« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006.01.31

レミオロメン 『粉○』?

B000BKTD7U 年末年始のヒットチャートを賑わし、すっかりメジャーバンドの一つとなった「レミオロメン」。私は彼らをインディーズ時代からから注目しており、生徒に「レミオロメン」は来るぞ!と言い続けてきました。最初は「何それ?」「なにメロン?」という感じでしたが、今では「先生、すご〜い!当たったね」なんて言われます。ちょっと嬉しい。まあ、私が努力したわけではないのですが。記事としては一昨年の8月去年の4月に書いてますね。
 特に「粉雪」がテレビドラマ『1リットルの涙』の挿入歌となってから、大ブレイクですね。タイアップは強い。普段はタイアップには冷ややかな視線を送っている私も、レミオロメンに関しては素直に嬉しく思っています。彼らの実力…作曲能力と演奏能力…を世間に広く知ってもらういい機会になったと思います。彼らはメジャーになっても今のスタンスとキャラクターで頑張ってほしいものです。たぶん大丈夫でしょう。頑張れ山梨の星!
 この曲の良さは、単純なコード進行の上に魅惑的なメロディーが乗っていることに尽きます。私もよく書いていますが、作曲能力の大部分はそれができるかにかかっています。つまり変に新しさを求めたり、奇を衒ったりせず、日常の中に大切なものを見つけるという能力です。
 楽譜を見て気づいたのですが、Aメロの入りもサビの入りもコードの中に入っていない音なんですね。それも一瞬ではなく掛留のようにかなり長くぶつけています。だから歌い出しを思い出しにくいし、カラオケでサビの音が取りにくい。具体的に言えば、冒頭はGの和音にAの音、次はEmにF♯…サビはCにAという具合です。こういう何気なく美しい不協和音が、あの曲の独特の浮遊感や穏やかな中の緊張感を生みだしているわけですね。こういう作曲が自然に出来る(逆に音楽に詳しいと出来ない)というのは、すなわち才能です。レノン&マッカートニーにもよく見られるメロディーとコードの関係です。
 こうした才能は彼らの詞(詩)についても言えますけれど、今日はそこには言及しません。で、ですねえ、私のウチでも家族みんなで「粉雪」を愛聴しているんですが…。ちょっと困ったことが起きてるんです。
 10月に買ったミュージック・プレーヤー、EVER GREENのEG-HDMP620、リソースフォークの問題はあれど、まあMacでも使えていまして、そこそこ満足しております。ところが、どうも挙動不審な時があるんです。この前もレミオロメンのエーテルを聴いていたら、大好きな「3月9日」の途中で、突然「恋のマイアヒ」に変わったりするんですよ(笑…でもタイトル表示は3月9日)。もう楽しい楽しい。例の地上デジタルもそうですが、全然デジタルじゃない。アナログ的(もののけ的)。いいですねえ。いい味出してます。
 それでですねえ、究極の挙動不審はこれです!これは毎回こうなります!
 「粉雪」を再生するとですねえ、そのタイトル表示が「粉爺」になるんです!!
     粉爺…こ・な・じ・い…って(?!)
SANY02301 もう、おかしくておかしくて…。いかん、しみじみ聴けない。
 また、それを見てカミさんが「こ〜なじ〜舞う季節は…」とかしつこく唄うからたまりません。なんか粉末状になった爺さんが空を舞っているような…う〜むシュールだ。
 というわけで、ウチでは困ったことになってます。まあウチだけでしょうけど。

「3月9日」の記事へ

3月9日再び〜「縁」と「恩」

レミオロメンの藤巻くん(の顔マネ)

HORIZONの記事へ

滑走路ライヴの記事へ

「Flash and Gleam」の記事へ

レミオ聖地巡礼の旅の記事へ

Amazon 粉爺

不二草紙に戻る

| | コメント (10) | トラックバック (1)

2006.01.30

MONDAINE Official Railways Clock & MClock

mon_main_clock ウチの寝室にはMONDAINE社のスイス国鉄公式時計がかけられています。結婚祝いに家内の友人の方々が贈ってくれたものです。
 さすが、スイス国鉄公式時計。なにしろ見やすい。長針・短針が太くて、遠くからも良く見えるというわけです。秒針も面白いですね。赤くて細いのですが、先っちょに丸がくっついています。結果として長針・短針をじゃますることなく、しかし必要があればはっきりと確認することができる。いいですねえ。
 私は眼が悪い。寝るときはメガネを外しますから、この時計がたいへん重宝するわけです。いちいちメガネをかけなくてもいい。さすがに暗やみでは見えませんけどね。
 さすが時計の国の製品です。機能を美しいデザインに昇華させるのはスイスという国の得意とするところですね。MONDAINE社のホームページを見ると、同じデザインの腕時計やら懐中時計やら、いろいろあるようで、思わず食指が…。う〜ん、懐中時計ほしいなあ。
mclock_icon さて、そんなわけで大変気に入っているこの時計、なんと私のiMacの中にもかかっています。ホンモノを忠実に再現したフリーソフトがあるんです。K.Yamauchiさんがお作りになったこのソフト、秒針の動き方までホンモノそっくりで、ちょっと感動的です。Mac純正のClockもシンプルでいいいんですが、針が細くてちょっと見づらい。特にDockにいろいろ詰まってきてClockが小さくなると、それこそ駅舎に家庭用の時計がかかっているようなもので、目を凝らさないと確認できない。その点このMClockはホンモノ同様余裕で見えます。一度Dockに入れたら手放せない逸品です。もちろん純正同様、デスクトップ上に表示させたりすることもできます。Mac使いの方々、是非お試しあれ。

作者K.Yamauchi氏サイト
MONDAINE社

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.29

『危ない大学 消える大学 '07』 島野清志 (エール出版社)

4753925269 文は人なり…「書き手の品性が透けて見えるような実に嫌らしい文章」かあ…なんで見破られてるんだ(笑)。
 ここ数日、数名の知らない方からメールをいただきまして、それで初めて知りました!
 島野さんのロングセラー『危ない大学 消える大学』シリーズの最新刊に、私の愚ブログの記事が引用されています。島野さん、冒頭の20ページ近くを割いて、私の記事に対するご意見をお書きになっています。
 おかげさまで、私のブログへのアクセスも少し増えました。ありがとうございました。まあ、私の記事のリンクから島野さんのご本が数冊売れているようですのでgive&takeですね。
 一般人のブログの一記事に食いついて、より公共性の高い書籍という形で世に出すという行為には正直ビックリしました。なんか申し訳ないというか、なんというか…。
 なんの連絡もなしというのは、まあネット上の情報の性質として全然OKなのですけれど、どうせ引用するなら正確に引用してほしかった。特に傍線をお引きになって、反駁の対象とした部分くらいは原文のまま引用してほしかった…(著作権などについてはこちら参照)。
 というわけで、同書で略された部分も含めて、正しい文章で読んでいただきたいので、その記事のリンクを貼っておきます。ぜひ、島野さんのおっしゃる「書き手の品性が透けて見えるような実に嫌らしい文章」を味わってみて下さい。
 危ない大学 消える大学'06(追伸 よろしかったら翌日の記事もお読み下さい)
 で、できれば下のリンクから2007年度版をお買い求めください。島野さんの文も読んでいただきたいのです。私の文章と私自身がものすごい勢いで批判されていて痛快です。まあお互い様と言えばお互い様ですけれど、ブログと書籍ではちょっと土俵が違うような…ま、いいか。内容からすると多少割高感のある本ですが、おススメしますね。もちろん私は記念に買いました。
 縁というのはありがたいし面白い。こうして思わぬところで私の駄文が多く人の目に触れることになる。そしてすでに何人かの方から好意的な意見をいただいております。あらためて島野さんありがとうございました。今度でもしましょう。楽しくね。

Amazon 危ない大学・消える大学 '07

2008年版の記事へ

不二草紙に戻る

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006.01.28

(I Got No Kick Against) Modern Jazz - A GRP ARTISTS' CELEBRATION OF THE SONG OF THE BEATLES

B0000001V7 今朝、BS Japanでモントルー・ジャズ・フェスティバルの模様がオンエアされていました。今日はジョージ・ベンソンが主役。あいかわらずカッコいいし上手いし渋いし…。すごい存在感でした。私が生まれた年にデビューかあ…芸歴41年。
 で、久々にジョージ・ベンソン節というか、あのお得意のユニゾン奏法(唱法)…ギターとスキャットを重ねてやるやつですね…を聴いて(観て)、妙に聴きたくなったのがこのアルバム。仕事のBGMには最高ですねえ。
 とは言っても、このアルバムでは、GBは冒頭の一曲だけですよ。「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」です。そう、このアルバムは、GRPの錚々たるアーティストたちが、一人一曲ずつビートルズのナンバーをカバーしたものなんです。
 ちょっとこのリストを見て下さいよ〜。もう説明はいりませんね。

1 「The Long And Winding Road」 by George Benson
2 「She's Leaving Home」 by McCoy Tyner
3 「She's So Heavy (A/K/A I Want You)」 by Groove Collective
4 「And I Love Her」 by Diana Krall
5 「The Fool On The Hill」 by Tom Scott
6 「Michelle」 by Ramsey Lewis
7 「A Day In The Life」 by Lee Ritenour
8 「Let It Be」 by Nelson Rangell
9 「Eleanor Rigby」 by Chick Corea
10 「While My Guitar Gently Weeps」 by Russ Freeman
11 「In My Life」 by Spyro Gyra
12 「Here, There And Everywhere」 by David Benoit
13 「Blackbird」 by Arturo Sandoval
14 「Yesterday」 by Dave Grusin
15 「Imagine」 by 木住野佳子(日本盤のみ)

 こりゃビートルズ&ジャズファンのワタクシにはたまりませんねえ。今から10年ちょい前、ビートルズのデビュー30周年、いや違うな、解散25年か何かの企画だったと思います。こういう企画ものにありがちな悪い意味でのお祭り感がなく、かなりハイレベルな内容になっていますよ。キキゴタエあり。たぶんみんなライバル意識燃やして料理してます。かなりの火力です。
 演奏している面々もものすごいことになってますけれど、やはり、彼らに料理されて超然としているビートルズの楽曲の素晴らしさが際立っていますね。そして、ミュージシャンたちのビートルズへの敬意でしょうか。
 もう、これは聴いていただくのが一番でしょう。国内盤では手に入らなくなりましたが、輸入盤ででも是非お買い求め下さい。vol2が欲しいなあ…。
 ちなみに私が好きなのは…う〜ん、選べない…。全部いいんですけどねえ、13かなあ。ブラックバードがあんなにカッコよくなるなんて!そして14のグルーシンのソロも珍しい。この流れからすると、日本盤15はちょっと蛇足?…悪くありませんが、純粋にビートルズ・ナンバーでまとめたかったような…。

Amazon  (I Got No Kick Against) Modern Jazz

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.27

『モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ集』 リンダ・ニコルソン&ヒロ・クロサキ 

B00005HNYM 今日はモーツァルトさんの250歳のお誕生日だったような…。250年前というと、宝暦年間ですか。吉宗の息子家重の将軍時代ですね。ん?モーツァルトが生まれたのが宝暦6年で、山田検校が生まれたのが翌年、宝暦7年か。へえ〜、知らなかった。お二人が同時代人だったとは。
 お〜、山田検校が処女作『江の島曲』を発表した年に、モーツァルトは『戴冠ミサ』や『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』書いてるんだ。なんか不思議な感じですねえ。当時お二人は22、3歳。いずれ劣らぬ天才ですね。
 私はあまりモーツァルトが好きではありません。へたすると山田検校の方がよく聴いたし、演奏したかもしれません(って、考えてみれば自国の音楽家の方を聴いたり弾いたりするのが本当なのかも)。モーツァルトももちろん嫌いではありませんが、積極的に聴いたり弾いたりはしません。これは趣味の問題ですから、別に理由はありません。頼まれればいつでも弾いてきましたし。
 そんなモーツァルトの中で、比較的よく聴いてきたCDがこれです。今日はモーツァルトさんのお誕生日祝いにこれを聴きましょう。日本アカデミー賞1996年度室内楽部門最優秀レコード賞を受賞した作品です。
 たしか、これを買う前にテレビでお二人の演奏を観たんです。ものすごくヒロ・クロサキさんの表情が良かった。音楽より何より、ヴィジュアルからモーツァルトの良さが伝わってきた。こんな観賞法は邪道だと言われかねませんが、当時の音楽、いやいやどの時代の音楽にもヴィジュアルは大切ですよ。音だけの方が不自然。
 トン・コープマンの交響曲全曲演奏もビデオに録ってありますけれど、なんででしょうねえ、私のモーツァルトにはヴィジュアルも必要なようです。だから自分が演奏する時も、モーツァルト用の動きというのがあるんですね。ある意味、そういうフィジカルな音楽なのかもしれません。一般的な、というか日本人的なモーツァルトの受容とは、ちょっと違うかな?
 さて、そういう過程を経て買ってみたこのCDですが、意外やそのフィジカルな感じが聴きとれるんですね。演奏している姿、呼吸の具合なんかが見えるんですよ。たぶん、一度映像で観ているからでしょう。そういう効果ってあるはずです。こういうのってどういう仕組みなのでしょうか。脳の中でどのように処理されているんだろう。他の人とは違う情報が加味されるわけだし。そんなこと言ったら全てそうか。皆がそれぞれ固有の経験の上に現在を認知しているわけですから。
 おっと、話がそれた。え〜と、とにかく非常に明るく生き生きとしたモーツァルトが展開されています。リンダ・ニコルソンさんのフォルテピアノの表情も絶品ですし、ヒロ・クロサキさんのヴァイオリンも実に美しい。ピリオド楽器の良さが全て出ています。アンサンブル的にも見事。お二人の会話というよりも、音が絡み合って、そこにモーツァルト自身が立ち現れるという感じです。音楽と楽器と演奏者が、まさにモーツァルトを今ここに甦らせている。最も幸福な音楽のあり方でしょう。
 最後にちょっと個人的な話題を一つ。ウチの学校の卒業式、卒業生一人一人に証書を渡します。けっこう時間がかかるので、私の趣味で毎年このCDをBGMにしています。今年もまた、この曲に乗って、彼らが巣立っていくんだなあ。
 ああそうだ、これをぜひ読んでみてください。ヒロ・クロサキさんのインタビューなんですけれど、大変興味深い発言が多々ありますよ。
 
