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2005.10.31

『グッバイガール』 リチャード・ドレイファス主演作品(&デビッド・ゲイツ『グッバイガール』)

B00005HC8DB000006YXR 隠れたる超名作。この映画が980円で手に入るようになったんだから、なんと素晴らしい世の中なのでしょう。
 洋画もそこそこ観ている方だと思いますが、もしベスト3を選ぶことになったら、この作品ははずせませんね。
 タイトルにはリチャード・ドレイファス主演作品と書きました。彼のものすごい演技はたしかにこの作品の魅力の一つです。主演男優賞総なめでしたからね。天才だと思います。かっこわるいけれどかっこいいんだな、男から見ても。
 しかし、この映画の良さは彼だけでは語れません。当然ニール・サイモンの本の素晴らしさがまずあります。ブロードウェー、イギリス、日本…世界各国の舞台で演じられてきた名脚本です。ニール・サイモンの脚本って、なんか日本的なんだよなあ。というか三谷幸喜がニール・サイモンの二番煎じか(失礼)。安定した流れとリズム感、饒舌なようで無駄のない言葉たち、肝心なところは言葉を慎む。
 ポール役のマーシャ・メイソンもいいですよ。なかなかカワイイ中年?女性を演じています。相手がドレイファスでなければ主演女優賞も可能だったかも。娘のルーシー役のクィン・カミングスがまたいい味出してますね。大人二人よりも大人な子どもを見事に演じています。グッジョブ。
 デイヴ・グルーシンの音楽というか、デイヴィッド・ゲイツの主題歌が泣かせますねえ。私はゲイツの「グッバイガール」を中学1年の時聴きました。ちょっと個人的な事情があって、ものすごく心に響きました。日本ではこの曲も発売されず、また映画もしばらく公開されなかったと記憶しています。ヴィデオもなかなか手に入らなかったし、テレビでも放映されなかった。初めて観たのはNHKのBSだったと思います。念願叶うまで20年近くかかったのでは。ちなみにゲイツのアルバムも同時期にようやく手に入れました。かなり渋い歌手ですけれど、アルバムとしてのクオリティーは非常に高い。大人の音楽です。
 この映画、そんなわけで日本人にはあまりなじみがなかったかもしれませんけれど、洋画ベスト100とかには必ず上位に食い込んでました。派手さはありませんが、なぜか心にしみる映画ですね。単なるハートフル・コメディーという言葉でくくるのは躊躇されます。
 中学生の頃は、「グッバイガール」というのだから、きっと別れの映画なのだろう、と思っていました。しかし、その真意は…。さすがニール・サイモンですね。その答えは実際に御覧いただけば感動とともにおわかりいただけると思います。あっ、もちろん、監督さんのハーバート・ロスもいい仕事してますよ。
 これほど何度観ても楽しめる作品というのはありません。今なら980円ですし一枚お持ちになっていても絶対に損はありません。ミュージカル版やプレイ版もいろいろ観てみたいなあ。そう言えば、去年でしたか、新グッバイガールと銘打って、テレビドラマが制作されたみたいです。これもなかなか好評であったとか。ただ想像するに、誰が演じてもこの映画版を超えるのは難しそうですね。
 あっ、そうそう、途中唐突に日本人が登場します。あれは笑えます。ただの日本人が日本語しゃべってるだけなんですけどね。妙に笑える。日本人てカッコ悪いっすね。

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2005.10.30

ETC通勤割引(&コンサート御礼)

1_etc-gate_image 本日カメラータ・ムジカーレの上野公演にご来場くださいました皆さま、ありがとうございました。おかげさまで満員御礼、無事?終了することができました。私だけは全然無事じゃありませんでしたが…。昨日の松田聖子の命(蒲池法子の命の分霊)の御利益で、いつもよりは緊張しなかったんですけれど。
 この楽団の集客力ってすごいですね。プロでもなかなか満員にならないのに。やはり長く続けるということは素晴らしいことです。1974年結成ですから。世界で最も歴史の長い古楽演奏団体の一つでしょう。
 11月の3日にも同プログラムで横浜公演がありますので、そちらもよろしくお願いします。
 さて、私はこのカメムジの練習のために年に6回くらい東京に通います。あるいは今日のようにコンサートのために上京します。そんな時重宝するのがETCです。
 練習は八王子にあるメンバーの豪邸を使わせていただいています。ですから、河口湖インターから八王子インターまで高速道路を使います。普通ですと片道1900円の通行料がかかるのですが、練習の時間帯というのは、だいたい10時から16時ごろまでですので、ちょうど通勤割引の適用時間内に高速に乗るというわけで、結果として半額になります。往復で1900円得をするというか浮くわけですね。これは助かります。
 ETCの通勤割引というのは、朝6時から9時までか夕方5時から8時までのどこかの時間帯でETCを使うと適用されます。ただし走行距離は100キロ以内。大都市近郊地域は対象外です。河口湖から八王子までというのはちょうど適用範囲内。通行料金が半額!になります。
 大都市近郊区間とは、東京では「高井戸〜八王子」と説明されているので、もしかして八王子で出たり入ったりすると、適用されなんじゃないのかな?とも思ったのですが、実際使ってみるとしっかり5割引だったのでラッキー。
 さらに今日わかったのですが、八王子の料金所から直接高井戸までの均一料金区間に入っても、ちゃんと八王子までの料金は半額になるんですね。1回八王子で降りて再び乗らないとダメかな、と思っていたんですけれど違いました。あの料金所は出口と入口を兼ねているということですか。ラッキーです。
 帰りは首都高から均一料金区間、そして中央道と直接乗り継いだのですが、やはり中央道区間は950円でした。ちなみに首都高も曜日割引で140円お得ですので、合計1090円浮きました。つまり今日は往復で2040円安くすんだということです。これは大きいですね。2040円ですよ。
 この通勤割引、休日も適用されるというのがいい。私のように休日に上京する人にとってはありがたい限りです。もちろん、東京からこちらの方にリゾートに来られる方も、時間帯を合わせれば利用できるわけですね。
 ETCの取り付け費用は15000円くらいでした。前払いで8000円分得していますし、もう半年くらいで割引によって20000円以上得してますので、もうとっくに元を取っています。もちろん、料金所をノンストップで通過できる喜びはなんとも言えませんし。でも、いまだにゲートを通る時、ドキドキする。バーがちゃんと上がるかなって。

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2005.10.29

25th Anniversary SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2005 “fairy”

bccx 昨日もいちおうアイドルネタだった…のかな?今日は本家の登場ですよ。松田聖子さんです。
 6月に昨年のコンサートをおススメしました。そして今日、今年の6月に大阪城ホールで行われたコンサートのもようがBS-iで放送されました。
 とうとう25周年ですよ。25th Anniversaryと書けばかっこいいが、四半世紀となると俄然重みが出ます。四半世紀の間アイドルでいつづけることは、宇宙の歴史においてほとんど奇跡に近いことでしょう。この記録はいったい何周年まで伸びるのだろう。
 彼女がデビューしたのは1980年。私がちょうどヴァイオリンを始めた頃ですねえ。えっ?ということは私もヴァイオリンを四半世紀もやっているのか…。それにしては…orz 。明日私は上野でコンサートなのに、聖子さまのような技術も落ち着きも存在感もな〜い。まあ器が違うとはいえ、こういう芸を見せつけられるとなあ。なんか愕然としてしまいます。まあ、少しはインスパイアされましたから、それなりに頑張ります!
 さてさて、私の話は誰も聞きたくない…えっと、そうそう聖子さまです。ここのところ歌謡曲バンドのこともあり、70年代80年代歌謡曲の再評価というのが、私の周りではブームになっておりまして、もちろん松田聖子についても、いくらでも語ることができるわけですが、なにしろ完全現役ですからね。それも脱アイドルではなくてまだアイドル。全く伝説になっていないわけでして、そのへんは中森明菜とはちと違う。なにか永遠の命を得ているような、もう神様みたいな存在ですね。さすが名前に「法」と「聖」の両方をいただくだけのことはある。
 で、今日観たコンサートもほとんど宗教儀式のようでありました。ほとんど形式化し記号化した神様と、それに酔いしれる信者たちが、独特の空間を作りだしている。それは、いにしえから伝わる神道の祭事に似ています。ほとんど年中行事化して繰り返され、多少の新しい要素の導入はあれども、基本的には脈々と息づく太古の記憶との合一を目指す。テレビで拝見した私もそうですが、いにしえから永劫続くイニシエーション(ちょっとおやじギャグ入ってるかな)に参加しているわけです。
 通過儀礼ではあるけれども、変化のための通過儀礼ではない。変わらないという安心(ワタシ的に言うと「こと」の安心ですな)を定期的に得るための通過儀礼です。シャーマン松田聖子の変わらぬお姿を拝し、結果として自分の中の青春の残滓を生き生きと蘇らせることができるのです。そして安心する。
 私の解釈では「みこと」の「こと」は不変の性質を意味するので、まさに松田聖子の命(みこと)ということですな。カリスマ性とはこのことを言うのか。さらに言えば、不変の「こと(偶像)」への憧れと執着と偏愛が「萌え=をかし」だと考えていますので、つまり、松田聖子さまは、それこそいにしえより伝わりたる「をかし」の伝統を継ぐ重要文化財だということです。はい。
 終盤の往年のヒット曲メドレーが圧巻でした。いい曲ばっかり。日本を代表する作家陣の遺産。ご本人も最後まで声の張りが変わらず、音程も正確、テンションも保ち続けていて、さすがプロですね。2時間以上のライヴ、歌詞と段取りを覚えてるだけでもすごいですよ。四十ウン歳ですからね。よ〜しオレも頑張るぞ!
 
