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2005.05.31

『プロジェクトX 挑戦者たち Vol.1 巨大台風から日本を守れ ― 富士山頂・男たちは命をかけた』(DVD)

B00005QWQT え〜、昨日からの流れです。記念すべきプロジェクトXの第一回作品、同僚がDVDを持っていることが判明いたしまして、久々に観賞することができました。
 あれ〜、なんか今とイメージがちょっと違うなあ。ご本人さんたちはスタジオにおいでにならず、なぜか見城徹さんと松坂慶子さんが…。そうだったっけ、よく覚えてるつもりだったのですが、今日見てみると、結構忘れているシーンが。
 まあ、そんなことは良いとして、こうしてしばらくしてから観ると、面白い発見がいろいろありますね。やっぱり、昨日おススメしたインタビューやマンガとの比較ですね。映像作品としての編集術、演出、音楽や音声の効果…。よりリアルになるかと思えば、さにあらず。どんどん演劇チックになってくる。それが行きすぎると、今回の騒動のようなことになる。
 どれが優れているということではなく、比較することによって、メディアの特長や限界が見えてくる、ということです。そういうことの見極めに楽しみをおぼえるというのは、実に妙な趣味であり、そんなことどうでもいいよ、と言われてもしかたない。でも、なんだか私はそういうのが好きなんですよね。高校時代に国語の先生から、君は評論家になるといいかもね、作家にはなれないだろうけど、と言われ(てショックを受け)たことを思い出します。
 さて、プロジェクトXそのものに戻りましょう。この番組は歴史に残る名番組だと思います。いかにもNHK的な、派手さのない渋いテーマを扱いながら、非NHK的に企業名を連呼する。ドキュメントでありながら、非常に情緒的。現代的と見せながら、実は昔語り。そして、田口トモロヲと中島みゆきの存在感。全ては今井彰さんのプロデュース力でしょうか。ところで…
 (トモロヲさんの声で) 「富士山頂にレドームが設置された昭和39年8月15日。その日は奇しくも19回目の終戦記念日であった。そして、その二日後…蘊恥庵庵主が静岡県で産声を上げた」
 これは事実ですけれど、どうでもいいことですね。いや、私もきっと、母親の、それこそプロジェクトXなみの壮絶な戦いの末に生まれたのでしょう。プロジェクトXは「産みの苦しみ」の物語です。男のね。昨日も書きましたが、裏返せば、男のコンプレックスの産物なんですよ。実は。そのあたりは今後も継続的に分析していきたいと考えています。
 あっ、そうそう最後に一つ富士山測候所に関するどうでもいいエピソードを。
 NHKの朝の天気予報で、富士山頂の気温が表示されているのを知っていますか。今は土日だけかもしれませんが。
 あれ、実は一度消えたんですよ。測候所の無人化に伴って。で、今なんで復活したかというと、実はウチのおやじがNHKに手紙書いてお願いしたんです。かわいい孫が住む富士山の気温を毎朝見たいと。その他にもいろいろと理由を書いたようですけど、まあNHK的にもそのへんがポイントになったんじゃないですかね。そして、渡辺博栄さんからていねいなお返事が来て、そしてめでたく復活したそうです。

Amazon プロジェクトX Vol.1

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2005.05.30

『変わる富士山測候所』 江戸川大学 土器屋由紀子ゼミ (春風社)

4861100232 つい最近、ちょっと問題もありましたけど、相変わらずの人気を誇る「プロジェクトX 挑戦者たち」。欠かさず見るというわけではありませんが、私もファンの一人です。自分も仕事頑張ろう、子供たちに誇れる仕事をしよう、と思います(寝る前までは)。そして、私がこの番組を見て、こぶしを握りしめ、涙を流していると、カミさんは不機嫌になります。なぜでしょう。世のほかの女性たちもそうなんでしょうか。
 そうです。この番組では、たいてい主役は男。女は影で苦労する役回りです。だから、納得いかないと。なるほど。そりゃそうだ、とも言える。でも、だからってそんなに怒んなくても。
 先週は珍しく女性が主役でしたね。沖縄の公衆衛生看護婦さん。カミさんは見ていませんでしたが。そして、微妙に感情移入できない男の私がいたことを白状しましょう。わかっていても、どうしてもだめなんです。燃えてこないのです。
 これは仕方ないことでしょう。男の本能です。女は子を産むということによって永遠性を得る可能性を持っています。男はハナからそんな可能性はない。材料提供はできますが、それだけでは満足しないのです。だから、何かを残したがる。仕事したがる。できるかできないかは別として、そういう欲求というか、焦りがあるんですよね。最近私が考えている「こと化」の願望です。「ものがたり」の欲求です。これについては今まとめ中ですので、いずれまた。
 さて、そんな燃える男のプロジェクトX、その記念すべき第一回に放送されたのが、「巨大台風から日本を守れ」〜富士山頂・男たちは命をかけた〜でした。それこそ、番組として紹介されなければ全く知らずに終わってしまったような、無数の無名の男たちの壮絶な戦いに、鳥肌を立てました。
 しかし、なんでしょうね。やはり今回の問題もそうですが、慣れてくると演出が鼻につくこともある。ドキュメントなのかドラマなのか、その虚実皮膜の間におけるさじ加減がこの番組の魅力なのでしょうが、いったいどこまでが事実なのだろうか、ちょっと気になることも出てきたりします。
 で、今回、父からこの本を借り受けまして、なるほど第一回はほとんどドキュメントであるとわかりました。この本は、衛星に気象観測の任務を譲り、無人化された富士山測候所の、これまでの歴史とこれからのあるべき姿を、多方面から見直すものです。歴史についてはプロジェクトXなどで紹介されている通りです。今後のあり方については、お読みいただければよいのですが、例えば大気化学の立場からすると、富士山頂は非常に優れたロケーションであるとのことです。
 そのような、なかなか興味深い本であったわけですけれど、何と言っても圧巻だったのは、プロジェクトXでも主役をお務めになられた伊藤庄助さんのインタビューです。伊藤さんはまさに富士山測候所プロジェクトの中心人物、気象レーダー設置を総指揮された方。何の演出もない一つ一つの言葉が実に重い重い。
 こんなマンガも買ってみたのですが、やはり事実を伝えるには、本人の裸の言葉、それも文字というメディアを通じての言葉に優るものはないと、図らずも再認識させられました。
 ホンモノの言葉は力強く美しい。
 「対話をしながら自然を味方につけてやっていく」
 「物事の勉強や研究は、思い込みで判断していることが多く、地に足のついたことは知らないままで終わっている。ところが、そういう知識が自然には通用しない。体験を通して理解しないと命を失うことになる」
 「自然に叩きのめされたことで、体を通して多くのことを学ぶことができた」
 このインタビューだけでも買いです(その他もなかなか有益)。

Amazon 変わる富士山測候所

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2005.05.29

『教育不信と教育依存の時代』 広田照幸 (紀伊国屋書店)

4314009802 これは全国民必読の本でしょう。こういう本こそ売れてほしい。
 先日、48歳の暴走族(暴走おじさん)が逮捕されましたね。これはこれで素晴らしい?ことです。誰もやらないことをやってのけるのですから。そう、こういうおじさんは珍しいのです。ほとんど皆無なのです。昔暴走族、今カリスマ予備校教師なんて方もいらっしゃいますが、そう、そこまで行かなくても、昔ゾクの頭、今バリバリの社会人とか、バリバリのいい父親とか、そういう方々の方が圧倒的に多い。
 学校という現場からの報告をさせていただきますと、学生時代、問題児だったヤツらの方が、社会で活躍する確率が高い。そして、それと同じくらいの確率で、優等生はフツーになる。これは現場で学んだ「真実」です。
 著者である東大の広田さんは、そのことをよくご存知であられる。今どきの若者は歴史的に見ても、いたって品行方正であり、ちっともおかしくない。そうした、教育や若者の荒廃は、マスコミを中心とした言説の作りだすところのものである。また、教育を批判するのは、教育が万能であるという幻想を持ち、またその幻への依存が強いヤカラである。そういうことを、おっしゃっております(もっと上品な言葉でですが)。
 全くもってその通りだと思います。特に、マスコミや識者によって作られる幻影(悪しき物語だあ!)に関するところは、ワタクシも繰り返し申し上げてきました。
 そういえば、「集団気分」という言葉でも書きましたねえ。広田さんが心配しているのは、私の言う集団気分です。集団気分の特徴はマイナス指向にあります。みんなで心配して安心する。それが実際に世の中をそういう方向に動かす。悪しき言霊。
 今日、時事放談を見ていましたら、塩ジイと堺屋さんが「政治家は悲観的なことばかり言うのが仕事」みたいなことをおっしゃっていました。たしかに政治では最悪のケースを想定しなくてはいけない。で、今までのそういった予測はみなはずれてきた。政策も杞憂に終わった。政治の世界では、それでいいでしょう。
 しかし、マスコミや識者までもが、そういうベクトルばかりものを言う(物語る)のは、正直どうなんでしょう。私はいけないと思いますよ。特に教育に関しては。教育というものは、たしかに大切であり、他人事ではないものです。しかし一方で、極端に他人のせいにしがちな分野です。答えがない世界ですから、逆にどんなニセの答えも作れる。
 子供たちのことを、もっともっと、前向きに、楽天的に、しかし謙虚に、親も先生もマスコミもとらえられないのだろうか。私も現場にいて、また、自分の子どもを見ていて、そんなことを感じてきました。しかし、なかなかうまく言葉にすることができずにいました。広田さんのこの本は、そうした私のモヤモヤを吹き飛ばしてくれたのです。教育学者としては希有な存在です。素晴らしい。
 最後に、現場で私が学んだ(学んでいる)究極の事実を書いておきましょう。私は出発点をここに置いています。そこから何ができるかです。
「親はなくとも子は育つ。先生なくとも生徒は育つ」

Amazon 教育不信と教育依存の時代

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2005.05.28

ハイビジョンスペシャル(再) 『神の手をもつ絵師』 江戸の鬼才画家・若冲の不思議世界

若冲と言ったらコレかな。
gunkeizu ハイビジョン・チューナーを買ってからというもの、NHKさんの素晴らしい番組を見るのに、どれだけ時間を費やしていることやら。感動、感心するものばかりなので、正直このコーナーも毎日それらで書けてしまう。いやはや、ここ数日だけでも、小野田寛郎さんのドキュメントとか、KISSのライヴとか、工藤夕貴が案内役の「色」のやつとか、昨日おススメしたコンサートとか…。でも、それではちょっと芸がないので、いろいろ工夫をしなくてはなりません。でも、今日はこれを書かせていただきます。ものすごいインパクトでしたから。放送は木曜日でした。録画したものを見たわけです。
 若冲については、以前からけっこう気になっていたんですよね。こいつオタクだって。萌えちゃってるなって。すごいフェティシズムだなって(笑)。やっぱりそういう才能、そういう日本人的な感性は、外国でまず評価されるんですね。若冲に萌えちゃった若冲オタクは、アメリカの大金持ちジョー・プライスさん。この番組の見どころの半分は、このジョー・プライスさんです。
 でも、それは別に異常なことではありません。浮世絵と印象派の関係を思い浮かべればいいわけです。日本人の日本文化再評価というのは、いつもそういう迂回を必要としています。それだけ、日本の文化は意識化されていないわけです。これは強いですよ。しみついてるんですから。理論を必要としないんですから。
 さて、そんな日本文化の中でも、いたって変な若冲さんです。この番組によって初めて知ったことが多くありました。しかし、大方、私の予想通りだったとも言えます。彼の絵を語る時、「写実」という言葉が鍵になりますよね。実際クールベと結びつける方もおられる。この「写実」が難しいわけです。彼の絵はたしかに写実なのですが、それでいてリアルすぎる何かを持っている。よく言われる「生きているようだ」という感覚です。一方で、非常に緻密にデザインされた、あるいはデジタル化された部分も見て取れる。このバランスというか、ホンモノよりホンモノくさいうさん臭さというか、そう、ラ・トゥールでも感じられたアレですよ。
 そう考えると、まあ時代的には微妙にずれますが(ずれて当たり前ですが)、バロックですか。ただ、彼の仏教観というものを考えると、もっと広い視野、思想があるような気がします。人を描かず、人以外の生きものをひたすら描き続けた。一切衆生悉有仏性(人は除く?)を描いたのかもしれません。ジョー・プライスはそのあたりも理解しているのだろうか?いや、わかってそうだな。時間も金もあるオタクの研究心はすごいですから。そういえば、若冲もお金には困ってなかったんですよね。
 とにかく、一度生で見てみたい画家、若冲さん。そんな若冲さんを知るには、本当によくできた番組でした。2時間、視聴者を飽きさせない工夫もお見事。ちなみに3年くらい前のNHKのお仕事です。
 こういう視聴率を気にしない教養番組をたくさん見ることができるハイビジョンはいいですね。まあ、民放も含めてBSデジタルは渋めで好きです(どうでもいいお買い物番組もいっぱいですが)。ハイビジョンテレビが高いと思っている方、ぜひ私のようにチューナーを単体で買いましょう。録画などのことを考えても結局便利ですよ。

