2018.06.17

優れた演奏とは…「記録」と時間の流れ

Th__20180618_114326 日の続きとなります。
 未来から過去へと流れている(と認識していた)はずの時間を、なぜ私たちは過去から未来へと勘違いしてしまったのでしょうか。
 その原因となっているのは、「文字(文)」や「音符(楽譜)」や「録音」という「記録」です。記録するということは、本来流れていくモノを、この現在に固定することです。
 音楽と楽譜の関係で考えてみましょう。音楽は未来から流れてくるモノです。たとえばそれを楽譜に記録したとすると、それを再生するには、1小節目の1拍目から右に向かって演奏していくことになります。
 つまり、音楽を聴く際には客体であった自分が、今度は演奏する側に立つと主体になる。そうすると、記録の古い方、すなわち過去から順に再生していくことになります。
 それはあくまで演奏、再生の方向であって、音楽が聞こえてくる(流れてくる)方向とは違います。その主体と客体の逆転が、時間の流れの認識においても起きました。
 つまり、自分が止まっていて「時間が向こうから流れてくる」のではなく、時間の道のりを「自分が過去から未来へ歩んでいく」というように捉えるようになってしまったのです。
 ここには西洋近代がたどり着いてしまった、個人主義、主観主義が大いに影響しています。ちなみに日本語で「人生を歩む」という言い方をするようになったのは明治時代からです。それまでは、自分が止まっていて時間が未来から流れてくると感じていた…これについては今まで何度も書いてきました。
 しかし、こういう近代的感覚は単純に間違いだとは言えません。なぜなら、自分と時間との関係は相対的であって、どちらを固定するかによって、二種類の解釈ができるからです。
 わかりやすく空間で話をすると、たとえば自動車のナビや、飛行機、電車の運転シミュレーターのように、自分が動いていなくても、自分が動いているように感じますよね。時間においても同じことが言えるのです。
 しかし、相対的に同じと言っても、その本質は明らかに違います。車を運転してどこかに行くのと、ナビの中でどこかに到着するのとでは、もちろん意味が違いますよね。
 実はそこが肝心なのです。たとえば音楽で言えば、完全に即興の音楽というのは、自分が止まっていて向こうから来る音楽をキャッチしていく感じで、楽譜通り演奏するというのは、記録された情報を過去から順に正確に再生していく感じ。明らかにその質は違ってきます。
 あくまでも、本来音楽は未来からやってくるモノ。それを前提にすると、たとえばクラシックの演奏において、優れた演奏とはなんなのか、一つの考えが浮かびます。
 そう、記録された情報を過去から順に再生していくのだけれども、それを聴く人たちには、まるで今生まれたばかりの音楽が、向こう(未来)から流れてくるように感じる…それが優れた演奏なのではないでしょうか。
 いくら完璧にデータ通りに再生したとしても、それが感動を呼ぶとは限らない。いくら完璧なテクニックでミスタッチなく曲芸的に達者に演奏されたところで、ちっとも面白くない、なんてことはしょっちゅうあります。
 上の写真はマタイの自筆譜です。私もかつてマタイ受難曲全曲演奏に参加させていただきましたが、その際の体験が非常に象徴的でした。私はとにかく間違いのないように音符を正確に再生していくことに努めていたのですが…そこで演奏家であるはずの私に奇跡が起きました。向こうから予想しないモノがやってきて私を突き動かしたのです。
 その時のことを記録した「残酷で愚かな自分を発見…マタイ受難曲全曲演奏」という記事をお読みください。この体験は私にとって非常に大きな転機となりました。
 おそらくバッハ自身、向こうからやってくる音楽をキャッチして、そしてこの楽譜を残したのでしょう。きっと涙しながら、感動しながら、神のメッセージを受け取っていたに違いありません。
 そのバッハの感動を「今ここ」に再現できたら、きっと最高の演奏になるのでしょう。難しいけれども、実に興味深い人間の営みではありませんか。

 

