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2005.04.30

ETC

SANY00391 今日、ようやくETCの車載器を取りつけました。カードは2枚作ってありましたが、カーショップへ行くヒマがなかなかなく、車載器は買わずじまいになっていました。しかし、マイレージのキャンペーンの一つ、5000円還元の期限がとりあえず今日までだったので、急遽オートバックスに行ってきました。
 まず、どちらの車に載せるか。これが問題。車載器2台買うのはムリ。高速道路を使う頻度としては、どちらかというとカミさんのパンダよりも、私のクルーズの方が高いかな。それに、外車(いちおうね)だと取りつけ費が高くなるらしい。じゃあ、クルーズにしようか…って、クルーズも外車?ん?いちおうシボレーなんだよな。どういう扱いなんだ?まあ、いいや、車種聞かれたらスズキのクルーズです、って言おう。 
 お金がないので、一番安いの(しゃべったりしないヤツ)を選び、ピットインしたところ、そこで待っていたのは、5年ほど前の教え子でした。ラッキーとばかりに取りつけの様子を観察します。う〜ん、配線が面倒だな。いや、配線自体は配線マニアの私としては、どうということないけれども、その配線を隠したりするのが面倒くさそう。気になるセットアップは秘密ということで、現場を見せてもらえませんでした。ちなみにコミコミで15000円ちょっと。あっ、そうそうクルーズは国産車扱いでした(笑)。ラッキー。
 てなわけで、クルーズくんにETCが導入されました。フロントガラスに両面テープで貼り付けるという原始的なモデルです。これだとなんか搭載って感じじゃないですな。外から見るとカッコ悪いし。まあいいや。
 さあ、次はネットで割引サービスの登録です。1枚のカードはマイレージに登録。とりあえず5000円ゲット。もう1枚は前払い。奮発して50000円だあ。これで8000円分のオマケがつきます。合計13000円おとく。民営化まではマイレージポイント2倍だから、1枚目のカードを使いましょう。10月までにたぶん25000円分は走るだろうから8000円ゲット。合計21000円。この時点で完全に元を取ってお釣りが来ますね。なんて、取らぬ狸の皮算用でした。
 これからのシーズン、バロックバンドの練習で頻繁に東京に通います。その時は通勤割引をうまく利用します。通行料が半額ですから、これは助かりますね。あっそうそう、本来の料金所ノンストップの恩恵も忘れちゃいけない。
 もう1台のパンダで高速道路に乗る時はカードだけ使います。ハイウェイカードのように使うわけです。この使い方は意外に知られてないんじゃないですか。ノンストップではありませんが充分便利です。
 そんなこんなで、明日にはETCデビューです。最初は緊張しそうだな。ちゃんと開くかな。まあ、せいぜいバーにぶつらないように頑張ります。

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2005.04.29

『神秘家列伝 (其ノ参)』 水木しげる (角川ソフィア文庫―Kwai books)

4041929105 全くの不勉強で、御大水木しげる先生が、こういうものを書いておられるとは、つゆぞ知りませんでした。なんということだ。これらが連載されている「怪」という雑誌(専門誌?)も、実は読んだことがなかったのであります。基本がしっかりしていない私を象徴するような事例です。
 それにしても、この「其ノ参」のラインナップにはかなりビックリ!どうしてこうも私好みの4人をお集めになったのか…。不思議な御縁を感じます。正直、壱・弐の面々ではちょっと食指が動かない。
 というわけで、この巻に収められている「神秘家」の方々は、出口王仁三郎、役小角、井上円了、平田篤胤の4名様です。濃い〜なあ。
 昨日の記事にも登場願った出口王仁三郎、言わずと知れた近代の大化け物です。宗教家というジャンルではくくりきれませんな。世界史上の最強の狂人とも言えます。凡人にはその全体像がとらえきれない巨人ですね。私は彼の大ファンです。
 役小角は7世紀から8世紀にかけて実在した怪人です。修験道や密教、さらに神道にもゆかりの深い人物ですね。また、渡来人との関係、先住民との関係においても興味深い存在です。オカルト系サブカルチャーでもカリスマとして人気がありますぞ。
 以上お二人は、私の住む富士山とも大変にゆかりの深い方々です。空を飛んでちょっと富士山まで、というノリです。古代と近代を代表する二人のトンデモくんとも言えますね。
 3人目の井上円了も不思議な人ですよね。東洋大学の創始者として有名ですが、別名は「妖怪博士」。では、水木しげる先生みたいな人かと申しますと、先生ご自身も書かれていますけれど、実際は全然逆。アプローチが逆なんですね。不思議な現象を、要は科学的に証明しちゃえ!という、どちらかというと大槻教授の師匠みたいな方です。しかし、そのこだわりよう、やはり妖怪や超常現象に対する深い愛情を感じずにはいられません。大槻センセイもそんな感じですし。結構好きです、こういう人たち。
 4人目の平田篤胤は、最近私が興味を持っている人物です。本居宣長の弟子として、日本史の教科書にも出てくるような人なのですが、実はかなりアブナイ人。その著書群もかなりオカルトしてます。ちなみに、平田篤胤は秋田の出身です。秋田出身の数少ない大人物のお一人ではないでしょうか(失礼)。
 結局この御一行4名様は、現界のみならず、霊界や幽界を感知できる能力をお持ちの方々だったのでしょう。それは、現代科学で言えば、3以上の次元を存在を感知するということだと思われます。歴史に名を残すセンセイ方には、皆少なからずそういう点が見出せます。それが世人にはどう映るか。紙一重なんですな。4次元〜11次元のどこまでが守備範囲かにもよりますし。
 で、こんな魅力溢れる方々を、あの水木しげる先生が、実にわかりやすいマンガにしてくれています。入門書として最高の出来だと思います。途中登場する水木先生ご自身や、荒俣宏センセイのキャラがおかしく、いい味出してます。荒俣センセイはいつもの入れ込みようですけれど、水木先生は意外に冷静で、適度な距離を保って対象を見ているのがわかりますよ。そのあたりも見ものです。

Amazon 神秘家列伝 (其ノ参)

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2005.04.28

フジザクラとミツバツツジ

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 さあ、ようやく富士北麓にも本格的な春がやってきました。通勤途中のソメイヨシノのトンネルも七分咲きになりました。東北地方や北海道南部と同じ気候であることがよくわかります。
 そして、何と言っても、私の住む富士桜高原の春と言えば、その名の通り「フジザクラ」です。私の家の周りにも、今を盛りと美しく咲きほこっております。上の写真は近所にあるフジザクラの名所、創造の森にて今朝撮影したものです。
 私はこの桜が本当に大好きです。ソメイヨシノとは違い、背丈も低く、花弁も小さい。色合いも控え目な上に、うつむきかげんに咲く姿、まさに可憐・清楚という言葉がぴったり。乙女桜と呼ばれることもあるそうで、それもなるほどと納得させられる愛らしさと品の良さです。学名は「マメザクラ」だと記憶しますが、やはり「フジザクラ」という雅な名がふさわしいでしょう。あっ、ちなみに山梨県の県花は、このフジザクラです。
 さて、そんなフジザクラ、本当に富士山が見える所でしか花を咲かせないとか。静岡市にある私の実家に植えてみたところ、しっかり咲きました。土壌や気候はだいぶ違います。でもたしかに富士山は見えます。一方、知り合いの話によると、関西に持っていったが、花も咲かせず1、2年で枯れてしまったとのこと。不思議ですね。
 ということは、浅間神社の分布と生息域とが重なるんじゃないでしょうか。やっぱりコノハナサクヤヒメの分霊なのかもしれませんね。
 そして、フジザクラのよきパートナーがミツバツツジです。真ん中の写真の手前に見える、明るい紫色の花です。フジザクラの群れの中の見事なアクセントとなります。私は毎年この風景に接すると、大げさでなく生きていて良かった、と思います。ついでに、あと何回見ることができるのかなあ…なんて、軽く物思いにふけったりして。
 フジザクラと同様、ミツバツツジも神性を帯びているんですよね。出口王仁三郎の霊界物語に「『三ツ葉躑躅』とは、三つの御霊、瑞霊の意である」とあります。オニさんがミツバツツジを見つけた高熊山は、彼の霊的体験の端緒となった修行の場。夢の中で、その修行を導いたのは、富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命の使、松岡芙蓉仙人でありました。そうすると、今私が見ている風景は、まさにオニさんの霊的ヴィジョンに近いのではないかと思われます。ゾクゾクっとしますね。
 まあ、ソメイヨシノでお花見というのももちろん結構です。しかし、フジザクラやミツバツツジを森の中で眺めるというのは、人工的な花を人工的な環境で見るというのとは違って、自分の中に染み入ってくる何かがありますね。決して、お酒のんで騒ごうとは思いません。神聖な気持ちになります。
 あっ、そうそう、「義経」のオープニングで馬が走っているのが、ウチの近所のフジザクラ群生地だそうです。

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2005.04.27

『ドラゴン桜』6巻・7巻 三田紀房

40637240854063724263 昨年末おススメしたドラゴン桜ですが、その後2月に6巻が出て、今月最新刊7巻が出ました。いまや、我が校舎の必読本になっております。先生も生徒も必ず読むようになっています。課題図書ですね。今年度の新入生には、一応東大希望者がおりますし。あくまで希望ですけれど。
 このマンガで書かれていることは、単なる東大受験のストラテジーにはとどまりません。本当の意味での社会性というものが描かれていると思います。学校というのは実に特殊なところで、何か社会から遊離して、きれいごとがまかり通っています。金八センセイみたいなのが許されるんですよ。センチなんです。社会はどっちかというと戦地でしょう。なかよしこよしではやっていけない。
 でも、それを知らない生徒と、そして、ほとんどが学校という場しか知らない教師が、「夢」なんて追いかけちゃう。これはいけませんよ。個人や家庭と社会をつなぐべき学校が、そこだけポッカリ夢空間を作っている。それはたぶん先生の責任です。
 戦いに勝つ、と言うと、なんとなく殺伐としているように感じますけれど、実際それは自分を向上させる努力を怠らないことと同義なのであって、全然悪いことではないと思います。ウチの学校の基礎になっている禅宗の教えとも矛盾しないのでは。
 私はかなりのリアリストです。私学の教員ということもありますが、やっぱりクライアントのニーズに応える仕事をしなくちゃ。私のところへ来る生徒たちとその親たちは、本人が良い大学へ行くこと、そして社会で活躍して幸福になることを望んでいます。だから、それが叶う確率を上げるのがプロでしょう。お金もらってるんですから。
 こういうことを言うと、なにか味も素っ気もない教育が行われていると思われそうですが、実は全然逆です。ドラゴン桜で描かれている生徒二人、彼らが生き生きとしているのと同様、我らの生徒たちもうらやましいくらい楽しく生き生きと毎日を過ごしています。
 なんか、自分の学校のおススメになっちゃいましたね。でもホントなんです。今も外から、生徒たちの球技会優勝を目指した練習の声が聞こえてきます。若いっていいですね。
 あっそうそう、ドラゴン桜ですが、6巻の「働きバチの理論」、7巻の「メモリーツリー」には、うんうんとうなずいてしまいました。特にメモリーツリーは、私の日常での雑学記憶法そのものですので、わが意を得たり、でした。というか、また仏教っぽくなりますけど、ツリーを作るということは、個々をリンクさせるということであり、それは縁によって結ばれた世界を認識するということになります。私はそれが究極の勉強だと思っていますので。ハイ。

