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2005.11.30

『生き方』 稲盛和夫 (サンマーク出版)

4763195433 昨日のプロジェクトXは、稲盛和夫さんを招いて、京セラの太陽電池開発のお話でしたね。ついにカリスマ登場!という感じでした。どちらかというとプロジェクトXらしくなく、淡々とした展開でしたが、それなりに感じるものがありました。
 いまや経営のカリスマという名をほしいままにしている感のある稲盛さんですが、それ以上にまずは技術者として、あるいはそのリーダーとして評価をすべきでしょう。そして、それら三つの立場における成功の背後には、彼の宗教的な生活態度の存することを忘れてはいけません。
 そんなわけで、今日は出張帰り本屋に寄ったついでに、得意の速読でこの本を即読(=即席読書)してきました。ずらりと並ぶ稲盛和夫コーナーの経営本たちの中で、ひときわ異彩を放っていましたねえ。
 アマゾンのレビューを見ると一目瞭然ですが、この本の評価は大きく分かれるでしょう。内容があまりに宗教的だからです。もちろん私は全然大丈夫な方です。大丈夫どころか非常に共感できましたし、勉強になる以前にかなり癒されました。
 前の記事でも書いた通り、稲盛さんは臨済宗のお寺で得度しています。つまりお坊さんになる資格を得ているということです。ですから、当然生き方に関するお話は仏教的になります。いやいや、仏教そのものです。
 つまり、ものすごく簡単にまとめてしまいますと、この本の内容は、まさにお釈迦様の説いた「智恵」と「方便」そのものでした。かみくだいて言えば、「縁」と「利他」。もっとかみくだくと、「おかげさま」と「世のため人のため」です(稲盛さんはこう表現しています)。そして、それが実生活…つまり仕事、経営ですね…に結びついているところが実に禅的です。職業渡世の営みこそが修行である。
 こういう仏教(特に禅)の教えになじんでいない読者にとっては、「経営のカリスマ」「京セラ創業者」「KDDI会長」というイメージとあまりにかけ離れたものと感じられ、ある意味不快でさえあるかもしれない。たしかにそういうレビューも多々あります。でもどうでしょう。お金稼ぎだけの人生なんて実につまらないものですし、だいたいそんな目標だけで世界的な事業をなしえるでしょうか。
 この本に書かれていた「現場に神が宿る」ということは、セレンディピティーのことでしょうね。結局自分の行動、気づき、受容が必要なわけです。つまり努力なわけです。地道な、執念にも似た努力が、「縁」「おかげさま」「神」を生み、一見非科学的、非論理的な結果を現象せしめる。それを文章にすれば、やっぱりこうなりますよ。それを理解できない人には、永遠に神は宿らないでしょう。残念でした。ちなみに私はいちおう理解しましたが、神は宿りません。なぜなら、努力していないからです…orz。
 あと、失敗が「業」を払ってくれる、というような話がありましたが、なるほどなあ、と思いました。「この程度の苦労で業を払ってくれるんだから、悩むどころか感謝しないといけない」と言った稲盛さんの師匠の言葉に、私も救われました。前向きが一番。
 余談ですが、経営のカリスマの双璧、稲盛さんと船井幸雄さん、両者とも間接的にではありますが、出口王仁三郎の影響を大きく受けているのは面白いですね。なんとなく分かるような気もしますけれど。

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2005.11.29

『それでもやっぱり日本人になりたい』 ウィレム・A. グロータース (五月書房)

741f4975560f54d9 こちらで、卵かけご飯を愛する外国人として紹介したグロータース神父の本を読んでみました。
 多少なりとも方言に興味を持ち、調査の経験もある私としては、やはりグロータースさんは日本の方言地理学の基礎を築いた方との認識が第一です。最初私は、氏の業績は彼が外国人であることが奏功してなし得たものだと思っていました。しかし、それは大きな間違いでした。彼は日本人以上に日本人であったのです。日本に対する、日本語に対する、日本人以上の愛情があったからこそ、偉業をなしとげることができたのです。
 この本は、お亡くなりになった年に書かれたものです。自らの生涯をていねいに振り返り、そして最後にこう記します。
 「すでに日本に墓も買ってある。生きて日本人にはなれないが、死んで日本の土になる」
 この本は愛する日本への、日本人への、日本語への遺書となってしまいました。この愛と智恵とウィットに富んだ美しい日本語による本を読むと、本当に残念に思われます。もっともっと日本を愛してほしかった。そして私たちに日本の良いところをもっと教えてほしかった。
 この本では、そんな氏の心に触れることができたのと同時に、いろいろなことを初めて知ることができました。ベルギーという国の複雑な事情、戦時中の中国の様子、日本の大学の裏話などなど。そして、何と言っても、語学の天才である氏の言語教育観。外国語習得法。私は必要に迫られていませんので、多重言語使用者にならなくてもいいわけですが、こちらにも書きましたように、世の英語教育熱(フィーバー)には強く疑問を抱く一人です。そういう意味では、この本は外国語に憧れる人々全てに読んでいただきたい。きっと恥ずかしく思われるでしょう。
 そう、生活上、仕事上の必要、いや必要という以上に熱意がないと、生半可な言語習得で終わるということです。最近、朝青龍や琴欧州を見ていてもそう思いました。グロータースさんの場合は、布教という熱意があったのはもちろん、先ほど述べた「愛情」があったからこそ、ネイティヴ以上の(!)言語習得が可能になったわけです。そこには苦痛などありません。苦労はしたかもしれませんが、その全てが楽しく充実をもたらすものであったはずです。
 日本人は今でも充分に国際人である、とのこと。外国のことを本当によく知っている。国際摩擦やジャパン・バッシングは向こう側の無知から生じている…なるほど、そう言っていただけると本当に安心します。
 そんなグロータース神父、上の画像にも見えますように、ペンネームに「愚老足」と書きました。年は足りるがまだ愚かである、老いてもまだ至らない、そんな意味だそうです。そして、これは見せかけの謙遜を示す名前をつける中国方式にならったものである、と書いています。えっ?じゃあ、実は御本人は「愚」だと思っていないってこと?いえいえ、そんな浅はかなことではありません。
 実はここが非常に面白かったところなのですが、この「愚」はキリスト教の基盤である人格尊重を表しているのです。なぜこんな逆説が成り立つのか。それは、ぜひこの本でお確かめ下さい。言葉と歴史と宗教を知りつくした氏ならではの解釈に、思わず首肯せられます。「智」と「愚」… 昨日も書いたように 、なるほど人間の認識など、しょせん相対的なものなのです。それを、二者択一的にとらえるのではなく、全てをそのまま受け容れること、これを自然体で実現したグロータース神父は、まさに「愚」の人であり、「智」の人であったということです。

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2005.11.28

荘子 『斉物論』より「物」と「言」

1801 この前のウルトラマンマックスで登場した荘子の「胡蝶の夢」。ついでですから、ちょっと授業でやりました。そのまたついでと言ってはなんですが、いよいよここにも荘子さんに登場願います。
 実はいずれは荘子について書かねばならないと思っていたんです。なぜなら、私が今再構築中の「物語論」やら「オタク論」「萌え論」などに通底する、「もの」と「こと」という対比概念が、荘子の「斉物論」の中の「物」と「言」それぞれに対応するからです。
 以下は、自分の備忘メモみたいなものなので、読む価値があるかどうか、それは分かりませんよ。勝手な推論ですので、絶対に引用などしないように。
 
有名な寓話「胡蝶の夢」は次のような短いものです。我流の意訳を付します。

昔者、荘周夢に胡蝶と為る(昔、荘周は夢で胡蝶となった)。
栩栩然として胡蝶なり(ひらひらとして確かに胡蝶であった)。
自ら喩しみ志に適へるかな(自ずと楽しくなり、心は自由であった)。
周なるを知らざるなり(その時、自分が周であることを忘れていた)。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり(突如として目が覚めると、自分が周であることにはっと気づいた)。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか(周が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が夢で周となったのか、それは分からない)。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん(周と胡蝶とは、必ず分かたれるだろうか、いやそうとは限るまい)。
此れを之れ物の化と謂ふ(これこそを物の化と言うのである)。

 最後の「物化」は「物の変化」ということでしょう。荘子は、物は絶対的な存在はなく、全て相対的であり、分別することはできない、とします。つまり万物斉同ですね。ここで「分別」の象徴として現れるのが「言」つまり言語です。もう一つの有名な寓話「混沌王」でも、結論的に分別を否定していますね。人為的に分別しないことこそが自然であると。無為自然というやつです。
 もちろん、荘子はその分別できない万物の背後にある「道(タオ)」を究めること、それを人生の目標として掲げるわけですが、日本に伝来した老荘思想は、その肝心の「道」の概念が希薄になってしまったように思われます。仏教の「道」との衝突もありましたし。ただ、「物」に対する考えは、古来の日本の「もの」観に通ずるところがあった。
 で、古代日本語の「もの」は、神道的あるいはそれと親和する道教的な「物」と、仏教的無常観に基づいた「物」との間で揺れ続けます。結局、神道的、道教的(陰陽道的)な「物」を奉じた「物部氏」は破れ、仏教的な「物」観を持った蘇我氏が勝つことによって、日本の「物」は次第に無常観を表す語に変化していきました。それが結果として「もののあはれ」に帰着するわけですね。しかし、一方では「物の怪」の「物」や接頭辞の「もの〜」のように、はっきりとは分別できない古来の「物」も細々と、しかし脈々と生き続けました(現在も生きていますね)。
 一方の「こと」は「言」や「事」という漢字を得て、日本語に定着していきます。本来、その分別行為、概念化行為は「みこと」のみに与えられた能力であったのですが、言語や社会システムの発達とともに人間にも許される能力となっていきました。もちろん、現代は「こと」有利、優先の時代です。科学や貨幣経済、デジタル化など、その最たるもの。荘子が最も嫌ったことです。
 で、こんなような「もの」と「こと」のせめぎ合いが、現代の「オタク」や「萌え」にどうつながるかは、今までもいろいろと書きましたので、繰り返しません。
 というわけで、私が一生懸命考えたり、調べたりしていることも、とっくの昔に偉い人が究めているわけでして、まあ当たり前と言えば当たり前ですが、自分の分別行為なんてタカが知れてるってことです。
 今日はこんな感じで、今日思いついたことを記すだけで終わっちゃいます。すみませんです。

