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2006.02.28

ルイス・クラーク 『透視画法』

Louis Clark (per-spek-tiv)n.
B00004HYM5 ものすごい名盤?それとも迷盤?ジャンルを超えた壮大な音絵巻…私は好きです、これ。
 今日は卒業式でした。国立の結果も出ていないし、本校の伝統として、生徒とは一生のつき合いになるので、別に感傷的になるわけでもありません。ちょっと面倒な行事がつつがなく終了した程度の感慨です。
 では、自分の高校卒業式はどうだったろう…と思い出そうとしても思い出せません。別に認知症になったわけではありせまんし、当時登校拒否していたわけでもありません。卒業式がなかったからです。いや、あったのかなあ?とにかく出席しませんでした。なんとわが母校では、国立の2次試験の日に卒業式が行われたのです。よって、ほとんど国立志望者で占められているわが母校では、だ〜れも出席できないようになっているのでした。つまりやる気、元からなし。なんと卒業アルバムもありません。なんともあっさりとした学校です。それが伝統であり、校風であったのでした。
 その頃の私が聴いていた音楽はどんなものだったのでしょう。高校3年の頃は、すでにロックやポップスは卒業し(のちに再入学しますけど)、いっちょ前にバッハなんぞに傾倒していたような記憶があります。ある意味暗い受験生ですなあ。フュージョンからジャズへの流れも始まっていたかもしれません。
 さて、そんな頃、本当によく聴いていたアルバムがこれです。私のロックからクラシックへという流れの中で、実に絶妙な位置につけているこのアルバムなんですが、いったい何人の日本人が持っている、いや知っているのでしょう。私は、国内盤(もちろんレコード)が発売されてすぐに買い求め、それをオープンリールのテープレコーダーに録音して、自作のオーディオで聴いておりました(う〜む、時代を感じる)。もちろんカセットもあった時代ですが、私は特にお気に入りのレコードに関しては、父親から譲り受けたソニーのオープンリールに録音していたんですよ。それも超高級なオープンリールDuad(Fe-Cr)にね。今のデジタルオーディオからすれば、なんじゃ?という世界ですが、こだわりのアナログオーディオには、「気持ち」が入りますからね。数値では表せない「いい音」がするんです(自分には)。
 昔はそんなふうにかなりのこだわりを持っていた私も、今ではアナログレコードをCDと交換してしまうくらいダメ人間になってしまいました。ですから、当然このアルバムも全然聴いていなかったんですよ。しかし、ふとしたことから急に(四半世紀ぶりに)聴きたくなりまして、地下室からひっぱり出してきました。しかし、レコードプレーヤーは10年以上前に故障して以来、一度も回転しておりません。というか、どこに埋没しているかもわからないんです。かと言って、このアルバムのデジタル盤を持っている人なんか、身近にいるわけない。だからこの前のように、交換を申し出るわけにもいきません。で、仕方なく輸入盤CDを最近購入したのです。そして今日、若かりし頃を思い出そうかと、聴いてみました。
 このアルバムの内容及びルイス・クラークにいつては、ELO関係のカリスマ的存在TKJさんのこちらの記事に詳しいので、ぜひ御覧下さい。そこにもありますように、ルイス・クラークさんは、ELOを特徴づけるあの壮大なストリングスのアレンジを担当していた人です。いや、そう言うよりも、クラシック名曲メドレーである「フックト・オン・クラシック」シリーズの人、と言った方が分かりよいかもしれません。
 というわけで、ここには、ほぼ四半世紀ぶりに聴いた私の、率直な感想を記しておきましょう。あの頃よりはかなり私も音楽に詳しくなりましたので、やはりそれなりに聞こえてくる音も違ってきます。
 いや、だから最初に書いたように、これはとんでもない名盤ですよ。トンデモの一歩手前と言えば言えないこともありませんが、なかなかハイレベルな音楽的挑戦、実験であったと思います。
 有名なクラシックの作曲家のメロディーも時々出てきますけど、基本的には彼のオリジナルメロディーが延々と展開されています。A面、B面ともに全てインストゥルメンタルです。ロックバンドとオーケストラが共演して、ロック・シンフォニーをやっちゃった、それもボーカル抜きで、って感じですかね。
 ここでのルイス・クラークの作曲能力の高さは並みではありません。オーケストレーションはもちろん、美しいメロディーを創ることにも成功しています。録音当時、彼はまだ30歳そこそこだと思います。なかなかやるな。
 あと、今回家族も初めて聴いた(聴かされた)んですけど、子どもはけっこうノリノリでしたし、カミさんはなかなか鋭い指摘をしていました。つまりこういうことです。曲想が変わるたび、彼女はいちいちこう言いました。「ELOじゃん」「アニソンじゃん」「戦隊もののオープニングじゃん」「演歌じゃん」「80年代歌謡曲じゃん」「NHKの子どもの歌じゃん」「ボンドじゃん」「女子十二楽坊じゃん」「奥田民生じゃん」「小林武史じゃん」「フィギアスケートの曲じゃん」…。な〜るほど〜、言われてみればそうかもしれない。
 たしかに、ルイス・クラークのオーケストラ・アレンジメントは、直接間接問わず、現代の日本、いや世界のポピュラー・ミュージックにものすごい影響を与えているかもしれない。たとえば、ビートルズにおけるジョージ・マーティンやフィル・スペクターのアレンジとは一線を画す、どこか大衆的な弦の響き。そのアイデアとテクニックの全てが、彼のこの最初で最後のソロアルバムに詰め込まれているような気がしてきます。いや、冗談抜きで、ELOという壮大なスケールのバンドに乗って、ルイス・クラークの遺伝子は世界中にばらまかれたのかもしれません。
 正直、演奏は、アインザッツがめちゃくちゃだったり、リズムがバラバラだったり、とんでもなくアナログなことになってます。まあそれは良しとしましょう。打ち込みオケ隆盛の今となっては、それが逆に魅力的に聞こえるくらいですから。
 う〜む、これは再び聴き込んでみたいアルバムですねえ。もう一度こういうコンセプトのアルバムを作ってくれると、ホントうれしいんですけど。たぶん日本でも2枚は売れます!

Amazon (per-spek-tiv)n.

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2006.02.27

『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』 長山靖生 (光文社新書)

4334033334 長山さんに「不勉強が…」なんて言われると、まったく立つ瀬がないワタクシであります。
 こちらでも紹介しました長山靖生さんは、私にとってちょっと身近な憧れの人です。いや身近と言っても、知りあいとか近所に住んでるとかではありませんよ。なんというか、勝手な親近感を持っているのであって、私に憧れられる長山さんに罪はなんにもありません。
 例えば、この本など、端から端までほとんど知ってる話なんですね。もちろん細かいところには今回初めて知ったということもたくさんありますが、トピックとしては全部私の興味の対象、もしくは私の得意なものなんです。
 受験勉強、趣味、読書、育児、ゆとり教育、個性、国語、数学、倫理、歴史、物語、論理的思考力、芸術、プロ…こうしたキーワードを挙げるだけでも、なんとなくそのことをお分かりいただけるのでは。
 ですから、読みながら首肯すること数百回。大いに納得して、大いに学び、大いに勇気づけられました。こういう読書は楽しくていいですね。気の合う、しかし明らかに自分より秀でた人と、さしで飲んでいる感じ。
 長山さんを知ったのは、以前の記事に書いた「偽史冒険世界」ででした。つまり元はと言えば、トンデモつながりなのです。まさに「偽史」をライフワークにしようとしていた(今でもしてると言えばしてます)私にとって、長山さんの客観的な、しかし愛情に満ちた態度は、ものすごく大人に感じられました。
 「不勉強が…」にもありました。「信じる」ことは「思考停止」を意味すると。そこに「物語」が侵入すると。かと言って、ハナから「物語」を否定するわけではない。これは私の理想とする姿勢そのものです。今回思ったのですが、こういう私自身の自分らしさみたいなものは、実は長山さんに教えていただいたのかもしれません。あの本を読むまでの私は、実は「思考」しているふりをしていて、実は「思考停止」していたのかも…。
 あと、憧れのもう一つの理由ですが、ずばり文章ですね。漱石の研究家でもある長山さん、やはりどこか漱石を彷彿とさせるところがあります。漱石のエッセイみたいなんです。軽妙洒脱な中に、本質をズバリ。批判精神に満ちているのですが、鼻につかない、角が立たない。謙虚な中の確かな自己顕示。いいですねえ。誰かさんのように角だけ立って中身がないのとは大違い(あっ、誰かって私のことですから、勘違いしないように)。そう、長山さんは、原理主義からとっても遠いところにおられるんです。そして愛情、ユーモア。やはり文は人なりですな。
 歯科医にして文筆家。二足のわらじも履きようです。大いに見習いたいですね。

Amazon 不勉強が身にしみる

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2006.02.26

本日は音楽三昧でした…感じたこといろいろ

104_s 朝起きるとずいぶんと雪が積もっていました。そんなわけで予定していた東京行きを断念して、久々に家でまったり過ごしました。
 雪のせいか地上デジタルの受信状況が良くなく、なんとなくBSデジタルを見ていたんですが、期せずしていろいろなジャンルの音楽に触れることができ、音楽についてホントにいろいろと考えさせられました。
 まずはお昼、NHKのど自慢ですね。今日は珍しく東京での収録だったのですが、やはりあの不思議な地方性を醸し出していましたね。あの番組、きっと好きな方がたくさんいらっしゃるので、ああやって長寿を保っているのだと思いますが、どうも私にとっては「かたはらいたき」番組なんですね。シロウトの方の悦に入ったパフォーマンスというのが、どうも苦手らしい。
 いや、実は最近、のど自慢級の痛さを感じる番組がたくさんあるんですよ。つまり、ミュージシャンや芸人さんたちが素人化しているということです。例えば、そののど自慢の隣で放映されていたBEAT MOTION。デビューしたての新人ミュージシャンを中心とした音楽番組のようですが、こちらも…。ご本人たちは頑張っているわけで、私なんかに言われたくないでしょうが、ちょっと辛いんですね。おそらく業界のあり方がよくないのだと思います。大量生産して、当たれば儲けもの。
 その業界ということでは、2時からのBSフジ「Re:演歌〜ヒットメーカー達のプロジェクト」もある意味「かたはらいたし」でした。演歌界の凋落ぶりを憂えた業界トップのお三人さん(弦哲也・吉岡治・千賀泰洋)が、なんとか演歌に活気を取り戻そうとして、つまり「演歌再び」という意気込みで、奔走するという内容の番組でありました。なんとかしよう、という気持ちはそれこそ痛いほど感じましたが、一方ではそれこそ痛々しいものを感じてしまいましたね。結局世間にも歌い手にもそっぽを向かれてしまう結末は、番組としての予定調和を破って実に生々しい現実を突きつけていました。
 必要とされる音楽は変わっていくのだ。それをつくづくと感じましたなあ。あがいてももがいても仕方がないことです。モーツァルトの時代にフーガを再び主役にしようとしても無理です。老バッハが「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」といった宇宙レベルのものを創っても、その時代においては全く意味を持たなかった…。
 とか言いながら、単純なウチの家族は「よし、明日の演歌界を担うのはウチだ!」と叫んで、直後カラオケボックスに行きました(笑)。最初はまじめに娘の歌唱レッスンでもしようかと思っていたのですが、実際は…両親の勝手な大熱唱大会になってしまいました(トホホ)。ちなみに私が歌ったのは、ACIDMANの「季節の灯」、イエモンの「空の青と本当の気持ち」、レミオロメンの「3月9日」、そしてELOの「トワイライト」です。う〜、これこそ「かたはらいたし」でしょうなあ、ははは。
 で、もう一つ。ダメ押し。食事をして帰宅すると、楽しみにしていたこの番組が始まっていました。BSiの「シカゴ&アース・ウィンド・アンド・ファイヤー ライブ」です!これはすごかった!この歴史的な2バンドが一緒にやるということ自体信じられません。そして、その内容が…かっこよすぎっす。まさに「いとをかし=超萌え〜」ですよ〜。もちろん録画しました。アメリカに流れ込んだ「ヨーロッパ」と「アフリカ」のせめぎ合いと融合…ホントはっきり聴きとれました。
 音楽ジャンルの寿命なんてないっすよ(さっきと言ってること違う)!いや、ジャンルには寿命があるのかもしれませんが、いい音楽自体には寿命はないんです。バッハが数百年後にも生きているように。
 それにしても、ああいう風にかっこよく年取れたらいいなあ。アメリカの成熟した音楽界の良い部分ですね。いいものはいつまでもお金になる。日本で言えばそれこそ演歌界の重鎮のような彼らでありますが、お客さんには若い人たちもたくさんいました。やはり聴く側の問題なのかなあ。
 ふぅ、いろいろと考えさせられましたけど、うん、やっぱり音楽はいいねえ!という1日でした、ハイ。

Amazon シカゴvsアース・ウィンド&ファイアー 「ライヴ・アット・ザ・グリーク・シアター」

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2006.02.25

『をかし』の語源…『萌え=をかし論』の本質に迫る!

