2012.02.09

『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』 ケイレブ・メルビー&ジェシー  (集英社インターナショナル)

20120210_164302 日は珍しく体調不良であります。いちおうインフルエンザではないとの診断ですが、いきなり9度近い熱が出たあたりどうも怪しい。
 よって記事も手抜きとなります。ごめんなさい。
 ということで、まだ読んでもいないし、まだ発売されてもいない本を紹介します。
 このブログでも何度か書いてきた、アップルのスティーブ・ジョブズと曹洞禅の関係がよく分かる本になりそうです。
 ちなみに原書の方はアマゾンでも取り扱っております。大した量じゃないし、マンガなので英語で読んでもいいんですけどね。日本語訳の質もわかりませんし。
201110182 ジョブズは、この前IGFの宮戸さんとの会話にも出てきたオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を、ずいぶん若い頃から読んでいたそうで、その時点で立派な禅マニアだと言えますね。
 ジョブズに曹洞禅を本格的に教えたのは国際布教師の知野(乙川)弘文老師です。アップル社のシンプルで画期的な製品の設計思想に影響を与えたのももちろん、ジョブズの不遇の時代を支えたのも知野老師でした。
 そんな二人の禅問答的交流を紹介したのが、このコミックというわけです。紹介の動画がありましたので、ちょっと見てみてください。

 Amazon ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ The Zen of Steve Jobs

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2012.02.08

悲観は楽観の母

0048 「観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
 昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
 昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
 私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
 人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
 なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
 五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
 私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
 いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
 どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
 悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
 いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
 そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
 だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
 実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
 「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
 そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
 そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
 前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
 そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。

Amazon 幸福論

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2012.02.07

『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書)

20120208_91529 「山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。
 五木寛之さんですから仏教の話だと思ったのです。私は登山家ではなくそちらに近い人間なので(苦笑)。
 なるほどねえ。我々日本人はすでに登頂してしまったのでしょうかね。そしてその山はなんという山だったのでしょう。なぜ、私たちはみんなでその頂を目指してしまったのでしょうか。
 なるほど、「山の醍醐味は『下山』にある」か。ゆとりをもって、周りを見回すことができると。そして頂点に集中していたものが拡散していくという発想も理解できます。もちろん、そこから新しい山を目指すという可能性の行為ととらえるというのも分かります。
 ただ、この本を読んで、私が救われたかというと微妙です。それは私という読者の特殊性のゆえだと思いますから、筆者を責められません。
 一つは、登山家でない私には「下山」が決してゆとりのあるものではなかったということです。私の数少ない「下山」経験からすると、それは苦痛でしかなかったのです。
 まずウチの裏山である「富士山」。こいつの「下山」はいつも最悪です。下山するんだったら、ずっと登っていたいくらい私は嫌いです。なにしろ足が痛い。膝がガクガク。そして、足の先、足の裏に激痛。ま、単にシロウトだからでしょう。でも、いやなものはいや。
 その他の山でも「下り」はどうも好きではありません。なにせ、私のつまらない根性には、「せっかく登ったのに下りちゃうのもったいないな」と感じられるからです。「またあの俗世間に還るのか」という落胆にも似た虚無感があるのも事実です。
 おそらくそれもまた登山のプロからするとなんとも稚拙な精神性の賜物であるのでしょう。残念であります。だから、この本の比喩としての「下山」にいちいち納得できなかったのです。
 理想論としては分かります。うまい発想の転換だなとも思いました。しかし、この先、とりあえず下界に下りなければならないこと、そしてその下界がその後どうなっているか分からないこと、さらに今登った山にはもう登ってはいけないと暗に言われていること、かと言って次に登るべき山の姿すら見えないこと、もっと言えば、次なる山があるのかどうかも分からないことも事実なのです。
 この登山と下山を自己の人生の比喩として読むと、これまた「下山を楽しめ」と言われてもなかなか難しいですよね。もう一山登る元気がないという人もいるでしょう。それから若者はまだ一山すら登っていないのに、いきなり下山かよ!?でしょうしね。
 私はこう思います。やはり下山の苦しみは下山の苦しみであると。また、下山の楽しみに下山の楽しみにすぎないと。下山という行為自体に意味や価値を見出しても、それだけではダメなような気がするんです。
 はたして今登った山の価値はなんだったのか、それをじっくり考え反芻しながらの道筋であるべきとも思います。決して「登った山が間違っていた」ではありません。
 もう次の山には登れないかもしれないのです。いや、山に登る必要もないのかもしれません。ただみんなで一つの山に登ったことは事実なのですから、そこに最大の意味と価値を探すべきでしょう。
 それは、それこそ仏教的な「上山(入山)」と「下山」の関係と同じだと言えるかもしれません。私もたった一泊の修行の真似事を何回かやらせていただいていますが、たったそれだけでも、下山のすがすがしさや達成感と、そこに必ず寄り添う一抹の不安や寂しさを、いつも感じています。その相矛盾する感覚こそが、私は「下山の思想」であると思います。
 すなわち、実際の登山であっても、お寺に関することでも、山に上るというのは「現実から離れる」という意味合いが大きいと思います。そして実際に客観的俯瞰的に自己や社会の現実を再確認し、そして再び下っていくわけじゃないですか。
 ということは、歴史的に私たち日本が果たした「登山」というのもまたそういう意味合いのものだったかもしれないわけです。つまり幻想への逃避であったと。
 そして、今そこを下りて現実に帰還せんとしている。その一種の不安こそが、現代の「うつ」や倦怠感そのものなのではないか。それは「重力に逆らわず落下する」感覚とでも言うのでしょうか。
 無理やり私の仏教的「モノ・コト論」に引き寄せるなら、登山は自然(重力)への反発という意味で「コト」になり、下山は自然(重力)に対する従順という意味で「モノ」になります。そうすると、我々が感じている「下山の憂い」こそが、いわゆる「もののあはれ」であることが分かりますよね。
 そこに気づくことが実は第一であって、そこからさあどうしようかというのが、仏教の、いや我々人類の大きな課題です。
 すなわち、私たちは戦中、戦後と、大変な修行を課せられたのです。ある意味両極端な修行を。さらに総決算とも言えるあの震災や原発事故がありました。それが終わり、今現実に還ろうとしている。
 修行を終えた私たち自身は、明らかに登山(上山)前とは違っています。当然その目には下界は以前と違って見えることでしょう。
 この修行の成果を発揮するのはこれからです。「下山」は未来への覚悟をするステージです。
 結局は五木さんと同じような結論になりますけれども、これが私なりの「下山の思想」ということになるでしょうか。