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2005.11.27

ステファン・グラッペリ&マッコイ・タイナー 『ワン・オン・ワン』

『One on One』 Stephane Grappelli & McCoy Tyner
B000000XTB このアルバムは非常に面白い。興味深い音楽が展開されています。
 グラッペリおじいさんについては、今までも何度もおススメしておりますが、マッコイ・タイナーおじいさんについては初めてですね。
 まず、この二人がかみ合うのか、これは正直心配です。お二人とも大ベテランであり、それぞれものすごい実績を残しているわけですけれど、あまりにジャンルが違います。思いっきりスウィング・ジャズのグラッペリと、思いっきりモード・ジャズのタイナーですから。ジャズと言って一括りにするのは簡単ですが、実際には多くの流れがあって、その多くは意外に落ち合わないんですよね。
 そんなわけで、まさに不安と期待にドキドキしながら聴いてみると…。こ、これは確かに不思議な音楽だ。
 お互い多少の歩み寄りはあったと思いますけれど、かなり違和感のある、いや考えようによっては実に新鮮な響きがしてきます。Amazonの試聴だけでも、おわかりになるでしょう。
 モード的な和声とタイナー独特のリズム感は、はっきり言ってなかなかスウィングしません。どちらかというと重く響きます。そこにいつもの軽妙なグラッペリ節が絡むわけですから、なんとも言えない違和感が…。
 しかし、不思議なものですね。演奏されている曲が超スタンダードばかりということもあってか、慣れてくるにつれ、その違和感はたしかに新鮮さに変わっていきます。異種格闘技戦の不自然な感じとは違って、そうですねえ、やはりこれに近い感じでしょうかねえ。新鮮ではありますが、残念ですが、快感にはなりませんでした。
 おそらくこの企画はマッコイ・タイナーの方からアプローチがあったのだと思います。グラッペリ翁と共演したがった演奏家は、本当にいろいろなジャンルに及んで無数にいたそうです。それはそうでしょうね。何人かの演奏家は、それぞれ超一流であったからこそ、その夢を叶えたわけですけれど、その中で本当にグラッペリと完璧な共演を実現できたのは、いったい誰でしょう。私が知る限り決してたくさんはいません(こちらも参照あれ)。次はその希有なアルバムを紹介できるといいですね。いちおう予定はありますので、お楽しみに。

Amazon One on One

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2005.11.26

ウルトラマンマックス第22話 『胡蝶の夢』

jhhm_11 今日はこれを語らないわけにはいかないでしょう。しかし、いざ語るとなると、なぜか緊張する…。
 実相寺昭雄。私が最も影響を受けたクリエーターの一人でしょう。すでに退官されましたが、東京芸術大学の教授という肩書きを持っていた方です。しかし、この方ほど、その肩書きが無意味に響く人物はいませんね。普通だったら、しっかりブランドであり、称号であり、名誉であるはずですが。何気なくそれを身に着けていた彼もすごいですが、彼にそれを着せた日本芸術界も捨てたもんじゃない。
 今日のウルトラマンマックスは、その実相寺昭雄さんの監督でした。彼が創るものは、それが子ども番組であろうと、オペラ作品であろうと、CMであろうと、あるいはAVであろうと、いわゆる実相寺ワールドになってしまう。その技法がたとえ毎回同じものをベースにしていようと、やはり全てが実相寺色になるというのはすごいことです。究極のワンパターンなのかもしれませんが、それを一生続けることこそ、「芸」であり「術」であると思います。迷いがない。いや迷っていた、あるいは迷っているのかもしれませんが、その迷いをも新しい表現にしてしまう、強固な個性というものが彼には備わっているのです。
 今日の作品は、荘子の「胡蝶の夢」をモチーフにした脚本を演出したものでした。夢の世界は実相寺さんの得意とする分野。何が現で何が夢なのか…そうした、芸術家ならば必ずぶつかる問題を、まさに制作現場を舞台に上手に料理していました。押井守さんと似た感性と方法論ですね。
 作品としては、結局なんだか解らない。子どももポカ〜ンとしていましたが、それこそが彼の狙いであり、彼自身の創作活動の幹となっているものそのものです。土曜日の早朝、子どもも親も一つの現実から逃避する、そのスタートとなる時間帯。そこに現代の「おおまがとき」を現出させるわけです。私の家族など、すっかりその毒気に当てられて、いろいろあったイベントを全てキャンセルして、一日中寝てました(笑)。完全に実相寺監督の術中にはまりました。
 マックスは原点回帰を標榜して、ここまで快走を続けています。今回も、金城哲夫や高山良策、冬木透、さらには石橋蓮司など、我々父親世代には懐かしくも恋しい方々がちりばめられておりました。しかし、ただ、昔を懐かしんだり、過去の栄光に依存したりするだけでなく、若いクリエーターたちもそれに負けじと奮闘している姿が目に浮かびます。過去の遺産とこうしてがっぷり四つで闘う。そして、その遺産を創った人たちも実際そこに参加して、文化や精神を継承する。これはある意味理想的な現場の姿であると思います。
 あと、やはり実相寺監督のちょっとしたいたずら心が良かった。ドリフあり、「ウルトラマンがチョコの中♪」あり。まさに「古今東西硬軟聖俗なんでもござれ!」であります。うん、やっぱり好きだなあ実相寺昭雄先生!
 (ちなみに私のベスト実相寺は「アリエッタ」です。これはちょっとここではおススメできませんなあ…脚本も演出も役者さんも音楽も絶品なんですが)

祝!ウルトラマンマックス出演
ウルトラマンマックス第15話 『第三番惑星の奇跡』

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2005.11.25

『不道徳教育講座』 三島由紀夫 (角川文庫)

4041212073 今日は三島の命日ですか。先日テレビで思いがけず三島由紀夫神社の存在を知りました。神様になられてもう35年ですか。おそらく私にとっての最古のニュースの記憶は三島自害です。あまりに時代が変わりましたね。もし三島が生きていたら今の世をどのように憂うのでしょうか…って今日はいろいろなところで言われてるんだろうなあ。
 さあ、今日は命日ですから、パーッと行きましょう。私にとっての三島は…正直言いますよ、命日ですから…「文章読本」と「不道徳教育講座」だけです(キッパリ)。小説もいくつか読んでいるはずですが、なぜか記憶にあんまり残っていないのですよ。困ったものです。若い時に読んでも実は解らなかったんじゃないでしょうか。
 まあ三島なんて「ミシマ」あるいは「Mishima」って感じで、一つのブランドみたいなもんですからね。少なくとも私にとっては若い時のファッションの一つでした。ただ、文はたしかに美しかった。それだけは覚えています。ああ、意味は解らないけれど美しい。音楽や絵画にのめりこんでいた時期ですし、そういう感覚で彼の作品に接していたのは、ある意味間違いではないかもしれません。なんか、妙に「文章読本」を読み返したくなった…。
 すみません、ホントに文学が苦手なもんで。一流の作家は一流のエッセイを書くことができる、みたいなことを言ったのは三島でしたっけ。彼がそう言ったとすれば、私にとっての三島がエッセイ作品であってもいいのでしょうか。
 それで、この「不道徳教育講座」ですね。これはよく覚えていますよ。内容はやはり忘れていますが、読んでる時の気持ちのようなものはよ〜く覚えています。高校生の私にとって、この本と寺山修司の「家出のすすめ」は逆説的な教科書でした。世を拗ねる勇気のなかった私は、せいぜいこうした教科書を読んで、妄想の中でワルぶっていたのです(基本的に今でもそうかも…)。
 「知らない男とでも酒場へ行くべし・教師を内心バカにすべし・大いにウソをつくべし・人に迷惑をかけて死ぬべし・泥棒の効用について・処女は道徳的か?・処女・非処女を問題にすべからず・童貞は一刻も早く捨てよ・女から金を搾取すべし・うんとお節介を焼くべし・醜聞を利用すべし・友人を裏切るべし・弱い者をいぢめるべし・できるだけ己惚れよ・流行に従うべし…」
 読んだ当時、正直私はどこかでこう思い込んでいました。「これは逆説的な教訓話である」と。もちろん寺山の方もそうです。大人とはそういう存在であると思っていました。文学者ならではの言い方というものがあって、それはものすごくかっこいいものであると。三島は、自身この本の中で語っている「体裁を捨てて人生にぶつかることができるけた外れの正直者でないとつけない嘘」をついているのだと。
 しかし、本当に最近気づいたのですが、これは嘘ではないのではないか、ユーモアとかパラドックスとか、そういう演出ではないのではないか、実はものすごく正直な言葉だったのではないか。
 冷静に考えてみれば、たしかに三島は自らの言葉を忠実に実行しています。究極的には「人に迷惑をかけて死」んだわけですし。美文で着飾った小説家ではなく、この一見軽めのスケベおやじこそが三島自身だったのではないでしょうか。そう考えると、この作品は違った輝きを放ち始めますね。
 生首になった三島を見て死ぬことの恐ろしさを知った少年の記憶には、彼の体は存在しませんでした。ものごころついて、彼がその失うことになる体を異常なまでに鍛え上げていたことを知った青年は、着飾った彼の文学を神格化しました。そして今、彼の没年齢に近づいた私は、ようやく彼の素顔に接することができるようになったのかもしれません。
 なんか、パーッと行くつもりが、いつのまにか神妙になってしまった。いかんいかん。妄想だ。ホントのところどうなのか、美輪明宏様に訊いてもらいたいですねえ。あっそうそう、寺山にも。

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2005.11.24

シンポジウム『萌えてはいけない。』

20yy1 非常に興味深いシンポジウムが昨日行なわれました。今、私が興味を持っている「萌え」や「オタク文化」についての、まじめな?議論が繰り広げられたようです。
 それにしても、パネラーがすごすぎる。どっかで見たことのあるメンバーですな。いしかわじゅん、大月隆寛、岡田斗司夫、夏目房之介、笹峯あい、杉山知之、富野由悠季。特にスペシャルゲスト富野氏の登場には、会場も大興奮したようです。そりゃそうだ。オタク文化の象徴、ガンダムの生みの親ですからね(ちなみに私はガンダムを観たことがない…)。
 もうこのメンバーを見ただけで、私は萌えちゃうんですよ。そして彼らに「萌えてはいけない」なんて言われたら、もう余計に萌えちゃいますよね。カリスマシェフの料理を前に「食べてはいけない」って言われるようなもんだ。いや、物理的に食べないことは可能でも、心理的に萌えないのは難しい。かなりの修行を要します。
 で、私はガンダムすら知らないわけで、仕方なく非オタクを自認しているのですが、考えてみると、こうして萌えてはいる。つまりオタク萌えなわけで、オタクヲタとも言えるのでは。直接的な対象よりは、その属性や手段に萌えるという意味では、真性のオタクとも言えますな。
 で、今回のシンポジウムの内容は、下記のリンクから確認してください。ここでは、いつものごとく局所的な感想と持論を展開させていただきます。
 まず、私の萌えのツボにはまったのは、「うる星やつら」は萌えではないというアンケート結果。萌えではないということに萌える私も変ですが、私もこの結果には全く同意します。この前書いたように、アニメうる星は男の手によって作られた「もののあはれ」の物語ですので、萌え(=をかし)ではない。いろいろな意味で萌え(オタク文化)の萌芽(お〜、字の如しですなあ)にはなりましたが、萌え自身ではまだない。そのきわどさ、マージナルな部分、ある意味両性具有的なところが、あの作品の魅力だと思います。富野さんも語ってますが、この作品をいまだに誰も超えられない。
 次の萌えのポイントは、例のNRI(野村総研)のオタクレポート関連です。勇んで登場し、自信満々で発表した(と思われる)NRIスタッフに対して、いしかわ氏が「こんなのこの会場にいるやつなら、誰だってわかってるよな? もっと面白いことを聞きたかったよ」と一喝したと。これは萌えますねえ。私も書きましたが、ちょっと部外者が調子に乗って、コアな世界を語りすぎた。これは失笑と反発を買います。内心「ざまあみろ」であり、内心「オレもやばいな」でありまして、ああなるほど、萌えとは共感をベースにした感情なんですな。瞬間の思い入れでしょうか。やっぱり「をかし」だな。
 続きましては、富野氏の「多数の人間が関わって制作しているアニメにおいて、自分のセンスだけで方向付けするな、××!!」という爆弾発言ですね。これにも萌え(共感し)ました。××が誰かは知りませんが、私がここで書いた「オーケストラの指揮者」発言と同じ意味の爆弾でしょう。
 くりかえしになりますが、こうして書いてますと、自分にとっての「萌え」の本質が見えてきますね。「共感」…それも、刹那的な局所的な共感。本質に対する理解や実感というよりは、属性や手段や感情に対する共感。居心地の良さというか、座り心地の良さというか、しっくり来て、結局自分の居場所があるというような。つまり、共通感情に支えられた自分の存在。少々特殊であっても、ある種の社会性に身をゆだねられる自分への安心…。オタクは決して孤独ではない。いや、孤独だからこそ強まる共感の絆なのでしょうか。
 そう考えると、つい最近も養老さんにインスパイアされて書きましたが、やはり無常観をベースにした「もののあはれ」とは違いますね。「もののあはれ」からの逃避の手段なのかもしれません。生身の人間の生と向き合うのではなく、変化しないヴァーチャルな「こと」に向かう。オタクの常套手段「分析」というのはどんどん微分していくってことなんです。微分していくと、限りなく恒常に近づける。デジタル化はそれを助長しました。「萌えてはいけない。」…なるほど深い言葉ですな。
 いずれにせよ、「萌え」を単に美少女系キャラに向かう特殊な感情としてとらえるのではなく、日本の歴史や伝統に照らし合わせて考えるべきだと思いますよ。いずれ本でも出そうかな。だめだめ、調子に乗ると失笑と怒りを買うよ。

