国分寺チェンバーオーケストラ・コンサート2009
リハの休憩中に↓
今日は、彩の国さいたま芸術劇場・音楽ホールにて、国分寺チェンバーオーケストラの演奏会にエキストラとして出演してきました。
KCOの皆様におかれましては、前回ベートーヴェン演奏中に弓を折るという、とんでもないご迷惑をおかけしたワタクシを再び使ってくださり、本当に感謝にたえません。
昨年の、音楽史上に残る(?)悪夢については太宰のいたずらとして処理いたしましたが、のち、その太宰とはいちおう和解をしたはずですので、再びそのようなことはないと固く信じておりました。
さて、今回は無事に終了することができたのか!?
本日演奏したのは3曲。
モーツァルト/交響曲第25番ト短調
ハイドン/協奏交響曲変ロ長調
シューベルト/交響曲第4番ハ短調『悲劇的』
結果から申しますと、まあ個人的には多少「悲劇的」な部分もありましたけれど、全体としてはなかなかいい演奏ができたのではないでしょうか。
団員の皆さんの、本番での集中力、そして楽しもうとする姿勢には、仲間に入れてもらいながら、正直感動いたしました。そういう一体感がお客様にも伝わったのではないでしょうか。
そういう意味では、団員の皆様とともに、やはり指揮者の坂本徹さんの力による部分も大きかったと思いますよ。
この前の小澤征爾さんのインタビューじゃありませんが、やっぱり最後は音程とかリズムとか機械的なアンサンブルとかではなく、「心」です。坂本さんも最後はとにかく「音楽的であれ!」ということをおっしゃってましたっけ。そう、あらためて思いましたね。お客様に伝わるのは、そうした演奏者の「心」の一体感なのであると。
小澤さんの言葉で言うなら、指揮は「invite」であるということです。我々演奏者たちは、指揮者によってある一点に誘われ、収斂していくんです。そこに音楽のエネルギーが生まれるのでしょう。
普段、指揮者のいない比較的少人数のアンサンブルをする機会が多い私としては、最近のこういう体験は、また格別の新しい音楽体験です。この歳になって、そちら側の世界の面白さもわかるようになりました。密かに私も近代化してるのかな、ようやく(笑)。
また、今回の演奏会を通じて、作曲家自身が望むこと、すなわち彼らの曲を作るという行為の究極の目標というものも、そういう世界の実現なのではないかと思いました。
我々は、数百年前の外国の人間が残した「楽譜」という情報にいざなわれ、演奏者が集い、指揮者のもとに一つの到達点に向けて、それぞれのベクトルが合成されていく。その結果も、またプロセスも、とってもエキサイティングなものですね。
小澤さんが言ってましたっけね、団員の7割が納得すれば、まあまあそこそこの演奏になると。100%ということはないと。たしかにそうでしょう。もちろん、解釈やセンスの違いはたくさんあって当たり前です。気持ちのノリというのも日によってまちまちでしょう。それを互いが協調し、ある意味妥協したり、助け合ったりしてですね、一つの形に仕上げていく。それが最終的に出来上がる音楽のエネルギーにつながっていくんじゃないでしょうかね。
つまり、最初からみんなが納得し、ある意味みんなが同じ意見だったり、あるいは指揮者の言いなりになっていたら、それはもしかすると、コンピューター音楽のように味気ないものになってしまうのかもしれません。
大勢が集まって一つの音を出した時、それは多様な音色や音程の集合体ですよね。加えて、それぞれ別個のヴィブラートで音程をずらしたりすることによって、あえてうなりを生じさせたりします。また、ホールの残響によっていろいろな音が混じり合っているわけで、そういう意味では、常に不協和音が鳴っているという理屈になります。しかし、そうして、力のある「音」が生まれるのは絶対的な事実ですよね。心を動かす響きというものが生まれる。なんでもかんでも純正調で完璧な音程を重ねればいいというものではありません。
人間というのは面白いものですね。そうした、ある種の不協和によって快感を得るわけです。それは、先ほど述べた解釈や気分の総合の際にも言えることなのでした。本当に不思議ですね。
小澤征爾さんも、ようやく最近、アンサンブルが崩壊しそうになるところまで、感情表現できるようになったと言っていました。それが感動を呼ぶと。つまり、あまりに行儀が良すぎても人間味がないということですよ。私の仕事の上でもそうですね。完璧な優等生ほどつまらんものはない(笑)。
もちろん程度問題ではありますが、こういうある種の雑音やある種の衝突、ある種の混沌を超えて、それを束ねるエネルギーが生じた時、我々は感動するということが多々あるような気がします。そういう意味では、我々アマチュアが有利な面もあるんですよね。