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2012.02.06

キース・エマーソン・バンド 『Moscow(DVD)』

Keith Emerson Band
51kxwgjld9l 人から「これを観ないでは死ねない」と言われ購入したDVD。たしかにこれはすごい。これが1000円そこそこで手に入るなんて、まあなんと幸せな時代なのでしょう。
 ちょうどこの前、エマーソン・レイク&パーマー 『 Live in Japan(1972年後楽園球場)』を紹介しましたね。あれはあれで若かりし頃のキース・エマーソンの素晴らしいパフォーマンスだったと思いますが、やはりこちらの方が数段ステージが上ですね。
 昨日の「禅」の話じゃないですけれど、やはり究めて窮めて極めるとこういう「形」になるんだなと。表現ではなくて、本物それ自体なんですよ。誰も真似できない。
 EL&Pでないからこそ、このクオリティーだとも言えましょうか。ヴォーカル&ギターのマーク・ボニーラはじめ周りを固める「職人(弟子)」たちによってより高められたエマーソン老師という風情ですね。
 屹立する(大)Moog様が、そこに鎮座する仏像、いや曼荼羅図のように感じられたの私だけではないでしょう。ここまで来ると、もう無機物であるとか、機械であるとか、電子機器であるとか、そんなことはどうでもよくて、全てが「自然」の造物であるという感じがしてきます。
 それにしても、この「形」はすごいですね。キース・ジャレットやパット・メセニー、そしてイチローについての記事などで書いてきましたよね、「超一流は独自の形になる」と。それは一般的には「変」であり、誰も真似できないと。ここでのエマーソン老師の指使いというか手の形というか、これは「変」ですよ。鍵盤を弾く方ならお分かりになるでしょう。真似のしようがありません。
 この手さばき、指さばきは、「気」を操る領域ですね。もちろん機械を操作しているのではない。昨日の宮戸さんとの話で言えば、「合気道」の植芝盛平という感じですよ。特にテルミンに対峙した時(笑)。
 その他、もろもろのことはぜひともAmazonのレビューをご覧下さい。私なんかより彼らに詳しい方々が皆興奮して表現しています。
 探していたら、ありました!このDVDの中でも圧巻と言えるあの「LUCKY MAN」が!これを観て聴いて鳥肌が立ったなら、すぐにアマゾンでポチッとしてください。家宝になります。ちなみにリージョン・フリーのようです。日本のプレイヤーでちゃんと再生できます。

Amazon Moscow(DVD)


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2012.02.05

『迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 』 ネルケ無方 (新潮新書)

