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2004.12.31

紅白 対 格闘技

 大晦日と言えば紅白、という時代はいつの間にか終わってしまいました。だからと言って、 NHKを責めるのはどうでしょうねえ。今年はNHKには特別の事情もありましたから、いろいろバッシングを受けるのも仕方ありません。しかし、ああいうコンセプトでああいうコンテンツで4時間以上昔のように盛り上げろというのは、所詮無理です。努力不足とかそういうことではありません。今や紅白バッシングが年末の恒例行事、紅が勝つか白が勝つかではなく、いつ本当に紅白が裏番組に負けるかが関心事項になっているようです。
 しかし、よく考えてみると、例えば、今人気がある格闘技の番組を今後何十年も同じテンションで続ける、というのが無理であることが分かります。レコ大でさえ、きついんですよ。レコ大はやめてもいい。いつか終わるでしょう。でも、紅白は終われないんです。
 元々NHKと民放が同じリングで戦うべきものではないんですよね。完全なる異種格闘技戦、いや異種競技戦。
images6767 それにしても、たしかに紅白は楽しくなかった。いつも思いますが、あまり時流に惑わされず、世界に出しても恥ずかしくない日本の歌を紹介し続ければいいような気がします。視聴率なんてどうでもいいですよ。
 一方の格闘技。今年はプロレスイベントがありませんでした。本当のところは年末にはプロレスは似合わないのです。正月気分にピッタリなのです。だから、まあ良し。
041231_kak_k1_06_dj01_s K−1はセミとメイン以外はまあまあ面白かった。特に魔裟斗と山本“KID”徳郁の試合は久々に興奮しました。KIDは天才だ!彼は戦いのカリスマ性を持っています。お姉ちゃんたちもすごいですけれど。それにくらべて、サップと曙の不甲斐なさ。スピリットで負けてます。プロとして失格!
041231_kak_pride11_3_s PRIDEは全体に良かったと思います。クオリティーの高い試合内容が続きました。メインとセミの緊張感あふれる試合にもしびれましたが、ワタクシ的には近藤有己とダン・ヘンダーソンの攻防が面白かったですね。とても内容の濃い試合でした。
 とにかく、テレビというのは見たい人が見たい番組を見ればいいわけで、全部見たければ録画すればいい。大晦日ぐらい弱いものいじめ(強いものいじめ)はやめたいものですね。まったり過ごして、行く年来る年で煩悩を洗い流し、気持ちを新たにすればいいのでは。文句を言いながら年越しでは、美味いそばもまずくなりますよ。

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2004.12.30

『ネコ族の夜咄』 村松友視, 南伸坊, 小池真理子(清流出版)

4916028562.09.MZZZZZZZ この本はひどい本です。
 まずネコなんかに興味がない人にとって、これほどつまらない本はない。こんなものが出版されていいのかというくらい、どうでもいい本でしょう。
 一方、ネコ族にとっては、まさに心躍らせる、仕事も手につかなくさせる困った本です。
 私は後者ですので、やはり困りました。大掃除なんか全然できない。
 村松友視、小池真理子、南伸坊、3人とも確かに筋金入りのネコ族ですね。くやしいけれど、私は完全に負けてますね。私はネコ族の2軍って感じです。カミさんは完全に1軍レギュラーですが。
 さて、この本を堪能して思ったこと。ネコの魅力は禅に通ず。
 本書の中でも皆さんおっしゃっていますが、ネコはずっとじっとしていられる。最も快適な方法を知っている。一方いやなことは絶対自分からしない。禅の修行はいやなことでは?いえいえ最も快適な方法ですよ。日常の、人間社会の常識にとらわれていなければ。
 また、ネコは強い美意識を持っています。これも禅僧の意識に近い。何人かのお坊さんから聞いたことがあるので確かです。美意識のみが楽しみ。つまりこれもほとんど唯一の快適のための方法。
 私がネコに憧れるのと、禅的世界に憧れるのとは、根本的に一緒のようです。とらわれない自分のスタイル。きっと、そういうものがないんですよ、自分に。
 それにしても、面白かったのは、ネコが古今東西みんな同じような習性がある、ということよりも、ネコ族がネコたちに対して、みんな同じ行動をとるということですね。可愛がり方、遊び方、おちょくり方。
 もちろん、微妙な違いはあります。本当に些細な個性ですけれども。ネコ族3人の、その微妙な違いも面白かった。南さんがやっぱり一番変でしたね。
Amazon ネコ族の夜咄

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2004.12.29

初雪in富士山麓=戦いの始まり

setarou とうとう降りました。さあ冬本番です。
 富士山の冬は戦いの季節。
 まずは寒さとの戦い。−20℃まで下がります。面白いもので、これだけの厳寒になると、なぜか気持ちいい。
 私など実家のある静岡に帰ると、妙に寒く感じて、コタツでゴロゴロしてばかり。静岡は暖かい…たしかにそうですが、そのため暖房をしないことが多いので、結果として室内は10℃ちょい、ということがよくあるのです。学校にも暖房なかったし。今はあるのかなあ。
 ここは暖房しないと死にます。一応、家は外断熱工法で造られていますので、暖房すれば静岡より快適です。ただ、暖房費とも戦わねばなりません。なるべく床暖房(灯油)は避け、ファンヒーターですませましょう。それでもひと冬5万円くらいかかってるかなあ。今年は灯油が高いですしね。
 暖房費より恐ろしいのが、凍結防止ヒーターの電気代です。富士山で初めての冬、恐ろしいことが起きました。なんと1ヶ月の電気代が10万円を突破したのです!はぁ〜?つまり、最高気温も氷点下なので24時間通電しっぱなしというわけです。これでは本当に死んでしまう。食べ物が買えない!
 そこで命を懸けて探し当てたのが、北海道や長野などでは普及していると聞いた凍結防止ヒーター節電装置です。私のウチのはエヌエス精機(野村工業グループ)の「節電太郎」くん(写真)です。こいつは必需品。うたい文句通り、90%の節電効果がありました。無事電気代も1万円台におさまり、めでたしめでたし。食いつなげる。
 あと、やっぱり雪ですね。7年前の大雪はすごかった。一晩で1m50cm積もりましたからね。2〜3mも珍しくないという秋田の豪雪地帯出身のカミさん(まだ結婚前でしたが)も、一晩でこれだけ積もるということはないそうでまじビックリ。しかし、さすがに彼女の雪かきは手慣れたもので、これは結婚しなくちゃ、と思いました(失礼)。今年はドカ雪の予感がするんですよね。また、ショートスキーで通勤かなあ。とりあえず国道まで3000mのダウンヒルです。
 あと、凍結路ですね。雪国と違うのはここ。晴れることが多いので雪は表面が溶けます。それが夕方再び凍ります。スケートリンクです。スタッドレスでも何回かスピンしました。とにかくスローダウンです。
 それから、仕事上の戦い。受験シーズンです。毎年生徒とともに受験気分を味わいます。自分の受験の時より緊張するんですよね。試験当日も発表の日も。今年もガンバレよ!受験生諸君!

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2004.12.28

猫のトランプ『meow playing cards』 Umbra社

68552 猫好きの生徒が東急ハンズで買ってきてくれました。一見、小型のペンケースのようなメガネケースのような感じで、いや、まずこのケースが素晴らしい。大きさ、形、質感、透明度、色、耳の取り付け具合…。で、パカッと開けてみますと…。
 中にはトランプが。ユニークな形のカードに54種類(ケースには52と書いてありますが)の猫たちのイラストが描いてあります。猫好きにはたまらないアイテムですねえ。ウチに持って帰ったところ、カミさんも子どもたちも大騒ぎでした。1枚1枚見ながら悲鳴が上がる。
 センスが秀逸です。猫のトランプというのは他にもたくさんありますが、普通の大きさ普通の形で写真というのでは、これほどの興奮を誘いません。やはり、この全く実用的でない形、大きさ、デザイン、そして写真ではなく絵というところがいいのでしょう。
 とてもこれを使ってカードゲームをしようとは思いません。猫好きならただ眺めているだけで、というか所有しているだけで満足でしょうけれど、その手の人種でない人にとっては、なんでこんなに使いにくいんだ、というかまず買いませんね。つまり、このプレイング・カードはプレイするためのカードではないのです。本当の猫好きのためのコレクターズ・アイテムなのです。だから、この機能性軽視のコンセプトは大正解というわけです。
 こんなデザインをするのはいったいどんな会社?
 なるほどね。Umbra社でしたか。Umbraと言えば、カナダ発オシャレな家具や雑貨のメーカーです。日本の家具屋さんや雑貨屋さんでも時々見かけますね。椅子とか時計とか。お値段もお手頃、案外庶民の味方的存在です。
 こういった簡素さや遊び心、機能性の軽視なんかは、実は日本人の得意とする分野だったんですよね。それが戦後、全然ダメになってしまった。今どきの日本製品で美しい物ってあります?ついついそういう物が部屋を占拠するようになってしまって、生活が涸れているような感じがします。
 これからの時代、付加価値としてのデザインをもっと重視するべきですね。つまり、我々消費者がそういうセンスを持つべきだということです。作り手の問題じゃありません。
Umbra