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2005.10.28

唐澤まゆこ 『アントワネット パリからの絵葉書』

mayuko karasawa 『Antoinette』
B0000CD7VX iTMSでポップに分類されてるからビックリというか笑っちゃいました。アイドル路線で売り出し中って感じですね。なんか日本の音楽業界って安易…な〜んて、いいことだと思います!アイドルは必要です。私はアイドル万歳派ですから。
 いやいや唐澤さん、バリバリ、いやパリパリ?の古楽人なんですよね。コンセルヴァトワールのバロック科首席ですから。レザール・フロリサンでフランス・バロック・オペラなんかパリパリに歌ってます。そちらの録音はないのかなあ。聴きたいんですけれど。
 このいかにもアイドル系を感じさせるジャケット写真、うんまさにマジックだ。いや失礼。そのジャケットの雰囲気とは裏腹に、中身はけっこう通好みになってます。選曲もなかなか魅力的ですよ。有名曲もありますけれど(「枯葉」まで入ってる)、けっこう渋い曲も。だいたいマリー・アントワネットがシンガーソングライターだったとは知らなんだ。
 そして、何と言っても伴奏が曲によってはケネス・ヴァイスのフォルテ・ピアノですからねえ。ものすごくいい響きです。歌唱もバロック仕込みの清澄なトーンですし、正直よく分かりませんがフランス語もとっても美しい。そう、フランス音楽の良さがよく現れた演奏だと思います。
 意外な収穫はやはりマリー・アントワネット作曲の2曲でしょう。なかなかチャーミングな作品です。どこまで彼女自身が作ったのかは疑問ですけれど、それなりの才能はあったようですからね。グルックに音楽を習っていたとか。クラヴサンの腕前もなかなかであったと聞いています。いずれにせよ、憎悪にまみれ非業の死を遂げた女性の歌曲としては、なにか異様なほど平安に満ちた音楽です。そこがなぜか恐い。恐い美ってありますよね。
 さて、唐澤さんは今年、日本の歌曲のCDも出しました。こちらは試聴しかしていませんけれど、ちょっと中途半端な出来のようです。日本の歌曲は西洋風に美しく唄えばよいというものではありませんし。アレンジも今風でよいのか。たいへん難しいですね。なんとなく日本語もフランスなまりに聞こえるのは気のせいでしょうか。それでもよくあるベルカントの日本歌曲よりはよっぽどいいと思いましたよ。

Amazon アントワネット なつかしい未来〜日本のうた

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2005.10.27

『キリスト教と仏教の同質性―東洋型神学を求めて』 長谷川洋三 (早稲田大学出版部)

4657002090 私はかねがねイエスは仏教的だと思っていたんです。キリスト教というシステムの中では別ですが、人間(あえてこう書きます)イエスの言動は仏教的に見ても実に理にかなっている。実際、歴史的に、イエスが仏教の教えに触れていた可能性は、触れていない可能性より高い。いや、それをもって、仏教のキリスト教に対する優位性をとうとうと述べようなんていうセコい気持ちはありませんよ。そんなレベルでの話ではなくて。
 鈴木孝夫大明神とご一緒させていただいた時にも、ちょっとこんな話が出たんです。いろいろなお話の流れの中で、軽く触れられたくらいで、そんなに深く論議したりしたわけではありませんが。やっぱりそうだろうって。
 『イエスは仏教徒だった?』はちょっと行きすぎだろ、という意見もごもっともです。しかし、もとよりお彼岸に青森のキリスト(と弟イスキリ)の墓参りをまじめに(?)しちゃうような私は、そうした一見トンデモな説にも耐性があるのです。耐性があるどころか、1%でも可能性があるのであれば、そこを一笑に付したりせず、多笑して楽しんでみるのが人生の奥義というものだ、なんて考えています。学者じゃありませんしね。
 それでこの本は学者さんのまじめな研究なわけです。研究というか提案でしょうかね。長谷川洋三さんは早稲田大学で英語や比較宗教論を教えていらっしゃる(いらっしゃった?)方で、仏教がご専門です。この本では、イエスが仏教を知っていたかという問題はひとまず置いておいて、逼塞ぎみのキリスト教神学の世界に新しい風を吹き込もうとしておられます。つまりは東洋型神学です。後世のヨーロッパ的解釈にとらわれすぎず、イエス自身の言動を仏教と比較することによって、そこに新しい価値を見出そうという試みです。
 一読しまして、とにかく私が漠然と思っていたことがはっきりしたような気がしましたね。しっくりきた。長谷川さんの考えのベースになる表を本書から写させていただきます。

 三  ・父なる神=ロゴス(「神の理性と神の言」もしくは
 位    「宇宙の法則と宇宙の言」)=至高の智慧=命=光
 一  ・子なる神・キリスト…イエス
 体  ・聖霊なる神
              
 仏  ・法身大日如来=法(ダルマ…宇宙法則・宇宙理性)
 の     =言=法界体性智=大日の光
 三  ・応身(例えば過去七仏)…釈尊
 身  ・報身

 なぜこのような相似性を見出すのか、そのプロセスは本書の内容そのものですので、ここには記しませんが、いかがでしょう。私にとってはなかなかエキサイティングな結論です。
 もちろん、キリスト教仏教双方から異論も出るでしょう。しかし、それは結局従来の解釈、神学やら仏教学やらにとらわれている証拠とも言えます。学問という手段が目的化すると野狐が大量発生する。禅の教えにあるように、言葉で理屈をこねるよりも、自分の生き方から生まれる実感を信じるべきです。そういう意味で、私は長谷川さんの実感に共鳴しますね。この本は研究ではなく提案なのです。実際、かた苦しい論文の形式ではなく、ですます調でやさしく語りかけてくれています。
 というわけで、けっこう渋い本の部類に入るでしょうけれど、興味のある方はぜひこの提案をひとまず読んでいただきたいと思います。私はなんとなく安心を得ました。特に常に流れる長谷川さんの『衆生に悉く仏性がそなわっているごとく「三位一体」の可能性は全ての人に与えられている』という信念に。つまり、全ての人がブッダになる可能性があるように、我々はキリストになることができる、ということですね。それでいいと思います。
 
Amazon キリスト教と仏教の同質性

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2005.10.26

BSアニメ夜話『うる星やつら』

 Mr.Oshii
oshii 今日は授業で『ビューティフル・ドリーマー』を観賞。押井うる星の魅力を満喫させていただきました。そして、夜11時。NHKBS2のアニメ夜話でうる星が取り上げられました。
 限られた時間の中ですので、当然消化不良の部分もありましたが、なかなか興味深い内容でありました。
 私など、うる星歴たったの1年でありながら、こちらでずいぶんと語っちゃってますね。そんな調子ですから、ホンモノのファンの方々には、それぞれ自分のうる星観があって、それこそ何時間でも語り続けられると思います。つまり、それだけのコンテンツがつまっていたということですね。作り手の創造力と想像力が半端ではなかった。
 今日の夜話でも、そのあたりのことを垣間見ることができました。キーワードは「おまかせ」と「暴走」と「戦い」です。作画もアフレコも「おまかせ」。まかせられた人たちは手を抜くどころか「暴走」する。そして、それぞれの現場で、またそれぞれの現場どうしで「戦い」をくりひろげる。そうして、どんどん全体のレベルが上がっていくわけです。
 これは、ちょうど昨日紹介した『ジャズマンと老師の問答』に通じる世界ですね。いや、そのものと言える。創造の現場、いわば生命の現場としての実相です。流れに乗るためにドアをこじあけ、せめぎあってわくを取っ払う。その結果全体が成長する。自分も成長する。その結果は想定外、予想外。縁によって生命のパワーが増す。魅力的な作品が生まれる瞬間です。
 「おまかせ」「暴走」「戦い」…一見よからぬ言葉のようですが、それを演ずる個人の心の持ち方次第では、とんでもないプラスのパワーを生み出します。「おまかせ」するには謙虚さと信頼と勇気が必要です。それを受ける方も、そこでくさらず意気に感じる、いやヤケでもなんでも「やったるで〜」とならねばなりません。そして、あいつらには負けたくないという気概。
 最近強く思うんですよね。イヤだなあ、冗談じゃないよ、マジかよ、ということが自分を成長させるんだと。自分の心地よい時間、つまり自分の想定内の出来事って、結局それまでの自分という範疇の中のことであって、なんにもプラスになってないんですね。外からの強制力…まかせられたり、戦いに巻き込まれたりしないと全然前進しないんですよ。そういう意味で、私は最近とても幸せに感じることが多いんです。楽しいことが多いんです。
 押井守監督はその「おまかせ」「暴走」「戦い」を実践した方だったのだと思います。また、スタッフにもそれを許したんだと思います。その結果、たぶんご自身たちも想像しなかったような名作や問題作がどんどん生まれたのでしょう。現場の千葉繁さんのコメントからも、そんな雰囲気を感じることができました。
 そう考えると、宮崎駿ってオーケストラの指揮者みたいだなあ。私は押井アンサンブル、押井バントの方がなんとなく好きです。

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2005.10.25

ジャズマンと老師の問答…

Tim Armacost Quartetto
cont05 まさにガーンです。これこそ「師の教え」ですなあ。鳥肌が立ちました。
 先日、私の学校で妙心寺派関係学校会議が行なわれました。その際、資料として各学校がいろいろな冊子などを置いていってくれたのですが、その中に「第50回正眼寺夏期講座」というものがありました。その中の山川宗玄老師の暁天講座「無門関」に、私にとって非常に衝撃的なお話があったのです。
 もちろん、「無門関」の第二十六則の「二僧巻簾」の公案のお話自体たいへん勉強になりました。しかし、(趣味とはいえ)音楽をする立場であり、さらにちょっとそのことで迷いのあった私にとっては、その中の挿話の一つが本当に心に響いたのです。
 それは、ニューヨークで活躍するジャズ・グループ、ティム・アマコスト・カルテットのメンバーと老師の問答(?!)です。老師が「ジャズは即興のようだがばらばらにならないのか」というようなことを問います。リーダーのアマコストさん(日本語ペラペラですよね、お父さんが元駐日大使ですから)は「心が一つだからそんなことはない」と答えます。しかし、「哲学的な風貌」の黒人のメンバー(ベースのレイ・ドラモンド、ドラムスのビリー・ハート、どちらでしょうねえ)が、「そんなことは毎日ある」と答えて語り始めます。その内容がものすごいのです。うまく要約できるか…。

 四人がそれぞれ小さなボートに乗って川の流れに沿って進んでいく。ボートの前にはなぜかドアがある。そのドアを開けなければ演奏に乗れない。そのドアを開けるには一人一人の「練習」が必要である。しかし、それだけではプロではない。窓わくもあるのだ。このわくを取ることが大切なのだ。お互いのせめぎあいの中でやっていると、わくが取れる。このわくが取れたときに本物の演奏ができる…。

 老師も驚きます。彼の語ったことが禅そのものだったからです。老師の言葉をそのまま引用させていただきます。

 なんとかドアをこじ開けるところまでは一得一失の世界です。それを超えてしまうと、わくが全部なくなってしまうのです。自由自在ですね。全体が流れているわけです。みんな同じように弾くんですけれども、超えるように弾くことができるんですね。ハーモニーを保ちながら、自由に弾くことができるんです。わくがなくなった途端に。これが一得一失を超えたということです。ここまで行かないと、本物ではない。

 もう、私のコメントは必要ありません。ジャズマンも老師もお見事。音楽も禅もお見事。気持ちのいいガーンです。
 一得一失…どっちが得でどっちが損か、どっちが正しくてどっちが間違っているのか…まさにデジタル的思考ですね。それを超える智慧をお釈迦様は説かれた。禅はそれを実践という形で探求する。このジャズマンと老師の問答は、世の中の全てに通ずるでしょう。仕事にも、子育てにも、スポーツにも…。
 今年の初夏、正眼寺さんを訪れた時、この夏期講座(今年は第51回でした)の存在を知りまして、ぜひとも参加したいと思ったのですけれど、残念ながらのっぴきならない私用と重なってしまい涙をのんで断念しました。その講座の中で行われる講演や講義の内容をまとめたものがこの冊子なのでした。今回いただいたものは昨年の記録ということですね。ちなみに、武内陶子アナのダンナさんである、東工大の上田紀行先生の講演も面白かった。
 来年はなんとしても参加させていただきたいと思います。そして、心地よいガーンを生で体験したいですね。

Amazon Tim Armacost 『Fire』

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2005.10.24

『20世紀精神史』 毎日新聞社編 (毎日新聞社)