51fvctgyxll 日の話題「方便」も出てきました。へえ〜、僧堂ではこういうのを「方便」と言うのか。
 今日は東京にてマタイ受難曲の練習。鞭打ちのシーンの付点はもっと鋭く…と言われても、仏の慈悲心からかどうしても甘くなってしまう…いやいや、単に技術がないからです(苦笑)。
 実は練習の合間にこの本を読み進んでいたのですが、まあまたまた驚きの偶然、いや必然がその後起きました。
 練習が終わって、私は高円寺に向かいました。真のプロレスリング伝導者にして、IGFの現場監督(GM)宮戸優光さんに会いに行くためです。
 大晦日の「元気ですか!! 大晦日!! 2011」や2.17の興行のこともいろいろお聞きしたかったし、昨年はいろいろプライベートでもお世話になっていたので、お礼かたがたいろいろお話をしようと思っていました。
 私たち二人が話を始めると、ちょっと不思議な雰囲気になります。おそらく周囲の人たちはついてこられない世界ではないでしょうか(笑)。すなわち、プロレスや教育の話をするのですが、それが非常に「禅」的な内容とスケールになっていくのです。
 そして、なんとも摩訶不思議なことに、私は何も言っていないのに、宮戸さんの方からこの本の話が出たのには驚きました。それ、まさに今日読んでいる本ですよ!もうこれは偶然ではないですよね。あまりにマニアックにピンポイントすぎます。仏縁でしょう。
 いやあ、本当に宮戸さんは私にとって、アントニオ猪木という神(仏?老師?怪物?)の良き右腕としてのみならず、一人間として尊敬すべきプロレスラーであり指導者であり、そして、これはおこがましいかもしれませんが、良き修行仲間という感じがするのです。
 なかなか言葉では説明できませんが、互いに「仕事」や「鍛錬」を通じて、共通する「何か」の存在を予感し、いや確信しているんですね。そこに大きな共感があるんです。
 だから、今日のような不思議なシンクロが生まれるのでしょう。
 正確にいうと、この本が直接出てきたのではなく、この本で紹介されているオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」の話から、この本の話になったのです。まさに今日のお昼にその「弓と禅」が紹介されているところを読んで、私自身も「ああ、そう言えば『弓と禅』読んでないな」と思った矢先だったので驚いたというわけです。
 さて、そんなわけで、帰宅してからまずはこの本を一気に読み終えました。ものすごいスピードで読めたのは、宮戸さんとの会話のおかげで、この本に書かれている内容の理解が…いや理解ではないな…腑に落ち方が尋常ではなかったからです。
 これぞまさに「師匠」の力であり、「縁起」そのものでありましょう。ありがたいことです。
 そういう意味も含めまして、この本、今まで読んだどんな禅に関する本よりも、すうっと心に、いや体に入って来ましたね。「私が座禅するのではなく、座禅が座禅するのだ」…この境地は予感できます。いや、理屈や言葉によらずに「確信」できます。
 ネルケさん、いや無方禅師の、その境地まで至る過程もまたよく分かるものでした。
 私もかなり徹底した「野狐禅」「野狸禅」の実践者でして、最近ではいろいろな老師様とお話する機会をもいただいております。普通の雲水さんではとてもお話できないような方々ですよ。野にあるからこそ可能なことです。ずうずうしいだけとも言えますがね。また、上司や同僚、教え子や友人に僧堂での経験者が多いこともありまして、日本の仏教そのもののあり方や禅の修行の問題点や奇妙なところをけっこう知っている方だと思います。
 それをドイツ人であるネルケさんが実に客観的に、そしてある意味批判的に包み隠さず書いている点(もちろん仮名が使われたり、寺名は伏せられたりしていますが)、非常に貴重な「資料」だとも言えます。なかなか内部の人、特に日本人にはこうは書けませんね。
 そういう意味では、以前紹介した「食う寝る坐る 永平寺修行記」とも一線を画していると言えます。かの著者は日本人でしたし、僧侶になったわけではありませんから。
 「禅」に興味がある方はもちろん、東西の比較文化論に興味がある人、あるいは「迷える者」たちにもぜひ読んでもらいたい本です。
 最後に道元禅師による「現成公案」の一部を、著者が現代語訳したものを引用させていただきます。ここに禅のエッセンスが表されていると感じました。

 私たちの日常生活も、それをはるかに越えた宇宙全体も、様々な側面がある。しかし、私たちに見えているのはそのほんの一部分でしかない。それぞれの視野に収まる範囲の物事を見聞きし、各々が受けてきた教育や人生体験で処理しているだけだ。物事の本当のあり方が知りたければ、自分のメガネを通して物事に『◯╳』をつける以前に、物事にはこの頭で割り切れない側面のあることを理解しなければならない。周りの人々(山・川)にはまだ気づいていない徳もあろうし、自分が想像してもいない世界が他にもあるということを、よく承知していなければならない。これは他人事ではない、自分の足下の話なのだ。

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2012.02.04

嘘も方便(三車火宅の譬え)