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2004.12.27

『ドラゴン桜』1〜5巻 三田紀房

4063289095.09.MZZZZZZZ 久しぶりにマンガを買いました。いやあ、勉強になりましたし、大いに共感しました。
 荒廃し、倒産寸前の私立高校を、一人の弁護士(教師)が立て直す物語です。立て直す方法は簡単。「5年後に東大に100人合格する進学校にする」ということです。まずは、荒れ放題の教室から二人の生徒をスカウト?し、1年間で東大理一に合格させようと特訓を始めます。まだ、連載中ですので、彼らの合否結果はわかりません。
 いやあ、ストーリーも面白いのですが、やはり何と言っても紹介されている東大合格術の素晴らしさですね。よく取材しています。実際、予備校の先生やら現役東大生やらが絶賛してました。そんなテレビ番組を見て、私も買ってみたわけです。
 私もまさに私立高校の教員ですし、スタートして間もない進学クラスを任されている立場なので、他人事ではありません。大いに参考にさせていただきました。
 このマンガの素晴らしいところは、東大入試の分析や攻略法だけではありません。どちらかというと、それよりも、東大入試を通じた社会論、人生論、職業論になっているところでしょう。私もそこに共感しました。
 私は、教師としてはかなりのリアリストであると自覚しています。金八先生のようなセンチメンタリストにだけはなりたくないと思っています(だいたい、持つクラス持つクラス、あんなに毎週毎週重大事件が起きるということ自体…う〜ん)。
 大学合格を目的に高校に入学してくる生徒にとっては、結果が全てです。勝負に勝つか、負けるかです。 ただひたすら努力したけれど、結果は×…でも、頑張ったからいいじゃん、ではダメなんです。そういう逃げ道は作りたくない。顧客のニーズに応えるのが、私学人としての当然の業務です。そういう意味で、このマンガの主人公桜木の考え方には、大部分賛同できますね。もちろん、私たちの学校には+αも用意されてますが(この+αが売り)。
 これからの受験は、情報戦です。昔の日本軍のような精神論では勝てません。そして桜木が言う「つめこみ」を「押しつけ」ではなく「自主的」に「楽しく」させるのが、今の私の目標です。
 ちなみに絵の方は…昔の成人雑誌的風合いで、懐かしく拝見しました。
Amazon ドラゴン桜

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2004.12.26

『ウルトラマンネクサス』…その後 

p009-2 10月9日におススメ?したネクサス。その後も一応全部見ています。
 昨日放送分をビデオで見ました。前回もかなりきつかったのですが、昨日の第13話もクリスマスとは思えない暗さで、すっかり参ってしまいました。
 しかし、その徹底ぶりがすごく、ここのところウルトラマンは偽善的に過ぎる、なんて批判していた私の期待以上に、救いがない。酷い。
 何事も徹底すると、それなりの説得力が出てきます。まさに現代の闇、現代人の闇を象徴するようなストーリー展開です。子どもは、毎回怖がっています。たぶんトラウマになるでしょう。それくらい真っ暗ですね。
 たぶん、途中から見た人は何が何だか分からない。火曜サスペンスを途中から見るようなものです。内容的にもまるでサイコサスペンスのようですし。
 特に孤門隊員(ネーミングもちょっと意味深)の恋人リコの存在が、こういう方向性で大きな意味を持つとは…。実は最愛の人が自分のせいで死んでいた?もしかして自分に復讐するために現れた?その分身であるダークファウスト(写真)と戦わなければならない?一方でその相手が自分を救ってくれる瞬間もある?
 悪や敵を、それとは知らず愛してしまう、という物語は古今東西にあります。そういうジレンマは、いわば文学のテーマとしては決して新しいものではないと思います。しかし、それを子ども向け番組で、土曜の朝からやってしまうところがすごい。
 視聴率のこともあるので、当然なんらかのテコ入れがあるのかもしれませんが、ここまできたら、ぜひこのまま突っ走っていただいて、闇の歴史に名を残してもらいたい。そう期待します。セーラームーンもそうであったように、最後はやっばり救われるのかな。本家ファウストが神の愛によって(永遠に女性的なるものによって)救われたように。そうすると結局、物語的(宗教的)に完結することになるわけで、う〜ん、ちょっと楽しくないなあ。そんな自分がこわいよ〜。

ウルトラマンマックスロケ参加

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2004.12.25

ミスター・ビーン 『メリー・クリスマス ミスター・ビーン』

B000194TFM.09.MZZZZZZZ クリスマスと言えば私はコレ。毎年見ます。
 ミスター・ビーンは一通りなんらかの形で持っていると思いますが、中でもコレはかなり好きなネタですね。
 イギリスにもクリスチャンが多くいることと思われますが、こんなにちゃかしていいんでしょうかね。まあ、日本で坊さんネタやるのと一緒か。何事もそうですが、本来真面目なものほど笑いのターゲットになりやすい。古今東西共通の傾向ですね。というか、そういう揶揄本能みたいなものが人間には備わっているのでしょう。
 もちろん、イギリス伝統のブラックユーモアというのもあります。アイロニカルな笑いですね。いつの時代にも、笑いは政治性を持ちうる。人間の文化活動の中で、ある意味最も高度なものではないでしょうか。笑いというのは。他の動物にはない、もしかすると、宇宙の他の生物にもないかもしれません。表情筋こそ人間の人間たる所以。
 ミスター・ビーンの、つまりローワン・アトキンソンのすごいところは、それを言語に頼らず実践した点です。もちろん、チャップリンを挙げるまでもなく、そういった実践は数多くあります。しかし、現代のテレビというメディアにおいてそれをするのは、かなり勇気のいることだったと思われます。結果として、その手段が国境を越える理由を生んだわけですが。
 ただ、国境を越えたと言っても、限界もあります。アトキンソンのアイロニーの矛先は、自国イギリスに向かっていますから、私たち非イギリス人には分からないネタも時々出てくる。観客(ヴァーチャルですが)がなぜここで笑うのか分からない時が、たまにある。ツボがわからないわけです。それを人に聞いたり、何かで調べたりする楽しみもあります。文化理解ですね。
 いずれにせよ、彼が生み出した作品は、時代を超え、国境を越えて愛され続けるでしょう。ビーンの持っているペーソスのようなものは、たぶん普遍的なものでしょうし、彼自身や彼が見る人間たち、それは男であったり、女であったり、大人であったり、子どもであったり、政治家であったり、宗教家であったり、いろいろですが、とにかく、それらに世界中の人間が自分自身を投影して見ているかぎり、ミスター・ビーンは生きつづけるでしょう。
Amazon ミスター・ビーン Vol.3

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2004.12.24

スキージャンプペア2

B00061I1LI.09.MZZZZZZZ カテゴリ、あえてスポーツにします。
 昨年は本当に大笑いさせていただきました。スキージャンプペア。その発想の意外さと、洗練されたギャグセンス。脚本の上手さ。正直やられたな、と思いました。その第2弾。早速借りて見てみました。
 結論から申しましょう。やっちゃいましたね。世の常に漏れず、やっちゃいました。つまり、やりすぎちゃった、ということです。
 何事でもそうです。一つウケた後の次が大変。そこで冷静さを失ってしまうのが、いわゆる世の常。私も凡人ですからよくやります。調子に乗りすぎて大失敗。特にほとんど偶然というか、本人の予想以上にウケてしまった場合、その次が危険なのです。
 たぶん、処女作を知らないで、2を見たのなら、十分面白いでしょう。しかし、オープニングの前回大会のシーンを笑わず冷静に見てしまう人、つまり前作を堪能してしまった人たちにとっては、2は辛いのでは。
 それこそ私もコントなどでやってしまうのですが、調子に乗っていろいろなアイデアが浮かび出すと危ない。前回を越えなければ、というプレッシャーではありませんよ。そういう時は、すでに自分の中では越えちゃってるんです。ウケた自分を。そこに下ネタが加わったら、もう絶対おしまい。芸人さんもよく陥るワナだそうです。
 調子に乗ってると、その辺の判断装置に狂いが生じるんですよね。これはたぶん、笑いの世界だけではないと思います。スポーツも経営も勉強も…。
 そういう失敗は必ずあるものですが、そこから抜け出せなくなってしまったり、あまりの周囲の態度の違いに自信喪失してしまったり、そんな風だと、まずプロとして成功できませんね。
 過ぎたるは及ばざるがごとしと申しますが、まさにその通り。分をわきまえるということが、いかに大切か教えてもらった気がします。私、今からコンサートなんですが、気をつけます。
 ただ、今回もうならされたことがありますよ。新規企画として。それはスタジオの部分です。なるほど、そのリアルさとCGのウソっぽさとの対比が功を奏しています。特に荻原次晴さんの才能にはビックリ!あれは演技の上手さというべきなのかなあ。あまりに自然なしゃべり。SJPへの愛情がなければ、ああはできません。彼の存在こそ蛇足だという人がいそうですが、私にとっては救いでした。彼をおススメしたいと思います。
Amazon スキージャンプ・ペア(あえてこちらにリンク)

