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2005.08.31

本日学園祭でして…

 今日はいきなり学園祭でして…あっ、ふつうはまだ2学期始まってないんですよね、夏休み最後の日ですか…ここ富士山麓は寒いので夏休みが短いんですよね。今年はまだ蒸し暑いのですが、去年なんか今ごろの記事に、最高気温14度、ストーヴつけた、なんて書いてあります。で、もう先週2学期が始まっているんですけど、それにしても学期始まってすぐに学園祭はないでしょう。つまり、準備期間なし。そういう内容だということです。
 さて、昨年のゲストは、今や天才お笑い芸人の名をほしいままにしている(?)「浮世絵師」と「じゅんご」さんでありました。浮世絵師は私の教え子です。今年は3人の方々がおいでになりました。ある意味不思議な組み合わせ。同じプロダクションということでしょうか。
im77s まずは、元ヴィッセル神戸の監督である松永英機さん。短い時間でしたが、子供たちには非常にためになるお話しをしてくださいました。人間は苦境にあって何ができるか…。つい最近苦境を経験されたようですから(その話はでませんでしたが)、お話に重みがありましたな。
jji21 そして、次。新人?女性歌手の奈々世里奈さん。いわゆるポップ演歌としての歌謡曲ですから、生徒達にはちょっときつかったかな。お兄さんが石原裕次郎のものまねで有名な「ゆうたろう」さんだそうです。妹さんは唄もトークもなかなか上手でしたので、今後のがんばりに期待しましょう。ちなみに新曲の「合鍵」は、しばたはつみさんのデビュー曲のカバーですね。コテコテの70年代歌謡が体育館に鳴り響いていました。不思議な空間。私は興味深く聴きました。鈴木邦彦の職人芸バンザイ!
sinw1 最後は山梨県限定の有名人(失礼!)伸太郎さんの登場です。これまた山梨限定ヒット曲…いやいや全国発売したんだった…「白い風」などを熱唱して下さいました。最近では、山梨とも縁の深いプリンセス天功さんの座付きミュージシャンとしても活動しておりますね。なんでも、そんな関係でいきなり世界デビューだとか。ちなみに天功さんが付けてくれたという世界戦略苗字(!)は「徳川」だそうです(!)。さすが天功さん。違うわ。伸太郎さん、唄も上手ですし、ギターの腕前も相当のものがあるようです。ルックス的にも華がありますし、世界戦略に大いに期待しましょう。
 厳しい業界で成功するには、やはり人脈。縁ですね。縁は運でもあります。結局、縁=運を呼ぶのは、人徳なんでしょうかね。ただそれだけではないような気もしますし…。なんとも言えません。本日おいでいただいた皆さん、本当に自分の好きなことをやり通すのは難しいでしょうが、がんばってほしいと思います。陰ながら応援していきたいと思います。なんかフツーのまとめ方になってしまいましたけど、こう言うしかないので…。

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2005.08.30

フランク・アヴィタビレ 『ボディ・アンド・ソウル』

Franck Avitabile 『Bemsha Swing』
344 私の大好きなジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが1999年に亡くなった時は、本当にショックでした。あまり身体的ハンディキャップのことは言いたくありませんが、やはり、彼が真の意味で小さな巨人であったことに誰も異論はないでしょう。そのペトルチアーニが見出し、ある意味自らの後継者と認めたのが、若きフランク・アヴィタビレでした。
 たしか最近、ニューアルバム(4枚目かな)を出したばかりだったような。それはまだ聴いておりません。というか、彼の3枚目のアルバムも、ずいぶん前に手に入れていたのですが、忙しさにかまけて聴かずじまいになっておりました(正直忘れていた)。そして、やっと昨日から今日にかけて聴いたのです。これが素晴らしい出来だった。
 たしかに力強いタッチや、節回し、左手の雄弁さなど、ペトルチアーニを彷彿とさせるところがありますね。音は全体に多めですけれど、決してうるさくないし、過度に情緒的でもない。たいへん成熟した音楽性だと感じました。この時、彼はまだ30そこそこですよね。2002年の録音です。
 もともと、私はグラッペリからジャズに入った人間ですので、やはりこういう感じの、なんというか、フランスのエスプリとでもいうのか、ちょっと冷めた(ようにふるまう)知性のようなものに憧れがあるんですよね。そればかりだと、それこそフランスの現代思想のように、頭痛がしてきますけど。
 それにしても、ここでは、若き天才は、ものすごい知的冒険をしていますよ。タイトル曲(日本ではなぜかBody
and Soul 本国ではBemsha Swing)やBye Bye Blackbirdといったスタンダード・ナンバーの料理法が斬新でかつうまいこと!そして、彼のオリジナル曲の、スタンダードに優るとも劣らぬクオリティーの高さはなんですか!オシャレでカッコよくて耳に残る。いったいどういう勉強をしたのでしょうか。
 本編のトリオによる楽曲はそんな具合でして、正直完璧です。聴いていただくしかないですね、これは。絶対に勝って損のないCDです。そして、なぜか日本盤だけのボーナス・トラック2曲。これは泣けます。フランクのソロ・チューンなのですが、トリオの時は全く別人のようなタッチで、この上なく美しいオリジナル曲を弾いています。おそろしく贅沢なオマケですね。こんな曲、生で聴いたら溶けちゃいますね。
 う〜ん、ニューアルバムも聴きたくなってきたぞ。たぶん、近いうちに買っちゃいます。

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2005.08.29

政治と文学〜島田雅彦の文章から考える

3471 お金がないので、ここ数年新聞をとってません。ひどい話です。これで国語やら現社やら小論文やらを教えてるわけですからね。なんとかなってますけど。で、新聞は父親が時々切り抜きをまとめて持ってきてくれるんですよ。それをまとめて読む。文化欄とか、時事論文が主ですね。昨日も父がデリバリーしてくれました。
 その中でも、今月の24日の朝日文化欄は面白かった。「文字・活字文化振興法」についての文章も興味深かったけれども(いやはや、文字と活字を並列するのもどうかと思いますが、振興ってのもねえ)、文芸時評の島田雅彦さんの文章がなかなかの優れもの。「歴史も出来事も抽象化する政治に対し、文学はあくまで細部への拘泥によって歴史や出来事を具体化する」と締められています。なるほど、と思わせます。
 しかし、作家であるはずの島田さんは、ここでは戦後日本の文学やアニメやオタクやナショナリズムを物語化しているのであって、それは文脈を与えるという意味では、見事な抽象化と言えます。つまり、評論家としての作業ですね。最大公約数を導き出す政治的抽象とは違いますが、そうですねえ、政治的抽象の前段階になるのでしょうか。歴史や出来事に答え(意味)を与えるわけですから。その答えを起点に政治が動く。
 そう考えると、作家が評論家的な仕事をするというのは、ある意味自己矛盾に陥る可能性をはらんでいるわけで、たとえ生きていくためだとしても、勇気のいる行動ではないかと思われます。島田さん自身も「アニメは文学に取って代わるジャンルとなった」と書いています。文学をやる人(作家?小説家?それとも…)は大変だ。
s ところで、ここで思い起こされるのは、抽象化よりも細部に拘泥して、政治で文学しちゃうこの人のことですね。これからの日本なんていう抽象的なことよりも、郵政という具体的なものの方が一般人にはわかりやすい。いわばオタク的思考なんですよ。政治オタクというかオタク政治というか。未来の日本とか世界とかいう次元ではなく、局所に萌えてるのであって、それは外から見てもyes noが判断しやすい。
 電車男ではないけれども、今ちょっとそういう男の再評価が始まってるんですよね。理想ばかり掲げて抽象論に終始しているヤツより、まず自分の得意分野でものすごい力を発揮するヤツの方がカッコいいんじゃないかって。その方が結局世の中を動かしていけるんじゃないかって。それこそ昔、文学が担っていた部分ですよ。そこを、アニメやマンガや、webの世界なんかが受け継いだ。そして、今、つまらないものの代表選手とされてきた政治までが、小泉さんの手によって萌えの対象になりつつあります。
 これは憂慮すべき事態なのか、それとも歓迎すべき事態なのか。私にははっきりとはわかりませんが、ただ、小泉さんが、歴史に残る「政治作家」になるであろうという予感だけは確かにします。ミクロ的視点が実はマクロ的視点になっていた、ということは往々にしてあることです。文学の目指すところはそこですし…あれ?小泉さんは政治家だったっけ。

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2005.08.28

『 微妙なマナーがずばり!わかる本』(KAWADE夢文庫)

4309495893 How toものなんて、ほとんど私には必要ありません。てか、読むのが面倒だし、習うより慣れろ式の人生を歩んできた私には、あんまり意味がないんですね。こんなんだから、生徒に教える時も、まあ慣れるしかねえな、っていうことになっちゃう。彼らが要求しているのは間違いなくHow toなんですが。
 でも、世の中には試行錯誤が許されない分野というのがあります。また、学校ではほとんど教えてもらえないし、実習の機会が極端に少ないものもあります。自分の趣味で練習できないもの。そういったものの代表格が、社会におけるマナーやしきたりではないでしょうか。これらについては、マニュアルを手に入れて、能率的に学習していかなければなりません。
 私もいつのまにか、バカボンのパパと同い年になってしまいました。かといって彼のように自由に生きる才能も勇気もないのであって、つまりは常識ある社会人として日々生きていかなければならない立場におかれているわけです。しかし、先生なんていう社会性のない非常識な仕事をしているおかげで、なかなかその常識とやらを身につけられず今まで来てしまいました。
 きっと、そんな実は自信なしなしの大人たちに買ってもらうために書かれた、というか作られた本の一つなんでしょう。これはたいへんためになりました。そして、それ以上に心を動かされました。
 本来は辞典的に使うべき本なのでしょう。つまり困ったことがあったら似た事例を探して解決策を得るという使い方です。私もそういうつもりでコンビニで買ったんです。ところがペラペラめくっているうちに止まらなくなってしまって、結局全部読んでしまったのです。
 冠婚葬祭、贈答、招待、手紙に電話、食事、さらには職場での人間関係から近所づきあいまで。全部で200に及ぶ事態と常識的対処法が書かれています。それらの事態がなんともありそうな、また今まで経験してきたけれど、その時どうしてよいかわからない妙な緊張や違和感を抱いたようなシーンばかりなんですよね。例を書き出すとキリがないので、まえがきと裏表紙に載っているものを写しますね。
 お中元・お歳暮を贈るのをやめたいときは? もらった祝儀袋の中身がカラだったら? 訪問客にそろそろ帰ってほしいときは? 結婚通知のはがきで結婚を知ったとき、お祝いは贈るもの? 目上の人との重要な用件に、携帯電話から電話するのは失礼か? どの程度のおつきあいの人なら、病院にお見舞いに行く? 見知らぬお年寄りに声をかけるときは、何というか? リストラで退職する人でも、送別会はやったほうがいいか?
 う〜ん、たしかにこういうことは学校にも親にも教わってこなかったなあ。だいたい、一生に一回遭遇するかどうかという事例が多い。だからこそ分からないし失敗もできない。他にも、
 列車で駅弁を食べるとき、まわりの人に断るべき?
なんてのもあって面白い。ああ、自分だけでなく世の中には軽い非常識症状のオトナの方々がいらっしゃるんだ。そういう、言うに言えない、日常の俎上に登らない共通感情みたいなものが面白おかしいですね。意味のあるようなないような非日常的常識(こういう存在自体パラドックスですね)に、人間は縛られ、躍らされ、不安にさせられているわけです。この200の事例、マンガやコントにしたら絶対おもしろいですよ。ふだんは潜在意識に閉じこめられている、こういう共通感情を舞台に上げるのが、笑いの基本ですからね。
 ただ、正直読んでて楽しいだけじゃなかった。今まで犯した業務上過失非常識(ん?未必の故意もあったかな)の数々に胸が痛んだのも事実です。
 そして、たぶんこの本を読んでも、再犯は免れないでしょうね。まあ、加害、被害、相半ばでしょうから、お互い様ということで…。
 
Amazon 微妙なマナーがずばり!わかる本

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2005.08.27

祝!ウルトラマンマックス出演(?)