Shonagon21 今日は国立の2次試験の日です。教え子たちは我が校の伝統「勉強は楽しく、受験はもっと楽しく」を貫き、ホントにノリノリで試験に臨んでいるようです。すごいやつらだ。あの乗りで結果出すからなあ。
 で、担任は何をやっているかというと、いちおう古文のお勉強です(笑)。
 昨日予告しました「萌え=をかし」論です。今日は本質的なことを書いちゃいましょう。
 「萌え=をかし」は、私のオリジナル説ではありません(たぶん)。私のほかにも、そして、私より先に同様の実感を持たれていた方もいらっしゃるでしょう。しかし、本気度で言いますと、私はかなり高い方だと思います。自分の実感というか予感をなんとなく学問のステージまで持っていきたいのです(気持ちはね)。もちろん「物語論」の一部として、また日本文化史、日本精神史の一部として。
 さてさて、「萌え」と等号で結ばれている「をかし」ですけれど、「をかし」の語源にはいくつかの説があります。こちらで「痴(をこ)」説を採らないと書いていますが、では私はどの説を支持するかと言いますと、これです。

 「をく(招く)」が形容詞化したもの

 で、ちょっと専門的な話になってしまうのですが、日本語には「動詞が形容詞化したもの」がけっこうたくさんあります。古語で申しますと、たとえば次のようなものたちです。思いつくまま列挙します。

 あさむ→あさまし
 いとふ→いとはし
 なげく→なげかし
 なやむ→なやまし
 すさぶ(む)→すさまじ
 さわぐ→さわがし

 こんな感じです。おわかりになりますよね。で、こんな連中の中で私が注目したのは「ゆかし」です。
 「ゆく→ゆかし」 
 ですね。この「ゆかし」の原義は「行きたい」です。何かの目的があってどこかに行きたいんですね。当時はネットもありませんし、テレビもありませんし、本屋さんもありませんから、「見たい」「聞きたい」「読みたい」「知りたい」と思ったら、基本的に自分で行ってみるしかなかったわけです。ですから、「ゆかし」は現代語訳ではいろいろの「〜たい」になります。
 私は、「をかし」を、この「ゆかし」とペアとなる感情の形容詞として注目したのです(この二つをペアリングするのはたぶん世界初?)。
 「をく」は「まねく」という意味です。自分で足を運んで、未知の「モノ」を確認して「コト化したい」と思う感情が「ゆかし」なのに対して、眼前にあってすでに認知した「コト」でありながら、その「コト度」を高める、例えば「所有する」ために、こちらに「招きたい」と思う感情が「をかし」であると考えたわけです。
 枕草子の有名な冒頭部分で考えましょうか。「春はあけぼの」の後に「をかし」が省略されているという定説に従えば、春は「夜明けの時間帯」を「招き寄せて所有したい」ということなのです。現代人なら、写真に撮ったり、ビデオに撮ったりするでしょう。平安人ならやっぱり「和歌」でしょうか。そういう願望が、この前書いた紀貫之の言う「ことわざ(事業)」だと思うのです。
fl1 どうでしょう。「をかし」のニュアンスをおわかりいただけたでしょうか。「こちらに招き寄せて所有したい」です。そうすると、現代における「萌え」との共通性が見えてきませんか?「所有する」ということは「自分の思いのままになる」ということでもあります。「自分のもの(ワタシ的には「コト」ですが)にしてしまって、自分の思いのままにしたい」感情ということでは、「萌え」=「をかし」とならないでしょうか。
 昨日も書きましたように、私は残念ながらいわゆる商業的な「萌え」には萌えませんが、たとえば、このブログで毎日おススメしているような「モノ・コト・ヒト」は、常に自分の近くにおいておきたい。所有するというとおこがましい場合もありますが、とにかく自分の頭の中から消えてほしくない「モノ・コト・ヒト」なのです。つまり私の「モノ・コト論」的に言うと、「コト化」したい、そして「コト」であり続けてほしい存在というわけです。
 何度も繰り返しますが、時間的な変化をするのが「モノ」の本質です。それをなんとか固定しようとする行為が「コト化(例えば…カタル…そのほかにもあります)」です。その瞬間(たとえば「あけぼの」)を切り取って、自分の中で永遠化したい。それを現代のデジタル技術などでかなりの程度実現してしまったのが「オタク」たちだと思うのです…。
 ところで、枕草子の第一段で、省略ではなく実際に「をかし」が出てくるのは、ここですね。『(蛍が)ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし』…先ほどの「あけぼの」もそうですが、ここでも清少納言は「マイナー」を選びます。「春」は「宵」がメジャーです。「蛍」は「たくさん飛んでるの」がメジャーです。こうしたマイナー指向に、清少納言の現代的オタク性があるんですね。面白いことです。枕草子は全編にわたってこんな調子なんですよ。貴族には受けたでしょうね。古今東西を問わず、「貴族性」が「をかし・萌え・オタク」の条件ですから(ちなみに「武士道」が「もののあはれ」の条件です)。
 
 …というわけで盛り上がってきまたが、今日はこのへんで。すみません、生徒たちの報告が入り始めましたので。またいつか。

 ps「萌え=をかし」の対照概念である「もののあはれ」についてはこちらの記事をお読み下さい。

「萌え=をかし」論が國文學に載りました
 
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2006.02.24

『サイゾー』(インフォバーン)…『萌え=をかし論』つづき

i-cover0603_02 3月号もいろいろと勉強になりました。ちょっと前に紹介した日経エンターテインメントをライバル視する(?)雑誌、「サイゾー」です。左の画像をクリックしてみてください。「日経○○は書かない…」とあります。日経○○とサイゾーを両方読んでる人ってどれくらいいるんだろう。いわば両誌で世の中の表裏(の一部)っていう感じですから、私のような、表も裏もという知りたがりやさんには、けっこう結構な組み合わせだと思いますよ。ま、両方表だという説もありますが(笑)。
 どちらが好きかと言われると…えっと、両方好きですね。私の脳ミソにも裏表がある。そう裏表がある人間なんですよ、私。
 そうそう、ちょっと報告が遅れましたけれど、先月発売のサイゾー2月号にこのブログの記事が引用されておりました。自分の好きな雑誌に自分の文章が載るというのは、実に心地よいことです。それも投稿したわけではありませんからね。引用していただいたということです。
 そうなんです。敬愛すべきオタキング岡田斗司夫先生が、私の『萌え=をかし』論に共鳴してくださいまして、ご自身のブログに引用してくれました。その岡田先生の記事がそのままサイゾーの『オカダトシオの「mixi日記」』に掲載された、という具合なのであります。
 期せずして、昨月は、島野清志さんのご厚意と岡田斗司夫先生のご厚意により、2冊の本にワタクシめの駄文が掲載され、国会図書館に永久保存されることになりました(?)。ありがたいことです。まさに毀誉褒貶、信賞必罰です(笑)。
 さて、そのサイゾーの2月号にもあったのですが、岡田先生自身は「萌え」を語ることに積極的ではありません。おそらく私同様に、世間で騒がれている「萌え」に違和感があるのだと思います。実際、私はいわゆる「萌え絵」には全然萌えませんし(例の「萌えキャラを描こう」にも感動こそすれ、萌えは感じませんでした)、メイドカフェには興味はありますが(もうすぐ行く予定です)、ほとんど萌えないことと思います(楽しいだろうけど)。
 だけれども、私は「萌え」には興味があります。それは何度も書いている通り、それが日本の歴史の中で連綿と続いてきた「何か」の現代型であると信じているからです。そんな発想、いや実感から、「萌え(オタク)論」の考察を続けているわけですね。先は見えそうで見えませんけど。
 で、私の萌え論に違和感を抱く方も当然いらっしゃいます。違う実感が存在するわけです。それもまた当然ですし、切り口の違いということもあると思います。特によく目や耳にするのは、「性的な感情についてはどう考えるんだ?」です。いわゆる世間で言う「萌え」にはその要素があるのに、不二草紙ではそのことに触れられていない。そこが自分の実感とのズレだ。蘊恥庵庵主は本当に「萌え」がわかっているのか?
 いやいや、よ〜くわかってるんですよ。実感も理解できます。ではなぜ?なぜ目をつぶる?ということですね。
 ずばり言いましょう。「性的なものは商売になるので目立つ」からです。男も女も性的なのものにまず気を引かれます。当然です。ですからそこに目をつけて商売が成り立つ。マスコミやメディアがとりあげることもそうですし、実際にお店も開店するし、製品も大量生産される。だから目立つんです。でも、それが全てではない。人間の他の感情を考えればすぐにわかることです。「悲しい」だけでも考えてみて下さい。商品としての「萌え」に惑わされてはいけません。
 だから私はあえてそこに目をつぶっているんです。そこについては放っておいてもみんなが語ってくれますから。全体像を見たいんですよ。言葉の範疇としても、歴史の流れとしても。まあ、だから難しくなるんですけどね。
 たぶん、明日にはそういう意味でも本質的なことを少しですが書けると思います。とりあえず、今日はここまで。
 ありゃ?全然「サイゾー」のこと語ってないなあ(最近多いっね、こういうパターン…)。いや、とにかく面白いですよ。とにかく公式ページを見て下さい(って全然紹介記事になってないって)。

サイゾー公式

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2006.02.23

『ブッダは何を教えたのか―人生の智慧、自分らしく生きるヒント』 ひろさちや (パンドラ新書 日本文芸社)

4537253509 『弱肉朝食』…ブッダは何を教えたのか?
 そう、本書の172ページにこうあるのです。

 シッダールタ太子が抱いた問題意識は、
−この世は「弱肉朝食」である−
−人生には「老・病・死」という苦しみがある−

 私は考えました。なぜ「弱肉強食」ではなく「弱肉朝食」なのか。「強」ではなくて「朝」なのか。
 私はふざけているわけではありません。たしかにそう印刷されているからです。ネットの書き込みならわざと誤字することもありますが、新書の初版第1刷と言えどもいちおう「本」ですからね。まさか間違いではないでしょう。いや人間の所業ですから、万が一には間違いもありえますね。ですから、百万歩譲って、私はいくつかの可能性を考えました。

1 ブッダ自身が「弱肉朝食」と言った。
2 ブッダの弟子が「弱肉強食」を誤って「弱肉朝食」と筆記した。
3 ブッダの教えが日本に伝来する間に恣意的にゆがめられた。
4 手書き原稿においてひろさちやさんが「弱肉強食」を「弱肉朝食」と筆記した。
5 ワープロ原稿においてひろさちやさんがタイプミスした。
6 タイピストが「弱肉強食」を「弱肉朝食」と記憶しており躊躇せず「弱肉朝食」と打ち込んだ。
7 タイピストがタイプミスした。
8 私の目がおかしい。

 まず8について。8であれば問題は簡単に解決しますが、残念ながら私以外の複数の目にも「朝食」と映っているようです。したがって8の可能性は限りなく低い。
 続いて7。タイピストが「き」を「ち」と打ち間違う可能性はどうでしょう。ローマ字入力であれば「K」と「C」あるいは「T」との距離から考えて、その可能性はやはりかなり低いと言わざるを得ないでしょう。平仮名入力であったとしても「き」と「ち」は遠いですね。では、タイピストが私のように親指シフト入力者だったらどうでしょう。ニコラ配列においては、「ち」は「き」のすぐ右上にあります。しかし親指シフターの方ならお分かりになると思いますが、こうしたタイプミスは実際には起きにくいものです。「ギャハハハ」を「ギコハハハ」と打つことはあっても…ギコ猫( ゚Д゚)の誕生譚の一つですね…、「きょうしょく」を「ちょうしょく」と打つことは経験上ほとんどないと言ってよいと思います。
 6は単なる思い違いですね。しかし、学校教育において頻出の四字熟語であり(○肉○食=焼肉定食という古典的なギャグも含めてね)、普通の日本人であれは、こういう勘違いは起きにくい…と思います。
 5はあくまでひろさんが原稿をワープロで打つと仮定した場合です。その場合も7の考察と同様にあまり可能性は高くありませんね。特に本書のキーワードでありますから、たとえタイプミスしたとしても気がつかれるでしょう。
 4は結構問題です。実はそれまで、またその後はちゃんと「弱肉強食」と印刷されているので、この仮説が正しいとすると、ひろさんはこの部分だけ意識的に「朝食」と書いたことになります。そこにブッダの教えを超える宇宙的なスケールのメッセージをこめたのか、もしくは同様のスケールの「ギャグ」を飛ばしちゃったか、どちらかということです。どちらにしても問題です。あのひろさんが、そんなことをするとは思えません。同じひろでも「つのだ☆ひろ」さんだったらわかりませんが。
 3はどうでしょう。恣意的ってどういう「意のほしいまま」でしょうねえ。「強食」を「朝食」とするメリットって?伝来過程を考えると、たとえ中国とは言えども、やはり朝食から肉料理モリモリでは胃に負担がかかる、だから弱めにということでしょうか(よくわからん)。
 2はありえないことはないかもしれません。当時のインドのキーボードの配列を調べると、「きょ」と「ちょ」の発音に当たる文字が隣どうし並んでいることがわかっています。ですから、この仮説の可能性は意外に高いかもしれません…なわけはない!
 そしてついに1です。2〜8までの可能性の低さを考えると、やはり1の信憑性が増します。では「弱肉朝食」とはどういう意味なのでしょうか。先ほど3の検証の際に書いたような生活習慣に根ざした軽々しい意味ではないと思います。「焼肉朝食」とか「豚肉朝食」とかだったらある意味解りやすいわけですが、どうしてブッダは「弱肉朝食」などというレトリックに満ちた表現をしたのでしょう。
 ブッダはこの世が「弱肉朝食」であることに気づいた。そしてそれを乗り越える智慧を悟られた。この文脈からして、「弱肉朝食」はこの世に蔓延する悪の一つであることがわかります。ん?そうか。「朝」は「morning」ではないのか。「朝」には「政治」という意味もありますね。朝廷とかササン朝ペルシャとかいう時の「朝」です。
 そう考えると、この言葉は深いですね。「弱肉強食」とは「弱い者が肉となって強いものがそれを食べる」というのが基本的な意味です。ですから、「弱肉朝食」とは「弱い者が肉となって政治(政府)がそれを食べる」ということではありませんか。
 そうです、これはブッダの聖なる予言だったのです。そしてその予言が現実のものとなりつつある現代日本において、ブッダはこの本を通じて警鐘を鳴らしたのです。奇跡的な誤植という形をとって。おそるべし、ブッダ。