Amazon ヴァイオリン・ソナタ集

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.26

「お金」と「言葉」〜コト化の魔力

itako メディアっていう言葉がありますよね。メディアってミディアムの複数形なんです。ミディアムレアのミディアム。中間ってことです。もともとは何かと何かの中間を表す言葉でした。まあ、今でもそうか。媒体。
inf117031 昔はミディアムって霊媒のことだったとか。イタコですね。今風に言えば江原啓之さんですかね。実は私もちょっとそういう才能があるんですが、最近はあまり公言していません(って思いっきりパブリッシュしてますな)。
 で、イタコさんって、見えないものを見えるようにするわけで、これは「モノ」を「コト」にする行為です。その際の道具(手段)が「言葉(コトノハ)」です。つまり言葉はメディアの内の一つです。
 では、「お金」はどうでしょう。お金と言葉はよく似ているという論がずいぶんとはやりました。確かに似ている部分もあります。「モノ」に価値を与えるわけですからね。記号論的論法ですか。ま、深く考えず、お金もメディアの一つとしておきましょう。
 しかし、考えてみると、これらメディアは実に不安定なものです。あるルールのもとに、ローカルに流通しているものにすぎません。大多数がそのルールをなんとなく守っているから、そこに意味や価値が生じるわけです。そんなものに依存している我々人間というのも実に不安定な存在です。
horiemon 「お金」というメディアの魔力に取り憑かれて、結果として暴走してしまった彼。メディアの一つであるマスコミに持ち上げられ、そして潰される。実に皮肉なことです。彼の言動及び周囲の言動、そして官憲及び報道の対処を見ると、あのオウム事件の時と非常に似ていることに気づきます。あの時のメディアは「宗教」でした。「宗教」にも「お金」にも、もちろん「言葉」や「パフォーマンス」が付随していますね。マルチメディアってことか。
shib こっちの彼はどうでしょう。夢で聞いた呪文(言葉)を唱えたら、若いキレイな女がたくさん集まってきた。うらやましい…いや、困ったことです。なんとも不思議な呪文ですね。しかし、そこに意味や価値を、それもものすごい意味や価値を見出した方々がいたということですから、多少ローカルであってもれっきとしたメディアであったわけでしょう。こちらも「呪文(言葉)」というメディアの魔力に取り憑かれて、結果として暴走してしまった。
 怖いですね。メディアはあくまで間をつなぐ手段であったはずなのに、いつのまにか目的になっている。自分たちが生み出したメディアに、我々がコントロールされている。悪しき「言霊」です。あっ、そうそう、私は「ことだま」という言葉、「言葉が持つ不思議な力」とかいういいかげんな定義は認めていません。「固成(実現・内部化)のエネルギー」です。「コト」の意味を「言葉」に限定するのは、近世以降の発想ですよ。古くは「事霊」という表記もたくさんあります。
 というわけで、現代のコト化社会を象徴するような事件が、テレビのニュースを賑わしています。そしてこのニュースもまたコト化の産物であり、それをこうして語っているコトもまた…ああもう人間のコト化の欲望には際限がないということですね。
 この状況を憂えて瞑想したのがお釈迦様ということでしょうか…。私も今日はちょっと瞑想してみようっと。

不二草紙に戻る 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.25

O-Zone 『DISCO-ZONE〜恋のマイアヒ〜』

The O Zone 『Discozone』
B0007G8CDE カミさんが借りてきました。聴いてみたらなかなかどうして面白かった。久々に音楽の本質について考えさせられました。
 某日本のレコード会社さんのおかげで、すっかりヒットしてしまった「恋のマイアヒ」です。その会社さんの商魂のたくましさ、音楽への敬意のなさ、品位の低さには、まったく驚かされました。ま、そのおかげでこうしてこのアルバムを聴くことになったわけですから、感謝しなくちゃいけないんですがね。
 さて、モルドヴァ共和国出身の3人組O-Zoneの音楽、いわゆるヨーロッパディスコです。70年代から80年代に日本でも流行った東欧系ディスコミュージックの系譜ですね。実はこの系統の音楽、当時の私は大嫌いでした。おバカディスコとか言って、あえて聴かないようにしていました。ビルボードやキャッシュボックスのチャートしか知らなかった私は、日本のチャートにそういう曲がランキングされるのを憂いていました。
 その偏見を吹っ飛ばしてくれたのが、かのジンギスカンの中心人物レスリー・マンドーキのアルバムです。そこで展開されていたのはオシャレな西洋音楽でした。しかし私は、逆説的にあることに気づかされたのです。ああ、彼らの頭と体の中には、いわゆる西洋音楽(若かりし頃の私はそれこそが音楽だと思ったいました)以外の音楽もあるのだ、と。彼はハンガリー出身のミュージシャンでした。
 私が感じていた違和感というのは、たとえば自国の演歌に対するものと同質のものであったと、今となっては反省されます。私も歳をとって、いろいろな音楽体験をして、そしてようやくいわゆる西洋音楽だけが音楽ではない、いやいわゆる西洋音楽こそがワールドミュージックの中の特異な存在であるということに気づいたわけです。
 というわけで、O-Zoneがヨーロッパでうけた、日本でうけた、アメリカでもそこそこうけた、ということは、実にめでたいことです。アメリカの音楽市場はたしかに成熟しています。市場としての魅力もわかります。しかし、アメリカが中心であったり、正統であったり、スタンダードであったりする必然性は何もありません(音楽以外についても言わずもがな)。そういう意味で、彼らの奏でる旋律と「英語ではない言葉(ルーマニア語)」は皮肉にも実に魅力的に響きます。
 音楽的に言うと、やはりアジアなんですね。明らかにロシア民謡、韓国演歌、日本の歌謡曲などにつながっています。西洋音楽的に言うと全曲マイナー(短調)なんですね。しかしコード的にはメジャーコードも多用される。これはいわゆる西洋音楽以外の音楽ではよくあることなんですが、つまりは長調、短調の区別なんてないのです。だから自由に行き来する。それが普通なのです。あと、単調なリズム(これが縦ノリディスコになる)と同一のコード進行の繰り返し。つまりバスの循環。
 こんなことも思い出しました。バロック時代の大作曲家テレマンは、よくスラヴ系の楽章を挿入しました。彼はドイツ人ですが、当時のイタリアやフランスの音楽を取り入れたのはもちろん、ポーランド系の民族音楽風なダンスミュージックにも興味を持ちました。いわゆる西洋音楽が確立してくる時代にしては珍しい趣味だったと思います。で、その曲たち、なかなかカッコよかったりするんでね。当時もうけが良かったらしい。演奏していても何かが解放されるような気がするんですよ。これは現代においてO-Zoneがヨーロッパや日本で受け入れられる現象と似ているのでは。
 というわけでして、とにかくO-Zoneはなかなか興味深いですよ。たしかに気持ちいい。メロディーもいいですし、単調な循環も心地よい。そして歌、いや唄もなかなか巧い。これをチープとして片づけのは少しもったいないですね。年末の番組で彼らが輝いていたのもうなずけますね。

Amazon 『DISCO-ZONE〜恋のマイアヒ〜

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.24

デジタル最高最低温度計 SATO(佐藤計量器製作所)

SANY02191 え〜、ご存知の方も多いと思いますが、私の住まいは富士山です。住所も富士山です。手紙は郵便番号と「富士山○○○○○-○○○」で届きます。だから寒いっす。今冬は特に12月が寒かった。そして大寒を過ぎた最近もよく冷えます。右の写真、昨日寝る前(午後10時すぎ)に撮影したものです。−12℃ですねえ。ね?寒いっしょ?
 あっ、もちろん上の数字は外気温ですよ。家の中は下の数字です。17℃ちょいですか。
 と、ここでお気づきかもしれませんが、なんと外気温と内気温の差、約30℃です。この差がポイントなんですね。なんのポイントかって、この家に住む喜びですよ。外は極寒。中はヌクヌク(ってほど暖かくないけど)。この気温差が大きければ大きいほど、幸せも大きくなる。私たち単純ですから。
 もちろん、家自体寒冷地仕様ですよ。外断熱工法というやつです。ガラスももちろんペアですね。そうじゃないととても住めない。で、暖房は床暖房もあるんですが、一度暖まってしまえば、小型のファンヒーター(6畳用)だけで18畳吹き抜けのLDKを保温できます。
 で、この幸せの指針となるのが、今日ご紹介するSATOの温度計PC−6800です。これはなかなかの優れものですぞ。さっき書いたように、上には外気温が、下には室内温度が表示されます。さすが計量器、測定器専門メーカーさん、測定範囲は外部センサ-50〜70℃、内蔵センサ-5〜50℃となっています。測定精度も高そうですし、家庭用としては充分すぎる性能でしょう。そして、それぞれの最高最低気温が確認できるのもいい。今の季節なんか、最低気温を更新するのが楽しみ?なんですよ。どうせ寒いならもっと寒くなれ!と。
 デザインもいいっすね。シンプルでよろしい。字が大きくて太くてとっても見やすいんですよ。いつでもどこからでも見えるので、楽しみ幸せが増えます。
 このたび初めて佐藤さんのホームページを見ましたけど、いいっすねえ。見てるだけで楽しい。ハードボイルドな業務用から、ファンシーな家庭用まで…。「燃え」から「萌え」まで。スペックもデザインも幅広くて飽きません。
 ちょっと思ったんですけど、温度計って画期的ですよね。今じゃ当たり前の存在になってますけど、ガリレオでしたっけ?最初に発明したの。日本に入ってきたのはいつなんでしょうか。なんか急に気になりはじめた。一般家庭に普及したのはいつごろ?
 いや待てよ、画期的とか言っといて申し訳ないんですが、温度計っ本当に必要なものなのでしょうか。暑さ寒さなんて人それぞれですし、そのそれぞれの人においてもけっこういい加減だったり、相対的だったりしますからねえ。ウチなんて猫見てればわかりますよ。あっそれで思い出した。ネコ温度計知ってますか?
 まあ、とにかく一般家庭においては、普通温度計を見る機会と言ったら、なんかものすごく暑いか寒い時だけでしょう。そういう時に温度計を見て、「わ〜」とか「ま〜」とか「○○℃だよ〜」とか、つまり驚嘆の演出に使うくらいじゃないですか?あとはエアコンの効果の確認とか。あと、自分の体感温度の正確さの確認とか。たぶん○○℃だろう、ほ〜ら当たった、みたいに。そうすると、ウチみたいな楽しみ方というのはあんまりないのかな。でも、この温度計を手に入れたら、必ず喜び楽しみが増えますよ。おススメします。