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2004.12.23

消せるボールペン(PILOT D-ink)

8764 なんで今さらこれなの?ということが多いこのコーナー。今はなき…というものやら、その内絶滅というものが結構おススメされてますね。まあ、世の中には失敗作もたくさんある、ということです。つまり、逆プロジェクトX…いや真プロジェクト×(ペケ)。
 今日おススメするD-ink、実は今日初めて手に入れたのです。ウワサでは苦情の嵐に吹き飛ばされて製造中止、市場から姿を消したと聞いていたのですが、地元のディスカウントショップに普通に売ってました。
 21世紀の幕開けとともに鳴り物入りで登場した「消せるボールペン」。誰しもボールペンが消せないことで苦労したり、悩んだりしたことが少なからずあるでしょう。私も仕事柄書き物が多く、それもだいたい時間がなくて書き下ろし。当然失敗の連続です。修正液や修正テープを使う時もありますが、ひどい時は誤って書いた字を無理やり変形して別の字にしたり、チョチョっと唾をつけて削ってみたり(だいたい悲惨な状況になる)、そんな時は、ああ消せるボールペンがあったらなあ、と思うものです。
 そんな万人の夢がついに実現したのです。2001年に。そして2004年の今、その夢は再び夢に…なんでだ?
 その理由を確かめるべく、使ってみました。
 まず、書き心地。やや薄墨ながら、まあ普通の水性ポールペンと大差なし。時々かすれますが、世の水性ボールペンは大概かすれる。
 次、消し心地。キャップ先端に付属の消ゴムでもまあまあ消えますが、普通のプラスチック消ゴムの方がよく消えます。少なくとも鉛筆よりもきれいに消える。
 次、耐性。こするとかすれます。チョチョっと唾をつけるとにじみます。私の手はカッパ手(湿潤肌)なので、真剣に10回もこすると消ゴムで消したように消えてしまいます。
 どうもこの耐性が問題のようですね。
 注意書きにも書いてありますが、つまりは公文書で使えないんですよ。発売当時は履歴書用に、と考えた人が多かったようですね。しかし、何かの拍子にかすれたり消えたりしたのでは、大事な就職試験では使えません。それから、葉書の宛名書きですね。年賀状にピッタリ…というのも浅はかで、どうも機械でアソートする時、かなりの摩擦がかかるようで、こちらもブッブー。残念でした。
 というわけで、なるほどこれはプロジェクト×ですね。いい味出してます。でも、ワタシ的には結構使えるんですよ。具体的には書けませんが、仕事上、あれとかあれとか、あれですね。早速学期末ということで使ってみますよ。ふふふ。
 そう言えば、これの逆の発想。消えない鉛筆というのもありましたね。外国製でしたが。あれも今はないのかな。
ps ちなみにアメリカ製の「消せるボールペン」は一日経つと消えなくなるらしい。今度買ってみます。

リベンジ!『消せるボールペン』(PILOT フリクションボール)

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2004.12.22

ベネッセ表現読解国語辞典

4828804552.09.MZZZZZZZ 今日も楽しい辞典を紹介しましょう。
 楽しい、とは言っても、昨日の新解さんの楽しさとは全然違いますよ。笑えませんが、なるほどと納得し、へ〜と感心する楽しさです。
 仕事柄、辞書の見本をいただくことが多く、そのたびにいろいろケチをつけるのが趣味のようになっています。辞書も結構まちがいがあるんですよね。特に初版は。あと、項目ごとの温度差。気合いが入っている語釈と、なんとなくまあいいやという感じの語釈。他の辞書からのあからさまな転用。いろいろですよ。
 で、この辞典は初版からお〜っと思いましたね。もちろんツッコミどころはあります。普通の国語辞典として読めば、薄くて軽い(内容)という評価しか得られないでしょう。では何が楽しいのか。
 それは、気合いの入れどころが普通ではない点です。従来の辞典観に対する挑戦とも言えるコンセプトのユニークさです。
 ただ単に、1対1の語釈を並べるだけでなく、特にイメージしにくい、哲学用語などの学術語、カタカナ語について、イラストやチャート、コラムなどを駆使して解説してあります。また、逆に和語の基本語については、最近忘れ去られつつある微妙なニュアンスや、多様な表現を紹介してあります。それらの語の選定基準については多少疑問も残りますが、とりあえず私の目からは、ウロコがハラハラリンと落ちまくりました。いかに自分の日本語が貧弱なものであったか、思い知らされましたね。恥ずかしいことです。
 基本的に高校生(大学受験生)向けの編集方針のようですけれど、現代日本語を当たり前のように使っている大人にこそ、この辞典を読んでいただきたい。そう、読むのです。そういう意味では新解さんと同じような使い方ができます。何気なく開いて、そこを読む。必ずウロコが一枚は落ちます。
 こういう、最新の語や例文を採用したものは改訂が大変でしょうね。今後、時代の急流に乗った進化を遂げていったら、本当に画期的な辞典として、歴史に名を残すことになるでしょう。これからが勝負ですね、ベネッセさん。
Amazon ベネッセ表現・読解国語辞典
ベネッセ

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2004.12.21

新明解国語辞典より『俺様(おれさま)』

438513099X.09.MZZZZZZZ 私の大好きな新明解国語辞典さま。この辞書のファンは多い。
 一番売れてるのに一番変。変なんて言っては失礼ですね。面白い。しかし、売れてきた理由は「面白い」ではありませんでした。なんとなく、国語辞典と言えばこれ、って感じで売れてきたのです。権威ある大まじめなモノだったのです。
 しかし、赤瀬川原平大先生のご著書「新解さんの謎」以来、この辞書は違った目で見られる、いや読まれるようになりました。その詳細については大先生の本を読んでください。
 しかし、世の中というのは面白いですね。一番面白くない、シカツメラシイと思われていたモノが、実は一番面白かった。こんな痛快なことはありません。いかに私たちが先入観によって、その楽しみの機会を失っているのかが分かります。
 この新解さんにせよ、トマソンにせよ、老人力にせよ、とにかく赤瀬川先生の、世の中を読み直す力…私は原平力と名づけていますが…には脱帽です。原平力に感化されて、どれほど世の中が豊かに感じられるようになったことか。
 さてさて、その新明解国語辞典ですが、私も御多分にもれず最強第四版を愛用しています。そこら中に線が引いてあります。それだけ発見があったということです。
 で、いろいろお気に入りの語釈や文例がある中、私の最も好きな項目はこれです!これを取り上げているのをあまり見かけませんので、もしかすると隠れた名所なのかもしれません。

おれさま【俺様】(代)〔口頭〕偉大な力を持っているおれ。〔他に対して自分の力をひけらかす時などに使う〕

 う〜ん、思わず声に出して読みたくなる日本語。おシャレすぎます。素晴らしいセンスです。偉大な力を持っている「おれ」って言われてもねえ。たしかにそうですが、そう言われちゃあねえ、もう俺様にひれ伏すしかない。
 広辞苑では「自分のことを尊大にいう語」。まあ、これが普通でしょ。普通すぎて野暮です。旺文社国語辞典にいたっては項目すらない。これはいけません。子どもが、バイキンマンが頻繁に使う「おれさま」という言葉の意味を調べようとしたら…どうしましょう。いけません、いけません。
 というわけで、やっぱり新解さんは偉大です。だから、新解さんは「おれさま」と自称するのか、というと、これが違うんですよ。そんな謙虚さが、また新解さんの良さです。
Amazon 新明解国語辞典第六版 新解さんの謎 文春文庫

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2004.12.20

ベストクリスマスソングは?

