荘子 『斉物論』より「物」と「言」
この前のウルトラマンマックスで登場した荘子の「胡蝶の夢」。ついでですから、ちょっと授業でやりました。そのまたついでと言ってはなんですが、いよいよここにも荘子さんに登場願います。
実はいずれは荘子について書かねばならないと思っていたんです。なぜなら、私が今再構築中の「物語論」やら「オタク論」「萌え論」などに通底する、「もの」と「こと」という対比概念が、荘子の「斉物論」の中の「物」と「言」それぞれに対応するからです。
以下は、自分の備忘メモみたいなものなので、読む価値があるかどうか、それは分かりませんよ。勝手な推論ですので、絶対に引用などしないように。
有名な寓話「胡蝶の夢」は次のような短いものです。我流の意訳を付します。
昔者、荘周夢に胡蝶と為る(昔、荘周は夢で胡蝶となった)。
栩栩然として胡蝶なり(ひらひらとして確かに胡蝶であった)。
自ら喩しみ志に適へるかな(自ずと楽しくなり、心は自由であった)。
周なるを知らざるなり(その時、自分が周であることを忘れていた)。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり(突如として目が覚めると、自分が周であることにはっと気づいた)。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか(周が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が夢で周となったのか、それは分からない)。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん(周と胡蝶とは、必ず分かたれるだろうか、いやそうとは限るまい)。
此れを之れ物の化と謂ふ(これこそを物の化と言うのである)。
最後の「物化」は「物の変化」ということでしょう。荘子は、物は絶対的な存在はなく、全て相対的であり、分別することはできない、とします。つまり万物斉同ですね。ここで「分別」の象徴として現れるのが「言」つまり言語です。もう一つの有名な寓話「混沌王」でも、結論的に分別を否定していますね。人為的に分別しないことこそが自然であると。無為自然というやつです。
もちろん、荘子はその分別できない万物の背後にある「道(タオ)」を究めること、それを人生の目標として掲げるわけですが、日本に伝来した老荘思想は、その肝心の「道」の概念が希薄になってしまったように思われます。仏教の「道」との衝突もありましたし。ただ、「物」に対する考えは、古来の日本の「もの」観に通ずるところがあった。
で、古代日本語の「もの」は、神道的あるいはそれと親和する道教的な「物」と、仏教的無常観に基づいた「物」との間で揺れ続けます。結局、神道的、道教的(陰陽道的)な「物」を奉じた「物部氏」は破れ、仏教的な「物」観を持った蘇我氏が勝つことによって、日本の「物」は次第に無常観を表す語に変化していきました。それが結果として「もののあはれ」に帰着するわけですね。しかし、一方では「物の怪」の「物」や接頭辞の「もの〜」のように、はっきりとは分別できない古来の「物」も細々と、しかし脈々と生き続けました(現在も生きていますね)。
一方の「こと」は「言」や「事」という漢字を得て、日本語に定着していきます。本来、その分別行為、概念化行為は「みこと」のみに与えられた能力であったのですが、言語や社会システムの発達とともに人間にも許される能力となっていきました。もちろん、現代は「こと」有利、優先の時代です。科学や貨幣経済、デジタル化など、その最たるもの。荘子が最も嫌ったことです。
で、こんなような「もの」と「こと」のせめぎ合いが、現代の「オタク」や「萌え」にどうつながるかは、今までもいろいろと書きましたので、繰り返しません。
というわけで、私が一生懸命考えたり、調べたりしていることも、とっくの昔に偉い人が究めているわけでして、まあ当たり前と言えば当たり前ですが、自分の分別行為なんてタカが知れてるってことです。
今日はこんな感じで、今日思いついたことを記すだけで終わっちゃいます。すみませんです。
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コメント
この話、ボルヘスの本で読んだことがあります。バロック期の劇作家カルデロン・デ・ラ・バルカに『人の世は夢』という作品がありますが、17世紀ヨーロッパの劇作には、ある物語を演じていたけれどじつは夢だったとか、じつは劇中劇で楽屋落ちで終わるといった作品がやたら多いそうです。現実なのか、あるいは夢なのか分からなくなる。このめまいの感覚。
投稿: 龍川順 | 2005.11.29 00:17
やたら現実感薄いのはバロックやってるせい?
というのは冗談ですが、先日のウルトラマンマックス、こんなところにつながるわけですね。
どおりで、理屈じゃなくて身体感覚的に「引き込まれる」わけだ!
投稿: よこよこ | 2005.11.29 01:12
龍川さん、よこよこさん、いつも戯言を読んでいただいてありがとうございます。
そう、バロックって最後の境界線(境界線の極地)なんですよね。
近代化以前の日本も西洋も、けっこうあっちとこっちを自由に行き来していたと思います。
それが日常であり非日常であり、つまり普通のことだったのでは。
考えようによっては、そういうアナログ的な連続性の方が自然ですよね。
ということは…私たちは近代になじんでないってことかな?
ちょっとうれしいっす。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2005.11.29 08:02
荘子の「斉物論」を調べていてここに辿り着きました。^^
何だかとても面白い、興味のあるブログです~☆
またお邪魔させてくださいませ…^^
投稿: りば^^ | 2008.05.05 23:51
りばさん、こんにちは。
斉物論は面白いですよね。
これからも私なりの切り口で料理していきます。
またお越しください。
OZネタもいくつか書いてますよ。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.05.06 10:54