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2018.06.16

音楽は未来からやってくる…マタイ受難曲序曲を「観る」

Th__20180617_162522 近、「時間」のことばかり考えています。
 いろいろなところで「時間は未来から過去へと流れている」という話をさせていただいているのですが、実はその先がありまして、その「先」については、この前こちらに少し書きました。
 またまた宇宙から目線で申し訳ないのですが、地球人が正しい(楽しい)生き方をするには、二つの壁を乗り越えなければなりません。
 まず、「時間は過去から未来へと流れている」という近代的常識(誤謬)から逃れることです。つまり、「未来から過去」感覚に戻れということです。
 そして、その先が、「時間こそが存在である」という、いわば道元やハイデガーが到達しようとした真理を体感することです。違う言い方をしますと、「時間は認識(存在)の手段である」ということを悟るということ。あるいはこの瞬間、刹那に過去、現在、未来すべての時が重層的に同時に存在していることを知るということです。
 まずは、第一のステップ、すなわち時間の流れを「過去→未来」ではなく「未来→過去」と修正しなければ、その先、第二ステップには行けません。
 第一ステップについて考える時に、大きなヒントとなるのは「音楽」です。そう、音楽は未来からやってくるのです。
 それをイメージするのに最適なのが、以前紹介した「MidiTrail」というソフト(アプリ)です。
 実は最近、毎日のようにいろいろてバッハのマタイ受難曲を聴いているのですが、今日はこの8bit音源風を聴きました。いや、観たのかな。これを観ると、音楽が向こう(未来)からやってくるということが、はっきり理解できると思います。
 もちろん、音楽は時間芸術ですから、最終的には上記の第二ステップが関わってくるので、単純に「未来から」とは言い切れない部分もあります。しかし、今日はとりありず単純化して、まず、楽譜を読むように「過去から未来へ」ではなく、あくまでも自分が「今」に止まっていて、音楽(時間)は向こうからやってくるのだというイメージをしてみてください。
 しっかし、すごい曲だよなあ。こうして視覚化するとさらにそれを痛感しますね。バッハは宇宙人ですよ。

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2018.06.15

武井壮 『大人の育て方』

 日も他人様のお言葉を拝借いたします。今日は武井壮さんのお言葉。
 最近どういうわけかスポーツの世界に関わることが増えまして(自分はプレーしません)、日本のスポーツの特殊性、特に問題点について語り合う機会が増えています。
 ですので、武井さんのこのスピーチの内容には、実に強く共感しますね。
 学校で働いており、またちょっとした体の調整をする仕事(趣味)をやり始めたので、スポーツをする青少年に出会うことが多いワタクシ。
 正直ですね、親が自分の満足のために息子、娘にスポーツをやらせている家庭が多いことに驚きます。もちろん本人たち、つまり親たちはそんなこと思っていないと思っていると思いますが(すごい日本語だな)。
 武井さんが言うように、あまりに無責任に、子どもたちの大切な時間をスポーツに捧げさせている大人が多い。時間だけでなく、体も酷使していて、その後の人生に支障をきたすようなストレスを与えていることもある。あるいは精神的にも。
 子どもたちも、自分がそのスポーツを好きだ、得意だ、楽しいと思って始めたとしても、いつのまにか、それが嫌いだ、そんなに得意なのではないのではないか、苦しい辛いと思うようになってしまっている。そういうケースも多々見受けられます。
 言うまでもなく、誰もがプロ選手を目指すわけではないし、日々の練習の中でかけがえのないものを学ぶことは事実です。しかし、現状の日本スポーツ界では、ほとんどの青少年、学生スポーツはマイナス面が大きすぎます。
 日本では、スポーツ、特に学生スポーツは「お金がかかって、かつ理不尽」が普通です。アメリカでは、逆に学生スポーツは「お金を生み、かつ科学的」。
 ようやく日本版NCAAが誕生しそうな雰囲気になってきましたが、おそらく日本版は日本的ということに落ち着いてしまうでしょう。
 その理由にはいろいろなことがあります。歴史的、文化的背景があるので、そう簡単には崩れないと思います。しかし、ここのところの、アメフトやレスリング界での「事件」が、日本スポーツを世界標準化するチャンスを与えてくれているようにも感じます。
 おっと、武井さんのお話から、ちょっとずれてしまいましたかね。この講演の要点は、そこよりも、彼の生き方、勉強の仕方にあるのではないでしょうか。

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2018.06.14

孫正義 『就活生よ、君たちはどう生きるか』

20180615_85851 日に続き、超一流の方の講義(スピーチ)を味わってみましょう。
 ソフトバンクの孫正義さんのスピーチ。今日、記事として公開されました。

