『新しい教養を求めて』 筒井清忠 (中公叢書)
昨日からの「教養」つながりでザッと読んでみました。
昨日自分が書いたものを読んでみると、なんとなく矛盾しているようなところもあり、もう少しじっくり考えてみようかと思ったわけです。わりとまじめだな、ワタクシ。
まず、「教養」はエリートのものなのか、ということ。教養があるからエリートなのか、エリートになるためには教養が必要なのか。はたまた、昨日の私のたわごとのように、実は大衆のものなのか。
大衆のコンプレックスこそが教養指向の卵だとしましょう。そうすると、見事教養を身につけた人は、晴れて大衆からニワトリ、いやいやエリートになれるんでしょうか。日本はニワトリ、いや欧米になれたのでしょうか。結局チキンだったりして。
個人としてはどうなんでしょう。どこからがエリートなんでしょう。知識人、論壇、インテリ…かっこいいんでしょうか。憧れてみたいような、バカにしてみたいような。それから、「教養」のあとに来る「○○」って何だろう?
なんてちょっと悩んだふりをして、大衆の代表選手ワタクシめが、生徒に「教養」を強要している(やっぱり保守的古典主義に偏るわな、学校では)。まあ、こんな小難しい話はしませんよ、授業中。馬鹿話ばっか。
そんなことより、この本ですね。昨日の竹内さんも対談者として登場します。竹内さんは、ポスト教養を「キョウヨウ」と呼んでいます。見下してるんですね。筒井さんは、ポスト教養に期待しています。ずばり「新しい教養」。お二人のすれちがいが何とも面白い。こうなると、知識人も結局最後は「お人柄」であるのだなあ、などと大衆代表は不謹慎にも思ってしまいます。
私は、「新しい教養」なんて言ってるうちはダメだと思いました。「教養」という言葉から脱却しなくちゃ。「新教養」じゃあ、「新エネルギー」なんて言ってるのと同じですよ。「教養」も「エネルギー」も、ただ消費されるだけなんですから。代替を考えていてはその場しのぎです。結局自己保身、自己満足、はた迷惑。
筒井さんは、その「新しい教養」について、「マルチ・カルチュラル」「ヴィジュアル・メディア」「ボランティア」「新しい古典」「新しい理想主義」なんていう言葉を使って説明していました。それたちが、我らに与えられるコンプレックス除去装置なんですかあ?なんとも頼りないですねえ。もう充分大衆は踊らされてますよ、そういうものに。
国の未来のためには、何が必要なんでしょうねえ。お金なんですか。教養なんですか。心なんですか。これら全部でしょうか。貧すれば鈍する。やっぱり最初のヤツが先決なのかなあ。それとも鈍する方がこの世のためなのかなあ。
あっ、そうそう、やっぱりこの本のヒットは、突如登場する梅原猛センセイでしょう。あいかわらずぶっ飛んでますな。彼は教養を軽く超えてます。
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