rtgg 本日放送されたウルトラマンマックス第9話「龍の恋人」に、ワタクシと上の娘が出演いたしました。やったあ!ロケに参加したことは、こちらに書きましたが、はたして編集でカットされずに放送されるかどうか、正直不安でした。結果として、いちおう2回映っていたので、夢が叶ったことにしておきます!
 ただ、自分でも録画してコマ送りしないと分からないという程度のものですので、もちろん自己満足でありまして、読者の皆さまにはどーでもいいことですよね。でも、でもやっぱりうれしいものはうれしい!ウルトラマニアを自称する父娘は、すっかり溜飲を下げたのでございます。
 やはり工夫したのがよかった。夏祭り会場に龍の怪獣が現われて逃げ惑うという設定なわけですが、放映されても、群衆の中の自分を探すのは難しいと思いましたから、まずは、娘をだっこして逃げるということにしました。これならある意味リアルですし、映像的に自分でも探しやすい、と思ったからです。また、何回かのリハの中で、カメラが向いてるなと思った俳優さんのすぐ後に立ち位置を調整し、さらにその俳優さんが転んだ時に、後を振り返るという演技をしてみました(笑)。また、別のシーンでは、とにかくカメラのフレームを読んで、その中央に位置するよう心掛けました(笑)。
SANY016511 その結果がまずは右のシーンです。夏祭り会場から逃げ出す引きのシーン。やはりフレーム中央を駆け抜けたのが功を奏したようです。たった1秒強の演技ですが、後を振り返ったり、ちゃんと娘の方を見たりして、なかなかいい味を出しています(?)。上空ではCGのナツノメリュウが炎(光線)を吐いています。ロケ当日はもちろん何もない。花火も合成です。
SANY01601 続いて左のシーンです。これは実際の映像ではコンマ2秒くらい。ライヴでは自分でもはっきり分かりませんでした。コマ送りすると、意外にアップなのでビックリ。私が目をつけた俳優さんは、実は悪の主人公、村長の息子役の方だったのです。その方が龍の登場に驚いて逃げ惑い、転倒するシーン。手前でブレてるのがその方で、その後方で娘を抱いて逃げているのが私です(笑)。ものすごい形相で恐怖しております。作戦通り映りこみましたな。
 ところで、今回の内容、ウルトラセブンの「ノンマルトの使者」そのものでしたね。あの時(もう40年近く前ですが)は先住民と海底開発の問題を扱っていました。セブンでも最も印象に残る回の一つです。金城哲夫らしい脚本でした。あの時ってまだ沖縄返還されてなかったんですよね。今回は、リゾート開発の問題でした。そして正義の味方が一瞬悪になる。伝統的なウルトラマン的ジレンマです。
 こうしてテーマ性を持たせ、子どもの心にメッセージを刻印するというのは、私は賛成です。40年前のノンマルトの記憶は今でも鮮明に残っていますからね。正義が誰にとっても正義であるとは限らないということ。幼稚園児の私にもなんとなく分かりました。
 とにかく、そういった好ましい作品にワタクシたちの出演が叶ったこと、本当に感謝感激です。はい。

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2005.08.26

吉田の火祭り 2005

SANY01471 台風一過の好天のもと、吉田の火祭りが行なわれました。
 昨年は、どうもよくわからん祭だ、みたいなことを書いてますね。
 今年は、知りあいのお宅におじゃまして、火入れの儀式から見させていただきました。本町通りの大松明とは別に、上吉田地区の一般家庭でも、松の木を井げたに組んで、そのてっぺんに油脂たっぷりの松の木片を乗せて点火します。その火勢が安定してきたころ、ちょうど日はどっぷりと暮れて、いよいよ祭り本番というムードになってきます。メインストリートの方からは、賑やかなお神楽の音が。遠く南方には、富士山の登山道の灯が数珠のように連なって天に昇っていくのが見えます。
SANY01541 浅間神社から御旅所に降りてきた神輿と山形にお参りして、大松明と屋台の延々と並ぶ本町通りに出ました。今年は、台風の後ということで、松明が湿気を含んでいるのか、いつもよりは火に勢いがなく、そのおかげで、火の粉を頭からかぶったり、崩れ落ちる火の塊に襲われたりすることもなく、安心して歩くことができました。あいかわらず人は多いですね。外国の方もたくさん見かけますが、いったいどんな印象を持つのでしょうか。
 ひととおり、子どもたちの欲望を満たして、再び知り合いのお宅の庭でたいそうなご馳走をいただきました。お客さんとしてのではなく、こうして地元の生活に根ざしたお祭りの風情を味わうことができたのは、本当にありがたいことでしたね。
 ところで、先日、卒論で「火祭り」を取り上げるという教え子が私にアドバイスを乞いに来ました。彼女は吉田というコミュニティーと火祭りとの関係を考えているということでした。いろいろと話をしたんですが、結局は不思議な祭りであるということに思い至ります。鎮火の祭りになぜ「火」なのか。たとえば水ではないのか。まあ、あんまりネタばらしはできませんけれども、この前なまはげについて書いたことと共通するような気がしました。神様の怒りの火(それはもっとリアルに言うと、コノハナサクヤ姫の嫉妬の炎なわけですけど)を鎮めるために、結局は神様におべっかを使うわけです。「そうそう、わかります。あなたのお怒り。ご主人もひどいですよねえ。まったく男ってのは…」という感じでいっしょに炎を燃やしちゃうんですよ。それで、なんだか神様の怒りがおさまってしまう。自分より強い相手のご機嫌取りの常道です。それが神道の心得。西洋的な方法論ではありませんね。
 そんなふうに考えると、ただ単に火が燃えているだけであることの、そのシンプルな祭り上げの姿というものが、やはりそれ以外の形でありえないということに気づくのです。神様の最も喜ぶことだけをしていればよろしい。そして、松明が自然と熾火になり、翌朝には冷たい炭と灰になっていく。その時、神の怒りもおさまっているのです。単純ですが、やはりそれ以外にありえない、実に美しい祭りなのかもしれません。吉田のみなさん、ありがとうございました。

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2005.08.25

『頭がいい人、悪い人の話し方』 樋口裕一 (PHP新書)

4569635458 最近、職場で「ベストセラーをぶったぎる」のがはやっております。つまりは、現今の出版業界のあり方、およびそれに躍らされる読者を憂えるわけです。この前読んだ齋藤孝の「段取り力」はひどすぎました。いやはや段取りが悪すぎる内容で思わず失笑。編集者が集めてきた他書の引用ばかりでサイテーな本でした。高校の先輩とは言え、やはり糾弾しときます。あれを売っちゃいかん。
 で、こちらのベストセラーも面白かったですよ。つっこみどころ満載。
 なんででしょうねえ。こちらにも書きましたけど、看板に偽りがある本が多いんですね。これは詐欺罪とかにならないんでしょうか。この本もタイトルに反して、「頭のいい人の話し方」が一つも出てこない。つまり、タイトルとしては「頭の悪い人の話し方」だったら許せる。まあ「頭の悪い」なんて差別用語をタイトルに使っちゃいけません。「バカの…」も同様。だいたい、本文の中で「差別は絶対にいけない!」みたいなこと力説してるじゃないですかあ。
 あと、最初のうち妙に気持ち悪いなあと思ったのは文章です。だって、各章全てが小論文なんだもん。それも樋口流全開。「もちろん…だが」とか「たしかに…しかし」とか、いわゆる「とりあえず譲歩」ですね。あと、「論理的」のつもりなんでしょうけど、実に潤いに欠ける表現、型にはまった展開に小学生レベルの接続詞たち。なんでも連発したら、それこそ頭が悪い。読む人に不快感を与えます。
 ところがですねえ、いやいやながら読み進めるうちに、なんか笑えてきたんですよ。そう、内容的には結構スパイスの効いた毒舌なんですが、それを、あの能面みたいな小論文調で書いているわけでして、その対比がだんだん面白くなってくる。妙なミスマッチを40も読まされるわけですから。もしかして最高のギャグ?そうだとしたら、筆者の筆力はやはり神様級でありまする。
 ギャグということでは、章ごとに挿入されている、しりあがり寿さんのイラスト。これがまたいい味出してますね。樋口さんの小論文をあざわらうかのような見事な作品たち。ギャグ化を助長して、樋口さんを救っています。しりあがりさんも高校の先輩なんですけど、こちらの先輩はいい仕事してます。
 ところで、文は人なりと申しますが、文の中でも、最もその人の人柄を表すのは話された文であります。つまり、話し方は人柄そのものであるということです。だから、この本のタイトルは「頭のいい人、悪い人の人柄」…いや、内容的にはずばり「頭の悪い人の人柄」とした方がいいですね。そうすると、詐欺罪にも問われない。
 で、なんとなくひらめいたんですけど、この本て、とっても有用だと思うんですよ。こんなふうに。
 あなたにとって、いやなヤツにこの本を貸すんですよ。「この本なかなか面白かったですよ」とか言って。上司にも「面白い」本だったら貸せますよね。そうして、この本に代弁してもらうんですよ。で、間接的に気づいてもらうってのはどうでしょう。これは効果を期待できますよ。
 はっきり言って、40のバカの話し方の中に、必ず自分にあてはまるものがあります。だってそういうふうに書かれているんだもん。自分の主張してもダメ、人に迎合してもダメ…なんて調子で。誰でも、あっこれ自分だ、って思う章があるでしょう。樋口さんも自分がモデルになっている部分もあるとカミングアウトしています。
 な〜んて、私もずいぶんと頭の悪い文章を書き連ねてますな。頭も悪いし性格も悪い。文は人なり…かあ。
 ん?ちょっと待てよ。そう言えば、この本、職場の後輩が私に貸してくれたんだ…ということは…。
 
Amazon 頭がいい人、悪い人の話し方

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2005.08.24

マイク・ノック 『チェンジング・シーズンズ』

Mike Nock 『Changing Seasons』
B00007GZKC 久々に渋いジャズでも聴きましょうか。今日取り出してきたのは、オーストラリアを代表する(出身はニュージーランドだったかな)ジャズ・ピアニスト、マイク・ノックの作品です。
 マイク・ノックは、今でもNAXOSのジャズ部門のプロデュースしてるんでしょうか。才能ある世界中のマイナー・アーティストを発掘する同レーベルのジャズCD。マイク・ノックに認められてメジャーになっていった奏者もたくさんいます。アルバム1枚1000円というのがまた素晴らしい。
 で、御自身の作品としては、これが最新のものでしょうか。2002年の録音です。編成は普通のピアノ・トリオでありますが、そこに展開されている音楽は、実に充実しております。私はこのアルバム好きなんですよ。
 やはり、アメリカでもなく、ヨーロッパでもない、オーストラリアだというのもあると思いますが、大変新鮮に耳に響く音楽を奏でる人ですね。もともと、アイヒャーに認められてECMからレコードを出していただけのことはあります。マイケル・ブレッカーとの共演アルバムも聴いたことがありますけれども、それも良かった。ものすごく個性的というわけではありません。どちらかというと、何でもそこそこにこなすというタイプ。まあ、そういう懐の広さ深さがプロデュース業に向いているんだと思いますけど。
mikenock-trio-721 このアルバムは、そういう意味で、いろいろな人から多くを吸収して、そしてそれらが自分の中でいい具合に熟成された、その好機に録音されたという感じなんですね。いろいろなタイプの曲が並んでいるんですが、聴き終わると、やっぱりマイク・ノックだったな、という印象を残す。たぶん、そのマイク・ノック色というのは、このアルバム・ジャケットのような色。何気ない風景だけれども、ものすごくセンチメンタルな気持ちにさせてくれる風景。よく聴き込めば聴き込むほど、味が出てきます。
 そう、なんか「するめ」なんですよね。決しておっしゃれ〜という感じはない。ニューヨークの夜景とかいう感じではない。けれども、いろんな味がしみ込んでいて、ついつい手が伸びる。うん、好きですね、こういう音楽。
 このアルバムは「季節の移り変わり」というタイトルがついていますね。9曲目に「春から夏へ」という曲が、そして掉尾に「冬から春へ」という曲が収録されています。この2曲は、非常に印象的な作品です。音による絵画といった風です。絵巻物でしょうか。季節に伴う空気の色合いの変化、光のエネルギーの変化、そんなものすら感じさせる楽曲と演奏になっています。そこに、日本の季節感を見るのは私だけでしょうか。
 マイク・ノックの奥さんは高橋ゆりさんという日本美人です。

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2005.08.23

『三びきのこぶた』 イギリス昔話 (福音館書店)