写真は柴又帝釈天の胴羽目です。名作「三車火宅の図」。
Img_1816555_64367758_8 日は中学校の一般入試でした。
 今回も国語の問題の本文を掲載しましょう。何度も書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。それにはいろいろな理由があるのですが、やはり最大の理由は「入試は一期一会」だということでしょう。
 合否とは別に、受験生(小学生)の人生にとって何か意味を残したいからです。
 今回は「うそ」をテーマにしてみました。私もこれまで存分嘘をついてきた人間です。偉そうなことは言えないはずですが、いや、だからこそ言えるというのもあるかな、とにかく自分自身の反省や勉強も兼ねて、「嘘も方便」のもとになったと思われる、法華経の中の「三車火宅の譬え」を取りあげてみました。
 もちろん実際の問題には、傍線部や空欄などがあるわけですが、ここでは原文のみ紹介します。最後にはこの文章に基づいた作文を書いてもらいました。皆さんそれぞれ素晴らしい文章を書いてくれまして、職員一同感動しました。
 では、今日も縦書きでどうぞ。昨日の漱石の文と比較しないでくださいね(笑)。


    うそ

 「うそをついてはいけません」
 「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」
 みなさんは、大人によくそう言われてきたのではないでしょうか。もしかすると、これからも言われるかもしれませんし、将来は自分がそのように言う立場になるかもしれません。
 では、世の中に「うそ」は全くない方がいいのでしょうか。
 もし、「うそ」ということばを辞書にあるとおり「事実でないこと」だと定義すると、国語の教科書にのっている物語や、いつも見ているテレビドラマやアニメは「うそ」だということになります。
 それからまだ起きていない未来について言うこと、たとえばテレビの朝の占いや天気予報、さらには「君はがんばればきっと総理大臣になれるよ」などという励ましのことばまでもが、正確に言えばみんな「うそ」ということになってしまいます。
 そう考えると、すべての「うそ」をなくすのも、なんとなくさびしいような気がしてきます。
 では、どうして「うそをついてはいけません」とか「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」とか言ったり言われたりするのでしょう。
 ここでヒントになるのは、「うそつきはどろぼうのはじまり」と対照的な意味を持つ、「うそも方便」ということわざです。いったいどんな意味なのでしょう。さっそく辞書をひいてみましょう。
 うそも方便=場合によってはうそも手段として必要である意
 辞書に「うそは必要」としっかり書いてあるのは驚きですね。しかし、ここで「ああ、なんだ。うそってついてもいいんだ」と思ったとしたら大まちがいです。もう一度よく辞書の説明を読んでみてください。
 「場合によっては…」
 そう、ここが大切なのです。この「場合によっては…」の「場合」がなんなのか考えなければ、このことわざの本当の意味はわかりません。
 この「うそも方便」の「方便」ということばは、実は仏教用語です。簡単に言いますと、「仏様が人間を救う方法」という意味です。つまり、「うそも方便」とは「うそも仏様が人間を救う方法のひとつである」というのがもともとの意味なのです。
 えっ? うそが人を救う? 疑問に思いますよね。では、一つのたとえ話をもとにじっくり考えてみましょう。
 あるお経のなかに、「三車火宅さんしゃかたくたとえ」という話があります。次のような内容です。

 昔々あるところに子だくさんの長者がいました。
 ある日長者がでかけている間に、家で火事が起きてしまいました。家の中では子どもたちが留守番をしながら遊んでいます。子どもたちは遊びに夢中で火事に気づいていません。
 「早く逃げなさい!」
 急いで帰ってきた長者は、子どもたちに大声で呼びかけますが、だれも気づきません。
 すっかり困ってしまった長者は、ここで大切なことに気づくと同時に、一つの方法を思いつきます。無理やりこちらに来させようとしてもだめだ、自分の意志で行動させなければ。
 「みんな、こっちに君たちがほしがっていた立派な車があるよ」
 するとどうでしょう。子どもたちはわれ先にと走ってきました。するとそこには思っていたよりもさらに立派な車が用意されていたのです。子どもたちはそれに乗って無事火事から逃げることができました。