 ふぅ、書いててかな〜り疲れました。何やってんだオレ。まあうまくまとまったからいいや。書いてる途中は結論が見えず不安だったんですよ、実は。
 さて、そんなどうでもいいおふざけはいいとして、この誤植はいかんでしょう。いや、最近多いんですよ。新書の誤植。今や校正という作業は存在しないのでしょうか。不思議です。少し話がそれますが、今入試シーズンじゃないですか。各大学のホームページ、「出題ミス」のお詫びが満載なんですよ。チェック機能ってどうなってるんでしょう。
 この本、本当に素晴らしい内容なんです。人生が変わるほどいいんです。だからこそ、こういうおふざけはしたくなかったんですが、あまりにも「痛い」ので、こちらが壊れてごまかすのです。だって1ページ前にも明らかな誤植があるんだもん…。痛杉

Amazon ブッダは何を教えたのか

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2006.02.22

『ミゼットプロレス伝説〜小さな巨人たち〜』 森達也(企画) 野中真理子(演出)

little41 昨日は2日ほど早く五郎さんのお誕生日を祝ってしまいました。今日は2日ほど遅くフランキーさんのお誕生日を祝います。いえ、リリー・フランキーさんではありません。リトル・フランキーさんです。ご存命なら48歳、年男でいらしたんですね。
 リトル・フランキーさん、ご存知の方少ないんでしょうね。ほとんど最後のミゼット・レスラーと言っていいでしょう。今となっては伝説の「小人レスラー」です。残念ながら、2002年の夏に淋しく寮の一室でお亡くなりになっているが発見されました。
 私は古くからのファンでありました。全日本女子プロレスの興行に出かけた折には、必ず「頑張って下さい!」と声をかけていました。最後に会話したのは、もう10年くらい前になってしまいます。グッズ売り場で売り子さんをしていたフランキーさんは、うつむきかげんに「はい」とおっしゃりました。不思議な恥じらいと哀しみをたたえたあのお姿が今でも脳裏によみがえります。
 「小人プロレス」の世界について語ることは、ある意味社会的タブーもありますし、日本の社会史、文化史とからめて書き始めると、おそらくものすごく長くなってしまうので、また別の機会にしようと思います。
 その小人プロレスの世界を正面から扱った稀有なテレビ番組を、今日は紹介したいと思います。昨日2年生の授業の中で鑑賞しました。毎年教材として使わせていただいております。あっ、そう言えば、先日書きました日芸の放送に合格した教え子、面接でこの番組のことを言ったそうです。そりゃあ、食いついてくるよなあ、マニアックだもん。
 この番組、1992年にフジテレビで深夜放送されたものです。ある意味タブーを破った、ある意味有名な、ある意味知られざるドキュメンタリー作品です。企画プロデュースは、今やクリエーターとしてだけではなく、法に関する独自の視点を持った論者としても有名な森達也さん、演出ディレクトは、その後「こどもの時間」や「トントンギコギコ図工の時間」で才能を発揮されている野中真理子さんです。考えてみるとそれだけでもすごいな。
 これもある意味有名なミスター・ポーンの「8時だよ全員集合事件」にも象徴されるように、いわゆるそうしたハンディキャップを背負った人を笑いものにしてはいけないという暗黙の了解、いやかなり明白な意志、というものが日本には根強くあります。それが逆差別を生んでいるという状況についても、ある意味同様に暗黙の了解が、というか暗黙の不了解があります。
 メキシコでは小人として生まれた人を「ラッキーマン」と呼ぶことがあると言います。小さいからこそできることがあるのです。実際、ルチャ・リブレにおいては、ミゼット・レスラーは子どもたちのヒーローです。日本ではどうでしょう。ここでそのことについて言及するのは、それこそ了解されないでしょう。私にも勇気がありません。
iu51 そうした空気の最も濃いテレビというメディア世界において、この作品を作り、そして実際に放映した(たぶん2回)のは画期的なことでした。そしてそれを録画していた私はまさにラッキーマンでした。
 実際、女子プロレスの会場で見る彼らは実に活き活きしていました。彼らの試合を観るお客さんたち…ほとんどが小人プロレス初観戦の地方の一般人たち…は最初はなんとなく不安定な自己の所在に躊躇していますが、彼ら小人たちの芸のおかげで、すぐにその居場所を見つけ、そして大笑いし拍手喝采するようになります。それは本当に素晴らしい瞬間でした。私はその空気の流れが好きだったんです。皆の心が解放される瞬間…。
 生徒たちにはいろいろなことを感じ、考えてほしい。特に解説はしません。それこそ自分で感じ考えるべき問題だと思いますし、それぞれの答えがあってよいと思います。基本的に私は何を見せてもそんな感じですけどね。今日も1年生は実相寺昭雄作品を観ていろいろな表情を浮かべてました(笑)。
 リトル・フランキーさんも亡くなりました。ミスター・ポーンさんも亡くなりました。番組に登場する他のレスラーの方も…。今やほとんど小人プロレスは虫の息です。いや、全女が解散した今となっては、日本の小人プロレスの歴史はとりあえず閉じられたと考えていいと思います。淋しいことです。
 中世、いやそれ以前から続く、日本の見世物文化。私はそれはほとんど正しい文化であったと思いますが、近現代はそういった「モノ」を否定してしまいました。かろうじて残った「相撲」も、西洋のスポーツの観念で変形させられ、見るも無残な様相を呈しています。残念です。プロレスより総合格闘技の方が流行るご時世にろくなことはありません。
 臭いモノ、不都合なモノ、まつろわぬモノは語り継がれずフタをされ、なかったものにされてしまう。まさに1か0かのデジタル社会です。せめて、その1が「正常」、0が「異常」という意味でないことだけを祈りたいと思います。
 番組中、一人の先輩レスラーが、「オレたちは笑われてるんじゃない、笑わせてるんだ」という意味のことを力強く繰り返していたのが、今回もまた心に残りました。

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2006.02.21

『音コレ』(野口五郎プロデュース)

goro11 昨夜寝る前にBS朝日の「ワンダーナイト2」を見ました。ゲストは野口五郎さん。私にとって五郎さんは憧れの人です。
 小学生のころ、姉がファンだったこともあって、けっこう聞かされていました。哀愁漂う演歌調アイドルポップスは私の音楽観の形成に多大な影響を与えたと言えるでしょう。中学生になって、ロックに目覚め、楽器を始めた頃には、今度はギタリストとしての五郎さんの影響を受けました。ラリー・カールトンに憧れ共演まで果たした五郎さんでありましたが、どちらかというと私には和製サンタナという気がしました(あの泣きはサンタナ以上かも)。
 で、昨日は久々に五郎さんの元気な姿を拝見したのですが、いろいろなお話の中で、コレが一番面白かった。コレとは「音コレ」のことです。その中でも、「ものまね もしも?シリーズ」は大爆笑。五郎さんが超一流のものまね芸人さんたちをプロデュースして、「もしも、あの人があの曲を唄ったら」という夢を叶える企画です。
 早速、検索して「音コレ」のサイトに行ってみました。これは…!!たまりませんねえ。すごいとしか言いようがない。プロの芸とはこのことでしょう。アイデアはもちろん、それをこのレベルで実現してしまうなんて…脱帽。
 こんなのが並んでます。ちょっと下のリンクをクリックしてリストを見てみて下さいよ〜。

   もしも?のリストを見る

 お金を払わなくとも試聴ができますので、ちょっと聴いてみて下さい。とりあえず「川の流れのように」のいろいろなヴァージョンだけでも聴いてみてはいかがでしょう。もう笑うよりも何よりも感心しますよね。すごいですね。
 マネされる人の個性がまずものすごいのでしょう。そして、マネする人の技術。そしてその間に入ってアレンジメントやデフォルメをするプロデューサー野口五郎のセンス。すごいなあ。
 とにかく、その楽曲の個性、および、そこにインプットされているオリジナル歌手の個性と、置き換えられた歌手の個性、そしてマネをしている歌手の個性が、折り重なり、織り交ぜられ、そしてぶつかり合うわけですからね。全く新しい形のコラボレーションです。
 昨日の番組の中でもおっしゃってました。もっと音楽を楽しもうと。そう、こうして提供する側も受けとる側も、共に楽しむ。幸せな音楽のあり方です。そう言えば、森進一と五木ひろしで「青春アミーゴ」とか言ってたなあ。あ〜聴いてみたい。
 この「音コレ」、ものまね以外にもいろいろと魅力的なコンテンツが詰まっています。しっかりお金を払って手に入れたいものがたくさんありますね。皆さんもぜひ楽しんでみて下さい。
 ちなみにあさっては五郎さんのお誕生日です。1956年生まれですから…知命ですか。おめでとうございます!
 
音コレ
野口五郎公式

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2006.02.20

林泉堂 『秋田のラーメンセット』

big022423_21 B-1(B級グルメグランプリ)は「富士宮のやきそば」が優勝だそうですね。2位は「横手のやきそば」です。
 富士宮は静岡、横手は秋田、ということで、私とカミさんのご当地でもあります。よって、両者ともけっこう食べてます。たしかに甲乙つけがたいB級ぶりであり、B級好きの私たちとしては、今回の結果は嬉しい限りです。ちなみに私たち夫婦もB級どうし甲乙つけがたい。
 同じやきそばでもかなりそのテイスト(B級ぶり)には違いがあります。蒸し麺と茹で麺というだけでも、その違いは明らかですね。上の画像は「横手」であります。
big000101_21 さてさて、今日はその片っぽ秋田の麺のお話です。秋田の麺と言えば「林泉堂」です。地元のみならず最近では全国レベルで「林泉堂」は有名ですね。いや、実は義理の弟、つまりカミさんの弟君が、林泉堂さんに勤めてるんですよ。毎日一生懸命製麺に励んでるというわけです。
 で、最近弟君に「秋田のラーメンセット」を送ってもらったんです。それがとってもおいしかったんで、今日ここにおススメいたします。
 モンドセレクション他国際的な賞を受賞している、秋田の定番「特別製造比内地鶏ラーメン」と、煮干しと鰹だしの「十文字ラーメン」、それに加えて「ノーマル版十文字ラーメン」「十文字みそラーメン」「秋田しょっつるラーメン」がセットになっています。それぞれこだわりの素材と調理方法で見事な旨さを醸していますよ。
 消費期限が15日ですので、18袋消費するのはけっこう大変でしたが、あんまり旨いんで一食に2杯食べたりしました。どれも比較的あっさり系でして、私の好みにかなり合っています。麺のバリエーションも豊富でして飽きがきません。私はラーメンマニアではないのですが、こうした袋入りラーメンの中では今までで一番納得のいく味でした。
 ほかのセットもおいしそうですねえ。「秋田の麺セット」には「稲庭本生うどん」「玄挽きそば」「あつあつ亭の横手焼そば」が、「モンドセレクションセット」には「秋田比内地鶏ラーメン」「特別製造十文字ラーメン」「玄挽きそば」「稲庭本生うどん」「冷麺」が入っています。
 たしかに当地で食べた「稲庭うどん」も「焼きそば」も「そば」もおいしかった。そこにラーメンも加えて、いつのまにか秋田は麺王国になりましたね。それぞれ、山菜や伝統的な郷土料理や日本酒との相性もよく、それらとの組み合わせも楽しみです。
 ふつう米の産地では麺類はあまり発達しないものですが、米ばかりでは飽きちゃうんですかね。私たちの現ご当地である山梨などは、基本的に米が取れませんので、仕方なく「そば」や「うどん」や「ほうとう」が発達しました。それはそれで嫌いではないのですが、ある意味主食なので生活臭が強く、つまり遊び心やこだわりがなく、正直「うまい!」という感じがしないんですよ。その点、秋田の麺には余裕が感じられます。
 この春には再び秋田を訪問して、いろいろな麺を食べ歩きたいですね。ただ、私は一日一食なのでちょっと不利なんですけど。
 とりあえず皆さんも下のリンクから注文してみましょう!弟君のためにもよろしくお願いします!