 この季節になりますと、数々の定番クリスマスソングがそこら中に溢れ始めます。山下達郎に至っては、もう国民的風物詩となっております。辟易を通り越して、尊敬に値します。たぶん100年後も聞かれ続けるのでしょう。すごいですね。淋しい内容の歌なんですけどね。いかにも日本人です。クリスマスにも哀愁を求める。
 今年も2匹目のドジョウ、ではなく2匹目の山下達郎を目指し(つまり、それで一生喰っていける)、何曲か新クリスマスソングが発表されてますね。たぶん、どれもドジョウになれないでしょうけれど。GLAYの曲なんて、ありゃりゃやっちゃった、てな感じ。
 世界中を見渡せば、それこそ数えきれないくらいのクリスマスソングが存在します。ワタシ的にはやっばりジョンやウィザードの曲がいいですね。では、日本の曲でのお気に入りは?
jacket33498 まず、これでしょう。森高千里「snow again」。1997年ものです。何度聴いてもいい曲ですなあ。切ない。美しい。歌詞も分かりやすくていいのですが、やはり高橋諭一による曲がいいですね。前奏から非の打ち所がない。サビの転調が絶妙です。良き日本の歌って感じの名メロディーです。間奏を始めとするアレンジ全体も完璧ですね。リミックス盤などもありますが、私はオリジナルのシングルヴァージョンが大好きです。森高の歌声もいつになく深い。ドラムは本人ではないのかな。ものすごく味があるんですが。
B000059O4O.09.MZZZZZZZ はい、次。これも意外かもしれません。MAXの「一緒に…」です。これは1999年もの。この年、彼女たちは紅白でこの曲を歌いました。やっぱり楽曲がいいんですよ。職人集団PIPELINE PROJECTによる作品です。まさに職人芸のアレンジぶりですね。複雑なコード進行を複雑に聞こえないように使う。うまい!だいたい、クリスマスソングというとベルの音が使われますよね。そして、ああやっちゃった…となる。しかし、これはさりげなくうまく楽曲に溶け込ませてある。これなら効果的です。ダンスソングばかり歌っていたMAXによる名ミディアムテンポナンバーですね。
 2曲とも世間からは忘れ去られつつありますが、個人的には冬の定番になっています。
Amazon SNOW AGAIN 一緒に…

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2004.12.19

美輪明宏 ディナーショー

2004miwa 今日は何も書けません!と言いつつ…。
 一つの夢であった「生」美輪明宏様にお会いできました。今年はちょっと(だいぶ)奮発して、こんな贅沢をしてしまいました。ホンモノのすごさに圧倒され、感化され、はっきり言って人生変わると思います。それほどの衝撃…。
 う〜ん、本当にすごいものに出会った時、私は詩人ではありませんから、やっぱり絶句してしまいます。
 歌のうまさに仰天したのはもちろん、説法(?)の素晴らしさに涙が出ました。あとは、日本語の繊細さ、力強さでしょうかね。言葉の力というものについていろいろと考えさせられました。
 たとえば、その説法の内容を、ここに紹介することすらためらわれます。とてもホンモノの言葉を伝えられません。言霊をあやつれる人が本当にいるのですね。つまり、人の心を動かし、行動させ、実現させる力。
 やはり言葉は生でなくてはいけません。今私が書いている(打っている)ような言葉は、ちっともホンモノではない。そう考えると、聖書も聖典もつまらないものに思えてくる。書き残そうとした弟子達の気持ちも分かりますが、彼らにはこういう迷いはなかったのだろうか。そんなふうに思います。
 それら二次的なものを、読む方や聞く方はいいのです。信じれば。ただ、書く方、語る方はどうなのか。私だったら責任は持てません。だから、語れません。
 凡人の言葉の限界でしょうね。イエスやゴータマの弟子達は、結局普通の人間ですから、まあはっきり言って凡人でしょう。限界があって当然ですよね。だから、私は教典主義はあまり好きではないのです。
 では、本人が書いたもの、語ったものはどうなのか。その良い例が、霊界物語だと思います(口述筆記ですが)。やっぱり凡人には分からない。荒唐無稽としか映らない。分かろうと努力することには意味はあるけれども、本来解釈する(自分の言葉に翻訳する)余地はないのです。ただ、全身に浴びることしかできません。
 多くの歴史的宗教者が書き残さなかったのは賢明な判断だったのかもしれません。彼らは言葉の限界を知っていたのでしょう。あるいは…。
 美輪明宏からとんでもない方向に飛んでしまいましたが、本当にこれ以外にもたっぷりと考えさせられたディナーショーでした。また行きたい…。

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2004.12.18

チック・コリア&フレンズ 『バド・パウエルへの追想』

B000003OZO.01.MZZZZZZZ 錚々たるメンバーによるバドへのオマージュ。久々に出してきて聴きました。うん、いい!
 まずメンバーを紹介しましょう。
 チック・コリア(p)、ロイ・ヘインズ(ds)、ケニー・ギャレット(as)、クリスチャン・マクブライド(b)、ジョシュア・レッドマン(ts)、ウォレス・ルーニー(tp)
 これだけで、すごさが分かりますね。
 このメンバーで行なったパルテノン多摩でのライヴ映像も見ましたが、演奏の完成度はやはりこちらCDの方が高いと思います。スタジオ録音でも十分ライヴ感あふれていますし。
 しかし、はっきり言ってしまうと、私が感心するのは、その演奏ではありません。では、何に?
 そうです。やはりバドの楽曲の素晴らしさにです。かっこよさにです。
 バド自身の演奏でバドの曲を聴くと、私はついその演奏の存在感に耳を奪われてしまうのですが、こうして違う人の演奏で改めて聴くと、やっぱり作曲家としてのバドの才能に驚かずにいられませんね。
 穐吉敏子の時も、そんなふうに思いました。ただ、穐吉さんの場合は、本当にバドのお弟子さんという感じで、比較的似たようなタッチで弾いていましたから、それほど新鮮な感じはしませんでした。一方こちらはチック・コリアですからねえ。全然タイプが違います。だからこそ、楽曲が際立って聞こえてくるのでしょう。
 さすがチック。かなり斬新なアプローチで現代風にまとめあげています。いろいろなアイデアを駆使して料理しようとしていますが、バドの曲は動じません。バッハとかビートルズといっしょです。違うジャンルにアレンジされても、そのアイデンティティーはゆらがない。名曲の条件ですね。
 チックのオリジナル曲も、バドからインスピレーションを受けてか、なかなかいい曲です。
 最後にあえて演奏のことを一つ。どなたも名手ですので、文句のつけようがありませんが、特に素晴らしいのはリズム隊でしょう。ちょっとつんのめりながら爆走する若いマクブライドを、絶妙の安定感で支える超ベテラン、ロイ・ヘインズ。ジャズ・アンサンブルの妙ですな。
Amazon Remembering Bud Powell

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2004.12.17

『作家と猫』 文藝別冊 KAWADE夢ムック

b09ph 夏目漱石の例を引くまでもなく、猫と作家というか、猫と文学との関係は、おそらく、おそらくですが、犬とそれとの関係よりも深いような気がします。猫にとっては、ほうっておかれるのが至福ですから、つまり、作家さんの文学というお仕事の妨げにはならないということですか。
 もちろん、原稿の上にドンとか、シッポで運筆のじゃまをするとか、ひどく幸せそうな表情で眠って作家の気を引くとか、そういう妨げはします。でも、それをとがめる作家さんの表情は、まちがいなく緩んでいて、結局それが仕事の緊張を解いてくれたりするものです。
 猫という生きモノは、そういうために生まれてきたのかもしれない。つまり文学のために生まれてきたのかもしれない。このムックを読むと、そんなふうに思われます。犬は生活のために生まれた。猫は文学のために生まれた。
 人間という生きモノは、猫好きと犬好き…両方好きという人もいますが…やはり最終的にはどちらかに分類できそうです。生活か文学か、ということです。私は言うまでもない。
 ただ、この本の中で村松友視さんも言っていますが、本当の猫好きは、実は単なる愛猫家ではなく、たとえば村松さんだったら「アブサン家」なんですよね。猫と思っていない。自分と同格である。あるいは猫の方が上位なんです。神に近いんです。
 そういう人は、文学の神から福音を授かることができる。作家にとって全ての猫は福猫だということです。その最たる例が、漱石とあの黒猫でしょうね。うらやましい。ウチにも黒猫が2匹いますが、どうも福猫になりきっていない。私が書き物をしていても、あんまりじゃまをしてくれない。たぶん、私の方に問題があるのでしょう。どちらかというとカミさんの方がじゃまされます。というか、無理やりじゃまさせてるって感じですな、あれは。
 一つ、この本で嬉しかったのは、先ほどの村松友視さんに加えて、三木卓さんが登場なさっていることです。お二人とも私の出た高校の先輩にあたります。直木賞作家と芥川賞作家の両方が出ている学校というのも珍しいのではないでしょうか。そのお二人がまた無類の猫好き…いえいえ「○○(猫の名前が入ります)家」だったということに、この上ない喜びをおぼえます。私もぜひあやかりたいものです。

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2004.12.16

『日本の論点2005』 (文藝春秋)