 お話は以上です。どうですか。この話の中で、長者は「うそ」を言っていますね。それも二重のうそをついています。
 まず、「立派な車があるからこっちに来なさい」というのは、その時思いついたことであり、本当なら「火事だからこっちに逃げなさい」と言うべきところです。本当のことを言っていないのでこれは「うそ」だと言えます。
 そして、実際に子どもたちが来てみたら、自分たちがほしがっていたものよりももっと立派な車があったわけですから、やはり本当のことを言っていません。それも正確に言えば「うそ」だということになりますね。
 もし、全ての「うそ」をいけないことだとするなら、この話は、子どもをだましたとんでもない悪い長者の話ということになります。しかし、みなさんもそうは思わなかったでしょう。
 そうです。これこそが「場合によって」の「場合」なのです。
 つまり、「相手のためになる」場合には、「うそ」が必要になることもあるのですね。
 では、この「三車火宅の譬え」において、どんなふうに「うそ」が「相手のためになっている」のでしょうか。よく考えてみてください。二重のうそには、二重の「相手のため」があることが分かってくるはずです。
 まず最初の意味での「うそ」、つまり「立派な車があるからこっちにに来なさい」というのは、火事から子どもたちの命を救うための「うそ」です。これはまちがいなく「相手のため」のうそですね。「うそ」を言わなかったら、子どもたちは死んでしまったにちがいないからです。
 また、もう一つのうそ、実際にはそれ以上の立派な車があるのに、「君たちがほしがっていた立派な車」と言ってしまった部分はどうでしょう。これはちょっと難しいかもしれません。
 子どもたちを火事場から離れさせるのに、長者は最初「早く逃げろ!」という強制的なことばを使いました。その時、子どもたちは反応しませんでしたね。しかし、車のことを言うと、自ら喜んで走ってきました。つまり、「うそ」のおかげで、子どもたちは自分から進んで行動することができたのです。
 実はそのように自分から行動できた子どもたちを見て、長者(実はお釈迦様なのです)が、ごほうびとしてより立派な車を用意したのです。
 分かりましたか。「相手のためになるうそ」が存在することが。
 逆に言うと、「相手のためになる」場合以外の「うそ」は許されないということです。
 たとえば、相手をだまして自分だけが得をするための「うそ」だとか、相手が傷つく「うそ」だとか、自分を守るためだけの「うそ」は絶対についてはいけないのです。
 私たちはついついそういううそをついてしまうものです。方便となる「うそ」をつくのは難しい。お釈迦様レベルなら可能かもしれませんが、私たち凡人にはなかなかできません。だから、つい簡単な方の「うそ」をついてしまうのです。
 こう考えてきますと、物語やドラマ、そして励ましのことばなどが、まさに「方便」であって、一般的には「うそ」だと言われない理由も分かってきます。そして、それらを作り出したり、使ったりすることが、いかに難しいか、そして責任重大かということも分かってくるのではないでしょうか。


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2012.02.03

夏目漱石 『素人と黒人(くろうと)』

20100526201449 「士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである」
 今日もまた他人のふんどしです。
 中学高校の仕事をしていますので、小学6年生のために問題を作ったりする一方、大学入試の文章も読まねばなりません。まさに受験シーズンですなあ。この時期は忙しいけれど楽しい。私は普通の国語の先生と言うより受験国語の先生なので。
 今日は昨年の早稲田大学の問題を生徒と一緒に解きました。最近の早稲田の問題は昔に比べると「良問」になっている気がします。単に自分が慣れてきただけかもしれませんが。
 で、その現代文の本文の一つが漱石のエッセイでした。大正13年(1914年)東京朝日新聞に掲載されたものだそうです。
 これがなかなか面白い「漱石節」だったので、思い切って抜粋されていた分すべてを紹介します。
 まあ簡単に言えばいわゆる「玄人」をけちょんけちょんにやっつける文章ですね。こんな口調でここまで言うなんて、いったい漱石に何があったのか、何がこれを書かせたのか、興味のあるところです。
 しかし、ここに書かれていることは、古今東西・硬軟聖俗すべてに普遍的なことであるような気がしますから、単なる個人攻撃、あるいは感情論ではないということですね。そのあたりが漱石らしいところです。
 そして、漱石らしいと言えば、最後の段落でしょうかね。うまいこと逃げているとも言えるし、皮肉がきいているとも言えます。
 なんか、そのあたりは自分の書く文章にも似ているな…いやいや、私が漱石の影響を受けていると感じました。私もよく使う技であります(笑)。
 ところで、どうして漱石は「しろうと」は「白人」ではなく「素人」と書いているのに、「くろうと」は「玄人」ではなく「黒人」としたのでしょうか。
 おかげで、「素人と黒人」でググると大変なことになります(笑)。ぜったいに検索しないようにしましょう。
 漱石のいたずらでしょうかね(苦笑)。
 いや、実際、明治時代には「しろうと」は「素人」という表記しかなく、「くろうと」は「黒人」が一般的であったようです。「玄人」は案外新しい表記らしい。おそらく「黒人」が「黒色人種」の意味として一般化すると同時に、それとの差別化を図って「玄」という字をなんらかの理由で使うようになったのでしょう。
 それまでは「黒人(こくじん)」というと、「しろうと」の反対で「遊女」のことを指しました。
 ちなみに「素人」という漢字は中世から近世にかけて既に一般的でした。
 では縦書きでどうぞ。ルビもつけちゃえ! 面白いのでぜひお読みください。