孫正義「就活生よ、君たちはどう生きるか」感動のスピーチを公開

 「夢」と「志」は違う。よく分かりますね。「感動したら即行動」。そうです、心が動いたら、次は体を動かさないと意味がない。感動した!で終わってしまう人が多いのです。というか、私も含めてほとんどの人がそうですよね。
 「死」を意識した瞬間、欲がなくなってしまう。誰もがそれを体験できるわけではありません。しかし、本気で行動していれば必ずあるのが「絶望」というものでしょう。その「絶望」こそが私たちを強くし、また純化する。もちろん、その逆に陥ってしまう人もたくさんいるでしょう。
 情報革命は人々の笑顔のため。スティーブ・ジョブズにも通じる考え方、感じ方でしょう。利他、布施の最大化に、テクノロジーは大いに役立ちます。見ず知らずの、地球の裏側の人々に対しても、テクノロジーを駆使すれば、布施することができます。
 見ず知らずだからこそ、お互いに匿名であり、個人は抽象化され、一対一のギブ・アンド・テイク関係ではない、純粋な贈与と感謝の感覚を持つことができる。もちろん、そこには金銭が絡むわけですが、高度に抽象化されているので、結果として我欲は個人間には働かなくなる。
 そういう意味で、今、人類は本当に新しいステージに入りつつあると感じます。テクノロジーが近代的経済の観念をぶち壊そうとしている。いいことだと思います。
 若者に負けないように、私も「志」を持って、地球のために尽力したいと思います。それが私自身の幸福でもあるのですから。
 

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2018.06.13

島田紳助 伝説のNSC講義

 日前にネットで評判になっていました。たしかにこれはすごい内容ですね。さすがとしかいいようがない。
 今、個人的にいろいろ考えていること、勉強していることがあるのですが、そのためにもなった。なるほど!と腑に落ちたのは、そういうことを自分なりに考えていたからでしょう。いいタイミングで聴くことができました。
 それぞれの方が、それぞれの仕事や趣味や志において感じることがあるでしょう。だから、自分なりの納得ポイントや解釈については書きません。
 超一流の皆さんの言葉は、結局みんな同じなんですよね。表現は違うけれども。
 ちなみにこの素晴らしい講義(授業)を文字起こししてくれた方がいます。ありがとうございます。
 ああ、こういう授業ができたらいいですねえ。一方的な講義でけっこう。これだけの内容があれば。
 最近、人前でしゃべる機会が多いのですが、これはそういう意味でもとっても勉強になりました。
 心で覚える。心で感じる…か。遊べと。うろうろしろと。結構やってるよな(笑)。良かった。

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2018.06.12

米朝首脳会談とプロレス

Th_2018061300000019reut0004view 当に「あっけなく」実現してしまいました。あまりのあっけなさに、感動はあまりありません。それもこの役者二人ですから(笑)。
 私も一度は米朝首脳会談中止という記事を書いてしまったことからも分かるとおり、すっかり二人にだまされました。
 いや、だまされて腹が立つとかではなく、変な話ですが、やっぱりプロレスってすごいなと感心した次第です。
 この「歴史的」な試合と和解、まるでプロレスじゃないですか。もちろん、プロレス信者の私は、悪い意味でそう言っているのではなく、「歴史的」な名場面というのは、ことごとくこのようなプロレス的な世界で展開しているのではないかと。
 昨日の朝日新聞のプロパガンダもそうですよ。今見ればバカバカしていけれども、あの時はそれで何百万の命が奪われたわけじゃないですか。
 だからそういう歴史もプロレス自体も、ぜったいにバカにできないんですよ。そういう「物語」こそがリアルであるというのは実に面白い。
 いわゆる正々堂々のスポーツ的な世界は、実はリアルではないということです。もちろん、今回のプロレスは三流の試合でしたよ。それはプロレスの名誉のために言っておきます。
 もうちょっとピリピリした雰囲気を作ってから、歴史的な和解に持っていくとか、プロレスのストーリーとしてはもっとやりようがあったでしょう。二人がそこまでの役者ではなかったというか…。
 そうそう、これも言うまでもありませんが、かつて「トランプとプロレス」に書いたとおり、トランプは(リンカーンも!)かつてはプロレスラーでした。それがアメリカという国の前近代性を象徴しています。神話の世界なんですね。
 そういう意味では、トランプにとっては、金正恩はヒールとして強力なライバル。その二人が初めて対戦して、まあ予想どおりタッグを組んだわけですよ。あの中身のない同意書を見れば、これはある種の共闘と言っていい。
 それにしてもですね、超ヒールの二人がノーベル平和賞候補のベビーフェイスになって、国際的にはベビーフェイス(赤ちゃんという意味でも)の安倍さんが、ますます国内ではヒールになっていくという、このパラドックスが面白いし、まさに神話的で楽しいですね。
 さて、脇役になってしまったヒール軍団、プーチン、習近平、ドゥテルテ…その他の、今後のプロレス的振る舞い方はどうなっていくのか、非常に楽しみです。