私が常々言っている、「コト」という器から溢れ出る「モノ」のエネルギーという考えが、その現象にあてはまるとも言えますし、逆に暴れる「モノ」を束ねる「コト」の存在に我々が感動するとも言えるような気もします。
いずれにしても、「コト(意識・随意・情報)」と「モノ(無意識・不随意・自然)」とのせめぎ合いが、芸術や文化の源泉であるのは間違いないようです。
後半のシューベルトを演奏中、そんなことを思いついてしまったので、ついつい「悲劇的」になっちゃったんですよね。ごめんなさい。でも、なにか大切なことを学んだような気がします。シューベルトさんやハイドンさん、モーツァルトさんはじめ、皆さんのおかげです。ありがとうございました。慣れない異種格闘技戦で疲れましたが、とっても楽しかった。これもまた他者との出会いの歓びだったのでしょう。
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2万6000人の思い。
ちなみに私は、三沢Tシャツを着て、そしてノアのエナメル・バッグを肩にかけ、翌日の演奏会の最終練習に向かいました。折れない心でどんな相手とも真っ向勝負した三沢さんの姿勢にならい、異種格闘技戦となるシューベルトに臨んだのでありました。実は、昨日までどうもシューベルトに対して気持ちが乗らなかったのですが、それが嘘のように楽しく演奏できました。これも三沢さんのおかげです。ありがとう!三沢さん。




この季節、年中早起きのワタクシは、いつに増してまた早起きになります。もちろん日が最も長い、すなわち日の出の時刻が早いというのも一つの理由です。3時半には薄明が始まり、ああ朝だなという感じになりますから。
13世紀の名語記という書物に、「鳥のてらつつき如何。答、寺つつき也。ゆへは、聖徳太子の逆臣守屋を誅罸し給て、守屋が館を没官して、四天王寺を建立し、仏法をひろめ給へりしを、守屋が亡魂そねみて、鳥となりて来て、かの寺をたたき損せむとせし時より、寺つつきとなづけたりと申す」とあり、また同時期の源平盛衰記にも、「昔、聖徳太子の御時、守屋は仏法をそむき、太子はこれを興し給、互に軍を起しゝかども、守屋終にうたれにけり。太子仏法最初の天王子を建立し給たりけるに、守屋が怨霊、かの伽藍を滅さん為に数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎を創ほろぼさんとしけるに、太子は鷹と變じて、かれを降伏し給けり。されば、今も怨霊はおそろしき事也」とあります。
今日3年生は芸術鑑賞で東京へ行ってます。劇団四季の「異国の丘」です。
おじさまたちがフル活動!男を生かす、活かす、逝かす女は最高という結末。
彼女の語ることって、結局ニーチェの言う「女が最強!男の理屈なんか屁でもない!」なんですよね。それを体現してしまって、男は彼女の前ににこやかにひざまずくし、女は溜飲を下げるわけです。
わ〜ぉ!ついにここまで来たか…というか、いつのまにここまで来たの?という感じでしょうか。8月24日、我らがMISO(富士学苑高校ジャズバンド部)が、あの!MJQとジョイント・ライヴをやっちゃいます。
それは決して高校生のそれぞれがカリスマなわけでなく、高校生という存在自体がいまだ素晴らしいということです。ですから、去年そこで輝いていた高校生が、大学へ行ったりして、相変わらず輝いているかと言えば、決してそうではないのが実情です。それが普通でしょうし。
むむむ、実はかなり感動してしまった。すごいわ、やっぱり。スケールが違う。大きさも違うし、音階も違うという感じ。
あと、そういうスケールということで言えば、あまり「語りすぎない」ということでしょうね。このインタビューでも、彼は、分からないことは分からないという姿勢を貫いていますし、我々音楽シロウトだったらいくらでも語っちゃうようなことを、ある意味すっ飛ばしてしまっています。それが強みだなと思いました。
ぎりぎりセーフ。山梨県立文学館で開かれていた「太宰治展 生誕100年」、最終日に行ってきました。
富士山に住んでいる(住所も鳴沢村字富士山)「富士山蘊恥庵庵主」として、ナンバーを「富士山」に替えるというのは、もうほとんど義務のようなものでしょう。その義務をようやく果たしました、半分だけ。
また天才の訃報が…。どんどん時代が終わっていきますね。
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