「萌えてはいけない。」報告前編
「萌えてはいけない。」報告後編

私的オタク論・萌え論はこちらにチョロチョロと

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2005.11.23

『続弾!問題な日本語』 北原保雄 (大修館書店)  

4469221724 さて、昨日の続弾です。
 『続弾!問題な日本語』も読んでみました。面白いもので、問題になる日本語のほとんどはクッションなんですよね。これは日本語古来の特徴であって、ある意味今さら問題化するべきことでもない。
 「〜円からお預かりします」にせよ「〜のほう」にせよ「〜のかたちで」にせよ「ワタシ的には」にせよ、つまりは直接的な表現を嫌うという日本人の心性に基づいている現象ということです。ちなみに私は敬語も婉曲法の一つと考えています。
 最近では、国際化の波に流されて、日本人はもっとはっきりものを言えとか、主語をはっきり示して責任の所在を明らかにしろとか、いろいろと言われていますが、もともと、日本人は他者との対立を避けたい、自分が我慢してでも相手を立てたい、というような気持ちが強いわけでして、それ自体は決して悪いことではないと思います。なんでもはっきり言うために、いらん対立の火種をまきちらす某国のようになる必要はありません。国際化の時代だからこそ、日本的コミュニケーションを広めるべきですよ…と言いたいところですが、そんなこともなんとなく言いにくい世の中になってしまいましたな。
 まあ、古文なんて読んでると、まったく問題な日本語だらけですよ。朧化、婉曲、比喩、示唆、象徴…。全然はっきりしてない。そこがいいわけでしょう。それを勉強しているわけですよね、学校で。問題な日本語から空気を読むリテラシーというのも大切です。
 ちなみに、このブログでも問題な日本語が多用されています。それは、不特定多数の読者の方々と軋轢が生じないようにしているためです。きついことを言う時も、オブラートでくるんでノシをつけています。これはワタシ的には守りでもありますが、攻めでもあるのです。多くの人に受け入れてもらうためのストラテジーの一つです。
 さてさて、昨日も書いたように、このシリーズにおける北原先生とそのお仲間の皆さんのスタンスには好感を持てます。上述した日本人の心性をよく理解していらっしゃいますし、問題な日本語に対する先生方の愛情すら感じます。愛があるからこそ、苦言も呈しますし、誤解を生む可能性も指摘します。くりかえしになりますが、ただただ若者の言葉を「乱れている」と評する年寄りじみた本とは一線を画しています。
 ただ、どうでしょう、まじめに分析しすぎているために、ちょっと文法的な内容が多くなっているような気がします。また、文豪も使っていたから…のような論調はあまり適切ではないと感じました。
 あっ、あと、下欄にある別コーナーは違うページにまとめた方が良かったかも。ちょっと集中できない。挿入されているマンガの方はとっても面白くてグーでしたね。最近の本はいろいろと工夫されてますね。こういう「本」の変化も、全く問題ないどころか、どんどん進めるべきだと思います。読んでもらうための守りであり攻めであります。

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2005.11.22

『問題な日本語』 北原保雄 (大修館書店)  

4469221686 いちおう、私も国語学を専攻して、今国語の先生をやっているわけですし、こうして毎日日本語で文章を書いたりしているので、かなり言葉には敏感な方だと自負しています。
 ふだんはこの類の本は買わないんですけどね。安易な日本語ブームには眉をひそめてきたのです。特に、少し古い日本語と比較して今の日本語は乱れているというタイプの本には、本当にうんざりしてきました。言葉の本質を無視した暴論だと感じてきました。たった1000年前の平安時代の日本語と今の日本語が、これほどまでに違っているということすら無視した、それこそ問題な日本語観です。
 しかしこの本はちょっと違いました。さすがは北原先生と、辞書を作るスタッフのみなさんです。言葉は変化するもの、そしてその理由も意味もちゃんとあるということをよく知っておられる。問題な日本語たちも、将来普通になる可能性があることを述べているわけです。当然です。文化とは、言葉とはそういうものです。
 さてさて、ここでこのブログの日本語についてちょっとことわっておきましょう。これは北原先生に言わせれば、とりあえずは問題なヤツに分類されるでしょうね。それを承知であえてこの文体…私は「講演起こし体」と呼んでいるんですが…で書かせていただきます。この文体こそブログというメディアに最も適した文体だと思うのです。
 私はTPOに適ったものこそが正しい日本語だと考えています。決して絶対的な正しい日本語があるわけではない。例えば、方言では日常的に敬語が存在しないこともよくありますし、2ちゃんねるでいわゆる正しい日本語で書き込むと大変なことになる。常に「乱れていない」日本語を使い続けることが、どれほど危険なことかは、少し考えればわかりますよね。つまり「空気を読む」というやつです。空気を読んだ上でその空気に適した日本語を使う。これが、正しい日本語以前の正しい人の道です(?)。
 私は田舎の若者と日々接する仕事をしていたり、2ちゃんの住人でもあったりするからでしょうか、問題な日本語たちにそれほど「違和感を感じません」。それどころか、彼らによってどれほど日本語の世界が広がったことか。人間と同じで「問題な」ヤツらを排除したり、矯正したりするだけでは、なんの解決にもならないということです。
 明日「続弾!問題な日本語」もおススメします。そこで続きを書かせていただきます。では。

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2005.11.21

うる星やつら 第112話 『ラムとあたる・二人だけの夜』〜なぜか源氏物語論?

hh41 土曜日に録画したものを観ました。なかなかの名作ですなあ。
 ストーリーも秀逸ですが、押井組の暴走ぶりがとにかく楽しい。スターウォーズのパロディも全開。かなりメチャクチャなことになっています。
 で、そのストーリーと暴走ぶりの出所を確認するために、原作にあたってみました。う〜ん、なるほど。ストーリーはほとんどそのまま高橋留美子さんのオリジナルなんですな。そして、暴走部分はほとんど全てアニメスタッフのオリジナル。なるほどねえ。
 で、ちょっと気がついたんですが、その暴走シーン、冒頭のあたるの母の福引きシーン以外は、男の心理描写なんです。やはり男が作ると男の描写が詳細になる。あるいはデフォルメされる。一方、原作はやはり女流作家によるものらしく、女性の心理描写に長けているように思います。女のドロドロは女でなければ描けません。
 男のドロドロはやはり男じゃなきゃ分かりませんよ。女のドロドロはだいたい他の女に向かうので分かりやすいんですけれど、男のドロドロは自己に沈潜しますからね。表面的には分かりにくい。結局表現するなら「暴走」、それも誰に当たるわけでもなく、自己完結する暴走。「メガネ」なんかいい例ですよね。原作では全く存在感のない男が、アニメでは暴走主として輝く。
 そういう意味では、源氏物語はやはり女流の作品です。男の心理描写は実は甘い。なんか現実的ではない。自己暴走していません。そこが、私なんかには物足りないんです。「もののあはれ」を鋭く感じ取る点においては、紫式部は非常に男性的だと思います。枕草子の清少納言の方が女おんなしてます。彼女は「をかし」…刹那的なんです。一般の意見とは違うかもしれませんが、私は常にそう思っていました。そう、それで紫式部は男性的なんですが、しかし男自身ではない。そこがちょっとつまらないんです。やっぱり源氏は女の読み物だったのでしょう。光源氏が「さよならの季節」のめがねみたいに自己暴走したら…ひくか。
 さて、うる星に戻りますと、アニメの方は、男性の手にかかることによって、より男の虚しさが際立ったと思われます。今回の作品でも、あたるは意外に思慮深い。先の先まで考えています。刹那的な男の代表みたいに見えつつ、実はいろいろと計算しているのです。原作ではそこまで描かれていません。また、ラムの目を見てドキリとするシーンや、いざラムと寝るという時の情けなさ、これは男にしかわからない微妙な心理ですね。
 話があっちこっち行って申し訳ありません。また、源氏の話。源氏のパロディはいろいろとありますが、江戸のおたく精神が産んだ傑作、柳亭種彦の「偽紫田舎源氏」なんかをちらっと読むと、その男性心理の描写のリアルさに感心します、というか笑えます。
 そう言えば、源氏とうる星って似てるんですよね。なんだか知らないけれど、一人の男に美女がたかる。そこから始まる物語。こういうのって、ギャルゲーなんかにもよくあるようです。たぶん。つまり、しっかり日本の文化は受け継がれているわけです。いろいろな時代のいろいろなおたく達によって。それも結構女流が多いんだよなあ。こんなこと考えてるのって、ワタクシだけでしょうか?