SATO-Iデジタル最高最低温度計PC-6800

佐藤計量器製作所

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.23

『電車男』劇場版〜ちょっとまじめに文化論

B000BDG2JO ああ、さすがに忙しい…と言いつつ、生徒が持っていたので没収して観ました。昨日の記事にも書きましたけれど、今年のセンターに『電車男』が出たんですよ。一応現代社会という教科にもかかわっている私としては、当然問題分析しなければなりません(笑)。途中、生徒の進学相談などなどに妨害されながらも、なんとか観終わりました。分析終了。
 予想したより楽しめましたね。ドラマ版があまりにも良い出来でしたので、こちらにはあまり期待していなかったんですが、充分及第点はやれますな。でも…
 山田くんがカッコよすぎなのと、2ちゃん独特のテンションがうまく表現されていなかったのは不満です。2ちゃん世界を知っている者にとっては、二人の恋愛模様よりも、2ちゃんの住人たちの中の性善と性悪の戦い…性善が勝利するわけですが…がテーマであったわけでして、そういう意味でもちょっと焦点がずれている感じがしました。しかし、まあそれは映画のマーケティングの結果として理解できないこともありません。映画的な演出もうまく行っていたと思いますよ。電車のホームでの演劇的シーンとか、取ってつけたような伏線だとか。
 中谷さんはどうなんでしょうねえ。そつなくこなしていたとは思いますけれど、ちょっと途中から私は引いてしまいました。電車をホントに子ども扱いしている。年齢的なこともあるのかもしれませんけれど、ちょっとあのキャラ設定であの積極性には、私は女性の恐さを感じてしまった。女性の可愛さではなかった。それが現実なのかもしれませんけど…。
 ここからは原作の分析?を再び。やはり原作というか、あのスレに神が降臨していたんだな、と。物語の神がネット上に舞い降りたのです。私の考えでは、「物語」とは「外部」を「内部化」することです。いつも言っているように、「モノ」とは「未知」であり「不随意」であり「変化」であり「無常」です。つまり受け手にとっての「外部」なのです。自分の思い通りにならない。それを「コト」…「既知」「随意」「不変」「恒常」つまり「内部」に変化させるのが「カタル」という行為です。
 平安時代の「物語(名詞&動詞)」の用法を逐一検証しましたが、どうもこのような意味で使われていたようなのです。現代的な感覚とはかなり違いますね。その私の考える本来の「物語」観からすると、『電車男』はまさに「モノガタリ」だった。語り手どうしも「モノ(お互い知らない)」、もちろんストーリー展開も「モノ(どうなるか分からない)」、また結果としてのストーリーも多くの住人にとって「モノ(自分には縁がない)」なわけですから。このような形の物語を文学と読んでいいかわかりませんが、とにかく新しい「語り」の形が提示されたという意味では、まさに神キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!であったのだと思います。
 いつも書いてます。「コト」に萌え(=をかし)を感じるのが「オタク」であると。しかし、『電車男』では、皮肉にもその「オタク」たちが「モノ」に一喜一憂し、いろいろな涙を流し、ため息をついた。「もののあはれ」です。私も今考えると、そこに感動したのでした。
 「モノ」と「コト」を二分法で説明することの多いワタクシですが、実は「コト」的世界の集積が時間の流れ、すなわち「モノ」的世界を形作るとも考えているのです。オタク個人は微分をしますが、実はオタクたち全体では大いなる積分をしているのではないか…とも最近思うのです。
 いろいろな歴史的な文化を見るに、どうもその時々は、みんなオタク的指向や思考や嗜好でやってたんじゃないかって。私たちは遠くにいるから、その集積の結果しか見えない、それを勝手に歴史とか文化とか呼んでるんじゃないかって。100年後、現代のオタク文化は間違いなく日本の伝統文化として語られるでしょう。そんなことを考えちゃいました。

Amazon 電車男

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.22

昨日のセンター試験は…ボク怒ってますぅ

 さて、センター2日目。これから生徒たちが帰ってきて自己採点。今夜は忙しいので、先に記事でも書いて待ってますか。
 え〜、まず昨年のセンターを思いだしてみましょうか。国語I国語I・II英語と、ツッコミどころ満載で、私も記事が書きやすかった。特に英語の天気図の問題、私の説は結局正しかったのでしょうか。誰も反応してくれませんでした。1年以上放置。けっこう真面目に書いたんですけどね。
 で、今年は今のところ、あんまりツッコミどころがないんですよね。まあ、現代社会で『電車男』が出たことくらいかな。「インターネット上の掲示板に書き込まれた内容が大きな反響を呼び、紙媒体の書籍として出版され、ベストセラーになった」だって(笑)。
 あっ、あと国語の小説、松村栄子さんの『僕はかぐや姫』というのが出たんですが、主人公の女子高生が自分のこと「僕」って言うんです。これはいわゆる「ボク女」あるいは「ボクっ娘」というヤツですな。動揺した男子生徒(あるいは女子生徒)もいたかもしれません。
 現代社会にせよ現代文にせよ、とにかく「現代」を語るとなると「オタク」は避けて通れないんですね(あのボク女、オタクじゃない文学少女だ、なんて言わせませんよ)。
 さてさて、去年に続きまたカミングアウトしますが、僕、今年も満点取れませんでした、国語の先生なのに。ボク女の最後の問題で落として195でつ…orz。あれは納得いきませんねえ。悪問です。僕が間違うのは悪問です(笑)。
 第2問の問6。1、2、3に絞って、3は最初に決定。1と2は迷った末、2における「焦点」と「視点」が並列すべきものでないことと、百歩譲ってそれを認めても、最後の「人物像が浮き彫りにされている」との因果関係がさっぱり分からないので消去しました。そしたら2と3が正解だって!ボク女にやられたのか、はたまた出題者にやられたのか…私は女性を責めたくない(笑)。
 あとの問題は比較的素直で、評論、古文、漢文とも、私には昨年よりもかなり簡単に感じました。ほとんど本文に根拠を探せたと思います。特にあの漢文は簡単すぎるでしょ。
20050721ic28-1-A20050721230922832M さてさてさて本題。問題はあのリスニングです。これはツッコミではなくて、真面目に抗議したいと思います。ウチの生徒のICプレーヤーに不具合があったのです。ニュースで御存知の通り、全国でもずいぶんたくさんのトラブルがあったようですが、見事ウチの生徒も当選?しました。なんだか、音が突然片方からしか聞こえなくなって、それが右に行ったり、左に行ったりしたそうで、もうパニック。しかし、そこで手を挙げて監督官を呼んだら、すぐ前で受験しているクラスメイトを動揺させる…ということで、しかたなく試験終了後申し出したそうです。そしたら、機械を回収して調べてみると。不具合があったら追試を受けられるかもしれないだと。
 結果から申しますと、採点してみたら予想以上に良かったので追試は辞退、ということになりました。パニクったのと、よく聞こえなかったのが幸いして、奇跡が起きたようです(笑)。めでたしめでたし。
 まあ、最後はハッピーなオチがついたからいいけど、マジ困るな、こんなことじゃ。このままでは再来年にはなくなるな、リスニング試験。日本を代表する企業の製品だと聞いていますが、信用ガタ落ちですよ。だいたいあんなリスニングテストしたからって、日本人の英語コミュニケーション能力が上がるとは思えませんね。

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.01.21

『スルメを見てイカがわかるか!』 養老孟司 茂木健一郎 (角川oneテーマ21)

4047041548 今日はセンター1日目。ウチの生徒たちは相変わらず能天気で、半分楽しみながら受験している模様。いいことです。他愛のないメールのやりとりで緊張をほぐすのが、今日の私の仕事。あと、去年も書きましたけど、2ちゃんに張り付いて情報収集?です。
 それでもまあ試験時間中はヒマと言えばヒマなので本を読みます。こちらの緊張をほぐすためでもあります。
 で、今日はこの本を読んでみました。実はこの日のために取っておいたものです。ちょっと見て思いっきり没入できそうだったから。そして、その予想、当たりました。
 今、私が最も尊敬する新旧「脳」関係者お二人による対談がメインとなったこの本。今私が考えていることが、私とは違った表現でそのまま書かれていたので、実に楽しく、しかし一方ではちょっと悔しく読むことができました。だって、お二人とも頭いいんだもん…。
 茂木さんが「おわりに」で書いています。この本の中心にあるのは「手入れの思想」であると。「意識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」…そう、スルメばかり見ていてはダメなのです…と、ここで、この本をお読みになっていない方は「スルメ」に面食らうでしょう。つまり、このタイトル、興味を引くけれど、一瞬難解であるわけです。そして実際読むと、なんだ、な〜るほど、となる。なかなか解りやすい比喩であることに気づきます。これはうまいネーミング(マーケティング)でしたね。そして看板に全く偽りのないこと、昨日の本とは大違いです(笑)。
 ではここで、これも昨日の続きになっちゃって申し訳ないんですけれど、私の「モノ・コト」論と「イカ・スルメ」を結びつけます。分かりやすくまとめてみますか。

 『イカ』 →「自然」「無意識」「田舎」「体」「生きもの」
      =『モノ』「変化(無常)」…
 『スルメ』→「人工」「意識」「都市」「脳」「情報」
      =『コト』「不変(恒常)」…

 各下段のモノ・コト以降は私の論なので、そこからまだまだ続けられますが、今日はやめときます。「萌え」とかまで行っちゃうので(知りたい方はこちらで探して下さい)。
 お分かりいただけると思いますが、現代はスルメばかりになってるんですよね。デジタル化はそれを助長しています。で、もう一度イカとつきあおうというわけですね。私も大賛成です。つきあい方が「手入れ」です。「スルメ」にしてばっかりではいけない。
 そういう意味では、私は、これからは「モノ」の時代だと思うのです。一般には「物より心の時代」なんて言いますけれど、私は反対です(おそらく養老さんも)。「ココロ」は「脳」です。「ココロ」と「凝る」は同源です。流動的な生を凝らす(固める)、つまり私の言う「コト化」を行なうのが「心」なのですから。「心より物の時代」…つまり昔(古代かな?)に帰ろうということでもあるわけですが、何しろ「脳」の機能自体が「凝らす=コト化=スルメ化」なので、なんとなく不可逆なような気もするのです。う〜ん、そこが辛い。
 いっそのこと、原理主義(スルメ派)どうしケンカして、滅んでしまうといいなあ。究極の「コト」、唯一の「コト」は「ミコト」の示す「マコト」だけなのに、それを我々人間は愚かにも自分の脳ミソで実現しようとする。所詮、そこで生まれる「コト」は「エセコト」。たくさんの勘違いで生まれる「エセコト」どうしがケンカするんです。
 こうなったら、新スルメ派の「オタク」という種に期待するしかないのでしょうか(笑)…ということは「オタク」こそが「ミコト」になれる存在?
   神キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

Amazon スルメを見てイカがわかるか!

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006.01.20

『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』 黒川伊保子 (新潮新書)

4106100789 いやはや、トンデモ本にもいろいろありますが、久々に不快感を味わわせてくれる逸品でしたなあ。ウワサ通りでした。分かっていても楽しむために読むのがトンデモ道の醍醐味ですが、これはいかん。
 もしかすると、これはトンデモ本にもなっていないのかも。単に「痛い」本。
 真のトンデモ本と言えば、例えば私がこのブログで紹介したキムタカのこちらこちら。これに文句つける人はいないでしょう。つっこみは入れても。では、いったい怪獣の何がいけなかったのか。ちょっと考えてみました。
 そう、文句をつけたくなるんですよ、黒川さんには。つっこみじゃなくて文句。キムタカと黒川さん、同じように自説原理主義で御都合主義。けれども何かが違う。黒川さんに対しては、例えば私のような輩でも、言語学や音楽の知識をもってしていちゃもんつけたくなるんですね。おいおいしっかり勉強してから書けよって。知ったかぶるなよって。もう少し客観的に自分の説を検証しろって。ある意味こちらが常識や見識や良識をふりかざす。そうしないといられない。ふりかざさないと、自分の常識や見識や良識が疑われる。キムタカに対してはそんな気は起きません。常識や見識や良識をふりかざないことが、自分の常識や見識や良識を守ることになるのです。
 この違いは何なのでしょう。それはそう、ずばり筆者がイッちゃってるかどうかです。ある意味キムタカは天才と言えましょう。常識や見識や良識や論理や学問を超えて、そう「道」になっちゃってるんです。誰もマネできない独自の道をイッちゃってるんです。
 黒川さんレベルの本を書けと言われればいくらでも書けます(書きたくないけど得意かも…)。キムタカレベルの本は書けません。お手上げです。
 結局、黒川さんはイッちゃってないから「痛杉」。
 な〜んて、ずいぶん毒舌吐きましたけど、実はちょっと黒川さんに親近感も覚えてるんです。カミングアウトします。
 実はですねえ、私得意(特異)の「モノ」「コト」論なんですけれど、根本には「音のクオリア」(黒川さん的表現…茂木健一郎さん的ではありませんのであしからず)があるんです。
 そう、イメージとしてのマ行音とカ行音との対比が研究の端緒だったのです。古語の助動詞について考えていた時、マ(バ)行音の「もやもや、ぼんやり」、カ行音の「かちかち、はっきり」のイメージが、かなりの万人に共通であるところに注目しまして、あえてそこからスタートしてみた…つまり、未来(推量・意志)の助動詞「む」と過去の助動詞「き」に、そのイメージをあてはめたというわけです。
 もう、ここですでにトンデモになってるじゃないか!との声が聞こえてきそうですが、まあまあ落ち着いて。私はある意味キムタカを目指してますから。
 で、もっとそれを推し進めて、「イザナミ」の「ミ」と「イザナキ」の「キ」や、「ヒメ」の「メ」と「ヒコ」の「コ」の対比(つまり女と男ですね)やら「モノ」と「コト」にまでイッちゃってるんです(キムタカに近づいてきたかな)。
 それでも残念なことに、私にはまだ多少の常識や見識や良識がありますので、それなりに古典的な学問の手順を踏んでるつもりなんですね(ああ、またキムタカが遠のいた)。
 というわけで、結局私も黒川さん同様、アカデミックにもトンデモになれないのかもしれません。でも「痛い」人にはなりたくないなあ。まあ、こうして半分ふざけて(防衛線張って)ブログという媒体に書いてるうちは大丈夫でしょう。金もうけしてるわけじゃないですし、布教してるわけでもないんで。