Amazon 目をみはる伊藤若冲の『動植綵絵』

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2005.05.27

ハイビジョン クラシック倶楽部『結婚カンタータ復元コンサート』

bach

1. カンタータ第210番 おお佳き日、待ちこがれた時よ(バッハ)
2. カンタータ第216番 満たされたプライセの町よ (バッハ・リフキン補作)

ソプラノ : 佐竹 由美 (1曲目)
ソプラノ : スザンヌ・リディーン (2曲目)
アルト : マリアンネ・ベアーテ・ヒェラン (2曲目)
管弦楽 : バッハ・コンチェルティーノ大阪
指揮・チェンバロ : ジョシュア・リフキン

 先日、偶然リフキンのロ短調ミサについて書いたばかりなんですが、なんともグッドタイミング、昨日NHKでリフキン指揮のコンサートが放送されました。動くリフキンさんを初めて見ました。
 田舎に住んでいると、なかなか行きたいコンサートに行けず、なかばあきらめモードになってしまうんですよね。そんな私たちにとって、NHKのクラシックライヴ番組はありがたい存在です。結構古楽系の演奏会もとりあげられますし。
 さて、昨日放送された曲についてですが、ソプラノとアルトのパート譜が日本で発見された(なんでだ?)ということと、それを元にリフキンさんがカンタータを復元した(えらい!)というニュースは知っていました。また、それが3月に初演されたというのも聞いていました。しかし、先ほど書いたように、コンサートには行けませんので、CD化でもされない限り、聴くことはできないなあ、と思っていたわけです。
 それがこうして放送された。こんなに早く幻の曲を聴けるとは。ありがたや。ありがたや。
 さて、まず復元されたカンタータ「満たされたプライセの町よ」の出来栄えです。そうですね、よく作り込まれていたと思います。バッハの言葉をよく研究しつくしている、よく知りつくしているリフキン氏ならではの編曲ではないでしょうか。
 残されたパート譜からの復元、という作業について考えてみましたが、たぶん、まずメロディーの流れから和声の流れを類推し、それをもとに各パートを有機的に創造していく、という段階を踏んだのではないでしょうか。それが、バッハ自身の作曲法とは違う手順であることは確かですけれども、最終的にはバッハの真作として紹介しても違和感のないレベルに仕上がっていたと感じました。
 と言いつつ…たいへん僭越であり、自分のセンスのなさを露呈するだけとは思いますが、この曲の前に演奏された「おお佳き日、待ちこがれた時よ」のコンティヌオを聴いたあとだからでしょうか、ちょっとバスの流れが単調に感じられたのも事実です。だからと言って、自分がよりよい流れのバスを作れるはずもないわけですが。すみません。ああ恥ずかしい。
 ところで、演奏者のみなさん、現在の古楽界を代表するみなさんでありました。お上手なのは当たり前として、私が感心したのはリフキンさんの存在です。いちおう指揮・チェンバロということでしたが、ほとんど指揮らしい指揮をせず、通奏低音に徹していたように見えました。もっと前面に出て、アンサンブルを引っ張るのかと思っていましたから、ちょっと意外でしたね。演奏者を信じて、個々の主体性と全体の調和を、ご自身が楽しんでおられるように見えました。
 メンバーをよく見れば、いやよく見なくても、直接お世話になった(なっている)方々ばかりです。コンサートでは大変まじめそうなお顔で演奏されていますが(まあ当たり前ですけど)、普段は楽しい方々ばかり。そんなことも考えながら見ていました。初めて聴く、という興味と感動もあって、本当の演奏会に出かけたように、心から楽しませていただきました。

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2005.05.26

文化庁サイトにMac OS Xのアイコンが?

Macのアイコン   文化庁のサイト
Jkjk7 昨日のニュースでありますが、なかなか面白かったので考察してみましょう。
  こういう内容です
 もうお分かりと思いますが、このニュースの面白みは、著作権保護に関して啓蒙・指導すべき文化庁さんが、著作権を侵害した(らしい)ということにあります。Macのアイコンに著作権があるのかどうか私は知りませんが、素人目にはなんとなくクロという気がしますよね。だって似てるとかいう次元ではなくて、そのものなんだもん。たとえシロであったとしても、疑われるようなことをしてはいけませんよ〜。
 こういうのを「医者の不養生」って言うんでしょうかね。偉そうに指導しておきながら、自分ではそれを実行していない、あるいは逆のことすらしている。私の仕事では当たり前に起こっていることですけどね(笑)。自分のことを棚に上げないとやっていけないんですよ…なんてね。半分冗談です(半分本気)。
 「医者の不養生」と同じ意味のことわざとして、「紺屋の白袴」がよく挙げられます。でも、両者のニュアンスは全然違う。「紺屋の白袴」は、紺屋さんがお仕事に忙しくてご自分の袴を染める暇がない、というような意味です。「髪結い髪結わず」とか「紙漉きの手鼻」なんていうのもいっしょですね。だから、忙しくて大変ですね、という感じがあります。
 今回の文化庁さんは忙しかったんでしょうかね。あのページをデザインしたのは、まちがいなく委託された業者さんだと思いますけど、どうなんでしょう、その業者さんはちょっと忙しかったかもしれない、でも、チェックを怠った文化庁さんは忙しかったんでしょうか。やっぱり「医者の不養生」ですかね。いや「坊主の不信心」の方が適切かな。そういえば「論語読みの論語知らず」ってのもあったな。単純にMac使いがいなかったのかもしれませんね。知らなきゃわからないのも致し方ない。
 いずれにせよ、医者が不健康になったり、坊主が地獄に落ちたりするのよりも、ある意味たちが悪い。他人に迷惑をかける可能性があるから。警察官の窃盗や消防士の放火ほどではないにしても、年金納めていなかった誰かさんと同じくらいの罪はあります。
 ただ、こういった言行不一致とでもいうべきことは古今東西いくらでもあることで、またそれを隠蔽するのが普通なわけです。こうなると完全に憎むべきことでありますが、今回の文化庁さんのように、世界中に発信してしまうと、それはそれで妙な愛嬌のようなものが感じられるようになるんですよね。これは面白いことです。憎みきれない可愛らしさが生まれるのです。
 私はちょっとずるくて、そのあたりをうまく利用して、結局自分の言うことを生徒に納得させてしまうところがあります。つまり最初から言行不一致をカミングアウトしちゃうんですよ。ずるいですね。いかんいかん、「教師の不勉強」なんて言われないように頑張らなきゃ。

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2005.05.25

一日一食経過報告 & 『「半断食」健康法』 石原結實 (講談社+α新書)

4062722828 一日一食生活を始めて、そろそろ1年になります。先日の血液検査の結果が返ってきましたので、報告いたします。
 思えば1年前、血液検査のあまりに悲惨な結果(総コレステロールと中性脂肪の値)に愕然となり、そして人生も半ば、ちょうど節目の年齢になろうとしていたこともあって、根本から生き方を変えるつもりで一日一食生活を始めました(ついでに日の出とともに起きるのも開始)。
 今となっては、二食食べるのもキツイくらい、一食が自然な生活になっています。途中経過や思わぬ効用(花粉症完治)については、こちらでお読み下さい。とりあえず、体重は10キロ近く減り、ベストの数値(高校時代)をキープしています。ちなみにウエストも約10センチ減りました(笑)。
 というわけで、血液検査の報告です。え〜、個人情報ですので、具体的な数値は記さず、昨年の数値からの変動を%で紹介したいと思います。

 総コレステロール 15%減
 中性脂肪 75%減
 AST(GOT) 30%減
 ALT(GPT) 48%減
 γ-GTP 45%減

 上記のものは特に変化の大きかったものです。他は昨年とそれほど変わりませんでした。変わらないものは昨年も全くの標準値でしたので、今年も問題なしです。とにかく、中性脂肪の減少は劇的ですね。まあ、ただ単に痩せたということでしょう。逆に言えば、ずいぶんと無駄なものを蓄えていたなあ、という感じ。この1年でほとんど燃焼しちゃったってことですかねえ。でも、これから世の中何が起きるかわからないので、多少の蓄えは残しておきましょう。
 総コレステロールはもう少し下がるかと思ったのですが、もう一歩です。単に運動不足ですかね。しかし、40代男性の平均値以下ですし、善玉コレステロールが10%増え、善対悪の比率は1対3以下になりましたから、まあ健康領域でしょう。最近では、総コレステロールの数値が高く、かつ善玉の割合が高い人が最も長生きする、というのが学界の定説だそうですよ。
 とにかく、全体として悪い傾向は全くなく、血圧、血糖値ともに標準ですし、実際体調はすこぶる良好ですので、しばらくは、いやたぶんこれから死ぬまでは、この生活を続けてみますわ。
 さて、こんな一日一食を始める際、背中を押してくれたのが、「一日一食断食減量道」という本でした。これは非常に面白い本です。いや、東大の理系の博士とは思えないほど文学的に面白い本でした。ほとんど科学的なデータや根拠は書かれておらず、いや、それがとっても楽しかったわけですけど、やはりそれだけでは心もとない、という方のために、今日はこの本『「半断食」健康法』をおススメしておきます。ある意味こちらの方が説得力はあるかもしれません。笑って読むたぐいの本ではありませんが、へえ〜、と感じることは多々あると思います。両方読むのが一番のおススメですかね、やっぱり。
 私が重ねて一日一食をおススメするのは、単に体の健康のためではありません。やはり、心の健康、つまり毎日の充実感を実感しているからだと思います。感情が安定し、頭がさえ、感性がするどくなる。やはり、ブッダやイエスやモーゼや、その他もろもろの偉人たちが断食したということには意味があったのだと、つくづく感心させられています。

参考記事 祝!?一日一食生活5周年 (2009年)