4620314196 はい、20世紀復習(反省)シリーズ、次行ってみましょう。これはうってつけの自分用教材ですね。
 20世紀を象徴するモノやコトをだいたい網羅していますね。広く浅く。それぞれ錚々たる言論人の方々が小論を書いております。小論というほどのこともないか。だいたい1テーマ4〜5ページでしょうか。途中おもしろいけれどジャマなコラム『この人たちの「証言」』1ページを挟んでいます。それで5〜6ページくらい。3000〜4000字読めばとりあえず終わるので、私のような面倒くさがり屋でも大丈夫。ぱっぱと読めます。というか全体で300ページもある本なんて、フツウは読む気すら起きないのですが、これだと意欲がわく。興味ないところは飛ばしたりできますし、途中から適当に読んでいってもいい。つくづく読書ができない人間だなあと再確認。
 さて、この本はたぶんあんまり売れてないし、これからもあんまり売れそうにないので、ちょっと宣伝しておきます。項目を全て書き出しますね。

 第一部 大衆の登場…「テレビ」「モータリゼーション」「コンピューター」「ファッション」「遊園地・テーマパーク」「教育」「海外旅行」「オリンピック」「女性解放」「スーパーマーケット」「ポピュラー音楽」「広告」「電話」「映画」「宇宙時代」

 第二部 戦争と革命…「ロシア革命」「第一次世界大戦」「日露戦争」「第二次世界大戦」「太平洋戦争」「〈核〉の脅威」「植民地独立」「社会主義中国」「朝鮮戦争」「六〇年安保闘争」「ベトナム戦争」「六八年の学生反乱」「ソ連・東欧崩壊」「湾岸戦争」

 第三部 拡散する〈知〉…「マルクス主義」「精神分析」「現象学」「経済思想」「構造主義」「現代美術」「平等と自由」「分子生物学」「量子論と相対性理論」「演劇の思想」「情報化とメディア」「実存主義」

 第四部 日本の思想…「近代人の悲劇」「東洋の哲学」「民俗学」「大正デモクラシー」「国家という存在」「新しい女性」「美術における主体」「雑誌という舞台」「近代と反近代」「戦後の知識人」「信仰者の問い」

 こうして書き出すだけでも、充分20世紀の復習(反省)という感じですね。20世紀が自分を形成しているなんて構えて始めたこのシリーズですけれど、こうして見ると、なんか全然自分と関係ないところで時代が動いていたような気もします。でも、間接的な影響も含めれば、やはり私のどこかを支えるファクターになっているんでしょうね。無意識の領域こそが時代性であるとも言えるかもしれません。
 ところで、全体を読み終わっての感想ですけれど、なんか20世紀ってみんな好き勝手やってたんだな、と。それぞれのテーマごと論者が違うわけですし、編んだのが毎日新聞社ですから、どうも太い一本の筋のようなものは見えてきません。でも、それがある意味とてもリアルとも言えます。人間なんて、世界なんて、その欲望を膨らますことについて自由と平等を得たら、こんなもんでしょう。
 本当にバラバラ。そして、20世紀は、それこそ「どっちが正しい」みたいなことで地球的内紛が起き続けた。21世紀は、バラバラのバランスを信じて「まあいいんじゃないの」で行きましょうや。みんな人のことをとやかく言うほど立派じゃないでしょ。こんなふうに思っちゃいました。
 さてさて、さきほど、あんまり売れないみたいなことを書きましたけれど、もしかすると100年後とかに売り出したら案外面白がられるかもしれませんね。昔の地球人はくそまじめだったなあ、って。そうだといいですね。

Amazon 20世紀精神史

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2005.10.23

『どこ?つきよのばんのさがしもの』 山形明美 (講談社)

4062120194 半年ほど前に、娘のために買ったのですが、今やすっかり私のお気に入りになっています。もちろん、本屋さんでちらっと見て、これは面白いな、と思いましたよ。赤いリボンの黒猫ちゃんが主役ですし。各ページに無数のオブジェが並んでおり、いろいろなものを探して楽しみます。単純に『ウォーリーをさがせ!』みたいとも言えますが、安野光雅さんの『旅の絵本』のようでもあります。ただ眺めていてもいい。
 これはジャンルは何なんでしょうねえ。いちおう絵本のコーナーに置いてあるのですが、正確には絵ではないので、絵本ではないような。実際山形さんは絵本作家ではありません。造形作家です。
 私が見るところ、基本的に粘土のような素材を使ってオブジェを造っているようです。まずはそのそれぞれのデザインが秀逸ですね。粘土(のようなもの)ならではの、曲線を主調とした柔らかい造型。その歪んだ世界が、現実との適度な距離を感じさせます。そこが気持ちいい。
 そしてジオラマとしてのデザイニングもお見事。それぞれのページごとのコンセプトやアイデアに絶妙な変化があります。そして非常に立体的なアレンジメント。照明を含む写真撮影の技術も素晴らしい(ちなみに撮影は大畑俊男さん)。それこそ片目で見ると、もうホントに自分もファンタジーワールドに立っているように感じられますよ。ぜひお試しあれ。
 それにしても、この作品を造るのに、いったいどれほどの時間をかけているのでしょうか。一つ一つがものすごく精緻に造られています。見れば見るほどびっくり。『旅の絵本』や『ウォーリー』も大変だろうなあと思いますけれど、こちらはもっともっと手間がかかってますよ。えらいなあ、山形さん。
 つまり、単なる絵本として片づけてしまうにはもったいない作品です。絵本にはそういうものがたくさんありますけれど、これは本当に新しい美術作品として、大人の観賞にも充分堪えられます。絵でもなく、写真でもなく、単なるジオラマでもなく、人形でもなく。
 でも、やっぱり基本にあるのは、自分が小さいときにこねた粘土の世界なのです。自分だけの不思議な世界を造った経験というのを、誰しも持っていることでしょう。それです。自分の手で新しい世界が創造されていく。自分だけがその世界に迷いこむような、夢のような感覚。それを思い出させてくれるのではないでしょうか。
 大人になってしまった皆さんに強くおススメします。うん、すばらしい。

Amazon どこ?つきよのばんのさがしもの

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2005.10.22

『20世紀とは何だったのか 「西欧近代」の帰結』 佐伯啓思 (PHP新書)

4569635466 このシーズンは毎週末模試。模試の監督ついでに今日はこの本を読んでみました。ものすごく勉強になりました。いい本です。
 この前、自分を知るために20世紀を復習するみたいなことを書きました。しばらくそんなシリーズで読書しようかな、なんて考えています。
 この本は、京都大学の教養講座の内容をまとめたものだそうで、文体もていねいな講義調でとてもわかりやすい。まあ、私の程度が高校出たて程度ということでしょうか、たいへんしっくりきました。また、今までなんだかんだ避けてきた哲学の分野の解説も実に易しく優しくかみくだいてくれてあり、それはそれは分かりやすかった。それでも、もうすでに忘れかけてますけど(笑)。
 内容は、私が要約するべきではないほど簡明ですので、実際読んでいただくとしましょう。ここでは、それぞれの章を読む中で、共通して感じたことを記しておきます。
 それは、いかに私たちが「二項対立」の図式でものごとをとらえているか、ということです。「西」「東」、「アメリカ」「ソ連」、「近代」「前近代」、「戦前」「戦後」、「絶対君主制」「民主制」、「正」「悪」…この本では、そうした例がいろいろと挙げられつつ、シンプルすぎるデジタル的認識に警鐘が鳴らされています。
 たとえば、アメリカとソ連一つとっても、それは元をたどるとフランス革命が生み出した「自由主義」と「社会主義」の対立であり、また、米ソの二者択一的雰囲気に違和感をおぼえ、対抗手段に出たのがヒトラーであったり、事情は非常に複雑なわけです。あるいは、考え方によっては、アメリカとソ連は似ている。フランス革命のもう一つの産物「保守主義」を打破するために生まれたという意味では、米ソは兄弟のようなものです。違う言い方をすれば、貴族的なものを排除し、労働する者の共和国という意味でも非常に近い関係であると。このようなことを筆者はくりかえし強調しています。
 こうしたデジタル的な思考は高校生までにしておけ、とよく生徒に言うんですが、自分もついつい楽な方に行ってしまう。第三の視点を持ち込んだり、原点に帰ったりすることを忘れているんですね。
 そういう意味では、この本における、筆者のナチス論や、ニーチェのニヒリズムとハイデガーの思想、そしてそこからつながる現代アメリカ論は、実に目からウロコのエキサイティングな内容でした。ご専門である経済の章は意外にも一般的な内容だったので、ちょっとがっかりでしたけど。
 現代のアメリカ、いやアメリカナイズされつつある世界の多く国々で、ニヒリズムに陥っていることすら分からない究極のニヒリズムが進行している。ニヒリズムは克服できないけれども、それをやりすごすくらいの術は身につけなくては。このように筆者は結んでいます。今のアメリカは、ニーチェの言う「超人」の幻覚を、自分たちに見ているのではないか、と思いましたね。ニヒリズムのお祭り状態なのではないでしょうか。ここで、出てくるのは、やはり仏教的な考え方、いや対処法だと思うんですけどねえ。筆者はどちらかというと、仏教的な諦観、無常観にあまり期待していないようにも感じましたが。
 
Amazon 20世紀とは何だったのか

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2005.10.21

『離』  おはずかしい話ですが…

Ri1 ちょっと皆さん聞いてくださいよ〜。私はいちおう国語の先生なんですけど、今まで40年以上間違ってたんですよ。いや、小学校高学年に習ったような気がするので(今は中学で習うらしい)、30年くらいですかね。この「離」という字、私は18画だと思い込んでいたんですよ。左側の下の方、カタカナの「ム」って書くんだと思ってた。そこが2画だから全体で18画。ですよね〜?
 今日、国語科の同僚が、「ムですか、それとも虫みたいに書くんですか」って質問してきたんです。生徒にきかれたらしい。それで、「いや、ムだろ」って自信満々で答えたわけです。いちおう漢字辞書で調べてみたら、あれ?18画のところにない!まさかと思って隣の方を見てみたら…なんと19画のところにいるじゃないっすか!
 ってことは、「ム」じゃない?3画ってこと?…なんとそうでした。てか、オレだけか?間違ってたの。もし、そうだとしたらチョーはずかしい(なんかいきなりバカっぽくなったな…)。
Ri2 よく調べてみると、なかなか事情は複雑です。まずiMac君に搭載されているフォント様におうかがいしてみましょう。いろんなフォントで見てみると、こんな感じ→click
 どうみても「ム」有利ですよね。
Ri3 click←ちなみにEGBRIDGEで「離」の偏の部分の漢字(第4水準です)を検索してみると、おいおい、10画って書いてあるじゃん!漢字辞書、漢和辞典では11画だあ。なんなんだよ〜。で、「離」を確認すると19画。え〜?偏が10画なら18画になるでしょうが。矛盾している。EGBRIDGEよ、オレを悩ませるな〜!!
 みなさん、みなさんはどう書いてきましたか?どのように認識してきましたか?一番上の画像は「教科書体」フォントによる「離」です。どう見ても「ム」ですよね。つまり、教科書で勉強すると「ム」になっちゃうわけでして、ということは、ほとんどの日本人が2画で書いているということだと思います。
 実際、生徒たちにきいてみましたが、ほぼ95%が2画で書いておりました。書道の先生にきいてみると3画で書くとのこと。しかし、それはホンモノの「ム」の時もしかりで、例えば本来2画である「私」のつくりも3画で書くらしい。たしかに筆書きを元に作られたフォントも多少は3画ぽくデザインされていますね。
 部首的に言うと、この部分は「ぐうのあし」というやつでして、もともとは動物かなんかの後ろ足とシッポをデザイン化したものらしい。シッポならクルッと1画じゃん!なんてツッコミも入れたくなりますけど、とりあえず字源的には「ム」ではなくて、「虫」の最後の3画と同じということになるわけです。だから、やっぱり「離」は19画が正しい。
 しかし、問題部分は「虫」のように1画目を垂直に下ろしてはダメで、限りなく「ム」に近く、しかし2画ではなく3画で書くのが好ましい…ってことになるのかな?ああ、面倒くさい。とにかく、まいりました。どなたか、お詳しい方、教えて下さい。とほほ。
 で、おまけですけど、さらにウワテがいました!この話題で職員室で盛り上がってたら、「みなさん何言ってるんですか?そこは『人』じゃないんですか?」とまじめにおっしゃる方がいて、さらに盛り上がる盛り上がる。こういう勘違いってきっとたくさんあるんでしょうね。

