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2005.12.09

夏目漱石 『西洋にはない』

154r 昨日は「レノン忌」でありました。今日は「漱石忌」です。1916年の今日、漱石は亡くなりました。
 漱石について書くとなると、それなりの心構えが必要です。しかし、そんな心構えをする根性がないので、今日は軽めに行きます。漱石にはいろいろな顔があります。小説家は言うまでもない。英語教師であったり、頑固親父であったり、神経衰弱患者であったり。今日はそんな中から、俳人としての漱石とエッセイストとしての漱石をとりあげましょう。次に引用するのは、1911年に「俳味」という雑誌に掲載された文章です。

 『俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。日本独特と言つていいでせう。
 一体日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小ぽけなものを置いても一向目に立たない。
 俳句に進歩はないでせう、唯変化するだけでせう。イクラ複雜にしたつて勧工場のやうにゴタゴタ並べたてたつて仕様がない。日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。』

 さて、いかがでしょう。なんて言われてもねえ。えっ?別に…って感じですよね。私はこの文章けっこう好きなんですよ。
 だいたい漱石、小説家としてはあんまり名文家ではない。どうも説明過多でリズムが悪くていかん。特に後期の作は。いや、処女作などは、さすが句作の余韻が残っていてリズムが良い。しかし、だんだんと悪くなる。英語の日本語訳みたいな文章になっていくんです(こんなふうに文豪の悪口言うなんて、結局根性あるのかな)。
 それが、こういうエッセイや書簡などでは、非常に日本的なリズムが出るんですよね。この文章なんかいい例です。ま、漱石自身が小説と俳句を一緒くたに考えていたわけない。このエッセイには、小説は西洋のもの、ということが裏返して書かれているわけでもあり…。
 さて、内容を検討してみましょう。私の勝手な解釈です。なにしろ「俳味」満載な文章なので、いろいろと解釈の余地があるわけでして。
 まず、第1段落。「俳味=俳句趣味」が西洋にはないと。諧謔はあっても俳味はない。まあそうでしょう。
 2段落目は、これは比喩というか象徴でしょうな。俳味です。西洋建築の中に俳句を記した短冊をかけると妙なことになる、ということを言いたいわけではない。精神構造の話でしょう。 
 3段落もいいですねえ。俳句に進歩はない。変化あるのみ。その通りでしょう。時代の構造の中で、表現は変化しますが、俳味は変わらない。俳味はもう俳句が誕生した時点で完成していたのです。日本人の心、文化の中で醸成しきっていた。それが、五七五のメディアを介して噴出しただけですから。そして、明治維新後、有形無形さまざまな西洋の構造の波がやってきた。やってきて、もう帰らない。だから醸成の環境はもう終わったのです。俳味は進歩しない。ただ、その構造の中で俳味のポジションが動く。それが表現の変化になる。こんなふうに私は読みましたね。漱石流の構造主義かあ。
 ま、そんな小難しいことはどうでもよくて、つまり俳味を理屈で説明しても仕方ないわけでして、ただ、このエッセイの見事な五七五を味わえばいいと思うのです。時代性という季語もありますしね。名句だと思いますよ。全ての本質は簡便なり。

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