Amazon 「半断食」健康法

楽天ブックス 「半断食」健康法

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2005.05.24

『ロ短調ミサ曲』(バッハ) リフキン指揮バッハ・アンサンブル

B000005IX6MBM-Rifkin-2 初めて触れたものが、生涯にわたってベストになる、ということはよくあります。いろいろ例を挙げるまでもありませんね。あれもこれも、言われてみれば…。これはなんなんでしょうね。どういう本能なのでしょう。
 今日のおススメも、人によっては「なんで?」と思われるかもしれません。よりによってなんでこれなの?って。
 「ロ短調ミサ」自体には問題ないんですよ。問題どころか、バッハの楽曲の中で最も好きなものとしてこれを挙げる人は、私のみならずけっこういるようです。
 どういうわけでバッハがカトリックのミサ曲を書いたのか、その理由は忘れてしまいましたが、とにかくこのバッハにとってのフツーでないお仕事が、実にいい仕事になった。異種格闘技戦が名勝負になることがたまにありますよね。
 私もバッハから1曲選べと言われたら、この曲を選ぶわけです。その理由は語るも野暮ですから、さし控えましょう。で、次が問題なわけです…じゃあロ短調ミサの数ある演奏の中で、一つ選ぶとしたら?はい、選ぶもなにもリフキン盤しかありませんよ…これが問題なのです。
 リフキン盤、ご存知の方も多いと思いますが、とんでもないシロモノです。あの気宇壮大なロ短調ミサ曲を、各パート一人ずつで演奏しているのです。これが、どんなにとんでもないことなのかは、どう説明すればいいでしょうねえ。ラジオ体操を一人でやる…ぜんぜん違うな、盆踊りを一人で踊る…違うな、なんだろう、とにかくまあ、赤信号みんなで渡れば、ではなくて一人で渡っちゃうんですよ。ふだんなら10人とかでやることを一人でやるわけですから、それは大変です。
 で、その行為自体も大変なのですが、そこに浮かび上がってくる音楽もとんでもないものになる。ものすごく繊細で、清澄で、緊張感にあふれ、人間的で、音楽的で。
 もう四半世紀も前の録音なんですね。私は大学1年か2年の時にLPで買いました。リフキンなんて知りませんでしたが、たまたまレコード屋さんにあったので買ってしまったのでした。正直言うとジャケ買いです。左のやつです。私は当時、まだバロック・ヴァイオリンを始めていませんでした。モダンか古楽器か、けっこう迷っていた時期ですね。そんな時に、この響きを聴いてしまった私は、もうすっかり古楽器の虜になってしまったのでした。あとは言わずもがな、現在に至る。
 さて、たまたまさっき読んだマンガ「ラーメン発見伝」の中に、スープの温度の話がありました。スープの温度が高いと旨味や風味が吹き飛んでしまっていかん、だからウチのスープは60度だ、というお店の話です。結局そこは人気が出ず、温度を高くする選択をします。その決断のきっかけになったのが、あるロック・バンドのライヴです。そのライヴは大音量で、演奏の細やかな部分は聞こえなくなっていました。しかし、それを補ってあまりある迫力が感動を誘いました。それではっと気づいた店主は、スープの温度を上げます。
 いつかも書いた気がしますが、音楽は陶酔のためのものです。その陶酔には両極端な二つがある。瞑想と興奮です。聴く側がそのどちらを求めるかで、演奏の評価も分かれます。繊細な旨味や風味を味わいたいのか、熱々の迫力を味わいたいのか。
 私はロ短調ミサに前者を求めたようです。それにはリフキンの調理法がぴったりだった。バッハの意図(実のところその意図がいまだ不明だそうですけれど)や一般的な聴衆の目的とははずれるかもしれませんが、私にとってはリフキンが投げた球がど真ん中直球ストライクだったのです。その後、いろいろな編成のヴァージョンを聴きました。でもどうしてもツボにはまらないんです。パロット盤でもダメでした。つまり、そこにツボがあったのではなく、リフキンの速球によってツボができちゃったんですよ。なんでも初めてがいいっていうのは、そういうことなのではないでしょうか。
 ぜひ試聴だけでもしてください。ツボがポコンとできることをお祈りします。
 
Amazon Mass in B Minor(試聴用) Mass in B Minor(買うならこちら、安い!)

若かりし頃のリフキンさんの偉業!

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2005.05.23

フィアット パンダ (3)

(昨日からのつづき)
SA51 足回りですが、ボディが軽いこともあって、かなりトコトコ?した感じです。懐かしい感じですね。カーブではかなりのアンダーステア。ロールも大きく、しっかりスピードダウンしないといけない。まあ、安全運転せよ、ということですからいいか。
 実はタイヤは代えてもらったんですよ。もともとは、155/80R13という信じられないようなタイヤを履いていました。試乗した感じは悪くなかったのですが、見た目にもどうにも不安な感じでしたので、ディーラーさんのススメもあって、純正(と言ってもプント用)のアバルト15インチホイールにピレリーのP6000を履かせました(185/55R15)。これはギャグですよ。パンダに真っ赤なサソリのホイールも笑えますが、やはり冷静に考えて大仰すぎる。見た目的にもかなり個性的になっちゃいました。まあいいか、変だから。
aba_aroih しかし、そのおかげで走りは見違えるほど…かと思うと、全然そんなことなくて、とりあえずフツウです。燃費は悪くなってるんじゃないのかな。とにかく子どもが大人用の靴を履いて走り回ってる感じ。かわいいですよ。
 というわけでして、走り全体としては非常に昔っぽいですね。懐かしい。具体的に言うと、私が最初に所有したあの名車に近い感じがします。私はその車がホントに大好きでした。今でも乗りたいと思います。それは、日本製パンダとも言われた(言われてないか)スズキの初代アルトです!あの車の感じにものすごく近い。いろいろな意味で。
6432 道具感とでも言うのかなあ。その後の日本車が避け続けてきた裸の車、車の裸の姿というものが、このパンダにはあるような気がします。ある意味本当の走り。かっこうつけず、ごまかさず、フォローせず。私は、こういう車と一体になって走るのが大好きなんです。自分が走ってる感じ。自分でかっこうつけて、ごまかして、フォローして走る。それが車を運転する楽しみだと思うのです。そういう意味で、このパンダは見事に私好みのようです。
 あっ、そうそう。車の保険屋さんのオバさんが、いろいろと手続きがあってウチに来たのですが、最初から最後まで完全に軽自動車だと思ってました。書類書きながらも気づかないんだから、そうとうに軽自動車然としているんですね。たしかにほとんど軽のサイズだし。チープさも確かに軽だ。しかし、明らかに現在の日本の軽とは一線を画する何かがありますよ。そこに気づいて、そこを愛せる人だけが乗るべき車なのかもしれません。
 また、近いうちに走り以外のことを報告できると思います。

フィアット パンダ (1)
フィアット パンダ (2)
フィアット パンダ(4)
FIAT Panda 公式

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2005.05.22

フィアット パンダ (2)

SA61 フィアット・パンダが我が家にやってきて、そろそろ1ヶ月。ふだん家内が使っているので、なかなか私は乗る機会がありません。今日ひさびさに私の運転でドライブしてきました。そこで、今日は走りのインプレッションを報告いたしたいと思います。
 まず結論。非常に私好みです。あくまで私好みというだけですよ。一般の方には、どうなんでしょう。
 エンジンは以前も書いた通り、とんでもなく古い設計の、何の変哲もない…いや今どきこんなシンプルな古典的エンジンないな、軽トラでもDOHCがあたりまえですから…SOHC8バルブ1200CCエンジンです。軽自動車より低スペックです。こういうエンジン、私も久々に体験しました。
 それがいいんですよ。低回転で安定したトルクを発生しますから、街乗りでは充分な力強さです。最近高回転型のエンジン搭載の車に乗ることが多かったので、これは逆に新鮮でした。全くクセがなく素直。そして静かです。
 ここでことわっておきますが、私は昔から異常に燃費にこだわる傾向があります。エンジンぶん回して極限に挑戦するというような運転には、あまり興味を持ってきませんでした。どちらかというと、どれだけケチケチ走るか、ということにこだわってきました。
 パンダの前に乗っていたプントは、DOHC1200CCエンジンに富士重工製のCVTの組み合わせで、街(と言ってもここは山?)乗りで15km/l、長距離(富士山から秋田まで)だと20km/lを超えてきました(低燃費エコモード)。
 では今度のパンダはどうでしょう。エンジンの特性もちょっと違いますし、ミッションはデュアロジック(オートモード付き5足マニュアル)です。こちらでも、私はエコモードでゆっくり走っています。かなり早いタイミングでシフトアップしていきますね。いいですぞ。5足へのアップだけは機械のタイミングより早めに手でやってやります。で、結果は、街(山)乗りで17km/l、長距離(富士山と静岡市を一般道で往復)で19km/lという具合でした。まあ充分でしょう。軽自動車よりは走ります。合格。
 ちなみにデュアロジックのシフトチェンジのショックは、まあ許せる程度です。マニュアル車のシフトショックと同じくらいでしょうか。ただ、慣れるまでは、いつそのショックがら来るかわからないため、ちょっとギクシャクした感覚がありました。マニュアルモードでは、それこそマニュアル車と全く同じ感覚で運転できます。でも、私だけでしょうかねえ、シフトレバーを進行方向に倒すとシフトダウン、手前に引くとシフトアップ、という感覚を持っているのは。実際は逆なんです。で、よく間違えます(笑)。プントでもそうでした。まだ慣れない。あと、シフトレバーが非常に高い位置にあるので、すぐ左手がかったるくなります。よって基本的にはオートモードで走ることが多くなりますね。(明日につづく)

フィアット パンダ (1)
フィアット パンダ (3)
FIAT Panda 公式

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2005.05.21

黒川ひとしピアノ五重奏団 結成五周年記念リサイタル

sa011 都留のうぐいすホールで黒川クインテットのコンサートを聴いてきました。
 黒川均さんは私の人生を変えてくれたミュージシャンです。御本人はそんな意識はお持ちでないと思いますが、そこがまた黒川さんらしいところです。人を動かすなにかをお持ちなんです。
 私ごとではありますが、20年くらい前、大学の構内で黒川さんに声をかけられたことで、私の人生は決定しました。あの時、彼が私に声をかけてくれなかったら、私は今の職場にもいなかったでしょうし、ということは、富士山に住むこともなく、カミさんと出会うこともなく、したがって子どもたちもいなかった…。不思議です。
 黒川さんは、当時活動していた地元のオケのトラを探していたのでした。そこにたまたまヴァイオリンケースをぶらさげた私が通りかかったのです。当然全くの初対面でした。30秒でもタイミングがずれていたら、私が楽器を持っていなかったら、この出会いはなかったのですから、縁というものは不思議なものです。
 その後は、音楽の面でもプライベートの面でもいろいろとお世話になりました。ちょっと最近御無沙汰していたので、今日は御挨拶も兼ねて出かけました。
 というわけで、今日のコンサート、大変楽しめましたし、勉強になりましたね。考えてみると、ヴァイオリニストとしての黒川さんとのおつきあいはずいぶんありましたが、本職?のジャズ・ピアニストとしての黒川さんを聴くのは実は初めて?
 でも、今日はジャズ・ピアニストとしてよりも、アレンジャーとしての黒川さんの実力と個性に感動しちゃいました。実際、ピアノは伴奏&指揮(つまり通奏低音か?)に回っていることがほとんどでしたし。私も若かったころ、黒川さんの編曲でいろいろな曲を弾かせていただきましたが、たしかに当時から独特の和声感覚とリズム感覚をお持ちでした。クラシックとは全く違う何かがありました。それが何だったのか、今日のコンサートでよく分かったような気がします。特に、プログラムの中心になっていたピアソラ。ここに彼の才能の全てが聴きとれたように思います。
 説明が遅れましたが、クインテットの編成は、ピアノとヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ベースです。それに昨夜は特別ゲストとしてドラムスが加わりました。この編成でのピアソラは、実に豊饒な響きで、まさに黒川編曲の真骨頂。彼の豊かな、そして個性的な人柄を表してあまりある出来でしたね。やはり、演奏以上に作曲(編曲)にはその人の人となりが表れます。
 演奏も全体として充実していましたが、ちょっと自戒の気持ちもこめて、感じたことを正直に書きましょう。ストリングスのお三人、クラシックの世界で大活躍の超実力者でいらっしゃいます。ああした方々でないと、あの複雑な楽曲を完璧には弾けません。しかし一方で、そのために失われたものもあるような気もしました。私もジャズやラテンをやると全く同じ状況に陥ってしまうわけですけれど、どうしてもクラシック畑の人間が楽譜を見ながら弾くと、たてノリになってしまう。スイングしないのです。1・2・3・4と数えてしまう。だから、アドリブ風の難しい部分を楽譜に従って弾くと、なんかクラシックのコンチェルトのカデンツァを弾いてるようになってしまう。しかめっつらで一生懸命ひいちゃうから、リズムも音もコワくなる。これは課題ですね。自分にとっても。
 ジャズ・ヴァイオリンでも、クラシックあがりの方はどうしてもカタい。だいぶ前に、同じうぐいすホールで、まだ無名だった寺井尚子さんを聴いたときですら、そう思いました。まあ、比較の対象がグラッペリだから、ちょっと酷かな。
 長々と書いてしまいましたが、それだけ、人生について、音楽について考えさせられたということです。とてもぜいたくな時間を過ごさせていただきました。黒川さんありがとうございました。

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2005.05.20

『J-POP進化論 「ヨサホイ節」から「Automatic」へ』 佐藤良明 (平凡社新書)