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2005.10.20

チェロ・アコースティックス 『パリ発1256』

CELLO ACOUSTICS 『paris1256』
B00006JJF3 最近買ったアレに、家のCDをどんどんぶちこんでいます。そんな中でいろいろな掘り出し物(って自分のコレクションじゃないのか?)を見つけて楽しんでおります。忘れていたようなものもあったり、昔はあまり印象に残らなかったものの、今聴いてみると意外に良かったするものもあったり。しばらくは新しいCDを買う必要はないようです。本もそうなんですよね。地下室に膨大な量の変な蔵書があります。そろそろ整理しようと思っています。
 さて、そんな掘り出し物の一つがこれです。いやあ、いいですよ。かなり。CELLO ACOUSTICSというと、日本人唯一の?ジャズ・チェリスト吉川よしひろさんの活動を思い出す方も多いと思いますが、実はこちらが本家CELLO ACOUSTICSです。
 編成はピアノ、チェロ3本とベース。なんとも珍しい組み合わせではありますが、その響きはなぜか自然。パリのミュージシャンたちではありますが、その企画は実は日本人。アコースティック録音界の重鎮、伊藤秀治さんと及川公生さんのアイデアだそうです。さすがこのお二人、自分たちの理想の響きを頭の中で鳴らしてみて、そして実際にやってみたら、見事イメージ通りだったと。センス良すぎですよ。
 チェロの豊かな中低音域が大人のムードを醸します。いやあ、大人だなあ。そこに自由に遊ぶピアノは個性派ニールス・ラン・ドーキー。これも彼らのイメージだったそうです。さすがだ。
 たしかに録音も素晴らしく、これは生で聴くよりゼッタイ美しい、と思わせるレコーディング・マジックを体験できます。そういえば、20年くらい前なんかの縁で、プロのスタジオでカルテットのレコーディングをしたことがあります。私はヴィオラを弾きました。そしてモニターから聞こえてきた音にビックリ!え?これ自分たちの演奏?まじでこれはすごい。世の中の無数のモニターから流れる音楽たち、いったいホンモノってあるのか?なんて思っちゃいました。百倍くらいうまく聞こえるんだもん。
 さて、このアルバムではジャズのスタンダードを演奏している彼らですが、その後、映画音楽やオールディーズをオシャレに料理したアルバムも出しています。それらも、きっと最高のBGM(ほめことばですよ)でしょうね。
 そう言えば、チェロ買ったはいいけれど、あんまり弾いていません。もうすぐコンサートなのでヴァイオリンやヴィオラばかり弾いてるわけですが、こういうCD聴いちゃうと、やっぱり後半生はチェロで行きたくなりますねえ。ちなみに今はバロックの弦に張り替えちゃっていますので、こういうジャズ風なのとか、ELOみたいなロック系の音楽は弾きたくても弾けません。もう一台買うかな(笑)。

Amazon パリ発1256

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2005.10.19

『ピカレスク-太宰治伝』 猪瀬直樹 (小学館)

409394234X ここのところドラマを見たり、授業で取り上げたり太宰づいています。そんな折、ちょっとした騒ぎが。
 昨日の夜、突然このブログへのアクセスが急増しました。昨晩だけで1500以上に達しました。その記事はこれです。え?なんで?という感じだったのですが、どうも2ちゃんから飛んできてるらしい。それもかなり旬なスレからでないと、このペースはない。と思ったら、ニュース速報+板からだったんです。
 私の記事が引用されたのは【社会】"2ちゃんねるで、指摘あり" 少女マンガ、表現盗用で絶版・回収に…作者も謝罪★というスレでした。あのパクリ事件ですね。ニュースで御存知の方も多いと思います。たしかにあれは完全なるトレースであり、参考とかパロディとかいう次元ではない。かわいそうだけれど、非難されて当然。
 で、なんで私の記事が…というのは、まあ記事を読んでもらえばわかると思いますけれど、はっきり言ってあのスレには場違いな引用であったと思います。2ちゃんに場違いも何もないわけですが。
 さあ、それで、この本を読み直そうかなという気分になったのです。この本は太宰についての評伝であるとともに、彼の師であった井伏鱒二の「悪業」を暴く内容になっています。端的に書けば、大文豪井伏鱒二の、たとえば代表作である「山椒魚」や「ジョン万次郎漂流記」「黒い雨」にはタネ本がある、つまり2ちゃん風に言えば、パクリである、ということを暴いているわけです。それによって、太宰の暗部も照射されるという仕組みになっており、この『ピカレスク』は実に興味深いノンフィクション作品に仕上がっています。
 全ての事実が明かされることが、文学にとって幸せなことであるかどうかは別問題です。しかし、こうした視点から作品を見直すことによって、作品が新たなメッセージを私たちに発信することになるわけですから、特に彼らのようにすでに伝説化してしまった、歴史になってしまった人たちにとっては、決して不名誉なことではないと思います。
 ここで、考えなければならないのは、井伏を間接的に糾弾し、今になって猪瀬直樹さんを介して師に復讐した太宰治自身が、たいへんなブリーダー作家(私の造語です)だったということです。授業で扱った「走れメロス」や「カチカチ山」や「斜陽」を挙げるまでもなく、彼の作品には必ず種があります。それが、自分の体験であることも多々ありますが、他から仕入れた種であることも実に多い。
 今回の一件がパクリとして連載中止・絶版・回収という絶望的な仕打ちを受けるのであれば、太宰や井伏についても同じ仕打ちをしなければならない、という意見もあるでしょう。たしかにほとんどトレースだと思われる部分もある。それだけでなく、あれもこれも…ということで、2ちゃんは盛り上がってるわけですが、私はいちおう表現者の一人として(たとえばこのブログのオーサーとして)、心当たりがたくさんありますので、これ以上は言及しませんし、2ちゃんにも書き込める立場ではありません。
 難しいですね。どこからどこまでがパロディで、どこからどこまでがパクリか。さらにパロディとブリーディングの境目も曖昧。オマージュ?インスパイア?引用?そこに著作権の問題もからみます。いっそのこと、みんなに喜ばれるいいものであれば、なんでもいいような気もしますし。ただ、2ちゃんの書き込みでなるほどと思ったものがありましたので、それを無断引用して(笑)今日のお仕事はおしまいにします。
  「ばれないと困るのがパロディー。ばれると困るのがパクリ」

Amazon ピカレスク

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2005.10.18

『MD現代文・小論文』 有坂誠人・辻本浩三 他 (朝日出版社)

4255980233 今までも、高校生向きの書籍で、これは社会人にも有用だな、というものを紹介してきました。これとかこれとかですね。本当にこれらのおかげで、私も少しは大人になりました(恥)。
 今日紹介する本も非常に素晴らしい内容です。MDとはミニ・ディクショナリーのことだそうですが、小さな辞書というよりも、読みごたえのあるれっきとした教養本であると思います。全904ページ。ものすごい情報量です。もちろん、私も全部読んだわけではありません。しかし、どこを開いても面白いし、勉強になります。
 教養については、以前にずいぶんと悪口を書いた記憶があるのですが、実はそれは、教養と言われるものすら理解できない凡夫の遠吠えに過ぎなかったことを、ここに告白します。いや、教養は分かっても分からなくても嫌いではないのですが、いわゆる教養主義はあんまり好きになれない私なのでした。
 で、この本には20世紀の教養がどっさり詰まっています。21世紀に入って少し経ちましたので、多少の変化は見られるようになりましたけれど、大学入試として課せられる現代文の試験や小論文の内容は、依然として20世紀の知についてのものが多い。だんだんとそれらを反省する空気は感じられるようになりましたが、やはり20世紀は人類にとって特別の思い入れがあるんでしょうな。そういう雰囲気がいまだに大学の先生方の間にあるということです。
 で、で、この本は、21世紀を生きる若者(受験生)たちのために、いろいろな大手予備校のそうそうたる講師たちが集い、受験辞書という形を借りて理想の20世紀教養書を作ってしまったものです。裏表紙には次のようにあります。
 1 過去の入試データをもとに4000語の重要語句を収録、辞書と〈現代用語〉が一冊に。
 2 受験生を迎え入れる大学側が、「これだけは知ってほしい」と思う最重要テーマ〈自由〉を徹底考察する講義録「もうひとつの〈自由〉」。
 3 「小論文−入試でねらわれるテーマ20」「入試問題キーワード」「アカデミズム入門」で小論文対策は万全。
 4 「現代文・小論文のキーパーソン」(人と作品、約200人!!)をまとめた。
 5 「語彙力アップ・テスト」「覚えておきたい略語リスト」で不安を解消。
 6 河合塾の人気講師・亀井和子先生の特別実戦講義を5回分収録。
 まあ、こんな中身なわけで、いかにも勉強になりそうなのですが、私がまず面白いと思ったのは、2です。これは、京都大学の助教授大澤真幸さんの講演の記録でして、これだけでも70ページに及ぶ充実の内容です。全体を大きく「リベラリズムの勝利=敗北」「自由の可能条件」「責任論」の3部に分けてお話をされています。大澤さんは若い学者さんですから、少し21世紀的20世紀解釈になっていて(1998年の講演です)、なかなかエキサイティングでした。3ももちろんためになります。でも4が面白かった。人物からふりかえる20世紀もオツなものです。「解説」として紹介されている各人物の代表著書だけでも読んでおこうかなあ。もちろんかの大明神も選ばれてました。
 私も結局は20世紀に育てられた人間ですから、こういうもので勉強することによって、自分という不可思議なものに迫ることができるような気がするのです。だから、この本、実は受験生よりも大人に読んでもらいたいんですよ。いや、読んでもらいたい、ではないな。読むと自分が見えてきて面白いですよ…かな。