4165030406.09.MZZZZZZZ 毎年この本が発売されると、ああ今年も終わるな、年賀状どうしようかな、などと思います。
 私の仕事的に申しますと、もう2ヶ月ほど早く発行していただきたい。2学期というのは、毎年小論文の指導で私のお店?が大繁盛する時期です。この本は素晴らしい参考書になりますが、推薦入試本番がめじろ押しの11月では、時既に遅しなのです。いや、文藝春秋さんとしても、もう少し早く出されると、売り上げ倍増すると思うのですが。
 しかし、過年度分でも十分すぎるほど有用ですからね。学校でも買ってもらいますし、自分も買います。それでも受験生達の取り合いになって、○○年のは誰が持ってるんだ?というのが、この時期の流行語となります。
 内容的には、その道の第一人者による、まさしく「小論文」です。「小」ですから、その道の専門家からすると、かなり物足りないでしょう。しかし、高校生や私のような一般人(おとな)からすると、ちょうどいい感じです。毎年11月になると、これを読んで、少し賢くなったような気になる。少し大人びたような気分になる。少し先生らしくなる。1年間ですっかり緩んでしまった頭のネジを、グググッと締めてくれるような、そんな効果があります。
 私は国語の先生なのですが、受験指導が主なので、小説や古文や漢文なんかの、どちらかというと浮世離れしたものとともに、小難しい評論もコンスタントに読まねばなりません。さらに小論文の指導で、文系から理系まで、しったかぶりをしなければならないので、それなりに即席の勉強もしなくてはなりません。こういう仕事のおかげで、なんとか自分と現代社会とのつながりを保っている感じです。
 とかく教員は浮世離れして(世間知らずになって)しまいます。そういった危険から、私を守ってくれる大切なムックですね。感謝しています。
 ただ、一つ苦言を。最近、論点が多すぎて、それぞれに対する多角的な意見が収録されなくなっているように思われます。以前のものは誌上討論を読むようで楽しかったのですが、最近はどうも意見に偏りがあるようです(文春的意見が多い)。少なくとも一つの論点に二つ以上の論文を掲載してほしいですね。
Amazon 日本の論点 2005文春ムック

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2004.12.15

流れ橋とプロレス

2-1 今日、ある本を読んでいたら、流れ橋のことが出ていまして、ちょっと考えさせられました。 
流れ橋と言えば、京都八幡市の上津屋橋(こうづやばし)が有名ですね。木津川にかかる橋で、時代劇にしょっちゅう登場していますから、誰しも一度は目にしているはずです。全国には同じような構造の橋がいくつかあります。
 増水による水圧に耐えうる頑丈な橋を造るというのが、現代の常識です。しかし、それは近代的な、科学的な思考であって、決して人類全体の常識ではありません。日本人も近代以前には違う発想をしていました。
2-2 つまり、自然の驚異的な力に抗わないでやりすごす、という発想です。この流れ橋は、増水すると橋桁と橋板がプカプカと浮かんで流れていきます。それらと橋脚はひも(今はワイヤー)でつながれていますので、水位が下がって川が穏やかさを取り戻したら、ヒョイヒョイとそのひもを引っ張って、また元の通りに組み立てて、ハイ橋が再生する、という仕組みです。全体が流されたり、壊されたりした場合より、ずっと経済的でもあるわけです。
 日本人は自然の猛威に対抗せず、ただひたすら祈りながらじっとしているということが多かったようです。それはたぶん、自然の猛威というのが神の仕業だと考えていたからだと思われます。神様が何だか知らないけれど怒ってる、とにかくお祈りして怒りがおさまるまで待とう。
 こういう姿勢は、西洋的思考からすると、カッコ悪い、情けないことに違いありません。それに対抗して、それを制御するのが、人間の智慧だと考えるでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 日本人も含めて、近代的、科学的な生活を送っている我々が、実は大きなダメージを受けているということは、誰もが知っていることです。傲慢さが招くのは自滅だと、歴史は教えてくれます。どうしたらよいのでしょうか。
 プロレスで技を受けた選手がおおげさに吹っ飛ぶのを、あれは八百長だなんて言う人がたくさんいますが、ああいう風にするのが、最もケガが少ないんだそうです。変に踏ん張ると、自分も相手もケガをすることになる。プロレスには、相手にケガをさせてはいけないという基本的なルールがあります。受け身の上手な選手(つまり優れたレスラー)同士の試合は、思いっきり技をかけあえるので、結果いい試合となるわけです。
 日本のいろいろな歴史的構造物に「あそび」がたくさんあることはよく知られています。それは「いいかげん」ではなく「いい加減」の結果ではないでしょうか。日本人の智慧そのものです。
 私も流れ橋やプロレスを見習って、相手(自然にせよ人間にせよ)と共存していく「いい加減」な生き方をしてゆきたいですね。

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2004.12.14

ふたご座流星群&惑星大集合

s2201221 朝4時半から5時半頃まで、庭で観測しました。昔ならちゃんと星図をひっぱり出してきて、しっかり経路と等級、色や痕などの情報を記録していましたが、もう最近はダメですね。面倒くさい。
 学生の頃なんかは、次の日の心配というのがなかったので(?)もちろん徹夜しました。今は次の日の仕事のことを考えてしまいます。星を見る趣味は一生続けるかな、と少年の頃は漠然と思っていましたが、無理でしたね。だから、社会人でありながら、しっかり山に登って観測したり、天体写真を撮ったりする人を心から尊敬します。偉い。
 ふたご座流星群は、年間の天文現象の中でも、最も好きなものです。キリリとよくしまった冬の夜空に、比較的明るく、長い流星が乱舞する姿は、いつ見ても感動します。この世で最も美しいものの一つでしょう。
 ウチは富士山の懐にありますから、さぞや暗く美しい夜空であろうと思われるでしょうが、最近はダメですね。まあ、ウチの庭からでも、照明を遮り目を慣らせば、なんとか6等星まで見える方角もあります。しかし、東天はほぼ天頂まで、東京の光害にやられています。本当に不夜城ですね。どんな闇夜でも、東京の明かりをバックに富士山のシルエットが浮かび上がっています。それはそれで風情がありますけど。
 今日はたった1時間しか庭に出ていませんでした。まあ、その間大小32個ほど確認しましたので、順調な出現だったのでは。感動したのは、おおぐま座付近を、ほぼ同じ明るさの流星が並んで同時に流れた時ですね。まさに双子の流星でした。ああいうのは初めてです。
 あと、ワタシ的に流星よりも感動したのは、惑星たちです。明け方、西に土星、南東に木星、東に火星と金星が並んで見えていました。一度にこれだけの惑星を見ることができるのも珍しい。ただでさえ、空を見上げる機会が減り、今どこにどの惑星がいるのかなんて考えることがなかったものですから、何か昔の友人たちが一度に訪ねてきてくれたような、なつかしい気持ちになっちゃいました。ああ、あの頃からずいぶん時間が経ったのに、星たちは何も変わらない。
 水星も機材と気合いがあれば見えたのかもしれませんが、そこまでの根性はありません。いい所に住んでいるのですから、やっぱりもっと星を見なくちゃ。まずは子どもたちに星座を教えましょうか。

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2004.12.13

グリーン・デイ 『アメリカン・イディオット』

B0002MOLB0.09.MZZZZZZZ これまた、遅ればせながら聴いてみました。世界中でかなり売れたようですから、それなりの内容であろうと期待しつつ。
 まず一言。パンクもずいぶんとスマートになったなあ。楽曲的に言えば、明るく元気でおしゃれ、演奏もうまいし、凝るべきところはちゃんと凝ってる。そして、何と言っても分かりやすい。だから売れる。これってパンクなんでしょうか。いや、パンクだよ、という前置きなしで聴けば、なかなかいいアルバムですよ。好きです…でも…。
 もともとロックが持っている矛盾というか、運命というようなものの残酷さを感じましたね。ロックという概念は、反社会的な部分から始まっているはずです。しかし、ロック自体はあらぬ方向に進化してしまった。他のジャンルと融合し、商業的になり(つまりとっても社会的になり)、カッコいいおシャレなものになってしまった。難しいことをやってみせる優等生になってしまった。そこに、現れたのがパンクでしょう。
 ピストルズも、たしかに商業的な産物です。しかし、あの頃のイギリスの経済状況からすると、それ以上の意味を持ち得た。鬱屈した若者のエネルギーを受けとめるだけのパワーがあったわけです。それはロック自身への反抗だったのではないでしょうか。優等生になってしまったロックに対する問題提起だったはずです。
 しかし、彼らがやった音楽は、劣等生だったからこそ、つまり分かりやすかったからこそ(例えば和音が3つしかないとか)売れてしまう。ロックから離れていた層、ロックに愛想を尽かしていた層をも取り込んでしまった。そうして巨大になれば、また商業的になる。次は何をやってくれるんだろうという期待を受けて、進化を余儀なくされる。そうして、結局今のような状況に…。実に皮肉な運命です。
 パンクという言葉自体が、ファッションになり、洗練されたイメージすら持つようになってしまったわけです。だから、グリーン・デイの矛先が、いくらブッシュ政権に向かおうとも、やはり雰囲気でしかない。気分にすらなっていないような気がします。それでも彼らの音楽が素敵なのは、残念ながら優等生だからです。
 正直、ランシドの方が荒削りな乱暴さを残しており、気持ちよく聴けました。優等生にならないように、という努力のあとがうかがえました。さあ、今度ホンモノのならず者が現れるのは、いったいいつなのでしょう。そういう社会情勢を期待してはいけませんが。
Amazon アメリカン・イディオット