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2018.06.11

『勝たずして何の我等ぞ』 (昭和19年朝日新聞社)

Th_117815219_o1 日の続き。結局、RADの野田くんは謝罪してしまいました。
 なんと息苦しい世の中なのでしょう。これこそ、ある種の言論弾圧でしょう。一見逆のように見えますが、実際にはこの「勝たずして何の我等ぞ」の頃の日本と同じような状況とも言えますね(もちろん、全然違うのもわかりますが、あえて)。
 そう、なにしろですね、あの、あの朝日新聞社でさえこういうプロパガンダ本を出版していたわけですね。いや、朝日新聞の戦後の変節(?)を指弾しようとは思いませんよ。なにしろ、そういう時代の変化の中で、一企業としてやってきたわけですから、人間個人でもそうであるように過去との矛盾というのはお互いに目をつぶらなければならない。
 それにしても、あらためてこの本というか、写真集でしょうかね、これを見ると大変な時代だったなあ、今風に言えばフェイクニュースしかない時代だったのだなあと思います。
 昭和19年といえば、もう大東亜戦争も完全に下り坂、明治維新から現在までの150年戦争で考えても、ちょうと折り返し地点を過ぎたあたりです。
 未来の私たちからすると、本当にアホくさい状況ですが、それはあくまで未来から見ての話。当時の彼らにとっては、これこそがリアルであったわけです。だから「間違っていた」とは言えない。
 これに比べればですね、「HINOMARU」なんて、まさに子供のおもちゃレベルのことですよ。めくじら立てることもないし、謝るべきことでもない。
 というわけで、この時代の「リアル」をぜひ御覧ください。国会図書館のデジタルコレクションで読めますよ。

勝たずして何の我等ぞ

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2018.06.10

RADWIMPS 『HINOMARU』

Th_51nejr2hnl_ss500 ックのネタを続けます。こちらは男のロック。男のロックだから、政治だ、歴史だ、思想だという、芸術よりも低い次元で物議を醸しております。
 まあ、もともとロックというものは(フォークも)、政治的であり、歴史的であり、思想的なものでした。だから全然いいのです、本当は。
 特に歌詞というのは言語ですから、純粋な音楽よりも次元が低い(科学的な意味です)。そこにこだわるのは、ある意味J-ROCKのそれこそ伝統であり、文学と音楽を同列に配置する「和歌」の文化そのものです。
 さて、この曲どうでしょうね。聴いてみましたけれど、作家本人の意図は別として、音楽としてはとても「軍歌」とは言えないと感じました。逆にこれを「軍歌」と感じてしまうサヨク的感性の方がずっとアブナイのでは(笑)。
 いつも言うように、戦争反対を唱える人たちの方が、ずっと「あの」戦争を意識していて、つまりある意味では過剰に保存してくれているんですね。「あの戦争を忘れない」って。
 最近それが実に滑稽に見えてきた(失礼)。もちろん、逆の意味で流行っている「ホシュ」「右翼ごっこ」はもっと滑稽ですけれど。
 さて音楽(曲)は良いとして歌詞はどうか。これもある意味「滑稽」です。私も完全なる戦後ノンボリ世代でありますが、しかし、どういうわけか知られざる戦前、戦中、戦後の大量の歌たち、すなわち仲小路彰の作った歌曲をたくさん「読む」機会を得てしまい、もともと国語の教師であるし、またいちおう歌詠みの端くれであって文語を駆使していますから、この野田洋次郎くんのなっちゃってな日本語には、正直噴飯してしまいました。
 もちろん、こういう口語・文語の交錯し混濁する日本語が、今の若者にとって、その正誤がどうであるか以前に、ある種の「雰囲気」を持っていて、かえって新しく、カッコよく響くということもわかります。
 うん、たしかに、近代短歌の世界でもそんなことはしょっちゅうあるし、比較的近いところでは、たとえば松任谷由実の「春よ、来い」なんかも、結構なんちゃってだったりします。もちろん椎名林檎嬢にもたくさんある。
 それでも、なにかオジサンとしては、猛烈な違和感を抱かざるを得ないのは、「御国」とか「御霊」とかいう核心すぎるワードのセレクトセンスや、「日出づる国」だけ歴史的仮名遣いだというところなど、ある意味作者に悪意がなさすぎてですね、なんだか残念を通り超えて、ちょっといい加減にしろよ!と感情が動かされてしまうからでしょう。
 と、自分の日本語もちょっと破綻してきてしまいました。ロックなんだから細かいことはいいのだ!という自分もいますけれど、そんなこと言ったら、ホンモノの軍歌だってロックだぜ!という自分もいたりで、もう大変です(笑)。
 どうせやるなら、もっと本格的に「らしく」創るという選択肢もあったのではないでしょうか。う〜ん、どうなんでしょうねえ。
 いざゆかん!ということでは、仲小路彰の「スメラ民の歌」を思い出しますね。こちらからお聴きください。こっちはホンモノ?いや、ちょっと待てよ、こっちはこっちで…(笑)。