Amazon MD現代文・小論文

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2005.10.17

ヨーヨー・マ&コープマン 『シンプリー・バロック』

Yo-Yo Ma Ton Koopman Amsterdam Baroque Orchestra 『Simply Baroque』
B0000CD5G9 昨日のおススメとちょっと似た部分があるのかもしれません。ボーダーレスというかジャンルを越えるというか。だから、評価もジョン・ルイスの場合と同じような感じですね。私は純粋に好きですが。
 さて、ほめられたり感心されたりじゃまだ!と言われたり、ヨーヨー・マもこのブログでは大変です。でも、基本的に私は彼の姿勢や音楽を心から敬愛しています。ちょっと嫉妬するほどです。
 このシンプリー・バロックは、彼が初めてバロック・チェロに挑戦した作品です。自らの愛器ストラディヴァリをバロック・スタイルに改造、いや復元して臨んだという気合いの入りようにまずは感激。そして、名手ヤープ・テル・リンデンの手ほどきを受け、見事に古楽器の語法を身につけてしまう、相変わらずの柔軟性と謙虚さに感服。「ボウイングと音程がとても難しかった」というマの言葉になぜか感動してしまいました。
 しかし、最終的にはそんなことよりも、展開される音楽の豊かさの方が素晴らしい。結局、楽器とか様式とか語法とか、そんなことはどうでもよくなってしまう。そんなことに依存しない、そんなことを超越する、強靱な音楽が存在します。ふだん、楽器とか様式とか語法とかに蘊蓄を並べる自分に嫌気がさしますね。
 そうしたスケールの大きさは、ボッケリーニのコンチェルトに最もよく現れています。ボッケリーニをバロックと呼んでよいかどうか…なんて蘊蓄も野暮です。いやはや、ボッケリーニがこんなに豊かな音楽だったとは。ビルスマの演奏も良かったけれども、こっちの奔放さの方が音楽の質に合ってますな。
 あと、何と言っても、バッハの曲たちでしょう。あえて、オリジナルではなく、コラールや有名な器楽曲の編曲版を演奏しています。これはパラドックスですね。実は正しいということです。楽譜の絶対性が低く、その場の事情で編成が変わったであろう当時の習慣や、バッハ自身の編曲活動を考えれば、全然不自然なことじゃないんですよね。やられた!と思いました。やはりコープマンという人の、あの懐の深さもあるでしょうね。バッハの弟子を自認する彼です。自分がバロック時代に生きていて、そこにものすごいチェロの名手がいたら、こんなふうに師匠の名曲を編曲したかもしれない。そういう発想でしょう。ちなみにボッケリーニでも通奏低音としてチェンバロを弾いてますが、けっこうやりたい放題で気持ちいい。楽しいですよ。
 うん、これはいいアルバムだ。ぜひもっともっとこういう企画のCDを出してほしいですね。

Amazon シンプリー・バロック

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2005.10.16

ジョン・ルイス 『バッハ プレリュードとフーガ vol.1〜4』

John Lewis 『J.S.Bach Preludes and Fugues』
B000023Y5I 今日は地元でザイラー・ピアノ・デュオのコンサートがありました。ちょこっとだけ顔を出したのですが、なるほどピアノの音はでかい(笑)。しかし、考えてみるとコンサート・ホールのグランド・ピアノなんか、ああやって二人で叩いてやっとその性能を発揮できるような気もする。それで素晴らしい音楽が生まれるのかどうかは別として。しかし、一つの楽器を二人で弾いてアンサンブルするというのは、自転車の二人乗り、それも前がハンドル、後がペダルというやつみたいで、なかなかいいと思いましたよ。それも気心知れた夫婦(めおと)ですから。いや、そんな自転車の乗り方する夫婦(めおと)はいないか。
 さて、今日のコンサートはそんなわけで、とっても音の数が多かったんですけれど、なんでも数で勝負すればよろしいというものではない。少ない情報量で勝負するのはどんな世界でも難しいことです。文学でも、美術でも、音楽でも、演劇でも、映画でも。しかし、それをものすごい次元で実現するどうしようもない天才がいるのも事実です。
 私の中では、この人もその一人です。ピアノの世界では随一でしょう。ジョン・ルイス。もちろん、MJQのピアニストであった方です。バッハつながりでMJQを聴き始め、ジャズの世界にものめりこんだ私としては、この方の存在はものすごく大きい。いつかも書きましたね、この方のピアノは「わび・さび」なんです。本当にアドリブのパッセージなんか、人さし指だけで弾けそうなくらいシンプル。楽譜にすればなんてことはない(実際このアルバムのプレリュード部分の楽譜を持ってます)。しかし、とにかくマネしてみるとわかるのですが、あの味はとてもとても出せないんです。あるいは、コンピュータを使って打ち込みであの味を出すなんてとんでもない、それに近づくだけでもほとんど無理だと思うんです。なんで、あんな少ない音数で、あんなに濃厚なブルースになるんでしょう。不思議です。ピアニストの方、ぜひ教えて下さい。
 さあ、そんな崇拝すべき故ジョン・ルイスの、自らライフ・ワークと公言して憚らなかったこの曲集(もちろんかの平均律第1集全曲)。これはものすごい。バッハファンやジャズファンからは、ずいぶん冷たい批判を浴びたようですが、それっていったい何なんでしょう。この音楽のどこがいけないんでしょう。いや、もちろん、それは人それぞれの趣味や考え方がありますから、別に私とジョン・ルイスにとってはどうでもいいことなんですが(あれ?この言葉どっかで聞いたな)。
 ここで、ジョン・ルイスは、プレリュードをピアノ・ソロで、フーガをアンサンブル(ピアノ、ギター、ベース、ヴィオラ)で演奏しています。基本的に原曲通り始めて、途中でいつのまにかジャズになり、そしてまたバッハに戻って終わるという形態をとっています。それが人によっては、バッハとジャズという両ジャンル(!)に対する冒涜だとか、木に竹を接ぐようだとか感じられるのでしょうね。私は一粒で二度おいしいだと思うんですけど(ちょっと軽いな、この表現)。私にとってはどれも絶妙のバランスです。あの曲集全部続けて聴くのは辛いんですけれど、このジョン・ルイス盤はおよそ倍の時間がかかっても全然飽きないんです。
 あとですねえ、ぜひ聴いていただきたいのは、プレリュードの7番、8番、24番です。この3曲、偶然ですが、いったいジョンがどう料理するか、非常に興味があったんです。そうしたら、なんと彼はこの3曲だけは、なんの手も加えず原曲通り弾いてるじゃないですか!それがまた実に遅いテンポで、自分の中にどんどん入っていく演奏なんです。自分というのはジョンであり、バッハであり、私であり…。どんどん遅くなっていくんです。それがものすごくいい。そう言えば、昔のリヒターの指揮する演奏でもそんなことがありました。どんどん遅くなっていく。愛ですよ。愛を感じる演奏です。愛がどんどん深まっていくんです。最近そういう演奏ないですよね。特に古楽界。
 だいぶ長くなってしまいましたが、この曲集はぜひ聴いていただきたいのです。ちなみに私は全曲を曲順に並べた4枚組を持っているんですが、なぜか本人の自筆サインが入っているんです。そうとは知らずどこか田舎のCD屋で買った記憶があります。あっ、こんなところにあった、みたいな感覚で。宝物です。

Amazon プレリュードとフーガ vol.1

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2005.10.15

EVER GREEN 『EG-HDMP620(20GB 1.8inch HDD搭載MP3レコーダー&MP3/WMA/OGGプレイヤー)』

img106118322471 さて、世間ではiPodの新製品が評判のようです。ビデオの再生も可能なのか。なるほど。マカーとしては、当然食指が動くわけですけれど、nanoの時に書いたように、いろいろと事情があって、あの金額をそういうものにつぎこんではたして良いのかと常に考えていました。しかし、CDによって散らかりまくる車内の様子を見るたびに、なんとか安くiPod(風なもの)が手に入らないか、いろいろと調べていたのです。で、興味を持ったM-AUDIOの 『Micro Track 24/96』もレビューや2ちゃんの書き込みを見ると、なんかまだまだな感じですし、バッテリーの持ちなど、やはりプレイヤーとしてはイマイチだと判明しました。で、ああもういいや、しばらくは散らかしまくろう、となかばあきらめていたところ…。
 む!安い!というのを見つけました。だいたい20Gは安くても2〜3万円台が相場ですが、これは1.7万円で買える!(ちなみにソニーと東芝は最初から圏外…わかる人にはわかるかな)しかし、いかにも怪しい感じだし、だいたいMac対応とは書いてない。でもまあストレージクラスだからなんとかなるだろう。では、とりあえず誰かに買わせてみて、使えそうだったら自分でも買おう(おいおい!?)、というわけで、1台買ってみたところ、ちょっと問題がありますが(リソースフォークね)、いちおうMacでも使えるし、車載も自前のトランスミッタで問題なしだったので、結局自分のものにしてしまいました(なんなんだ、この購入過程は…)。
 操作性はまあこんなもんでしょう、ソリッド・オーディオですから。音質はもともと車の中で聴くのですから、そこそこでよい。ノイズなんてほとんど関係ない。バッテリーの持ちもまあ10時間はクリアしたのでよし。いちおうラインレベルマイクで生録もできるし。MacだとIDタグを読んでくれないので、いろいろと分類が面倒と言えば面倒だけど、自分の思い通りできるから、実はこちらの方が都合が良かったりする。デザインは気に入りました。
 早速、iTunesでMP3にエンコードしまくって、つっこんでみましたが、たしかに20Gもあると入る入る。現在3470曲、4日と14時間分くらい入ってますが、5.71Gってとこです。まだまだ入りますな。もちろん、ウチのCD全部はとてもとても入りませんが、車の中はほとんど片づきましたよ。
 さて、こうして20年ぶりに(!)CDの整理をして、車で聴きそうな曲をピックアップしてみると、ジャズが7割以上を占めることに気づきます。CDの数としてはバロックが一番多そうなんですが、けっこう一度聴いておしまいというのが多いんですね。もったいない。
 さて、私は下のリンクのサンテクさんから買ったのですが、私はサンテクさんがどういうわけか好きです。まだ、数回しか買い物していませんが、そのたびに非常に親切にしていただいているので、好印象を持っています。別に回し者ではありませんよ。ただ、私も本当にたくさんの業者さんとネット上で取引きしていますけれど、なんか対応が全然他と違うんですよ。取引きのたびに無理をお願いしているんですが、本当にこころよく対応してくれます。メール一つでもとても丁寧で人の顔が見える感じなんです。通販も結局はこういうところが生き残っていくんだと思いますよ。

EG-HDMP620その後…

【数量限定!特価品!】エバーグリーンMP3プレイヤー 20G EG-HDMP620

EVER GREEN

サンテク

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2005.10.14

『走れメロス』 太宰治 〜「わけのわからぬ大きな力」とは?

