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2005.07.31

『ダンス・クリティーク―舞踊の現在/舞踊の身体』 尼ヶ崎彬 (勁草書房)

432685183X 昨日はお祭り、今日は昼間所属するバロックバンドの練習、帰ってきてから先日の小橋建太対佐々木健介を見直したりして、思い出したのがこの本でした。
 この本では、昨日も登場した「場」について多く言及されています。西洋的な為手と受け手の関係ではなく、たとえば日本古来の舞いと囃子の関係に見られるような、客(いちおうこう表現しておきます)の掛け声や手拍子によって、一つの波(ノリ)が形成され、結果としてパフォーマンスが生まれる、そういう関係について述べられているわけです。
 舞台の上と舞台の下がお互いに引き込みあい、「場」を作り上げていく。主体−客体の関係ではなく、両者が主体。「場」が一つの生命体になり、いわゆる客はその一部になることを目的にその「場」に参加する。なるほどねえ。
 まったくその通りでしょう。プロレスを会場で観るのとテレビで観るのとでは、その意味があまりに違います。それについてはこちらに書きました。本来、音楽もそうあるべきでしょう。もちろん祭りも。
 いつからなのでしょうか。西洋的な二分法が世界に蔓延し始めたのは。私たちのデジタル化はかなり早い時期に始まっていたのではないでしょうか。
 何度も書いていますけれども、そうしたコト化、つまり分節することの功罪について、もっと考えるべきでしょう。モノをアーティキュレイトして安心を得たいという本能は認めますが、なにか我々はその行為自体に快感をおぼえているような気もします。最近考えている、絵画における輪郭線というのも同じ問題かもしれません。
 記号化、言語化、都市化、脳化…いろいろな方々がいろいろな言い方をされていますが、根本は同じような気もします。特に究極の分節行為である二分化は危険な場合が多い。二分された時の多数派の方につけば楽です。つまり客体の方が楽なのです。そうした「お客さん」で満足することが多くありませんか。一方少数派の方も自己満足に陥る。あるいは過激な手段で多数派に勝とうと企てる。
 そう考えると、先日書いたマイケル・ジャクソンの行為というのは、実に大きな問題提起をはらんでいることになります。彼自身がアンチ・テーゼなのです。
 いずれにせよ、人間は、分節して自己と他者との間に線引きすることばかり考えています。自然界ではおそらく人間だけがなしうる高尚な愚行です。そこではブッダの説く「縁」は確実に減少します。それでは文化も人間自身もやせ細っていくばかり。う〜む、ちょっと考え込んじゃいますね。
 筆者は「場」のシンプルな例として、「手締め」を挙げています。あの快感は、自分を超える大きなものが生起するために自分の役割を果たし終えたことの満足であり、多数の協同作業による大きなイベントが成功したことの満足のメタファーである、と述べています。なるほど…。
 では、こんなワタクシの独言に多少なりとも賛同していただける方々、ぜひともご唱和下さい。
 (本日の)本日のおススメはこれにて終了いたします。では、お手を拝借。よ〜ぉ!

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2005.07.30

富士桜神社例祭(?)

nnm21 今日は私が住んでいる別荘地のお祭りがありました。別荘地のお祭りというのも変ですが、まあ簡単に言えば、お祭りをするために神社を一つ造ってしまったということです。日本の神社の多くはこんなふうに必要だから造ったタイプ。日本人の御都合主義、御利益信仰を裏付けます。これはやはり宗教ではないですな。何度も言っているようにそこがいいところです。まあ、唯一戦争に利用されたのが汚点ですけれど。あれも国家神道という国家の御都合主義、御利益信仰だったんですね。やっぱり戦争が原理主義を産むのか。原理主義が戦争を起こすんじゃなくて。
 それはそれとして、別荘地の神社ってどんな御利益があるかといいますと、ゴルフが上手になるんだそうです(笑)。
 さて、今日はそのありがたい神社の例祭に行ってきたわけですけど、そこに集うのは、ほとんどが都会から避暑に来ているお金持ちのみなさん。そのわりにはお祭り自体は例年通り実にチープな雰囲気。そこがまたいい味を醸しています。だいたい、別荘地なんてコミュニティーとして成立していないわけでして、というか、コミュニティーのわずらわしさから逃げ出して来ている人々がこのお祭りに参集しているわけでして、そりゃあ連帯感というか盛り上げようという意識はありませぬ。子どもお神輿がねりあるいても、誰もワッショイの掛け声をあげない。しかたがないので、ウチと御近所のファミリーだけが大声を奉納しました。恥ずかしかったけど、御利益があることを信じましょう。
 そんなある意味さめた氏子集団が唯一盛り上がったのが、ビンゴ大会。お米やら自転車やら電化製品やらが当たります。おいおい、そんなの皆さんのウチにいくらでも転がってるだろ。そんな安物もらってどうすんの?しかし、それはやはり貧乏人の発想。やっぱりタダでもらえるモノにあのくらい執着してないと金持ちになれませんよ。私なんか、無料の樽酒をガブガブ呑んでるうちに、途中で番号を聞きのがしたりして、結局途中でやめちゃいました。これじゃあダメですね。
 あと、子どもを中心に盛り上がったのは、大道芸人が出てきたときです。彼の名前をちょっと失念してしまったのですが、ソニーのハンディカムのCMに出ていたオランダ人です。彼の芸はたしかに見事だった。いわゆる「場」を作り上げる能力の素晴らしさ。練習の賜物である確かな技術と、入念にねられたネタ、そして観客を巻き込むアドリブ力。ああ、これぞエンターテイナー。まさに人と人の間(エンター)をつなぐ(テイン)存在。かっこいいなあ。老若男女、金持ち貧乏人問わず、みんなひきこまれてました。教師としても、音楽をやる者としても学ぶべき点がありました。
 しかし、なんといっても貧乏人は、件の樽酒が良かったなあ。ちょっと呑みすぎちゃいましたが、祭りというハレ(非日常)に私をいざなってくれました。ああうまかった。

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2005.07.29

ドラマ『電車男』

ydds11 ELO関連で、放映前にこんなこと書きました。放映が始まりましたが、ウチはフジテレビをキレイに受信できない環境でして、結局第1話は砂の嵐の中、2話3話は生徒に録画してもらったDVDで観ました。結論から申しますと、大変に感動したので、第4話は工夫に工夫を重ねて、なんとか自宅でリアルタイムで観ることができました。なせばなる。
 昨年原作を読みながら涙する私を、なかばバカにしたような目で眺め、私がいくら本を差し出して、読んでみな、これは感動するし、新しい文学の到来だよ、と言っても、一向に興味を持たなかったカミさんが、今は食い入るようにテレビを見、大好きな睡眠を削ってまで原作を読んで泣いています。
 というわけで、極私的思い入れたっぷりの感想をちょっと。
 まずオープニングから行きましょうか。私はもうトワイライトがかかるだけで泣けます。青春時代を思い出すのかな。笑い声がフェードインしてくるだけでウルウル。ベヴ・ベヴァンのドタバタドラムでもうノックアウトです。アニメもそんなにひどいと思われません。あの時間帯のドラマのオープニングがアニメであるというだけでも画期的ですよ。DAICONのパロディーでいいんじゃないですか。トワイライトとも意外にマッチしてるし。
 さて、内容の方ですが、原作との差別化も含めて、脚本・演出が秀逸であると思います。毎回、笑いと泣きの要素を上手に織り交ぜていますね。コテコテであるけれども、基本に人の温かさがあってよろしい。2ちゃんって意外にそういうところですし。
 その2ちゃん上のやりとりをどのように再現するかというのが大きな課題であったと思いますが、なかなか上手にこなしていますね。2ちゃんリテラシーを知らない人も、知ってる人も、それぞれ楽しめるのではないでしょうか。もちろんデフォルメされておりますが、住人たちもそれぞれ魅力的ですし、(実のところ)彼らが持っている内面の明るさ(ユーモア)もうまく表現されているではないでしょうか。
 私とカミさんの共通した意見なのですが、ここで描かれている男と女の心理状況にはかなり普遍性がありますね。一見、特殊な状況のようにも感じられますけれど、実はどんな男もあんなふうに自信がなく、人生においていくつもチャンスを逃しそうになる、女も結局は外見ではなく、人柄(たとえば誠実さ)で男性を選びたい。太宰治的に言えば、全ての男性には一人電車男がすんでいるし、全ての女性には一人エルメスがすんでいるということです。
 このように、実話(としておきます)が寓話として機能する、それもインターネットという媒体でその寓話が無自覚的に形成されたということ、それはやはり、それを好きか嫌いかを別として歴史的なことだと思います。
 今日、生徒と解いた現代文の問題は、西村清和さんの「同調のメディア」からの出題でした。西村さんはネットの掲示板などのメディアの限界について語っておられる。個人から遊離した文字により、合意を目指すのではなく単に「つながっている」ことを確認しあう、チューニングであり、モノローグである、と。しかし、そういった多くの人々の予感を、簡単に、それも恣意的でない形で乗り越えてしまった。そういう物語が、こうして誕生したわけです。特殊性どころか、普遍性までをも感じさせる物語が。そして、さらに、マンガや映画やテレビドラマや演劇という古典的(!)メディアにまで形を変え、成長していく。う〜ん、やはり奇跡は起きた。
 な〜んて、私がこれほど感情移入する理由がカミさんの一言でわかりました。カミさん曰く、
「なんか電車男って○○さん(私の名)に似てる…」
と。なるほど、そう言えば見た目も似てるような。そしてそれ以上に…。
 と、と、とにかく今後の展開に期待しますです…はい、すみません。

ps 今日の夜中BS2でELOのライヴやりますよ!

公式

電車男最終回…

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2005.07.28

不二草紙 本日のおススメ(手前味噌?)

00921 自分で自分のブログをおススメするっていうのもなんですが、御礼も含めましてちょっと書かせていただきます。
 え〜、カウンターを設置してから8ヶ月ほど経過いたしましたが、昨日晴れて50000アクセスを突破いたしました。ひとえに皆様方のおかげでございます。心より御礼申し上げます。
 特に5月以降は1ヶ月10000アクセス以上をキープいたしております。つまり、1日に300以上のアクセスをいただいているわけです。このような比較的渋めな内容のブログにしては、結構多い方ではないでしょうか。では、人気があるのかというと、どうもそうではないようです。というのは、3分の2の方が検索で訪れているからです。言わば通りすがりにちょっとのぞいてみた、あるいは看板にだまされて店に入ってはみたものの、商品の貧弱さにあきれ、すぐに次の店に入り直す、そんな感じのようです。実際、あんまり中身のあること書いてないですから。無責任な思いつきばっかりです。
 最近、ちょっと面白いな、と思うのは、ある特定の書籍に関する記事(複数ですが)にアクセスが集中していることです。どの本とは申しませんが、どうもそれらは学生の夏休みの課題図書らしい。その本を読んで、感想やら、小論文やら、要約やらをしなさいと命令されているようです。こういう時代ですから、まずはネットにいいネタが落っこちてないか、そりゃあ調べますよね。私もそうですから。で、実際にそれらの書名で検索してみると、たしかに私の記事がずいぶん上位にあります。場合によってはトップだったりして。ああ、恐ろしい。
 何が恐ろしいって、学生さんたちが勘違いして、あるいは横着して、私の記事をパクったりしたら…。だいたい、私の書評はアマノジャク的ですからね。たぶんいい点もらえないでしょう。単位落としたりしても知りませんよ。
 というか、まあ誰もパクらないか。
 学生ということで、ちょっと前にも一つ面白い、いや、恐ろしいことがありました。ある日、あるところからアクセスがずいぶんとあったので、たどっていってみたところ、ある大学の情報言語系の講義で、なぜか私のブログが教材になっていたのです。どうせ、悪い例として挙げられたに違いありません。これはちと恥ずかしかった。きっと笑われてたんだろうな。
 それにしても、なぜこんなに上位に検索されるのか、ということですけれど、実はよくわかりません。ニフティーのココログは、全ブログの中でも比較的上位に検索されるらしいのですが、いったいGoogleとかYahoo!とかのロボットってどういう基準で検索結果を並べてるんでしょうね。企業秘密らしいですけど、ちょっと知りたい。
 まあ、確かに「古今東西硬軟聖俗」って謳ってるだけあって、情報は広く浅くですし、無駄っ話とは言え、言葉の絶対数は確かに多いので、それでロボットちゃんがだまされてるんですかね。謎です。
 これからは、検索でおいでの方に、リピーターになっていただけるよう、内容を充実させていきたいと思っています…なんて、けっこうこれが今の自分の精一杯なんですよね。まあ無理せず、楽しみながら続けていきたいと思います。今年中に10万アクセス行けるかな?
 前も書きましたが、基本的に一つの記事にかける時間は30分と決めています。私は早起きなので早朝にネタづくりすることがほとんどです。今年は仕事が忙しいので、不二草紙本体の方がなかなか更新できません。自分としてはそちらをメインにやりたいんですがね。ちょっと残念です。ヒマを見つけてボチボチやっていきますので、気長にお待ち下さい。
 では、今後ともよろしくお願いいたします。
                 富士山蘊恥庵庵主 山口隆之拝