 良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えていた。詩人の詩、書家の書といえば、本職という意味から見て、これほど立派なものはないはずである。それを嫌う上人の見地は、黒人の臭みをにくむ純粋でナイーブな素人の品格から出ている。心の純なるところ、気の精なるあたり、そこにれ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。腹の空しい癖に腕でき廻している悪辣がない。器用のようでその実は大人らしい雅気に充ちた厭味いやみがない。だから素人は拙を隠す技巧を有しないだけでも黒人よりもしだといわなければならない。自己には真面目に表現の要求があるということが、芸術の本体を構成する第一の資格である。既にこの資格を頭のうちに認めながら、なおかつ黒人の特色をうらやむのは、君子の品性を与えられている癖に、手練手管てれんてくだの修業をしなければ一人前でないと悲観するようなものである。  ここで、更に新しい所から黒人と素人を比較して見ようと思う。あるものを観察する場合に、ず第一にわが眼に入るのはその輪郭である。次にはその局部である。次には局部のまた局部である。観察や研究の時間が長ければ長いほど、段々細かい所が眼に入って来る、ますます小さい点に気が付いて来る。これはすべての物に対する我々の態度であって、ほとんど例外を許さないほど応用の広い自然の順序と見ても差支さしつかえない。だから芸術の研究もまたこの階段を追って進んで行くに違いない。いわゆる黒人というものはこの道を素人より先へ通り越したものである。そうしてそこに彼等の自負が潜んでいるらしい。彼等の素人に対する軽蔑の念も亦そこからいて出るらしい。けれどもそれは彼等が彼等の径路を誤解して評価づけた結果に過ぎないと、自分は断言してはばからない。彼等の径路は単に大から小に移りつつ進んだのである。浅い所から深い所に達しつつあるのでもなければ、上部から内部に立体的に突き込んで行きつつあるのでもない。大通りを見つくしたから裏通りを見る、裏通りを歩き終ったから、横丁や露地を一つ一つのぞいているという順序なら、たとい泥板どろいたの上を一軒一軒数えて廻っても、研究の性質に変化の来るはずがない。それを低い平面から高い平面に移された様に思うのは、いわゆる黒人のイリュージョンで、平凡な黒人は皆このイリュージョンに酔わされているのである。単にこれだけなら彼等の芸術に及ぼす害毒はさほど大したものでないかも知れない。けれども彼等はこの甘いイリュージョンにあざむかれて、大事なものは何処どこかへ振り落して気が付かずにいるのである。  観察が輪郭に始まって漸々ぜんぜん局部に移っていくという意味を別の言葉で現すと、観察が輪郭を離れてしまうという事に帰着する。離れるのは忘れる方面へ一歩近寄るのと同然である。しかもその局部に注ぐ熱心が強ければ強いほど輪郭の観念は頭を去る訳である。だから黒人は局部に明るい癖に大体を眼中に置かない変人に化けて来る。そうして彼等の得意にやってのける改良とか工夫というものはことごとく部分的である。そうしてその部分的の改良なり工夫なりがごうも全体に響いて居ない場合が多い。大きな眼で見ると何の為にあんな所に苦心して喜んでいるのか気が知れない小刀細工をするのである。素人は馬鹿馬鹿しいと思っても、先が黒人だと遠慮して何もいわない。すると黒人はますます増長してただ細かく細かくと切り込んで行く。それで自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高い立場から見下すとこれは進歩でなくって、堕落である。根本義を棚へ上げて置いて、末節にばかり齷齪あくせくする自分の態度に気がついたら黒人自身もしか認めなければなるまい。  素人はもとより部分的の研究なり観察に欠けている。その代り大きな輪郭に対しての第一印象は、この輪郭のなかで金魚のようにあぶあぶ浮いている黒人よりは鮮やかに把捉はそく出来る。黒人のように細かい鋭さは得られないかも知れないが、ある芸術全体を一眼に握る力において、糜爛びらんした黒人のひとみよりもたしかに溌剌としている。富士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである。  ある芸術の門をもぐる刹那に、この危険は既にその芸術家の頭に落ちかかっている。虚心に門を潜ってさえそうである。与えられた輪郭を是認して、これは破れないものだと観念した以上、彼の仕事の自由は到底毫釐ごうりの間をうろついているにすぎない。だから在来の型や法則を土台にして成立している保守的の芸術になると、個人の自由はほとんど殺されている。その覚悟でなければ這入はいる訳に行かない。能でもおどりでも守旧派の絵画でもみんなそうである。こういう芸術になると、当初から輪郭は神聖にして犯すべからずという約束の下に成立するのだから、その中に活動する芸術家は、たとえ輪郭を忘れないでも、忘れたと同じ結果に陥って、ただ五十歩百歩の間で己の自由をみせようと苦心するだけである。素人の眼は、この方面においても、一目の下に芸術の全景を受け入れるという意味から見て、黒人に優っている。  こうなると俗にいう黒人と素人の位置が自然転倒しなければならない。素人が偉くって黒人が詰まらない。一寸ちょっと聞くと不可解なパラドックスではあるが、そういう見地から一般の歴史を眺めて見ると、これはむしろ当然のようでもある。昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、その人は黒人でなくって素人でなければならない。人の立てた門を潜るのでなくって、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。