4-8340-0097-4 今日は富士河口湖町の図書館で読み聞かせがありまして、私は急きょ効果音などの担当になり、チェロをかついで行ってまいりました。
 いろいろと内容盛りだくさんだったのですが、メインは人形劇「三びきのこぶた」。子供たちはけっこう舞台に引きつけられておりました。
 もちろん、私もこの話、小さい時によく聞いたり、読んだりしてました。でも、ディテイルとなると、ちょっと自信がなくなっていたんですよね。そんなわけですので、今日は適当に演奏しながら、内容を復習してみようと思っていたのです。
 それがですねえ、どうもしっくり来なかったんですよ。なんか、自分のイメージと違う。あれ?こんなに軽いお話だったかなあ、という感じ。
 今回は乳幼児が対象ですから、当然ソフトにしているんでしょうね。それはわかります。ん?でもなあ。
 今回の人形劇では、三びきのこぶたちゃんは最後までみんな健在でした。おおかみ氏も最後はお尻に火がついて火傷など負われたようですが、ご存命のようでした。こんなにノホホンとしてたかなあ?
 というわけで、早速調べてみました。私が読んだ(聞かされた)のは1967年発行の福音館書店版のようです。ちょうど発行された頃に読んでもらっていたみたい。
 これによると、まず、こぶたちゃんたちが家を建てることになった理由がリアル。母親が貧困のため、子供たちを捨てざるを得なかった。母子家庭だったんですね。三人の兄弟を育てるのは無理だった、と。
 で、こぶた1とこぶた2は家を吹き飛ばされた末、おおかみ氏に食べられちゃうんですね。こぶた3は悪知恵を働かせて危機を切り抜け、最後には一発逆転でなんとおおかみ氏を鍋でぐつぐつ煮て食べちゃう…。
 本当の意味での弱肉強食の世界です。特に寓話として考えると、人間世界では腕力だけではなく、また単なる知恵だけでもなく、結局は悪知恵に優れたヤツが生き残る、ということを象徴しているようで面白い。
 ところで、藁の家と木の家がダメで、レンガの家が最も優れている、というのは、実にヨーロッパ的な価値観ですな。私も小さい時、そう覚え込んでました。木の家よりコンクリートの家の方が優れていると。言うまでもなく、日本では通用しないですね。日本版三びきのこぶたでも書いてみようかな。
 あ、そうそう、「おおかみ鍋」の雰囲気、太宰も紹介していた甲州に伝わる「カチカチ山」の「ババ汁」に近くて好きですね。こっちもいまやカットされてますけど。

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2005.08.22

FACE 3枚刃シェーバー(水洗いOK)

53330529_11 この夏休みはヒゲを伸ばしてました。別に理由はありませんが、なんとなく長期休暇は無精ヒゲが伸びます。似合うわけでもないし、趣味悪いんですけどね。
 私は天パーでして、頭髪のみならず、体毛は皆カールしております。久々にヒゲも1センチ近く伸びたのですが、やはり、あっちこっち向いて行儀が悪い。そんな意味でも、かなり見た目的には良くなかったわけです。
 で、19日に研修があり、発表者であったとこともあって、その前日に剃っちゃいました。さて、その行儀の悪いヒゲというやつは、ホントにたちが悪いのでありまして、つまり、剃るのが難しい。さらに、私の顔の皮膚は異常に軟らかく、特に電気シェーバーで剃るのは至難の技でした。
 以前、安いシェーバーを使った時は悲惨でした。刃にヒゲがかんでしまって止まってしまい、ちょっとでもシェーバーと私の顔との位置関係が変わると、ヒゲが引っ張られて、もう涙ちょちょぎれ状態…。1時間以上かけて、シェーバーの先端を分解して(もちろん顔との位置関係を変えないようにですよ)脱出(?)したこともあります。地獄でした。
 その後、高級な外国製のシェーバーを借りて使ってみたのですが、あっちこっち向いたヒゲの先端を拾ってくれず、なかなかうまく剃れませんでした。そんなわけで、いわゆるシックのような原始的なひげそりを常用しておりました。しかし、もともと皮膚がそんなに強くないですので、かみそり負けしてしまったり、実際いつのまにか出血していたりと、なかなか苦労してきたのです。
 そんなわけで、私はヒゲ人生について、半分あきらめの境地にあったのです。しかし、なんとまあ、不思議なことが起きました。今までで最安のシェーバーが完璧に私のヒゲを剃ってくれたのです。
 少し前に、あるディスカウントショップに行った時、一緒にいた娘が何を思ったか、「コレ、お誕生日のプレゼントに買ってあげる!」と言って、小さな箱に入った、いかにものシェーバーを指さしました。私はもちろんいやな予感がしたわけですけれど、なぜかその場を立ち退かない娘の熱意に気圧されて、まあ1280円じゃあいいか、という感じで、購入したわけです。
 1280円で3枚刃、水洗いも可能で、2時間急速充電で35分連続使用可能。デサインもなかなか手になじむ感じ。何と言っても、その小ささが意外なほどしっくり来る。う〜ん、これは怪しい。
 さあ、だまされたつもりで、使ってみましょう。しかし、あの1時間以上にわたる悪夢を経験している私としては、伸びたヒゲを剃るのには、それなりの覚悟と勇気を要するわけです。でもですねえ、なんと、こいつには「きわぞり機能」までもがついているんです。つまり、伸び切ったヒゲとか、もみあげとかを短くカットする刃がついてるんですよ。まずはそれで行儀の悪いヒゲたちをカットしてみました。
 そしたら、まあ、実にスムーズに短く切れるじゃないですか。全然痛くないしいい感じです。で、その短くなったやつ、つまり通常の1日放置したヒゲくらいになったやつを、普通の3枚刃の方でガーっと剃ってみたのです。
 あれれ、これまた不思議。今まで苦労していたのがウソのように、きれいに深剃りしてくれるのです。シックでていねいに剃った後と同じようにツルツル。なのに皮膚にはダメージがない!
 これには正直びっくりしました。水洗いも出来ますし、当たり前ですが普通に掃除用ブラシもついてますから、お手入れも簡単。バッテリーの持ちもよく、パワーも申し分なし。ただニッカド電池でしょうから、充電のタイミングだけは注意しなくては。しっかり電気を使いきってから充電しましょう。この手の製品で、最初にいかれるのはだいたい充電池です。つまり、しょっちゅう充電してしまって、いわゆるメモリー効果を招いてしまう。
 それにしても、これが1280円とはねえ。中国製ですが、ホントよく出来てますよ。たぶん刃の耐久性なんかは期待できないと思いますけど、とにかく1280円ですからねえ。何万円も出して、わけのわからん高級シェーバーを買うより、ずっと経済的でしょう。ああいうのは替え刃こそ高いですからね。替えバッテリーもね。
 ネットでもオークションで1280円くらいで買えるようです。ヒゲやひげそりの件でどうも満足が得られなかった方は、だまされたと思って試してみることをおススメします。
 それにしても、ヒゲってなんで生えるのでしょう。それも基本的に男だけ。他の体毛の意味はなんとなくわかりますが、ヒゲの存在だけは解せない。それに日本なんかでは、あまりヒゲを伸ばすことを社会が許容してくれません。毎日のお手入れの手間ひまによる全世界における経済的損失は、かなり大きいんじゃないでしょうか。
 それでも存在するヒゲには、やはり意味があるのでしょうか。男だけにある、ということがそのヒントになるような気もします。猫なんかのヒゲには大いに意味があるようですけど。大昔は当然伸びっぱなしだったと思いますし、今でもイスラム圏などでは、けっこう伸ばしてますよね。ただ手入れはそれなりに大変そうです。
 なんか気になってきたので、ヒゲの意味について調べてみますわ。

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2005.08.21

『都留音楽祭 クロージング・パーティー』

4671 都留音楽祭もあと半日を残すだけとなりました。本当にいい音楽祭ですよ。この雰囲気いいなあ。田舎ならではの温かさでしょうか。都会に持っていかれた音楽祭は、たいていポシャる。お金にモノを言わせて、大物を呼んでいればいいわけではない。一人一人が参加している実感のある、こういう手作りなお祭りの方が長続きするんです。今年はあまりお手伝いできませんでしたが、スタッフとして本当に皆さんに感謝いたします。ありがとう!
 今日は魅力的なコンサートの後、恒例の宴会が催されました。去年の今日の日も書きましたが、とにかく都留音楽祭のメインイベントとも言うべきこのパーティー。常連演者のワタクシとしては、ある意味非常に辛い時間であります。
 今年のパーティーもまたものすごいハイレベルな出し物が続出し、大変な盛り上がりを見せました。特に、浜中組は、いやいつもすごいんですけれど、今回はまたまたすごかった。いったいどれだけネタづくりして、どれだけ練習してるんだ?それにしても、ルーファス・ミューラーさんの「悲しい酒」(!)はお見事でした。ミラーボール回転する中で、見事な歌と演技を見せてくれました。超一流は違いますな。完全ノックダウンです。もちろん、つのだたかしさんの司会と小咄、さらには波多野さん、福澤さんを巻き込んだ出し物も最高でした。
 で、今年のワタクシ(お琴ブラザーズ)は、今回も兄弟の参加が叶わなかったので、結局相方さがしから始めなくてはなりませんでした。しかし、なんとあの吉沢実センセイが初日に立候補してくれまして、初共演(お琴では)が実現しました。
 演目は、いろいろ考えたのですが、昨夜シュメルツァーに決めまして、いつものスペシャル・チューニングや編曲も完成、なんとか舞台に上がれそうなところまで持っていくことができました。結果的に、なぜか私の方がヘタクソで、吉沢さんには迷惑をかけてしまいましたが、まあ、宴会芸ですから適度にヘタな方がいいわけでして、まあまあの出来だったかな。
 思えば、第1回の音楽祭で、まだ学生だった私たちが、まじめに(!)箏2面で「六段」を演奏して笑われた(笑)のがきっかけで始まったこの芸。まさに芸は身を助くでして、有名な音楽家の方々から共演依頼を受けてきました。一番すごかったのはヴィーラント・クイケンかな、やっぱり。ヴィーラントに琴弾かせちゃう私たちって…。
 何事も持続してやっていると、それなりの縁が生まれるものです。考えてみると、これほど持続してやってることってないんですよね。こういうふうに年に一回でも、どこからか強制力が働いて続けているってことは大切ですね。ちょっとしたこと、たった10分のことでも、たくさんの人たちと自分をつなぎとめてくれる。これぞまさにエンターテインメント。仲(エンター)を取り持つ(テイン)こと(メント)というわけです。
 強制力に感謝です。たいがい、いやなこと、辛いこと、プレッシャーがかかることを長く続けるといいことがありますね。ただやりたいことを続けていても案外ダメなものです。だから、最近は仕事の上でも、頼まれたことはいやがらず(ちょっといやだなあと思うけれど、思い直して)感謝の気持ちで頑張ろうと思っています。な〜んて、エラそうですね。でもちょっと本心です。自分の想定外のことに対処して初めて、自分の能力を拡張できるわけですから。

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2005.08.20

ホテルアンビア「松風閣」(静岡県焼津市)

hotel0041 今日は祖父の三回忌がありまして、焼津に行ってまいりました。まずは正傳院というお寺さんで法要。住職の法話で「ことば」に関する部分があり、うんうんとうなづきながら拝聴しました。
 その後会食です。焼津の「ホテルアンビア松風閣」に一族郎党が集合。いつもの通り、明るく元気な宴が。祖父も楽しんでくれたでしょう。
 私は本当に久しぶりに「松風閣」に行きました。本当に素晴らしいホテルですね。いろいろなホテル評価のサイトでも常に高得点を与えられているのも納得です。
 まず、何と言ってもおそらく日本屈指のロケーションでしょう。駿河湾に突出した断崖の上にあるわけでして、本当に駿河湾から太平洋、伊豆半島から富士山まで一望できます。このスケールの大きさはちょっと他にはないのでは。海に面していながら標高がある程度あるのですからね。はたから見るとけっこう危なっかしいんですけど。
 ホテル自体も非常にキレイで、眺望を活かした設計も見事だと思いました。今日はほんの一部しか見ていないので、あまり簡単に評価を下せませんが、全体に開放的で明るく、清潔感にも満ちていましたね。
 従業員の皆さんの接遇もよろしい。親切で明るいだけでなく、力みがなく自然体であるところに好感を持てます。ここがけっこう難しいんですよね。礼儀正しいのはいいけれど、不自然に気合いが入りすぎていると、こいつら影ではうんざりした顔してるんだろうな、なんてよけいなこと考えちゃいますからね。そういうホテルも多々あります。
 料理は言うことなし。もちろん魚が中心です。特に鮪の刺し身でしょうかね。今回はいただけませんでしたが、これで銘酒「磯自慢」があればホント極楽っす。
 ものすごい展望の露天風呂もあるようですね。いつかゆっくり泊まってみたいホテルです。別に遠くに行かなくても、こういう所で贅沢するっていうのもいいですね。特にお隣の海なし県の皆さんにはおススメですよ。