Amazon ドラゴン桜7巻

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2005.04.26

『やぎの目絵日記』 林雄司 (アスペクト)

4757211201 え〜、しばらくマンガで攻めます。なるべく読むように心掛けます。マンガを読まないで来た私の四十の挑戦です。
 さて、ウチの学校(の特進棟というところ)では、マンガを読むことが推奨されています。非常に珍しい学校ではないでしょうか。これは、元はと言えば私の発案でして、なんでそんなとんでもないアイデアが出てきたかと言いますと、生徒の、評論や小説、さらには古文、漢文、英語の長文などの読解のスピードと、マンガを読む量&スピードとの間に、明らかな相関関係があると確信したからです。
 まあ、簡単に言えば、マンガを集中して早くたくさん読めるヤツらは、文章を読むのも早い、ということです。センター試験なんか、とにかく速読することを要求してきますから、これは大きなポイントです。また、違った言い方をすれば、マンガさえ読まないようなヤツは、本もぜったい読まない、どちらかというとテレビに行ってしまう、ということでもあります。テレビは受験にはほとんど益なしです。たぶん。
 そんなことを奨励している国語の先生というのも珍しいと思いますけれど、それ以上に、まず私がマンガをあまり読まないので困ります。これはよくない。冗談じゃねえよ、センセイだって読んでないじゃん!って言われるかもしれません(ほとんどそういうことは考えられませんが)。
 てなわけで、私も読まなければ。まずは身近なところから、カミさんのすさまじい読みっぷりを見習わなければ。
 今日はまず軽めに、林雄司さんの『やぎの目絵日記』という4コママンガを生徒から借りました。不覚にも30分もかかってしまった。早い生徒なら5分でしょう。ヤツら、コナンでも15分で読んじゃうからなあ。完敗。
 さて、感想でも書きましょうか。ものすごく面白かった。いわゆる脱力系なわけですが、なかなか視点が鋭く、脱力しつつ的を射ぬく力を持っていますね。さらっと読んでも楽しいし、深読みも受け入れる、そんな感じですね。世の中の常識やら習慣やらにとらわれない、その新鮮な視座というものに感心しました。まじで。
 ところで、へたうまや脱力というのは、シロウトさんの参入を容易にしているように思いがちですが、どちらかというと逆のような気もしますね。特に4コマは。プロっぽくなく、アマチュアをうならせるのは簡単ではありませんからね。限られた表現の中で的を射なくてはならないんですから。俳句みたいなもんでしょう。できそうでできない。
 マンガにもいろいろな世界があるようですが、4コマというのは、中でも神経を削る世界でしょう。それも毎日1作ずつとなると、もう想像を絶する修行の様相を呈してくるでしょう。私が毎日こういう記事を書くのとは、ちょっと次元が違う。そういう意味で、今日のこの絵日記にも、脱力の裏にある精進の心が痛々しいほどに感じ取れましたね。かなり勉強になりました。
 
Amazon やぎの目絵日記

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2005.04.25

iMacG5内臓移植手術〜○○の祟り?

SANY00241 iMacG5が壊れて一週間。アップルに電話していろいろとご指導いただきましたが治らず、結局ミッドプレーンを在宅交換ということになりました。つまりロジックボードが不良だったということらしい。
 というわけで、アップルから新しいミッドプレーンが送られてきまして、付属の手順書に従って交換してみました。ミッドプレーン交換というのは、ほとんどの内臓を移植するようなものです。交換しないのは、光学ドライブ、ハードディスク、電源部くらいのものです。
 そんな大手術を自分でやれ、というわけです。かなり楽しみな反面、ちょっとドキドキ。しかし、うん、さすがアップル。最初からそういう設計になってるんですな。ものすごく簡単。プラモデル作るよりずっと楽チンでしたよ。
 そんな大手術?をちょちょちょっとやってしまっている自分が、なんか偉く感じてしまいます。単純。
 しかしですねえ、いよいよ手術終了という段になって、全く予想外のジャマが入りました。
 カミさんの同級生だというある女から電話があったのです。この方、某宗教団体の熱心な信者で、去年も遠く秋田からウチにわざわざ遊びに来て(つまり勧誘、いや折伏に来て)、ワタシに返り討ちにあい疲れ果てて帰っていった人です。
 なんだ、まだ懲りてなかったのか!いやいや懲りるどころか、ますますパワーアップしてる。つまりバカになってる。結局2時間も電話でやり合いました。
 しっかし、かわいそうですね。彼女、全く自分の言葉でしゃべってないんですよ。教祖や幹部の騙った言葉を本人なりに語ってるだけ。もちろん、ワタシの言葉とはかみ合いません。かみ合わないのは分かってるんですが、どうにも腹が立って仕方ないので、ついついワタシも相手をおちょくってしまう。そんなワタシに対して、いつものおどしが始まります。
「ヂゴクに落ちる!」
 ほら、また出た。ワタシは「新宗教研究会」元会長であり、「地獄で会おう会」の現会長です。全然こわくない。ははは…。どうせ人間なんてヂゴク行きなんだから、ヂゴクを楽しみましょう。ヂゴクの沙汰も金次第。住めば都。血の海、針の山…アトラクションたちを攻略しましょう。
 しっかし、頭来た。「山の神」をバカにしやがった。別にワタシは山の神信者ではないけれど、なんか妙に腹が立ちました。ワタシは富士山の懐に抱かれて生活しています。富士山の神様はコノハナサクヤ姫です。彼女のお父さんはオオヤマツミの命。山の神の親分です。だから、相手の信仰するその信仰対象○○を思いっきり罵倒してやりました。そしたら、向こうが妙な呪文(超メジャーなやつですけど)を唱え始めたので、こっちも反撃してやりました。適当に口からでまかせで、メチャクチャな真言やら祝詞やら呪文やらを連発。なんか彼女悶絶してました(笑)。どうだハッタリ教の言霊パワーを思い知ったか。
 結局、そんなこんなで、疲れ果ててしまいました。ついでにiMacは起動中にカーネルパニック…orz…ありゃりゃりゃ、祟りかあ。そう言えば彼女、○○を信じないとパソコンが壊れる(笑)って言ってたなあ。
 今日は大変な鉄道事故がありました。彼女はこれも○○を信仰しないからだって言うんだろうなあ。バチが当たったって。そして亡くなった方は地獄へ落ちたと…。なんか哀しいですね。やっぱり許せません。パソコンは直せばいいけれど…。

後日譚…え〜、結局カーネルパニックは○○の祟りではなく、AirMacカードの差し込みが不完全であったようです。ミッドプレーン交換してもダメなんて…とガックリしつつアップルに送ったら翌日帰ってきました(笑)。ごめんなさい、サポートのみなさん。祟りはアップルに向かったのか…。

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2005.04.24

フィアット パンダ (1)

FIAT Panda
SANY00141 先日、フィアット・プントのお役御免について書きました。今日、きれいにお掃除して、みんなで記念撮影をしてお別れしました。本当にいろいろな思い出の詰まった車でした。苦労させられたのも事実でしたが、それ以上に多くの楽しみを与えてくれました。ありがとうね。
 そして、新しい生活のパートナーが我が家にやってきました。プントの弟分のパンダです。
 パンダが日本で発売されたのは、昨年夏。日本では賛否両論。実際はほとんどが、「なんでヨーロッパカーオブザイヤーなの?」という疑問の声でした。日本的価値観からすれば、たしかにそうでしょう。カタログデータを見れば、まさに軽自動車以下のスペックですから。
 しかし、はっきり言って、私はそこに思いっきりほれこみました。見事ですよ。その割り切り方。もちろん、あの、あの名作、初代パンダにはその点ではかないません。それは当然です。現代において、あれを作ることは不可能です。しかし、スピリットは充分受け継いでいると思いますよ。
 まだ、今日来たばかりのパンダですから、これから少しずつ報告していこうと思います。今日は、その基本的なコンセプトについておススメしましょう。
 この新型パンダは、実はパンダとして開発されたものではありませんでした。いろいろな事情がありまして、結局パンダの名前を冠して発売することになったのです。しかし、私はそれは結果として正解だったと思います。
 ビートルやミニは、いわゆるバック・トゥ・ザ・フューチャーでデザインされました。それはそれで販売につながったのですから悪いことではありませんが、私からすると、なんか初代の呪縛から逃れられていないというか、親の七光りというか、いずれにしても、そのコンセプト自体に新しさが感じられなかったわけです。あくまでワタシ的にですよ。
 一方、このパンダは、先ほど書いたようにハナっからそういう考えはなかった。あの信じられないほどの機能美を持った先代ににらまれたら、スタッフは金縛り状態ですよ。どんな世界でもそう。カリスマの後ガマは苦労する。
 というわけで、この新パンダ、「えっ?パンダっておいらのことじゃないの?」っていうノリで生まれてきてしまった、そのノリが素晴らしいのです。な〜んにも考えてない。しかし、基本の基本の部分で、たしかにパンダ的なのです。それは…チープさを逆手にとって、それをオシャレに高めるというスピリットです。
 そのあたりについて、今後シリーズで報告していきましょう。では、今日はこのへんで。
 ちなみに、ウチに来たのは、一番安いただのパンダです(当然でしょ!高いパンダなんて)。