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2012.02.02

アンデシュ・ダンマン 『オール・ユー・ニード〜クラヴサン組曲』

Anders Danman 『ALL YOU NEED-LIVRE DE CLAVECIN』
41ahgpqthxl_sl500_aa300_ みません、土曜日に一般入試である上に、再来年度へ向けての大仕事もあって、なかなか時間が取れません。よって、またまた音楽ネタ。YouTube頼みとなります。
 しかし、案外こういう時でないと、こういうものたちを紹介できなかったりするので、これはこれでいいのかもしれません。実際、ここ数日の記事は(一部のマニアの方に)なかなか好評です。
 さて、今日はまたすごいものを紹介しますよ。私、これ大好きなんですよ。素晴らしい。ある意味私の理想です。
 演奏者のアンデシュ・ダンマンはスウェーデン出身のチェンバリストでトン・コープマンの薫陶を受けた人です。古楽奏者として充分に実力を持った人で、彼のデュフリの録音を聴きましたが大変素晴らしい演奏でした。どうもフランスものが得意のようですね。
 そんな彼が、「クープランがビートルズを知っていたらこんな曲を書いただろう」という大胆な仮説をもとに編曲ではなくて「作曲」をし、そして演奏してしまったのがこのCDです(!)。
 その出来がですね、本当に素晴らしいのです。こういう企画というのはたいがい「痛い」ことになってしまい、だからこそ、昨日紹介した完全コピーの方がより好感をもって迎えられたりするわけです。
 ああ、そうそう、今から50年近く前に、このダンマンと同じような発想ですごいことをやらかした人がいましたね。今や古楽界の重鎮の一人となった感のあるジョシュア・リフキンの『バロック・ビートルズ・ブック』です。これにもたまげましたっけ。
 最近YouTubeに一部アップされたので、こちらから聴いてみてください。笑っちゃうほどすごいですよ。
 本題にもどります。バッハになりきったリフキンさんと同じくらいの才能をもって、ビートルズを知っているクープランになりきったのが、このダンマンさんです。この二人のような柔軟なスタンス好きだなあ。
 ダンマンさんも完璧にクープランの作曲技法をマスターしていますね。実に自然です。いや、自然じゃないはずなんですよね。なにしろ、ビートルズが素材ですから。しかし、自然に刺激的なのはなぜなのか。
 たしかにクープラン本人も異国趣味が強く、いろいろな外国の音楽に興味を持ち、刺激を受けて自作の中に取り込んでいますよね。だから、「イギリス」のこういう「俗謡」を聴いたら、たしかにこういう曲書いただろうなと思うんです。
 新発見の和音進行、豊かな旋律、前近代音楽的な音階、ブルーノート…それらのフランスバロックへの配合のさじ加減が絶妙なんですよ。本当にお見事。楽譜が出れば、日本の演奏家たちにとっても新しいレパートリーになると思いますよ。
 解説でダンマンさんが言っていることの中で面白かったのは、クープランは英語が分からなかっただろうし、興味もなかっただろうという話ですね(笑)。だから、歌詞のイメージと与えられた舞曲のイメージは全然重ならないのだとか。
 全曲をテキストで紹介してみましょう。これ読むだけで古楽ファン、ビートルズファンは身悶えしそう。私は両方なので悶死です。

組曲 第1番 ト長調
1. Honey Pie(プレリュード)
2. Hey Jude(アルマンド)
3. All You Need Is Love(クーラント)
4. With A Little Help From My Friends(サラバンド)
5. Ob-La-Di, Ob-La-Da(ジーグ)
6. Yellow Submarine ~ Michelle(ロンド)
7. Help!(メヌエット)
8. When I'm Sixty-Four(リゴードン)
9. Your Mother Should Know(カナリー)
10. Let It Be ~ Strawberry Fields Forever ~ Here Comes The Sun ~ Cry Baby Cry(ロンド)
11. I Want To Hold Your Hand(ルール)
12. Norwegian Wood (This Bird Has Flown) ~ The Fool On The Hill(ミュゼット)
13. Nowhere Man(タンブーラン)
14. Blackbird ~ Sexy Sadie ~ Yesterday(ロンド)
15. Revolution(エール)