追伸 こちらのトンデモ本はけっこう有用でしたよ。

Amazon 怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.19

稲村雲洞作品集『心経類聚』『極の宇宙』 毎日新聞社 奎星会

ud009 う〜む。うなるしかない。そしてため息…。
 この前、若手カリグラファーについて書きました。その記事を読んで、知りあいの書家の方(「国家の品格」「天才の栄光と挫折」を貸して下さった先生です…つまり数学の先生にして禅僧でもある方)が、この二冊の作品集を持ってきてくれました。ありがたいことです。
 若手には若手の良さがあったわけですけれども、こちらはもう、私がどうのこうの語ることも許されないくらい、峻厳なる世界。本物に接した時、私たちはただ無口になる。格が違いますね。品位の格が違う。まさに品格。そう、その言葉も出てきました。のちに紹介する対談の中に。
 稲村雲洞先生を前衛書道家と呼ぶのはどうなのでしょう。違いませんか。御本人は納得されるのでしょうか。前衛なんていうとアートみたいじゃないですか。違いますよ。芸術でもない。完全に「道」です。全く古典的な道を究めた方ではありませんか。
 印刷されたものからでも、こうして「気」が伝わってくる。本物の気にただただ圧倒されるだけです。実は上の写真、この作品集の表紙に採用され、かつ最初に掲載されている作品「貞」を書く稲村先生なのですが、実は合気道の雑誌「道」の表紙にもなったものです。私はなるほど、と思いました。合気道と言えば植芝盛平、植芝盛平と言えば出口王仁三郎です。オニさんの書もまさに「気」をつかみとり、紙にぶつけるような書風です。合気道については言うまでもないでしょう。いずれも道を極めたところに起こるエネルギーの自律運動…。
 いや、私の蒙昧な言葉を連ねるのはやめます。この作品集には、ものすごい言霊も刻印されています。稲村先生御自身の文章はもちろん、宗左近さんの文章もいつものように縄文の火焔のごとき。
pic5_405_5701 そして、「心経類聚」にある、もう一人の求道者平山郁夫画伯との対談。そこで語られる「道」は、完全に「禅」の境地になっています。
 格、格調、品格というのは結局のところ「人格」なのです。お二人の話の中に、イチローのことが何度も出てきます。それも首肯されます。技術を超えた集中力。欲や俗や邪を捨てた無心。そのためには徹底的に自己を律する。それしかない。それで磨かれた美しい人格だけが、美しい宇宙の気の流れと共鳴しあえるのでしょう。そして、そこには真理と平和が刻印される。
 「極の宇宙」はスケールの大きな一字書がほとんどですけれども、「心経類聚」の方は、いわゆる蝿頭書(ようとうしょ…極めて微細な文字による書、あるいは刻字)の集成です。いわば、自己の中に入っていく作品。いや、人に見せるためのものではありませんから、作品とは言えないかもしれません。無数の般若心経を見る私の目には、それらが稲村老師の美しい坐相の連続写真のように映りました…道極まれり。
 「瞬発の集中」「一回性の持続」「持続の止観」「多即一」…まさに「不二」だなあ。やっぱり「色即是空」「空即是色」か。「モノ」とか「コト」とかいい気になって分析しているうちはせいぜい野狐禅。このブログもその名に恥じない内容にしていかねば…。自らを律して、理屈ではなく経験として観じたいですね。あまりに道は遠い…いや、一回性の持続、そう、とりあえず続けてみよう。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006.01.18

朝のテレビ占い(見えないものを観る)

1421 毎朝、各テレビ局で占いやってますよね。ついつい見てしまう、一喜一憂してしまうという方、けっこう多いのでは。
 占いというのは、ワタクシ風に言うと「モノ」と「コト」の中間に位置するもの、つまり「ぼんやり」と「はっきり」の真ん中でして、人間がなぜか魅力を感じる部分に属するものです。だから当然私も占いが好きです。私はやっぱり信用のNHKですね(って占いやってねえよ、おはよう日本で)。
 さて、今日授業でこんな話をしました。いつもの無駄っ話です。

 『みんなも朝の占い見ちゃうだろ?オレも朝必ずテレビの占いやるんだよ。だけど、みんなが観てるやつとはちょっと違うぞ。
 この前も言ったけど、ウチは東京の地上デジタル放送を遠距離受信してるんだよ。だけどな、時間や天気や何やらの都合で受信できるテレビ局がコロコロ変わるんだよ。全然デジタルじゃなくて、めっちゃアナログだよな。
 それでな、朝起きたら、まず時間と外気温と天気(前日見た予想天気図も含む)の具合を確認して、「今日はどの局が映るか」って想像するんだよ。「今日はNHK総合とTBSとフジだな」とか。で、実際テレビをつけてみる。それで当たってたら今日はラッキー!とかやるわけ。ぴったり当たることもけっこうあるんだけど、さっきの三つに加えて、日テレも映っちゃったり、場合によっては予想が全部はずれて「おはスタ」観るはめになったり。その当たり具合、はずれ具合で今日の運勢を占うわけよ。
 でさあ、それがな、最近マジで当たるんだよ。アンテナ立ててまだ1ヶ月弱だけど、だんだん分かってくるわけよ。朝の空気感から、電波の具合が見えるようになってくるんだよね。丹沢山塊を越えてくる回折波、富士山からはね返ってくる反射波、電離層の具合まで、手に取るようにイメージ化されるんだよね。すごいだろ(笑)。
 こういうふうにな、人間というのは、不便なこと、自分の思うままにならないことがあると、進化するんだよ。特に右脳はこうやって鍛えられていくわけ。見えないものを見るというか。感じる、観じるんだよ。空気を読むっていうのもその一つかもな。
 実は科学も文化も宗教も、こうやって生まれてきたんだし、歴史上の天才っていうのは、みんなこういう能力を開花させてた人たちなんだよ。だから、みんなが享受してるようなデジタル文明っていうのはダメなの。自分の思い通りになりすぎるんだな。その瞬間はいいかもしれないけど、長い目で見ると右脳を退化させてるんだよ。わかった?』
 生徒たち、なんとなく納得したような、してないような…。みんなにやにや笑ってます。で、一人の生徒がおもむろに…、
 『先生、先生のその能力って何の役に立つんですか?』
 オレ、
 『……』

 おしまい。
 ちなみに今日の占いは全ハズレでした…。

地デジさらにその後

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006.01.17

『1リットルの涙』(劇場版)

B000BUN0P6 生徒が観て、「久々に来たぁ。泣けた」って言ってたんで、ちょっと借りて観てみました。私はテレビドラマの方も観ていませんし、原作も未読です。
 こういう映画をどうおススメするか…これは非常に難しい問題です。たしかにいろいろな方に観ていただきたい作品ではありますが、では、どういう意味で勧めるのか。これは、自分がこの作品のどのような鑑賞者になるかを表明することですから…だから難しいのです。
 ですから、まずはあえて内容に立ち入らず、映画としての作りから…とも思いましたが、やっぱりそれではここに書くほどのことではありません。
 しかたありません。正直に書きましょう。
 私は、単純には泣けませんでした。涙腺はたしかに何度か刺激されましたが、そこで実際に涙を流すのは躊躇されたのです。「かわいそうだ」とか、「自分はまだまだ幸せだ」というような、いかにもありそうな気持ちに基づく涙は、なぜか拒否したい気持ちになりました。
 自分に当てはめても考えてみました。中学3年生の時に突然“脊髄小脳変性症”という不治の難病を告知されたら…。そして、日に日に体が動かなくなっていったら…。待っているのは死だけ。しかし、そこで生まれた哀しみや絶望や怒りや、また希望や感謝の予感にしても、やはり当事者のものではない。また例えば、病気によって、いろいろな人と出会い、恩恵を受けて、そして、作品を残して後世の人たちの心を動かすこと、それを幸せだと考えることもできたとしましょう。でも、それも所詮は第三者の都合の良い想像にすぎません。
 なんか、そんなようないろいろな矛盾が自分の中に渦巻いていたわけです。戦争物を観る時も同じです。単なるおセンチに陥りそうなのをこらえると、結局今の矛盾にぶつかる。
 いや、自分だったらと想像するだけでなく、もしかすると自分も本当に当事者になるかもしれません。あるいは家族が、ということもあり得ます。そうした時、どういう当事者になればいいのか。これも考えてもわかりません。想像しかできないのです。
 皆さんはどうなんでしょう。感動しました!って言えるんでしょうか。感動していいものなんでしょうか。
 さあ、気を取り直して、違う視点から。木藤亜也役の大西麻恵さん、本当に見事な仕事してます。そこには正直感心しました。お母さん役のかとうかずこさんはじめ、他のキャストの方も大変立派な演技です。
 あっ、今気がつきましたが、私が上記のようにいろいろな迷いを生じたのは、映画の作りのせいかもしれませんね。いや、出来が悪いのではなく、監督さんはじめ皆がいい仕事をしているからです。どこかのドラマのように(勝手な想像ですけど)安易な感動を作り出すのではなく、どこまで現実を描くかにこだわったような気がします。もちろんドキュメンタリーのようにはいきませんけれども、充分に誠意を感じさせる出来であると思います。
 う〜ん、なんとも辛い気持ちです。鑑賞者としてだけでなく、教育者としてどう向き合うかということについても。また、ここのところ医学部進学の指導が多いものですから、医師のあり方についても考えさせられました。いずれにせよ、安っぽい同情だけでは、結局偽善的な自分に不快感を抱くだけなんですよね。

Amazon 1リットルの涙

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.01.16

書道家『武田双雲』

souun 昨日の夜、BS-iの「超人」で書道家武田双雲さんを取り上げていました。なるほどストリート・カリグラファーもかっこいいですな。普段から音楽と書との関係について、人一倍の興味を持っているワタクシといたしましては、なかなか興味深い内容の番組でした。好きか嫌いかは別として、彼の活動はかなり新しい。
 はっきり申して、書の世界はよく分からん世界です。上手いのか下手なのか分からん字が、今日も濫造されている。私は全く字は書けないのですが、しかしまあ観る目はそこそこあると自負しています。それは、音楽をやってきたからです。
 書って空間芸術ではないんですよね。どちらかという時間芸術。単に美しい書というのは、私にとってはデザインに過ぎません。レイアウトの上手な書はいくらでもあります。昨日も双雲さんの運筆を見ながら思ったんですが、あの動きって、たとえばバロック・ヴァイオリンの運弓にそっくりなんですよ。だいたい、「運○」というのが似てるじゃないですか。操るんじゃないんです。動かすんじゃないんです。運ぶんです。
 物を運ぶ時って、意外に主体性がないんですよ。どこからどこへ運ぶか、何をどれくらい運ぶか。それによって運び方がかわる。最も自然な運び方というのがそれぞれあるわけでして、そういう意味では、宅配便のおにいちゃんたちって芸術家してますな。とにかく、ある意味で相手に合わせなくてはいけないんです。書でも音楽でも、そういう部分ってあると思います。
 一回性という意味でも書は音楽に近い(双雲さんは二度書き、三度書きOKらしいけど)。私が書を観賞する時注目するのは、その流れであり、リズムであります。そして、響き。これは空間(余白)にも関わりますね。
 ディナーミク、アーティキュレーション、様式感、そして意味…まさに筆で奏でる音楽だなあ。と思ったら、双雲さんのサイトのトップにそんなようなことが書いてあったんで、妙に納得してしまいました。あと番組でもやってましたけど、他の人と一画ずつ書きっこするやつ。あれはいいセッションですね。今までの書は全て無伴奏だったんで、ちょっと辛いところがあったんですよ。それを、ああいう形で乗り越えちゃうとは。やられた!と思いました。
 ただ難しいのは、音楽や書の世界が近代化してしまったということですね。つまり、演奏会というシステムや、コンペティション、そして芸術家という職業の成立、あっもちろん妙な師弟制度もですね。書も全くいっしょです。昔は全然違ったんですけどね。昔に戻る、つまり現代のシステムから外れるには、とんでもない勇気と才能を必要とします。
 彼はまだ若いですし、ある意味今はちやほやされているので勢いがありますけれど、これから大変でしょうね。だいたい想像できるんですけれど、あと10年くらいしたら壁にぶつかるかも。いい意味での壁ですよ。それを乗り越えたらホンモノでしょう。
 なんて、偉そうなこと言ってますなあ、オレ。すみません。いやいや、期待してるんですよ。才能も勇気もセンスも発想の自由さも充分にありますから。
 最後にもう一つだけ。音楽も書も舞踏から学ぶことがたくさんあると思います。以上。