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2004.12.12

『秋日和』 小津安二郎監督作品

cp0006 今日は小津安二郎監督の誕生日であり、命日です。今年はこれを観ることにしました。
 いちおう、小津作品は全て持っています(観ていないのもありますが)。中で、この「秋日和」は何度も観ている作品の一つです。
 教材として使う「生まれてはみたけれど」「東京物語」は当然何度も観るわけですが、こちら「秋日和」はリラックスしたい時に漫然と観ます。そして、過度ではなく適度に笑って、過度ではなく適度にしんみりして、過度ではなく適度にほんわかして、それで満足します。そういう小津のいろいろな要素が、ちょうどいい具合に配合されている作品なんですね。だから、小津作品の中で最も好きなのは?と問われれば、もしかするとこの作品を挙げるかもしれない。それくらい私にとっては魅力的です。
 内容は言葉にしてしまえばいつも通り。母娘の結婚を巡るエピソードです。今晩もまた豆腐かあ、という感じ。でもそこが小津です。晩年の作品というだけのことはあって、もうその豆腐屋ぶりも職人の世界を越えて、完全に芸術の域に入っていますね。
 さてさて、この作品、どこが素晴らしいかと言えば…。
 もちろん、母親役の原節子も娘役の司葉子も、非の打ち所がありません。原節子など娘役の頃よりも美しく見えるほどですから。しかし、それを取り巻くスパイスたちが、それ以上に実にいい味を出している。見事なアミノ酸ぶりを発揮しています。
 まずは岡田茉莉子!今でこそ…ですが、なんともチャーミングなこと!爽快、痛快です。そして、それに絡むオヤジ3人組。北竜二、佐分利信、中村伸郎…う〜む日本のオヤジはかわいい!!しっかし、すごい役者さんがいましたねえ、昔は。彼らの絶妙の会話シーンは、もう重要文化財ものですよ。外国人にこれができるか!
 ちょい役の笠智衆、小津作品デビューの岩下志麻に注目するのも面白い。また、1960年代の世相、風俗を見るのも面白い。いろいろな楽しみ方ができますね。当時の日本語も興味深い。
 とにかく濃厚な小津タイムを満喫しました。いいものは何度観てもいいですね。
 ちなみに婿さん役の佐田啓二さん(中井貴一・中井貴恵のお父さんですね)なんですが、昭和39年8月17日に山梨県で交通事故でお亡くなりになりました。まさにその日、私がお隣の県に生まれました。つまり、私は佐田啓二さんの生まれ変わり…なわけないだろ!故人に失礼です!
Amazon 秋日和 小津安二郎 DVD-BOX 第一集
 
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2004.12.11

キース・ジャレット 『ショスタコーヴィチ:24のプレリュードとフーガ』

179 今日、近所でジャック・ルーシェ・トリオの演奏会があったのですが、カミさんが忘年会とやらで、子守を託され、結局行けませんでした。
 ジャック・ルーシェのプレイバッハ(英語的にはプレイバックですね)は、ロックからバロックへと関心が移っていた私の目を、ジャズに向けさせた思い出深い演奏です。その生演奏を聴きのがすとは…。おそるべし忘年会(という風習)。
 そんなわけで、ジャック・ルーシェのCDを掘り出そうと試みたのですが、地層のかなり下の方に埋没しているらしく、見つかりませんでした。結局子供たちと「よい子の童謡100」というのを(途中まで)聴きました。これはこれで、かなり新しい発見がありました。全部聴き終わったら報告します。
 ただ、これだけではなんかジャック・ルーシェに申し訳ないので、彼のおかげで聴くことになったアルバムはないかなと考え、これを取り出してきました。つまり、ジャズ・ミュージシャンによるクラシックというつながりです。ショスタコをクラシックと言っていいかは、バッハをクラシックと言っていいのかというのと同じくらい問題がありますが、まあジャズに対するジャンルということでご容赦を。
 キースのクラシック演奏については、賛否両論ですね。特にバッハについては。私は大好きです。平均率第1集なんかは、ピアノによる彼の演奏がマイベストです。リヒテルもいいけれど、ちょっと抒情的すぎます。第2集、チェンバロによる演奏もいいですね。これもケネス・ギルバートと並んでマイベストです。
 で、これは平均率に影響を受けた現代の巨匠による作品です。それほどメジャーではないかもしれません。しかし、音楽自体も魅力的ですし、キースの演奏も冴えわたっています。もともとソヴィエトの内省的な楽曲に向いてるんじゃないでしょうかね、キースの精神性が。ペルトでもいい録音がありますし。
 私は、現代のフーガの作曲法の可能性を知る上で、この曲集に興味があります。根っからのフーガ好きの私としては、バッハで完結したはずのフーガがどのような進化を遂げる可能性があるのかに興味があったのですが、この演奏でそれを知りました。かっこいいですよ。それぞれ。キースにとっては、バッハ的なものとジャズ的なものとの両方を表現し得る曲集だったのではないでしょうか。
 録音も美しく、不思議な気持ちにさせてくれるBGMとしてもおススメですよ。
 ところで、これってチェンバロで弾いたらどんな感じになるのかな。興味津々。
Amazon ショスタコーヴィチ:24のプレリュードとフーガ

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2004.12.10

『海でむすばれた人々 古代東アジアの歴史とくらし』 門田誠一 (昭和堂)

4812201039.09.MZZZZZZZ 韓流ブームですね。10年前には考えられないことが起きています。
 悪いことではありませんが、これは韓国の国策ですからね。まんまと乗ってしまっている日本人(特にオバさま方)も、けっこうお気楽ですね。でも、仲良くすることはいいことです。兄弟げんかはいけません。親父である中国が、反日、反韓路線を強化している今、やっぱり兄弟力を合わせなきゃ。
 私は、仕事で5回ほど韓国に行きました。そこで感じたのは、やっぱり新羅はいかんなあ、ということでした。百済と高句麗は好きだけど…まあ、これ以上は言えません。
 さて、この本は、最近ある出版社の方からいただいたものです。古墳時代の考古学的発見を中心に、日本と朝鮮半島(やその他の東アジア諸地域)との深い交流のあとを追った内容です。
 こういった本を読むと、両者は外国同士という関係ではなかったことがわかります。そういう意味では、交流という言葉も正しくないのかもしれない。「海」は両者を隔てるものではなく、むすぶものだった。当たり前の往来があったわけです。
 その点、この本で一番感動したのは、皮肉にも本題に入る前でした。冒頭の宮本常一「海ゆかば」の引用部分です。昭和24年、大阪の老漁師が、ちょっと朝鮮半島まで漁に出て、言葉は通じないけれど、皆に優しくしてもらい、魚もたくさん買ってもらって帰ってきた、というようなくだりです。
 たぶん、このおじいさんは、いろいろと面倒な歴史的なことや政治的なことを知らなかったか、忘れていたか、気にしなかったのだと思います。それこそが、古代の両者の関係そのものであったわけです。
 それにくらべると、今のブームはちょっと不自然ですね。まだ、いろいろな記憶が残っていますから。北の問題もありますし。再び、両者がむすばれるのは、いったいいつになるのでしょう。

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2004.12.09

『火垂るの墓』 野坂昭如

31166108  戦争教材第4弾。ジブリのアニメじゃありませんよ。原作です。
 アニメの方が、何しろ有名になってしまいましたからねえ。毎年夏の夜に見ながら泣いてる人も多いのでは。ちなみに私は原作を先に読んでいましたから、とてもとても泣けませんでした。
 原作者の野坂昭如は「アニメ恐るべし」と言ったそうですが、その真意は何だったのでしょう。私は、アニメによる演出効果…もちろん泣かせのですよ…に恐れ入ったのではないかと思います。
 確かにかわいそうな話です。とにかく節子はかわいそうだ。しかし、戦争がただ「かわいそう」で済まされてしまう恐ろしさもあると思います。かわいそうはセンチでしょう。センチは美化の入り口です。
 私は辛いけれども、やはり清太を責めたい。金持ちのボンボンの甘えに腹を立てたい。なぜ金もあり、身寄りもあった兄妹が、戦後死ななければならなかったのか。そこをしっかり考えるべきです。原作は冷徹な、いや冷酷な文体をもって、それを考えさせてくれます。しかし、アニメはどうでしょう。あの感傷たっぷりの表現はホンモノの戦争なのでしょうか。もちろん、商業的な作品だということは分かっています。しかし、あの作品に強い違和感を抱く私がいるのも確かです。
 生徒たちはもちろん毎年泣いているクチです。それは健全なことです。原作なんて知らないんですから。しかし、今日、原作を読んだ彼らは、きっと来年の夏には違った気持ちであのアニメを見ることでしょう。
 ちょっと考えれば、全ての観客から敵意を抱かれる、あの親戚のおばさんの言動が、人間として当たり前、正常なものであることが分かるでしょう。その考える力を奪うのが、あのアニメの恐るべきところです。それこそが、アニメに限らず、いわゆる総合芸術の怖さであり、素晴らしさだと思うのです。つまり、感情に直接入ってくる。文学との大きな違いです。
 それにしても、あの作品、トトロと2本立てだったんですよね。当時の子どもはすごいものを同時に見ていたんですね。どっちを先に見るのが幸せかなあ。う〜ん、微妙ですね。
 いずれにせよ、私は映画やアニメや音楽が大好きですが、それらに感動したら、なるべくオリジナルとも出会おうとするようにしています。それが私の基本姿勢です(ヒマとお金がありませんが…)。