組曲 第2番 ニ長調
16. Golden Slumbers(プレリュード)
17. Here, There And Everywhere(アルマンド)
18. Martha My Dear(クーラント)
19. Something(クーラント)
20. I Will(サラバンド)
21. The Continuing Story Of Bungalow Bill(ジーグ)
22. Yellow Submarine ~ Eleanor Rigby(ミュゼット)
23. I'm So Tired(エール)
24. Carry That Weight ~ And I Love Her ~ Mother Nature's Son ~ A Day In The Life(ロンド)
25. From Me To You(ブーレ)
26. All My Loving(ガヴォット)
27. A Hard Day's Night(メヌエット)
28. Strawberry Fields Forever(パスピエ)
29. Happiness Is A Warm Gun (シャコンヌ)

 これはもう聴いていただくしかありませんよね。まず冒頭のプレリュード(なんとハニー・パイ)をこちらでどうぞ。美しいし新しい!
 そして続くアルマンド(ヘイ・ジュード)はYouTubeにあったので、そちらでどうぞ。

 ちなみに使用楽器はクシェとタスカンのコピーです。A=392。調律は名称までは聴き分けられませんが、当然平均率ではなく古典調律です。

Amazon オール・ユー・ニード〜クラヴサン組曲

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2012.02.01

古楽版ビートルズ完コピ…Beatles Baroque (Les Boreades de Montreal) ライヴ

 あて、まだまだ忙しいので、またまたYouTubeネタです。
 一昨日のボヘミアン・ラプソディのところで、古楽版完コピの話を書きましたら、さっそく盟友のチェンバリストの方から、ありがたいコメントをいただきました。遠くてもぜひ実現しましょう!
 ということで、古楽版ロック完全コピーとはなんぞや?と思われる方のために、実際の演奏をお聴き(ご覧)いただきましょう。
 このブログでも、こちらこちらに紹介した、カナダの実力派古楽合奏団「Les Boreades」の演奏です。
 記事にも書きましたとおり、彼らは基本古楽器を使って、ビートルズナンバーを完全コピーしています。アレンジはもちろん、ボーカルのニュアンスやメロトロンの揺れなどもちゃんと再現しちゃうこだわりぶりです。
 こうしてみると、本当にビートルズというのは、西洋音楽の総決算と原点回帰的な部分があるんだなと感じます。ライヴも楽しそうですね。来日しないかな。
 で、私もぜひこういうのをやりたいのです。ビートルズだけでなく、クイーンやイエスやELPやELOなんかをね。ぜったい楽しいですよ。モダン楽器じゃダメなんですよ。その理由はかなり深いところにあると思います。
 ではたっぷりどうぞ。我々ピリオド楽器演奏家にとっても、かなり新鮮で刺激的です。

Amazon Beatles Baroque 1 Beatles Baroque 2 Beatles Baroque 3

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2012.01.31

エマーソン・レイク&パーマー 『 Live in Japan(1972年後楽園球場)』

 日も時間がないのでロックのネタです。てか、なぜ時間がないとロックなのか?w
 たぶんロックは理屈ではないからでしょう。自分にとってはロックは少年時代の記憶、少年の心ですから、大人の理屈なんか寄せ付けません。
 昨日のボヘミアン・ラプソディから、今日はさらに懐かしいところへトリップ。
 クイーンも今考えれば思いっきりプログレですよね。特にボヘミアン・ラプソディはクラシックとロックの融合というよりも、すでにクラシック音楽の領域です。
 そういう意味で最近かなり本格的に「クラシック化」した EL&P を取り上げます。日本初来日時の貴重なライヴ映像です。1972年7月22日後楽園球場。
 私は当時8歳ですから、さすがに EL&P は聴いていませんでした(笑)。彼らに出会うのは中学生になってからです。展覧会の絵はレコードがすり切れるまで聴きましたね。
 その後バロック音楽に興味を持ちヴァイオリンを弾き現在に至るのは、はっきり言ってプログレのおかげです。ロックとバロックの親和性というのはもともと高いのですね。基本、オン・ザ・ビートの譜割りですし、ポリフォニーなところとか、即興性とか。
 で、この映像は本当に最近初めて観たんですよね。これは当時の東京12チャンネルで生中継されたものでしょうか。台風が近づいていたために、おそらくカメラにビニールでも被せてあったのでしょう、期せずしてものすごくシュールでサイケな映像になっています。
 キース・エマーソンの弾くモーグもなんとなく調子悪そうですけど、それがまたある種の緊張感というか、独特のライヴ感を醸し出していますね。正直「かっこいい!」としか言いようがありません。
 ではどうぞ。

 そうそう、こちらで紹介した吉松隆さん編曲によるオーケストラ版「タルカス」が、NHK大河ドラマ「平清盛」で使われていますね。なんとも感慨深いなあ。おっと、動画があった。

 キース・エマーソンと言えば、この曲も忘れられません。音楽にも言葉にも勇気づけられました。

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