フィアット パンダ (2)
FIAT Panda

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2005.04.23

レミオロメン 『ether』

B000793F38 我が山梨県の有名人は、え〜と、ワタシ的には、ジャンボ鶴田、武藤敬司、金丸義信、井上雅央…ってプロレスラーばっかじゃん。もちろん、スポーツ界で言えば、堀内監督とか、中田英寿とかね。
 音楽界では、宮沢和史ぐらいしか思い浮かばない…というような感じでしたが、昨年8月におススメした3バンド、順調に成長しているようで、にわかに音楽シーンに山梨旋風が吹き荒れ…てないか。まあ、そこまではいかなくとも、ちょっと注目を浴びてるようです(地元インディーズ・シーンは相変わらず貧弱ですけど)。
 さて、そんな中でも赤丸急上昇の勢いなのは、御坂町出身レミオロメンでしょう。昨年3月9日には、御坂中学校でライヴをした彼らが、1年後の今年3月9日には、武道館でフルハウスですからねえ。すばらしいことです。そして、同日発売された2枚目のアルバム「ether(エーテル)」を生徒に借りて聴いてみました。
 うん、非常にいい出来です。デビューアルバムも心に残る出来でしたが、2枚目で早くも貫録を感じさせる内容になっています。正直びっくり。全曲いい曲ですから。
 聴く前にクレジットを見るのが私の習慣でして、今回もチラッと確認して、それで実はちょっと心配になったんですよ。というのは、プロデュースが小林武史さんだったから。おおっ!と思うとともに、レミオロメンが小林武史に喰われるんじゃないかって。桑田さんや桜井さんくらいの抵抗力があるだろうか、彼らに…。
 そうしたら、そんなのは全くの杞憂でした。
 たしかに、ストリングスの扱いや、アナログ・シンセ風(メロトロン風もありますよ)の音には、いかにもの小林武史が聞けますよ。でも、それをすっかり消化してあまりあるレミオロメン世界が展開されてました。
 以前書いたように、彼らはとっても田舎的だと思います。メロディーラインも、詩も、演奏も、歌いっぷりも。都会的な都会って、東京だけなんですよね、日本では。そこに媚びない、東京とは違う風景を見せてくれる。それが都会人にはまぶしいし、田舎人(ほとんどの日本人)には懐かしい。
 山梨の人は、昔からプライドだけは高く、生黄泉(なまよみ)の国で流刑地だったくせに、江戸がたまたま隣になった途端、都会志向を強めました。それで成り上がった人、失敗した人、いろいろだったわけですが、結局自分というものがよくわかっていないような部分があったように思います。はたから見ると単なる甲州商人なんですけどね(バカにしてるんじゃないんですよ。私は山梨大好きですから)。
 いいじゃないですか。彼らみたいに開き直れば。かっこいいですよ。素敵ですよ。都会的なロックの隣にあって、自然体ロックをやっていけばいいんです。これからは田舎の時代ですよ。このまま成長して、いや変に大人にならなくてもいい、都会に喰われないで、御坂のまんまやっていってほしい。ビートルズも世界の都会の波にもまれても、結局リバプールだったでしょ。
 最後に一言。演奏がうまいのにビックリしました。各パートのメロディセンスも含めてとってもうまい。レコーディングでもわかります。スリーピースで聴かせてきた経験が生きていますね。今、「3月9日」がかかってます。ちょっとジーンとして涙が出ちゃいました。年甲斐もなく。

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2005.04.22

『五味太郎』 in 文藝春秋 特別版 『言葉の力 生かそう日本語の底力』

0503kotoba 文藝春秋ですなあ。読みごたえはありましたが、いかんせん堅い。古い。30年くらい前の本を読んでいるような気がしました。擬古文ですかあ。
 じゃあ、なんで読むのか。それは、ものすごく有用だからです。こういう内容で、こういうレベルの文章で、このくらいの分量のものは、そうそうない。使えますぞ。でも、これ以上はナイショ。
 さて、そんな文藝春秋特別版であります。とにかく、執筆陣が堅い。古い。いったい平均年齢は何歳なんだ?それが口をそろえて、ホンライの日本語は素晴らしい、最近の日本語は乱れてる…なんていうのを延々と語るわけです。いくら日本語大好きの私でも、ちとつらい。
 執筆陣は、まあ権威のある、つまりは御高齢のセンセイ方なわけですが、購読陣はどうなんでしょうか。老人同士の昔語りという気もしますが。私も言葉に関しては案外保守的な方ですが、この人たちのお仲間にはなりたくありませんね。だから、こういう物言いになっちゃう。今どきの日本語に媚びちゃう。
 いや、若い人たちには新鮮に聞こえるかもしれません。彼らの会話。えっ?何?このジジイたち何人(なにじん)?なんで、こんなに自信ありげなの?
 そんな中、唯一、ホントに唯一私が膝を打ったのは、五味太郎さんの文章でした。五味太郎さん。こんなにすごい言葉の持ち主だとは知りませんでした。不覚。何しろ、まわりの文章たちが文章たちなので、不意打ちを食らったような、廃棄物の山にとんでもない掘り出し物を見つけたような…失礼。
 たしかに娘たちの絵本を見て、こりゃかなりぶっ飛んでんな、とは思っていました。でも、絵本の言葉はあくまで絵本の言葉ですからね。ぶっ飛びも表現の一つと見ることができます。し、しかし、このケンイある文藝春秋特別版の中で、五味ワールドを全開させちゃってますからね。
 久々にパワフルなツッパった日本語に出会いました。内容、リズム、語彙…ものすごくスリリングな演劇空間にいるような錯覚を起こしました。何度も何度も読み返している自分。やられました。
 ふ〜ん、こういう人っているんだ。そう言えば、知り合いが知り合いだと言ってました。急にうらやましくなってきたぞ。まずは、絵本以外の五味さんをもっと読んでみようっと。

五味さんのサイト
五味さんぶっ飛びインタビュー

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2005.04.21

Do As Infinity 『Need Your LOVE』

B0006Z3UV0 昨日構造主義で今日ドゥアズか。バランスとりましょ。構造主義のおかげで頭痛くなったんで。
 生徒に借りて聴いてみました。今、全国ツアー真最中のDo As Infinity(妙な名前だよな)。ドゥアズと言えば、私にとってはやっぱり亀様。プロデュース&ベースの亀田誠治さんですね。
 東京事変でも弾きまくっていた亀様。ドゥアズではかなり抑え目ですが、やはり随所に亀節を聴かせてくれます。
 それにしても、亀様は芸域が広いですな。バリバリのロックから、わかりやすいJポップ、さらにアニソンに至るまで、何でもソツなくこなしちゃいますからね。すごいですねえ。同世代として誇りに思います。
 亀田さんのアレンジや演奏には満足ですが、このアルバム、正直全体としてはやや物足りなさを感じました。それはVANさんの唄が少し単調になっているからです。その単調さが、分かりやすさ、歌いやすさにつながっているのだから、全然構わないのですが、楽曲の変化の割に、ちょっと機械的すぎるかな…なんて。
 いえいえ、それがコマーシャルソング(二重の意味でね)に要求される性格なのですから仕方ない。なにしろ、「タイアップソング8曲の強力作品!」って帯に書いてありますからね。消費される音楽。消費されやすい音楽。
 そんな中、ちょっとビックリなのが、最終曲「菜ノ花畑」。それまでは、歌詞がまあ、そのフツウの歌詞でして、アニソンと何ら違いはないわけなんですよ。それが急に、御懐妊ソングになる。御本人たちは狙ったようですが、少なくとも私の急所ははずれました。妙な感じが残ります。
 御本人たちが言うには、このアルバムでは世界的な愛を語りたかったと。だから、最後に究極の愛の形を持ってきた。ちょっと照れ臭いですね。VANさんのカミングアウトかと思いましたよ。
 久々に「愛」の連呼を聞きましたね。日本人が「愛」を連呼できるのは、カラオケでのみです。歌というのは不思議な力を持っているものですね。そこでは誰もが人類愛を叫ぶことができるのですから。和歌からつながる日本の伝統なのでしょう。

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2005.04.20

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹 (文春新書)

4166602519 さあ、構造主義について語りましょうか、私が…。なんちゃって。
 ちょっと前に、教養について書きましたね。戦後日本で構造主義といえば、教養の権化みたいな存在でした。でした、と過去形で書いたのは、それが単なるブームであったと思うからです。で、私はそのブームに乗ったのかというと、これが全然乗らなかった。乗らないまま今まで来てしまいました。
 構造主義と格闘したことはあります。一応ソシュールはちゃんと読んでましたから。文学部国文科にしては珍しく。ただ、それは旧態依然の国語学会に対する、単なるプロテスタントであったわけでして、なんとなく今風な(笑)武器を手に入れて戦おうとしましたが、結局その使い方が分からず、降参しちゃった、という当然のオチがつきました。簡単に言うと、難しすぎてわからない。わかりそうになっても、自分の実感とあまりにかけはなれているので信用できなかったわけです。
 というわけで、ハッキリ申しますと、私には構造主義は必要ありませんでした。また、これからも必要ありません。
 ものすごくカッコつけて、ものすごく高飛車に言います(だって、構造主義ってそういう物言いなんだもん)。構造主義はものすごく狭いコミュニティー内のゲームです。ちゃんと知らないくせに、と言われても仕方ありませんが、それは、ある一部のオタク集団に、このゲームちょっとやってみなよ、画期的だよ、と言われても、乗り気にならないのと同じです。実際のところ、たぶん世界中の99%以上の人は、構造主義を相手にしていないでしょう。
 構造主義には、今言ったオタク的な要素が色濃くあります。特に、自ら「言葉」を作り上げて(彼らは発見と言いますが)、自らの都合の良い存在を存在せしめ、ルールを編み出し、それを他に押しつけていくことを楽しみとします。つまり、それこそが構造主義的ゲームの構造的欠陥なのです。
 それ自体に罪はないと思いますよ。オタクには罪はありません。しかし、それを高尚な教養かのようにあげつらい、時代のファッションにまで仕立て上げた人々…それが教養人ですかな…に対しては、私は生理的な嫌悪を覚えます。
 久々に構造主義の本を読みました。内田先生は、私が先ほど言った構造主義の自己増殖性の気持ち悪さを、寝ながらでも学べることを標榜して、見事に暴いてくれています(御本人はそれが目的ではないと思いますが)。それは実に画期的なことでしょう。この本に対して、いまだいろいろと難癖をつける人がいるようですねえ。いいかげん、百年の呪縛から抜け出したらどうでしょう。まあ、教養人たちの趣味にとやかく言う立場ではありませんがね。
 最後に極論しましょう。構造主義における構造は「縁」です。いや「縁」の一側面に過ぎません。その全体像については、3000年前に、インドの偉い人が私たちに語ってくれています。残念でした。