4582850081 この本も以前読んだものです。久々に出してきました。1999年に発行されてますから、もう6年近くたってるんですね。宇多田ヒカル降臨の衝撃が冷めやらぬ頃に書かれています。
 当時もかなり面白く読んだ記憶があります。ある意味、当たり前の流れの解説なんですが、やっぱり権威でしょうか、東大の先生がこういう分野について語ると説得力がある。実際よく勉強されてます。
 先生は、近代日本音楽の流れを「和」と「洋」と「黒」のせめぎあいとして捉えています。まあ「黄」と「白」と「黒」でもいいんでしょうけど、いやよくないか、とにかくその押し合いへし合いを、多くの楽曲(楽譜)をサンプリングして見せてくれます。
 やや、音楽的な知識を必要としますが(そりゃそうか、学問してるんで)、全体としては平易な語り口で理解しやすい内容となっています。ただ、私の知らないサンプル曲もけっこうあり、楽譜を提示されても頭の中で鳴り響かないことが残念でした。これこそCD付きで発売してほしかった。そうすれば、本当に多くの日本人に、教養としてのJ-POPという存在を認識してもらえたのでは。
 結局、音楽も、日本文化のご多分にもれず、外来のものを柔軟に取り入れ、それを独自の感性で消化していって自らの血や肉にしてしまった、ということですね。日本語が漢語や西洋語を取り込んで、しかし自然であるように。まあ、言葉と同様、旧世代は最新バージョンについていけなかったりしますけど。
 いつも思うのですが、西洋人がJ-POPを聞くと、どんなふうに聞こえるんでしょうね。やはりエキゾチックなんでしょうか。魅力的に聞こえるんでしょうか。それとも笑っちゃうレベルなんでしょうか。歌謡曲全盛時代から、コードは西洋風だけれども音階は和風というヤツがたくさんありますよね。最近でも、ヒット・メイキングの定石の一つとなっているようです。それが、純西洋人にはどのように響くのか。気になります。
 「スキヤキ」はなぜアメリカでナンバー・ワンになったのか。しかし「スキヤキ」はなぜオンリーワンなのか。二番煎じや二匹目のどぜうがなぜ存在しないのか。私はちょっと不思議なんですよ。
 日本におけるJ-POPはわかります。では、世界におけるJ-POPはどうなのか、そこを考えていく時代でしょう。美術や文学やアニメはそれなりの位置を築いていると思います。音楽はどうでしょう。残念ながら…。
 ところで、この本が書かれてからの、その後6年間、J-POP進化論は現在進行形なのでしょうか。私には歩みを止めているようにしか思えません。閉塞感すら感じます。メロディーを捨てて、それが「うた」なのでしょうか。カラオケで歌えない歌は「うた」なんでしょうか。ちょっとそんなことを考えてしまいました。この本でもすでにラップが語られています。みなさんはラップについてどうお考えですか。開音節の日本語はラップにならない(音符に乗れない)と思うんですけど…私は。せいぜい秋田音頭くらいでやめとけばよかったのに。
 いや、世界的に見ても行き詰まり感はまぬかれません。そろそろ大天才が現れるような気も…。ぜひそうあってほしいと思います。

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2005.05.19

『猫大好き!』(DVD) シンフォレスト

B00005ODLM ひたすら猫・ねこ・ネコというDVD。猫好きにはたまりませんが、猫嫌いにもたまりませんね。たまらない意味が違いますけど。
 私は猫好きですから、やっぱりたまりません。可愛いですよ、ホントに。癒されます。
 では、どんな猫DVDでも良いのかというと、ちょっと違うんです。実は他にもいくつか持っているのですが、やっぱりこれがダントツで優れもの。とってもよくできています。
 まず、ジャケットは別として、子猫の登場が少ない。本当の猫好きは子猫より大猫を好みます。子猫ばかりの甘甘映像をよく見かけますが(写真集も含めて)、あれは疲れますね。たしかに子猫は可愛いけれども、猫の本質を考えると、あれはホンモノではない。どの動物にも共通の可愛さでして、子猫固有のものではありませんね。
 猫の本質は、成長するにしたがって顕著になってきます。高僧のように微動だにしない猫。世渡りのために媚を売る猫。いろいろですが、とにかく犬にない精神性を発揮するのは、大人になってからです。
 そんな成猫の姿をこれでもかというくらい見せつけられるのが、このDVDです。基本的にはBGVですから、それは全体に可愛らしさ、美しさを追求していますよ。でも、飼い猫にせよ、野良猫にせよ、ここでは極力自然な姿を撮影しているように思われます。まずそこに好感が持てます。
 カメラワークや編集もなかなかのものです。安い粗悪なDVDなんか、ホントにひどいですからね。家庭用のDVカメラでいいかげんに撮って、それで家庭用のパソコンで適当につなぎました、なんてのはザラ。いくら980円でも許せませんよ。こちらさすがプロのお仕事です。それはそうです。CMなんかでも有名なコックスプロジェクトのお仕事ですからね。
 あと、音楽ですね。全体がライト・ジャズなのですが、このヴァイオリンはいったい誰なんでしょうねえ。とってもお上手なんですよ。クレジットされていないのがもったいないくらいです。BGMとしては最高の質だと言えましょう。
 というような感じで、とにかく環境映像、環境音楽として流しっぱなしにしてもよし、じっくり見てもよし、です。ハートフル・ストーリーや写真館などもオマケ以上の充実した出来栄えでして、3000円で80分、上質な時間を過ごせるという意味でも大おススメ。つまらんCDやら本を買うより、ず〜っと賢い買い物でしょう。シンフォレストさんの作品は、だいたい買って損しないような気もします。それなりのこだわりとプライドをもってお仕事しているのでしょう。
 それにしても、作品中に出てくる猫の島「イドラ島」…行ってみたいですね。まさに地上の楽園です。
 
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2005.05.18

『英語はいらない!?』 鈴木孝夫 (PHP新書)

4569613195 今日は5/18で後鳥羽上皇の日…てのは冗談。生徒は本気にしてましたけど。実際は「ことば」の日です。ちょっと無理がありますが、こういった語呂合わせは日本語に独特の文化の一つです。
 さて、その「ことば」の日にちなみまして、以前読んだこの本を、早朝から読み返してみました。気になることがあったからです。
 近ごろ、ウチのカミさんが、子どもに英語を教えるようになりました。自分の子どもにではなく、他人の子どもにです。けっこう色々なところでお呼びがかかっているらしく、教材づくりに一生懸命です。
 まあ、それ自体、つまりカミさんが英語を教えることは、そんなに問題ではありません。ただ、なんでそんなに需要があるのか。これは問題です。
 カミさんの話によると、子どもは遊び気分でやっているので健全ですが、親の姿勢はかなり不健全だそうです。不健全ということは、つまり病気だと。英語コンプレックスという病気が親たちに蔓延していると。
 この病気は、けっこう昔からありますねえ。私も軽症ですがかかったことがあります。結局、病は気から、ということで、開き直ったら治っちゃいました。
 ちなみに私は英語は基本的に得意ではありません。まあ、修学旅行でオーストラリアへ行ったり、ご近所のフランス人と飲み会で会話したりするくらいなら、なんとかパワーイングリッシュできりぬけられます。
 特に勉強しているわけではありませんけれど、必要なものは必要な程度、経験的に身に付きます。恥をかき捨ててるうちに。つまりこの程度でもちゃんと通じるじゃん、という自信。
 そして、とても強く感じるのは、中学までの文法力と、大学受験の単語力がいかに重要かということです。そして、あとは内容です。これは日本語の力です。国語力そのものです。そこは鍛えてますから。それがあれば恥をかく勇気もわく。
 で、この本では、国際的な右派?である鈴木孝夫大先生が、件の物の怪(病気)を退散させるべく、言霊を駆使して、過激に、しかしユーモアたっぷりに、加持祈祷を行なっております。
 これは効きますねえ。霊験あらたか。8カ国語(だったかな)をマスターしたマスターが「英語(イングリッシュ)はいらない!」、けれど「英語(イングリック)」はいらない?=ご入り用ならお使いになるとよろしいですよ」とおっしゃる。なるほど〜、それなら自分には「英語(イングリッシュもイングリックも)はいらない!」…使うことないもんなあ…まあ、使う時が来たらイングリックの方を少々…その瞬間病気は完治します。
 いるなら、必要な英語を勉強すればよい。それより、日本語を国際化させることにエネルギーを注ぐべきだ。その通りです。全く賛成です。
 全ての親がこの本を読んで、自分の子どもに、今英語を習わせるべきなのか、真剣に考えてほしいと思います。ほかに学ぶことがあるのでは?あくまで本人の意志で、そして趣味程度にやるなら全然構いませんよ。音楽なんかと一緒です。
 ちょっと前に、韓国での英語教育事情を扱ったドキュメンタリー番組を見ました。これはひどかった。なんにでも熱くなるお国柄ではありますが、いかんせん痛すぎでした。熱病に冒されてますよ。ああはならないように、ウチのカミさんには、親への教育もお願いしたいものです。

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鈴木孝夫先生と遭遇!

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2005.05.17

『禅入門―わかりやすい禅&坐禅』 淡交ムック (淡交社)

4473020827 昨日観た名作のおかげで、頭の中は無常観でいっぱい。やはり、ここは坐禅して「空」を観じなければ。
 そこで取りいだしましたのは『禅入門』です。この本に登場する平林寺で5年間修行されたお坊さんにお借りしているものです。この本のいいところは、普段は拝見することのできない僧堂での生活を、多数の写真で垣間見ることができる、これにつきますね。
 仕事柄修行生活のマネゴトはしたことはありますし、なんとなく憧れのようなものも持っていますが、実際お山に行けと言われたら、やっぱり逃げ出しちゃいますね。だからこの本を読んで、そして見て、ヴァーチャル出家するんです。
 さて、昨日からの続きで、この本を読んでいても、意識は「もの」を語って「こと」にすることに向かってしまいます。ブッダは、語りたがる…無常を常にしたがる、そういう人間の本能を否定し、無常を観じて煩悩の呪縛から自由になることを教えます。
 それを日々の生活の中で実践、実現していくのが禅ではないでしょうか。頭で考えるのではなく、実践することと一体となって感得していく。一体となっていくから、自分という殻が溶けて、世界と混じり合う。では、自分と世界が一つになるのかというと、決してそういうわけではありません。あくまで不二です。
 う〜ん、究極の問題解決法だよなあ。これ以上の策はありませんよ。文句ナシ。
 で、そんな究極のすべを実践するための環境として、洗練され尽くしたのが僧堂だと思います。そこでは、モノもコトも人もみな美しい。なぜなら、それらの区別がなくなっているから。素晴らしい。根本的な解決です。
 しかし、僧堂にいるわけにはいかない俗人は、こうはいきません。高僧なら、シャバでも「なりきる」ことができるそうですが、とてもとても私には…。まあ、日々のもろもろを一所懸命にこなせばいいのでしょうが、ハナっからそんな気はなく、楽しよう楽しようと思ってるし。
 というわけで、突然ですが、このブログを修行の場にしようと思います。いわば、問答ですよ。毎日のお題は「公案」です。そのお題と一体になる…公案参究。
 こうして毎日30分でも修行していれば、何かわかる時が来るかなあ。もし、これで悟っちゃったら、新しい宗派ができちゃいますね。もちろん冗談ですけど。どちらかというと煩悩が増殖しているような気が…。
 あっ、また話がそれちゃった。今日の公案、いやいやお題であるこの本です。サブタイトルにあるように「わかりやすい」ということに関して言えば、全く偽りなしです。プロの生活を身近に見るだけでも勉強になりますし、やる気がでますよね。それにしても、美しい世界ですね。写真で見るかぎりは(実情はいろいろあるようですけど)。