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2005.07.27

『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』 高畑勲 (徳間書店)

4198609713 昨日のおススメであるベビースターラーメンは三重県が誇る歴史的遺産です。あっ、もちろん伊勢神宮もです。あと、もう一つあげるとすれば、高畑勲さんでしょう(すみません、メチャクチャで)。
 以前ここでおススメした高畑勲さんの「十二世紀のアニメーション」。あの時はまるで読んだかのような書き方をしてますけど、自分のものとしては最近ようやく手に入れたのでした。で、あらためて読んで、観て、とにかく仰天。こんな興奮は久々です。感動じゃなくて興奮だな。いやあ、ホントに面白い。これはものすごい名著ですよ。そして示唆に富む。
 高畑さんのアニメについては、「火垂るの墓」しか観ておりませんし、こちらでは、その作品についてやや批判的な論調で語っております。しかし、それはあくまであの作品のテーマが持つ特殊性のためであり、純粋にアニメ作品としては、なかなか美しい作品に仕上がっていると思います。そうした優れたアニメ作品というか、高畑さんの作家性のベースに、これほど豊かな絵巻物の世界があったとは。驚きであります。
 驚きと言いますのは、二重の意味での驚きです。
 まず、高畑さんがそういう研究もされていたということ。それも学界に激震を起こすほどの「再発見」をされたということです。この本で解説されていることは、まさしく我々が忘れていた視点…それがオリジナルな真実であることは間違いないのですが…を思い出させてくれた。時代や学問や常識によって曇らされた我々の目を、澄んだ光でもって洗い流してくれた。そういう驚きです。
 そして、語られる絵巻物たちの、あまりにハイテクニックで、あまりにアヴァンギャルドで、あまりにクリエイティヴなことにビックリ。こんなものが、12世紀の日本に存在したとは。これは、たしかに日本人ならではの技。語弊があるかもしれませんが、オタク的精神とオタク的職人芸のなせるわざ。世界的に見ても、これほどシャレたメディアはそうそうありませんよ。今まで、私は何を見てきたのだろう。教科書や美術館ではダメだ。
 ここでは、高畑さん自身の発見の興奮が伝わってくるような、熱っぽい、しかし、平明な解説がくりひろげられています。あっ、そうだ。だいたいが「繰り展げる」が、クルックルッと巻き取りながら場面を展開させていく絵巻物を観る動作だったとは、知りませなんだ。国語教師として恥ずかしい。
 とにかく、ありがたく宝蔵されている絵巻物の数々を、現代の映画的・アニメ的視点から、ガンガン分析して、再生させてゆくわけですが、その解説一つ一つにシロウトでも自然とうなずかれる。なるほど〜とうならされる。本当にエキサイティングな分析です。そして、いつの間にか、高畑さんも言うように、絵巻物の物語的世界に引き込まれている自分がいるわけです。そう、高畑さんと絵巻物自身の、二つの語りに呑み込まれてしまうのです。
 いやはや、日本人はすごいですね。ちょっと自慢したくなっちゃいますよ。これに比べたら、西洋の絵画や絵本のなんと狭苦しいことか。随所に見られる「逆遠近法」「異時同図」など、これは人間の脳内のイメージとしてはリアリズムなんですよ。西洋的なリアリズムなんて、ただの現実投写に過ぎません。スケールが違う。
 この本を体験し終えて、私の頭に浮かんだのは、次のことばでした。
 「現代映画・アニメに見る国宝絵巻物的なるもの」
 絵巻物おそるべし…。そして、やはりこちらにも通ずるものを感じました…。

Amazon 十二世紀のアニメーション

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2005.07.26

ベビースターラーメン 丸美屋麻婆豆腐の味

000002911 おやつカンパニーの商品開発力の高さにはいつもビックリ。自由かつ遊び心あふれる社風を感じさせます。あの「カラカリ」CMのヒトフクロウ、というか、地井武男もなかなかのセンスでしたね。逆転の発想。
 最近コンビニで買ったこの「丸美屋麻婆豆腐の味」もなかなか個性的ですね。なにしろ、パッケージには「おやつカンパニー」よりも堂々と「丸美屋」と書かれていますから。もうこの時点で勝ちですね。
product_03_01_002 この商品は、この企画が命でしょう。「○○社製○○使用」というような表記は、食品に限らず多々見かけます。しかし、こうして堂々と他社の社名と登録商標とパッケージデザインをそのまま使っちゃうところがエライ。よく見れば見るほどそのまんま。写っている豆腐も同一人物ですね。徹底しなかったらダメだったと思います。
 それも有名店のグルメメニューを採用するのではなく、いかにも庶民的なところに目をつけたのが正解。ベビースターの身の丈に合ったお相手です。両社がどのような過程を経て手を結んだのかわかりませんが、丸美屋さんの方も、なかなか柔軟な対応をしたということでしょうか。デメリットというのはあまり考えられませんけれど、他社に完全なパロディーを許すあたり、なかなかの器の大きさです。ユーモアがあるということは、会社として余裕があることだと思います。少なくとも消費者はそういうプラスイメージを持つ。
 肝心の味の印象ですが、まずは正直「辛い」。ごはんにかけて食べたいくらいです。中辛ですが、基本的に「麻婆豆腐の素」をそのまま使ったからでしょうか、かなり辛かった。そういう意味でも、これは「麻婆豆腐の素」味かもしれませんが、「麻婆豆腐」味とは言えませんな。「麻婆豆腐の素の味」ではなく「麻婆豆腐の味」と言うからには、やはり豆腐の風味も出さなくては。とは言え、シロウト的に考えても、豆腐の味や質感を表現するのは難しそうですな。まあ、しょせんシャレですから、看板に偽りありなんて言いません。
 辛いと言っても「四川風麻婆味」よりは辛くなく、酒のつまみとしてはなかなかですね。特にビールと合う。ちなみに子供たちがチキン味と勘違いして盗み食い。結果ヒーヒー言いながら泣いてましたな。やっぱり大人向けかな。
 考えてみれば、独身時代「丸美屋麻婆豆腐の素」にはお世話になりました。カップラーメンにぶっかけたり、コンビニ弁当にぶっかけたり、結局豆腐抜きで食べることが多かったから、ある意味このベビースターはリアルなのかもね。
 同様なコンセプトの商品として「ベビースターラーメン丸美屋棒棒鶏の味」もあるようです。こちらも見つけ次第食べてみましょう。
 今回久々におやつカンパニーのサイトを見て回りました。なんか楽しい雰囲気でいいですね。特に「おやつ★ツアー」は、うれしなつかし、いろいろと勉強になりました。ハイ。
 
おやつカンパニー

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2005.07.25

『ザ・ワン』 マイケル・ジャクソン (DVD)

『The One』 Michael Jackson
4571191052841 今年になってからも何かとお騒がせなマイケル。しかし天才であることには変わりありません。お騒がせこそ天才の証。
 さて、そんなマイケルの新しいDVDが発売になったということで、職場のマイケル信者の先生から借り受けました。私は彼女ほどではありませんが、マイケルを高く評価している一人だと自認しています。ウチのカミさんも結構好きですね。カミさんは私とは10年ほど世代の違いがありまして、たとえば音楽の趣味などもかなり違います。しかし、唯一共通した愛聴盤がありまして、それがマイケル・ジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」です。
 私にとっては、その「オフ・ザ・ウォール」が始まりでそして終わり、つまり私にとってのマイケルはそこに全て入っているわけでして、実はMTV以降のマイケルについてはあまり興味を持たずに来たのです。まあ、好きではなかったというより、自分が他の音楽やら何やらにかまけていたということでしょう。
 「オフ・ザ・ウォール」はホント今聴いても全く古くない、どころか常に新しい。とんでもない名作です。クインシー・ジョーンズのプロデュース力による部分が大きいとは言え、音楽の世界の色を完全に塗り替えてしまうパワーは、やはりマイケル自身に宿っていたということだと思います。
 さて、そんなわけで、久々にマイケルの優れた業績のダイジェストを見てみました。そうですね、見るということを音楽に持ち込んだ、いや取り戻したというのが彼の業績の一つでしょう。私はMTVの音楽界にもたらしたマイナスの効果ばかり感じてきましたけれども、こうしてあらためてその端緒となったマイケルのパフォーマンスを見ると、彼のそれは全く許される、いやそれこそ原初のスタイルを取り戻したという意味においては、非常に高く評価できると感じました。録音文化が生んだ、特殊な音楽の状況に対して、いわば本来の音楽的な場(それは呪術的であり、祝祭的であった)を、ビデオという形で思い出させてくれたのです。
 そのような意味も含めて、私は彼のパフォーマンスを「ボーダー・クリアランス」であると考えています。特に近代化が招いたオルタナティヴ(二者択一)な状況に対する、オルタナティヴ(代替案)の提示ではないか。例えば、「黒と白」「大人と子ども」「男と女」「音楽とダンス」「ロックとソウル」「商業と芸術」「善と悪」…。彼の行動や表現の数々を見ると、結局彼なりの方法で、これらを乗り越えようとしているような気がします。その彼なりの方法というものの基本に、アメリカ的な市場経済のシステムがある、というところがまた面白い。金の力で、上記の色々な壁を乗り越えていくわけです。
 まあ、また妙に難しそうな講釈に終始してしまいましたが、とにかく、彼は天才であり、最高のパフォーマーであるということです。好き嫌いは別として、誰もまねができないことをしているのですから。
 あと、彼に残されたボーダーは「生と死」ではないでしょうか。これを超えたら、彼は神になれるでしょう。それをどう実現するのか、それとも最後には我々凡人と同じ結末を迎えるのか。今から楽しみです。

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2005.07.24

野うさぎinウチの庭

rabit11 ウチは富士山の別荘地の中にあります。まわりはお金持ちばっかりでして、ウチのような庶民はちと浮いてます。
 別荘地というのは、その別荘地的環境保全のため、いろいろなルールがあります。庭をキレイにしておけ!というのも暗黙のルールの一つでありまして、そういう意味でも、ウチは浮いています。
 私は、人工的なガーデニングという発想と行為が大嫌いで(ウソです)、やはり自然は自然のままが良い、手付かずの自然を自宅の庭で再現するのだ!とばかりにやっておるわけです。両隣のお宅などは、雑草は一本もありません。見事に抜かれております。あるいは、枯らされております。それははたして自然と呼べるのか?皆さんは、休日に都会から自然を求めてやってきてるのではないのか?ここまで来て、なぜ自然を管理制御しようとするのだ!なんちゃって。
 しかし、ウチのような不法行為も、実際メリットを生むこともあります。両隣では雑草として処理される目立たぬ山野草の、小さく地味な花の美しさ。それらに集まる虫たち、鳥たち。これは冗談でなくいいものです。
 そして、ついに究極のお客さんが登場!!
 最近、ウチの居間の前の小さな森に野うさぎが住みついているのです!一日数回目の前に出てきて、草を食べています。もう、かわい〜い!なんてもんじゃない。子どもも「ピーターラビットだ!」と大騒ぎ。黒猫たちも狩猟モードで大興奮。
 そのウサギちゃんが食べているのは、クローバーの葉っぱです。もともと芝をはってあったのですが、私たちのポリシーに則り放置していたところ、自然の摂理に従いクローバー畑になってしまいました。それはそれできれいだし、ここでは高麗芝はある意味不自然。いいやこのままで、と思っていたところ、思わぬお客さんの来訪があったわけです。う〜ん、やっぱり自然のままがいい!
 いやはや、ホントに可愛いんですよ。結構近づいても平気でムシャムシャ食べてます。たまりません。
 このあたりでは、リス、ウサギ、シカ、イノシシなんかをよく見かけます。最近はクマも目撃されたりしてます。今度は朝起きてカーテンを開けたらそこにクマが…なんてこともあるかもしれません。ウチの庭ならありえるな…。