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2005.04.19

『楽しむということ』 谷川俊太郎

20050313ai_01 今年度は、週26時間の授業担当という超過密スケジュール。さらに朝は毎日0校時がありますから、もう朝から晩まで言葉漬けです。それだけ出会いがあるわけですから、ありがたいと思ってやっております。
 0校時では、毎日センター試験の過去問や予想問題を解きます。今日は、谷川俊太郎さんの『楽しむということ』という文章による問題でした。私はもう何回目かのはずですが、今日はその内容が妙にリアルに胸に響きまして、問題を解くのも忘れて考え込んでしまいました。
 谷川俊太郎さん。もちろん、私にとってのカリスマの一人です。詩はもちろんのこと、こうしたエッセイも実に素晴らしい。平易で深い文章というのは、そうそう書けるものではありませんからね。
 ものすごく乱暴に要約すると、次のようになります。
「かつての日本では、楽しむことはタブー視されていた。筆者自身も、楽しむことが精神よりも肉体に結びついていると感じ、淫靡なうしろめたさを抱いていた。青春期にあえて現在に生きる楽しさを謳歌したこともあったが、感覚の全的な解放に対するおそれもあった。今の日本は楽しむことに事欠かないが、感覚の楽しみが精神の豊かさにつながっていない。楽しむことのできぬ精神はひよわだ。楽しむことを許さない文化は未熟だ。楽しみは孤独なものだ。楽しさの責任は自分がとらねばならない。そこに楽しさの深淵がある」
 こうしてしまうと、ぜんぜん谷川さんの文章じゃないですね。生きた文体というのがあるんですよね。言葉を操れる人がいるんです。
 谷川さんは、楽しみが孤独であると語る前に、「悲しみや苦しみにもしばしば自己憐憫が伴い、そこでは私たちは互いに他と甘えあえる」と書いています。なるほど、他人の楽しみに同情するのは難しい。他人の楽しみに対して、人は嫉妬心こそ抱け、共感はし難い。不思議なことです。
 また、個別の楽しみは必ず減衰し、それがゼロに近づくと虚しさを残します。それが古代語における「もの」(の一つの意味)であると、最近の私は考えているのですが、まあ、それはいつかどこかで書きましょう。
 ちょっと飛躍しますが、この5年間、私たち家族に楽しみを与えてくれたある「もの」が、「もの」の宿命に則り、その役目を終えようとしています。
 それは自動車です。いつかも紹介しましたフィアットのプントです。それこそ、人からは「よくイタ車なんて乗るねえ。よく壊れるでしょ」なんて具合に、いらぬ同情はされますが、楽しみの共感はされなかった。しかし、私はこの楽しみの責任は自分でとってきました。
 しかし、いかんせん、ファミリーカーとしてはやや不安になってきましたので、涙をのんで買い替えを決意しました。
 と、思っていたら、奇遇ですなあ。同じ楽しみにはまっている人がいるではありませんか。なんとまあ、谷川俊太郎さんその方でした。プント3台目だそうです。私と違って買い替えるつもりはないと。
 谷川さん、プントの詩を書いています。その中の一節。
「私に生きる歓びとは何かを教える」
 楽しみとは、まさに「生きる歓び」を感じることでしょう。「よろこび」に「歓び」の漢字を使ったことに大いに共感いたします。

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2005.04.18

『新版 色の手帖―色見本と文献例でつづる色名ガイド』 永田泰弘 (小学館)

4095040025 昨日、日本の色についてちょっと書きました。その流れで、取り出してきたのがこの本。先日、父が置いていってくれたものです。 
 この本はいいですよ。一家に一冊常備したいですねえ。眺めて楽しい。読んでためになる。へたな小説なんかを読むより、ずっと癒されますし、勉強になります。
 この本には、500種類の色名とその色見本、そして簡潔にして十分な解説が載っています。
 昨日の記事流に言えば、お天道さまの光を500に分解しているわけでして、こうしてその豊富さに接すると、人間の素晴らしさに対して、また、全てを包含するお天道さまと、それぞれの個性でその光を反射する万物に対して、驚嘆と畏敬の念を持たずにいられません。
 それから、ものすごく単純に、色の名前が美しい。和名については言うまでもありませんが、不思議なもので、外来の色の名前もとってもきれいなんです。詳しくは本書をどうぞ。
 ぱらっぱらっとページを繰っていると、意外な気持ちにもなります。えっ?この色ってこんな色だったのか、間違ってた…というふうに。単に私の知識があいまいなだけかもしれませんが、例えば次のような色。ちょっと想像してみて下さい。
 海老色(えびいろ) 臙脂(えんじ) 駱駝色(らくだいろ) 亜麻色(あまいろ) 黄土色(おうどいろ) 青丹(あおに) 鉄色(てついろ) 瑠璃色(るりいろ)
 どうでしょう。正解は…やはりこの本を見て下さい。立ち読みでも結構です。高い本ですからね。
 この手の本は他にもありますが、西洋の色名も含まれている点、また、文学における使用例が豊富な点、そして、実用的にCMYK値とマンセル値が付記されている点において、この本は決定版と言って良いのではないでしょうか。
 また、手軽な現実逃避の道具としても、実にうまく機能しますよ。不思議と視覚以外の感覚が鈍るんですよね、じ〜っと見入っていると。まあ、色彩を感知できない動物が多いことを考えれば、とてもぜいたくな逃避方法なんでしょうが。 
 
Amazon 新版 色の手帖

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2005.04.17

甲斐の春〜色と言葉…そして

457ges 天気が良かったので、家族でドライブ。
 青木ケ原樹海を抜け、精進湖線で右左口(うばぐち)峠を越えて、甲府盆地へ。
 甲斐の国の春は本当に美しい。冬が厳しいだけあって、春の芽吹きにエネルギーを感じます。萌黄色、若草色、天色を背景に、山吹、菜の花、蒲公英、染井吉野、山桜、桃、李が、完璧なテクスチュアを織りなします。日本の色彩のこまやかなこと。そして、その全ての色たちのもととなるお天道さまのやわらかいこと。
 甲府盆地の春と言えば、ピンクの絨毯と言われる、桃の花の群れが有名です。たしかに桃源郷と呼ばれてしかるべき幻想の世界が広がっています。私も大学時代、この光景を初めて見たとき、甲斐の国の枕詞が「生黄泉」であることを、理屈でなく納得しました(理屈を言えば、奈良時代にはおそらく桃畑はなかったと思います)。
 若いうちは、本当にそのピンクに魅せられていました。しかし、歳をとるに従い、私の視線は周囲の何気ない色彩に向かうことになります。先程あげたような自然物、そして家々の瓦の色、遠く風にそよぐ洗濯物の色、そんな、ささやかだけれども確かに息づいているものたちの色が、私の心をとらえるようになったのです。
 日本人の色彩感覚が優れていることは、何度も指摘されてきました。自然や生活に対するあたたかい視線、対象と一体化する感性のなせるわざでしょう。色の和名を見ると、そうした日本人の性質が本当によくわかります。
 色名というのは、お天道さまの光を小分けにして、名前をつけたものです。かといって、プリズムを持ち出して光を分解して端から名前をつけていくのではありません。日本人は、自然物や生活の道具に反射して自らの目に入った色に、その自然物や生活の道具の名前をそのまま適用していきます。
 私たちの生活は、たとえば平安時代とは、あまりに変化してしまいました。だから、日常では色の和名などを頭に浮かべる機会はほとんどありませんね。どちらかというと「ピンク」のような外来の言葉を多く使います。そこには、日本の風土も生活も反映されていません。しかし、今日のように、おそらく平安時代とそれほど変わらないであろう風景に接すると、忘れかけていた日本の言葉が思い浮かべられるのです。これが文化の命脈なのでしょう。
 一方、昔は、自然や生活から得た「色」を、着物や絵画などに再現することも普通に行われていました。言葉というものは、再現性にその特徴があります。再現こそが目的と言っても良いかもしれません。再現性が高い語は一般性を勝ち取っていきます。それが「語る」ということ。反対に、再現性が低くなると、すなわち死語となります。
 偶然ですが、今日LUKEさんが私の駄文を引用してお書きになったことは示唆に富んでいます。実体のない言葉の再現ということが、最近増えているような気がします。その危険性については今後も検証していきたいと思っています。つまり、「騙る」ということの危険性です。

 まさに実体のある言葉をして、私に言葉の世界を開いて下さった、大村はま先生がお亡くなりになりました。恐れ多くも恩師と同業を志してしまった私。今の自分があるのは大村先生のおかげであるにもかかわらず、あまりに恐れ多くて、結局直接御礼を申し上げることができませんでした。今とても悲しく苦しい気持ちでいっぱいです。
 先生から最後に授かった言葉、「普通のつまらない国語の先生になっちゃダメよ」…これを改めて胸に刻んで、自分なりに語り続けていきたいと思います。ご冥福をお祈りします。

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2005.04.16

『今日から俺は!!ガッツだぜ17才』 伊藤裕影監督作品

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 私の職場がある町は、大昔は富士講で、昔は織物で栄えました。しかし、今では町の旧中心街は見事にすたれ、美しきゴーストタウンとなっております。特に我が職場周辺は路上観察対象(現代遺跡とか、トマソンとか、VOWとか)の宝庫ですよ。いいでしょう。
 それらがなんともいい味を出しているものですから、映画のロケ地になってしまったりします。うれしいような哀しいような。しかし、たしかに、自分が映画監督だったら、ちょっとときめいちゃうかも。東京から適度に近いしね。
 それでですねえ、実は実は、ナイショですが、ウッチャンこと内村光良さん(ご結婚おめでとうございます)の初監督作品のロケが当地で行われるようです。これは未確認かつ極秘情報ですからね。ナイショですよ。彼は日本映画学校の(前身校)のOBですし、最終目標は映画監督と言ってはばからない人ですから、大いに期待できますね。今月末から、この周辺要チェックですな。暗躍して出演の機会をうかがいましょう。
 というのは、実は8年ほど前、やはり当地で映画(と言ってもVシネマですが)の撮影が行われまして、その時ちゃっかり出演してしまったのです。ほんの一瞬ですがね。まあただのエキストラ、通行人です。
 90年代に大人気を誇った「今日から俺は」。西森博之さんによる傑作ヤンキー漫画です。その実写版も数本撮影されました。その第何作なのかなあ、よくわかりませんが、後期の作品だと思います。私が出てる「今日から俺は!!ガッツだぜ17才」。
 当時の私の通勤路(徒歩)で撮影が行われており、映画好きだった私は何とかして映り込みたいと考えました。しかし、撮影は平日の昼間。仕事中です。授業をしていると、窓越しにスタッフのものとおぼしき声が聞こえたりしてきます。これは、もう我慢できません。私は生徒に一言、「ちょっとお客さんが来ることになってるから、帰ってくるまで静かに自習してろ」と言い放ち、ひそかに学校を脱出、ロケ現場に潜入しました。
 で、結果が上のシーンです。マラソンの応援をする沿道の市民という役?なのですが…おいおい、カット!カット!ちょっと!ちょっと!そこのエキストラ!ランナーを応援しろよ!カメラの応援してどうすんの?不自然でしょうが、あんた。シロウトでもわかるでしょう、そのぐらい…。
 そう監督さんに怒鳴られても仕方ないですよねえ。でも、なぜかそのままOKでした(笑)。そして、そのまま世に出てしまいました。今でもレンタル屋さんにしっかり並んでますよ。ははは。
 写真で見るとよくわからないかもしれませんが、ビデオで見ると、これはひどすぎますよ。生徒に見せると大爆笑です。主役より目立ってるって(笑)。
 この反省に基づき、ウッチャンの作品では、しっかり演技させていただきます。その前に出演させてもらえないか…。
ウッチャン初監督作品ロケ続報

