません。
 正直、演奏は、アインザッツがめちゃくちゃだったり、リズムがバラバラだったり、とんでもなくアナログなことになってます。まあそれは良しとしましょう。打ち込みオケ隆盛の今となっては、それが逆に魅力的に聞こえるくらいですから。
 う〜む、これは再び聴き込んでみたいアルバムですねえ。もう一度こういうコンセプトのアルバムを作ってくれると、ホントうれしいんですけど。たぶん日本でも2枚は売れます!

Amazon (per-spek-tiv)n.

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2006.02.27

『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』 長山靖生 (光文社新書)

4334033334 長山さんに「不勉強が…」なんて言われると、まったく立つ瀬がないワタクシであります。
 こちらでも紹介しました長山靖生さんは、私にとってちょっと身近な憧れの人です。いや身近と言っても、知りあいとか近所に住んでるとかではありませんよ。なんというか、勝手な親近感を持っているのであって、私に憧れられる長山さんに罪はなんにもありません。
 例えば、この本など、端から端までほとんど知ってる話なんですね。もちろん細かいところには今回初めて知ったということもたくさんありますが、トピックとしては全部私の興味の対象、もしくは私の得意なものなんです。
 受験勉強、趣味、読書、育児、ゆとり教育、個性、国語、数学、倫理、歴史、物語、論理的思考力、芸術、プロ…こうしたキーワードを挙げるだけでも、なんとなくそのことをお分かりいただけるのでは。
 ですから、読みながら首肯すること数百回。大いに納得して、大いに学び、大いに勇気づけられました。こういう読書は楽しくていいですね。気の合う、しかし明らかに自分より秀でた人と、さしで飲んでいる感じ。
 長山さんを知ったのは、以前の記事に書いた「偽史冒険世界」ででした。つまり元はと言えば、トンデモつながりなのです。まさに「偽史」をライフワークにしようとしていた(今でもしてると言えばしてます)私にとって、長山さんの客観的な、しかし愛情に満ちた態度は、ものすごく大人に感じられました。
 「不勉強が…」にもありました。「信じる」ことは「思考停止」を意味すると。そこに「物語」が侵入すると。かと言って、ハナから「物語」を否定するわけではない。これは私の理想とする姿勢そのものです。今回思ったのですが、こういう私自身の自分らしさみたいなものは、実は長山さんに教えていただいたのかもしれません。あの本を読むまでの私は、実は「思考」しているふりをしていて、実は「思考停止」していたのかも…。
 あと、憧れのもう一つの理由ですが、ずばり文章ですね。漱石の研究家でもある長山さん、やはりどこか漱石を彷彿とさせるところがあります。漱石のエッセイみたいなんです。軽妙洒脱な中に、本質をズバリ。批判精神に満ちているのですが、鼻につかない、角が立たない。謙虚な中の確かな自己顕示。いいですねえ。誰かさんのように角だけ立って中身がないのとは大違い(あっ、誰かって私のことですから、勘違いしないように)。そう、長山さんは、原理主義からとっても遠いところにおられるんです。そして愛情、ユーモア。やはり文は人なりですな。
 歯科医にして文筆家。二足のわらじも履きようです。大いに見習いたいですね。

Amazon 不勉強が身にしみる

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2006.02.26

本日は音楽三昧でした…感じたこといろいろ

104_s 朝起きるとずいぶんと雪が積もっていました。そんなわけで予定していた東京行きを断念して、久々に家でまったり過ごしました。
 雪のせいか地上デジタルの受信状況が良くなく、なんとなくBSデジタルを見ていたんですが、期せずしていろいろなジャンルの音楽に触れることができ、音楽についてホントにいろいろと考えさせられました。
 まずはお昼、NHKのど自慢ですね。今日は珍しく東京での収録だったのですが、やはりあの不思議な地方性を醸し出していましたね。あの番組、きっと好きな方がたくさんいらっしゃるので、ああやって長寿を保っているのだと思いますが、どうも私にとっては「かたはらいたき」番組なんですね。シロウトの方の悦に入ったパフォーマンスというのが、どうも苦手らしい。
 いや、実は最近、のど自慢級の痛さを感じる番組がたくさんあるんですよ。つまり、ミュージシャンや芸人さんたちが素人化しているということです。例えば、そののど自慢の隣で放映されていたBEAT MOTION。デビューしたての新人ミュージシャンを中心とした音楽番組のようですが、こちらも…。ご本人たちは頑張っているわけで、私なんかに言われたくないでしょうが、ちょっと辛いんですね。おそらく業界のあり方がよくないのだと思います。大量生産して、当たれば儲けもの。
 その業界ということでは、2時からのBSフジ「Re:演歌〜ヒットメーカー達のプロジェクト」もある意味「かたはらいたし」でした。演歌界の凋落ぶりを憂えた業界トップのお三人さん(弦哲也・吉岡治・千賀泰洋)が、なんとか演歌に活気を取り戻そうとして、つまり「演歌再び」という意気込みで、奔走するという内容の番組でありました。なんとかしよう、という気持ちはそれこそ痛いほど感じましたが、一方ではそれこそ痛々しいものを感じてしまいましたね。結局世間にも歌い手にもそっぽを向かれてしまう結末は、番組としての予定調和を破って実に生々しい現実を突きつけていました。
 必要とされる音楽は変わっていくのだ。それをつくづくと感じましたなあ。あがいてももがいても仕方がないことです。モーツァルトの時代にフーガを再び主役にしようとしても無理です。老バッハが「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」といった宇宙レベルのものを創っても、その時代においては全く意味を持たなかった…。
 とか言いながら、単純なウチの家族は「よし、明日の演歌界を担うのはウチだ!」と叫んで、直後カラオケボックスに行きました(笑)。最初はまじめに娘の歌唱レッスンでもしようかと思っていたのですが、実際は…両親の勝手な大熱唱大会になってしまいました(トホホ)。ちなみに私が歌ったのは、ACIDMANの「季節の灯」、イエモンの「空の青と本当の気持ち」、レミオロメンの「3月9日」、そしてELOの「トワイライト」です。う〜、これこそ「かたはらいたし」でしょうなあ、ははは。
 で、もう一つ。ダメ押し。食事をして帰宅すると、楽しみにしていたこの番組が始まっていました。BSiの「シカゴ&アース・ウィンド・アンド・ファイヤー ライブ」です!これはすごかった!この歴史的な2バンドが一緒にやるということ自体信じられません。そして、その内容が…かっこよすぎっす。まさに「いとをかし=超萌え〜」ですよ〜。もちろん録画しました。アメリカに流れ込んだ「ヨーロッパ」と「アフリカ」のせめぎ合いと融合…ホントはっきり聴きとれました。
 音楽ジャンルの寿命なんてないっすよ(さっきと言ってること違う)!いや、ジャンルには寿命があるのかもしれませんが、いい音楽自体には寿命はないんです。バッハが数百年後にも生きているように。
 それにしても、ああいう風にかっこよく年取れたらいいなあ。アメリカの成熟した音楽界の良い部分ですね。いいものはいつまでもお金になる。日本で言えばそれこそ演歌界の重鎮のような彼らでありますが、お客さんには若い人たちもたくさんいました。やはり聴く側の問題なのかなあ。
 ふぅ、いろいろと考えさせられましたけど、うん、やっぱり音楽はいいねえ!という1日でした、ハイ。

Amazon シカゴvsアース・ウィンド&ファイアー 「ライヴ・アット・ザ・グリーク・シアター」

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2006.02.25

『をかし』の語源…『萌え=をかし論』の本質に迫る!