p1jk1 先日のドラマ「太宰治物語」にも「待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか」というセリフがあったように記憶しています。
 さて、どっちが辛いのかを描いて(?)あまりにも有名な教材(!)「走れメロス」。今日は授業で小説(!)「走れメロス」を読みました。
 もう、ホントにあまりにもなので、あえて書きたくないんですが、とにかく、この作品ほど誤解されまくっているものはない。え?「友情と信実の物語」?はあ?「愛と勇気の物語」?げっ!っていう感じですよねえ。
 学校のまじめなセンセイや学者のセンセイ方までそんなこと平気でおっしゃるから困るんですよね。なんて、こんなふうに書くだけで顰蹙を買う可能性もあるんですよ。まあ、それは私と太宰にとってはどうでもいいことなんですが。
 とにかく、小説としての成立過程や太宰の人生を含めて考えると(その方法論に異議のある方とは話ができません)、シラーの詩に加えられた部分、つまり王の言葉とダメ人間バージョンのメロスの言葉こそが太宰のメッセージであり、浮ついた美辞はそれを鮮明にするための演出にすぎないことは明白です(と私は考えます)。
 そして、その加味された部分のために、シラーの詩(あるいは古伝説、あるいは高等小学校の教材)のプロットが破綻を余儀なくされています。その破綻を破綻のままに終わらせないために(つまり小説としてそこで終わってしまうことを避けるために)、どう考えてもありえない奇跡を連続させます。
 そして、最後の最後、究極の奇跡が起きます。太宰は、メロスに「間に合ふ、間に合はぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走ってゐるのだ」とまで言わせてしまう。もう小説のテーマすら否定してしまうわけです。そして、「メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考へてゐない、ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った」と書いた。
 破綻をきわめた物語の筋を、究極の力で無理やり紡ぎ続けた太宰。その究極の力とは…。
 「わけのわからぬ大きな力」については、やはり「信頼」だとか「友情」だとか「愛と誠」とか、そんなスケールの小さな(笑)解釈しかされていないのが実情のようです。
 これはですねえ、私は太宰に直接聞いたんですけど(って生徒には言いました)、間違いなく「小説の力(文学の力)」ですよ。ここまで来て、奇跡の連続でなんとかつながらせてきた小説を終わらせるわけにはいかない!もう因果関係とか目的と手段とか、そんなことは関係ない。何も考えないで、わけのわからぬ力にまかせて、無理やり大団円に持っていくしかなかったんですよ。しまいには、力が大きすぎて、それこそわけのわからぬ少女まで登場してしまった。もうそこまでくると太宰の関知するところではない。まったくもって「小説の力」とはおそろしい。
 というわけで、こんな授業を受ける生徒はかわいそうかと言うと、そうでもなく、ゲラゲラ笑いながら変に納得してました。まあ、メロスは「単純な男」=「愚者」というのが前提ですから、賢者としての王が「わしも仲間に入れてくれないか」と言うのももっともだと、高校生くらいになれば分かりますしね。賢すぎるといろいろ見えすぎて辛いんでしょうね。そう考えると、太宰の思い入れがメロスと王の両方に向かっているのがよくわかります。
 とにかく、常識や習慣にいかにとらわれているかということを知るための教材としては、本当にすばらしい「小説」ですね。さすが太宰。ん?また太宰さんが耳元で変なことささやいた…「待つ身」も「待たせる身」も実は王のことだったりして…(微笑)。

Amazon 走れメロス

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2005.10.13

Accordone 『La Bella Noeva』

B0000CDVQT これは本当に衝撃の一枚!超鳥肌ものです。
 昨日、甲府でテノールの長尾譲くんとチェンバロの森洋子さんのコンサートがありました。私は仕事のため聴きに行くことが叶いませんでしたが、夜、森宅にうかがいましてちゃっかり打ち上げに参加させていただきました(他にパーカッションやリコーダーで活躍中の飯塚直子さんもいらっしゃいました)。それで、このCDをみんなで聴いたんですよ。
 ミラノで研鑽を積んでいる長尾くんも心酔する歌手マルコ・ビースリー。ウワサには聞いていましたが、ここまでのすごいとは…。録音にしてこの鳥肌ですから、生で聴いたら萌えますわ、こりゃ。とろけるだろうなあ(そしてあのスキンヘッドの容貌だからなあ…)。
 ただ美しいというのとは全く違います。美とは違うもので人を魅了するわけです。いや、美の要素も含まれていますよ。ただそれだけではないということです。音楽とはこれほどに生命力に満ちたものだったのか!今さらながら再認識いたしました。
 基本的には16、17世紀のイタリアの歌曲で構成されていますが、それらは楽譜という形で伝わっていなかったり、あるいは楽譜の重要性が現在とはかなり違うといった事情から、かなり自由なアレンジがほどこされています。それを担当したであろうグイド・モリーニの高いセンスも評価されてしかるべきです。中にはそれ風に新しく作曲した楽曲もあります。その自由さと、その自由の中でセンスを感じさせる恐るべき才能、いやはや参った。
 私はイタリア語はさぱーり分かりませんが、しかし、その得体の知れない生きもののような生々しさ、おどろおどろしさ…もしかすると、分からないからこそ「こと」になっていない「もののけ」なのかもしれませんが…にとにかく打たれてしまいました。イタリア語堪能な彼も「わかんな〜い」と言ってました。もう、意味とかそんなことはどうでもよくなってしまう、つまり、音楽が言語を超えた瞬間がここにあるわけです。たしかに、そういうことって、日本の歌でもあることですよね。実際、歌詞の対訳を見てみると、ナンセンスだったりするものでして。
 これはもう聴いていただくしかないですね。皆さんの話によると、AccordoneはどのCDもすごいとのこと。ちなみにヴァイオリンをはじめとして、器楽の方々もとんでもない上手さです。絶句。イタリア人が本気出すとこうだもんなあ…。
 それにしても、単純なバスのリフレインが好きなんだよなあ。萌え〜。かっこええなあ…。

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NMLで聴く

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2005.10.12

『骨にカルシウムプラス(ウエハース)』 ハマダコンフェクト

httg 一日一食生活を続けております。非常に快調であります。たぶん、一生これでいきますな。とにかく体の具合が悪い日がないんですから面白いですね。栄養の摂りすぎってあるんだなあ。
 とは言え、一日の食事の栄養計算などしてみますと、やっぱりカルシウムが不足気味なようです。ダイエットによるカルシウム不足から骨粗鬆症になるケースがけっこう多いとのこと。これはいけません。
 というわけで、最近これを食べるようにしています。一枚で牛乳1.5本分のカルシウムが摂取できるということで、いちおう2枚食べれば、必要量に達する計算になります。一枚10円くらいですから、一日20円ちょい。安いもんです。牛乳600ml飲むのも結構きついですし、小魚とかもいいですが、けっこう塩分多かったりしますからね。
 最初は池田模範堂さんの「病院用」みたいなヤツを買ってたんですけど、そちらですと一枚あたり牛乳1本分ですし、ちょっと単価も高いものですから、こちらハマダさんのものをネットで大量購入しております。
 お味の方も甘すぎずくせもなくなかなか美味ですので、ついつい何枚も…ということになっちゃいます。が、カロリーも低いですし、糖分も少なめですので、ヘタなお菓子をボリボリ食べるよりはずっとマシだと思っています。子どもたちも好んでよく食べます。いいことです。
healthyclubmain1 最近はこういったサプリメントというか、健康補助食品的なもの、栄養バランス食品や飲料のようなものが大ブームですね。ハマダコンフェクトさんもヘルシークラブと称していろいろな商品を製造しているようです。飽食と言われるほど食に恵まれているはずの現代日本でこのブームというのは、正直納得できない部分もあるのですが、まあ、みんなが健康であるのは悪いことではないですな。食べるものに恵まれないための不健康が、戦争のタネになってきた歴史もありますしね。

骨にカルシウムウエハース×10パックセット(税込)

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2005.10.11

『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』 ティム・バートン監督作品

B0009QX4NU この前、絶句作『神様の愛い奴』をくれた後輩が、次に持ってきてくれたのはこれでした。彼もなかなか振幅大きいな。『神様の〜』はさすがに家族が眠っている早朝に観ましたけれど、こっちは堂々と子どもと観ましたよ。
 ティム・バートン監督は今さらながら世間で話題ですね。『チャーリーとチョコレート工場』や『コープスブライド』など佳作が目白押しです。私もティモシーの作品は基本的にみんな好きですけれど、一つ選べと言われれば、やっぱり『マーズ・アタック!』でしょう。これは文句なし、私のツボにはまりまくりです。彼の良さ全開ですね。
 彼独特の感性はどの作品でもフルに発揮されますが、その感性とはずばり「オタク」魂でしょう。しかし、ただのオタクではない。とんでもない創造性を持ったオタクです。オタクの方々はたいてい創造意欲は人一倍お持ちですが、創造力が追いつかないのがフツウです。しかし、オタクという受容と解釈と妄想の才能に長けた人に、創造の才能が加わると、こういうことになるわけですね。
  さて、彼がディズニーのアニメーター上がりだということを意識しながら、アニメのあまり得意ではなかった私は、この『ナイトメアー…』を観ないで来てしまった。ちょっと恥ずかしい事態です。
 で、ようやく鑑賞いたしました!う〜ん、いい。オタク魂も優れた創造性の手にかかるとファンタジーになる。妄想をここまで美しく止揚できるのは、まさに芸術の力。私に言わせると、彼は「モノノケ」に愛を感じるタイプ。モノノケを美しく、愛らしく、まるで子どもたちのように描くことができる。そうすると、実は単なるオタクではないということになるんですよね。何しろ、「モノノケ」の「悲哀」まで表現してしまうわけですから、それはまさに「もののあはれ」なのですよ。そういう意味では、ハリウッドで純日本的なことをやってるんですよね。なんか、江戸時代とかにいそうだな、こういう天才。ハリウッドじゃなくて江戸ウッドとか…(わかるかなこのオヤジギャグ)。

Amazon ナイトメアー・ビフォア・クリスマス

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2005.10.10

ドラマ特別企画 『太宰治物語』 (TBS)

ET22 正直期待外れでした。やはりフジの佳作『「グッド・バイ」 私が殺した太宰治』を観た立場からすると、ドラマとしての脚本と演出に物足りなさを感じてしまいます。いや、豊川悦司を初めとするキャスティングは悪くなかった。予想に反して自然に観ることができました。
 しかし、太宰にせよ、美知子さんにせよ、人間としてもう少し踏み込んで描いてほしかった。他の人物も、なんとなく印象に残らないまま終わってしまいました。あくまでドラマなのですから、もう一歩描き込めないものでしょうかねえ。まあ、実名という制約もありますよね。脚本家が苦労しているのはよくわかりました。
 ただ、再確認したのは、美知子さんの偉大さです。私は太宰の作品の半分は美知子さんが書かせたものだと思っています。ついつい、他の女性たちに目が行きがちですが、私は美知子さんの存在をもっと評価すべきだと常に思っています。結局、太宰にとっての理想の女性であり、妻であり、母であったのです。だから、太宰は思いっきり甘えてしまった。その甘えを苦しみながらも受け止めたことが、あの奇跡的な太宰作品群を産む土壌になったんですね。
 あと、なるほど、と思ったのは、口述筆記の場面です。たしかに、口述筆記時代の太宰の文体には、心地よいリズム感がある。講談調とも言える独特のリズムです。ああ、口述筆記の効果は大きいなあ、と思いました。やってみようかな。自分で録音したりしてね。
 今回のドラマの舞台にもなった御坂峠の天下茶屋。私は特別の思い出があります。とても恥ずかしい記憶なので詳しくは書けませんが、茶屋の御主人に、たくさんのお客さんや生徒たちの前で小一時間怒られたことがあるのです。それはまさに太宰の醜態そのものでした。太宰も、いろいろなところで、先輩やら友人やらに、こっぴどく叱られてシュンとなっていたらしい。きっとそんな太宰が、私に彼らしいいたずらをしたのだと、今では思っています。そう考えると、なんともありがたい体験でしたね。
 このシーズンになると、1年生の現代文の授業は太宰治一色になります。ウチの学校の周辺は、あの「富嶽百景」の舞台そのものですし、その他の小説やエッセイにも、すぐそこの池や駅や道や店が出てきます。太宰が歩いた道。そして、財布を落とした道。それが学校のすぐ横なのですから、そういった幸運を生徒にも感じてほしいと思っています。ある意味太宰治第二の生誕の地であるわけですから。