ホテルアンビア松風閣

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2005.08.19

ランペ指揮ノヴァ・ストラヴァガンツァ 『バッハ 初期形の組曲』

Siegbert Rampe Nova Stravaganza 『J.S.Bach The Early Overture』
B00006IWUX 今日は残念ながら研修に参加せねばならなくて、都留音楽祭には顔を出せませんでした。ミューラーさんのテノールリサイタルも楽しみにしてたのに。まあ、昨日たっぷりリハーサルを聞かせてもらいましたからいいとしましょう。
 それで、研修から帰ってきたら、ちょうどいいタイミングで面白いCDが届いてましたのでおススメしておきます。
 昨日のコンサート、特に管弦楽組曲が良かったのですが、そのソロを吹いておられた中村忠さんとこんな話をしました。どうも古楽界には理論や様式や楽器にばかりこだわる学者タイプ、あるいはオタクタイプが多くて困る…アマチュアはまだしもプロにもそういう方がいらっしゃる…そういう方は音楽をするという本来の仕事を忘れている…。こんな感じですかね。プロレス談義の合間にちょこっと話したんで、もう少しくだけた言い方だったと思いますけど。で、いつか私もここでおススメしましたが、中村さんも参加されていた「復元カンタータコンサート」のリフキンさんなんかも、どちらかというとやっぱり学者さんだったらしい。いい人なんだけれど。
 今日届いたCDにもリフキンさんの研究の成果がかなり取り入れられています。簡単に言うと、我々がふだん耳にしているバッハの四つの管組には古い形があって、楽器編成がいわゆる最終形よりもかなりシンプルであった、という研究に基づいて、それを復元して演奏録音したシロモノです。
 つまり、学者的、オタク的なアプローチですね。たしかにそういう意味でも面白かった。何しろ…
 第1番は各パート1名。チェロ入ってないんじゃないかなあ。16フィートは鳴ってるけど。
 第2番はホントすごいことになってますよ。まず、あのソロがトラヴェルソではありません。なんとヴァイオリンです。で、調性は1音低くイ短調。
 第3番は弦のみ。トランペットやティンパニはもちろん、オーボエも入っていません。
 第4番はトランペットとティンパニ抜きです。
 リフキンさんやランペさんの最新の研究の成果のようですね。当時の楽団の状況やら、写譜の間違いやらを調べて、こんな結果になったようです。
 で、聴いた感じですけれども、非常に面白かった。楽曲としても新鮮でしたし、編成が軽やかになった分(実際はそれ以上なんですが)演奏も軽やかで(実際は超高速運転なんですが)新鮮。やっぱり特に2番ですかねえ。ヴァイオリン版も悪くない。かなり地味な響きですけれど。いや、個人的には3番も好きだな。アリアだけなんで弦合奏なんだ?って思ってましたが、なるほど全部弦だけってのもアリですな。
 アマチュア演奏家としては、こういうのは実にうれしいんですね。なかなか古楽器でトランペットとティンパニを集めるのは難しい。だから演奏したくてもできなかったんですよ、今まで。オリジナル主義という自縄自縛状態で涙を飲んでいた私たちも、これからは3番も堂々とやれるじゃないですか。2番についても、ヴァイオリン弾きとしては実にうれしいレパートリー追加ですよ。憧れでしたからね。なるほどa mollで弾くのか。早速やってみよっと。
 ところで、この演奏、さっき書いたように超高速な上に、ピッチは394。さらにレコーディング場所はケーテン城ということで、ホントに不思議な不思議な響きになっています。ピッチのことで言えば、通常の2番をモダンで演奏した場合比べると、ほぼ2全音分低い。これでは別物になるはずです。
 で、実は一番びっくりしたのは、有名な3番のアリアの装飾です。ちょっとやりすぎかもしれませんが、面白さということでは、今まででもピカイチでしょう。ちょっとパクらせてもいます。

Amazon J.S.Bach The Early Overture

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2005.08.18

『都留音楽祭初日』

turu1 さあ、今日から都留音楽祭です。もう20回目ですか。感慨深いですね。
 思えば私が都留の学生だった時、突如として古楽の祭典が始まったのでした。古楽とは縁遠いと思っていた片田舎の大学を舞台に、まさかこんな素晴らしい音楽祭が行なわれるとは、夢にも思いませんでした。なんとなく大学でくすぶっていた私も、ようやく心から「第一志望落ちて良かった!」と言えるようになったわけです。ホントに不思議な縁ですね。
 それから19年ですよ。私も皆さんも19も歳を重ねたわけです。もちろん、音楽祭自体も。準備期間も入れれば、数えではたち。何事も20年続くと、ホンモノになります。一人前。成人ですからね。その間、いろいろと大変なこともありましたし、変化もしてきました。しかし、やはりここまで続いたのは、皆さんの変わらぬ音楽への愛情と、古楽界ならではの家族的な温かさあってのことと思います。スタッフとして本当に皆さんに感謝いたします。
 さて、そんな記念すべき今年の音楽祭の初日。先生方との立ち話が楽しかった。
 中村忠先生と岡田龍之介先生とは、プロレス談義で盛り上がりました。新団体(愛好会)立ち上げようか、なんて。いつも書いてるように、音楽とプロレスってかなり共通点があるんですよね。演奏者の立場からすると、プロレスに学ぶ点が多々ある。
 つのだたかしさんとは、例のBSふれあいホールの裏話というか、長谷川きよしさんの素晴らしさ天才ぶりを直接うかがい、ただただうならされるだけ。ホントすごい人なんですね。波多野睦美さんもBSの収録秘話など話してくれました。
 渡辺慶子さんとは天体観測の話、吉沢実さんとは宴会の件…てな具合で、みなさんと古楽以外の話ができるのは、長年スタッフとしてやってきた、それこそ役得でしょう。ありがたや20年の年月。ま、そんなアットホームな雰囲気がこの音楽祭の良い所ですし、狭い古楽界の良さでもありましょう。
 さて、そんな先生方によるオープニング・コンサート、なかなか充実のプログラムでした。特に、中村さんのトラヴェルソによるバッハの管弦楽組曲第2番は素晴らしかった。完璧。あと、Tベアードさんと浜中さんのダンス。バロックの演劇性がホントによくわかりました。これだ!という感じ。
 しかし、明日からは研修やら法事やら仕事やらでお休みしなくてはなりません。21日、つまり宴会(クロージング・パーティー)の日だけ参加です。残念ですなあ。
 
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2005.08.17

現実に帰還しますた…今日は何の日?

 いやあ、皆様お久しぶりです。昨夜、黄泉の国から生黄泉(半黄泉)の国に帰ってきました。う〜ん、やっぱり秋田はすごい所でした。今回の旅では本当にそのことを実感しました。いろいろと土産話というかネタを収集してきたので、ぼちぼち12日分から書いていきます。素晴らしいリフレッシュになりましたよ。
 とは言え、黄泉の国から帰還したら、そこには現実が…。あさって研修で(またまた)発表しなくちゃならないのに、今ごろレジュメ書いてるんだから。それに、明日から「都留音楽祭」です。いろいろ準備しなくちゃ。スタッフでありながら、今年は本業との兼ね合いで二日しか参加できませぬ。う〜、第20回という記念すべきお祭りなんですけどね。残念。
 まあ、こんなグチは誰も聞きたくないでしょう。自分に対するグチだし。でも懲りずにもっと聞きたくない話を一つ。
 本日は、ワタクシの誕生日でありま〜す!
 ね、どうでもいいでしょ。しかし、驚いたこと(呆れたこと)があるんで、ちょっと聞いて下さい。私は、今日で42歳になると、ず〜と思ってたんです。ここ数ヶ月、人にもそう言ってきたし、書類にも41歳って書いてたような記憶が。そしたら、なんと今日で41歳でした!カミさんに言われて気づいた(って自分の歳間違えてるなんて…早くもボケたか)。1歳得したような損したような、やっぱり得ですかね。なんか小さい頃、大好きだったいちごミルクを全部食べきっちゃったと思ったら、一つお尻の下に落ちてた!ってのに似てますね。なんのこっちゃ。
 というわけで、今日から心機一転頑張りたいと思います。そんな私に私からのプレゼント。今日の日にふさわしい見事なオブジェ。クリックしてみてください。77yu実はこの写真は昨年の夏、秋田の某所で撮影したものです。今年確認したら、ちゃんと矢印や地名が書かれていました。しっかし、どうやって書いたんでしょう。書いてから掲げるとか、書いて掲げて、なんかでカバーしとくとか…いろいろ手だてはあったような。謎です。さすが秋田です。
 しかし、何と言っても、この抜けるような青空…いや青板。美しい限りです。そう、そしてこの青いキャンバスに少しずつ字やら何やら書いていったんです、きっと。私も、今日のこの日をもって、心のキャンバスを一度真っ青に塗り直して、新たなる人生の進路を示す標識を書き始めてみたいと思います。
(なんのこっちゃ、全然変わってないよな、オレ…写真よく見ろよって…でも美しいことには変わりないな)
ps元祖天才バカボンのパパと同い年ってことか。ちとうれしい。

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2005.08.16

『北羽南朝の残照』 大坂高昭 (無明舎)&『近世に於ける妙心寺教団と大悲寺』 笹尾哲雄 (文芸社)

hokuu1 4835534018 今回の秋田訪問は、いろいろと勉強になることが多くありまして、ワタクシといたしましては、かなり貴重な体験となりました。それにつきましては、昨日までいろいろと書いてまいりましたが、ある意味、今回の最大の収穫はこの2冊の本を手に入れることができたことかもしれません。
 ほとんどの方には全く関係がなく、また興味を持つこともないジャンルでありましょう。ところが私はこの2冊を、『電車男』以来の集中力をもって読破してしまいました。いやあ、面白かった。
 いえいえ、とにかくある意味超マニアックな内容ですから、多くは語りません。ご安心下さい。
 『北羽…』の方は、つまり南朝の皇族や武将が秋田方面に逃れてきた形跡を追ったものです。私が住む富士北麓も南朝色の極めて強い地方であり、いわば関東の陸奥的な土地柄です。縄文色、アイヌ色も強いですし。山窩色も。実際、秋田とこのあたりでは、長慶天皇やら藤原藤房やら、共通した人物の伝説が確認できます。そのあたりの興味も尽きないところですし、また、秋田のカミさんの実家付近の習俗や字名などにも、流浪する皇族の匂いがするものですから、私にとってはたまらない内容なのです。実際とても面白かったし、ためになりました。
 『近世…』の方は、禅宗の一つ臨済宗の中でも、最大の集団である「妙心寺派」というものが、どのように全国チェーンを図り、それを実現したかを考察した、実に興味深い論文です。今、奉職している学校の母体である月江寺というお寺さんも、以前は向嶽寺派であったのが、まさに近世に妙心寺派になっています。その辺の話はこちらにちょこっと書きました。一般の皆さんにはどうでもいいことでしょうけれども、先ほども出た当地の南朝の問題を考える時に、どうしても避けられない部分なのです。
 自分でも、なんでこんなことに興味を持つのか分かりません。たぶん、私の気質だと思いますよ。判官贔屓なんですよ。負けたり、消えたり、いじめられたりするものの肩を持ちたくなる。だってそうじゃないですか。アステルとかWINJとか。マイナーな車に乗ったり。Mac使ってるのもどちらかというとねえ。少数派に属していたいんですよね。古楽もそうかな。
 まあそんなことはどうでもいいとして、一つ述べておきたいことがあります。この2冊の本の著者は両方とも秋田のお坊さんです。『北羽…』の方は曹洞宗、『近世…』の方は臨済宗の僧侶であります。お二人とも本当に勉強熱心で感服します。秋田って、歴史的に見ると華々しい偉人さんはいないんですが、地道な勉強家さんは多いんですよね。そういう落ち着いた土地柄だと思います。また、冬場は雪に閉じこめられますから、勉強するには最高でしょう。一方、勉強のしすぎなのか、自殺率も異様に高いんですけどね。
 というわけで、次回秋田に訪問した際には、両寺を直接訪ねて色々とお話をうかがいたいと思います。