武田双雲サイト

稲村雲洞作品集

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.15

プレイエル&クロカワ 『弦楽のためのディベルティメント』

pic-pleyel001-0201 今日は地元の室内オケにトラで呼ばれまして、ヴィオラを弾いてきました。楽譜ももらっていなかったので、完全なる初見。リハ1回で本番でした。こういうのって結構慣れてる方ですけど、やっぱ疲れるわ。普段と違う緊張感。それが1時間半とか続くわけですからね。かなり憔悴して帰ってきました。でも、夜は昨日に続いて鍋パーティー。きりたんぽ鍋と日本酒で完全復活しちゃいました。
 今日演奏したのは…渋いですよ…プレイエルです。プレイエルは二つのヴァイオリンの為のデュオを書いていまして、それにオケのリーダー黒川さんがヴィオラとチェロのパートを作ってくっつけちゃって、6曲のディベルティメントに仕上げたんです。それを全曲演奏しました。
 ということは、もちろん世界初演ということですな。あんまり渋い演目なので、お客さんは演奏者と同じくらいしか入っていませんでしたけど。
ppo11 プレイエルと言えば、一時はモーツァルトも「ハイドンよりいいよ」と認める有名な作曲家でありましたが、どうも性格的に問題があったらしく大成はしませんでした。ただ、作曲をやめてから始めたピアノ造りの仕事では、まあそこそこの成果をあげたようですね。家業を継いだ息子らが『プレイエルピアノ』を一大ブランドにしまして、プレイエルの名は残ることになったわけです。ショパンが「気分が良くて、求める音を得るために心が充実しているときにはプレイエルでなければなりません」と言ったのは有名な話です。
 で、そのプレイエルの作品の中でも結構渋い「二つのヴァイオリンの為のデュエット」。デュオを四重奏に編曲するのは、正直難しいと思います。それも本来の二つのパートはそのままに、ヴィオラとチェロパートを足すのは。私だったら、最初っから無理だと考えます。デュオというと、だいたいどちらかが音楽的にはバスパートを弾いていたりしますからね。そこにバスを足すというだけでも難しい。
 でも、その辺はさすが編曲の魔術師?黒川さん。実に上手に料理してましたねえ。私の弾いたヴィオラパートなんか、ホント当時の様式感も出ていて、ものすごくオリジナルっぽかった。だから初見でも弾きやすかったんだと思います。
 黒川さんご本人、こうおっしゃってました。デュオの楽譜を見るだけで、あとのパートが頭に浮かぶ、それを楽譜にするのが面倒だって。いいですねえ。そういう才能がおありだと。さすがジャズで鍛えてるだけあって、その場で和声やら対旋律やらを考えるのは日常的なことなんですよね。そこに、時代の様式や楽器の特性についての知識が加わるわけですから、ああいうふうに編曲できるんだ。尊敬しちゃいますね。
 プレイエルの曲なんて、ほとんどCDにもなっていませんし、演奏される機会もあまりないと思います。実際やってみますと、なかなかよく出来た音楽でしたよ。こんなような作曲家がきっとたくさんいるんでしょうね。こうして時代も国も超えて、知らない人に出会えるというのは、実に幸せなことです。また呼んで下さい。ちゃっかり本番だけ参加しますから。
 あっ、そうそう、今日は帽子かぶって演奏しました。だって、坊主頭に蝶ネクタイって、どう見ても売れないお笑い芸人なんだもん。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.14

かに雑炊〜理想の余生とは…

cc2041 やっぱり、鍋のあとの雑炊みたいな余生がいいですね。
 今夜はお友達がカニとお酒持参で遊びに来まして、いろいろと馬鹿話やらまじめな話やらしながら盛り上がりました。左の写真は、そのカニさんと戦うウチの黒猫ちゃんです。
 鍋はカニと鳥団子を中心に、白菜、大根、人参、春菊、しめじをたっぷり入れてグツグツ…。う〜、冬は鍋ですなあ。そして日本酒。
 そして最後は残ったつゆにご飯と卵を入れて雑炊です。皆さんもよくおわかりと思いますが、この雑炊が実は最もうまい。もう、鍋でおなかはかな〜りいっぱいになっているはずなのに、どういうわけか、この雑炊はいくらでも入るものです。
 で、私、その味わい深い雑炊を食べながら考えたんですよね。こういう余生がいいなって。
 雑炊って、鍋がメインだとすれば、まあ余生みたいなもんでしょう。しかし、それが一番うまい。味がある。味が出てる。味がしみてる。これですよ、理想の余生は。
cc2051 カニや鳥や野菜やきのこたちが残したエキスが溶け合い、絶妙のハーモニーを醸し出す。そこに新規にご飯と卵と多少の調味料を加えて、そして雑炊が出来上がる。人生においてもそんなことがありそうです。いろいろな人たちが残していった何か…そう、楽しかったり辛かったり、いろいなことがあったでしょう、それを単に想い出としてしまうのではなく、そこに新たに自分の味を加えることによって、究極の作品を残す。それを人々に供する、また自分でも味わい尽くす。
 いいですねえ、そういう余生って。想い出に浸っているだけで、過去のいろいろを活かしきれないのはもったいないでしょう。「余生」は「余った人生」ではない。「余り」が「生きる」、「余り」を「生かす」でありたいですねえ。
 なんて、まだ余生なんて言うには若すぎる、まさに鍋まっ盛りのワタクシでありますが、こうして雑炊に期待しながら鍋をしてるのって、けっこう楽しいじゃないですか。実は昔、易者さんにこうい言われたんです。
 「あなたは一生楽しい。特に晩年栄える。それも自分の力だけじゃなくて、いろいろな人に恵まれて」
 これは嬉しかったですね。その易者さんの言ったこと、今までは全部合ってるんで、この言葉もすっかり信じているおめでたい私なのでした。目指せ究極の雑炊!たっぷり鍋も味わって、おなかいっぱいになった上で、究極の雑炊食べちゃいますよ。皆さんもこのパーティーに参加しませんか?

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.01.13

『癒される』…(受身表現についての新説?)

jj31 今日の「まちかど情報室」、『部屋で楽しむ小さな“緑”』と題して、試験管の中で育てる植物や、動物のような肌触りの植物、音に反応して動く植物、そしてジオラマ盆栽などを紹介していました。
 どれも確かにかわいい感じがしましたね。特にジオラマ盆栽ははまりそうだな。新しいタイプの箱庭でしょう。日本独特の世界観です。なんで日本人てミクロ的に進むんでしょうね。箱庭なんて、まさに微分と固定の最たるもの、つまりオタク文化ですな。そんなところに「癒される」自分たちって…。
 そう、今日の「まちかど情報室」の中でも、何人かが「癒される」って言ってました。ストレスから解放されると。
 で、突然思いついたのですが、この「癒される」という言葉、ちょっと面白いかも。本当に最近になって急に勢力を増してきた表現ですね。文法的にはもちろん「癒す」+「れる」ですね。つまり、他動詞+受身の助動詞です。
 みなさんは普通の表現だと思いますよね。でも、私はちょっと新しいことに気付いたんです。誰も言ってないんじゃないかなあ。
 日本語の受身というのは、意外に厄介なものです。外国人が日本語を勉強する時、けっこうよくつまずく所だそうです。ごくごく簡単に説明します。言語学や日本語学では、直接受身と間接受身というような区別をすることが多いのですが、ここは自分流に行きますね。
 私(だけ)は恩恵と迷惑で分けます。ここでは自動詞とか他動詞とかも関係ありません。かなり過激な新説です。ちなみに「この本は○○によって書かれた」のような表現は、翻訳用の表現として、古来の日本語の受身とは考えません。肝心の「感情」が関与しないからです。表現者の感情が主題になるので、その表現者が主語となった(実際は省略されがちですが)のが、日本語の受身だと考えるわけです。

恩恵の受身=先生にほめられた。法によって守られる。神に愛される。
迷惑の受身=先生に怒られた。足を踏まれた。雨に降られた。
      子どもに一晩中泣かれた。財布を盗まれた。

 古語の例も挙げたいところですが、今日は省略。ただこれだけは書いておきましょう。日本語の受身は圧倒的に「迷惑」が多い。感情としての頻度(特に昔において)や記憶への刻印度として、「恩恵」よりも「迷惑」の方が高いというのは、なんとなく経験的に分かりますよね。ちなみに、私は「生まれる」も基本的には「迷惑」であると考えています。自分の意志とは関係なく「生まれる」。そう、日本語の受身の感情には「自分の意志とは関係なく」というのも含まれていますね(「〜てもらう」表現は自分の意志です)。
 で、問題の現代語「癒される」ですが、これはどう考えても「恩恵」ですよね。いい気持ちですから。それでですねえ、今「癒される」の使い方をよく観察してみるとですねえ、もちろん「私は小さな緑に癒される」という表現も多々あるんですが、単独で「癒される〜ぅ」と言うこともけっこうあるんですね。感動詞のように使っちゃうんです。
 これは日本語の歴史の中でも、ちょっと珍しいのではないかと。感動詞のように単独で「ほめられる〜」とか「守られる〜」とか「愛される〜」とかってほとんど言いませんよね。迷惑ではあったんですよ。「殺される〜!」とか「生まれる〜!」とか、単独で使われることが。
 ん?今また変なこと思いついたんだけど、「生まれる〜」って言うのは変ですねえ。だって母親が言うんでしょ。だったら、「生む〜」じゃないのか?生まれてくる子どもが言うんだったら分かるけど。これは「ウンコが出たい」というのと同じなのか?それまで自分の一部であったのに間もなく自分でなくなるものに対する感情移入というか…。ま、それはまた考えよう。
 えっと、そうそう、「癒される〜」です。主題である「表現者の感情」がそれこそ感極まってしまい、「誰が」、「何に」をも省略してしまう(表現し忘れる)究極の恩恵受身表現、と言えないでしょうか。
 感極まった表現としては、「しびれる〜」とか「いやあ、極楽極楽」とか「ん〜マンダム」?とかありましたけど、もう完全なる死語ですね。ほとんどギャグ語になってます。というわけで、この「癒される〜」も、あの「萌え〜」もいつか彼らの仲間入りするんでしょうな。言葉(&人間の心)とは面白いものです。
 今日はホント思いつきを書き留めました。いつかまじめに考えてみますね。

グリーンハウス(ジオラマ盆栽など)

不二草紙に戻る

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006.01.12

『Rodney's Wonder Window』

kllo31 ウチの娘たち(3歳と5歳)のお気に入りは、ちと古いものが多い。テレビ番組も「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」、「8時だよ!全員集合」とかね。アニメは「うる星やつら」、マンガは「天才バカボン」だったりして。これは彼女らの趣味が渋いというよりも、単に両親の教育方針です。ウチは幼少期から英才教育してますからね(笑)。昨日の記事ではありませんが、今風なものよりも、しっかりと日本の伝統文化に根付いた「本物」に接するように仕向けてます(ってか、大丈夫か…将来)。
 で、コンピュータはMacです。彼女らが使っているのは、PowerBook(pismo)ですね。Intel入ってる「MacBook Pro」が発表された今となっては、すっかり旧世代の機種となってしまいました。しかし、あの美しさに触れることが、彼女たちの未来をも美しいものにしてくれるものと信じています(本当か?)。OSは9.2です。最新でしょ(笑)。
 で、それこそ古くさい子ども用(子どもだまし)ソフトをいくつか入れて、勝手に遊ばせてますが、2,3歳でけっこうはまるのがこれです。数年前にハードオフで150円くらいで買いました。
 その時はあまり意識しなかったんですが、あのロドニー・グリーンブラットの初めてのCD-ROM作品なんですね。ロドニーと言えば、今やCGの草分け的存在。いや、デザイナーとしてほとんど神様扱いされている人です。日本でも、PUFFYのジャケットを担当したり(たしかにイメージぴったりだ。のちの彼女らのアメリカ進出のきっかけとも言えますな)、プレステ用ゲームのグラフィックを担当したり、そうそうウゴウゴルーガにも参加してましたね。ロドニーカフェなんていうのも出来たりして。
 そんな彼がMacを使い始めて、その可能性を予感して作ったのがこの Wonder Window とのこと。1992年のことです。本当に何ということもないゲームというか、アニメーションというか、エキシビジョンというか、今のゲーム界やCG界を考えると、本当に子どものいたずら書き程度のレベルです。
 しかし、じっくり鑑賞してみると、これはこれで完成された作品という気がしてきます。例えば、当時のMacは8bit256色です。しかし、ロドニー的世界においては、それで充分なわけですし、逆にそうした制約の中での仕事が彼の創造意欲を高めたとも考えられます。動きについても、メモリーやCPUの関係上、かなり単純化したものですが、これも基本的に彼の作風にぴったりと言えばぴったり。現代のCGよりもずっと個性的であり、また安心を与えてくれます。
 何でもできるということが、個性や創造力を奪うということは、いろいろな分野で言われることです。便利になればなるほど、不便は減ります。当たり前ですね。しかし、不便と闘う知恵と工夫と努力の機会も同様に減るわけでして、こうした一見無駄(だった)と思われる知恵や工夫や努力こそが、作品に力を与え、また作者を育て、そしてアマからかけ離れたプロを作ってきたという歴史の事実からすると、それは人間にとってある意味不幸なこととも言えるわけです。何でもできる中でいかに自制を働かせていくか、そんな皮肉な事態が今クリエイティブな現場に必要とされています。
 子どもたちを見ていると、本当にいろいろなことにとらわれず、自由でいいなあと思います。できることの量は私たち大人の比ではありません。しかし、ある意味できることの質は私たち大人よりも高いのかもしれません。
 ロドニーの最近の作品を観ても、基本的に Wonder Window と変わらないような気がします。これもよく言われることですけれども、いろいろな意味において、いつまでも子どもでいられることも、天才アーティストの条件なのかもしれませんね。
 Wonder Window の中にただ鳥があっちこっち歩き回るというアニメーションがあります。どうも当時のメモリーではその鳥はスムーズに動かなかったようです。将来メモリーが安くなって、たくさん積めるようになったら鳥も動き出すでしょう、みたいなことが書いてあったと思います。
 今となっては前世代の遺物のようになってしまったpismoにも、384MBのメモリーが積んであります。当然鳥はなんの苦労もなく右に左に動き回っています。10年後の子どもたちが、こんなにものメモリーを積んだMacを使うと、ロドニーは想像したでしょうか。