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2005.05.16

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』 押井守監督作品

B00006C1W0 雷に打たれてしまった。
 この歳になるまで、こんな世界があるのを知らなかった…それを今とても幸運に思っています。
 まずは、とにかく純粋に楽しみ、考えさせられ、感動し、とても興味をそそられました。
 もう充分に語り尽くされているので、軽々と分析するような作品ではないと思いますが、また得意の特異な視点からの感想でも書かせていただきましょうか。
 夢をテーマにしたすぐれた作品というのは、大昔からずいぶんとたくさんありますよね。ここでおススメしたものとしては、これらなんかが新しめの傑作です。夢を扱うとなぜ名作が生まれるのか。
 夢については私もずいぶんと考えてきました。押井さんの語ったことは、結局人間なら誰しも一度は考えたことがあるでしょう。しかし、ここで大切なのは、その「語る」という行為です。
 何度か少しずつ書いていますけれど、私は今、新しい「物語論」を構築中です。少しネタばらししますと、無常であり、消えゆくものが日本語の「もの」であると定義し、それを固定し、それに永続性を与える人間の行為を「かたる」と考えます。つまり「物語」です。そして、結果としてできあがった事象が「こと」です。
 「もの」の代表的なものは、人間の頭の中にある世界です。例えば記憶や夢、イメージや妄想…。それらがなるべく消えゆかないように、例えば私たちは「ことのは」というメディアを使ってきました。また、絵画や音楽、舞踏がメディアになることもあります。そして、現代では、総合的な映像作品が「語る」際の重要なメディアになっています。
 特にアニメーションの本質は、まさに無機な「もの」に生命(アニマ)を与え、有機的な「こと」として、世界に刻印することであると考えます。つまり、とってもシンプルに言えば、「夢」を「現実」にすることなのです。
 そういう現場で生じるのは、永遠性を獲得した歓びと、そしてその反面にある永遠性の哀しみではないでしょうか。変化しないことの美しさと醜さ。人間というのは勝手なもので、永遠性を本能的に求めつつ、いざそれを手に入れると、今度はそこに不満や不安を抱く。そうした自家撞着を、「うる星やつら」という素材と、「アニメーション」という技法によって、逆説的に描いたのが、この作品なのではないでしょうか。
 「もの」を支配する時間や空間から自由になり、「こと」が繰り返されていく。しかし結局はそこに安住したいとは思う人間はいない(宇宙人もかな)。だから、人は映画館で映画を観たりして、でも時間が来ると扉を開けてこちらの世界に戻ってくる。そんな人間の営為と、「もの」への愛着と、「こと」への憧れとが、見事に描かれていたと感じました。
 コメンタリーを聞いてみると、押井さんやスタッフのみなさんは、そんなことを考えないで制作していたようですけれど、それはそれで当然です。押井さんはやりたいことをやっただけ。スタッフはしめきりに追われて仕事をやっつけただけかもしれません。しかし、そんなある意味自然な行為に、人間と世界の本質が宿っている。
 ただ、押井さんのやりたいことのレベルと、スタッフのやる気(エネルギー)のレベルが、我々凡人のそれよりも高かった。また、原作者は不満だったかもしれませんが、やはりアニマを与えられたキャラクターたちのレベルが高かった。そういうことではないでしょうか。
 思わず生徒に見せてしまいました。そして、「中間テストはこれ!」と言ってしまいました。いや、ホントへたな小説読むよりずっと勉強になりますよ。あまりに本質的です。自分の命(人生)にかかわる問題ですから。
 これを観ると「イノセンス」も同じテーマを扱っているのだと理解できます。今日は偶然、同僚から大量の「攻殻機動隊」「パトレイバー」関係資料を借り受けました。時間をかけてゆっくり観ていきたいと思います。いやあ、ホントすごい作家さんですわ。
 追伸 他にもいろいろ言いたいところですけど、最後に一言だけ。コメンタリーでこれについてのエピソードが聞けたのが違った意味で収穫でした。ああ、楽しかった。あと、生徒が「あり・をり・はべり・いまそかり」で笑ってくれてちと安心。

Amazon うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

その他のうる星ネタはこちらでお読み下さい。

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2005.05.15

TU-MHD600(地上・BS・110度CSデジタルハイビジョンチューナー)

xsw ウチのテレビ環境はかなりひどい。今どき珍しいくらい。妙なこだわりがあって、自宅の屋根に八木アンテナを立てたくないんですよ。美観的に。そんな主のわけわからんこだわりのために、我が家の他のメンバーたちは、人並みにテレビを見ることができないのです。ああ、不幸な一家。
 具体的に言いますと、テレビはもらいものの25インチ(かな?)。もちろん、ワイドなんてのじゃありません。いちおう平面ですけど。もちブラウン管ですよ。当然です。その上に室内アンテナがあります。そう、あのいかにもダサいやつです。全然美的じゃない。
 それで、地元の放送局を受信しているわけです。ここ山梨では、CATVの普及率が昔から異常に高く、またその気になれば東京の放送も受信できるので、地元の民放は苦戦を強いられています。今どき、ローカル局が二つしかないなんて県、ほかにあるのかなあ。で、それらとNHKですね。しめて4チャンネル。民放は、日テレ系とTBS系ですから、まあテレ朝とフジとテレ東の番組は見れないんすよ。
 私はNHKがあればいいやという人間なので全然OKなのですが、子どもたちはちょっと辛そうです。友達と話が合わない。地元民放でもテレ朝やフジやテレ東のアニメなんかやりますけど、なにしろ2ヶ月遅れなんてザラですからね。そりゃあ可哀想だ。
 プリキュアは地元民放でやらないので東京の放送を見るんですよ。今朝も見ました。室内アンテナで東京の放送を受信するんです。気合いで。ものすごい砂の嵐の中でプリキュアが戦う。まるでイラクでの戦いのようです。それでも子どもたちは必死に見る。すごい集中力で見る…。
 まあ、そんな集中力を養うにはいいのかもしれませんが、さすがにちょっとかわいそうなので、砂の嵐から一気に解放してあげようかな、なんて思ってデジタルチューナーを買いました。ある筋から、新製品を格安で譲っていただいたんです。
 えっ?でも、山梨で地上波デジタル放送が始まるのは来年では?そう、そうなんです。とりあえず今はBSデジタルしか見れません。だから私にはものすごいメリット(NHKハイビジョンとかWINJ?とか)があるんですけど、娘たちにはほとんどどうでもいい番組ばかりですよね。時々アニメやってますけど。今日もハム太郎見てました。今まで見たこともないような鮮明な画像に戸惑ってました(笑)。
 ちなみにテレビ自体はハイビジョンではありませんが、画面サイズが小さいので、充分ハイビジョンと同じくらい鮮明に見えます。大画面は離れて見るので、結局みかけの解像度はノーマルとあんまり変わらないんですよ。御存知でしたか?デジカメのプリントと同じような現象です。小さいほうがきれい。
 で、で、ですねえ。実は私にはある魂胆があるんですよ。それは…何やってんだかって言われそうですけど…東京の地上デジタル放送を、ここ富士山で受信しちゃおうと計画してるんです。いろいろ調べて、どうもここなら可能であろうと。理論的にはフルパワー送信が始まれば、ギリギリ大丈夫だろうと。もし実現すれば、最遠受信記録になるでしょう。
 こういうのって燃えちゃうんですよね。いちおう子どもとカミさんのためとか言いながら、実は自分のマニアックな楽しみのため。小学生のころベリカード集めてましたけど、そんな感じなんでしょうな。これは男の本能です。引っかけてうまく釣れた時の悦び。とにかくこれから綿密な計画を立て、挑戦していきますよ。また報告しますね。

受信成功!

Panasonic 地上・BS・110度CSデジタルハイビジョンチューナー TU-MHD600

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2005.05.14

うど&よもぎの天ぷら

040061 今日は友人たちと軽く飲み会を開催。楽しい時間を過ごしました。
 本日のカミさんのメイン料理は、「うど」と「よもぎ」の天ぷらでした。素材はもちろん、庭にはえている自家ものです。
 うど、よもぎ…両方とも現代人にもなじみのある山菜の代表格ですね。と言っても、この季節、両者とも都会のスーパーでも売ってますし、いや、それ以前に都会の庭先にもフツーにはえていたりしますから、山菜だという意識を持っていない方も多いのでは。まあ、野草っていうところかな。
 うどは「ウドの大木」なんて言われますが、だいたいが「木」じゃないんですよね。草です。しかし、たしかにウチの庭のウドくんもいかにも大木になります。高さ2メートル超えるんじゃないでしょうか。ものすごい成長の早さですからねえ。1日で10センチ伸びるなんてのは当たり前。ものすごいエネルギーです。
 だから「ウドの大木」なんていうのは失礼なんですよ。うどはものすごい生命力を持っているんです。ということは、強力な薬草であるということです。実際、自生もの、つまりヤマウドはすさまじい薬効を持っています。風邪、頭痛、神経痛、などの特効薬である上に、滋養強壮、精神安定の効果も抜群だそうです。特に精神安定作用はかなり強力だとか。生食もできますから、ちょっとイライラしたり、不安がある時、ストレスがたまった時なんかに、つまんで一口いかがですか。薬効のわりにスッキリした味ですし。天ぷらも意外にあっさり味で、たくさん食べられますよ。
 よもぎの方は、もちろん餅にしても美味ですけど、あえもの、炒めものにしてもグー。天ぷらの場合は、アク抜きしなくていいので、摘んですぐに揚げられます。あの独特の芳香が見事にとじこめられて、それはそれは極上の味わいですよ。薬効ですが、私の経験上、とにかく便通がよくなりますね。すっきりします。ちょっとたまり気味という方、試されてみては。腸内のお掃除をしてくれますよ。あっ、あと今年初めてやってみようと思ってるのは、よもぎ湯です。気持ち良さそうでしょ。
 うん、こう考えるとホント身近なところに薬があるんですよね。それもおいしい薬が。医者や薬局に行く前に、庭の草木に目を向けてみるのもいいかもしれませんね。私もせっかくこういう所に住んでいるのですから、もう少し勉強してみますわ。

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2005.05.13

『イノセンス』 押井守監督作品

B0000APYMZ CASSHERNガーフィールドとともに、フォトグラファーさんから借りた作品です。ここでも全くのシロウトがこういうマニアックな作品を語ることをお許し下さい。
 まずお断りしておきますが、私はGISは観ておりません。また、攻殻機動隊の原作も読んでおりません。ですから、ここに書く私の感想は、まさに根も葉もない私的なモノです。ご了承を。
 まず結論から。結構楽しめました。こうして、ガーフィールドとイノセンスを続けて観ると、キャシャーンの特殊性がはっきりわかりますな。ストーリー・テリングの方法はいろいろでしょうけれど、やはりそこに巧拙はありますよ。アイデアばかりが先行し、やりたいことを盛り込んでばかりで削る努力をしないと、あのようになってしまうのでしょう。その点、さすが押井さんは百戦錬磨。うまいこと全体のバランスをとっていました。
 あとは、日本語でしょうね。名言箴言を引用しまくるという、ある意味禁じ手を使っているとは言え、やはり言葉自体は重く深いものですから、キャシャーンとは大違いでした。脳内で文字にも変換されないようなお言葉もずいぶんありましたけど(劇中のように、脳内で外部ネットワークを検索できればなあ)、響きだけでも充分耐えられました。
 CGについては、基本的に私は古い人間ですので、ちょっと抵抗がありましたね。アニメの部分とのマッチングの悪さ、いや、それがたぶん技法や表現になっているのでしょうが、やはりちょっと辛かった。
 私は、人間の脳内イメージというのは(特に夢や過去の記憶は)、静止画の集合体であると考えています、というか実感しています。ですから、アニメや映画は当然しっくり来るんです。CGはその点どうも気持ちが悪い。フィルムチックに、あるいはアニメチックにすることは簡単なはずですし、将来はそういう方向に進むと予想していますが、現段階ではリアルさの追求が結果としてウソ臭さを生んでしまっている。今CGは、草創期であるとともに既に過渡期であると思うのです。実写やアニメと絡ませるのなら、当然そちらへ歩み寄る必要があるでしょう。
 新しいことができるようになる、すなわちできることが多くなると、人間は喜び勇んでそれをフル活用しようとする。人類的規模の若気の至りです。クリエーターたちが年をとれば、自然と自然な方向、つまりメディア本位ではなく人間本位の本道に戻ることでしょう。
 さてさて、この作品を観て、シロウトの私が最も強く思ったことは、なぜ、アニメ的世界では未来はあのように描かれるのかということです。つまり、レトロ・フューチャー的イメージ。そして、アジアン・テイスト。千と千尋しかり、キャシャーンしかり、このイノセンスしかり。漢字満載の謎の未来空間です。これは実に興味深い。日本人の歴史観、文化観にかかわることだと思います。
 不思議なものですね。それまでのウン千年間の記憶なのでしょうか。文化は西からやってきた。大陸からやってきた。縄文文化に突然漢字の大群が押し寄せてきた。超先進国、超未来がやってきた。西欧化したのはここ百年そこそこ。西欧はとっくの最近(?)、日本の現在になった。もう未来ではありません。そんな時、潜在意識の底流から吹き出すイメージは、やはり西の隣国…。
 あっ、最後に、これに似たイメージを見出したのは私だけでしょうか。