Shonagon21 今日は国立の2次試験の日です。教え子たちは我が校の伝統「勉強は楽しく、受験はもっと楽しく」を貫き、ホントにノリノリで試験に臨んでいるようです。すごいやつらだ。あの乗りで結果出すからなあ。
 で、担任は何をやっているかというと、いちおう古文のお勉強です(笑)。
 昨日予告しました「萌え=をかし」論です。今日は本質的なことを書いちゃいましょう。
 「萌え=をかし」は、私のオリジナル説ではありません(たぶん)。私のほかにも、そして、私より先に同様の実感を持たれていた方もいらっしゃるでしょう。しかし、本気度で言いますと、私はかなり高い方だと思います。自分の実感というか予感をなんとなく学問のステージまで持っていきたいのです(気持ちはね)。もちろん「物語論」の一部として、また日本文化史、日本精神史の一部として。
 さてさて、「萌え」と等号で結ばれている「をかし」ですけれど、「をかし」の語源にはいくつかの説があります。こちらで「痴(をこ)」説を採らないと書いていますが、では私はどの説を支持するかと言いますと、これです。

 「をく(招く)」が形容詞化したもの

 で、ちょっと専門的な話になってしまうのですが、日本語には「動詞が形容詞化したもの」がけっこうたくさんあります。古語で申しますと、たとえば次のようなものたちです。思いつくまま列挙します。

 あさむ→あさまし
 いとふ→いとはし
 なげく→なげかし
 なやむ→なやまし
 すさぶ(む)→すさまじ
 さわぐ→さわがし

 こんな感じです。おわかりになりますよね。で、こんな連中の中で私が注目したのは「ゆかし」です。
 「ゆく→ゆかし」 
 ですね。この「ゆかし」の原義は「行きたい」です。何かの目的があってどこかに行きたいんですね。当時はネットもありませんし、テレビもありませんし、本屋さんもありませんから、「見たい」「聞きたい」「読みたい」「知りたい」と思ったら、基本的に自分で行ってみるしかなかったわけです。ですから、「ゆかし」は現代語訳ではいろいろの「〜たい」になります。
 私は、「をかし」を、この「ゆかし」とペアとなる感情の形容詞として注目したのです(この二つをペアリングするのはたぶん世界初?)。
 「をく」は「まねく」という意味です。自分で足を運んで、未知の「モノ」を確認して「コト化したい」と思う感情が「ゆかし」なのに対して、眼前にあってすでに認知した「コト」でありながら、その「コト度」を高める、例えば「所有する」ために、こちらに「招きたい」と思う感情が「をかし」であると考えたわけです。
 枕草子の有名な冒頭部分で考えましょうか。「春はあけぼの」の後に「をかし」が省略されているという定説に従えば、春は「夜明けの時間帯」を「招き寄せて所有したい」ということなのです。現代人なら、写真に撮ったり、ビデオに撮ったりするでしょう。平安人ならやっぱり「和歌」でしょうか。そういう願望が、この前書いた紀貫之の言う「ことわざ(事業)」だと思うのです。
fl1 どうでしょう。「をかし」のニュアンスをおわかりいただけたでしょうか。「こちらに招き寄せて所有したい」です。そうすると、現代における「萌え」との共通性が見えてきませんか?「所有する」ということは「自分の思いのままになる」ということでもあります。「自分のもの(ワタシ的には「コト」ですが)にしてしまって、自分の思いのままにしたい」感情ということでは、「萌え」=「をかし」とならないでしょうか。
 昨日も書きましたように、私は残念ながらいわゆる商業的な「萌え」には萌えませんが、たとえば、このブログで毎日おススメしているような「モノ・コト・ヒト」は、常に自分の近くにおいておきたい。所有するというとおこがましい場合もありますが、とにかく自分の頭の中から消えてほしくない「モノ・コト・ヒト」なのです。つまり私の「モノ・コト論」的に言うと、「コト化」したい、そして「コト」であり続けてほしい存在というわけです。
 何度も繰り返しますが、時間的な変化をするのが「モノ」の本質です。それをなんとか固定しようとする行為が「コト化(例えば…カタル…そのほかにもあります)」です。その瞬間(たとえば「あけぼの」)を切り取って、自分の中で永遠化したい。それを現代のデジタル技術などでかなりの程度実現してしまったのが「オタク」たちだと思うのです…。
 ところで、枕草子の第一段で、省略ではなく実際に「をかし」が出てくるのは、ここですね。『(蛍が)ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし』…先ほどの「あけぼの」もそうですが、ここでも清少納言は「マイナー」を選びます。「春」は「宵」がメジャーです。「蛍」は「たくさん飛んでるの」がメジャーです。こうしたマイナー指向に、清少納言の現代的オタク性があるんですね。面白いことです。枕草子は全編にわたってこんな調子なんですよ。貴族には受けたでしょうね。古今東西を問わず、「貴族性」が「をかし・萌え・オタク」の条件ですから(ちなみに「武士道」が「もののあはれ」の条件です)。
 
