『ダンス・クリティーク―舞踊の現在/舞踊の身体』 尼ヶ崎彬 (勁草書房)
昨日はお祭り、今日は昼間所属するバロックバンドの練習、帰ってきてから先日の小橋建太対佐々木健介を見直したりして、思い出したのがこの本でした。
この本では、昨日も登場した「場」について多く言及されています。西洋的な為手と受け手の関係ではなく、たとえば日本古来の舞いと囃子の関係に見られるような、客(いちおうこう表現しておきます)の掛け声や手拍子によって、一つの波(ノリ)が形成され、結果としてパフォーマンスが生まれる、そういう関係について述べられているわけです。
舞台の上と舞台の下がお互いに引き込みあい、「場」を作り上げていく。主体−客体の関係ではなく、両者が主体。「場」が一つの生命体になり、いわゆる客はその一部になることを目的にその「場」に参加する。なるほどねえ。
まったくその通りでしょう。プロレスを会場で観るのとテレビで観るのとでは、その意味があまりに違います。それについてはこちらに書きました。本来、音楽もそうあるべきでしょう。もちろん祭りも。
いつからなのでしょうか。西洋的な二分法が世界に蔓延し始めたのは。私たちのデジタル化はかなり早い時期に始まっていたのではないでしょうか。
何度も書いていますけれども、そうしたコト化、つまり分節することの功罪について、もっと考えるべきでしょう。モノをアーティキュレイトして安心を得たいという本能は認めますが、なにか我々はその行為自体に快感をおぼえているような気もします。最近考えている、絵画における輪郭線というのも同じ問題かもしれません。
記号化、言語化、都市化、脳化…いろいろな方々がいろいろな言い方をされていますが、根本は同じような気もします。特に究極の分節行為である二分化は危険な場合が多い。二分された時の多数派の方につけば楽です。つまり客体の方が楽なのです。そうした「お客さん」で満足することが多くありませんか。一方少数派の方も自己満足に陥る。あるいは過激な手段で多数派に勝とうと企てる。
そう考えると、先日書いたマイケル・ジャクソンの行為というのは、実に大きな問題提起をはらんでいることになります。彼自身がアンチ・テーゼなのです。
いずれにせよ、人間は、分節して自己と他者との間に線引きすることばかり考えています。自然界ではおそらく人間だけがなしうる高尚な愚行です。そこではブッダの説く「縁」は確実に減少します。それでは文化も人間自身もやせ細っていくばかり。う〜む、ちょっと考え込んじゃいますね。
筆者は「場」のシンプルな例として、「手締め」を挙げています。あの快感は、自分を超える大きなものが生起するために自分の役割を果たし終えたことの満足であり、多数の協同作業による大きなイベントが成功したことの満足のメタファーである、と述べています。なるほど…。
では、こんなワタクシの独言に多少なりとも賛同していただける方々、ぜひともご唱和下さい。
(本日の)本日のおススメはこれにて終了いたします。では、お手を拝借。よ〜ぉ!
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