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2005.05.12

『ガーフィールド ザ・ムービー』 ピーター・ヒューイット監督作品

B00067HCXA 『CASSHERN』と一緒に借りたこの「ガーフィールド」。見事にキャシャーンと対照的な作品でした。うん、この組み合わせは良かった。両者の特質が際立って見える。
 アメリカのアニメや映画では、だいたい猫は悪役。顔つきもキツくて可愛くないキャラがほとんどです。このガーフィールドもいや〜な顔してます。ただ、性格的にはわがままでキツくても、なんか憎めない存在なんですよね、アメリカの猫たち。たぶん、そういうアメリカ人の象徴として描かれてるんでしょうな。犬は従順ですから、アメリカ人ではありません。猫は個人主義です。だからその描かれ方には、アメリカ人自身とともに、彼らが個人主義とどうつきあっていくか、個人主義の集合体にいかに社会的な温かみを見出すか、といったような、そんな潜在意識が見え隠れしているように思います。
 さてさて、映画でのガーフィールドは、原作のコミックやアニメよりかなり柔らかくなっていますね。原作コミックはどちらかというと大人向け。ブラックジョーク満載です。映画ではファミリー向けになっています。これもキャシャーンと全く逆です。キャシャーンは家族と一緒に観れません。
 あと、キャシャーンと逆と言えば、CGのあり方です。キャシャーンでは主人公たる人間たち(新造人間もいますが)が実写。その他はほとんどCG。ガーフィールドでは基本的に主人公だけがCGで、あとは実写。このコントラストは面白いですよ。両作品をそれぞれ逆の手法で製作するのはほとんど不可能でしょ?内容と技法の関係、あるいは技法と内容の関係を考えてみるのも面白いですね。一方で、演技する生身の人間にとっての難しさは同じかもしれないですしね。ジョン役を大滝秀治がやったとしたら(笑)、やっぱり「どうしたらいいかわからない」でしょう。
 内容のコントラストは説明するまでもないですね。とにかくガーフィールドの物語は、伝統的な予定調和の世界であり、だからこそわかりやすく、ハートウォーミング。普遍的であり、安心である一方、挑戦や革命はありません。
 まあ、ガーフィールドは、作品全体がピクサーに対する風刺になっているとも言えますけど。それはそれでかなりピリ辛かも。 
 私は吹き替え版で観ましたので、ガーフィールドの声は藤井隆くんでした。あっ、乙葉さんとのご婚約おめでとうございます。最近、お笑い芸人はおいしいとこどりしますね。名倉しかり、ウッチャンしかり、あとスピードワゴンの井戸田さん?たしかに彼らはそれなりの才能と人柄をお持ちですからね。おっと話がそれた。藤井隆くんもなかなか頑張ってましたよ。一生懸命さ、まじめさが伝わってきました。ただ、ビル・マーレイの吹き替えっていうのは、きついっすよね。私はビルの声では観ていません。もうすぐ、特別編が発売になるようなので、買ってみますわ。
 いずれにせよ、キャシャーンとの抱き合わせで貸してくれたフォトグラファーに感謝します。とってもナイスなカップリングでした。

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Amazon ガーフィールド ザ・ムービー 特別編

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2005.05.11

『よみがえるカリスマ平田篤胤』 荒俣宏・米田勝安 (論創社)

4846001814 最近の、私の師匠は平田篤胤さんですね。平田篤胤というと、歴史の教科書なんかでは、単に国学者として紹介されてますよね。一方で、日本の右傾化のタネをまいた張本人みたいに言われることもあります。残念なことです。
 実際には、国学はもちろん、神道、仏教、儒教、道教、神仙道、キリスト教、天文学、暦学、地理学、医学、蘭学、物理学、兵学、易学、ラテン語、オランダ語、英語、神代学、哲学、妖怪学、霊学…、とにかくルネッサンスの天才顔負けのマルチぶりなんですよね。それでいて、それぞれの分野の研究が一級レベル。頑固な反面、人々に愛される一面もあったりして、もうホントに尊敬します。
 私と平田篤胤との出会いは、神代文字を通じてでした。神代文字なんて書くと、ああトンデモかあ、と思われそうなのですが、そう、何度も書いたように私はトンデモです。
 開き直ってるわけではありませんよ。トンデモを単なるトンデモとして排除できないタチなのです。そういう性格なんですな。これは遺伝だったようです。最近知りました
 ちなみに、神代文字については、私は完全に存在したという立場に立っています。理由を述べると長くなりますから、ここには書きません。ただ、神代文字否定の根拠の一つとされてきた「上代特殊仮名遣い」論が、最近になってかなり揺らいできていることは、私にとって楽しい傾向です。
 さあ、そんな神代文字の存在を頑なに信じ、その点についてだけは、尊敬する師匠と真っ向から意見を異にした男、それが平田篤胤です。その師匠とは言うまでもなく、あのカリスマ本居宣長センセーです。あの人に歯向かうなんて…怖くてできません。ま、その時には師匠はもう亡くなってたんですが。息子さんとやり合ったのかな。
 この本は、そんな篤胤さんの業績と人となりについて、篤胤のご子孫であられる米田勝安さん(この方もカリスマですね)と、現代の篤胤(?)であられる荒俣宏さんとが対談する本です。対談ですし、篤胤シンパのお二人によるものですから、当然楽しくエキサイティングです。客観的、中立的とは言えませんが、これから篤胤ファンになってもいいな、と思う人にとっては、格好の入門書となるでしょう。
 お二人は、篤胤こそ21世紀によみがえるべきだ、彼こそカリスマだ、と述べておられますが、私も完全に賛同します。エネルギッシュで集中力があり、こだわりつつ自由…あれ?やっぱり、これって、もしかして…、オ・タ・ク?
 今気づきました。まじめに。やっぱりなあ。これからはオタクの時代、というより、オタクの復権の時代なのです。

Amazon よみがえるカリスマ平田篤胤

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2005.05.10

『CASSHERN』 紀里谷和明監督作品

B0001A7D0O ご近所にお住まいのプロのフォトグラファーの方が、昨日DVDを貸してくれました。時代の最先端、商業写真の世界で大活躍している彼が、「これはすごい!」と太鼓判を押してくれましたので、期待をして観ました。
 一方では、世間であまりに「酷い」と言われているのを知っておりましたから、ちょっと怖いもの見たさの気持ちもありましたね。
 私はまず、メイキングを観ました。その方がきっと肯定的に観ることができると直感したからです。その判断は大正解でした。結論から言ってしまうと、私にとっては本編よりもメイキングの方が単純に感動したのです。まず、その話からしましょうね。
 紀里谷監督、この人は天才でしょう。映像に関しては。あれだけの豊かなイメージを頭の中に作り出し、そしてコンテを描き、実際にキャメラを構えて撮影し、CGを作って編集して具現化していく。まさに「もの」の「こと」化を一人の脳ミソでこなしていく、その能力たるや、これはマジで尊敬します。若いのに偉いなあ。自分より年上の超一流スタッフを納得させ、操り、まとめあげていくわけですから。とてもとてもマネできませぬ。だから尊敬。さすが宇多田が選ぶ男だ!
 ものすごく惹きつけられ、時間の長さを忘れて見入ってしまいましたよ。このメイキングには、新しい映像文化の息吹が感じられました。保守的な映画の現場も、こうして変わっていくのでしょう。
 というわけですが、さて、これは映画の現場なのでしょうか?ものすごく根本的な疑問が湧いてきます。では、本編を観てみましょう。今日は生徒と一緒に観賞しました。
 う〜む、結論!これは映画ではない。映画であるのかもしれませんが、いわゆる旧来の映画の枠を完全に突き抜けています。映画に見える時もありましたが、私にはほとんどPVであったり、ゲームであったり、アニメであったり、コミックであったり、オペラであったり、絵画であったり、見世物小屋であったり…。物語があるようで、実はなかったり、コテコテのメッセージ性があるようで、実は薄っぺらだったり、何度も観ないと解らないようで、実は何度観ても解らなそうであったり、重そうで軽かったり、深そうで浅かったり、上手そうで下手だったり、美しそうで醜かったり、かっこよさそうでかっこわるかったり、オシャレなようでダサかったり…。
 つまり、名作のような駄作なのか、駄作のような名作なのか、どっちかわからないんです。ただ、誰もやっていないことであるのは確かですし、大変な力作であるのはわかります。でも、なんだろう、結局自分がついていっていないのだと思います。生徒も呆気にとられていました。
 これはたぶん、10年後に再評価されるべき作品でしょう。おそらく、とんでもなく高い評価を得ると思います。つまり、専門家や好事家やオタクたちが10年かけて分析し、解釈するだけの価値があるのです。
 これは寺山修司でしょう。近いものがあると感じました。そりゃあ、賛否両論ですよ。
 面白かったのは、メイキングでの大滝秀治とミッチーの発言のコントラストです。グリーンバックに囲まれて演技をするベテランと若手の対照的なコメント。私はやはり大滝さんに共感してしまいました。ついに私も年寄りグループに配属決定ですか。
 そういう意味でも、この作品は踏み絵ですね。アマゾンのレビューが抜群に面白いですよ。みんな踏みまくってます。
 ただ、一言苦言を。脚本の日本語が貧弱すぎます。これは10年後にも笑われるでしょう。コミック、アニメのレベルにも達していません。残念です。

Amazon CASSHERN

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2005.05.09

『e名刺.com』(名刺交換サイト)

azxs 大学時代の悪友がかかわっているサイトです。なかなか面白そうなのでおススメします。
 名刺という文化は、日本独特のものです。まあ、欧米にも calling card とか visiting card とかありますけど、あれは文化とまでは言えませんね。単なる事務的な道具の一つです。callingとかvisitingのためのメモですからね。
 日本の名刺には魂が宿っています。言霊でしょうか。だから、名刺交換は儀式になります。まさに名刺は「いただく」ものなのです。名刺をぞんざいに扱うことは、その本人をぞんざいに扱うことになります。
 1枚の名刺が、社運を、また個人の人生を変えるということはよくあります。だから、名刺には「魂」がこもります。そういう意味では、符札に近いものとも言えるでしょう。
 高度情報社会になっても、名刺はその霊力を失いません。機能だけを追求するのなら、CD-ROMやフラッシュメモリーでもいいわけですが、実際には、今日も何十万枚もの古典的なメディアが交換され、そしてその数だけ儀式も執り行われているわけです。面白いですね。
 そうした日本人の心情は、名刺を名紙と書かないことにも表れているように思います。本家中国ではすでに名片と書くようですが、日本では「とがった木片・竹片」という意味の「刺」の字を使います。魂のこもったモノや風習の名を、それこそぞんざいに扱ってこなかった証拠でしょう。
 まあ、そんな蘊蓄はいいとして、名刺ドットコムです。そんな名刺文化と高度情報社会の対立的にも見える関係に、新しくて古い発想を持ち込んだのがこのサイトです。簡単に言うと、名刺をパソコンの画面上に陳列する、その中で気になる名刺はダウンロードできる、というようなサイトです。
 私はこういうハイテクなローテクというか、デジタルなアナログというか、こういうハイブリッドが好きですね。実際、私のサイト不二草紙も、基本的にはディスプレイ上に紙の本を再現することをコンセプトとしています。旧来の風合いを大切にしつつ、検索やリンクという便利な仕掛けを組み込んでいく。違う言い方をすれば、極端を避け中庸をとる、美味しいとこ取り、そんな感じです。
ncv で、e名刺.comですが、名刺という魂のこもった古来のメディアの風合いを、ヴァーチャルとは言え、イメージ名刺としてしっかり扱っているところが素晴らしい。右が見本の画像です。clickしてください。欧米人にはぜったいに理解し得ない妙計ですね。彼らなら、ただ無味乾燥なデータと、せいぜい自分の顔写真くらいを羅列するだけでしょう。
 だいたいがこのサイト、この個人情報保護の大潮流に逆らっているところがすごすぎます。鮭の遡上にも似たパワーを予感させます。なんでわざわざそんなことするの?答えは鮭に聞けばわかります。あえて逆らう価値は貴重です。
 私もいずれは登録しようと思うのですが、はて、自分はどのジャンルに登録すればよろしいやら。ああ、アイデンティティーが揺らぐ…てか、そんなもんない。
 それにしても、今月の新着が素晴らしいですねえ。私の大好きな大日本プロレスのレスラー勢ぞろいぢゃないですかあ。そして、もう一人が占い師。いいですねえ。こういう方々がたくさんお集まりになられますと、楽しい活気のあるサイトになるでしょうね。

e名刺.com

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2005.05.08

「大村はま〜わくわく授業 わたしの教え方」(NHK教育)