 …というわけで盛り上がってきまたが、今日はこのへんで。すみません、生徒たちの報告が入り始めましたので。またいつか。

 ps「萌え=をかし」の対照概念である「もののあはれ」についてはこちらの記事をお読み下さい。
 
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2006.02.24

『サイゾー』(インフォバーン)…『萌え=をかし論』つづき

i-cover0603_02 3月号もいろいろと勉強になりました。ちょっと前に紹介した日経エンターテインメントをライバル視する(?)雑誌、「サイゾー」です。左の画像をクリックしてみてください。「日経○○は書かない…」とあります。日経○○とサイゾーを両方読んでる人ってどれくらいいるんだろう。いわば両誌で世の中の表裏(の一部)っていう感じですから、私のような、表も裏もという知りたがりやさんには、けっこう結構な組み合わせだと思いますよ。ま、両方表だという説もありますが(笑)。
 どちらが好きかと言われると…えっと、両方好きですね。私の脳ミソにも裏表がある。そう裏表がある人間なんですよ、私。
 そうそう、ちょっと報告が遅れましたけれど、先月発売のサイゾー2月号にこのブログの記事が引用されておりました。自分の好きな雑誌に自分の文章が載るというのは、実に心地よいことです。それも投稿したわけではありませんからね。引用していただいたということです。
 そうなんです。敬愛すべきオタキング岡田斗司夫先生が、私の『萌え=をかし』論に共鳴してくださいまして、ご自身のブログに引用してくれました。その岡田先生の記事がそのままサイゾーの『オカダトシオの「mixi日記」』に掲載された、という具合なのであります。
 期せずして、昨月は、島野清志さんのご厚意と岡田斗司夫先生のご厚意により、2冊の本にワタクシめの駄文が掲載され、国会図書館に永久保存されることになりました(?)。ありがたいことです。まさに毀誉褒貶、信賞必罰です(笑)。
 さて、そのサイゾーの2月号にもあったのですが、岡田先生自身は「萌え」を語ることに積極的ではありません。おそらく私同様に、世間で騒がれている「萌え」に違和感があるのだと思います。実際、私はいわゆる「萌え絵」には全然萌えませんし(例の「萌えキャラを描こう」にも感動こそすれ、萌えは感じませんでした)、メイドカフェには興味はありますが(もうすぐ行く予定です)、ほとんど萌えないことと思います(楽しいだろうけど)。
 だけれども、私は「萌え」には興味があります。それは何度も書いている通り、それが日本の歴史の中で連綿と続いてきた「何か」の現代型であると信じているからです。そんな発想、いや実感から、「萌え(オタク)論」の考察を続けているわけですね。先は見えそうで見えませんけど。
 で、私の萌え論に違和感を抱く方も当然いらっしゃいます。違う実感が存在するわけです。それもまた当然ですし、切り口の違いということもあると思います。特によく目や耳にするのは、「性的な感情についてはどう考えるんだ?」です。いわゆる世間で言う「萌え」にはその要素があるのに、不二草紙ではそのことに触れられていない。そこが自分の実感とのズレだ。蘊恥庵庵主は本当に「萌え」がわかっているのか?
 いやいや、よ〜くわかってるんですよ。実感も理解できます。ではなぜ?なぜ目をつぶる?ということですね。
 ずばり言いましょう。「性的なものは商売になるので目立つ」からです。男も女も性的なのものにまず気を引かれます。当然です。ですからそこに目をつけて商売が成り立つ。マスコミやメディアがとりあげることもそうですし、実際にお店も開店するし、製品も大量生産される。だから目立つんです。でも、それが全てではない。人間の他の感情を考えればすぐにわかることです。「悲しい」だけでも考えてみて下さい。商品としての「萌え」に惑わされてはいけません。
 だから私はあえてそこに目をつぶっているんです。そこについては放っておいてもみんなが語ってくれますから。全体像を見たいんですよ。言葉の範疇としても、歴史の流れとしても。まあ、だから難しくなるんですけどね。
 たぶん、明日にはそういう意味でも本質的なことを少しですが書けると思います。とりあえず、今日はここまで。
 ありゃ?全然「サイゾー」のこと語ってないなあ(最近多いっね、こういうパターン…)。いや、とにかく面白いですよ。とにかく公式ページを見て下さい(って全然紹介記事になってないって)。

サイゾー公式

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2006.02.23

『ブッダは何を教えたのか―人生の智慧、自分らしく生きるヒント』 ひろさちや (パンドラ新書 日本文芸社)

4537253509 『弱肉朝食』…ブッダは何を教えたのか?
 そう、本書の172ページにこうあるのです。

 シッダールタ太子が抱いた問題意識は、
−この世は「弱肉朝食」である−
−人生には「老・病・死」という苦しみがある−

 私は考えました。なぜ「弱肉強食」ではなく「弱肉朝食」なのか。「強」ではなくて「朝」なのか。
 私はふざけているわけではありません。たしかにそう印刷されているからです。ネットの書き込みならわざと誤字することもありますが、新書の初版第1刷と言えどもいちおう「本」ですからね。まさか間違いではないでしょう。いや人間の所業ですから、万が一には間違いもありえますね。ですから、百万歩譲って、私はいくつかの可能性を考えました。

1 ブッダ自身が「弱肉朝食」と言った。
2 ブッダの弟子が「弱肉強食」を誤って「弱肉朝食」と筆記した。
3 ブッダの教えが日本に伝来する間に恣意的にゆがめられた。
4 手書き原稿においてひろさちやさんが「弱肉強食」を「弱肉朝食」と筆記した。
5 ワープロ原稿においてひろさちやさんがタイプミスした。
6 タイピストが「弱肉強食」を「弱肉朝食」と記憶しており躊躇せず「弱肉朝食」と打ち込んだ。
7 タイピストがタイプミスした。
8 私の目がおかしい。