ロドニー公式

★このブログこちらで紹介されました。感謝、感謝。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.11

ACIDMAN『季節の灯』と「もののあはれ」

B000AU1ODM 期せずして、昨日の記事の続きとなりました。昨日は1曲選ぶのは困難だと申しましたが、今日はあえてこの1曲を挙げて、そして私の「もののあはれ」論を展開いたします。
 …なんて、ものすごい展開でありますが、これもひとえにACIDMANの音楽のおかげであります。私はふざけているのではなく、真に彼らの音楽に「もののあはれ」を感じたからこそ、こうして書く気になったのです。
 さて、このブログにも(「萌え=をかし」の対照概念として)しょっちゅう登場する「もののあはれ」。日本文化を語る上で必ず登場する言葉でありながら、どうもその内容がはっきりしていませんでした。初めてこの言葉を書き残した紀貫之はもちろん、本居宣長も適当にお茶を濁していて、こういうものだと明言していません。それを和辻哲郎は私同様不満に思いまして、お得意の小難しいこじつけ(失礼)でこう説明しました。
 『 「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。…「物のあはれ」とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである』
 どうでしょう、全く分かりません。いつもこの調子です(笑)。「永遠の根源への思慕」はいい表現だと思いますけれど、「無限性の感情」というのはどうかと…。
 また、最近では大野晋先生がこちらなどで「不可変性(変えられない運命)へのあわれ」のような感じで説明しています。惜しい!まことに惜しいですね。「不可変性」と言うと誤解を生じかねません。「もの」は変化しない…いや、「もの」は変化そのものなんですよ。
 私に言わせると「もの」とは「不随意性」の象徴なんですね。何ものも「変化」を余儀なくされる。無常ですね。それはたしかに運命です。その運命を変えることはできないわけですから、言いようでは「不可変性」にもなります。それは分かるのですが、大野先生は「もの」自身に「不可変」的な性質を見ようとなさるので、間違いというか誤解が生じるのです。思い通りにならないのが「もの」ですから、「不随意性」を象徴する語と考えた方が自然でしょう。
 私の研究?によれば、「もののあはれ」の説明としては「変化(無常)に対する言葉にならない詠嘆」というのが、一番しっくり来るような気がします。「あはれ」は感動詞としてもよく用いられました。
 そして、人間の本能として、その無常を恒常にしたい。それが「かたる」=「こと」化です。その一つの道具(メディア)が「ことば」というわけですね。「ものがたり」とはそういう意味なのです。
 現代では、様々なデジタル・デバイスやデジタル・メディアが「ものがたり」=「こと」化の道具となっています。そう考えると、人類の歴史は、全て「もの」から「こと」へ、「不随意」から「随意」へ、「茫漠」から「明確」へ、「未知」から「既知」へ、「浮動」から「固定」へ、「不安」から「安心」へと進んできた、と言えるような気がしますね。
 そして、デジタル化とともに急速に我々の手にもたらされた「こと」に群がるのが、(私も含めて)「オタク」たちであり、その際の心理状態が、古来主に女性によって担われてきた「をかし」、すなわち、近年で言えば「カワイイ」、そして女性化した男性の「萌え」であると考えているのです。まあ、そのあたりはいずれ詳しくお話ししましょう。
 で、またまた前置きが長くなって、メインディッシュが出る前に時間(紙面?)がなくなってしまいました。でも、このACIDMANの『季節の灯』の歌詞を読んでいただくだけで、あるいはこの曲を聴いていただくだけで、私の言いたいことがお解りいただけると思います。
 歌詞はこちらでお読みいただけます。
 特にサビの『いつの日か私も君も終わってゆくから 残された日の全て 心を添えておこう』という部分、これはそのまま「もののあはれ」だと思います。君に対して、ただ「スキスキ」と言うのではありません。その刹那の感情にまかせるのではなく、大きな時間の流れを感じ、その流れを止めることのできない人間の無力さを直視する。そこに生まれる「切なさ」「やるせなさ」のようなもの、言葉にしがたい感情こそが「もののあはれ」だと思うのです。
 それでも人は永遠性を求めて戦います。『僅かな言葉』や『唄』で。昔の人ならば、『歌』を詠んだのでしょう。大切な誰かのために。

 追伸 茂木健一郎さんが御自身のブログクオリア日記の中で、美輪明宏さんとの対談のことを書いておられます。
『美輪さんも言われるように、「本物」を見なければならない。美輪さんは現代日本の「カワイイ」アニメ、漫画もお好きだが、オペラや歌舞伎、演劇など様々な「大人の文化」に触れて、その上で「カワイイ」文化を称揚するのならばそれは良し。現代のカルチャーだけしか知らないのはいかにももったいない』
 ここでおっしゃっている「大人の文化」こそがすなわち「もののあはれ」であると思いました。もちろん「カワイイ」は「をかし」です。

追伸 「萌え=をかし」についてはこちらをお読みください。
「もののあはれ」についてはこちらもどうぞ。

Amazon 季節の灯


不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.10

ACIDMAN  『and world』

B000BR2QMC 年末に気になっていたアルバムを、数日前iTMSで買って聴いてみました。かなり気に入りました。聴きこんでいます。
 私の最近の分類で言えば、演歌ロックですかね。切なさを感じさせるロック。日本仕込みの本醸造ロックですな(ロックですがストレートです)。
 3ピースバンドでは、同じく同級生演歌ロックバンド?の「レミオロメン」が大ヒット中ですね。色合いはだいぶ違いますけれど、不思議と彼らに似た「ぐっ…」があります。
 ACIDMANの特徴はやはりメロディーラインでしょうかね。単純だけれども説得力があってよろしい。日本語に合ったメロディーラインをよく知っています。だから歌詞が生きる。そして、いわゆる洋楽とは違うものになる。それでいいんです。
 コード進行や曲構成もよく工夫されており、かなり様々な音楽を聴いていると自負している私でも、全曲新鮮な気持ちで聴くことができました。一方で作り物な感じがしない。これは稀有なことです。奇を衒わず新鮮というのは、現代においては実に難しいことですから。実はけっこう危ういところ(つまりクラシック的基準からすると間違いとされる部分)があるんですが、それが逆に本来の行儀悪いロックを思い起こさせます。
 演奏の荒々しさと繊細さのバランスも絶妙ですね。基本的にストレートな音造りですけれども、アナログな雰囲気がよく出ており、70年代ロックを感じさせる秀逸な出来です。大木伸夫さんのギターのエフェクトセンスも文句のつけようがない。アコースティック、クリーン・エレクトリック、ディストーティッド・エレクトリック…そして、それぞれのブレンドの味わいがなんとも言えません。一叩き一叩き心のこもった浦山一悟さんのドラムスも心によく響きます。そして、佐藤雅俊さんのリズム隊を超えたベースラインもお見事。おっと、もちろん適度にロック的な大木さんのボーカルもいいですよ。
 インストナンバーも含めて、ほんと感心するほどに全曲いい。1曲選んでコメントしようと思いましたけれど、ちょっと無理だな、こりゃ。何度も聴きたい気持ちにさせますねえ。うん、これは名盤でしょう。
 ライヴも定評あるようですけれども、このスケール感を3人だけで出すのは難しそうですねえ。どう処理してるんでしょうか。気になるところです。
 レミオロメンのようにメジャーヒットはしないでしょうが、これだけ実力と個性があれば、歴史に残る名バンドになるでしょう。シングル1曲を聴いてどうのというタイプではありません。アルバム全体でACIDMAN worldですね。
 私は不勉強で、過去の3枚のアルバムは聴いてません。シングルは時々耳にして、そのたびに名前だけは覚えていたんですが。今は、とにかく他の楽曲や、なにやらの賞もとったという映像作品にも触れてみたい気持ちでいっぱいです。
 皆さんもぜひ、まずはiTMSや公式サイトで試聴をしてみてください。

公式

Amazon and world

★このブログこちらで紹介されました。感謝、感謝。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.09

「クノール pota 濃厚ポタージュ」と「10cc」

err11 正月早々みうらじゅんセンセーに感化されて、頭の中が「ハレ」モードになっちゃってます。祭りじゃ!祭りじゃ!(昨日の記事参照)
 てなわけで、ちょっと今日は上品な話題?
 先日完成した我が家の地デジ受信システム。その日の気象条件などにより、毎日受信できる局が入れ替わり立ち替わりでして、とってもアナログなことになってます。正直そういうの好きなんで楽しんでます。今日の運勢は!?みたいなノリで。
 昨日は、朝はテレ朝とTBSが絶好調でその他はアウト。昼間はテレ東以外は全部OK。調子いいぞ!と思ってたら、日が沈んだとたん電離層の機嫌が悪くなり(?)、なぜかNHK総合とTBSのみ視聴可となりました(笑)。
 で、夜は与えられた番組を観るしかないってことで、細木数子さんが新成人に向かって怒鳴る番組を観ました。なかなかまっとうなことを言っており、ちょっと感動しちゃいました。ああいう大人も必要だよな。ってか先生はああでなくちゃ(オレはあんな偉そうな口きけないなあ)。
 さて、番組はそんな感じで、とにかくノイズやゴーストのない細木数子に圧倒されてたんですけど(子どもたちは加藤茶の現在形に興奮してました)、私が最も感銘を受けたのはCMです。
 味の素の「クノールpota」のCM!あれはまずいっしょ。やばいっしょ。えっ?なんで?何が?
 以下のようなこと考えてたのは私だけでしょうか。
 あのCMで使われている曲御存知ですか?そう、10ccの不朽の名作「I'm Not In Love」です。10ccはELOとともに私のお気に入りバンドの一つでして、中でも「アイム・ノット・イン・ラヴ」は地球上の最も美しい音楽の一つだと思っています。
 75年の名アルバム「The Original Soundtrack」に含まれるこの曲。今聴いても全く古びることなく、私たちの胸に迫ります。完全にロックの系譜から外れたあのコード進行はもちろん、中間部のアイデアなど、いったいどうやって思いついたのか、と純粋に驚きます。アレンジ的にも、あのコーラスワークやエレピのサウンドは、後世の楽曲に多大な影響を残しました。あまり指摘されませんけど、ビリー・ジョエルの「素顔のままで(そのままの君が好き)」のアレンジはそのまんまですよね。
 10ccというバンドの歴史においては、この曲はちょっと特殊な部類に入ります。この曲に興味を持って、他の曲を聴くと、あまりの奥田民生的世界(ってどっちが先なんだって!)にビックリすることでしょう。この曲の歌詞も、実はかなり現代詩してますし。
 さてさて本題です。10ccというバンド名の由来です。以下、3年ほど前のエリック・スチュワートのインタヴューから抜粋します。

Q:10ccの名前の由来は何だったのでしょうか?定説は「ジョナサン・キング(UKレコード社長)が見た夢の中で、ロンドンのハマースミス・オデオンに、人気バンドの看板がかかっていた。その名前が10ccだった。それがバンドの名前になった」というものです。本当にジョナサンは、その夢を見たのでしょうか?もちろん、私たちは、もう一つのお話も知っています(男性の射精量の平均9ccより1cc多い10ccで、『俺たちは平均以上の存在』とする説もあった)。若い頃、それはかなりショッキングに聞こえました。どちらが正しいのですか。後者のお話は、悪い意味で有名になってしまった捏造ですか。

A: ジョナサン・キングの話が正しい。が、もう1つの話も好きだ。この話は「我々がいかにもマンチェスターから出てきた4人の男達」って風に聞こえるだろう。

err21 私はずっと後者の方を信じてました。今こうしてそれが捏造であったと分かっても、エリック自身も語っているように、みんななんとなくその伝説が好きなわけです。だから私は今でも、そしてこれからも10ccと言えば、この伝説を思い出すわけです。それがいかにも10ccらしいのです。
 で、それでですねえ、「クノールpota濃厚ポタージュ」のCMを観て聴いていただきたいのです!
 便利な世の中になりました。こちらで御覧になれますよ。
 もう、解説はいらないと思います!「好きかも…」じゃないっしょ!未希さん…。

Amazon The Original Soundtrack(10cc)

地上デジタルその後

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.08

『とんまつりJAPAN 日本全国とんまな祭りガイド』 みうらじゅん (集英社文庫)