Amazon 近世に於ける妙心寺教団と大悲寺

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2005.08.15

終戦記念日〜プロレスリングノア 湯沢市皆瀬大会『みちのくメルヘン物語』

SANY01371 今日は終戦記念日。記念日でいいのかな。いいのか。終戦はいいことだから。昨日の記事の続きでちょっと聞きかじったことをまず書いておきます。終戦記念日にちなんだ話題です。
 戦時中、男鹿半島に(どういう状況かはわかりませんが)パラシュートかなんかでアメリカ兵が落ちてきた(?)ことがあり、その時、男鹿の人々は、敵兵とは言え、同じ人間ではないかということで、丁重に扱ったらしい。それで、戦争が終わった後も、その兵隊と男鹿の人々との温かい交流が続いている、と。
 これだけでも充分美談なわけですけれど、私は父から聞いた、ある意味対照的な話を思い出してしまい、戦争の現実をも突きつけられたような気がしました。その父の話とはこういうことです。静岡の大空襲の時、父は幼い妹たちの手を引きながら、B29から降ってくる焼夷弾から逃げ惑っていました。その時上空で、そのB29どうしが接触して、2機とも墜落したのだそうです。そして、乗務員がやはりパラシュートで近くに降りてきた。それを周囲にいた人たちが一斉に寄ってたかって、なぶり殺したらしい。
 う〜ん、考えてしまいますね。どちらが正しいとか、そういう問題ではありません。静岡の場合は、実際、攻撃を受けているわけです。道々に死体が累々と重なっているわけです。親族を殺された人たちもたくさんいるわけです。私もそういう立場だったらやはりそうしたでしょう。逆に男鹿の人々のように、直接攻撃を受けていたわけではない(と思います)なら、やはり男鹿の人々のようにしたでしょう。難しいですね。そういうふうに人間を豹変させるのが戦争なのです。
 さて、そんな重い話の後でなんですが、同じ戦いでも、全く殺伐としていない、逆に福を招くとも言えるプロレスのお話に移りましょう。
 昨年も行きましたが、今年もまた行って参りました!皆瀬村は湯沢市と合併したということで、開催するのか微妙だなあ、と心配していた恒例奉納プロレス「みちのくメルヘン物語」。今年もやりました!めでたい!昨年は、後半豪雨に襲われて、セミとメインを見られないというちょっと残念なことになっちゃったんですが、今年はしっかり最後まで観戦しましたよ。いやあ、良かったなあ。毎年この日にやるというのは、やはり平和祈願の意味もあるでしょうね。まさに奉納にふさわしいお祭りプロレスでした。内容については、書きだすと止まらなくなるので、別の観点から。
 これも昨日の記事の続きになりますが、形式美、様式美、演劇性ということです。宗教的というか、呪術的というか、とにかく昨日のなまはげに対するような、モノと人間との交流のあり方ですね。本来、相撲が担っていた祭り、奉納、清めなどの儀式を、今プロレスが引き継いでいると感じたのです。大相撲は、八百長論なんていうバカな(ニーチェみたいに野暮な)ことを言う近代人のために、ガチンコに走り、現在の衰退を招きました。プロレスでも、某団体は同じ轍を踏みつつあります。
 その点、ノアは見事に伝統を継承しています。この前の東京ドームみたいな荘厳な儀式も、今日のような世俗的な儀式も、両方とも見事にこなす。本当にプロだと思いました。いろいろなレベルでハレを演出できる。これは本当に素晴らしいことです。
 リアルだけを求めるのではなく、こういう演劇性に身をゆだねる姿勢というものが、実は平和の実現につながるのではないでしょう。そんなことをしみじみと感じて帰ってきました。

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2005.08.14

なまはげ館〜正直、泣けた!

ttgfd 今日はキリストの墓参りを果たそうと思ったんですけどね。残念ながら、子守を仰せつかりまして、急きょ予定変更して横手市で一日過ごしました。さすがに娘たちを青森県新郷村に連れていくのは…。渋すぎます。
 というわけで、本当なら横手のふるさと村の話でも書くべきなのですが、あんまりネタがないので、ちょっとフライングして、明日のことを書きます(?)。つまり、15日はネタてんこ盛りなので、半分14日分に書いちゃいます。なんか、夏休みの最後の日にまとめて書く絵日記みたいだな。いつ何したかわからなくなって、適当に書いちゃう。
 さ、そんなこんなで、初めて男鹿半島に行きました。県の南部はどんよりとした空模様だったのですが、秋田市から北側はウソのように晴れ渡っていました。秋田道の昭和男鹿半島ICから新しい101号バイパスをしばらく走り、天王町に入ります。なんともいわくのありそうな町名ですな。ん?合併で潟上市になったのか?どう見ても八郎潟の下だが。いやいや、網野さんも言うように、北が上の地図に惑わされてはいかん。だいたい私の住む富士北麓でも南(つまり富士山の方)が上ではないか。
 ま、そんなことはいいとして、男鹿市に入ると海が目の前に広がるかと思いきや、意外にも山の中へ。そこにこれまた新しくできたらしい「なまはげライン」が伸びます。実に快適なドライブ。
nama1 さあ、その山間部の中央になまはげで有名な真山(しんざん)地区があります。そこに真山神社と、併設された「なまはげ館」および「男鹿真山伝承館」が鎮座しております。ワタクシ的には神仏習合の極致とも言える真山神社に興味があったのですが、まあ子どもの意向に従わないと、長丁場乗り切れませんから、とりあえず「なまはげ館」だけ拝観しました。
nama2 いやあ、それがなかなかどうして、けっこう良かったんですよ。中はただ大量のなまはげが並んでるだけと言えばそれまでなんですが、そこで上映されたドキュメンタリー映画に、ものすごく感動しちゃったんです。たぶん泣いてたのは私だけでしょう。いや、ホントに泣けたんです。これぞ日本の文化。知恵。宗教ではなく、でも信仰なんです。
 真山地区に残る伝統的ななまはげ行事を記録した良質なドキュメンタリーでして、淡々とした映像と語りが、どこか新日本紀行を彷彿とさせます(頭の中を冨田勲が流れていく)。
 結論から言ってしまうと、このなまはげ行事は全世界で必修でしょう。あんなことすると、トラウマになるとか言う人もいるらしいのですが、ちょっと次元が違いますよ。たしかに恐ろしいけれど、完全なる救済が待っているんですから。カタルシスですよ。そしてその救世主となるのは、家長です。父権です。その救い方がまたいいじゃないですか。お酒をふるまって、食べ物や金銭もあげて、ゴマをすって、お世辞を述べて、おべっかを使う。それで機嫌がよくなるんです。こういう構図は、日本の伝統的な神道の世界そのものです。
 日本の神様はけっこう怒りっぽい。気に入らないとすぐ暴れる。で、それをなだめるのが人間の仕事。力や理屈で封じ込めるのではありません。たとえ形式であっても、祭り上げることによってのみ、その場の平安が保証される。そして、ただ怒りが収まるのではなくて、たとえばなまはげはその年の豊作と幸福を保証するわけです。怒りから恵みへ。その振幅の大きさが、日本文化のダイナミズムです。
 襲撃された子供たちは、一生懸命勉強して、お手伝いすることを誓います。なんだか知らないけれど、とんでもなく恐いモノ。そういうモノの存在こそ大切だと思います。親も「なまはげがくるど」と何度でも言える。これは教育ではないのかもしれません。しかし、教育なんていう近代的なものを超える絆もあるでしょう。そして子どもたちは大人になって、今度はなまはげになる。そしてさらに家長になって、救い人となる。美しい循環です。
 なまはげ…怠け者をはぐという意味だとも言います。私なんかも、常にゴマすってないと大変なことになっちゃうな。いやいっそのことはいでもらっちゃいたいような…。いずれにせよ、今の所、なまはげにも救い主にもなれないな。しっかりしなきゃ。
 さて、なまはげから解放された私たちは、そのあと近くの男鹿水族館GAO(これもネーミングの妙?)に行きました。なかなか良かったですよ。白熊の豪太くん(豪州から来たからでしょうな)もちゃんといましたし。子供たちは大満足のご様子でした。なまはげと水族館…この振幅は子供たちにも心地よかったようです。振幅かあ…。
 
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2005.08.13

不思議なお墓参り(秋田の山村宗教事情)

 今日はお盆のお墓参り。別にフツウのことですよねえ。ところが、ここでもまた恐るべし秋田…。
 まず、みんなで近くの墓地に向かいます。小さな里山の斜面にお墓が何十基か並んでいます。別にフツウの光景ですね。
bochi
 ちなみにカミさんの実家は神道です。仏壇ではなく(どう見ても仏壇ですが)神棚です。手を合わせる時は二拍手をします。で、神道なのになぜに「お盆」なのか。盂蘭盆会なのか。でも、そんなことはどうでもいいのです。それが神仏習合でありますし、昨日書いた、秋田の懐の深さであります。とにかく御先祖様に手を合わせましょう。
 さあ、墓石に近づきますと、ちょっとフツウではない光景が。カミさんの実家の墓石はフツウに「○○家之墓」と掘り込んであるのですけれど、例えば隣の墓石には「○○家奥津城」とあります。オクツキとは墓のことを指す神道用語ですね。お〜っ!ちょっとカッコいい。
shiro
 で、横にある神霊譜を拝見いたしますと、「○○命」とあります。「○○居士」とかじゃなくてです。あっ、「○○いのち」じゃないですよ。それじゃあ、吉原になっちゃう。「みこと」です「みこと」。神様になるんですね。うん、ちょっとうらやましい。
reifu
 で、こんな感じのお供えをします。何日か置いておくと、山の獣に食べられちゃうとか。熊が食べに来ることもあるらしい。う〜む、本当の意味での施食(せじき)だ。すばらしい。
sonae
 水でお墓を清めて、お線香をあげて柏手を打ちます。おお、習合しまくり。異文化の融和。美しい。
 周囲を見渡してみますと、仏教系のお墓もあります。卒塔婆に書かれた文句も完全に仏教。日蓮宗と曹洞宗がありました。聞く所によると、あまりの山間部のため、仏教が伝来しなかったとか。たしかに一山越えないとお寺はありません。神社はいたる所にあります。家よりも神社の方が多かったりして。神様はやはり山の神さまが多いようですが、白山や八幡、天神や諏訪なども見られました。
 やはり、秋田には縄文のにおいがプンプンと残っていますね。鎌倉仏教の伝来もかなり遅れたようですし、中央とは違って、仏教も土着の信仰の方にかなり歩み寄ったと見ました。このあたりも、昨日の言語感覚と同じなのでしょう。
 ちなみに東北地方を旅すると目に付くのが、家々の壁に掲示された「見よ、私はすぐに来る」とか「死後の行き先を決めて下さい」とか「信じるものは救われる」とかいうキリスト教の看板?です。そう、あの黒地に白と黄色の文字のやつです。あれはどういう系統のものなんでしょう。最近は手書きではなく、活字のものも見られるようになりましたから、今でも宣伝活動しているのでしょう。あの東北の風景に実にマッチしてるんですよね。たしかに、大陸から直接キリスト教が流入している形跡もありますし。なにしろキリストの墓がありますからね、青森には。明日はそこへ行ってみようと思います。お盆にキリストの墓参り。いいですね。

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2005.08.12

「アルヴェあるべ?」 秋田の微妙なセンスに乾杯(完敗)!

alve さて、昨日の夜富士山を出発しまして、本日の朝秋田入りいたしました。いつものコースです。帰省シーズンでも全く渋滞知らずのいいコースですねえ。さらに今回はETCの割引をフルに利用しまして、本来10000円近くかかるところを6000円ちょいで済ませました。具体的には、朝夕の通勤割引(5割引)と深夜割引(3割引)を利用したわけです。これはお得だ。まあ、深夜に長距離走行する辛さはありますけどね。
 さて、予定より早く秋田入りしましたので、いつもは本荘の南から内陸に入っていくところを、ちょっと足を伸ばして秋田市に行ってみました。私は秋田市は初めてです。カミさんももう何年も秋田市には行っていないとのこと。そこで、大学時代を秋田市で過ごしたカミさんの妹に電話して、どこか見どころはないかと聞いたのですが、そこで返ってきた言葉は「あるべあるべ?」。
 私にはなんのことかさっぱりわからなかったのですが、どうも秋田の駅前に数年前新しい施設ができたらしい。その名が「ALVE」いや正確には「AL☆VE」だというわけです。う〜む、これは語源を知りたい。ということで調べてみますと、彦星の「アルタイル」と織姫星の「ヴェガ」を合わせたとのこと。さらにイタリア語の「アルヴェアーレ(たくさんの人が集まるところ)」と、やっぱり秋田弁の「あるべ」もかけてあるらしい。ううううう…。
 素晴らしいではないですか。ちょうど昨夜は旧暦の七夕だし。感動的ですな。
 ちょっと長くなりますが、いいですか。前々から気になっていたことがあるんですよ。それは秋田の皆さんの言語感覚です。これは決して悪い意味ではなく、非常に興味深いということですよ。
 たとえば、今ここに秋田県の観光地図があるんですが、そうですねえ、秋田名物の温泉施設名を列挙してみましょうか。
 湯夢湯夢(とむとむ) ゆとりランド ゆめろん くらら 湯楽里(ゆらり) ユップラ クアドーム・ザ・ブーン ユアシス ユメリア 湯とぴあ ゆとりおん ゆ〜らく としとらんど
 まだまだあるんですが、このくらいで。どうですか。素晴らしいセンスでしょう。一歩間違うとダサダサになりかねませんが、なんというんでしょうか、ちょっと外来語的(近未来的)でありながら、どこか日本語的(伝統的)でもあります。こういったセンスは街のいたる所で見かけられます。そしてそのセンス自体が街に溶け込んでいるというか、街を創っている。これは実に興味深いことです。東京ではまた違う言葉のセンスが街を創っているでしょう。つまり、秋田に限らず、言語のセンスと風土とは切っても切れない関係なのです。
 で、秋田と外来語ということで言えば、もっと生活に根ざした所でも面白いことがあります。秋田弁を聞いていても、私の頭の中ではほとんど活字に変換されないのですが、秋田弁の辞典をパラパラめくっていますと、その語源が漢語であることが多いのに驚きます。ちょっと思いついたところでは「徒然(とぜ)ねぁ」とか「鷹揚(おうよう)」とか。私の推測では、江戸時代になって、漢語調の書き物が多く流入するようになって、それを生活語に取り入れるようになったのではないかと思われます。あるいはもっと古く、僧などによってもたらされたか。
 いずれにせよ、漢語ももちろん外来語の一つです。そうした語に近未来的なオシャレさを感じるのは、人間の本能のようですね。そして、それが流行し、いつか流行ではなくなる。消えるか伝統になるかです。標準語でも方言でも、漢語やカタカナ語がいかに多いことか。
 どうも秋田の皆さんは、意外に進取の精神に満ちているようですね。平賀源内がもたらした蘭画が独自の発展を見せたり、菅江真澄が住みついたり、平田篤胤が登場したりするのも、そうした進取の精神があったからではないでしょうか。
 しかし、それが、う〜んなんていうかなあ、やっぱり風土の中で醸成されてしまって、結果として生活臭のする独特のセンスを生むんじゃないかなあ。おそらく、私たちが考えている以上に、大陸の文化が入ってきているでしょうし、落人もたくさん来てるでしょうし、ある意味ものすごく国際的な感覚を身につけているのではないでしょうか。受容が案外得意なんですよ。ただ、表面上はちょっとカッコつけてる。でもすぐに本来の自分になってしまう。そういう方法で受容していく。
 ちなみにアルヴェですが、駅反対側のアトリオン同様、ものすごい箱です。それこそ近未来的な箱ものです。し、しかしアトリオンは言わずもがな、アルヴェもすでに中身が「あるべ」になっちゃってました。これこそ、言語と同様の現象です。おそるべし秋田のセンス!もう心から秋田LOVEですね。