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 恩師大村はま先生がお亡くなりになってから、もう3週間近くたってしまいました。ようやく私の心も落ち着いてきました。その間、いろいろと考えることもありました。そうして思いをはせるたびに、背筋のピンと伸びるような感覚がよみがえります。大村先生の授業を受けたり、また、休み時間にお話しをしたりする自分は、たしかに普段と違った自分になっていたと思います。師とはそういうものなのだと、改めて感じているところです。
 ラ・トゥール展を観に行った日の朝、この番組が放送されていました。私はその時も見たのですが、もうただただ涙が流れるばかりで、その気持ちを表現する言葉が全く出てきませんでした。だから、ここにも書けなかったのです。
 昨日の深夜、その再放送がありました。今日の朝、それを見て、再び涙を流しました。私などにいったい何ができるだろうか。でも、なんとかして恩に報いたい。私は私なりのやり方で、大村先生の教えの、そのほんの一部でも伝えていきたい。そんなことが心に浮かんだ時、大村先生が、あの優しい指で、私の背中を押してくれたような気がしました。
 今日は、番組で紹介されていた先生の最後の詩を、ここに記しておきたいと思います。私からは何も言うことはありません。

優劣のかなたに     大村はま

優か劣か  
そんなことが話題になる、
そんなすきまのない
つきつめた姿。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り、
生かし切っている
そんな姿こそ。

優か劣か、
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり
教えひたっている、
そんな世界を
見つめてきた。

学びひたり
教えひたる、
それは優劣のかなた。
ほんとうに持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない、
優劣を忘れて
ひたすらな心でひたすらに励む。

今はできるできないを
気にしすぎて、
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。

成績をつけなければ、
合格者をきめなければ、
それはそうだとしても、
それだけの世界。
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。
 
学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。    


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2005.05.07

森洋子さん、久保田潤子さんコンサート&ETV特集「ヨーヨー・マとシルクロード・アンサンブルの仲間たち」

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 今日は、日頃お世話になっている森洋子さんのお宅で開かれたコンサートに行ってきました。森さんのチェンバロと久保田潤子さんの歌とハープによるイタリアものです。
 イタリアバロックは、ある意味最もバロックバロックしていますから、私たち日本人としては、かなり思い切ったことをしなければならないと思います。ある時は清澄に、ある時はドロドロと、とにかく日本人にはちょっとオーバーアクションと感じられる位、突き抜けた演奏をしなけれはなりません。特に、今日のライヴのテーマは「愛の神のいたずら」ですから。これは躊躇していてはいられませんね。
 と言うわけで、今日のライヴは、その点とても充実したムードを醸していたと思います。小さな会場で、まさに演奏者の息のかかるような空間であったのも幸いしたのでしょう。バロック本来の劇的な空気が生み出され、魅惑的な時間に満ちていました。適度な即興性も功を奏して、まさにライヴな、生き生きとした音楽が立ち現れていました。
 とは言え、実は私は子守りのため、隣の隣の部屋で聴いていたのですが。それでも、今言ったような雰囲気は手に取るようにわかりました。廊下を通じて、音と空気は充分その部屋にも伝わってきていましたし。子どもが眠っていたので、その部屋の灯を消していたのですが、窓から見える星々を眺めながら聴く、遠い異国のいにしえの音楽も、また一興。こういう経験はそうそうないでしょうから、ちょっと得したような気もしました。ハイ。
 さて、そんなふうに音楽の不思議、歴史の不思議、民族や言語の不思議などをぼんやりと考えながら家に帰りましたところ、ちょうどNHK教育でヨーヨー・マのドキュメンタリーをやっておりました。それが実にタイムリーな内容でして、西と東の音楽を結びつけようとするヨーヨー・マの崇高なまでの度量の大きさと、彼をとりまくアジアの名手たちの重い言葉に、深く感じ入ってしまいました。
 誰が何と言ったかは詳細には覚えていませんが、心に残ったところを無理やり括ると、「音楽に東も西もない。音楽は世界の共通語である。いろいろな角度からものを見るという寛大さを持つべきである。音楽(特に即興)を奏でている時、自分の意識がどこにあるのか分からなくなる。それが生きていることを実感する最高の瞬間である。芸術に接する時、人は大地から生まれたことを知り、そのことにより善良になることができる。その手助けをするのが音楽家の役目だ…」こんなところでしょうか。
 全くその通りであり、我々人間が勝手に考えている、国境や時代や常識や宗教や、その他もろもろのものが、実は自分たちの視野を狭め、人間本来の創造性を失う原因にすらなっている…。そうすると、今日のコンサートで、現代日本人である森さんが、日本の着物を着て、17世紀のイタリアの音楽を奏でたことも、全く不自然なことではなく、そうした、それこそ「縁」によって、私たちも、また音楽自身もより深く大きくなっていくのではないでしょうか。その方が本来であり、その本来を受け入れるマのような心の広さこそ、これからの地球人に必要なことではないでしょうか。そんなことを考えました。
 本当にありがたいコンサートであり、テレビ番組でありました。

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2005.05.06

『萌えキャラを描こう!』 しらゆき昭士郎, 西E田, じじ (銀河出版)

4877770690 また部外者の戯れ言で申し訳ないのですが、これにはかなりビックリしました。これは記号論の本ですよ。はずかしながら感動すらしました。
 「萌え」の分析は、今私の中でのブームになっています。文化としての「萌え」、言葉としての「萌え」、いずれにせよ、少なくとも奈良時代から連綿と続いているように感じるからです。日本文化の基底に迫るには、避けて通れない部分だと思います。
 たとえば、枕草子における「をかし」。これは明らかに「萌え〜」ですよ。「趣がある」なんて訳すからダメなんだって。その点、橋本治さんが「ステキ」と訳したのは、彼ならではの先見の明と言えます。ただ、その頃は残念ながら「萌え」という言葉がなかった。今の私が「オタク語訳枕草子」を書くとしたら(ってなんじゃそりゃ)、「春はあけぼのが萌え〜」ってしますね。だって、「春はあけぼの」って、かなりマニアックでしょ。「春は宵」がマジョリティーですから。もうかなりオタク文化入ってます。しかも女流のオタクだあ。
 まあ、そんなこんなで、最近は「オタク」「萌え」が研究対象として私を魅了しているのです。
 今日、千葉大に入学した卒業生が遊びに来ました。彼は自他共に認めるアニメ&ゲームファン、すなわちオタクです。当然のごとく「アニ研」に入部したそうです。そして、彼が持ってきた本、それはアニ研のテキストのようなものらしいのですが、その素晴らしさに感動してしまいました。はい。
 内容はタイトル「萌えキャラを描こう」そのまんまです。し、しかし、その深さたるや、完全に芸術としての絵の描き方、観賞法と同じレベルです。いや、記号論的にはそれ以上の鮮明さがありました。
 体全体のバランスや顔の構成についてはもちろん、髪の毛のはねる方向や身につけたグッズのあり方、しゃがむ角度から周囲の登場人物にいたるまで、それぞれが、どんな性格や感情を表すのか、実に詳細に解説されているのです。これは本当に見事な記号論です。
 ある程度、こういう世界の深さ、厳しさのようなものは予想していました。プロの世界のすさまじさですね。その世界の方々からすれば、当たり前のことでしょうけれども、私としては、こうやって受け手である私たちの中に「キャラクター」が産み出され、私たちの「感情」も作り出されるのだということに感動しましたね。あらゆる芸術、あるいは商業的なモノは、こういった記号性をはらんでいるわけですが、それが非常に強調され、デフォルメされた形で表れているのが、こうした「萌え」系マンガやアニメの世界なのですね。
 実は、同僚および教え子たちと、あるアイデアをもって、3000億円とも言われる「萌え」市場に殴り込みをかけよう、なんて妄想していたのですが、これはちょっとシロウトには無理ですな。プロの世界を知ると、もうお手上げです。でも、まだあきらめませんよ。一獲千金のために勉強しますか。

Amazon 萌えキャラを描こう

萌え論再び
萌えてはいけない。

『をかし』の語源…『萌え=をかし論』の本質に迫る!

ツンデレ論?

「物語(モノ・コト)論」「萌え(オタク)論」

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2005.05.05

『世界思想の源泉』 木村鷹太郎 (香蘭社)

511gishi4 またまた出ましたキムタカのレアもの。以前紹介した『希臘羅馬神話』も、トンデモないシロモノでしたが、こっちはもっとすごい!?ウチの祖父はいったい何を考えてこれらの本を買ったのでしょう。いちおう高校の社会科の教員だったんですけど。
 というわけで、一昨日、久々に焼津の祖母宅を訪れ、亡き祖父の書棚を漁っておりましたら、こ、こんなものが…。昭和3年刊の初版本のようです。う〜む、生前の祖父とはこんなようなことに関して、全く話をしませんでした。実はその他の蔵書も、なかなかのマニアックぶりで、私のセンサーに引っかかるもの多数、私のトンデモ癖のようなものは、実は祖父から受け継いだものだったようです。感無量。
 『希臘羅馬神話』の方にも書きましたけれど、木村鷹太郎のいわゆる「新史学」というヤツの基本にあるのは、徹底的な中華思想です。中華と言ってももちろん中国のことではありませんよ。自国中心、自国優越史観です。
 ちょっと調べて驚いたのですが、キムタカさんは、明治学院大学をクビになって東京帝国大学に入り直し、卒業後は、抜群の英語力を生かしてバイロンやプラトン全集を翻訳したり、与謝野鉄幹・晶子の媒酌人をしたりと、いちおうフツウの世界でもそれなりの評価を得た人なんですね。それが、なにかに取り憑かれたかのように、新史学という妄想世界に暴走しはじめるのです。そんなステキな暴走の成れの果て、晩年に著したのがこの『世界思想の源泉』です。
 で、内容ですが、とても全部読めません。頭がおかしくなってきます。最初の内は面白くて腹を抱えながら読んでいられるのですが、じきに頭を抱えるようになってしまいます。世界史に名だたる西洋の偉大な思想家たちは、実は全て日本人であり、その名や思想が西伝して現在に伝わっているのだ、それは疑いようがない、疑う者は我の証明を見よ、どうだ、日本人よ、自信を持ちなさい、世界の中心は日本なのだ!…終始こんな調子です。
 目次を見るだけで興奮しますよ、きっと。ここでは、その一部、有名どころを抜粋しましょう。
 アナクシメネース=最澄 
 ヘラクレイトス=空海
 ピタゴラス=円仁
 ソークラテース=日蓮
 アリストテレース=山鹿素行
 ピルロー=兼好
 えっ?もう頭痛いって?だめですよ。キムタカの証明を読んでからじゃないと。
 彼の証明は、基本的に全て語呂合わせです。次の抜粋を読んで、あなたは、腹と頭と、どちらを抱える?
『元來耶蘇(教)とはイエス、イヤス、即ち「癒やす」、「醫やす」、「安す」を意味する日本語同語であり、クリスト(基督)とは實は「クスリスト」即ち「藥者」醫者のことであるから、耶蘇は人の心身を醫やすこと、又た飢を醫やすことの意味で自分をメシヤ(飯者)と云うて居る』
 …すばらしすぎですよ。やられた!って感じ。赤塚不二夫なら言いそうでしょ。天才ですよ、キムタカ。
 結論はトンデモないことになってますが、日本文化、西洋文化についての知識はものすごい。こじつけするにしても、よく勉強してないとできません。ものすごい情報処理能力と記憶力であることはたしかです。そして、ものすごい意味付けの結果ナンセンスになっている。ちょっと好きですね。こういう人。
 時代が時代でしたから、愛国心と危機感によって病気が助長されてしまったのだと思いますね。現代に生まれていたら、どうなっているでしょう。失礼ですけれど、私は大野晋さんに似たような才能を感じますね(好きなんですよ、大野センセイ)。