他のうる星ネタはこちらから

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2005.11.20

ナクソス・ミュージック・ライブラリー

Naxos Music Library
bux ついに来ました!iTMS以上の衝撃ですね。ものすごい世の中になりました。正直このサービスはうれしい。
 御存知の方も多いとは思いますが、NMLはナクソスを始めとして20以上のレーベルのほとんど全ての音源10000タイトル以上を、月額1890円で無制限に聴くことができるというものです。音質もほぼCDレベルです。
 ナクソスと言えば、無名の演奏家や作曲家にも目を向け、優れた楽曲の優れた演奏を低価格で提供する、非常に良心的な会社でしたが、このような形態の音楽提供もまさに市民の味方、理想的なサービスであると思います。
 また、個人的には、NAXOSはもちろん、BISやGimellなど、古楽系、オリジナル楽器系に強いレーベルが揃っているというのも魅力的です。iTMSはクラシックのライブラリー、特にそちら系はあまり充実していないのが実情でした。こちらはリストを見るだけでも、聴きたい演奏が目白押し。半年後には、シャンドス(CAHNDOS)、ハイペリオン(hyperion)、ハルモニア・ムンディ(harmonia mundi)なんかも加わるらしい。ちょっと興奮してしまいます。
 ジャズの方も興味深いですね。以前紹介したマイク・ノックもプロデュースしてましたね。彼の作品も聴けます。そう言えば、マイク・ノックの奥さんも日本人ですが、ナクソスの創立者の奥さんも日本人だったような。
 音源だけでなく、資料なども参照できるということですし、ナクソス自体、全集もたくさん手がけていますから、まさにライブラリーの名に恥じない内容ですね。ダウンロードサービスと違って、整理の必要もありませんし、とにかく安上がりです。本当に公的な図書館のような感じですね。すごい。
 海外ではだいぶ前にオープンしていましたので、そちらに入会しようかなあ、と思っていた矢先のことでした。予想よりも早く日本上陸でしたね。でもですねえ、実は私はまだ入会しないんですよ。というのは、なぜかMacOSX10.4には対応していないんです…ガックリ。10.3やOS9なら聴けるのに。また、ウチは来年の春すぎまでブロードバンドが来る予定がないような山の中なので、とりあえずそれまで保留です。
 今のところ、15分間は完全に無料で聴けますので、いろいろと試してみたいと思います。ん?よく考えてみると、15分もあれば、1トラックくらい充分聴けるなあ、古楽やジャズなら。それでセコセコ聴いていくか。そうすればタダだもんな。ダウンロードは無理だけれど、録音は可能だし。な〜んて、またセコいこと考えてるぞ。1890円でも充分安いって。

ナクソス・ミュージック・ライブラリー

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2005.11.19

『絶対少年』〜輪郭線とは?

zt1 6月におススメしたNHKBS2のアニメ「絶対少年」が終わりました。途中ほとんど観ていなかったので、ストーリーは全くわからなくなってしまいました。第一部の田菜編はなんとなく分かるのですが、第二部横浜編になるともうさっぱり。田舎と都会、過去と未来のコントラストはぼんやり分かるのですが…。
 しかし、ストーリーは別として、その画風にはついつい引き込まれて見入ってしまっていました。私はアニメには全く暗い人間ですので、詳しいことはわかりませんが、テレビアニメにしては、絵がとてもていねいに描かれており、そしていろいろな意味で落ち着いていたように感じました。それについては以前書いた通りです。
 さて、実はここ数ヶ月、生徒と美術のお勉強をしておりまして、特に絵画における「輪郭線」の意味について考えることが多くありました。取り上げたのはミュシャと仏教美術の一つ「頂相」でしたが、実は私はその二つに加えて、この「絶対少年」も同じような視点で観ていたのでした。この三者、驚くほど受ける印象が似ているのです。単に色の彩度が低いということもありますが、それ以上に「輪郭線」を考える上で…。
 非常に簡略に申しますと、東洋美術は輪郭線こそがほとんど唯一の描法であったのに対し、西洋美術は輪郭線を消し去ることに執念を燃やして来たとも言えます。つまり、現実には輪郭線は存在しないわけですから、それは結局、記号性と写実性の対比であるわけです。そういう意味で、「line」の語源が「linguistic」の語源と同根だというのは面白い事実ですね。「輪郭線」も「言語」も、世界から認識を切り取る手段、つまり記号化の手段だったわけです。
 仏教美術の「頂相」はもちろん線によるドローイングで描かれています。ミュシャは西洋の画家ですが、輪郭線と平面的な彩色による象徴性の高い商業ポスターなどをたくさん製作しました。ジャポニスムの影響が大でしょう。そして、日本のアニメ。例えばこの「絶対少年」は、東西両方の技法を実に上手に織り交ぜていることに気づきます。
31 例えば、上のキャプチャー画像を見ていただくと分かるかと思いますが、人物は輪郭線に平面的な彩色、背景の景色は陰影の豊富なペインティングによって描かれています。つまり写実の上に記号を動かしているわけです。重要な情報を記号化して浮き出させている。そして、輪郭線が太くなればなるほど、その象徴性、記号性は増し、写実からはどんどん離れていきます。右の画像はオープニングのものですが、「絶対少年」では、オープニングと次回予告では、本編とは違い、太い輪郭線が用いられています。
 アニメのルーツの一つであるマンガを考えてみると、これはもちろん線描による世界です。基本的にモノクロですし、非常に記号性が強まっている。だから文字という記号とも親和性が高い。完全に東洋的、日本的な世界ですね。アニメはそこに、動きと色彩、そして音声という情報が加わった結果、上記のような技法を必要とするに至ったのでしょう。多量の情報の中で、キャラクターを引き立たせるために。
 ま、なんだか難しそうなことを述べてきましたが、とにかく「絶対少年」では、そんな東西の文化のコントラストを感じることができました。いまやアニメは日本を代表する文化ですからね。たしかに東西を絶妙にブレンドした世界です。自分の文化に加え、外来のものを受容し、それを上手に自分たちの血肉にしてしまう。一見矛盾するものを、さらなる高次元のものへと止揚してしまう。たしかに日本文化ですなあ。最強です。

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2005.11.18

四国限定 ベビースター讃岐うどん(おやつカンパニー)

slomm 今日は軽めにいきましょう。軽めの代表としてご登場願うのは申し訳ないのですが、再びベビースターさんです。ちょっと前の「ラーメン丸」さんに続いては、「四国限定ベビースター讃岐うどん」。カミさんが知り合いからお土産としていただいてきました。
 いえ、決して軽くありませんよ。ただ、シンプルなのです。こだわるから結局シンプルになる、といういい例ではないでしょうか。パロディもこだわると、結局シンプルになるんです。
 つまり、「そのまんまじゃん」というやつ。うる星やつらのこれなんかもそうですね。あっ、そうそうおやつカンパニーさんなら、こちらは徹底しすぎた?例。おっと、文学分野も忘れてはいけない。
 で、この讃岐うどんも面白い。味をまねるのはそれなりに可能でしょう。他のご当地ベビースターも上手に現物の味を踏襲しつつ、しっかりスナックの味に仕上げています(これとかこれなど)。しかし、この讃岐うどんはそれだけで終わらなかった。
 な、なんと、すだち果汁をかけて食べるのです。乾燥したスナックに液体をふりかけて食べるというのは、ある意味邪道になりかねません。スナックは湿気る(ふやける)と食味が下がる。それが常識です。
 たしかに、昔からベビースターのチキンを牛乳に浸してというか、ベビースターに牛乳を注いで食べるという技はありました。これは、まあシリアルに牛乳の応用編みたいなもので、手で食べるわけじゃないし、それほど忌むべき行為ではない。また、ご当地ベビースターの中にはソースにつけて食べるものもある。また、唐辛子などのパウダーで味を調整するものは、ベビースターに限らずごく一般的です。
 しかし、こいつは違うのです。完全なる液体のすだち果汁を、袋の中にピッピッとかけて(けっこうな量です)、袋を振って麺に絡ませるのです。いったい、どんな食味になるのか。
 これがですねえ、意外にも良かったんですよ。もともと麺自体も比較的さっぱりしているんですけれど、そこに天然のすだち果汁のさわやかな酸味が絡むと、なんとも言えない味わいが醸し出されるのです。食感や手触りも不思議とさっぱりしていて、決してべたついたりしません。これは本当に意外でした。
 こんな具合に、パロディも徹底すると、もはやパロディではなくて、究極のニセモノ…偽物ではなく、似せ物になるんです。シンプルに、やられたあ、となるわけです。ホントうまいなあ、おやつカンパニーさん。
 ここのところ、四国に行きたい願望が高まってきました。いまだ唯一踏破していない日本ですし。なんとか近いうちに、本物の讃岐うどんと似せ物の讃岐うどんをご当地で味わってみたいものです(おっと、そう言えば、地元のご当地ベビースター「ドデカイほうとう味」食べてないや…)。


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2005.11.17

養老孟司さん講演会〜なぜか私的オタク論

images577 今日は当地で養老孟司さんの講演会が催されました。なかなかこういう機会はないでしょうから、ちょっと無理をお願いして、授業中に生徒たちを引き連れて行ってまいりました。生徒たちもかなり刺激を受けたようです。
 うん、養老節全開で、なかなか有用なお話を聴くことができましたね。いろいろな御著書を読んでいます(ここでもこちらこちらを紹介しています)が、それらとあまりトピックが重ならず、新鮮な内容であったのが意外と言えば意外でしたね。あまり「脳」原理主義を強調していなかったのが良かった。
 面白かったのは、「個性」のお話。
 …近ごろ、自分の個性を見つけるのに躍起になっている姿(特に若者)をよく目にするが、それは根本的におかしい。個性とは、他者の判断であって、没個性なんていう現象は、つまり他者(特に年長者)の「人を見る眼」が衰えたに過ぎない。独創的で個性的なんていうのは、単にローカルなだけである。そういう意味で、例えばアインシュタインは、独創的で個性的な発想をしたのではなく、その逆、ものすごく普遍的な発想をしたのだ…
 記憶をたどってつなぎあわせると、こんな感じだったでしょうか。なるほどな、と思いました。養老さんお得意の視座の移動です。これが私たち常識人(?)の脳にはさわやかな刺激になる。脳の凝りがほぐれるんですな。
 ローカルとグローバル(あるいはユニバーサル)との違いとは、「脳」を違う切り口からほぐす茂木健一郎さん的に言うと、「生活知」と「世界知」との違いということですかね。もっと押し進めると、仏陀の「方便(いかに生きるべきか)」と「智恵(真理を悟ること)」に重なるような気もしました。つまり両方必要なわけです。
 その他にもたいへん興味深い視座の移動がありました。やっぱり頭がいいというのは、養老さんのように脳が硬化していない人のことを言うんですね。必要以上に他者の見る眼に縛られていない脳。違う言い方をすれば、世間に染まりきっていない脳。
 最後に蛇足をあえて描きます。今日の講演にインスパイアされて生まれた戯言ですので、お読みにならなくても結構です。
 以前から、養老さんの言う「脳化」「都市化」が、私の言う「こと化」であると考えていました。変化しないもの、分かるものへの指向。今日のお話でも、戦後日本の若者が、突拍子もない変化ばかりする大人を信用できず、結局変化しない「機械」を作る方に走った、それが高度経済成長だ、という内容がありました(養老さんは変化しない死体に向かったそうですが)。ワタクシ的に言いますと、それは「もの」を作ったのではない。「こと(もどき)」なんですね。変化しないのは「こと」なんです。「もの」は実は変化する。無常なのです。
 だから現代の物質文明は「物質」とは言えど、それは「もの」文明ではなく、時間を微分することによって疑似的に不変なもの、すなわち「こと(もどき)」を作り出していく、どちらかというと「こと」文明なのです。それでも変化を感知してしまったら、廃棄して次の疑似的な不変を生産していく、経済と科学の進展が招いたその場しのぎの文明であるのです。
 しかし、これは日本では古来行われてきた無常からの逃避方法でした。何度も書いているように、「無常(もの)」を直視するのが「あはれ」、刹那的に凝視して(時間を微分して)変化をないものとしてしまう(こと化する)のが「をかし」であったのです。現代のオタク文化はまさにこの「をかし」の系譜上にあります。フィギュア的フェティシズムとでも言いましょうか。彼ら(私も含まれるかも?)には、萌えの対象は疑似的に不変なのです。では、本当に不変なものとは…それは真理です。本当の「こと」。「まこと」であり「みこと」であったわけです。以上。

