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2005.05.01

ラ・トゥール展

c03_pic6 ラ・トゥール展に行ってまいりました。今も「新日曜美術館」で紹介されていましたが、お変人の私はちょっと妙な印象を持って帰ってきました。
 私のようなシロウトがとやかく言うような作品ではありませんが、恥ずかしながら、正直言いまして、ものすごい嫉妬を感じました。嫉妬を感じさせた画家というのは、もしかして初めてかもしれません。この種の嫉妬は、文学や音楽や映画などでは感じてきましたが、絵画では初めてなのです。打ちひしがれることはあっても、嫉妬心を抱くのは珍しいことです。いったい何が…。
 もともと嫉妬心などというものは説明のできないシロモノです。漱石も言っていますが、嫉妬心は愛情の裏返しであります。それは分かるのですが、ラ・トゥールはとにかく「ずるい」と思いました。感動したのですが、それととともに、この人はずるい、確信犯だと思いました。ものすごく俗っぽい感情で、自分としてはいやなのですが。今日は恰好つけず、正直に書きます。あえて言葉にならないものを言葉にしてみて、そして、やっぱり低俗ないわれのないヤキモチだと確認したいと思います。
 まず、何がずるいか。それは、あまりにおきまりな構図です。今日観た全ての絵は、計算され尽くした完璧な構図を持っていました。それもあまりに幾何学的な、安定しすぎた構図です。破綻のしようがありません。
 次に、光源です。ラ・トゥールと言えば、効果的に光源を描くことで有名です。光と影、光と闇、昼と夜。そうしたお決まりの表現も結構ですが、こと光源の表現に絞って観察しますと、彼の策略というか、いや彼の才能そのものが見えてくるような気がします。それこそ計算で美を生み出す才能です。ずるいほど見事です。
 こんなことは誰も指摘していないと思いますが、あえて感じたことを書きます。
 例えば、光源の代表たる蝋燭の炎。一通り観て回って気づくのは、三つのパターンです。一つ目は、蝋燭の炎全てが隠れることなく描写されているもの。二つ目は、その全体が遮られ隠されているものです。三つ目は、その一部が何かで遮られ隠されているもの。作者本人の意図は知るべくもありませんが、観る側からすると、その三つのパターンがもたらす効果の違いは明らかです。少なくとも私には。
 光源とは全ての視覚の根源。光源は空間とともに時間までも支配します。第一のパターン、光源が全て描かれている場合には、それはまるで写真のように、流れる時間の一瞬間を切り取ったような効果をもたらします。この第一のパターンのテーマが、死と誕生であるのは面白い事実でした。一方、二つ目のパターン、光源が手などで全て隠されている場合には、時の流れ、特にその刹那の後に連続する時間を感じさせるものがあります。画面全体が、光源に支配されず、自由に揺らいでいるような感じがしました。
 では、三つ目のはどうか。一部、例えば炎の先端が描かれているような場合です。
 これが実に不思議な感じを与えました。光源のまさにその源は見えないのです。そして、その外縁としての火先や、たゆたう煙。なぜかそういう部分にはそれほどのリアリズムは感じませんでした。逆にフィクション性すら感じたのは私だけでしょうか。最も不安定な時間。一種象徴的な物語性とでも言いましょうか。バロックのうさんくささとでも言いましょうか。
 そういう意味で、最もずるいと思ったのは、上の作品《書物のあるマグダラのマリア》です。あまりにうまい絵です。ある一瞬を切り取ったわけではありません。しかし美しすぎてうさんくさい。映画のワンシーンのような意図的な象徴性を感じます。だから絵画という範疇を超えてしまっているのです。テーマがどうだというのではありません。こちらに考えさせる、つまり永遠に完結しない物語のような力を持った作品だと思いました。私は萌えました(笑)。目を描かないで懺悔を表すなんて、絶対ずるいですよ。この絵には光源と目が隠されているんですよ。そこを私たちが補わなければならない。ずるすぎます。
 正直まいりました。ラ・トゥール…もう二度お目にかかれないかもしれません。しかし、私の記憶には深々と刻まれました。天才的な職人の、天才的なアイデアと技術。これはやはり芸であり術でありました。私をして嫉妬せしめた作品群。焼いた餅を御丁寧にさらに焼いてしまい、自分でも食べられません。真っ黒です。はっきり言って、降参です。お手上げ…。
 
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コメント

わたしはこの絵はうさんくさいと感じていました。ラ・トゥールのマグダラのマリアの作品はいくつか残っているようですが、いくつかはラ・トゥールの真作とされる「いかさま師」などにくらべて、俗っぽく「映画のワンシーン」のようにあまりにもつややかに描かれているようなきがします。ルーヴルにあるマグダラのマリアと今回来日しているマリアとではぜんぜん違うと感じるのですが画集などでは全部ラ・トゥールの真作として扱っています。今回の展示のなかでは聖フランチェスコの法悦がいちばん印象的でした。
 なるほど、リアリズムではないフィクシン。悔悛するマリア、蝋燭の焔、鏡、書物、メメント・モーリの髑髏、じつにうまく組まれた構図、つくりあげられた演劇です。そういわれるとジャック・カロの版画も展示されていましたがデフォルメされたイタリア喜劇役者たちの戯画もにたようなものだと思えてきました。
 しかし、詩人・哲学者のガストン・バシュラールは『蝋燭の焔』という本を書いていますが、蝋燭とはなにかいわくいいがたいもの、いいものです。「焔の夢想家が焔に向って語りかけるとすれば、彼は自分自身に語りかけているのであり、いまや彼は詩人なのだ。」「孤独な焔は、果たしてそれだけで、夢想家の孤独を深め、彼の夢想を慰めるであろうか。人間というものは、ひとりで夢想していても火の点っている蝋燭の前ならあまり孤独には感じない、・・・」
 

投稿: 龍川順 | 2005.05.03 00:52

龍川さん、おはようございます。
そう、そういった演劇性こそ、バロックの特徴ではないでしょうか。
私はそういういかにもなうさんくささが好きですね。
プロレスが大好きなのも同じ理由です(笑)。
今回のラ・トゥール展は、今後の私の楽器演奏にも大きな影響を与えると思います。
龍川さんにお借りした本も含めて、今ごろになって、バロック美学の本質がわかってきたような気がします。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2005.05.03 04:44

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