真説?走れメロス

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2005.10.09

『「脳」整理法』 茂木健一郎 (ちくま新書)

4480062629 私の大好きな言葉に「セレンディピティー」というのがあります。高校時代でしたか、国語の課題図書で読んだ、外山滋比古さんの『ことわざの論理』で初めて知った言葉であり概念であったと記憶しています。だからもうこの言葉を意識して四半世紀ということですか。
 セレンディピティー、「思わぬものを偶然に発見すること」ですね。そこから発展して「幸運を呼び込む力」という意味でも使われているようです。私がこの言葉を好きな理由は実に簡単。自分の人生の9割はセレンディピティーで構成されており、そのおかげで大変楽しい思いをさせていただいているからです。私にとっての神様は、このセレンディピティーなのかもしれない、と思うほどです。
 昨日の早朝、NHKで茂木健一郎さんがこのことについて語っておりました。ノーベル賞のシーズンということで、そういった世界的な発明や発見が、実はほとんどセレンディピティーによるものであるとのこと。そして、そのような幸運に出会うには、まずは行動しなければならないとのこと。全くその通り。そして、近視眼にならず、何かに気づくこと。茂木さんのおっしゃる「アハ体験」ですね。
 この本は、必然と偶然の中間に浮遊する「偶有性」の話題を中心に、最先端の脳科学から見た人間の認識や意識について書かれています。言葉の問題を考える私にとっても、なかなか興味深い内容でして、あっという間に読んでしまいました。やはり、脳は「もの」を「こと」化するマシンなんですな。ただ、その「こと」化には偶然性も強く関与していると。しかし、究極的には、セレンディピティーが訪れる確率を上げるためには、行動(つまり努力)が大切なわけです。人事を尽くして天命を待つ。そういうことですね。
 あと、個人的な体験に基づいて申しますと、セレンディピティーに期待することも大切なような気がします。ある意味他力本願ということです。自分が自分が、ではなく、「なにものか」に期待するということも必要ではないでしょうか。私はそっちにばかり期待していて、努力不足なのですが。

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2005.10.08

ウルトラマンマックス第15話 『第三番惑星の奇跡』

hisu11 ブッシュに見せたかったなあ。今日のウルトラマンマックスは名作でした。泣いてしまった。いかんいかん。
 こういうメッセージ性のある作品こそ子どもたちに見せたい。いや、それ以前に大人たちに見せたい。特にブッシュを代表とするキリスト教原理主義連中に見せてやりたい。正義の名のもとに異物を排除する。そのための手段は暴力。結果として相手も暴力で応じることになり戦争を生む。そこには憎しみしか残らない。
 今回の監督さんは三池嵩史さん。極道映画で芸術性とメッセージ性を追求する個性的な映画監督さんですね。最近では「着信アリ」や「妖怪大戦争」で新境地を開きました。脚本はNAKA雅MURAさん。三池監督と「岸和田愚連隊」シリーズなどでタッグを組んでいる方です。そんなわけで、今回のマックスは、たった二十数分の作品とは思えないほど、充実した内容になっていました。さすがです。
 簡単に言ってしまえば、今回登場した怪獣イフは、相手の攻撃を全てそのまま返すヤツでして、人間からミサイル攻撃を受けると、ミサイルを発射するように進化し、マックスから攻撃されるとマックスの攻撃力を全て取り込んでしまうという厄介者。結局、そうして身につけた武器によって、イフは街を焼き尽くします。そしてもう誰も攻撃できません。当然ですね。
 前半は、画家を目指していたのに失明してしまう少女のストーリーもあって、徹底的に救いのないドラマが展開します。また、ミニチュアの造型やCGの演出も効果的で、非常にマイナス方向の見ごたえがありました。けっこうやばい描写が多かった。
 結果としては、その少女の奏でるピッコロによって、イフは美しい楽器の集合体?に進化してめでたしめでたしになるわけですが、その過程での演出は、明らかにキリスト教を意識したものでした。燃えさかる街には無数の十字架がありましたし、少女の傍らには汚れたマリア像が倒れていました。そして、音楽によって癒されたイフの頭部は美しいマリア像そのもの。つまり、本来のキリストの教えを忘れた一部の原理主義者(歴史的に見ると一部ではないかもしれませんが)に対する強い非難を読み取ることができましたね。
 人と人の関係は単純に「鏡」です。怒りには怒り。憎しみには憎しみ。愛には愛。慈しみには慈しみ。笑顔には笑顔。そんな単純なことも分からない人間って本当にバカものですね。イエスもブッダもただそのことを語っているのだと思いますが。結局、後人の解釈の誤りなんですよね。いったい誰だ?パウロか?日蓮か?
 ところで、イフを癒した音楽、それは具体的にはショパンの別れの曲でした。ショパン自身も「最も美しいメロディー」と語っていますが、たしかにこの名旋律は全宇宙レベルでの真理のひとつかもしれません。
 まあ、とにかくあれもこれも含めて、本作品は一度観ることをおススメします!

祝!ウルトラマンマックス出演(第9話「龍の恋人」)

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2005.10.07

野村総研オタクレポート

logo_g 昨日発表されたNRI(野村総研)のレポートは面白かった。昨年のオタクレポートもなかなか楽しかったのですが、今回のは、前回が好評だったせいか、スタッフの気合いの入り方が尋常ではありません。いや、気合いが入ってるんじゃないな。調子に乗ってるって感じかな。そこが実にかわいい。スタッフの写真がありましたが、なんかオタクたちがアキバやコミケだけで見せる、あの満面の笑みそのものでしたよ。ははは。
 さて、今回はそんなわけで、ちょっと勇み足では、と思わせる考察も多々あります。そのへんについては、こちらこちらで確認してみて下さい。なんか、もう考察自体がオタク的になっている。ある意味手段が目的化してしまっており、NRIよそれでいいのか?いやそれでいい!という、実に平和でお気楽なことになっています。
 なんて、かく言うワタクシも自他共に認めるオタク研究家であります。たとえば、このブログ内を「オタク」で検索してみてください。けっこういろんなモノやコトやヒトを「オタク」と結びつけて解釈してますよね。他にも「おたく」という表現や「ヲタク」という表現もしていますからね。もっとありますよ。好きなんですよ「オタク」が。昨日の「ギター男」もとても興味深く見ましたし。オタクな生徒を人一倍愛しますしね。ははは。
 で、今回、野村総研さんはオタクの再定義や再分類を試みています。なかなか面白い考察だと思いますよ。ちなみに私のオタク論は日本の伝統的文化に根ざしたものですから、ちょっと毛色が違いますね。何度も書いているように、「萌え」=「をかし」と取る発想です。「もの」の無常性を無視して、フェティッシュに愛情を注ぐのが「をかし」すなわち「萌え」だと考えています。「もの」の無常性にため息をつくのが「あはれ」ですね。「もののあはれ」。で、「をかし」=「萌え」に特化した嗜好と思考の持ち主が「オタク」であると。な〜んちゃってね。
 で、自分はやっぱりオタクなのかな?って、NRIの分類を見てみると、ぜんぜん自分の居場所がないんですよね。たしかに私は「もののあはれ」派ですし。生徒にも言われますが、マニアではあるけどどうもオタクではないらしい。ちょっとうれしいような残念なような…。NRIのオタクな人たちが、ちとうらやましいのは事実です。

NRI怒られちゃった?

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2005.10.06

エイモス・リー 『エイモス・リー』

Amos Lee 『Amos Lee』
B00070G6Y2 昨日からの続きになりますね。癒してくれるボーカル男性版です。エイモス・リーは、まずはノラ・ジョーンズの前座として注目されました。ノラのコンサートに来た人たち、びっくりしたでしょうねえ。前座でいきなりこれですから。ノラファンなら、みんなしびれちゃったでしょう。
 昨日のホリー・コールもそうですが、いわゆるジャズ・シンガーとは違う、トラディショナルでありながら新しいジャンルなんですね。ノラがカントリー寄りなら、エイモス・リーはフォーク寄りとでも言いましょうか。だから、そういうジャンル分け自体がナンセンスなんですよ。私もそうですが、人間ってホント分節化が好きですね。本能なんでしょう。
 ノラもエイモスも老舗ブルーノートからデビューしました。ブルーノートは以前から新しい音楽に寛容であったように思います。Us3も象徴的でしたね。最初はえ〜?ブルーノートが?と思いましたが、ものすごく良かった。おおげさでなく、あれがhip-hopの系譜を確かなものしたわけですから。老舗でありながら、いや老舗であったからこそ、ジャズの本質である自由と融合の精神を守っているのでしょう。非常に健全であると思います。こういうところは、アメリカの、ニューヨークのいいところですね。
 さて、これも昨日の記事やノラの記事と重なりますけれども、エイモス・リーの歌にあるのは、歌に対する愛情と敬意です。だから、ものすごくていねいなんです。そのていねいさが私たちの心を癒してくれるわけです。
 また、エイモスに関して特筆すべきことは、その作曲能力です。このデビューアルバムは全て彼の楽曲です。昨日も書いたように、メロディーこそ音楽の命です。その命を、それも非常に魅力的な形で生み出すことの出来る彼の才能は素晴らしい。歌が上手だというだけではなく、その歌を自ら生み出すのです。そうして生み出した自分の子どもを慈しむ、その自然な人間の姿が、私たちの胸を打つわけですね。
 エイモス・リーは今年、ボブ・ディランのツアーに帯同しているとのこと。たしかにディラン的な要素も感じ取れますね。こうして、本来の、あるべき姿のアメリカを歌い継いでいってほしいものです。
 ちなみに、こういうのを聴いちゃうと、某平井堅さんとか、ちょっと辛いっすね。がんばってますけど。