 まず8について。8であれば問題は簡単に解決しますが、残念ながら私以外の複数の目にも「朝食」と映っているようです。したがって8の可能性は限りなく低い。
 続いて7。タイピストが「き」を「ち」と打ち間違う可能性はどうでしょう。ローマ字入力であれば「K」と「C」あるいは「T」との距離から考えて、その可能性はやはりかなり低いと言わざるを得ないでしょう。平仮名入力であったとしても「き」と「ち」は遠いですね。では、タイピストが私のように親指シフト入力者だったらどうでしょう。ニコラ配列においては、「ち」は「き」のすぐ右上にあります。しかし親指シフターの方ならお分かりになると思いますが、こうしたタイプミスは実際には起きにくいものです。「ギャハハハ」を「ギコハハハ」と打つことはあっても…ギコ猫( ゚Д゚)の誕生譚の一つですね…、「きょうしょく」を「ちょうしょく」と打つことは経験上ほとんどないと言ってよいと思います。
 6は単なる思い違いですね。しかし、学校教育において頻出の四字熟語であり(○肉○食=焼肉定食という古典的なギャグも含めてね)、普通の日本人であれは、こういう勘違いは起きにくい…と思います。
 5はあくまでひろさんが原稿をワープロで打つと仮定した場合です。その場合も7の考察と同様にあまり可能性は高くありませんね。特に本書のキーワードでありますから、たとえタイプミスしたとしても気がつかれるでしょう。
 4は結構問題です。実はそれまで、またその後はちゃんと「弱肉強食」と印刷されているので、この仮説が正しいとすると、ひろさんはこの部分だけ意識的に「朝食」と書いたことになります。そこにブッダの教えを超える宇宙的なスケールのメッセージをこめたのか、もしくは同様のスケールの「ギャグ」を飛ばしちゃったか、どちらかということです。どちらにしても問題です。あのひろさんが、そんなことをするとは思えません。同じひろでも「つのだ☆ひろ」さんだったらわかりませんが。
 3はどうでしょう。恣意的ってどういう「意のほしいまま」でしょうねえ。「強食」を「朝食」とするメリットって?伝来過程を考えると、たとえ中国とは言えども、やはり朝食から肉料理モリモリでは胃に負担がかかる、だから弱めにということでしょうか(よくわからん)。
 2はありえないことはないかもしれません。当時のインドのキーボードの配列を調べると、「きょ」と「ちょ」の発音に当たる文字が隣どうし並んでいることがわかっています。ですから、この仮説の可能性は意外に高いかもしれません…なわけはない!
 そしてついに1です。2〜8までの可能性の低さを考えると、やはり1の信憑性が増します。では「弱肉朝食」とはどういう意味なのでしょうか。先ほど3の検証の際に書いたような生活習慣に根ざした軽々しい意味ではないと思います。「焼肉朝食」とか「豚肉朝食」とかだったらある意味解りやすいわけですが、どうしてブッダは「弱肉朝食」などというレトリックに満ちた表現をしたのでしょう。
 ブッダはこの世が「弱肉朝食」であることに気づいた。そしてそれを乗り越える智慧を悟られた。この文脈からして、「弱肉朝食」はこの世に蔓延する悪の一つであることがわかります。ん?そうか。「朝」は「morning」ではないのか。「朝」には「政治」という意味もありますね。朝廷とかササン朝ペルシャとかいう時の「朝」です。
 そう考えると、この言葉は深いですね。「弱肉強食」とは「弱い者が肉となって強いものがそれを食べる」というのが基本的な意味です。ですから、「弱肉朝食」とは「弱い者が肉となって政治(政府)がそれを食べる」ということではありませんか。
 そうです、これはブッダの聖なる予言だったのです。そしてその予言が現実のものとなりつつある現代日本において、ブッダはこの本を通じて警鐘を鳴らしたのです。奇跡的な誤植という形をとって。おそるべし、ブッダ。

 ふぅ、書いててかな〜り疲れました。何やってんだオレ。まあうまくまとまったからいいや。書いてる途中は結論が見えず不安だったんですよ、実は。
 さて、そんなどうでもいいおふざけはいいとして、この誤植はいかんでしょう。いや、最近多いんですよ。新書の誤植。今や校正という作業は存在しないのでしょうか。不思議です。少し話がそれますが、今入試シーズンじゃないですか。各大学のホームページ、「出題ミス」のお詫びが満載なんですよ。チェック機能ってどうなってるんでしょう。
 この本、本当に素晴らしい内容なんです。人生が変わるほどいいんです。だからこそ、こういうおふざけはしたくなかったんですが、あまりにも「痛い」ので、こちらが壊れてごまかすのです。だって1ページ前にも明らかな誤植があるんだもん…。痛杉

Amazon ブッダは何を教えたのか

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2006.02.22

『ミゼットプロレス伝説〜小さな巨人たち〜』 森達也(企画) 野中真理子(演出)

little41 昨日は2日ほど早く五郎さんのお誕生日を祝ってしまいました。今日は2日ほど遅くフランキーさんのお誕生日を祝います。いえ、リリー・フランキーさんではありません。リトル・フランキーさんです。ご存命なら48歳、年男でいらしたんですね。
 リトル・フランキーさん、ご存知の方少ないんでしょうね。ほとんど最後のミゼット・レスラーと言っていいでしょう。今となっては伝説の「小人レスラー」です。残念ながら、2002年の夏に淋しく寮の一室でお亡くなりになっているが発見されました。
 私は古くからのファンでありました。全日本女子プロレスの興行に出かけた折には、必ず「頑張って下さい!」と声をかけていました。最後に会話したのは、もう10年くらい前になってしまいます。グッズ売り場で売り子さんをしていたフランキーさんは、うつむきかげんに「はい」とおっしゃりました。不思議な恥じらいと哀しみをたたえたあのお姿が今でも脳裏によみがえります。
 「小人プロレス」の世界について語ることは、ある意味社会的タブーもありますし、日本の社会史、文化史とからめて書き始めると、おそらくものすごく長くなってしまうので、また別の機会にしようと思います。
 その小人プロレスの世界を正面から扱った稀有なテレビ番組を、今日は紹介したいと思います。昨日2年生の授業の中で鑑賞しました。毎年教材として使わせていただいております。あっ、そう言えば、先日書きました日芸の放送に合格した教え子、面接でこの番組のことを言ったそうです。そりゃあ、食いついてくるよなあ、マニアックだもん。
 この番組、1992年にフジテレビで深夜放送されたものです。ある意味タブーを破った、ある意味有名な、ある意味知られざるドキュメンタリー作品です。企画プロデュースは、今やクリエーターとしてだけではなく、法に関する独自の視点を持った論者としても有名な森達也さん、演出ディレクトは、その後「こどもの時間」や「トントンギコギコ図工の時間」で才能を発揮されている野中真理子さんです。考えてみるとそれだけでもすごいな。
 これもある意味有名なミスター・ポーンの「8時だよ全員集合事件」にも象徴されるように、いわゆるそうしたハンディキャップを背負った人を笑いものにしてはいけないという暗黙の了解、いやかなり明白な意志、というものが日本には根強くあります。それが逆差別を生んでいるという状況についても、ある意味同様に暗黙の了解が、というか暗黙の不了解があります。
 メキシコでは小人として生まれた人を「ラッキーマン」と呼ぶことがあると言います。小さいからこそできることがあるのです。実際、ルチャ・リブレにおいては、ミゼット・レスラーは子どもたちのヒーローです。日本ではどうでしょう。ここでそのことについて言及するのは、それこそ了解されないでしょう。私にも勇気がありません。
iu51 そうした空気の最も濃いテレビというメディア世界において、この作品を作り、そして実際に放映した(たぶん2回)のは画期的なことでした。そしてそれを録画していた私はまさにラッキーマンでした。
 実際、女子プロレスの会場で見る彼らは実に活き活きしていました。彼らの試合を観るお客さんたち…ほとんどが小人プロレス初観戦の地方の一般人たち…は最初はなんとなく不安定な自己の所在に躊躇していますが、彼ら小人たちの芸のおかげで、すぐにその居場所を見つけ、そして大笑いし拍手喝采するようになります。それは本当に素晴らしい瞬間でした。私はその空気の流れが好きだったんです。皆の心が解放される瞬間…。
 生徒たちにはいろいろなことを感じ、考えてほしい。特に解説はしません。それこそ自分で感じ考えるべき問題だと思いますし、それぞれの答えがあってよいと思います。基本的に私は何を見せてもそんな感じですけどね。今日も1年生は実相寺昭雄作品を観ていろいろな表情を浮かべてました(笑)。
 リトル・フランキーさんも亡くなりました。ミスター・ポーンさんも亡くなりました。番組に登場する他のレスラーの方も…。今やほとんど小人プロレスは虫の息です。いや、全女が解散した今となっては、日本の小人プロレスの歴史はとりあえず閉じられたと考えていいと思います。淋しいことです。
 中世、いやそれ以前から続く、日本の見世物文化。私はそれはほとんど正しい文化であったと思いますが、近現代はそういった「モノ」を否定してしまいました。かろうじて残った「相撲」も、西洋のスポーツの観念で変形させられ、見るも無残な様相を呈しています。残念です。プロレスより総合格闘技の方が流行るご時世にろくなことはありません。
 臭いモノ、不都合なモノ、まつろわぬモノは語り継がれずフタをされ、なかったものにされてしまう。まさに1か0かのデジタル社会です。せめて、その1が「正常」、0が「異常」という意味でないことだけを祈りたいと思います。
 番組中、一人の先輩レスラーが、「オレたちは笑われてるんじゃない、笑わせてるんだ」という意味のことを力強く繰り返していたのが、今回もまた心に残りました。