林泉堂 ラーメン通信
林泉堂通販サイト

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2006.02.19

池田屋 『ぴかちゃんらんどせる』

pika1501 長女が今春小学校に上がります。そのための一つの儀式として「背嚢購入」があります。日本の伝統文化です。
 「背嚢」はやはり軍隊用品でありました。セーラー服も同様ですが、日本の学校文化には軍隊文化が多く取り入れられています。そこに抵抗感を抱く方も多いと思いますが、軍隊のシステム自体には学ぶべき点もありますから、いいものはいいで残した方がいいと思っています。いずれにせよ原理主義はいかん。
 そんな背嚢…いやランドセルと呼びましょう。そうそう、このランドセルという言葉、ほとんど日本語と言ってよいでしょう。だから池田屋さんが「らんどせる」と平仮名書きするのも理にかなっているかも。ランセルと言えば通じる国もありますが、ランドセルは日本だけでしょうか。しかし、ウワサでは最近ランドセル様の背負いバッグが、世界中ではやっているとか。たしかに、両手が自由になる便利さと安全さは素晴らしい。それも日本のランドセル文化は成熟していますから、単純にバッグとして考えても、相当に完成形に近づいた製品と言えます。それが、世界に発信されて認められるのも当然と言えば当然でしょう。
 さて、ウチでも今日その伝統的儀式が執り行われました。まあ、私のことですから、皆さんご想像の通りに、かなりこだわりました。研究に研究を重ねること半年。最終選考に残り、そして見事に我が家御用達となった職人さんは、「池田屋」さんでした。おめでとうございます(?)。
 選考理由は書き出すと長くなりますので省略しますけれど、まあとにかく各メーカーさんの製品を手に取って見て触っての結論ですよ。私なりの「目利き」と「見立て」です。物作りにどこまでこだわっているかが究極の視点です。
 娘は今どきのきらびやかなものや、キャラクターもの、今風なデザインのものなんかに目が行っていたようですが、やはりシンプルで伝統的な学習院型がいいですね。私は縫製の質にかなりこだわりました。長く使えるもの、また長く使ううちに良さがわかってくるもの、そして使用期間が終わった時に捨てたり譲ったりできなくなるもの、そういうものを選びたいですね。
 というわけで、今日は池田屋さんの静岡店へ行って最終選考。店員さんの懇切丁寧な説明にも好感を得て、予約注文してまいりました。予約を受けてから一つ一つ作るわけですから、納入は3月末となります。
 このランドセルとともに娘がどういう6年間の時を過ごすのか、楽しみであり、ちょっと不安でもあります。自分の小学校時代も重ね合わせて、妙に感慨深いものがあります。これもまた「もののあはれ」であります。時と人の避けられない関わりあい。古語「あはれなり」がプラスの感情もマイナスの感情もカバーしたのは、時が人にその両方を与えたからです。
 別に池田屋さんの回し者ではありませんが、まだランドセルを購入していない方、一度下のリンクからそのこだわりの職人技を御覧下さい。6年間無償修理というのもいいですね。故意に破壊してもタダだそうです。思い切ったサービスだと思います。

池田屋

池田屋カバン店(楽天)


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2006.02.18

『食品の裏側 みんな大好きな食品添加物』 安部司 (東洋経済新報社)

4492222669 これは良書です。国民の教科書ですね。絶対におススメです。
 久々に原理主義的でない本を読みました。最近売れる本は、たいがい極端な論調のものが多い。そんな中、この本は非常にバランスのよい内容でした。
 食品添加物の元トップセールスマンにしかわからない、添加物の危険性、食品加工現場の恐ろしい風景…。これだけなら、いつぞやの「買ってはいけない」のように、単純に恐怖をあおるだけの内容になっていたでしょう。この本でもたしかにそういった恐怖はいやというほど味わえますよ。しかし、この本の素晴らしいところは、そこで終わっていないということです。
 なぜ、添加物が必要なのか、そしていかに我々が添加物の恩恵を受けているか、そういった点についても詳しく説明されています。また、食品業界に「情報公開」を求めることも忘れません。「天然」「手作り」と言った言葉の裏側の危険性も指摘されています。
 そして、何と言っても、この本の中心的主題は、最終章にあると思います。ただ単に添加物を敵視することなく、自分がどういうスタンスでそれらとつきあっていくべきか、その決断を読者に迫る内容になっているのです。子どもの味覚が壊されていく。食の乱れは食卓の乱れ、食卓の乱れは家族の乱れ、家族の乱れは社会の乱れ、社会の乱れは国家の乱れ。そうした現代において、私たちは真に賢い消費者になるべきであり、賢い親になるべきであるのだと痛感させられます。
 実は最近の私、添加物アレルギー気味なんですよ。一日一食生活を初めて、そろそろ2年になりますけれど、かなり体の中が浄化されたようでして、体に悪いものが体内に入ると、覿面に反応するんです。しかし、一方では花粉症が治ったりしていますから、単純に異物は排除しようとしているわけではないようですね。なんとも人間の体は不思議なものです。
 大学生から結婚するまで、私はほぼ15年間一人暮らしをしていました。その間食事はほとんど全てコンビニ弁当。ものすごい量の添加物を摂取したと思います。保存料が体に蓄積しているのでオレは死んでも腐らんぞ、なんて冗談を言うほどでした。
 それが、今はもう、あの添加物名の並んだラベルを見るだけで、顔が汗を噴くんです。つまり精神的なものもあるわけですが、とにかく体も心も添加物を拒否するようになってしまったんですね。
 この前、外出したついでに、久々に昼飯を食べました。それもマックです。そうしたらなんと「スーパーサイズ・ミー」よろしく、1時間後に全て吐いてしまいました。これも半分は精神的なものだと思います。しかし、とにかく今の私にはマックは必要ないということだけは確かなようです。
 「食品の裏側」は本当にいろいろなことを私たちに教えてくれます。食品における添加物と同じような存在は、他の分野にもいくらでも見出せますよね。そこまで思いを馳せると、この本はまさに現代と現代人のあり方を問う内容であることに気づきます。ただただ、安く早く簡単に、そして大量に。本当にそれでいいのでしょうか。本書にもありましたが、交通事故が起きて多くの人が亡くなるからと言って、車を廃止することはできません。原始時代に戻ることはほとんど無理なのです。では、私たちは、現代の「光と影」、「功と罪」、「便利と危険」などとどうつきあっていけばいいのでしょうか。そのヒントを安部さんは提示してくれています。この本の最後の最後にこうあります。
 「いったい私たちは、何を得て、何を失っているのか。本書が、それを考えるささやかな契機になることを、願ってやみません」

Amazon 食品の裏側

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2006.02.17

『「超」読解力』 三上直之 (講談社+α新書)

4062723476 先日、カリミさんという読者の方からリクエストをいただきました(ありがとうございました)。「読解力」をつけるにはどうすればいいか、教えて下さいとのこと。
 その問いに答えるという意味で、今日はこの本を紹介いたします。この本はいいですよ。もう私の言いたいことはほとんど全てここに書かれています。ですから、私がここで「読解力はこうつけろ!」と言うよりも、ホントこの本をまずは読んでみて下さい。なんか、人まかせな感じですが、本当ですから仕方ありません。
 「読解力の三つのポイント」を引用させていただきます。

 読解力とは…
 次の三つが組み合わさった総合的な能力
1語彙や文法など日本語についての一般的な知識
2文章を構造的に理解するための論理的思考力
3文章の内容についての背景知識 

 全くその通りだと思います。この本では特に2について詳しく述べられています。論理的な読みの技術について、非常にていねいに分かりやすく具体的に書いてあります。それも特別な読解力を必要としない文章でね。そうなんですよ、いつかも書きましたが、文章が分かるかどうかって、書き手の問題でもあるのです。そのことについては『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』のところにも書きましたから御覧下さい。
 特に、大学入試の問題になるような文章は、正直名文ではないものが多い。難解に書くことによって、内容が重いかのように偽装する。まあ、それもグローバルな伝統的レトリックの一つであるわけですが。私もよくやりますし。
 さて、国語の読解といえば、私としてはまず出口汪さんですよね。受験国語界ではカリスマ的存在です。そして、あの出口王仁三郎聖師の曾孫にあたる方でもあります。たしかに言語に対する感覚や、膨大な仕事をこなすエネルギーは、オニさん譲りと言えるかもしれません。ちなみにお父様は、これまたカリスマ性をいかんなく発揮していらした出口和明さんです。う〜む、カリスマ性は遺伝するらしい。
 三上さんのこの本も、基本的には、出口さんのおっしゃる論理的な読み方を推奨しております。当然です。これしかないわけですから。王道というわけです。で、邪道外道好きな私としては、その王道に加えて、次のことをおススメしておきます。
 難解な文章を読むには、相当の集中力を要します。私の教室ではその集中力をマンガで鍛えます。とにかくマンガを一冊15分で読めるようにするのです。これができる生徒の長文(和・英とも)を読む早さは抜群です。それはそういう読解に要する集中の状態を経験しているからです。マンガに没頭している脳の状態です。早ければ論理的検証の時間が増えますので、結果として読解力が増します(ちなみに私はマンガさえも集中して読めない困ったチャンです…いつも妄想との戦いっす)。
 上に引用した「三つのポイント」の1と3については、以前紹介したこちらこちらこちらが役立つでしょう。
 あとは、私の授業の雑談をよく聞くことと、私が見せるビデオをよく見ることと、このブログを毎日読むことですね(笑)。かなり個性的な読解力が身につきます。個性的じゃダメなんじゃないかって?いやいや、ウチの生徒たちはちゃんと使い分けられますよ。個性的な方は小論文とか面接で使うんです。けっこうそっちの方が人生においては役立ったりしますしね。
 というわけで、カリミさんごめんなさい。結局人の本を紹介しておしまいです。最後に書いたことは半分冗談ですけれど、とにかく毎日の生活の中で、しっかりアンテナを張り巡らせて、たっぷり電波を受信することです。究極的にはそれが読解力をつける王道かもしれませんね。
 あっそうそう、こうしてブログやら日記やらで文章を書くことも大切ですね。「書ければ読める」…これは、外国語においても古文においても漢文においても真実であると確信しています。

Amazon 「超」読解力

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2006.02.16

レミオロメン 『3月9日』

B000197M24 極寒の地富士北麓も、たしかに立春を過ぎると春らしくなってきます。寒さの匂いが変わってくるのです。そして、別れと出会いの季節。
 例えば今日。クラスの生徒からいくつかの大学合格の報が。私自身ではどう努力しても入れないような大学名が並びます。先生として本当に嬉しい瞬間です。こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、自分があきらめた夢を間接的に実現できるのです。
 今日、最も嬉しく、そして半分嫉妬したのは、『日芸の放送』でしょうか。いきなりクドカンの後輩かよ!この生徒に限りませんが、ともに勉強し、準備し、そして試験当日も大量のメールのやりとりをしながら、ほとんど自分も一緒に受験しているような感じでしたから、喜びもジェラシーもひとしおです。
 彼らはこうしてそれぞれの道を歩んでいくのです。ちょっぴり嬉しくちょっぴり悲しく…。この切なさが「もののあはれ」でしょうね。
 今日は、進路が決定している3年生のために、「予餞会」が行われました。3年生を送る会ですね。昨年は平原綾香の「明日」をチェロで演奏しました。今年は、軽め(重め?)のコントをやって盛り上げた(ドン引きさせた?)のち、レミオロメンの「3月9日」をヴァイオリンで演奏して、ちょっと切ない雰囲気にさせちゃいました。
 この曲は、私にとっては昨年から春の定番曲です。ただ、昨年の今ごろは、地元山梨でもそれほど有名ではありませんでした。今年はもう知らない人はいないでしょう。みんなしんみり聴いてくれましたよ。
 世間では「粉爺」…いや「粉雪」が大ヒット中ですが、ワタクシ的にはこちらがレミオロメンのベストですね。これほど心にしみる音楽は久しぶりです。まさに彼らのインディーズ時代、すなわち山梨時代を象徴する、温かさと切なさに満ちた曲であります。
 ここでも音楽的な分析を施すつもりでしたが、それも野暮ですね。ただ一言、シンプルな循環コードの上に、起伏に富んだ美しい日本語のメロディー、とだけは言っておきましょう。そして歌詞ですね。決して洗練されているとは言えない、しかし生きた人間の人生や生活に根ざした言葉です。
 「エーテル」について書いたとき、小林武史プロデュースについての心配は杞憂であったとしました。実は今はちょっと違った気持ちなんですよ。やっぱり、聴き込めば聴き込むほどに、小林臭が鼻につくようになってきてるんです。彼の天才ぶりはもちろん認めますし尊敬します。そして、レミオロメンも彼のおかげでこうしてメジャーになれたと思いますよ。でも…。
 ものすごく乱暴にわかりやすく言ってしまうと、ストリングスが邪魔なんです。ストリングス大好き人間の私でも、彼らの音楽には、それは不要というか、似つかわしくないと感じるのです。だから、「粉雪」のカップリングに収録されているストリングス・バージョンの「3月9日」は…正直何度も聴こうとは思いません。まあ、これは私の趣味の問題ですから、こうして公にすべきことではありませんがね。
 いずれにせよ「3月9日」は、私にとって、この季節の切なさを象徴する曲となりました。おそらくこれから死ぬまで変わらないでしょう。今日は一方で、来年度自分のクラスの生徒になるであろう中学生も登校しました。3年後彼らにもこの曲を贈ることになるのかな、なんてふと思ってしまいました。時は流れる。
 こんな素敵な曲を生んでくれたレミオロメンと山梨の風土に心から感謝します。

レミオロメンのチケットゲット!