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2005.04.15

『新しい教養を求めて』 筒井清忠 (中公叢書)

4120030245 昨日からの「教養」つながりでザッと読んでみました。
 昨日自分が書いたものを読んでみると、なんとなく矛盾しているようなところもあり、もう少しじっくり考えてみようかと思ったわけです。わりとまじめだな、ワタクシ。
 まず、「教養」はエリートのものなのか、ということ。教養があるからエリートなのか、エリートになるためには教養が必要なのか。はたまた、昨日の私のたわごとのように、実は大衆のものなのか。
 大衆のコンプレックスこそが教養指向の卵だとしましょう。そうすると、見事教養を身につけた人は、晴れて大衆からニワトリ、いやいやエリートになれるんでしょうか。日本はニワトリ、いや欧米になれたのでしょうか。結局チキンだったりして。
 個人としてはどうなんでしょう。どこからがエリートなんでしょう。知識人、論壇、インテリ…かっこいいんでしょうか。憧れてみたいような、バカにしてみたいような。それから、「教養」のあとに来る「○○」って何だろう?
 なんてちょっと悩んだふりをして、大衆の代表選手ワタクシめが、生徒に「教養」を強要している(やっぱり保守的古典主義に偏るわな、学校では)。まあ、こんな小難しい話はしませんよ、授業中。馬鹿話ばっか。
 そんなことより、この本ですね。昨日の竹内さんも対談者として登場します。竹内さんは、ポスト教養を「キョウヨウ」と呼んでいます。見下してるんですね。筒井さんは、ポスト教養に期待しています。ずばり「新しい教養」。お二人のすれちがいが何とも面白い。こうなると、知識人も結局最後は「お人柄」であるのだなあ、などと大衆代表は不謹慎にも思ってしまいます。
 私は、「新しい教養」なんて言ってるうちはダメだと思いました。「教養」という言葉から脱却しなくちゃ。「新教養」じゃあ、「新エネルギー」なんて言ってるのと同じですよ。「教養」も「エネルギー」も、ただ消費されるだけなんですから。代替を考えていてはその場しのぎです。結局自己保身、自己満足、はた迷惑。
 筒井さんは、その「新しい教養」について、「マルチ・カルチュラル」「ヴィジュアル・メディア」「ボランティア」「新しい古典」「新しい理想主義」なんていう言葉を使って説明していました。それたちが、我らに与えられるコンプレックス除去装置なんですかあ?なんとも頼りないですねえ。もう充分大衆は踊らされてますよ、そういうものに。
 国の未来のためには、何が必要なんでしょうねえ。お金なんですか。教養なんですか。心なんですか。これら全部でしょうか。貧すれば鈍する。やっぱり最初のヤツが先決なのかなあ。それとも鈍する方がこの世のためなのかなあ。
 あっ、そうそう、やっぱりこの本のヒットは、突如登場する梅原猛センセイでしょう。あいかわらずぶっ飛んでますな。彼は教養を軽く超えてます。

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2005.04.14

『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』 竹内洋 (中公新書)

4121017048 教養がないより、ある方が良かった時代は、ずいぶんと昔に終わっています。いまや、教養はジャマでさえあるようです。
 この本は、明治以来、日本の文化をある面から支えたと言える「教養主義」の変遷を、興味深い分析とともに振り返る内容です。そして、滅んでゆくそれへのレクイエムとなっています。
 「教養」って何でしょうねえ。これも集団気分だったのでしょうか。本を読んで、ちょっと悩んでみて、すねてみたりする。自分はほかとは違うよ、ってことを示したかった。でも、結局それは異化ではなく同化だったような気もします。
 筆者は、農村から出てきた文学部の学生に注目します。彼らこそが教養主義者たちであり、そして彼らが教師になって(教師にしかなれなくて)、教養の再生産をする。なるほどね。実は教養とは農村という原日本へのカウンターカルチャーだったわけですか。そして、農村の都市化によって、彼らは滅んでいく…。いや、もう滅んだと。
 筆者は教養主義は復活しないだろうと述べています。そうかもしれません。しかし、どうなんでしょう。総大衆化した日本人は、今も教養を振り回しているんじゃないんですか。違うかなあ。
 教養が滅んだのではなく、教養という言葉が滅んだだけではないでしょうか。つまり、言葉のブームが去ったと。
 教養が、さっき書いたように集団気分であり、筆者が言うような性質のものだとしたら、永劫なくなりませんよ。農村の都市コンプレックスはなくなるとしましょう。しかし、次には違った面での格差が発見されますよ。なぜなら、人間は、人の下にいるよりは、絶対に上にいたいものだから。そういうエリート意識、優等感というものを持つ人が絶えない限り、○○コンプレックスというのはなくなりません。劣等あっての優等ではなく、優等あっての劣等なのです。
 たとえば、今や空前の英語教育ブーム。まったくアホらしいとしか言えません(韓国よりはましか)。一部の優等生の存在が、多数の劣等生を生み、劣等生は自ら気分を作り出していく。不安な気分になって、そして、不安を払拭するための努力に、自らのアイデンティティーを見出す。そして、集団気分は醸成される。その集団気分に浸っていることが、なんとまあ、実は安心につながったりするわけです。因果なこっちゃ。
 筆者は、教養を崩壊させた張本人として、ビートたけしを挙げています。これは卓見ですね。そういうスケールの人間が、ドッカーンとやらないと、生ぬるい集団気分は吹っ飛びませんよ。
 私は、文学部しかない田舎の小さな大学で学び、文学士となって、当然のように教師になりました。まさに、教養主義の申し子のような経歴の持ち主です。このブログも、結局のところ○○コンプレックスを振り回して悦に入っているわけで、そういう意味では、私も立派な大衆文化の継承者ということになるのでしょう。

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2005.04.13

『般若心経入門』 ダライ・ラマ14世 宮坂宥洪訳

4393133447 最近仏教がマイブームです。昨日の記事もちょっと変。そうとう洗脳されてますな。まあ、いいか。しっくり来ることが多いし、日常の中で、あっこれもだ、っていう経験が多いので。
 飽きっぽい私のことですから、そのうちまた違うことに興味を持つのでしょう。しかし、これだけは言えます。ブッダはとんでもなく賢い。ブッダの説く「空」の世界は、まちがいなく、相対性理論や超ひも理論、M理論、素粒子論などに結びついています。つまり、究極の統一理論がそこにあるような気がします。あくまで予感ですが。さすがインドは数学と哲学の国。「ゼロ」と「空」を発見した国ですね。
 さて、そんなインドでは、いろいろとありまして、仏教の勢力は極端に衰えてしまいました。その教えはヒマラヤを越えて、チベットで冷凍保存されました。中国や日本の仏教も、それこそ様々な縁起を経て魅力あるものに成長していったと思います。しかし、やはり純粋で、よりオリジナルに近い形としては、チベット仏教が重要な存在であることは確かでしょう。
 そのチベットにおける転生仏のお一人として有名な、かのダライ・ラマ14世による『般若心経入門』を拝読いたしました。
 非常に勉強になりました。以前読んだ本、例えば桐山さんの本とは違った説き方ですし、解釈自体も違いはあります。それは当然ですが、やはり、その説き方、解き方にその方の人柄が表れるんでしょうね。非常に癒されたような気がしました。
 インド仏教史、大乗の教え、さらには現代における宗教論に至るまで、常に他を認める姿勢を崩さず、冷静な視線で語られています。特に、三つのレベルの「苦」についての解説は、私にとって非常に有益でした。また、「空」を知ることが、どうやって慈悲・菩提心・利他心に至るのかという、今まで理解できなかった点が、なんとなくイメージとしてですが分かり始めた、というのは大きな収穫でしたね。般若心経のテーマが「智慧」と「慈悲」の融合にあったとは…目からウロコ。
 まあ、とにかく『般若心経』というやつは、とんでもない「言葉」ですね。日頃「言葉」の限界を指摘することを趣味としているような私ですが、こうして限界を超える言葉というやつもあるんですなあ、と感動しきり。
 そう考えると、やはり言葉の価値というものは、その内容なのでしょう。言葉それ自体では意味はありません。内容と言葉の正しい縁によって、意味のあるものになるのでしょう。不思議といえば不思議。当然と言えば当然なのかなあ。

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2005.04.12

トン・コープマン 『2声のインヴェンションと3声のシンフォニア』(バッハ)