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2006.02.21

『音コレ』(野口五郎プロデュース)

goro11 昨夜寝る前にBS朝日の「ワンダーナイト2」を見ました。ゲストは野口五郎さん。私にとって五郎さんは憧れの人です。
 小学生のころ、姉がファンだったこともあって、けっこう聞かされていました。哀愁漂う演歌調アイドルポップスは私の音楽観の形成に多大な影響を与えたと言えるでしょう。中学生になって、ロックに目覚め、楽器を始めた頃には、今度はギタリストとしての五郎さんの影響を受けました。ラリー・カールトンに憧れ共演まで果たした五郎さんでありましたが、どちらかというと私には和製サンタナという気がしました(あの泣きはサンタナ以上かも)。
 で、昨日は久々に五郎さんの元気な姿を拝見したのですが、いろいろなお話の中で、コレが一番面白かった。コレとは「音コレ」のことです。その中でも、「ものまね もしも?シリーズ」は大爆笑。五郎さんが超一流のものまね芸人さんたちをプロデュースして、「もしも、あの人があの曲を唄ったら」という夢を叶える企画です。
 早速、検索して「音コレ」のサイトに行ってみました。これは…!!たまりませんねえ。すごいとしか言いようがない。プロの芸とはこのことでしょう。アイデアはもちろん、それをこのレベルで実現してしまうなんて…脱帽。
 こんなのが並んでます。ちょっと下のリンクをクリックしてリストを見てみて下さいよ〜。

   もしも?のリストを見る

 お金を払わなくとも試聴ができますので、ちょっと聴いてみて下さい。とりあえず「川の流れのように」のいろいろなヴァージョンだけでも聴いてみてはいかがでしょう。もう笑うよりも何よりも感心しますよね。すごいですね。
 マネされる人の個性がまずものすごいのでしょう。そして、マネする人の技術。そしてその間に入ってアレンジメントやデフォルメをするプロデューサー野口五郎のセンス。すごいなあ。
 とにかく、その楽曲の個性、および、そこにインプットされているオリジナル歌手の個性と、置き換えられた歌手の個性、そしてマネをしている歌手の個性が、折り重なり、織り交ぜられ、そしてぶつかり合うわけですからね。全く新しい形のコラボレーションです。
 昨日の番組の中でもおっしゃってました。もっと音楽を楽しもうと。そう、こうして提供する側も受けとる側も、共に楽しむ。幸せな音楽のあり方です。そう言えば、森進一と五木ひろしで「青春アミーゴ」とか言ってたなあ。あ〜聴いてみたい。
 この「音コレ」、ものまね以外にもいろいろと魅力的なコンテンツが詰まっています。しっかりお金を払って手に入れたいものがたくさんありますね。皆さんもぜひ楽しんでみて下さい。
 ちなみにあさっては五郎さんのお誕生日です。1956年生まれですから…知命ですか。おめでとうございます!
 
音コレ
野口五郎公式

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2006.02.20

林泉堂 『秋田のラーメンセット』

big022423_21 B-1(B級グルメグランプリ)は「富士宮のやきそば」が優勝だそうですね。2位は「横手のやきそば」です。
 富士宮は静岡、横手は秋田、ということで、私とカミさんのご当地でもあります。よって、両者ともけっこう食べてます。たしかに甲乙つけがたいB級ぶりであり、B級好きの私たちとしては、今回の結果は嬉しい限りです。ちなみに私たち夫婦もB級どうし甲乙つけがたい。
 同じやきそばでもかなりそのテイスト(B級ぶり)には違いがあります。蒸し麺と茹で麺というだけでも、その違いは明らかですね。上の画像は「横手」であります。
big000101_21 さてさて、今日はその片っぽ秋田の麺のお話です。秋田の麺と言えば「林泉堂」です。地元のみならず最近では全国レベルで「林泉堂」は有名ですね。いや、実は義理の弟、つまりカミさんの弟君が、林泉堂さんに勤めてるんですよ。毎日一生懸命製麺に励んでるというわけです。
 で、最近弟君に「秋田のラーメンセット」を送ってもらったんです。それがとってもおいしかったんで、今日ここにおススメいたします。
 モンドセレクション他国際的な賞を受賞している、秋田の定番「特別製造比内地鶏ラーメン」と、煮干しと鰹だしの「十文字ラーメン」、それに加えて「ノーマル版十文字ラーメン」「十文字みそラーメン」「秋田しょっつるラーメン」がセットになっています。それぞれこだわりの素材と調理方法で見事な旨さを醸していますよ。
 消費期限が15日ですので、18袋消費するのはけっこう大変でしたが、あんまり旨いんで一食に2杯食べたりしました。どれも比較的あっさり系でして、私の好みにかなり合っています。麺のバリエーションも豊富でして飽きがきません。私はラーメンマニアではないのですが、こうした袋入りラーメンの中では今までで一番納得のいく味でした。
 ほかのセットもおいしそうですねえ。「秋田の麺セット」には「稲庭本生うどん」「玄挽きそば」「あつあつ亭の横手焼そば」が、「モンドセレクションセット」には「秋田比内地鶏ラーメン」「特別製造十文字ラーメン」「玄挽きそば」「稲庭本生うどん」「冷麺」が入っています。
 たしかに当地で食べた「稲庭うどん」も「焼きそば」も「そば」もおいしかった。そこにラーメンも加えて、いつのまにか秋田は麺王国になりましたね。それぞれ、山菜や伝統的な郷土料理や日本酒との相性もよく、それらとの組み合わせも楽しみです。
 ふつう米の産地では麺類はあまり発達しないものですが、米ばかりでは飽きちゃうんですかね。私たちの現ご当地である山梨などは、基本的に米が取れませんので、仕方なく「そば」や「うどん」や「ほうとう」が発達しました。それはそれで嫌いではないのですが、ある意味主食なので生活臭が強く、つまり遊び心やこだわりがなく、正直「うまい!」という感じがしないんですよ。その点、秋田の麺には余裕が感じられます。
 この春には再び秋田を訪問して、いろいろな麺を食べ歩きたいですね。ただ、私は一日一食なのでちょっと不利なんですけど。
 とりあえず皆さんも下のリンクから注文してみましょう!弟君のためにもよろしくお願いします!