3月9日再び〜「縁」と「恩」

Amazon 3月9日

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2006.02.15

紀貫之 『古今和歌集仮名序』

buntu93011 「私、女だけど…」
 ネカマっていうのがいますねえ。ネット上の掲示板とかで、ホントは男のくせに女言葉で書き込むヤツ。私もやったことあります。だってその方が2ちゃんでは優しくしてもらえるんだもん。
 で、そういうのは最近の話かと申しますと、もう皆さんご存知の通り、昔からそういうヤツいました。日本語は世界的にも珍しく、文体の性差が大きい。つまり、「私、女だけど…」って書かなくても、女であることを表明できるわけです。近いところでは太宰治の「女生徒」なんか、ちょっと気持ち悪いくらいです。生理的文体とでも言いましょうか、やっぱり彼は天才です。
 もっともっと古いところ…というかおそらく世界最古のネカマは紀貫之でしょう。土佐日記は冒頭からしてキモイっす。あれを学校で暗誦させたりするのはどうなんでしょう。「私、女だけどぉ…」って言ってるわけでして。
 それで今日はその紀貫之さんに登場願いました。「古今和歌集仮名序」、例の「モノ・コト論」関係で久々に解釈し直してみました。これもカマ体で書かれています。当時、男がカナで書くこと自体カマでした。
 岡田斗司夫先生ワタクシが前々から言っておりますし、最近では本田透さんの「萌える男」にもありましたけれど、「萌え=をかし」の感情、つまり「オタク的」な嗜好というのは、元来女性的なものです。刹那的、ミーハー的なんですね。いつも書いていますように、時間の流れを微分しつくして、時間の流れに伴う変化(それがつまり「意のままならない」という「モノ」の性質ですね)を無視する姿勢です。
 古来男性はそういう嗜好や指向や思考を許されなかった。したいのにできなかった。その足かせになっていたのが、例えば「武士道」です。「もののふの道」です。「もののあはれ」を直視するのが男らしいと。しかし、一部の男性には「萌え」も許されていました。貴族たちです。経済的にも時間的にも精神的にもゆとりのあった彼らは、「オタク」であることを唯一許される存在でした。
 その後、江戸時代には町人でさえ貴族的な文化を享受できる余裕を与えられました。そして、現代日本は言わずもがな。誰ですか、「下流社会」とか言ってるのは(笑)。アキバのあのきらびやかさは、どう考えても貴族文化じゃないですか。国風文化ですよ。
 だから、その反動で「国家の品格」が売れるんです。そういう構造については、なぜ誰も何も言わないんでしょうねえ。まあ、私の視点がちょっとおかしいんでしょうけど。
 おっと、またまた前説が長くなった。で、えっと…あっそうそう、世界最古のネカマ?紀貫之さんです。貴族です。彼(彼女)がエディターを務めた最古の勅撰和歌集である「古今和歌集」。ん?ってことは天皇家ってやっぱり「オタク」の頂点に君臨する存在なんだな。だって「みコト」だし。また話がそれた。で、その和歌集の序ですが、これは古来素晴らしい素晴らしいと言われてきたものです。ネカマをそんなにほめていいんでしょうかね。本居宣長もそうとう入れ込んでる。当時の京言葉で訳したりしてるんですが、それがまた全然ダメダメでして…。というわけで、解釈しなおしてるんですけど、今日はその有名な冒頭部分だけ紹介します。

 やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、ことわざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。

 これはよく読むと面白いですよ。「こと」と言う言葉が出てきますね。これは今までは単に「言葉」と訳されてきました。私は違います。「こと」は人間の脳によって認知され内部化された「もの(だったもの)」を指すと考えていますからね。まあ、例えば何か景色を見て感じ入ったとして、それを和歌にしますね、そうすると、創造された和歌そのものを「こと」と呼ぶのです(朗詠されたり、紙に書きつけられていなくても)。わかりやすく言うと「作品」とか「メディア」ということですかね。
 そう考えると、この仮名序はとても示唆に富む文章です。我流の訳をしてみましょうか。

 和歌は、人間の心を種として、たくさんの作品が生い茂る葉のようになっているものだったのです!世の中に存在する人間は、なんでもかんでもカタチにしたがるものなので、心に思うことを、見るもの、聞くものにつけて、和歌として言い出しているのです。

 最初の「種」と「葉」はレトリックです。そこの味を上手に訳さなきゃ。「ことわざ」が面白いですね。これは養老さん的に言うと「脳化」のことですよ。「ことわざ」は漢字にすれば「事業」です。人間は昔から「事業」が好きだったんですね。ホリエモンみたいに。とにかく外部の「もの」を自分の「もの」として…内部になったとたん「こと」なんですが…保存したい。現代ではそのメインメディアが「金」なんです。
 心におもふ「こと」っていうのもさりげないけれども面白いですね。やっぱり「こと」は心の中にあるんです。心で思った(考えた)その時点ですでに「コト」なわけです。そうすると、「語る」「歌ふ」「詠む」などの「ことわざ」以前の「こころの種」とは何か?しかと考える以前の予感のようなもの、そう、それはまだ「モノ(外部)」だと思うのですが、それは何なんでしょう。外部が内部に浸入してきた瞬間…。
 私はそれが、茂木健一郎さんの言う「クオリア」だと思うのです。
 と、いうところで今日はおしまい。長くなってしまいますので、またいつか。というか、この先はまだ考えてません。「コト化」されましたら,また言い出します。
 いやはや、人間の「ことわざ」=「コト化作業」って本能なんですね。止まりません。やっぱり私もオタクですね。貴族なんだなしょせん。ホリエモンも小泉さんも(笑)。

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2006.02.14

今年も懲りずに2月14日ネタ

ibukinoorikonihon11 今年も来ました涅槃会イヴ!?決して本校ではバレンタインデーではありません。というか、今日は本校の入試第一日目でしたので、生徒は登校しておりません。そのかわり中学生の皆さんがドワーッといらっしゃいました。可哀相にね、せっかくのバレンタインデーなのにね。いや、イヴなのにね。
 入ってくる人がいれば出て行く人もいます。同じくイヴなのに、それどころではない人々。ウチのクラスの受験生たち。まあ今日もそれなりに合格(&その逆)の報が届けられました。こうして時は流れてゆくのです…ああ、無常。
 そう言えば、「血のバレンタインデー」ってのもありましたな。仏葬です。いや物騒です。いやいや、ガンダムSEEDではありませんよ。アル・カポネが捕まったやつ。「聖バレンタインデーの虐殺」ですな。まあギャングどうしの抗争事件みたいなもんです。1929年のことです。今日は記念に「アンタッチャブル」でも観ましょうか。
 まあ、そんなふうに無常観にひたるのはこのへんにしておきまして、意外に知られていないことを紹介します。日本人にとってはもっと大切なことです。
 今日は「煮干の日」です。2と4は解るのですが、1がなんで「ぼ」なんだ?「棒」ってことかな?まあ、そんな細かいことはいいや(笑)。とにかく全国煮干協会が定めた記念日なのであります。
 てことは、アル・カポネの事件は「血の煮干の日」とか「聖煮干の日の虐殺」ってことですか。
 (すみません、くだらないことばっかり書いて。忙しいとこんなもんです。脳ミソの表層は常にこんな感じ…つまり、私の日常はこんな感じなんですよ)
 煮干しなしの生活など考えられますか?煮干し出汁のない食生活なんて…。そう、日本人の誇るべき伝統文化、素晴らしい知恵ですよね。保存食として、高級調味料として、貴重なカルシウム・鉄分供給源として、世界に誇る食品であります。
 皆さん!日本人として国家の品格を守るためにも、バレンタインデーには、いや2月14日には煮干しを贈りましょう!愛する人の健康を考えても、チョコより煮干しだと思うのですが(たぶん)。ただしBHA(酸化防止剤)を使ってないものにしましょう。
 私は今日贈ります。高級煮干しを愛する猫たちに…。

 ぜひ、下のリンク押すだけでも押してみて下さい。まじおいしそうです。本場のいりこ!
《量り売り》 銀のいりこ10g(煮干、だしじゃこ)【香川県観音寺市伊吹島産】

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2006.02.13

『沖で待つ』 絲山秋子

4163248501 いや、文藝春秋を買ったんです。それで、その中の文章の一つとして読んだわけでして、小説を読んでやろうという意識はありませんでした。気がついたら、芥川賞受賞作だったという感じです。
 なにしろ、本当に久々に小説を最後まで読みましたから。軽蔑されて当然なんですが、本当に最近読破したのは、これこれだけです。どうぞお笑い下さい。また、もし情がありましたら、憐れみのため息も最後にお願いします。で、呆れちゃった方は、この先お読みにならない方がよろしいかと。
 ここ数年、まあ芥川賞受賞作ぐらい読んどくか、という気分でいくつかの作品を手に取りましたが、ことごとく最後まで読めませんでした。いや、これは、現代の小説の質が低すぎるなんて理由ではなく、単に私に小説を読む能力がないからに違いありません。どうしても退屈してしまうのです。読んでるうちについつい違うこと考えてる。で、また数行前から読み直す。こんなことをやってるので一向に進まないんです。それくらい小説が苦手なんですね。これはもう生まれ持った、いや生まれ持たないものなので仕方ありません。困ったものです。それで国語の先生ですからね。
 こんな私が最後まで読めたので(途中気が散りましたけど)、どうもこの小説は面白かった…らしい。いや、単に短かったのかもしれません。いや、短いことはいいことです。
 私にとっては、この短さがこの小説の良さなわけです。というか、私にとっての小説の良さは短さなわけです。音楽でもそう。長いシンフォニーなど全く聴けません。寝ます。演奏もできません。寝ます。
 繰り返しになりますが、これは生まれ持たなかったものなので仕方ありません。残念です。マンガも長いとダメなんです。困ったものです。
 さて、そんな自己紹介はいいとして、ではこの小説が芥川賞としてふさわしいか、それは…正直全くわかりません。なぜなら、他の受賞作品をまとも最後まで読んだことがないからです。ただ、無駄のなさ、わかりやすいストーリー、言葉のリズム感という面では、芥川の短編に比するに足る作品であったと思います。
 私は本は好きですが、小説というものが何者なのかわからない人なので、こういう表現しかできません。過去、私にしては珍しくよく読んだ太宰治は、私にとっては言葉の響きの美しさ、心地よさであって、あれが小説というものなのか、私にはよくわかりません。
 選評で石原都知事がおっしゃてることが、私の気持ちにかなり近かった。態度は逆ですが。読みもしないで、文学は死んだ、なんて言う私も私ですけれど、お忙しい公務の合間に、あるかないかもわからぬ「未知の戦慄」を待望するのも大変でしょうね。
 ただ、昨日の「オーッ」の余韻が残っていることもあり、私にも何かできることがあるのではないか、と僭越ながら思ってしまいました。でも、私は「死」と「性」は抜きでいきますよ。こういう動機を与えてくれた「沖で待つ」は、やはり文学なんでしょうかね。
 ただ、本当のことを言いますと、この文藝春秋では、藤原正彦さんやら茂木健一郎さんやらの文章の方が、ず〜と面白かったっす。ダメだなあ…ワタクシ。
 すみません、苦手な分野について書くと、こんなもんです、ハイ。