(追伸 そういえば、山梨にも「アルジャンがあるじゃん!」…おそるべし田舎)

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2005.08.11

『力としての現代思想 崇高から不気味なものへ』 宇波彰 (論創社)

4846003019 ちょっと小難しそうな本を読んでみました。どうも、私は頭が悪いようで、現代思想ってやつがよくわからんのですよ。構造主義についても、あんなふうに書いちゃいましたけど、実際には頭が悪くて理解できないのです。自分の実感にならない。言葉と概念だけは覚えても、肉になってないから、すぐ忘れる。それでもやっぱり生活レベルでは困らないから放置。仕事レベルでは現代文の評論の問題を解く時にちょっと必要。なにしろ大学の先生方の中には、いまだに過去の流行に乗ってる人がいますからね。象牙の塔。
 現代思想って言っても、刻一刻と過去の思想になっていくわけでして、だからある時期、現代とかポストモダンなんて言われてた方々やコトやモノは、その商標を失ってしまって路頭に迷うことになってます。つまり現代思想とは、私にしてみれば、流行思想(現代ファッション)ということに他なりません。もともと流行に疎いっすからね、私。
 んなわけで、あんまり期待しないで、ただイマドキのはやりってどんなだ?ちょっとのぞいてみて知ったかぶりするか、という程度の気持ちで読んでみました。そしたら、意外に面白かった!
 だいたい「崇高から不気味なものへ」って、私の得意分野で言うと「モノ」そのものなわけでして、あるいは網野さんについて書いた中にあった「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」の言い換えであるわけです。そういう意味で珍しく自分の肉にしみこんだような気がしました。
 ここで語られているのは、「無限記号連鎖論」「ミメーシス論」「鏡像論」「アフォーダンス論」「凝視論」「崇高論」「不気味なもの論」「物語論」「メディアカルチャー論」「知識人論」「イデオロギー的国家装置論」「読むことの危機」…こんな感じで、一見難しそう、というか難しさの権化みたいな言葉が並んでいますけど、実際にはそんなでもない。だいたいファッションなんて格好だけってことも多いですからね。自分の言葉で言い換えていくと、意外になるほどと思えます。また、この本、それぞれの流行がそれこそ有機的に連鎖していて、続き物として読めるようになっているので、とっても理解しやすい。それぞれの流行が、やっぱり「現代」という生態系の中で、お互いに関係しあっている、ということがよく分かります。なるほど、流行もバカにできませんな。
 で、一気に読んでみますと、やっぱり揺り返しと言うんでしょうかね、近代やら20世紀やらの反省が目に付きますね。言わば近代の知では排除された「モノ」の復権。哲学や科学、数学の世界でも、わりきれないモノたちをその舞台に引き戻しつつあります。これはワタクシ的にはうれしいことです。自分の心や存在さえわりきれないわけですからね。わりきれることに意味を見出さない姿勢というのは、世界の平和のためにも重要だと思いますよ。ここでも、ブッダの正しさが証明されつつあるのかなあ。筆者も『力』と言っているわけですし。
 この本も、どうせなら、もう少し売れそうなタイトルでもつけて、大衆の流行に乗せちゃえばよかったのになあ。モダンの反省文として、もっと読まれていいと思いますよ。

Amazon  力としての現代思想

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2005.08.10

ビオンディ&エウロパ・ガランテ 『バッハ協奏曲集』〜復元ヴァイオリン協奏曲ニ短調

Biondi Europa Galante 『Bach Concertos』
B000026D4Q iTMSでコンビニ買い第2弾。TSUTAYAで借りられるものを除くと、結局クラシックかジャズあたりになりますね。
 実は聴きたかったのは「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」だけだったのですが、これはアルバムのみの販売ということでしたので、まあしかたなく1500円払いました。CDにするには少し時間の余裕がありましたから、ついでに450円払って、なぜかウチになかった「二つのヴァイオリンの為の協奏曲」の古楽器演奏版(ピノック)を追加しました。今度ソロをやることになっちゃったので少し勉強しましょう、ということ。あまりに有名な曲なので逆にイメージがしにくいのです。で、1950円か。まあ、こういう買い方ができるのがいいところですかね。結局散財してるような…。
 でも、目的の「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」つまりチェンバロ協奏曲BWV1052の復元版はたいへん素晴らしい出来でして、大満足。ビオンディやるなあ!
 実は私はこの曲が昔から大好きでして、特にヴァイオリン協奏曲に復元したものを聴くと燃えちゃうんですよ。弾くのは無理ですけど(メッチャ難曲)。で、どういうノリで聴くかというと、つまりロックです。バロックじゃなくて。ハードプログレというかプログレハードというか。そういう意味で、ビオンディの演奏は本当に見事でした。
 高校時代(四半世紀前)のある日突然、この曲のそういった魅力に気づきました。正直それまでは、なんか暗いし、長いし、いかんなあ、という感じだったんですよ。ところが、本当にある日突然、これはバロックじゃないな、と気づいた瞬間から曲のイメージが全く変わってしまいました。
 この曲の原曲がヴァイオリン協奏曲であることは間違いないでしょう。原曲の作曲者がバッハではないのでは、という説もあるようですが、いったいバッハ以外の誰が、こんなに緻密な、そして当時の常識から外れたプログレッシヴな曲を作ると言うのでしょうか。絶対にバッハです。1楽章や2楽章のテーマだけでもおかしすぎる。もちろん曲全体通して破格な展開や進行に満ちていますが、私としてはやはりバス(ロックだからベースかな)ラインの持つ、なんというか決して言葉数は多くないのだけれど雄弁さとでも言うのでしょうか、何か宗教性すら帯びているような気がするのです。マタイ受難曲と前後して作られたという説にも説得力がありますよね。 
 あとは、ヴィオラの扱いです。これはまさに破格です。私は、今まで3回ステージで弾いたことがあります(チェンバロ協奏曲として)けれども、突然ヴィオラのソロになったりしてびっくりします。だいたいバッハのヴィオラパートは面白いのですが、この曲は面白いを超えて恐い。演奏にいつも以上の緊張感を強いられますね。
 さて、そんなわけで、私は昔からこの曲が好きで好きでたまらないわけでして、復元版のレコードもずいぶん集めました。リリンクのが最初だったかな。なんかソビエトの団体のとか。カプリッチョから出てたオルガン版も良かったなあ。最近ではリフキンの復元も面白かった。でも、このビオンディ版が決定版でしょう。1楽章、3楽章のロックなノリも最高ですが、2楽章の瞑想的な演奏もお見事!ヴァイオリンってこういう荒っぽく艶っぽい楽器なんですよね。燃えるぜ!
 なんか、ヘビメタにも通ずるような、なんていうかなあ、宗教的な怒り、そして嘆息…そんな雰囲気すら感じられますよ。一聴の価値ありかと。

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2005.08.09

『三菱自動車“リコール隠し”の真実』 ドキュメント'04 スペシャル(日本テレビ)

yu21 今日、愛車のシボレークルーズ(実質スズキ車)のリコールをしてきました。今までいろいろな車に乗ってきましたが、リコールは初めてです。トランスミッション内の部品を交換したということです。
 リコールなんてけしからん!…な〜んて、イタ車に乗っているワタクシとしては、全然気にしません。こういうのはリコール対象にならんのかね、ってことが日常ですから。
 そんなワタクシでも、やはりここ数年問題になった三菱によるリコール隠しはいかんなあ、と感じていました。それと同時に、三菱に限らず、また自動車業界に限らず、いろいろあるんだろうなあ、ひやひやしてる人たちがたくさんいるんだろうなあ、なんて考えていました。
 このドラマは、昨年の7月に放送されたものでして、非常に面白かったので、教材として使わせていただいています。ここ数年のテレビ番組の中では出色の出来映えでありました。
gh11 日本テレビの日曜深夜の「ドキュメント」は、毎度なかなか良い作品が多く、生徒にも奨励している番組です。私はそのあとの番組、つまりプロレス中継のついでに毎週録画しております。プロレス(ノア)がなかったら、もしかすると観ないかもなあ。さてさて、この作品は、そのドキュメントのスペシャルとして、いつもとは少し趣向を変え、再現ドラマを中心に構成されております。制作は有名なテレビ番組制作会社「安寿(アンジュ・ド・ボーテ)」です。
 徹底した取材に基づき、また実際の三菱の本社や販売店を舞台に使い、渋〜い役者陣を配しながら、他に類を見ないリアルさを追求しておりまして、その結果、見る人の目を釘付けにする力を持つに至っています。とにかく、そのリアルさがものすごい緊張感を醸し出しており、そして不思議と悪事を糾弾する立場というよりも、隠蔽に隠蔽を重ね、ドツボにはまっていく三菱の立場に立って観てしまうんですよ。しまいには、頑張れ!早く隠せ!なんて応援したくなっちゃう。生徒たちもそう言います。たぶん、人間は誰しもそういう後ろめたい部分を持っているからでしょう。
 とにかくみなさんに観ていただきたい作品なんですが、観れませんよね。再放送されるタイプの番組ではありませんし、DVDとかにはならないでしょうし。本放送も日曜深夜ですからね、それほど視聴率高かったとは思えません。もったいないことです。何度観ても面白いですし、身につまされるんですよ、ホントに。生徒も何回も観たいと言っています。それにしても、役者陣が渋くていいなあ〜。たまりません。
 ちなみに業界での評価も高かったようで、2004年度ギャラクシー賞を受賞しています。ギャラクシー賞って、たしかにいい作品が選ばれますが、反面渋い作品が多いんですよね。後で観たくても観られないことがほとんど。受賞作品ばかり集めたDVDとかって出ませんかね。
 
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2005.08.08

塩山 向嶽寺(山梨県塩山市)

SNY061 衆議院解散ですかね。政治家は大変ですね。夏休み返上で票集めですか。こちらはそんな世界とは全く関係ない、俗世を離れたところに行ってまいりました…と思いきや、今も昔も利権争い、派閥争いは大変だったのかなあ、ということに思い至っちゃいました。
 臨済宗向嶽寺派総本山である塩山向嶽寺を訪ねてまいりました。いちおう仕事です。今生徒と調べていることがありまして、その関係です。
 私はたぶん2年ぶり。計10回はうかがっているのでは。やはりいつお参りしても美しいお寺さんですなあ。禅宗の専門道場特有のたたずまい。6月に訪れた岐阜の正眼寺さんで感じた空気と全く同じでしたね。今回も、突然お邪魔したのにもかかわらず、雲水さんにとても親切にしていただきました。ありがとうございました。
 以前も書きましたけれど、山梨県、つまり甲斐の国は、古代には生黄泉(半黄泉)の国なんて呼ばれたり、中世には流刑地(!)になっていたりしながら、宗教的にはかなり重要な位置を占めております。ワタクシ的(ちょっと網野さん的)に言えば、そういう土地柄(座標と自然環境)だからこそ、政治家としての僧や神官の暗躍(失礼!)が可能になったということでしょう。
 実際、当地に残る古文書類には、特に南北朝時代における南朝皇族とのゆかりを語るものが多い。甲斐という山国に住む山の民軍団やら落人軍団やらと、吉野をつなぐパイプ役は、たいがい雲水の姿をした高僧が担っていたと想像されます。まあ、あんまり妄想を広げすぎると、歴史ではなく文学の世界に行ってしまいますから注意。網野先生もそのあたりは充分注意されていたようです。
 とは言え、私はどちらかというと文学畑の人間ですから、無責任に妄想しちゃいますと、例えば向嶽寺を創建された抜隊和尚や、向嶽寺の8世であり、かつ私の奉職する学校の母体である月江寺の開祖でもある絶学和尚も、宗教的なステージはもちろん、政治的にもかなりのステージにいらっしゃったように感じられます。臨済宗向嶽寺派は、南朝や後南朝にとって、非常に重要なネットワークであったのではないでしょうか。今日訪れた向嶽寺の山門脇には堂々と「後亀山天皇勅願」の文字が刻まれていました。
 近くにある武田信玄の菩提寺として有名な恵林寺は、南朝寄りの夢窓国師創建のお寺ですが、その後は足利氏や武田氏の介入によって、反南朝になった時期もあるようですね。ちなみに月江寺はもともとは向嶽寺派。しかし、現在では恵林寺と同じ妙心寺派になっています。いろいろと調べてみますと、江戸時代のはじめころに、妙心寺派がかなり積極的に全国チェーン展開をしています。その背景には、やはり徳川家との結びつきを強化したいという政治的な思惑があったようです。で、月江寺もいつのまにか妙心寺派に。他の地域では、けっこう過激な乗っ取りなんかも行われていたようで、その生々しい派閥勢力争いにびっくりします。禅宗の世界でもそんなんだからなあ。
 向嶽寺さんと恵林寺さんのたたずまいは対照的です。どちらがどうというような野暮なことは言いませんが、お参りすればよく分かると思います。宗教的に、あるいは政治的に、または商業的に、どちらが優れているとか、勝ち組とか、そんなことはとても言えませんけれども、両寺を続けてお参りすることによって、古代から現代まで伝わる日本の社会の何かが見えてくると思います。
 あくまでワタクシの趣味ではありますが、私は向嶽寺さんが落ち着きますね。

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2005.08.07

『アインシュタインの宿題』 福江純 (知恵の森文庫)

4334782396 昨日、今日と模擬試験の監督が入っていて、時間がたっぷりありましたので、同僚の理科の先生の書棚からこの本を拝借して読んでみました。
 この本を選んだのには理由があります。昨日は広島被爆60年の日でした。みなさんご存知のように、原爆の理論的裏付けになったのは、アインシュタインの特殊相対性理論です。また、本意は別のところ(対ナチスでしょう)にあったとはいえ、時の大統領ルーズベルトに原爆製造を進言したのもアインシュタインらです。今年はその特殊相対性理論発表からちょうど100年、また彼の死後50年という、なんとも因縁めいた年であります。
 そんなわけで、目に付いたこの本を読んでみたわけです。
 アインシュタインの相対性理論を知ったのは小学校5年生くらいのときでしたか。将来は、天文学者か物理学者になるんだと勝手に決めていた少年(ワタクシ)は、何冊かの本を読んでいました。その中に、子どもでもとてもイメージしやすい良書があったのですが、書名も著者名も忘れてしまいました。本の大きさや色合いや質感というのは覚えてるんですけどね。
 その後、どういうわけか真性文系になっちゃった(なりさがった?)ワタクシでありますが、こうして国語の教師になっても、アインシュタインは特別の存在に変わりありません。それはやはり、彼自身の魅力による部分が大きい。アインシュタインはヴァイオリンを弾きましたし、ユーモアのセンスも抜群。そして、彼が大の日本びいきであったことも重要なポイントです。しかし、何と言っても、彼の姿勢、ものを見る、そして考える時の姿勢。常識にとらわれず、自由に、そして自然に、なんだろう、なんでだろう、本当はどうなんだろう、という姿勢。簡単なようで一番難しいことです。それが彼の宗教観、文化観にもつながっています。思いっきり惹かれますし、憧れますね。
 さて、この本ですけれども、アインシュタイン本としては、近年なかった良書だと思いますよ。ワタクシのようなフツーのオトナにとって、難しすぎず易しすぎず。今までの本は、そこのところのさじ加減がうまくいっていなかった。著者の専門は、天文学であり、宇宙物理学であるようですが、さすが教育大学で教鞭をとっていおられるだけのことはある。実に教え方、いや語り方が上手です。
 章ごとのオープニングにあるマンガも軽妙ですし、話題に突如登場する、ガンダムやエヴァンゲリオンの挿話など、なんとなくこの方のキャラクターがしのばれて、思わずニヤッとさせられます。「おわりに」はもっとすごいことになってますよ。
 実際語られていることは、相対性理論に関する全く常識的なことであり、特に目新しいことは何もないのですが、アインシュタインの生きた言葉と、彼が発見した宇宙の公式たちを通じて、彼が残した我々人類への宿題を考え直す、というコンセプトは、なかなか功を奏していると思います。その宿題にアプローチすることは、先ほど述べた、彼の生き方、考え方に学ぶということになるのでしょうね。
 いろいろな意味で日本と因縁の深いアインシュタイン。彼が来日の際に残した数々の日本礼賛の言葉を読み返すたび、彼が愛した日本や日本人はどこに行ってしまったのだろう、と考えさせられます。そしてもちろん、広島・長崎という、結果として彼が日本に残してしまった「生涯における一つの重大な過ち」。本書に書かれていない意味においても、アインシュタインは多くの宿題をこの日本に残したと思います(例の予言についてはあえて触れません)。
 私にとって、今年の夏休みの宿題の一つはこれでしょうか。真剣に考えてみたいと思います。
 
Amazon アインシュタインの宿題

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2005.08.06

ムジカ・アンティクワ・ケルン 『テレマン フルート四重奏曲集』

Musica Antiqua Koln 『Telemann Flute Quartets』
UCCA-1049 4日、日本でもようやくiTunes Music Storeのサービスが開始されましたね。まだまだ品揃えは万全とは言えませんが、とにかく何かを買わねばと思うのが人情(なのか?)。最初に何を買うべきかいろいろと迷いました。最後の最後に、坂本冬美にしようかMAKにしようか迷ったあげく、結局MAKのテレマンにしました。最初は大好きなビーバーの「技巧的で楽しい合奏音楽」にしようかと思ったのですが、こちらは2枚組価格ということで、CDを買った方が安い。というわけで、だいぶ安上がりなテレマンの「フルート四重奏曲集」にしました。1500円です。音質もまあまあですしねえ、なんとも便利な世の中になりました。こちらのコメントで音楽のデジタル化を憂いていながら、結局恩恵にあずかってる自分がなんとも自分らしい。
 しかし、たぶんCD屋さんにこのCDが置いてあっても買わないだろうな。1500円でも。こういう無駄な消費を促すんですよ、コンビニエンスってのは。便利とは目的達成のための障害が少ないという意味だと思っていたら、違った。人間から迷ういとまを奪うものだった。それでも、たまには買って良かったと思う場合もあるでしょうし、セレンディピティーとの遭遇もあり得る。
 で、聴いてみました。結論。まあなかなか良かった…のですが、やっぱり買うほどのことはなかったかな。だいたい全部知ってる曲、というか、全部弾いたことのある曲でした。思えば古楽歴もそろそろ20年(都留音楽祭が今年20回目だもんな)、テレマンの室内楽もいったい何曲やったことやら。それこそ20年前には想像すらできない未来でした。
 もともとテレマンは大好きでした。高校時代なんかバロックの作曲家の中で一番好きだったのでは。何度も書いているように、私はELOからバロックに移った人間なので、ポップな作品をたくさん書くジェフ・リンとテレマンが頭の中で見事にリンクしていたのです。すごく深いわけではないけれども、分かりやすい上質なポップチューンを職人技でどんどん生産する。深刻なのがあんまり好きでない私には両者の音楽はピッタリだったわけです。その後両者に物足りなさを感じた(つまり背伸びして難しい音楽を聴いた)時期もありましたけれど、今の自然体の自分にとっては、やはり二人の音楽は生活に欠かせない存在です。
 テレマンの、というより録音文化やコンサート文化のなかったバロック時代の音楽は、一回性が重視されていました。聴く方はもちろん、演奏する方にも違う意味での一回性、つまり練習しないでいきなり本番的な一発性みたいなものを要求されていたんですよね。演奏者も楽しく、聴き手も楽しく、そして楽器も喜ぶ。そういった作りの曲を、テレマンはたくさん書きました。演奏者個人としては適度に簡単で適度に難しく、アンサンブルはしやすく、そして楽器の特性やクセを活かす。できあがった音楽はそれなりに聴きごたえがある。これを徹底的に実現したのが、テレマンでした。
 お友達のバッハはどうも反対の方向に突っ走っちゃったみたいですな。持って生まれた性格の違いということでしょうけれど、なんとも対照的な二人でした。でも仲よかったんですよね。不思議だ。バッハはそんなテレマンにちょっと憧れてたみたい。息子にフィリップって名前つけたりして。嫉妬はしてないような気がします。
 そんなテレマンの特性がよく表れたこの「フルート四重奏曲集」。フルートと言っても、リコーダーでもトラヴェルソでも、どっちでもいいわけで、実際この演奏でも両方使われています。MAKの演奏もいつも通り生き生きと楽しく、ライヴ感あふれるものでした。
 いちおうCDに焼いてみましたけれど、どうでしょうねえ、これから何回聴くでしょうか。もしかすると、弾く回数の方が多いかもしれません。まじで。iTMSの使い方気をつけないと。自宅に音楽の自動販売機があるようなもんだからなあ。

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2005.08.05

『網野善彦を継ぐ。』 中沢新一 赤坂憲雄 (講談社)

406212453X 今朝、FMのバロックの森でバッハのマタイ受難曲の抜粋を放送していました。いろいろな奏者によるハイライトということで、なかなか興味深く聴きました。で、それをBGMにしながら読んでいたのが、この本でして、この組み合わせというのも不思議ですけど、その結果というか、両者のコラボレーションがもたらした私の脳内イメージがすごいことになってしまいました。
 網野善彦さんが十字架背負って…(後略)。
 網野先生は、私にとっては本当に先生と呼べる存在です。もちろん、直接お会いしたことはありません。本当に残念なことでしたが、昨年お亡くなりになってしまいました。先生が語った学問に対する姿勢、歴史に対する視点は、今の私のある部分を確かに形成しました。先生について私が説明すると、非常に長くなってしまいそうなので、Wikipediaの記事を拝借しましょう。
 『山梨県生まれで東京都育ちの歴史家である。専攻は日本中世史。中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に大きな影響を与えた』
 私は富士北麓に伝わる偽史の研究から網野先生を知り、多くの著作を読んできました。私のような在野の者なら、いわゆるアカデミックな世界に反旗を翻しても、その旗すら誰にも見えませんからなんの問題もありません。しかし、先生は大変だったと思います。ある種歴史学界ではタブーとされてきた部分に足を踏み入れ、そしてまた、その研究結果が大衆にも大いに受け入れられた。当然まわりは敵だらけになります。
 私にもその程度の認識とシンパシーはあったのですが、実際には想像を絶する苦難があったようで、改めて驚かされました。例えば、赤坂さんがこの本のあとがきに記した次のようなアカデミズムの様子を、私たちはどう受け取ればいいのでしょうか。
 「網野さんが病いに倒れられて以来、どこからともなく聞こえてくるのは、陰鬱な湿った声ばかりだった。網野さんの仕事はたちまちにして忘れられる、歴史学界は網野以後に向けて、すでに動き出している、やがて、網野善彦という名前は忌み物となり、だれも触れなくなるだろう…」
 私は、網野先生の業績は、忘れられるどころか、これからさらに高く評価されるようになると思います。それはアカデミズムなんていうせせこましい世界によってではなく、私たち大衆によってです。なぜなら、歴史の99%は我々大衆によって紡がれてきたからです。
 さきほどの引用の中に「忌み物」という表現がありましたが、網野先生が共感や愛情をもって見つめたのは、まさに歴史の「忌み物」たちでした。『蒙古襲来』に先生が書いた「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」。網野先生も自らの生き様を通じて、その力をこの世に残してゆかれました。これはアカデミズムと言えども、いかんともなしがたい、非常に強い力です。必ずや復活するでしょう。大衆のための癒しを実践したイエスのように。
 私のような者が意気込んでもなんの足しにもなりませんが、非常に気合いが入りました(笑)。網野先生は山梨のご出身です。この本によって、そのことがいかに網野史学に大きな影を落としているか分かりました。なまよみの国が、意外なところで陸奥や蝦夷とつながっていることも。私も「ふとどきな」国に住まう「まつろわぬ」者として、自分のできる範囲で官軍と戦っていきたい。そんな大それたことを考えました。網野先生の次の言葉が背中を押してくれたからでしょう。
 「秀才は駄目だ。自分のまわりにはそういう秀才がいっぱいいて、その人たちは政治的現実にせよ歴史的現実にせよ、すんなり頭のなかへ整理して理解してしまう。だけれども現実というのは、いつも理解に抗うもので、理解されたものを否定していく力が強烈にはたらいている…」

Amazon 網野善彦を継ぐ。

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2005.08.04

『東大オタク学講座』 岡田斗司夫 (講談社)