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2005.11.16

あっばれ鈴木健想(再び)〜vivaプロレス

jccd_11 先日のハッスルマニア、観てもいないのに大興奮。その日に書いた『あっぱれ和泉元彌&鈴木健想!』という記事は、日本文化論にまで発展して、なぜか人気記事になってしまいました。
 そして今日、ようやく映像でこの試合を観ることができました。GyaOのおかげです(でも、ナローバンドでMacのウチでは観られません…出先で観ました)。いやあ、面白かったですねえ。メインハッスルも大変よい出来でしたが、私としては、やはり和泉元彌vs鈴木健想における鈴木健想に感動いたしましたねえ。和泉元彌は本当に対戦相手に恵まれた。あの試合は間違いなく鈴木選手が作った試合でした。
 鈴木選手(+浩子夫人)のプロ根性と安定した「芸」と「術」にはすっかり参りました。ある意味プロ、ある意味シロウトの和泉元彌(+セッチー鬼瓦軍団)を見事に引き立て、ほぼ完璧なドラマを創出することに成功していました。だてにニューヨークでトップの一角を張ったのではない。彼のこの言葉は大変重いと思いました。
 「WWEでほうきとでも試合ができることを学んだ。それを表現できたと思う」
 相手のいいところを全て出させる、いや、発掘さえする、まさにプロレス的アンサンブルの至芸です。ニューヨークに渡る前の鈴木選手には、正直なんの魅力も感じていなかった私ですが、今回のこの世紀の対決(茶番とも言われますが大いに結構だと思います。本来の茶番狂言は大変な芸なのです)で、すっかり彼を見直してしまいました。さすが世界を股にかけるだけのことはある。
 和泉元彌もよくやったと思います。やられっぷりというのはプロレスの大切な要素ですが、彼のそれも実に見事なものでした。まさに茶番狂言のごとく、体の動きだけで、大観衆の心を動かしていましたね。
 そういう意味では、メインハッスルのHGにもプロ根性を見せつけられました。彼の裏の努力がにじみ出た好演でした。
 プロレスの素人がリングに立つことに抵抗のあるファンもいたはずです。あるいは、プロレスの世界を知らない人たちには、さらにプロレスが(慣用的な意味での)茶番にしか見えなくなったかもしれません。しかし、実際には、今回の興行こそが、プロレスの奥深さ、幅広さを雄弁に語ってくれたのだと信じます。分野は違えどプロはプロ。プロ中のプロ同士がお互いの「芸」と「術」を披露しあえるのが、プロレスのリングなのです。戦いという形態をとった調和。完全なる逆説。もう、これは美しいとしか言えません。
 世界の全ての戦いがこのような逆説であることを、心から望みます。

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2005.11.15

黒猫クリアホルダー バックグラウンドフォトシリーズ(エトランジェ・ディ・コスタリカ)

etranger di costarica A4 CLEAR HOLDER SERIES BACK-GROUND-PHOTO
bnoo21 ウチは黒猫グッズで埋め尽くされております。本物の黒猫も2匹いますが、グッズとしての黒猫まで含めると、いったい何匹…。
 で、最近生徒が買ってきてくれたのがこれ。予備校内のショップで売っていたということで、とりあえず1000円渡して買えるだけ買ってきてくれ、と頼みました。
 これはいいですねえ。素晴らしい。ウチの大和守弥右衛門が怒った時の顔にそっくりです。猫好きにはたまらん瞬間ですね。可愛すぎる。
 この素晴らしいセンスの商品を売ってるのは、いったいどんな会社だ?ということで、調べてみましたところ、エトランジェ・ディ・コスタリカという謎の会社さんでした。
 謎…というのは、まずは社名。etrangerはフランス語ですかね。diはイタリア語?そしてcostaricaはCosta Ricaですか?無理やり訳せばコスタリカの外国人…。あれ?コスタリカってスペイン語しゃべってるんじゃなかったっけ。う〜んうまいネーミングです。わけわからなさが、いかにもエキゾチック。で、結局日本の会社。もう、この時点でセンスよし。
 ホームページを見てみると、さらに謎が深まります。輸入雑貨屋さんなのかなと思うと、基本的には自社(関連会社)デザイン開発の商品を売っているようです。そこにヨーロッパのグッドデザインな商品を加えてラインナップしている。なかなかユニークです。全体に、謎めいて無国籍外国風でありたい、との意志が感じられますな。
 カタログがpdfでダウンロードできるので、それぞれ見てみると、どれもかなり個性的なデザインでして、眺めていても全然飽きません。たしかに全体として、アバンギャルドなような、トラディショナルなような、ドメスティックなような、インターナショナルなような…とにかく社名同様にボーダーレスというか、ハイブリッドというか、とても不思議な感じがしますね。没アイデンティティーのようで、実に個性的。うまい展開ですね。
 私のような田舎者は、この会社の存在を全く知りませんでしたが、東京などでは結構有名なようです。三越を中心として、おしゃれデパートに直営店をいくつか持っているようですし。オンラインショップもオープンし、近くアウトレットショップもできるようですので、少し集めてみようかな。ウチも思いっきり無国籍風ですので。ものも人間も猫も。とりあえずは、2006年用のカレンダーかダイアリーを…。

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2005.11.14

『国語教科書の思想』 石原千秋 (ちくま新書)

448006270X ようやく出ましたな、という感じです。今さら何とでも言えるよ、と言われそうですが、国語教育が道徳教育だなんて、小学生の時に分かってましたよ。というか、みんな薄々気づいていたでしょう。だから、そのこと自体は目新しいことではない。
 この前書いた、定番教材「走れメロス」についての記事にも、直接的な表現は避けながら、そういうことを含ませてあります。そして、そんなこと高校生くらいになれば、みんな客観的に観察できる、とも婉曲に書きました。朧げに書くのは私に勇気がないからです、ハイ…だって恐いんだもん。怒る人多いから。
 石原さんもかなり怒ってます。石原さんご専門のテクスト論から申しますと、この本のテクストは、テクスト自身が怒ってます(笑)。石原さん自身は私も大好きなんですが、石原さんから遊離したテクストは昔からあんまり好きじゃありません。「走れメロス」の記事で思いっきりテクスト論を否定してますね、私。勇気あるじゃん。
 まあ、そんなことはいいとして、ようやく出ましたな、です。つまり、私はこの本に満足です。テクスト論は別として、私がいろいろなところで言ってきたことを、もっとマジメに学識と権威をもって発言してくれているからです。
 去年の何かの研究発表でも私は、リテラシー教育の提案とともに、「今国語科で行なっている文学の鑑賞は、芸術教科内に科目文学を新設して行なうべきだ!音楽、美術などに加え芸術としての文学の授業を開講せよ!」などとたわけたことを言った記憶があります。笑いを誘うような言い方をしましたが、実は大まじめでした(勇気があるのかないのか…)。
 もちろん、石原さんの提案する文学科と、私の芸術教科内文学とは、似て非なるものであります。それは、テクスト論と作品論の違いというよりは、二元論とまあいいじゃないか論の違いですな。まあ、キリスト教と仏教の違い程度の誤差でしょう。
 石原さんは、これからのグローバル・スタンダードは「個性」だ「多様性」だと力説しながら、ご自分の説に固執する自己矛盾に陥ってるんですよ。でも、私はそういう作者石原先生の人間くさいところが好きなんです。言論人の、いや作家の苦悩ですね。
 というわけで、「テクスト論」論になるのは避けたかったのですが、結局そういう方向になってしまいました。だって、石原さんが望むように、この本もテクスト論的に読むならば、私のように石原さんってカワイイとか思っちゃいけないわけで、それはやはり多様な読みの可能性を摘む…どころかこの本の本質すらつかめなくしてしまう、と思うから。
 結局世の中の「もの」はいろいろな縁によって変化しているわけでして、そこに最低限、作者とテクストと読者が存在する方がいろいろな変化を楽しめると思います。そこにどう先生が介在するかとなると、それはもうそれこそ個人の趣味、個性、多様性の次元になってしまいます。国語教育ってものすごい広さと深さを持っていますよ。こうすべきだ、と言えない教科があってもいいと思います。私は恩師大村はま先生にそれを教わりました。
 まっ、そんなわけで、私は存分この本も楽しませていただきました。だから満足です。

Amazon 国語教科書の思想

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2005.11.13

トップランナー 『矢野沙織』の悟りとは…

B000BKJG04 たまに観てはだいたい落ち込まされる番組。NHK教育のトップランナーです。昨日も書いたように、ハイビジョンチューナーがぶっこわれまして、久々に地上波を観ております。そして、これ。また落ち込んじゃった。
 矢野沙織さんについては、こちらでも紹介しました。まあ、天才少女…もう19歳、すっかり大人っぽくなってました…ですね。
 で、今日の番組で、どういうところが天才なのか、よ〜く解りましたよ。なるほどなあ。例えばこんな言葉。
 「クインシー・ジョーンズと共演したい」
 「キャノンボール・アダレイを超えたい」
 「グラミー賞を獲りたい」
 普通の19歳がこんなこと言ったら、バ〜カで終わりですよね。しかし、彼女は真剣に、いや純粋にそう思っている。そして、その夢…彼女にとっては単に欲望のようですけれど…に向かってひたすら行動する。
 上のとんでもない三つも、もしかしたら可能かもしれません。彼女には音楽家としての才能というのも充分認められますが、やはりそれ以上に、天才としての素質、すなわち「バカ」な部分も生まれ持っていると見ました。「バカ」とは馬鹿にした言葉ではないのは言うまでもありません。天才バカボンの「バカ」です(?)。
 世間の常識やら、大人の常識やらにとらわれることのない、希有な能力ですね。これは天才には必須のファクターです。だから、歴史上の天才は、「子ども」だったり、「非常識」だったりするわけです。まさにバカボンのパパ。
 「そんなの無理だよ」と思ったら、そこでもう終わっている。これはよく言われることでありますが、考えてみると、自分についてそう思うだけでなく、他人のそうした夢(欲望)に対して、「そんなの無理だよ」と余計なアドバイスをする常識的な大人がたくさんいますよね。自分のことをあきらめた瞬間から、他人にもあきらめをすすめる、とんでもなくいやなヤツになってしまう…。
 先生なんて職業をやっていると、そういうことが多くなると思います。それが仕事だと思っている人もいる。そういう先生も必要かと思いますよ。「あきらめろ」と言われてあきらめたら、まあそこまでの能力だったということになりますし。しかし、私はやっぱりそうはなりたくない。そのためには、いつまでも非常識なバカであり続ける必要があるのです。
 難しいですね。教師としても親としても。また、社会人としても。いや、それ以前に自分自身に対する「あきらめちゃえ」という甘い誘惑と闘うのが大変。
 今日は大月市にある浄土真宗のお寺でコンサートをしてきました。そのお寺の山門にこう書いてありました。
 「自慢は智恵の行き止まり」
 ここでいう自慢は、仏教用語としてとらえるならば、我慢と一緒。もちろんこの我慢は悪い意味です。「慢」は煩悩の代表格。自慢は自己に対する慢心。智恵は縁起の法を知ることですから、つまり、慢心すると、自分以外の全てに生かされていることを知り得ないということでしょう。
 自分の欲望のまま突っ走る矢野沙織さんは慢心しているのでしょうか。私は違うと思いました。逆だと思いました。非常に謙虚なのです。実際これまでの共演者に対する感謝の気持ち、また和製キャノンボールと呼ばれることに対しての違和感、そんなところに、彼女の智恵を見ました。もちろん、現状で満足しない、つまり常にあきらめないという意味でも、慢心していません。自分はまだまだだと。
 今日もまた、若い人に学んでしまいましたね。ありがたいことです。しかし、こんなありがたいことで落ち込んでる自分って…。