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2005.07.23

『世界の中の日本絵画』 平山郁夫・高階秀爾 (美術年鑑社)

SA00331 最近、生徒と「絵」のお勉強をしております。そっち関係の大学に行きたいということで、あらためて「絵とは何か」というところから考え直しております。
 テーマは「輪郭線」。本来存在しない輪郭線が絵にとってどういう意味を持つのか。ネタばらしはできませんが、ちょっと記号論的解釈を試みています。今まであんまり深く考えたことがなかったので、非常にエキサイティング。生徒のおかげです。いい仕事ですね。
 みなさんもご存知と思われますが、原初的な絵は「輪郭線」です。「輪郭線」そのものが絵です。子どもの絵を考えればわかりますね。西洋や中国では、その輪郭線のウソに気づいて、そのウソとホントのはざまで、画家たちは大いに苦しみました。ダ・ヴィンチなんかも言わなきゃいいのに、「輪郭線なんてもんはホントはないぜ!」なんて言って「モナリザ」を描いちゃった。その後も印象派の誰かさんとかも、無理やり線を排除したりした。
 じゃあ日本ではどうだったかと言うと、結局原初のまま何千年、何万年もやってきてしまった。ずっと子どもだったわけです。いや、野暮なことを言いださなかったのは大人だからかな?まあ、とにかく輪郭線のない絵なんて、土俵のない相撲みたいなもんで(すんません、今テレビでやってるので)見てても全然面白くねえや、てな具合で今まで来た。今まで来ちゃったどころか、マンガやアニメの隆盛までも産んでしまったわけですね。
 そんな、日本絵画といわゆるフツウの絵(西洋絵画)を実際に並べて比較し、その表現法の違いを際立たせ、あるいは共通点を見出し、結果として日本絵画が世界的に見ていかに優れたシロモノであるかを、非常に強い口調で訴えているのが、この本です。学校の図書室にあったので見てみたのですが、なかなか面白かった。平山さんと高階さんの対談もまあまあ面白い。ものすごく新しい内容はありませんが。
 なんといっても、この本は、その日本画と洋画のペアリングがすごい。いちおうテーマ的、内容的に似た者どうしを並べています。よく探したなあ、と感心するくらい面白い。いや、面白いんですよ。笑っちゃう。あんまりまじめにこういうペアリングをすると、なぜか逆に笑えちゃう。なんていうかなあ、同じ舞台で能とバレエを一緒にやるとか、弓道のとなりでアーチェリーやるとか、そんな感じかな。だって、「麗子像」と「モナリザ」を並べちゃまずいでしょ。勝負は見えてる。どう考えても麗子さんの方がインパクトがある。
 てな具合で、大量のミスマッチが展示され、非常に学術的にまじめに解説されています。これは勉強になる上に、大いに笑えます。さすが平山さんと高階さんだなあ。

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2005.07.22

『スーパーサイズ・ミー』  モーガン・スパーロック監督主演作品

B00067HDY8 ニューヨークで長く暮らした方のススメで観てみました。日頃アメリカ文化というかアメリカ的生き方に強い疑問を抱いており、かつ1日1食生活をしている私にとって、非常に興味深く、また刺激的な内容でありました。
 監督さんは、1日3食全てマクドナルド、それも「スーパーサイズにしますか?」と言われたら「はい」と答える、というルールのもと、1ヶ月間の人体実験を始めます。その経過を伝えるドキュメンタリーと、アメリカの食事情を憂慮する映像やインタビューなどを織り交ぜた作品であります。
 極端な例を挙げているとは言え、アメリカの異常さをよく表している作品だと思います。はっきり言って、当然の実験結果が出ますし、そのまんまの作品なわけですが、実際マックを動かしたことで明らかなように、こういった作品は、映画としての評価と言うより、啓蒙・警告のためのアクションとして評価されるべきです。まあ、古くさい言い方をすれば、ペンは剣より強し、ということでしょう。
 それにしても、もうホントにコメントのしようがないほど、どうしようもないアメリカに食傷しました。マックに行きたくないとか、そういうレベルではなく、こんな国が世界の親分のようにしていばり散らしていると思うと、情けない限りです。もちろん、もちろんこれが全てではありませんが、こうした側面、それもかなりの面積をもった側面があるということ自体、同じ地球人として恥ずかしいことです。いくら日本が、その子分であっても、人間的な良識と良心の部分では、全く比較にならないほどレベルが高いと思います。なんて、ちょっと右っぽいかな。
 いっそのこと、そのアメリカ的消費社会、欲望再生産社会を極めてもらって、自然の摂理通りに自滅してもらいたい。そんなことまで思ってしまいました。良識あるアメリカ人のみなさんごめんなさい。そして罪のない子供たちに悪いことを言った。すみません。作品中でも子供たちの姿に心を痛めました。ウチの子もけっこうマック好きだしな…(かく言うワタクシも時々妙に食べたくなる)。
 この作品は、いちおうシリアスものに分類されていましたが、基本的にはコメディですね。笑ってしまった方が腹が立たなくていい。私が一番笑ったのは、「キリスト」の顔を見て、子どもが「ブッシュ!」と答えたところですね。
 私は一日一食生活を1年以上続けています。おかげで、それこそ健康そのものであります。しかし、それ以上にすごい人が身近にいます。私の職場の後輩なんですが、1ヶ月で10キロ以上やせました。医師の指導があったとは言え、ものすごい実行力です。医師の力ではなくて、それこそアメリカにかけている意志の力ですよ。彼にはぜひ「スモールサイズ・ミー」を撮ってもらいたいですな。

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2005.07.21

ボブ・ファン・アスペレン チェンバロ・リサイタル(NHKBS2)

04 先月ハイビジョンで放送されたのですが、録画をミスって鑑賞できなかった番組です。BS2で再放送されたので、今度は確実に録画。ようやく観る(聴く)ことができました。
 アスペレンは今やチェンバロ界の重鎮。今までソロでの来日はなかったのでは。本当は生で聴きたかった。特に、今春の来日では、私もゆかりが深い「山梨古楽コンクール」のマスターコースの講師として、これも因縁深い(14年ほど古楽科に通いました)「聖グレゴリオの家」で公開レッスンをするということで、なんとか聴講だけでもしたいと思っていました。しかし、平日ではやはり無理。涙をのんで断念したわけです。
 それが、こうしてNHKさんのおかげで聴く(観る)ことができる。ありがたい限りです。そして、3ヶ月待って目の前に現れたアスペレンさん、その演奏は、それはそれは素晴らしいものでした。
 実は少し前にFMでほんの少しだけ聴いたのです。車の中でラジオをつけたところ、聞き慣れた響きが。でも、それが何の曲か一瞬分からなかった。知りすぎるほど知っているはずなのに。それが、アスペレンさんの編曲によるバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番よりシャコンヌだったのです。あっ、と思ったらもう最後の16小節くらい。うわ〜、全部聴きたい!チラリズム(失礼)が、私の欲求をかきたてる!
 そんなわけで、スウェーリンクやフレスコバルディも実に美しかったし、フランス組曲も華麗でしたが、なんといっても、そのシャコンヌの素晴らしさたるや、本当に筆舌に尽くし難い!
 まず、編曲が見事です。前日にも放送された「復元結婚カンタータ」でも、バッハもの?の編曲の難しさを感じましたし、シャコンヌに関して言えば、ブゾーニはもちろん、レオンハルトでも納得いかなかった(曽根麻矢子さんのはまだ聴いてません)。それが、このアスペレンさんの編曲は、まさにバッハならこう弾いただろう(実際一度は弾いていると思う)と思わせる、非常に自然なものでした。本当に、知識、経験、才能、愛情の全てが揃わないとこうはいきませんよ。感動してしまいました。
 その演奏も完璧。舞曲としてのリズム感を感じさせる部分と、ほとんど抽象絵画を感じさせるような部分のコントラスト。自由だが有機的なテンポの揺らぎ。効果的なアーティキュレーションと装飾。熱狂と瞑想の絶妙なバランス。オリジナル曲をヴァイオリンで弾いた演奏では、奏者が楽曲(バッハというより曲自体)に負けてしまうことがほとんど。しかし、アスペレンは全く互角!互角というか、完全なコラボレーション。まいりました。完璧な「縁」の創造。私も含めてヴァイオリニストはもっとしっかりしなくちゃ!
 本当は、ここにMP3でも置いて、みなさんに聴いていただきたいのですが、著作権のこともありますしね。下にあるCDでお聴き下さい。でもライヴは特別ですよ。生で聴かれた方々に嫉妬します。
 あとは、結局「シャコンヌ」のすごさの再確認ですね。これだけ深遠な曲を、あまりに制約の多い条件で創ってしまったバッハって、やっぱり人間ではありませんね。妻マリア・バルバラの追悼のために作曲されたという新説にも、自然とうなずかれます。人間の命(ブッダによれば、つまりそれは宇宙全体とつり合う存在なわけですけれど)の崇高さ、複雑さ、美しさ、もろもろのものを表現しているように感じられますね。そんな音楽を身近に感じることができることに感謝したいと思います。ちょっと弾いてみよう、という気はしませんけれど。

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2005.07.20

『猫の文明』 赤瀬川原平 (毎日新聞社)

4620315869 最近ダメです。どうもストレスというやつらしい。で、その原因は自分にあるというのはわかっているわけでして、どうにも厄介な自家中毒であります。日頃のいいかげん(良い加減ではなくloose)のシワよせですな。ゆるんでばかりじゃダメってことです。まっ、私のことですから、また適当に乗り切っちゃうと思いますのでご心配なく。ってか、誰も心配しないか。
 こんな時はさっさと仕事を片づけて…ではなく、さっさと現実逃避しましょう。いきなりリゾートとしゃれこみます。住んでるところがリゾート地のど真ん中ではありますが、そこでもストレスが解消できないとなると、これはもうあそこに行くしかない。そう、脳内リゾートです。
 この脳内リゾートという技、たぶん赤瀬川原平さんの発案だと思います。バブルが崩壊して、ホンモノ?のリゾート地が夢の跡みたいになっちゃた後、要は金のかからんリゾート地はないだろうか、といろいろ考えていたら、あったあった、灯台下暗しだ、ということだったのでは。身近も身近、自分の脳ミソの中にあったと。
 自分の脳ミソの中にも、日常的でない心地よい環境が開発されず残っている。ちょっと工夫して開発してみると、そこには経験したことのないような快感が…。赤瀬川さんで言えば、たとえばステレオ写真。私もはまりました。そして、それを共有する「茶会」。なるほど、日常の喧騒やらストレスから解放されて、全く新しい空気を吸うことができる。
 で、この本は「脳内リゾート計画」として連載されたものの加筆編集版です。当時、つまりバブル崩壊後の、あの何かを悟ってしまったかのような空気を、ゆる〜く脱力した街の風景と猫(こっちはいつもゆるいか)の写真、および軽みをきわめた文章によって、見事に描写した内容です。てか、見事もなにも、あんまり深く考えていない。そうじゃないと全然リゾートじゃないですしね。
 久々に読んだり、眺めたりしましたけど、なるほどリゾートですな。再びソートするという感覚。リクリエーションとかリラックスとかもそうですね。時々「リ」をしないと、人間は一本調子になって肩が凝ってしまう。一本で行くことも大切ではありますが、照顧することもまた必要なことです。心においても体においても、それらのアレンジメントが上手にできればいいですね。金をかけずできればさらに良し。人生の達人。
 し、しかし、リゾート地から帰還するとそこには現実が…。よったシワを伸ばしたのではなく、さらに先送りしただけ。でも、そのうちシワも積もれば山となる。立派な山になったら、そこをリゾート開発しようかな。なんてね。
 あっ、そうそう、この本、後半は猫より犬が多くなる。ちょっと人里に帰ってきたような気がします。まあ、そうして少しずつ現実に戻らないとね。読者に対する赤瀬川さんのちょっとした思いやりでしょうか。