林泉堂 ラーメン通信
林泉堂通販サイト

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2006.02.19

池田屋 『ぴかちゃんらんどせる』

pika1501 長女が今春小学校に上がります。そのための一つの儀式として「背嚢購入」があります。日本の伝統文化です。
 「背嚢」はやはり軍隊用品でありました。セーラー服も同様ですが、日本の学校文化には軍隊文化が多く取り入れられています。そこに抵抗感を抱く方も多いと思いますが、軍隊のシステム自体には学ぶべき点もありますから、いいものはいいで残した方がいいと思っています。いずれにせよ原理主義はいかん。
 そんな背嚢…いやランドセルと呼びましょう。そうそう、このランドセルという言葉、ほとんど日本語と言ってよいでしょう。だから池田屋さんが「らんどせる」と平仮名書きするのも理にかなっているかも。ランセルと言えば通じる国もありますが、ランドセルは日本だけでしょうか。しかし、ウワサでは最近ランドセル様の背負いバッグが、世界中ではやっているとか。たしかに、両手が自由になる便利さと安全さは素晴らしい。それも日本のランドセル文化は成熟していますから、単純にバッグとして考えても、相当に完成形に近づいた製品と言えます。それが、世界に発信されて認められるのも当然と言えば当然でしょう。
 さて、ウチでも今日その伝統的儀式が執り行われました。まあ、私のことですから、皆さんご想像の通りに、かなりこだわりました。研究に研究を重ねること半年。最終選考に残り、そして見事に我が家御用達となった職人さんは、「池田屋」さんでした。おめでとうございます(?)。
 選考理由は書き出すと長くなりますので省略しますけれど、まあとにかく各メーカーさんの製品を手に取って見て触っての結論ですよ。私なりの「目利き」と「見立て」です。物作りにどこまでこだわっているかが究極の視点です。
 娘は今どきのきらびやかなものや、キャラクターもの、今風なデザインのものなんかに目が行っていたようですが、やはりシンプルで伝統的な学習院型がいいですね。私は縫製の質にかなりこだわりました。長く使えるもの、また長く使ううちに良さがわかってくるもの、そして使用期間が終わった時に捨てたり譲ったりできなくなるもの、そういうものを選びたいですね。
 というわけで、今日は池田屋さんの静岡店へ行って最終選考。店員さんの懇切丁寧な説明にも好感を得て、予約注文してまいりました。予約を受けてから一つ一つ作るわけですから、納入は3月末となります。
 このランドセルとともに娘がどういう6年間の時を過ごすのか、楽しみであり、ちょっと不安でもあります。自分の小学校時代も重ね合わせて、妙に感慨深いものがあります。これもまた「もののあはれ」であります。時と人の避けられない関わりあい。古語「あはれなり」がプラスの感情もマイナスの感情もカバーしたのは、時が人にその両方を与えたからです。
 別に池田屋さんの回し者ではありませんが、まだランドセルを購入していない方、一度下のリンクからそのこだわりの職人技を御覧下さい。6年間無償修理というのもいいですね。故意に破壊してもタダだそうです。思い切ったサービスだと思います。

池田屋

池田屋カバン店(楽天)


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2006.02.18

『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』 安部司 (東洋経済新報社)

4492222669 これは良書です。国民の教科書ですね。絶対におススメです。
 久々に原理主義的でない本を読みました。最近売れる本は、たいがい極端な論調のものが多い。そんな中、この本は非常にバランスのよい内容でした。
 食品添加物の元トップセールスマンにしかわからない、添加物の危険性、食品加工現場の恐ろしい風景…。これだけなら、いつぞやの「買ってはいけない」のように、単純に恐怖をあおるだけの内容になっていたでしょう。この本でもたしかにそういった恐怖はいやというほど味わえますよ。しかし、この本の素晴らしいところは、そこで終わっていないということです。
 なぜ、添加物が必要なのか、そしていかに我々が添加物の恩恵を受けているか、そういった点についても詳しく説明されています。また、食品業界に「情報公開」を求めることも忘れません。「天然」「手作り」と言った言葉の裏側の危険性も指摘されています。
 そして、何と言っても、この本の中心的主題は、最終章にあると思います。ただ単に添加物を敵視することなく、自分がどういうスタンスでそれらとつきあっていくべきか、その決断を読者に迫る内容になっているのです。子どもの味覚が壊されていく。食の乱れは食卓の乱れ、食卓の乱れは家族の乱れ、家族の乱れは社会の乱れ、社会の乱れは国家の乱れ。そうした現代において、私たちは真に賢い消費者になるべきであり、賢い親になるべきであるのだと痛感させられます。
 実は最近の私、添加物アレルギー気味なんですよ。一日一食生活を初めて、そろそろ2年になりますけれど、かなり体の中が浄化されたようでして、体に悪いものが体内に入ると、覿面に反応するんです。しかし、一方では花粉症が治ったりしていますから、単純に異物は排除しようとしているわけではないようですね。なんとも人間の体は不思議なものです。
 大学生から結婚するまで、私はほぼ15年間一人暮らしをしていました。その間食事はほとんど全てコンビニ弁当。ものすごい量の添加物を摂取したと思います。保存料が体に蓄積しているのでオレは死んでも腐らんぞ、なんて冗談を言うほどでした。
 それが、今はもう、あの添加物名の並んだラベルを見るだけで、顔が汗を噴くんです。つまり精神的なものもあるわけですが、とにかく体も心も添加物を拒否するようになってしまったんですね。
 この前、外出したついでに、久々に昼飯を食べました。それもマックです。そうしたらなんと「スーパーサイズ・ミー」よろしく、1時間後に全て吐いてしまいました。これも半分は精神的なものだと思います。しかし、とにかく今の私にはマックは必要ないということだけは確かなようです。
 「食品の裏側」は本当にいろいろなことを私たちに教えてくれます。食品における添加物と同じような存在は、他の分野にもいくらでも見出せますよね。そこまで思いを馳せると、この本はまさに現代と現代人のあり方を問う内容であることに気づきます。ただただ、安く早く簡単に、そして大量に。本当にそれでいいのでしょうか。本書にもありましたが、交通事故が起きて多くの人が亡くなるからと言って、車を廃止することはできません。原始時代に戻ることはほとんど無理なのです。では、私たちは、現代の「光と影」、「功と罪」、「便利と危険」などとどうつきあっていけばいいのでしょうか。そのヒントを安部さんは提示してくれています。この本の最後の最後にこうあります。
 「いったい私たちは、何を得て、何を失っているのか。本書が、それを考えるささやかな契機になることを、願ってやみません」