408747724X 今年の初読書は『正しい保健体育』でした。あんまり面白かったんで、みうらじゅんさんの著作をもひとつ読んでみました。
 仏教やら音楽やら映画やら…なんとなくみうらじゅんさんとは趣味が合うので、どの本を読んでもだいたいはずれはありません(私にとってはね)。
 そんな中今回選んだのがこれ、『とんまつり』です。これも私のツボにはまりまくりですねえ。またまた出て申し訳ないんですが、これってやっぱり「萌え」なんですよね。まず理屈抜きにツボにはまる。これこそ、古語における「をかし」なんですね。だから、この本なんか、読後感が枕草子の『祭りは』の段(そんなのないけど)そのものです。みうら先生はその「萌え=をかし」的感情を、「いったい、どーなってんだ!?」とか「どーかしてるよ!?」と表現しているわけです。
 「をかし」の語源を「をこ(痴)」(=おばか)に求める学者さんもいます。私はその説は採らない立場なのですが、この本を読むと、なんとなくその説にも愛着がわいてしまいますね。踊る阿呆に見る阿呆。おばかな笑いの共振がそこにあります。
 この本の解説はかの荒俣宏先生です。荒俣先生もみうら先生と同じような興味の対象をお持ちなんですが、みうら先生よりちょっと深入りするんですね。はたから見ればお二人ともりっぱな「オタク」先生ですけれども(お二人はご自分のことをオタクだと認めてるんですか?)、「オタク道」にもいろいろな流儀がありますからね。「萌え」倒すか、「語り」倒すか。どちらが正しいオタクかなんて考えてもしかたありません。
 私も、入口のツボは同じでも、ちょっとお二人とは違う進み方をするんです。でもツボの共有は、共感の最も大切な要素ですから、私は勝手にお二人をお友達にしてます(笑)。方角差や温度差はあっても、コミケに集まる人たちが一つの種族としての連帯感を持つように。特に少数民族どうしの連帯は強い。
 さてさて、また前置きが長くなりました。でも、もうこれ以上書けません。だって読んでもらいたいから。そしてツボを共有したいから。
 それでもやはり、日本の持つこの本来の神道的パワーには触れておきましょう。この超先進国を支えるものが、こうした土俗的、原初的な「もの」であることを再確認するするのは大切なことです。
 特に「おんだ祭り」「姫の宮豊年祭り」「つぶろさし」などに見られる、あけっぱなしな「性」のパワー。現代では、社会的には一応秘匿されつつ、実は深層に蠢く根源的なパワーです。
 実はこうしたパワーが、「萌え」の感情にも強く影響しているのは皆さんご存知の通りです。このあたりの考察もしてみたいですね。
 あっ、そう言えば「正しい保健体育」のところで提示したアンチテーゼ?の件、この本にみうらさん自身の答えが載ってました。
 『オレは下品な発言こそするが、それは恥ずかしさの裏返しであり、ロックにあるアンチ精神だと思っている!』
 なるほど、やっぱりね。さらに共感いたしました。

Amazon とんまつりJAPAN

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.07

『化粧をせずには生きられない人間の歴史』 石田かおり (講談社現代新書)

4061495313 いきなり職場や自宅に電話がかかってくるずうずうしいセールス、あれはヒマな時には楽しいもんです。やつらを撃退するのは、宗教団体と戦うのと同じくらいエキサイティングです(笑)。いや私は遊んでいるではありません。彼らを救うためです。
 最近の武勇伝?は、某関西の不動産投資系(マンション経営ってやつですね)との電話戦ですね。40分くらいやりあったんですけど、最初の新人は全然相手にならず、上司に替わってもらってからが面白かった。まあ、私は正論を重ねただけなんですが、向こうはなんか逆ギレしやがって、最後は面白かったですよ。だって、その上司、「もう、電話切りますよ!私にも電話を切る権利がある!あなたとは話をしたくない!」…それでオレ、「ちょっと勝手に電話切らないで下さいよ。もう少しお話しましょう」…って、普通逆じゃない?せっかくその人のためを思って話してたのに(笑)。
 あと、しつこいけど面白いのは、某C出版系(別名もいろいろある…教材ですな)と化粧品系ですね。サンプルも含めていい味出してるのは、某F化粧品ですね。
 で、やっと本題。化粧です。この前授業の中で、相撲と化粧の関係について雑談したんですが、話しながら男の化粧文化についてもうちょっと知りたくなりまして、学校にあったこの本を取り出してきました。
 と思って読んでみたら、なんか違うなあ、という感じ。力士の化粧の話は全く出てきません。だいたい、化粧の定義を広げすぎていて、私の興味とは焦点が合いません。筆者自身、こう宣言しているんで、それはそれでいいんですが。
 『私自身はいつも、「化粧」を最も広い範囲、「人間の身体を加工する行為」としてとらえています』
 結果として、「入浴」から「歯磨き」「髭剃り」、「スキンケア」や「入れ墨」「抜歯」「割礼」「整形」、さらには「ダイエット」まで含まれるわけで、たしかにそうした視点もありだと思いますけれど、タイトルに惹かれて手に取った人の中で、私のように、あれ?と感じた人は少なくないのでは。
 たしかに全体的に「へぇ〜」というエピソードが満載で、雑学おしゃれ編としてはなかなか楽しい本です。しかし、ただそれだけと言えばそれだけで、ちょっと物足りなさも残ります。
 私が期待したのは、「化粧」はあくまでも顔貌のメーキャップとしてとらえ、その性的な意味と呪術的な意味、またそれらにおける演劇性・記号性などについての記述だったんですけれど。その上で、力士の化粧について考えたかったのです。ま、それは違う本を読め、あるいは自分で考えろってことですかね。
 ちなみに私が化粧をするのは、芝居やコントや歌なんかで舞台に上がるときですね。これはいわゆるペインティングであって、コスメとは違います。コスメティックはコスモ、つまり「秩序」でありますが、私のペインティングは「秩序の破壊」による笑いを生みます。「カオスティック」…なんて言葉はないか。
 最後に、「化粧をせずに生きられない」理由が結局はっきりしないのはどうかと思いましたが、化粧には「自己隠蔽」と「自己解放」の二面性があるという筆者の言には納得させられました。

Amazon 化粧をせずには生きられない人間の歴史

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006.01.06

『天才の栄光と挫折−数学者列伝』 藤原正彦 (新潮選書)

4106035111 ベストセラーになっている藤原正彦さんの『国家の品格』、このブログでも人気記事となっていますね。私はいつもの通り軽いノリで感想などを書いたのですが、なぜかgoogleで商用以外のページとしては最上位に検索されたりして、とっても恥ずかしいことになってます(ページランクは0なんだけど…)。ショッカーとかセーラームーンとか書いてるんだもん。律義にコメントやトラックバックをくださる方もいらっしゃいますが、きっとそれ以上の失笑を買ってるんだろうなあ。かといって、今さら記事を書き直すのも「武士道」に反する!ということで正々堂々放置します(笑)。
 さて、その記事の最後にも書いたのですが、インドの天才数学者ラマヌジャンに興味を覚えました。それを知って、『国家の品格』を貸して下さった数学の先生がすぐにこの本を持ってきてくれました。ありがたいことです。
 天才数学者9人の生涯に迫るこの本、『国家の品格』とは違った意味で大変興奮させられました。
 ここでいきなりカミングアウトしますが、私、数学がかなりできません。いわゆる算数までは得意だったのですが、数学になったとたん、なんというのでしょうか、前回りは自然に出来たのに、逆上がりになったら急に体が自分のものではなくなってしまったように思うにまかせない…みたいな、そんな感じになってしまったのです。ものすごく苦い挫折の記憶ですね。
 でも、今はなぜか数学という世界にとても興味があるのです。とは言っても、解の公式すら危ういほど、その世界から遠ざかっているので、例えばこの本を読んで、いろいろな公式やら定理の名称やらが出てきても、それこそチンプンカンプンであることには変わりありません。
 ただ、なんというんでしょうねえ、予感というか、そうアナロジーに基づく予想というか、そんな感じのものが自分の頭に確乎としてあるんですよ。それは、自分が経験してきたこと、比較的得意としてきたこととの類似性の予感です。具体的に言えば、音楽、文学、美術、哲学、宗教…。まあ、どちらかというと「文系」に分類されるものたちですね。
 で、今回この本を読ませていただいて興奮した、その興奮というのは、やはり自分の経験や知識との共鳴による予感だと思います。それは、大げさに言えば、この本に書かれている数学者たちの歴史的発見の端緒となった予感に似ているのではないでしょうか。ものすごくずうずうしい言い方ですけれど。
 最終章では、例の「フェルマーの最終定理」を証明したワイルズが紹介されています。ワイルズは「谷山−志村予想が正しければフェルマー予想も正しい」というリベットの証明を知り身震いします。その日本人が誇るべき「谷山−志村予想」にもいろいろとドラマがあるのですが、とにかくこの豪快かつ美しい予想は、それまで無関係と思われた領域を結ぶ、筆者の言を借りるなら「富士山とエベレストの間に、実は虹のかけ橋がかかっている」とでも言うべきものだった。そして、「二つの無関係な分野が結びつく、というのは数学者にとってもっとも心躍ること」なんだそうです。
 最終的にワイルズは、岩澤理論という一度は援用をあきらめた理論をもって完全なる証明に至ります。ここでもまた日本人の業績が支えになっていることに驚くわけですが、いずれにせよ、一度は無関係、別世界としたものを結びつけているわけです。
 こうしたひらめきと言いましょうか、遠くにあるものを結びつける能力に長けた者を天才と呼ぶのでしょうね。それこそ予感までは凡人でも体験できますが、それを具現化することができるかどうか、そこが天才への分かれ道でしょう。
 ある意味、天才とは、もうすでに存在しているもの、中空に分散して我々が気づかないものをつかみとる能力を持った人とも言えましょう。作曲家や詩人の才能に近いと予感されます。またある種の宗教家にも見られる傾向ですね。世界の相似性については、釈迦も王仁三郎も強調しているところですし。
lmn_11 今日はだいぶ興奮しているので、ついつい文章が長くなってしまいました。ここではワイルズのことしか書けませんでしたが、もちろんラマヌジャンについても、また私の全く知らなかったハミルトンやチューリングなどにも感奮いたしました。あと、なぜかソーニャ・コワレフスカヤ…ちょっと萌えちゃいましたね。ああ、また最後に軟派な私が顔を出しちゃった。今日は硬派で行こうと思ったのに。このへんでやめときます(笑)。
 と言いつつ、追伸。ジョン・マッデン監督の新作『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』が近々公開されますね。天才数学者とその娘を中心とした物語だと聞いています。残されたノートに書かれた歴史的な定理の証明。はたしてそれを解いたのは、父なのか娘なのか…。ちょっと観てみたいですね。あっそうそう、『博士の愛した数式』ももうすぐですね。

Amazon 天才の栄光と挫折

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.05

マイケル・ジャクソン 『ライヴ・イン・ブカレスト』(DVD)

MHBP-61 昨日の続きかな。信者さんに借りたDVDを朝5時から観ました。いやはや、こりゃホンモノの神だわ。参った。めっちゃ寒い朝ですが、なんか熱くなりました。
 年末年始と、どうも日本の不甲斐ない芸を見せられてきたせいか、こちらのすごさが際立ってしまいましたね。ここまで完成した芸を提示されると、さすがに信者になるわ。それがトリックだろうとなんだろうと。
 あっ、そうか。トリックをトリックだと言わせない芸…それを提示できるのがカリスマなんだろうな。私は恒常的なマイケル信者ではないわけですが、にわか信者にはなっちゃいますね。あまりに人間離れしている。
 これは、1992年にルーマニアのブカレストで行われたコンサートの模様を収録したDVDであります。もう会場内は完全に宗教団体の儀式化しています。事実、マイケル様のお姿を拝謁し、湯気をあげながら失神する女性信者の方々の映像が、随所に挿入されています。彼女ら、失神してマッチョに運ばれちゃったら、もう神様に会えないじゃんねえ。不覚にも興奮しすぎちゃったんだろうな。
 たぶん、こういう失神という技は女性の専売特許でしょう。男だったら最後まで見届けようとする。大金払ってるんだし、とか思っちゃうところでしょう。女性はその刹那に燃え尽きちゃうわけでして、これはこれでちょっとうらやましい。こうして写されてDVDに残れるんだから、結局は永遠の命を得てるのか(笑)。
 マイケル・ジャクソンの神っぷりについては、こちらに書きましたし、このDVDを貸して下さった信者さんのこともちょっと前に書きましたね。とにかく、最近のいろんな暴走も含めて、一般人からあまりに遠いところにおられる方です。だから神なんでしょう。
 さてさて、今回彼のコンサートというものを初めてじっくり観賞したわけですが、いろいろと面白いことに気づきました。
 まず、予想通り彼が非常に中性的であるということ。腰の動きはもちろんのこと、かなりの頻度で男性(器)を強調するような動作をしていますが、どこかしら滑稽でさえある。また、演出上のパートナーの女性が何人も出てきますが、それに絡むマイケルは全然男らしくない。女性ファンはそれらを観て「キャー」とか言いながらトロけているようでしたが、男性ファンは「フォーッ」とか言いながらニヤけています。私もニヤけてました。つまり女性はマイケルにヴァーチャルな男性像を見ているようですが、男性はリアルな非男性像を見ている。それが結果として男にして男にあらずの中性的、あるいは非性的な偶像を生みだしているようでしたね。菩薩も如来も、男でも女でもない…か。あっ、関係ないっすね。
 あと、彼の体のリズムの基本が常に4ビートであるということ、2ビートの曲やらバラードでも、いつもカカトで四つ刻んでるんですよ。それが、あの機会じかけ的な動きを生むんだなって思いました。普通の人間の感性とはちょっと違いますね。バックダンサーと同じ動きをしていても何か違う。その原因はそんな所にあったのでは。
 で、その基本の四つのリズム感がものすごく正確なんですね。非常にデジタルです。一応ブラックなはずですが、意外に横にブレない。ちょっと縦ノリっぽいんです。だから、世界中のいろいろな民族(ブラック以外…たとえばここルーマニアなど)に受け入れられたんでしょうね。そんなことも思いました。
 あと、どうでもいいことですが、けっこう休んでる。まあ、あれだけ動いて歌ってれば、いくらなんでも息が切れるわな。それを演出の中で上手に整えていました。私は意地悪して(横着して)そういうところは早送りしちゃいましたけど。
 それにしても歌うまいっすね。She's Out Of My Lifeが圧巻です。あの状況で冷静に歌うなよ。
 ま、とにかく一度はライヴで神様を拝んでみたいものですね。私も腰ふりながら「フォーッ」とか言ってみたいものです…ん?これって誰かみたいだな。