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2004.12.08

歴史的特異日 12月8日

 12.8は人類の歴史の上で特別な日です。そのことに気づいていない方がほとんどなので、ここに紹介しておきます。時系列的に紹介しましょう。
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 まず、仏教にとって、今日は非常に大切な日です。いわゆる三仏忌の一つ「成道会(じょうどうえ)」の日です。つまり、今から2500年ほど前、お釈迦様がお悟りを開いた日ですね。仏教が生まれた日と言っていいでしょう。菩提樹の木の下にお座りになり、明けの明星の輝きとともに悟りを得られた。そういう日です。
jiken_mirokuden021.jpg
 次、だいぶ飛びますが、昭和10年の12月8日、いわゆる第2次大本事件が勃発しました。大本はあの出口王仁三郎が率いる巨大教団です。王仁三郎の力を恐れた国家が、徹底的な宗教弾圧をします。1500発のダイナマイトで大本の施設を爆破したということだけでも、その異常さがわかります。高橋和巳の「邪宗門」のモデルになった歴史上希有な事件です。オニさんがそれほどのカリスマ性を発揮していたということでしょう。もちろん、この破壊は次の破壊を導くことになります。おそるべし大本の雛型経綸。
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 そうです、6年後の12月8日、ついに太平洋戦争が始まってしまいます。真珠湾攻撃ですね。窮鼠猫を噛む。あとの顛末は御存じの通り。寝込みを襲われちょっとびっくりした猫の姿を見て、鼠は勘違いしてしまったわけですね。寝た猫を起こしてしまった。最近では、猫は寝た振りをしていたのだ、というのが定説ですし。
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 そして、1980年12月8日です。ジョン・レノンが射殺されました。ビートルズのメンバーであるということだけではなく、本当にいろいろな意味で影響力を持つ人でした。当時高校2年生だった私は、久々に出た彼のアルバムを聴いている時に、このニュースを知りました。一晩中泣きました。直後の期末テストはもちろん壊滅状態でした。

 どうでしょう。何か象徴的な出来事が重なっていますね。ある意味全て、宗教と戦争がかかわっている。毎年この日になると、またとんでもないことが起きるのではないか、と心配になってしまいます。今日が無事おわりますように。

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2004.12.07

『白昼堂々、4人組が!…忍び寄る警察国家の影』  白川勝彦

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 笑ってはいけないのかもしれませんが、かなり笑ってしまいました。すみません不謹慎で。
 白川勝彦氏と言えば、オウム事件の事後処理に奔走した元自治大臣、元国家公安委員長として有名です。
 その人を「不審者」として4人の警察官が職務質問したというのです。もちろん当の警察官たちは、その不審者が「国民の良識を代表する者が警察を管理することにより、警察行政の民主的管理と政治的中立性の確保を図ろうとする」国家公安委員会の長であった人とはつゆ知らず。
 もう、その設定自体がかなりいけてますよね。マンガでもありえないですよ。コントならありえるかな。
 さらに、その職務質問の内容が良くなかった。元国家公安委員長であり、弁護士であり(東大在学中に司法試験合格)、政治家である(残念ながら議員さんではなくなりましたけど)氏に対して、4人の警察官は、いつものように(?)普通の不審者(?)に対するのと同様の職務を遂行してしまったのです。
 もちろん、氏は普通の不審者とは違う、普通でない不審者(?)としてふるまいます。4人のあまりに横暴な(違法な)仕事ぶりに怒った氏は、渋谷署の署長に抗議を申し入れようとします。署に着いた氏は自らの素性を明かしますが、対応した担当者は氏をニセモノ扱いします。そのあたりの警察のボケっぷりは最高です。
 しばらくして、氏を知る副署長によって、ホンモノであることが証明されます。それ以後の警察の狼狽ぶりも見物。結局署長は出てこないんですよね。まあ、出てこれないか。
 白川氏のホームページに、詳細な報告があります。これは必読です。
 これは困ったことだと、しかめっつらをして読むか、私のように不謹慎にも笑ってしまうかは、皆さんの自由です。
 それにしても、たぶん何万人といた渋谷人の中から、どうして彼が選ばれたのでしょうかねえ。事件当時の服装を再現した写真も載ってましたが、それを見る限り、ハッキリ言って全然不審じゃありません。たぶん再現されていない「何か」があったんでしょうね。
 もしかして、不審者を装ったとか…それじゃあ、水戸黄門ですな。あっ、そうか黄門様の世直し渋谷編だったんだ!なるほど。
白川氏の文章

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2004.12.06

荘野ジュリ 『36度5分』

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 以前に紹介した荘野ジュリの1stアルバムが届きました。まず、1回通して聴いた感想を。
 1曲目が「カゲロウ」。この曲は大好きでかなり聞き込んでしまいましたから、特に感想はありません。ただ、どうでしょうかねえ、1曲目に持ってきたのは。ちょっともったいなかったかもしれません。
 日本の場合はほとんどが、シングルが出てからアルバムが、というパターンですから、その曲がアルバムの中でどういうポジションで、どういう役割を与えられるのかというのが、一つの興味の対象になるんですよね。トップに持ってこられると、どうもその意図が読み取れない。楽曲自体がアルバムにしっくりとなじんでいかないことが多い。今回はその典型。
 他の曲はまあ、可もなく不可もなくって感じでしょうか。駄作もないかわりに、これはというのもありませんでした。全体としてのクオリティーは結構高いと思いますが、マイナー曲がほとんどなのと、変形のないリフレインが多すぎるのとで、やや単調な印象を抱きました。
 アレンジ的には、ラテンのテイストを上手に採り入れているなと思いました。しかし、一方で打ち込み系のリズムと音色が、後半に行くにつれて、ちょっと耳に辛くなりましたね。ボーカルが比較的淡々としているので、もう少し生々しくても良かったかも。生のラテンにこのボーカルを乗せた方が、効果的なコントラストが現れたかもしれません。このあたりは、最近の楽曲の問題点ですね。演奏というものの本質を問いたいところです。
 まあ逆に言えば、こうした音造りのおかげで、荘野ジュリの詞の世界が前面に出てきているとも言えます。一見ネガティヴな内容の詞が多いのですが、言葉とシーンの選び方に並々ならぬセンスを感じましたね。う〜ん、こう来たか、という感じ。古典的な言葉の配列から、今まで全く見たことのない風景を現出させる。詩人としての能力ですね。そのあたりを噛みしめながら、これから聞き込んでみたいと思います。
 Amazon 36度5分

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2004.12.05

フォーレ『レクイエム』 ジョン・ラター指揮 ケンブリッジ・シンガーズ

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 世の中で最も美しい音楽は何?この質問に答えるのは誰にとっても難しいことでしょう。
 私もいくつかの答えを用意できます。たぶん、その時々によって、どの答えを提示するか、判断するのでしょう。つまり、一つにしぼりきれないということです。当然ですよね。
 この曲は、それらのリストに欠かすことはできません。同意してくれる方々も多いのでは。
 私は、この曲に強い思い入れがあります。個人的な思い出になってしまうので、多くを語りませんが、本当に大切な人を送らなければならない日に、お寺で(!)ずっとこのレクイエムが流れていました。生前、その方もこの曲が大好きで、よくいろいろな演奏を一緒に聴き比べました。自分が死んだらこの曲をかけてくれ、と冗談交じりに言っていたのが、恐ろしいまでに早く実現してしまうという、本当に哀しいことになってしまったのでした。
 その方が好きだったのは、たしかクリュイタンスの美しすぎるほど濃厚な演奏だったと記憶しています。私も高校時代にその演奏でこの曲を知りました。もちろん私も大好きです。
 私が推したのが、ここで紹介するラター盤です。クリュイタンスとは本当に対照的なアプローチの演奏ではないでしょうか。使用している版は一般的な1900年版ではなく、1893年版です。オーケストレーションも小規模で地味。合唱もかなり小編成です。古楽器をやっている私としては、こちらの清澄な響きにより惹かれますね。心が洗われ、本当の天国を見るような気がします。特にPie Jesuのボーイソプラノによるソロがたまりません。本当に昇天しそう。その前曲Sanctusでのヴァイオリンソロは、普通より1オクターヴ高く繊細で実に美しい(バロック・ヴァイオリンの名手サイモン・スタンデイジが弾いています)。
 さらに古い1888年版には管楽器すら入っていません。オクスフォード・スコラ・カントルムによる録音を持っていますが、ちょうど中間形のラター盤がバランスよく、私の好みです。
 ラター盤のもう一つの魅力は、カップリングのフォーレ声楽曲の美しさです。ぜひ聴いてみて下さい。