Amazon 食品の裏側

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2006.02.17

『「超」読解力』 三上直之 (講談社+α新書)

4062723476 先日、カリミさんという読者の方からリクエストをいただきました(ありがとうございました)。「読解力」をつけるにはどうすればいいか、教えて下さいとのこと。
 その問いに答えるという意味で、今日はこの本を紹介いたします。この本はいいですよ。もう私の言いたいことはほとんど全てここに書かれています。ですから、私がここで「読解力はこうつけろ!」と言うよりも、ホントこの本をまずは読んでみて下さい。なんか、人まかせな感じですが、本当ですから仕方ありません。
 「読解力の三つのポイント」を引用させていただきます。

 読解力とは…
 次の三つが組み合わさった総合的な能力
1語彙や文法など日本語についての一般的な知識
2文章を構造的に理解するための論理的思考力
3文章の内容についての背景知識 

 全くその通りだと思います。この本では特に2について詳しく述べられています。論理的な読みの技術について、非常にていねいに分かりやすく具体的に書いてあります。それも特別な読解力を必要としない文章でね。そうなんですよ、いつかも書きましたが、文章が分かるかどうかって、書き手の問題でもあるのです。そのことについては『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』のところにも書きましたから御覧下さい。
 特に、大学入試の問題になるような文章は、正直名文ではないものが多い。難解に書くことによって、内容が重いかのように偽装する。まあ、それもグローバルな伝統的レトリックの一つであるわけですが。私もよくやりますし。
 さて、国語の読解といえば、私としてはまず出口汪さんですよね。受験国語界ではカリスマ的存在です。そして、あの出口王仁三郎聖師の曾孫にあたる方でもあります。たしかに言語に対する感覚や、膨大な仕事をこなすエネルギーは、オニさん譲りと言えるかもしれません。ちなみにお父様は、これまたカリスマ性をいかんなく発揮していらした出口和明さんです。う〜む、カリスマ性は遺伝するらしい。
 三上さんのこの本も、基本的には、出口さんのおっしゃる論理的な読み方を推奨しております。当然です。これしかないわけですから。王道というわけです。で、邪道外道好きな私としては、その王道に加えて、次のことをおススメしておきます。
 難解な文章を読むには、相当の集中力を要します。私の教室ではその集中力をマンガで鍛えます。とにかくマンガを一冊15分で読めるようにするのです。これができる生徒の長文(和・英とも)を読む早さは抜群です。それはそういう読解に要する集中の状態を経験しているからです。マンガに没頭している脳の状態です。早ければ論理的検証の時間が増えますので、結果として読解力が増します(ちなみに私はマンガさえも集中して読めない困ったチャンです…いつも妄想との戦いっす)。
 上に引用した「三つのポイント」の1と3については、以前紹介したこちらこちらこちらが役立つでしょう。
 あとは、私の授業の雑談をよく聞くことと、私が見せるビデオをよく見ることと、このブログを毎日読むことですね(笑)。かなり個性的な読解力が身につきます。個性的じゃダメなんじゃないかって?いやいや、ウチの生徒たちはちゃんと使い分けられますよ。個性的な方は小論文とか面接で使うんです。けっこうそっちの方が人生においては役立ったりしますしね。
 というわけで、カリミさんごめんなさい。結局人の本を紹介しておしまいです。最後に書いたことは半分冗談ですけれど、とにかく毎日の生活の中で、しっかりアンテナを張り巡らせて、たっぷり電波を受信することです。究極的にはそれが読解力をつける王道かもしれませんね。
 あっそうそう、こうしてブログやら日記やらで文章を書くことも大切ですね。「書ければ読める」…これは、外国語においても古文においても漢文においても真実であると確信しています。

Amazon 「超」読解力

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2006.02.16

レミオロメン 『3月9日』

B000197M24 極寒の地富士北麓も、たしかに立春を過ぎると春らしくなってきます。寒さの匂いが変わってくるのです。そして、別れと出会いの季節。
 例えば今日。クラスの生徒からいくつかの大学合格の報が。私自身ではどう努力しても入れないような大学名が並びます。先生として本当に嬉しい瞬間です。こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、自分があきらめた夢を間接的に実現できるのです。
 今日、最も嬉しく、そして半分嫉妬したのは、『日芸の放送』でしょうか。いきなりクドカンの後輩かよ!この生徒に限りませんが、ともに勉強し、準備し、そして試験当日も大量のメールのやりとりをしながら、ほとんど自分も一緒に受験しているような感じでしたから、喜びもジェラシーもひとしおです。
 彼らはこうしてそれぞれの道を歩んでいくのです。ちょっぴり嬉しくちょっぴり悲しく…。この切なさが「もののあはれ」でしょうね。
 今日は、進路が決定している3年生のために、「予餞会」が行われました。3年生を送る会ですね。昨年は平原綾香の「明日」をチェロで演奏しました。今年は、軽め(重め?)のコントをやって盛り上げた(ドン引きさせた?)のち、レミオロメンの「3月9日」をヴァイオリンで演奏して、ちょっと切ない雰囲気にさせちゃいました。
 この曲は、私にとっては昨年から春の定番曲です。ただ、昨年の今ごろは、地元山梨でもそれほど有名ではありませんでした。今年はもう知らない人はいないでしょう。みんなしんみり聴いてくれましたよ。
 世間では「粉爺」…いや「粉雪」が大ヒット中ですが、ワタクシ的にはこちらがレミオロメンのベストですね。これほど心にしみる音楽は久しぶりです。まさに彼らのインディーズ時代、すなわち山梨時代を象徴する、温かさと切なさに満ちた曲であります。
 ここでも音楽的な分析を施すつもりでしたが、それも野暮ですね。ただ一言、シンプルな循環コードの上に、起伏に富んだ美しい日本語のメロディー、とだけは言っておきましょう。そして歌詞ですね。決して洗練されているとは言えない、しかし生きた人間の人生や生活に根ざした言葉です。
 「エーテル」について書いたとき、小林武史プロデュースについての心配は杞憂であったとしました。実は今はちょっと違った気持ちなんですよ。やっぱり、聴き込めば聴き込むほどに、小林臭が鼻につくようになってきてるんです。彼の天才ぶりはもちろん認めますし尊敬します。そして、レミオロメンも彼のおかげでこうしてメジャーになれたと思いますよ。でも…。
 ものすごく乱暴にわかりやすく言ってしまうと、ストリングスが邪魔なんです。ストリングス大好き人間の私でも、彼らの音楽には、それは不要というか、似つかわしくないと感じるのです。だから、「粉雪」のカップリングに収録されているストリングス・バージョンの「3月9日」は…正直何度も聴こうとは思いません。まあ、これは私の趣味の問題ですから、こうして公にすべきことではありませんがね。
 いずれにせよ「3月9日」は、私にとって、この季節の切なさを象徴する曲となりました。おそらくこれから死ぬまで変わらないでしょう。今日は一方で、来年度自分のクラスの生徒になるであろう中学生も登校しました。3年後彼らにもこの曲を贈ることになるのかな、なんてふと思ってしまいました。時は流れる。
 こんな素敵な曲を生んでくれたレミオロメンと山梨の風土に心から感謝します。