Amazon ライヴ・イン・ブカレスト

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.04

『教祖誕生』 天間敏弘監督 ビートたけし原作・主演作品

PCVG30098_s たいへん勉強になりました。『真羅崇神朱雀教』、この団体が実在のどの団体をモデルにしているかはわかりません。いや、そんなことを詮索するのは野暮でしょう。手かざし系の団体なんていくらでもある。というか、釈迦もキリストも手をかざしている。そして私も(笑)。
 そういえば昔、某手かざし系教団の幹部と手かざし対決したっけな。最後は秘義手かざし返しで、敵は悶絶、いえ号泣してました(笑)。その時は、おっオレって教祖になれるかも!って思いました。実際そう言われましたし。今思えば、あれは向こうの作戦だったのかも。危ないなあ、ひっかかるところだった。
 この映画はそういう映画です。私が体験したことを萩原聖人が体験しているのです。いや、今までの全ての教祖が体験したことですかね。
 記号論なわけです。教祖というネーミングが教祖を生む。ネーミングされ、コーリングされるうちに教祖が誕生する。それを実に明快に、象徴的に描いていました。
 ビートたけしの原作は、実は読んでいません。しかし、彼自身が主演していることからも、また、北野武の片腕天間さんが監督していることからも、おそらく原作に近い形で映画化されただろうことが想像されます。そうすると、やはりたけしの鋭い視点というか、感性というか、本質を見抜いてしまう眼力というものをまざまざと見せつけられた気がしてきますね。
 どこの馬の骨とも分からぬ「モノ」が、「ことば」や「衣装」や「秘義」というメディアを得て、自他ともに認める「ミコト」になっていく。ここでもまた「モノ・コト論」になってしまいますが、結局そういうことなのです。そしてその「コト」に群がる信者(=オタク)たち。実は宗教が「オタク文化」の原形なのです。ご存知でしたか?教祖とは、一種のキャラクター設定であり、フィギュア的存在なんですよ。
 私から見ると(自分も含めてですが)宗教的感情というのは、多分に逃避の意味合いを含んでいます。現実逃避ですね。まさに「モノ的真理=生老病死など全ての変化」から逃げるわけです。口先の「永遠の命」なんてのは最上のトリックですよ。
 その点、仏教はちょっと偉いですね。逃げないで向き合うことを勧めるんですから。つまり、あんまりオタク的でないんです、本来。まあ、勘違いして仏教をベースにオタクしちゃった「阿吽真理教」ってのもありましたけど(って今でもあるのか)。
 ま、とにかくこの映画、全ての宗教団体の方々に見ていただいて、大いに笑っていただきたい。あっ、ウチも基本的にはコレだなって。笑えない団体は失格です。ウチは違う!なんて言ったら、バチが当たりますよ。いや、神様はそんな人(団体)にはバチも当てない…か(そんなようなセリフがあるんですよ。結局は当たってましたけど)。
 私はこの映画を観て思いました。宗教団体作るなんてちょろいなって。そして教祖になるのもちょろいことだって。でも、ああいうふうな「金」派と「信仰」派の軋轢にさいなまれるのはイヤですね。どこにでもありそうなことですが、結局「金」も「神」も人間が創った記号に過ぎないんで、どっちも正しいし間違ってるんですよ。教祖としては、そのどちらにもつけません(笑)。
 長くなりましたが、最後に。役者ビートたけしと玉置浩二、音楽の藤井尚之に感服いたしました。ものすごい才能でした。

Amazon 教祖誕生(ビデオ) 教祖誕生(原作)

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.03

トヨタ 『シエンタ』

sienta22 不覚にも新年早々トヨタ車をおススメします。
 別にトヨタに恨みはありません。単なる判官贔屓の裏返しです。強大な勢力に対するささやかな反抗です。何につけてもマイナー指向、アマノジャクな私です。
 で、なんで今日はメジャーなのかって、親父が買ったんです。それで実家で正月を過ごしつつ、ちょっと乗ってみたんですね。くやしいけど、よくできてる…。
 だいたいいつもマイナーな車(シボレークルーズフィアットパンダ)ばかり乗ってますんで、他の人の車に乗ると、全て良く見えるんですよ。それにしても、今入院中のパンダたんと同じくらいのお金を払うと、こんなに快適な車が手に入るんだ…日本では。
 まず、このサイズでよく7人乗りを実現したな、ということです。ま、いわゆるミニミニバンとしては最大クラスなんでしょうが、うまくパッケージングされてる。3列目シートの格納具合なんか、ホント日本のカラクリって感じで萌えます。しっかし、よく安全性やら何やらの面で認可がおりますねえ。規制緩和か。ちょっと怖いですね。
 次、走りです。CVTマニアとしては、大いに不満ありです。CVTの良さ、スムーズさを殺しています。コンピュータのチューニングの問題ですね。つまり、発進時回転が上がりすぎる。親父のような不器用な人がアクセルを踏み込むと、ブォーンとなって、車体がガクンガクンします。かなりセンシブルなアクセルワークを要求されるんです。これではCVTの意味がない。全体にノイズは少ない方だと思うのですが、この発進時のブォーンのために、うるさい印象を与えます。スノーモードにしてちょうどいいくらいです。まあこれもプントと比べての話ですがね。
 インテリアはチープでよろしい。下手に高級志向に走らず、アウトルックに似合った割り切りぶりで好感を持ちました。パンダにはかないませんけどね。ただ、メーターが中央にあるのには、どうも慣れませんな。
 というわけで、さすが世界に誇るトヨタ車という出来なんでしょう。では自分も所有したいかというと、これは別問題です。レンタカーとしては興味ありますが。
 こういう車が売れるのはもちろん悪いことではありませんね。エクステリアデザインも悪くないと思いますし。カラーリングも良い。なんかパンダに似てるような…。ま、どちらかというとヨーロッパ的なセンスを感じる日本車です。ふだんは少人数、年に何回か、おじいちゃん、おばあちゃんを載せて、いやいや乗せて家族で旅行やら冠婚葬祭やら…。日本の家庭の事情にあった本当に実用的な車なのかもしれませんね。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2006.01.02

『正しい保健体育』 みうらじゅん (理論社)

4652078056 初読書がこれ。いいんじゃないですか。ホント面白かった。
 昨年の正月から読もう読もうと思っていた本でした。期待通り、いや期待以上に楽しめましたし、正直勉強になりました。
 この本は、読者を選びます。いろいろな意味で。まずだいたいが、男子、いや男性限定でしょう。女性には読んでもらいたくない。男にしか分からない世界だからです。女子、いや女性が読んでもそれなりに楽しめるでしょうが、心から納得し、感動し、そして安心するには、○玉が必要です。すんません、なんかいきなり。
 もう男ワタクシは、第1部第1章「義務教育の大切さ」からはまりました。だって…「義務教育」と「性教育」の関係の説明が洒落てるんだもん。
 『もともと男子は、○玉に支配されるようにできています』(ちなみに本書では○の部分に「金」の字が入っています)『本当は「やりてーぜ」「入れてーぜ」の二大テーゼがあれば人間の男は事足りるはずですが、そういう「本当のこと」だけを言わないために、義務教育を受けるものなのです』…こんな感じですから。
 そして、あくまでも教科書的に図や写真が挿入されます。ちなみに上の文章の後には、「煩悩と戦う戦士」として「釈迦像」と「キリスト図」がまじめな顔して立っています。
 まあ、最初からこんな調子ですから、そりゃあ楽しいですよ。もうあとは買って読んでみて下さい。そして真剣に勉強して下さい。ほとんど全て正しいことが書いてありますから。自分塾…この言葉がある意味キーワードなんですが、ホントいい言葉なんですよ。
 さて、ここで不二草紙的アンチテーゼ?を提示しましょう。皆さんにもこの本を読んで考えていただきたい。
 みうらじゅんさんは、義務教育の目的として「恥ずかしさ」を重要視しています。いろいろなことを社会的に恥ずかしいものだと規定して、その恥ずかしさを抑止力として活用するという感じでしょうか。
 で、この本では、正直恥ずかしいことを、それを恥ずかしいとしながらも、正々堂々と正面から書ききっている。これは実は、みうら氏の照れ隠しなのではないか、と感じたのです。非常に逆説的な意味で、恥ずかしさを強調したものなのではないか。筆者も読者も、ここまであまりに本当のことを正面から語り合ってしまうと、もうそれは恥ずかしさからの解放ではなくて、もっともっと恥ずかしい、なにか恥ずかしさの共鳴現象のような事態になっているのではないか。読後、そんなような気がしたのです。
 男として同一の恥ずかしさを共有することは、安心を生む反面、もう逃げられない男の性(サガ)を突きつけられてしまったような気分も醸成します。読後の虚無感は、やはり男でなければわからない、あれと同じような気がしました。何読んで盛り上がってんだ?オレって…。
 さて、それはいいとして(全然良くないのですが)、もう一つ、皆さんに考えていただきたいことがあります。これもパラドックスというかレトリックの問題です。
 下のリンクからたどれるアマゾンのレビューなんですが、みなさん大体好意的な感想を述べておられます。その中で、「アダムスキー」という方だけは、『著者の見識が疑われる』として、最低の評価を与えています。それをぜひ読んでいただきたい。このアダムスキーさん、シャレであのレビューを書いたなら、ホントお見事です。みうら氏をああいう形で超えるとは。すごい。逆にもし、もしですよ、まじめにあの文を書いたとしたら、それはそれでもっとすごい。そういう人がこの本を買った時点でホントは笑えるんですが、彼が、それを最後まで笑いもせずに、真剣に怒りに震えながら読んだとしたら…。これはもう、本当にアダムスキー氏級のトンデモさんです。皆さんは、どちらだと思いますか?ん?もしかして「彼」じゃなくて「彼女」だったりして…。もし、そうだとしたら…もっとすごいかも。

Amazon 正しい保健体育

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.01.01

明けましておめでとうございます!

redggt1 みなさま、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 おそらく今年も、このブログを毎日書き続けるでしょう。基本的には今までと同じスタンスで書いていきたいと思っています。そのスタンスとは…。
 「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ!」
 これですね。やっぱり。右のサイドバーに「最近の人気記事」を設置してありますが、これが期せずして私のスタンスを象徴してくれています。
 1位「萌えキャラを描こう」2位「国家の品格」…もうこれだけでもメチャクチャっすね。「硬軟聖俗」入り乱れてます(笑)。その下に「プチクリ」「もの」「ウォッシュレボリューション」「文学・言語」「映画・テレビ」「アニメ・コミック」「奥崎健三」「物語論・オタク論」「M-Audio」「フィアット・パンダ」「歴史・宗教」「萌えてはいけない!」「身曾岐神社」「中国製ダブルケース」「富士山で東京の地上デジタル放送受信」「美輪明宏」…、なんにも考えてませんね。保守なのか革新なのか、右なのか左なのか、硬派なのか軟派なのか。自分でもよくわかりません。
sdfer ただ、このブログを書き続けることによってハッキリしてきたことがありまして、もうみなさんに「しつこい!」と言われるんですが、「物語(モノ・コト)論」です。これは自分にとってはライフワークですので仕方ない。みなさんおつきあいください。これは、最近で言えば、「武士道」vs「萌え」にもつながるわけでして、まさに人気記事1位2位ですね。本来とは違う形でではありますが、こうしてみなさんに興味を持っていただけるのは、大変嬉しいことでございます。
 ま、とにかく、読者のみなさまに励まされながら、一日一日歩んでいきたいと思っています。よろしくご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
 なんて、今日は朝から「磯自慢」呑んで酔っぱらってるんで、このへんでおやすみなさい…。
 あっ、ちなみに二つの画像は「武士道」と「カワイイ」…つまり「もの」「こと」です。分かる人には分かる。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »