The New Lost City Ramblers 『40 Years of Concert Performances』
今月の15日の夜から翌日朝まで接心があります。それが明けた16日の夜、教会でコンサートをやります。演奏するジャンルはカントリー(ブルーグラス)です。メチャクチャなスケジュールですなあ。まあ、悟りを開いた後ですから、宗教や音楽のジャンルにはとらわれませんぞ(笑)。結局私はなんでもいいんですね。そこがいいところでもあり、悪いところでもある。
で、まだ悟ってないのでジャンルにとらわれた言い方をしますと、私はカントリーというジャンルはよく知りません。昨年の今ごろ初めてそういうバンドに参加させていただきまして、漠然としか知らなかったこの世界を、ほんの少し、ホントほんの少しですけど、垣間見ることができました。少し足をつっこんで自らやってみると、何事にも深い世界が開けているものです。けっこうはまりましたね。特にヴァイオリンではないフィドルの世界。あの味は出せないんですよね、なかなか。
今回はバンドのリーダーが、私の勉強用にこのCDを貸してくれました。全く知識なしに聴いたのですけれど、なかなか面白かった。2時間半に及ぶ名ライブ集なのですが、ついつい聴き入ってしまいました。カントリーというと、リズムもコードも単純というイメージがあります。だから、ずっと聴き続けるのはキツイかな、と思いつつ、プレイボタンを押したんですよ。でも、いざ始まってみると、実に面白い。
まず何が耳に留まったかというと、演奏のヘタさ加減です。絶妙のヘタさ加減。そのヘタさというのは、おそらく西洋クラシック音楽の演奏習慣及び鑑賞習慣から判断したヘタさです。このヘタさは実に難しい。演奏してみるとホントに再現できない。もうおわかりと思いますが、こういうヘタさ加減というのが、世界中のフォークミュージックの本質であり、味わいであり、命であるわけです。
今日、コンサートに向けての練習がありました。そこで感じるのは、いかに私が西洋クラシック音楽に毒されているかということです。だいいち、五線譜がないと不安で仕方ない。コード名だけだと自信がない。それから、カントリー(に限らずクラシック以外の音楽)は、1拍余ったり足りなかったり、またそれが毎回違ったりします。その方が実は音楽としては自然なわけですけれど、やっぱり苦しい。いかにメトロノーム的世界に毒されているか。
微妙なズレとか、不均質な音とか、ノイズとか、そういうモノ(まさにモノノケですな)を排除して、ある意味コト化(近代化・機械化・都市化・脳化)を究めて高尚を気取っている、そういう音楽というか文化に疑問を抱いてしまいますね。また出たって言われちゃいますけど、結局「もののあはれ」を忘れてしまっているんですね、最近の我々は。
おっと、また話がずれた。で、このCD、そんな「もののあはれ」をとっても感じさせるいい音楽でした。調べると、彼らはアメリカの音楽史において、オールド・ミュージックを復活させた重要人物たちであるとのこと。どの世界にもすごい人たちがいるもんですな。そして、まだまだ知らない音楽がたくさんありますな。だから人生は楽しいんですよね。飽きないし忙しいというわけです。
というわけで、16日はブッダの説いた「無常」を感得しつつ、イエスのもとで「もののあはれ」を表現できるよう頑張ります!
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