00011 今日、仕事中にiMacG5くんが故障しました。ぎりぎりで書類のバックアップは取りましたが、あれはどうもハードディスクの不具合のようですから、ちょっと厳しい状況ですなあ。orz…。明日アップルに電話してみますわ。
 で、久々にPismoくんからの書き込みです。ホントは一冊本を読み切って、それについて書こうかと思っていたのですが、仕事が忙しい上に予想外のことに時間を取られてしまいましたから、ちょいとごまかそうかと考えました。それで、ちょこっと聴けるCDを、と思って適当に引っ張り出して来ました。
 しかし、ちょこっと、と思っていたのが大間違い。なんか、いろいろ考えさせられてしまいましたなあ。
 コープマンの演奏は一言、素晴らしい。コープマンにしてはおとなしい演奏だと思います。彼らしい、アーティキュレーション、装飾、テンポの揺れなどは聞きとれますが、その程度はいつもより小さい。コープマンの、この曲に対する思いが伝わってきます。そういう曲なんですよね。
 あまりにも有名なバッハの「2声のインヴェンションと3声のシンフォニア」。どういうわけか、子どもがこの曲を弾いているのを見かけます(聞くにたえない)。逆にプロの方で、この曲を積極的に弾く方をあまり知りません。なぜか。今日は、そこを仏教的見地から分析してみましょう(笑)。
 楽器を演奏する方なら、声部数が少ない曲ほど難しい、ということを体験的にご存知でしょう。不思議ですよね、技術的にはそれこそ子どもレベルなんですがね。
 音楽を作るのが難しい…本当にそうなんでしょうか。私は、今日この曲たちを聴きながら、こんなことを考えました。
 例えば、2声のインヴェンション。ある一つの音は、それだけでは意味を持ちません。絶対的な存在とは言えない。しかし、他の音との関係性が生まれると、突如動かしがたい意味を持って立ち現れます。他の音というのは、一つには、その声部の中での、その音の前後の音たち。つまり横の流れ、時間の流れにおける関係性。そして、二つ目は、もう一つの声部の音との関係性。縦の関係性です。こちらはほぼ共時的。
 こうした関係性が、その音を意味のある音たらしめているわけでして、これはまさに、仏教で言う、「空」「無我」「不二」「縁」の思想に通ずるものがあります。
 その関係性ですが、関係を持つ最小単位は「2」です。最大は無限大でしょうか。宇宙はほぼ無限の関係性によって存在しています。地球に絞ってみたり、さらに自分の存在に絞ってみても、かなり多数の「縁」が存在していることが想像できます。
 「縁」が多いということは、現象としては大変複雑になるわけでして、しかし一方では複雑だからこそ、「あそび」も生まれます。お互いがクッションになって、誤差を吸収していくのです。逆に、関係が少なければ少ないほど、そうしたあそびはなくなっていきます。どんどん、純粋な絶対性が強くなってくるわけです。そういう中に、自分が入り込んで、新しい縁を作ることが、とても難しいのです。
 特にバッハはそういう音と音との関係性(縁)を、ほぼ完璧に操ることの出来る天才でしたから、私たち凡人がそこに加担するというのは、とても勇気のいる難しいことなのです。
 それができるのは、それなりの大人か子どもだけでしょうね。
 なんて、どうでもいいこと考えちゃいました。あんまり真に受けないで下さいね。

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2005.04.11

『花の大江戸風俗案内』 菊地ひと美 (ちくま文庫)

4480037764 先日、吉原関係者の方にリンクしていただいたのをきっかけに、学生時代勉強した江戸の風俗を復習しようかな、という気になりまして(単純なワタクシ)、この本を買ってみました。いや、カミさんも大いに興味を持っていたので、買ってやったとも言えますかな。
 そんなわけで、かなり忘れてしまっていたワタクシも含め、初心者にはとっても分かりやすい素晴らしい本でした。
 著者の菊地さん、本職はイラストレーターということですが、そのイラストのみならず文章の方も、なかなかお上手です。内容的には目新しいものは見出せませんが、とってもうまくまとまっている感じです。
 それにしても、やっぱり江戸の文化って、おたくですね。萌えてるんですよ。いろんなところに。
 吉原というと、性的なコミュニケーションの場というイメージが強いと思いますが、それは実は究極の目的ではなく、それへのプロセスやシステムを楽しむ場であるとも言えますよね。人間自体、つまり人格に対する好意や、本能的な欲望ではなく、フェティッシュな嗜好が顕著なのです。遊女に対する意識も、実はある一定以上の距離を保持している。もちろん、歌舞伎役者に対する気持ちもいっしょです。
 どなたかが、「萌え」と「韓流」の類似性を指摘していました。なるほど、どちらも実体に対する直接的な感情ではない。属性としてのイメージ、そして物に対する愛情。また、そんな自分への愛情。ある意味、とても消極的な愛情なのです。命がけではない。にこにこ、にやにやしてるんですね。
 消極的であることは、安全であることをも意味します。その安全の中には、果てることない快楽、享楽があるのです。実体的な満足は、虚無感しか生まない。だから、寸止めする。快感は持続する。
 心中や駆け落ちになるのは、本来の道をはずれた結果です。おたくの世界でも、萌え道(?)を踏み誤って、ニュースに出てしまう人がいますよね。たまに。
 こんなふうに考えていくと、自分にもそういう部分が多々あることが分かりますし、日本文化の基底にも脈々とそうした感情が流れ続けている、ということに気づきます。面白いですね。

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2005.04.10

ベビースターラーメン 新潟限定 『みそ味 お米のラーメン』

S0061 春休み、秋田からの帰りに新潟で買ってきた「ベビースター」、とってもおいしかった。「みそ味 お米のラーメン」です。
 おやつカンパニーの商品開発力は本当に素晴らしいものがあります。単なるお菓子の域は超えてますね。ジャック製菓的なお菓子世界も好きですが、こちらはこちらでいかにも日本の職人技という感じがしていいですね。
 私はご多分にもれずベースは「チキン派」なのですが、その他のヴァージョンにも大変興味があります。特にご当地モノにはついつい手が伸びてしまいますね。伊勢うどんも美味かったなあ。ベビースターとしてもお土産としてもかなり高価なんですが。ちなみにこれも20g8袋600円!昔の駄菓子は今やグルメ。
 さて、このお米のラーメン。越後味噌味なのですが、意外に辛味もなく、また塩気も気になりません。このあたりのさじ加減が絶妙なんだよなあ。続けて食べられる。そして、麺がまたいいですねえ。コシヒカリがまぶしてあるようですが、とにかく食感がいい。サクッとしている。普通のベビースターよりも口溶けがよく、子どももムシャムシャ食べてました。クセになりますな。
ANY881 と思ったら、やられた!ウチの黒猫の大食漢の方、弥右衛門というのですが、私たちが目を離したスキに、しっかり平らげやがった。いやあ、食い意地が張ってるヤエなんですが、ベビースターを食べるのは初めて見ました。他のヴァージョンだと見向きもしないんだけどなあ。それほど美味いのか!
 別に米が好きなわけでもないし、味噌が好きなわけでもないし、ベビースターが好きなわけでもないのに、いったいなぜ?まあ、彼の味覚のツボにはまったのでしょう。
 自分の分がなくなっていたのを発見した下の娘は大泣きして、ヤエが食べ散らかしたラーメンくずを、床から拾って食べていました(笑)。う〜ん、そこまで美味いのか!
 そんなわけで、残り少なくなったお米のラーメンをめぐって、種を超えた熱き戦いが続く我が家でありました。

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2005.04.09

究極の春の味覚「桜えびの天ぷら」ほか

sany0094_11 先週末に続き、今日も春の味覚を楽しみました。う〜ん、幸せ。
 今日は久々に静岡の実家から父親が来ました。この季節の手土産は、定番「桜えび」です。海の幸としては、私の最も好きなモノ。静岡市からこちら鳴沢村に来る途中に、桜えびの産地由比があります。そこで、とりたての生桜えびを買ってきてくれました。
 桜えびは今でこそメジャーな存在になっていますが、本来は駿河湾の特定の海域にしか生息しない、たいへんレアなエビです。静岡でも明治時代までは、その存在すら知られていなかったとか。今では、和食のみならず、洋食のレシピにも登場するほどメジャーになりましたね。
 しかし、だいたい静岡以外で流通しているのは、いわゆる天日干しにしたヤツでして、生でそのままいただけるのは、静岡だけでしょう。父が買ってきてくれたものも生食用でしたが、今日はぜいたくにもソイツを天ぷらにしていただいちゃいました。
 カップリングに登場いただいたのは、先週に続き「ふきのとう」です。まさに海の幸と山の幸の競演。世界最高の贅沢でしょう。
 ふきのとうは先週練習したので、まあまあ上手に揚がりました。で、続いて桜えびの天ぷらに初挑戦しようとしたら、カミさんが「これは私にやらせて」と言います。なんでも生桜えびをかき揚げにするのに秘策があるらしい。たしかに、いわゆるかき揚げブロックにするには、なんからのつなぎが必要なような気もします。というわけで、一任しました。しかし、私も一言「本来生食用なんだし、ぜったい揚げすぎないでくれ」…。
 さて、結果としては大成功。たしかに今までで一番上手に揚がっています。衣サクサク、中プリッ。父親と呑み始めちゃっていた私は、結局カミさんの秘策を盗むことができませんでした。
 それにしても、この香ばしさはいったい何なんでしょう。姿形、色合いも含めて、芸術的な食材ですなあ。今日は正直、海の勝ちです。山敗れたり。父は山にもご満悦でした。そういうものでしょう。
 さて、その他は実にシンプルです。上の写真は小さくて見にくいと思いますが、手前左がこの前おススメした納豆汁。秋田のワラビと謎のキノコ、豆腐に油揚げが入っています。右がチャル釜で炊いたカミさんの実家製あきたこまち。上にちょこんと乗っているのは、ふきのとう味噌です。あれっ、左右逆だな。まあ、いいや。で、左後が秋田のお酒、美酒爛漫の本醸造「原酒湯沢」です。秋田のお酒はお酒らしく甘いのが普通ですが、これは原酒にしては比較的サラッとしており、天ぷらの味を損なうことがありませんでした。
 と、今日の夕飯はこんな具合。静岡と山梨と秋田の味覚によるコラボレーション。すぐれたプレイヤーによる競演でしたが、お互いの持ち味を活かしあいながら、絶妙のハーモニーを生んでくれました。
 何度も言います。日本人でよかったなあ。やっぱり選ばれし民族ですよ。世界中がこんな具合に満たされていたら、争いや憎しみは生まれないでしょうね。宗教もいらないや。自然が神です。人が神です。ありがたや、ありがたや。

