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2005.06.25

本当の自然、本当の田舎(秋田のある村落にて)

016166 ちょいと所用がありまして、秋田のカミさんの実家に来ております。この季節にここに来るのは初めて。夏休みとは違う若い田んぼの緑が目に鮮やかです。
 ほとんど徹夜で運転してまいりましたので、午後はゆっくり昼寝させていただきました。夕方、目を覚ましまして、窓から風景を眺めておりますと、とても不思議な感覚になりまして、いろいろなことを考えました。
 ここは秋田県の南部です。いわゆる町から一山越えた山間部。過疎高齢化が進んでいます。たしかにいろいろな面で不便の多い土地です。冬には3メートル近い雪が積もり、ちょっとした買い物にも、車で小一時間かかります。ここに住むみなさんには、もちろん人知れぬ苦労がおありだと思いますが、私のような者にとっては、本当に魅力的な場所です。
 私も富士山に住んでおりますので、まあ豊かな自然には恵まれている方だと思いますけれども、ここの自然は全く違った趣を持っていますね。人間と自然の関係が違うのでしょうか。本当に安心するのです。私が富士山の別荘地に居を構えたり、都会の人々が自然の中でちょっとキャンプしてみたりするのとは全く違う。そういう場合は、お客さんなんですよね。私たち人間は。コンビニに行くような感覚なんです。その時求めるものを求めに行く。いちおう定住している私でも、そんなよそよそしさを感じながら生きているのです。
 時間の流れ方が違いますね。リニアではなくサイクル。ここでは、全てが自然のサイクルが基準です。窓から田んぼや畑で働く人が何人か見えます。みんな黙々と働く。日が昇ってから日が沈むまで。その日その季節に必要なことを、毎年繰り返す。そういう循環の中で生きている。でも、そんな中にも、庭の木々は成長し、一方で朽ちていくものもある。そこに住む人々もそう。つまり、循環しながら、やはり進んでいく。まさにらせんを描いていく感じです。自然がベースの生活文化。
 都会のリニアな時間感覚に毒された人間は、それが堪えられなく退屈なことに感じることでしょう。しかし、そんな一人である私も、こうしてたまにそのらせんに乗ることができると、えもいわれぬ安心感を得ることができるのです。我執を離れる瞬間なのかもしれません。
 また、耳が澄む感覚にも浸ることができました。耳を澄ますのではなくて、澄むのです。いわば遠音しか聞こえない。犬の鳴き声、子どもの声、ラジオの音、もちろん鳥や蛙の鳴き声も。遠い小さい音が、信じられないほど鮮明に鼓膜に届きます。懐かしい感覚でした。
hotaru 今年は東北地方は雨が少なく、畑や田んぼは乾いてしまっているそうです。しかし、人間は空を眺め雨を待つしかない。あたりまえのことなのでしょうが、不思議と敬虔な気持ちにさせられます。人間の無力さ。おかげのありがたさ。
 夜はすぐ近くの田んぼへ蛍を見に行きました。今年は少雨のため、蛍もかなり少なめだと言います。しかし、ほとんど漆黒の闇の中を、数十匹の蛍が幻想的に漂い、水面にその光を映す様子は、実に感動的でした。数年前の大発生の時は、本当に光の波、光の渦とでも言うべき、この世のものと思えない光景が広がったそうです。
hotaru2 ここの蛍は、あまり点滅しません。点灯したまま長時間漂います。そして、私たちの方に近づいてきて、簡単にこの手で捕まえることができます。手のひらで光り続ける蛍の光に再び癒され、日々の喧騒からしばし逃れることのできたワタクシでありました。

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