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2005.07.19

『オタアニメ!星のフームたん』(星のカービィ 第89話)

p こいつを教材に使う教師もいないだろうな。いるわきゃない。
 で、そんなヤツがここにいるわけです。一応、メディアのデジタル化の問題点を語る際の資料ということにしております。ものは言いよう。しかし、いろいろと難しい文章を読んだりするより、何よりわかりやすいし、食いつきがいい。今日は1年生と鑑賞。のちディスカッション?
 最初に言っときますが(って何度も言ってます)、私はいわゆるオタクではありません。オタク文化研究家…いやけっこうフツウの国語教師です。いえいえ、オタクだと思われたくないのではなくて、オタクになりきれないことをコンプレックスに思っているんですよ。だって、この歳になるまで、マンガもアニメもゲームもほとんど体験していないんですから。
 と、いつもの前置きはいいとして、このアニメは人気ゲームソフトから派生した作品だそうで、テレビアニメとしてもそこそこの人気を誇っていました。土曜日の朝7時半から、つまり、今のウルトラマンマックスの枠で放送されていたんですね。ちなみにカービィのあとは例のセーラームーンでした。私も娘たちといっしょにその辺の一連の作品を見ているわけですけど、はっきり言って、この『星のフームたん』の時はぶっ飛びました。カミさんとともに開けた口を塞ぐことができず、馬鹿面のまま30分間…。
 簡単に言うと、オタク3人組が現れて、萌えアニメを作っちゃう内容なのですが、かなりアニメ制作現場への風刺がきつく、もうほとんど自虐趣味的作品となってしまっています。カービィ自体も3DCGを駆使して作られているのですが、そうしたデジタル技術が旧来のアニメ制作現場を容赦なく変貌させているわけで(カービィ自身も後期はデジタルセルすら使われていない)、その点を強調して(デフォルメして)表現しておるわけです。低年齢の子どもが見る作品にしては、内容が重すぎますよ。
 デデデ大王やエスカルゴン、また魔獣アニゲー(!)の変身したオワルト・デゼニー(!)の言葉はシャレにならない。
「地下牢スタジオで強制労働でげす」「制作の仕事は絶対に眠らせんことぞい」「引きこもりの仕事でちゅ」
(CGは)「革命でげす。これでセルアニメーターは大量絶滅」「アホ監督はのたれ死に」「制作期間の劇的短縮によってコストは半減、お金はガッポリ」
(「それで優れたアニメーターが育つ?夢がねえじゃん」)「夢より利益を上げなくては」
 こういうセリフだけでなく、問題なシーンやらあからさまなパロディーが随所に見られますが、いちおう教材としては、上のセリフあたりがポイントですかね。最初は笑って見てますけど、そのうち痛々しくなっちゃいます。
 実際、最近はCGによる制作の比率が増え、また、セルにしても海外発注が多くなっているとか。西洋の印刷技術によって、江戸の優れた摺師たちが廃業に追い込まれたのを思い出します。商業的な成功や技術者の負担減が、そのまま芸術性の向上につながらないのは、歴史が証明している通り。難しいところですね。
 今や、現代の浮世絵の様相を呈している日本のアニメ。いったい今後どうなっていくのでしょう。そして、デジタル技術って、本当に私たちを豊かにしているのでしょうか。では、このブログは?う〜ん、いろいろな側面を冷静に観察し、分析する必要がありますね。

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2005.07.18

小橋建太vs佐々木健介(プロレスリングノア 東京ドーム大会『Destiny』)

thumb_im00017930 いやあ、感動したあ!泣けた!やっぱりプロレスラーになりたい(生まれ変わったら)! 
 今日は、本当は東京ドームに行くつもりだったんです。やはりプロレスファンとしては押さえておきたい重要な大会ですから。
 結果として、いろいろと事情があって足を運べませんでしたが、深夜日テレで2時間半にわたって特別番組が放送されましたので、しっかり観ることができました。
 早速感想を。メインの三沢対川田ですけれど、ちょっと期待外れ、いや試合内容はなかなか高度であったと思います。う〜ん、でも何だろうなあ、涙が出るほど感動しなかった。どうしてだろう。分析してみます。
 で、やっぱり泣けたのは、セミの小橋建太対佐々木健介ですな。久々にプロレスの王道に感動しましたよ。いやあ、健介ってあんなにいい選手だったんだ。
 両者で200発以上の逆水平チョップ合戦。あれだけで、あまりに美しかった。やっぱりKing of Artsだなあ。sportsじゃなくて結構。てか、スポーツと一緒にしないでくれ!
 プロレスの好試合の条件はいろいろあると思います。中でもやはり大切なのは、「信頼」でしょう。対戦相手を徹底的に信用し、対戦相手に完全に信用されなければ、絶対に好試合にならない。基本的にはアドリブで肉体の会話をし、物語を紡いでいかなければならないのですから。
 今回、両者はほとんど初めて肌を合わせたのだと思います。この大舞台の本番で、ほとんど初めてですよ。そして、あの奇跡的な物語を紡ぐ。本当に人間ができていなければ出来ないワザです。頭も良くなくてはいけませんが、それ以上に人間性でしょう。総合格闘技には絶対に無用な「人柄」です。
 何か、東京ドームが壮大なコンサートホールのようでした。二人のソリストが互いの音を聴きつつ、互いを立て、互いを助け、互いに協奏する。そう、二つの肉体と精神のための協奏曲。リピエーノは6万2千人の観客です。観客は歓声や涙によって、ソリストを輝かせる。それをアドリブで、そうアドリブで名曲を完成させるわけですから、これは至芸ですよ。奇跡です。演劇として観てもありえないことです。
 私も合奏部に参加したかった。テレビで観戦するということは、そのコンサートの聴衆に過ぎません。あの歴史的な名曲の創造にかかわりたかった…。
 もう、はっきり言って、興奮状態ですので、何を書いてるか分かりません。ごめんなさい。それほど体が震える体験だったのです。分かる人には分かる。分からない人には分からないのかなあ。分かってほしいなあ。
 ありがとう、小橋、健介。ありがとうプロレス!King of Arts!プロレスLOVE万歳!人と人をつなぐ本当のエンターテインメント…。縁です。空即是色か…。

追伸 祝!2005年度ベストバウト受賞!(12月12日)

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2005.07.17

富士北麓鳴沢村「いきやりの湯」

shisetu_ikiyari01 私の住んでいる鳴沢村はホントにとってもいいところです。自然環境の素晴らしさはもちろんのこと、人々の温かさは、それはそれはまさに温泉級(!?)であります。
 さあ、そんな鳴沢村にも、もちろん温泉が湧いています。富士北麓は昔は温泉が少なかった。富士山という日本最大の活火山の麓でありながら、ほとんどいわゆる温泉はありませんでした。古文書などを見ると、ほんの少し記録に残っていますけど、10年ほど前までは、ほんとうに鉱泉しかなかった。それが、そうですねえ、いちおうボーリング技術の向上ということにしておきますか、とにかく突然温泉ラッシュに沸きました。それはそれで観光地としては嬉しいことですよね。しかしその実は…、いやいや、その実は私も忘れていたいことなので、書きません。忘れます。
 え〜、それでですねえ、今日はお客さんといっしょに村営の温泉「鳴沢いきやりの湯」へ行ってまいりました。ちなみにここは村民専用の温泉です。もちろん村民の連れも入浴できます。村民以外の方は、すぐ隣にある商業施設富士眺望の湯「ゆらり」へどうぞ。ちょっと値がはりますが、いろいろな楽しいお風呂がありますので楽しめますよ。
 で、そのゆらりとお湯じたいは一緒なのが「いきやりの湯」です。村民大人300円、子ども100円です。ワタクシ的に、ここのお湯のいいところは、「ぬるい」ことです。どうも、私は熱いお湯が苦手でして、だいたい地方の温泉に行くと、熱すぎてゆっくりできない。平気な人はぜんぜん平気らしいのですが、どうも私はダメなんです。リラックスできないのです。その点、いきやりはぬるいので長時間ゆっくりできます。子どももずっと入っていられますからね。てか、私が子どもなのか。
 村民専用ですから、それほど混んでいませんし、まあジジババの皆さんが多いのは仕方なし。いやいや、それこそ温泉風情であります。あのまったりとした空間と時間は、まさに「なまよみ」。体の疲れも心の疲れも、湯気とともにお空へ散っていっちゃいます。これぞ本当のリラクゼーション。あっ、ちなみに「いきやり」とは当地の方言でして、まさに「リラクゼーション」のことであります。
 効用などはこちらでごらんください。なお、村民以外の方で興味のある方、つまり入ってみたいという方は、ウチに遊びに来て下さい。お連れいたします。

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2005.07.16

「接心」のち「カントリー」のち「書とはなんぞや」

 ふ〜、今日は忙しかったっす。充実しました。けど、ぜんぜん余裕がない。
ddfli31 まず、昨夜から今朝にかけて、学校(お寺)で接心がありました。今回は気合いを入れてしっかり坐ろうと思っていたのですが、どうもいけませんね。煩悩というか妄想というか、つまりはさし迫ったイベントに対する不安と期待にさいなまれ、どうも気持ちがフラフラしました。実はこの夏にしっかり仏教を勉強して、というか体感して、頭を丸める(!)計画があるのですが、こんなことではダメですな。結局俗世間に流されている自分(てか、単に公私共々仕事をためこんでいるだけですけど)。
FFG21 で、接心が終わってちょっと授業などして、夜のコンサートに備えます。そう、今日は教会でカントリーのコンサートに出演したのであります。何度か書いておりますが、カントリーは正直専門外ということもありますし、何しろヴァイオリンじゃなくてフィドルですから、も〜たいへん。全然違う楽器みたいなものです。楽譜もないし、かといって、五線譜を用意するほどマメじゃないし。というわけで、接心での悟りを武器に無心で臨みました(実は接心失敗による放心状態および体力的限界による脱力状態でなだれこんだのですが)。まあ、結果は推して知るべし。よくできました。力みが抜け、必要以上の自己主張や陶酔もなく、なかなか良いコンサートになったのではないでしょうか。練習ではとんとうまく行かなかったところが、あっさりうまく行ったり。ああ、ありがたや、神様仏様。
YU41 というわけで、寺院から教会へとわけのわからぬハシゴをしたのち、次はウチで飲み会です。今日から、知り合いの書家さんの家族が遊びに来ておりまして、そのご主人、つまり書家さんと「書とはなんぞや」「芸術とはなんぞや」を熱く語り合っちゃいました。彼は、まだ若いのに立派でして、旧態依然の書の世界(コミュニティーとしてのですよ)に見切りをつけ、安定収入が保証されていた仕事も捨てて、「書家」を名乗って戦うことを決心した大した男です。ちなみに写真は、以前に彼がZIPPOのライターに一つ一つ手書きした作品です。マニアの中では垂涎のレアものだとか。お話した内容は、企業秘密ですので、ちょっとここには書けませんが、私も彼の考えには賛成できる点が多々あるので、いろいろと協力していこうかと思っています。
 さて、今日のこうした一連のイベントから得た、共通の感想。やっぱり究極の悩みであり、究極の妥協であり、究極の人生論だよなあ。
「やっぱりプロは大変だ。アマチュアが一番いいわ」
 芸術家(宗教家)としての野心か、生活者としての現実か、人間としての良心か…。

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2005.07.15

『日本の兄弟』 松本大洋 (マガジンハウス)