Amazon PARKER’S MOOD〜Live in New York

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2005.11.12

BSカラオケ塾

karaoke_logo BSデジタルチューナーがぶっこわれました。あれは適度に熱を持つので、その上を寝床にしていたウチの猫の太い方が、チューナーもろともテレビの上から落下してしまったのです。どうもアンテナへの給電が止まってしまったらしい。
 う〜ん、これはいたい。あの全体的な静けさを体験してしまうと、絶対に地上波には帰れません。しかたなく、久々にあのうるささを味わいました。でも、あんまり耳が痛いので、BSアナログにチャンネルを変えましたら、この番組が…。
 ある意味この番組もうるさいのかな、と思ったのですが、けっこう面白かったのと、非常に勉強になりましたので、ついつい最後まで観て(聴いて)しまいました。
 なんといっても、市川昭介先生ですなあ。静かでよろしい…いやいや、そうじゃなくて、先生の的確なカラオケ指導ですよ。なんか、とっても感心してしまいました。いちおう音楽を演奏する立場の私にとっては、なんか基本を思い出させてくれたというか。
 歌詞とメロディーとハーモニーとリズムの有機的な関係を見つけ出し、そこに演奏家(歌手)自らがどう関わるべきか…演奏(歌唱)の意味であり醍醐味であります。テクニックを教えるというより、そのことに気づかせてくれる指導なんですよね。う〜ん、市川先生が菩薩に見えてきた。
 ちなみに、カラオケ狂のカミさんですが、歌のことよりも、市川先生の指導内容が書道に通ずることに感動してました。なるほど。
 今日のゲストは野口五郎と都はるみだったんですけど、野口五郎なんかかなり緊張していたように見えましたし、実際観客にもまれながらの歌唱という悪条件にも恵まれ(?)、いつもよりかなり下手になっちゃってました。苦笑気味に歌い終えた五郎の表情がとってもレアでしたね。
 都はるみはいつも通りでしたね。彼女だけではありませんが、演歌って最後に音程をずり上げますよね。素人が真似すると最悪になるところです。今日の生徒さんもさすがにやってませんでした。わざと音程をずらすわけですからねえ、こういう音楽って世界的にもそうそうないらしい。下がるのはよくあるけれども、上げちゃうのは…。
 この番組、最後に最高のオチが待っています。今日も笑えました。その日一番上達した人が「みるみる上達賞」みたいなのをもらえるんですが、副賞として番組のエンディングに、その生徒さんの歌と、その生徒さん主演のイメージビデオが流れるんです。これは毎回期待通り最上のギャグになります。企画の勝利ですなあ。さすがNHK。

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2005.11.11

あかいラーメン丸&しろいラーメン丸 (おやつカンパニー)

000003171000003181 このブログの「グルメ・クッキング」のカテゴリーって、ある意味全然グルメでもクッキングでもないっすね。駄菓子とか庭に生えてるもんとかばっかりですねえ。なにしろ、正直苦手な分野なんで、すみません。これが精一杯です。でも、逆にそんなふうだから開き直ってて面白いって言ってくれる人もいます(自分)。
 さて突然ですが、今日は「ポッキー&プリッツの日」です。11月11日。スティック状の物体が4本ということですか。これが制定されたのは平成11年だと言いますから、その時は6本ですか。というわけで、今日は職場でも相当の本数のポッキー&プリッツが、生徒や先生の胃の中に収納されてました。私の胃にも10本ほどが。
 で、私もこの記念すべき日にちなんで、出張ついでにコンビニで買ってみました。スティック状からなるべくかけ離れたものを。ラーメン丸です。名前からして反ポッキー&プリッツですな。全くあまのじゃくなんだから。
 今までも何回かおやつカンパニーの作品をおススメしてきました。今日の二つのラーメン丸は、ごくごく最近の作品であります。前も書いたように、おやつカンパニーさんは、大人ターゲットのお菓子というジャンルを上手に開拓していると思います。今回の作品も、宣伝文句にあるように、たしかにワインなどのお酒とよく合いそうです。赤い方は「サラミ&レッドペッパー」、白い方は「チーズ&ホワイトペッパー」で味付けしてあります。ほら、なかなかグルメでしょ。
 このラーメン丸シリーズですが、考えてみるとこの発想自体なかなかユニークですよね。ラーメンを固めてちょっと大きめのタブレットにしちゃった。逆転の発想です。普通は巨大なタブレットにお湯を注いで、本来のヒモ状のものに分解するのに、こちらはあえて固めてそれを食べる。たしかに、私なんかも、インスタントラーメンをそのままボリボリ食べるのが好きでしたよ。今でも、ペヤングソースやきそばに限っては、お湯をわかしている間に3分の1は生?で食べちゃいます。とにかく、そういう逆転の発想の結果、ぼろぼろこぼれなくなったとか、麺の間に具を挟み込むことが可能になったとか、独特の触感が生まれたとか、そこに新しい価値が生じたわけですよね。素晴らしい。
 というわけで、唐突ですが、「ベビースターラーメンの日」というのを設けたらどうでしょうか。 ベビースターラーメンなら、1にも2にも3にも、なんにでもなりそうですから、つまり毎日が記念日というわけです。もちろん今日11月11日もね。どうでしょう、おやつカンパニーさん。

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2005.11.10

『ダライ・ラマの仏教入門−心は死を超えて存続する』 ダライ・ラマ14世  石濱裕美子訳 (知恵の森文庫)

ccvoooi1 これは素晴らしい本ですね。少なくとも私にとっては、基本文献と言ってもよろしい。『般若心経入門』にもかなり感動しましたけれど、こちらも勉強になりますし、癒されますねえ。原題が『The meaning of life』というのもうなずけます。人生の、生命の、生活の、生きることの意味が確かに記されていました。
 先に『般若心経入門』を読んでおいたのは良かった。大乗仏教のエッセンスとも言える般若心経をダライ・ラマの語りで味わっておいたおかげで、より広範に、そして深く解説されたこの本が非常に読みやすく感じられました。
 この私でも、ダライ・ラマの智慧と方便を兼ね備えた言葉によって、仏教の根幹をそれなりに理解することが出来たような気がします。特に、全てのベースとなる「縁起」の法と「空性」、そしてその結果としての「無我」というものが、少しですが理屈でなく自分の一部となったように感じられました(本当は一部でなく全部なのでしょうけれど)。あっ、そうそう訳者の石濱裕美子さんの、非常にタイムリーかつ詳細な注にも助けられました。私のようなシロウトには、このお二人のタッグワークは最高ですね。
 ダライ・ラマはチベット仏教の中でもゲルク派に属するそうですが、他派や他宗、さらには他教にいたるまで、本当によく勉強しており、またそれらに対する寛容の心を持っています…それが一部では迎合だとか政治的だとか言われる原因なのかもしれませんが…。私からすると、それこそが利他の心、すなわち、慈悲心、菩提心の現れであると思われるのですけれど。いや、おそらく、迎合も政治も、仏陀の境地にしてみれば、互いに矛盾するものではなく、それこそ不二の存在であるのでしょう。
 ゲルク派は大乗の中観帰謬論証派を重視しているということもあってか、私の注目する「言葉」の問題にも多く触れられていて、大変勉強になりました。その点でも大きな収穫がありましたので、いずれ自分の物語論にも応用してみたいと思っています。
 それに関してちょっと。訳者解説の最後にある「現在、さまざまな学問の領域において、モノからコトへのパラダイムの移行が話題となっています。これは実体的思考から縁起的思考への転換とも言い換えることができます」という部分は、ワタクシ的解釈ですと間違い、全くの逆ということになってしまいます。すなわち、私は「モノ」こそ縁起を象徴する言葉だと考えているわけです。まあ、それはいずれ詳しく…っていつも書いてますが、なかなかモノになりませんね。
 最後に、ちょっと面白かったダライ・ラマ発言。日本仏教について。総体的には日本仏教は重要な仏教だとした上で、世襲制について柔らかく苦言を呈し、そして、
 「私の一般的な印象では、僧院に住んでいる日本人たちのなかには、勉強を怠り、現状に満足して、ただ寺の仕事をこなし、豪華な袈裟を身につけている人もいるように思われました」
と。いったいどのあたりを見たのでしょうね。

Amazon ダライ・ラマの仏教入門

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2005.11.09

現代の名工…矢入一男さん(ヤイリギター)

0787711 矢入さん、おめでとうございます。私もK.Yairiユーザーとして非常にうれしく思います。まさに名工、ギター職人という称号は彼のためにある。私が持っているのはギターではなくベースですが。
 現代の名工という表彰制度、なかなかいいですね。男としてはあこがれる称号です。男は子どもを産めないかわりに、「こと」をなす。つまり「為事」、「仕事」をするわけです。女性がいい子を産み育てるように、男はいい仕事をする。それを極めると名工になる。
 「現代の」という前置きはちょっと変といえば変ですね。「名工」は決して「過去」のみの存在ではない。マイスターですよね。ただの名工でいいと思うのですが。
 さてさて、岐阜の小さな楽器工房とも言ってよいヤイリギターさんですが、その知名度はまさにワールドクラス。ポール・マッカートニーやリッチー・ブラックモアなんかも愛用したとか。日本人でもプロアマ含めて熱狂的なファンが多い。
 楽器製作の世界に限らず、職人さんは非常にアナログかつトラディショナルです。今日の朝、NHKで紹介されてましたけれど、今回の名工の一人、仏像などを運ぶ職人さんも、あえて手袋をせず、素手で作業をしていました。梱包材もヒモも全て和紙。矢入さんも木の選定から、乾燥具合の見極め、工作に至るまで、全て「長年の勘」だけが頼りだと言います。
 こうした職人気質の生き方というのを、日本人はずっと得意としてきました。これほどハイテクにデジタルになった今でも、こうして地道に本物を作り続けている方々がたくさんいらっしゃるのでしょう。矢入さんの言葉がじ〜んと胸に迫りますね。
 「効率を考えたら本物はできない。旅に例えればローカル線の旅。のんびり景色を楽しんだり、駅ごとに降りたりする。このロスタイムこそ、『いい音色を生む天使』が宿る時間になる」
 今、K.Yairiは若者の間でもブームになりつつあります。手づくり…昔当たり前だった言葉が、いまやブランドにまでなっているのですね。喜ばしいような哀しいような。
 私は仕事柄、現代の名工には選ばれないでしょうが(当たり前か)、やはり手づくりの仕事を心掛けたいですね。もちろん子育ても、です。