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2005.04.08

キース・ジャレット 『ザ・ケルン・コンサート』 CD&スコア

Keith Jarrett 『The Koln Concert』 CD&Score
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 今日は入学式。私は3年生を担当することになり、受験生を抱えることになりました。受験指導、結構好きなので楽しみです。
 さて、今日の入学式ですが、式が始まる前の会場内BGMに、キース・ジャレットのケルン・コンサートを流してしまいました。いつもはクラシック(ラルキブデッリによる古典派)とゴンチチ(妙な組み合わせだな)なのですが、たまたま昨日、同僚に貸していたケルンのスコアが数年ぶりに返ってきたので、久々に聴いてみたくなったのです。って、ずいぶん個人的な理由ですな。まあ、いいや。放送関係担当の特権。
 久々に聴きましたが、やっぱりやっぱりすごいですな。すごいとしか言いようがない。そんなわけで、式終了後、時間があったので、同僚とともにスコアを見ながら全曲聴いてしまいました。
 キースが30年前に起こした奇蹟については、今さら私は何も言いません。言えません。とにかく、世の中で最も信じられないコトであり、しかし現前しているコト、しかしやっぱり信じられないモノ…そうとしか言えません。それは神か物の怪の仕業としかとらえられません。だから、最初から降伏します。すごい。
 たぶん、超ひも理論が実感できないレベルでわからないのだと思います。でも、キースがあの日、全くの即興であの作品を残したというのは、どうも事実らしい…。人間ってすごいですね。同じ種として誇りに思います。
 さて、スコアの方、こちらもすごい代物ですよ。これは理解できます。人間に可能な技であることは。しかし、これを実際やってしまったことについては、一人でシソーラスを作ってしまうイギリス人や日本人に対するのと同じレベルで理解できません。ものすごく面倒くさいことだと思います。それをホントにやってしまうんだから、日本人ってすごいですね。同じ民族として誇りに思います。
 楽譜にするという勇気ある試みは、キースにとってはちょっとありがた迷惑だったようですが(キースによるまえがきがしゃれてます)、私たち凡夫にとっては単にありがたいだけです。「(印刷された)インプロヴィゼイションの絵画」を見ることができるようになることが、その音楽自体のさらなる偉大さを確認するための、大きなきっかけとなるからです。
 楽譜という言語体系を多少は理解する人、また、ピアノという楽器を少しでもたしなんだことのある人は、この絵画によって、ますます打ちのめされるでしょう。奇蹟が言語化することによって、より奇蹟に近づいていくのです。簡単に言えば、「楽譜を見て練習しても絶対に弾けません!」ということ。
 さらに、絵画としての美しさまで提示される…武満徹がこのスコアを見て、「なんだバッハじゃないか」と言ったとか…。バッハの例を挙げるまでもなく、偉大な音楽の楽譜は、一流の絵画となりうる。
 う〜む、まさに多次元宇宙ですな。となりの次元、となりにある膜の世界を、ちょっとでも垣間見させてくれるのが、キースの音楽なのかもしれません。
 しかし、妙に疲れたなあ、異次元旅行も楽じゃないのか。

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2005.04.07

YOSHII LOVINSON 『WHITE ROOM』

B0007IMMWE 吉井和哉さんのアルバム、ようやく買いました。これは名作の臭いがプンプンしますぞ。
 ご近所(河口湖)に引っ越して来られたので、どこかでご縁がないかなあ、などと勝手な想像をしております。うん、このアルバムを聴いたら、ますます夢がふくらみますなあ。ホントつぼをよく心得た、それでいて個性豊かな、ずばりベテランの味ですぞ。
 まず、曲が大人です。イエモン時代は、ある意味いたずら小僧っぽいところが魅力だったのですが、このアルバムは全編にわたって、非常によくできた曲が並んでいます。それも、なんというか、限りなくシンプルなんですよ。コード進行も1ヶ所を除いてほとんど普通だと思います。リフレインも多いですし、演奏も無駄な音がほとんどありません。
 普通、こういう評が与えられるアルバムは、単調に陥りやすいのですが、これは全然違いますね。聴けば聴くほど味が出る。月並みな言い方ですが、結局そういう深みのある楽曲の連続なわけです。
 少し左脳で考えてみると、こういう名曲の条件というのは、やはり「魅力的なパッセージ」にあるのだと思います。どの曲も「あっ素敵!」と思えるところがあるわけです。それがだいたい1曲について1ヶ所なんですね。安易なJポップスでは、媚びを売るように常套句を連続してくる。結局それが続けて聴くことを拒否するんですね。
 吉井さんの曲は、そのへんのさじ加減が絶妙なのです。だからある種の期待をもって、どの曲も聴くことができるわけです。今日もあの子にあえるぞ、って感じ。もちろん、全体の風景もしっかり吉井村してて魅力的なんですが、その各シーンに素敵なあの子がいるんです。いつもの辻に。これは音楽にとってとても大切な要素だと思います。
 そして、曲とともに、何と言っても「詩」ですね。吉井さんの詞は、やっぱり見事な現代詩です。全体的なセンスとしては、イエモン時代と大きな変化はないのかもしれません。しかし、やはりどこか力みが消えて、自然体になっているような気がします。それでいて、完全なるロックの言葉。ロックな日本語。このロックな日本語を操れる若者がいないんですよね。みんなフォークか演歌になっちゃってる。世の中がそれを要求しているのですから、仕方ありませんけれど、ペンは武器でもあってほしいですよね。
 まだ、買ったばかりですが、これから大いに聴き込んで、自分の血や肉にしたいと思える、そういう特別な臭いを発するアルバムでした。恐るべし、吉井和哉。

吉井さんの詩に基づくエッセイも、よろしかったらどうぞ

「39108」の記事へ

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2005.04.06

黒猫マスコット(Maukie)

この黒猫ちゃんは動きません
maukie 一昨日、あるところからのアクセスが異様にたくさんあったので、そのリンク元へ行ってみました。
 そうしたら、な、な、なんと…。うれしいやら嬉しいやら何とやら、正直ちょっと戸惑ってしまいました、ははは。
 なんとまあ、吉原の有名なソープ嬢さんのブログではないですかあ!!入れ墨面積吉原一!!
 いや、ちょっと待って下さい、そ、そんな、疑わないで下さい。あの、え〜と、その…、冷静になれ!自分。
 え〜、全く面識ありません。そのお店には行ったことはありません。ん?日本語は難しいな。そのようなお店には行ったことがありません。登楼など夢のまた夢…。
 で、で、どういうわけかと申しますと…。
 その方はとっても猫がお好きなようで、毎日のように記事に猫ちゃん(キティちゃん含む)が登場しております。で、4月4日の記事は、ポール・ギャリコの「猫語の教科書」に関するものでした。そこに私の10月20日の記事がリンクされていたのです。
 なぜ、私の記事が採用されたのかは全くわかりません。ちょっと前までは確かにググるとかなり上に位置していたのですが、最近はロボットが見落としたらしく、その記事自体は引っかかってきません。まあ、私の記事は完全リンクフリーですので、全然OKなんですが、なんとも不思議な因縁でございますなあ。
 さて、いちおう感謝の意もこめまして、その方のブログをよく読ませていただきましたが、猫に対する愛情のほど、痛いほどよくわかりました(入れ墨の方が痛そう)。
 で、その中になんとも可愛らしい黒猫ちゃんがいらっしゃるではありませんか。非常によくできているflashです。これはどうしても我がブログでも飼ってみたい、と思いまして、いろいろ調べて左上に設置してみました。
 どうです?可愛いでしょう。猫のことを本当によく知っている方の作品ですね。作者は不明だそうですが。
 目の動き、ゴロゴロ、鳴き声なんかも実にリアルです。ちょっとした耳の動きや、ヒゲとか、目の上の毛…ありゃ、まつ毛なのかなあ、まゆ毛なのかなあ…の微妙な揺れ具合なんかも絶品です。
 このような黒猫ちゃんとの出会いを作ってくれました○○さんに感謝いたします。ほんとは○○さんのブログにもリンクしたいところですが、ここは生徒も見ますからね。いちおう自重しておきます。

Maukie Home
設置方法はここが詳しい

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2005.04.05

『ニャンとかしてケロ』 ジャック製菓

nyankero g03
 学校で駄菓子屋さんを開店する話は先日書きました。で、販売する商品の中で一押しなのがコレです。
 味とかなんとかではなく、やはりセンスでしょうな、私の琴線をかきならすのは。う〜む、心乱れる。
 まずネーミング。これはあなどれません。東北弁でしょうか。ジャック製菓は大阪の会社ですが。
 そして、デザイン。猫も蛙もデザイニングが難しいことで昔から有名です。山梨県ロンドン生まれのキティちゃんは、まあ偶然の成功例として、けろけろけろっぴではもう失敗しています。
 特に猫は難しい。熱狂的な蛙好きはあんまりいませんが、熱狂的な猫好きはたくさんいます。ことに黒猫は、基本的に輪郭と目だけで勝負ですので、デザイナー泣かせなのです。その点、ジャック製菓は素晴らしい仕事をしています。ニャン、ケロともに実にバランスの良いデザインです。それも最もシンプルな方法で成功しているわけですから、これは神業。偶然ではありません。
 …と思いきや。
 ジャック製菓の他の製品を調べてビックリ!!会社のサイトがないので、ここでどうぞ。上の方がジャックの製品です。
「吉田屋」さんのサイトより
 やっぱり神業だあ!違う意味で。素晴らしすぎます。
 ネーミングもパッケージデザインも実にシュール。美しささえ感じませんか?もうこうなると、美術と文学の幸福な結婚状態ですな。芸術性を軽く眼下に見下ろす「駄性」とでも言うのでしょうか。こういうものたちが私たちの心を心地よくかき乱すのは事実なのですから、やはり何か命名されて然るべき属性が存在しているのでしょう。
(私はふざけているのではありません。まじめです)
 先ほど、美術と文学と申しましたが、そこにさらに味が加わるわけです。味覚の「駄性」は、駄菓子である時点で、おそらくクリアーしているはずですから、この三者の醸すハーモニーがいかに私たちの心をとらえるか、推して知るべしですね。
 こういった、芸術性と対極にありながらも何らかの魅力を持つ属性について考えてみるというのも、なかなか楽しいものです。つまり、自分にそういうものと共振する何かが存在するということを確認する作業になるのです。
 上の吉田屋さんのサイトにはありませんが、究極の駄的作品はこれでしょう。上の方ね。ちなみにコーラ味だそうです。
「みぞた商店」さんのサイトより
 ほら、あなたも食べてみたくなったでしょ。駄は芸術よりも普遍なり。