Amazon 沖で待つ

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2006.02.12

『人生はチャレンジだ!』 ジャンボ鶴田

hhft11 今日は地元の酒蔵の蔵開きに行く予定だったんですけど、ちょっと急用で山梨市に行くことになりました。そのついでと言ってはなんなんですが、牧丘町の慶徳寺に行ってきました。遅ればせながら念願の墓参を果たしました。そう、慶徳寺には、あのジャンボ鶴田さんのお墓があるのです。
 河口湖から御坂峠を越えて、甲府盆地に入ります。意外にも甲府盆地の方が気温が低く、風も強く吹いていました。しかし、車内は熱く燃えていました。カミさんが興奮気味だったのです。最近の彼女、すっかりレミオロメンの大ファンになっちゃってまして、御坂町(現在は笛吹市)の彼らの実家付近を通過したものですから、もう大変。山梨公演のチケットが取れなかったこともあってか、いるわけもない彼らを探しまくってました(笑)。
gff その後、山梨市立図書館で用事をすませ、いざ牧丘町へ。カミさんはもともと全日本プロレスファンでしたし、子どもたちにも「つ〜る〜たっ、オ〜ッ!」を芸として仕込んでありましたから、なんとなくみんなワクワクしています。いや、本当はもっと早く行かなければならなかったのですが、つい遅くなってしまったのです。もうすぐ七回忌ですからねえ。
 しかし、まず私たち家族(特に夫婦)は、違う「もの」に目を奪われてしまいました。牧丘町倉科地区…ここはすごい。民間信仰の宝庫でした。道のいたるところに妖しげな石造物があるのです。庚申塔、萬霊塔、丸石…仏教系、神道系、修験道系…とにかくものすごい数です。特に道祖神のバリエーションの豊富さにはビックリ(ちなみに私はフォッサマグナ沿いに双体道祖神が多いと考えています)。
soutai もともと甲斐の国は石造物の多いところです。良質な石が採れる土地柄ということもありますし、山の民系(縄文系)の民間信仰と修験道、さらに古神道、密教などが習合して、独特の宗教文化を形成しています。そして、現代においても、それらが比較的大切に受け継がれています。
douso 今回は車で走りながらの観察でしたので、次回はゆっくりと歩きながら収集・考察をしたいと思っております。う〜ん、早く行きたい!
 さて、前置きが長くなってしまいました。目的の慶徳寺です。慶徳寺さんは臨済宗妙心寺派のお寺さんです。甲斐の国の臨済宗事情については多少書きましたけれど、塩山には有名な恵林寺がありますので、当然慶徳寺さんはそちらの関係です。あのあたりは仏教的にもちょっと複雑ですね。放光寺もありますし、禅宗にもかなり密教の臭いが感じられるのです。まあ、その辺はまたいつか書きましょう。
jumbo21 で、その慶徳寺さんにも、実に見事な石造物があるのでした。それが、ジャンボ鶴田さんのお墓です!美しい真円形の墓石、その高さは鶴田さんの身長と同じだとか。たしかにジャンボでした。そして、そこに刻まれた名言。
  『人生はチャレンジだ!』
 私たち家族は、その言葉をかみしめながら、墓石の前で(お約束の)『オーッ!』をやりまして気合いを入れました。プロレスラーとしてだけでなく、学問の上でも、指導者としても、そして病に対しても、常にチャレンジャーであったジャンボ鶴田さん。そう、私たちにとっては、ジャンボは神なんですよ。まあ民間信仰みたいなものです。実際、ああして美しいお墓を拝むことによって、心が洗われ、そして気合いが入ります。生きるエネルギーのようなものが湧いてくるわけですから、やはりそういうものこそがいわゆる宗教を超えた神的存在なのだと思います。
 で、私たちはその後何にチャレンジしたのかというと、回転寿司何皿食べられるか!でした(笑)。結果は不覚にもカミさんに負けました…。う〜む、修行が足りん!
 
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2006.02.11

『Piano1001』…ピアノ楽譜(他)サイト

ket31 突然バッハのフランス組曲第5番のサラバンドを弾きたくなりまして(理由はありません)、久々に楽譜を引っ張り出してこようと思ったのですが、どうしても見つかりません。ピアノ譜もミニチュアスコアも見つからない。う〜んどうしよう、こういう時はやっぱりネット!
 さっそく検索してみました。すると、海外の有名楽譜サイトの中に交じってこのようなサイトが。軽くサイト内を流してみますと、う〜むなかなか素晴らしい。
 楽譜やMIDIデータ、オーディオデータなどがどっさりあります。それも皆サイト管理人さんがお作りになっているらしい。それを無償で提供しているようです。早速目的の曲の楽譜をダウンロードしてみました。
 pdfデータなんですが、これがとっても美しい。ご自身が楽譜作成ソフトでお作りになったもののようです。原典版としてそのまま発売できる出来です。ありがたや、ありがたや。
 早速ひさしぶりに弾いてみました。今日はポジティフ・オルガン(の音)です。シンプルですが本当によく出来た曲ですなあ。オルガンで弾くと、いかにあの舞曲がポリフォニー的に作られているか、よくわかります。特に不協和音の美しさが際立ちます。バッハだなあ。
 ところで、このサイト、参考になったのはお役立ちサイトのコーナーです。つまりリンク集ですね。ここにあるサイトたち、Werner Icking Music Archiveのように私が紹介したものもありましたが、けっこう知らないものもありまして楽しめました。特に韓国のバッハのサイト、なかなか充実してますねえ。マタイやブランデンのスコアなんかがあったりして。それもロシア版かな?あやしい感じです。全体としては、韓国語なのでサパーリわかりませんけど…。
 とにかくPiano1001は、ピアノをされる方にはいろいろな意味で有用なサイトです。私もいろいろと探索してみます。

Piano1001

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2006.02.10

電動バリカン『89スーパーテーパー2』(WAHL社)

img098557671 年末に頭を丸めました。あの時は安物の電動バリカンを使いました。おかげで美しいブチハイエナ狩り…いや刈りになりました。その後もそいつを使ってガーとやってましたけど、どうもうまくいかない。やはり、充電式はイマイチなんですよ。もともと電圧が低いので、パワーがない。それにいくら毎回電気使いきってから充電しても、次第にバッテリーがへたってくる。しまいには、狩り…いや刈りの途中でウィ〜ン…orz(止まっちゃう)。
 これはちょっと困りものです。これから一生坊主頭で行く予定なのに、毎回こんなことでは…。
 というわけで、どうせこれから何十年も使うならいいものを刈ってしまおう…いや買ってしまおうと一念発起。プロご用達のバリカンを買いました。
 値段とスペックの兼ね合いを考慮して、研究の末、WAHL社のこのバリカンにしました!いやあ、これはスゴイ!さすがプロ用ですよ〜。ものが違う。
 まず、重い。あの大きさで600gもあるんですよ。久々に目測を誤った。つまり、大きさからしてこのくらいの重さであろうと準備した力で持ち上げられなかった。久々ですよ、こんなこと。今どきのものってだいたい見た目より軽いじゃないですか。これは目測の5倍くらい重かった。しかし、その重さが安定感を生む。また、形だけだけれど本体を操る手つきがなんとなくプロっぽくなる。
 続いて、そのパワーのすさまじさです。ドゥグワ〜!!!回転式ではなく電磁式らしいのですが、とにかく強力。その証拠といってはなんですが、ものすごい振動です。それを支える腕から肩までブ〜ルブルなのはもちろん、それをあてがわれた頭の方もブ〜ルブルです。それが妙に気持ちいい。カミさんいわく、頭皮が振動ではがれる…それが楽しい。剥離マニアのカミさんは、新しい娯楽ができたとご満悦。
 ホントによく枯れます…ではなく刈れます。まるで手入れの行き届いた庭の芝生のようです。いやウィンブルドンのコート、いやオーガスタのグリーンのようです。美しい。
 アタッチメントもたくさん付いていますので、私以外の頭のカットにも使えますね。なんとなく、ウチの黒猫たちも刈ってしまいたい衝動に刈られます…いや駆られます。まあ、あまりの振動音にネコ達さっさと逃げちゃいますが。身の危険というか毛の危険を感じるのでしょう。そう、なんか百獣の王って感じなんですよ。
 国内一流メーカー製のどうせ長持ちしない充電式の高い製品を買うよりも、ゼッタイこっちをおススメします!安いですよ、この性能なら。しっかしスゴイしろものだなあ。
 下のリンクのお店で買ったんですけど、ぜひそのページ見てみて下さい。お店の人自ら実験台になってます。リンクをたどると、段階的にご自分の髪を刈っていった連続写真が見れます。鏡を見ないで刈ったとか。たしかにそれが可能です。

プロの床屋さんが使う「本物のバリカン」に刈り高アタッチメント6種が付いて初心者も満足!
日本ウォール社

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2006.02.09

Gackt 『REDEMPTION』

B000CGXF86 Gacktさん、実はけっこう好きです。ああいうバロック的な存在感、徹底してていいですねえ。本名?神威楽斗さん。MALICE MIZER時代はよく知りませんけれど、ソロになってからの彼はなかなか良いなあと思っておりました。
gackt-03-0509151 まず歌がうまい。声が美しい。顔もいい。美しい。しゃべりが面白い。三枚目でよろしい。そのバランスというかアンバランスというか。素晴らしい。そして、マカー(Mac使い)!おう、私と同じiMacではないか。もし、全く同じ角度からiMacと私を撮ったら、単なるギャグになるでしょう。撮ってみるかな。
 年末のライヴ、生徒(受験生)が行ってきたそうです。もんのすんごく良かったらしい。とろけたらしい。ちょっとうらやましいですね。
 で、その生徒が貸してくれました。FFの主題歌(?)ですね。CMでよく聴くやつです。ゲームの世界とGackt、なんとなく合ってますねえ。もともと演劇性の強い彼です。ウソっぽいかっこよさみたいなのもCG的世界にマッチしてます。そう言えば、ガンダムオタクなんですよねえ。劇場版の音楽も担当してました。
 うん、なかなか良かった。いや、かなりかっこいい。けっこう純正ロックしてますよ。やっぱり歌うまいし。タイトル曲もよくできてますけれど、カップリングのLONGINGも魅力的。途中コテコテのバロックオペラ?になったりして、思わずニヤッ。なんかプロ根性丸出しですな。素晴らしい芸ですよ。
 ゲームもガンダムも全く分からないワタクシですが、こうしてGackt氏を通じてその雰囲気を味わうことができました。そろそろ足を踏み入れましょうかね。フフフ。
 
Amazon REDEMPTION

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2006.02.08

『人間・動物・機械−テクノ・アニミズム』 奥野卓司 (角川oneテーマ21)

30925159-11 テクノ・アニミズム…筆者の奥野さん(関西学院大学社会学部教授)の発案した言葉ですね。なるほどと思いました。今日もまた私の「モノ・コト論」にからめて書きます。すみません、毎度毎度。頭の中がそうなっちゃってるんで。
 テクノ・アニミズム、簡単に言えば、自然ではなく機械に魂を見る、ということですね。現代日本人の特徴です。例えば、最近はやりの癒し系ロボット。犬とか猫とか人間の子どもとか架空の動物とか、いろいろありますよね。ある程度双方向性のあるコミュニケーションが可能なロボットというかおもちゃ。ウチにも数体住んでいます。
 ワタクシ的に申しますとですねえ、それは「モノ」に対する愛情ではないんですね。命こそがモノですから、基本的に変化がなく、インタラクティブとは言え最終的には思い通りになる(たとえば捨てて縁を切るとか)のは「コト」なんですよ。結局は自分の内部なのです。
 だから、生きものに「マナ」を見る「アニミズム」とは全く違うわけでして、ワタクシ流でバッサリやっちゃいますと、「テクノ・アニミズム」はあり得ないわけです。あくまでもヴァーチャルな「マナ」を見てるわけで、そうですねえ、あえて言えば、「テクノ・フェイクアニミズム」なのかなあ…とにかくあくまでオルタナティブなのです。
 奥野さんの分析で面白かったのは、そういった「癒される」テクノの属性についてです。そういうペットやなにかには、「かわいい」という属性がある。それは「攻撃性を抑制する」リリーサーになる、と。う〜む、なるほど〜。
 で、思いついたんですけど、自らの「攻撃性」が「大(強)」の時にそうした「かわいい」属性に接すると「癒される」、一方自らの「攻撃性」が「小(弱)」の時にそうした「かわいい」属性に接すると「萌え〜」なんじゃないのかなあ。
 生々しい「モノ」的生々流転世界に疲れたり、いらついたりしている時、随意的、恣意的存在である「コト(例えばキャラクターであったり、機械であったり、あるいは少女であったり…)」に接して心が安らぐ。それが「癒される」や「萌え」ではないのか。
 では、自然に囲まれて癒されるのは?という質問が出そうですけれど、それは実は自然の生命の実相に接しているのではない。極寒の自然や暴風雨の自然には癒されません。癒されている時の自然は、あくまで穏やかであり、また死を予感させるものでもないはずです。つまり、時間的流れを微分して、自分の都合のよいところだけに癒されているわけでして、そういう意味では、その自然は「モノ」ではなくて「コト」なのです。
 自然に接して、無常観を感じる時は「あはれなり」です。自然に接して癒される時はあくまで「をかし」なんですね。
 というわけで、今日初めて「をかし」と「癒される」と「萌え」が一つの線上に並びました。この前「癒される」について書いた時には、何気なく「癒される」と「萌え」を並べて書いてますけど、今日は奥野さんの本を読み、こうして書いていることによって、両者および「をかし」の関係が分かってきました。ああ、面白いなあ。ほとんど自己満足ですけど。
 ついでにもう一歩前進。三者を同一線上に並べるとすると、「癒される」の矛盾も見えてきますよ。「れる」は受身です。受身には「自分の意志ではない」という前提があります。古語においても現代語においても、この系統の助動詞の基本的性質はそれです。自分の意志ではない。本来自分の意志通りになる「コト」に対する感情であるはずなのに、表現は「恩恵の受身」。ものすごいことですねえ。これは、ものすごい人間の甘えの結果なのか、それとも究極の謙遜なのか…。またゆっくり考えてみます。