 追記…ホンモノの専門家、辻田真佐憲さんが期待通りの論評をしてくれました。似たこと感じてますね。

RADWIMPS衝撃の愛国ソング「HINOMARU」を徹底解剖する

 追追記…あらら謝っちゃんだ。軍歌もだけど、ロックも終わってんだな。

RAD野田「HINOMARU」歌詞について謝罪 「軍歌だという意図は1ミリもない」

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2018.06.09

SHISHAMO 『私の夜明け』

 ックの日。NHKの「シブヤノオト」でSHISHAMOのリクエスト・ライヴを堪能いたしました。
 今まであんまりちゃんと聴いたことがなかったSHISHAMO。なるほど、なかなか魅力的なバンドですね。
 スリーピースのライヴでここまで聞かせるのは、演奏技術もさることながら、やはり楽曲が優れているからだなと思いました。
 初めて聴く曲も多かったのですが、どれもその独特な歌詞世界と、それにマッチしたちょっと不思議なコード進行やリズム感、メロディーセンスに思わずひきこまれました。
 特に印象に残ったのが、この「私の夜明け」。たまたまMVが最近公開されたとのことですので、ここに紹介します。
 ライヴではチェロのオブリガートがなかったので、純粋なギターポップバラードとして聴きましたが、こちらのスタジオ録音版もいいですね。
 歌詞はたしかに共感を生みそうな内容。そして、ちょっと凝った(しかしありがちな)コード進行をベースにしながら、時々おっと思わせるイレギュラーな展開があり、その割合が絶妙なんですね。本当にいいタイミングで心にちょっとした波を起こすというか。
 上の娘がSHISHAMOのコピーバンドのベースをお手伝いをしたようですが、ギターヴォーカルの人は正直大変だろうなあと思いました。宮崎朝子さん、地味にギターうまいですよ。
 この林響太朗さんによるMV、ワンカット(?)超長尺、照明だけで見せる意欲作ですね。なるほどなあ。

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2018.06.08

バックキャスティング(未来から現在を観る)

 日は富士五湖青年会議所の例会にお呼びいただき、皆様と当地方の観光、国際交流の未来について語り合いました。こちらで告知したイベントです。
 客席の皆様からも多くの建設的なご意見をいただき、なかなか充実した会となったと思います。
 私としては、やはり前キヤノン副社長であり東大名誉教授の生駒さんのお話が刺激的でしたね。スケールが大きくて素晴らしい。完全同意です。
 特にお話の中に出てきた「バックキャスティング」は、今ちょうど自分にとっても重要なキーワードの一つです。
 というのは、私がずいぶん前から言っている「時間は未来から過去へと流れている」という考え方に近いからです。
 そうそう、最近プロ無職のるってぃさんが、ワタクシとの対談を上手に編集してくれまして、YouTubeに動画をアップしてくれました。こちらです。

 この動画をご覧になっても分かるとおり、ワタクシの時間観と「バックキャスティング」は本質的には似て非なるものです。だいいち、未来から現在を観ることを「バック」と言っていること自体、根本の時間の流れ方が逆ということですよね。
 しかし、結果としては、フォアキャスティングよりもバックキャスティングの方が、「未来に原因を作って、現在に結果を出す」という意味では(宇宙人的には)正しいわけです。
 言うまでもなく、バックキャスティングとは、もともと環境問題において持続可能な未来を想定し、その未来から現在を観て解決策、やるべきことを決定するという思考方法です。
 実際それをしていなければ、人類は20世紀中に滅亡していたでしょうね。
 この視点、立点の置き方というのは、仲小路彰の「光を背にして立って観る」という考え方と近いかもしれません。生駒さんにも仲小路の「未来学原論」を差し上げましたところ、さっそく興味深く読んでくださっているとのこと。少しお話しただけですが、さすがもうあの難解な書のテーマ、エッセンスは理解されているようでした。
 今後も地域の若者たち、そして世界のトップを走ってきた方々と、いろいろな話をしていきたいと思います。本日はありがとうございました。

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