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2005.04.04

NHK BS世界のドキュメンタリー『美しき大宇宙〜統一理論への道(3)驚異の高次元空間』

Witten 昨日はあんなに春を満喫したのに、今朝起きたら一面真っ白。15センチほどの積雪がありました。まだまだ冬も負けじと頑張っているようです。
 さて、この番組ですが、昨日再放送されたものを録画しまして、今日学校で生徒たちと一緒に見ました。私も含めてみんなすっかりとりこになってましたね。ここまで物理学は進んでいたのか…。
 わかりやすい解説と、めくるめくCG。専門的な内容はあえて避けて、ただ、私たちの知らない世界がいくらでもあるんだということを見事に伝えてくれた、本当にいい番組でした。
 あらゆる科学は最終的には物理学と数学に収斂されていく。そして、それらは宗教と同一のものになっていく。そんな予感をさせる内容でしたね。
 「超ひも理論」でさえも、かなりファンタジックな世界ですし、さらにそれを超える11次元の「M理論」に至っては、これはもう限りなく霊界の様相に近くなっているような気がします。
 偉大な宗教家、本物の宗教家は、我々凡夫が感知・認識できる4次元の世界を軽く超越して、多次元世界に住んでいたんでしょうね。仏典や霊界物語などを読んでいると、どうしてもそんな気がしてきます。
 そういう観点からすると、M理論を提唱したウィッテンさん(写真)なんか、本当にブッダやオニさんと同じレベルの人ではないかと思われます。実際、番組に登場していたウィッテンさんは、妙に飄々としていて、他のただ単に頭のいい科学者さんたちとは明らかに一線を画しておりました。あやしいアウラが…。
 ブッダによれば、本来私たち凡夫も高次元を感知・認識できる能力を持っているわけで、ただ、それを間違った意識と生活とによって、自ら殺してしまっているのです。
 本来の道から逸脱する、その原因の一つが科学だと思うと、何か不思議なものを感じますね。この逸脱と再帰も宇宙のプログラムの一つなのでしょうか。
 それにしても、世の中には頭がいい人がたくさんいるのですね。目に見えない世界を数式によってイメージ化するなんて、私にはとても無理です。「数と式」というものが、もしも宇宙の統一理論を表現できるのだとしたら、それらは人間が生み出した最も優れたメディアだということになりますね。統一の正反対、拡散に向かう「言葉」とはずいぶんと違います。
 しかし、数式だけで全てが表現されてほしくないという感情もあります。たとえばそういった感情というものは、やはり言葉が受け持つべきなのでしょう。しかし、それもしょせん人間の独りよがり。人間も宇宙の一部に過ぎないことを考えれば、すなおに数式におさまっておればいい。そこから逃れようとすること自体が、私たちの原罪なのかもしれませんね。心の平安と世界の平和…これもしょせんエゴなのかもしれません。
 私は理系の世界も好きなのですが、どうもこうやって言葉にしてみると、やっぱり文系なんですねえ。自分を過大評価して、宇宙と対峙させようとしている。バッカみたいですねえ。

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2005.04.03

「ふきのとう」の天ぷら

fuki 富士北麓もめっきり春らしくなりました。庭の雪もほとんど消え、かわりにたくさんの緑が芽吹いてまいりました。
 今日は、そんな我が家の庭にポコポコと頭を出し始めた「ふきのとう」を娘と摘んで、天ぷらにしてみました。毎年恒例の行事です。これから富士山麓は山野草・山菜天国。1年の中でも特に素晴らしい季節ですね。
 富士山麓は基本的に火山灰や溶岩流の上ですので、植物たちにとっては、決して恵まれた環境ではありません。肥沃な土壌とはとても言えないのです。そのため、全体に植物のサイズは小ぶり。しかし、そういう場所でたくましく生きているだけあって、なかなか強い香りや味を持っています。生命力とでも言うのでしょうか。食べてもなかなか刺激的です。「ふきのとう」も小粒でピリリと苦い。それがたまりませんね。 
 開ききっていないつぼみのものと、少し花の開いたものを半分ずつ摘みます。食感が全然違うので飽きがきません。
 冷水できれいに洗い、衣をつけます。衣は普通の天ぷらのものより薄めに。天ぷら粉は冷水でときましょう。なるべく油との温度差があった方がおいしく揚がります。
 油の温度は170度から180度。とは言っても、私は温度計では計りません。カンです。
 なるべく短時間で揚げましょう。摘んで30分以内に食べちゃうのが、最高のぜいたくです。
 今日は、揚げたての天ぷらをご近所に持ち込み、一杯やりながら食しました。う〜む、春がお口の中にじんわりと広がります。厳しい冬を乗り越えて味わう春の味覚は最高ですね。幸せな瞬間です。ちなみに呑んだのは「菊水の辛口」。天ぷらにぴったりのお酒。
 「ふきのとう」に限らず山菜は全て薬草でもあります。「ふきのとう」は食欲増進、健胃効果があります。今日は「ふきのとう」のほか、海老の天ぷらや鮪の刺し身などの海の幸も用意しましたが、たしかに食が進みますな。あ〜、うまかった。日本ってホントいい国ですね。日本人でよかったあ。特に今年は花粉症もないし。
 夜、やわらかい春雨に濡れながら自宅に帰ってきました。山の春は生きる力を与えてくれます。生かされている自分を実感します。本当にありがたいことですね。

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2005.04.02

家庭用UFOキャッチャー

4944536055317 今度、ウチの学校で駄菓子屋さんを開店するそうで(なんでだ?)、私は直接の担当ではないのですが、駄菓子屋マニアの私としては黙っちゃいられない。商品の選定など多少口出しさせていただきました。
 あと、アイデアとしてUFOキャッチャーの導入を提案しました。ほとんど私の趣味ですな。それが見事採用されまして、言い出しっぺが機械を買いなさい、ということになりました。
 ホンモノのUFOキャッチャーなんて、もちろん買えませんよね。てなわけで、家庭用小型UFOキャッチャーを購入いたしました。4000円弱です。
 実は前々から目をつけていたんですよ。私自身UFOキャッチャーにかなりはまっており、子どものためとか言いつつ思いっきり散財してますので、ああ、家にマシンがあればなあ、と思っていました。でも、まあパチンコと一緒で、非・私性とギャンブル性がないと楽しくないんでしょうな。だから、ちょっと欲しいけど、4000円も払うのはねえ…。こんなふうに躊躇していた折、仕事の延長で買うことができるようになったわけですから、そりゃ嬉しいですよ。
 で、買ってみました。学校に届いたので、職員室で開封し、そのへんにあったお菓子を中に放り込んで早速プレイ!
 ちゃんとプレイ中に音楽がかかります。それもタイムリミットが迫ると、それらしい音楽に変わります。ブツをゲットすれば、ファンファーレと拍手が鳴り響き、失敗すれば残念音がなります。うん、小さい割によくできている。
 ちなみにプラスチックのコインが付属していますが、10円玉などでもOK。ちょっとした貯金箱にもなります。中にいれるブツはなんでもいいわけで、私は1万円札を放り込んで、自分でとって狂喜乱舞しておりました。ははは。
 ところで、最近のホンモノのUFOキャッチャーもいろいろと進化してますね。ちょっと複雑化しすぎてるような気もしますが。中のブツも結構高価なものが増えています。とは言っても、実際には風営法だか景品表示法だかで、中に入れる景品は800円以下と決められているんですよね。でもどう見てもそれ以上のブツが入っているのを見かけます。都会では違法がほとんどだと聞きます。
 てことは、私が1万円札を入れるのなんて、こりゃ違法も違法です。見つからないように家で一人でコソコソやらねば(笑)。
 あっ、そうそう、あとこれはホント子どもだましですが、ネット上で本家UFOキャッチャーができる所があります。一応抽選で景品がもらえるし(って当ったためしありません)。セガのサイトです。お人形がみんな並んで立ってるところからしてギャグですが、意外と難しくてついついはまっちゃいます。タダですしね。たまにはいいかと。

あきばおー

セガ

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2005.04.01

エイプリル・フールの起源(新説)

sakura01 今日はエイプリル・フール。きっと世界中の新聞やネット上では、楽しいウソが大量生産されていることでしょう。何年か前の東京新聞、「きんさん、ぎんさん、どうさん」はなかなかセンスの良いウソでした。日本人ってそういうシャレが意外に下手ですよね。
 「嘘つきは泥棒の始まり」なんていう言葉を、幼少より耳にタコができるほど聞かされている我々人類は、それでも一方では「ウソも方便」と嘯きつつ、自らの人生をウソで彩り、ウソで固め、ウソで演出して生きています。
 まあ、世の中事実ばかりでは、あまりに残酷です。小説もドラマもプロレスもダメなんて、そんなの地獄の沙汰ですよ。
 で、なぜこんな日が生まれたのか。
 キリスト教にまつわる説もいくつかありますが、イエスの命日とするのは明らかに間違いですし、ユダの裏切りを忘れないためにその日だけウソをついてもいいなんていうのも、どう考えても冗談。
 仏教徒が春分の日から7日間修行しても、4月1日にはまた俗世間に溺れるので、その日を「揶揄節」と呼んだ、というのも変ですねえ。だいたい「揶揄節」っていうものがあるんでしょうか。シャカ暦は春分の日あたりを元日としますから、一週間たったら1月7日ですかねえ。それがヨーロッパに伝わって4月1日になるというのは考えにくいですな。
 つまり、そういった巷間でまことしやかに語られている起源自体、ウソっぽいわけです。面白いですね。
 だいたい、クレタ人のパラドックスじゃないけれど、「今日は1年に1回だけウソをついていい日ですから、今からウソをつきます」という宣言自体がウソだとしたら、え〜と、どうなるんだ?ん?あ〜めんどくさい。
 というわけで、ある文献によって私が調べたところによると、どうもエイプリル・フールは日本起源のようです。それもかなり新しい風習のようです。
 西暦1998年4月、NHKBS2の衛星アニメ劇場で「カードキャプターさくら」の放映が始まりました。当時、衛星放送受信機器を所有していなかった多くのオタクたちが、こぞってBSチューナー内蔵ビデオを購入したと言われています。しかし、当時、同ビデオデッキの相場は7万円くらい。経済力のない若年のオタクの皆さんは、自らのお小遣いでそれを購入することができませんでした。そこで、大量生産されたウソがこれでした。
 「6月のワールドカップ見たいからさあ、BS内蔵ビデオ買ってよ。日本初出場なんだよ。お父さんも見たいでしょ」
 この時出荷されたこのタイプのウソは、派生モデルも含めると、推定85万台に及ぶと言います。そこで、このような大きな経済的効果を生んだ国民的ウソを記念し、4月1日を「四月馬鹿」と名付け(つまり親がバカなのです)、類似の効果を生むことが期待される前向きなウソについては、その日に限って、考案・供給されるも可とすることが決定したのでした。この日本の風習「四月馬鹿」が英訳され、「エイプリル・フール」となって拡がり、今や全世界でのお馬鹿行事にまでなったのです。
 ちなみになぜ4月1日になったかというと、分かる人には分かります。
 木之本桜の誕生日が4月1日だからです。以上。

 NHK

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