Amazon 人間・動物・機械−テクノ・アニミズム

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2006.02.07

日経エンターテインメント (日経BP社)

200603hyosi_s1 あんまり雑誌というものを読まない私です。今定期購読してるのは、デジタルTVガイドだけですかね。新聞とってないんで、テレビ欄がわりということです。ところで、今までちゃんと毎月買ってた雑誌って何だろう。ちょっと思い出してみます。
 えっと、「天文ガイド」が最初かな。これはたぶん10年くらいは買い続けましたね。小・中・高・大と。あと「ポンプ」ね。この前思い出して胸キュンしちゃった。次は…「宝島30」かな。これは創刊から休刊まで全部あるな。最高に面白かった。復刊キボンヌ(無理)。それから、っと。あとはこれか。「日経エンターテインメント」。
 実は最近は全然読んでなかったんですよ。創刊から3年くらいですかねえ。毎月買って読んでたの。これは仕事で使ってたんですよ。生徒の心をつかむためにね。教材研究なんかよりこっちの精読の方がちゃんとやってた(すんません)。非常に効果的でしたねえ。生徒たちの世界で優位に立てるわけですから。なんちゃってカリスマ教師?ですよ。惹きつけられる、惹きつけられる。
 でも、最初はそんな不純な動機から読み始めたのですが、けっこう業界のことも分かってくると楽しい。今までメディアに躍らされていた自分から、作り手側の視点を持った自分に変わりました。これはいろいろと別の分野にも大いに役立ちましたね。全てのメディアが急に「読める」ようになった。読めるから楽しいわけです。
 先生という教師の仕事についての考え方も大きく変わりました。ああ、エンターテイナーでなきゃいけないんだなって。それを教えてくたのはこの雑誌です。私もお客さんに満足してもらえるパフォーマンスを心掛けねば…。
 また、私の「物語論(モノ・コト論)」にも影響を与えています。一般にエンタ業界、メディア業界は、刹那性が高い、すなわちワタクシ的に申しますと、「コト」的要素が強いと考えられがちです。いつも書いているように、「萌え(=をかし)」業界なんですね。しかし、こうして作り手側、つまり「語る(カタル)」側の「仕事(シゴト…コトを為す)」を知ると、その作品である「コト」(たとえば映画やテレビ番組や芸人さんやフィギュア的アイドルや…)と、その仕事以前の「モノ」…それが何かが非常に難しいのですが…を連続的な因果関係で捉えることができるようになるのです。また、数年後にバックナンバーを見たりしますと、その瞬間瞬間には不変と信じていたはずの作品群が、ほとんど消えてしまったり、あるいはまれに成長していたりすることが分かるわけですね。つまり「をかし」が「もののあはれ」になっていくことに気づくわけです。「コト」と「モノ」が、実は対立項ではなくて、同一の事物をどう見るか、つまり、時間を微分するか積分するかの立場の違いの区別である、ということに気づくということです。
 なんかものすごく大げさになってしまいましたが、「日経エンタ」が教えてくれたのは本当にこういうことだったのです。だから感謝してます。
 初期の内容と少し変わってしまったこともあって、最近は軽く立ち読みする程度でした。でも最近、業界を目指す生徒が毎月貸してくれるようになったので、再び精読をするようになりました。知れば知るほど深い世界です。人間の欲望を増幅して見せてくれる世界であることに、何か戦慄すら覚えますね。そう、その辺の芸能誌とは違って、時代の記録、記憶として捨てずに取っておくべき雑誌なんですよ。さすが日本経済新聞。ああ、そう思うとしっかり定期購読続けときゃよかったな〜。

日経エンターテインメント

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2006.02.06

『ゲイシャ・ガール、リングに上がる』 鈴木浩子 (集英社)

4797671440 例の和泉元彌戦ですっかり男を上げた鈴木健想。私も本当に高く評価しました。あの時の白塗りゲイシャディーバが浩子夫人ですね。あの時はあっぱれ鈴木健想と書きましたが、この本を読んだ今なら『あっぱれ鈴木浩子!』ですねえ。
 もちろん、鈴木健想選手に対する評価は変わりませんよ。尊敬します。しかし、その健想選手を陰で支えた、いや陰でコントロールしていたのは奥さんでした。まさに二人三脚であの素晴らしい芸を作り上げていたことを知りました。
 月並みな言い方ですが、夫婦はお互いの欠点をカバーしあってなんぼですな。欠点にキレるでもなく、欠点に目をつぶるでもなく、積極的にカバーする。浩子さんのそういう姿勢が読んでとれます。健想選手、強そうに見えますが、意外にダメなところがあるんですね。いや、そこが男のかわいらしさムンムン?なんですよ。それを浩子さんが見事にカバーしている。でもって、浩子さんも結局はそんな健想選手の夢に引っ張られて、どんどん想定外の自己実現をしていく。大変うらやましい関係でした。
 あと、この本で興味深かったのは、やはり日紐(紐育…ニューヨーク)の文化の違いでしょうか。WWE…プロレスというエンターテインメントの極致、徹底したショービジネスの世界、世界最大の団体。そしてその舞台の中心がニューヨーク。そこ紐育がアメリカ全体を象徴しているのではないことは、フロリダのエピソードの部分を読むだけでもよくわかります。ニューヨークは特別。そこにおけるビジネス感覚、人間関係、人生観などが、プロレスというメディアのおかげで、非常に鮮明に読み取れます。不思議なところですね、ニューヨーク。
 ニューヨーク文化には憧れも感じますし、一方でこれが本当に人間らしい営みなのかなあ、と正直疑問に思うこともあります。自由と機会の平等の代償として明日の保証がないわけですよねえ。あるいは明日の保証がないからこそ自由を得られるのかも。やっぱりニューヨークはアメリカの一部ではなくて、一つの国であるように感じました。私はとてもやっていけないですねえ、あの国では。
 さて、鈴木夫妻、彼らもまた突然WWEを解雇されてしまいました。しかし、WWEでトップクラスを張ったというステータスはやはり一流です。そしてもちろんニューヨークのステータスは実力があることの証明であります。技術的な面だけでなく、精神的な面においても、彼らはものすごい成長を遂げたことでしょう。彼らはこれからも世界を股にかけて活躍することでしょう。今後のご活躍をお祈りします。そして私も応援させていただきます。
 あっぱれ!鈴木夫妻!

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2006.02.05

上原ひろみ 『スパイラル』

B000AU1M48 今日BS-hiで昨年のツアーの模様が放送されていました。やっぱりすごいですねえ、この方。
 彼女を知ったのは昨年の今ごろだったかなあ。NHKのニュースの中で紹介されていました。ニューヨークでのセッションの様子が少し流れたんですが、その演奏のノリと表情にこれはタダモノではないなと思い、名前をメモした記憶があります。その後の知名度アップと実際の活躍は説明するまでもありません。
 昨年出たこのアルバムも全曲オリジナルなんですよね。演奏もなかなか爽快かつ叙情的ですけど、やっぱり作曲の力でしょう、彼女を支えてるのは。彼女の作曲の力はかなりのものですよ。全体の構成力もあるし、きれいなメロディーラインも作れる。また、いわゆる西洋音楽以外のテイストも重視しているので、私としてはかなり好感を持ちます。
 いや、実は最近、娘がヤマハの音楽教室に通ってるんですよ。自分もむか〜しちょっと通ってたんですけど。で、なんとなくですけれど、いわゆる西洋音楽的な音楽、そして子どもには単なる重機でしかない楽器ピアノ…ちょっと自分の音楽教育ポリシー(そんなのあるのか?)には合わないかなあ、と思っていたのです。実際、ドミソの次にシファソとかやってるを見聞きすると、あちゃ〜って感じですよねえ。いきなりそれかって。ここはヨーロッパじゃないんだ。まあ、ウチの音楽事情はかなりメチャクチャですし、子どもたちも秋田の民謡とか大好きですから、そんなに心配しなくてもいいのかもしれませんけど。いや、ヤマハが悪いとかじゃなくて、日本の音楽教育全般のことを言ってるんです。
 でも、上原ひろみさんってヤマハ育ちなんですよね。そうそう、聞くところによると、ダブル上原(もちろん、もう一人は彩子さん)を育てた先生は、本当に自由な考えの持ち主だったとか。ある意味対照的なお二人を同時期に育てたというだけでも、その先生のすごさが分かりますよね。ヤマハにはそれなりのメソドがあるわけですが、それをどう扱うかは、やはりそれぞれの先生の器量によるわけですな。ウチも期待しようっと。
 とりあえず家では課題の曲を転調させたり、各国の民俗音楽的音階で弾かせたり、いろいろと遊ばせております。私やカミさんも一緒に楽しくやっていきますわ。
 ありゃりゃ、なんかウチの話になっちゃった。もとい。上原ひろみさんですね。彼女はこれからさらに大きく飛躍するでしょう。すでにジャズという枠におさまりきらない活動をされていますが、もっともっといろいろな音楽を体験、吸収、消化していってほしいと思います。20年後とかにどういう音楽をやってるか、興味があります。非常に楽しみですね。
 
Amazon Spiral

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2006.02.04

『一度死んでみますか?』 島田雅彦 しりあがり寿 (PHP新書)

4569647278 漫談ってサブタイトルにあるんですが、どうなんでしょう。少なくとも対談ではないなあ。あまりにお二人のキャラが違いすぎて、全然対等じゃない。
 島田さんしゃべりすぎですよぉ。語るのがお仕事ですからやむをえませんか。それに比べてしりあがりさん、得意の心配性と謙虚さで「〜なのかなー」とか「どうなんだろう?」みたいなことしか言っていません。では、問答になってるかと言うと、そういうわけでもない。しりあがりさん優しいから「なるほど〜」って聞いてるけど、もしこれがどっかの老師だったら「違うっ!出直してこいっ!」て怒鳴りますよ。
 仕事柄というか人柄なんでしょうけど、島田さん肉食獣みたいです。しりあがりさん、草食小動物って感じです。でも、圧倒的に肉食獣のハラ具合に余裕があるから、草食小動物に優しい。そう、「あらしのよるに」みたいなことになってます。でも、いや、だからかなあ、なんか不自然。
 だってしりあがりさんの方が年上でしょ。編集の関係だろうけど、島田さんの方が偉そうに講釈並べてて、しりあがりさんが丁寧に敬語で受け答えしてる。これでいいんでしょうか…いや、余計なお世話なんだろうなあ。
 小説って迷ってるように見えて結構メッセージが最初から仕組んであるっていうのが普通です。というか、そういう精神構造の人が作家になるんですよ。漫画家ってどうなんでしょう。少なくとも、しりあがりさんのマンガは、やはり「〜なのかなー」とか「どうなんだろう?」なんですね。だから禅味という意味では、しりあがりさんに軍配が上がる。
 この本の読者のほとんどが、島田雅彦かっこいい〜、でしょう。それはかっこいいけど、私には、なんか肉食獣の強がりというか、空元気というか、傲慢さというか、実は孤独というか、そんなものを感じてしまいましたね。逆に言えば、「〜なのかなー」とか「どうなんだろう?」の繊細さ、美しさ、優しさ、実はしなやかさみたいなものが、コントラストとして浮かび上がるということです。
 「メメントモリ」…「死」こそ、そういった人間性というか、いや人間だけじゃないな、存在性というものを照射する最も端的なテーマでしょう。どなただったか、どこかの高僧が、いまわの際に「死にたくない!」と言ったことを思い出してしまいました。
 あんまり分かったように語るとうさんくさくなるということです。そう言えば島田さんについてこちらにもそんなこと書きましたね。自己矛盾してくる。作家のサガです。まさにそれと戦うのが作家業であり、あるいはまた作家行でもあるかもしれません。禅とは反対の荒行なんだろうなあ。だから尊敬しますよ、もちろん。
 いや、分かってるんです。ワタシも語りすぎだってこと。だから、自分はどちらかというと、やっぱり尻上寿老師について禅の修行をしたいですね。あっそうだ、老師、高校の先輩なんだよなあ。弟子入りさせてくれないかなあ。同窓のよしみで。

Amazon 一度死んでみますか?