4838707509 ちょっと話をすると、どんどん貸してくれるのが、生徒のいいところ。というか、センセイの役得。
 『ピンポン』や『ナンバーファイブ』よりも先に、これを読めということらしいので、読んでみました。うん、たしかに1995年刊ということですから、『鉄コン』に近い。
 よって画風や作風は昨日の印象とほぼ同じでした。ただ、こちらは短編集ですので、そうですねえ、読後感は「マンガによる散文詩」といったところでしょうか。
 一見、つじつまの合わないシーンや言葉の羅列という感じですが、やはり全体としてはどこか自然ささえ感じさせます。つまり、現実世界とはこんな感じなのではないでしょうか。物語されていないモノの連続という感じです。だから、自然なのかもしれません。これも一つの表現であり、物語的でない語り方なのかもしれません。…ちょっとうまく言えませんが、とにかく混沌とした世界を、ただ切り取って、ただコラージュする。しかし、そこにはある意味真理がある。なぜなら、私たちのたった一つの真理は、そういう時間の連続の中にあるからです。
 それを、詩ではなくてマンガで実現したところが新しいのではないでしょうか。そして、それを可能にする技術とセンスを彼が持っていたということ。希有な才能です。
 昨日は、映画的と申しました。今日は詩的と書きましょう。私はこういう浮揚感、大好きです。つまり、完全に語ってしまわない、コト化してしまわない、固定しない描写。そのさじ加減が見事なわけです。
 そうですねえ、私の少ない経験から無理やり両者をくっつけるなら、岩井俊二の映像世界に近いかもしれません。おそらく松本さんも岩井さんも、ものすごく頭のいい方だと思いますけれど、その頭の良さのはるか上空を、感性の繊細さが飛んでいるのに違いありません。さりげない日常的風景をコラージュして、なおかつそこにある程度の一般性を獲得した真理を表現するわけですからね。天才の仕事でしょう。
 先日亡くなられた串田孫一さんの文章からも、同じような印象を受けます。私のように、無理やり解釈して、はったりで意味付けして歓心を買うような、そんな底の浅い表現とは違う。ん〜、辛い。まあ、私はせいぜいエセ評論家止まりですな。
 さて、この短編集、中でも表題作「日本の兄弟」が良かった。松本大洋さんは、子どもと老人を描くのがうまい。ちょっと隣の現実世界の住人は、子どもと老人のようです。つまりフツウの大人は存在しない。単なる社会の部品であるということですかね。
 今日はちょっと忙しいのでこのへんで。

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2005.07.14

『鉄コン筋クリート 1〜3』 松本大洋 (小学館)

4091847315 昨日の『ピンポン』の原作者松本大洋のマンガを生徒に借りて読んでみました。この人は天才ですね。なにしろ絵がうまいうまい。
 最初は、ストーリーも場面も読み取りにくいし、絵もいわゆるヘタウマ系なのかと思いました。よってなかなか先に進まない。ちょっと辛いな、と感じました。
 しかし、読み進むうちに、まずは絵に引き込まれました。昨日は、映画がマンガに追いついてどうする、みたいなことを書きました。けれど、今日は松本大洋のマンガが実に映画的だと書かねばなりません。これはどういう事態なんだ?頭の中が整理できない。
 彼の絵の視線は自由に宙を舞っています。登場人物が奔放に飛んでいるように見えますが、実は最も飛んでいるのは作者自身なのです。ある時はレールの上を滑り、ある時はクレーンの上から見下ろす。やや統一感を欠く印象すら与えます。しかし、その独特のダイナミズムに乗れるようになると、実に心地よくなってくる。
 また、彼のキャメラのレンズの焦点距離は短い。よって遠近感が強調される。さらに、彼のフィルムのラチチュードは狭い。よってコントラストが強調される。
 こういったエンファシスの効果によって、私たちの視線は自然な人間のそれからかけ離れています。つまり、自分の視線で世界を見るというより、何か媒体を介して世界を見ている感じ。そう、それが映画的と言う所以です。
 そうした絵の世界のダイナミズムやフィクション性に呑まれていると、なぜか不可解であった言葉たちが、生き物の一部のように機能し始める。そうして結局作品全体が魅力的な意味を持ってくるわけです。暴力の充満した街で、暴力に頼って生きていく兄弟。しかし、その兄弟の暴力の邪気の無さに癒されてしまう。読後、不思議なほど穏やかな気持ちになってしまいました。全く不思議な作品です。
 私はマンガに詳しい方ではありませんが、こうした技術と技法と内容を生み出すニッポンのマンガ文化の奥深さには、今さらながら驚かされます。たしかにこれは江戸の大衆文化と似たダイナミズムを持った文化です。どんどん新しいものを産出し、どこが高みなのかすらわからない、非常に生命感の強く感じられる分野ですね。
 ちなみに生徒によると、最近の松本さんの画風・作風はだいぶ違っているとのことで、そちらの方も今から楽しみにしております。

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2005.07.13

『ピンポン』 松本大洋原作 宮藤官九郎脚本 曽利文彦監督作品

B00006CXKE 昨日のおススメは芝居が原作の映画。今日のはマンガが原作。映画は映画として撮られる場合もありますが、日本の場合、どうしても原作ありきが多い。これは現在の日本映画界の状況からして仕方のないことであります。興行的にはそうならざるを得ない。
 では、純粋に映画を創るという行為で考えた時、原作ありき型ははたして成功への近道なのでしょうか。答えは…。
 この『ピンポン』という映画、手元にDVDがありながら、結局昨日テレビで観てしまいました。で、感想というか印象ですが、まずは面白かった。昨日の『笑の大学』とほぼ同レベルで楽しめました。昨日のは昨日書いた通り、非常に芝居じみており、そういう意味では「映画」を観たなあという感慨にはふけることができませんでした。こちら『ピンポン』はどうだったかというと、やはり「映画」を観たなあ、は味わえなかった。しかし、面白かった。う〜ん、ここなんですよ。気にかかるのは。映画館で観たわけではないので、たいそうなことは言えませんけれども、やっぱり「マンガ」だった。
 実は、松本大洋の原作コミックも読んでません。つまり昨日と同じ状況。だから、またもや比較できません。しかし、だからこそ純粋に「映画」としての査定もできる。無理やりこう言っちゃいます。
 それにしても見事なキャスティングと演出だと思います。ここまでよく映画という技法でマンガを描けるなあ。正直びっくりですし、目からウロコものです。まさにコミカルな役者陣(窪塚洋介、ARATA、中村獅童、大倉孝二、竹中直人、夏木マリ…たしかにマンガだ)と演出。見事です。
 でも、でもですねえ、映画がマンガに追いついてどうしようと言うのでしょう。映画的なんていう言葉はもう死語なんでしょうか。なんとなく不安になります。これで邦画にも活気が出てきた、なんて言えるのでしょうか。
 昨日の作品も、結局は映画の中で芝居をやってみました、くらいに思えてきてしまう。それは、マンガより芝居より多くの人に観てもらえるでしょう。お金もどっさり入ってくるでしょう。でも、それじゃあやっぱりテレビと同じになってしまいますよ。映画というジャンルはもうないのでありましょうか。単なる映画館で観る(またはディスプレイで観る)マンガや芝居や小説や…。
 十分楽しんでおきながらこんな苦言を呈するなんて、まったくもって性格が破綻している、と自分でも思うのですが、いちおう邦画ファンの私としてはちょっと小言を言いたくなるのですよ。まあ親心でしょう。
 というわけで、冒頭の問いに対する答えは…原作ありき型で「映画」を創るのは非常に難しい。原作をぶちこわすくらいのパワーがないと、結局、○○(原作)とその周辺展(於映画館)みたいになってしまう。実際原作をぶっこわして名画となったものもたくさんあります。破壊なくして創造なし(橋本真也)。私が今まで紹介してきたものの中にもありますよね。
 でも、それが興行的に成功したかどうかは別問題…というところが本当の問題なのでありまして、それはエンターテインメントやら芸術やらが持つ永劫尽きぬ苦悩なのでありました。ああ、良かった。創り手じゃなくて。

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2005.07.12

『笑の大学』 三谷幸喜脚本 星護監督作品

B0001M3XGU 菊谷栄が戦死したことを考えると、なんとも後味の悪い映画です。
 いきなり、こういう感想というのもなんでしょうが、この映画、というか、この脚本にこめられた脚本家としての想いを正確に味わおうとすれば、おそらく誰しもがこのやるせなさを感じることになるでしょう。
 私が全編に強く感じたのは、笑いとは何かという問題よりも、喜劇と悲劇の関係性についてでありました。そういう意味では、こちらに似た気持ちになりましたね。喜劇の、笑いの裏にある悲劇、哀しみ。いや、哀しみがあるからこそ、そこに笑いが必要となる。それが個人的な次元であれ、社会的な次元であれ。当たり前のことかもしれませんけれども、そんなことを再確認させられました。特に日本人はそういう点に弱い。いや、強いのかな。とにかく、そういった裏側に裏付けられた表側みたいなものに敏感なんですよね。私もそうです。
 映画としての評価は、正直微妙なものがあるでしょう。あまりに舞台の方が有名ですから。と言っても、舞台、私は観ていません。だから比較も何もできません。ただ、やはり映画的になりきれなかったなあと。ものすごく舞台チックでした。まるで舞台を観ているよう。もちろん、意識してのことでしょうけれども、映画ファンには辛いところもあったのでは。演技も装置もコテコテですから。第一、脚本がほとんど舞台のままですからね。総合格闘技ファンがプロレスを観るような違和感があるのではないでしょうか。私はプロレス派ですから、全然OKでしたけど。
 役所広司はいつもながらそつなく役をこなしています。稲垣吾郎は彼なりに頑張っていると思います。吾郎ちゃんは最初やばいかなと思わせますけど、だんだんこういう人もいるな、と思わせる演技をしています。かなり一生懸命に役になりきろうとしている。それがそのまま役の一生懸命さになっている。まあ偶然かもしれませんが、結果としていい演技になったと感じました。元来彼の明るさには翳がありますし(笑)。ミスキャストではないと思いますよ。いろいろ言われてるみたいですけど。
 そんなこんなで、なかなか楽しめた、しかし切なくさせられた作品でありました。まさに三谷幸喜の面目躍如。大いに笑ってホロっという俗なレベルを超えた、言葉になりにくい深みのある感動、そう「もののあはれ」を感じさせる名作でありました。

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2005.07.11

『現代ジャズの潮流』 副島輝人 (丸善ブックス)

06004 先日おススメしたキリスト教は邪教です!で解説を書いていた東大教授の松原隆一郎さん。彼は格闘技ファンとしても有名ですし、また、フリージャズ大好き人間としても有名です。たしかにフリージャズは格闘技という気もする。ちなみに松原センセイのご専門は社会経済学…かな?
 そのセンセイのススメがあって書かれたというこの本。かなりまじめな論文チックな内容です。なんだかカミさんが間違えて買ってきたらしく、家にありました。で、もったいないから読んでみたわけです。
 現代ジャズとはモダンジャズではありません。ポストモダンジャズのことです。つまり、60年代モダンジャズが一つの極みに達した後のジャズ。おかしな話ではありますが、モダンジャズはもうすでにクラシックになっています。実験を許す(尊ぶ)ジャズというジャンルにおいて、多数の天才・巨人たちがあらゆる可能性を模索し、実際にその成果を挙げてしまったその後に、では何が来たのか。
 それは、やはり一度できあがったものを解体する作業でした。たとえばフリー・インプロヴィゼーションという形。それは結局、クラシックに対する現代音楽の流れに沿うものでした。クラシックはその流れを生むまでに1000年以上かかりましたが、ジャズはほんの数十年にしてそういった潮流を生んだわけです。それだけ、モダンジャズの歴史は急流であり、しかも滔々としたものだったということでしょうか。
 さて、この本では、そんなポストモダンジャズの流れを考察しているわけですが、この本が書かれたのは1994年。つまりその当時の「現代」であるということですね。で、その「現代」の状況はどんな具合かといいますと、これが正直たよりない流れです。あっちでチョロチョロ、こっちでチョロチョロとでも言いましょうか。
 筆者は本当に世界中のジャズを聴いて回っているようです。「現代」の特徴として、脱アメリカというのがあります。まあ、モダンジャズ=アメリカですから当然と言えば当然ですが。で、リポートされている、ロシア、東欧、韓国、日本などの「現代」の状況がどうかというと、つまりチョロチョロなんですね。その後10年経っても、そちらの流れは正直あまり変化なしのようです。結局、今私たちがジャズとして耳にするのは、モダンジャズの形式に則ったものか、あるいはそれとロックなどの他のクラシカルな(!)ジャンルとの融合を試みたものだけなんですね。
 そんな中で興味深かったのは、やはりhip-hopの流れでしょうか。ラップというライム・トーキングと、スクラッチというまさにモダンジャズを支えたレコード文化へのアイロニカルなアプローチ。それが結局、アメリカの、最もアメリカ的であり最もアメリカ的でないニューヨークの、それも大衆文化から生まれたというのは、それこそアイロニカルなことでした。そして、実際2005年の「現代」においても、hip-hopは生き生きとしている。なるほどなあ、と思いました。
 どうも最近は、日本のヒップホップを耳にすることが多いので、ちょっと自分の中で誤解が生じているようです。もう一度、本場のhip-hopを聴いてみようかな。もう10年以上前になるのでしょうか。山中湖のMt.FujiジャズフェスティバルでのUS3の衝撃。あれを思い出しました。