Amazon Gabriel Faure: Requiem and other choral music

NMLジャパンで聴く(会員用)
NML本家で聴く(15分間フリー)

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2004.12.04

『ゆきゆきて、神軍』 原一男監督作品

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 戦争教材第3弾。これについては何も語りたくありません。語れません。久々に観ましたが、ぶっ飛びました。日常が。 
 奥崎謙三、すごすぎです。好き嫌いは別として。私は、これほどリアルな戦争映画を知りません。戦争のシーンは皆無なのに。
 まだ見たことがない方は、とにかく一度見るべきです。内容についてはAmazonのレビューなどをご覧下さい。
 彼の方法論には、多くの疑問があって当然です。しかし、こうした戦争の語り部がいなければ、私も戦争の本当の姿(の一部)を知らないまま終わったでしょう。そして、それを知ってますます戦争が恐くて嫌いになりました。今の平和のありがたさをかみしめます。月並みな言い方になってしまいますが。
 そして、世の中には、語り部になることを拒否した方々がたくさんいるのだと知りました。しかし、彼らを責める気にはなれません。彼らが悪いのではなく、また、天皇が悪いのではなく、やはり戦争が悪いのです。あえて誰かの責任だとすれば、人間の責任でしょう。人間を創りたもうた神の責任でもないと思います。
 この映画は、ドキュメンタリーなのでしょうか。はたまた壮大な、それこそ命を懸けた(自分と他人の命両方を懸けた)お芝居なのでしょうか。分かりません。こうした内容の作品が公開されることに驚嘆を覚えます。こうしたものにはフタをすべきだというのが、世間の常識かもしれません。私はあえて生徒に見せましたけれど。
 ps(蛇足)…それにしても、出所後の奥崎がいけませんね。いや、素晴らしいのかなあ。微妙。AVに出なくてもいいと思うんだけど…。
Amazon ゆきゆきて、神軍

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2004.12.03

THE YELLOW MONKEY 『TRUE MIND TOUR ’95〜’96』

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 惜しまれつつ解散ということになった90年代を代表するバンド「イエモン」。以前も書きましたが、30代の私は、かなりハマっていました。
 やはり、同世代だということでしょうかね。ちょっとサイケなグラムロックと、分かりやすい70年代歌謡曲を上手に織り交ぜたような楽曲に魅力を感じていました。もちろん、吉井和哉の書く叙情的な詞(詩)の世界にも大いに揺さぶられました。
 さらに、彼らの魅力を挙げるならば、メンバーのキャラでしょう。ああいうかっこうよさというのは、当時は珍しかった。大いに三枚目であり、オヤジであり、そしてテカテカのロッカーだった彼ら。今でこそお笑い芸人がカッコいいなどと言われるようになりましたが、当時としては異質な存在だったと思います。
 彼ら、全然(当時の)今風じゃなかったってことですね、つまりは。それで商業的に成功したんだから、これはすごい。
 で、今月には申し訳程度のイベントなども開催されるようですが、そんなのに参加してもムナしくなるだけでしょうから、久々に以前録画させてもらったライヴビデオを見ました。そうしたら、やっばりちょっと切なくなってしまいましたね。
 彼らの黄金期95年〜96年に行われた全国ツアーからのベストテイクと、それらに挿入されている、オフショットやインタヴューで構成されています。だから、全盛期の彼らの一年を追ったドキュメンタリーのような仕上がりになっています(今見るとね)。その全編に先ほど述べた彼らの魅力が満載。だから、切ないんですよね。うるうる。
 彼らの魅力の、その大事な一つを忘れてはいけません。ライヴ・パフォーマンスです。ロックはもちろんライヴです。その意味で彼らは本当に超一流です。演奏が上手いのは当たり前。あれだけ独自の世界を築けるバンドは、今ないんじゃないかな。感服。行きたかったな。2回行きそびれたから…。
 ツアータイトルの由来となった「空の青と本当の気持ち」…やっぱり名曲でした。泣きました。うるうる。
Amazon TRUE MIND TOUR ’95〜’96

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2004.12.02

『人間解放の福祉論 出口王仁三郎と近代日本』 広瀬浩二郎 (解放出版社)

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 福祉の問題は難しい。いくら21世紀が福祉の時代と言ったところで、実際は福祉が商売になる時代になったというだけで、本当の意味での福祉の実現は、まだまだ先のことになりそうです。
 そんな現状やら、偽善に走りがちな教育界での福祉論議やらに、少々いやけがさしていました。では、宗教は何ができるのか。その宗教さえ、福祉を自己満足の手段と履き違え、しまいには商売道具にまでしてしまう有り様。だいたい、宗教の名の下に人殺しをしているようじゃ何も期待できませんよね。
 しかし、本来の宗教がめざすもの、つまり今宗教と言われるものを生んだ純粋なる始祖たちの考えは、かぎりなく福祉に近いものだったでしょう。ゴータマしかり、アブラハムしかり、イエスしかり、ムハンマドしかり…。
 私は、多くの日本人と同様、ある寺の檀家ではありますが、特定の宗教団体に属しているという感覚はありません。しかし、日本近代が生んだ巨星、出口王仁三郎からは多大な影響と恩恵を授かっています。彼の人間離れしたスケールの言動から得られる智慧は数限りなくあります。だいたいが、既存の宗教の全てを混在させる教義(というか霊界物語の内容)からしてとんでもない。宗派の違いなんてものはもちろん、宗教という人間が作ったつまらぬ概念さえも、いとも簡単に無意味なものにしてしまいます。つまり、人間を様々な「コト」から解放してくれるわけです。その辺の(世界中の)痴話喧嘩のようないざこざが本当にばからしくなりますよ。
 その「人間解放」という視点から、王仁三郎の教え、ひいては宗教と福祉との関係を考察したのが、この本です。著者の広瀬さんは、国立民族学博物館の研究員です。ご自身、目が不自由ながら、民俗学の研究や武道の世界で活躍されている方です。この本でも、たいへんユニークな視点から福祉に迫っています。そして、とても丁寧に考察を重ねておられました。
 「つよいものがち」「われよし」という近代的社会、近代的人間を否定し、「モノ」的世界の復権を目指す王仁三郎の思想こそ、福祉=愛善世界=みろくの世=地上天国を実現する方法だと実感しました。とらわれちゃいけませんね。いろいろなことに。
「耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず」王仁
Amazon 人間解放の福祉論

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2004.12.01

ステファン・グラッペリ 『Live in San Francisco』(DVD)

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 私が最も憧れるヴァイオリニスト、いや音楽家、いや芸術家、いえいえ、おじいちゃん!ステファン・グラッペリのライヴDVDです。
 彼のライヴ映像はいくつか持っていますが、これは特に貴重ですね。1982年、74歳当時のライヴ・パフォーマンスです。ただひたすら驚嘆あるのみ。驚嘆しつつ感動し、心から楽しめる。う〜む、理想の音楽のあり方。真のエンターテインメント。
 ある時、共演したメニューイン(クラシック界の大御所ですな)が、あなたはいったいどうやって弾いてるんだ!?と言って目を丸くしたという逸話は、決して作り話ではありません。少しでもヴァイオリンをかじったことのある人なら、彼のヴァイオリンが人間離れした領域のものであることを、すぐに諒解するでしょう。私も何度見てもわかりません。神業です。このフィルム(記録媒体、ビデオじゃないんですよ)に焼き付けられた、一瞬一瞬の彼の姿と音楽が奇跡です。なぜ、楽器でこんなに上手におしゃべりできるのですか?美しくチャーミングに歌えるのですか?
 彼のピアノソロも2曲入っています。だいたいそれが憎らしいほど上手いのはなぜ?きっと趣味で弾いてる内にこうなっちゃったんだろうなあ。貴重な映像ですね。
 あと、このDVDの見どころは、グラッペリがバーカス・ベリーの青いエレキ・ヴァイオリンを弾いているシーンです!このブルー・ヴァイオリン、私も憧れましたねえ。大好きなミック・カミンスキー(ELO)や、ジャン・リュック・ポンティが弾いてました。そのエレキ・ヴァイオリンをオクターヴダウンさせて弾いている曲が、ビートルズの「ヒア・ゼア・アンド・エブリホエア」だというのも泣かせます。あと、スティーヴィー・ワンダーの「サンシャイン」も入っています。見事なフランス料理に調理してくれてますよ。
 さらに共演者にも注目です。グラッペリのバンドはもちろんすごいメンバーなんですが、最後に乱入?してくるブルーグラスのデイヴィッド・グリスマン・バンドの面々の個性的な演奏も見逃せませんね。
Amazon Live in San Francisco

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