レミオロメンのチケットゲット!

3月9日再び〜「縁」と「恩」

Amazon 3月9日

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2006.02.15

紀貫之 『古今和歌集仮名序』

buntu93011 「私、女だけど…」
 ネカマっていうのがいますねえ。ネット上の掲示板とかで、ホントは男のくせに女言葉で書き込むヤツ。私もやったことあります。だってその方が2ちゃんでは優しくしてもらえるんだもん。
 で、そういうのは最近の話かと申しますと、もう皆さんご存知の通り、昔からそういうヤツいました。日本語は世界的にも珍しく、文体の性差が大きい。つまり、「私、女だけど…」って書かなくても、女であることを表明できるわけです。近いところでは太宰治の「女生徒」なんか、ちょっと気持ち悪いくらいです。生理的文体とでも言いましょうか、やっぱり彼は天才です。
 もっともっと古いところ…というかおそらく世界最古のネカマは紀貫之でしょう。土佐日記は冒頭からしてキモイっす。あれを学校で暗誦させたりするのはどうなんでしょう。「私、女だけどぉ…」って言ってるわけでして。
 それで今日はその紀貫之さんに登場願いました。「古今和歌集仮名序」、例の「モノ・コト論」関係で久々に解釈し直してみました。これもカマ体で書かれています。当時、男がカナで書くこと自体カマでした。
 岡田斗司夫先生ワタクシが前々から言っておりますし、最近では本田透さんの「萌える男」にもありましたけれど、「萌え=をかし」の感情、つまり「オタク的」な嗜好というのは、元来女性的なものです。刹那的、ミーハー的なんですね。いつも書いていますように、時間の流れを微分しつくして、時間の流れに伴う変化(それがつまり「意のままならない」という「モノ」の性質ですね)を無視する姿勢です。
 古来男性はそういう嗜好や指向や思考を許されなかった。したいのにできなかった。その足かせになっていたのが、例えば「武士道」です。「もののふの道」です。「もののあはれ」を直視するのが男らしいと。しかし、一部の男性には「萌え」も許されていました。貴族たちです。経済的にも時間的にも精神的にもゆとりのあった彼らは、「オタク」であることを唯一許される存在でした。
 その後、江戸時代には町人でさえ貴族的な文化を享受できる余裕を与えられました。そして、現代日本は言わずもがな。誰ですか、「下流社会」とか言ってるのは(笑)。アキバのあのきらびやかさは、どう考えても貴族文化じゃないですか。国風文化ですよ。
 だから、その反動で「国家の品格」が売れるんです。そういう構造については、なぜ誰も何も言わないんでしょうねえ。まあ、私の視点がちょっとおかしいんでしょうけど。
 おっと、またまた前説が長くなった。で、えっと…あっそうそう、世界最古のネカマ?紀貫之さんです。貴族です。彼(彼女)がエディターを務めた最古の勅撰和歌集である「古今和歌集」。ん?ってことは天皇家ってやっぱり「オタク」の頂点に君臨する存在なんだな。だって「みコト」だし。また話がそれた。で、その和歌集の序ですが、これは古来素晴らしい素晴らしいと言われてきたものです。ネカマをそんなにほめていいんでしょうかね。本居宣長もそうとう入れ込んでる。当時の京言葉で訳したりしてるんですが、それがまた全然ダメダメでして…。というわけで、解釈しなおしてるんですけど、今日はその有名な冒頭部分だけ紹介します。

 やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、ことわざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。

 これはよく読むと面白いですよ。「こと」と言う言葉が出てきますね。これは今までは単に「言葉」と訳されてきました。私は違います。「こと」は人間の脳によって認知され内部化された「もの(だったもの)」を指すと考えていますからね。まあ、例えば何か景色を見て感じ入ったとして、それを和歌にしますね、そうすると、創造された和歌そのものを「こと」と呼ぶのです(朗詠されたり、紙に書きつけられていなくても)。わかりやすく言うと「作品」とか「メディア」ということですかね。
 そう考えると、この仮名序はとても示唆に富む文章です。我流の訳をしてみましょうか。

 和歌は、人間の心を種として、たくさんの作品が生い茂る葉のようになっているものだったのです!世の中に存在する人間は、なんでもかんでもカタチにしたがるものなので、心に思うことを、見るもの、聞くものにつけて、和歌として言い出しているのです。

 最初の「種」と「葉」はレトリックです。そこの味を上手に訳さなきゃ。「ことわざ」が面白いですね。これは養老さん的に言うと「脳化」のことですよ。「ことわざ」は漢字にすれば「事業」です。人間は昔から「事業」が好きだったんですね。ホリエモンみたいに。とにかく外部の「もの」を自分の「もの」として…内部になったとたん「こと」なんですが…保存したい。現代ではそのメインメディアが「金」なんです。
 心におもふ「こと」っていうのもさりげないけれども面白いですね。やっぱり「こと」は心の中にあるんです。心で思った(考えた)その時点ですでに「コト」なわけです。そうすると、「語る」「歌ふ」「詠む」などの「ことわざ」以前の「こころの種」とは何か?しかと考える以前の予感のようなもの、そう、それはまだ「モノ(外部)」だと思うのですが、それは何なんでしょう。外部が内部に浸入してきた瞬間…。
 私はそれが、茂木健一郎さんの言う「クオリア」だと思うのです。
 と、いうところで今日はおしまい。長くなってしまいますので、またいつか。というか、この先はまだ考えてません。「コト化」されましたら,また言い出します。
 いやはや、人間の「ことわざ」=「コト化作業」って本能なんですね。止まりません。やっぱり私もオタクですね。貴族なんだなしょせん。ホリエモンも小泉さんも(笑)。

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2006.02.14