追伸 プロレスラーの橋本真也選手が急逝されました。彼はいわばモダンジャズの王道を守ったレスラーでした。最近のガチンコ(風)なフリージャズ、いや総合格闘技の流れを、どんな思いで見ていたのでしょうか。それにしても早すぎた…ご冥福をお祈りします。

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2005.07.10

『BSふれあいホール』(つのだ☆ひろ・長谷川きよし・つのだたかし)

nfg_11 NHKに「BSふれあいホール」っていう渋い音楽番組がありまして、その番組の先週金曜日放送分をビデオで観ました。これが実に面白かった。
 出演は、つのだ☆ひろ、長谷川きよし、つのだたかしのお三人。ひろさんとたかしさんはご存知の通り、天才つのだ兄弟の五男と四男(まちがってたらごめんなさい)。ちなみに次男は漫画家つのだじろうさんです。
 ひろさんとたかしさんが共演するのを見たことがなかったので、もともと私の興味はその兄弟対決にありました。音楽的にはジャズ、ブルース、ロック、ポップスのひろさんと古楽中心のたかしさんということで、ちょっと違うことをやっていらっしゃるわけですね。けれども、音楽祭(の特に宴会)でご一緒させていただいているたかしさんは、音楽的にも性格的にも(失礼)まじめな古楽の枠を軽くはみ出していらっしゃるので、いったい兄弟がいっしょにやるとなると、どんなジャンルをどんなふうに料理するのか、非常に興味があったわけであります。
 というわけで、この番組でそのジョイントの様子を初めて拝見拝聴したわけですが、これが予想通りというか、予想以上の面白さ。会場のオジサン、オバサンたちをそっちのけで、見事な宴会が催されました。そして、つのだ兄弟もさることながら、その間をとりもつ長谷川きよしさんのすさまじさ。これにはビックリしました。
 宴会トーク(うちわの盛り上がり)が炸裂しまくり、ホントにお客さん、あるいは視聴者をおいけてぼりにして、つっぱしります。いや、それが最高のエンターテインメントになってるわけですから、全然OKなんですが。私もプロの方々と音楽をやらせていただくことが多い、たいへん幸せなアマチュアなわけですけど、やっぱり音楽家どうしの楽しみ、つまり音楽家が一番生き生きと音楽する瞬間って、実は宴会芸なんですよね。プロの方々と一緒にいて学んだのはこのことです。ふざけているのではなくて、実はとても大切な本質をついている事実だと思っています。つまり、ミュージシャンどうしも、またお客さんも本当の音楽の楽しみを共有している瞬間なわけです。コンサートなんていう、いろいろなところに壁があるものではなくて、真の音楽的空間です。
 先日、私たちの歌謡曲バンドがスタートしましたけれども、これもある意味そういうノリです。かっこつけず、本当に好きな音楽を、ちょっと気楽にやっちゃおう、聴いてる人もきっと楽しいぞ、というノリです。ある意味、これが最も幸せな音楽のあり方ではないでしょうか。いつからなんでしょうねえ。音楽が高尚なもの、非日常的なものになっちゃったのは。
 さてさて、それでこの番組ですが、演奏された曲目を御覧下さい。あ〜楽しい。
  星の流れに(日本のブルースの代表)〜これはひろさんのヴォーカルソロ
  グリーン・スリーヴス(イギリス古謡)〜これはたかしさんのリュートソロ
 (ここからトリオです)
  バナナ・ボート・ソング(ハリーベラフォンテア)
  コメ・プリモ&オンリー・ユー(トニー・ダララ&プラターズ)
  お百度こいさん(和田弘とマヒナスターズ)
  達者でな(三橋美智也)
  ビアーナへ行こう(ポルトガルの曲)
  別れのサンバ(長谷川きよし)
 こんな感じです。すごいでしょ。
 それぞれ、演奏よりしゃべりの方が長い長い。それも、たとえば「達者でな」は対位法だとか、三橋美智也のヴィブラートは上向きだとか、まあ音楽家どうしでなきゃわかんないようなトークばっかり。もう、最高です。お客さんを置いてっちゃってるって書きましたけど、実際にはそんな楽しそうなミュージシャンの方々を観るだけで、お客さんは楽しいんですよね。わかるとかわからないとかじゃなくて、楽しい!を共有すればいいんです。
 それにしても、長谷川きよしさん、唄がうまいのはまあ当然として、彼のギターはすごいですねえ。右手も左手も妙な弾き方なんですが、ものすごくうまい!自己流(失礼)もあそこまで極めるとホンモノですな。世の中にはすごい人たちがたくさんいるものです。
 こんなふうに、笑わせて楽しませて、最後は「すごいな〜」と思わせるのが、本当のエンターテイナーだと思いますよ。プロ中のプロです。
 あと、最後に。みなさん、音楽的なベースはラジオにあったということ。つまり、デジタルオーディオ全盛の今とは違って、好きも嫌いも関係なく、ジャンルも関係なく、とにかく聴かされていたのです。そこから豊かなものを学んだ。そう考えると、今のコンビニな音楽事情もちょっと心配ですね。

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2005.07.09

『文房具56話』 串田孫一 (ちくま文庫)

4480036067 また、私の心の師が亡くなってしまった。ほんとうに情けない。喪失してみて初めてわかることの多さに、たとえようのない切なさを感じます。
 串田孫一さんを知ったのは、おそらく中学生の時だったと思います。FM東京で放送されていた「音楽の絵本」。ある意味私の青春期、いや人生を決定した番組でありました。あの独特の空気を含んだ日曜日の朝日の中、ヴィヴァルディの調べで幕を開けるこの番組。串田さんの自然体の語りはこの上なく魅力的でした。音楽、美術、文学、山、旅、星、神話…。そこで語られたことが、今の私を構成していることがわかります。
 高校に入り、哲学的な生活を志した私は、串田さんに憧れ、串田さんの本をかたっぱしから読みました。おそらく今までの人生の中で、最も多く読んだのは、串田さんの本でしょう。高校当時の日記を読むと、そこには、串田さんの思想や文章を必死にまねようとする私がいます。今となっては、そんなことも若気の至りで恥ずかしい限りなのですが、当時の私はコンプレックスの塊のような、いわば典型的な青春期を過ごしていましたので、ある意味串田さんに救いを求めていたのかもしれません。そして、実際救われた。今、こうして有意義な毎日を過ごしていられるのは、そうまさに串田孫一さんのおかげなのです。
 自宅の地下書庫にいけば、昔集めた串田さんの書籍がたくさんあるでしょう。ここ数年はあまり手に取らなかったこうした本たち。こういう機会に、というのはほんとうに辛いのですが、やはりこうして語り継いでいかなければならい。あらためて読んでみたいと思います。
 とりあえず、というのも申し訳ないのですが、今日は職場にあった「文房具56話」を読み返してみました。この本は、数年前、私の学校の入試問題として、その一部を採用させていただいたものです。入試問題に載せる文章というのは、作問者の趣味や主張が色濃く反映するものです。私もいろいろな思い入れで、この文章を選びました。
 あらためて読んでみまして、ああ、私の文章のお手本はこの方の文章だと感じました。串田孫一さんと赤瀬川原平さんの文章。このお二方の、洒脱な、そして軽妙な文章、ものの見方。とうていお二方には及ぶべくもありませんが、それらがバッソ・オスティナートとして私の中に流れているのは確かです。その上で美しい旋律を奏でられたらいいのですが。才能がなく、残念です。
 この本は、串田さんの串田さんらしさがよく表れている作品です。文房具という身近なモノたちを、愛情のこもったまなざしで見つめ、実にさりげない文章をもって、新しい日常的時間の主役として登場させています。そう、日常的な時間や空間を切り取って、しかし非日常的な風景を描く。赤瀬川さんにも共通した感性ですね。非日常でありながら、誰もがうなずける心の景色。深層真理とでもいうべきモノの発掘ですね。
 串田さんの文章の美しさとは何なのか。言葉と音楽、絵画との関係はどういうものなのか。受験に失敗し、第一志望であった理科ではなく国語の教員を目指すことになった大学生の私は、言語美学という分野に興味を持ちました。しかし、どのセンセイにも一笑に付され夢は叶いませんでした。実は今でも、そのことが心にひっかかっています。今、串田さんの文章を読み返してみれば、その点に関しても、新しい考えが浮かびそうな気がします。
 ご冥福を祈り、感謝の意も込めまして、地下書庫に眠っている串田さんの著書を、再び手に取ってみたいと思います。

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2005.07.08

私的ケータイ事情(pj&ASTEL)

 AT-33
at33 ロンドンは大変なことになっているというのに、今日もまたどうでもいい話ですみません。いや、いろいろと語りだすと危険なので、あえてこんな話をします。
 ケータイに全く依存していないワタクシでありますが、いちおうエンジョルノ(pj)を持っております。それで月にいくらかかってるかというと、なんと300円ちょいです。それ以上何もかかりません。生徒に聞くと、月1万円なんてヤツもいたりして、はぁ〜!?なんでそんなに金持ちなの!?ってことになる。俺なんか300円ちょいしかかからんぞ!と言うと、びっくりするより、憐れみの目でこっちを見やがる。う〜む、世の中狂ってる。
 なんでそんなに安いかって、ただ単に使わないから。ほとんど着信専用ですから、pjのスタンダードで登録すれば、番号有効期間も含めて270日3000円ですむというわけです。まあ、最初の3ヶ月は3000円分かけられるし、もしその期間で残高がゼロになっても、スーパーテレフォンに登録してありますから、0120発信でかけられます。スペアの登録番号は常時携帯してますので、いざという時は単に登録すればよろしい。メールもしようと思えばできるし。まあ、そんな感じで不自由はありません。
 さあ、あとはアステルです。まだ契約してるんですよ。全然使ってないんですけどね。だってこの辺ほとんど全て圏外ですから。こちらにも書きましたが、去年の段階でアステルは完全に虫の息。こうなったら最期を看取ろうと思っていたわけですけれど、とうとうその時が来るようです。先日、アステルを運営しているYOZANから「重要書類」が届きました。こんなハガキが入っていました。
 次のどれかに○つけて返送せよ。
1 ボーダフォンに乗り換える(特定の機種に関しては端末代・登録料は出してやる)
2 今すぐアステルを解約する
3 停波とともに解約する
 (もちろん、もっと丁寧な文体ですけど)
 いやはや、とうとう来ましたね。吸収されるのではなく、ホントに消えるのです。これはもう使う使わないは別として、3を選ぶしかないでしょう!てか、返信しなければ自動的に最後の一人なれるようです。これは放置ですな。人から見たら単なるバカでしょうけど、こうなったら最後の看取り人になってやるっ!
 ところで、YOZANさんは、アステルを見捨てて、あのライブドアさんと組むようです。例の525円の無線LANですな。まあ、捨てる神あれば拾う神あり。昔アステル(という疫病神)を拾った鷹山神が、お客様(は神様です)に捨てられて、今ライブドアという(ある意味)神に拾われるわけですか。日本の神様の世界って複雑ですね。さすが八百万。いろいろですわ。
 ちなみにホントに捨てられた「あ捨てる」ですが、まだ拾う神?がいるんです。私です。ウチの固定電話はデジタルなので、PHSの端末は登録すれば子機として使えるわけです。もちろん、もうそのような形で活躍しております、ウチのAT-33。