ヤイリギター

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2005.11.08

究極のまちがいさがし法(裸眼立体視式)

cel 学校に月に一回高校生新聞というのが届くんです。なかなか面白い内容で、生徒のみならず私もよく読んでいます。
 で、その中に「まちがいさがし」のコーナーがありまして、そう、いわゆる右の絵と左の絵とで違うところが7ヶ所あるから探せ、というやつですね。それを生徒はウンウンうなりながら、苦労してやってます。けっこう難しいんですよ。微妙な違いなんで。
 私はですねえ、ほんの数秒でできちゃうんですよ。ある方法で。
 皆さんは、そのような「まちがいさがし」をどのような方法でやってますか?まあ、ふつうは左の絵を見て、右の絵を見て、みたいに交互に見くらべてまちがいを探しますよね(ところで、右と左とどっちが正しくてどっちがまちがってるんだ…ま、いいか)。
 私はこうやってます。例えば高校生新聞のやつの場合は、左目で左の絵を見て、右目で右の絵を見るんです。そして、その画像を中央で一致させる。裸眼立体視、よくある3Dの見方ですね。そうすると、左右の絵で矛盾しているところ、つまり探すべきまちがいの部分が、チラチラと揺らいで見える。向こうから「ここだよ」って教えてくれるんです。
 原理はお解りになるでしょう。脳をだますのです。右の目と左の目は実は同じ実体を見ているのだと。しかし、そこに矛盾があるから脳が混乱する。それがチラチラになって見えるということです。
 高校生新聞の場合は…と書いたのは、その左右の絵がちょうど両目の幅くらいの間隔で並んでいるからです。つまり立体視における平行法を応用したというわけです。もし、それらの絵のサイズがもっと大きかったりして、両目の幅を越えるようであれば、いわゆる交差法を用います。右目で左の絵を、左目で右の絵を見るわけですね。
 私は立体視が大の得意です。こちらに紹介した写真集以外にもいろいろと立体写真本を持ってますし、自分でもけっこう撮りました。年賀状を自分の立体写真にしたこともあります。あれはたぶん、日本で最も長時間見つめられた年賀状でしょう。まあ、立体視に成功すると、新年早々私が飛び出してくるわけでして、最も迷惑な年賀状であったのかもしれませんが。
 この前は、独眼流立体視についても紹介しました。あれは親父に教わったものですが、今回のまちがいさがし法は自分のオリジナルな発想です。とはいっても、同じような方法でやっている方もいらっしゃるでしょうけれど。
 とにかくこんなふうに自分の脳をだまして遊ぶというのは、赤瀬川原平さんもおっしゃる通り、最も身近なリゾートなわけでして、みなさんもたまには安上がりな現実逃避をされてみてはいかがでしょう。
 とりあえず上のまちがいさがしでお試しあれ。不思議な体験ができますよ。あっ、この画像はこちらからもらってきました。他にもたくさんあるのでパソコンとにらめっこしながら、リゾートしてみましょう。
 また、このような発想の転換こそ、生徒たちに伝えたいことであります。はい。
 あっそうそう、立体視を応用した遊びをもう一つ。例えば生徒の身分証明書なんかの顔写真を二つ並べて立体視しちゃうんですよ。もちろん違う人どうしのを。そうすると第三の人物が…。これは面白いですよ。
 ついでに、街によくある証明写真、今はどうか知りませんが、昔は四つのレンズで撮影していましたので、あれも立派な立体写真になっていたんですよ。今はデジタル化してるからなあ。

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2005.11.07

ランディ・トラヴィス 『パッシング・スルー』

Randy Travis 『PASSING THROUGH』
B000654Z64 もらったこのCDを聴いてみました。いいですよ、これ。
 どうも、カントリーというジャンルに関しては不勉強なようでして、ランディ・トラヴィスという人を初めて知りました。その道の方々には軽蔑されそうな事実ですけれど、まあとにかくまだまだ知らない音楽、それもものすごくいい音楽があるということで、私としては喜ばしいことであります。
 まず、なんでこのアルバムをもらったかと言いますと…。いつもお世話になっております富士吉田バプテスト教会に、姉妹教会であるテネシー州のブルーグラス教会からお客様がいらっしゃいまして、その中に本場のカントリー・バンドのとっても上手なフィドラーの方がおられたと。私はここのところ公私共々たいへん忙しかったため、残念ながらコンサートやら交流会やらに参加できなかったのですが、カミさんが、そのフィドルの方が参加しているというこのアルバムを誰かからもらってきたのです。
 で、私は全然知識がなかったので、ふ〜ん、自主制作CDかな、いかにもそういう雰囲気だなあ、などと思いながら、聴いてみたのです。そうしたら、これはホンモノだ(失礼!)とすぐに驚きました。楽曲のクォリティーも高いし、演奏も完璧。そして何と言っても、ランディ・トラヴィスさんの歌の味わい深いこと…。もちろんフィドルもいい味出しまくり。いい意味で「アメリカだなあ」って感じで、思わずなごんでしまいました。
 さっそく調べてみますと、あらら、ものすごい人なんですね、トラヴィスさん。もう10曲以上も全米カントリーチャートでNo.1を獲得しているとは!その方のアルバムに参加しているということは、来日していたフィドラーもそうとうの強者だということになりますね。あ〜あ、生で聴きたかった&観たかった。そしてできれば指導などしてもらえればなあ。どういうテクを使うとああなるのか興味あるんですよね。教本じゃあちっともわからない。
 とにかくこのアルバムは本当に素晴らしい出来でした。非常に安定感がある。トラディショナルであるのは当たり前ですが、意外にひねりが効いているところもあり(つまりそれがランディ・トラヴィス節なんだとシロウトは想像しますが)、聴いていて全く飽きません。それよりなにより、とにかくとにかくトラヴィスさんの歌がうまいんですよ。渋いんですよ。日本で言えば山川豊かな。いや鳥羽一郎か。
 たしかに、AFN(旧FEN)を聴いてると、こういうタイプの音楽、つまりアメリカの田舎の音楽、カントリーというかフォークというか、とっても自然体で金にまみれていない、そして生活と信仰に根ざした音楽がよくかかってますね。これこそがアメリカの音楽なのでしょうか。こういうアメリカは嫌いじゃないですね。
 ちなみにトラヴィスさん、最近ニューアルバムを出したようです。ゴスペルらしい。こちらは今週のビルボードカントリーチャート初登場28位でした。売れそうですね。

randytravis.com

Amazon PASSING THROUGH Glory Train

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2005.11.06

追悼 本田美奈子(号泣)

B00069BOTG あまりに若すぎる!なんで脂の乗りきった今…。
 歌手の本田美奈子さんが6日未明、急性骨髄性白血病でお亡くなりになりました。本当に残念です。
 本当に「歌手」というにふさわしい活動を続けてこれらた本田さん。80年代を代表するアイドルの一人でありながら、抜群の歌唱力で、ロックやミュージカル、さらにはクラシックの世界にまで積極的に挑戦してきました。
 私の本田さんの思い出は、やはり1987年の2月か3月の静岡市民会館でのライヴでしょうか。これが最初で最後の生本田美奈子になったわけですが、正直完全にノックアウトでした。私はそれまで特にアイドル本田美奈子のファンというわけではありませんでした。歌はうまいなあ、程度の認識しかなかったのです。
 当時(大学4年生かな?)、たまたま家庭教師で面倒を見ていた(いっしょに遊んでいた?)少年が本田美奈子の大ファンでして、彼が高校に合格した(&同じ高校に私が就職することが決定した)お祝いと称して、彼女のコンサートに連れていってあげたんです。
 まあ、それなりに苦労してチケットを取ったりしたものですから、私も楽しんでこようとは思っていました。し、しかしコンサートが始まると、もう私はすっかり彼女の「歌」にぶっとばされてしまったのです。私にとってはアイドルのコンサートではなかった。少年を含め周りはしっかりアイドルファンしてましたけど。
 何しろ、ものすごいパワーなんです。あの華奢な体のどこからこんなエネルギーがしぼり出されるのか。まったく不思議でした。もちろん電気的に処理された音を聴いているわけですけれど、なんかモニターからではなく、ステージ中央の彼女の体からも声が聞こえてくるんです。これはたぶん錯覚ではなく、本当に地声が聞こえていたんだと思います。それほどの声量。
 もちろん、声量だけでなくテクニックも素晴らしかった。まったく瑕がないのは当然、特にバラードでの心に染み入るような歌には、はからずも涙すら出てしまいました。
 このように記憶をたどるだけでも、何かくやしいような気持ちになってしまいます。本当に残念で残念でしかたありません。もう、本当にご冥福をお祈りするしかない…それが残念です。

Amazon 本田美奈子BOX

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2005.11.05

AU ぷりぺいど

0441 ワタクシのケータイ事情については今までにも紹介してきました。つまりお金をかけたくないのですね。ケータイ程度の利便性のために月数千円あるいは数万円払うというのは、どう考えてもおかしいと思っているわけです。
 あっそうそう、例のアステルですけれど、とうとう今月末で完全停波です。やったあ、最期を看取れるぞ〜と喜んでいたところですねえ、思わぬ原因により不覚にも死亡寸前に解約するはめになりました。というのは、支払いに使っていたオリコカードが不正使用されまして、カードの方が先に突然死してしまったのです。今さら支払い方法を変更するのもバカみたいですので、涙をのんで解約という選択肢を選びました(って何なんだ?)。それにしてもカードが不正使用されるなんて初めて。どこで漏れたのかなあ。いろいろと心当たりがないではないが…。UFJでキャッシングしたことがあるので、もしかして…。オリコはいろいろな支払いに使っていたので、変更手続きが大変大変。
 話がそれた。で、え〜と今日はカミさんのケータイ事情について紹介いたします。カミさんもいわゆるケータイ文化に疑問を持つ一人のようで、おかげで私のポリシーも素直に受け入れてくれています。それで、彼女もpjプリペかというと、そうではありません。AUのプリペイドです。
 実はメールをしなければ、AUのプリペが一番安いのです。丸々1年で10000円ですから、月800円ちょいということですか。カミさんはメールはパソコンでという主義…つまり不躾に届くメールに生活を侵されたくないということらしい…なので、AUで十分なわけです。なんて、実は私もカミさんも、いわゆる親指入力ができないんですよ。私なんて親指シフト入力は大得意なんですけどね(笑)。
 もちろんカミさんのケータイもスーパーテレフォンに登録してありますから、万一残高がなくなってもかけられます。
 アステルを解約した結果、pjを普通に(つまり月1000円で)使ってもウチではケータイ2台で月1800円ちょいということです。それで全然OKなわけでして、いったいウチ以外の日本はどうなってるんだろう、という感じなんですよね。そこまでケータイに依存しなければいけないのでしょうか。たぶんウチが時代についていってないということだと思いますけれど。

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2005.11.04

『倫理―大学受験らくらくブック(新マンガゼミナール)』 清水雅博著 鷲野鷹哉画 (学研)