4062082926 オタキング岡田斗司夫センセイが東京大学で行なった講座の講義録です。知る人ぞ知る基本文献の一つですね。
 発行された1997年ごろですかね、一度読んでるんですけど、当時の私は「オタク学」にほとんど興味がなく、また、書かれている内容についても、偽史の部分以外、ほとんどチンプンカンプンでして、全くと言っていいほど印象に残っていませんでした。しかし、今日久々に読んでみると、まあなんと面白いことか。話の内容はまあ今でも半分くらいしかわかりませんが、やはり文化論として首肯される部分が多い。それだけ、私のオタク化が進んだということですかね。
 とりあげられているのは、ゲーム、アニメ、マンガ、疑似科学、超科学、超能力、現代アート、やおい、ミリタリー、変態性愛、ゴミあさり、などなど。そして、それぞれの回のゲストの濃いこと、濃いこと。こりゃ途中退席の学生も出るわ。
 昨日の「宇宙意識」もある意味サブカル臭がしますけれど、やはり日本人のトンデモレベルとは比較になりませんね。それでも、無理やりくっつけて考えてみましょうか。
 え〜、岡田センセイは、冒頭でファンとマニアとオタクの違いを述べておられます。ファンとは対象が好きでたまらない状態、マニアはその愛情が一度裏返って愛するための手段=収集や研究という客観的なスタイルへ走ってしまった形、そしてオタクはそれらに加えて対象と自分との関係を振り返ることができる、高度な知性でもって対象が自分にとってどういうものなのかを考えて再配列できる人々のことを言うのだそうです。
 なんとなく、納得できるような、いや実態とはちと違うような…。もう10年近く前のことですしね。たとえば、「萌え」という言葉は出てきませんし。まあ、それはいいとして、この三者の分類ですけれども、「宇宙意識」のあれに似ていませんか。そう、こういうことです。
 ファン=単純意識
 マニア=自己意識
 オタク=宇宙意識
 …なんて思いつきで書いてみたら、とんでもないことになったな。いかんいかん。ただ、どうでしょう、多少納得行く面もないですか。ファン的な感情は動物にもありそうです。マニア的な感情と行動は、たしかにある程度の成長を必要としますね。対象への複雑なアプローチは自己同一性獲得(ある意味他との差別化)の願望とリンクしているような気もします。しかし、あくまで自己完結して広範な社会性は得られ難い。そして…。
 え〜?やっぱり真のオタクは世界を救う!ってことかな。たしかに全ての対象と自分の関係を考え尽くせば、ブッダになれるかもしれない。と言うことは、結局「真の」というところが難しいわけです。それでもマニアを突き抜けつつある真性オタク予備軍みたいな人々は増加しているらしい。これはやっぱりバックの言う進化の過程なのでしょうか。う〜む、なんか違うような気もしないでもない(笑)。「萌え」=「をかし(女性ファン的感情)」だという私の最近の説に従えば、退化しているとも言えますよね。うぅ、わからん。
 てな感じで、進学合宿中なのに、受験勉強にいそしむ生徒そっちのけでわけわからんことずっと考えてしまった。いかん。まあ、東大の講義内容だし、高度な知性を要するらしいし、世界平和につながることらしいので、よしとしますか。なんてまた自己意識が肥大した。
 さて、芸術学部と医学部の小論文指導しなくちゃ。すっかり頭ん中があっちの世界に行っちゃってるよ〜。

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2005.08.03

『宇宙意識』 リチャード・モーリス・バック著 尾本憲昭訳 (ナチュラルスピリット)

4931449360 約100年前に書かれ、さまざまな文献に引用されてきたという名著がようやく昨年翻訳されて出版されました。
 著者はイギリスの精神科医。随所に、時代の、国家の、そして彼の職業の影響が感じられます。それはそれとして、基本的な内容は非常に興味深いものです。例によって乱暴に要約しましょう。
 我々人類は他の動物と違い、種として大きな進化を遂げる。それはまた個人の進化をももたらす。その段階は、単純意識(動物にも存在する)から自己意識(人間に特有)へ、そして最終形態である「宇宙意識」へ。一般的に人間は自己意識を持つにとどまるが、歴史上偉大なる宗教家や哲学者、文学者などの一部は、宇宙意識にまで到達する。宇宙意識とは宇宙の生命と秩序に関する意識であり、それは地球と人類の存在すら変える可能性を持っている。しかし、人類の進化として見るならば、現代はいまだ自己意識の段階である…。
 こんな感じでしょうか。なかなか説得力のある考え方です。おそらく大方の部分で正解であろうと思われます。私に限らず、彼の言う宇宙意識というものの存在は予感されるでしょうし、それを、例えば宗教という形で、あるいは科学という形で、また音楽という形で、とにかく個々人の興味を持ち得意とする何かを通じて、具現し実感しようと努めています。しかし、予感こそすれ、なかなかその意識を自己のものにできないのも間違いのない事実です。だから結局は第二段階止まり…。
 つまり、我々凡人、というか世間で天才と言われる人においても、その宇宙意識の獲得は非現実的なものの範疇に入っているのです。ですから、著者が紹介する宇宙意識獲得者たちには「神秘体験」が伴う。そして、その扱いこそが一つの大きな分岐点となるような気がします。
 著者もそれを見た一人のようですが、神秘体験の特徴は「光」であるようです。その事実(あるいは物語かもしれませんが)の意味するところが何なのか。または科学的な立場に立った時の「光」の特殊性…例えばそれが波なのか粒子なのか、光速だけが持つ特別な意味など…とどういう関係があるのか。そのあたりは凡人の代表である私には分かりません。しかし、そうした証明不可能であるけれども、何か予感を与えるものに対して、どうつきあうか。私は、そんなのトンデモだよ、とは言いきれません。
 考え方によっては、そうした神秘体験や、それをベースにしたこの著書など、トンデモの権化のようだと言えるかもしれません。しかし、でも、なぜだか分かりませんが、私は一笑に付してしまうことができません。これは持って生まれた性質というか体質というか、どうにもなりませんね。たぶん、自分の能力や感覚や想念がとんでもなくちっぽけなものだと諦念しているのだと思います。イヌやコウモリに聞こえる音が聞こえなかったり、アリやハト以上に迷子になったり、木や石のようにじっとしていられなかったり、そんな事実を考えるだけでも、自己意識さえ揺らぎ始めます。せめて、予感だけは感じていたい。そう思うのがやっとですね。
 バックの考えに従えば、人類は必ずや宇宙意識を持つに至るということですが、100年経った今、我々はどの程度進化を遂げたのでしょう。やはり、個人レベルで非常に低い確率であったように、人類のレベルでも宇宙意識はそう簡単に手に入らないのでしょうか。逆に自己意識の肥大化(私は言語という麻薬がその原因だと思います)が我々の進化を妨げているような気もします。恐竜のように肥大化して、結局は淘汰されたりして。
 ちょっと差別的な物言いが気になる本でしたが、それは時代が時代ということで仕方ないですね。でもそんなこと以上に、いろいろと考えさせられちゃいました。

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2005.08.02

磯自慢 大吟醸『水響華(すいきょうか)』

img10441116707 両親が珍しく誕生日プレゼントを買ってくれました。ちょっと早いんですけど。今もらって一番うれしいのは日本酒ですな。両親も、自分の子どもがこんなオジンになったとは、不思議な感じでしょうね。
 で、さすがは両親。私の好みをよく知っています。静岡は焼津のお酒「磯自慢」。いまや吟醸系の銘酒として全国で大人気ですね。
 私の生まれた年は、江戸五輪の開催された年。また、江戸大坂の間を超早馬が走ることになった年です。私は本当は江戸生まれになるはずでした。しかし、その年の夏、江戸は大変な旱魃で、急きょ私の母方の実家のある駿河の国焼津で生まれることになったのでした。
 そんな縁あって、私の生地となった焼津。言うまでもなく、当時の焼津は遠洋漁業の一大基地。磯の香りというか港の香りというか、とにかく駅を降りるとお魚さんのにおいが町を覆っており、それがそのまま焼津の活気を象徴しておりました。道を歩けば、トラックから落ちたと思われる冷凍のマグロが転がっていたりして。
 しかし、その香りは、私が年をとるとともに薄らいでゆき、焼津は遠洋漁業の町というよりも、静岡のベッドタウンとなっていったのでした。とは言え、今でも焼津で新鮮な魚が手に入りやすいことはたしかですね。やはり焼津と海と魚は切っても切れない関係です。
 そういう町に天保年間からある酒蔵、磯自慢酒造。ここのこだわりの酒造りは今や全国でも有名。なにしろ製造しているお酒は全て本醸造以上だと言いますから、たしかにすごい。特に吟醸系のさっぱりとしてキレのある味わいは正直群を抜いています。おそらく、人も酒蔵も酒も、新鮮な魚という、日本酒の肴として最も贅沢なものに囲まれて育ったからでしょう。洗練されています。たしかにお刺し身と磯自慢の組み合わせは至上。日本人として最高の幸福を味わえます。
 この水響華は大吟醸の中では比較的手ごろなお値段なので、若い人、特に女性に人気があるようです。うん、たしかにこのフルーティーさはワイン以上だ。のどごしも良すぎるくらい。夏のこういう夜にちょっと呑みすぎるくらい呑むのにぴったりですね。よく冷やせば冷やすほど舌触りがよくなるので不思議です。
 「水響華」というネーミングも洒落てますね。味わいとネーミングが実にマッチしている。センスのよさを感じます。お酒の名前というのも、けっこうありそうなものは登録されていることが多いようで、新酒の名づけは大変だそうです。この水響華にもそんな苦労があったようですが、結果として最高の名が与えられたようですね。
 とにかく、自分の誕生した土地に、自分の大好物の、それまた最高のレベルのものがあるというのは、幸せなことです。ありがたや。両親からの気持ちも含めて、大切に味わいたいと思います。

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2005.08.01

『知らないと大恥をかく日本語の常識・非常識』 日本語を考える会 (角川学芸出版)

4046519657 タイトルが非常識ですな。コンビニで500円で買いました。
 本書213ページに「羊頭を懸けて狗肉を売る」が載っています。「見かけは立派でも、実質がそれにともなわないことのたとえ。また、宣伝は立派に見せかけて、実際は似て非なる粗悪品を売ること」とあります。この本もまさに羊頭を懸けて狗肉を売る…かと思うと、さにあらず。
 実は、この本は「狗肉を懸けて羊頭を売る」なのです。いかにも安っぽい内容のように見せかけて、実質はけっこう立派。
 まずは「知らないと大恥をかく」という枕ですけれど、はっきり申しましてこれはウソです。実際は、前半部はことわざ・故事成語・仏教語の語源などで構成されていてかなりマニアック。「知らなくても別に恥をかかない」内容になっています。後半の「ことばの使い分けの常識」というコーナーにも、たとえば「アナウンサーとキャスター」とか「許可と認可」とか「プロデューサーとディレクター」とか「新幹線と整備新幹線」とか、まあ知らなくてもそれほど恥ではないものが列挙されています。
 さらに、タイトルの「日本語の常識・非常識」。これもウソですな。上にも書いたように、この本は、第一部「日常語の常識」第二部「ことばの使い分けの常識」ですので、「非常識」が見当たらない。考えてみると「日本語の非常識」って難しいですね。たとえばどんなんだろう。「世間的に非常識な日本語」ならわからないこともないけれども。というわけで、これも看板に偽りあり。看板では「はあ?」と思わせといて、実は常識的な内容なので、これも「狗肉羊頭」ということにしましょうか。
 ところで、その213ページの「羊頭狗肉」ですけど、ご丁寧に4コママンガまでついてます。それが面白い。たいやき屋さんが「頭とシッポにもたっぷりアンコがつまってるよ」と宣伝します。それをOLとおぼしき女性二人が買って食べてみます。そして「なにこれ、頭とシッポにはアンコ入ってるけどおなかにはつまってない!インチキ!」というオチ。
 え〜、これは羊頭狗肉なんでしょうかね。たいやき屋さんは「おなか」については言及していません。「頭とシッポにも」と言っているだけですから、ウソはありません。OLは「おなかはもちろん、頭とシッポにも」と解釈したのでしょうが、係助詞「も」が暗示するものが「おなか」とは限りませんし、もしかすると「頭はもちろん、シッポにも」の意味で使ったかもしれませんから、羊頭狗肉とは言えませんね。
 てな感じで、この本、コンビニに陳列されるという、御本人にとっては全く予想外の境遇の中で、無理やりこういうタイトルを付けられ、いらぬマンガまで挿入されてしまった。まじ〜めな人がジャンケンで負けて、無理やりパーティー用変装グッズを着せられ、そら罰ゲームだ、あそこのコンビニで肉まん買ってこいって言われちゃったような(わけわからんな)…。その哀れさがなんとも痛快です。
 御本人はきっと「知らないうちに大恥をかかされた出版界の非常識」を実感していることでしょう。

Amazon 日本語の常識非常識

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