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2005.07.07

メタリカ 『S&M(シンフォニー&メタリカ)』

METALLICA 『S&M』
B00005G8MJ 昨日、ニーチェの受難劇について書いていまして、このアルバムの3曲目「MASTER OF PUPPETS」を思い出しました。いや、単に大好きな演奏ですし、冒頭の歌詞に「passion play」とあるからです。
 久々にこのアルバムを聴きなおしました。ロックの歴史に残る名演ですね。ここで、M(メタリカ)はS(サンフランシスコ交響楽団)とキョウエンしています。よくある言い方ですが、キョウエンとは共演であり、競演であり、饗宴であります。
 ロックとフルオーケストラとの共演は、レコーディングにおいては、ビートルズの例を挙げるまでもなく、比較的早くから実現していました。また、ライヴにおいても、それこそ私の大好きなELOを走りとして、最近でもキッスと(キッス風メイクを施した)メルボルン・フィルとの共演などが話題を呼びましたね(とても楽しいライヴでした)。
 そんな中でも圧倒的白眉として歴史に名を残すこのアルバム。ほとんど奇跡に近いサウンドと「気」が満ちています。メタリカはいつものメタリカなんです。全く容赦しない。いや、いつも以上にメタリックにリフを刻む。そして、そこに絡むオケがすごいんですよ。マイケル・ケイメンのアレンジとコンダクトもすごいのでしょうが、なんといっても、やはりオケの気合いでしょう。本気でタイマンはってます。それに加えて聴衆の興奮度の高さ!この3wayマッチが奇跡を起こしたのです。
 もともとヘヴィーメタルはクラシックよりの音楽です。演奏においては絶対的な正確さを必要とされますし。いわゆるハード・ロックよりもメロディに崇高さ?がありますし。また、後期の(といっていいかな)メタリカは瞑想的な曲が多い。クラシック的なアレンジにぴったりです。
 私はふだんはほとんどヘヴィーメタルは聴きませんが、このアルバムだけは時々聴きたくなる。1枚目の1曲目・2曲目は瞑想的なインスト曲。そして、3曲目の「MASTER OF PUPPETS」です。ここでいきなりボルテージは最高値に!あとはもう「気」の波に呑み込まれて心地よく流されるだけ。大音響でぶちのめされるのが快感です。
 あらためて歌詞を読んでみると、これまたヘヴィーでメタリックですね。今日はそれを紹介しましょう。これを読んでニーチェは何と言うでしょう。たぶん、これはこれでバカにするでしょうね。でも、私からすると、両者は似通っているように思えます。いや、まだメタリカの方が健全かな。

受難劇の最期が訪れようとしている 俺はお前を破滅に導く 恐怖に波打つ血管から 俺は真っ黒な液体をすする お前の死に様を頭に描きながら 俺を一度味わってしまえば 二度と逃げられなくなるのさ お前にできるのは 俺がお前を殺す様を眺めるだけ
さっさと這って来るがいい ご主人様の所へ お前の人生が燃え尽きようとしている 俺はお前を操る人形使い 人形使い
俺は糸を引き お前を操る お前の心をねじ曲げ 夢をたたき壊し 目を覆い 何も見えなくさせてやる 俺の名前を呼ぶがいい お前がわめくのが俺には愉快なんだ ご主人様ってな
気を抜くなよ 俺を裏切ったりするんじゃない お前は死人同様にして生きているのさ 苦痛だけを味わいながら 哀れな生贄として 鏡の上で朝食を刻むがいい 俺を一度味わってしまえば 二度と逃げられなくなるのさ お前にできるのは 俺がお前を殺す様を眺めるだけ
さっさと這って来るがいい ご主人様の所へ お前の人生が燃え尽きようとしている 俺はお前を操る人形使い 人形使い
俺は糸を引き お前を操る お前の心をねじ曲げ 夢をたたき壊し 目を覆い 何も見えなくさせてやる 俺の名前を呼ぶがいい お前がわめくのが俺には愉快なんだ ご主人様ってな…

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2005.07.06

『キリスト教は邪教です!(現代語訳アンチクリスト)』 ニーチェ(著) 適菜収(訳) (講談社+α文庫)

hjkkl 昨日のトンデモ本もすごかったけれど、こちらはもっともっとすごかった。そりゃあ、ニーチェですから。
 結局内容としてはコレと同じであり、衝撃としてはコレと同じくらいでありました。久々に大笑いしながら読んでしまいました。
 まず、はっきりさせておかなくてはならないのは、これはニーチェが書いてしまったトンデモ本のトンデモ訳であることです。いえいえ、二重の意味でのトンデモということではなくて、もともとトンデモなものを、しっかりそのトンデモテイストを生かしつつ、見事に翻訳したということです。これには正直言ってやられたと思いました。適菜収さんのそういった能力はホントにピカイチです。
 これはセンスの問題です。素晴らしい。山梨県民として誇りに思います。橋本治さんの「桃尻語訳枕草子」と同じレベルでの偉業ですな。私はこのセンスがわかる人とでないと仲良くなれません。
 で、そのトンデモなニーチェの意見ですが、ホントどうしちゃったんでしょうねえ、哲学のなれのはてなんでしょうか。しかし、考えようによっては、なれのはて、発狂死の寸前でなければこういうことは書けない。ここまでのことを、こういう物言いで…。結果、世界中を敵に回すなんて、それこそ死を覚悟でなければできない。そこがトンデモなんです。
 ニーチェが述べたことはほとんど正解でしょう、理論的には。本当は引用したいところですが、恐ろしくて引用すらできません。差別用語連発、罵詈雑言讒謗の限りを尽くしてキリスト教とキリスト者を非難し続けます。そのパラノイア的なプッツン度はトンデモの称号に実にふさわしい。
 ただ、ニーチェのトンデモは、例えばキムタカのトンデモとはちょっと違う。つまり、正解だということです。だから、昨日のフリーライターさんの言説とも違う。じゃあ、なんで正解がトンデモなのかというと、それを言っちゃあ野暮だろ、ということです。物語の否定。つまりは人間性の否定。世界の否定。神は死んだ(殺された)!と叫んだら自分も死んじゃった。哲学(的人間)の行き着く先がここだったわけです。
 こういう論理でキリスト教を否定したら、同様に、たとえば音楽も否定しなければなりません。そうすれば「音楽なしには生は誤謬となろう」と語ったニーチェ本人の生も誤謬になってしまいます。生きていけませんね。
 ただ、昨日も書きましたが、こういうデーヴァダッタのような人が現れないと、たしかに世の中は腐る方向に行くのです。そういう意味では、ニーチェ自身がイエス的な受難を買って出たとも言えます。そして、100年後の日本でこうして復活する。いいことではないですか。だって、ニーチェも結局こうして語り部になっていくんですから。かわいいもんです。自家撞着。因果やなあ。
 ところで、こうしてニーチェが復活したということ、このタイミングにはニーチェ以外の誰かの意思が感じられますね。今やキリスト教非難の本が書店に所狭しと積まれています。その隣には、さりげなく、仏教は素晴らしいとか、神道に癒されるとか、そういう本が置かれていますね。誰の意思なんでしょう。日本国民の集団気分
 この本の腰巻きはそういう意味で面白い。上の写真をクリックして確認してみてください。そして、この写真では見えませんが、背の部分には実にさりげなく、そして堂々と「仏教の素晴らしさを発見」と書かれています。
 私は基本的になんでもOKな人ですから、たとえばイエスは立派な実践者として尊敬しますし、ブッダは人類史上最も頭の良い人として尊敬します。同じレベルで出口王仁三郎も大好きです。問題があるとすれば、それぞれの(それぞれの弟子の)遺した言葉の扱い方です。その扱い方が教団を生み、教派を生み、洗脳を生み、対立を生む。もっと冷静に言葉とつきあわねば。いつかも書きましたけれど、ロゴスへの盲従が一番いけません。結局それは原理主義を生む。そしてそれを必死に否定すると、それもまた原理主義に陥る。
 トンデモとはつまり原理主義のことでありました。ニーチェ、お前もかいな!ってことで、この本は読者の原理度(プラスであろうとマイナスであろうと)を測る見事な踏み絵でありました。やっぱり歴史的人物の書くものは違うわ。

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2005.07.05

『危ない大学 消える大学 '06』 島野清志 (エール出版)

4753924238 これは逆説的におススメですわ。これはひどい本です。危ない本です。消えるかどうかはわかりませんが、消えてもいい本でしょう。私学人の一人として、これは糾弾しておかねばなるまい。
 結局、筆者が言いたいのは、偏差値の高い大学へ行け、ということ。それは日頃、私も口にする言葉ですし、それが可能な人たちにとっては意味のあることでしょう。しかし、予備校発表の偏差値が低い大学が、則ち危ない大学であり、消える大学(つまりダメな大学)であるという理由はほとんどありません。統計的にはある程度の関係性は認められるでしょう。しかし、そういった統計だけで片づけられないのが教育です。
 なんか、まじめに論陣張ってしまいそうなので、少しクールダウンしましょう。とにかく、学校と会社をいっしょくたにしてしまってはいけないのです。筆者のような視点も確かにあると思いますし、それと同じ視点で大学を選び、大学に行く人々にとっては価値のある本かもしれません。また、筆者が暴くような杜撰きわまりない経営をしている大学もあるにはあるでしょう。でも、でもそれらとそれ以外のフツウの学校とを十把一絡げにしてほしくない。もし、絡げられるのなら、とっくに学校なんか経済原理に呑み込まれて、学校じゃなくなってますよ。
 私がここまで言うのには、実は理由があります。この本の頭の方に、筆者の質問状に対するF大学のT学長さんの回答文書が掲載されています。実は、この学長さんとは個人的に何度がお話させていただいたことがあり、学長さんのお考えやお人柄など、それなりに分かっているつもりでおります。ですから、学長さんの書かれたことを読んで、これは決してウソではなく、ほとんど事実であると実感しました。その内容は、教育に対して常識を持っている方なら、実にまっとうなものであると感じるものです。そういう意味で、自信があったからこそ、公開前提に回答をなさったに違いありません。もちろん、筆者はその回答に対して、「とても承服し難い」「抽象的である」「大学はより良い就職先や資格取得のための機関になっている現実を理解していない」と決めつける。ほとんどヤクザですな。はたして、学長さんのお人柄が分かるまで直接話し合ったことがあるのでしょうか。全ての大学に足を運んだのでしょうか。もしもFAXや書簡で取材をすませていたとしたら…ライター失格です。
 教育はもともと抽象的なものです。具体的にどこそこの企業に合格させます、なんていう理念の方がずっとうさんくさい。たまたま知り合いが攻撃されているから感情的になっているということもありますけど、教育の根幹を見誤った筆者の言には「とても承服し難い」。
 しかし!さてさて、このワタクシは自他共に認めるトンデモ本愛好家。トンデモにも五分の魂。私はそのトンデモ魂に意味を見出します。ハナっからダメだしはしたくない。というわけで、この本は買いです!(なんなんだ?)読者自身の教育観、ひいては人生観を測るのには逆説的な意味で最適なテキストです。また、怒りや呆れを超えて楽しんじゃえるか。楽しめればトンデモ愛好家の仲間入りです。まあ世の中、必要悪っていうのもありますからね。極端な話が世の中を正しい方向へ動かすということも多々ありますし。
 普段はそういったトンデモ的な世界が大好きな私ですが、矛先が自分の専門分野に及ぶとつい感情的になってしまう。それじゃあ先方と同レベルか。そんな自分に気付くこともできましたし、自分の教育観というものの再確認もできました。また、私学における経営の問題についても考えるきっかけを与えて下さりました。結局筆者に感謝しなくてはなりませんな。筆者はデーヴァダッタを演じているのかもしれません。定方さんと同じように。深い慈悲心をもって。そうだとしたら頑張ってください。フリーライターって大変ですね。喰ってくためではないんですよね。世の中を変えるためなんでしょ。皆さんもぜひ下のリンクから買ってあげて下さい。他のシリーズもぜひ。

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『危ない大学 消える大学 '07』 の記事へジャンプ!