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2006.02.03

『鬼』

jbbg 今日は節分ですねえ。冬と春の境目。いわば大晦日ですか。本当はちょっと違うらしいけれども、気分的には明日正月ということです。
 節分と言えば「鬼」ですね。今日はいろいろなところで駆逐されてるんだろうなあ。鬼もたいへんです。ウチでは「福は内、鬼も内」です。世間では負とされるパワーをも味方につけちゃいます。ウチでは「艮の金神」を祀っていますからね。艮の金神様、いろいろいらっしゃるウチの神仏の中でも結構中心的存在です。艮(うしとら)は鬼門です。鬼門の神様ですので、鬼も内。オニさん(出口王仁三郎)もそのゆかりです。
 鬼と言えば、仮面ライダー響鬼も節分を前に終了してしまいました(ローカル局ではまだ生きてますけど)。鬼からカブトムシに格下げです。響鬼はなかなか良かった。たまにしか観ていませんでしたが、和の説話的テイストが効いていて好感を持ちました。カブトムシはどうでしょう。あれ?ライダーってバッタじゃないの?
 「おに」の語源はよくわかっていません。「隠」の音読みがなまったのだとか平安時代の何かに書いてあったと思いますが、あてにならない説ですね。謎です。和語に語源を求められないということは、結構新しめの外来種だということでしょう。
 「鬼」という字、古くは「モノ」と訓んでいました。万葉集など見るとやたらと「鬼」の字が出てきます。みんな「モノ」と訓ませているんですね。これは興味深いことです。中国では「鬼」と言えばだいたい「亡霊」のようなものを指しました。つまり、私のモノ・コト論で言うところの「外部」「未知」「不随意」的存在です。「コト(ミコト)」と対立する存在ですね。「ミコト」を奉じている人々にとっては、まさにモノノケであり、駆逐すべき存在の象徴であったわけです、「鬼」は。
 仏教的無常観と結びつく以前の、日本的「モノ」は、以前書いたように、どちらかというと道教的、陰陽道的「物」と「鬼」を足したような領域に近かったものと思われます。それで、「物」や「鬼」を「モノ」と訓んだ。私はそう考えています。いずれにせよ、認識不可能な、あるいは分節不可能な「外部」であったと。
 そういう自分の思いのままにならない、なんとなく恐い存在を排除するというのは、近代化の特徴ですよね。そういう「まつろわぬもの」を克服していく、いや征服して意のままに操ろうとしたのが、すなわち近代化であり、あるいは現代のデジタル化であると思います。
 しかし、人間なんて勝手なもので(あっ、そうそう、なんで人間を「者」と呼ぶか…私は「ミコト」に対する謙遜だと考えてます)、幽閉した「鬼」にもちょっとノスタルジーやらシンパシーやらを感じたりするわけです。だから、たとえ悪役であっても昔話には欠かせない。なんとなく親しみすら感じているわけです。また、そういう何か恐ろしいげな存在というのもどこかで待望していたりする。そう考えると、仮面ライダー響鬼はヒーローでしたから、民俗学的にもなかなか興味深い存在と言えましょう(その響鬼も再び幽閉されてしまったわけか…)。
 で、再び節分です。節分…ひっくりかえせば分節だなあ(?)。鬼(モノ)を退治するといことは、人間にとって、この世をまさに分節(コト)することでした。ちょっとこじつけですけれど、今日はそんなことを考えて、やっぱり「鬼も内」と言いながら、豆を撒き(食べ)ます。

 追伸 去年の今日熱出してたんだ(笑)

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2006.02.02

『高校生のための評論文キーワード100』 中山元 (ちくま新書)

4480062424-1 ウチの学校、というか私の教えているクラスでは、国語、特に現代文の点を上げたかったらマンガを読め!と言っています。これにはいろいろと理由があるのですが、今日はそこのところは書きません。ただ、世間で言われる「本を読め!」には反対を表明しておきます。本は読むな、です。
 まったくまた変なこと言ってら、と思われそうですけれど、実際そうやって全国トップクラスの点を取らせてきましたから。ちなみに古文では「活用表は覚えるな!」です。面白いでしょう。
 ま、無駄な時間をかけて小難しい評論なんて読むな!ましてや小説なんて読んでるヒマはない!ということで、これではずいぶんと寂しい青春時代になってしまいそうですねえ。いや、でも現実にはちょっと違うんですよ。読むヤツは読む。ダメだと言われてする読書はいいですよ。でも読みたくないヤツには無理やり読ませたりしません。無駄ですから。 
 私も全く本を読まない高校生でした。マンガも禁止されていたのでほとんど読みませんでした。それでもこうして国語の先生もできるし、文も書ける。なんでだろう、と考えたとき、その答えはこうでした。それを生徒にもすすめています。
 とにかく問題を読み解く。これは非常に重要です。特に良質の問題集や有名大学の過去問。どなたか有名な方も言っていましたけれども、あそこに並んでいる文章は、まさにエッセンスです。それが集まっている問題集は宝石箱です。昨日の話題にも関係しますけれど、作問するとわかるんですよね。どうやって文章を選び、どうやって問題を作るか。
 入試問題には作問者の思想が色濃く反映します。ただ国語の知識や読解力を試すのではなく、ウチの学校には「これ」を理解する生徒に入ってきてほしい、この文章のこの考えに共鳴する、この文のここのポイントを理解する人間を教えたい…こういうことです。ですから、大学の先生方(知の第一線にいる方々)おススメの文章のおススメの箇所が出題されるのです。そして、ここぞ!というところに傍線が引かれる。これは間違いなく「最新の知のエッセンス」ですよね。理解を促す「問題」まで付いているわけですから、これはお得です。さらに答えもある。
 解答のための読解とただの読書ではあまりに質が違います。脳の状態が違うのです。これを活かさない手はありません。ただ点を取らないと怒られるからとか、気まずいからとか、そんなのではなく、知のエッセンスを吸収するためだという意識を植え付けて、問題に当たらせたいのです。
 というわけでして、ウチの学校ではマンガと過去問だけは相当の量消費されています。もうそれだけでOK。ただ難しいのは、その「知」の部分の基礎知識を誰が教えるかということですなあ。なにしろ高校の教科には「哲学」すらありません。現実としては、現代文の問題の中に、そういった現代思想的なものが大量にでてきてしまうので、国語科の教員はある意味自分の専門外である「哲学」を教えなければならないはめになるんですよね。専門外だから教えてない人もたくさんいるでしょうけど。
 私は比較的そういうのが好きですので、軽めですがそれなりに教えているつもりです。で、そんな時有用な参考書というのがいくつかあって、今までもそれらをこの場でおススメしてきました。今日おススメするのもその一つです。比較的新しい良書です。
 基礎的な哲学用語、現代思想用語を100ピックアップして、一つ一つを見開き2ページで解説してくれています。それぞれが「ポイント」「切り口」「展開」という構成になっており、かな〜り読みやすく理解しやすい内容になっています。単に辞書的な言葉の言い換えではなく、文脈を重視した解説になっており、正直大人でもかなり勉強になります。私は一日一項目ずつ読んでいます。まとめて全部読むと頭がオーバーヒートするから。
 ところで、こういう世界って、やっぱり「遊び」なんですよね。実生活とかけ離れている。それが快感なんですけれど。だから、大学って「知の遊戯場」なんだと思うんですね。そういう部分もあると思いますし、そこにテストを受けてお金を払って入園して、それで4年間、あるいはそれ以上遊んで来る…それでいいと思います。
 就職のための大学進学もありだと思いますけど、こういう意味で遊びに行くのもいいんじゃないでしょうか。人生長いわけですし。だけど青春は短いわけですし。
 すんません、とりとめもない文章で。

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2006.02.01

『センター試験作問エッセイ』 佐藤恒雄(千葉大学名誉教授・元センター試験作問委員)

ghjjoi11 なんか久々に良質のドキュメンタリーを観たような感覚です。裏世界を垣間見。かなり渋い話題ですけれど、ホントに面白かったんで。
 私は国語の教員ですが、読んだのは数学のお話。センター試験の数学の問題がどのように作られるのか、に関する一連のエッセイです。お書きになったのは、3年間作問委員をされたという佐藤恒雄先生です。3年間委員を務めるということは異例のことだそうで、いかに佐藤先生が優秀な作問者であったかがうかがえます。佐藤先生は「佐藤の…」という冠参考書を多数書いておられる、大学入試数学の神様的存在でもあるようです。
 さて、今年もセンター試験が行なわれましたが、あの問題たち、誰がどうやって作っているのでしょう。これは受験生や教員ならずとも気になるところではないでしょうか。間違いがあったとか、悪問があったとか、問題が洩れていたのではないかとか、いろいろと取り沙汰されることも多く、いろいろな意味で大変責任が重く緊張を強いられるお仕事であると思います。私も毎年入試問題やら何やらを作りますが、試験が無事終了するまでの、あの独特の緊張は、正直いやなものです。それどころか、作問会議の段階でもけっこう緊張する…自分の問題を他の先生に解いてもらっているだけでも。それがセンター試験レベルとなると…。
 そんな現場の何とも言えない緊張感やら、ほんのちょっとの和む瞬間やら、はたまた微妙な力関係に象徴される業界(学会)の構図やらが、静かな中にも実にダイナミックに活写されたエッセイ、それが佐藤先生一連のシリーズです。
 同僚の数学の先生が「2003年センター試験問題(数学)作問委員の非凡な努力の日々−その1」「同−その2」という文章のコピーをくれたことが始まりでした。「大学への数学」という雑誌に載っていたものです。私は食い入るように読みました。ものすごいドキドキ感です。
 だいたいこんなにリアルに書いてしまっていいものなのでしょうか。まずはこの文章の存在自体に後ろめたいものを感じてしまいます…なぜか私が…。でも佐藤先生は委員任期中にこれらを発表しているわけですから問題ないということですね。
 数学的な内容については私はほとんど分かりません。ですので国語科的に申しますが、何しろ佐藤先生の文章がうまい。いわゆる上手な文というのとは違うのかもしれませんけれど、とにかく無駄がなく洗練されています。ほとんどが実際に交わされた会話です。ものすごい臨場感です。だいいち先生はこれらの詳細な会話を全て記憶しているということですか。まあ、全体として問題ができ上がっていくという文脈があるわけですから、記憶の再構成はしやすいかもしれませんけれど、誰がどのタイミングでどう言ったかを、ここまで正確に再現されると、もうこちらはその優秀な脳ミソにひれ伏すしかありません。その再現力が自ずと文体になっている…。
 ここにはその文章を載せることはできませんが、ネット上に違う年度の同様のものが公開されていますので、下記リンクからぜひお読み下さい。なんか興奮しますよ。
 他の教科についてはどうなんでしょう。同様の作成過程を踏むのでしょうか。やっぱり国語に興味がありますね。どうするとああいう悪問が作れるのか。ぜひドキュメンタリーを読んでみたいところです。国語の俊英たちがどういう意見を交わしているのか、とっても興味があります。数学の俊英たちでも、それぞれの得意分野苦手分野があったりして、意外に解答にてこずったりしています。国語なんか絶対みんな満点取れませんよね。
 ところで、今回この興味深いエッセイを読んで初めて分かったことがありました。それは私がなぜ数学ができなかった、ということです。漠然と何かが欠如しているなとは思っていたんですが、今回初めてそれが一つの言葉として解せました。それは『翻訳力』です。中学までは計算力でなんとかなりましたが、高校に入った途端私の数学はなんとかならなくなりました。その原因が「翻訳力」の低さだったのです。
 センター数学の作問において重視されているのがこの「翻訳力」でありました。なるほど、私にはその力がなかった。残念ながらこれは、運動神経とか文章神経とか音楽神経とかといっしょで生来のものだ…と思います。
 佐藤先生は問題を解く時に働く力として、「読解・分析力」「目標設定力」「翻訳力」「遂行力」を挙げています。数学に関しますと、私はやはり「翻訳力」に劣っていたと感じます。しかし、この四つの力、数学に限らず全ての「問題」の解決に必要な力とも言えましょう。学問のみならず、生活のあらゆる場面でも、これらの力が試されていますね。
 数学では残念ながら問題解決ままならぬ私でありましたが、なんとか他の何かの分野でこの四つの力を発揮してみたいものです。

大学入試センター作問委員の理想と現実1
大学入試センター作問委員の理想と現実2
2002年センター試験問題(数学)はこうして作問された

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