4053019052 高校生用ながら、大人にも役立つシリーズ第4弾!(かな?)…というか、これは生徒が持っていたのを見て、あんまり面白いので自分で買ってしまったのです。
 いちおう高校時代倫理社会も勉強したはずなんですけど、当時はこんなに面白い分野なのにその魅力が全く分からず、どちらかというと苦手教科だと思い込んだりしてましたっけ。
 なんで倫理という名称を用いるのでしょうねえ。いわやるエシックスとは違う内容ですよね。宗教・哲学・思想とかすればいいのに。
 フツウの社会生活を送るには、実はこういう宗教やら哲学やら思想やらは必要ありません。私は小論文や現代文や現代社会を教える際にちょっと必要になりますから、表面的には勉強しなければなりません。そんな時、こういう軽めのものは実に役に立ちます。
 とにかく、一番つかみどころのない世界を、子供用にポップにマンガ化してくれているわけでして、イメージ化しにくいものをイメージ化して覚えるには最適ですね。特に私が笑ったのは、鎌倉仏教の部分です。
 鎌倉仏教の高僧たちが、「居酒屋仏」で合コン?してるんです。で、みんな言いたい放題。次のセリフはそれぞれ誰のものかわかりますか?なんてテストみたい。いやこんなテストはないか。
 「南無阿弥陀仏。俺たち、鎌倉新仏教の開祖」
 「ニューウェーブってとこかな。ところで、君って悪人?」
 「Hey!クールに踊ろうyo」
 「南無妙法蓮華経。諸君、うるさいぞ!」
 「まぁまぁ、坐って坐って」
 「僕はさ、自分のことは自分でやれる娘が好きなんだよね」
 面白いでしょ。答えは…。まあいいですね。とにかくこんな感じなんですよ。ふざけるなっ!っていう人もいるかもしれませんが、まあ鎌倉新仏教なんてしょせん当時の新興宗教ですからね。子供向けのマンガですし。
 で、この合コンでは、それぞれが自己紹介していくんですけど、日蓮は例によっていつもの?調子です。「何度でも徹底的に批判する!」てな具合で。それをまわりの坊主たちは「あーあ…はじまった…あぁそうですか、そうですか」と。なんかリアルだな。
 こんな調子で、古今東西の宗教や哲学や思想なんかをわかりやすく説明してくれています。分野によってはおちょくりきれてないところもありますが、全体としては「まじめ」に感心しつつ、ちょっと笑っちゃうという雰囲気が出ており、教材としてもなかなかスグレモノですな。私の姿勢に似ている。
 倫理をセンターで使う高校生さんにもですが、実はこのあたりがよく分からないんだ、という大人の方々にもおススメいたします。

Amazon 倫理―大学受験らくらくブック

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2005.11.03

あっぱれ和泉元彌&鈴木健想!

0251 今日は文化の日。私は横浜の開港記念会館でコンサート。強敵バッハのコンチェルトと格闘して惨敗。タッグを組んだTさんごめんなさい。私は自らの不甲斐なさにすっかり意気消沈。引退という二文字も浮かびます。
 さらに思いもよらぬアクシデントのため、楽しみにしていた打ち上げにも参加できずガックリ。午後5時ごろ横浜の渋滞の中で一人録音を聴きながらたそがれてました(笑)。
 さてさて、私がそんな情けない状態でいるまさにその時、そこ横浜では、世紀の対決の幕が切って落とされようとしていたのであります!
 横浜アリーナ「ハッスルマニア」。自分の試合…いやいや演奏会がなければ当然参戦…いやいや観戦していたであろうイベントであります。興味深い対戦の多い中、やはり私の最大の関心は「和泉元彌vs鈴木健想」にありました。
 あのお騒がせ狂言師和泉元彌が元WWEのスーパースター鈴木健想とプロレス対決するのであります。もう、この時点で「はあ〜?」という方、この先はお読みにならない方がよろしいかと。私はまじめに論じますけれど。
 結論から言いますと、プロレス初体験の和泉元彌が世界を股にかける筋金入りのプロレスラー鈴木健想に、プロレスで勝利いたしました。ここで再び「はあ〜?」と思った方、絶対にこれ以上お読みにならないでください。
 ここがプロレスのプロレスたるところです。いちおうこの記事もスポーツというくくりに入れましたが、こちら(小橋vs健介)でも書きましたように、プロレスは文化です。本当の意味での「芸」「術」です。キング・オブ・アートです。ですから、狂言師がリングに上がるのは全然不自然じゃない。どころか、狂言の本来の性質からすれば、それはプロレスと非常に高い親和性を持つはずです。
 常々、プロレスこそが日本の肉体的伝統文化の継承ジャンルだと考えてはばからない私であります。相撲や総合格闘技が、スポーツという近代西欧文化に迎合せんとして、自らその役割を放棄してしまった現在、こうしたエンターテインメント系のプロレスこそが、能や歌舞伎、そして狂言の本流を継承するものだと、真剣に考えています。
 そういう意味で、今日の和泉元彌の挑戦は実に意義あるものであったと思います。眉をひそめる方々、特に近代西洋的な意味での「芸術」の伝統やしがらみにとらわれている方々、みなさんのお怒りこそが、逆説的に日本の近代化、西欧化の弊害を証明しているのであります。皮肉なものです。
 和泉元彌も偉いが、それを堂々受けて立って、見事に負けブックを飲み、それを最高の形で演出した鈴木健想、あなたも真の勇者だ。さすがWWEでホンモノのエンターテインメントを経験しただけのことはある。
 試合内容というか舞台内容も良かったようですね。全てに徹底しています。興味を持った方はこちらでその雰囲気を味わってみて下さい。まあ、私もこれを読んだだけで、実際観劇したわけではありませんからね。
 明日、あさっても私はイベントが目白押し。ちょっと疲れ気味ですけれど、今回のハッスルマニアにも参戦したミスタープロレス天龍源一郎55歳に比べれば。3日ハッスルマニア、4日ドラゴンゲート、5日ノアで三沢光晴とシングルですからねえ。尊敬します。プロはすごい。私も本職の方でプロと呼ばれるよう頑張りますわ。

あっばれ鈴木健想(再び)〜vivaプロレス

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2005.11.02

卵かけご飯

200px-Tamago_kake_gohan 今日の大仕事もなんとか無事に無難に終わりました。Keynoteのおかげです。うれしかったのは、聴衆の「内容良かったよ」という言葉ではなく、「珍しいねえ、先生でMacかい」という言葉でした(笑)。
 で、こんな時は自分へのご褒美に最も好きな食べ物を食べましょう。納豆卵ご飯です。安上がりでいいっすね。しかし、世界一うまいもんと言ったらこれでしょう。納豆卵ご飯については、以前こちらでも語ってます。
 さて、その納豆卵ご飯は正確に言えば「卵かけご飯」の1ヴァリエーションですよね。決して納豆ご飯の亜種ではない。で、その「卵かけご飯」のシンポジウムが先月28日から30日まで、島根県の雲南市で行われたの知ってます?詳しくは日本たまごかけごはんシンポジウム公式サイトを御覧下さい。なんでも、10月30日を「たまごかけごはんの日」と制定したとか。「卵かけご飯専用醤油おたまはん」を開発販売して有名になった雲南市が、調子に乗って開催したようです。いやいや、調子に乗って正解ですよ。こういうノリは大切ですし、半分シャレで半分マジメというスタンス、私は大好きです。
 冗談抜きで日本を代表する味覚でしょう。卵の生食自体、世界的に珍しいですからね。トッピングや手順などにこだわるだけでも、相当深い世界が広がりますよね。そのへんについては、ウィキペディアが実に詳しくて面白い。検索してみてください。ここのスタンスもいいなあ。
 さて、「卵かけご飯」と言えば、とっておきのネタがあるんです。あの夢のような出来事、鈴木孝夫大明神との一夜?での、大明神のお言葉の中にこんなのがありました。レアな生々しいお話ですよ。
 「グロータース神父は、温かいご飯に生卵をかけてかきまぜて食べている時が一番幸せだって言ってましたよ」
lgg グロータース神父、御存知ですか?ベルギー生まれの日本人と言ってもいいほどの親日家。言語学者としても大変重要なお仕事をされました。鈴木孝夫先生とは妙に気が合ったとか。たしかに、くさやを平気で食べて、銭湯に通い、サザエさんを全巻愛読しているくらいですから、それは日本人より日本人らしい。それは私も知っていましたが、まさか「卵かけご飯」が至福だとは。参りました。
 そんな神父の、日本人への遺書とも言える「それでもやっぱり日本人になりたい」も読んでみたいなあ、などと思いましたね。しみじみ…。

Amazon それでもやっぱり日本人になりたい

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2005.11.01

Keynote

sddf31 明日、地元で地域教育フォーラムというのがありまして、そこで急遽発表なんぞをすることになりました。で、今必死にプレゼンなどを準備しております。って明日なのに…間に合うのか?いつもこんな調子です。
 こういう時に重宝するのが『Keynote』です。知る人ぞ知る、Macのプレゼンテーションソフトですな。
 なんといっても、某「力点」(笑)とは比べ物にならないセンスのよさ。まさに林檎と窓の違いを象徴しています。機能的にはパワーポイント…いやいや力点の方が豊富でしょう。事務機器は機能性重視です。業務連絡にはそれで充分。その点、Keynoteは自己表現メディアとも言えるほど、イメージを重視しています。
 情報伝達には演出が必要です。つまり物語の方法です。歴史的記憶に残る物語たちは、例外なく優れた演出を持っています。それどころか、内容よりも演出の力によって名を残した作品の方が多いほどです。
 私の物語論によれば、相手にとって未知な「もの」を「語る」ことによって「こと」として固定するには、それ相応の「語り方」「語り口」が必要とされ、その「語り方」「語り口」こそが、結果として相手に「語る」願望を生起させるか否かの要因になるのです。
 つまり、語り方(もちろん「騙り方」の時もあるわけですが)次第では、相手の脳内に強い「こと化」が生じ、その結果、その相手も誰かに語りたくなる。そうして「語り継がれる」わけです。そうなれば最初の語り手の語りは成功したということになります。これは音楽や美術や小説やテレビ番組や…とにかく何にでも言えることなんですね。
 なんて、まあそんな小難しい物語論は置いといて、とにかく、内容は別として、インパクトを与え、会場の人たちの目を引きつけるには、こうした演出こそが重要です。何でもそうですけれど、一回きりのパフォーマンスには一回きりの流儀というものがあるわけです。これはごまかすとか、そういう悪い意味ではなく、リアルタイムでいかに退屈させないか、いかに楽しませるか、ということです。
 最近のメディアは保存性が高いので、繰り返しの観賞に堪えるようにしなければならず、制作者は大変です。しかし、皮肉なことに本来反復して観賞されることを想定していないものが、実は反復して最も面白い、ということもよく起きます。昔のテレビ番組なんかね。その点ドリフなんてものすごかった。いずれおススメしますわ。
 ああ、こんなこと書いてるうちにどんどん時間がなくなっていく!とにかく、Keynoteはクールなんですよ!だから表現意欲もわく。別にプレゼンでなくとも、なんとなく自分の考えをまとめてみたり、日記をつけてみたり、ナンセンスなストーリーボードを作ってみたり、よくあるフラッシュみたいにおバカな作品に挑戦したり、いろいろと遊べますよ。
 というか、授業をこれでやったら、生徒は退屈しないだろうなあ。こっちも一度作れば楽だし。あの前近代的な、黒板とチョークとあの謎の黒い帯の付いた黒板消しは、どうも納得いかん。不条理だ。いや、学校ってそういう不条理の塊だからこそ面白いし、勉強になるのか。Keynoteじゃあ縦書きできないし(今ではこうして縦書きしてます)。国語科としては致命的だなあ。アメリカ発のソフトだから仕方ないか。ああ、なんか言ってることがメチャクチャだ。
 つまり、焦ってるんです。やばいんです。こうして現実逃避してるんです。ああ…現実に戻りまつ。さよ〜なら〜。

Keynote

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