Amazon エイモス・リー

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2005.10.05

ホリー・コール 『ザ・ベスト・オブ』

Holly Cole 『The Best of Holly Cole』
B0000508UB 昨日の吐き気を解消するために、この方にご登場願いましょう。それにしても振れ幅の大きい人生だなあ。自分でもよくわかりませぬ。
 これはiTMSでのお買い物。本当は、彼女の代表作「Calling You」と大好きな楽曲「Blame It On My Youth」だけで充分だったのですが、やっぱりついつい他も買ってしまうのがiTMSの恐ろしさですね。まあ、セレンディピティーも大いにあるので良しとしますか。今回もベスト盤という、ややミーハーよりのアルバムを買ってしまいましたが、他の曲も本当に素晴らしかったので、自分としては納得です。吐き気もおさまりました。
 ホリー・コールをジャズ・ボーカリストというのには躊躇しますね。ノラ・ジョーンズなんかもそういう存在です。そこのところに抵抗を感じる方々もいるようですが、私は、皆さん御存知の通りジャンルにこだわらないいいかげん野郎なので、そのあたりは問題なくクリアーです。
 このベストアルバムも、かなりノージャンルになっています。最近はまたシンプルなジャズに回帰しているようですが、こんなふうに、その時の自分の好きな音楽を、自分流に料理して提供するというのもありだと思いますよ。このベスト盤は、デビューからの時系列的アレンジメントになってますから、彼女の成長、彼女の世界の拡がりがはっきり聴いて取れますよ。ジャズが高尚でポップスが低俗だなんて、いったい誰が言ってるんですか?トム・ウェイツ、ポール・マッカートニー、エルビス・コステロ…絶対的名曲のカバーですよ。どれもすっかりホリー・コール節になっていますし。
 で、そのホリー・コール節というのはなんなのかと言いますと、一聴してホリー・コールだと分かるということです。で、それは具体的になんなのか?そんなことはどうでもいいですよね。いくらでも語ることはできますけれど、野暮ってもんです。
 ただ言えるのは、彼女の歌は自然体であるということ。ノラもそうですけれど、必要以上の色付けをせず、ストレートに自分の好きな歌をていねいに歌う。バックの演奏もトラディショナルでシンプルなものですし。いわゆる癒し系として片づけてしまうことには抵抗がありますが、やはり今日の私も事実として癒されているわけです。その癒しの素になるのが、結局は自然ということになるのでしょうか。
 そして、やっぱり美しいメロディー。最近、そこに落ち着くんですよね。いろいろな音楽を聴いたり、弾いたりしてきましたが、なんか原点に戻っているんです。リズム派、ハーモニー派、メロディー派なんて具合に、無理やり音楽的嗜好を分けるとしましょう。あなたはどの派に属しますか?私は最終的にはメロディー派なんです。
 このアルバム、本当に美しいメロディーに満ちています。それがホリー・コール節によって、こちらにストレートに届くのでした。ああ、至福。現代人で良かったなあ。たくさんの美しいメロディーに出会える。ん?未来人はもっと幸せなのか?未来も捨てたもんじゃいないですね。

Amazon The Best of Holly Cole

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2005.10.04

『神様の愛い奴』 奥崎謙三主演

絶対に見ないことをおススメします!!

aalk_21 こいつは見てはいけません。数日前までの夢のような気分はぶっ飛び…いや、これも夢であってほしい。悪夢だ。
 今日、ここにこうして記事として書くことも様々な意味で躊躇されますが、あえてこのブログ創立の精神にのっとり、書かせていただきます。硬軟聖俗なんでもござれ!
 いや、実は昨夜寝る前に、NHKハイビジョンスペシャルで「いのちで読む般若心経〜生命科学者・柳澤桂子〜」を観たんですよ。そこで、あらためて般若心経の素晴らしさを実感し、釈尊の天才ぶりを再確認しました。また、仏の教えは真実であり、決してどこかの宗教のような人間の都合によるフィクションではないんだなあ、という確信。そして、自分も自分流般若心経訳に挑戦しようかなあ…などと思いつつ、なんとなく落ち着いた気持ちで床についたわけです。神かあ…仏かあ…空かあ…自己を捨て…zzz。
 そして、いつも通り夜明けとともに目を覚まし、それでこれですからね。よせばよかった。
 よく言われることですが、人間は何かを禁止されると、その禁止されたことに対する執着が増します。奥崎謙三氏の『ゆきゆきて神軍』は高く評価している私ですが、出所後の彼の行動には正直幻滅すら感じましたし、この作品に関しても、多くの人から『ゆきゆきて神軍』が好きだったら絶対に見るな!と言われてきました。そんな具合ですから、人間であるワタクシは、御多分にもれず見たいという煩悩を膨らませていったわけです。それでも、そんな作品のために4000円も払うのは、独身時代ならいさしらず、今の私にはとてもできません。いや、ある意味、それを唯一の理由として、自分の執着を見て見ぬふりしてきたわけです。
 ところが、なんと、親切にも、こいつをごていねいに焼いて私の目の前に差し出す、奇特な後輩が登場してしまったのです。う〜、結局私は自らの煩悩に勝てず、早朝から見てしまったというわけです。
 でも!でもですねえ…まあ、夕鶴の与ひょうはかなり俗っぽい人間ですからね、私とは同病相憐れむ関係ですけど、イザナギやオルフェウスという東西大関級の神様だって、見るな!って言われながら見ちゃったんですからね。仕方ないでしょう。私は神でも仏でもありません。しかし、やはりその代償は大きすぎました。
 そこに展開していたのは、まさに黄泉の国のイザナミよろしく腐りきった奥崎謙三神軍平等兵による、まったく救いようのない人類史上最低のドラマでした。吐き気に襲われました。よくぞここまで最低なものを作りましたね。お見事です。ここまでひどいと確かに神の領域かもしれません…。とにかく人間の所業ではない。
 今年5月でしたか、とうとう彼は神に召されました。なぜだか、私の心にポカンと穴が空いたような気がしたのを記憶しています。そして今日、またどうしようもない虚脱感が。もしかして、これが空か?いや、そんなはずはない…。硬軟聖俗、そんなカテゴライズすら拒否する、俗人には分かり得ない奥崎謙三ワールドが、今日私の中で神話となりました。
 …なんて、こんな風に書くと、また同じ穴にはまるムジナが増えそうですね。いや、ゼッタイ見ちゃダメですよ!!ゼッタイ…。

「神様の愛い奴」公式

Amazon 神様の愛(う)い奴

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2005.10.03

『ノラや』 内田百けん (中公文庫)

4122027845 先週の金曜日の興奮いまださめやらず。そこで、いい具合にクールダウンしてくれる読み物を…うん、やっぱりこれでしょう。
 それにしても、内田百けんの「けん(門の中に月)」が表示できないってどういうことですか。入力はできますが、保存すると「内田百?フ」になっちゃいます。「?フ」って言われても…なんとも脱力してしまいますな。沈静化には効果ありですか。まあ、仕方ない、百けんで行きましょう。
 さて、この本は、私にとって文章のお手本の一つです。私がお手本としている書き手は、ジャンルごとにたくさんいるわけですけれど、文学畑ですと、この内田百けん先生、太宰治先生、幸田文先生といったところでしょうか。少し対象を広げれば、串田孫一先生や赤瀬川原平先生、それに鈴木孝夫先生(やっぱりまた出ちゃった)も、文章の先生です。
 特に、この内田先生(ホントは百?フ先生って書きたいんだけどなあ)の軽妙洒脱な文章は、私の憧れですよ。こういう自然な文章書きたいですね。内容、文体ともに完璧。日常の風景のようにさりげなく流れゆく言葉たち。力んだ、作られた言葉にではなく、こういう言葉に生かされている自分に気づくこと、そのことこそが、内田先生の文章を読む喜びです。
 だいたい、猫を溺愛している、もうメチャクチャに惚れている、そのことだけでも私にはたまらない。これは、まあ猫好きにしかわからない部分でしょうが。また、本人同様メチャクチャな奥様に関する描写がたまりませんね。ウチの夫婦も全く同じ状況ですので、先生の気持ちがよく分かります。男って、ふだん愛情を上手に表現できないんですよね。実はカミさんの(女の)愛情には負けないぞって思ってるんですけどね。そこがまた実にリアルに可愛く表現されています。
 文体の特徴はなんなのでしょう。上に挙げた私の先生方の文章の特徴の一つは、そのリズム感だと思います。私は文学以上に音楽を愛する者ですから、そのあたりに敏感なのでしょう。そのリズム感が醸し出される仕組みについては、大学時代、「言語美学」(ソシュール研究家の小林英夫さんですね)を通して考えましたが、やはり無理でした。
 私の感じるところによれば、この内田先生のリズム感は漱石先生譲りではないようです。漱石ってリズム感悪いですよ。私に言わせると。内田先生は宮城道雄先生との親交が深かった。私もいちおう琴など弾きますので、そんなシンパシーも含めて考えますと、やはり内田先生の美しいリズム感は、日本語と密着した音楽から学んだものだと信じたいところです。宮城先生も内田先生から多くを学んでいますし。
 内田先生と言えば、黒沢明監督の「まあだだよ」も思い浮かびます。これはちょっといけなかった。内田先生はあんな、ただのいいオジサンじゃなかったと思いますよ。あまりに美化しすぎた。クロサワは、もうあの時死んでいましたね。
 とにかく、今日は内田先生の「ノラや」「クルや」の情けない声に癒され、私の心に久々夕凪の戻った一日でした。ありがとうございました。

Amazon ノラや

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2005.10.02

『人にはどれだけの物が必要か−ミニマム生活のすすめ』 鈴木孝夫 (中公文庫)

4122034655 おとといのことがまだ夢のように感じられる今日の昼下がり。すみません、また大明神ネタで書かせて下さい。
 言語社会学者としての鈴木孝夫先生はあまりにも有名です。その関係の御著書はたくさん書店に並んでいますし、その手の堅い本としては、実際かなり売れているようです。また、昨日も書いてように、国語の教科書や入試問題の定番出典筆者としても昔からかなり有名ですので、多くの日本人は、どこかで先生の文章に接しているものと思われます。
 そんな中で、隠れた名著として私がおススメしたいのがこの本です。隠れた名著とは失礼かもしれませんね。でも、言語と文化、社会に関する知見の卓越した方との認識があまりに強いために、このミニマム生活実践者、つまり環境問題に対する有言実行者としての先生を知らない、という方も多いのではないかと思うのです。
 私はこの本が大好きです。この本の内容は目次を見れは分かるでしょう。下のAmazonのリンクからお確かめください。
 ここに書かれていることは、絶対に正しいことです。しかし、その絶対に正しいことを実践するのは、社会的には非常に難しい。この時点で、我々のような普通の人間は意志が萎える。だから実際には何もできない。世の中に流される。ところが、先生は、その持ち前の強靱な意志と行動力、そして自由な智恵とユーモアの精神をもって、それをぐいぐいと実行してしまうんです。
 そんな、有言実行のドキュメンタリーとして大変興味深い内容になっているわけですね。難しいことを、シャレてイキに実現してしまう。まったくステキです。おとといも、別れ際に、御自身の背広のネームを見せてくれました。もちろん「鈴木」ではありません。「渡部」でした。もらいものなんですね。実はズボンも…と言いながら脱ごうとおどけてみせる…なんともおちゃめな。
 私はこの本の「地球は私のもの」という考えに、つくづく感心させられました。「地球はみんなのもの」ではないんですよ。この街も、この木も、この鳥も、はたまたあそこのキレイなお姉さんも、全部自分のもの。自分のものだからこそ、大切にするし、整えようとするし、心から心配もする。きれいごとで、地球はみんなのもの、愛は地球をなんたら…なんていう浮ついた言葉を吐いても、実際何も変わりません。
 仏教的な考えにもつながりませんか。世界の全てが縁でつながっているとすれば、自分と世界は同価値である。だから、「地球は私のもの」であり、「私は地球のもの」であると。
 あと、この本でもそうですし、おとといも強く感じたことなのですが、先生は、ご自分の意見を決して人に強要しません。人それぞれの考え方があるし、境遇もある、そういう言葉がお話の節々に聞かれました。そこが先生の魅力の一つだと感じました。
 この本は、人類、特に先進諸国の人々(特にアメリカかな…そんな話もやっぱりたくさん出ましたよ)必読でしょう。この本は、地球を救う、つまり結果的に自分を救う大きなきっかけになる力を持っています。鈴木先生は、今までの人生で、5、6回自分を革命的に変えてこられたとおっしゃっていました。人間は変われるのですね。それは、自分に対しても、地球全体に対しても、希望となる事実です。そんなことも、強く強く感じることができる鈴木大明神の言霊でした。

Amazon 人にはどれだけの物が必要か

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