『「わからない」という方法』 橋本治 (集英社新書)
数日前おススメした内田樹先生の『先生はえらい』。そこで「謎」の話が出てましたね。今日はそこにつながりのある本を読んでみました。橋本治先生の本です。
また、頭のいい人の本ですね。頭のいい人が「わからない」って言うのがにくいっすね。
頭のいい人が謙遜するのって、かっこいい時もありますが、ちょっとイヤミに聞こえる時もありますよね。「自分のバカさ加減をリアルにクールに自己評価できる=知性」という内田先生の意見には大賛成ですが、バカさ加減を知るのにも知性が必要ということですから、結局自他共に認めるバカになるためには知性がなくてはならない、というパラドックスに陥るわけです。
そうすると、バカにもえらい人にもなれない凡人がうようよ発生するわけで、結局世の中は変わっていかないんですよ。ただ、ほとんど無に近い可能性にかけて、えらい人は本を書く。それがなくなったら、全員が凡人になってしまって、たぶん世の中は終わりを告げるのだと思います。
さあさあ、そんな凡人の戯言はいいとして、さて、このえらい人の本ですが、そうですね、なかなか勉強になりました。
「わからない」をスタートとして「わかる」を経て「わかった」のゴールに至る。その通りでしょう。えらい人にはそれができます。
我々凡人はまず、「わからない」ことに気づかない。「わからない」ことがなんだかわからない。そう、「無知の無知」なのです。そしてよしんば「わからない」ことがわかったとしても、どうしてわかればいいかわからない。だからゴールには永遠に到達できません。
また、橋本先生がおっしゃるように、その道筋には根性が必要です。しかし、私には「天を行く」ことも「地を這う」根性もありません。
やっぱり、人の才能というのは「やる」か「やらない」か、「やれる」か「やれない」かが最終の分岐点になるのですね。そう考えると、たしかにえらい先生にも本当のバカにもなれないわけです、私は。
ただ、せめてただの凡人ではなくて、いろいろもがいて苦しんで楽しんでいる生きた凡人になりたい。この本を読んで、そんなことを思いましたね。じたばたしてる凡人。
私にとっては、「わからない気がする」→「でもわかる予感もする」→「ちょっぴりわかろうともがく」→「わかったような気になる」→「冷静に考えるとやっぱりわからない」→「でもちょっと満足」、この繰り返しが理想です。だから、「わからない」という方法ではなくて、「わからない気がする」→「でもわかる予感もする」という方法がスタートなのです。
そこに必要なのは思い込み。あとは唐突ですが、インターネットにつながる環境。インターネットで人の脳ミソと根性を拝借するという作業が、「ちょっぴりわかろうともがく」です。 それで「わかったような気になる」 わけですね。なんとも底の浅い思想であり、体験であります。
てなわけで、「冷静に考えるとやっぱりわからない」。「でもちょっと満足」。その満足が、例えばこのブログであったりするわけです。
あれあれ、ついついカミングアウトに紙面?を費やしてしまいました。最後にもう一度本題に戻ります。
この本は、筆者自身が語っているように、かなりしつこい内容です。ご自分の「わかる」プロセスを開陳した結果そうなったわけですが、その厖大なプロセス(例えば編み物の話とか、エコールドパリの話とか、枕草子の話とか)を読ませられて、凡人の脳裏に去来する言葉は、結局、
「この人頭いいわ」
でした。
Amazon 「わからない」という方法
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コメント
ども。
さっそく『桃尻語訳枕草子』読んで、楽しんでます。もっとも、桃尻語というのは賞味期限が短い日本語ですから、いま読むと、なんだかなあ、という感じもありますね。いま、ナウイなんていわれてもねえ。
投稿: かわうそ亭 | 2005.07.12 19:56
かわうそ亭ご主人様、こんちはです。
そう、桃尻語訳って私が現役高校生の時ですからねえ。
今読むとちょっと辛い。
ってことは、枕草子を原文で読むのが辛いのは当たり前ですね。
なにしろ1000年前の女子高生ですから(笑)。
それにしても橋本治さんって頭いいですなあ。
正直憎いっす。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2005.07.13 17:20