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2005.05.04

ウッチャン初監督作品 ロケ

reregh2reregh 先日ナイショで告知いたしました通り、ウッチャンこと内村光良さんの初監督映画のロケが、ワタクシの職場のすぐ近くで始まりました。
 私は静岡の実家におったのですが、諜報員(クラスの生徒)からの緊急メールにより、予定を変更して急遽山梨に戻ってまいりました。
 なんと、その諜報員によると、彼女の隣の家(酒屋さん)がロケ現場であるとのこと!「うわ〜ウッチャンがいる!さまぁ〜ずの三村がいる!」という彼女の実況中継を見たら、これは駆けつけないわけにはいかない。
 久々にロケ現場の、あの雰囲気を味わわせていただきました。いいですねえ。憧れますねえ。あのディレクターチェアに坐ってみたいですねえ。いや、スタッフでも構いません。あの共同作業の現場に立ちあいたいですね。
 ウッチャン監督は、終始リラックスした表情でしたが、いざ本番!となった時の普段見られぬキリッとしまった顔、ものすごくかっこよかった!プロのすごみを発していました。ああいうテレビ画面とのギャップってかっこいいですよね。常々自分も笑顔とキリッとか、不真面目と真面目とか、文と理とか、体育会系とアキバ系とか(?)、いろいろな両面性を持ちたいと心掛けているのですが…って心掛けてるようじゃだめなんですよね。自然にできなきゃ。その時点でワタクシは二流(以下)。
 ウッチャンの映画の内容は詳しく知りませんが、さびれた商店街を舞台にした草野球人情ものだとか。知り合いの店がつぶれた店という設定で使われたり、これも知り合いのスポーツ店なんですが、バットを買うシーンで使われたりとか、ちょっとうらやましいですねえ。諜報員のたばこ屋さんも映ってるだろうし。いいなあ。
 ちなみに、私の出演に関しては、前回(今日から俺は!!)のようにはいかないようです(当たり前だろ!)。残念。
 上の写真は、私の決死の動画撮影の一部です。しっかりウッチャンににらまれてます。このあと、スタッフに怒られました。すみません、本番中にカメラ構えちゃって。
 まだ、しばらくロケは続くようです。機会があったら足を運んでみたいと思います。作品の完成が楽しみですね。面白そうですよ。

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2005.05.03

国際共同制作 サイエンス・ドラマ『スーパーボルケーノ』

9901 静岡の実家に帰ってきました。市内でヘリコプターが墜落してビックリ。事故や事件が多いですねえ。
 こうしたいわば人災というのも恐ろしいものですけれど、天災も忘れたころにやってくる、ということを忘れてはいけません。
 今日ハイビジョンで放送された『スーパーボルケーノ』は、富士山に住む私たち家族にとっては、全く人ごととは言えない内容でして、たいへん興味深く見ることができました。
 この『スーパーボルケーノ』、超巨大な火山のカルデラであるイエローストーンが、数十万年ぶりに噴火したら、どのような被害が生じるのかを、CGや実際の火山災害の映像をまじえながらドラマ化したものです。
 このドラマ、国際共同制作となっていますが、具体的にはNHKとBBCによる作品。つまり日本と英国の公営放送局が、米国を舞台に災害ドラマを作ったということです。これは冷静に考えると面白いことですね。アメリカと言えば、文明の象徴のような国です。それが、自然の猛威の前には全くの無力になる。それを、米国と因縁の深い日英両国が描いているわけです。
 アメリカ人はパニック映画大好きですよね。それらでは、ヒーローが愛する人のために命をかけて自然と戦ったりして、結局アメリカは愛と勇気で立ち直っちゃったりします。このドラマでも、いちおう主人公の研究機関所長は助かりますが、それは愛と勇気の力ではなく、特殊な立場だからこそ知りえる知識と情報があったからです。全然かっこよくない。住民には避難の必要なしと言っておきながら、家族をちゃっかりロンドンに逃がしちゃうし。ははは、リアルですよね。そのあたりが、結果としてハリウッド映画に対する風刺になっており、私は不思議と溜飲を下げることができました。「ボルケーノ」ひどすぎたからなあ。上質なギャグ映画にはなってましたけど。
 このドラマは最新の科学的研究にのっとったものでしたから、なかなかリアルで説得力がありましたよ。ドラマ終了後の解説番組も効果的でした。アメリカの学者たちは、このようなドラマを作って、うかれたアメリカ人たちが天災を忘れないように戒めたいに違いありません。しかし、本国の放送局では無理でしょう。不滅のアメリカ幻想が崩れちゃいますから。それを盟友国が作ってあげたわけですよね。面白いことです。もちろん、イエローストーン級の噴火は、全世界に壊滅的な被害をもたらすわけですから、「対岸の火事」を描いたものとは言いきれませんが。
 だいたいが、私たち一家にとっては、これはまさにお隣の火事ですからねえ。うちでもいつ火事が起きるか分かりません。いちおう、裏情報網は作ってありますけど、最後は自分の判断で避難するつもりです。もし、このブログの更新が予告なく止まったら、あいつ逃げたな、と思って下さい(笑)。
 ところで、巨大噴火が起きれば、全世界の気温は一気に15度近く下がるということ。人間の力による温暖化を人間が大騒ぎしてるというのも、なんとも滑稽なものですな。

Amazon スーパーボルケーノ

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2005.05.02

祝1周年!『不二草紙』

_31 思い起こせば1年前。ホームページでも作るか、というノリで始めたこの『不二草紙』。毎日更新を目標にやってまいりました。途中、出張や旅行などでため込んだこともありましたが、なんとか目標を達成できました。読者の皆様のおかげです。はい。
 いやあ、1年前には、この『不二草紙』によって、こんなに人生が変わるとは思っていませんでした。いろいろな方々との出会いもありましたし、自分自身の中でも大きな革命が起きたような気がします。
 インターネットというメディアは、旧来のメディア以上に多くの「縁」を生み出していきます。その縁によって自分が日々変わってゆきます。新しいメディアが思い出させてくれたのは、「おかげさま」という古くさい言葉でした。
 特に「本日のおススメ」をブログという形式に変えてからというもの、本当に多くの方々との出会いがありました。最近では、毎日100件近くがブックマークによるアクセス、200件近くが検索によるアクセス、計300近いご縁が生まれています。おかげさまで、先日、12月からのカウントで20000アクセスを突破しました。予想以上のペースに驚いております。
 私の拙い記事に、コメントを付けてくださった方、またトラックバックを送ってくれた方、またメールにて間違いなどを指摘してくださった方、本当にありがとうございました。
 最近は本業が忙しく、更新するのは「本日のおススメ」だけの状態が続いています。なんとか時間を作って、他のコーナーも少しずつ充実させていきたいと思っています。まあ、牛歩よりのんびり、蝸牛歩のごとく、になりそうですが。
 ところで、去年の今日の記事、たった300字程度なんですよね。内容もなんだかなあ、という感じ。長いと読んでもらえないだろうなあ、と思ってあえて短くしたという部分もありますが、単に書き慣れていていないということもあったのでは。いちおう、毎日、記事を書くのは30分以内と決めていますので、最近はだいぶ早くなったということでしょう。昨日の記事なんか、1800字超えてますからねえ。ちょっと冗長、冗漫な感じですな。いけませんね。
 さてさて、1周年を記念して、左下に「相互リンク」を設けました。「縁」ご希望の方は、ぜひご一報ください。
 では、今後ともよろしくお願いいたします。       
                    不二草紙蘊恥庵庵主 山口隆之拝

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2005.05.01

ラ・トゥール展

c03_pic6 ラ・トゥール展に行ってまいりました。今も「新日曜美術館」で紹介されていましたが、お変人の私はちょっと妙な印象を持って帰ってきました。
 私のようなシロウトがとやかく言うような作品ではありませんが、恥ずかしながら、正直言いまして、ものすごい嫉妬を感じました。嫉妬を感じさせた画家というのは、もしかして初めてかもしれません。この種の嫉妬は、文学や音楽や映画などでは感じてきましたが、絵画では初めてなのです。打ちひしがれることはあっても、嫉妬心を抱くのは珍しいことです。いったい何が…。
 もともと嫉妬心などというものは説明のできないシロモノです。漱石も言っていますが、嫉妬心は愛情の裏返しであります。それは分かるのですが、ラ・トゥールはとにかく「ずるい」と思いました。感動したのですが、それととともに、この人はずるい、確信犯だと思いました。ものすごく俗っぽい感情で、自分としてはいやなのですが。今日は恰好つけず、正直に書きます。あえて言葉にならないものを言葉にしてみて、そして、やっぱり低俗ないわれのないヤキモチだと確認したいと思います。
 まず、何がずるいか。それは、あまりにおきまりな構図です。今日観た全ての絵は、計算され尽くした完璧な構図を持っていました。それもあまりに幾何学的な、安定しすぎた構図です。破綻のしようがありません。
 次に、光源です。ラ・トゥールと言えば、効果的に光源を描くことで有名です。光と影、光と闇、昼と夜。そうしたお決まりの表現も結構ですが、こと光源の表現に絞って観察しますと、彼の策略というか、いや彼の才能そのものが見えてくるような気がします。それこそ計算で美を生み出す才能です。ずるいほど見事です。
 こんなことは誰も指摘していないと思いますが、あえて感じたことを書きます。
 例えば、光源の代表たる蝋燭の炎。一通り観て回って気づくのは、三つのパターンです。一つ目は、蝋燭の炎全てが隠れることなく描写されているもの。二つ目は、その全体が遮られ隠されているものです。三つ目は、その一部が何かで遮られ隠されているもの。作者本人の意図は知るべくもありませんが、観る側からすると、その三つのパターンがもたらす効果の違いは明らかです。少なくとも私には。
 光源とは全ての視覚の根源。光源は空間とともに時間までも支配します。第一のパターン、光源が全て描かれている場合には、それはまるで写真のように、流れる時間の一瞬間を切り取ったような効果をもたらします。この第一のパターンのテーマが、死と誕生であるのは面白い事実でした。一方、二つ目のパターン、光源が手などで全て隠されている場合には、時の流れ、特にその刹那の後に連続する時間を感じさせるものがあります。画面全体が、光源に支配されず、自由に揺らいでいるような感じがしました。
 では、三つ目のはどうか。一部、例えば炎の先端が描かれているような場合です。
 これが実に不思議な感じを与えました。光源のまさにその源は見えないのです。そして、その外縁としての火先や、たゆたう煙。なぜかそういう部分にはそれほどのリアリズムは感じませんでした。逆にフィクション性すら感じたのは私だけでしょうか。最も不安定な時間。一種象徴的な物語性とでも言いましょうか。バロックのうさんくささとでも言いましょうか。
 そういう意味で、最もずるいと思ったのは、上の作品《書物のあるマグダラのマリア》です。あまりにうまい絵です。ある一瞬を切り取ったわけではありません。しかし美しすぎてうさんくさい。映画のワンシーンのような意図的な象徴性を感じます。だから絵画という範疇を超えてしまっているのです。テーマがどうだというのではありません。こちらに考えさせる、つまり永遠に完結しない物語のような力を持った作品だと思いました。私は萌えました(笑)。目を描かないで懺悔を表すなんて、絶対ずるいですよ。この絵には光源と目が隠されているんですよ。そこを私たちが補わなければならない。ずるすぎます。
 正直まいりました。ラ・トゥール…もう二度お目にかかれないかもしれません。しかし、私の記憶には深々と刻まれました。天才的な職人の、天才的なアイデアと技術。これはやはり芸であり術でありました。私をして嫉妬せしめた作品群。焼いた餅を御丁寧にさらに焼いてしまい、自分でも食べられません。真っ黒です。はっきり言って、降参です。お手上げ…。
 
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