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2005.07.04

『赤瀬川原平の名画読本―鑑賞のポイントはどこか』 (知恵の森文庫)

433478349X 今年の4月に文庫版が発売になりました。この本は「名画読本〈日本画編〉どう味わうか 」「日本にある世界の名画入門」とともに3部作として光文社カッパブックスから発売になっていたものです。文庫版になるということはそれなりに売れていたのでしょうか。教科書にも採用されていましたね。冒頭のモネの章。
 以前この3部作は読んだことがありますが、ちょっと必要がありまして再び読み返しております。今日は「日本画編」の後半を読み終えました。いやはや、この3冊はとんでもない名著ですね。お変人の私にとっての名著ですから、はたして万人にとってもその通りであるかはわかりません。しかし、赤瀬川先生の原平力(私はそう呼んでいます)が、いわゆる古典的作品にも十分に働き得る、いや働き得るのではなく、今まで以上にそのパワーが発揮されると言うべきでしょうか、そういう意味では確かに名著です。
 赤瀬川先生の偉大さの一つは、人々が気付かないモノやコトの価値を、私たちの目の前に立ち現れさせる点にあります。トマソンしかり、老人力しかり、優柔不断術しかり、新解さんしかり。私もそのおかげで、今まで見えなかった世界に目を開かさせていただきました。そういう意味では師匠です。
 しかし、この3部作で先生が俎上に乗せているのは、いわゆる「名作」ばかり。もうすでに十分すぎるほどの視線を浴びてきたモノたちです。その意味では、もうすでにモノではなくコトになってしまっている。そのすでに事実化してしまった名作たちに原平力がどう太刀打ちするのか。これは読む前から大変な興味をそそられます。
 結果として、事実化して硬直化した名画たちが、原平力によって実に生き生きと蘇らされております。なんという自由な視点と想像力。もちろん先生の頭や体の中には、知識としての名画というものもインプットされていることでしょう。しかし、それをふまえつつもそれに縛られることなく、それらとたわむれてしまう余裕。これはよほど自らに自信がなければできないワザです。
 そして、そうして可能になった名画との対話を、これまた見事に力みの抜けた文体でテキスト化する。その結果がこれまたちっとも硬直化していない。たぶん自信に裏打ちされた謙虚さなのでしょう。あるいは謙虚さに裏打ちされた自信か。うらやましい限りです。
 私は特に「日本画編」に強い感動、いや感動なんていう大げさなものではなありませんな、喜びでしょうか、ワクワクでしょうか、とにかくそういうモノを感じました。誰かさんのおかげでコト化してしまった何かが、原平力によって見事にモノとなり、ふにゃふにゃになって、勝手に変化してこちらに開かれる。まさに伝説化してしまっていた名作たちが開陳されて、そこに違った風景が広がる。新しく発見される名画たち。きっと名画たちにとっても、またそれを遺した天才たちにとっても、ものすごく幸せなことなのだと思います。
 名画がもう十分お好きな方、名画のどこがいいかわからないで来てしまった方、双方に読んでいただきたい。そして、今度は自分の視点を持って、名画の再発見に挑んでいただきたい。私がこんなことを言うのもなんですが、とにかくこの喜び、ワクワクをどなたかと共有したいのです。アカデミックな世界とは違うところで、世界について語り合いたいのです。

Amazon 赤瀬川原平の名画読本

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2005.07.03

歌謡曲バンド始動!

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 ついに新バンドが始動いたしました。70年代、80年代の歌謡曲を中心に演奏するバンドです。いつもは歌謡曲とはかけ離れたジャンルで活動しているメンバー5人が、どういうわけか意気投合し、本日第一回の練習が行なわれました。いちおうメンバー紹介しちゃいましょうか。
 チェンバリストの森洋子さん、パーカッショニストでありリコーダー奏者でもある飯塚直子さん、直子さんの夫君サックス奏者でギタリストの飯塚純二さん、そしてワタクシとカミさんです。
 いや、ホントにいいですねえ。楽しいですねえ。もう今日は理屈抜きです。ふだんの自分がいかに気取ってカッコつけて音楽してるのかよくわかりましたよ。やっぱり日本人だし、70年代、80年代に青春期を過ごしたオジサンだということです。でも、それ以上に、この時代の歌謡曲がいかに豊饒なものであったか。いろいろな音楽を知ったメンバー全員が一様に感じたのではないでしょうか。だから、みんなあれほど生き生きと演奏したのでしょう。
 なお、演奏した曲目は次のとおりです。編成はボーカル(カミさん)、キーボード(森)、ギター(純二)、パーカッション(直子)、ヴァイオリン(ワタクシ)などなどです。年代順に並べましょう。
 1 「あなた」 小坂明子
 2 「なごり雪」 イルカ
 3 「時代」 中島みゆき
 4 「あの日に帰りたい」 荒井由実
 5 「卒業写真」 荒井由実
 6 「オリビアを聴きながら」 杏里
 7 「いい日旅立ち」 山口百恵
 8 「秋桜」 山口百恵
 9 「異邦人」 久保田早紀
 10 「守ってあげたい」 松任谷由実
 11 「夏の扉」 松田聖子
 12 「悪女」 中島みゆき
 13 「聖母たちのララバイ」 岩崎宏美
 14 「スローモーション」 中森明菜
 15 「赤いスイートピー」 松田聖子
 16 「SWEET MEMORIES」 松田聖子
 17 「恋に落ちて」 小林明子
 18 「My Revolution」 渡辺美里
 19 「フレンズ」 レベッカ
 20 「元気を出して」 竹内まりや
 21 「夢をあきらめないで」 岡村孝子
 22 「ANNIVERSARY」 松任谷由実
 しっかし、濃いですなあ。これでも厳選に厳選を重ねたんですよ。純粋にやりたい曲を挙げたら、数百曲になってしまうので、今回はヤマハが出している「70年代・80年代ベスト・セレクション(ピアノ・ソロ)」を買ってきて、その中の女性ボーカルの曲をみんなに配布しました。それを見て適当にアドリブで演奏したわけです。いきなり初見でこれらをやっちゃうんですから、みなさんパワフルですね。
 この中からとりあえず5曲ほどをつめていこうということになりました。こういう形で歌謡曲を取り上げて演奏するというのは、ありそうでないですよね。なんとか、どこかでコンサートなどできればいいなあ。
 とにかく、演奏していて感じるのは、メロディーの美しさ、歌詞の豊かさ、そしてイントロなどアレンジのアイデアの秀逸さ。単純と感じていたコード進行も意外性に満ちていたり。この頃の作家さんたちの溢れんばかりの才能と、それをフツウに受け入れてしまっていた時代全体の生命感に、正直嫉妬します。
 自分もその中で生かされていたんだよなあ。今日、ミスターが久々に笑顔で私たちの前に現れました。また、飯塚さんのダンナさまとウチの5歳の娘が、ウルトラセブンのワイアール星人のビデオを見ながら、大いに盛り上がっていました。そんなことも含めて、「あの時代」のすごさを再認識した、本日のワタクシでありました。

Amazon 70年代ベスト・セレクション  80年代ベスト・セレクション

歌謡曲バンドデビューライヴ

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2005.07.02

The New Lost City Ramblers 『40 Years of Concert Performances』

B00005J9Y9 今月の15日の夜から翌日朝まで接心があります。それが明けた16日の夜、教会でコンサートをやります。演奏するジャンルはカントリー(ブルーグラス)です。メチャクチャなスケジュールですなあ。まあ、悟りを開いた後ですから、宗教や音楽のジャンルにはとらわれませんぞ(笑)。結局私はなんでもいいんですね。そこがいいところでもあり、悪いところでもある。
 で、まだ悟ってないのでジャンルにとらわれた言い方をしますと、私はカントリーというジャンルはよく知りません。昨年の今ごろ初めてそういうバンドに参加させていただきまして、漠然としか知らなかったこの世界を、ほんの少し、ホントほんの少しですけど、垣間見ることができました。少し足をつっこんで自らやってみると、何事にも深い世界が開けているものです。けっこうはまりましたね。特にヴァイオリンではないフィドルの世界。あの味は出せないんですよね、なかなか。
 今回はバンドのリーダーが、私の勉強用にこのCDを貸してくれました。全く知識なしに聴いたのですけれど、なかなか面白かった。2時間半に及ぶ名ライブ集なのですが、ついつい聴き入ってしまいました。カントリーというと、リズムもコードも単純というイメージがあります。だから、ずっと聴き続けるのはキツイかな、と思いつつ、プレイボタンを押したんですよ。でも、いざ始まってみると、実に面白い。
 まず何が耳に留まったかというと、演奏のヘタさ加減です。絶妙のヘタさ加減。そのヘタさというのは、おそらく西洋クラシック音楽の演奏習慣及び鑑賞習慣から判断したヘタさです。このヘタさは実に難しい。演奏してみるとホントに再現できない。もうおわかりと思いますが、こういうヘタさ加減というのが、世界中のフォークミュージックの本質であり、味わいであり、命であるわけです。
 今日、コンサートに向けての練習がありました。そこで感じるのは、いかに私が西洋クラシック音楽に毒されているかということです。だいいち、五線譜がないと不安で仕方ない。コード名だけだと自信がない。それから、カントリー(に限らずクラシック以外の音楽)は、1拍余ったり足りなかったり、またそれが毎回違ったりします。その方が実は音楽としては自然なわけですけれど、やっぱり苦しい。いかにメトロノーム的世界に毒されているか。
 微妙なズレとか、不均質な音とか、ノイズとか、そういうモノ(まさにモノノケですな)を排除して、ある意味コト化(近代化・機械化・都市化・脳化)を究めて高尚を気取っている、そういう音楽というか文化に疑問を抱いてしまいますね。また出たって言われちゃいますけど、結局「もののあはれ」を忘れてしまっているんですね、最近の我々は。
 おっと、また話がずれた。で、このCD、そんな「もののあはれ」をとっても感じさせるいい音楽でした。調べると、彼らはアメリカの音楽史において、オールド・ミュージックを復活させた重要人物たちであるとのこと。どの世界にもすごい人たちがいるもんですな。そして、まだまだ知らない音楽がたくさんありますな。だから人生は楽しいんですよね。飽きないし忙しいというわけです。
 というわけで、16日はブッダの説いた「無常」を感得しつつ、イエスのもとで「もののあはれ」を表現できるよう頑張ります!

Amazon  40 Years of Concert Performances

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2005.07.01

エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO) 『ベリー・ベスト・オブ・ELO』

Electric Light Orchestra 『ALL OVER THE WORLD』
jacket やっぱりこの問題については、一言コメントしておきましょう。
 ELOというバンドが、いかに私にとって大切かは、こちらこちらで書いてきました。そのELOについて、今日こういう形で語ることになるとは、夢にも思っていませんでした。
 まず、私の姿勢を明らかにしておきます。今回の事態、私は大変に嬉しく思っています。昔からのファンの方々の中には、許せない、切ない、などというペシミスティックな意見が多いようですけれども。
 今回の事態、というのは、今月8日から始まるドラマ「電車男」のオープニングテーマにELOの「トワイライト(Twilight)」が選ばれたという事態のことです。
 正直、なぜ「電車男」に「ELO」なのか、私にもわかりません。おそらく深い意味はないと思われます。あのドラマにフレディー・マーキュリー(クイーン)だったというのと同じくらいに。まあ、いろいろな意味で貧窮した音楽界にあって、過去の大物をリバイバルヒットさせることは、商売の上ではとても重要なのでしょう。実際、7月20日には、タイトルにあるベストアルバムが発売されます。はたして、二匹目のクイーンになれるのか。ちょっと厳しいだろうな。
 いずれにせよ、こういう売り方に反感を覚える方もいらっしゃるでしょうね。しかし、もともとELO自体が非常に商業的なバンドであった、そしてそういう音楽のあり方も正常だと思う私は、それほど違和感を抱きません。ただ、どうなんでしょう。その器が「電車男」だったから許せないという人もいるのでは。
 私はこの点に関しても、難なくクリアです。何しろこんなこと堂々と書いていますから。でも、ここで書いたことは、いちおう文学やら言葉やらの畑で働く者としての偽らざる印象ですし、また、そこには音楽界同様あまりにも魅力を欠いた文学界に対する、皮肉やエールが込められているのも事実です。
 そんなこんなで、私の大好きなこの二つの作品が、逼迫した現代のエンタテインメントに対する起爆剤にでもなってくれれば、ハッキリ言ってこんなに喜ばしいことはありません。もちろん、このドラマによって「電車男」の原作?を読みたいと思ったり、ELOってなんぞやと思ってくれる若者やらオジサンオバサンやらが出てきてくれれば、よっしゃ!って感じですよね。特にELOは日本で不当に低い評価しか得ていませんから。音楽界の職人さんたちに対しては、「影響」という形で多大な功績を残していますけれど。
 ちなみにその「トワイライト」ですが、これは間違いなくロック…じゃないな、ポップス史上に残る名曲ですよ。ELOの曲の中でも最も好きな曲の一つです。マニア的にはいろいろ微妙な時期の作品ではありますが、ジェフ・リンの非凡な才能が、非常にわかりやすく開花しているという意味では、全楽曲中随一の存在感です。今までも、時々テレビで流れてきました。さりげなくBGMとして使われたり、NHKで子どもが歌ったり。今回の事態をきっかけに、私も改めて何度か聴いてみました。やはり名曲です。そして、先ほど生徒たちに特別先行サービスとして聴いてもらいました。で、生徒たちの率直な感想は、「電車男って感じじゃな〜い」でした。やっぱりね。
 あっ、そうだ。ウチはフジテレビ映らないんだ。肝心なこと忘れてた。音だけは聴けるので、まあいいか。

Amazon ベリー・ベスト・オブ・ELO

ドラマ『電車男』の感想など

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